どん底生活からよみがえり

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2025.10.21
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カテゴリ: うつ病



父は八木の土砂災害(2014年8月20日)の4日後にすい臓がんであの世へ旅立ちました。
土砂災害のテレビ報道を父は見ていましたが、苦しみながらも悲しみを感じて見ていたようです。

父は昭和14年7月6日生まれですが、広島の原爆投下の時は6歳でした。
父は自宅(東野公民館付近)で閃光を見た後、障子ごと爆風で吹き飛ばされ意識を一時失ったようです。
意識が回復した時にはきのこ雲が立ち上っていたそうです。

父は被爆者手帳を保持していませんでした。
東野の隣の学区である東原?(西原?)に居住していれば被爆者手帳を貰えたようですが、ぎりぎり被爆者手帳を貰うことが出来なかったようです。

父はガンを3回患いました。


早期発見で命が救われましたが、手術後は食事を摂る量が減ったため、食事を摂る回数を増やしていました。

2回目は私が大学卒業後のスポーツセンターの嘱託指導員時代でしたが、膀胱ガンで転移しているかどうかの瀬戸際でしたが、全て膀胱を取り除く手術を行いました。
尿袋を提げて生活することになりましたので、身体障碍者手帳を保持するようになりました。
定期的に尿袋を取り換えないといけないという苦労が始まりました。

ここから有名な整体師にガンの再発防止のために、車で米子まで毎月治療に行っていました。
気功治療なので手当て療法なのですが、ガンが再発していても知らせずにガンを消していたと後に教えてもらいました。
その整体師自身が白血病になり治療のために横浜に移転されましたが、治療日が少ないためこれを機にガン治療を中断していました。

私が40代前半の頃、父の様子がおかしいと実家から連絡があり、父の様子を見るとせん妄状態になって会話が出来ない事態となっていました。また、体温が40度と高熱でした。



このシンギングリンの邪気払いを行うと、40度の高熱が36度の平熱になりました。
翌朝になって父の意識障害が始まりましたので、掛かりつけ医に急遽訪問頂き、救急車で共立病院に向かうことになりました。
共立病院でも心臓が締め付けられる感じで非常に苦しんでいましたが、私はその父の姿を見て私も病院で気分が悪くなり吐き気がしていました。

広島市民病院では緊急病棟で医師9人くらいが父のベッドを取り囲み、重体だったようです。
その姿を見てまた私も気分が悪くしゃがみ込みました。
医師からは危篤状態であることを告げられました。

その後、容態は落ち着きましたが、医師から食事が摂れないため胃ろうになると告げられました。
食事が摂れないために点滴治療を続けるしかありませんでしたが、胃ろうではなく何とか食事ができないかと思い、東洋医学で学んだシンギングリンの音(経脈)を収録し、ベッドで聴き続けてもらうことにしました。

その後、父は食事が摂れるようになり安心していたのです。
しかし、緊急搬送された時に造影剤を投与されて分かったのが、すい臓がんです。
このことを医師に告げられ、私はショックから病院のソファーで横になりました。

医師はすい臓ガンを本人に告知する方が良いと言われ、数日後に家族同席で主治医から父にすい臓がんであると診断が下されました。
主治医は手術は高齢で難しいので、緩和ケアをするしかないと言われました。
父はショックが大きくどうしたらよいのかと途方に暮れていました。
私はしばらく父の傍に居ることにしました。
母には横浜の整体師に連絡して治療に行こうと助言しました。
元看護婦に付き添ってもらい、車いすで広島駅から新横浜駅まで4人で気功治療に向かいました。
1泊2日で横浜に泊まりましたが、1日目の治療では気功整体師はこのガンは難しいが頑張ってみると言われ、翌日にも来るように言われました。
ホテルに帰り、母と元看護士は食事に外出しましたが、私は父に付き添いました。
私はシンギングリンを持参していましたので、チャクラの音を奏で続けました。

2日目の気功整体治療ですが、整体師はとても驚かれました。
1日目の治療でこんなに効き目があるとは思わなかったと感動していました。
1日目の治療では腸が汚れていたのに、2日目の治療では腸の汚れが無くなっていたと。
私はシンギングリンのチャクラの音の治療効果もあったのだとこの時に思いました。
東洋医学の講師はこのシンギングリンの音でいろんな治療が出来ると言っていましたが、気功整体師の反応を見て本当だと確信したのです。

広島に帰宅後はまた再入院し、緩和ケアのできる病院に転院しました。
私は仕事帰りに毎日父の看病に行っていました。
すい臓がんのため、すい臓付近が腫れるためなのか痛がっていましたので、私の手をその患部に手当をしていたのです。
私の手から暖かい気が出ているので、父はその患部の痛みが軽減し喜んでいました。
そのためか、父は私が治療に来るのを毎日待ちわびていました。
父は私を独占しているので、夫に申し訳ないと言っていました。
その時の夫はうつ病を発症していたので夫の傍に居てあげたかったのですが、父を優先しましたので夫は寂しい思いを耐えてくれました。
私は職場の過重労働、職場の正規職員からのパワハラの2重苦もありました。
私自身もボロボロだったのです。。。

緩和ケアも自宅療養も勧められましたので、父を自宅へ連れて帰りました。
すい臓がんのため、血糖値が上がるために測定する検査キッドを渡され、定期的に検査をしていました。
インシュリン注射は自宅では当時は出来ないということで、飴をなめて血糖値を上げる対策しかありませんでした。
自宅ではシンギングリンの音の治療、私の手当療法を行い、私の持っている東洋医学の知識をフル活動して病魔と闘っていました。

しかし、病魔に勝てず調子が悪化の一途だったため、再入院することになりました。
それからいろいろありましたが、すい臓がんではなく多機能不全?という診断名であの世に旅立ちました。

私は父を助けられなかった悔しさと、大好きだった父を亡くした悲しみから、茫然とする1か月を過ごしました。
職場でも私は気力がない姿で仕事をしていたのですが、流石に当時の館長は私に気を使ってくれました。
館長と一緒に公用車に乗って所管施設に行ったのですが、その時に私は父にすい臓がんを今日の仕事を終えたら告知することになっていると告げていたからです。
車の運転は主任の私がして館長は助手席に座るのが普通ですが、この辛い時期は館長が運転をしてくれていました。
館長は優しいところもあるのだと、今でも記憶に残っています。

小さな頃の父の思い出を思い起こします。
カープの試合をテレビ観戦を一緒にしていました。山本浩二さん、衣笠幸代さん、北別府さん、、、などなど。。。
相撲もテレビ観戦を一緒にしていました。千代の富士力士を応援していました。
竹馬を手作りしてくれて、竹馬で遊んでいました。
バレーボールのネットを麻紐で編んでくれましたが、このネットでアタックの練習を庭でしていました。
公文教室の数学の問題は父に教えてもらっていました。
大人になってから父はパソコンのエクセルの表を仕事で使っていたようですが、私からパソコン技術を学んでいました。その技術を大親友の大工職人に教えに行っていたのです。
韓国ドラマ「チャングムの誓い」を父と一緒に、飽きずに何度も繰り返し見ていました。
このドラマは主人公のチャングムが宮廷料理人として、その後は東洋医学の医女としての生き様を描いたものでしたが、私も料理が好きで、東洋医学を学んでいるので共通点が多いためか、繰り返し見ることが多かったのです。
精神科の主治医にもこのドラマを告げると、主治医もご存知で興味がある感じでした。

とても心優しい父でしたが、この世の中の男性は父のように優しい人はいるのだろうかと思うぐらいです。
母方の祖母も父の人柄に惚れ込み、母と見合い結婚させたのです。
祖母は原爆市長と呼ばれる濱井信三さんの家が近所ということもあり、祖父が早くに他界したため、濱井市長を頼って生きてきたようです。濱井市長を尊敬していたそうです。
濱井市長も心優しいお人柄であると下のユーチューブの動画を見て思いました。

「原爆市長」が語るヒロシマ 元広島市長 浜井信三さん被爆証言

追記:
新築の現場監督の部下が、私の旧姓と同じ漢字(読み仮名は異なる)であり、父と同じ4種、6種体癖であったことを嬉しく思ったものです。
部下の存在そのものが癒しで、厳しい建築現場の中の潤滑油的な存在なのだなあと。
本人は自覚がないのかもしれませんが、自信を持ってもらいたいところです。





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Last updated  2025.10.21 23:10:45
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