全28件 (28件中 1-28件目)
1

この日は2月18日(金)、「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」の2回目に二宮にお住まいの先輩と家へと西湘バイパスを利用して向かう。時間は6:28。山頂付近に積雪が残る箱根の山々。そして二宮のOさん宅を6:40に出発。そして国道135号を利用して熱海まで行き、静岡県の熱海-函南を結ぶ県道11号線・熱函道路の鷹ノ巣山トンネル(L=1268m)を通過。この日も、その先の第ニ丹那橋(L=129m)手前のログハウスのbigbox の空き地に車を止め富士山の勇姿をカメラに納める。こちらが、前回の2月2日(水)の同じ場所からの富士山の勇姿。積雪量が前回より多くなった様な光景であった。この日の最初に訪ねた地は、「北条宗時 狩野茂光の墓」。近くにおられた地元のオジサンに駐車できる場所を教えていただく。小高い丘の上にあった「北条宗時 狩野茂光の墓」。前回も訪ねたJR函南駅近くにあった。急な狭い石段を上って行った。「源頼朝・北条政子の史跡を巡る 北条義時のゆかりの地」と書かれた幟。「北条宗時 狩野茂光の墓由来石橋山合戦(一、一八〇年)の際の頼朝方武将「北条三郎宗時」と「狩野茂光」の両者を祀る。北条三郎宗時北条時政の嫡子、父、弟義時と共に頼朝に従い石橋山にて戦うが敗走の途上小平井名主紀六久重に討たれる。狩野茂光狩野の豪族で源為朝を討っ等軍功あり。石橋山合戦には頼朝に従うが敗れ割腹する。「注」毎年秋のお彼岸中日に二氏供養のための祭例を行う。静岡県田方郡函南町大竹218−4。北条宗時は北条時政の嫡男。北条政子の弟・北条義時の兄。1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵をした源頼朝に従うが、頼朝軍は山木兼隆を討った後、8月24日、相模国の石橋山で大庭景親軍に大敗。頼朝は山中へ逃れた。『吾妻鏡』によれば、北条時政と宗時、義時の父子は頼朝と別行動をとり、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとした。しかし、早川の辺で伊東祐親の軍に包囲され地元・平井郷の名主・小平井久重に討ち取られたのだという。ちなみに、北条宗時を討った小平井久重は、80歳くらいとされる工藤景光(くどうかげみつ)が捕縛して、1181年1月6日、処刑されたのだと。工藤景光は、石橋山の源氏勢とは別行動しており、甲斐の安田義定らと挙兵し、俣野景久を破っていたが、同じ工藤氏の一族であったと推測されると。丘の上に「北条宗時 狩野茂光の墓」があった。「土地の人から「時まっつあん」と呼び親しまれた宗時神社としてこの地に祭られている。五輪の小塔、大小ニ基があり、大が北条宗時、小が狩野茂光の墓といわれている。石橋山の合戦に敗れ後退の途上この地で戦死後年父時政によりこの台上に祭られたといわれている。」大小二基の塔のうち、大きい方が北条宗時、小さい方が狩野(工藤)茂光の墓。『吾妻鏡』によれば、1202年(建仁2年)6月1日、北条時政は夢のお告げによって伊豆国へ下向し、宗時の墳墓堂で追善供養を行っている と。正面の大きな宝篋印塔が「北条宗時」の墓。近づいて。「鎌倉殿の13人」で「北条宗時」を演じる片岡愛之助さん。左にあった小さな塔が「狩野(工藤)茂光」の墓。1180年(治承4年)、石橋山の戦いで負傷し、歩けなくなったことから自害したと伝えられている。一説には、肥満だった茂光は、足手まといになるの嫌い、孫の田代信綱に介錯してもらったともいわれる。「鎌倉殿の13人」で恰幅の良い武士・「狩野(工藤)茂光」役を演じる米本学仁さん。北条館まで少しの川辺。「狩野(工藤)茂光」は「ここで別れよう。鎧を替えたら、北条館に行く」。北条宗時は「鎧が小さくなったのではなく、工藤殿が太られたのではないか。一体、何を食べれば、そんなに大きくなる…」と。川の水を水筒に入れ、振り返ると、「狩野(工藤)茂光」が突っ伏している。茂光に駆け寄ると、背後に人の影。刀を抜こうとしたが…伊東祐親の下人・善児(梶原善さん)の小刀に襲われた。実はこの善児は、実在しない人物で、ドラマオリジナルのキャラクターであるようだ。史実は地元・平井郷の名主・小平井久重によって殺害されたのだと。伊東祐親にとって「北条宗時」は孫だが、善児に命じたのであった。右側にあった大きな石碑。「北条宗時 狩野茂光 碑」と上部に刻まれていたが、下部の文字は解読不能であった。墓の前には大きな霜柱が。横にあったのが「宗時神社」のはずであったが・・・。内陣にはご神体等がなく、廃社になっているようであったが、何処かに遷座したのか。あまりにも無残な姿なのであったが。墓地前からの北西側の眺望。こんな看板を見つけたのであったが・・・。 ネットには「北条宗時 狩野茂光の墓」👈リンク に対する、リンクの如きページがあったので紹介する。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.28
コメント(0)

県道739号線を利用して「岩漁港」に向かって進む。左手にあったのが「石工先祖の碑」。「石工先祖の碑平安末期に石材業を始めた土屋格衛や江戸城造営の採石に当たって小松山に口開丁場(くちあけちょうば)を開拓した黒田長政配下の7人の石工たちの業績をたたえ、江戸末期に再建された供養碑がこの山の上にあります。真鶴町は、こうした人々の開発の努力を受け継いで、いまなお、名石小松石に代表される全国有数の石材産地としての伝統を誇っております。」石段の上の小さな広場にあった「石工先祖の碑」。真鶴の石材業は、平安時代末、京より下ってきた土屋格衛という人物によって始められたのだといいます。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、多くの巨石が鎌倉へ運ばれ、寺社などの建設に使用されたそうです。江戸城築城の際にも大量の石が積み出されました。「石工先祖の碑」は、真鶴石材業の生みの親・土屋格衛と、江戸城を築くための採石にあたった黒田長政支配下の7人の石工たちの業績をたたえた碑。そしてその先の三叉路の角にあったのが「謡坂」碑。「謡坂之記」碑。下記はネットから。「この地の謡坂荘主高井徳造氏が謡坂の由来を知り、頼朝の遺跡を顕彰するために昭和9年1月に建てた碑であると。長い碑文を要約すると「治承4年8月23日、石橋山合戦に敗れ8月28日にここまで逃れてきた頼朝主従が土肥実平の館のある西の方を望むと土肥村から兵火が上がり炎が空を覆った。実平は之を見て頼朝が危険を脱したことを喜び、併せてその前途を祝福し『土肥に三つの光あり。第一には、八幡大菩薩、我君を守り給う和光の光と覚えたり。第二には、我君平家を討ち亡ぼし、一天四海を照らし給う光なり。第三には、実平より始めて、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光なり。嬉しや水、水、鳴るは瀧の水。悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ。我家は何度も焼かば焼け。君が世にお出になったら広い土肥の椙山に茂る木を伐って邸など何度でも造りかえる。君を始めて万歳楽我等も共に万歳楽』と勇み踊り謡った地であり爾来此地は謡坂と称されるようになった。この十二年後、頼朝公は建久三年征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府をお開きになった。公の史跡は天下に多いけれども、この地は挙兵の当初、敵の虎口を脱した地であることを石に刻んで後世に伝えるものである。」「和光の光」とは仏が日本の地に神として顕れるその光をいい、土肥実平が自分の家が敵勢に焼かれるのを見て「あの光は、我が君や我々の未来を照らす光だ。」と謡い舞ったという『源平盛衰記』にちなむ話。「神奈川県の地名」によると、岩村について敵の追跡を免れた頼朝が喜びのあまり「祝村」と命名したという村民の伝承を記しているのだ」と。「謡坂治承4年(1180年)石橋山の合戦に敗れた源頼朝の一行は、箱根山中を逃れでて、岩海岸から房州(千葉県)へ向けて船出しました。その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平がうたい踊ったと「 源平盛衰記 」 にあります。この付近の謡坂という地名は、それに由来するといわれます。」そして再び「真鶴町岩の浜」・岩漁港入口(町道1号線側)まで戻る。「源頼朝船出の浜」碑が「源頼朝開帆處」碑と背中を合わせる位置にあった。「石橋山の合戦 治承4年(1180年)に敗れた源頼朝は、箱根山中や鵐窟(しとどのいわや)などに難をのがれ、謠坂を経てこの海岸から房州(千葉県)に向かって船出し、虎口を脱したと伝えられています。船出に協力した村民たちの鮫追船(さめおいぶね)2そうについては税が免除されたといわれ、小田原北条氏によるその確認の文書が伝えられています。海岸東の崖の下には、塩谷温博士の文による源頼朝開帆記念の碑があります。」「岩の浜」は真鶴半島唯一の砂浜の海岸であると。「弁天島」。岩海岸(岩海水浴場)の左手にある直径10mほどの島である。波間に浮かぶ岩に聳える松と鳥居があり、背後にはかながわの橋100選に選ばれた岩大橋がある。朱の鳥居が。奥には社があったのだろうか。それとも弁天島自体が社なのであろうか。再び「弁天島」と「岩大橋」を。石橋山の戦い後の源頼朝の敗走ルートをネットから。 【https://ameblo.jp/oyomaru-0826/entry-12336753749.html】より以下は2月13日(日)のNHK「鎌倉殿の13人(6)「悪い知らせ」」のテレビ画面より。北条時政(坂東彌十郎)と三浦義村(山本耕史)らは頼朝を待つが、敵に追われて先に安房へと舟で逃亡。源頼朝(大泉洋)と北条義時(小栗旬)も追って真鶴町「岩海岸」より土肥実平が手配した小舟で安房へ逃げる。1艘(そう)の小舟(平舟)に、武将2名程度と、漕ぎ手3名の組み合わせだったと。頼朝他6人の武将が同行し(七騎落ち)とのことであるので、4~5艘(そう)の小舟(平舟)で安房に逃げたのであろうか。真鶴から安房への海上ルート。そして何とか安房国・「竜島海岸」に上陸。湯河原町の城願寺に伝わる七騎落ちの伝説によると、頼朝とともに真鶴岬から安房国へ向けて船出したのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。しかし、ここには北条義時の名はない、史実は如何に?そして、主従七騎のうち、土肥実平の息子・小早川遠平(こばやかわ とおひら)は舟に乗らず、伊豆山権現へと向かった。頼朝の妻・北条政子へ、頼朝が伊豆を出発してからこれまでの経緯を知らせるためであった と。安房国へ命からがら逃げ延びた頼朝。そしてこちらが「源頼朝」が上陸した「竜島海岸」。以下の3枚の写真はネットから。「源頼朝 上陸地」碑が2基。安房国へ逃れた時に頼朝が上陸した地点については、伝承をもとに数か所の地名があげられてきた。なかでも、安房郡鋸南町竜島(りゅうしま)と館山市洲崎は、その代表的な地点として有力視されてきたが、大森金五郎文学博士の研究により、『吾妻鏡』の「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に着かしめ給う)という記載などから、現在の竜島付近が上陸地点として認定された。先に到着していた北条時政らが迎えたのだという。安房郡鋸南町竜島165-1。「源頼朝上陸地治承四年(一一八〇)八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。「吾妻鏡」によれば、「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んた理由と考えられています。房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、九月三日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、十三日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を減ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。」そして真鶴半島巡りの最後に訪ねたのが「瀧門寺(りゅうもんじ)」「瀧門寺」は神奈川県足柄下郡真鶴町岩にある曹洞宗の寺院である。山号は久遠山不動院、本尊は阿弥陀如来(但唱作)。真鶴町指定文化財の五層塔と頌徳碑と宝篋印塔がある。「宝篋印塔」と「石仏」。「奉納大乗妙典六十六部供養」と刻まれた石仏。「宝篋印塔」。基台を含め6.8m、明和四年(1767)に十三世鳳洲了悟和尚(ほうしゅうりょうごおしょう)が万民の幸せを祈って建立したもの。多くの善男善女の浄財と労力奉仕により、宝篋印塔が建立されたと刻まれている。宝篋印塔は小松石による関東随一の石造物といわれている。小松石は箱根の火山活動によってできた安山岩。真鶴しか採れない石で、鎌倉に幕府を開いた源頼朝も小松石の巨石を運ばせたのだという。「観世音菩薩」碑。参道の左手には風雪に耐えた多くの石碑が並んでいた。六地蔵。山門への石段に向かって進む。山門への石段の前。右手に「五層塔」が。「五層塔」(左)と「大乗妙典六十六部供養塔」(右)。「五層塔」は、万寿冠者を葬った塔で、もとは光西寺(廃寺)にあったものだという。万寿は、土肥遠平の子で、母は伊東祐親の娘・万劫。父は源氏に、母は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。近くの児子神社には、村人によって万寿が祀られたと伝えられている と。「頌徳碑(しょうとくひ)」。1831年天保2年に建立。宮石工の功績をたたえたものである。「五層塔と頌徳碑山門に向かって階段下右手にある五層塔は、廃寺となった岩松山光西寺の遺物です。塔身は一つの石から作りあげられたもので、江戸初期(1654年建立)の彫刻技術水準の高さを示しています。また参道の左手にある頌徳碑は、東叡山寛永寺(東京・上野)の宝塔造営事業をなしとげた宮石工の三津木徳兵衛の功績をたたえた、天保二年(一八三一)に建てられたものです。いずれもこの地方の石材業や石材技術を示す貴重な資料です。」左手に古くから伝わっているのであろう石仏の姿が。水子・子育地蔵の社が右手前方に。水子・子育地蔵。近づいて。水子・子育地蔵菩薩碑本来「水子」は「すいじ」と読んで、生後間もない赤ちゃんのことを指していたと。江戸時代を含めいわゆる流れてしまったほうの「水子」は多数存在しましたが、特にその魂の行方について心配する風習はなかったのだと。人間の魂はあくまで生まれてから7日たった以降しか宿らないと考えられていたためであると。これも藁葺の鐘楼堂。山門。藁葺き屋根の「本堂」。瀧門寺は、弘法大師の草創と伝えられる寺。1374年(応安7年)、熱海に湯治に行く途中に立ち寄った義堂周信は、詩集『空華集』の中に「遊瀧門寺観瀑布題観音堂壁」という文字を残している。(瀧門寺に遊び瀑布を観、観音堂壁に題す)伝説によると、開山の道禅は、かつて寺の背後にあった瀧に鬼神を感じて一夜にして堂宇を建てたのだという。その後、瀧門寺は周辺の村々に6つの末寺を抱える当地でも有数の寺格寺院の1つであった。 山号は瀧門寺背後の山の頂に多宝塔があったところから、また寺号は背後に滝を抱えていたところから名付けられたとされている。伊豆の国市(旧韮山町)の昌渓院を本寺とするが、古い時代は密宗だったと伝えられている。1573年(天正元年)に林屋(りんおく)という僧によって中興開山され曹洞宗に寺院になった。「本堂」の右側には「寺務所」・「庫裡」が。本堂の内陣では住職による「節分会」追儺式が行われていた。本堂前から山門、鐘楼堂を振り返る。扁額「多寶山」。順番に焼香を行ったのであった。この日の「節分会」の案内。近所の檀家の方達であろうか15人前後が集まっていた。住職がご挨拶。唐の玄奘三蔵(602~664)が漢訳した経典・大般若経について説明する御住職。御住職が十六尊の大般若経を守るとされる護法善神の十六善神名(じゅうろくぜんしんめい)の書かれた経本を見せて下さいました。ズームして。正面は釈迦如来で、その右手前に獅子に乗っておられる文殊菩薩、左に象に乗った普賢菩薩。文殊菩薩が智恵、普賢菩薩は慈悲の象徴です。仏徳は慈悲と智恵とを円満に備えているとの事です。他に優しい顔の法涌菩薩、泣き顔をした常啼菩薩、ともに大般若経に深い因縁のある菩薩です。向って右一番前にお経を背負った玄奘三蔵。玄奘三蔵と向き合って左の方に、シャレコウベをネックレスにしている深沙大王という元・悪魔の王が居ます。深沙大王はシルクロード途中の砂漠に潜み、仏教を研究してお経を持ち帰るお坊さんを殺し、仏教が外国に伝わるのを妨害してました と。御住職が転読(宗門では最初に「大般若波羅蜜多経巻第何々巻」と唱え、教典を一巻一巻パラパラとめくりつつ転読唱文などの偈文を誦し、最後に「降伏一切大魔最勝成就」と喝破、一巻を読誦したことにするのが、一般的な大般若会の儀式作法 と。そして豆まき用の豆を頂きました。御住職から豆まきの掛け声の説明がありました。そいて全員で大きな声で!!「コロナ退散」と。自宅へのお土産に、封筒に入った「福豆」を頂きました。御住職と記念撮影する方々。我々は「鐘楼堂」に近づいて。「梵鐘」。そして帰路に「ししどの窟」の前の「真鶴 魚座」に立ち寄り昼食を。入口の水槽には鯵が元気に。入口の「大漁旗」。店内の「大漁旗」。新鮮な「海鮮丼」を楽しみ早目の帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.27
コメント(3)

県道739号線を真鶴半島の奥に向かって進むと、道路沿いから見える位置に「モアイ像」が藪に埋もれてひっそりと立っていた。周囲の斜面地は草木が鬱蒼と茂り、モアイ像のみが単独設置されるのも不自然なため、何らかの施設跡の可能性があるのか?ネット情報では「2021年9月12日に放送された「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日)で取り上げられ、それによるとこのモアイ像は土地のオーナーが個人でお守りとして制作したもので、発泡スチロール製らしい。」とのこと。モアイ像の向かいの空き地?にも石碑が。「人生は経験である 本山恒◯ 昭和四十五年 九月二十五日(還暦)」と。車で真鶴半島の最先端まで行き、道端の空き地に車を駐めて散策開始。ケ-プ真鶴の裏手で、三つ石を見下ろす位置にひっそり立っていたのが「与謝野晶子の歌碑」。「わが立てる 真鶴崎が 二つにす 相模の海と 伊豆のしら波」昭和7年(1932年)正月、与謝野鉄幹・晶子は初めて真鶴駅に下車され、水彩画家の三宅克己の案内により真鶴半島を訪れたのだと。「与謝野晶子の歌碑歌人の与謝野晶子が、当地を訪れた際に、ここから岬を見下ろしたときに詠んだ歌。三ツ石が、相模湾をニつに分けるような海の情景を詠みこんだ。」「幕末の台場の遺蹟」碑。「江戸時代の末期、外国船が日本の近海にも現れるようになると、幕府は「外国船打ち払い令」を出して海防を厳重にした。小田原藩でも、小田原海岸に3ヶ所の外、大磯の照ヶ崎海岸と真鶴岬のこの場所の計5ヶ所に台場(砲台)を築きました。この台場は、たて約36メートル、よこ約30メートルの規模をもっていましたが、その台座の石材が、わずかに当時のおもかげをつたえています。」そして相模湾をニつに分ける「真鶴半島」の「三ツ石」の姿を。15万年ほど前の箱根外輪山爆発の溶岩流でできた、長さ3kmほどの真鶴半島。十国峠などから俯瞰すると鶴が羽を広げたように見えることから、この名「真鶴」がある と。岬の突端、海面に巨石が3つ突き出したように見える場所が、「三ツ石」と呼ばれる景勝地。海岸から200mにわたって続く岩礁の先にあり、干潮時なら三ツ石まで歩いて渡ることができるが、潮の干満、高波などには十分な注意が必要なのであったが・・・・。中学生の頃、無謀にも学友4人で自宅からここまでママチャリで海釣りに来て、潮の干満の意識もなく、最先端の「三ツ石」まで歩いて行き、ひたすら外海に向かって釣りをしていたのだ。そして振り返って見ると、歩いて来た岩場は潮が満ちて全く姿がなくなっていたのであった。慌てて、腰以上まで海水に浸かりながら、必死に泣きべそをかきながら、陸地まで戻ったのであった。我々の横で同様に釣っていたオジサン2名は、我々には一言もなくいなくなっていたのであったが・・・。子供の頃の無知による苦い想い出なのである。天童よしみの「珍島物語」👈リンク を聴くたびに♫海が割れるのよ道ができるのよ 島と島とがつながるの♫ を♬海が満ちるのよ道が消えるのよ 島と陸とが別れるの♬ と。二つの岩の間には「しめ縄」が。昨年末に44年ぶりに劣化した「しめ縄」👈リンク の掛け替えが行われたのだと。左側の岩をズームで。朱の鳥居の姿も確認できた。右側の岩二つをズームで。人工的な石垣?の姿も確認できた。そして熱海沖に浮かぶ「初島」の姿。遠く「伊豆大島」の姿も確認できた。そして車に向かって引き返す。風雨に晒されながらも頑張る松の巨木。伊豆半島と初島の姿。この老松は命尽きて?。その前には、「二人乗りブランコ「Find happiness」」が。「県西地域の観光振興の一つに」と会社経営・古川氏より寄贈を受け、令和2年3月14日ホワイトデーに設置されました。真鶴町の観光グランドコンセプト「幸せをつくる真鶴時間」を海からの潮風や小鳥のさえずり、森からの柔らかな光を感じながら、恋人やご夫婦、たくさんの方の笑顔や思い出をこのブランコに乗せて、大切なひとときをお過ごしください とネットから。「Love Stone(ラヴストーン)」1963年、前回東京オリンピックに合わせ、真鶴町で開催した日本初の野外彫刻祭「世界近代彫刻シンポジウム」。その文化遺産の記憶を現代に蘇らせようと「真鶴町・石の彫刻祭」を2020年東京オリンピックに合わせ、2019年真鶴町で開催しました。「Love Stone(ラヴストーン)」は、この彫刻祭の作品の一つで、彫刻家・冨永敦也氏の作品です。絹谷幸太氏の小松石による作品。「創知彫刻 2020(石の遊具)」2020年度に設置。「石は生きています。石にふれて、耳をあてて、においをかいで、石に話しかけてみませんか?石はみなさんとあそびたがっています。石は生きています。石は地球のできごとを記憶しています。 あなたは石のメッセージがわかりますか? 石に触れて、耳を当てて、においをかいで、石に話しかけてみませんか?石はみなさんと話をしたがっています。」 と。三沢厚彦氏の作品・「マツル」。2021年設置。「この状況の中、真鶴のための作品と制作動機がシンクロし、当初のプランから変化し、それぞれを取り込んでいく感覚があった。モチーフは梟、荒波、豊穣、人魚、岩屋、真鶴。全くもってハイブリッドだ。」石の先端が光っているが・・・???。「ようこそ箱根ジオパークへ」。「ジオパーク って?「ジオ(地球)」を体感し、学び、楽しむ自然公園がジオバークです。箱根ジオバークでは、この地に生息する動植物や私たち人間の歴史・文化と、箱根火山がつくる地形・地質のつながりを見つけることができます。」「真鶴半島」をズームで。「名勝 三ツ石 Scenic spot Mitsuishi三ツ石は初日の出のスポットとしても有名で、元旦の朝は多くの人でにきわいます。日の出の美しさは遠方の風景と共に、お正月でなくとも楽しむことができます。」そして車に戻り来た道を引き返し、「岩海水浴場」手前に到着。植栽の中に目的の「源頼朝開帆處」があった。「誓復父讎擧義兵石橋山 上決輸贏佐公雖昔開帆 處謡曲長傳七騎名 文學博士 鹽谷 温 題」 と刻まれていた。読み下しは、「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ 石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す 佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」意味は、「(頼朝が)父(義朝)の名誉を回復しよう(汚名を晴らそう)と兵を挙げて、石橋山にて(平家に)勝負を挑んだ。この場所は(敗れた)佐公(頼朝)が再起を図り船出した昔を結びつける場所である。そのことは謡曲の中で、長い間、(頼朝の船出の際に助け従った)七騎の名を伝えていることからも分かる。」以下ネットから「ここで『源平盛衰記』から頼朝船出の様子をご紹介します。土肥実平は海人から小船を借りて、真鶴岩ケ崎から漕げや、急げ、とて4、5町ばかり漕ぎ出して浦の方をふりかえると、伊東入道50余騎が馳せ来たり「あれ、あれ」と叫び騒いでいる。背後には大庭三郎景親千余騎が続き、間一髪のところであった。一行が安房の国洲崎(すのさき)を目指して舟を漕ぐうち、突然の強風にあおられ、いずことも知れぬ渚に漂着しました。「ここはいずくやらん」と頼朝。土肥実平が舷(ふなばた)に立ち見廻すと早川の河口。(小田原と石橋の間)しかも、大庭勢3千余騎が土肥椙山で頼朝捜索の帰途、汀に幕を引き七か所に篝火をたき、酒盛りをしている敵陣に吹きつけられたのでした。幸い平家方は頼朝に気づいていません。土肥椙山で滅ぶはずの身が大菩薩の御加護でここまで生き延びたのに、終に八幡様にも見捨てられたのかと思いながらも頼朝は懸命に祈られた。実平は「この辺には自分の家人でない者はいない」酒肴を探してこようと船から飛び降り、片手に弓矢をもって走り廻り、「我が君がこの浦にお着きになった。実平に志あらんものは酒肴参らすべし」と大声で言うと、或る者は徳利に、或る者は桶にと、我も我もと船に酒肴、食糧を運んで来ました。敵の篝火の灯りを頼りに酒を呑むと全員飢えも休まった。実に八幡大菩薩のお陰です。やがて風もおさまり波も静かになったので、舟を出し安房の国洲崎にと向かいます。巻第二十二(佐殿三浦に漕ぎ会ふ事)『吾妻鏡』治承4年(1180)8月28日条によると「頼朝は実平が土肥の住人である貞恒に命じて準備させた船に乗り、土肥の真鶴崎から安房国に赴かれた。頼朝は乗船の前に土肥弥太郎遠平を御使者として政子のもとに遣わされ、離れ離れになってからの消息を伝えられた。」と記されています。」と。そして反対側にあったのが「源頼朝船出の浜」碑。石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、山中に逃れ、一時箱根権現に潜んでいたが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、この浜から安房へと向かった。湯河原町の城願寺に残されている頼朝主従七騎の伝説によれば、従っていたのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。頼朝の脱出に協力した漁船は、その後長く税が免除されたと伝えられている。岩海岸の前には真鶴道路の「岩大橋」が。真鶴道路は、神奈川県南部の湯河原町から真鶴町を結ぶ有料道路。全線が国道135号に指定されており、真鶴ブルーラインという愛称が付けられている。そして「岩海水浴場」の海岸の陸地側奥にあったのが「如来寺跡」。「帰命山如来寺」は1620年に建てられ、本尊は石仏の阿弥陀如来であったと言われています。古い境内には石窟があり、中には石造りの十王像や菩薩坐像(聖観音像)、地蔵菩薩立像などが安置されており。地獄から天国を表しているのであった。石窟入口がこの場所。「如来寺あと新編相模風土記稿によると、帰命山如来寺は、元和6年(1620年)に建てられ、本尊は石仏の阿弥陀如来であったといわれます。のちに瀧門寺の末寺となり、明治年間に廃寺となりました。古い境内には石窟があり、中に石造の十王像や聖観音像、地蔵菩薩像などが安置されています。これらの造られた時期は明確ではありませんが、享保10年(1725年)の如来寺の財産目録に記されていますから、寺が建てられて間もないころと思われます。」。「閻魔様」が手前に。別の場所から。「大日如来像」(左)と右の像は「聖観音菩薩」。「閻魔大王」、「大日如来像」と「聖観音菩薩」を上部から。「地蔵菩薩」。入口正面から再び。外にも多くの石仏が。江戸後期のものと。中央上部には「萬霊供養塔」があった。そして近くにあったのが「稲荷大明神」。「正一位 稲荷大明神」と書かれた幟。内陣。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.26
コメント(0)

「禊(みそぎ)の石段」を一段一段、懺悔しながら更に上って行った。鳥居を潜り初の石段から本殿までは、仏教でいう人間の数多い煩悩の数とちょうど同じ数、108段の石段があり、一段一段踏み祓う「禊(みそぎ)の石段」と呼ばれているのであった。108段の「禊(みそぎ)の石段」の両脇には石灯籠が並ぶ。石段と石灯篭は真鶴で採掘された「小松石」で作られているのだと。108段の「禊(みそぎ)の石段」を上り終わり、「拝殿」に到着。この「拝殿」は関東大震災の後に石段の上の場所に遷座され、当時としては珍しい鉄筋で建立されたものと。「拝殿」に近づいて。扁額「貴船神社」。脇から「本殿」を。左手にあったのが「祖霊舎」。「祖霊舎修復記念碑私どもの死後、霊魂は結局生前お守りいただいた氏神様のもとに帰り、安らかに鎮まって、子孫や後継者の活動を見守るものであるというのが、日本人古来の信仰であります。この祖霊舎は昭和三十九年、貴船神社の御造営が竣功した時、私どもの祖先のみたまを祀るため、嘉永元年以来使用されていた旧本殿を活用し創建されました。その社殿は、神社本建築としては郡内最古の文化財的建造物でありますが、百四十年の風雪により近年ようやく破損が目立ちはじめました。このたび貴船神社御鎮座壱千壱百年祭に当たり、記念事業の一つとして祖霊舎の修復を企画したところ、氏子、崇敬者五百余名の方々からの多額の浄財が寄せられ、大修理が見事完成に至ったので、ここにその旨を記録し永く後世に伝えます。」その左隣にあったのが「山神社」。もともと真鶴半島内に奉斎されていたそうですが、遠隔で参拝に不便なため、明治初年に同社の里宮として現在の地に移動したとのこと。鳥居の扁額「貴船 山神社」。社殿の扁額「山神社」。このコロナ禍で「鈴緒(すずお)」は触れない場所に、そして頭上に吊るされている大きな鈴「御鈴(みすず)」の姿もなかったのであった。それとも最初から鈴は・・・?。「山神社改築記念碑当社は大山祇神(おおやまつみのかみ)を奉斎する。 由緒は不詳であるが、当地方は奈良時代より石材の産出がなされるにより、古来より石材関係者の信仰篤く、真鶴半島に奉祀されていたが、数次の移転改築を行ない、明治の初期社殿腐朽 のため、当地石工組合により通称愛宕山に移転改築されたところ、大正七年三月二十八日、本村の大火により類焼し、同年十月組合によって復旧したが、土地遠隔にて参拝に不便のため屡々移転の問題が起り、翌八年四月二十八日貴船神社境内に奉遷した。今回関係有志の発企によりて、茲にまた社地の移転、社殿の改築を行うこととなったのであるが、採石に携われし人達の当時の苦労を偲びて、その冥福を祈るとともに、今回これに奉賛 した人々の家業の安全隆昌を偏えに祈念するも のである。」「神輿舎」。貴船まつり(きぶねまつり)は、貴船神社(神奈川県足柄下郡真鶴町)の例大祭で、華やかな花飾りや吹き流しで飾られた小早船と神輿船などが櫂伝馬に曳かれて海上渡御する船祭り。昭和33年に神奈川県指定無形文化財に、昭和51年に神奈川県指定無形民俗文化財に、平成8年に重要無形民俗文化財に指定(指定名称:貴船神社の船祭り)され、広島県廿日市市宮島町の厳島神社で実施される管絃祭、宮城県塩竈市の鹽竈神社・志波彦神社で実施される塩竈みなと祭とあわせ、日本三大船祭りとされている。令和2&3年度の「貴船まつり」👈リンク は新型コロナウイルスの感染拡大により残念ながら開催を中止した と。「神輿」は祭り2日間にわたり町内を巡幸する。貴船神社の神輿は、7月27日の発輿式の後、神社境内の急な階段を降りることから巡幸がはじまる。神社周辺を練り歩くと、宮ノ前岸壁から神輿船に乗せられ、東西櫂伝馬、東西小早船、東西囃子船と共に華麗な海上渡御の神事を行なう。お仮殿前岸壁に着くと、すぐに西の浜、次いで東の浜に於いて、神輿を屋根まで海に入れるみそぎと呼ばれる神事が行なわれる。町内を巡幸する際は、町の人々から水をかけられずぶ濡れになるなど、その勇壮な姿が印象的である。水を含んだ神輿は重さ1トンになるともいわれ、担ぎ手の力の見せどころとなる。2日間にわたり町内を巡幸してきた神輿は28日夜に、27日と逆コースの海上渡御を経て、神社へ還御する と。「神輿舎建設記念日本三大祭りのひとつである当社舟祭り(神輿海上渡御)は昭和三十三年十一月二十八日神奈川県無形文化財として指定され、例大祭ごとにその華麗なることで知られておるが、神輿を保管せし木造庫も三十余年の風雨のため腐朽したので、今回役員諸氏の計らいのもと、壱千壱百余の氏子崇敬者の浄財をあおぎ鉄筋コンクリート造に改造することとなった。これ偏に当計画に御賛同たまわりし諸氏の協力によるものであるので、芳名を永く書きとどめ神輿舎内部に奉安するものである。」「本堂」前の右手にあったのが「御船社」。和船模型「貴船丸」(町指定重要文化財)本船は明治12年(1879)、相州真鶴村船頭組合が豊漁と渡海安全を祈願して郷社賢船神社に奉納したものて、当村の船匠、田倉幸蔵の手になる。江戸時代から明治にかけ、近郷と小田原・江戸との間の主に米穀・雑貨類の運送にあたった帆走廻船(弁才船)の模型で、大きさは400石積船級の5分の1縮尺のものと推定される。明沿20年(1887)、500石積以上の和船建造が禁止され、以降洋式帆船化しているので、伝統的な和船(廻船)の形状・構造を知る上での貴重な資料てある。真鶴村船頭組合「大山講諸掛帳」に「貴船丸」奉納に関する詳細な記録があり、甲板艤装・帆装等、今日実見できない資材名を、この模型と対照しながら窺い知ることができる。なお昭和初期まては、「貴船丸」も例祭において、神興の海上渡御に随行して帆走することがあった。「神輿社」の壁に描かれた「小早船」。「貴船祭り海上渡御(背景画)貴船神社の起源は古く、今を去る1,000余年の寛平元年、平井翁が大国主、事代主、少彦名の三神を祭神として、勧請以来、明治元年に社号が改まるまて貴宮大明神として近郷漁民の崇敬をあつめてきた。祭りの形は、縁起によれば、中世の頃男女の一日社参祝いに始まり、江戸初期まては神座船をつくり、港内の漁船や運送船の祈疇をして回ったものが、その後は村内を巡行し、村祭りとして定着したといわれ、現在「貴船祭り」(毎年7月27・28日)は日本三大船祭りの一つにかぞえられている。(神奈川県指定無形民俗文化財)背景画は船祭りの主体てある擢伝馬船(曳き船)・小早船・神興船・囃子船各ニ艘が、昭和初期の港で、祭り初日に岬の神社から神霊を移乗させ、港内岸辺の「御旅所」へ向かう伝統的祭り形式(海上渡御) を春陽会々員大石洋ニ郎氏に依頼して描いたものである。」「御船舎」。そして大きな「貴船神社の船祭り」碑。(平成11年(1999年)銘)。これも小松石製。「厄除厄祓門」を私も潜る。「厄除厄祓門(やくよけやくはらいもん)穢れ(けがれ)を除き、厄祓をして心身を清め、明るく健やかに人間生活を続けることが、日本古来の伝統的信仰です。この門の形は、神道の浄めの神事である「大祓(おおはらえ)」に用いられる、人形が模(かたど)られたものです。お潜りになられます皆様の限りない発展を願うべく、篤志家より奉納されました。」こちらは「心願成就石」。丸い石には「心」と。丸い石にふれながら強く願うと、願いが叶えられるとのこと。台座には「求願」と。「心願成就石手を添えて心静かにお祈り下さい。自らの心の奥底にある強き願いについて考え、見つめなおすことは、平素、日常においてなし難いものです。神様に祈りを捧げる時間は、また自らの願いや苦しみを、自らに対し問いなおす機会でもあります。心の揺れ動き、さざ波を抑え、「心の願い」を祈念下さい。「石庭奉納碑」。近づいて。「本殿」とその奥に「社務所」が見えた。108段の「禊(みそぎ)の石段」を見下ろす。「つもりちがい 十ヶ条一、高いつもりで低いのが (教養)ニ、低いつもりで高いのが (気位)三、深いつもりで浅いのが (知恵)四、浅いつもりで深いのが (欲望)五、厚いつもりで薄いのが (人情)六、薄いつもりで厚いのが (面の皮)七、強いつもりで弱いのが (根性)八、弱いつもりで強いのが (自我)九、多いつもりで少ないのが (分別)十、少ないつもりで多いのが (無駄)」「今月のまことの道目に見えぬ神に向かいて恥じざるは人の心の誠なりけれ 明治天皇」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.25
コメント(1)

次に訪ねたのが、県道739号線・真鶴半島公園線沿いにあった「貴船神社(きぶねじんじゃ)」。神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1117。「貴船神社」碑。古くは 貴宮(きのみや)大明神ととなえていましたが、明治維新の際 貴船神社と改めました。寛平元年(889年)の創建といわれ 大国主神 事代主神 少彦名神がまつられております。毎年7月の27・28の両日におこなわれる貴船祭は、日本三大船祭の一つとして有名で、同時に奉納される鹿島踊りとともに、神奈川県の無形文化財(昭和33年)無形民俗文化財(昭和51年)に指定されております。」「貴船神社」案内板。「貴船神社はもと、貴宮大明神とよばれていましたが明治初年から現在の名称になりました。当社の歴史は古く寛平元年(平安前期の889年)の創建といわれ、平成元年に御鎮座1100年祭を行いました。毎年7月27日、28日の祭礼『貴船まつり』は当地の神話をもとに江戸時代前期から行われ、日本三船祭りの一つとして有名です。なお、社殿の石段の数は、鳥居をくぐり上境内まで108段で、仏教では煩悩の数とされます。これを踏み越えるので、当社ではこの石段を「清めの石段」などと申します。足に自信のおありの方は、是非参道の石段をお登り下さい。御祭神 主祭神 大国主神(大黒さん) 事代主神(恵比寿さん) 少彦名神当神社の例祭は、左記の指定を受けています。 県指定無形文化財(昭和三十三年) 県指定無形民俗文化財(昭和五十一年) 国指定重要無形民俗文化財(平成八年)「境内案内図」。石鳥居。「大正十五年五月再建」と刻まれていた。関東大震災(大正12年(1923年))の3年後の大正15年(1926年)に石鳥居が建立されていることが解ったのであった。社号標石「貴船神社」。「烈霊碑」。近づいて。「忠魂碑」。石段を上って行った。右手に「震災復舊記念」碑。「小早船彫刻修復 櫂伝馬船新造記念碑」。「日本三大船祭りにも数えられる「貴船祭り」に使用してきた、小早船、櫂伝馬船は昭和二十八年に建造され、以来四十余年の風雪に耐えた小早船の彫刻等も(江戸天期作)永い歳月のあいだ彩色、修理もせぬまま打過ぎ損傷も激しく、平成五年日光市小西美術工芸社に依頼し、県、町の補助金と奉賛会基金により無事完了し、六年七月華麗なる状に復元した。一方、櫂伝馬船は当時船材を町より払下げられ、建造費は西櫂伝馬船を船主組合・海運関係者等で賄われたが、東櫂伝馬船は昔よりの「しきたり」により棟梁故平井幸作氏の寄付により建造された。また、櫂伝馬船も毎年修理を重ねつつ使用してきたが、最早や限界に達したので、平成七年徳島市(株)浜本造船所に建造を委託した。今回の新造に際し町(株)鈴木組、奉賛会及び花漕花山車関係者の御協力により無事完成され、九年度例大祭に勇姿を真鶴港に浮かべることができた。なお、この貴船祭りは平成八年十二月二十日、国指定無形民族文化財に指定されたので、茲に過ぎ来し事跡を録して記念とする。」「小早船」。海上渡御の際、舳には、陣笠、袴姿に脇差をさし、監視の役割をする「舳乗り」が乗船し、艫には船頭と櫂使い、水夫を乗せ、運行に万全を期します。東西2隻の櫂伝馬に曳航され、神輿船、東西囃子船を従える勇壮華麗な「小早船」の姿は、時代絵巻を思わせるもので、多くの観客が魅了される と。 【https://kibunematsuri.jp/kobayabune.html】より「櫂伝馬船」。 【https://4travel.jp/travelogue/11168127】より「手水舎」。御神紋の「三つ巴」紋が手水鉢に。「源頼朝の腰掛石源頼朝一行が休息された岩石を「鵐窟」付近より移設したものと伝えられており、現場では水平だったものを垂直に立て、「腰掛石」として設置してある と。「貴船神社」案内板。「貴船神社御祭神 大国主神 事代主神 少彦名神創建は平安時代、宇多天皇の寛平元年(八八九)六月十五日と伝える。古来真鶴の鎮守で、漁業や海上安全の守り神ともされ、人々の篤い信仰を受けて貴宮大明神と呼ばれた。明治初年貴船神社と改称し、同六年郷社に列せられた。大正十二年の関東大震災から復興するに当り、境内を拡張して昭和十年現在地に社殿を移転、同三十八年本格的な造営が完成した。拝殿内部の彫刻一切は、幕末の巨匠江奈の半兵衛の名作である。大正三年二月、華頂宮博忠王殿下、久邇宮邦久王殿下の御参拝があった。例祭は毎年七月二十七・二十八日・神輿の海上渡御は日本三船祭りの一つとして名高くこれを含む「貴船神社の船祭り」は昭和三十三年に神奈川県無形文化財、同五十一年に同県無形民俗文化財、平成八年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。」狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。更に石段を上って行った。左手にあったのが「龍神社」。海神をお祀りする社。漁民の多い真鶴町においては、航海の安全と大漁を祈念する参拝者によって篤く信仰されていると。正面から。見事な彫刻。反対側には、「貴船稲荷社(きぶねいなりしゃ)」があった。朱の鳥居の扁額は「正一位稲荷大神」と。朱の鳥居を潜って。「貴船稲荷社御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたま) 例祭日 二月初午御神徳 五穀豊穣 商売繁盛 福徳円満 家運隆昌当社に古く祀られていた稲荷社に、真鶴町の各家庭で祀られていた稲荷を合祀した社。近年、京都伏見稲荷大社より御分霊を勧請した。稲荷は食物・稲作・農耕の神として広く信仰され、狐の姿をした神、あるいは狐が大神の使者とみなされることも多い。」「恵比寿大黒社」(右)と「淡島明神社」(左)。「恵比寿大黒社」恵比寿様と大黒様のお姿が。恵比寿が大漁追福の漁業の神、大黒様は五穀豊穣の農業の神である。「淡島明神社」。「恵比寿大黒社御祭神 事代主神(恵比寿さん) 大国主神(大黒さん)御神徳 海上安全 大漁祈願 開運招福 商売繁盛貴船神社の御祭神で、恵比寿・大黒は古来、福の神とされる。七福神は様々な神仏が宝船に乗り、合祀されるものであるが、地域や時代により交代がなされたのに対し、恵比寿と大黒は移るこなく、七福神の中心として崇敬された。当社は商売、業にわる人達の信仰が篤い。淡島(あわじま)明神社御祭神 淡島明神御神徳 安産 子授け ご婦人の病気の守護和歌山県に鎮座する加太(かだ)神社は、淡島神社と呼ばれ、各地の淡島社はこの神社より御分霊を勧請したものと伝えられる。櫛や簪の奉納、またニ月八日の折針を供えた針供養、三月三日の娘雛などの人形供養をすることも、この信仰の特色である。」「猿田彦神」碑。出雲大社守、天鈿女命(あまのうずめのみこと)等の文字が刻まれていた。2基の寄進碑。「貴船神社御道営寄附芳名」碑。こちらにも多くの寄進碑が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.24
コメント(2)

この日は2月3日(木)、保養所の7:30からの朝食。そしてこの日は、富士山の山頂が保養所から美しく見えたので「大観山(たいかんぜん)展望所」に立ち寄ることにする。「だいかんざん」と思っていたが。途中、「仙石原すすき草原」で車を止める。台ヶ岳の斜面を覆い尽くす様に、数えきれないほどのススキが一面に広がっていた。「かながわの景勝50選」「かながわの花の名所100選」にも選ばれている名所。そして「芦ノ湖」湖畔まで下り「東京箱根間往復大学駅伝競走往路ゴール」地点に立ち寄る。反対側に「東京箱根間往復大学駅伝競走復路スタート」地点。「箱根駅伝栄光の碑 若き力を讃えて」碑。そして県道75号線・椿ラインを上って行き「大観山展望台」に到着。芦ノ湖と富士山、駒ヶ岳などの中央火口丘、金時山などの外輪山、そして遠くには南アルプス、三浦半島、房総半島、大島までも眺望でき、まさに360度の絶景を楽しむことが出来るのであった。ほぼ左右対称の富士山の勇姿に感動したのであった。「箱根の地形が一望できる絶景ポイント 大観山箱根火山の成り立ちを風景から読み取ろう!大観山のダイナミックな風景からは、箱根火山の成り立ちを学ぶことができます。芦ノ湖の背後に連なる三国山などの山々は、箱根火山の活動のはじめの頃に活動した火山です。①・・・約40 ~ 23万年前の間に、金時山や明神ヶ岳など外輪山と呼ばれる成層火山群が 形成されました。②・・・約23 ~ 13万年前には、火山の噴出物が地面を這うように流れる火砕流を伴う大きな 噴火が起こり、箱根の山の中央部が陥没してカルデラがつくられました。目の前に広がる 風景で外輪山に囲まれた場所が、カルデラの内側です。③・・・約13 ~ 8万年前にかけてカルデラの中に大量の溶岩が噴出し、形成されたのが屏風山や 浅間山などの中央火口丘のはじめの活動でできた火山(前期中央火口丘)です。④・・・約8 ~ 4万年前には、再び火砕流を噴出する激しい噴火が起こりました。⑤・・・約4万年前以降から現在にかけて、カルデラの中での溶岩の噴出で形成されたのが 駒ヶ岳やニ子山などの中央火口丘のうち後の活動でできた火山(後期中央火口丘)です。大観山では、この箱根火山の形成モデルに出てくる外輪山と中央火口丘の全ての山々を観察することができ、箱根火山がどのようにできたのか観察することができます。」「箱根火山の形成モデル」案内板。「芦ノ湖」湖面には遊覧船の姿が。乗客も極めて少ないのであろうが。「駒ケ岳」山頂・標高1,356mの「駒ヶ岳ロープウェイ山頂駅」の姿が確認できた。そして「大観山展望台」を後にして「椿ライン」を戻る。途中、ビュースポットで車を止めカメラに。この朝は、富士山周辺には雲ひとつなく絶景!!「椿ライン」から県道20号線熱海箱根峠線を進み「十国峠」を通過。その昔、十の国(伊豆、相模、駿河、遠江、甲斐、安房、上総、下総、武蔵、信濃と五島<大島・新島・神津島・三宅島・利島>)が見えたことからその名がついたといわれる十国峠。日金山の頂上からは、北に富士山、西に駿河湾、東に相模湾の景色が広がっているのだ。そして往路と同じ県道11号線・あたみ梅ラインにて「熱海梅園」の横を通過し国道135号に出て真鶴方面に向かう。左手にあったのが「熱海陸軍病院裏門跡 二・二六事件 河野寿大尉自決の地」👈リンク案内柱。静岡県熱海市春日町14付近。更に進むと左手にあったのが「馬頭観世音」碑。その先直ぐ右手にあったのが「秋戸郷跡」碑。 静岡県熱海市伊豆山189。「北条政子・源頼朝ゆかりの地」碑。源氏再興を目指して挙兵した源頼朝、石橋山の戦いで敗れ、海を渡って今の千葉県に逃亡した。その時北条政子は伊豆山神社に逃げていたが、平家方の追っ手を避けて逃げ込んだのがここ「秋戸郷」。「この地は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所で、秋戸郷と言われています。治承4年(1180)8月23日、源頼朝は石橋山合戦に挙兵しましたが、戦に敗れて安房に逃れました。この間政子は、走湯山に身をひそめて頼朝の安否を気づかっていました。9月2日、政子は、伊豆山権現の別当文陽房覚淵:かくえん:の計らいで密かに熱海の秋戸郷(阿伎戸郷とも書く)に移されました。秋戸郷は足川を南の境とする走湯山(そうとうさん)の神域東南隅にあり、浜の方からしか入れないうえ、船着場も近く、神威を後ろ楯に覚淵の保護も行き届き、平氏方の捜査をくらませることが出来ました。その日のうちに土肥実平の子・遠平が、頼朝が安房に逃れるまでの経過を知らされたが、頼朝が船に乗ってからの事は分からないので、その夜の秋戸郷には喜びも悲しみも出る道がなかったのでしょう。この年の10月7日頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷をたった政子は、12日、頼朝との再会を喜びあったと思われます。」伊豆山権現の別当文陽房覚淵(かくえん)の計らいで密かに熱海の秋戸郷に移された北条政子姉妹の姿。真鶴駅前を通過。そして信号を右折して「真鶴半島」に入り、海に向かって進み「しとどの窟(いわや)」に到着。「しとどの窟」案内板。「しとどの窟波の浸食によってできたこの海食洞はしとどの窟と呼ばれています。1180年(治承4年)、石橋山の合戦で平家に敗れた源頼朝は箱根山中や湯河原のしとどの窟などを経て、最後はここ真鶴のしとどの窟に身を隠しました。追っ手をやり過ごした頼朝は、7人の家臣と共に真鶴の海岸から安房の国へ脱出したと伝えられています。また、頼朝が窟に逃げ込んだ際に、追っ手が窟を覗くと「シトト」と言われる鳥(ホオジロの一種)が急に飛び出してきたので、人影がないものとして追っ手が立ち去ったことからこの名前が付いたと言われています。■しとどの窟の変化頼朝の時代には130mの奥行きがあったと言われる窟も徐々に波に削られ、幕末には幅3m、奥行き11 mほどの大きさとなっていました。当時の窟は海に面していましたが、大正関東地震による土地の隆起で現在の高さとなります。さらに第ニ次世界大戦時、真鶴岬溶岩(安山岩質)から成るこの場所は、三浦半島に海軍飛行場を作るため、資材として多くの石が切り出され、今の規模となりました。■真鶴の三名字の由来真鶴に古くからある名字として「青木」「五味(ごみ)」「御守(おんもり)」の3つがあります。頼朝がしとどの窟に身を隠した際に手助けをした功として、手助けの内容にちなんだ姓を与えたという言い伝えがあります。木の枝で入り口を隠した者には「青木」、食料の手配をした者には五つの味わいを意味する「五味」、追っ手から頼朝を守るための見張り役をした者に「御守」の三名字です。」「鵐窟(しとどのいわや)源頼朝が、治承4年8月(1180年)石橋山の戦いに敗れたとき、この地にあった岩屋に一時かくれて難をのがれました。その時、大庭景親の追手があやしんで中をのぞくと「シトド(ほおじろ)」といわれる鳥が急にが飛び出たので人影はないものと立ち去った。ということから鵐窟といわれ、かつては高さ2メートル深さ10メートル以上の大きさがありました。江戸時代に陰山道人による頼朝画像と銘文のある石碑が残っています。」右手の格子扉のある場所が「鵐窟(しとどのいわや)」。近づいて。「鵐」とはホオジロの仲間をひっくるめた総称の古語らしい。頼朝を探していた追手がこの窟に近づいたとき「しとど」が飛び立ったたために、人が隠れていないと判断して去ったことに因んでいる。この「しとどの窟」、石橋山合戦で敗れた源頼朝が隠れていたところなのだが、実は湯河原町とここ真鶴町に2つあり、どちらが本当に頼朝が隠れていたところかははっきりしない。現在では、途中から移ったのではないかとされているようだ。源頼朝の線刻画と業績を刻んだ石碑。「鵐窟(しとどの窟)」の内部を格子の隙間から。内部には石仏の姿も。かつては約130mほど、長い洞穴だったそうだが、落盤などもあり、今では数mほどしかないと。昔の鵐窟(しとどの窟)。こちらは「品川 台場礎石之碑」。1853年(嘉永6年)、江戸の海防のために築かれた品川砲台がその役目を終えたときに、砲台の礎石の一部が払い下げられ、この地に移された。幅3mほどの大きな石。 江戸時代末期に築かれた品川台場(砲台)にも真鶴産の石が使われた。「品川台場礎石之碑の記」。「品川台場礎石之碑の記江戸末期の嘉永六年、海防のため砲台を築造せし品川台場の遺蹟が、埋立工事により空しく失われることを思い、真鶴町株式会社鈴木組社長鈴木亀蔵及び横浜市松浦企業株式会社会長松浦信太郎の両氏が、浄財を投じてその礎石の一部をここに移し碑を建つ。創立者がこの地を以てしたるは、礎石の大石が当地算出の名石であることを世に残さんとし、且つ採石に當りし当時の労苦を偲びてその冥福と当地の石材関係者の発展を祈願するにありと云う。これにより品川台場の遺蹟が、この地に於て保存せられるのもならず、當時に於ける郷土の石材開発の状況の一端をも知ることを得、将来貴重なる文化財となり名所地とならん。茲に建立の由来を記し、両氏の功績と愛郷心に敬意を表す。」「海防のため砲台築造の台場」。その先には朱の太鼓橋と祠があった。「志とゝはし」と書かれた銘板が。「観音堂」であろうか。内陣の仏像。ズームして。前立観音とその背後にはご本尊の聖観世音。そして目の前にあったのが「真鶴漁港」。波静かな「真鶴港」。対岸の、海に面した真鶴町の街並。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.23
コメント(3)

次に訪ねたのが「香山寺」。「香山寺」の駐車場横にあった案内板。「山木判官兼隆館跡と菩提寺香山寺平安時代末期に伊豆国は平家の直轄地でした。その目代であった山木判官兼隆は、この山木地区に館を構えていたと伝わっています。治承4年( 1180 )に源頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵、最初に攻撃したのが山木館で、兼隆は牧之郷の加藤景廉に討たれたとされています。この時の軍勢には、北条時政・義時父子も加わっています。高台にある香山寺は兼隆によって創建されたと伝わり、境内からは山木地区を一望することができ、兼隆の供養塔があります。」。ユニークな形の「香山寺」の山門。臨済宗の寺らしくないアーチ型の石造り山門は明治初期の韮山県庁に使われていたもの。変遷の末に香山寺に移設再建されたという。韮山県庁は江川家のある韮山代官所に置かれ、早い時期に新政府に恭順した代官の江川英武が県知事を務めたが、数年で足柄県に統合され廃止となった。この門はその時期(慶応四年・1868年 )に移設したと推定されるから、既に154年近くが経過しているとのこと。「兼隆菩提所」碑。「香山寺」。スロープを上って行った。梅も僅かに咲き出し始めていた。こちらが昔からの「山門」であろう。無縁仏塚。山号は「景雲山」。「香山寺」。「景雲山 香山寺(こうざんじ)臨済宗建長寺派(諸山)開山密宗 不明 臨済宗 直諡佛乗禅師天岸慧廣大和尚開基密宗 伝・八牧判官平兼隆公臨済尺利家時公(氏公太父) 臨済宗 足利家時公(尊氏公太父) 中興間基・北条早雲公 再中興開基内藤信成公 千手観世音菩薩伊豆中道十ニ番札所由緒・略歴草創久寿元年(一一五四)開基八牧判官平兼隆公、治承四年(一一八〇)八月十七日逝去す。法名は香山寺殿興峰兼隆大禪定門。この当時は禅宗にあらず密宗なりしという。それ故当時の開山和尚は不明なり。その後百七十余年を経て寺門頽廃するに至る。この時足利尊氏公の太父家時公、元徳二年(一三三〇)四月開榛して野州雲岩寺開山勅諡佛国禅師応供広済国師の法嗣佛乗禅師を請じて開祖とす。その頃独立本山にして塔頭五院ありて輪番地なり。七堂伽藍整備して百器具足豆南の巨刹、東海の厳林と称せらる其後足利氏の末世に及び天下争乱の世となり寺門頽廃、塔頭両院を残す有様となった。然る時小田原北条氏長氏公(北条早雲)、諸堂伽藍を中興し、境内地ニ万五千ニ百六十一坪門外の寺領永ニ十三貫文を寄付せらる。然れども世は更に再転して秀吉の小田原征伐となり、本堂もその災を受けて宝物器具を焼失するに至る。慶長ニ年(一五九七)韮山城主内藤三左衛門尉藤原信成公又費を投じて再興せらる。元禄五年(一六九ニ)建長寺の指名を受けてその末寺となる。江戸幕府の本末制度の励行受けざるを得ざる法令に従いしなり。幕末に及んで嘉永六年(一八五三)十月二十五日町家の延焼により類焼を免れず、遂に堂宇宝物古記録残らず灰燼に帰せりと云う。宝物・古記 薬師如来座像(伝・兼隆公室念持仏) 開山直諡佛乗禅師像。 小田原北条氏・虎之御朱印等 三通他石造遺物 六地蔵石憧(室町前期) 笑華・川派和尚塔 山門(元・韮山県庁の門)他「薬師堂」であっただろうか?扁額は「瑠璃光」。内陣。中央に「南無薬師如来」像。「鎌倉殿の13人」のポスター。左側には庫裏(旧本堂)があった。そして右に進み左折するとすぐ先の一角にあったのが「八木兼隆の供養塔」。800回忌を記念して建てられたものだそうで、それからまた月日が流れ今年で842回忌ということに。「香山寺(山木兼隆供養塔)山木兼隆は平氏の一族で、伊豆に流人として暮らしていましたが、京都の政変により伊豆国の目代(国を治める長官の代官)として取り立てられました。そのため、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げでは最初の標的とされ、滅ぼされました。その日は三島大社の祭礼で、頼朝たちは祭りで行きかう人々にまぎれ、また山木館の守りが手薄になる機会を狙ったとも言われています。禅宗に改宗後、「香山寺殿興峯兼隆大禅定門」と法名を授けられました。山木兼隆供養塔は、この地で減ぼされた兼隆を偲び、平成2年に建立されました。」「山木兼隆供養塔」は五輪塔。「香山寺興峰兼隆大禅追善菩提供養塔」。山木兼隆の法名は「香山寺殿興峰兼隆大禅定門」と「本堂」に向かって更に山木兼隆の「供養塔」の横を進んで行った。「本堂」を正面から。禅寺(臨済宗)らしい、広くはないが華美な印象を避けた豪壮な雰囲気を持つ。久寿元年(1154年)、伊豆国目代の山木(平)兼隆によって建立された臨済宗建長寺派の寺院。 御本尊は千手観音菩薩。静岡県伊豆の国市韮山山木868−1。扁額は山号の「景雲山」。「内陣」。中央に「薬師如来座像」が。「沼津アルプス」方面の眺望。一番左の山が「鷲頭山 392m」であろう。伊豆半島の付け根に位置する、400mにも満たない低山だが、首都圏からのハイカーも多い人気の山。北にある徳倉山(256m)や西に位置する大平山(356m)などと併せて「沼津アルプス」の愛称で親しまれ、縦走を楽しむ登山者も少なくなく、首都圏から訪れるハイカーも多い。季節を問わず楽しめ、登山道中は富士山、南アルプス、駿河湾の眺望が楽しめるのだと。頼朝は、ここ山木館への襲撃を山の麓(写真左手)の屋敷から見守り、火の手を襲撃成功の証として確認したのだと。時政・義時父子は見事に初戦を飾り、こうして頼朝とともに平家打倒を目指す戦いは幕を開けたのだった。 【大人の休日倶楽部 2月号】より山を背にした静かな場所にあり、古代から中世に変わる治承・寿永の乱における重要な舞台の一つでから、リアルに歴史を感じながら、参拝することが出来たのであった。周辺には源頼朝挙兵関連の史跡が点在しており、一日かけてゆっくりまわるのはとても楽しいのであったが・・・・。御朱印を頂きました。この後近くにあった「山木皇大神宮」👈リンク は今回は訪ねなかったが、2月18日(木)2回目の「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」の際に訪ねたのであった。そして次に訪ねたのが「平兼隆館の跡」。案内板はこれのみで他には何もなかった。突き当りになる坂道を上って行った。「山木判官平兼隆館跡」。治承4年(1180年)8月17日の夜、源頼朝は挙兵するとその手始めとして伊豆目代平兼隆(もくだい たいらかねたか)の屋敷を襲ったのであった。奇しくもその日は三島大社の例祭の日。そのため館の郎党は祭りに出かけて守りが手薄であった。激戦の末、平兼隆の首を討ち取ったのは加藤影廉。館に火を付けて、北条屋敷で激戦を待ち焦がれている源頼朝への知らせとし、これが源氏再興ののろしとなったのであった と。現在は個人宅となっており、許可なく入れなくなっていた。敷地内に篤志家が建てた?「兼隆館跡」の石碑があった。静岡県伊豆の国市山木822-1付近。これが「兼隆館跡」と刻まれた石碑。そして2月6日(日)放送ののNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人(5)「兄との約束」」のテレビ画面より。「山木判官平兼隆館」の襲撃隊の先導役を務めている北条宗時そしてその後ろに弟北条義時、父時政。山木判官平兼隆館へ攻め入る北条勢。討ち取られる「山木判官平兼隆」。しかしその後「石橋山の戦い」に敗れて、箱根山中に逃走し「ししどの窟」👈リンク に隠れる頼朝勢。そして次に向かったのが「江川邸」。駐車場には「伊豆の国 北条義時 ゆかりの地」とラッピングされたタクシーが駐車中。伊豆の国市内に宿泊された方は、宿泊施設、指定の観光拠点及び最寄り駅を自由に移動できるよう、シャトルタクシーが無料で利用できるとのことであった。ラッピングは全部で3種類。運行期間 2021年12月1日(水)~2022年2月20日(日)運行台数 13台/日「ようこそ、歴史とのかけはし韮山町へここに住む人も、訪れる人も、ともに気持ちよくありたい。わたしたちの郷土がいつまでもきれいで美しく、誇れますようみなさまのちょっとした「ふるさとへのこころづかい」をお願いします。韮山町の良き想い出は大切に持ち帰り、旅でのごみはマナ-を守ってお捨てくたさいどなたも気持ちよく過ごせますようご理解・ご協力をお願い申し上げます。」と。「江川家菩提寺 江川太郎左衛門・江川家代々の墓碑 本立寺」案内板。「江川邸が「島津家屋敷」に」と書かれた2018年の新聞記事。ここ江川邸で大河「西郷どん」のロケが行われたと。「担庵公思索の道」案内板。「坦庵公思索の道」という愛称は、平成 26 年度道路愛称選定事業 で、市民から応募のあった路線、愛称名から決定した。 江川邸から反射炉までを結ぶ古い山沿いの道(根方道)の一部で、旧 韮山町時代から、「坦庵思索の路」として親しまれていた。伊豆の山の西麓に位置し、韮山反射炉と江川邸を結ぶ南北の道で、水田、畑などの 農地や集落地及び丘陵の間を通る、自然豊かな2.7Kmのルートである。江川坦庵公はこの道を通って反射炉まで通った。江川家の菩提寺である本立寺には坦庵の墓がある。江川太郎左衛門 享和元年(1801年)~安政2年(1855年)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官であった。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも36代の江川英龍が著名である。号の坦庵の呼び名で知られている。近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。赤のラインが「坦庵公思索の道」。そして「江川邸」正面へ。韮山反射炉を建設した江川太郎左信門英龍(担庵)が暮らした家てあり、韮山代官所としても使われた。室町時代に建てられたと言われる主屋のほか、書院、仏間、蔵、門、塀、神社などが国の重要文化財に指定されている。「重要文化財 江川家住宅江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現在の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁・静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際に茅葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍(担庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等を進めたことで知られている。昭和42年(1967)に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。江川家住宅宅地 11837平方米同 主屋 552平方米同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等」「江川邸」は現在も工事中であった。【主屋工事実施に伴う限定公開について】 主屋屋根工事実施のため、江川邸(江川家住宅)は臨時休館しておりましたが、 2021年11月7日(日)より開館しております。 まだ工事中ですので、通常とは異なる動線でご案内することが続きます。 また、展示品なども工事の影響を考えてご覧いただけない場合もございます。 なお現在は、通常見学では使用していない正面玄関から主屋にご入場いただいております と。 「江川邸」👈リンク の内部見学はこの日はパスして駐車場に向かって引き返したので あったが・・・・。「JINの撮影風景」の写真集。NHK大河ドラマ「篤姫の撮影風景」の写真集。そして、この日の散策は、ここまでとし、しばしベンチで休憩、その後宿泊予定の箱根・仙石原にある保養所にと向かったのであった。この日の夕飯。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.22
コメント(2)

「毘沙門堂」を後にして次に訪ねたのが「伊豆滝山不動堂」。 静岡県伊豆の国市韮山山木。「伊豆滝山不動」案内板。「源平合戦端緒の地治承四年七月十七日、源頼朝は山木目代平兼隆を夜襲しこの山木の地で源平合戦の火蓋がきられた。これに先立ち、この滝山不動で、平家の流人文覚上人と頼朝が、平家追討の策謀を練ったと伝えられる。」「伊豆滝山不動」案内板。「伊豆滝山不動名称 伊豆滝山不動明王(別名 旗揚不動・呼止不動)堂宇 本堂・奥の院名所 不動の滝(高さ十八M)、文覚上人の隠れ穴本尊 不動三尊像(不動明王・矜羯童子・制吐童子)由来 不動明王は大日如来の使者で、衆生を救うための仮の姿とされる。慣怒の相をし、手には 三鈷剣と羂索を持ち迦楼羅の焔という火炎を背員う。本不動明王の由来は詳らかではないが、 石造物や伝承から江戸時代中期までは遡れる。 奥の院の下には、鎌倉時代の僧、文覚が隠れたとされる洞窟があり、文覚がここで、 源頼朝に平家打倒を勧めたとの謂れから、旗揚不動とも呼ばれている。また、この洞窟は 文覚が配流されていた奈古谷の毘沙門堂へつながっていると言い伝えられている。 このように、中世には既に祀られてあり、古くは修験者の震場として知られていたと 推察できる。 堂内の奉納物などからは、地元をはじめ近郷近在の人々を護ってくれる不動として、 江戸時代から大変栄えていたことが窺えます。」素朴な冠木門を進んで行った。参道を進む。「奉納 滝山不動明王」碑、「滝山大不動明王」案内板。「奉納 滝山不動明王」碑に近づいて。「奉納 滝山水神由来当山最古の様なり 現在の滝壺の◯◯近にあり 再度の台風水害により流失此の水神様の神勅に基き昭和五十六年二月四日現在地に再建神祭す」参道横には「蠟梅」の花が満開状態。こちらの蠟梅は鮮やかな黄色の花が。そして左手にあったのが「滝山不動堂」の「本堂」。内陣。平家の流人文覚上人と頼朝が平家追討の策謀をこの場所でも練ったのであろうか?本堂(不動堂)には、源頼朝が文覚とともに祈願崇拝した不動明王(旗挙不動明王)が安置されているとのことであったが、御開帳されていなかった。近くにおられた氏子?のオジサンに聞くと、奥の院まで徒歩で約15分とのことで奥の院、不動の滝を訪ねる事とした。巨岩の転がる中に出来た狭い参道を慎重に上って行った。雨の日は極めて危険な場所となるのは確実。奥の院へ向かう参道は、巨岩をぬって山の上へと続いていた。落石がないことを祈るのみ の心境で上って行った。「滝山明神」。ステンレス製の鳥居の先に小さな石祠があった。「奉納 滝山明神」碑。洞窟の如き場所に、石蓋の如き岩の白き面には「南無妙法蓮華経」の文字が。この巨岩の下の隙間が「文覚上人隠窟」なのであろうか。案内板は汚れていて解読不能。なんとか「奥の院」に到着。「奥の院」には、江川家三十五代当主江川英毅が奉納した大不動明王が安置されている三十六代英龍が盗まれた不動明王を日本橋で発見し、買い戻したという伝説が残されている。内陣。「滝山不動明王」と書かれた提灯が対で。「滝山不動由来 江川家三十五代当主江川太郎左衛門英毅滝山に天保三年十二月十五日大不動明王奉納神祭する三十六代英毅時代・・・盗難にあって英龍江戸勤番も無事終り自宅に帰る道すがら日本橋の角の古道具屋の前に来た時太郎左衛門、太郎左衛門と云う声にかごを止めて出て見れば小道具屋の前何にげなく店に入る。奥にきて見れば韮山不動明王ほこりまみれてあわれな姿早速店の主人に実状を話し手持金全部ニ銭三厘三毛七買戻し不動明王を駕籠にのせ自分は歩きつづけ故郷に到着、自宅によらず滝山に一直無事奉納再神祭せらる由、今にして大不動明王故こに鎮座す。今直を伝説として世に残る英龍こと坦庵公信仰の深さを知る。」「不動の滝」には水はチョロチョロと僅かに。多賀火山の溶岩の端にかかる滝であると。落差18mの滝壺周辺を見る。小さな石灯籠も。巨大な岩壁の下に小さな「滝山明神」。そして足元に注意しながら慎重に、上って来た参道を下って行った。太鼓橋もあった。そしてもう一度、黄金色に輝く「蠟梅」を楽しんだのであった。蝋細工のような花を咲かせることから「蠟梅」。よってこれぞ「蠟梅」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.21
コメント(0)

「奈古谷観音堂」を後にして、次の目的地である、伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている「毘沙門堂」を目指して「文覚さんと毘沙門道」の坂道を上って行った。途中左手に立派な石碑があった。「史跡 文覚上人流寓(るぐう)之跡文覚上人 承安四年(一一七四年)伊豆国奈古谷村に配流、居寓六歳、その間、東奔西走、専ら源家の再興斡旋に努めた、治承四年八月、源頼朝公の挙兵は実に上人の勧説による所と、平家物語は叙している。即ちこの地が「上人籠居」の地である。後 頼朝公神仏家祖報恩のため、上人に布施して毘沙門堂宇を建立、源家の万福を祈った春風秋雨八百年 茲に往時を追思しつつ略史を刻み、建碑の所以とする。 田方郡韮山町奈古谷 史跡保存会長 木内栄撰 世話人 沼津市 山田梅軒 三島市 木村庄三 昭和五十一年十一月 東京都台東区上野二丁目 建碑者 倉島延三」上記の木内栄撰氏は「天長山国清禅寺盛衰沿革史」(韮山町史『町史の栞』第三集)を著された木内栄撰氏。また建碑者の倉島延三氏は、三島市出身の中央財界の方で、三島大社内、旧三島宿関連等、三島市内の史跡碑を多く寄贈している倉島延三氏である とネットから。文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた。文覚は、同僚の源渡の妻袈裟御前に恋をし、誤って袈裟御前を殺してしまう。その後、文覚は真言宗の僧となった。神護寺再興の勧進で後白河法皇の怒りに遭い、伊豆に流されたといわれているのだ。石碑の奥、寓居跡と思しき場所に石仏が三躰祀られていた。ズームして。左の一体はお顔が失われていたが・・・。「文覚上人」を演ずるのは市川猿之助さん。その先左手にあったのが、「蛇石」。「奈古谷七つ石 蛇石(じゃいし)」碑。「蛇石 ー七つ石①ー蓮華座に乗る月輪(がちりん)中に、刷毛書きの書体で種子(しゅじ)・アを平底彫りにしていますが、石が傾いたため、種字も傾いてしまっています。アは、一般に胎蔵界大日如来の種子として用いられますが、「通種子(つうしゅじ)」として、全ての仏をも表します。書体や彫り方は、鎌倉時代前期の特徴を備えています。江戸時代後期に著された「槃遊餘録(はんゆうよりょく)」には蛇石来訪の記録があって、弘法大師の筆と伝えていたことが分かります。この石には白蛇が棲んで、里人を怖がらせていましたが、国清寺の高僧がこの岩に封じ込めたという伝説が残されており、蛇石の名の由来となっています。また、蛇石裏の石祠には乾元二年(1303)銘の地蔵石仏龕(がん)があり、市指定文化財に指定されています。また、他の2つの地蔵は延享4(1747)と天保2 (1831)に祀られたものです。灯篭は文政5(1822)のものです。」更に樹々に囲まれた狭い坂道を車で上って行った。右カーブの場所にあったのが「夫婦石」。二つの巨石が向かい合って。「夫婦石 ー七つ石②ー治承年間、頼朝・政子夫婦が、毘沙門堂付近にいた文覚上人を訪ねて来た折、この石に腰をおろして一息入れたという伝承が残されています。元は、道路の中央付近にありましたが、道路拡張のため、現在地に移されました。」更にくねくねと上って行った。そして左手に「毘沙門堂」の入口の石鳥が姿を現した。その右には「金剛力士門由来記(仁王門)」案内板。「金剛力士門由来記(仁王門)当山は平安時代末期奈古谷寺という寺院であった。文覚上人と源頼朝の二人によって大改修され端龍山授福寺と改めた。境内に毘沙門堂その下に金剛力士門(仁王門)を建立して守護神とした。授福寺は現在大護摩石のある平坦地に建立されていた。金剛力士像保存のため昭和四十九年に同士十数名により保存会を結成する。昭和五十年三月十九日学術調査を終わり県交化財に指定を受ける。金剛力士像の破損や虫食いが進んだために修復することを計画昭和五十一年七月東京芸術大学保存技術研究室に移し西村公朝先生のご指導により解体修理を始める。二年間の歳月を費やして修復が完了した。非常に古形式の金剛力士像である。京都の大非山峰山寺金剛力士像(国指定)が最近発見され続いて当山の金剛力士像が発見されて全国にニケ寺にしか無い貴重な金剛力士像となった。このたび修復が終わり帰山した。」石鳥居。扁額「毘沙門天堂」か。石鳥居を潜り石段を上って行くと前方に「仁王門」の姿が見えて来た。「仁王門」。仁王門の金剛力士像は、源頼朝の寄進で、運慶・湛慶父子の作とも、運慶が修理したとも伝えられ、静岡県の重要文化財に指定されている。「阿形像」。設定を変えて。「吽形像」。設定を変えて。パンフレットより全体の姿を。「静岡県重要文化財 授福寺・毘沙門堂仁王像毘沙門を守る仁王門内の仁王像は、昭和五十一年東京芸術大学に運ばれ約二年間の歳月を掛けて解体修理を行ったところ、尊像体内より板書が出現しました。それによると一一八六年文治二年壇ノ浦にて平家滅亡の翌年源頼朝公は、天下安全のため運慶父子に命じ彫刻を寄進しました。その後六百余年を経過した亨保八年、尊像の破損甚だしく大仏師辻式部兼房、塗純又八の手によって修復されました。その記録として尊像胎内に修められた板書です。昭和五十ニ年修復完成後再び胎内に修められています。板書の山護主大川浅右衛門は、大川家推定ですが十代前の先祖にあたります。」「仁王門」を潜り、更に石段を進む。「護摩石」。ズームして。「奈古谷七つ石 護摩石(ごまいし)」。「護摩石(硯石・鏡石)ー七つ石⑥ー授福寺の跡にあるこの石の上には、51センチ四方の穴があけられ、文学上人が護摩を焚いたとも、硯として使用したとも伝えています。鑿(のみ)の跡が残ったままであることなどから、礎石ではないかとも考えられています。」「文覚さんと毘沙門道」に出ると再び石鳥居と石碑があった。「大開帳記念碑」。慈覚大師作の秘仏の「毘沙門像」が50年に一度、本開帳された時の記念碑であろう。石鳥居の扁額には「瑞龍山 授福閣」と。手水舎。再び苔生した石段を上る。正面に「毘沙門堂」。50年に一度本開帳される、慈覚大師作の秘仏の「毘沙門像」を安置する「授福閣」とも言われる御堂。元々伊豆に流されていた文覚上人が草庵を結んでいた場所で、源頼朝の命により改修された「瑞龍山授福寺」の御堂だったが、廃寺となり現在は「国清寺」が管理している。扁額「毘沙門天堂」。「毘沙門天」は日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる とウィキペディアより。「豆州奈古谷毘沙門天略縁起縁起凡そ千百余前年前 平安時代の初期天台宗の高僧慈覚大師が入唐の行を了て皈朝せられ衆生済度の一大悲願をこめて刻まれた御自作の尊像である。本山は住吉安養浄土院と云った。承安三年僧文覚が此の地に流された時、源頼朝に源氏再興をすすめた由緒の地である 頼朝が大願成就した時、瑞夢をみて文覚に毘沙門堂を建立させて瑞龍山授福寺と改名した。特に当毘沙門天は古来より無病息災、交通安全、商売繁昌、心願成就の開運授福の神として広域に亘り深く信仰されている。例祭 正月三日、九月三日 早朝より行われるお開帳 大開帳 五十年毎に一回 中開帳二十五年毎に厳修される境内 授福門(毘沙門堂) 仁王門(金剛力士像 県重要文化財) 文覚荒行の滝 文覚の護摩石及び沿道の銘石 昭和五拾九年拾壱月 毘沙門天 世話役 韮山町産業観光課」毘沙門堂入口の石鳥居まで戻る。道路を渡って振り返る。防寒、防コロナ姿の地蔵様。こちらはメガネを掛けて本を読む。車に乗り込み坂を下る。「谷響石(こだまいし)ー七つ石③ー南側の谷奥、200メートルにあり、山の神が祀られています。ここより北側の川を隔てた旧道で手を叩くと、こだまが返ったと伝えています。」「奈古谷七つ石 谷響石(こだまいし)」。下まで坂を下って富士山の姿を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.20
コメント(0)

「国清寺」の鐘楼。延宝8年 (1680)の建立 と。「梵鐘」。そして正面に「本堂(方丈)」。寄棟造瓦葺の「本堂(方丈)」は、昭和9年(1934)の建立である。扁額「天長山」。「方丈」内部の扁額は後花園天皇直筆の「勅諡佛真禅師(ちょくしぶっしんぜんじ)」と。「勅諡佛真禅師」とは初代國清寺住職「無礙妙謙(むげみょうけん)」和尚のこと。「無礙妙謙」和尚は、武州比企県人(現在の埼玉県比企郡)と言われる。上杉憲顯によって國清寺が修理増築された頃に中国へ渡り、天目山禪寺に修行する一方、多くの寺々をめぐり佛法の真髄を求め、その奥義をきわめた。帰国後、鎌倉5山中第3位の壽福寺住職や圓覚寺の住持となり、礼に篤いその人柄からにじみ出る徳を持って優れた人を育てるなど、卓越した手腕を寺院経営に発揮した、と言われている。その後、上杉憲顯によって開山として國清寺に迎えられた妙謙和尚は、人材育成や伽藍の造営にも努力を続け、立派な禪学の道場を創りあげた。また妙謙和尚はその功績を自分だけのものにせず、隠退した翌年の春、國清寺を諸山に昇格させると共に、源叟(げんそう)和尚を國清寺の二世に推挙し、栄光ある寺格と共に管主の座に就かせるなど、数々の偉大な足跡を残している。没後も、勅諡(ちょくし・勅命による法名)「佛眞禅師」や勅諡・佛眞神師額(國清寺本堂正面に掲げられている後花園天皇直筆の額)などに見られる様に、その優れた人徳が今に伝わり広く人々に崇敬されている。この無礙妙謙和尚の霊は、國清寺開基・畠山國清・再開基・上杉憲顯たちの霊と共に、國清寺の裏山懐にそびえる椎の巨木に見守られ、静かに眠っている。「本堂」の内陣を見る。ズームして。「本堂」手前左にあった「六地蔵尊」。「国清寺のスダジイ」に向かって境内を北に進む。「畠山國清・上杉憲顕 開基塔」碑。正面にあったのが開山である畠山國清を祀る「開山塔」。史実としての「国清寺」の正式な読みは「こくしょうじ」だが、現在では「こくせいじ」を正としている。ここにも支配者による史実と土着民との隔たりを感じるのではあったが。そして「国清寺のスダジイ」。「國清寺椎の木について椎の木はブナ科の常緑高木で、気候温暖な地に多く鬱蒼とした大木になると言われる。室町の古刹國清寺の森に残るこの椎は正にその樹木で樹齢八百年と伝わる貴重な古木である。」近づいて見上げて。「スダジイ」の「スダ」の意について下記の如きHPがネットにあったので紹介する。シイノキがシイタケ栽培に使われる木に使用されるが、シイタケの種菌をつけた原木を「ほだぎ」と呼ぶ。原木とする椎の木に丸棒型材(種駒)を打ち込ち込んだ物である。この作業を挿し木の場合と関連づけて記すと、次のような相関的図式が成り立つ。「台木+穂木=接ぎ木。原木+種駒=ほだ木。」これにより、「原木」を「台木」になぞらえて、「ほだ木」に穂木の台木を代入して当てはめれば、「穂台木」という名詞を構成できる。このホダイギという語が略音転訛し、「ほだぎ」の呼び名になったものと考察する。関連して、「すだぎ」については、「素台木」の語を想起する。しいたけ栽培の「もと」(基礎)となる台の木という意味を持。素台木の語音ソダイギがスダイギに音韻変化したものと思われる。しかし、素の字の漢音はソ、呉音はスであり、後者に基づいても考えられ、スダイギがスダギ→スダと略音化し、この略音スダをシイ(椎)と結合して連濁音化した呼び名の「すだじい」であると提言する。結局、「スダジイ」の名前は、「素台木」を語源とし、シイタケ造りの基礎となる台木的な椎(しい)の木という意味を表わすものであると言える。」富士山の勇姿を見る。引き返すと左手前方にも石塔と石碑群があった。手前に「十三重塔」。近づいて。「上杉憲顯公顕彰碑南北朝武将上杉憲顯は関東管領、上野、越後、伊豆守護などの要職を歴任し晩年伊豆に国清寺を建立、壮麗な寺院に修築整備された。國清寺は三代将軍足利義満の代に関東十刹の一寺に数えられたと伝えられる。憲顯公は応安元年(一三六八)九月十九日足利陣中に没し此処國清寺の森に眠る。因みに鎌倉九代記に卒去後の上杉憲顯公葬送の記録があると郷土史家木下喜衛氏は講ず。上杉憲顯公 世を去りて六百三十年その功を称え徳を偲びて碑を刻み後世に残す。」奥にある墓は上杉憲顯と関係者の墓であろうか?五輪塔の墓石?に近づいて。「本堂」前まで戻り六地蔵と共に。朱の鳥居のある神社をズームで。「仏殿(釈迦堂)」北側の「般若塔」と刻まれた石碑。「慈母観音像」。「慈母観音像」は慈しみの母であり、抱いている子供が衆生の私たちを常に母親の愛情で見守る意味もある。その為、家内安全・子授け・子供無事成長・水子供養等々の願いを成就するといわれているのだ。お顔をそして抱いている子供のお姿をズームで。「建光空◯」と刻まれた石碑。そして先程見えた「神社」を振り返った後に「國清寺」を後にしたのであった。そして次に立ち寄ったのが「奈古谷観音堂」。静岡県伊豆の国市奈古谷。「奈古谷観音堂室町時代、奈古谷は国清寺を中心として大変栄えていました。今でも、七堂、七坂、七ツ石や多くの史跡が残っており、往時の繁栄ぶりを伝えています。この観音堂は、地蔵堂、阿弥陀堂、庚申堂などとともに、奈古谷七堂の一つで、他の諸堂は廃堂になりましたが、唯一旧位置に建っています。堂内には、本尊聖観音立像の他、十王堂や阿弥陀堂などにあった諸仏が安置されています。また、境内地には、庚申塔、唯念碑、五輪塔、宝篋印塔などが諸堂から集められています。付近の屋号を観音堂、堂の前、辻、横道といい、観音堂が道路の四つ角にあって、今よりも大きなものであったことがわかります。現在のお堂は、昭和十二年に再建されたもので、平成九年八月、屋根の修理を実施しています。今でも毎月十七日には観音講が行われています。」「奈古谷観音堂」は、いずれも国清寺の祠堂や支院に由来する建造物であり、中世以来国清寺を中心に形作られてきた宗教的空間の一部をなすものである。大きい石塔が並んでいた。中央左奥は南無阿弥陀仏と刻まれた念仏塔。説明板にある「唯念碑」のことであっただろうか。境内には多くの石碑、石仏が並んでいた。「奈古谷観音堂」を正面から。「馬頭観世音」。入口の階段脇には馬頭観音が数基並んでいた。馬頭観音碑で建立年の読み取れるものは昭和36年と昭和26年 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.19
コメント(0)

車窓前方にこれから訪ねる「国清寺(こくせいじ)」の「仏殿」への参道が姿を現した。駐車場に車を駐め散策開始。駐車場と「華頂峰・高岩院(かちょうほう ・こうがんいん) 」との間の庭園には多くの石碑、石仏が立ち並んでいた。岩の上に立つ石仏。スイマセン!!お顔が・・・。「萬霊塔」。「庚申塔」。梅も僅かに開花を始めていた。伊豆の国市奈古谷(なごや)にある「国清寺」の塔頭のひとつ、「華頂峰・高岩院」。石碑には「国清寺塔頭奉行職之寺也 臨済宗円覚寺派 華頂峰高岩院 豆国八十八遍路 第十五番 札所」と刻まれていた。山号は「華頂峰(かちょうほう)」寺院名は「高岩院(こうがんいん)」。「六地蔵尊」。「陸軍・・ 八等・・工藤常・之墓」と刻まれた石碑。「故陸軍兵長 神尾恵一郎之墓故海軍二等勲七等機関兵曹功六級 神尾圓一郎之墓」(右)。「本堂」。創建 1368(応安元)年 南朝は 正平23年 1338年に 足利尊氏が征夷大将軍になり、室町幕府を開く御本尊 薬師如来 由緒 五山十刹のひとつ国清寺に隣接し、かつて79あった塔頭のうちの一寺 住所 静岡県伊豆の国市奈古谷68 扁額は「華頂峰」。そして「国清寺」への参道近くにあった掲示板。「右の手と 左の手を 合わせると ほら 仏さまの お声が」。伊豆の国市奈古谷のここ「国清寺」は観世音菩薩を本尊とし、山号を天長山と称する臨済宗圓覚寺派の寺である。康安元年(1361)、室町幕府の有力者であった畠山國清は、関東管領にそむき鎌倉から伊豆に居を移し、翌康安2年春、奈古谷に一寺を建てこれを「国清寺」と呼んだ。應安元年(1368)、上杉憲顯(1306~1368・関東管須)が国清寺を大いに修築して大きな寺にした。これにより、生い茂る杉の木立ちに囲まれた国清寺の殿堂は、ひときわ荘厳さを増し、室町三代将軍足利義満の時に関東十刹の一に加えられ、「天長山国清萬年禪寺」と号せられる大きな寺院となった。正面に見えたのが「仏殿」。「豆州田方郡奈古谷村國清寺并諸塔頭繪圖面(へいしょたっちゅうえずめん)貞治年間は、國清寺が隆盛をきわめた時代といわれ、全盛期には、子院7 8・末寺300を誇っていた。延徳3年(1491)、北条早雲が堀越御所を攻め落とした頃より國清寺は衰え始め、その後、鎌倉五山の一寺「瑞鹿山圓覚寺」末寺となった。「豆州田方郡奈古谷村國清寺并諸塔頭第圖面」(國清寺所蔵・寛政11年・1799)を見ると、想門・佛殿(現存)・鐘楼(現存)。方丈(現存)・庫裡(現存)などの描写に加え、現存子院の高巌院・徳燐院・龍泉院・松月院・鳳林庵(跡地)・授福寺(野火焼失)・要津庵(廃寺)白泉庵(廃寺)などの位置関係が巧みに描かれ、200余年前の國清寺の姿やその近隣に点在した子院、そして、これを囲むかのような山並みの様子が見事に描かれている。この繪圖面もまた、往昔の國清寺の姿を知ることができる貴重な資料として今に残されている」と頂いた「パンフレット」👈リンク より。寺号標石「臨済宗円覚寺派 天長山 国清寺」。「天長山国清萬年禪寺 臨済宗円覚寺派」案内板。「天長山国清萬年禪寺 臨済宗円覚寺派本尊 観世音菩薩創立 康安ニ年春(一三六ニ)開基 畠山国清(天猷道誓大禅定門)足利管領の執事再開基 慶安元年(一三六八)上杉憲顕(桂山道昌大禅定門)大いに修築巨刹となす。 本堂正面にあります開山 無礙妙謙敕諡佛真禅師(後花園天皇直筆の額が本堂正面にあります)十刹六位 往昔殿堂壮麗にして子院78宇を有しなり 足利三代将軍義満の時、関東十刹の一に 加えられる 天長山、国清萬年禅寺と号せらる。旧朱印 弐拾石境内二千九百余坪(佛殿右側に徳川歴代将軍の位牌を祠ってある) 往昔末寺三百余ヶ寺塔中七十八院あり 延徳三年伊勢新九郎長氏御所を隠れし時より漸く衰退せり、其の後鎌倉円覚寺の 付属となる。子院現存するもの 高岩院 徳隣院 龍泉院 松月院である。旧十境 一、十里松 二、愈好橋 三、雙峠 四、石橋 五、馬鬣峰 六、寒山窟 七、石牛洞 八、芍薬渓 九、華頂峰 十、寶珠嶺 鎮守 毘沙門堂 寺を距ること十余町の山中にあり、国清寺に属す。伝え云ふ 僧文覚此の地に流寓す。 堂中に慈覚大師作の毘沙門尊天あり。仁王門に運慶修飾の金剛像あり。 辨財天、は佛殿左側に祠る。 (豆州志稿による)」「仏殿(釈迦堂)」に向かって更に進む。「仏殿(釈迦堂)」。本尊が安置されている方形造鋼板葺の「仏殿(釈迦堂)」・「大雄殿」は、延宝年中(1673~80)の建立と伝えられている。「仏殿(釈迦堂)」には、鎌倉時代慶派の作による「釈迦如来像」が安置されていた。國清寺釈迦堂に祀る「釈迦如来坐像」。国清寺境内のほぼ中央に一棟のお堂がある。これが釈迦堂である。寛政11年の「國清寺所蔵繪圖面」では、ここが佛殿として描かれている。「釈迦如来坐像」は、このお堂の本尊で、桧材の割ぎ造り、漆箔、玉眼造りの像である。その全体の穏やかな作風や造法には、平安時代後期の仏像に伝わる古風さが見られるが、水晶を眼にはめ込む技法や、顔面部のはちきれる様な力強い表現には、鎌倉時代初期の仏師「運慶」の作にも近い趣が感じられ、慶派との関係を考慮すれば、その周辺の古参仏師あたりの作である可能性も考えられている。光背を装い蓮華座に安置されているこの「釈迦如来坐像」は、正に貴重な文化遺産と言えよう。本尊 観世音菩薩 と案内板には書かれていたが・・。ズームして。両脇の仏像は開山・「無礙妙謙敕諡佛真禅師」、再開基 ・「上杉憲顕」の像であろうか?両脇の仏像(右)。両脇の仏像(左)。釈迦堂に祀る「福徳賦与の弁財天」をパンフレットから。弁財天は、弁天様として人々に親しまれ、音楽・弁財・財福などを司る神で、妙音天などとも言われ、吉祥天と共にインドで最も尊崇された女神で、福徳賦与の神と称され七福神の一として信仰される。釈迦堂に祀られる弁財天は、往昔の広い國清寺の境内にあった大きな池の辺に祀られていたが、寛文111年(1671)に発生した大洪水「亥の満水」で流失し、何年かを経て國清寺に帰り、再び元の池の辺に安置されたと伝えられる。以来、幾星霜、風雪に耐え人々に深く信仰されて来た。この弁天様も、平成5年10月・東北芸術工科大学・牧野隆夫助教授(吉備文化財修復所)による修復成って、現在、國清寺釈迦堂内左側に安置されている。また、この釈迦堂内右側には、徳川歴代将軍の位牌が祀られているが、これもまた貴重な文化遺産である。「鳳林庵地蔵尊」。「鳳林庵地蔵尊お地蔵様裏の処に、明治の頃まで鳳林庵とゆう国清寺塔中のお寺がありました。その為鳳林のお地蔵様として部落人達に親しまれて来ました。作者は不詳ですが、約三百年程前に刻まれたのではないかと言われています。立て膝で思椎姿のお地蔵様は非常に珍らしいのです。頬に手をあてられた姿の為か、昔から、土地の人は歯の痛い佛様として、尊崇祈願し、今でも、石を積み、お膳を供えて御利益を願う古老の方を見かけます。また安産の佛様としても知られ、願いをかける時は、通リの良いようにとの意味からか、底無し柄杓を泰納するのが例になっています。木立の中、幾星霜を経た、素朴なお顔のお地蔵様は、野の佛としても人の心をうつのかいろんな本の表にもなります。例奈は、毎年八月ニ十三日に行っています。」「やすらぎ子育て・水子地蔵尊」。「やすらぎ子育て・水子地蔵尊」碑。正面に現れたのが「庫裡」。「庫裡」に近づいて。天明年中(1781~88) の建立と伝えられ、昭和9年(1934)に改修されている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.18
コメント(0)

そして、「六萬部寺(ろくまんべじ)」の奥の駐車場に到着。平治の乱後、伊豆国流罪となった源頼朝は、配流地の蛭ヶ小島で父義朝の菩提を弔いながら過ごしていたという。六萬部寺の経塚は、頼朝が、父祖の冥福と源氏の再興を祈念し、法華経六萬部を埋納した場所と伝えられている。経塚はもとは円墳だったものを利用したものらしい。『吾妻鏡』によると、源頼朝は挙兵直前の1180年(治承4年)7月4日、伊豆山権現の僧文陽房覺淵(もんようぼうかくえん)を北条館に呼び出している。山木館襲撃が8月17日であるから、約1.5ヶ月前のこと。頼朝は、挙兵前に法華経を千回唱えるつもりでいたのだという。しかし、忙しくなり千回を達成することが難しくなってしまうそこで、「たとえば八百回だとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覺淵に訪ねた。すると覺淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたという本堂に対面する形で「経塚」があった。「経塚」の前にあったのが「南無日蓮大菩薩」碑。そして「六萬部寺」の本堂。「六萬部寺」は現在は日蓮宗の寺。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、韮山城を攻める豊臣方の出城として使用されたという。本堂には花頭窓が。 静岡県田方郡函南町柏谷430。扁額は山号の「王城山」。「永代供養 悠久廟」。小さな「稲荷神社」。「本堂」前の石仏。聖観音立像であろうか。「本堂」前には七重石塔も。六萬部寺境内とその周辺が「向原館跡」だと言われている。鎌倉時代には狩野川の古流が流れ込み、台地側は一面の湿地帯であった。館の遺構は明らかではない。近年の研究によれば、韮山城攻めの付城(陣城)の可能性が高いようだ。 なるほど、韮山城まで一望できる地形であり、寺の本堂裏手には低いが土塁が残り、西側に面して切岸状の地形を見れば陣城の可能性は極めて高いように思われた。そしてこちらが「六萬部寺」入口の山門・四脚冠木門(かぶきもん)。我々は裏口から境内に入ったのであった。「日蓮宗」、「六萬部寺」と。右には「法界萬霊」塔。「南無妙法蓮華経 王城山 六萬部寺」の文字が。法界とは、真理の世界、全宇宙のことで、萬霊とはこの世の中の、一切の生きもののこと。 この塔は供養塔としてあるが、造立することが供養の目的ではなく、造立し万霊をこの塔に宿らせ供養することが目的であるとのこと。「頼朝公経塚」と。「鎌倉殿十三人の配役」発表の新聞記事。秋元才加(あきもとさやか)さんが木曽義仲の愛妾・巴御前役に選ばれたと。武勇に優れ、敬愛する義仲とともに戦場を駆け抜ける強く気高き女武者であると。そして青木崇高さんが、木曽義仲に扮(ふん)すると。木曽義仲は源氏の棟梁(とうりょう)の座を争う頼朝のライバル。快進撃で都に乗り込み、平家を追放する武功をあげるが、後白河法皇と頼朝の政治力に翻弄(ほんろう)される人物。「鎌倉殿の13人」の相関図。【https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/07/09/gazo/20210709s00041000180000p.html】「稲妻堂」。昔々稲妻ケ池に棲んでいた龍が、婦人に化けて「あの世で苦しんでいる」と頼朝に訴えました。頼朝が法華経を読経したところ、龍の苦しみは消え成仏できました。その尊像を造り稲妻大明神として祀っています と「経塚」案内板には。「稲妻堂」碑。そして再び「頼朝公の経塚」。「頼朝公の経塚」案内板。「頼朝公の経塚経塚とは、経典などを土中に埋めた塚のことです。この地の経塚は古墳を転用したと考えられています。平安時代未期、伊豆に流された源頼朝は、父の冥福と源氏再興を願って、治承4年(1180年)7月、僧と共に法華経を六萬部(六万部)読経しました。それを祝して経塚を築きました。当初は高さ3メートル、縦15メートル程あったと言われています。これが「六萬部寺」いう寺の名前の由来になっています。その後頼朝は、平氏を倒して鎌倉幕府を開き、見事に祈願成就することとなりました。山門横には「稲妻堂」があります。昔々稲妻ケ池に棲んでいた龍が、婦人に化けて「あの世で苦しんでいる」と頼朝に訴えました。頼朝が法華経を読経したところ、龍の苦しみは消え成仏できました。その尊像を造り稲妻大明神として祀っています。」「経塚のイメージ」。石室を造り、その中央に六萬部読経した記録を納めた経筒を配し、それを土盛りしたもの。土盛りの上部には五輪塔を奉納。「源頼朝/日蓮上人/六萬部寺」源頼朝の年表をウィキペディアより。日蓮上人の年表部をズームして。「頼朝公の経塚」に近づいて。古墳を後世経塚(柏谷の横穴群と同時代の古墳(円墳))に転用したと思われる経塚。源頼朝が韮山蛭ヶ小島に配流中、父祖の冥福と源氏の再興を念じ自ら衆僧とともに法華経六萬部を読誦し、この地に経塚を築いたのが経塚の由来。「六萬部寺」の墓地を見る。再び「本堂」を見る。鳳凰の姿が螺鈿細工の如くに。駐車場近くから富士山の勇姿を。境内にあった張り紙。『ほんの少しの違い』出来ない人は言葉で説得し出来る人は行動で説得する出来ない人は話したがり出来る人は聞きたがる出来ない人はお金を求め出来る人は成長を求める出来ない人は過去にこだわり出来る人は未来にこだわる出来ない人は不可能と思い出来る人は可能と思う出来ない人は他人のせいにして出来る人は自分のせいにする出来ない人は一人で頑張り出来る人はみんなで頑張る出来る人も出来ない人も能力にほとんど差はないほんの少しの意識の違いによって結果に差が生まれる。』さあ皆さん一つだけでもチョイスして、本年は昨年以上良い年にしましょう!新型コロナウイルス早期終息を祈念します。 合掌そして近くにあった「天降(あまおり)神社」に立ち寄った。「向原鎮守天降神社」碑。静岡県田方郡函南町柏谷443。石段を上がると社殿が姿を現した。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。社殿の内陣。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.17
コメント(0)

歴史の重みを感じ、頼朝、文覚の声が聞こえて来そうな「高源寺」を後にして、来た道を引き返し坂道を冷川に沿って下って行った。そして右手にあったのが「不動の滝」。入口左に石碑が並ぶ。京都高雄にある神護寺の再興を後白河上皇に強<訴えた為、伊豆に流された文覚上人により造られたといわれている。大正7年に始まった丹那トンネルエ事の頃、鹿島組配下の伊沢組がこの不動尊を篤<信仰していたため大変賑わった。今も地元の人達に篤く信仰されている。「不動明王」と書かれた石碑。青竹が再び命を吹き込まれ整えられた手水場。「冷川(ひえかわ)不動堂」が右手に。そして奥に「不動の滝」。落差2m前後の滝であったが、この日は水量が少なかった。「冷川不動明王略縁起」案内板。石祠が置かれた「冷川不動」が滝の右側、屋根付きの社の中に鎮座。「冷川不動明王略縁起創建年代は不詳なれども伝説として次の事頃を伝えている。平治の乱頼朝伊豆に配流され、(永暦元年、一一六〇年)源家再興を伊豆三島大社、箱根権現、伊豆山権現に祈願、その後文覚上人(一一七三年)伊豆奈古屋に流され、頼朝文覚と共に舟山大平山長久寺に参詣(現宅舟山高源寺)、源氏再興祈願と旗上げを議したという。当時高源寺は真言宗にて修行の道場として伊豆一円を支配していたものと思われ、塔中に安養寺臨川寺瑞雲寺不動院ありしと豆州志稿にあり、案ずるに不動院は今の冷川不動なりしやと思われる。本尊赤不動明王は文覚の作なりと云われるのも、この関係ありやと思われる。頼朝幕府を開くや長久寺は、比企能員の母己れの乳母として奉せしを以って、朱印地六十町歩を寄進したと云う。文覚は後御白河法皇の許しを享け、京都高雄の新護寺の再興に努力せりと云う。この故を以って冷川不動尊も真言宗本山派の道場として栄えたものと思われる。その後栄枯盛衰あり徳川時代になり本地衰跡院(神佛混合)により、佛教の寺院に対し鳥居が建立され、川口勇氏入口ニ十米程の所に一の烏居境内にニの烏居が立てられて居れど、伊豆震災でニの烏居は倒壊し、一の島居は台座だけ昭和の初期まで残されていた。最も栄えたのは文化、文政(化政期一八〇三~一八三七)時代で当時は桑原川口氏所有(上川口氏)なりと云われる。その後堂主も常仼なく荒れるにまかせたりしも、大正十ニ年川口利三郎氏(上川口の分家)の世話に依り近隣十七戸で引継ぎ、今日に至っているのが現況である。大正七年丹那トンネルの工事がはじまり、鹿島組西口を受け持ち配下の伊沢組がこの不動尊を信仰し、境内に板碑を立て岡田清海老師が住し盛況なりしも、トンネル工事終了と共に亦静閑になったものである。本不動尊院に安置される佛体は次の如きものである。本尊赤不動明王 石像 座像 ニ童子 矜羯羅童子(こんがらどうじ) 滝右側石屈の内 制咜迦童子(せいたかどうじ) 道路(山之田方面中央石屈内)現在不明降摩の剣に炎 滝上岩上に在り 青銅製当入穴よりの湧水で滝が出来ているが、奥の院と云われている。滝壺には座禪石が置かれている。冷川の岸にカグラ石が在りミソギの場所だったと云われているが、道路の拡張で現在はない。」滝壺には「座禪石」が置かれていた。滝の上部をズームして。滝上岩上に在った「降摩の剣に炎」は青銅製。「不動の滝」を後にして次の目的地に向かう。「JR函南駅」前で車を止めた。静岡県田方郡函南町大竹190-6。函南町の北東のはずれに位置し、函南町の中心部から離れた場所にある。静岡県内にある東海道本線の駅としては唯一、町に所在する駅である。丹那トンネルの西口にあり、このトンネルが貫通した1934年(昭和9年)の12月に駅は開業した。現在の停車列車は普通列車のみである。1996年(平成8年)3月に特急列車に格上げされるまでは、急行「東海」1号・4号が停車していた と。「かんなみへ ようこそ!」。「土木学会選奨土木遺産」案内板。旧熱海線鉄道施設群桑原川橋梁 延長22.5m 径間長6.1m X3函南駅の西側を流れる来光川(当時桑原川)に3つのアーチ型の橋梁(拱渠)が、丹那トンネルの工事とともに建設された。(昭和9年)表面には自然石のポータルが施され、同じ形が連続する3連の拱渠は珍しく、力強い曲線が周囲の景観を引き締め、地域のシンボルとなっており、丹那トンネルとともに、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。※函南駅より600m 所要時間:徒歩10分旧熱海線鉄道施設群丹那トンネル(函南ロ) 延長7,804m。東海道線を輸送強化するため、熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故など多くの犠牲を払い、困難を克服して昭和9年に完成した。その過程では、丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多くあり、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。 ※JR東海用地内のため立入れません。」両方の「土木學會選奨土木遺産」プレートが埋め込まれていた。「新日本 歩く道紀行 100選シリーズ」👈リンク 案内板が駅前に。「JR函南駅」を振り返る。「名所案内」板。そして次に訪ねたのが「丹那隧道工事殉職者慰霊碑」。狭い坂を上っていくと突き当りに。駐車場がなく、悩んでいると左にあった工場の社長がここに駐めて良いとご親切に。言葉に甘えて駐車させて頂き、更に坂を上っていった。「丹那隧道工事殉職者慰霊碑」👈リンク と刻された石碑。丹那トンネル工事の犠牲者は、67名にものぼり、いかに難工事であったかが伺える。ここ函南口の犠牲者は36名であり、その方全員の名前が石碑の裏に刻まれていた。ズームして一部の犠牲者の方の名前を。合掌!!毎年慰霊祭が行われていたが、このコロナ禍で中止となっていると、先程の社長から。近くにある「臨江寺」の住職が菩提を弔っているようであった。石碑横から新幹線の線路も見えた。坂道を下り「丹那トンネル」の函南側出口を見る。そして駐車場に戻ると、工場の社長が工場内を案内して下さいました。靴紐等紐の製造工場・「有限会社中川製紐(せいちゅう)工場」であった。まるで、世界遺産の「富岡製糸工場」の世界であった。静岡県田方郡函南町平井1746。そして次に訪ねたのが「柏谷横穴群」。東西600m・南北250mにわたり、6~8世紀末に作られた県内最大規模の300基以上の横穴墓が残っていた。保存状態が良好な範囲は国指定の史跡に認定されている。約6.6万年前に箱根で起きた大噴火では西は富士市、東は鎌倉付近まで到達するような巨大な火砕流が発生したとのこと。柏谷横穴群はこの火砕流の堆積物が厚くつもっている丘陵に作られているのだと。「柏谷横穴群B群」を見る。南・東・西面の標高約20~30mの所に、前面に田方平野を望み、富士・箱根を背後に仰ぐ地に存在していた。柏谷横穴群の最初の学術調査は、1947年(昭和22年)日本大学の軽部慈恩によって実施された。群集する横穴を、A~Eの5地区に区分し、横穴の形態を5類型に分類しているとのこと。「自然な状態の横穴墓(B地区)西側に向いた斜面に造られたグループで、上から三段目にあります。現在は埋まっていますが、四・五段目にも横穴墓が確認されていますので、この西斜面にも今開口している数と同じくらいの数の横穴墓があるものと推定されています。写真は、この三段目の横穴墓を発見した時の発掘調査(一九七四年)のようすです。小さな穴は火葬骨を埋納したと考えられているミニ横穴墓です。」整備された横穴開口部。根っこの合間をぬって横穴が。「柏谷横穴群B群」を追う。B地区の1~6号墓は調査後に埋め戻して保存されているのだと。そして「柏谷横穴群A群」に移動する。公園の東側の斜面に掘られた横穴群で、125号と127号は伊豆地方で最古の横穴で、古墳時代後期の六世紀末頃であることがわかったと。入口は、閉塞石と呼ばれる石組みで塞がれていて、内部を玄室といい黄泉の国(あの世)となり死者が生活する場となる。食料品や食器(土器)や耳飾りなどの装飾品、武具、馬具などが副葬品として出土しているのだと。遺体は玄室の中に安置されて、閉塞石を積んで放置され、土をかぶせたわけではない。玄室の中で腐敗し、白骨化した後は長い時間をかけて風化したようで、骨は残っていなかったと。「埋めてある横穴墓ここから見上げた一番上の段のグループの横穴墓は、そのままにしておくと崩れてしまうので今は埋めてあります。これは横穴墓の保存方法のひとつです。この方法以外には、崩れる恐れのないものは現状のまま保存・公開ているものと、保存整備を行った後に公開しているものとあります。50号の左側で発見されたA・B二つの超小型の横穴は、火葬骨を納骨したミニ横穴墓と考えられています。」横穴は十分な奥行きもあった。「墓前域(前庭部)墓前域とは、遺骸(亡くなった人)を納めた玄室と呼ばれる部屋の前面に造られた、小さな広場で、前庭部とも呼ばれています。墓前域では、亡くなった人の霊(れい)を慰めるための供養祭のようなことが行われたと考えられています。そしてそれを示すように、その時に供えられたと思われる土器などの遺物が数多く見つかっています。」横穴に近づいて。修復、補強の跡も。玄室には凹んだ場所も。「国指定史跡柏谷横穴群全体で三〇〇基以上が東西六〇〇メートル、南北二五〇メートルにわたって造られたと考えられている静岡県内で最大規模の横穴墓(よこあなぼ)群です。横穴墓は、六世紀末頃から八世紀末頃までの二〇〇年間にわたって、お墓として利用されました。後半期には新たな横穴墓は造られず、今まであった横穴墓に追葬が行われ、最後の頃には火葬骨を納めた例もみられます。横穴墓が造られている地質は、箱根火山の噴火のときに流れ出た「箱根火山新期軽石流」と呼ばれる軽石を主体としたもので、加工がしやすい反面こわれやすいという特徴があります。昭和五十一年二月ニ十日に国の史跡に指定され、その後、発見された北伊豆で一番古い横穴墓が、平成十年七月三十一日に追加指定されました。」「横穴墓の形と部分の名前」。遺骸を安置した部屋・玄室の前に「閉塞石」が積まれ玄室を護っていると。家族は同じ玄室に埋葬される事があり、この「閉塞石」を一旦外して埋葬されるのだと。「柏谷横穴群A群」全体を見る。「柏谷横穴群の分布」。国指定史跡「柏谷横穴群」案内図。「史跡 柏谷横穴群」碑。再び、我々以外に観光客の姿は殆どなく。少しずつズームして。木橋の上から「植栽ゾーン」を見る。春先の花や紅葉も美しいようであった。最後に再び「柏谷横穴群A群」全体を見て、次の目的地に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.16
コメント(0)

そして「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地」の最初に訪ねたのが「高源寺」。伊豆へ流された源頼朝が平家の監視役の目を逃れ、遠く離れた山の中にあるこの高源寺で頼朝の乳母比企尼の計らいで文覚上人と源氏再興の密議をしたと言われ、平家討伐の初陣となる石橋山の戦い(1180年)に臨む際の旗揚げの地とも云われている.参道は苔むして古刹の風情が色濃い。静岡県田方郡函南町桑原1265。幟には「義時ゆかりの地 伊豆の国 源頼朝・北条政子の史跡を巡る北条義時ゆかりの地」と。「高源寺」碑。苔むした長い石畳とその先に「四脚門」が続いていた。「四脚門」。斜めから。扁額は山号の「寶船山」右側には苔生した石仏が。四脚門を潜って進むと苔生した石畳が更に続いていた。古木の下には石灯籠がひっそりと。歴史を感じさせる石畳・石段。左手には巨石の上に小ぶりの社が。歴史の趣を色濃く感じる「高源寺」の参道を楽しむ。頼朝、僧文覚も源氏再興を決断しこの参道を歩いたのであろう。頼朝公の乳母「比企尼の供養塔」。「比企尼の供養塔源頼朝公が伊豆に流された時、乳母である比企尼も現在の函南町大竹に住み、頼朝公を守られました。その比企尼の供養塔(宝筺印塔)です。」『一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。』とウィキペディアには。「鎌倉殿の13人」では草笛光子さんが、「比企尼」を演じている。なまこ壁のある白き蔵の如き建物が右手に。そして正面に「鐘楼門(しょうろうもん)」。「鐘楼門」は、鐘楼が付いた門。 二層で、下層が門、上層に梵鐘をさげる堂があるものが 多い。「鐘楼門」。「懸衣翁」像。懸衣翁(けんえおう、けんねおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆(だつえば)の隣にいるといわれる老人の妖怪である。奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという地獄の熟女「奪衣婆」の像。三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。「鐘楼門」内の「梵鐘」を下から見上げる。「鐘楼門」の先には岩を彫りあげた苔生した手水鉢があった。左手には「六地蔵」。「鐘楼門」を振り返る。「鐘楼門」の梵鐘をズームで。そして「本堂」。頼朝が蛭が小島に流されてから、その乳母である比企尼(ひきのあま)も伊豆に来て、頼朝に付かず離れずの、函南・大竹に起居していたことから、頼朝が比企尼に頼んで、この高源寺を文覚上人との面会場所として用意してもらったのだと。扁額「高源寺」。扁額の位置から、入口中心と屋根の位置がズレているのであったが。「寶船山 高源寺 縁起」案内板。「寶船山 高源寺 縁起當山は諸天神仙の霊地箱根山の旧蹟にして道昭法師行基菩薩万券上人弘法大師等諸法師の修法堂場として文武聖武嵯峨帝の御勅願所たり 古源頼朝公義旗を揚げんと欲するの時武運長久の祈願あり公甞て試むるに檜を以て椿に挟み柷して曰く椿寿八千才と云えり亦公が椎の樹下にまどろみし時其の実落ちて公が面を打てり公恨みて曰く若し椎なるとも実らざれとその椎実らず之敵軍降服の徴なりと云う。頼朝公が姫妾丹後局御懐妊の時参籠当山安置の子育地蔵尊に御祈願あり伊予国に落延る途次攝津国住吉明神の社庭に於て安ず其の時当山守護地蔵尊異人と為りて介抱せられたり神佛加護の霊験なりと頼朝公深く感激し寺領六十町歩を寄進せらる。當山の靈石靈木 七木 七石として伝えらるゝは頼朝公旗掛の松、諸天降臨の松、檜椿、実無し椎、陰陽杉、源平椿、つつじ椿、弘法の疱水石、弘法座禅石、龍頭石、龍胴石、龍尾石、怒り石、兜石 且寺后五丁奥に弘法大師爪堀不動尊あり」。屋根には源氏・源頼朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」が。「萬霊等」碑。ズームして。萬霊等(ばんれいとう)は三界萬霊等ともいい三界とは欲界・色界・無色界をいい、一切の生の生滅流転(せいせいるてん)してやむことのない世(迷界)のことである。萬霊等自体に有情(うじょう)と呼ばれるところのこの世の中における生命有るもの事々(ことごとく)無の霊を宿らせ、この塔を回向することにより霊を供養しようとした。なまこ壁の建物を正面から。寺蔵であろうか。2階建ての建物のようであった。白壁にも「笹竜胆」の家紋が確認できた。様々な角度から。「鐘楼門」を横から。墓地を見る。歴代住職の墓地であろうか。数多くの 無縫塔(むほうとう)が並んでいた。「本堂」を斜めから。右手に寺務所。「本堂」前から「鐘楼門」を振り返る。ズームして。「梵鐘」を再びズーム。境内横の坂道を進むと右手には小さな池が。寺の裏側から墓地、本堂を見る。車に戻る途中に「四脚門」、苔むした石畳を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.15
コメント(0)

ドラゴン橋の袂に4基のガス燈があった。実はこれ、本物のガス燈。現在がは照明というと、蛍光灯やLEDだが、こちらは正真正銘、ガスで照らすのだと。再びブーゲンビリアとの競演。「桜橋」の欄干中央には桜の花のモニュメント。反対側にも。ズームして。上を見上げて。雲ひとつないこれぞ快晴。「糸川橋」。そしてその先の石段を下り糸川の川面に降りる。ブーゲンビリアの枝が川面に垂れ下がり。「桜橋」の下には絵画風モニュメントが両脇に。正面に「柳橋」。川の堤防壁には様々な彫刻が。「柳橋」の欄干には水鳥の姿が、いやモニュメント。地上に上がって「糸川橋」を振り返る。「糸川橋」の欄干にはカモメが飛び交う姿が。モニュメントの水鳥と熱海桜。「渚歩道橋」を見る。「柳橋」から糸川の上流を再び。「渚歩道橋」。歩いて来た遊歩道、熱海桜を振り返る。ズームして。更に。「熱海城」をズームして。「熱海渚橋」を渡り、糸川沿いの熱海桜の並木を振り返る。正面から。「熱海親水公園」の遊歩道に上がって行った。ウネウネと曲がったスカイデッキ。南欧をイメージして作られたと。ヨットハーバー、その後ろの山の上に「熱海城」が。「初島」の姿が。「初島」は、静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島、端島、波津幾島との表記もある。 熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯である。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住している とウィキペディアより。熱海の山の斜面には多くの高級マンションが立ち並んでいた。そして駐車場に戻り、次の目的地に向かって進む。「JR来宮駅」前を通過。この駅が「熱海梅園」への下車駅。県道11号線・あたみ梅ラインを進む。右手前方に「熱海梅園」の入口が姿を現した。入口付近の紅梅はすでに開花が始まっていた。そして静岡県の熱海-函南を結ぶ県道11号線・熱函道路の鷹ノ巣山トンネル(L=1268m)を通過。その先の第ニ丹那橋(L=129m)手前のログハウスのbigbox の空き地に車を止め富士山の勇姿をカメラに納める。手前には僅かに白い雲が。「宝永火口」をズームして。「宝永火口」だが、表口とも呼ばれる富士宮口五合目から割と近い位置にあり、富士山の南東斜面、標高約2100mから3150m地点にかけて、3つの大きな火口が北西-南東方向に並んでいるのだ。これが、富士山の噴火史上もっとも激しい噴火のひとつであった宝永噴火(1707年)でできた「宝永火口」。3つの火口は山頂側から順に宝永第1、第2、第3火口と呼ばれている。一番大きい宝永第1火口の直径は約1.2km、深さ400m、富士山の山頂火口より大きいのだと。宝永噴火は第2・第3火口からの軽石噴火で始まった。その後第1火口からスコリア(たくさんの気泡をふくむ暗色の火山れき)を放出する噴火が約半月続いて、ようやく終息。この噴火では、わずか半月の間に0.7km3ものマグマが噴出したと。火山灰は、遠く離れた江戸の町にも降り続き、厚さで数cmも積もった。噴火が激しい時には江戸の上空は真っ暗となり、昼間でもろうそくの灯をともさなければならないほどであった。すり鉢状の巨大な宝永火口が、その噴火のすさまじさを物語っている。私が生きているうちに、再噴火があるのであろうか?山頂付近をズームで。更に。一番高い場所が最高峰の剣ヶ峰(3,776m)であろうか。駿河湾沿いの沼津市~富士市の市街が眼下に。富士市内の紙パルプ工場の煙突からの白き水蒸気も確認できた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.14
コメント(0)

熱海・糸川桜前に到着し、熱海市営第1親水公園駐車場に車を駐め散策開始する。国道135号に架かる「熱海渚橋」を見る。円形のサイトグラスのある小さな白い橋。そしてこの日の「第12回あたみ桜 糸川桜まつり」の糸川沿いの糸川遊歩道の散策を始める。今年の「第12回あたみ桜糸川桜まつり」と「第78回熱海梅園梅まつり」のポスター。八分咲きのいとかわ桜が青空に映えて。「あたみ桜」は、明治初期にイタリア人の手によってレモンやナツメヤシと共に、熱海に伝わったと言われている。開花時期が非常に早いのが特徴で、沖縄のカンヒザクラ(寒緋桜)とほぼ同時期の1月に開花することから、早咲きの桜として親しまれ、それを目当てに熱海を訪れる観光客もたくさんいるとのことであるが今年もオミクロンコロナ禍で・・・・!?。ひとつひとつの花が大きく、濃いピンク色をした美しいあたみ桜は、熱海を訪れる人々に少し早い春を感じさせてくれるのであるが。「熱海渚橋」の横にあったのが「渚歩道橋」。上流に向かって右側の遊歩道を進む。あたみ桜の開花時期は、例年1月から2月上旬。1つの枝に早期開花の芽と後期開花の芽の2種類を形成するため、開花期間が非常に長いのも、あたみ桜の特徴。一般的な桜が1~2週間で散ってしまうところ、あたみ桜は1カ月以上も咲き続けるので美しい桜を長く楽しめるのだ。前方に見えてきたのが、「渚橋」。大きな波の姿か欄干に。糸川の上流に向かって渚橋→ 柳橋→ 糸川橋 → 桜橋→ ドラゴン橋→ 新柳橋→ 御成橋 とデザインがそれぞれ異なる橋が姿を現すのであった。渚橋から下流側を振り返る。このあたみ桜は満開に。そして多くの「メジロ」の姿が。メジロはその名前の通り、目の周りが白く、縁取られていることが特徴。オスとメスで色味に大きな違いはないが、オスの場合はお腹に黄色の線が入っているのだと。桜の蜜を採食中の「メジロ」。目の周りが白く、縁取られていることが解るのであった。スズメより小さい「メジロ」。前方「糸川橋」の袂に満開となった「糸川あたみ桜 基準木」が。「糸川あたみ桜 基準木」案内板。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって、熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。」近寄って。「糸川あたみ桜 基準木」案内柱もあった。「熱海桜」碑。赤いブーゲンビリアの花も。更に遊歩道を進む。朝早いこともあり、人の姿は少なく。青空に映えるあたみ桜。石のベンチは草木に覆われていた。左手に「桜橋」。「坪内逍遥」の歌碑が左手に。「ちかき山 ゆきはふれゝと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう熱海をこよなく愛した坪内逍遥は、明治四十五年春ここ糸川べり荒宿に、別荘を新築した。やがて時移りこの地も栄え、夜ごとのざわめきを避けて、大正九年水口に移り双柿舎を営み、ひたすら文筆に明け暮れ、昭和十年、七十七歳の多彩多難な生涯を終えた。シェークスピアの完訳をはじめ、小説「当世書生気質」戯曲「桐一葉」「役の行者」舞踊「新曲浦島」「お夏狂乱」等の名作を世に送り、劇文壇、さらに早稲田大学文科の創設など教育面にも多くの先駆的な足跡を残した。ここに先生の熱海を詠まれた歌一首を刻して、先生の敬慕のよすがとした。」亀とマンボウのオブジェ。上部は波の姿が。鈴なりの花。「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。」そして次に「ドラゴン橋」に。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。欄干がドラゴンの骨格のように。そして「新柳橋」。「新柳橋」の欄干のモニュメントには揺らめく柳の葉の姿が。前方のベンチにはタコの姿が。タコがのんびりと日向ぼっこ。再び「メジロ」を追う。ズームして。「メジロの鳴き声」👈リンク も賑やかに。そして「御成橋」に到着。「御成橋」の名は、家康公が熱海を訪れた際、この橋を通って「御成り」になったことに由来し、橋には家康公が詠んだとされる句が刻まれていた。「春の夜の 夢さへ波の 枕哉」。 徳川家康熱海入湯句碑「春の夜の 夢さへ波の 枕哉」 慶長9年3月3日 徳川家康。「春の夜は短くすぐ明けてしまうのにそのはかない夢にもこの地・熱海の波が現れて来たのだ」か。慶長9年(1604年)3月、家康は2人の子供、義直、頼宣を連れて熱海に7日間滞在、本陣今井半太夫の湯亭に逗留した。関ヶ原合戦前の慶長2年(1597年)3月にも訪れ、熱海の湯で天下取りへ心身の疲れを癒した。計2度訪れたと。そして対岸の遊歩道を海に向かって引き返す。ヒラメのモニュメント。ブーゲンビリアとのコラボ。ズームして。ブーゲンビリアの花も負けじと濃いピンクの花を。再び「新柳橋」を見る。シャコガイの先にワタリガニ?が。ワタリガニ。マンボー。糸川には白き鳥が羽を休めていた。熱海桜をズームして。「静岡県都市景観賞 優秀賞 糸川遊歩道」。ドラゴン橋のドラゴンの姿。「ドラゴン橋は他の橋とは違い、広場や舞台のようになっており、橋の上でイベントを開くことができる。デザインは当時の市職員たちが話し合い、「話題になるようなものにしよう」と決まった。糸川地区とドラゴンに深い関わりがあるわけではなかったという。完成当時、斬新なデザインが地元で話題になった。その後、富士フイルムのテレビコマーシャルのロケ地になり、知名度はさらに上がった。鈴木さんは「アイドルがドラゴンの口に頭を近づけて写真を撮る様子が印象に残っている。今で言う『映える』場所だった」と笑う。かつて赤線地区だった一帯のイメージを変えたかった」と ネット情報から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.13
コメント(0)

2022年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。鎌倉時代を舞台に、主人公となるのは小栗旬演じる北条義時。合議制で集まった13人による権力のパワーゲームの中で、最も若かった義時が最高権力者になるまでを描くドラマ。1160年(永暦元年)3月11日、前年の平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となった。この時、頼朝は14歳。在地豪族の北条時政の娘で、のちに頼朝と結婚する北条政子はまだ幼女。それから数年後、北条時政邸では、のちに二代執権となる北条義時が誕生。源頼朝の武家政権樹立の歴史は、伊豆国から始まるのであった。1月30日(日)放送のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人の第4話では、8月17日を挙兵の日とした頼朝。標的は伊豆国の目代山木兼隆。兼隆を討った後は相模国へ進出して鎌倉を本拠とする計画。しかし、山内経俊が暴言を吐くなどなかなか兵が集まらず悩む頼朝と義時・・・そんな中、八重姫が矢を放って山木兼隆が館に居ることが知らせるという驚きの展開。そして、佐々木経高が平家征伐の最初の矢を放って源平の戦いが始まったのであった。そしてこの日は2月2日(火)、源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地・寺社遺跡を訪ねることに。この日も早朝6時に自宅を我が車で出発し茅ヶ崎の旅友を訪ねた。そこから旅友の車に乗り換え、二宮の先輩の家に向かう。国道134号の湘南大橋から朝焼けに淡く輝く富士山の勇姿を見る。湘南大橋を渡り終わると、前方に箱根の山の姿が。平塚市・花水川に架かる「花水大橋」からの日の出の光景。相模湾に朝の陽光の帯が。そして二宮の先輩も同乗して、熱海・糸川桜に向かって進む。前方に箱根・二子山の姿が。小田原市酒匂4丁目13付近の松並木の下を進む。「酒匂橋東側」交差点手前。「酒匂川」を渡る。「酒匂橋」から「明星ヶ岳」、「明神ヶ岳」を見る。小田原市本町2丁目を進む。「小田原城」はこの先を直進し800m先を左折と。国道1号早川口を左折して国道135に入り東海道本線に沿って真鶴方面に進む。西湘バイパス・新早川橋の下を潜る。国道135号を進むと前方左に真鶴半島が姿を現した。相模湾の水面が光る。この先の山の上にあるのが「石橋山古戦場」👈リンク。そして「JR真鶴駅」前を通過。前方に湯河原の街並みが見えて来た。そして2021/7/3 に発生した熱海市伊豆山の土石流災害で土砂が流れ込み、発生から26日間通行止めになった国道135号線の逢初橋(あいぞめばし)手前を通過。土石流は、同市伊豆山地区を流れる二級河川「逢初(あいぞめ)川」に沿うように流れ落ち、海沿いのここ国道135号を越え、海まで達したのであった。そして熱海の海光町バス停前から白亜の高級マンション「熱海サニーハイツ」を前方に見る。前方山の上に「熱海城」が姿を現した。 ・・・つづく・・・
2022.02.12
コメント(0)

「松陰神社」を後にして右手に「若林公園」を見ながら「国士舘大学世田谷キャンパス」方面に向かって進む。「国士舘大学世田谷キャンパス メイプルセンチュリーホール」を右側に見る。東京都世田谷区若林4丁目32。「学生・生徒の心と体の健康」と「活発な交流の場」をテーマに掲げる複合施設として、2013年にオープンした。 理工学部実習施設のほか、温水プール、フィットネスジム、アリーナ、柔・剣道場などの体育施設や学生ラウンジ、理・美容室などが入る施設であると。「国士舘大学 箱根駅伝 ご声援ありがとうございました」との横断幕が。今年の箱根駅伝の国士舘大学の総合成績は16位であった。国士舘大学中央図書館・情報メディアセンター。東京都世田谷区世田谷4丁目28−1。「国士舘大学」碑。そして前方右手に見えて来たのが「勝国寺」。「勝国寺」の「山門」。東京都世田谷区世田谷4丁目27。「山門」手前左側にあったのが「地蔵堂」。寺号標石「真言宗豊山派 青龍山勝國寺」。右手に「手水舎」。左手に「無縁供養塔」。「薬師堂」。扁額「薬師御堂」。内陣。「勝國寺の木造薬師如来立像所在地 (像) 世田谷区世田谷四丁目二十七番四号 青龍山勝國寺内. (文書)世田谷区世田谷四丁目一丁目ニ十九番十八号 区立郷上資料館内所有者 世田谷区世田谷四丁目二十七番四号 宗教法人勝國寺指定 平成十二年十一月二十八日内訳 木造薬師如来立像 一體 (附)天正二十年銘胎内納入文書一点材質・構造 材質不明、寄木造、像高五三・二センチ製作年代 室町時代銘文等 像内に、天正二十年(一五九二)に関加賀守朝種等を願主とし、備前阿快翁によって 彩色修理を施した旨を記す文書一枚が納入されていた。納入文書は現在額装され、 区立郷土資料館に寄託されている。本像は、胎内納入文書の存在により、中世まで遡る史料的裏付けを持っ区内唯一の仏像である。天正二十年の本像修復に、中世世田谷の地を領有していた吉良家の重臣らがかかわっており、世田谷とは縁深い仏像である。現在は薬師堂に安置されている。寺伝〔『勝國寺寺院明細帳』(昭和八年)〕では、吉良頼康のもとへ小田原北条氏より嫁いで来た室の持仏という。昭和初期頃には秘仏であった。吉良氏は縁寺に薬師像を祀っており、本像は、吉良氏と薬師信仰とのかかわりを示す遺例としても注目され、世田谷の中世史を考えるうえで極めて重要な、歴史資料的価値のある仏像である。」「木造薬師如来立像」をネットから。像高 53.2センチメートル。【https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/bunka/001/004/d00129077_d/img/001.jpg】正面に「本堂」。真言宗豊山派の一寺、創建は十六世紀中、開基は吉良政忠、本尊は不動明王。世田谷城の裏鬼門除けとして建てられた。「本堂、「山門」は昭和時代に再建されたもの。「常香炉」。扁額「勝國寺」。「天水桶」には「五七の桐」が。「本堂」を斜めから。「墓地入口」の案内。「齋村五郎先生顕彰碑」。墓地を見る。「勝國寺再建記念碑」。「本堂」前から「薬師堂」を見る。「本堂」前から「山門」を見る。「青龍殿」。斎場となっているようであった。「迎春」。「勝國寺」を後にして、西に向かって進むと「烏山川緑道」との交差路地の角にあった「品川橋」碑。「烏山川緑道」の「品川橋」案内板。「かつて農業用水として利用されていた烏山川は、都市化とともに暗渠化(水路にふたをかぶせること)されました。このせせらぎは、地域の方々が身近に水とふれあい、親しめる形で、烏山川のおもかげを再生したものですまた、隣接する城山小学校と一体的に整備し、水辺のある環境を創出しています。」「烏山川緑道」の豪徳寺駅方面を見る。「烏山川緑道」の世田谷城跡方面を見る。「世田谷区立城山小学校」が右手に。「豪徳寺」の裏側に向かって進むと「欅」の巨木が。「保存樹木」案内板であったが解読不能。東京都世田谷区梅丘2丁目4−5手前。「豪徳寺」境内の裏山沿いに沿って「豪徳寺駅」に向かって進んだのであった。そして「豪徳寺商店街」に入り、小田急線・豪徳寺駅に辿り着いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2022.02.11
コメント(0)

「吉田松陰先生 御墓所」案内板。社殿前には石灯籠が並ぶ(右)。社殿前の石燈籠(左)。近づいて。「石燈籠境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、毛利元昭公をはじめ先生門下の伊藤博文、山縣有朋などの縁故者より明治41年(1908)に奉献されたものです。その燈籠に刻まれた文字は書家高田竹山による八分隷書体によるものです。」右手には小さな祠も。「吉田松陰先生 御墓所」に向かって進む。「吉田松陰先生 御墓所」案内。石鳥居。右に曲がると「木戸孝允寄進の鳥居」。松陰先生墓域の入口に建てられている鳥居は松蔭先生墓所の修復の際、木戸孝允によって寄進された。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれてる。吉田松陰の家紋「五瓜に隅立て卍(ごかにすみたてまんじ)」の提灯。「吉田松陰先生他烈士墓所文久3年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御魂の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく小塚原回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同11年、福原乙之進を埋葬した。 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫冶良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。」「松陰先生墓域案内図」。それぞれの墓の説明。ネットから。左手に子爵野村靖 墓 天保13年(1842) ~明治42年(1909)(右)1 6歳の時松陰に師事、尊攘の事に奔走する。明治になり特命全権大使岩倉具視に随行して欧米各国を視察、帰朝して外務省に出仕。神奈川県令、逓信次宮、枢密顧問官、フランス外交公使等を歴任し、第ニ次伊藤内閣内務大臣、第ニ次松方内閣逓信大臣を勤める。遺言により松陰先生墓域内に埋葬。享年68歳。野村靖夫人 野村花子墓(左)明治44年埋葬。「松陰先生他烈士墓所」。近づいて。中央に 「松蔭先生墓」(吉田寅次郎藤原矩方墓)天保元年(1830) ~安政6年(1859)長州藩士、号は松蔭。年少より大義を唱え、松下村塾を主宰、明治維新の原動力となる有為の青年を多数輩出した。安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年3 0歳。松陰が眠る正真正銘の吉田松陰の墓。松陰の墓は全国に4か所存在する。斬首された遺骸を弟子たちが取り戻し葬った。●小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)。●後に小塚原回向院から改葬し、遺骸が眠る東京・松陰神社内のこの墓。●山口県萩の松陰誕生地付近にある墓(遺髪が納められた遺髪墓)。●山口県下関にある桜山神社の招魂墓(高杉晋作の発議によって創建された幕末志士達の 招魂場)。右に小林民部少輔 墓 文化5年(1808) ~安政6年(1859)諱は良典(よしすけ)。民部權大輔。鷹司家々士。尊王攘夷の志深く、安政の大獄に連座して獄死。小塚原回向院より改葬。享年52歳。左に来原良蔵多々良盛功 墓 文政1 2年(1829) ~文久2年(1862)長州藩士。尊王攘夷を唱え横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を戒められ切腹。芝青松寺より改葬。享年34歳。頼三樹三郎某姓醇 墓 文政8年(1825) ~安政6年(1859)儒者、本姓は橘、頼山陽の三男。尊王の大義を唱え安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年35歳。福原乙之進大江信冬 墓 天保8年(1837) ~文久3年(1863)長州藩士。討幕を策し、江戸刈谷藩邸にて古河藩兵に襲われ自刃。此の地に埋葬。享年27歳。来原良蔵妻和田春子墓没後松陰先生墓域に埋葬。明治8年。中谷正亮源實之 墓 文政11年(1828) ~文久2年(1862)長州藩士。松陰なきあと松下村塾を監し、義挙を画策したが、江戸にて病死。芝清岸院より改葬。享年35歳。長藩第四大隊戦死者招魂碑長州藩第四大隊の戦士者招魂碑。明治37年桂太郎によって建立。桂太郎は慶応4年に長州藩第四大隊ニ番隊司令を命ぜられている。綿貫治良助 墓 天保7年(1836) ~元治元年(1864)諱は直秀、長州藩士。禁門の変により江戸長州藩邸没収の際幕吏と争い自刃。此の地に埋葬。享年29歳。徳川家康奉納燈籠(内側の左右一対)禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって破壊された松陰の墓を明治元年、木戸孝允等が修復したという経緯があると。その墓所前の葵紋のついた石燈籠と水盤は修復を聞いた徳川が謝罪の意を込め奉納したと。葵紋があるのだが、現在は風化により紋は判別しにくい と。一対の右の燈籠(写真左)。一対の左の燈籠。徳川家奉納水盤。「徳川家奉納水盤」。「おみくじ掛け」。「御言葉みくじ」は、なかなかきれいな緑色。結ばれた様子は松葉の如し。再び「社殿」を見る。そして「松陰神社」を後にすると右手にあったのが「広沢公神道碑」。参道の左手、若林公園に続く敷地に、「広沢公神道碑」の大きな銅碑があった。敷地は広沢家の墓域になっているようで、コンクリー トブロックに囲まれ入ることは出来なかった。ブロック越しに碑の正面半分ほどが見えた。篆額は伏見宮依仁親王で「 故参議贈正三位廣澤公神道碑」とある。撰文は、当初落合済三に下命されたが没したため、高島張輔が受け継ぎ明治45年(1912)に完成させた。書は、杉山令吉で大正11年(1922)に揮毫している。左碑側、碑陰の文字は鮮明で塀の外側からもよく見えた。整斉とした楷書が清々しいのであったが内容は・・・???。その先にあったのが「桂太郎墓所」。近づいて。さらに「公爵桂太郎之墓」と刻まれていた。「桂 太郎墓弘化四年(1847)十一月二十八日、長門国阿武郡萩町(ながとのくにあぶぐんはぎまち)(現 山口県萩市)に生まれる。長州簿士として第二次長州征伐や戊辰戦争に参加、維新後の明治三年(1870)には近代的な軍事制度を学ぶためドイツに留学した。帰国後、山県有朋に 参謀本部の独立を建言、鎮台を師団に改編するなど明治陸軍の軍制改革に大きな役割を果たす。台湾総督などを歴任し、明治三十一年(1898)伊藤博文内開で陸軍大臣となった。明治三十四年(1901)には首相に指名され第一次桂内閣を組織し、三年後に勃発した日露戦争に際しては開戦を決定、首相として戦争を主導した。明治三十九(一1906)年に総辞職し、西園寺公望(きんもち)に首相の座を譲るが、第三次桂内閣の大正二年(1913)までは「桂園(けいえん)時代」と呼ばれ、安定した政治体制が築かれた。 明治四十一年(1908)には韓国併合の条約が調印されている。吉田松陰を散愛し、自らも明治三十三年(1900)台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して初代校長に就任、基礎作りに 尽力した。大正元年(1912)末、三度首相に指名されたが、幾ばくもなく総辞職し、翌二年十月十日急逝した。享年六十六。「平素業拝する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言により、当所に葬られた。」そして最後に2018年に「萩の松蔭神社」👈リンク を訪ねた際のブログを紹介させていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.10
コメント(0)

この日は1月14日(金)、新宿に用事があり小田急線で向かう。昨年、12月22日(水)に世田谷「豪徳寺」周辺を散策したが、時間的に「松陰神社」を訪ねるのは無理であったので、この日に訪ねることにしたのであった。この日も小田急線・豪徳寺駅で下車し世田谷線に乗り換えて「松陰神社前」駅で下車し300mほど歩いて松陰神社前に到着。 東京都世田谷区若林4丁目35−1。「松陰神社」。正面に「松陰神社」の一の鳥居。「府社 松陰神社」碑。府から幣帛(へいはく)を供進する神社。県社と同格で、官・国幣社の下位、郷社の上位にあった。「松陰神社明治十五年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱(かかえ)屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。松陰は安政三年(一八五六)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。松陰は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。」「松陰神社ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと) (吉田松蔭 先生)松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし安政の大獄に連座し、江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。明治十五年(1882)十一月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。」1世紀前の大正初期の神社社殿の様子と現在の境内の写真。「松陰神社旧鳥居柱」。「松陰神社旧鳥居柱松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総量約2 0トン程であった。平成2 3年1 0月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。「明治四十一年十月五十年祭典」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの」「吉田松陰先生留魂の地 松陰神社」案内板。画面にタッチするとビデオで案内が始まるのであった。「境内案内図」。左手に「神楽殿」。「掲示板」。「一月 松陰先生の言葉人は唯一の心のみ 心は唯一の誠のみ」と。「お神札・お守りのご案内」。「吉田松陰先生像」。近づいて。「吉田松陰先生像 (鋳造:平成25年 ブロンズ)明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。※大熊氏廣(安政3年(1856) ~昭和9年(1934) )明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21 ~ 22年滞欧しファルギ工ール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名」「手水舎」。「松陰神社道の道標」。「松陰神社道の道標旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)から松陰神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設した。明治4 5年乃木希典公により寄進。「徳富蘇峰植樹の碑」「景慕英風植樹表誠 肥後學生」と刻まれた石碑。「徳富蘇峰植樹の碑徳富蘇峰(本名猪一郎、徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学ぶ。政治的には桂太郎と密接な関係を持った。明治4 1年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、碑を建立した。」「勝守 勝絵馬」、「志守 志絵馬」案内。「勝」「志」の文字は松陰先生直筆文字写であると。そして「社殿」。内陣。「絵馬掛所」。この絵馬にかかれている「勝」の文字は吉田松陰先生の直筆の写しとのこと。この絵馬にかかれている「志」の文字は吉田松陰先生の直筆の写しとのこと。吉田松陰の名言「一日一字を記さば、一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三滿六千時を失う。」。「明治百年祭記念碑」。「松下村塾(しょうかそんじゅく)(模造)幕末に、吉田松陰が松本村(現・山口県萩市)で主宰した私塾。叔父(おじ)の玉木文之進(たまきぶんのしん)が天保十三年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こり。塾生やその門下に、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろふみ)など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材(いつざい)を輩出したことで知られています。本建物は、山口県萩の松陰神社の境内に保存されている松下村塾を模したものです。」「松下村塾松陰先生の叔父である長州藩十の玉木文之進が、天保13年(1842)萩に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅しましたが、その後、久保五郎左衛門(松陰の外叔父)が塾主となり復活し、安政4年(1857)まで引き継ぎました。更に、松陰先生が再投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治2 5年( 1892 )頃まで続きました。松陰先生は、安政2年(1855) 26歳の冬に出獄(米艦に乗船を企て投獄されていた)👈リンク してから、実家である杉家で親戚の子弟等に教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになりました。しだいに塾生が増えたため、安政4年(1857) 11月5日には杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰先生は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実践的教育を行いました。さらに塾生が増加して手狭になったので、安政5年(1858) 3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が塾生に教育を施したのは、僅か2年半程でありましたが、薫陶をうけた総勢90名程の塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。当神社にある模造松下村塾は、昭和13年12月に隣接する国士舘校内に松陰先生顕彰のため建築されたものです。当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利藩代官屋敷の古材が使用されました。(現在でも建材の多くは当時のものが残っています。)その後、昭和16年に国士舘から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築。平成8年に境内整備のため、現在の場所に移築。平成28年には維新150年記念事業の一環として約8ヶ月をかけ保存修繕工事を行いました。」「模造松下村塾の古瓦昭和13年、国士舘校内に模造松下村塾を建築するにあたり、すべての建築材料は荻で集め、詳細に模して建てられましたが、その際に使用された古瓦です。幕未期の毛利藩代官屋敷の古瓦であり、毛利家お抱え瓦職の阿川家が焼いたもので、瓦に「阿」の刻印が見られます。(現在、建物に使用している瓦は複製です)」「模造松下村塾建築当時の看板模造松下村塾が国士舘校内に建築された際「景松塾」と名付けられ、学生の修養道場として活用されました。「景松塾」標は萩松陰神社の社司市川一郎の筆と伝えられています。」「松蔭先生五十年祭記念碑」、「松蔭先生百年祭記念碑」。「松下村塾松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。松陰先生は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し師弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、野村靖、山縣有朋、品川彌二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。」「玉木正之乃碑明治十年三月(萩)に玉木家の長男として生まれる。父正誼は乃木希典の弟 母トヨは吉田松陰の姪。二代目文之進を継ぐが明治四十年正之に戻る。乃木希典大将の甥として、その葬儀の喪主をつとめるその前後の事情は渡辺洋一氏著『静寂の声』に詳しい。世田谷に昭和二年まで在住。のち故郷萩に戻り昭和二十九年二月十一日逝去永遠。画・記述は孫辻喜美子建立 平成十一年八月吉日」この松下村塾の雨戸は、この日は閉ざされていた。「松下村塾 平面図」。床の間を見る(ネット👈リンク より) ここにも「松陰先生像」が。近寄って。台座に「松陰先生像」と。社殿手前の左側には「社務所」があった。御朱印を頂きました。「松陰神社由緒御祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰先生)神社創建 明治十五年(一八八ニ]十一月二十一日松陰先生は天保元年(一八三〇)八月四日、長州萩(現在の山口県萩市)に藩士杉家の次男として生まれました。六歳の時に吉田家を継ぎます。松陰先生は学問をすすめるうちに鎖国状態の日本の将来を案じるようになり、欧米の実情を知ろうと黒船に自らかけあい渡米を企てましたが失敗し投獄されてしまいます。出獄後に松下村塾という私塾で教鞭をとり明治維新の際に中核を担うこととなる多くの若者を指導しました。しかし安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて三十歳の生涯を終えられました。その四年後の文久三年(1863)に松下村塾門下生であった高杉晋作、伊藤博文たちの尽力により、遺骨を小塚原から長州藩の抱地であった世田谷若林の地に改葬しました。そして日本が急速に近代化への道を邁進する明治十五年十一月、松陰先生の遺志を形にするため門下生たちが墓畔に社を築き、忠魂の鎮座するところとなりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.09
コメント(0)

次に訪ねたのが駒留(こまどめ)通り沿いにあった「実相院(じっそういん)」。「実相院」は、東京都世田谷区弦巻にある曹洞宗の寺院。詳名は鶴松山実相院。世田谷吉良氏との関係が深く、開基とされる吉良氏朝の法号実相院とその夫人の法号である鶴松院から寺号がつけられている。吉良氏の菩提寺である勝光院の末寺。森閑とした境内は、「弦巻實相院界わい」として『せたがや百景』に指定されている。1993年(平成5年)に造られた北側の「山門」。「曹洞宗 實相院 北門」碑。この石碑には「諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)」と。「諸々(もろもろ)の悪を作(な)すこと莫(なか)れ衆(もろもろ)の善を奉行せよ」最古の仏典とされる『法句経』に謳われた語句。中国の詩人で有名な白楽天は若いとき禅道を求め、刑州の山林で鳥巣(ちょうか)禅師と呼ばれ樹の上で仙人のような生活をする道林和尚を訪ねた。早速、道林に「仏教の根本の教えとは何か」と質問した。道林和尚は即座に「諸悪莫作、衆善奉行」即ち、悪いことをするな、善きことをせよと答えたのだった。あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて「そんなことは三歳の童子でも知っていることではありませんか、馬鹿にしないでください」反発したところ「三歳の童子でも知っているであろうが、八十の老人でさえ行うことは難し」と平然と答えたという。禅宗で好まれる句であると。北門の扁額「鶴松山」。参道沿いの枯山水の庭。右手には歴史を感じさせる石灯籠が並ぶ。正面に「南無観世音菩薩」と書かれた幟とその下に石仏が。近づいて。石仏の後ろには多くの石柱の如きものが。平成24年建立の「多宝塔(たほうとう)」。近づいて。「多宝塔は、寺院建築のうち仏塔における形式のひとつである。現代の寺院建築用語・文化財用語としては、一般に、平面が方形(四角形)の初層の上に平面が円形の上層を重ね、宝形造(四角錐形)の屋根を有する二層塔婆を「多宝塔」と呼称する」とウィキペディアより。様々なアングルで。多宝塔前の石灯籠。岩の上に「五七の桐」の軒巴瓦 (のきともえがわら)が。稲荷大明神の朱の鳥居。稲荷大明神の幟。稲荷大明神の社殿。手水場。鐘楼。梵鐘。境内に2.26事件で殺された高橋是清の髭墓があった。この鬚墓だが、是清翁の愛顧を受けていた永井如雲という画家が、生前の是清翁から鬚をもらい受け、保存していた、その後、高橋家の許可のもと、ここに鬚墓を建てたと。本堂。吉良氏朝の開基。天永琳達の開山。徳川家康の江戸入府後、吉良氏は当地で閑居していた。扁額「鶴松山」。サルスベリの古木。寺務所であろうか。扁額は「不露頂」か?この建物?扁額は「無」と。ここにも本堂の手水場が。七重塔と五輪塔。別の場所から。仏様が刻まれた石塔。近づいて。蓮の花を持つ石仏。聖観音菩薩像であろうか。通路の先にも入口が。地蔵菩薩像。ズームして。曹洞宗 鶴松山 実相禪院寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。天正十八年(一五九〇)、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は城を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。徳川家康が江戸入府後、氏朝は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長八年(一六〇三)示寂した。「新編武蔵国風土記稿」には、「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌のみ本堂に安置せらる。慶安元年(一六四八)、家光より朱印地十石二斗二升を賜っている。」実相院の山門。山門の扁額「實相禅院」「曹洞宗 實相禪院」碑。創建は天正16年(1588年)で、天永琳達という高僧(勝光院の中興)の隠居寺として創建。江戸時代に10石の朱印状を拝領した古刹。山門の左手に石碑が2基。「世田谷百景 實相院界隈」碑。「武蔵の國 世田谷の史跡当時は鶴松山と号し曹洞派の禅寺にて本尊に薬師如来を安置する天正元年(一五七三)・世田谷城主吉良第八代左兵衛督従四位下源氏朝(慶長八年九月六日歿一六〇四)の創立天永琳達禪師(元和二年八月十一日寂一六一ニ)を開山とする。吉良家は第五十六代清和天皇の末裔八幡太郎義家の子孫で建武元年世田谷に居城世田谷御所と称し禄高拾八萬石の大名にして天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東征伐により滅亡した実相院は勝光禅院に属し吉良家滅亡と共に衰えたその後徳川幕府より御朱印地として実相院領本村(現弦巻三丁目)及び八幡脇(現松ヶ丘小学校一帯)実相院丸(現世田谷ニ丁目ボロ市通り)の地と禄高拾石二斗二升を賜った(慶安元年七月十七日付・一六四八) 慶安四年七月(一八六八)御朱印を返還し現在に至る。境内に氏朝夫妻の塚のこる。」山門の対面にあったのが「世田谷区立松丘小学校」。「大山道児童遊園」の横にあった「八幡神社」。「大山詣の途中で一服する旅人」が「大山道児童遊園」の前の小広場に。頭をとまげで結っている旅人が、道端で一休みし。商家のご主人でこの像は、大山詣をする旅人の像。近づいて。「大山詣 大山道旅人の像江戸時代 中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山 、世田谷 、二子 、溝ノ口 、長津田 、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋 、世田谷通り 、ボロ市通り 、そして弦巻 を通って、用賀 、二子玉川に行っていました。しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島 や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってききました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの所に設置したものです。「蛇崩川 洗い場跡」碑。今は公園であるが、昔は収穫した野菜など川の共同の洗い場で洗っていたのであろう。素朴な生活スタイルを偲ぶのも楽しい。うっそうと茂る大木もまた雰囲気を出していた。進行方向の西の空にはオレンジ色に。「弦巻五丁目」交差点を直進する。壁の内側は「馬事公苑」。2020年夏季オリンピック・パラリンピックの競技会場の一つに選定され、馬場馬術競技および障害馬術競技ならびにパラ・ドレッサージュ(障害者馬場馬術)競技が行われたのであった。ここを左折して進む。用賀七条通りを南西に進む。左手にあったのが「用賀本村稲荷神社」。用賀本村の天神宮脇に祀られていたと伝わるお稲荷さま「用賀本村稲荷神社」。かつてこの地(本村)の鎮守だった天神宮の境内に祀られていたのですが、明治期に天神宮が用賀神社に合祀された際に、稲荷社はそのまま残されたのだと。それを地元の人々が「本村稲荷」と名づけ、奉祀するようになり今日に至っている と。用賀五条通り右手には「旧用賀名主邸」の門。「旧用賀名主邸」碑。江戸時代後期に用賀村名主を勤めた飯田安之丞、遡る18世紀中頃(元文時代) 彦根藩世田谷領の代官を勤めた飯田平兵衛の旧家。初代の飯田図書吉慶は16世紀(永禄元亀時代)に小田原北条氏の命により、当地用賀の開発を行った。当家の造りは昭和30年ごろに内外装の改修を受けて、平成18年まで住居として使われていたが、骨格となる柱や梁は、1780年頃に建設された当時のものがそのまま使用されており、およそ240年前の建築となる。テレビ、映画、雑誌などのロケーションスタジオとして、幅広く活用されている と。そしてこの日の散策の最終目的地の「用賀駅」に到着。駅前のイルミネーションには既に灯りが。この場所のイルミネーションはオレンジ一色であった。そして、用賀駅から田園都市線、大井町線、池上線を利用して五反田駅に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2022.02.08
コメント(0)

「世田谷通り」交差点を渡り「世田谷代官屋敷」に向かって進む。左手にあったのが入口にあった「天祖神社」碑。「上町天祖神社」とも呼ばれ、創建年代は不詳だが、もと横根の地(伊勢森)にあった稲荷社の祠を、嘉永己酉(1849)当地へ移して新たに祠を作ったと伝えられる。明治42年世田谷八幡宮に合祀されましたが、昭和6年地元の要望により本殿を建築、昭和29年宗教法人として登記されました。と。石鳥居と社殿をズームして。その先右手にあったのが「世田谷代官屋敷」。「世田谷代官屋敷」は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれています。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、そのことにより昭和27年11月3日、「都史跡」に指定されました。また、昭和53年1月21日、大場家住宅主屋及び表門の二棟が、近世中期の代表的上層民家としての旧態を保存しているということで、住宅建造物としては都内で初めて「国指定重要文化財」に指定されています。「大場家住宅表門」を見る。表門は1753年頃の建立と推測される。東京都世田谷区世田谷1丁目29−18。「都史跡 世田谷代官屋敷」碑。「重要文化財 大場家住宅この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものであります。大場家は、元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したのでその役宅としても使用されていました。江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和53年1月21日国の重要文化財に指定されました。」「世田谷代官屋敷江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永一〇年(一六三三)、井伊家が世田谷領一五箇村(後に二〇箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治四年(一八七一)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約七〇坪(約二三一・四㎥)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺の表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。」「東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習) 世田谷のボロ市伝承地 世田谷区世田谷一丁目・弦巻五丁目 ボロ市通り・世田谷通り(一部)・駒沢公園通り(一部)保存及び開催責任者 世田谷区世田谷一丁目二十三番5号 せたがやボロ市保存会指定年月日 平成十九年三月十五日世田谷のボロ市は、天正六年(一五七八)に小田原城主北条氏政 が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に六日開かれる六斎市 であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。この市は、明治六年(一八七三)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などか市商品の大半を占めるようになったからである。ボロ市は四〇〇年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。」隣りにあった「世田谷区立郷土資料館」案内板。正面に巨大な「たぶのき」の老木」。「世田谷代官屋敷 案内図世田谷代官屋敷(大場代官屋敷)世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20ヶ村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷ともばれています。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、昭27年11月3日、「都史跡」に指定されています。また、昭和53年1月21日には大場家住宅主屋および表鬥の2棟が、住宅建造物として都内で初めて国の「重要文化財」に指定されています。1.主屋この屋敷は、大場家7代目当主六兵衛盛政により、元文2年(1737)頃に建てられました。同4年に盛政が代官に登用され、宝暦3年(1753)には大規模な改修・増築が行われています。現在の主屋は、昭和42年に往時の姿に復元されたものです。2. 表門寄棟造 、茅葺の長屋門 で、西側に番所 を備えています。宝暦 3年(1753)に主屋改修とあわせ建築されたものと考えられています。3. 式台玄関低い板敷台(武台)を備えた玄関で、彦根藩の役人などの出入口として使われました。4. 白州代官屋敷の白州 は、主に領内の名主が、藩の役人に謁見する際使用されました。5. 白州通用門(中門)6. 内蔵7. 井戸」大場家住宅表門を内側から見る。「大場家住宅主屋桁行17.3m、梁間11.0m、寄棟造、茅葺、北面玄関附属 主屋は1737年の築で国指定重要文化財。1753年の大改造で代官屋敷に相応しい格式を整えた(重文指定時は宝暦3年(1753年)に新築されたと考えられていたが、その後の解体修理の結果、1737年に建てられたと考えられている)。この住宅は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20ヵ村の代官を世襲した大場家の役宅で、現存する表門および主屋は、いずれも江戸後期に建造されたものである。主屋は桁行17.3m、梁間11.0m、寄棟造、茅葺の建物で、北側に玄関を設ける。たちが高く、堂々とした造りの住宅である。都内唯一の大名領の代官屋敷で、全国的にも数少ない貴重な遺構である。」「白州通用門」。前庭を散策する。再び主屋の玄関。前庭の九重塔。主屋の間取り図。別の拡大図。「板の間」。裏口から入り土間にある台所を見る。ズームして。「板の間」の奥に「役所次の間」(左)と「役所の間」(右)。「代官居間」とその奥に「切腹の間」。「竈(かまど)」。土間の入り口の左には「世田谷 御代官所」と書かれた提灯立てが対で置かれていた。二階座敷。老梅越しに主屋を。井戸。再び主屋。内蔵。代官屋敷の敷地内に建つ「世田谷区立郷土資料館」には、桜田門外の変の急報に接した当時の緊迫感や領内の慌ただしい動きを伝える大場美佐(当時の代官・大場与一の妻)の日記が寄託・展示されているとのことだが、今回は立ち寄る時間がなかった。そして再び「世田谷代官屋敷」の「大場家住宅表門」を見る。正面に廻って。そして次に「世田谷代官屋敷」の南側にあった「浄光寺」を訪ねた。東京都世田谷区世田谷1丁目38−20。1444年(文安元年)、専蓮社然誉上人によって開山された。1796年(寛政8年)の火災で多くの寺の記録を失っている。この火災以降、屋根は瓦葺となっている。墓地には、彦根藩世田谷領の代官を務めた大場家累代の墓がある。しかし、この日の山門は閉ざされていた。山門前の石仏。「浄土宗 浄光寺」碑。扁額「浄光寺」。「本堂」をネットから。【https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1066455-d9781889-Reviews-Joko_ji_Temple- Setagaya_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.07
コメント(0)

「世田谷城阯」を後にして、次の目的地の「勝光院」へ向かって進む。途中、「烏山川緑道」を横切る場所にあったのが「豪徳寺橋」碑。昔はここに「烏山川」が流れており「豪徳寺橋」が架かっていたのであろう。そしてこの「烏山川」は地下水路となり埋め立てられ「烏山川緑道」となったのであろう。更に進み、再び「東急世田谷線」の踏切を渡る。「勝光院」に向かって住宅街を進む。そして「勝光院」への入口に到着。東京都世田谷区桜一丁目26-35。寺号標石「曹洞宗 延命山 勝光院」。新装なった竹垣・建仁寺垣(けんにんじがき)に沿って参道を進んでいくと直ぐ左にあったのが、墓地への新装なった入口門。入口門の先には、綺麗に掃き清められた墓地そして通路があり進んで行った。目的は「世田谷城主吉良家の墓所」。「吉良氏」👈リンク と言えば、まず忠臣蔵の吉良上野介義央が有名。そのことから、吉良氏の領地は、三河の吉良であるということも良く知られている。よって吉良上野介は三河吉良氏と言われている。一方、世田谷の領主の吉良氏は奥州(武蔵)吉良氏といわれ、系統が異なるのだと。先程世田谷城跡を訪ねたが、14世紀後半に吉良治家が世田谷郷に居館を構えたことに始まるのであった。もともと、吉良氏は、足利氏の一門。鎌倉時代に、足利義氏の長男の長氏が三河国碧海郡吉良荘を本拠としたのを契機に、「吉良」を名乗り出したことが始まりであると。また、足利義氏の四男の義継が、兄の長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗る。兄の長氏の家系は「三河吉良氏」となり、弟の義継の家系を『奥州吉良氏』というのだと。左手にあったのが「六地蔵」。そして直ぐ右手にあったのが「世田谷城主吉良家の墓所」。「勝光院墓地のほぼ中央に所在する吉良氏墓所には、義祇(明暦3年没、1657年)以降の吉良氏代々の墓が置かれています。墓石の形態は宝篋印塔、五輪塔、位牌型などで、整然と並んだ墓石のほか、区画の隅に集積された古い墓塔があります。同墓所内で最も古い年紀をもつ墓石は、貞和5年(1349年)で、「興善寺殿」の院殿号と「吉良頼氏」の名が刻まれた宝篋印塔です。しかし、その制作は同塔側面に刻まれた寛永19年(1642年)とみられており、江戸時代になって追善のために建立したと考えられています。」とネットから。勝光院は、建武2年(1335)に吉良氏によって、金谿山龍凰寺として創建したが、天正元年(1573)には、吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号より興善山勝光院と改称した。天正19年(1591)には、徳川家康より、30石の御朱印状を拝領した。世田谷区指定史跡の吉良家歴代のこの墓所。大きな百合の花や黃菊の花が手向けられており、品格のある空間をより高めていたのであった。「豪徳寺」の「伊能家墓所」如き墓石の案内がないため、墓石人物の特定は出来なかったが。最奥正面に並ぶ「宝篋印塔」の墓石群。勝光院内のこの吉良家墓所には氏朝の孫・義祗以降の一族の墓が、全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が10数基あるとのこと。正面の右側の墓石群。正面左側の墓石群。「吉良氏墓所吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。」正面に向かって右側横の墓石群。正面に向かって左側横の墓石群。「墓所内の隅に集積された墓塔が十数基」がこれであっただろうか。隅っこには行き場がないといった感じで墓石や塔がきれいに並べてあったが。そして幕臣の「廣戸備後正之」も、この寺に葬られていた。廣戸正之は駿河の出身で、今川義元に仕えていた。今川家の没落後に徳川家に仕え、致仕後に世田谷に隠棲した。1612年(慶長17年)に死去し、勝光院に葬られている。なお、勝光院第2世住職観堂宗察も、廣戸氏の一族である。左の墓石には「廣戸備後正之月翁玄之墓」、右手の墓石には「心叟永本居士 廣戸半十郎」と刻まれていたが、一番右側は不明である。そして「勝光院」の墓地を見る。墓地内から「客殿」その奥の「開山堂」を見る。「吉良家の墓所」を後にして、「勝光院」の参道に戻り「山門」に向かって進む。山門の前には竹林を背にして一体の地蔵様が三界萬霊の慰霊碑の上に立っていた。まるで竹林を守るがごとくに。「三界」とは欲界・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)趣きを感じる地蔵様なのであった。そして竹林もきれいに整備されていた。左手にあったのが「客殿」。そして「山門」前まで進む。「山門」を潜り、石段を上って行った。石段を上り終わると右手には竹林を背に「鐘楼」が。ズームして。廻り込んで。「勝光院の梵鐘所在地 世田谷区桜一丁目二十六番三十五号所有者 世田谷区桜一丁目二十六番三十五号指定 平成十二年十一月二十八日製作年代 元禄十一年(一六九八)作者 加藤太郎兵衛吉高材質・構造 銅鋳造総高 一四四・五センチ本梵鐘は、元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され、今日に至っている。梵鐘の形姿は、優美で均整がとれ、各所に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。本梵鐘は、吉高の力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この時期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。近世世田谷の歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも、本梵鐘は貴重な遺品である。」そして「勝光院 本堂」。現在の「勝光院」宗派は曹洞宗、山号は延命山。案内板によると、建武二年(1335年)に吉良治家氏(法名興善寺殿月山清光大居士)によって創建され、初めは臨済宗の金谿山龍鳳寺と名付けられていたと。「新編武蔵風土記稿」によると、開山は吟峯公禅師となっている。その後は衰退していったようで、天正元年(1573年)に吉良氏朝が天永琳達禅師を中興開山として、父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森居士)により興善山勝光院と改称し、この時に臨済宗から曹洞宗に改宗したのだと。天正十年には客殿(旧本堂)の建立を行い、その時に家臣の関加賀守が現在の本尊である虚空蔵菩薩像を寄進したのだと。扁額は「興善窟」か。「本堂」に右側にあったのが「庫裡」。火灯窓・花頭窓が美しかった。こちらの建物は「書院」の玄関。近づいて。「勝光院書院所在地 世田谷区桜一ー二十六ー三十五所有者 延命山勝光院指定 昭和五十七年十二月二十八日建築形式 一重 寄棟造 茅葺規模 桁行 四・五間(八・一八メートル) 梁間 四・〇間(七・ニ八メートル)この書院は、勝光院の旧寺地にあったが、天保四年(一八三三)の諸堂再建の際に曳屋され、現在地に移されたものである(小屋束墨書銘 、大場弥十郎 著「自然賛ー 巻五ー」)。当書院の間取りは、四間取りで、南側の表座敷二室と、北側の裏座敷、納戸座敷の二室からなる。昭和五十二年の改修で内縁を廻らしたが、当初は表座敷二室と南側と西側が外縁の切目線で、東側の表座敷、裏座敷の東・北側は内縁のすのこ縁が廻り、雨戸が建て込まれていた。納戸座敷の北、西側には縁は廻らず、開口部は三本溝で舞良戸二本と明障子一本の建具が入っていた。表座敷二間のうち、西側の八畳が上座敷で、北側に床間、天袋付違棚、西側に平書院を構える。納戸座敷を除く三室はいずれも仕様が同じで、柱、長押、竿縁の各材は面皮付の杉材を使っている。壁は漆喰壁であったが、当初は大津壁(黄土)であった。柱間寸法は六尺(一・八二メートル)、材質は杉が使用されている。建築年代は、柱枘より「文政六年十月二十七日」(一八二三)と記された墨書の他、同年銘の棟札から明らかである。当書院は、江戸時代後期の数寄屋造書院形式を伝える貴重な遺構 である。」この書院は文政6年(1823)に横根村(現在の大蔵1丁目付近)の棟梁・岡庭政右衛門の手で建立されたもので、本堂の裏手に位置している。 【https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21683/detail/51160350/】より寄棟造茅葺の建物で、南側に表座敷二間と北側に裏座敷、納戸座敷を配した四室からなっている。内部は数奇屋風の書院造りで、上座敷には平書院、床脇を備えた床構えがある。 【https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21683/detail/51160350/】よりこの巨大な石から削り出した水盤には水はなく。「勝光院」を後にして進むと、ここが「勝光院」の参道入口。昔は150mほどの参道の両側にはソメイヨシノが植えられていて、ちょっとした桜並木になっていたと。今ではそういった面影は全く無かったが。「禪曹洞宗 勝光院」碑。「瀬田貫井線・都道472号線」を南に向かって進むと都道3号線・世田谷通りと合流する場所にあったのがスーパーマーケット「オオゼキ上町店」。左手にあったのが「東急 世田谷線 上町駅」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.06
コメント(0)

正面に「法堂(本堂)」。豪徳寺の敷地内の建物は禅宗伽藍配置の基本通りに、手前から山門、仏殿、法堂(本堂)と一直線上に建てられていた。木製で古い山門や仏殿に対して法堂は昭和42年に鉄筋コンクリート造りに改築されたので、観光客にはあまり面白味がないようで素通りしていく人が多いのかもしれない。ただ近年では仏殿と法堂が分かれている寺が少なくなってきているので、世田谷区内でこういった贅沢な配置になっていること自体が貴重。扁額「豪徳禅寺」。昭和42 (1967)年に建て替えられた法堂。聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、地蔵菩薩立像が安置され、寺宝の井伊直安作「井伊直弼肖像」が飾られている。「法堂(本堂)」前から「仏殿」を見る。「開祖堂」。「法堂(本堂)」の左手にあり、白く漆喰壁の「納骨堂」。六角形の「納骨堂」。見事な「相輪」。上から順に宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる。受花(請花):飾り台。蓮華の花。伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。露盤:伏鉢の土台。「納骨堂」近くの石庭。「法堂(本堂)」と「仏殿」の間の境内を見る。「法堂(本堂)」と「納骨堂」。「招福猫奉納所」の「招福猫」の数に圧倒されたのであった。奉納する決まりは特にないが、招福猫児にこめた願いごとが叶った後に奉納する方が多いようだ。豪徳寺では、大きさの違う招き猫が9種類販売されていると。この写真にも7種類?再び「仏殿」を横から。扁額「選佛場」。「選佛場」は禅宗寺院内にある僧の坐禅する禅堂。僧堂のこと。「鐘楼」を見る。「三重塔」と手前は枝垂れ桜か。そして「東門」は閉ざされていた。「東門」から引き返し、「三重塔」、「仏殿」を見る。「山門」を「仏殿」側から見る。そして「豪徳寺」を後にして、城山通りを南東に進むと左手にあったのが「世田谷区立世田谷城阯公園」。東京都世田谷区豪徳寺2丁目14−1。昭和15年に開園した世田谷区内唯一の「歴史公園」で「東京都指定文化財」にもなっている。公園内には、昔のおもかげを残す土塁や丘、谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園で、世田谷百景にも選ばれている。さぎ草の伝説の主人公「常盤姫」もここに住んでいたと。なお、世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により、武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであると言われている。以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれた。1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にしたため、廃城となったと。「世田谷区立世田谷城阯公園」案内板。「世田谷城阯公園(現在地:豪徳寺ニ丁目)世田谷城の南東端の郭を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。「周辺史跡等案内」①国史跡 彦根藩主 井伊家墓所(豪徳寺ニ丁目 豪徳寺内)豪徳寺の前身は弘徳院と称し、万治2年(1659 )に没した彦根藩主 井伊直孝(なおたか)の菩提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼(なおすけ)など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303基を数えます。②区史跡 吉良氏墓所(桜一丁目 勝光院内)勝光院は、天正元年(1573)、吉良氏朝(うじとも)が父頼康の菩提のため、吉良治家(はるいえ)が開基となって創建した龍鳳寺を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まるとされ、以後代々の菩提寺となっています。墓所には、明暦3年(1657)に没した吉良義祇(よしまさ)以降、代々の墓が置かれています。③世田谷八幡宮(宮坂一丁目)天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。また、世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせもっていたともいわれています。④国重要文化財 大場家住宅主屋及び表門 (都史跡 世田谷代官屋敷) (世田谷一丁目)江戸時代、彦根藩世田谷領20カ村の代官職を務めた大場家の住宅で、敷地には世田谷区立郷土資料館があります。」世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が流れ天然の堀を成していた。開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城阯公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられている。石段を上がって行った。下方には世田谷城阯公園内から北に向けて延びる、空堀及び土塁の姿が確認できた。空堀及び土塁の姿。堀にかかる木橋を渡る。空堀が至る所に張り巡らされているようであった。東側に廻り込み、下に降りる。「世田谷城跡 都指定旧跡世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状の先端部に立地し、西・南・東の三面に鳥山川が蛇行し、北には小支谷が入る。十四世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、十五世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、十六世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、亨禄三年(一五三〇)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、ぞの庇護下にあったが、天正十八年(一五九〇)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。世田谷城の濠・土塁の構造は天文六年(一五三七)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており十六世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。」再び「世田谷区立世田谷城阯公園」案内板。「世田谷城阯」案内図。「世田谷城跡」案内板。「吉良氏と世田谷城世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366)、吉良治家(はるいえ)によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌(どうかん)と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁威関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。」「江戸名所図会にみえる世田谷城跡」。「世田谷城跡周辺」の航空写真(平成19年(2007)撮影)「城郭構造世田谷城は目黒川の支流、烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。城郭の構造としては中央に位置する郭(A)は南北約120m東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。世田谷城阯公園には、土塁と堀の一部が残されています。世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭(A を中心として複雑に展開する8カ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭(A) ~ (G )周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。」「世田谷城の城郭構造(推定)」。そして西の隅には井戸もあったがこの奥には入ることは出来なかった。吉良氏と言えば、まず忠臣蔵の吉良上野介義央が有名。そのことから、吉良氏の領地は、三河の吉良であるということも良く知られている。忠臣蔵の吉良上野介義央は三河吉良氏と言われているのだ。一方、ここ世田谷の領主の吉良氏は奥州(武蔵)吉良氏といわれ、系統が異なるのだ。もともと、吉良氏は、足利氏の一門。鎌倉時代に、足利義氏の長男の長氏が三河国碧海郡吉良荘を本拠としたのを契機に、「吉良」を名乗りとしたことに始まりであると。また、足利義氏の四男の義継が、兄の長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗った。兄の長氏の家系は『三河吉良氏』となり、弟の義継の家系を『奥州(武蔵)吉良氏』というのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.05
コメント(0)

さらに「井伊家墓所」の散策を続ける。12代藩主井伊直幸・三男、井伊直富・正室(守真院殿)の墓。「守真院殿滿光貞詮大姉」。14代井伊直憲・正室(春照院殿)の墓。「春照院殿宜室妙貞大姉」有栖川宮幟仁親王王女・宜子。12代井伊直亮・継室(耀鏡院殿)の墓。井伊直朗女。「徳應謙道首座塔」と。これは、井伊直弼の墓所を生涯守り、明治34年に79歳で没した元彦根藩士・遠城謙道の墓なのだと。「櫻田殉難八士之墓」。安政 7年 3月 3日に登城中の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪士等の襲撃を受けた際、主君を護衛し殉難した 8人を顕彰した碑「桜田殉難八士之碑」。殉難した 8人 ( 即死者 4人、後に死亡した者 4人 )、日下部三郎右衛門、河西忠左衛門、沢村車六、小河原秀之丞、越石源次郎、永田太郎兵衛、加田九郎太、岩崎徳之進。裏面には以下の名が順に刻まれていた。(1)日下部 三郎右衛門 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(2) 河西 忠左衛門 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(3) 沢村 車六 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(4)小河原 秀之丞 ⇒ 有村治左衛門を切るも返り討ちに遭い、腕を切られ眼球が飛び出る(5)越石 源次郎 ⇒ 負傷、帰邸後死亡(6)永田 太郎兵衛 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(7)加田 九郎太 ⇒ 斎藤監物(水戸浪士)と切り合い、現場で死亡(8)岩崎 徳之進⇒ 伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡ちなみに、命が助かった他の武士達だが、彼らには後年、主君を守れなかった罪を問われ、重傷者は流罪、軽傷者は切腹、無傷だった者はなんと斬罪が言い渡されたのだと。左に「清純院殿誠徳玄意大居士」と刻まれた墓。右に井伊智ニ郎「清霜院殿真月智梅大居士」 井伊智ニ郎正室「清心院殿梅莟慧香大姉」中央に「清明院積操里○大姉」と刻まれた墓。井伊智ニ郎は井伊直弼の三男、井伊直咸(いいなおとも)。最後の藩主井伊直憲の同母弟。近衛文麿の妻・近衛千代子の外祖父。明治時代は士族に列し、智二郎と名乗り滋賀県で過ごしたという。南東方向の墓石。南側隅にあった墓石左には井伊直忠「直心院殿忠山琴堂大居士」。旧彦根藩主井伊家の第14代当主、最後の藩主だった井伊直憲の長男。右には井伊直忠夫人・斎藤ふく「清操院福賢貞順大姉」と。14代井伊直憲(忠正院殿)の墓。「忠正院殿清莭怒堂大居士」。14代井伊直憲・継室(覺正院殿)の墓。「覺正院殿端操恒道大姉」。13代井伊直弼・側室(柳江院殿)の墓。「柳江院殿心月明圓大姉」。2代井伊直孝・四男直時・正室(乾光院殿)の墓。 「乾光院殿桂觀寿昌大姉」。再び歴代彦根藩主や室(正室 、側室 、継室)の墓を見る。北側にも多くの墓石が並ぶ。写真右側に4代藩主 井伊直興・息女(栄寿院殿)の墓。7代井伊直惟・息男 金蔵(梅樹院殿)の墓。 「梅樹院殿幻海法眞大禪定門」。4代井伊直興・息女(榮寿院殿)の墓。 「榮寿院殿圓通智光大姉」。北側の墓石群。北西側の墓石群。こちらの墓石の上には仏様が乗っていますが…首がない。童女とあり幼子の墓。井伊家の墓所の前(右手)の石仏ズームして。「井伊家墓所」をあとにして「三重塔」まで戻る。再び「仏殿」を見る。「仏殿」内部の扁額は「大谿山」。内陣の三仏。ズームしすぎました。「久昌殿(きゅうしょうでん)」葬儀ホールのようであった。「仏殿」を横から見る。「選佛場」と書かれた扁額が掲げられていた。「種月園」と書かれた扁額が掲げられた門。井伊直弼の遺愛の茶屋であった『種月園』の門。種月園は非公開とのことだそうだ。「受付」に位置づけられている建物はいわゆる「庫裡」なのだろう。「總受付」と。ここで「招福猫児(まねきねこ)」が購入できるのであろう。「赤門」の先は修復工事中の「招福殿」。「本堂(法堂)」を見る。本堂は1967年昭和42年に鉄筋コンクリートに改築されたと。「八角燈籠」。火袋の扉4面には雲の中を駆ける獅子、その間の4面には笛や笙(しよう)などの楽器を奏でる天人が、それそれ菱形格子の透かし地に浮き彫りされている。奏楽の天人は音声菩薩(おんしようぼさつ)とも呼はれ、柔らかな表情やしなやかな体つき、風を受けてなびく天衣などが美しく、天平文化の工芸技術を今に伝える。八角の面を時計回りに。火袋の扉4面には雲の中を駆ける獅子の姿が。「横笛」を奏でる音声菩薩。「尺八」。「鈸子(ばっし)」。「笙」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.04
コメント(0)

「豪徳寺」境内の散策を続ける。右手にあったのが「招福殿」。「井伊家2代藩主直孝が鷹狩の折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷の難を逃れたという伝説があり、幸運を招く「招き猫」の元祖とされる。家内安全、商売繁盛、心願成就を願う参詣者が絶えない。堂内には招福観音菩薩立像が安置されている。」この日は工事中で立入禁止に。「招福猫児(まねきねこ)」。「豪徳寺の招福猫児は小判を持っておらず、右手をあげています。招福猫児は、人を招いて「縁」をもたらしてくれますが、福そのものを与えてくれるわけではありません。人との大切な「縁」を生かせるかどうかは、その人次第。報恩感謝の気持ちがあれば、自然とその人のもとに福が訪れる、という教えから、小判を持たず、右手だけをあげています。」と。「招福猫児の由来東京都世田谷区豪徳寺二丁目所在の豪徳寺は幕末の大老井伊掃部頭直弼公の墓所として世に名高く寺域広く老樹鬱蒼として堂宇荘厳を極め賓者日に多く誠に東京西郊の名刹なり、されど昔時は至って貧寺にして二三の雲水修行して漸く暮しを立つる計りなりき、時の和尚殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与へ吾子のように愛育せしが、ある日和尚猫に向かい、「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言い聞かせたるが其後幾月日が過ぎし夏の日の午さがり俄に門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出て見れば、鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗捨てゝ入り来り和尚に向かい謂えるよう「我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに不審ければ訪ね入るなり暫く休息致させよ」とありければ和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内天忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて、「我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かることは是れ偏に仏の因果ならん以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにしてやがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大伽藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにして此等一に猫寺とも呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其冥福を祈り後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称えて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁昌、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。」改修工事中の「招福殿」。再び「三重塔」を見上げる。一層目の四面には、干支(十二支)の彫刻が順番に施されているのだが、なんとネズミの部分に猫が彫られているのであった。しかも、子(ねずみ)と一緒。設定を変えてズームして。子(ねずみ)は、天敵であるはずの猫に小判を口に咥えて渡そうとしているようにも見えるのであった。こちらはイノシシ。至る所に招猫の姿が。「無名戦士慰霊記念碑」。太平洋戦争における戦歿者の慰霊顕彰・平和祈願碑であると。「碑歌」(表面)「いくさの旅に さまよい果てたる はらからよ ここにかえりて やすらい たまえよ 日本大学教授 山田孝雄」「碑文」(裏面)燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない。この記念碑が人々の情で生まれたからといって、永遠に平和がきたのだともいえない。けれども深く憂と悲しみの中にたおれた不幸な同胞の御霊の冥福と祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつゞけたい。区内戦没者五千三百余柱の御霊並に九十三柱の御遺骨の供養のために有志相はかり、区民多数の心からなる浄財を集めて慰霊記念碑を建立した次第である。 昭和29年5月3日 平和紀念無名戦士慰霊記念碑建設会 建立」「鳴鶴先生碑銘」。日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。「鳴鶴先生碑銘は、 昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットから。墓門の前に明治34年に建てられた「遠城謙道( おんじょうけんどう) 師遺蹟碑」。遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれた。15歳で鉄砲隊に入るが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨いた。桜田門外の変における井伊直弼の死後、悲憤のあまり主君の旧恩に報じようと同志と老中に抗弁するも果たすことができなかった。その後、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清凉寺の元で仏門に入り、名を謙道と改める。慶応元年(1865年)、妻と6人の子どもを残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺の豪徳寺に移り、井伊直弼の墓側に庵を建て、読経をして霊を慰めたといわれている。(彦根観光協会HP「石碑 遠城謙道師の碑」より)揮毫は、従二位勲二等伯爵井伊直憲卿。「高橋瑞子彰功之碑」高橋 瑞子(たかはし みずこ、1852年12月5日〈嘉永5年10月24日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月28日)は、日本の医師。荻野吟子、生沢クノに次ぐ、日本で第3の公許女医である。当時の唯一の私立医学校でありながら、女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせた。左手にあったのが「日下部家墓」。その先の隣に「日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)」夫妻の墓、題字は呉昌碩。日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる と。墓の背面には、「清閑院殿鳴鶴徳音居士/大正十一年一月廿七日歿 享年八十五」と記されていた。正面に「彦根藩主井伊家墓所」の入口が現れた。豪徳寺にある「彦根藩主井伊家墓所」は広大な敷地に大型の墓石が整然と並ぶ、都内でも屈指の大名墓。2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息子女らが埋葬されているのだと。また、北側の一角には藩士の墓石も置かれ、合計で303基にのぼると。井伊家墓所は国元である滋賀県彦根市の清凉寺、4代藩主が眠る同県東近江市の永源寺にもあり、豪徳寺 とあわせて3か所の墓所が同時に国の史跡になったのだ と。「彦根藩主井伊家墓所」の入口左側にあったが「六地蔵尊」。「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(一六五八)に建てられた。直孝が没したのは万冶二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。」「豪徳寺 井伊家墓所全体図」。「彦根藩主井伊家墓所」入口門から墓所に入り石畳の路を奥に進んで行った。更にに奥に向かって進む。理解のために「井伊家 略系図」を。下図の代数は1代ズレているが、以下の表記は「豪徳寺 井伊家墓所全体図」に従う。 【https://www.ii-museum.jp/blank-51】より右手奥にあったのが8代直定世子・直賢(霊松院殿)の墓。「世子」とは「跡継ぎ」のこと。直定にはこの直賢という嫡男がいたのだが、彼はまだ幼かったため家督を継ぐことが認められなかった。そこで直定が次代として白羽の矢を立てたのが自分にとって甥にあたる直禔である。これも井伊家の血統を彦根で守らなければならないという幕府の計らいであった。直定は「直禔なら健康であるし、城主として申し分ないだろう」と判断したのだ。養子として迎え入れられてからすぐに直定は隠居。叔父の跡を継いで直禔が城主となった と。これも右手に6代井伊直恒(円成院殿)の墓。最も西側突き当りに江戸で亡くなった歴代彦根藩主や室(正室 や 側室 や 継室)の墓が並んでいた。正面に、2代井伊直孝(久昌院殿)の墓。豪徳寺中興開基で、法号は「久昌院殿豪徳天英大居士」。その右側に、9代井伊直禔(いい なおよし)(見性院殿)の墓。井伊直孝(久昌院殿)の墓の左側に10代井伊直幸世子・直富(龍泉院殿)の墓。2代井伊直孝・側室・春光院殿の墓。2代井伊直孝・長女亀姫(掃雲院殿)の墓。直孝死後側室の春光院とともに遺志を継いでこの豪徳寺伽藍造営の整備に寄進などをして尽力した。亀姫(掃雲院殿)の墓の先に5基の墓石が並ぶ。10代井伊直幸(いい なおゆき)(大魏院殿)の墓。10代井伊直幸・正室(梅暁院殿)の墓。9代井伊直禔・継室(清蓮院殿)の墓。継室は、最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。そして13代井伊直弼(いいなおすけ)(宗観院殿)の墓。井伊直弼の墓石に近づいて。井伊直弼は井伊直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで寛永3年(1850)4月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ケ国条約に調印。また紀伊藩主徳川慶福(十四代将軍徳川家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜(のちの十五代将軍徳川慶喜)らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に万延元年(1860)3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。石碑には「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」の文字。因みに以前、世田谷区と東京工業大学が墓の下3 mまで調査したところ石室がないことが判明したとのこと。遺骨は何処に?「彦根城十三代藩主 直弼公募所」。「井伊直弼墓井伊直弼は、文化十ニ年(一八一五)、彦根十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は部屋住みとして城外の埋木舎(うもれぎのや)に閑居したが、兄・直元の死去により十ニ代藩主・直亮(なおあき)の跡継ぎとなり、嘉永三年(一八五〇)に十三代藩主となった。安政五年(一八五八)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(よしとみ)(後の家茂)とすることで決着をつけた。こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの襲撃をうけ、安政七年(万延元・一八六〇)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。」11代井伊直中・正室(観光院殿)の墓。12代井伊直亮・正室(龍華院殿)の墓。10代井伊直幸・側室(本覚院殿)の墓。「桂光院殿玉顔幻露禪童子」と刻まれた墓石。誰の子供なのであろうか。5代井伊直通・正室(本光院殿)の墓。「早世 華蕚春了禪童女 霊位」と刻まれた墓石。井伊直興(いいなおおき)・側室青松院殿(直惟母)の墓。7代井伊直惟・正室(蓮光院殿)の墓。「早世 全現未兆孩亡 霊位」と刻まれた墓。「蓉顔素秋童女」と刻まれた墓。「???」の墓。2代井伊直孝・四男直時(広度院殿)の墓。「廓心院殿閑山獨坐大居士」と刻まれた墓。「三條轉法輪 前右大臣實治公 御息女 忠姫君」と刻まれた墓。「來屋秋本孩亡」と刻まれた墓。2代藩主・井伊直孝の四男、井伊直時側室(圓臺院殿)の墓。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.03
コメント(0)

「世田谷八幡宮」を後にして、次の目的地の「豪徳寺」に向かう。東急世田谷線の「宮の坂駅」横の踏切を渡る。東京都世田谷区宮坂1丁目24。そして次に現れたのが「幸福の招き猫電車」。「招き猫発祥の地である豪徳寺の協力を得て、300系電車全体に招き猫があしらわれています。つり革が招き猫になっていて、車内の床には足跡もデザインされているほか、今回は車体前面の上部に猫耳と連結部分の鈴のデザインが新たに加わりました。」と。この後、「豪徳寺」を訪ね、多くの「招き猫」の姿を見たのであった。つり革が招き猫になっていると。 【https://icotto.jp/presses/13709】より車内の床には足跡、そして連結部分には鈴もデザインされていると。 【https://twitter.com/setagayasen50th】より「城山通り」を南東に進む。左手に「豪徳寺」の参道入口が現れた。東京都世田谷区豪徳寺2丁目24附近。「大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ) 参道口」案内柱。「大谿山豪徳寺」碑。豪徳寺は曹洞宗(創建当初は臨済宗)の古刹で、山号を大谿山という。元は文明十二年(一四八〇)に世田谷城主吉良政忠が叔母弘徳院のために創建した小庵であったと伝えられる。開山は臨済宗の僧・馬堂昌誉で、創建当初の寺号を弘徳院と称した。天正十二年(一五八四)、曹洞宗の僧侶・門庵宗関が弘徳院の住職に就き、この時、臨済宗から曹洞宗に改宗された。寛永十年(一六三三)、世田谷領村十五ケ村が江戸屋敷賄料として彦根藩に与えられると、弘徳院が同藩々主井伊家の菩提寺に取り立てられることとなった。藩主・井伊直孝の没後、その女・掃雲院によって伽藍の整備が進められ、井伊家の菩提寺に相応しい大寺に生まれ変わった。この時、寺号も直孝の法名「久昌院豪徳天英居士」に因んで「豪徳寺」と改められたと伝えられる。境内西側の一角を占める井伊家の墓所には、井伊直孝をはじめとして、江戸藩邸で亡くなった藩主やその家族の墓がある。また、桜田門外の変で命を落とした井伊直弼の墓および殉死者八名の霊を記った「桜田殉難八士之碑」や、主君直弼の墓守としてその後半生をげた忠臣・遠城謙道の墓などもある。井伊家墓所に接する墓域には、幕末維新に活曜した彦根藩の家老で著名な漢詩人であった岡本黄石の墓、やはり元彦根藩土で「明治の三筆」「書聖」などと称せられた書家・日下部鳴鶴の墓などがある。また、その鳴鶴の手になる石碑四基(鳴鶴日下部先生碑銘・遠城謙道師遺跡碑・忠正公神道碑・瘞首塚碑文)もあり、幕末維新の逸事を伝える。「大谿山」、「豪徳寺」と刻まれた門柱。高い門柱の上に. 阿吽の獅子が載っていた。阿形像(右)。「吽形像(右)」。背の高い黒松が左右から覆いかぶさるように生い茂る参道を歩いて行った。そして正面に「山門(総門)」が。「都史跡 井伊直弼墓」碑。「山門」越しに「仏殿」を見る。明治17年(1884年)1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建された。「山門」の扁額には「碧雲關(へきうんかん)」と。この扁額、室町時代にはこの豪徳寺のあたりに、世田谷城という城郭があり、それが青い雲のような建物と呼ばれたそうで、そこからこの名前になったという説があるようだ。「大谿山 豪徳寺(曹洞宗)」案内板。「大谿山 豪徳寺(曹洞宗)寛永 10年(1633年)にここ世田谷が彦根藩 の所領地となり、既にそこにあった文明12年(1480 年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家 は江戸菩薩寺と定めた。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。それは、江戸時代 の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡となっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、開祖堂、書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を代表する古刹でもある。また、この寺には、2代藩主井伊直孝が鷹狩り の折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫 」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。なお、豪徳寺の境内(1万5千坪、約5万m2)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所である。」そして正面に「仏殿」が現れた。右手奥には「鐘楼」の姿が。この周辺は秋は紅葉して美しかったのであろう。左手前方には「三重塔」とその手前に大きな石碑が。「忠正公神道碑」。碑主の忠正公は井伊直弼の次男井伊忠正(直憲)。近江国彦根藩最後(第14代)の藩主であるようだ。碑は、逝去の翌年明治38年(1905)12月に建てられ、井伊直安篆額、谷鐵臣謹撰、日下部東作書、井亀泉刻字とある。 力強い楷書である。正面に巨大な「香炉」。足元をよく見ると「香炉」を3体の鬼?が持ち上げて支えていた。線香の煙をあびることのできる「香閣(こうかく)」とも呼ばれるものであろう。狛犬が黄金の手毬に手をかけていた。大きな香炉に献香した後、香炉やこの獅子が手を置いている手毬を撫でるとご利益があるとのことで勿論私も。正面に巨大な「仏殿」。「弐世佛」の扁額。「豪徳寺境内案内図」。近づいて。更に。現在地は仏殿の前。建築物や構築物の主なものについての概要が記されていた。「大谿山豪徳寺(曹洞宗)」と「豪徳寺仏殿」案内板。「大谿山豪徳寺(曹洞宗)」案内板。「大谿山豪徳寺(曹洞宗)豪德寺は、世田谷城主吉良政忠が文明十ニ年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝えられる弘徳院を前身とする。天正十ニ年(一五八四)、中興開山門菴宗関(高輸泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した寛水十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号にちなみ豪徳寺と改称した直孝の娘・掃雲院は、母の春光院(直孝側室)と共に、多くの堂舎を建立寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿と三世仏(阿弥陀、釈迦、弥勒)像、達磨・大権修理菩薩像、石灯籠ニ基、梵鐘など井伊家ゆかりの文化財のほか、同寺の草創を物語る洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔も残されている。平成ニ十年三月、境内西側にある井伊家代々の墓所が国史跡に指定された。ここにはニ代藩主井伊直孝を初め、桜田門外の変で落命した直弼など、江戸で亡くなった歴代藩主とその家族の墓がある。ほかにも、直弼の死後、墓守として一生を終えた遠城謙道の墓や桜田殉難八士之碑等の石碑もある。」。「豪徳寺仏殿附(つけたり) 棟札一枚 石灯篭ニ基指定年月日 平成ニ年ニ月十五日規模 桁行(間ロ)五間(実長十七・七六メートル) 梁行(奥行)六間(実長十五・八ニメートル)豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間(一六六一~一六八〇)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的建造物である。棟札によると延宝四年(一六七六)掃雲院(直孝公長女)の弟で藩主直澄が早世したのち仏殿の建設に着手し、翌五年には完成をみた。造営には豪徳寺第四世・天極秀道、エ匠星野市左物門尉積則らが当たった。仏殿には江戸時代期から日本にもたらされた黄檗宗の影響がみられる。禅宗寺院の仏殿は一般的に正画と側面の柱間数を同じとするが、この仏殿では柱間数が異なっている。吹き放ちの裳階(もこし、下屋(げや))や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠がとりいれられ、特に紙状の絵様肘木(えようひじき)は中国や朝鮮の建築には良く使われるものであり、日本ではあまり一般的でない。区内に現存する最も古い建造物であり、建築史学上、価値の高いものであることから、区有形文化財に指定された。」。「豪徳寺仏殿像 五軀木造大権修利菩薩倚像 総高 百一 センチメートル木造弥勒菩薩坐像 像高 八十 センチメートル木造釈迦如来坐像 像高 七十二 センチメートル木造阿弥陀如来坐像 像高 七十二 センチメートル木造達磨大師坐像 像高 六十四・八センチメートル本像五軀は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(一六七七)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五軀一具として造らせたものであることがわかる。祥雲は黄檗宗の鉄眼(てつげん)の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(一六四八~一七一〇)のことである。当寺仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲は推挙されたものと考えられる。本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。」。そして「鐘楼」。廻り込んで。「梵鐘」。「世田谷区指定有形文化財(工芸品) 豪徳寺の梵鐘所在地 世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号所有者 世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号指定 平成十ニ年十一月二十八日制作年代 延宝七年(一六七丸)作者 近江大藤原正次材質・構造 鋼鋳造総高 一四七・五センチ本梵鐘は、延宝七(一六七九)年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾(ゆうこん)な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座(つきざ)の意匠(いしょう)も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。制作者の藤原正次(ふじわらのまさつぐ)は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。」別の場所から「梵鐘」を。「制作者の太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)は 江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師の名跡(みょうせき)。出身は近江国(おうみのくに)栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)。代々「太田六右衛門」と称し、江戸深川(ふかがわ:東京都江東区)で梵鐘や天水桶、鍋、釜などを鋳造(ちゅうぞう)した。江戸町民からは「釜屋六右衛門」や「釜六」の俗称(ぞくしょう)で知られ、江戸の長者番付にも名を連ねた。「太田近江大掾」の称号を受領し、享保2(1717)年からは将軍家の「御成(おなり)先御用釜師」を勤めた。代表作に、台東区浅草寺の梵鐘や、墨田区回向院(えこういん:浄土宗の寺院)の銅造「阿弥陀如来坐像」がある。」とネットから。そして新しそうな「地蔵堂」。八角形をした出来たばかりの綺麗な御堂。扁額は青い文字で「地蔵堂」。地蔵堂には二体の立派な「地蔵菩薩像」が納められており、奥の大きな仏像の上にはきらびやかな天蓋が飾られていた。「地蔵菩薩像」は左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ。紅葉、黄葉もエピローグに向かっていた。そして左手には「三重塔」。2006年に落慶した木造の三重塔。高さ22.5mの立派な建築。何故か正月恒例の「箱根駅伝」のポスターがこの場所に。「応援したいから、応援にいかない」と。応援自粛の方針の為、ポスターの掲示場が限られた為であろうか。絵馬掛所(えまかけどころ)とその先に「招き猫」の奉納所。「招き猫奉納所」。開運招福や商売繁盛をもたらす縁起のいい置物として、古くから日本人に親しまれている招き猫。片手を挙げて福を招く猫の姿がユニークで愛らしいと、外国人からの人気も高まっていると。そんな招き猫発祥の地と言われているのが、東京・世田谷にあるここ豪徳寺。1000 体以上の招き猫がずらりと並ぶ光景は、外国人はもちろん日本人も驚きの光景。右手を挙げているのは金運を、左手を挙げているのは客を呼ぶとされているが、ここ豪徳寺では全て右手を挙げているタイプ。また、招き猫の定番アイテムの小判も持っていなかった。これは、井伊家が商人ではなく武家であることに由来するとのこと。招き猫は寺務所で販売されていた。超ミニサイズのものから30cmほどのビッグサイズまで、大きさはさまざま。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.02
コメント(0)

早くも2月になりました。あっという間に1月が終わってしまったが「月日の経つのが早い」と、昨今さらに強く感じる理由はなんであろうか・・・。1.コロナ禍の下、日々の生活に適度な運動を取り入れる機会が少なくなった。2.日々、適度な緊張感やワクワク感を大切にする機会が少なくなった。3.時間に気を配った生活をおこなうことが少なくなった。 (たとえば、30分、1時間ごとに時計を見たり、時間をしっかり区切る行動など)4. 自分の部屋等狭い空間で生活する事が増えてしまった。 5. 似たような行動を直列でおこなうのではなく、少し中身の違う行動を並列で おこなう機会がほとんどなくなった。 6. ジャネーの法則「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」という 考え方は「然り!!」。 ジャネーの法則は19世紀フランスの哲学者、ポール・ジャネが発案した法則。 つまり年を取るにつれて自分の人生における「1年」の比率が小さくなるため、体感として 1年が短く、時間が早く過ぎると感じられるようになると。 例えば1歳の時に感じた1年を1/1とすると、2歳の時の1年は1/2となり、1歳の時の2倍速く 感じるようになる。 5歳の時は1/5で1歳の時の5倍、10歳の時は1/10と分母である年齢が大きくなるごとに、 人生のうちにその1年が占めた割合が少なくなり、体感として時間が短くなったように感じる のだと。すなわち私の今は1/71に感じる毎日であるのだ。陰暦2月の異称は『如月(きさらぎ)』、衣更着(きさらぎ)とも言うと。まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月であると。そして2月4日・金曜日は「立春」、【「鬼」いや「オミクロン」はそと・福はうち】と、豆をおもいっきり投げつけたいのである。さて、昨年12月3日から約2ヶ月間、「九州の続日本百名城を訪ねる」の旅行記をアップし続けて来ましたが、この日は昨年12月22日(水)、五反田にある卒業した会社に向かう際に、早めに家を出発し小田急線の「豪徳寺駅」まで行き、以前から訪ねてみたいと思っていた「豪徳寺」を訪ねることにした。そして併せて「豪徳寺」周辺の神社仏閣・史跡スポットも訪ねることに。小田急線で新宿に向かい途中「豪徳寺」で下車し、散策開始。駅前の商店街の道・瀬田貫井線を南に進むと、前方に踏切が現れた。これが「東急世田谷線」。「東急世田谷線」は世田谷区の部を縦断する地域密着の路線で、三軒茶屋から下高井戸まで約5km、10駅を結んでいる。東京では東京さくらトラム(都電荒川線)とともに残る数少ない路面電単で、レトロな雰囲気が魅力の一つ。田園都市線と接続する三軒茶屋駅の発展をはじめ、小田急線と接続する山下駅、京王線と接続する下高井戸駅など、路線のネットワークも充実している。沿線には豪徳寺や松蔭神社などの名所旧跡、世田谷区役所をはじめとした行政施設が集まっている。折しも、オレンジ色の低床式の300系、2両編成の車両が通過。「江ノ電」を彷彿させる(彷彿とさせる)光景なのであった。「と」の有無はどちらが正しいのであろうか?そして踏切を渡り左に5分ほど歩き、右折し「城山通り」を進むと直ぐに右側にあったのが「世田谷八幡宮」。大きな「世田谷八幡宮」碑。1091(寛治5)年、源義家は後三年の役に勝利した帰途、宮の坂の地で豪雨に遭い、天候回復を待つため滞在した。その際、戦勝したのは氏神である八幡大神の加護によるものとして、豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請し祀ったのが始まりとされる。その後、世田谷城主七代目の吉良頼康が1546(天文15)年に社殿を修復、備前雲次の太刀一振を納めたと伝えられる。しかし実際は、当社に収蔵されている棟札から頼康が創建したと推測されており、江戸名所図会にも頼康が鎌倉の鶴岡八幡宮を模して造営し、境内に桜を植樹したと記されている。時は移り、徳川家康が江戸に入城した後、朱印状11石を寄進した。その後幾度か再建され、明治5年(1872)には郷社に列し、社号を宇佐神社と改称した。1908~1909(明治41~2)年には、付近の神社を合祀している。第二次大戦後、世田谷八幡宮の社号に戻し、1961(昭和39)年には壮麗な社殿に改築した。なお、1813(文化10)年造営された旧本殿が現社殿内に納められている。朱赤の鳥居の扁額は「世田谷八幡宮」。道路を挟んで向かい側には、「社務所」と参拝者用の駐車場があった。入口右のドウダンツツジの紅葉。左手には「神輿蔵」が。「世田谷八幡宮 境内案内」。近づいて。「世田谷八幡宮(せたがやはちまんぐう)御祭神応神天皇(おうじんてんのう)仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)神功皇后(じんぐうこうごう)~御由緒と歴史~八幡宮のご創建は、寛治5年(1091)源義家が奥州の地からの帰途、ここ世田谷の地にて豪雨にあい先に進めず、天気回復を待っため数十日間滞在する事となり、日頃より崇敬する宇佐の八幡大神をお祀りし、世田谷の里人達にご祭神を郷土の守り神として厚く信仰するようにと伝えた事が始まりと云われている。また、その時に部下たちに相撲(力比べ)を行った事が由来となり、江戸時代には「江戸三相撲」として、また現在も秋のお祭りにて奉納相撲が行われている。その後、天文15年(1546)当時を世田谷城主であった吉良頼康により社殿の修築造営が行われ、備前雲次の太刀を一振り寄進したと云われている。江戸時代になり徳川将軍である家康より社領十一石を寄進された。現在の境内地はおよそ四千坪となる。明治時代には、一時期社名が郷社宇佐神社となるも、戦後、神社は国家管理より離れたためめ元来の世田谷八幡宮となった。現在の社殿は、昭和39年に改築されたもので、本殿御扉の中には、文化10年(1813)に造られたといわれる木造の社殿(大場家文書より)が鎮まっている。現在、八幡宮は世田谷の鎮守として多くの氏子崇敬者の人達に厚く信仰されている。」「世田谷八幡宮御祭神 応神天皇(誉田別命) 仲哀天皇 神功皇后鎮座地 東京都世田谷区宮坂1丁目26番3号御由緒と歴史世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第73代堀河天皇の寛治五年(1091)、当時朝廷より陸奥(奥州)守として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した、歴史上後三年の役(1087〜1094)の世である。義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となった。もとより敬神の念を厚くもつ義家は、今度の戦勝は日頃守神として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申し上げ、八幡大神と称え奉り、盛大なる勧請報賽(奉祝)のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われている。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事は有名であり、現在でも奉納相撲が神事として伝えられています。その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社 八幡宮建立大壇那源朝臣頼貞 天文15年(1546)丙午8月20日建立、12月20日葵卯御遷宮」とあり、約四百数十年前の第105代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(ニ尺三寸)一振を寄進したと云われています。このように当社八幡様は吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまいました。その翌年の天正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康も、源氏の出身であり、その氏神八幡神を崇敬し、当社に社領として十一石を寄進しました。以来徳川代々の将軍派、朱印地として社領十一石を寄進する習わしとなりました。明治維新後の八幡様は、明治5年(1872)に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。昭和39年(1964)5月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています。年中行事・・・以下略・・・」右手にあったのが「厳島神社」。朱の鳥居を潜り進むと左手に末社「厳島神社」への参道が。「弁天池」に架かる「太鼓橋」を渡る。「厳島神社(いつくしまじんじゃ)御祭神・・・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)御祭礼・・・九月秋季大祭の宵宮七福神の弁財天と同神であると考えられていることから弁天さまとも呼ばれている。知恵、財福、子孫繁栄、海上安全等のこ利益がある。」「弁天池」を見る。「弁天池」の縁には鳥用の檻も設置されていて、鯉や蟹などと混じって羽を休めているカモの姿が印象的。「弁天池」に落ち込む小さな「滝」。「厳島神社」の社殿。斜めから、右奥には滝の姿が。「弁天池」と「太鼓橋」。「記念 昭和三十一年五月 玉串奉納當時役員氏名」碑。「表参道石段改修 昭和五十一年九月一日 氏子中」碑。二の石鳥居。扁額には「八幡宮」の文字。更に石段を上がる。右手に「土俵」。「土俵奉納相撲(秋季大祭)。江戸時代には江戸三相撲と呼ばれた。」ここ「世田谷八幡宮」の名物といえば相撲であると。渋谷氷川神社(渋谷区)、大井鹿嶋神社(品川区)とともに江戸郊外三大相撲のひとつとされる奉納相撲が名門である東京農業大学相撲部によって行われ、その勝敗によって来年の豊作と凶作を占い、当年の豊作を感謝するというもの。そのため、八幡宮の境内には土俵や力石があるのだと。狛犬(阿形像)。明治十年(1877)奉納の狛犬。子を抱いているような造形。狛犬(吽形像)。阿吽ともに子を抱き、ややデフォルメ化された表情が愛らしい。左手に「手水舎」があったが使用中止中。龍の吐水口(とすいこう)。横から。そして正面に「拝殿」。大きな石灯籠(右)。「奉 天皇陛下御在位六十年記念」と。大きな石灯籠(左)。「納 世田谷八幡宮御鎮座九百年記念?」と。右手に「絵馬記入所」のテントの後方には「仮殿」が。左手に「神札授与所」。「拝殿」。「拝殿」は昭和39年に建造された鉄筋コンクリート建築で、拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造。本殿内には1825年築の旧本殿が納められているが非公開。内陣。「世田谷八幡宮 御本殿御祭神・・・ 応神天皇(おうじんてんのう) 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 神功皇后(じんぐうこんごう)御鎮座地 東京都世田谷区宮坂一ーニ六ー三」。「納札所」。今年の「勝絵馬」。この写真は、今年になり、近くを訪ねた折に再び立ち寄った折の写真。(以下、混在)今年・「寅年」の絵馬。「おみくじ掛け」には所狭しと密に。「力石」。鍛錬や娯楽の力試しに用いられる大きな石が並んでいた。江戸時代や明治・大正に力士や村民たちの力比べに使われた力石も多く置かれていた。この石碑は???「高良神社」の「手水舎」。「高良神社(こうらじんじゃ)」。「高良神社(こうらじんじゃ)御祭神・・・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)御祭礼・・・六月三十日境内、氏子区域に散祀されていた天祖神社、高良神社、金毘羅神社、六所神社、北野神社、御嶽神社、日御碕神社、稲荷神社を大正元年(一九一ニ)に整理合祀された神社。」。「社殿」内陣。そしてこちらは「世田谷招魂社」。「世田谷招魂社御祭神・・・日露戦争、太平洋戦争の戦没者(世田谷区域)御祭礼・・・ みたま祭り(五月一日)世田谷一丁目にあった乃木神社(乃木将軍の甥玉木正之建立)の社殿を玉木氏により譲り受け、旧軍人山の場所に世田谷招魂社として氏子内および代田一丁目、弦巻町、経堂町の戦没者を昭和三十一年(一九五六)に御祀りした。」。社殿を正面から。社殿を斜めから。この碑には「萬人行」と。「萬人行」の意味は?左脇には乃木希典揮毫の「日露戦役紀念碑」も建っていた。そして東側の石鳥居を潜り「世田谷八幡宮」を後にしたのであった。 ・・・つづく・・・
2022.02.01
コメント(0)
全28件 (28件中 1-28件目)
1