2010年11月23日
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コメント、ありがとうございますm(_ _)m
長くなりましたので、お返事、また、こちらに上げます。

>「わたくし、つまりNobody」と言い切られると、愕きました。
>このNobodyには意味の深さに段階があり受容レベルは異なる・・・

そうですね。
意味の深さに段階がある、受容レベルが異なる、というのは私も同感です。
いろんな風になん通りも受け取れる、解釈できると思うんです。

まあ、時間と空間をものすごく大きいレベルでとらえて、そこから自分をみると、
”自分はnobody”ということは自明、というのか、ものすごく単純な、
当たり前なことではないのかな、と思います。
そういう風に考えると、自分と自分にまつわる諸々のことを、
(悪い意味で)大袈裟には考えられなくなります。

もっと簡単にいえば、壮大な自然の風景に触れて、自分はちっぽけだと感じる、とか、
宇宙に出た宇宙飛行士が地球を見たときの気持ち、とか、そういう感じかなと。

でももちろん、今の自分、”〇〇某”の部分ももちろん大事だし必要なんですが。
自我の確立も、それが、間違ったほうでなければもちろん大事なことだと思います。

小さい自我(〇〇某)、と大きい自我(宇宙、=nobody)とも表現されていたように思います。
どっちも大事だと思うんです。

まあ私も、行きつ戻りつもしますし、現実、誰かが死ぬというのはやっぱりもう
なんといっても悲しいことだとは思います。
死に対する恐怖のあるなしは、それとはなんかちょっと別次元の捕らえ方、
とでもいうのかなんというのか・・・。
ただ、なんていうのか・・・もうこれは、直感的なものなんですけど、
死んで全てが終わり、とは、どうしても思えないんですね。私の場合。
だから、そういう文脈では、悲しくないとでもいうか・・・。
それが正しいかどうかとかは、どっちでもいいんです。
(私は、池田さんほどには、論理的な確証を得ようという意欲が強くはないんです。
直感的に手応えを伴って、やってくるものには、間違いがない、という感じが強いので。
だけど論理的に詰めてもらえると、より納得するので、助かるんですが。)
だからもう、死に対して根本的にあまり恐怖は持てないというか。
とはいえやっぱり怖い部分ももちろんあるんですよ。
というか、細かく見ていくと、死そのものというより、死の手前、が怖いんですよね、きっと。
でも、それはある程度までは、自分次第でどうにでもできるのではないかなとも思います。

具体例を挙げますと、例えば自分の体が不自由になって、
誰かの世話にならないといけない、とかそういう状態のほうが死そのものよりも怖いかな~。
でも、そうなったらそうなったで、その中で自分に出来る最善を尽くすと思います。
(もちろん、その状態を受け入れられるようになるまでは、多少の時間はかかると思いますが。)

それに、池田さんのことで言えば、死を前にした文章(”暮らしの哲学”という本だったと思います)は、すごく柔らかくて、
”人間”な面がすごく前面に出ているんですよ。
私はこれを読んでなんかほっとして、ちょっと切なくなるというのか、ぐっときました。
当たり前ですけど、池田さんも、人間やんか~、というような。

池田さん、若い頃は、なんかけっこう”とんがってた”みたいで、編集者と対立したりして、
しばらく干されたような状況になったこともあったそうなんです。
私も、20歳すぎそこそこの頃、池田さんの本を最初に読んだときの印象は、
”辛口だな”だったんです。

でも、”斬り方”にも、レベル、質、方向性、純粋度というか精度があると
思うんですね。
これは池田さん自身の言葉ですけど、批判する時、そこに”愛”があるのかどうか、
と。

テレビとかメディアで物事を斬ってる人、色々といらっしゃいますけど、
そんなのを見聞きしていて、この人は一体どの辺のレベルから物を言ってるのかな、と
思いますね。
もうこれは癖ですが、いろんなものを観察してしまう、その一端として。

ただ単に自分の知識をひけらかしたいだけとか自己顕示なのか、とか、
そうすることがただカッコいいと(思われる)と思って深く考えずにそうしてるだけなのか、とか、
本当に愛をもって、対象のことをきちんと考慮に入れて語っているのか、
どこまでを視野に入れて語っているのか・・・等々。
もちろん、受け取るこちら側のフィルターが曇っていたら受け取り方も変わってくるので、
こちらの在り方も同時に問われるわけですが。

池田さんの場合は、斬ってるけど、愛がある、という気がします。

・・・なんていうのかなあ・・・こういうことに通じる、というのか、理解が進むと、
ある意味より人間的になる、とでもいうか、
そういう方向に行かないとウソだ、というのか、何か間違ってるのではないのかな、
と思うんです。

例えば、”自分は池田晶子の言ってることがわかるんだ。すごいんだ。”とか
思ってるとすると、それはもう違うとこに行ってるでしょう?
そうでなくて、なんかわからないけどすごくて不思議なこの世界のことを実感すればするほど、
謙虚なきもちになるというのか、ある意味絶句してしまうというのか、
ああ、まだまだだなと思ったり・・・。

だから、こういう本を読んだりとか理屈で詰めたりとかしなくても、
そういう、”世界に対する畏れ”みたいなものを本能的に実感して、
ごくふつうに暮らしている人はいっぱいいると思います。

深刻になったり、虚無的になったり、苦悩する、とか逆に陶酔する、とか
そういうのは、違うんだろうなという感じです。

・・・で、話は死に戻るんですけど、まあ、死というのも、万人に平等に
与えられたもので、ぶっちゃけ、心配しなくても皆いつか死ぬわけですよね。
そう思うと、なんかそんな大したことでもないような気がしたりもします。

>しかし、彼女の精神は強いから「狂」の彼岸から戻ってこれるのですが、
凡人がここまでしじゅう突き詰めていると、ノイローゼ(古いコトバ)になり、
違うところに収監されそう。
これって、Akikotarian的には噴飯ものでしょうね?

いや~、それは突き詰め方の問題ではないでしょうか?
突き詰め方がマズイと違った方向に行く、それだけのことでは?
あと、個体差?
突き詰める=しんどい、めんどくさい、おかしくなる、ということでは全くなくて、
突き詰めることでより広いところに出られる感じですので。

”「狂」の彼岸”、と思われるかもしれないですけど、「狂」でもなんでもない。
「狂」どころか・・・。

実際には、池田さんにとっては、こちら側の諸々のほうがある意味「狂」なのでは?
だから、ある意味、特にこっち側にいたい、とも思ってないのでは?
本人もそのようなことをおっしゃってましたし・・・。
(”とくに生きていたいとは思わないのである・・・”というような。)
まあもちろんそれは、比喩的に揶揄的に、ちょっと大袈裟に表現してみた、
という感じもあるかともとも思いますが・・・。

>私の好きなcoffeeの・・・

ほんとに、コーヒーって色々ですよね。
普段飲む分には、スタバ豆がやはり一番好きですが、マクドのコーヒーとかも、
十分おいしいと思ってます。
ampmでコーヒー売ってたんですね~。知りませんでした!
紙コップで飲むと、なんかおいしく感じるような気もします。
あと、昔からあるようなふつうの喫茶(別にこだわりの店とかでもない、
下町の商店街にあるような気取ってない普通の喫茶)のコーヒーとかも、
それはそれでなんか好きです。

それでは、この辺で!






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最終更新日  2010年11月23日 18時00分18秒
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明日から勤労の日なので  
Kawa さん
ワア~っ!!さすがSachicoさん、内容いっぱい詰めて返してこられましたね。

で、質問攻め(笑)にしたい点が散りばめられていますので、ちょっとポイントをまとめますので、お時間をください。ほかの話題に移っててもらっていいですよ(笑)。

(2010年11月23日 21時41分51秒)

了解です。  
sachi-co.  さん
ごゆっくりと~! (2010年11月24日 09時07分15秒)

考えることに終わりはない  
Kawa さん
ごゆっくりと~の許可を得てから、怠けたわけではありませんが(笑)お返事するのに、案外時間がかかってしまい1週間たってしまいました。

この間に、残酷人生論(新版)も読了。これで、14歳からの哲学、41歳からの哲学と合わせて3冊が私の机の上に並びました。
当初、Sachi-coさんへの疑問列挙というかたちを考えていましたが、読んでいくと単純な疑問は解けて、大枠の話、私からのカウンターの主張めいたものになってしまいました。故人にぶつけるわけにもいきませんので、Sachi-coさんに書かせてもらいます。

>まあ、時間と空間をものすごく大きいレベルでとらえて、そこから自分をみると、“自分はnobody”ということは自明・・当り前なことではないのかな、と思います。

たしかに、当たり前といえばそうです。今回新たに読み進めると、前回私がsomebodyの対立概念か、と色めきたった期待に反して、単に特定の個人からは、もはや全く属人性を失ったという意味合いでのnobodyですね。
一方“to be somebody”とは社会の認知を受けることが要件の概念ですから、他人との比較は関心がない池田氏にあっては、もともと議論に値しないでしょう。

この次の段階では、nobodyは魂に昇華する、ないしは生来の魂が前面に出てくるのですが、属人性を失った魂は、他の魂とは区別というか独自性が保たれるのですか? 
いや、この質問はナンセンスでしょうね。宇宙=私、という表現も彼女はしていますから、自意識が無制限に拡大し宇宙全体と融合したところの完全充足感といったものが、最終イメージでしょうから。

同時に、他者・隣人は?と問えば、他者も同じ宇宙に対して何重にも重複する形で、完全充足感を味わっている状態、という説明・・かな。このような神秘的イメージに包まれて、今いながら、幸福感に満たされる・・。 
(スピ系は)こういうことですか?
(2010年12月01日 00時11分39秒)

考えることに終わりはない  
Kawa さん
>私は、池田さんほどには、論理的な確証を得ようという意欲が強くはないんです。直感的に手応えを伴って、やってくるものには、間違いがない、という感じが強いので。だけど論理的に詰めてもらえると、より納得するので、助かるんですが。

「考えること」を強迫的に迫る池田氏ですが、同時に「論理的」に考えることも強調、そして蒙昧な相手が論理的でないことで退けますね。けれど、残念ながら彼女の「論理」はどうもヘンだなあ??という気がします。これもあとでまとめてみます。

人生を「論理」なんかでなくて、Sachi-coさんのように直感的な手応えで立ち向かえる、というのが一番いいですよ。

そのような手応え、私も本当はほしいです。が、私は真正のDoubting Thomas(疑い深いトマス)ですから、よほどの体験・証拠がないと信じないでしょう。

>それに、池田さんのことで言えば、死を前にした文章(“暮らしの哲学”という本だったと思います)は、すごく柔らかくて、私はこれを読んでなんかほっとして、ちょっと切なくなるというのか、ぐっときました。あたり前ですけど、池田さんも、人間やんか~、というような。

何を言っててもよい、死を前にしてどう振舞えるか、これですね。ここで本当の自分が曝される。
「死ぬ瞬間」の著書で有名なキューブラ・ロスでさえ、死をすんなりと受容できなかった(ビデオを撮らせたのはおそらくそれも現実として記録したかった、あくまでも科学者として、だと思いますが)。
“暮らしの哲学”ですか、これは絶対読まなくては。

(2010年12月01日 00時17分55秒)

考えることに終わりはない 3  
Kawa さん
>テレビとかメディアで物事を斬ってる人、色々といらっしゃいますけど、そんなのを見聞きしていて、この人は一体どの辺のレベルから物を言ってるのかな、と思いますね。もうこれは癖ですが、いろんなものを観察してしまう、その一端として。

へえ~?!。私なんか、すぐ見透かれそうです(笑)。

>(凡人がここまでしじゅう突き詰めていると、ノイローゼになり違うところに収監されそう)
>いや~、それは突き詰め方の問題ではないでしょうか?突き詰め方がマズイと違う方向に行く、それだけのことでは?・・「狂」の彼岸と思われるかもしれないですけど、「狂」でもなんでもない。「狂」どころか・・・。

凡人とは私のことで、私の不安を言っているのですが。私たちの認識そのものを疑うと、例えば「14」で、「今見ているものは人生という夢を見ているのかもしれない(夜空の星のように今は無いものをみている。夢の中では無いものを見ている。だから今見ているものは夢かもしれないという「論理」)」、「だとすると死ぬことでその夢から覚めるとき、君はどこに目が覚めることになるのだろうか」、という問いかけp139??。「いや、君が夢を見ているのではなくて、夢が君を見ている、宇宙自体が自分がみている夢だ」p203云々。

こういう言説を契機に、認識の確かさに疑問を投げかけ認識そのものを疑いはじめると私などは不安に襲われます。
私は、閉所恐怖症のところがあって雑居ビル内での飲み会は言いようも無く不安になります。窓とか階段があると安心するのですが、出口がエレベーターしかないと知覚すると当初パニックですね。
同じ心理で、こういう言説を読んだあと、空は開放されてものではなくて、自分を上から覆って自分は空に閉じ込められていると考え始めるとすごく不安になりかけます。荒唐無稽な不安だことは重々承知しているのですが(苦笑)。

(2010年12月01日 00時28分00秒)

考えることに終わりはない 4  
Kawa さん
昔からというわけではなく、学生の貧乏旅行の時、ドイツの城の背をかがめて歩くような地下道とか、ローマのカタコンベでも全く平気だったのですが、社会の荒波にもまれたあと(笑)訪れた、エジプトギザのピラミッド内部の通路は怖くなっていました。

どうもセルフイメージと関係がありそうなのです。あとでまとめたいと思いますが。

次に、個別論に移ってよろしいでしょうか。
どうも、sachicoさんのブログで、自分の考えにスペースをとるのには気がひけます。しかし、対話ということで、このあとsachicoさんより何倍もの打ち返しが掲載されるという理解のもとで、お許しください。

(2010年12月01日 00時32分09秒)

考えることに終わりはない 5  
Kawa さん
■池田氏の論じ方
池田氏の斬り方には愛が感じられるということでした。しかし時事テーマを扱った「41歳」に顕著なのですが、視角は常に同じところから、断罪の仕方も同じ、というのがどうも気になります。

例えば、○○(携帯電話、アンチエイジ、自殺etc)の是非を論じる際のパターンは、
(1)「○○したところで(することは)、我々がなぜ生まれて死に、自分は何なのか、という人間の根本的疑問からは取るに足らないことだ。それが、どうした。」といきなり、人生大疑問の印籠をみせて、相手を黙らせます。

(2)さらに、相手が自分の行動の合理性を釈明しようとすると、「○○するのは自分の魂を善くすることとは無関係です」という。
たいていの場合、一般人は自分を利するということで行動しており、必ずしも魂磨きのために動いているわけではないので、後ろめたいのかなんなのか、言われたほうはやはり黙って立ち去ろうとします。

(3)そこに背後から、「あなたは(1)と(2)をもっと考えなくてはいけない」という声の追い討ちを浴びせる。という論法パターンです。

もちろん、トラン流に考えれば(1)の印籠は、つまらないことでも過大に重要性を付与してしまってかえって自分自身苦しくしている、あの心理機制を抑制するポジティブな面はありますよ。
「しかし、でもなあ、そういわれてもなあ・・。考えろといわれてもオレは哲学エッセーを生業にできるわけでもないしなあ・・」。と不満が残る面ありませんか?

でも一歩譲って、そこで一生懸命人生を考えた人の成果物は何なのか?
しかしそれが、「魂の私は存在し続ける」というだけのこと(結論)であればなあ。人生はよく考えて、善く生きるべしの主張は立派だけど、その成果物がこれだけではなあ。見合わないんじゃあない?

(2010年12月01日 00時39分09秒)

考えることに終わりはない 6  
Kawa さん
■論理
論理的に考えれば明白、と繰り替えします。また読者も論理的、説得力あるという印象を受けます。しかし、何かヘンだなと思うところが多いのです。
例えば、一番大きいissueである死は怖いものか、の論の進め方。

1.人は死を恐れる 
2.恐れるとは恐れの対象があること、対象を知っていること。
3.恐れの対象は死 
4.死は何たるか知っているか 
5.死を経験した人が生きているか 
6.生きていない 
7.従って生きている人は、死が何か知らない 
8.知らないものを恐れられるか 
9.恐れられない 
10.従って死を恐れる必要はない。

なんか騙されたような論理だと思いませんか。よく考えてみると、2.恐れの対象があるということは、必ずしも対象を熟知していることではないのにも拘わらず、熟知を必要要件にすりかえている。
4.であたかも死の(メカニズムを)熟知していることが必要要件かのように前提する 
5.で熟知するためには対象を体験せねばならないと決めつける、といった手品があります。

彼女の言葉の手品の特徴は、A⇒B⇒C、と複数命題の部分真理を繋げていき、最後に「ゆえにC⇒Aである」と逆説風に鳩を出す感じです。
読者は、手品師の勢いに押されて思わずその鮮やかな手品論理に拍手してしまうのです。いっぱいあります。これが。

彼女も主張が時として変てこな「論理」の形をとることは分かっているようです。
(「残酷」P212魂を考える最終章)

死は怖くない、の命題の解き明かしで私が承服しにくいのはその手品「論理」にもありますが、彼女の死の恐怖の想像の仕方です。


(2010年12月01日 00時49分52秒)

考えること、終わりにしたい  
Kawa さん
死の恐怖とは、死の後に本人が感じることでもなく、死んだ瞬間の気持ちでもなく、すぐれて死ぬ前、前、前の感情を通常意味している。
にもかかわらず、彼女は今重視の「思い込み」が強いせいか、故意に無視しようとするのか、死を感じる本人主体は死のときはいないから死は怖くないのだ、の彼女「論理」から離れられない。
本人も認めるように、今から未来を想像する心の働きが、資質的によくも悪くも欠けているようです。

Sachi-coさん、途中ですが、これは延々と続きそうですので、一旦やめて送信します。

私がまだ触れたかったテーマは、■演繹法と帰納法~池田氏の思考法は極端な演繹法(自分の頭のみが出発点)、科学ないし私はできる限り帰納法で結論を導こうとする、決定的違いがある。宗教はともかく人生論は科学と無縁でよいか。
■性格と思考~覚醒者vs一般人、池田氏の教えは普遍的になるか 
■異端者の進化的意義~集団非同調者と種保存の意義 
■自分探しは可能か 
ご希望があれば、展開しますが一旦やめますね。


Wow! 明日から12月。季節のかわり目、おからだご自愛ください。
池田氏は頭だけで勝負、私たち(失礼?)は体力勝負ですから!



(さて最後まで読んだのは誰だ!?)
(2010年12月01日 00時56分25秒)

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