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昨日は、のの岳小学校で、超能力の科学実験をしてしまいました!と言っても、超能力を試す実験ではなく、いかに人間が、錯覚しやすいかの実験です。でも、それは、人間が愚かだからというだけでもなく、人間が生きていく上で、実質とっても大切な能力でもあること。結局、体験主義で判断することの危険性を体感してもらいたかったのです。でも、また、逆に教条主義になって、現象を無視するのも危険であることも説明しました。科学は、その両極を振り子にように、バランスを取りながら、大勢の人で検証していくものであることを訴えたつもりです。最後は、みんなで、「こっくりさん」までさせてしまいました。結局、潜在意識が動かすので、全く知らないことは、こっくりさんは、判定できないことも体験してもらっちゃいました。
2007.01.27
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昨日、コラボスクールで涌谷町ののだけ小学校に言ったら、学校通信に、私のブログが載っていました!この秋に、コラボスクールから帰ってくるときの心境を語った日記です。いやあああ、恥ずかしい!このように、インターネットで出しているんだから、身近な人が見ても、当然は当然なんですが、実際、校長先生にも見られている、と思うと、真っ白になります。ま、取り繕うにも、私はこういう人間なんで、どうしようもありません。人の性格は、直しようもありません。これに限らずですが、見えないところで、頑張っていることって、やっぱり「見えてるんだ」って思うことしばしば。今日は、これから、TERAKOYAホールでミュージカルです。スタッフが来る前に、受入体制を作っているところです。
2007.01.27
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身動きがとれなくなったとき、私は、身近な人の役にたつことによって、逆に、私の存在意義を求めようという意識になっていたようです。 醸室に出店している人は、それぞれが、余裕をもってやっているわけではありません。ピンチなのに、組織的行動が取れていません。リードするべき事務局も、リーダーシップは専従がいないだけに、お寒いものです。 そんな中、醸室の人間ではないのだけど、実質専従のような寅さんが、勝手に役立つ方法がある、とピンと来ました。 そうだ。一店一店のブログをつくって、それをつなぎ合わせればいいのだ、と。 無謀との思いもありましたが、予想外の好評と、感謝の嵐を受け、最も苦しい時期をこの作業で通り抜けてきたのです。 結果、ブログ支援事業という財産ができました。弱小故に苦しんでいるところの、味方になりたい、と思っています。 明日は、久しぶりに、箟岳小学校です。
2007.01.25
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たいへんご無沙汰いたしました。また、たいへんご心配をお掛けいたしました。多くの方のおかげで復活いたしました。本当に、本当にありがとうございます。実は、この間、寅さんが居候している醸室(かむろ)の店長日記を作って(ゴーストライティング)してあげてました。下記のところから入れます。 フーテンの食いしん坊寅さんの 醸室日記 この間のいきさつは、一年後くらいには、書けると思いますが、それまで、精神的なリハビリをしながら書いていきます。また、よろしくお願いします。
2007.01.25
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皆さん、またまたご支援ありがとうございます!本当に、SOSブログになってしまいましたね。とにかく、昨日の舌の根の乾かぬうちに、不平・不満、あせり、イライラをいっぱいもってしまった寅さんです。(反省!!・自己嫌悪)でも、そんな中でも、喜んでもらえるいくつかはできたし、(まちづくりの女性の会さんと懇談・のの岳小コラボスクール・南郷児童館)ホール管理の最低限できました。何より、娘や親父とコミュニケーションをとることができました。ある心の機微もわかったような気がします。感謝です。しかし、重大な使命に大穴をあけてしまっています。それで、どうしようもなく、心はウツ。ウツ。ウツ。これが悪化すると、蟻地獄に入ってしまうんじゃないか、って我ながら、心配になってきました。ウツ状態ならば、意識的にソウ状態に精神をもっていけば中和されるんじゃないか、って、自分なりに荒っぽい「実験」もしてまあ、それなりに乗り切ってきました。が、夕闇に車を走らせながら、何と生きることの辛いことよ、との思い。自殺する人の気持ちが、ふっとわかりました。偶然、本屋で、小林正観さんの本を立ち読みました。そうなんだ。釈迦が言った「苦」とは、「思い通りにならないこと」という意味でした。だから「思い通りにしよう」とするのをやめ、「受け容れる」。さらに、「受け容れる」ことを高めていくと、「感謝」になる。釈迦の教えは、結局は「感謝」につながっているのですね。思い通りにならないから苦しむんです。 目標や成功を望むから、 実現しない現状に対して苦しむです。だったら、夢や希望をもたなければいいのです。もちろん、こんな論理は一般的にはおかしい 。それは客観的に十分わかっています。しかし、今の寅さんには、この論理は、一条の救いの光です。「思い通りにしたい」は、神や宇宙への宣戦布告だそうです。私は今、この理屈をすんなり受け入れられます。正観さんによれば、 宇宙的には努力の反対語が感謝らしいです。 思いをもって努力するのは神様への文句でさえあるのです。私のこれまでのことをふり返ると、「努力」でやったことは、ことごとく失敗しています。今も大きく足下が崩れています。そうじゃなくて、うわあ、もったいないなあ。こんなことさせてもらっていいのかなあ、っていうことが予想外の成功をおさめてきました。誤解のないように。一般的な「努力」は貴いものです。今、私が言っているのは、主観的な「努力」は危険だ、ということです。客観的に外から見れば、努力しているのでしょうが、本人にとっては、「努力」なんて、おこがましくて言えない状態。ただただ、感謝・感謝の状態こそ、宇宙の法則に合致しているのでしょう。とにかく、現状すべてを、感謝して受け入れることです。そのためには、私の思いを捨てることです。そう言えば、結婚するとき、女房に、私の夢を得々と語りました。それに対して、妻は(まだ妻ではなかったが)「そんな夢はどうでもいい」、ということを言ってくれました。あの時、私は、何て理解の無い人だ、って内心憤慨していました。が、今になって思えば、我欲に執着する夫は、危険そのものだったのでしょう。以前、キリスト教関連の本で「讃美の力」というのを読んだことがあります。すぐ、試してみたのですが、続きませんでした。夢や希望を捨てきれなかったからです。しかし、今回、それと複合して、とても視界が開けてきた思いです。「私の思い」をもたないで、目の前の一つ一つを感謝して受け入れていきたいと思います。
2007.01.12
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今度は、親父が高血圧でめまい。末娘が腰痛で動けない。いったい、何なんだ!きっと何かあるよ、って言われます。う~ん、私もメチャ忙しいのに。仕事がたまりにたまって、発酵して、腐ってきています。主夫状態の私としては、やはり、私が病院担当です。病院内での仕事の仕方を研究開発します。
2007.01.12
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「考える頭」は放っておくと、限りなく心配を広げますね。「考える頭」はその使命として、いつも、何か気がかりなことはないかと心配の種を探しているんじゃないでしょうか。人間の頭は優秀で才能があるから?あり得ないような怖い世界を想像してしまうんですね。そしてその怖さに身震いしたりします。でも、これはあくまで想像の世界です。「頭」の働きの90%はこの要らぬ心配に費やされているそうです。ですから、その働きをセーブすれば、心は充分な余裕と、スペースを取り戻せ、すぐに気分はハッピーになれるはずです。もし、想像したコワイ世界と良く似た状況にぶつかっても、そこには想像していた時の怖さはありません。怖いと思うのは、実は、「想像した悲惨な未来」を心配する頭の働きです。とすると、実際に「怖い」現場にいると、「コワイ未来」はありませんから、もう、怖いという心の動きは、無いわけです。今、この瞬間にあるのは、この急場をどう切りぬけるか、自分や人の命をどう助けるかだけです。そして、そのことに全身全霊で立ち向かっていく人に不要な恐れは、無いのです。そこには、愛と勇気しかありません。「今、ここ」に全身全霊で生きている人には、怖さはありません。「今、ここ」にこそ、神様の恵みが満ちあふれているのだと思います。「今、ここ」を喜ばない人に、未来の喜びがありようがありません。「今、ここ」を喜べば、過去も喜びになります。どんな不本意な状況でも、これも全知全能の神様の、無限の愛が与えてくださった恵みのシチュエーションだと信じれば、大いに喜びがあふれてきます。跳ね回って喜びたいものです。常に、歓喜であり、感謝であり、そこから生まれる勇気と愛、そして、冒険・工夫です。私は、それらをまとめて、「遊び」と言ってしまっています。「遊び」にこそ、「イヒッ」があり、自己犠牲があり、信念があり、人生の奥義があるように思えてなりません。
2007.01.11
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息子の眼のケガですが、お陰様で、昨日夕方手術を無事終えることができました。本当の結果は、一週間後くらいにわかりますが、これも、すべて順調にすすんでいることの証です。血が引いてきたので、眼底の様子が見えるようになってきたようです。様々な方にお世話になりました。皆様にも、パワーをいただきました。本当にありがとうございます。まだ、山はあるでしょうが、まずは良かったです。ところで、手術代というのは、やはり高いものです。ケタが一つ違います。もし、これを払えなかったら当然、払えない人もいるだろうと思われます。我が家も、当然、とてもキツイのですが、とにもかくにも、払うことができます。(あとで、学校の保険で戻ってきます)最近テレビで、眼をケガするシーンが、ズキっとくるのですが、昨夜の番組、世界仰天ニュース、見ました?中国の白血病の子の手術代のことが出ていました。苦労に苦労を重ねて、家も売り払って、ドナーを見つけても莫大な手術代が工面できないばかりに、わが子の死を待たなければならない。こんなことが、日本でも、当然いっぱいあるはずです。昨日、寅さんのいる醸室の「はっと屋さん」のご主人がお孫さんの難病のことを語ってくださいました。アメリカはマイアミの病院で移植手術を受けてきたそうです。当然、費用は、億の世界だそうです。もし、お金を用意できなければ、手術中でも、ストップがこの世界の常識なんだそうです。人間社会の進歩とは、こういうところにメスを入れられるかどうかでしょう。お年寄りにも、病院にかかれない方が増えているようです。美しい日本のために、もう一度、世の中を見渡してもらいたいと思います。ただ、個人の問題としては、このケガに親子ともども感謝したいと思います。学校の先生方も、とても心配してくださり、ありがとうございます。「私は長い病気の間、この世に病気がなければよいと思った。自分の人生に、こんなに病みつづける日が来ようとは……と嘆いたこともあった。だが、今となっては、自分の人生をふり返ってみるのに、その受けた試練は、宝玉のようなものだと感じている。もしも今まで、ただの一度も試練に遭わず、つまり愛する人との死別にも生別にも遭わず、病むことを知らず、思いのままになる人生であったとしたら、私は涙というものを知らない人間になったであろう。泣く者と共に泣くことはむろんのこと、喜ぶ者と共に喜ぶ優しささえ、持ち得なかったにちがいない」(『明日のあなたへ―愛するとは許すこと』三浦綾子)
2007.01.11
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末の娘(中1)の特技は、質問と「ありがとう」です。上のお姉ちゃん、お兄ちゃんに比べると、学力や理解力は、一歩も二歩も遅れているのですがよくまあ、こんなことまで恥ずかしくなく、聞けるもんだ、ということまで気軽に、しかも、真剣に聞いてきます。そして、教えてもらうと、必ず「ありがとう」と心を込めて言うのです。彼女の頭脳の理解システムは、それ自体としては、ちょっと問題あるのですが、それはともかく、周囲の人間にとって、真剣に質問されて、「ありがとう」、と言われるのは、とても生き甲斐を感じさせてくれるものです。今朝も、しばらく、教科書を前につきあってしまいました。さきほど病院の朝の受付に行って帰ってくる途中、大きなカバンを3つもかかえて、エッサ、エッサと走ってくる女の子がいます。末娘です。カバンを持ち歩かない子さえいる中、遅刻しても気にしない子がいる中、花も恥じらう女の子が、なりふり構わず走る姿に、「恵みだなあ」って、神様に感謝した次第です。
2007.01.10
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ケガや故障は、不幸なことには違いないのですが、それで苦しむかどうか、というのは、別の問題ですね。どんなことにも、学ぶべきことが隠されている、とすればこの「講座」をありがたく受講したいと思います。身体は元気でいるのが当たり前。マシンも順調に動くのが当たり前。お金も人並みにあるのが当たり前。と思いこんでいるところに、落とし穴があるんだよね。本来、「自分のものは何もない」はずです。これは、寅さんは、ときどき、「そうなんだよな」と気づくことができます。自分で言うのも何ですが、特技と言えるかもしれません。今回、もう一度、このことに立ち返ることができそうです。ということは、「私たちには失うものは何もない」のです。心臓だって、ホルモンバランスだって、免疫だって、「私」がコントロールしている「私のもの」ではありません。すべて、ありがたい借り物です。仕事の流れだって、金の流れだって、偶然の幸運が重なって、動いているのです。ほんのちょっとのボタンの掛け違いですぐに流れは変わります。「なくすものは何もない」ならば、財産、他人からの評価、自らの健康への執着、つまり、「いつか必ず失うもの」への、「しがみつき」、「飽くなき欲望」、「失うことへの不安」とは無縁でいられるはずです。この世の中を自分の思い通りにコントロールしようとすると、思い通りにしようとする側も、される側も、お互いが傷つき、苦しんでしまいます。もちろん、夢は持つべきです。しかし、それは、「何としても、そうしてやる」「そうできるのが、当然だ」という姿勢ではないと思われます。何となく違和感を感じます。われわれは一物をも所有していないからこそ大いに楽しく生きて行けるのじゃないでしょうか?つまり、感謝して、喜んで、この瞬間、瞬間を最大限のパワーで生を全うできるように思います。聖書では、「恵みは弱いところに注がれる」という趣旨のことが書いてあったと思います。私は、一般的な社会人としては、大きく欠落しているところがあります。性格的な障害者ではないか、と本当に思います。でも、だからこそ、体験できる喜びもあります。本来、自分には望むべくもないことだと思えば、多くのことが、喜びに変わるんですね。だいたい、私が今、ここで生きていること自体が、とんでもない奇跡であり、幸運です。この幸せを、今まで、十分に喜んでいなかった、と反省しています。家族がいて、住む家があり、今日の食べ物があるこの幸せを、これまでどれほど喜んできただろうか?この社会人らしくない夫に、とにもかくにも、共にいてくれる妻がいる。しかも、良く見れば? 私には、もったいない美しさ???それから、社会では、話しかければ、挨拶してくれる人もいるし、困ったとき、お金を貸して下さる方さえいる。こんな幸せは、宇宙探しても、無いはずです。だって、私の幸せは、私しかわからないから。今の今を喜ぶこと。大いに喜ぶこと、これに尽きるんだろうなあ。これから、また、病院へ行ってきます。
2007.01.09
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息子のケガにつきまして、皆様、ご支援ありがとうございます!お陰様で、頭痛は、だいぶ良くなってきました。出血が止まって、少しずつ吸収しはじめているようです。高校の顧問の先生が、見舞いに来てくださり、しばらくお話をすることができました。包容力の大きい、私の母校らしい先生です。ああいう先生は大好きです。あの先生の下で、部活ができる息子たちは、幸せだと思いました。もちろん、今後、部活を続けられるかどうかは、わかりませんが。進学校で、特に、最近、男女共学になったことで、(宮城県の旧ナンバースクールは、男女別学が伝統)さらに、進学の実績を残す方向にシフトしているのですが、昔の良き伝統を残しているスポットに入っていることに私は、率直にうれしかったです。チームメイトは、20キロ先から、自転車で通学している子が何人もいます。また、医師の先生も、通常の業務の枠を超えて看てもらっています。看護士さんにも、とても良くしてもらっています。さらに、家族が今回のことで、一致団結が深まったことがあります。私も、いざ、というとき、何が大切なのか、を見つめ直す機会になりました。多くの方々に支えられていることあらためて感謝いたします。
2007.01.08
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新年早々アクシデントが2つ。一つは、私のパソコンの電源が入らなくなったこと。今、パソコンが使えないと、赤ん坊同然です。お陰様で、復活しました。またまた、出費。でも、いろんな中古パソコン店に電話したのですが、対応が天と地ほどの違いがありました。その中で、とってもあったかい対応のおじさんと親しくなれたのは、ちょっと遠くでしたが、運が良かったです。純正部品を使うと1週間は使えないので、時間を買ったようなもんです。で、これはいいのですが、次が問題。私の息子(高1)が、ハンドボールのシュートを右目に受けまして、失明状態が続いています。出血もあり、ひどい頭痛で、大学病院に搬送するかどうか今日の午前まで迷っていました。4日目です。キーパーの宿命で、何度か、こういうことはあったのですが、今回のダメージは、予想を超えていました。でもお陰様で、悪化は防げまして、ちょっと小康状態。しかし、どうなるか、予断は許さないところです。最低でも3週間は、見えないだろうとのことです。心配だったのは、容態が次第に悪化してきたこと。これが、治まってきただけでも、ほっとしています。あって欲しくはないことですが、たとえ右目を失っても、独眼竜正宗のように、たくましく生きていって欲しいと思います。それにしても、運悪く、どの病院も休みに入ったところで、グルグルたらい回し。結局、市民病院で看てもらいましたが、その頼みの市民病院も、医師が一人やめてしまい、眼科は、たった一人で、てんてこ舞いのようです。地方病院の医師不足は、本当に深刻です。でも、この休みの中、ずうっと心配して看て下さいました。ありがたいことです。できれば、頭痛だけでも早く、取り除いてやりたいと思います。もし、よろしければ、皆様のお祈りの力をお貸しください。
2007.01.07
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昨日、中学校の同期会に参加してきました。幹事さん、本当にありがとう。みんな、今年、50になるなんて信じられないくらい中学生のまんまです。本当に変わっていない人がほとんどだ。と言うことは、今の中学生もそのまま大人になっていくんだろうなあ。でも、それぞれの人生は、いっぱいいろんなことが詰まっている。それでも、この場では、仲間だ。こんなに気持ちのいい会も少ないと思う。高慢さを自覚しながら、言うのですが「生徒会長」だった私に、期待しているのってやっぱり、あるんだって、驚きの発見をさせてもらいました。相澤だったら、何か奇抜なことをしてみんなを救ってくれるんじゃないかって、思い。早とちりかもしれないけど、感じてしまった。仲間である、みんなのために、そして、昨日、来られなかった人のためにも、地元に残る者の勤めとして生徒会長として何かしてやりたい、という思いを持つことができました。これをエネルギーにして、頑張りたいと思います。ところで、お世話になった、先生方が、当時、20代だったことを知りました。すごく年上で人生経験豊富のような気がしてたので、とてもびっくり。ううん、20代じゃ、相談ごとに適切なアドバイスができないのは仕方がなかったなあ。逆に、よくやってたなあって、拍手したい気分でした。さらに、ところで、ですが、私のパソコンが電源コードがいかれたために、使用できない状況です。今、パソコンを借りて打っています。しばらくギクシャクすると思いますが、ご勘弁を。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2007.01.03
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皆さん、授業を受けるのは好きですか?低学年の子は、半分以上、好きだと言います。しかし、高学年になると、クラスで3人くらい。中学生になると、ほとんどゼロです。私も嫌いでした。でも、一人で考えたり、調べ物をしたり、友達と討論するのは、好きでした。私は、「勉強のための勉強」に反発して意識的に、違う道を通るようにしてました。また、授業中の強制的な指名が、とっても恐ろしかったです。そんな恐怖を味合わなくても楽しくて、有意義な授業はないものか、と思っていました。そんな子どもでも、(ごく普通の子だと思います)学問が好きになれるような授業が、絶対あるはずだ、と思っていました。そんな私が出会ったのが、仮説実験授業です。昨年も、100回ほど、実験教室を開かせていただきました。のべ、少なくとも、2000人以上の子どもたちの心にこの世の楽しさを垣間見てもらったと思うと、私は、もう、思い残すことは無いという心境です。でも、それと同時に、私のような自由人?が思う存分活躍できる環境をこれからの方々のために作ってあげたいと思うようになりました。この世には、いろんな矛盾があります。学校の先生が一番、子どものことを考えられない矛盾福祉団体が、高齢者のことを思いやれない矛盾市民活動団体が、非民主的な運営をしてしまう矛盾親が子どもを一番スポイルしてしまう矛盾市役所が市民と向き合えない矛盾これらは、環境に個人が負けてしまって、引きづられるからです。とすれば、個人個人が、より強くと言っても、敵対する強さではなく、宇宙のパワーとつながり、真の独立自尊を達成することですがそのために、ちょっとでも、支援ができればこんな痛快な幸せは無いと思うようになりました。今まで、子どもたちに勇気を与えることをモットーとしてきましたが、同様に、いや、それ以上に、大人の皆さんにエールを送り続けていきたいと思います。もちろん、私自身に対しても。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2007.01.02
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「弱者は、可哀想だから助けるべき」だけじゃないんです。損得計算においても、投資して助けておくべきだと思います。現代は、「明日の強者が誰になるのか誰にもわからない」のではないでしょうか?今後どんな産業が伸び、どんな産業が廃れ、どんな才能がもてはやされ、どんな才能がもてあまされるのか、私たちは一昔前のようには、はっきりとはわからないのです。「強者」を明白に定義できるのは、競走馬の世界など「速いか遅いか」など、単純な物差ししかないところです。しかし、現代の物差しは、無限と言っていい。だから、20世紀以降の社会は、強弱の入れ替わりが実に激しい。産業の入れ替わり、芸人の人気の推移を見るばかりじゃない。たとえに不適切かもしれないけれども「乙武君」は従来の見方では、徹底的な弱者でしょう。しかし、現代日本では強者に入れるのです。「乙武君」ばかりじゃありません。様々な人々の支えがあれば、ほとんどの人が強者となれるのです。現代日本は、そういう可能性の土壌を育んでいるのです。私たちはこのことをひっそりと誇っていいと思います。しかし、そういう可能性があるにもかかわらず、周囲のあとちょっとの支援が無いばかりに、その強みを発揮しえない人々がいっぱいいます。多くの名もない「弱者」を放置していることを恥じなければならないと思います。「強者」の皆さん、あなたの基盤は盤石ですか?いつ足下が崩れ落ちるか、わかりませんよ。常識的に言って、現代日本で10年強者で居続けられると考える方が非常識です。必ず、転落すると考えて方が合理的です。その時、助けてもらうのは、きっと現在の「弱者」にです。私たちは「弱者」を「救済」して欲しいんじゃない。「強者の素質」を「強者」にすることで社会を輝かして欲しいのです。その意味で、弱者救済は、福祉活動ではなく、投資活動なのです。そして、危機的な自治体や日本の閉塞状況を救うのは、弱者が強者に生まれ変わる活力からしか生まれないと思うのです。これは、行政が「義務教育」のように上から施しをする意識では、ヒットできません。新しいコミュニティの中での相互扶助のやりとりを通して生まれてくるものでしょう。この理念をもった、強いNPOの誕生が求められていると思います。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2007.01.01
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昨夜の総合格闘技戦をみていて、ふと、「輪島功一」を思い出してしました。70年代に世界チャンピオンになり、6度防衛、2度のリターンマッチにも勝利。30歳を過ぎても頑張った遅咲きの苦労人です。彼こそが弱者の立場を受け止め、自分よりも強い相手をマットに沈めた「弱者逆転男」の典型ではないでしょうか。そして、そのスピリットに私たち「弱者」は大いに励まされるのではないでしょうか?輪島の奇襲戦法は、恥も外聞もありません。滑稽ですらあります。しかし、これも、ただ、ひたすら勝つことだけを追求した涙ぐましい努力の結果です。輪島の代名詞的な必殺技は「カエル飛びパンチ」です。この技は相手の視界から消えるべく、相撲のソンキョの姿勢くらいまでかがんでカエルのようにジャンプしながら、アッパーパンチを喰らわすというもの。一瞬で視界から消えるので相手が防御できないのです。この奇襲戦法で、輪島は世界チャンピオンになりました。しかし、すぐに、カエル飛びパンチは研究され、当然の弱点をつかれ、輪島は防衛戦に失敗します。でも、めげることなく輪島は、次なる奇策を考えます。それは「あっち向いてホイ作戦」です。試合中、輪島はあらぬ方向に視線をそらします。そうすると相手の視線は、それにつられて動きます。輪島は、あらぬ方向を見ながら、パンチだけは相手の顔面をとらえるのです。視線がそれているので、相手は防御ができません。この滑稽すぎる、でも心理学的には理にかなった奇襲戦法で輪島はチャンピオンに返り咲くのです。しかし、これも何度も使える手ではありません。あっち向いてホイ作戦は見破られ、輪島は2度目の王座陥落です。ここで諦めないのが不屈の男・輪島です。最後の奇策は「風邪引き作戦」。試合前日の記者会見で輪島は大きなマスクをして登場。会見中もゴホゴホと咳き込み、いかにも風邪を引いたという雰囲気。試合当日のスポーツ各紙は「輪島、調整に失敗か」と書き立てる。試合になっても、相手のパンチがかする程度で、わざと顔をゆがめます。もちろん、これは相手の油断を誘う演技です。こうして、いつの間にか相手を自分のペースに引きずりこんで最終ラウンドでKO。輪島は32歳にして3度目の王座となるのです。もちろん、この奇襲・ゲリラ戦法は、私たちの社会や、ビジネスにダイレクトに適用できるものじゃありません。社会は、瞬間的な勝負ではなく、持続的な戦いです。姑息な小手先はかえって命取りです。しかし、弱者は正攻法だけでは勝てないということです。あらゆる智恵をタブーも破っても絞り出すべきだということです。もちろん、その戦いの目的が、ハッキリと明確で倫理性が損なわれることがあってはなりません。その上での敢闘スピリットを奮い立たせたいものです。硫黄島での栗林中将が、最悪の条件でも、智恵と汗によって、敵に最大限の打撃を与え、結果的に、本土決戦の悲劇を避ける道を作ったように。私は、弱者のあがきは、人類の希望でさえあると思います。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2007.01.01
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