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「沖縄本島一周の旅へ」を約1ヶ月に渡ってアップ中ですが、一旦中断、寄り道して近況をアップさせて頂きます。一昨日の夕方に、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山・「龍口寺」で開かれる「龍の口竹灯籠」を訪ねて来ました。2009年(平成21年)まで行われてきた「灯籠流し」に代わって、2010年(平成22年)より龍口寺の境内で行われている「竹灯籠」。毎年8月上旬に行われていましたが、2022年(令和4年)から10月に変更となったようです。仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約3000基が並べられるのだ。夕刻になるとロウソクに火が灯され、幻想的な世界が演出されるのであった。自宅を4時過ぎに出て江ノ島電鉄の藤沢駅に到着。改札を入ると正面に花時計とその上に江の島とその奥に富士山の夕景写真が。ホーム入口に設置されていたディスプレイには、【10月15日(土)~11月6日(日)】の日程で開催されている「湘南Candle2022」の案内が流れていた。10秒間隔?で次々に幻想的な空間映像が。改札口方向を見る。上記ディスプレイは「⬆出口」の下に。ホームの巨大ディスプレイには湘南海岸、富士山の夕景が。出発時間になっても、電車は入線してこなかった。混雑の影響で5分程度の遅れで運転していると。そして漸く入線。そして江ノ電 片瀬江ノ島で下車し、龍口寺に向かい国道467号に出る。「龍口寺竹灯籠」の幟が道路脇に並んでいた。「龍口寺」手前の「龍口明神社(元宮)」は既に撤去され立ち入り禁止になっていた。昭和53年(1978年)に、西鎌倉の住宅地内に「移転」👈リンク した。現在も旧境内の鳥居などはここ藤沢の龍口寺に残っているのである。そして「龍口寺」の山門に到着。「龍口寺」の本尊は大曼荼羅、創建は延元年(1336~1340)。日蓮の弟子日法上人が日蓮聖人像を安置したのが始まりとするなどの諸説がある。鎌倉時代後期、日蓮は『立正安国論』を示し、法華経を唱えることによる国家安泰を説いた。この活動に不安を覚えた幕府は、日蓮を龍の口にて処刑しようとするが、この時、江の島の方から大きな玉のような「ひかりもの」が処刑場に飛んできて、斬首役人はおののきひれ伏したと伝えられている。もともとこの処刑に異論を唱えるものも多く、処刑は中止となり日蓮は佐渡へ流されるが、やがて鎌倉に戻って来た。現在も日蓮が入られていた土牢が残っているほか、境内には神奈川建築物百選に選定されている五重塔もある。また、2021年(令和3年)10月1日に、本堂1棟・山門1基・五重塔1基を藤沢市指定重要文化財(建造物)に指定されている。「山門」の手前右側には、竹灯籠の一般申込みのテントがあった。竹灯籠1基1,000円でご供養、祈願を行えると。暗くなるまで暫し、仁王門横で待機。そして、体温検査を実施し、境内へ。竹灯籠の供養、祈願受付。「寂光山 龍口寺 境内図」。「仁王門」を潜る。「山門」を正面から。扁額「龍口寺」。「第十二回 龍の口竹灯籠」ポスター。「三〇〇〇基の灯籠」が彩る幻想的な秋の夜」と。開催時間は午後五時から午後八時まで と。そして境内に並べられている「龍の口竹灯籠」👈リンク をカメラで追ったのであった。太い孟宗竹を短く鋭角的に切ったものの中で蝋燭に灯が揺らいでいた。竹に多くの穴をあけて灯りを燈す「灯り」が人気ですが、こちらは素朴な「竹灯り」。ロウソクの光が描き出す、幻想的な秋の宵。一つ一つ人力で蝋燭の灯りを点したのであろうか?「竹灯り」👈リンク をカメラで追う。半纏姿の係員を後ろから。「妙見堂」前の竹灯籠。「山門」を振り返る。幽幻の灯りを楽しむ多くの人々の姿が。お化けの如くに見えたが。 ・・・つづく・・・
2022.10.31
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「平安座島(へんざじま)」に向かって県道10号線を進むと前方に「平安座海中大橋」が見えて来た。左手前方には「沖縄出光(株) 沖縄油槽所」の巨大タンクが。「平安座海中大橋」は、主要地方道伊計平良川線の勝連半島と平安座島を結ぶ海中道路部にあり、うるま市役所(与那城庁舎)より東側約1kmに位置する。「海中道路」は、昭和47年に石油基地関連で建設され、金武湾に浮かぶ平安座・宮城・伊計島の離島苦解消に貢献したが、年々増加する交通量に対応できず、交通機能の向上及び地域振興を図る目的で早期改良の要望が強かった。改良に伴う本橋の建設に当たっては、金武湾港港湾計画において屋慶名第2航路として位置付けられていることにより、橋長を既設橋の30mから280mに延長したのだと。沖縄県で初めての「PC斜張橋」を採用。高さ47.5mの主塔から1面吊りの斜材が張られた本橋は、通称「海中道路」のシンボルとなっている。「海中道路」をGoogleマップで上空から。どこまでも青い海の絶景を車窓から楽しむ。正面には「平安座島」の「沖縄石油基地(株)」の巨大タンクも姿を現した。「海中道路」の「世開橋」を渡り終わる。この先に「平安座(へんざ)島」、「浜比嘉(はまひが)島」、「宮城(みやぎ)島」、「伊計(いけい)島」と続いているのであった。4島の配置図。「海中道路」の先の島々をこれもネットの航空写真から。「平安座島」に入り県道10号線を進むと右手あったのが「平宮護岸アートコンクール」のギャラリー。平安座島の平宮地区に300mある津波防止用護岸に絵を描く「平宮護岸アートコンクール」会場。今年2022年度のコンクールは11月13日(日)9:00~15:00で行われると。募集対象はうるま市内の小中学生 20組(1チーム5人程度)、作品規格は高さ1.8m、横4m。「昨年度の入賞作品」👈リンク。この沖縄石油基地の設備容量は450万KL(m3) とウィキペディアより。東京ドーム容量の3.63倍。「沖縄石油基地」の正門に向かって進む。「沖縄石油基地株式会社」と。正門の手前には「シーサー」の姿が。石油基地・「平安座島」の航空写真を以下2枚ネットから。沖縄本島の中部、風光明媚な金武湾に面するうるま市に位置し、石油備蓄・中継基地として、ENEOS(旧新日本石油)とコスモ石油(旧丸善石油)との共同出資により1973年(昭和48年)に設立された。約63万坪の敷地に45基(貯油能力450万キロリットル)の巨大タンクを配備し、日本の原油消費量の約6日分に相当する原油を貯蔵しているのだと。原油タンクの大きさは 容量99,600KL、直径84.7m、側板高さ19.5mと。「沖縄石油基地株式会社」の正門前でUターンして引き返す。前方に見える橋は「浜比嘉島(はまひがしま、はまひがじま)」への「浜比嘉大橋」。1997年2月7日に開通したうるま市の「平安座島」と「浜比嘉島」を結ぶ全長900mの橋。「浜比嘉大橋(はまひがおおはし)」の手前を左折して防波堤の上で車を止めて「浜比嘉大橋」を見る。エメラルドグリーンの海。「平安座漁港」。「浜比嘉島」に渡ることに。「浜比嘉大橋」を渡る。沖縄本島から橋でつながる8つの有人島、今回の旅行では太字の6島を訪ねたのであった。1 古宇利島 2 屋我地島 3 瀬底島4 瀬長島 5 浜比嘉島 6 伊計島 7 宮城島 8 平安座島「浜比嘉島」に渡り右折して訪ねたのが「東の御嶽(あがりのうたき、シヌグ堂)」。看板の前に緑が生茂る細い通路があり、その通路を70mほど歩いて中に入る。「東の御嶽(シヌグ堂)」案内板。「この御嶽は、旧暦の6月28日と8月28日の2回「シヌグ祭り」が行われることからシヌグ堂とも呼ばれています。シヌグ祭りは、昔、戦に敗れた南山の「平良忠臣」とその一味7 ~ 8人が浜に渡って、シヌグ堂に身を隠し、住民に頼んで島の周囲を警戒させて難を凌いだという故事から始まっています。海に生きる島で、その生業の妨げとなる時化を祈願するのは不思議ですが、他の地方ではみられない行事です。」樹齢600年以上のガジュマルの大木が生い茂り、神秘的な雰囲気を醸し出しているのであった。沖縄で1番古い「ガジュマル」という説もあるのだと。「東の御嶽(あがりのうたき、シヌグ堂)」がその横に。祈りの姿が。内陣には香炉が一つ。「うるま市 景観賞 2015」と。「浜比嘉島」の散策は「東の御嶽(シヌグ堂)」のみとし、「浜比嘉大橋」を再び渡り引き返す。巨大な入道雲が。そして再び「海中道路」の「平安座海中大橋」を渡り「県道10号線」を引き返したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.30
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「安慶名城跡」を後にして、近くにあった「安慶名闘牛場」に向かう。ここ「うるま市」の汚水マンホール蓋。「うるま市」は、2005年(平成17年)4月1日に具志川市、石川市、中頭郡勝連町・与那城町の2市2町が新設合併し誕生した。「うるま」とは珊瑚の島、(ウル=サンゴ、マ=島)という意味で沖縄の美称である。漢字では「宇流麻」と書き、方言をそのまま市名に採用した珍しい都市であると。また、景観の見事な沖縄の島々を示す言葉で、この4市町の海に面した素晴らしい景観を表し、新市が未来へ飛躍することと、美しい沖縄(4市町)の心を世界に発信することを願って命名されたと。このマンホール蓋は、旧具志川市時代のデザイン。中央には旧具志川市の市章が入っているので、合併前のもの。市章は「ぐし」を組み合わせて図案化したもの。その市章のまわりは旧具志川市の花:きく、そしてその外側に3組の闘牛が描かれていた。エネルギッシュな市民の姿を象徴していたのだと。そして目的地の「安慶名(あげな)闘牛場」の案内板が。安慶名中央公園内にある闘牛場で、県内でも有数の規模を誇る。近年は沖縄県初のドーム型闘技場として誕生したうるま市・石川多目的ドームで多くの闘牛大会が開催されるようになったが、現在でも年に1, 2回はこの「安慶名闘牛場」でも大会が行われている。以前は沖縄県闘牛組合連合会主催の全島闘牛大会の会場でもあり、多くの見物客で賑わっていた。野外ならではの迫力が魅力。「ウシオーラセー」👈リンク と呼ばれる沖縄の闘牛は、琉球王朝の時代から受け継がれてきたともいわれる伝統的なもので、明治~大正~昭和と、娯楽の少なかった時代には人々の大切な楽しみの一つだった。今でも、沖縄には今帰仁村営闘牛場、本部闘牛場など数か所の闘牛場があり、定期的に闘牛が行われているのだと。ここ「安慶名闘牛場」での「闘牛」の写真をネットから。「闘牛」👈リンクの動画を再びネットから。 【https://pbs.twimg.com/media/FRF7pPPagAILzCj?format=jpg&name=large】より「安慶名闘牛場」の後方には「安慶名城」の見事な石垣が。自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城であることが解る。城の形態は、外側と内側に二重の石垣を巡らす県内では珍しい輪郭式のグスクであると。築城時期については、本格的な発掘調査が行われていないため詳細は不明とのことだが、県内における発掘調査報告をみますと12世紀後半から13世紀初頭にかけてグスク時代の開始が認められている。そのことから、「安慶名城」もその頃築城され、15世紀頃に現在の石垣が造られたのではないかとのこと。美しい石垣をズームして。城壁には琉球石灰岩の自然石を積み上げる「野面積み」という技法が取り入れられており、素朴な雰囲気を楽しめたのであった。東側の石垣を見る。自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城、そして石垣なのであった。「安慶名闘牛場」の南西側を見る。ここが闘牛の「入退場門」。廻り込んで闘牛場への「入退場門」を反対側から。安慶名中央公園内にあった「慰霊之塔」。「この慰霊之塔は過ぐる日露の役より第二次世界大戦に至るまで、無念にも戦没された肉親同胞の御冥福を祈り 併せて未来永劫の平和を祈願するためにここ由緒ある城跡の麓に市民の総意をもって建立する。 昭和六十三年十一月 具志川市」「慰霊顕彰碑・合祀板」。「具志川市慰霊之塔境内に刻名された合祀板は、戦後50年で新たに確認なされた当市関係3400余柱の全戦没者、(軍人、軍属および一般住民)を慰霊之塔に合祀、誓って悲惨な戦争体験を風化する事なく平和を願うことを念じ記文奉納する。 戦後50周年記念事業実行委員会 具志川市戦没者遺族会」「モニュメント」。ぶつかり合う闘牛の角を表現してるいるのであろうか?そして次に訪ねたのが「具志川グスク」であったが、進入路がわからず困ったが、旅友が近くの重機ヤード(廃車・廃材置き場?)内で作業するオジサンから場所、進入路を教えてもらう。下の写真は一人で道に迷っている時に撮影したもの。そしてここが「具志川グスク」跡。県道からトラックや重機などが置かれているヤードに通ずる荒れた小道から入って約40mほど進んで行くと、右側奥に案内板が設置されているのを発見したのであった。「具志川グスク 具志川グスクの壕」案内板。「具志川グスク沖縄貝塚時代後期からグスク時代にかけての遺跡で、このグスクからは、掘立柱の住居跡やグスク時代に行われたと考えられる土木工事の跡、石垣の一部などが確認されています。また、多くの土器、輸入陶磁器等が出土し、当時の繁栄ぶりをうかがうことができます。同名のグスクが久米島町と糸満市にもあります。いずれも海岸に突き出た丘上にあるグスクという点で共通しています。具志川グスクの濠沖縄戦当時に使用されていた壕は、自然洞を整備したものや掘り込んだものがあり、おもに近隣住民の避難場所として利用されました。また、グスク入口にも壕が造られ、銃眼も掘られたといわれています。米軍上陸後、グスクの西側端の壕に、ムラの青年男女が立てこもりました。彼らは、南部へ移動した日本軍から、手榴弾を2個ずつ渡されていました。1 9 45 (昭和20)年4月4日、23人の学徒、青年で構成する警防団は侵攻してきた米軍に手榴弾で応戦しましたが、最後は残った手榴弾で「自決」、1 3人が死に至りました。現在、壕は崩壊していますが、火炎放射を受けたといわれるや周辺の岩肌は、今なお黒い焼け跡がみられます。」進んで行くと右手にあった墓。「天願按司之墓」。天願按司(ティングァンアンジ)は、具志川グスクの城主だったそうで、安慶名大川按司の三男にあたる人物とのこと。国頭村の富盛大主に攻められ、戦死してしまったが、その子供である若按司が、久志若按司と協力し、敵を取ったという伝承が残されているのだと。しかし、若按司も若くして死んでしまったので、三代目の安慶名大川按司の三男『具志川按司』が継承することになった と。さらに狭い山道を進んで行った。右側の斜面下部に、ぽっかりと開いた小さな洞口が遺されていた。掘り込んで造ったと思われる壕。洞口に削ったような跡が。さらに奥へ進むと、今度は岩壁の中腹あたりにコンクリートブロックで洞口が塞がれた門中墓があり、その奥に石碑が建立されていた。「久志之屋門中墓」を正面から。手前側のコンクリートブロックで塞がれた門中墓は、墓標に『久志之屋門中墓』と表記されていた。こちらの門中墓の洞口が一番大きかったとのことだが、その開口部周辺は黒っぽくなっていた。番奥に建立されていた石碑。門中墓を通過すると、石碑が建立されている道の最終地点になんとか辿り着いた。その石碑には『集団自決の地』と題された碑文が記されていたのであった。「集団自決の地一九四五年四月四日、字具志川の若い男女二十三名が郷土を守るため、ここ具志川城跡の壕にたてこもっていた。昼前、米軍が壕に近づいてきたので、危険を感じ手榴弾を投げつけた。米軍は、機関銃や火焔放射器で応戦。すさまじい攻撃に、もはや逃れぬものと観念した男女は、手榴弾での死を決意した。壕の中で二つの輪になって座り、「海ゆかば」を歌い、「自爆」を合図に手榴弾を発火して自決を敢行、十三名が死亡した。沖縄戦終結五十周年の節目に当たり、この地に眠る若者たちのみ霊を慰め、かつ、恒久の平和を祈念してこれを建立する。 一九九五年十一月吉日 具志川市」また、石碑の下部には亡くなられた男女の氏名と年齢が刻まれていた。塔婆には「沖縄戦犠牲者追善供養之塔也」と。そして引き返したが、「壕」らしき入口の上の岩は黒変していたのであった。火炎放射を受けた「壕」なのであろう。この前でしばしの「合掌」。洞口を玉石で塞がれた壕が2ヵ所あり、その内の1つは、下部分が階段状になったコンクリート製の石段になっており、洞口には香炉が1基、花瓶が両脇に置かれていた。玉石で入口が封鎖されたこの「壕」の石積みも黒く変色。ここも火炎放射された場所なのであろう。「壕」に向かって火炎放射する米軍人の姿をネットから。1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍の陣地と思われる洞窟に向け、火炎を放射する米軍。日本軍は、洞窟陣地を拠点に果敢な戦いを続けたが、米軍の物量作戦の前にじりじりと後退を続けた。米軍は火炎放射器を備えた重装甲の戦車を大量に導入し、日本軍の陣地をひとつずつ破壊する「馬乗り攻撃」を展開した。日本兵が1人でも生き残っていると、占領した地域でも背後から攻撃を受ける可能性があるためで、徹底した掃討戦で日本軍の犠牲は日に日に増えていったのであった。そして次に訪ねた場所も道に迷いなんとか到着。「浜千鳥の歌碑」。「浜千鳥の歌碑」は首里王府で汚職事件に巻き込まれた役人の伊波里主が、都を追われて具志川赤野の浜に身を隠し、首里に残した親を偲びながら詠んだ歌だと云われているのだと。奥に見えたのが「赤野漁港」。うるま市赤野58。辿り着くまでは(♫青い月夜の浜辺には…♫で始まる童謡「浜千鳥」)の歌碑だとばかり思っていた私であったが・・・・。「旅や浜宿り草の葉と枕寝ても忘らゝぬ我親のおそは」【旅に出て浜辺に宿り、草の葉を枕にして仮寝をしていると、思い出されるのは父母と一緒に暮らした故郷のことである。】と。「たびやはまやどぅい くさぬふぁどぅまくら にてぃんわすぃららん わやぬうすば」伊波里主が詠んだこの琉歌に、民衆が歌詞とメロディを付け加え「浜千鳥節」👈リンク として歌い継がれてきたといいます。1887年(明治20年)に琉球舞踊家の玉城盛重が、村芝居の演目として女性四人組の踊りに創作して演じ、評判をとったことで、琉球舞踊の定番に「浜千鳥」があり、歌詞の一番目に、この琉歌が謡われているとのこと。「浜千鳥の歌碑」の右側の小さな岬方向を見る。その遥か先には石油基地のある「平安座島」そして「宮城島」の姿が。そして「勝連城跡」を目指して「県道15号線」を進む。前方に「勝連城」の石垣が見えて来た。日本城郭協会の続日本100名城200番に選定された「勝連城跡」。15世紀、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連城。2000年にユネスコの世界遺産に登録。「勝連城跡」👈リンク を訪ねるのは2015年以来7年ぶり。駐車場に車を駐め、新たに作られた「観光案内所」を訪ねた。「観光案内所」内にあった、うるま市特産品の店「うるま~る」を訪ねた。7年ぶりに合う「おばあちゃん」。「うるま市のおばあ 東江(あがりえ)ツルさんうるま市伊計島で開催された「イチハナリアート」で生まれたおばあさです!!おばあも大事なスタッフなのでたたいたり、ゆらしたりしないで下さいね!!!!いじわるしたら、夢に出てくるかもしれませんよ。実は、ツルおばあ、3人いるんです。どこかで会えるかも!!」しかし、実在するモデルはいません と。うるま市まちキャラ 「うるうらら」「うるうらら」は珊瑚の種の妖精です。通常、珊瑚の種は白くきらきらしていますが、この子は真っ黒な姿で産まれました。見た目は、他の兄弟とは違いますが、いつの日かきれいな珊瑚の華を咲かせることを夢見ながらうるま市の皆さんのお役に立ちたいと思っています。プロフィール 名称・・・・うるうらら 誕生日・・・平成27年3月5日 性別・・・・不明 趣味・・・・歌手活動 職業・・・・うるま市嘱託職員「世界遺産勝連城休憩所」内で「続100名城スタンプ」をいただきました。「続日本百名城 200番 勝連城」スタンプ。「御城印」もいただきました。「休憩所」内には様々な土産物が並んでいた。店員の女性に土産物の説明を受ける旅友。「勝連城跡 あまわりパーク 施設案内」。「勝連城跡 あまわりパーク」案内。「うるま市観光マップ」。「闘牛のまち うるま市」ポスター。「①勝連城跡15世紀、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連グスク。2000年にユネスコの世界遺産に登録されました。頂上に登ると太平洋の輝く青い海が一望できる沖縄有数の景勝地です。②歴史・文化施設勝連城跡を中心とする、うるま市の歴史や文化について、楽しみながら学び、体験することができる展示施設です。勝連城跡からの出土品などの展示や、演者が躍動しながら解説するパフォーマンスガイドで勝連城跡を知ることができます。」③観光案内所うるま市の観光スポットやグルメ、観光体験メニューなど、沢山のうるま市の魅力を紹介しています。雄大な自然とともに、歴史や伝統文化を堪能できるうるま市を楽しんで下さい。④城入口 ⑤ユビタ池 ⑥飲食・物販エリア ⑦公園エリア」「勝連城跡 あまわりパーク勝連城跡は、沖縄本島中部の勝連半島の根元に位置する標高約98mの小高い琉球石灰岩丘陵上に築かれたグスク(城)です。12世紀から13世紀にかけて築城されたと考えられ、琉球石灰岩の切石で築かれた城壁には、琉球のグスク特有の曲線の美しさを見ることができます。城壁で区切られた空間は曲輪(くるわ)と呼ばれ、勝連グスクは五つの曲輪からなり、最も高い一の曲輪から階段状に低くなり再び東の曲輪で高くなる姿を、昔の人々は巨大な進貢船に例えました。海外との貿易により栄えたと伝わり、第10代目城主であった阿麻和利(あまわり)は、琉球国王をも脅かす勢力を持っていたといわれています。ーの曲輪からは、北は遙か金武湾を囲む北部の山々や太平洋に浮かぶ離島が見え、南は知念半島や中城湾を臨み、湾を隔てた先には阿麻和利の政敵であった護佐丸の居城、中城グスクを見ることができます。1458年、王府に反旗を翻した阿麻和利は首里へと攻め入りましたが敗北してしまい、勝連グスクは阿麻和利とともに歴史の幕を降ろしました。」土産物を購入して、「これで帰れる!!」と安堵する旅友。「勝連城跡(常設展示室を含む)料金表」。2021年10月より世界遺産と関連施設の維持管理の為、入場を有料化したとのこと。《営業時間》午前9時~午後6時 ※入館は閉館30分前まで《休 業日》年中無休《料 金》大人(高校生以上)個人600円 団体(20人以上)480円 小人(中学生以下)個人400円 団体(20人以上)320円 ※勝連城跡・常設展含む ※6歳未満無料 ※うるま市内の小中学生は全額免除となります。 ※勝連城跡に拝みのみにくる場合 入場料は一律200円とする。「顔出しパネル」。阿麻和利(Lord Amawari)と百度踏揚(Queen Momoto Fumiagari)。阿麻和利は、15世紀の琉球王国において、勝連半島を勢力下に置い、ていた按司である。北谷間切屋良村出身。幼名は加那。勝連城主。百度踏揚は勝連城主・阿麻和利の妻。「EVカー乗り場」<実証実験中>行先:勝連城跡四ノ曲輪まで」あまわりパークから道路を挟んだ勝連城入口まで電気自動車に試乗することができるようだ。後にこちらも有料乗車になる予定とのこと。車に戻り次の目的地に向かう。「県道16号線」の右手奥にあったのが「世界遺産 勝連城跡」碑。「勝連城跡」案内。三の曲輪の高石垣の光景。ズームして。 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2022.10.29
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「征露記念」碑を後にして「国道329号」にて西に進む。「金武町 陸上競技場」入口にあった時計塔。デジタル時計の上には「金武町」の町章と鳥の姿が。「金武町」は沖縄本島中央部の東海岸に位置する国頭郡最南端の自治体である。金武湾に面し、対岸に勝連半島・平安座島・宮城島・伊計島を望む。 北側は恩納岳連山をはさんで恩納村と接する。「金武町」面積の約60%を米軍用地(キャンプ・ハンセン)が占めるのだと ネットから。眼前に「金武湾」が現れた。海岸に沿って進む。そして「渡慶頭海岸」で一時停止。海岸から先程訪ねた「金武火力発電所」を振り返る。石炭荷揚げ桟橋と石炭船の姿をズームして。さらに。遠く右側の対岸には「具志川火力発電所」の姿も確認できた。青い海に白い波。これぞ沖縄の海。この後に訪ねた石油基地のある「平安座島」が見えた。その左に「宮城島」。その左「伊計大橋」と「伊計島」も。国道329号の道路沿いには、家の如き巨大な墓が並んでいた。「伊芸ビーチ」の先を右折して「さくまつ公園」を訪ねた。国頭郡金武町伊芸。「さくまつこうえん」碑。「金武町伊芸」の「汚水マンホール蓋」。上部中央の町章はカタカナの「キン」を円と翼のイメージにデザインしたもの。上部に稲穂、その下は?「慰霊塔」。「碑文」。「碑文第二次世界大戦に於いて散華された軍人軍属及び戦禍に巻き込まれ犠牲になられた一般区民の御霊を弔い、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく平和の尊さを正しく後世に伝え 世界の恒久平和実現への誓いと願いを込めて 金武湾と恩納岳を展望するゆかりの地 此処さくまつ公園内に全区民の心からなる浄財に依り 伊芸区戦没者七十六柱の御芳名と慰霊碑を建立する 二〇〇七年(平成十九)八月吉日 建立 伊芸区民一同」「伊芸区戦没者御芳名」。平和実現への誓いと願いを込めて。「平和の祈り〽戦場ぬ哀り 忘てぃ忘らりみ 慰霊碑建てやい 御霊祀ら〽命やかふかに 優る事わさみ 御満人ゆ寄して 語てぃ継がな〽戦場ぬ哀り 肝に思み染みて 戦闘無ん浮世 創くていかな」慰霊碑が建立されている場所から南側へ移動すると、木々が立ち並ぶ場所の一画に「拝所」を発見。拝所の名称や何が祀られているかなどの詳細は不明であったが、「拝所」の内部には1基の香炉が納められていた。そして「さくまつ公園」を後にして再び「国道331号」に向かって進む。正面に「沖縄電力(株)石川火力発電所」の煙突が現れた。円形歩道橋のある「赤崎一丁目」交差点を左折し「県道255号線」へ。うるま市石川白浜1丁目を南に向かって走る。「県道75号線」沿いの「昆布ビーチ」に立ち寄る。沖縄東海岸の金武湾の中にあるビーチ。多くのビーチが南や東に面していることが多い中で北に面している稀有なビーチ。米軍桟橋に隣接しダイビングのマニアックなポイントにもなっている と「沖縄電力(株)石川火力発電所」をズームして。「沖縄電力(株)石川火力発電所」の左側にはうるま市市街が拡がる。海には潜水を楽しむ方々の姿が。「昆布ビーチ」の直ぐ先にあった「天願桟橋(てんがんさんばし)」をGoogleマップから。天願桟橋とは、沖縄県うるま市(沖縄本島)に所在する在日アメリカ海軍の港湾施設である。遠浅の海に突き出た堤を進み、沖合に20,000トン程度の船舶が接岸できる桟橋がある。沖縄本島には、他にホワイト・ビーチ地区という揚陸・補給施設で、かつアメリカ海軍艦船が使用する基地であるが、天願桟橋は、ホワイト・ビーチ地区では揚陸できない、弾薬などの危険物の揚陸施設として使用されている とウィキペディアより「天願桟橋」をGoogleマップから。そして更に「県道75号線」を南に進む「安慶名(あげな)城跡」を訪ねた。駐車場に車を駐め、雑草の中を歩く。「安慶名城跡安慶名グスクは、14世紀頃、安慶名按司(あじ:領主的豪族)が築いたといわれており、自然の断崖と急斜面を巧みに利用した山城です。城の形態は、外側と内側に二重の石垣を巡らす、沖縄ではめずらしい輪郭式の城で国指定史跡になっている。周辺は、安慶名中央公園として整備され、城跡一帯は桜の名所にもなっており、1月下旬には寒緋桜(カンヒザクラ)が咲き誇るのだと。」うるま市安慶名。雑草の中を上って行くと正面に案内板が。「安慶名城跡」案内板。「史跡 安慶名城跡安慶名城は、14世紀の頃、安慶名大川按司によって築城されたと伝えられ、一名大川城とも呼称されています。城跡は天願川畔の平地に屹立する琉球石灰岩の山全体を占め、自然の断崖を巧みに利用して城壁とし、さらに山の中腹部から野面積み手法によって城壁を築きあげています。中心部は山頂台地であり。これを抱護するように外郭をめぐらした輪郭式の構造をもっています。内部南側に開口する城門までは、東側下方から斜面に沿って石造りの階段がとりつけられています。城門は自然の岩盤の裂け目を利用して、これを一部切崩し、さらに切石を組み合わせて、アーチ状に建造したものとなっています。城門の間隔は1.0mと比較的狭くしてあり、内部中央付近の上下両脇には、扉を取り付けるための敷居、鴨居穴がみられます。城内からは中国製の陶磁器や、グスク時代の土器等が出土しています。」「史跡 安慶名城跡」碑。その先にも石碑があった。これも「史跡 安慶名城跡」碑と。石碑の横側には「一九六一年六月」の文字が。「新沖縄観光名所 安慶名城跡1964年1月琉球新報社」と。安慶名城跡は、金武湾の南側に位置するグスク時代の遺跡です。旧安名集落の東北を流れる天願川の側にある石灰岩台地に築かれたグスクで、地元では天願川を大川と呼ぶことから、別名大川グスクとも呼ばれています。城壁の石垣は自然の断崖と急傾斜を巧みに利用して築城され、南に開く城門は岩と岩の隙間の部分をうまく利用して自然のアーチ門を形成しています。内郭は山頂に位置し、そこに一の郭と二の郭が配置されています。外郭は、山の中腹から石垣が積まれ、内郭を守るように輪郭式の城を形成しています。石垣の高さは内・外郭とも低い所で2 m、高い所で10 mに達します。発掘調査は行われていませんが、城内から14 ~ 15世紀の中国産・陶磁器やグスク土器等の破片が採集されています。築城年代は不明ですが、伝承によると伊波城主の子が安慶名城を築き、この地域一帯を支配したといわれています とネットから。その先には急な石段が続いていたが、「安慶名城跡」👈リンク 散策はここまでとした。詳細は上記👈リンクを参照願います。内郭は山頂に位置し、そこに一の郭と二の郭が配置されているのだと。下まで歩くと「具志川市 安慶名中央公園」碑が。「安慶名中央公園案内図」。駐車場横の金網フェンスには10月2日投票の「うるま市議会議員選挙」のポスターが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.28
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「金武ダム」を後にして、「金武バイパス」を西に進む。左手に見えて来たのが「沖縄電力株式会社 金武火力発電所」の煙突。沖縄本島のほぼ中央部に位置する金武町に、具志川火力に続き沖縄電力の2番目の石炭火力発電として、平成14年2月に1号機、平成15年5月に2号機が運転開始。当発電所の貯炭場は、県内で2番目に大きな建築面積の建物。国頭郡金武町金武3333。煙突は鉄筋コンクリート製、2筒身集合型で高さ170m。発電所近くの駐車場に車を駐める。中央の蒲鉾形の建物が「貯炭場」。鉄骨造 縦 約108m×横 約235m×高さ 約42m×1棟。その手前に石炭移送用のベルトコンベヤーが並ぶ。発電所構内の建屋は、「白」とコーポレートカラーの「ブルー」で統一され、晴れた日には、青い海を背景にそびえ立つ煙突がキラキラ輝いて見えると。桟橋方向を見る。ペレット状木質バイオマス約3%(重量比)を混焼する石炭火力発電所。桟橋から主燃料の石炭を移送するコンベヤーを見る。半円状の建物が貯炭場。石炭の主な輸入相手国は、インドネシア、オーストラリアである。これぞ南国の火力発電所。ヤシの木の奥に巨大煙突。沖縄の燃料種別発電電力量構成比。石炭が60%と圧倒的。石炭+石油で80%日本の石炭の比率は確か32%、石炭+石油で40%弱であるので、石炭火力の比率が極めて高いことが解るのであった。次に訪ねたのが、発電所から1km程の場所にあった「金武観音寺」。途中、「金武節歌碑」に立ち寄る。国頭郡金武町金武232。「金武節👈リンクくばや金武こばに 竹や安富祖竹 やねや瀬良垣に 張りや恩納」「くばは金武で取り 竹は安富祖で取り 瀬良垣では竹を細く削り 恩納でくは傘を仕上げた」読み人知らずの金武節は、琉球に関する古い文献から推察すると、十八世紀後半より古い時代に生まれたと考えられる と。金武を出発し安富祖、瀬良垣、恩納までの道程をくば笠作りになぞらえて歌ったものである と。「チンブシクバヤ チン クバニ ダキヤ アフスダキ ヤニヤ シラカチニ ハイヤ ウンナ」。そして50m程で「観音寺」前の駐車場に到着。「高野山真言宗 金峯山」。「観音寺」。入口左側にあった案内。右手に「掲示板」。国頭郡金武町金武222。「テレビやインターネットで「 」という鍾乳石があると報じられたようですが、当山観音寺境内鍾乳洞内にそのような縁起・逸話・信仰されていた鍾乳石は存在しません。また、観音寺の承諾を得て行われた取材・案内等は一切ございません。あらかじめ了承ください。」と。左手には、彼岸花が。「フクギ」の巨木。「金武町指定文化財 金武観音寺のフクギ(オトキリソウ科)一、種別 記念物一、指定 平成三年十二月二十四日一、現在地 金武町金武二二二番地。説明フクギは推定樹齢約三五〇年、胸高円周ニ・八メートル樹高十ニメートルを有し、沖繩本島各地のフクギのなかでも希少な巨木と云われている。常緑の高木で風や潮害に強く、屋敷林として昔から沖縄各地で広く利用された樹種である。観音寺のフクギは幾年杙の歳月を積み、強く根を張りどっしりとそびえ立つその樹影に寺社の長い歴史を見守り寺社の景観を創り、町民に愛郷の心を育む先人よりの遺産として親しまれている巨木である。」。その先にあったのが「新沖縄観光名所 金武鍾乳洞大川」碑。「水子地蔵尊」であろう。宝珠、錫杖を持つ子育て地蔵であろうか。そして「金武観音寺」の「本堂」。寺社建造物の多くが太平洋戦争で消失した沖縄県下で、戦前の古い建築様式が残る貴重な木造建造物。金武に派遣された米軍人が学者で、文化財として保護され奇跡的に難を逃れた。現在の本堂は昭和11年に再建されたもので、当時をそのままに受け継いでいるもの。沖縄独特の強い台風の雨風にさらされていせいか、木造部分の痛みがとても激しいのだと。屋根は神社と同じく赤瓦の建築様式で寺社に赤瓦は珍しいものであると。「当観音寺は、十六世紀に日秀上人によって創建されたが、現存する観音寺は、昭和十七年に再建されたものであり、建築手法は近世社寺の手法が取り入れられている。 沖縄県下の社寺建築の多くは今次大戦で焼失したが、幸い当観音寺は戦災を免れて今日に至っており、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築である。 当観音寺は、昭和五十九年六月一日、有形文化財(建築物)に指定された。」「内陣」。正面中央が聖観音菩薩(御本尊)、向かって左が阿弥陀如来、右が薬師如来。屋根には沖繩特有の赤瓦が。木組みは本土の神社と同じ。境内右手の石碑群。「金峯山 観音寺供養塔」。そしてその右にあったのが「日秀洞」「開門時間 午前7時~午後4時日秀洞内には、観音寺鎮守「金武権現(熊野三所権現)」と「水天」がお祀りされております。日秀洞は観音寺境内地であり、聖地です。神仏を敬い、礼儀を守り拝観ください。以下略」入口の扉。「鍾乳洞内での御願い」。石段を下って行った。地下30m、長さ270mと言われており、戦時中は防空壕として使われ、多くの人々が命を救われたのだと。正面に祠が。「当山鎮守 金武権現高野山で修行を積んだ日秀上人は、熊野から観音様が住むと言われる浄土を目指して小舟に乗り、金武の富蔵津(現在の福花)に漂着しました。金武には補陀洛浄土を観じた日秀上人は、この土地にお寺を建て、(観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来)を彫って奉安しました。同じ頃、この鍾乳洞内に熊野三所権現を勧請し、金武権現宮を建立しました。仏教の(観音菩薩 阿弥陀如来 薬師如来)を本地とした熊野三所権現(事解男尊 伊勢冊尊 速玉男尊)が合祀されております。明治時代の神仏分離令発令後も、観音寺と金武権現は一体とみなされ、現在も神仏習合の姿を残しております。当山鎮守として観音寺を護り、多くの人々の信仰を集めております。 金峯山 補陀洛院 観音寺」「鍾乳洞内でのお願い」沖縄の熊野三所権現の始まりの地「金武宮・金武権現宮」。さらに奥に石段があるようだったがここまでとした。鍾乳洞であることは鍾乳石から理解できた。石段の先の外を見上げて。地上に戻り、さらに境内を巡る。自然石の上に石像が。この像は??「授与所」。「金峯山 観音寺 本堂修繕及び境内地整備事業勘募のお願い」。境内の「石灯籠」と「おみくじ結び所」。彼岸花とブーゲンビリアのコラボ。そして「金武観音寺」の西側の路地の角にあった「征露(せいろ)記念碑」を訪ねた。「征露」とは明治年間、日露戦役(1904年(明治37年)~1905年(明治38年))に関わる事。 国頭郡金武町金武245。こちらが表面か。「征露記念」碑。背面に刻まれた文字は、数名の氏名と階級。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.27
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今朝の7:40の我が家の裏からの富士山の姿です。ジグザグの登山ルートは御殿場ルートであろうか。・出発点の標高が低く、傾斜が緩やか。(山頂までの標高差が大きく、距離が長いため健脚向き)・火山砂利を下る大砂走りの下山がダイナミック。そして今日の夕焼け。
2022.10.26
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次に訪ねたのが「億首川のマングローブ林」にあった「シオマネキデッキ」。右手奥の「樹冠観察デッキ」の手摺の上には「アオサギ」が。この場所で観られる「シオマネキ」が紹介されていた。「オキナワハクセンシオマネキ(スナガニ科)・河口干潟、マングローブ干潟に生息している。・甲は平滑無毛で後方にかけてやや狭まる。・オスは甲幅の倍もある大きなハサミを振り動かして、メスに求愛する。・大きなハサミは食事の時には使えないため、オスはメスよりも2倍のスピードで砂を口に運ぶ。」「ヤエヤマシオマネキ(スナガニ科)・河口や干潟に生息するシオマネキの一種。・オスは片方のハサミが大きくなっている。・マングロープ周辺などで見られ、底質が泥つぽいところを好む。・大きなハサミの下のつめが赤褐色をしている。「ベニシオマネキ(スナガニ科)・赤い体色が遠くからでもよく目立つ。・とても臆病で近づくとすぐに巣穴にかくれる。・オスは片方のハサミが大きくなっている。「シオマネキデッキ」は延長約30m。干潮時にまとまった干潟が出現し、多くの底生生物が姿を現すのだと。特に、シオマネキ類が多く観察できる場所 と。引き返して再びバナナの木を見る。次に「億首川」の上流にある「金武ダム」を訪ねた。「ヤマクモー広場」に車を駐める。一人で「金武ダム」の「天端」に向かって階段を上って行った。「~奥首(ウククビ)の交通遺跡群~」案内板。「近世から戦後までの”道”の変遷がみえる場所~奥首(ウククビ)の交通遺跡群~億首川の中程には川の両岸がもっとも狭まり、地元では『ウククビ」の古地名で呼ばれた場所があります。ダム再開発事業(ダム堤体建設)に伴う埋蔵文化財予備調査によって、近世に首里と各地方を結んだ「宿道(スクミチ)」の本島北部東海岸ルートである「国頭方東海道」の一部をはじめ、大正期に開通した村道や昭和初期に掛けられ、1945年(昭和20)の沖縄戦で旧日本軍に破壊された旧億首橋が確認されています。戦後は、アメリカ統治時代に整備された軍営繕道路、その後1982年(昭和57)に開通した旧国道329号と金武大橋もあわせて、近世から戦後・現代までと各時代における″道″の移り変わりが『ウククビ』と呼ばれる場所でまとまって見ることができます。」「坂アリ螺旋シテ下ル王府時代の宿道は、首里を起点に整備された、沖縄本島各地への幹線道路で、金武にはそのひとつ国頭方東海道が通っていました。明治十四(1881)年、県内各地を視察した県令上杉重憲の記録には「坂アリ螺旋シテ下ル」(坂があり、らせん状に下っていく)と、この場所を記しています。平成20年、ダム建設に伴う発掘調査が行われ、その調査記録をもとに再現されました。」「金武ダム」の「天端」に辿り着き歩く。「天端」は一般道になっているようであった。「金武ダム湖」を見る。「金武ダム」は、金武町内を流れる億首川を主な水源とし、沖縄県内各地に水道用水や農業用水を供給する多目的ダム。1961年に米国陸軍工兵隊によって水道用水専用のダムとして建設された旧金武ダムの規模を大幅に拡張。2014年に完成した新ダムは旧ダムの約10倍にあたる786万立方メートルの貯水量を誇るほか、建設時に周辺整備や環境保全の取り組みも行われ、訪れる人びとの憩いの場や学びの場も提供しています と。「金武ダム」の下を覗き込む。億首ダムと言う名称で建設が進められたが、地元要望を踏まえ、供用開始する平成26年4月より「金武ダム」に名称変更されたのだ と。「金武ダム」の下で水が吹き出ていた。「金武ダム湖」に架かる「沖縄自動車道」の「億首川橋」。「金武ダム」の「天端」は一般道。「ヤマクモー広場」に向かって来た「道」を引き返す。「村をあげてこの道はそれまでの交通の不便を解消するため、大正十~十二(1921~23)年、金武村屋嘉から古知屋(現在の宜野座村松田)まで約22Kmが整備されました。村道整備には各世帯の参加が義務づけられ、参加できない世帯には負担金が課されました。昭和五(1930)年に国頭郡道となり、一部が現在も残っています。」戦前に架橋された、億首川河川地内にある充腹式上路アーチ橋の遺構「金武町指定文化財 旧億首橋一、種別 記念物(史跡)一、指定 令和三年一月一日一、所在地 金武町字金武億首川河川地内一、寸法 全長 二十二メートル 全幅 五メートル 全高 六・三メートル説明旧億首橋は、一九三一年(昭和六)に建設されたアーチ橋で、伝統的なコンクリートを応用した独特な建築様式が採用されています。コンクリート建造物がまだ少なかった昭和初期の橋染建築技術を今に伝える責重な遺構であります。附近一帯は古くから交通の要街であり、宿道跡などの遺跡とともに奥首の支通遣跡群を構成しています。橋として共有された期間は短く、アジア太平洋戦争末期の一九四五年(昭和ニ0〇) 3月末に、米軍の侵攻を妨げる目的で旧日本軍によって破壊されたといわれています。忌まわしい戦争の記憶を後世に継承する戦争遺跡として重要な文化財です。注意一、史跡を汚さないでください。 金武町教育委員会」「アーチ橋、出現。川の両岸が最も近いこの場所は「ウククビ(奥首)」と呼ばれ、宿道の時代から川を渡るポイントでした。昭和六(1931)年にかけられたこの橋は、コンクリート造りの新しい建築技術でありながら、それまでの石橋の特徴も併せもっています。沖縄戦で米軍侵攻をおそれた旧日本軍の指示により爆破され、川底には破壊された橋の一部がいまも残っています。」「海と山をつなぐこの広場は昔、ヤマクモー(山工毛)と呼ばれ、現在のダム貯水域にあたる億首川上流のヤマから切り出された材木などが集められ、ここで荷造りされて舟で中南部へと運び出されたといわれています。いわば、ここヤマクモーはウククビを通る陸上交通と、舟による水上交通が出会う場所でもありました。」下まで下りて再び「金武ダム」を見上げる。旧アーチ橋の遺構を再び見る。「金武ダムってどんなダムだろう?」。金武ダムは、金武町にある水道用水専用(せんよう)の旧金武ダムの約120m下流に建設された多目的ダムです。多目的ダムとは、水をためて水道用水や工業用水、農業用水として利用したり、大雨の時の洪水をふせいだり、また、日照りが続いても水が無くならないように水をながして川を守ったりと、いろいろな役割をもったダムのことです。金武ダムの大きさ金武ダムにためられる水の量は7 , 860 , 000立方メートルにもなリます。これは、25mプールだと約26,200杯にもなリます。金武ダムの目的・人々の生活を守ります。 大雨の時ても川の水かあふれないようにするやくわりをもっています。・田や畑に水を送ります。 田や畑に水が不足しないように水を送るやくわりをもっています。・川の環境を守ります。 川の生き物の生活などを守り続けるため、いつでもいっていの水を流すやくわりを もっています。・くらしに必要な水を送ります。 飲み水やお風呂の水など、くらしに必要な水を送るやくわりをもっています。金武ダムの特徴 旧金武ダムよりもさらに大きくなり、ためられる水の量が増えました。「宿道」、「旧億首橋」案内。次に車で「金武ダム管理支所」を訪ねた。さっそく「屋上展望台」に向かう。「金武ダム」が正面に、左に国道329号が。右手に「沖縄自動車道」。「航空写真」による案内。沖縄のダムの管理状況。正面に石碑が。「多目的ダム建設事業復帰四十周年記念碑」「沖縄は、我が国唯一の島しょ県として、地理的、地形的要因、また、気象的要因等も相まって、常に水不足に悩まされてきました。このような状況に鑑み、沖縄振興開発計画等におきまして、水資源の安定的な確保は重要な課題として位置づけられ、昭和47年の本土復帰以降、沖縄本島では北部の河川を中心に、福地・新川・安波・普久川・辺野喜・漢那・倉敷・羽地・大保・億首の計10ダムの多目的ダムの建設を推進し、水資源の安定供給に努めてまいりました。沖縄本島においては平成6年3月以降給水制限を行うこともなく、連続給水を続けており、多目的ダムによる水源開発は、沖縄県の経済発展、生活水準の向上に大きく寄与してまいりました。この度、本土復帰40周年の節目を迎えるに当たり、これまで多目的ダム建設にご理解と多大なご協力を頂いたダム所在市町村及び関係者の皆様に改めて深く感謝するとともに、今後とも安定した水資源の共有ができる事を祈念いたします。」「沖縄県内の多目的ダム諸元 所在地 ダム型式 総貯水容量 峻工年度福地ダム 東村字川田地先 ロックフィルダム 55,000千m3 平成3年度(再開発)新川ダム 東村字高江高江原地先 重力式コンクリートダム 1650千m3 昭和51年度安波ダム 国頭村字安波川瀬原地先 重力式コンクリートダム 18,600千m3 昭和57年度普久川ダム 国頭村字安波原原地先 重力式コンクリートダム 3,050千m3 昭和57年度辺野喜ダム 国頭村字辺野喜 重力式コンクリート 4,500千m3 昭和62年度 大川山地先 ロックフィル複合ダム漢那ダム 宜野座村字漢那地先 重力式コンクリートダム 8,200千m3 平成4年度倉敷ダム うるま市石川楚南地先 ロックフィルダム 7,100千m3 平成7年度 沖縄市字倉敷地先羽地ダム 名護市字親川大川地先 ロックフィルダム 19,800千m3 平成16年度 田井等大川地先 大保ダム 大宜味村字田港地先 重力式コンクリートダム 20,050千m3 平成22年度億首ダム 金武町字金武先 台形CSGダム 8,560千m3「多目的ダム建設事業復帰40周年記念式典 記念植樹 参加者」。「コダチヤハズカズラ」であっただろうか?近づいて。「アラマンダ」にも似ていたが。「金武ダム」案内図。「■概要金武ダムは、億首川の河口よリ上流約1 .4kmに位置する多目的ダムです。[目的]①洪水調整②既得用水や河川維持用水の安定化③水道用水の供給④かんがい用水の供給■ダム緒言■位置 沖縄県国頭郡金武町金武地先 H 5 . 3 億首ダム建設の基本計画告示■形式 台形CSGダム H 5 . 4 億首ダム建設事業に着手■堤高 39.0m H 2 1 . 3 億首ダム本体建設着手■堤頂長 461 .5m H 2 2 . 1 1 堤体C S G打設開始■堤頂高EL 29 . Om H 2 3 . 3 定礎式■堤体積 339,000m2 H 2 3 . 7 堤体C S G打設終了■集水面積 14.6km2 H 2 4 . 9 試験湛水開始■湛水面積 0.61km2 H 2 5 . 3 洪水時最高水位到達 ■総貯水容量 8,560,000m3 H 2 6 . 2 竣工式■有効貯水容量 7,860,000m3 H 2 6 . 4 供用開始 (「億首ダム」から「金武タム」へ 名称変更)■世界初の台形CSGダム金武ダムは、世界で初めて台形CSG形式を採用したダムです。台形CSGダムとは、砂礫や風化岩等に水とセメントを混ぜて作られた原材料(CSG:Cemented Sand and Gravel)を、台形状に盛り立てたダムです。堤体の形を台形にすることで、風化岩等の強度の低い材料を使うことが可能になり、材料調達コストの縮減や、捨てる土砂の量を減らすことで環境への負荷を減らしています。」「ダムの種類と断面の比較」。「CSG」とはCemented Sand and Gravel の略。 河床砂礫や掘削ズリなど、ダムサイトの近くで容易に入手できる岩石質材料に、セメント、水を添加し、簡易な練り混ぜにより製造されるセメント系の材料。 コンクリートに比べて強度が小さいが、条件が整えば経済性、環境保全などの面で優れているといわれています。■ダム標準断面図。■貯水容量配分図。「金武ダム湖」。「金武ダム管理支所」を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.26
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先程、17時の我が家の裏からの「残照そして真白き富士の嶺」です。一部の写真は電線を消去して遊んでみました。そして小椋佳の「落日、燃え」👈リンク の歌詞を想い出したのであった『西の空を 紅く焦がし ことさら輝く あの落日若い日なら 顔を上げて 明日の憧れ 映したもの今はどこか 舞い散る花 浴びる時の 感傷のように命ひとつ 尽きる前の 名残りの祭りと視る記憶のみに 心埋めず 残りの日数に 指を折らず今も胸に 熱く騒ぐ 恋なり愛なり 愛しいもの切り株から 芽吹く命 蘗たち 慈しむようにこうありたい こうしたいの 想いを育み抱く日一日を 夢に向かう 登り坂の 祭りとしてカ 尽くそう 心 充たそう流行り物に 取り込まれず 若さを装う 無駄無理せず精一杯 内からなる 自然を生きれば 嬉しいもの五千人の 知り合いより 五十人の 友選ぶように真心だけ 重ね合える 交わり暖めたい地位や名誉 すでに無用 美しさを 追い求めて日一日を 夢に向かう 登り坂 祭りとしてカ 尽くそう 心 充たそう』そして明朝は真白き富士の嶺の勇姿が!!
2022.10.25
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この日は9月28日(水)、6:30すぎにホテルを出発し駐車場から沖縄道那覇ICに向かう。3日連続で「とよみ大橋」を渡る。同じく3日連続で「那覇IC」から沖縄道へ。那覇料金所のETCゲートを通過。この朝は前方に雨雲が。「沖縄セルラー電話(株)」の電波塔。宜野湾市我如古2丁目14近く。「沖縄県企業局」の「山里調整池」が2基。そして「金武(きん)IC」で降りる。「金武料金所」を通過。国道329号を左に進む。「沖縄電力株式会社 金武火力発電所」が右手前方に。「金武火力発電所」の四角形の煙突。「国道329号・金武バイパス」を走る。「億首川(おくくびがわ)」に架かる国道329号・金武バイパスの「金武BP1号橋」。左折して国道329号の高架を見る。走って来た国道329号・金武バイパスの高架橋・「金武大橋」下を通過。道なりに進むと正面にあったのが「水牛車乗場」。「水牛車」が2台、この日の出番を待っていた。国頭郡金武町金武10988−1。「心のんびり 水牛車体験」案内板。5頭の水牛が飼育されているようであった。名前や特徴が書かれた看板。表情の見分けは難しくても、よく見ると、角の形がそれぞれ違うので、角の形でどの牛か見分けることがなんとかできそう。水牛の姿を追う。水牛はもともとは沖縄にいたものではなく、農業の際に畑を耕すため、台湾から連れて来られたとのこと。大きな耕運機がはいられないところは、この水牛が大活躍していた。沖縄の各島々で見られる、さとうきびを耕す際もこの水牛が活躍していた。水牛は、中国・東南アジア・インドなどアジアの熱帯に近い地方で広く用いられている。熱帯の植物を主食とし、穀物飼料や濃厚飼料中心の飼養に向かないので寒い地方では利用できない。暑さにも弱く、1日に3時間は水に浸からなければならないので水辺での生活が欠かせません。移動速度は遅いのですが、牛よりも牽引力が大きく、粗食に耐えるので、荷車の牽引用として優れているのだと。このような理由で、億首川の観光用の水牛車に導入された と。近くにあった「展望台」。「展望台」に上ってマングローブ林を見る。恩納岳から金武町内を流れて金武湾にそそぐ億首川は、全長約8kmある。川の水と海水が混ざりあう河口近くには、沖縄本島では唯一、4種類ものヒルギが群生するマングローブ林があり、水辺の生き物やバードウォッチングが楽しめる場所として人気を集めている と。展望台よりマングローブ林を見る。「億首川」の河口近くに架かる「福花橋(ふっかばし)」。静かな水面に「マングローブ林」に映り込んで。その先に、先程渡った、国道329号・金武バイパスの「金武大橋」が見えた。沖縄本島に群生する4種のマングローブすべてを観察できるのがここ金武町にある億首川(おくくびがわ)であるとのこと。橋の名は「福花橋」。「福花橋」を歩いて渡る。「億首川」の河口を見る。「福花橋」を渡った場所の右側にあった「展望デッキ」には「金武町億首川プロムナード(散策路)」案内板。「億首川は、生物の多様性が高く、学術的にも貴重であることから環境省の「日本の重要湿地」として選定されている。同地域には、本島ではここでしか見ることが出来ない4種類のマングロープが自生している。また、県内でも数少ない水田(水芋・水稲)が広がり、渡り鳥の飛来地として約30種類の鳥を観察することができる。このような、貴重な自然環境の保全と共生を図りながら、自然体験学習と環境学習の場となっています。」4種類の「ヒルギ」が紹介されていた。「オヒルギ(ヒルギ科)海水中から多くの呼吸粮を上向きにのばします。花は赤~クリーム色で、果実は卵~円錐形で、枝上で発芽します。」「メヒルギ(ヒルギ科)「葉に光沢があリます。花は白色で、果実は卵形で萼が反り返ります。枝上で発芽します」「ヤエヤマヒルギ(ヒルギ科)」「幹や太い枝から多くの支柱根を出します。花はクリーム色で、果実は円錐形です。枝上で発芽します。」「ヒルギモドキ(シクンシ科)」「葉は枝先にあつまってつき、多肉質で光沢があります。花は白色で、果実は楕円形です。」再びマングローブ林を見る。「億首川の野鳥」案内板。左側。中央。右側。河口の先の太平洋には貨物船が。「金武町多目的屋内運動場施設」は建設工事中。米軍ギンバル訓練場跡地に整備計画している多目的屋内運動場で令和4年度内に完成予定と。「億首川」。「億首川」とは、首が億もあるので怖そうな名前の川!!川の名前は地名から名付けられていると。「億首」という地名の由来は『金武町誌』によると――慶長14年(1609)島津軍が琉球へ侵入の際、ギミンノへイカという勇ましい兵士がこの地にあった要害で島津軍を迎え討ち、敵の首を数億も切り落としたことに因んで名付られたのだと。億とは、数え切れないほど多くという意味のようである とネットから。橋を渡り引き返し左折するとあったのが「日秀上人と福花原・物語」案内板。「1⃣ 日秀上人フナヤに漂流永正年間(1504~1520)の和歌山県から唐(中国)に行く途中の一隻の半壊状態の船が、金武のフナヤ(福花港)に流れ着いた。ちょうど船が流れ着いたころ作業をしていた若者が流れ着いた船を見つけ、乗り込んで調べてみるとかろうじて生きているかのような坊さんが。船底にしがみつきうつぶせになって倒れていた。若者は坊さんを助け、持っていた弁当をあたため、お粥をつくり差し上げた。お粥をすすっているうちに坊さんの体力は回復し、立ち上がって海を見渡し、笑みをいつぱい浮かべて大きな声を張り上げ「ほこらしゃやみなと」と発した。しばらくすると坊さんはのどが渇いた様子で若者に飲み水はないかと尋ねると、若者は村はずれの湧水の出る場所に案内した。坊さんは新鮮な冷たい水を一口飲んだだけで身震いし「なんとおいしい水だろう。この水でお茶を沸かし飲むときっと素晴らしい味がするだろうと」若者に教えた。」。以下は、訪ねなかったのでネットから。「2⃣日秀上人と若者すっかり落ち着きを取りもどした坊さんはそれまでのいきさつを若者に話した。若者はこの坊さんが日秀上人という身分の高い僧であることを初めて知り、急にこちこちになりへりくだった態度をとった。「坊さんはそうかたくならなくてもよい、あなたは命の恩人だ。何かお礼をせねば」、私にできることがあれば何でも申し述べよ」と、上人に若者は「何もほしくはございません、あたりまえのことをしたまでです・・・。あえて申し上げるなら物はいつかなくなってしまいます。それで・・姓を賜りたいのですが」どんな姓がほしいのか尋ねると、若者は北を指差し「この丘の向こうの山のふもとにある川は先祖代々はじめ、多くの村人の生活に大変役に立ってきた由緒ある川です。名はヒジャガーと言います。その川の名を授けてもらえれば大変光栄に思うのですが」と願い出ると、上人はこの名が幸せをもたらすように唱えてあげた。「さあ、今日からお前の名字は比嘉だ。この名に誇りを持って使うがよい」と若者に命名した。」以下【https://www.ryukyulife.com/2015/11/okinawan-folktale-legend-of-monk-and.html】より「3⃣福花・茶井(サーガ)の由来この話が村中に伝わっていくうちに、日秀上人の上人の申された「ほこらしゃやみなと」の言葉からその浜あたりは福花と呼ばれ、また湧水が出るところを茶井(サーガ」と呼ぶようになったそうだ。茶井は後々、おいしい水所として首里までその名が届き、役人が金武に立ち寄るときは、必ずといっていいほど、ここの水を飲んでいったという。」「4⃣日秀上人と村人金武の若者に助けられた日秀上人は、村のために何か役に立ちたいと考えていた。上人は農業についても相当な知識があり、農産物の栽培や管理、特に稲作については、それまでは経験だけを頼りにしてきた村人に新しい方法を教えた。その成果の素晴らしさに、村人はびっくりし「白砂か米に化した」という謡までうたわれるようになり、上人の指導のおかげで村はしばらく豊作が続き、大変栄えていたという。それ以来、村人は日秀上人のことを「神人(カミンチュ)」だと崇めるようになった。ところでその頃、村をひっそりとさせるような恐ろしい事件が起きた・・・。」「5⃣村の娘と美青年ある月夜の晩、このあたりでは見かけぬ美青年が、村で一番美しい娘の◯をたたき、透きとおるようなきれいな声で、娘を誘い出し娘は男の美しさと天人のような声に、さそわれるままに後をついていった。以前からこの子に惚れていた村の青年が、月夜の木の影から、こっそり後をつけていくと、ニ人はまるで長い恋人同士であったかのような素振りで手を組みながら洞窟に向かっていた青年が急いで娘を引き留めようとした時、突然煙が”むくむく”と立ち込めたかと思うと美青年が大蛇に変身。何の抵抗もできない娘を巻きつけて、洞窟の中へ消えていったのである。」「6⃣大蛇実はこの大蛇、洞窟の中に住み、人間、特に若い美しい女性の生肝を常食にしていることで、村人から大変恐れられていたのだ。その昔、洞窟に続くいてるといわれる大川で、水を汲みにくる若い女性が次々と襲われたり、大川や洞窟近くの農作物が被害にあう事件が相次いだ。大蛇のせいだと知った村人たちは、その周辺には近づかないよう注意し合っていた。しかし長い問被害がなかったことから大蛇は死んだものと信じ込まれていた。それでも村人は大川や洞窟から遠ざかり近くで農作物を植えたりすることも避けていた。ところが腹を空かせた大蛇は大川に現れてはみたものの人間は来ないし、近くに農作物もみあたらないため、我慢できなくなり人間に化け、人家にまで忍び込むようになった。」「7⃣日秀上人と大蛇娘がさらわれたことが村中に広まると、村人はいつか我が身、あるいは我が娘にふりかかるものかと、気が気で夜も眠れず、外に出かけることさえできなかった。急にひっそりした村のことを心配した上人は、娘を持つ家を訪ねては、娘を隠していたり、親子でしくしく泣いている様子を見てたいそう心を痛めた。さっそく上人は自ら洞窟の前て呪文を唱え、大蛇がニ度と出られないように洞窟に封じ込めた。それ以来、大蛇の被害はなくなり.村は再び栄え始めたそうだ。 終わり」近くにあった赤紫色の苞(バナナハート)と開花した花と付け根にはバナナの子どもが。太陽に向かって反り返るバナナの実。そして「オオシマゼミ」の姿を発見。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.25
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「残波岬」からこの日の夕日をカメラで追う。近くには数十人の方が立派なカメラを構えていた。我が旅友も一眼レフカメラを三脚にセットして。時間は18:04。この日のこの地の日没時間は18:21とネットから確認済み。太陽の上端が地平線(または水平線)に接する瞬間を、日出・日没時刻と定義しているのだ。従って、日出とは太陽が地平線から顔を出し始めた瞬間、日没とは太陽が地平線に沈みきって見えなくなった瞬間になる。そして夕日の下部が雲から姿を現して来た。太陽の姿が次第に・・・。そして真丸の夕日が姿を表す。時間は18:08。貨物船が。しかし水平線上には黒き帯が。やはり・・・時間は18:12。18:14。そして太陽は姿を消したのであった。時間は18:15。諦めて引き上げることにする。「沖縄海岸国定公園」案内板。残波岬は、琉球石灰岩の断崖を荒波が洗う景勝地です。岬の南には板干瀬(いたびし、ビーチロック)の発達する砂浜がつづいています。(板干瀬は6~30cmの板状の岩が何枚も重なりあって層をなし、まるで洗濯板のような様相を呈しているのだ。)■沖縄海岸国定公園沖縄海岸国定公園は、沖縄島最北端辺戸岬よリ残波岬に至るサンゴ礁に縁取られた西海岸と、固有の生物相をもつ北部山林地域の一部、および多島海の風景と海中景観が美しい慶良間諸島からなります。これらの地域は亜熱帯沖縄を代表する自然の風景地です。周辺海域では多種多様なサンゴや熱帯魚が素晴らしい海中景観を織りなし、特にすぐれた地区として部瀬名岬周辺など3箇所が海中公園地区に指定されています。また与那覇岳一帯には原生林に近い亜熱帯林が分布しており、世界的な貴重種であるノグチゲラやヤンバルクイナが生息しています。「沖縄海岸国定公園 残波岬周辺の自然」残波岬で見られる植生残波岬では、亜熱帯沖縄を代表する海岸植生が見られます。岬の北西側には隆起サンゴ礁海岸植生が、北東側には海岸断崖風衝植生が分市しています。潮風や乾燥に強い植物が海岸地の厳しい環境で自生しています。残波岬で見られる植物アダン(タコノキ科)日本では南西諸島だけに見られる常緑低木です。主として海岸に群生し、幹から多数の支柱根を出します。果実は多数集まって集合果をていし、パイナップルの果実によく似ています。クサトべラ(クサトべラ科)日本では南西諸島だけに見られる常緑低木です。海岸の砂地や岩地、隆起サンゴ礁に群生します。核果は海流(黒潮)によって運ばれます。モクビャッコウ(キク科)日本では南西諸島だけに見られる常緑小低木です。主として隆起サンゴ礁に叢生し、比較的海水に強い植物です。「琉歌 特牛節(くてぃぶし)の碑」「大北の牡牛や なじち葉ど好ちゅる わした若者や 花ど好ちゅる」「大にし村の強い牡牛は、なじちゃの草が大好きであるが、われわれ若者たちは美しい花(美童)が大好きである。」と訳が。駐車場に戻り、帰路に。「残波岬いこいの広場」にあった巨大シーサー。「残波大獅子」と。日本一の特大シーサーであると。高さ8.75m、長さ7.8mの特大獅子。時間は18:23。中頭郡読谷村宇座1885。そして再び「Royal Hotel 沖縄残波岬」を見る。空港から車で約70分、人気の観光地「残波岬」近くにある、総客室数465室のリゾートホテルそして「国道58号」を利用して那覇市内のホテルへと向かったのであった。途中、国道沿いの店のネオンをカメラに納めながら。「琉球朝日放送(株)・QAB」のテレビ塔。那覇市久茂地2丁目3−1 琉球放送会館。そしてホテルに到着。時間は19:40。この日の「備瀬のフクギ並木」以降のドライブルート。走行距離271km。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.24
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沖縄道「石川IC」を降りこの先を右折して県道73号線で「中泊」方面に向かって進む。県道6号線の「中泊」の海岸線を進む。そして県道12号線を利用して「座喜味城跡」に建つ「世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム」👈リンクに到着。時間は17:06。歴史民俗資料館と美術館が統合され、2018年6月にリニューアルオープン。「ユンタン」とは、「楽しくおしゃべりをする」という意味の沖縄の方言「ユンタク」と、「そこで生まれるたくさんの笑顔が詰まった容器」をイメージする「タンク」を掛け合わせた造語であると。中頭郡読谷村字座喜味708番地の6。「座喜味城跡駐車場」。座喜味城跡の歴史や、村内の自然環境を紹介する展示等が新しく加わり、読谷村の歴史、自然、戦前・戦後の暮らしについて実物や模型、写真などで紹介され、歴史資料や美術品など6万点近く収めれている と。ここ「座喜味城跡」は2015年6月に訪ねているのであった。築城家として名高い護佐丸が築いた先進的な建築技術と、見事な曲線が美しい「続日本100名城」に選ばれた世界遺産「座喜味城跡」。座喜味城は、戦乱の世だった「三山時代」に活躍し、琉球王国統一後の国の安定に尽力した名将護佐丸(ごさまる)によって築かれた城。国王に対抗する勢力を監視する目的でつくられ、1420年頃に完成。規模は小さいが、城壁や城門の石積みの精巧さや美しさは沖縄の城の中で随一といわれ、当時の石造建築技術の高さを示す貴重な史跡となっているのであった。座喜味城の正面の城壁は、波打つように大きくせり出ている。これは、攻めてきた敵を倒すための工夫。身を乗り出さなくても下の様子が見え、多方向の攻撃にも有利だったと考えられている。城の中には、奥へ導かれるように見える通路があり、そこを突き進むと行き止まりになる。これは、敵をあざむいて攻撃を加えるための「武者隠し」といわれるもの。これらのことからも、座喜味城は戦に備えた軍事要塞として築かれていたことが伺えるのであった。座喜味城は国頭マージと呼ばれる粘土質の赤土の上に築かれていた。屏風にもたとえられる城壁の曲線と幅の厚みは、戦のためだけでなく、弱い地質を補って崩れにくい構造にするための工夫でもあった。石をかみ合わせて積み上げた「相方(あいかた)積み」と、日本の築城様式にも見られる「布積み」で築かれている。城門は沖縄に現存する最古のアーチ門で門の強度を高めるために中央部にはクサビが打ち込まれていた。このつくりは他の城には見られない座喜味城独自のもので、護佐丸の築城技術の高さを象徴しているのだ と。「続日本百名城」のスタンプを頂きました。そして「御城印」も購入しました。力強さが感じられる書と、座喜味城跡らしい曲線美、石積みの美しさを色鮮やかにイメージさせるデザイン。この丘の上が「座喜味城跡」👈リンク。この日は、スタンプ、御城印のみで「座喜味城跡」を後にしたのであった。近くにあった「(株) 沖縄黒糖」👈リンク は2015年に訪ねているので、この日はパス。そしてこの日の最後に「残波岬」からの夕日を見に行く事とする。この日の日没時間は18:21。時間に余裕があったため「宇座海岸」を訪ねることとした。「宇座(うざ)海岸・ビーチ」は沖縄県読谷村(よみたんそん)にあり、那覇空港から車で高速道路を利用せず約1時間、約35キロの所にある海岸。海岸にあった「石切場跡」。干潮の時だけ姿を現すという石切場跡は、残波岬に向かう途中の宇座集落にある宇座イノーで見ることができた。イノーとはリーフ(サンゴで囲まれた天然の防波堤)で囲まれた浅い海のこと。海藻や小魚、貝などが集まる豊かな海。そのため沖縄では昔からイノーのことを「海の畑」と呼んでいると。そんな宇座イノーにある石切場跡は、「宇座石」と呼ばれる良質な石材が採れる場所。宇座イノーの宇座石が盛んに採掘・販売されていたのは、大正時代末期から昭和時代初めとのこと。当時は波照間島の石材が多く流通していたのだが、墓石だけでなく畜舎や石垣など建築石材として幅広く利用が出来る良質な宇座石は沖縄本島内でも人気が高く、那覇や宜野湾、北谷、具志川方面へも出荷されたと。とはいえ宇座石があるのは海の中。しかも潮が引かなければ石は切り出せない。そのため石職人たちは潮が引き始めるとイシアナと呼ばれる採掘場所に集まり、バンジョーガニ(金尺)、ユーチ(石切斧)、チーシ(ハンマー)、チンチョー(石を挟むハサミ)など採掘用の道具を使って石を切り出した。さらに切り出した石は満潮時の浮力を使って馬車に積み込む。こうすることによって海の中にある宇座石を効率よく切り出し、遠くまで効率よく運搬することができたとのこと。このように宇座の石切場は良質な石材が採れるだけでなく効率よく石を運搬する方法も確立されていたため、沖縄本島で最大規模の石切場として栄えたのだと。この後に訪ねた「残波岬灯台」をズームで。「宇座海岸」の奥には小さな岩場が。「宇座海岸」で拾ったサンゴ。こちらの貝は?北側には「Royal Hotel 沖縄残波岬」が見えた。「Royal Hotel 沖縄残波岬」の前を通り、「残波岬」に向かう。カーナビの画面。そして「残波岬」の駐車場に車を駐め散策開始。時間は17:41。日没までは約40分。中頭郡読谷村宇座。まずは「泰期像モニュメント」を訪ねた。1372年琉球王朝時代、時の中山王「察度王」の命を受けて初の進貢使(明・清皇帝への進貢のために、中国に派遣される使者)として、初めて中国へ派遣された。読谷村の豪族であった泰期は中国の文物を琉球王国に正式ルートで導入した先駆者であった。その活躍は沖縄の一番古い歌謡集「おもろさうし」に謡われ、「読谷まつり」2日目「創作進貢船」の主役となっている。当時の船旅は、生命の保障の無い危険な旅路であり、特に「唐旅」は「あの世への旅立ち」を意味する程に厳しいものであった。その唐旅を5往復もした「泰期」が並の人間で無かったことは想像するにたやすいことである。読谷村は並外れた勇気と使命感、統率力、国際ビジネス感覚で大貿易時代を先導した泰期を本村の経済活性化の起爆剤とするために、「商売の神様」としてシンボライズし、読谷村商工会35周年、村制100周年を記念して2008年11月に15年の歳月を掛けて「泰期像」を完成させた。台座には泰期をたたえる歌「おさの、たちよもいや たう、あきないはゑらちゑ あんしに、おもわれれ 又、いちへき、たちよもいや」と刻まれていた。意味は【宇座の泰期殿は 中国交易をさかんにされ 按司様のおぼえめでたくあれ 心意気すぐれた泰期殿は】と。泰期像は約180cmで中国福建省の方向を指さしているのだと。「残波岬灯台」👈リンクを見る。ここも2015年に訪ねているのであった。沖縄本島で一番高い灯台。塔高31m、灯高44m。周囲には「大岩」がゴロゴロと。パネルが腐食と強風でかなり無くなってしまっていたが「台風の猛威遠くいにしえより母なる海は人々に恵みと幸をもたらしてきました。しかし時には大地を震わし人々に襲いかかる嵐を巻き起こします。それが台風です。1990年10月6日午後8時40分、台風21号の驚異的なエネルギーは、大波となって残波岬一帯(ユカから南にかけて)をのみこみました。なんと!その時に重さ50t~94tもの大岩を動かしてしまいました。もしもこれが人間や自動車であればひとたまりもありません。アッという間に波にさらわれてしまうでしょう。「大自然の力をあなどるな!!」という教訓が形として残っているのです。1994年8月26日 読谷村」「泰期像」を振り返って。「西ノ神之屋(イリヌカミヌヤー)」。「東ノ神之屋」と対になる拝所。航海安全や武運長久を祈願した拝所なのであろう。日没まで後25分。しかし西の空一面には雲が・・・。ワニの如き岩。1人の女性が夕日の沈む西の空を見つめて。「A''LINE」の旅客船の姿が。鹿児島から那覇に向かう旅客船であろうか?オレンジ色に染まる雲の広さは、僅かに拡がって来たが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.23
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「具志堅ビーチ」を後にして国道505号に入り東に進むと「今帰仁城跡」案内板が現れた。日本百名城の「今帰仁城跡」👈リンク は2011年3月に既に訪ねているのである。交差点には世界遺産「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」の美しい曲線美の石垣の光景が大きな看板となって歓迎していた。道路脇の建物の壁にはユニークな絵が。「ちむどんどん」、「ないくるないさぁ」の文字の書かれた絵が。「ちむどんどん」とは、沖縄方言で「胸がわくわくする気持ち」を表す。「ないくるないさぁ」は、「挫けずに正しい道を歩むべく努力すれば、いつか良い日が来る」と いう意味。「ウッパマビーチ」はのんびりしたい人におすすめの本部(もとぶ)半島北部、今帰仁村の天然度の高いビーチ。ウッパマとは方言で「大きな浜」の意味で、その名のとおり広々とした浜が続いていると。「なきじん 美人多し わき見 注意」と道路標語になっているくらい美人が多い地域なのだ!? と。「伝説の美女 なきじんうかみ」。今帰仁村商工会ホームページで によると、「今からおよそ七百年程前の中北山時代の頃、今帰仁城の南側に志慶真村(しげまむら)という集落がありました。この「しげま村」に、乙樽(ウトゥダル)という絶世の美女がいました。その美貌のうわさは国中に広がり、又このようにうっとりとみとれるほどの綺麗な乙女は、神様みたいに気高いというので、「今帰仁御神」(ナキジンウカミ)と云われるようになりました。」と。次に訪ねる「古宇利島(こうりじま)」の案内が現れた。「国道505号」から左折して「県道248号線」へ。「古宇利島」まで6.5kmと。「ワルミ大橋」を渡り「屋我地島」に入り県道110号線に入る。沖縄本島とは屋我地大橋で結ばれており、さらに古宇利大橋で今帰仁村に属する古宇利島と結ばれており、また今帰仁村運天側の本島との間はワルミ大橋で結ばれている。島内には、済井出・饒平名・屋我・運天原・我部の5つの集落があり、饒平名に名護市役所の支所と郵便局が置かれている。「屋我地島」の航空写真をネットから。そして県道247号線から「古宇利大橋」の姿が現れた。「古宇利大橋南詰展望所」駐車場の車を駐める。青い海、青い空に囲まれた「古宇利大橋」と「カエル島」を見る。ズームして。潮が大きく引くと「カエル島」まで歩いて行けるようであった。「写真はネット」👈リンクから。 再びこの日の自分の写真を。「古宇利島」も背景にして。「古宇利島」は別名「恋島」と呼ばれ、カップルにも人気がある島である と。「古宇利大橋」今帰仁村の古宇利島と名護市の屋我地島を結ぶ全長1,960mの橋。2005年2月8日に開通し、県内では通行無料の橋としては2番目に長い橋。橋の両側にはエメラルドグリーンの海が広がり、絶景のドライブコース。古宇利大橋」を渡ってすぐ左手には、古宇利ビーチや地元の特産品が楽しめる「古宇利ふれあい広場」があり、観光客でにぎわっているのであった。パイナップルと似た「アダン」と「古宇利大橋」のコラボ。「大堂原(うふどうばる)貝塚」案内板。「大堂原(うふどうばる)貝塚大堂原貝塚は、1979年(昭和54年)に行われた名護市遺跡分布調査で発見された遺跡です。1998年(平成10年)から2004年(平成16年)まで、古宇利大橋建設に伴う緊急発掘調査が行われ、縄文時代早期(約6500年前)から古墳時代(約1400年前)までの遺構や遺物が見つかりました。縄文時代早期に相当する層(第8層)から、爪形文土器や県内でも最古級の土器である薄手無文の土器のほか、イノシシの骨やその骨を加工した骨製品が出土しました。また、同じ層から埋葬人骨もニ体出土しており、約6200年前の人骨であることがわかっています。縄文時代前期の層(第7層)からは、熊本県の曽畑貝塚を標識とする曽畑式土器や、条痕文土器、室川下層式土器が、縄文時代後期の層(第4層)からは伊波式土器や奄美系の土器などが出土しています。弥生時代から古墳時代に相当する層(第3層)からは、イモガイやゴホウラを集めた貝の集積が十数基見つかりました。これらの貝は腕輪や貝製品の材料となるもので、九州地方と交易をするときの交易品であり、その見返りとして手に入れたと考えられる九州地方の弥生土器や甕棺の一部も出土しています。また、同じ層から新たに埋葬人骨もニ体出土しましたが、これは約900年前のグスク時代の人骨でした。その時代に、弥生・古墳相当期の層を掘り込んで埋葬されたものと考えられます。県内でグスク時代の人骨はあまり見つかっておらず、貴重な発見となりました。沖縄諸島で出土するほとんどの形式の土器が出土しているほか、石斧やたたき石などの多様な石器や腕輪、指輪などの貝製品、イノシシの骨以外にクジラの骨を利用した骨製品なども出土しており、沖縄の先史時代を知る上での貴重な資料が得られています。それぞれの時代から発掘された土器や石器類。「こうりおおはし」と。その先には人も歩いて渡れる遊歩道が片側のみに。一直線に延びる「古宇利大橋」。「運天湾」方向を見る。車に戻り「古宇利大橋」を渡る。中間点を過ぎると下り坂になり、青い海に吸い込まれるようなまっすぐな道路が望めるのであった。橋というより海上を走る道路って感じ。歩いて渡ると、視点も多少高くなり新たな感動が拡がるのであろうが・・・・。「古宇利大橋」を渡り、「古宇利島」に入る。「古宇利島」の航空写真をネットから。最初に訪ねたのが「人類発祥の島」 碑。中央の石碑には「成就 無病息災 子宝祈願 事業繁栄」と。「心」と書かれた石球も。天帝が、初めて地上(身のシラサ岬)に降ろした人間の男女(姉弟)の姿であろうか。「人類発祥の島古宇利島は、天帝が、初めて人間の男女(姉弟)を地上(島のシラサ岬)に降ろしたロマンに満ちた島、別名を恋島( クイ島)とも呼はれている。人類の始まりウミナイ・ウミキイ(ウナイ神・ウキイ神)の原点、深層を証す行事「海神祭(ウンジャミ)」が旧暦のお盆明け七月の最後の亥の日に執り行われています。元屋の神棚には、ウミナイ・ウミキの御姿像か神として祀られています。※縁結びの神」「方位と拝所の名称で見る古宇利島」👈リンク。難しすぎて理解は??奥にあった建物は「拝所」なのであろう。「人類発祥の島碑」前から「古宇利大橋」を見る。中央部をズームして。この橋の下を通過する船の姿は見ることが出来なかった。次に「古宇利島灯台」を訪ねたが、灯台の前には私有地?の建物があり、立ち入り禁止となっていた。灯台の最上部のみをカメラに。塗色構造 白塔形灯 質 等明暗白光 明3秒暗3秒 Iso W 6s光達距離 8海里塔 高 11メートル灯 高 53メートル初 点 灯 昭和50年3月 と。そして「古宇利島」を1周(周囲7.9km)しようと、さとうきび畑の農道を進む。再び「古宇利大橋」を見る。なんとか1周して。帰路の「古宇利大橋」。青い海に浮かぶ小さな島々。「古宇利大橋」を渡り、左折して県道110号線を「奥武島(おうじま)」に向かって走る。海の先に見える場所は名護市稲嶺~源河地区。「屋我地大橋(やがじおおはし)」を渡る。沖縄県名護市真喜屋の奥武島と同市屋我地島とを結ぶ全長約300メートルの沖縄県道110号線の橋。「屋我地大橋」は、羽地内海の屋我地島と奥武島に架かる橋で、平成22年12月にワルミ大橋が完成するまでは、長年にわたり本島と屋我地島を結ぶ唯一の橋であった。現在の橋は3代目であると。そして「本部半島」をほぼ1周し、次の目的地の「座喜味城跡」に向かう為に沖縄道の「終点」となる「許田IC」に向かう。時間は16:22。そしてナビに従い。「石川IC」で沖縄道を降りる。時間は16:33。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.22
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さらに県道114号線を北に進む。左手にあったのが「ロイヤルビューホテル美ら海」。そして以前にも訪ねた「備瀬のフクギ並木」👈リンクに到着。駐車場が満車のため、しばし待ち駐車場の最奥付近になんとか駐車して散策のスタート。「備瀬(びせ)のフクギ並木マップ」。沖縄の原風景を残す備瀬エリアのフクギ並木は、徒歩・自転車・水牛車で探索できる。細く白い砂地の路に青々とまっすぐ伸びる約18000本のフクギは、古くから沖縄で防火・防風防止の最適な植物として使われてきたとのこと。まずは「夫婦福木(フクギ)」へ。「夫婦福木」案内板。2本の巨木がくっついて寄り添っていることから夫婦フクギと呼ばれる木。夫婦円満や幸せを呼ぶパワースポットになっているらしい。「福を呼ぶ木」とも言われるフクギ。何とも縁起のいい木なのであった。福木・フクギは並べて植栽すると緑の壁のようになり、防風林・防潮林となる。ここ沖縄県の本部町備瀬の「備瀬のフクギ並木」や久米島町真謝の「チュラフクギ」(「チュラ」は「美しい」、「清らか」の意味)などが有名。奄美方言の地方名では「火事場木」を意味するクヮジバギといい、緑の壁のように植えておくと隣家の火事による延焼を食い止められるとされるとのこと。樹高は10-20m。葉は対生で、長楕円形または卵状楕円形で長さ8-14cm。雌雄異株で、花期は5-6月。1.5cmほどのクリーム色の5弁花を葉の付け根に咲かせる。果実は直径3cmほど、3-4個の種子を含む液果で黄色く熟し、クビワオオコウモリ等のオオコウモリ類の餌となる。フラボン系のフクゲチン色素が心材や樹皮中に多く含まれ、古くから紅型、琉球紬、久米島紬などの黄色染めに用いられてきた。福木の色素はアルカリ媒染で赤味の黄色に、すず媒染で黄色に、銅媒染で黄緑色に、また鉄媒染で黒味の青緑色にそれぞれ染色されるとウィキペディアより。福木・フクギの葉。ツヤツヤで厚みがある葉。「備瀬区公民館」。国頭郡本部町備瀬457。「備瀬神アサギ」。備瀬集落の真ん中ほどに、「備瀬神アサギ」があった。ここは集落の神祭りを行う小屋であると。神アサギのある村を「古層の村」と呼び、古琉球の時代(17世紀以前)からあった村と考えられているのだと。かつては茅葺き屋根で軒の低い建物であったが、現在は瓦葺きやコンクリートになっている。明治三十六年以前に創設されたムラは神アサギを設け、神人を置き祭祀を行って来たと。左の石碑には「備瀬神殿改築紀念碑」と刻まれていた。右の石碑は「拝殿改築記念之碑」か?「ウカミャーは、神殿(神様三体祭)祀アサギヤーは、拝殿」案内。「備瀬集落は六百五十年に創設されたと云われ、完全な村落が形成されたのは、三百五十年前後と考えられる。このアサギャー(ウカーミヤの神)は、備瀬区の始祖神として崇拝され、総ての祭事は、この場を中心に行われています。アサギャーは、神殿も拝殿も去る戦争の戦禍から逃れ、今に昔ながらの偉容を呈している。これも、備瀬の氏神様により神押しで守られ、備瀬区民の信仰が深いことから天地の神様がお護り頂いたものと信じます。この場所は備瀬区一の聖地で、年初めにはアサギヤーで、神人達が初御願(パチーウガン)で始まり、十二月までの数々の祭事、御願を行います。字民の無病息災、農作物の豊作祈願(五穀豊穣)大漁祈願と拝みます。観光のお客様は、パワースポットとして、心の中で、お拝み思いのパワーをもらって下さい。( 二礼・二拍・一礼)」。さらに海岸に向かって「備瀬のフクギ」並木を歩く。「海・伊江島ミーウカンへの眺望」案内板。備瀬崎からは、伊江島を一望することができます。伊江島をシルエットに沈む夕日はとても美しい眺望です。沖縄県本部町(もとぶちょう)、本部半島の先端の岬が備瀬崎(びせざき)。備瀬のフクギ並木で知られる備瀬集落の北端に位置する岬。眼前にミーウガン(新御願)と呼ばれる聖域となる小島が浮かぶ絶景の地。伊江島に沈む夕日の写真。「備瀬海岸」。「備瀬海岸」から「備瀬崎」の先の「備瀬埼灯台」方向を見る。「備瀬埼灯台」をズームして。白塔円形コンクリート造り。本灯塔は沖縄本島・本部町海洋公園近くの備瀬埼に建つ。チョット変わった小島の灯台。備瀬崎周辺の海岸は、琉球石灰岩の海食崖で、磯には根元が浸食されて細くなったキノコ岩が見えた。波による浸食によって水面近くを中心に深い切れ込みが生じるもので、地質学ではノッチと呼ぶとのこと。備瀬崎には海水面の変動で生まれた「ダブルノッチ」もあり、複雑な景観を生み出しているのであった。。穏やかな海が拡がっていた。「国営沖縄記念公園エメラルドビーチ」方向を見る。「伊江島」と「城山(伊江島タッチュー)」の姿が。島の中央やや東寄りにある海抜172mの岩山で村外からは「伊江島タッチュー」の名で親しまれている。城山は、島より7千万年も古く、世界でも珍しいオフスクレープ現象(古い岩盤が新しい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)によって形づくられた。この現象は、理論として語られていたが実際に見るのは世界でも伊江島しかないのだと。烏帽子を思わせる独特な形から古くから近海を航海する船が目印にしていた。また、航海の安全と健康あるいは豊作を祈願する城山御嶽がある と。ここにも「福助の王子焼き」の店が。狭いフクギの散策道を歩く。「備瀬のフクギ並木入口」案内。「歓迎 めんそーれ Welcome備瀬集落フクギ並木通り」案内板。「備瀬集落案内マップ」。観光ポイントの案内。A、ミーウガン 備瀬崎の離れ小島です。B、ミーウガン(離れ小島)への眺望 辺戸岬から昇る朝日と、伊江島に沈む夕日の両方を見ることができます。C、ボウズサンゴの珍しい石垣 ボウズサンゴは消石灰にして漆喰として利用していました。D、区画割の基準石 メージク(前軸) ナカジク(中軸) ニージク(子軸)の三つの軸石を基準にして区 画割が行われたといわれています。E、海・伊江島ミーウガンへの眺望 備瀬崎からは、伊江島を一望することができます。伊江島をシルエットに沈む 夕日はとても美しい眺望です。F、備瀬区の貴重な文化財 屋号:ハネクンヤー(具志堅門中の家)は、10代続く集落内で二番目に古い門中 です。屋敷の一角の壁は、備瀬のイノーの砂岩で100年以上前に作られました。 備瀬区に残る貴重な文化財です。G、夫婦フクギ 2つの巨木がくっついた珍しいフクギです。幸せを呼ぶとして人気のポイント です。H、コバテイシの老木 熱帯・亜熱帯の気候に分布するコバテイシ(モモタマナ)で樹齢350年と伝わっ ています。I、フクギアーチ越しの伊江島の眺望 フクギ並木のトンネルを抜けると、正面にはエメラルドグリーンの海に浮かぶ 伊江島が姿を現し、夕日を望む絶景ポイントです。「備瀬集落とフクギ並木」案内板。「備瀬集落は、本部半島の先端部に位置し、南北へ連なる碁盤目型のフクギ並木と、その間を通る白砂の道で形成されている美しい景観を残していることが、大きな特徴です。今から約400年程前に形成され、約350年程前に完全な集落になったとされています。神アサギを中心に集落が形成され、伝統文化を大切にする風習が強く、備瀬集落より行事や祭事の多いところはないと思われるくらいに、一月の初御願に始まり十ニ月まで毎月のように行事が行われています。集落の発祥が古い所以と思われ、主に五穀豊穣・無病思災を祈願する行事です。集落のフクギは琉球王国時代の250年以上前に、国策として風水思想に基づく海岸域から里山にかけての森づくりと、風害に悩まされた海辺に住む人たちの暮らしを守るためにフクギが植えられたと思われます。フクギは直立した大樹になり、防風・防潮・防砂・防火などの最適な樹木として、現在でも、先人から受け継がれたフクギを住民は守り続けています。」「水牛車でフクギ並木の原生林散策はいかが!」そして「備瀬のフクギ並木」の散策を終え、駐車場入口まで戻る。大きな「渡口彦信顕彰碑」。「渡口彦信顕彰碑この顕彰碑は渡ロ彦信が政治行政 産業経済 防犯福祉を通し 各般にわたり広く社会やふるさと備瀬区のために貢献されたご功績を讃え 末永く後進への励みに建立する」「経歴以下 省略。ここまでに大きな顕彰碑の建立の経緯に関心があるのだが・・・・。シーサーまでも(右)。シーサー(左)。こちらは歌碑。「情ある人の 福徳の礎 造て後の世の 宝さびら」「備瀬むらに生れ 御万人の為に ちむ情かきて 沙汰ゆ残ち」「フクギの里宣言記念碑」。国土交通省は、2011年1月2日、本部町備瀬区のフクギ並木を「手づぐ郷土賞」に認定した。その栄誉き受け、本部町ど備瀬区は2015年に2月9日を「フクギの日」と定め、沖縄における集落の原風景である美しいフクギ並木をとどめる備瀬区を「フクギの里」と宣言した。よって、備瀬区は先人達が築いた美しく快適な居住空問を大切に保護保存し誇りある「フクギの里」と広く知らしめると共に本部町ど備瀬区の未来永劫の繁栄を祈願し、ここに「フクギの里」宣言記念碑を建立する。」備瀬集落フクギ並木から「備瀬崎海岸」へ車で移動。備瀬崎ビーチは知る人ぞ知るシュノーケルスポットで海中にはサンゴや魚がたくさんいる。駐車場脇には「備瀬小唄」の石碑が建つ。また、トイレ、温水シャワー施設がある。正面に「備瀬小唄」碑。2017年9月末の建立。所在地:沖縄県国頭郡本部町「備瀬小唄👈リンク 作詞 仲田栄松 作曲 兼村憲孝一、福木垣かくて 長浜ゆ前なち 我した備瀬村ぬサー向けぬ美らさ ンチヤヤル ハジドー ジントヤルハジドー二、クビル切り千瀬ぬ 波花ぬ美らさ 勝て美らさしやサー備瀬ぬアン小三、月ぬ夜やでかし 水ぱいに下りて 三味に歌ぬしてサー遊ぶうりさ四、村ぬ真中に 氏神ゆ祀て 千代までぬ栄えサー願いあぎら五、高さ豊まりる 備瀬ぬ灯台や 夜走らす船ぬサー守いでむぬ六、名護原に登て 我が村ゆ見りば 五穀満作やサー世果報招ち」左側には「沖繩三線」の楽譜・工工四(くんくんしー)が。工工四は、五線譜の音符(♪)のように実際の音の高さを表すのではなくて、左手でどこを押さえて、どこを弾くかを指示しているようであった。「わした備瀬に想いはせ「備瀬小唄」は、備瀬に生まれ育った仲田栄松氏(琉歌歌人)が作詞した。備瀬の風水・風致・風俗が余すところなく表現され、備瀬人の気韻生動が読み取れる一唱三嘆の作品で、兼村憲孝氏の作曲により、昭和四十九年にレコーディングされた。備瀬集落は、何時の時代に何処から移ってきたか定かでないが、古老の口碑によると砂丘上のアダン山を切り開き、ソテツ山に堆積したわずかな風化土を耕して拓かれた。山もなく川もなく、薪にも水にも事欠き、夏は台風、冬は北風、砂嵐にさいなまれる厳しく、劣悪な環境であった。ほかに適地の当てもなく、この地にロマンを抱き、氏神を祀り、村の主の下に一致団結して流した血と汗と涙の結晶が、盤石にして美しい福木集落、わした備瀬なのである。その素晴らしい環境の中で、現世の備瀬人が伝統を守りつつ和気葛々と暮らす様を観るにつけ、祖先の偉業に改めて畏敬の念を感じ、感謝の念が込み上げ、この小唄が生まれたと作者は語られた。仲田氏は、故郷をこよなく愛し、学び、献身的に尽力された功績を讃え「備瀬小唄」を次世代へ継承し語りつく。 二〇一七年(平成二十九年)十月十五日建立 備瀬小唄歌碑建立期成会」「備瀬崎海岸」から再び「備瀬埼灯台」を見る。備瀬崎周辺の海岸は、琉球石灰岩の海食崖で、磯には根元が浸食されて細くなったキノコ岩が見えた。波による浸食によって水面近くを中心に深い切れ込みが生じるもので、地質学ではノッチと呼ぶとのこと。「備瀬埼灯台」をズームして。位置 [Lat/Long] 南西諸島 北緯 26°42' 30", 東経 127°52' 43"塗色及び構造 [Colour, Structure] 白色塔形 コンクリート造 [White, Tower, Concrete]等級及び灯質 [Class, Characteristic] 単閃白光 毎5秒に1閃光 [Fl W 5s]光度 [Luminous Intensity (Cd)] 770カンデラ光達距離 [Range (M)] 13海里高さ [Tower Height, Focal Plane Height] 地上~頂部:12m、水面~灯火:17m初点灯 [Commissioning Date] 昭和28年7月 [7.1953]管理事務所 [Office] 第十一管区海上保安本部「伊江島」をズーム。本部半島から北西約9kmの海上に位置する島。本部港からカーフェリーで、約30分で訪れることができます。島は、東西8.4km、南北3km、周囲22.4kmの大きさで、北海岸は約60mの断崖絶壁が連なり、南海岸はほとんどが砂浜。比較的平たんな島の中央やや東よりに海抜172mの古生代チャートの城山(伊江島タッチュー)がそびえ立ち、島のシンボルとなっているのだ。「(ミーウガン(離れ小島)への眺望)辺戸岬から昇る朝日と、伊江島に沈む夕日の両方を見ることができます。」「気をつけよう!! 海のキケン生物」。ご家族が楽しそうに。「備瀬のフクギ並木」を後にして、県道114号線を進み「具志堅ビーチ」に立ち寄る。東の岬の先端にもキノコ岩が。国頭郡本部町。ズームして。更に。「クロアゲハ」を見つける。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.21
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「大嘉陽林道」を更に上って行き、突き当りを右折、その先をさらに右折(帰路に撮影)。「八重岳 野戦病院跡」碑。その先にあったのが「八重岳野戦病院跡」。看護婦要員として支隊に従軍した「なごらん(沖縄県立第三高等女学校)学徒隊」の標柱が立つ。主に傷病兵の看護活動にあたり、ほかの学徒隊では「ひめゆり学徒隊」が最も知られているが、場所が異なるだけでその内容には違いはなかったのだ と。 「戦跡 国頭支援本部壕・野戦病院跡」👈リンク 案内板。「戦跡 国頭支援本部壕・野戦病院跡ここは、一九四五年(昭和二〇)の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、隊長:宇土武彦大佐。通称:宇土部隊)の本部壕と、沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった場所です。国頭支隊は日本軍の飛行場があった伊江島の守備と、本部半島を中心とした北部地域でゲリラ(遊撃)活動により米軍を足止めすることを任務としていました。その目的は本島中南部における日本軍の作戦を容易にすることでした。国頭支隊は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成された兵員約四千人隊で、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊で構成されていました。八重岳、真部山に布陣した国頭支隊は、一九四五(昭和二〇)年四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻を受けました。真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出ました。米軍は十七日に八重岳北東頂上を占領し、十八日から敗走する国頭部隊を追撃しました。米軍による八重岳周辺の掃討戦は四月末まで続いたといいます。国頭部隊の宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第三遊撃隊のいる多野岳に後退しました。その際、八重岳の野戦病院には多くの負傷者が置き去りにされ、この一帯は悲惨を極めたといわれています。この本部半島における戦闘で、山中に避難した住民はかえって戦火に巻きこまれ、軍人、軍属を含む町民約一七〇〇人の尊い生命が失われました。●上原米子さん(恩納村出身、一九ニ六(大正十五)年生まれ)が見た野戦病院八重岳野戦病院では県立第三高等女学校の生徒で編成された「なごらん学徒隊」が負傷兵の看護に従事しました。元なごらん学徒隊の上原さんは長年にわたり平和教育活動を行い、自身の体験を語ってきました。上原さんが描いた絵と証言を元に当時の野戦病院の様子を紹介します。」日本軍守備隊配置と米軍進路。「・野戦病院のあった谷間には当時、川が流れていた。石積みの土台の上に掘っ建て小屋があり、病床や手術室として利用した。」「手術室は医療設備も不十分で、部屋は暗く、ろうそくを灯して手術が行われていた。手足の切断手術も麻酔なしで行われた。」「・部隊の撤退前、動けない負傷者に手りゅう弾とカンパンが配られた。負傷者の「なぜこんなものを配るのですか」という質問に上原さんは答えられなかった。」案内板横の森に伸びる道の入口から向かって右側の斜面に、本部壕と野戦病院跡の石垣が残っている と。この先が国頭支隊本部壕であっただろうか。ハブがいるとのことで、この先は・・・。次に訪ねたのが「三中学徒之碑」。「三中学徒之碑」の両側には、向かって右側に碑文、左側に観音菩薩が建立されていた。「三中学徒之碑」。左側の観音菩薩碑。レリーフ下部には、88名の学徒戦死者の名が刻まれていた。添碑(三中学徒之碑)「太平洋戦争も末期の昭和二十年三月米軍の烈しい砲爆撃中を、沖縄県立第三中学校生徒数百名は軍命により通信隊要員または鉄血勤皇隊としてあるいは繰り上げ現役入隊の形で 郷土防衛の戦烈に馳せ参じた。四月一日 米軍の沖縄本島に上陸するや 陸上戦の火蓋は切って落とされ 我が三中の生徒はここ八重岳・真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し数十名が あたら十代の若き生命を無惨にも散らしてしまった彼等の三十三回忌を迎えるに当たり 学業半ばにして斃れ 諸々の思いを残して逝った彼等の霊を慰めるとともに 平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え 二度と再びかかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう 我等はもとより 子々孫々に至るまでの永遠の戒としてここにこの碑を建立する 諸霊よ 安らかに眠り給え 我等は常に諸霊と共に在らん 昭和五十二年四月十六日 沖縄県立第三中学校 生存学徒一同」「三中鉄血勤皇隊・三中通信隊(沖縄県立第三中学校)沖縄県立第三中学校は1928年(昭和3年)1月、名護町(現名護市)に開校しました。1945年(昭和20年)3月26日、鉄血勤皇隊が編成され、4・5年生と2年生の一部の生徒は、独立混成第四十四旅団(宇上部隊)の第ニ歩兵隊鉄血勤皇隊と第三遊撃隊鉄血勤皇隊に、3年生は第ニ歩隊通信へ配属されました。名護岳に配置された第三遊撃隊鉄血勤皇隊撃は、4月10日には多野岳に撤退し、羽地ー源河一体で遊撃戦を展開しました。今帰仁村302高地に配置された第二歩兵隊鉄血勤皇隊は、13日、八重岳に到着、戦闘に参加させられましたが、16日、命令により多野岳に向かい撤退.多野岳も米軍の猛攻を受けるようになり、24日、命令により東村の山中に撤退しました。第二歩兵通信隊に配属の生徒たちは、3月23日以降、八重岳、真部山の配置先で任務につきました。4月16日朝、米軍との戦闘が始まり、翌17日、多野岳への撤退命令が下り、生徒らは一週間後、多野岳で第三遊撃隊鉄血勤皇隊に合流し、24日、東村の山中に撤退しました。」「三中学徒之碑」前の叢の中の花に戯れる蝶をカメラで追う。「ジャコウアゲハ」。「アオスジアゲハ」であろうか。「リュウキュウアサギマダラ(琉球浅葱斑)」。「ツマムラサキマダラ」。「イシガケチョウ」であろうか。「ちゅらハートFMもとぶ」の通信アンテナを望む。ズームしたが・・・・。本部町の街並みが遠くに見えた。蜂も花と戯れて。アシナガバチであっただろうか。そして「八重岳」をひたすら下り、再び「国道449号」まで戻り右折すると再び「瀬底大橋」が見えて来た。今度は「瀬底大橋」交差点を直進。「満名川」の河口に架かる「本部大橋」を渡り更に国道449号を進む。「福助の玉子焼き」の看板。県道114号線を進むと「海洋博公園 南ゲート」案内板が。「海洋博公園、海洋文化館」👈リンクは2011年3月に、「沖縄美ら海水族館」👈リンクは2015年6月にそれぞれ訪ねていたのであった。「ちゅらうみ水族館」の手前にあったレストラン&ショッピング店・「竜宮城」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.20
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「部間権現」を後にして「国道449号」を「本部港」方面に向かって走る。左斜め前方に「瀬底島」が見えて来た。車を道路脇の駐車場に駐め、海岸に降りる。ここは「崎本部緑地公園・ゴリラチョップ」。沖縄でもサンゴが見れるポイントは幾つかあるが、ここ「ゴリラチョップ」は使い勝手も良く沖縄本島の中でも誰にでもオススメできるビーチ。ビーチで泳ぐことも可能だがシュノーケリングやダイビングされている方が多く、マリンショップのツアーなどでも使われるスポットである と。なぜ「ゴリラチョップ」という名前がついているのかと言うと、写真のようにまさしくゴリラが「空手チョップ」しているかのように見える岩があるため。ズームして。たしかに・・・・・!?。本来は崎本部緑地公園のビーチだが今ではこの愛称で広まっているのだと。走って来た海岸の南側の光景。SUP(サップ)体験スクールであろうか。SUP(エスユーピー、サップ)とはStand Up Paddle(スタンドアップパドル)の略称で、その言葉の通りサーフボードの上に立って、パドルを使って海や川をスイスイと漕ぎながら進むアクティビティ。1960年代のハワイで始まったと言われているが、2000年頃から日本でもブームに と。この日のここまでの移動ルート。何故か、ここまででソフトが中断、しかし暫くは気が付かなかったのであった。そして次に訪ねたのが「国道449号」・本部南道路を右に折れた場所にあった「宇座茂神社(うざもじんじゃ)」。国頭郡本部町健堅(けんけん)1429。「健堅区二班集会場」の先にあった「宇座茂神社」。昭和の初期に改築されている と。「宇座茂神社」前から、この後に訪ねた「瀬底(せそこ)大橋」を見る。「瀬底大橋」を渡ると「瀬底島」があった。その間、約600mの海峡は瀬底二仲(シーク・タナカ)と呼ばれ、台風時などに船が風を避けるため停泊する場所でもある。現在は本部新港として伊江島、あるいは与論・沖永良部・奄美大島などを経由する大型汽船が寄港する港でもある。そして引き返して「瀬底大橋」を目指す。この先の「瀬底大橋」交差点を左折。「瀬底大橋」👈リンク を渡る。「瀬底大橋」は、沖縄県国頭郡本部町の沖縄本島と瀬底島とを結ぶ橋。1979年(昭和54年)11月に着手し、5年3ヶ月の月日を経て1985年(昭和60年)2月に開通。工事中であり片側交互通行。橋の長さは762m。昔は、本島と瀬底島を渡る交通手段は、船であった為、天候によっては島は孤立状態になり住民は苦しんでいた。架橋の実現は当時の財政面、技術の関係で、無理だろうと言われていた。しかし、その後1967年に現地を調査し、可能性を検討してもらったところ、可能であることがわかった。だがその後、第一次オイルショックなどで日本は不況に陥り、一度、政策は凍結されたが、結果1979年に、大橋の起工式と祝賀会がアンチ浜で行われた。そして、1985年に瀬底大橋が開通したと ウィキペディアより。この「瀬底大橋」は、中央径間がニールセンローゼ橋 L = 141.5m、側径間はPC裄て構成された橋梁で、ニールセンローゼ橋は沖縄県では最初のものであるとのこと。「瀬底大橋」を渡り「瀬底島」内に入る。「瀬底島」の航空写真をネットから。まず最初に「恋人ビーチ」と呼ばれる場所に車を停める。「瀬底大橋」の全景を見る。ズームして。中央径間がニールセンローゼ橋 L = 141.5m。青い海に架かる白亜のニールセンローゼ橋。ニールセンローゼ橋は,1922 年スウェーデンの O.F.Nielsen により提案された橋梁形式で、アーチ橋の腹材にロッドあるいはケーブルによる斜材を用いている点に特徴がある。橋の白い色と空の青、海の青のコントラストが忘れられない光景なのであった。走って来た対岸の「浜崎漁港」方向を見る。白き橋の奥に見えたのが「本部富士」。沖縄県本部町の山里という地域にある山。周辺は石灰岩が炭酸ガスを含む雨によって浸食された独特な溶食地形で、熱帯特有の円錐カルストという丘陵地帯(日本では沖縄県だけ)を形成している。表面が石灰岩特有の植物に覆われていて、立ち並ぶ姿の一つ一つが巨大なケルンか古墳のようになっているとのこと。次に「瀬底グスク」に向かって進む。これも「拝所」であっただろうか?ここが「瀬底グスク」。「瀬底グスク」は、瀬底集落の南東標高約65~70mの通称「ウチグスク山」に位置するグスクで、東の御嶽 又はムーチースネードクルとも呼ばれている。又、「瀬底グスク」は村落発祥の地とも云われ、集落の主な祭祀も ここで行われると。グスク入口の鳥居や祠は、1991年にウフシヌハーなる人が建てたものだと。鳥居の先に祠「女神様の拝所」。奇妙な形をした「瀬底のろ火の神(ヒヌカン)」碑。「のろ火の神」と刻まれた石碑。車に戻る途中の路地の奥にも石鳥居があった。ここにも拝所が。詳細は不明。「神アサギ」もあった。そして民家の前には大きな「パパイヤ」の実がたわわに。そして県道172号線に出て「瀬底大橋」方面に戻りながら「本部町瀬底島公園」に立ち寄る。「瀬底大橋 開通記念碑」。「瀬底大橋は島の人々の永年の悲願であった。この悲願に応えて沖縄県が橋梁整備事業として国の補助を受け昭和四十七年の基礎調査から実に十三年余りの歳月と五十七億円の巨費を投じ最新の橋梁技術を駆使して昭和六十年二月十三日に開通したものである。この夢の架け橋とも言うべき瀬底大橋の開通によって島人は永年の離島苦から開放され新しい島の夜明けを迎えることができた。ここにこの一大事業を推進していただいた国、県、町並びに関係者の多くの方々の御協力に対し深甚なる感謝を捧げ永く顕彰するために、瀬底大橋開通記念碑を建立する。」願った事かなえ 思ったことかなえ 御万人乃力 御代のおかげ橋長 七六二米幅員 九.七五米工費 五十七億円工期 自昭和五十四年 至昭和六十年」「瀬底島」側から「瀬底大橋」を見る。「瀬底大橋」を渡り、「八重岳」山頂に向かって「大嘉陽林道」を進む。クネクネと山道を上って行くと左手にあったのが「蔦井隊の壕跡」碑。手前の石柱には「故陸軍大尉 清末一義 大分県 昭和二十年四月十六日 玉砕」と。「蔦井隊の壕跡」。右手の石仏には「仁徳院釈義道」、台座には「一切供養」と。台座裏側には「故陸軍中尉蔦井対馬大東亜戦に参加昭和二十年四月十六日当地本部町真部山に於て戦死す」と刻まれている と。蔦井隊の亡くなった戦友の名も刻まれていた。小隊長の蔦井對馬中尉、亀田登盛曹長以下約20名が慰霊碑側の壕から外への攻撃を試みて全滅したのだと。生残り刻す 軍曹 尾崎里志 と。ここにも文字が書かれていたのだろうか。それともこの場所が壕への入口「蔦井隊の壕跡」は昭和53年に埋没不発弾等処理事業によって発掘作業が行われた。その後崩落の危険があるということで埋め戻されたのだと。更に坂を上り、「清末隊 慰霊之塔」へ。沖縄北部の国頭地域を守備を担当していたのが国頭支隊。国頭支隊の中心をになっていたのは、宇土 武彦大佐を隊長とする独立混成第44旅団第2歩兵隊。国頭支隊は伊豆見国民学校に司令部を置いていたが、米軍上陸後は八重岳に本部を移し陣地を構築した。清末一義大尉(大分県出身)隊長が率いた第2歩兵隊砲中隊、清末隊之慰霊碑&清末隊の陣地壕跡がここであると。この碑の表面であったのだろうか?「寄付者尾崎久生 本部町字具志堅尾崎康豊 〃 字伊野波尾崎士郎 那覇市田中茂夫 山梨県島袋全孔 本部町字大嘉陽渡久地政幸 名護市宮里 平成十一年六月二十三日」と。水たまりをなんとか進む。正面に大きな石碑が現れた。しかしこちらは裏面のようであった。「一九五九年十一月七日建立」と。こちらが正面。「清末隊之塔」と。「清末隊之塔」の横の石碑。廻り込むと「故陸軍中尉 清村敏治之碑」。そして「大嘉陽林道の展望台」へ。しかし樹が生い茂り展望は十分ではなかった。さらに「八重岳頂上」に向かって坂を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.19
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「屋部の久護家」を後にして「国道449号」を西に進む。そして目的地の「屋部寺(やぶでら)」を目指す。「凌雲院」は、屋部集落の北はずれにあって、寺院に通じている道沿いのブロック塀に、左矢印で「屋部寺」と書いた道標が打ち付けられていた。地元では屋部寺(やぶでら)と呼んでいるようだ。そして「屋部寺」に到着。山門の脇に「凌雲院」と彫られた、立派な石碑が建っていた。屋部寺は、正式名は「凌雲院」というが、「屋部寺」という呼び名のほうが有名とのこと。「凌雲院開祖は凌雲和尚、西暦一六九二年、屋部邑に草庵を構結して、楽道安身の処となす。当時、大旱釈道周く通ぜし、和尚の昼夜の念経呪法により終に大雨降る。また、屋部村に多かりし火災をもなくせり。」と刻まれていた。同様の文言が、琉球王府が編纂した史書、『球陽』の附巻に記されている と。赤瓦の屋根が沖縄らしい「屋部寺」の山門。奥には、これも赤瓦の屋根を持つ鐘楼が。山門や本堂同様に赤瓦の屋根が沖縄らしい「鐘楼」。「梵鐘」。参道の正面に「本堂」。「本堂」の扁額は「凌雲院」。開祖凌雲の出自は、はっきりしないが、首里の円覚寺で修業し、本土に渡って研鑽を積み、帰琉の後には、浦添に在ったとされる古刹、龍福寺の住職に就いたと云う。『球陽』の記述によると、1699年の条に、龍福寺の住僧凌雲が、屋部邑に草庵を構えて移り住む、と記されているそうだが、石碑にある1692年、屋部邑に草庵を構結して楽道安身の処となす、の記述とは、なぜだか、7年のずれがあるのだ と。「縁起物ご案内一、御朱印(書置き)一、角大師厄除護符一、心願祈念札(絵馬様札)一、御守り種々一、受験・合格御願物一、嘉利吉・吉祥縁起物一、啣朱印悵」屋部公民館事務所にて授与・頒布しております。」「再建起工 一九五四年十月四日竣工 一九五四年十二月十日改修建築工事昭和五十二年二月十八日」祭壇には、向かって右から「釈迦如来」、「地蔵菩薩」、「延命観音」、中央に一際大きい、ご本尊の「薬師如来」。続いて「聖観音菩薩」、「不動明王」、「子安地蔵菩薩」の像が安置され、それぞれに仏様の名前を書いた札が置かれていた。かなりの時を経たと思える仏像が並んでいた。中央にご本尊の「薬師如来」。「凌雲院 屋部寺 元三大師百籖 観音御籖 略記御籖の発給にあたっては、ご参拝頂く皆様の御願の真心に添い、お応えてきる御籖であるべきことを念頭一番に置きと共に、当寺の由緒・伝統を重んじるのは元よりとして、日本における御籤の原点とされ、その解読書である「元三大師御籖諸抄」を味読。改めて解釈した上で奉製しております。また、当寺の御籤名の表章については、宗旨に対する敬意を表し、かつ、籤の由縁に密接な元三大師の御尊名を拝して「元三大師百籖・観音御籤」と致しました。」中央に「薬師如来」、左に「聖観音菩薩」、右に「延命観音」。「本堂」前から境内を見る。御朱印、御守等は「屋部公民館」で頂けると。土地の「寄贈」碑。鐘楼の横の小さな広場の奥に「カー(井戸跡)」が。つかの間の陽光が。「坊主御井戸(ぼうじうかー)」と呼ばれる井戸跡。鐘楼の横で、既に黄葉を始めていたこの木は「クロトン」であろう。見ているだけで元気になれそうな、ビビッドな色合いの葉が魅力の「クロトン」。「本堂」の前に供えられていた葉もこの「クロトン」であろう。次に訪ねたのが「日蓮正宗 妙隆寺(みょうりゅうじ) 」。入口の坂にあった石碑。「参義坂」碑。「御命名之由来總本山第六十七世、御法主日顕上人猊下の御慈悲に依り、當坂をさんぎ坂と御命名して頂きました。出典 依義判文鈔道に三義あり。 一に虚通(こつう)の義、即ち本門の本尊なり。 二には所践(しょせん)の義、即ち本門の戒壇なり。 三に能通(のうつう)の義、即ち本門の題目なり。御指南に云く参の一字は、参詣道の場の意なり即ち、當坂は帰命依止、懺悔滅罪の根本道場に至る坂なるが故に、参義坂と命名するものなり。」「日蓮正宗 妙隆寺」境内に入る境内から名護市山入端の海岸線を見る。「日蓮正宗 妙隆寺」境内から本堂を見る。慧光山妙隆寺は、1984年12月17日に建立された。1990年頃に日蓮正宗と創価学会との間で争奪戦となった歴史がある。第二代住職は一時日蓮正宗からの離脱を発表したが、御僧侶らや家族による説得により離脱を思いとどまった。そのため、今も妙隆寺は日蓮正宗の寺院であり続けている歴史がある。妙隆寺周囲には、妙浄寺や凌雲院などの寺もある とネットから。総本山は、静岡県富士宮市にある多宝富士大日蓮華 大石寺。名護市屋部783-1。石碑には「慧光山 妙隆寺」と。「總本山 第六十七世 日顕上人お手植 琉球黒檀(こくたん)」碑。琉球黒檀はヤエヤマクロキ(八重山黒檀)とも。沖縄語においてはリュウキュウクルチ、ヤエヤマクルチ エーマクルチ。幹の色が黒っぽいので「黒木(クルチ)」とも呼ばれている。心材は黒色であり非常に硬く重い為加工は困難を極める。種子は食用ともなり、果実は楕円形で長さ約1センチ。用途は街路樹・防風林・防潮林・観賞用庭木 心材は楽器の三線などに加工され、高級材で成長が遅い事から、乱伐による資源の枯渇が問題となり保護の対象となる地域も増えており、維管束植物レッドデータブック (環境省)にも登録されている。原産はインド。分布は一部薩南諸島及び鹿児島県から沖縄県を北限とし東南アジアに多く、台湾、中国南部にも分布する。寺務所であっただろうか。眼下の海。「ヤナギバルイラ草」。紫色のペチュニアのような花が境内に咲いていた。この細い竹のような葉からは想像しづらい紫色の花。再び国道449号に戻り、海岸線を左に見ながら走る。「部間海岸」周辺の採石場の姿が現れた。「瀬底島」、「本部港」への交通標識。急峻な山が迫る。採石場、砕石場が近いことでダンプカーの台数が多いのであった。「国道449号」を右折して、採石場の脇の道を進む。「部間(ぶーま)権現」案内表示。入口にあった「部間権現」碑。昭和四十八年五月に、日本復帰記念として建てられたと。道路脇に車を駐め「部間権現」に向かって歩く。正面に石鳥居、その先の参道両脇には石灯籠が並んでいた。参道の石段を上って行った。参道の中央に手摺が設置されている参道をさらに進む。前方左手に「部間権現 改築記念碑」、正面に二の鳥居。そこから更に、樹木が覆い被さって、狭くなった参道が続いていた。樹木のトンネルを抜け、視界が開け、その先に進むと左手に「拝所」が姿を現した。太い石柱が片側に三本、都合六本並んで、なんとなく西洋の神殿風だが、屋根は神明造りになっている。和洋折衷であった。名護市安和。拝殿前のシーサー(右)。拝殿前のシーサー(左)。ここ沖縄でも神様、仏様、様々に習合しているようであった。「拝殿」の奥の「本殿」。本殿には三基の香炉が安置され、それぞれに、権現(仮の姿)様の名前が記されていた。左: アミダニョライの神様 大主ぬ神様 美女心母神中央:御天七神 國主ぬ神様 土地七神右: 御天十二ぬ神様 世主ぬ神様 土地十二方本殿裏側の洞穴。この洞穴の中に霊石(ビジュル)が祀られているのあろう。「本殿」前から「拝殿」を見る。「拝殿建立六十周年及び神殿建立記念之碑」。そして「部間権現」を後にして参道を下る。前方には「国道449号」の「部間大橋」が見えた。帰りに石灯籠の数を数えてみたら片側に17基、左右合計で34基あった。石鳥居に下にも石碑があった。「献納」と刻まれていたが詳細不明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.18
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国道58号を海岸線に沿って西に進むと左手に見えたのが「タピックスタジアム 名護」。日本のプロ野球チームの北海道日本ハムファイターズが春季キャンプで使用している。また、キャンプ終盤にはオープン戦も開催されると旅友から。「タピックスタジアム」の名称は ネーミングライツパートナーの医療法人タピックから。名護市宮里2丁目1。左折して「21世紀の森ビーチ」に向かって進む。左手にあったのが「イベントドーム」。海岸にそって更に進む。左手に8の字を横にしたようなモニュメントが。未だモニュメントの設置工事中のようであった。「とぽいんふぇにてぃ~とはトポロジー(位相幾何学・柔らかい幾何学)とインフェニティー(無限)を作者が組み合わせた造語です。」と。斜めから見る。車を駐め海岸まで歩いて見た。「21世紀の森ビーチ」には子供の姿が。この場所は、初日に那覇空港への飛行中に眼下に見えた光景なのであった。海での小学校の着衣水泳の授業であろうか?東方向の海岸線を見る。ここにもパイナップルに似た実をつける「アダン」が植えられていた。パイナップルに似た果実。果実は多数集まって長さ15~20cmの広楕円形~球形の集合果となっていた。この樹は?花の蕾が虫の姿の如くに。「モンパノキ(紋羽の木)」であろう。「モンパノキ 」👈リンク は初夏から晩秋にかけて小枝の先端に集合花序を出し淡い緑色の花を咲かせるのだ。モンパノキは英語で、「Octopus bush」と。直ぐには英語でOctopus bush(タコの灌木)と現す意味が分からなかったが、下のモンパノキの写真をじっくり見て理解できた。モンパノキの蕾は、タコの足の吸盤が並んだように見えたのであった。城跡の如き石垣の光景も。「21世紀の森公園野外ステージ」の観客席を造る石垣のようであった。ぐるっと廻って次に訪ねたのが「大瀬原龍神」。「大瀬原龍神」。21世紀の森公園近くにある竜神様。海に囲まれた沖縄では、古くから自然の力を敬い、自然の恵みに対して感謝することを大切にしてきました。そのため、海や水の守り神である龍神様を敬い、沖縄の各地の数多くの場所に、龍神様を祀った拝所が作られているのだと。野良猫に餌を与えている女性の姿もあった。コロナ禍から“Remote Work”が可能になったので沖縄に転居して来たとその女性から。「宇佐美海岸」の光景を楽しみながら進み「屋部川」を渡り川沿いを北に進み次の目的地の「屋部の久護家」に向かう。近くの道路の両脇には「フクギ」の立木が。ここが「屋部の久護家」の門。名護市屋部175。「沖縄県指定有形文化財(建造物) 屋部の久護家(くごけ)」。中に入ると前庭にも「県指定有形文化財 屋部の久護家附ひんぷん、井戸、文書2点、福木囲い」と刻まれた石碑があった。屋敷の正面にあたのが「ひんぷん(屏風)」。昔の沖縄の家にあった魔除けの壁が現在も残されているのだと。玄関の前にこの壁があることで、魔物(マジムン)が家に入れのを防ぐと。「屋部の久護家」案内板。「屋部の久護家屋部の久護家は、その屋号「久護」がそのまま集落名になったほどの旧家です。フクギに囲まれた長方形の屋敷2310㎡(約700坪)の東寄りに母屋があり、その東に池を配した庭園があります。主屋は1906年(明治39)に建築されたことが、所蔵の「本家新築之時日記」によって知られています。当初、屋敷は石垣で囲まれ、現在も残る主屋・ひんぷん(屏風)・カー(井戸)のほか、アサギ(離れ屋)・メーヌャー(物置)・フール(便所)・イキムシヌヤー(家畜小屋)・ムミグラ(籾蔵)が配されていました。1951年(昭和26 )までは主屋の西側にトゥングヮ(台所)を附属していましたが、それを解体し、三番座などの改築を経て、現在に至ります。その後、1973年(昭和48 )に屋根の葺き替え、1989年(平成元)から1991年(平成3)に半解体修理を行いました。広い間取りや天井の高さ、周囲に深く回されたアマハジ(軒)などに、地方豪農の建物としての特徴をよく残しています。なお、主屋に伴い、フクギ囲い・ひんぷん・井戸、・文書2点(「本家新築之日記」・「元祖由来記」)も文化財に指定されています。」「主屋現況平面図」(上)、「主屋当初推定平面図」(下)。1951年(昭和26)までは主屋の西側にトゥングヮ(台所)、室内井戸を附属していたが解体した と。「主屋」を正面から。南向きに建てられた「屋部の久護家」。屋根には「シーサー」。ズームして。「個人の住宅です。建物内への無断で立ち入ることのないようご配慮をお願い申し上げます。」「一番座」と呼ばれる部屋の「床の間」。「床の間」の「掛け軸」。主屋を西側から見る。軒を支える柱は、自然木の樹皮を剥いただけ、丸みを帯びた根本をそのまま利用し台石の上に。この自然木の名は?「二番座」・「居間」。先祖の方々の写真。久護家三代の遺影であろうか。主屋の裏側。奥から「一番裏座」四畳半、「二番裏座」六畳の部屋があった。「二番裏座」には階段も付けられていた。この部屋・「三番座」の扇風機が回っていたが。庭の隅にあった井戸。「二番座・八畳間の奥の柱には「久持勤倹昌其後」の文字が。どのような意味なのであろうか?「ずっとまじめに稼いで無駄遣いしなければ家はのちのち栄える」であると「校閲」の師からLINEをいただきました。ズームして。軒の屋根下を見上げる。屋根の最頂部にもシーサーが。再び「屋部の久護家」の門柱を見る。「石敢當」。門から離れて。フクギ(福木)に囲まれた「屋部の久護家」。背の嵩いフクギ(福木)が塀の内側に並ぶ。真っ直ぐに生え幹が丈夫で葉が密に付き風害や塩害に強い為防風林とされたり、耐火性があることから屋敷林として植栽されているのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.17
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次に訪ねたのが「名護博物館」。しかし休館の文字が。ネットによると名護市は35年間続く市東江の名護博物館を2020年4月に完全閉館し、22年秋に新博物館を市大中に開館する とのこと。前庭には像が。像を正面から。「名護親方 程順則聖人像」と。村屈指の名門「程氏」の一族に生まれ、若い頃から中国語の通訳として類稀なる能力を発揮し、出世を果たしながら4度に渡る清国(今の中国)留学の経験を経て、琉球のみならず日本全国へも大きな影響を与えた人物だ。晩年は名護間切の総地頭に任命され、人々から慕われつつその地で生涯を閉じたことから、「名護親方」や「名護聖人」としても知られている。「聖論」碑。現在では名護のゆるキャライメージにもなっており、今なお地元の人に親しまれている人物だ。生前の偉業はいくつもあるのだが、特に顕著なものとして「六諭衍義(りくゆえんぎ)」の啓蒙普及がある。六諭衍義とは、中国の皇帝が民衆を教育するために諭した「人が人として生きるため守らなければならない6つの教え」である。孝順父母(ふぼにこうじゅんなれ)父母に孝行しなさい尊敬頂上(ちょうじょうをそんけいせよ)年上の人を敬いなさい和睦郷里(きょうりはわぼくせよ)村里にうちとけ仲良くしなさい教育子孫(しそんをきょうくんせよ)子孫によく教えを導きなさい各案整理(おのおのせいりにやすんぜよ)各々の生業やなすべきことを全うしなさい毋作非為(ひいをなすなかれ)悪いことはしてはいけない「程順則聖人像によせて」案内板。「名護親方程順則(1663年~ 1734年)は那覇久米村に生まれた。沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。近世の沖縄を代表する政治家でありその人格と素養によって人々から「名護聖人」と称され深く尊敬された。彼は、また文学者、教育者として名高く、自らすぐれた漢詩文を作り、1718年には琉球初めての学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立している。20代のころから中国に渡ること五回、中国から持ち帰った「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には人が人として守らなければならない六の教え(六諭)が分かりやすくまとめられている。この本は薩摩を経てへて八代将軍吉宗に献上後和訳され江戸時代中期から明治初めまで庶民教育の教科書として全国に広く普及し用いられた。程順則は亨保十三年(1728年) 66歳の晩年 名護間切の総地頭(そうじとう)に任じられ名護親方(なぐうえかた)と呼ばれるようになった。彼が亡くなったあと、名護番所(今の役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(みじうがん)」として、「六諭」の書を掲げ、その遣徳を偲んでいる。この儀式は現代に引き継がれている。」六諭 孝順父母 父母に孝順なれ (父母に孝行しなさい) 尊敬長上 長上を尊敬せよ (目上の人を尊敬しなさい) 和睦郷里 郷里は和睦せよ (郷里にうちとけなさい) 教訓子孫 子孫を教訓せよ (子孫を教え導きなさい) 各安生理 おのおの生理に安ぜよ (おのおの生業を安んじなさい) 毋作非為 非為をなすなかれ (悪いことをしてはならない)」「溝原貝塚名護博物館(名護間切番所跡、旧名護町役場、旧名護市役所)から東江公民付近にかけて貝塚時代後期の土器や貝などが探集されています。このあたりの土地は過去数百年にわたり利用されてきたため、貝塚は破壊が進行しています。時代:沖縄貝塚時代後期~近世(約2300年前~約140年前)」「沖縄県指定天然記念物 名護番所跡のフクギ群」案内板「名護番所跡は王府時代から役所として利用されてきた所で、現在は名護博物館となっています。その敷地を囲むように生育するフクキ群は推定樹約300年、当時の地頭代屋部菊陰が植栽したといわれています。樹高は17 ~ 18m、胸高直径は最大で83cmが2株、以下76、67、54、42cmが各1株です。県内において、このように巨大なフクギ群は極めて希なことから沖縄県指定天然記念物に指定されました。フクギ(Garacinia subelliptica Merrill)はオトギリソウ科の常緑高木で、花は5 ~ 6月に咲き、果実は球形で8 ~ 9月に黄熟します。フィリピンとハ重山群島に自生し、沖縄島は御嶽や屋敷などに植栽されています。木の成長は遅いが、防潮樹として優れており、暴風雨から家や集落を守ってきました。樹皮からは黄色の染料がとれ、染物に使われています。フクギの高く空を突くような樹冠と厚い光沢のある葉は、沖縄の伝統的な景観を特徴づけ、建物と集落をひきたたせています。市民ならびに県民の財産として大切に保護していきましょう。」「昭和33年頃の名護町役場(大正9年建築)」現在のフクギ。沖縄県道18号の起点と。沖縄県名護市東江と字大浦とを結ぶ一般県道。次に「護佐喜御宮」を訪ねた。名護市大中2丁目1−17。石段を上って行った。「護佐喜御宮」もしくは「護佐喜宮」と書いて「ごさきおみや」、「ごさきのおみや」と読むこの神社。沖縄県北部では有名な初詣スポットだとのこと。普段は無人の祈願所(拝所)だそうですが、年末年始の初詣シーズンには社務所がオープンすると。シーサー・狛犬(右)。シーサー・狛犬(左)。ご祭神は「後手神(くさてのかみ)」という神様。ご利益は合格祈願商売繁盛交通安全家内安全安産祈願 などなど。「護佐喜御宮」碑。参道の石段の左手にあったのが「アコウ」の樹。推定樹齢60年で、老樹には至らないが、聖域にふさわしい姿を保っている(名護市の名木)。形態・特徴:常緑高木。分岐が多く、樹皮は灰褐色で赤褐色の皮目が著しい。馬尻状の気根を発生するが、通常支柱根は形成しない。気根は時として他樹に巻き付き成長を阻害する。無花果は幹又は枝に生じ無柄で球形。沖縄北部以北では落葉樹。南部以南では初秋の頃に落葉する。が、すぐに萌芽する。さらに300mほど北西に進み「名護市立名護小学校」前で車を停める。校門前の小路を上って行った先には大きな石碑が立っていた。「少年護郷隊之碑」。右隣に碑が2基。正面から。「少年護郷隊之碑建立縁起昭和十九年十月 当時一七、八才だった少年が防衛召集令により召集され護郷隊を編成し此所名護小学校に誕生した。猛訓練の末山原各地を転戦し郷土防衛の大任を果たし散華された英霊を慰霊顯彰せんと搖籃の地に碑を建立するのが最も適地であると元隊員の総意に基いて、発祥の地名護小学校に建立した。」と。碑の裏には、村上治夫隊長による護郷隊の隊歌の3番が刻まれていた。これは、陸軍中野学校の校歌の一番と同じ歌詞とのこと。「赤き心で断じてなせば 骨も砕けよ肉また散れよ 君に捧げて微笑む男児」村上治夫隊長は陸軍中野学校出身の陸軍中尉。護郷隊を組織し、3年分の食糧を用意して山にこもったという。大本営は玉砕しても時間を稼ぐために、「護郷隊」の編成を村上に任せたと言われている と。 「少年護郷隊沿革史太平洋戦争の末期戦況の緊迫に伴い沖縄島が皇土防衛の第一線となるや昭和十九年十月十五日勅令に基き第三遊撃隊通称護郷隊を編成す。隊員は国頭郡に在住せる十七、十八才の第ニ国民兵を防衛召集に依り充当し名護国民学校にて遊撃戦遂行に必要なる戦技を附与する如く訓練す。昭和二十年一月、軍命令に基づき戦闘配備を整えると共に第二、第三次に召集せる隊員の教育を謝花校羽地校にて実施し戦力を強化せり昭和二十年三月二十三日甲号戦備下令され本部(屋我地島及各村出身者)を多野岳に第一中隊(名護町恩納村今帰仁村出身者)を名護岳に第二中隊(羽地今帰仁村出身者)を多野岳に第三中隊(久志村本部町出身者)を国頭支隊に配属し三〇ニ高地に第四中隊(金武村本部町出身者)を久志岳に配備し至巌なる警戒裏に戦備を完成す。四月一日敵は本島に上陸四月七日名護湾に上陸するや第三中隊は乙羽岳及真部山にて国頭支隊と共に第一戦の戦闘に各隊は夫々戦闘地域に侵入せる敵に対し果敢なる挺身遊撃戦を展開し軍主力の作戦に呼応せり。四月下旬多野岳等の基地を欠陥せるも屈せず神出鬼没或は夜間爆薬を抱いて敵陣深く侵入し或は白昼堂々と特殊秘密兵器を以て攻撃し敵の心胆を寒からしめ以て遊撃戦の本領を遺憾なく発揮せり六月下旬以降南部地区の軍主力玉砕後に於ても真に護郷隊の特色を発揮し変幻自在なる秘密遊撃戦を遂行中八月十五日終戦の諮勅を受け部隊を解散す。以下 戦没者氏名が刻まれていた。」次の目的地の「弘泉寺」に向かって進む。右手の家の屋根瓦の上には土嚢袋が載せられていた。台風等の対策なのであろうが、雨漏り対策のブルーシートを敷いた時の押さえ用の土嚢袋がそのまま、次の台風の為に残されているのではないだろうかと。強風対策としての瓦の飛散対策であれば、最上部に並べるべきと考えるので。そして「弘泉寺」に到着。名護市大西3丁目20−1。「本堂」の内陣。「真言宗 醍醐派 北斗山弘泉寺」と刻まれた石碑。大日如来像であろうか。左側の建物は?内陣。北側には墓地への門が。大きな墓地が並んでいた。沖縄の気候、特に雨期に合わせた設計のため、お墓が大きくなったと。雨期や台風の季節などは激しい雨と風にみまわれるのが沖縄。頑丈な土台と屋根を作ることで、お墓が倒れたり、痛んだりしないよう考慮して作られていったのが沖縄特有の大きなお墓といえる。そのため、広い敷地に大きな屋根が広がるお墓を設けたといわれているのだ と。「弘泉寺」への入口路地の前には「名護市葬斎場」があった。近くにあった「道福寺」も訪ねた。名護市大西2丁目3−2。「道福寺」。普通の民家の如き建物、宗派等は判らなかった。駐車場脇にあったバナナの木。バナナが撓(たわわ)に。そして次に訪ねたのが「名護市役所」。県道91号線「大南」交差点から「名護市役所」を見る。名護市港1丁目1−1。国道58号の山側の道に向かう。そして「名護市役所」の敷地内に立っていた「平和の塔」を訪ねた。螺旋構造の塔の上部に「平和の塔」と。「名護市役所」は1978年、名護市の顔となる市庁舎の建設にあたって大規模なデザインコンペが行われた。308組ものデザイン案の中からTeam Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)によって手がけられたのが現在の名護市庁舎。沖縄の建物で多く使われる2色のコンクリートブロックが印象的なストライプをつくりだし、周りには植物が生い茂っていた。手入れは行き届いているのであろうが、自然に覆われた古代遺跡を思わせるような雰囲気が不思議と感じられたのであった。近くの中庭には「名護市役所ステーション e-シェアモビ カーシェア駐車場」があった。名護市は2019年3月末から公用車の一部を環境に優しい「カーシェアリング」に転換し、市役所職員と一般利用者との共用をスタート。電気自動車(Electric Vehicle EV)の利用による環境負荷の軽減と公用車の管理経費削減との両立を図るとともに、一人1台という、個人専用車に頼らなくてよい、カーシェアリングの利用を積極的にPRしているとのこと。名護市はカーシェアリング事業者へ駐車場4台分を提供し、平日は市の公用車との併用利用。土日・祝は4台全て一般利用者が24時間利用出来るカーシェアを事業として実施中と。一般の方がカーシェアリング車両を利用するには、日産自動車・日産レンタカーが提供している「Nissan e-シェアモビ」の会員登録が必要 とネットから。充電中の乗用車。「名護市民憲章碑私たち名護市民は人間を尊び、すべての人にひろい心と豊かな愛情で接します。自然を愛し、文化財を大切にします。いたわりあって健康な生活を築きます。きまりを守り、社会を明かるくします。伸びゆく力を育て、未来へ前進します。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.16
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グスク内にあった「フスミ屋」。「氏神 フスミ屋」碑。グスク内には、この他に祝女殿内(ヌルドウンチ)・根神屋・定神屋(ウチーガミヤー)・など、城区の拝所があり、大切な信仰の場所となっていたのだと。こちらは「名幸祠(なこうじ)」と呼ばれる拝所。「名幸祠」碑。「名幸祠」に向かって右側に説明が記された石碑があった。「名幸記傳(きでん)西紀二 三百年北山は血族同士が権力を争って乱をおこし、欺きて仲昔北山六代の世主今帰仁城主の系統は亡んで、傍系の怕尼芝が北山に君臨した。口碑の傳える名幸は滅亡した城主の嫡琉千代松やい、彼はこの騒乱から難を遁れ祭祀眷属を共に一族なる名護按司に寄託亡命し竊に宗廟の恢復を謀つたが成らず雄志空しく病に斃れた。宗家を奪つた怕尼芝は時に中山の衰頽に乗じて自ら北山王を僭稱し北方の覇者をもつて國頭諸間切を威圧するに至つては後難を怖れる名護按司が先君の世子を庇護隠秘するために◯勉苦肉の計を用いたことは推考に難しくない。世子の名をいわれのない名幸大屋子の假名で糊塗し亥は彼の遺骸を此◯城川の懸崖幽谷に密葬するなど北山王統の虎の子を預る。一説では名幸を名護按司の次子となし十五世紀末按司家が國王尚真の勧告に従つて后を首里府に移した當初の管領◯按司◯とまいす。古文書に名護は那古につくり名幸は那古の転訛と乃ち名護城の首長那古大屋子とする説もあるが根拠はない。二九百◯十三年庚子孟夏 北嘉宇太郎 しるす」境内の中に入って行くと、奥側に立派な祠。シーサー・狛犬(右)。シーサー・狛犬(左)。祠に近づいて。「ハスノハギリ(蓮の葉桐)」であっただろうか。「ノッポ椰子の広場」への「入口広場」。「A ノッポ椰子の広場」案内板。この広場は、旧植物園時代から残る背の高いナツメヤツがシンボルになっており、主にピクニックやレクリエーション、散歩などに利用されています。広場北側には、全長98mもある大きなつり橋(さくら橋)が架かり、そこからは真下に広がるグスクガー(城川)周辺の樹幹や名護市大北一帯、本部半島の眺めも楽しめます。また、当広場の東側には名護城があり、グスクにまつわる場所も数多く存在しています。次に訪ねた「白い煙と黒い煙の碑」案内板。車道の脇から見た「白い煙と黒い煙の碑」。「白い煙と黒い煙の碑合図の煙―親子の別れ―汽船のデッキの上からは、彼の乙女が 涙で曇った眼でふるさとの山を慕い、父母を恋いてこの白い煙を見つめていることだろう。―白い煙と黒い煙―こうして若い乙女と老いたる親とが山と海とでたがいに切ない思慕恩愛の情を交わしているのである春の日は、静かに夕もやの中にうすれていくやがて汽船は、本部半島にその影を隠したつきせぬ名残りを一抹の黒い煙にとどめて (稲垣國三郎作「白い煙・黒い煙」から)この文は、大正七年三月三十一日作、昭和六年ごろの小学校国語教科書に採用されたもの。稲垣國三郎が名護城を遊歩中、老夫婦が松の青葉をもやして白い煙をあげているの見、感動したもようが記されている。娘をヤマト旅(本土)に出すのに、那覇まて見送りにいけない老夫婦の切ない気特がこの碑の前に立つとき、ひしひしと胸を打つ」石碑が2基並ぶ。手前の小さい石が黒い煙をイメージした碑、その向こうの大きな石が白い煙の碑であると。「白い煙と黒い煙」碑。「白い煙と黒い煙」の碑の下の部分には、稲垣國三郎作「白い煙と黒い煙」の最後の一節が刻まれていた。「白い煙と黒い煙の一節合図の煙!親子の別れ!汽船のデッキの上からは、その乙女が涙に曇った眼でふる里の山を慕い父母を恋いこの白煙を見つめていることであろう。白い煙と黒い煙!こうして若い乙女と老いたる親とが、山と海とで、互に切ない思慕、恩愛の情を交わしているのである。春の日は静かに夕靄の中にうすれてゆく。やがて汽船は本部半島にその影を隠した。つきせぬ名残りを一抹の黒煙にとどめて」と。碑の背面には「白煙発生の地」の文字が大きく刻まれていた。そして坂を下り終えると正面に見えたのが「ひんぷんガジュマル」。「ひんぷんガジュマル」は、沖縄県名護市にあるガジュマルの巨木である。幸地川に架かる「あなだ橋」のたもとにあり、名護大通りに挟まれている。名称は、樹下に置かれている石碑三府龍脈碑の別名「ヒンプンシー」に由来する。「ひんぷん」とは、沖縄の伝統的家屋で正門と母屋の間に立つ、目隠しの塀のことである。「あなだばし」と書かれた橋柱越しに「ひんぷんガジュマル」を見る。「ひんぷんガジュマル」に向かって歩く。名護市大東1丁目1。樹下に置かれている石碑「三府龍脈碑」(さんぷりゅうみゃくひ)の別名「ヒンプンシー(屏風石)」が「ひんぷんガジュマル」の名前の由来。「三府龍脈碑」は、首里から名護への遷都、名護における運河建設の要求を背景に、1750年、琉球王国の宰相・蔡温(さいおん)が名護に建立した石碑(復元)。琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなもの(三府龍脈)と、遷都を戒め運河を掘ると龍脈が分断するという内容の碑文になっているのだと。全て漢字で書かれていたため解読不能であった。当初の「三府龍脈碑」は沖縄戦で不明となり(幸地川の河床から破片の一部を発見)、現在の石碑は昭和37年の復元。碑の立つ場所ももともとはガジュマルの根元ではなかったとのこと。国の天然記念物に指定される樹齢300年、樹高約19m、幹周りは約10mの巨樹。樹冠の広がりは最大30mにも及ぶ立派なもの。上部の方まで鉄骨で養生されていた。「ヒンプン」には、外から敷地内が見えないようにする役目があると同時に、悪霊や災難が入り込まないようにするという意味もあり、名護の町に災難が入り込まないよう祈る地元住民の信仰の対象となっている と。「この中はガジュマルの根が広がっています!これより中への立ち入りはご遠慮ください」と。「ひんぷんガジュマル」の葉。「あけみおのまち 名護市観光案内図」。「三府龍脈碑」と「ぴんぷんガジマル」名護市街地の入口にあたる道のど真ん中に立つ大きなガジマルは、「ぴんぷんガジマル」と呼ばれる。「びんぶん」とは、屋敷の正門と母屋の間に設けられた屏風状の塀のことで、中国語(北京語)の「屏風(ぴんぷん)」に由来する。そのガジマルの下に建つ「三府龍脉碑」の扁平で直立する形状から「ピンプンシー(屏風石)」と呼ばれ、そのすぐ側に生育したガジマルを「ぴんぷんガジマル」と呼ぶようになった。「ピンプンシー」こと「三府龍脉碑」は、1750年に琉球王府によて建立されたもの。1945年の沖縄戦の際に壊されたため、1962年に再建し、現在に至る。1991年、あなだ橋の改修の際に幸地川の中から元碑の上の部分が見つかり、沖縄県の文化財に指定されて、現在、名護博物館に展示されている。琉球王府は、なぜ「三府龍脈碑」を建てたのか?その当時、名護では「琉球の国都を首里から名護に移そう!」「屋部港と古我知港を運河で結ぼう!」という話で盛リ上がっていた。そのうわさ話を鎮めるため、当時の国師・蔡温に撰文を依頼して碑を建てた。蔡温は、「琉球の国土は、一つの山脈の連なりである。天然の風格を現し、誠に福に満ち溢れた国である。最初に王城を首里に建てたのは神の眼によるものだ。そして、たとえ小さな丘と言えども切り裂いてしまうと、国土の体系は失なわれる」と説き、国家の隆盛に深く関わることであると知らしめて、巷の遷都論と運河開削論を鎮めた。一方で、その遷都論や運河開削論のきっかけを作ったのは、実は蔡温本人であり、その責任をとり、自ら碑の建立を提案したという話も伝わっている。ちなみに、あなだ橋の下を流れる幸地川は人工河川である。1592年、三司官となった名護良豊が、年中、水害を起こし農民を悩ませていた幸地川の流れを一つにまとめ、最短で海に流す大土木工事で造られた川なのだ。 参考:「名護六百年史』」「三府(北山、中山、南山)」案内図。沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。三山統が鼎立する時代が約100年続いた。いずれも朝鮮と中国に朝貢し交流を深めたが、中山の佐敷按司が勢力を増し、1405年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして、初めて琉球を統一したのであった。「名護のひんぷんガジュマル(通称:ひんぷんがじまる) 国指定天然記念物 平成9年9月2日指定)「ひんぶん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎖圧するため三府龍脈碑を建てました.この石碑がひんぶんのように見えることから「ヒンプンシー」と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか「ひんぶんがじまる」と呼ばれるようになりました.ガジュマル(Ficus microcarpa L. f. )はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹として広く植栽されています。漢名は榕樹で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠をつくっていきます。ひんぷんがじまるは、錐定樹齢280年~ 300年、樹高19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠の広がりは長いところで直径30m、堂々とした容姿は市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の街の移り変わりを見てきたひんぶんがじまるは、まさに「市民の木」です。」「ひんぷんガジュマル」の横の「ガジュマル緑地」にあった「徳田球一記念碑」。名護市城2丁目321−3。近づいて。石碑には徳田の顔のレリーフと「為人民無期待献身」(人民の為に期待すること無く献身する)という碑文が刻まれていた。「徳田球一記念碑」案内。「徳田球一記念碑徳田球一(1894.9.12~1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。 徳田球一は、1894年この名護の十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会運動に参加し、1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、終戦までの18年間獄中にありました。戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、『徳球・とっきゅう』の愛称で国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。 このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、この碑を建立しました。 1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会」その隣にあったのが「宮城與徳の碑」。碑の背後には芭蕉が植えられていた。「宮城與徳(みやぎ よとく 1903.2.10~1943.8.2)画家・宮城與徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を送った。アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、「働く者の食える社会」への道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた與徳は日本に帰り、同志・尾崎秀美らとゾルゲ機関の活動に参加。故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。絵の才能を期待され、愛する甥に「いつかは君たちの時代がくる」と話していた宮城與徳は逮捕され、1943年8月 40才で獄死。ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城與徳を記憶するため、この碑を建立する。☆肖像は1927年、與徳24才のときの写真より☆月光像 1934~41年頃の作品 2006年1月25日 宮城與徳生誕百年を記念する会」宮城與徳は1903(明治36)年2月10日、名護間切(現名護市)東江に生まれている。碑には與徳が24歳の時の肖像と、與徳の代表作「月光像」の複写がはめ込まれていた。こちらが與徳が24歳の時の肖像。與徳の代表作「月光像」の写真。「2000年九州・沖縄サミット記念写真」「2000年3月25日小渕首相名護市へサミット開催決定をされた小渕首相が、プレスセンター(現市民会館前)の視察に訪れ、名護市民、子供達の歓迎に手を振って答えた」。こちらが「ガジュマル緑地」の入口であるようだ。「ガジュマル緑地」の「ガジュマル」には多くの根がぶら下がる。「アラマンダ」の花。近づいて。「アラマンダ」は丈夫な性質で、温度さえあれば一年中開花するので、熱帯地域では広く栽培され親しまれている花とのこと。幸地川の堤防上のフエンスには桜(カンヒザクラ)が。名護市街地を流れる幸地川は約 3km の小さな都市河川。川沿いには、オリオンビール工場や名護の シンボルとも言える国指定天然記念物の「ひんぷんガジュマル」があり、シーズンには、桜を見にくる 人々でにぎわう と。「あなだ橋」を見る。幸地川は別称アナダ川とも呼ばれている と。幸地川の遊歩道にあった人形。名護市の汚水マンホール蓋。名護市市制50周年を記念して、下水道マンホール蓋のデザイン公募を行った。県内外から応募された19作品の中から人気投票を行い、得票数が最も多かったデザインを採用。採用されたデザインには、「名護市のシンボルとして、桜(カンヒザクラ)とひんぷんガジュマル、そして名護湾をイメージしているとのこと。そして「ハイビスカス」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.15
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この日・9月27日(水)、沖縄本島一周の旅の3日目。沖縄本島北部から東シナ海に突き出した本部半島を目指して進む。本部半島は南の名護湾と北の羽地内海に挟まれており、北西方向に伸びた半島となっている。幅約4km-7km、長さ約12km。山地であり、平野部は少ない。最高所の標高は八重岳の453m。この日も沖縄自動車道・那覇ICに向かって旅友の運転で進む。この旅行は連日、私は助手席でタブレット片手にナビゲーターに専念したのであった。445mの斜張橋「とよみ大橋」を渡る。1989年着工、93年11月に開通。豊見城市真玉橋から那覇市鏡原までの連絡橋。県道11号バイパスと結び、真玉橋交差点の交通渋滞解消と国道329号の混雑緩和が目的 と。右側を進み那覇IC料金所へ向かう。那覇IC料金所を通過。沖縄自動車道は、沖縄県の名護市を起点とし那覇市に至る延長57.3kmの高速道路(高速自動車国道)である。高速自動車国道としては最南端かつ最西端の路線。真っ直ぐに立ち並ぶヤシの木の間に「那覇・南風原クリーンセンター」の煙突が見えた。「FM沖縄 87.3MHz 那覇送信所」の鉄塔。島尻郡南風原町新川705。そして「許田(きょだ)料金所」で降りる。「沖縄道」の終点を通過し県道71号線に合流。「名護湾」とその先にこれから訪ねる「本部半島」が見えて来た。海岸まで山が迫る。「東江海岸」に車を停めて海岸へ。明るい水色が好印象の「東江海岸」。 幅は1km以上。南側を見る。北側の高い山が「八重岳」であろう。車に戻り「名護城公園」に向かって坂道を上って行った。「名護城公園」は、名護市名護岳一帯を園地とし、頂上付近の展望台からは名護の市街地や美しい東シナ海等の景色が眺めることができるエリア。公園内の名護城跡を中心に1月には県内でも有数の桜祭りが行われ北部地域の名所。「名護城公園」案内図。そして「天上広場」の駐車場に車を駐め、「天上展望台」に向かう。名護中央公園で最も高い場所にある3階建ての展望台。石碑に文字や説明は書かれていなかった。階段近くの壁には、「名護城公園」で見ることが出来る野鳥や動物紹介プレートが埋め込まれていた。サシバ、コゲラ、アカハラ、キジバト、ツミ、サンコウチョウ、リュウキュウツバメ、アオジ。シロハラ、ズアカアオバト、ヤマシギ、アオバズク、リュウキュウコノハズク、アカハラダカ。カラスバト、◯◯◯、イソヒヨドリ、アカショウビン、メジロ、ヒヨドリ、アオコウモリ、リュウキュウイノシシ。展望台からは名護の街並みが眼下に。青い屋根の建物は「名護青少年の家」。名護市街と名護湾を臨む。夜景・日の入りの光景も美しそうであった。イタジイ(スダジイの沖縄での地方名)の森が広がる。展望台から眺めるイタジイの森は、樹冠がもこもことしてブロッコリーのようにも見えたのは菜園を趣味に持つ私だけ?展望台には、大きな立派なカメラで野鳥を撮るカメラマンの姿が10人ほど。「アカハラ」が飛んでいると、確認できないまま私もカメラをその方向に向けてシャッターを押したが・・・。「アカハラ本土では本州中部以北の山地や北海道の平地にある地域で繁殖する夏鳥。冬季には本州以南の温暖な地方へ移動する。沖縄では数少ない冬鳥として渡来し、公園の草地、森林地域などで見られる。」展望台には「ケーン ケーン」?と警報音のような音が絶え間なく。近くにいたカメラマンに何の鳴き声かと聞くと「オオシマゼミの鳴き声」👈リンク と。「オオシマゼミ」をネットから。和名 オオシマゼミ分類 カメムシ目セミ科大きさ 約5cm分布 沖縄島、久米島、奄美大島、徳之島「天上広場」の先には四阿(あずまや)が。四阿に近づいて。「神アサギ」にも見えたのであったが。「P パーキングエリア」案内板。パーキングエリアは、名護岳に近く「G 自然散策路-しいのみの森」にもつながっているので、ハイキングの拠点として利用されています。また、当工リアにそびえる園内一高い天上展望台からは、日中は青い名護湾と名護の市街地を、夕暮れ時には本島西海岸一帯がタ日で赤く染まっている絶景を望むことができます と。車に戻り、南側の坂道を下って行った。「なかゆくい展望台」四阿前から名護市街地を見る。「なかゆくい」とは、沖縄の方言で「一休み」という意味。ズームして。そしてクネクネと坂道を下り「和球之碑(にぎたまのいしぶみ)」を訪ねた。球七〇七一部隊(独立混成四十四旅団第二歩兵隊)の隊員たちを祀った碑である。球七○七一部隊の沖縄・鹿児島・熊本・宮崎・大分五県の元隊員によって、一九六五(昭和四十)年七月二十二日に建立された と。戦後六〇年の二〇〇五年に最後の慰霊祭が行われたのだと。「球七〇七一部隊 和球之碑昭和十七年七月沖縄 鹿児島 宮崎 熊本 大分 五県出身の将兵軍属四千名をもって編成された球七〇七一部隊は沖縄戦で約三千名を失いました私どもは祖国日本の繁盛と世界平和の礎となられた亡き戦友のみなさんの霊を慰めるためにこの碑を建てます昭和四十年六月二十ニ日 元球七〇七一部隊」日本軍の部隊は、通常正式な部隊名と通称号を持っている。『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵語・用語の解説』によると「防諜上の必要により固有の部隊名のほかに、特に定められた部隊の称号をいい、通称部隊名または通称名とも呼称され兵団文字符と通称番号により成って」おり、通称は暗号のようなものであった。住民からの聞き取りでは、正式部隊名よりも「球」「山」などの通称を記憶している人がほとんどである とネットから。次に訪ねたのが「名護城神社」。両脇に石灯籠が並ぶ参道を上って行った。正面に拝殿の姿が。拝殿を横から。正面に廻ると、長い石段が現れた。こちらが正式な参道のようだ。拝殿を正面から。そしてその奥にあったのが、名護城神社の本殿。本殿は拝殿よりさらに高い位置にあり、コンパクトな建物であったが歴史を感じさせる建物。次に訪ねたのが「史跡 名護城(ナングシク)」。名護按司の居城だったと伝えられる「名護城」。沖縄本島北部の名護市に聳える標高345メートルの名護岳に位置する城跡。石段を上って行った。「史跡 名護城(ナングシク)」案内柱。石段を上りきると、広場となっていた。右手には「神アサギ」も。14世紀初頭に今帰仁城主の弟、名護按司(あじ)が居城を作ったが、城郭建築は全て失われ現在では公園として整備されていた。敷地内には、約2万本のカンヒザクラが植栽されているのだと。名護市名護5511。「神アサギ」に近づいて。左手に案内板。「名護城跡 文化財指定遺構(史跡)桜(カンヒサクラ)の名所として全国的に有名になった名護グシクは、名護市の歴史のなかで要な位置をしめる遺跡の一つです。このグシクに、いつの頃か人が住みはじめたのか定かではありませんが、これまでに採集された中国製磁器類・カムィヤキ・高麗系瓦・土器などのさまざまな遺物からすると、少なくとも今から約600年前(14世紀)のことだと考えられ、名護按司の居城として伝えられています。その頃は「グスク時代」と呼ばれ、奄美諸島から八重山諸島にいたるまで、人々は「グスク(グシク・スク)」と呼ばれる小高い丘の上に暮らしていたようです。また、それまでの数千年にわたる海や山の自然物の採集・狩猟による生活から、農業を中心にした生活に転換した時代でもあります。このグシクには、石垣をめぐらした防御の施設はありませんが、丘陵の尾根部を切り取ったみごとな「堀切」が残っています。グシクの頂上部に続く東側の緩やかな尾根を、一つは約3m、もう一つは約8mの深さに削り取った「二重の堀切」で、外敵の侵入を防いでいます。近年、沖縄島の数カ所の「グスク」で「堀切」が発見されましたが、特に、この「二重の堀切」は保存がよく、注目を集めています。また、グシク内には、祝女殿内(ヌルドゥンチ)・根神屋(ニガミヤー)・掟神屋(ウチガミヤー)・フスミ屋・神アサギなど、城区の拝所があり、大切な信仰の場所となっています。」「名護城跡」案内図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.14
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次に訪ねたのが国道58号を左折した場所にあった「かぎやで風節の碑」。国頭郡国頭村奥間47。「かぎやで風節👈リンク。「あた果報のつきやす 夢やちやぅも見だぬ かぎやで風のつくり べたとつきやす」と刻まれていた。【大きな果報が得られようとは夢にも見ない事であった鍛冶屋で色々ものを作ってきたが、そのおかげで果報が身にぴったりとついた。】と。沖縄でお祝いの席で必ず演奏される曲に「かぎやで風節」があると。「かじゃでぃふう」と読む。最も演奏される機会が多い曲かもしれないとのこと。祝いの場の種類によって、正月用とか、結婚式、新築などそれぞれに歌詞があるという。「第二尚氏の始祖・尚円王金丸は、不遇の若い時に奥間の裏山にあるインツキ屋取にかくまわれて世話になった奥間鍛冶屋の旧恩を忘れず、その後1470年に琉球王に就くと奥間鍛冶屋の次男正胤(まさたね)を国頭按司に取り立てた。その時、正胤が喜びのあまり即興で詠んだ「大きな果報が得られようとは夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろ物を作ってきたが、そのおかげで思いがけぬ果報が身にぴったりとついた」(いいことをすると思いもよらぬ果報があるものだ)という意味の歌が「かぎやで風節」(鍛冶屋手風節)の原歌といわれ今日まで伝わっている。「かぎやで風節」は国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事など祝意を表す時に歌われる事が多い。また国王の御前や高貴の座で恩納節など五節一組の初めに奏されることから「御前風」の異名もある。」「かぎやで風節」の歌碑は、奥間東鍛冶屋(アガリカンジャヤー)跡にあった。これが「奥間鍛冶屋発祥の地」碑。「奥間鍛冶屋発祥の地奥間鍛冶屋は沖縄の鍛冶屋の祖として知られている。国頭・奥間の地で生誕した奥間大親は後に、浦添間切謝名村に居住し長男察度(1321年~1395年浦添按司・中山王)と次男泰期・金萬按司ほかを生んだ。泰期・金萬按司は異母兄察度が1350年中山王に就くと、兄の使者として、1372年~1382年間の間5回明に進貢に遣わされ、これが琉球と明との通交の始めとされている。明との交流はその後の琉球の政治・経済・文化の発展に多大な影響を与えている。泰期・金満按司は明から、当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識、技術を身につけて、後に奥間に下って鍛冶屋を始めたとされている。奥間は山林が間近で、水・炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父奥間大親の出生地あることが奥間の地を選んだ理由と思われる。泰期・金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及し、農耕、生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられている。この泰期・金萬按司が奥間鍛冶屋の始祖である。2011年8月吉日・奥間鍛冶屋子孫:座安家(屋号 東り)」「奥間鍛冶屋発祥の地碑」のさらに奥に、古い拝所があった。鍛冶屋の様子が描かれた絵が飾られていた。これも拝所であっただろうか。「国道58号」に戻り進む。「道の駅ゆいゆい国頭」すぐ近くにあるオブジェ。国頭地方は木材の輸出基地だったとのことで、首里王府までリレー式に木材を運んだそうだ。木材をコロビキする姿が。「国頭さばくいの地」碑。「さばくい(捌吏、捌理)」とは「間切(まじきり)地区の番所の役人」の役職名のようだ。「国頭さばくいの地琉球王朝時代、首里城王殿の改修の際本島北部国頭の山々から建築用材を伐り出して王府へ献上した。与那覇岳・長尾山一帯から伐り出された材木は、比地川・奥間川を下り鏡地原の浜から海を渡り泊の港へ陸あげされ首里へと運ばれた。途中村から村へと人びとがリレー式に材木を曳いて運んだりもしたという。その木遣りを歌ったのが「国頭さばくい」👈リンク でこの木遣り歌は、大勢で掛け声をかけ合い音頭を取りながら心をひとつにして歌われた。歌詞は国王の御代万歳をたたえている。このしぐさを当奥間区に民俗芸能として保存されている。なお、さばくい(捌理)とは各間切にいた幹部役人の総称で彼等は材木の検査ならびに運搬の指揮にもあたった。首里城正殿の復元を記念して「国頭捌理」の碑をこの地に建立する。」そして「やんばる3村観光案内所」を訪ねた。「奇跡の森 やんばる国立公園」。「ヤンバルクイナ」の写真。ウィキペディアによるとヤンバルクイナ(山原水鶏 学名:Hypotaenidia okinawae)は、鳥綱ツル目クイナ科Hypotaenidia属に分類される鳥類。日本の沖縄本島北部の山原(やんばる)地域のみに生息する固有種であり、1981年(昭和56年)に発見された。和名は上記の生息地域の地名に由来し、「やんばる地方に棲むクイナ」の意。ほとんど飛ぶことができない。全長35cm。くちばしと足は赤色。背は暗褐色、胸から腹は白黒の横縞模様がはっきりあります。翼は短いこと、飛んでいる姿の観察例がないことから、移動のためには飛行をしないと考えられており、歩行が主の鳥です。鳴き声は、「コッ コッ コッ」などですが、さえずりは大きな声で「クリャァー クリャァー」「キョキョキョキョー」など。早朝によく鳴いています と。小腹がすいたので「観光案内所」の横の店で沖縄名物の「味噌汁定食」を楽しむ。沖縄の食堂では、味噌汁というと小さなお椀ではなく、メインのおかずとしてどんぶりで現れるのが定番。いわゆる味噌汁と大きく異なるのは、レタスなどの葉野菜が入り、他にも卵、豆腐、ポーク(ランチョンミート)などとにかく具だくさんなこと。食堂では、ご飯とともに「味噌汁定食」として提供されているのであった。隣にあった「道の駅ゆいゆい国頭」の入口にあった石碑。<「恋し国頭(くいしくんじゃん)」の琉歌碑「山水ん清らさ 至情ん深さ こいし国頭に 幾世までん」。歌意は【山の水も清らかで住む人も自然で深い優しさがある。 このような国頭にいつまでも暮らしたい】と。そして「第20回 伊集ぬ花コンサート記念植樹」。沖縄の歌手「平(たいら)ゆき」さんの「伊集ぬ花コンサート」👈リンク。「道の駅ゆいゆい国頭案内図」。入口前に「重量挙げのヤンバルクイナ選手」。昭和63年元旦辰生年祝記念と。これは1987年に沖縄で開催された「沖縄海邦国体(国民体育大会)」の公式マスコット「クイクイ」。国頭村がウエイトリフティング会場になったため、それを記念して作られたもの。「道の駅ゆいゆい国頭」入口。両脇にはシーサーが(右)。シーサー(左)。店内に入る。Tシャツコーナー。芸能人、スポーツ選手の来店の写真。「ヤンバルクイナ」。「やんばる国立公園へようこそ」案内板。「やんばる国立公園へようこそ Welcome to Yambaru National Parkやんばる国立公園は、広さこそ日本の国土面積のわずか0.1 %てすが、生物多様性においては国全体の中で小さな面積に不釣り合いなほどの大きな割合を占めています。本土からの長期の隔絶と沖縄南部からのアクセスの難しさにより、森は固有種の在来生物の楽園となりました。しかし、やんばるの森は手つかずでも原生でもありません。それどころか、この森は何百年にもわたる人間の活動によって形作られてきました。前近代から戦後初期まで、森は島全体に木材と木炭を供給しました。国頭村沿岸に点在していた小さな村々の住民は、山に入って協力して木を切り、それを南からやってくる「やんばる船」に売っていました。この仕組みは、最終的には洗練された村の協同組合のネットワークに発展しました。この仕組みを日本各地の類以の地域経済がモデルとし、多くの地域から代表が見学に訪れました。村の人たちは森を丁寧に手入れし、常に切った分を補うのに充分な木を植え足しました。この方法は、18世紀に蔡温という琉球王国の高名な官僚によって杣山(そまやま)方式として正式化されました。蔡温の知見は、第二次世界大戦後に米国の占領者までが学ぶほどてした。戦後の復興が終わり、主なエネルギー源が木炭からガスと電気に代わると、森林の資源に対する需要は減少しました。多くの村は林業の代わりに農業を営むようになりましたが、森を大切にする伝統は残っています。」古代の楽園 An Ancient Haven国頭村の多くの土地ては7千~ 9千万年前の地層が確認されています。さらに北端の辺戸岬では約2億5千万年前の地層が確認されています。侵食を受けた石灰岩によるカルスト地形は、海岸の美しさを際立たせます。かっては水平だったけれど今では地表に露出し、ほぼ垂直に上方に突き出している岩層を持つ辺戸岳(安須森御嶽)のような印象的な地形は、古代の地殻変動の証を示しています。やんばる国立公園は非常に多様な動物相を有しています。大型哺乳類の捕食者がいない中で、ヤンバルテナガコガネやリュウキュウハグロトンボなどの昆虫から、イシカワガェル、シリケンイモリ、ハブなどの爬虫類・両生類に至るまて、無数の小さな生物種が繁栄しました。やんばるには、飛べない烏ヤンバルクイナ、働き者のノグチゲラ、印象的な姿のアカショウビン、そして人懐っこいアカヒゲを含む魅力的な空飛ぶ仲間もたくさんいます。森の植物相の中心は、やんばるの林業を支えてきたブナの仲間である常緑樹、イタジイてす。森を遠くから見ると、イタジイが森をやわらかく包んているように見えます。イタジイと並んて、頑丈なカシ、古生代から存在するヒカゲへゴ、花を咲かせるイジュなど多種の樹木が生育しています。西表島のような鮮やかな熱帯気候の島々に対し、やんばるの柔らかい色合いは、水彩画に例えられてきました。森の繊細な美しさや、恥ずかしがり屋で小柄な生き物たちを見逃さないために、ぜひ現地ガイドに案内してもらいましよう。」「ヤンバルクイナ」。「リュウキュウハグロトンボ」。「国頭村観光ガイドマップ」。「比地の神アシャギ」案内板。国頭村内でも比地と安田でしか見ることができない、昔ながらの伝統的な茅葺屋根の神アシャギで。また、一辺が6mを超える村内でも大きなアシャギ。下記はネットから「比地の神アシャギ比地の神アシャギは、集落の背面(東側)の丘陵上に位置する標高約40メートの平場に建てられ、神アシャギから下る斜面には屋敷跡や畑後と思われる平場が点在しています。この一帯は比地の小玉森またはアサギムイなどと呼ばれており、神アシャギの他に山口神社(アマンチュの宮)と十数か所の拝所や樹齢推定250年以上とされるアカギの巨木などがあり長く信仰の対象となってきました。このアカギの巨木は集落内の各門中の拝所となっており、門中ごとに詳む木が分かれ、ウンジャミの際にはその木に向かって拝みます。また、この一帯はアカギやホルトノキ、タブノキなどの高木が生育し、平成3年4月2日には、県指定天然記念物物「比地の小玉森の植物群落」として指定され学術的に貴重な場所です。比地の小玉森は「琉球国由来記」にも「小玉森 神名アマオレノ御イべ」という記述があり、旧暦の七月盆明けの亥の日には、ウンジャミ(海神祭)等の重要な年中行事が行われています。比地の神アシャギ屋根は昔ながらのかやぶきと現在では貴重な建造物となっています。柱は1930年代には20本ほどであったが、現在は8本とその形状に変化が見られます。また、近年のグスク研究では神アシャギのある平場を含む大小の平場は、北側に接するバンギナグスクとともに「土より成るグスク」として石積みを持たないグスクとする研究も行われています。このように比地の神アシャギは地元の方々から大切に継承され生物学、民族学、考古学など様々な分野から貴重なフィールドとなっています。」「道の駅ゆいゆい国頭」の建物。再び「やんばる3村観光案内所」。比地川の手前を左折し川に沿って進む。比地集落の入口。奥にあった案内板。「県指定天然記念物 比地の小玉森の植物群落この地域は、琉球国由来記には「小玉森」と記されていますが、地元では「アサギ森」とも呼ばれています。中央に神アサギがあり、旧暦7月のウンジャミなど重要な祭祠の場所で、古くから拝所として大切に保護されてきた聖域です。そのためアカギやフクギなどの巨樹が数多く残っています。指定地域には、胸高直径が一八〇センチメートルにもおよぶアカギをはしめ、フクギ(胸高直径六三センチメートル)やホルトノキ(六〇センチメートル)、タブノキ(五八センチメートル)などの大木が樹冠を占め、亜高木層にリュウキュウガキやフクギ、ヤブニッケイなどが見られます。また低木層にはクロツグやナガミボチョウジ、シロダモなどがあり、草本層にはオオイワヒトデやホシダ、フウトウカズラなど多くの植物が生育しています。また非石灰岩地域でありながら、クスノハカエデやヤエヤマネコノチチ、ナガミボチョウジ、イシカグマなど石灰岩地域に多く生育する種類が見られるのが大きな特徴です。この地域の植物群落は、国頭地域における非石灰岩地域の低地林として、学術的にも重なものです。なお、この地域において許可なく現状を変更し、又は保存に影響を及ぼす行為をすることは県条例で禁じられています。」と。「アマランダ」の黄色い花。黄色が鮮やかな花。そして再び国道58号に戻り、国頭郡大宜味村の海岸線を名護・那覇方面に進む。この日の最後に、「国道58号」沿いにあった「(株)カイコン」の先の路地を左折し名護市座喜味にあった「ヌルガー」に立ち寄った。T字路の角に三角屋根の祠・「ヌルガー」と記された井戸跡のようであった。ヌル(祝女)が衣装を洗ったり身を清めた場所とされている と。祠の傍に苔むした石碑「寄贈者 宮平 松助 平成十二年九月五日建 旧八月八日」と。近くにあったのが「カミガー」。こちらも神事に使われていたという村の井戸(ガー)とのこと。こちらも苔むしており判読できなかったが寄贈者の名前が刻まれているのであろう。祠の傍に苔むした石碑「寄贈者 宮平 松助 平成十二年九月五日建 旧 八月八日」と。そして坂を少し上って行くと目的地の「上之御嶽(ウイヌウタキ)遺跡」の石鳥居が現れた。名護市真喜屋。「上之御嶽遺跡」案内柱。「御嶽の広場一帯から、グスク時代の中期から後期にかけてのものと思われる土器が採集されています。採集遺物は土器のみで、陶磁器は採集されていません。御嶽は、真喜屋とその隣の稻嶺で共有する主要な5か所の拝所のうちのひとつになっています。時代:グスク時代中期~後期(約800年前~約700年前)」石鳥居を潜り、石段を上って行った。途中からは石畳の急な坂道の参道が森の奥へと伸びていた。森の奥へ進んでいくと、目の前に「社」の如き建造物が現われた。傍ら手前には石碑が建立されており「上之御嶽建設碑」と刻まれていた。「上之御嶽」の社は前庭の入口に二基の灯籠が設けられており、社の内部には祭壇のようなコンクリート製の台が設置されていた。地元では『上之御嶽(うぃーぬうたき)』と呼んでいるようだ。道路から少し低くなった場所にある「上之倉井」水が湧いているようであったが。時間は16:00を過ぎたため、国道58号に戻りホテルへの帰路に。羽地大川に架かる羽地大橋を渡る。羽地中学校前バス停のキノコ待合所。名護バイパスに入る。「世冨慶(よふけ)トンネル」を通過。沖縄自動車道に向かって進む。国道58号沿いにある「真栄田岬,美浜アメリカンビレッジ」は前回2015年に訪ねたのであった。沖縄自動車道・許田(きょだ)IC料金所を通過。石川ICを通過して進む。那覇ICで沖縄自動車道を降り、県道82号線那覇糸満線を進む。前方に見えた緑の屋根は「那覇市民体育館」。そしてこの日の行程を全て終え、ホテルに到着したのであった。時間は17:30。この日のドライブルートは下記のごとし。走行距離307km。この日は、駐車場からホテルへの途中にあったス-パ-マーケットで反省会の食材、ドリンクを購入し、ホテルの部屋飲みとしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.13
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まずは、10月8日(土)9時過ぎの新湘南バイパスからの富士山です。9月30日(金)、富士山の初冠雪の便りが届きましたが、この日には山頂に白の気配はなく。そして11月8日(土)の十三夜の月です。月の左手に土星の姿も。十三夜の月、満月と言われても頷いてしまいそう。十三夜は、旧暦の日付で定められているため、毎年同じ日にやってくるとは限りません。十三夜はこの日10月8日(土)。そして一昨日・10月10日(火)の満月です。10月の満月は「ハンターズムーン」と呼ばれ、10月は狩猟に最適な月だったことから、アメリカの先住民によって名付けられたと言われています。上って来た満月を我が部屋から。そして満月とその右に木星。木星をズームで。月の赤道?が・・・・いや電線でした。そして満月をズームして。昨日10月11日(火)の富士山の夕景です。富士山の山頂の上空で雲が渦を巻いているかのように。刻々と変化する雲は色を変え、形を変えて。美しすぎる、幻想的な夕景Showをしばしの間、楽しんだのでした。 ・・・END・・・
2022.10.12
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次に訪ねたのが「辺戸岬観光案内所」。「辺戸岬観光案内所」は、沖縄本島の最北端の「やんばる国立公園」に位置する辺戸岬に、やんばる三村のランドマークとして、2019年(令和元年)に、オープンした。沖縄北部を巡るドライブやツーリングで、格好の休憩と観光のスポット。70台が駐車できる駐車場に隣接したビルの1階に観光案内所、3階に展望デッキがあった。1階観光案内所では、沖縄北部(やんばる)の見所を紹介し、地元の文化や歴史の説明資料を展示していた。観光案内所の屋上展望デッキから、北側に東シナ海から太平洋まで180°を超える大海原、南側に2億年以上前の石灰岩の壮大な山々が眺望でき、人気の観光スポットとなっている。観光案内所内の見学と展望デッキともに、入場無料であった。施設1階では、やんばる3村の広域情報だけではなく、自然、歴史・文化などの地域情報も発信中。辺戸岬は、やんばる国立公園に位置し、石灰岩のカルスト地形など特徴のある景観を有す。また、その周辺は、琉球開闢の伝説が残るパワースポットとして知られ、従来から県民をはじめ多くの観光客に親しまれてきた場所。「東村」、「大宜味村」のコーナー。「東村(ひがしそん)」は「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部、東海岸に位置する縦に細長い村です。その総面積の約73%は森林で、その森林を源とした大小14の河川が流れています。人口はおよそ1,800名で沖縄本島で最も人口の少ない地域です。「やんばるの森」には多種多様な動植物が生息し、東洋のガラパゴスとも称され、2016年9月に「やんばる国立公園」に指定され、さらに2021年7月には、第44回世界遺産委員会において、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が世界自然遺産として登録が決定されました。村の花は「つつじ」、村の鳥は「ノグチゲラ」、村の木は「ヒルギ」、村のキャッチフレーズは「花と水とパインの村」「大宜味村(おおぎみそん)」は、沖縄本島北部西海岸に面し、村の約70%が山地におおわれています。近年ではバードウォッチングや森林浴スポットとして人気があります。 この村に住む90歳以上の高齢者の割合が多く、沖縄一長寿の村として知られています。長寿の源とも言われるシークヮーサーの産地で、カステラやサーターアンダギーなど、様々な特産品づくりが進められています。 また、喜如嘉(きじょか)は、現在唯一、伝統工芸「芭蕉布(ばしょうふ)」を作り出している地域。「国頭村(くにがみそん)」コーナー。「国頭村」は亜熱帯の木々が生い茂る森、森から流れる清流、透明度の高い海など、自然が多く残る。 鋭い岩山が連なり、パワースポットとして注目を集める「大石林山」や、沖縄本島最北端の岬ここ「辺戸岬」、人気の景勝地「茅打(かやうち)バンタ」などがあります。また、村域の95%が森林で、貴重なヤンバルクイナ、ノグチゲラ、ヤンバルテナガコガネなどの動物が生息している。「辺戸岬(へどみさき)」コーナー。「辺戸岬」は沖縄本島の最北端にある岬で「沖縄海岸国定公園」に含まれる風光明媚な景勝地。岬の先端からは、晴れた日には北に22km離れた鹿児島県奄美諸島の与論島や沖永良部島を、また西には伊是名島や伊平屋島見渡すことができます。那覇から辺戸岬へは、車で国道58線を北上し約120km、高速利用で約2時間30分かかります。「茅打バンタ」は辺戸岬へ至る南西岸の絶壁で、その北側には世界的にも珍しい海底の鍾乳洞「辺戸岬ドーム」があり、ダイビングスポットとして人気があります。少し離れた所には「ヤンバルクイナ展望台」があり、辺戸岬を遠望する絶景ポイントです。歴史辺戸岬は太古の昔に長い年月をかけて珊瑚礁が隆起し、波の浸食を受けてできた断崖絶壁の景勝地です。辺戸岬の背後にそびえる辺戸岳は「辺戸御嶽(へどうたき)」ともいわれ、琉球民族の祖先である「アマミキヨ」が沖縄の島々を創った時、最初にここを創ったという伝説が残っています。米軍統治時代には、海を隔てた与論島とこの岬でかがり火を焚き、年に一度、中間の海上で本土復帰を訴える集会が行われました。与論島を含む奄美諸島は1953年に本土に復帰しましたが、沖縄の本土復帰が実現したのは1972年のことで、沖縄返還にさいして辺戸岬に「日本祖国復帰闘争碑」が建立されました。「歴史紹介」コーナー。蔡温(さいおん)松並木と蔡温今に残る琉球林業の遺産、蔡温の松並木辺戸岬の近くに有る辺戸集落には、樹齢が150年~300年の松並木があり、安須杜の山を背景に亜然帯の林と松並木の散策を楽しめます。この松並木は、防風林として琉球の政治主導者であった蔡温により林業振興策の一環として植栽されました。この林業振興策は、「杣山」と呼ばれ明治時代まで続きました。蔡温の松並木は、災害や戦争等によリ減少の一途をたどり、辺戸区に残った十数本を保全するために、平成10年に公園として整備されました。蔡温は、現代の大臣に当たる「三司官」を25年間勤め、薩摩傘下で疲弊した琉球人の価値観を変え、林業振興の他に農村活性化、士(サムレー)改革等を実行し、琉球を大いに豊かにした沖縄の歴史で最高の英雄の一人です。星窪(ふしくぶ)説伝大昔のある夜辺戸に空から星が降ってきました。星が落ちたとされる場所に大きく丸い窪みがありそこに溜まる水を利用して稲を育てたりしました。琉球王朝時代のことを遺老説伝にも記述が残っております。2階「ふしくぶカフェ」の由来でもあります流星が落ちて出来た恵みの貯水池琉球王朝時代の出来事をまとめた「遺老伝説」(18世紀初頃)に「落星ワ(せくせいわ)」という話で、「昔々の大昔のある夜、国頭郡辺戸邑(むら)の北に星が落ち窪んだ穴があいた。穴の形は楕円で、長い方で約20m短い方で約10m、深さは約2mであった。世の人々は、この穴を星窪と呼んだ」とあります。星窪は、案内所の近くクイナ展望台付近とされています。大正時代、住民は落窪を天然の大貯水池にして、取水口に水車を設けて製糖をなし、稲作にも用いられて地域に愛されました。案内所2Fの「ふしくぶカフェ」は、この物語にちなみ名付けられました。UFOが飛来する山1477年2月、辺戸の◯◯◯◯がアフリ岳の頂上に傘のような形をした極彩色に輝く巨大な飛行物体を目撃したとの報告記録が遺老説伝に残っています。飛行物体が飛来する山18世紀初期頃に書かれた琉球の歴史書「琉球国由来記」と琉球王朝時代の出来事をまとめた「遺老説伝」によると、「アフリ獄」に君眞物がさす冷傘が現れたと記載されています。君眞物とは、琉球神話に登場する琉球古来最高神のロ称で、冷傘とは君眞物のさす傘のことで、日除けの絹張りの黃色いみやびな傘だったとの事です。義本王(ぎほんおう) 炎と謎の王最初にできた琉球王統の悲劇琉球の正史「中山世鑑』によると、義本王の即位中(1249 ~ 1259)に7カ月の干ばつで飢餓と疫病で多数の犠牲がでて、その後7カ月は雨が降り続き飢饉となりました。民は「義本王が招いた事態だ」と噂しました。義本王は、部下の英祖に王位を譲リ、「自らの不徳を天に詫びる」と玉城城で公開の焼身自殺を行いましたが、途中大粒の雨で鎮火させられ死ねませんでした。失意のまま、義本王は国頭村の辺戸に隠遁し、世が治まってから、読谷村に移り、晩年は北中城村で過ごしたと伝えられています。一方『中山世譜』によると、この王位継は英祖がクーデターにより義本から王位を奪った革命であったという説もあリます。義本王の墓は、10箇所に点在しておリ、国頭村には7箇所もあります。墓の多さは、民のために自らの命を懸け内乱を避けた王への敬意を持った関係者が設置したとも、クーデター後の逃走のカモフラージュであったともいわれています。尚円王(しょう えんおう)と伝統古典「かぎやで風」👈リンクかぎやで風の由来「かぎやで風」は沖縄で特におめでたい儀式や祝いの席で演される古典音楽であり、結婚式では必ずといっていいほど演舞されています。その「かぎやで風」の由来に国頭村奥間区発祥の「奥間鍛冶屋」と、琉球王国第ニ尚氏王統を築いた「尚円王」がかかわっているといわれています。尚円王は伊是名島の百姓の家に生まれ「金丸」と呼ばれていました。金丸は畑の水を盗用したと疑われ、身の危険を感じ伊是名島から海を渡って、国頭に逃れます。犬付屋取(インチキャードウイ)という洞穴に隠れていた洞穴に隠れていた金丸を助けていたのが奥間の人でした。金丸は後に、琉球国王尚円となりました。尚円王は昔の恩に報いるため、奥間鍛冶屋の次男を国頭の総地頭にしました。その時の喜びを詠んだのが「かぎやで風(鍛冶屋手風)」となったとのことです.く鎖国時代、辺戸岬沖は防衛とおもてなしの最前線>琉球北部の海上を監視し王府へ送る情報ネットワーク琉球王府は、鎖国時代(1639~1854)に海上防衛と中国から冊封使のおもてなしの準備のために近海の監視を行い、素早く修理に伝達するネットワークの構築のため遠見番所と烽火台を整備した(1644)。琉球の正史によると、与論島から伊是名へのネットワークがあったとの記録がある。 <烽火の種類>一炬 ➡ 御冠船か帰唐船が1隻ニ炬 ➡ 御冠船か帰唐船が2隻以上三炬 ➡ その他の異国船安須杜御獄(あすむぃうたき)沖縄本島最北端の六連の峰から成る山の総称琉球開闢を始めた神々が最初に創設した御嶽と言われる琉球王朝時代も安須杜は信仰の対象とされてきた。琉球開闢の最初の地、安須杜御嶽琉球の歴史書「おもろ草子」、「琉球 神道記」、「中山世鑑」、「球陽」に、同様な琉球開闢の神話があります。生じる前の琉球列島は、荒ぶる波濤に漂う一本の縄のようで島の形をなしていませんでした。天帝「君眞物」は、この地を神の住むべき霊所であると認め、女神アマミキヨ、男神シネリキヨに島創りと国創りを命じました。神々は、天より島の北端に降り立ち、土石を運び、草木を植え、森々を創り、安須杜を最初の御嶽としました。島ができても住む人がいなかった為、アマミキヨは、天帝からニ名の御子を授かリました。この二名の間に陰陽の和合はなかったが吹き通る風によリ女ははらみ、三名の男とニ名の女が生まれた。長男は「国王」(天孫王)、次男は諸侯すなわち「按司」、三男は「百姓」、長女「最高神女」、次女は「祝女」となり、それぞれの”はじめ”となったとされています。安須杜の崖の生い立ち安須杜の崖は、プレートと呼ばれる地球の殻がゆっくりと動いて大陸の端で沈みこむ際に、大陸にこびりついた付加体で生じた断層の痕跡です。付加体の内部では、強い圧力で岩が変形して年代の違う岩石が隣接しています。安須杜の岩の成分は、2 ~ 3億年前の石灰岩で大陸の東端の付加体にありました。数千万年前から付加体の一部が大陸から分離して、今も東側に移動しています。「辺戸岬」周辺地図。2階「ふしくぶカフェ」。軽食が食べられるようであったが。そして、3Fの展望台はパスして「辺戸岬観光案内所」を出て、再び散策し石碑の近くに。「太田政作先生之像」。沖縄県国頭郡国頭村出身。1928年(昭和3年)に早稲田大学法学部を卒業。大学在学中に高等文官試験に合格し、長崎地方裁判所や那覇地方裁判所の判事、台北地方法院検事局の検事を歴任。澎湖庁庁長で終戦を迎える。戦後は熊本で弁護士をしていたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄に赴き副主席に就任。1959年に政府主席に就任すると同時に、保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると総裁に迎えられる。主席在任中は、実務者レベルによる日本政府との協力関係を築くことを模索し日米琉懇話会の設置を提唱する。しかし、米国民政府のキャラウェイ高等弁務官が沖縄政財界に対して積極的に介入し(キャラウェイ旋風)、沖縄自民党内の派閥抗争が激化。西銘順治ら反主流派が沖縄自民党を脱党するに至り、責任を取って辞職した。辞任後は東京で弁護士を開業し1965年の第7回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で出馬、221,478票を得たが落選した(この参院選には安里積千代も無所属で出馬したが69,251票を得るに止まり落選している)。1970年に自民党沖縄県支部連合会長に就任、復帰後の1972年(昭和47年)、最初の沖縄県知事選挙に立候補したが、現職の行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた とウィキペディアより。「太田政作先生 緑化顕彰碑」「辺戸岬」の見学を終え、車に戻り、県道58号線を再び逆方向に走り、「義本王の墓」を尋ねるべく手前の駐車所に入る。「辺戸集落の散策路と辺戸蔡温松並木保全公園」案内板。「辺戸集落の散策路と辺戸蔡温松並木保全公園亜熱帯林に囲まれた小さな辺戸集落は、豊かな歴史的遺産を持っています。この散策路は、樹齢250 ~ 300年の琉球松を有する辺戸蔡温松並木保全公園を通っています。公園を満喫するために、地元のガイドに案内を依頼することをおすすめします。琉球王国の黄金時代に尚敬王の摂政と相談役を務めた蔡温(1682ー1761)は、儒教の古典と清の政治経済の書物に通じていました。沖縄の歴史上最も影響力の強い三司官の一人てあった蔡温は、琉球諸島全域の灌漑と林業の事業の指揮を執りました。その業績の一つには森林減少に対する施策として松の大量植樹が挙げられます。これらの松の木は「蔡温松」として知られるようになりました。環境に対する蔡温の哲学は、資源需要と保全のパランスを考慮したものて、琉球における新しい繁栄の時代の礎となりました。彼の先見の明のおかげて、やんばるの森は、入念に手入れされた豊かな生態系として残存しました。戦後、沖縄を統治した「琉球列島米国民政府(USCAR(ユースカー) )」でさえ蔡温の施策の価値を認め、戦後の占領時代に彼の著作を英訳させたほどでした。首都から遠く離れたところにこれらの蔡温松が残されていることは、最盛期の琉球王国の強大な影響力、そして今日まて変わらない沖縄の特徴てある伝統と歴史への敬意を証明しています。」そして車を移動し「義本王の墓」を訪ねた。国頭郡国頭村辺戸。石段下に車を駐め石段を上って行った。グスクの如き道を進む。左手に石碑と案内板が。「有形文化財 義本王之墓」碑。「国頭村指定文化財」と。「義本王の墓義本王は沖縄最初の王統で国王である舜天王統の第三代目国王で、西暦1249年に即位した。しかし即位した翌年がら大飢饉・天変地異・疫病が起き、これは自分の不徳によるものであると王は次期王統の創始者である英祖を召して国政を代行させたところ、病気もやみその後のことは伝わっていないとされる。義本王は在位11年で英祖に譲位し、その後のことは伝わっていないとされる。その他にも、国が乱れたことに怒った群集が王を火あぶりの刑にしようとしたため逃げたとする説などもあり、実際はどのように権限の委譲がなされたかはわかっていない。墓は琉球建築の石工技術を活かし、仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観をなす建造物であり、1983年に国頭村指定文化財(建造物)に指定された。墓庭内中央に大型の厨子甕が安置されており、これは明治の改修時に尚家から送られた五尺の大陶棺と思われる。」「義本王の墓」入口。周囲には塀が巡っていた。仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観。2013年に墓の室内から甕(かめ)に入った人骨5~6柱と装飾品などが見つかったと。見つかった人骨は直径約1メートルの甕に入っていた。甕は墓の入り口より大きいため完成前に墓内に入れられたとみられる。現存する辺戸の墓は明治初期に尚家が改修したとされる。琉球石灰岩が積まれ、墓の外側は幅、奥行きともに約3m。墓や周囲の石垣は苔むして、非常に歴史を感じさせたのであった。次に訪ねたかったのが「美ら海展望台」であったが道路が閉鎖されていたため諦めた。海岸線に出て次に訪ねたのが「宜名眞(ぎなま)神社」。沖宮先代宮司・比嘉真忠氏によって創建された神社で、沖宮の境外末社。神社神道の神社としては、沖縄本島最北端の神社とのこと。国道58号を南下する。「座津武(ざつん)トンネル跡」を見る。座津武(ざつん)浜があるここ宇嘉地区は、険しい山が海の近くまで迫っており、しかも、浜の沖にはリーフが発達していないことから、台風時などには高波が浜に押し寄せるなど、国頭村でも有数の交通の難所であった。現在では、2013年に開通した3代目の宇嘉トンネルが最短距離で険しい山を貫き、国道58号宇嘉地区の越波や落石等の危険性を回避し、道路利用者の安全・安心な通行の確保が図られているのであった。かつての座津武(ざつん)トンネルへの旧道の遺構が残されていたが、手前にバリケードが。この交通上の難所に初代「座津武トンネル」が整備されたのは、戦前の1937年のことで、この初代のトンネルは沖縄の本土復帰の年である1972年に改修されている。それでも、険しい山が海に迫り、リーフが発達しておらず直接外海の波が押し寄せるという厳しい地形の状況から、台風や大雨時における越波や落石により、過去約20年間で15回もの通行止めが発生していた。通行止め時には道路ネットワークが途絶し、住民約750人の人々の生活に影響を及ぼしていた。そこで、2013年7月19日に座津武防災事業の一環として宇嘉トンネル(584m)を開通させ、災害に脆弱な国道58号宇嘉地区の越波や落石等の危険性を回避し、道路利用者の安全・安心な通行の確保を図ることができた とのこと。国頭郡国頭村宇嘉(うか)の海岸線を進む。「辺野喜(べのき)川」の手前にあった「辺野喜節」👈リンク 碑。国頭郡国頭村辺野喜1538。「いしゅの木の花や あんきよらさ咲きゆり わぬもいしゅやとて 真白咲かな」。「辺野喜川」に架かる「辺野喜橋」。「辺野喜川」沿いに川を上り、「辺野喜神社」への橋を渡った先にも「辺野喜節」の石碑があった。「伊集の木の花や あん美らさ咲きゆい わみん伊集やとて 真白咲かな」。Googleマップにはこの橋は「辺野喜川二号橋(ファーグナラフ)」と書かれていたが。「ファーグナラフ」の意味は?走って来た「辺戸岬」方向を振り返る。「謝敷節(じゃじちぶし)」👈リンク の碑。「謝敷いたびせに うちやりひく波の 謝敷みやらべの め笑れはぐき」国頭郡国頭村謝敷。「与那海岸」前から「与那の磯」方向を見る。多くのダムがあるようだ。沖縄の水がめ 沖縄は中南部の平野部に人口や産業が集まっています。 平野部では雨水をためることがむずかしいため、必要とされる多くの水を中南部だけでまかなうには限界があります。 そのため、山の多い北部にダムをつくって、はるばる中南部まで導水管によって水を送っているのだと。併せて沖縄の河川は、降雨後の出水が本土の河川と比較して極端に早いため、台風などの豪雨による被害が起こりやすく、たびたび川沿いの地域に大きな被害をもたらしてきました。一方、流域面積が小さいため、平常時の河川の流量は非常に少なく、日照りが続くと水不足を招きやすくなっています。それらの課題に対応するために、沖縄県土木建築部が管理・建設しているダムには、治水・利水・環境の大きく3つの役割があるのだ と。沖縄本島内にはこれまでに、福地ダム、新川ダム、安波ダム、普久川ダム、辺野喜ダム、漢那ダム、羽地ダム、 大保ダム、金武ダム(国)、倉敷ダム(県)、山城ダム(企業局)の11 のダムが完成しています。もちろん離島にもダムが。「与那川」に架かる「与那橋」手前。「新与那トンネル」。「与那海岸」。「与那海岸」から前方の岬を見る。「與那節」碑。国頭郡国頭村与那。「與那節」。「与那の高ひらや 汗はてど登る 無蔵に思なせば 車とうばる」。汗を流すほと難儀な坂道であるが、愛しい人を思えは平坦な道に感じるものであると、人問の心の持ちようを詠み込んだ歌。「無蔵」とは、日本語の「無惨」からきているという。無惨なことは「可哀そう」に転化し、さらに「可哀そう」が、「可愛い」に転化し、さらに沖縄では「可愛い」のは「彼女」と転化したそうである。「無惨」からはまるで無関係な「彼女」となったとは、言葉の変化は面白いのである。何故か上の写真のすぐ近くにも与那節の碑がもう一つがあった。歌詞が微妙に違い「与那の高ひらや汗はてどのぼる 無蔵と二人なりば一足なから」と後半部分が異なる。結局は愛の歌であり、意味はあまり変わらない気もするのだが。「与那の高ひらや 汗はてど登る 無蔵と二人なりば 一足なから」。与那の高い坂を 汗をかきながら登る あなたと一緒なら ちょっとの距離だし 車での平坦な道と変わらない と。二つの歌碑の下の句が違うのは様々な歌い方があると言う事らしい。横の建物には「ユナムンダクマの郷」、「WELCOM➡よんな~館」と。本島最北端の地、辺戸岬に行く途中にある与那集落。全国過疎地域連合の資料によると、国頭村全域が過疎市町村として登録されていると。与那集落もその中の一つ。年々子どもの出生率が減っていく中で集落の未来をどうにかしようと立ち上がったのがユナムンダクマ協議会。地域おこしとして区長が自らの手でたてたというユナムンダクマは標準語でいうと“与那の知恵を持っている人”を意味するそうで、地域の共同店と連携して集落の散策ツアーを提供しているとのこと。2012年から始まった集落の散策ツアーは10年間ものあいだ定期的に実施されてきた。>集落の祈りの場所の紹介や、与那の始祖が住み始めたとされる家、自然散策、58号線の与那トンネルに隠された秘密などなど、人と自然が密接に関わり合って生きてきた歴史を実際に体を動かして学ぶことができるのだ と。「新与那トンネル」の手前の左の高台に広場があったので向かった。右手が旧道。国頭郡国頭村与那358。芝生広場には沖縄やんばるの森に棲む国指定天然記念物の生物が紹介されていた。「ヤンバルテナガコガネ」。山原(ヤンバル)の中でもここ国頭村付近にしか生息していない と。「ヤンバルクイナ」芝生広場からは40kmほど離れた、右に「伊平屋島」、左に「伊是名島」の姿が ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.12
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「辺戸(へど)岬」に到着し駐車場に向かって進む。前方にあったのが「観光案内所」。2019年5月に完成したと。それまでは自動販売機ぐらいしか無く僻地感がすごかったのだと。「辺戸岬観光案内所 HEAD LINE」と施設1階が国頭村、大宜味村、東村のやんばる3村の観光情報を発信する案内所、施設2階が辺戸岬の眺望を楽しみながら飲食することができる休憩所。「HEAD LINE」の名称は「辺戸」をかけたシャレなのであろうか?駐車場に車を駐め散策開始。「杜と水とやすらぎの里”くにがみ”」案内板。「辺戸岬」案内板。「やんばる国立公園 辺戸岬 Cape Hedo辺戸岬は、沖縄本島の最北端にあり、「始まりの場所」てあるとされています。歴史書とされている『中山世鑑』によると、阿摩美久(あまみく)という神は、琉球諸島をつくった時、まず辺戸岳としても知られる神聖な山、安須森御嶽(あすむいうたき)をつくりました。興味深いことに、地質学者は、辺戸の山々から約2億5千万年前の地層が確認できることから、辺戸地域は実際に国頭の他の地域よりも古いことを明らかにしています。地元の人々が隕石による窪地だという星窪(ふしくぶ)もまた、この地域にある興味深い地形てす。この地域の他の見どころには、辺戸集落の北側にある墓があります。この墓は急遽退位した後、行方が分からなくなった13世紀の王、義本(ぎほん)のものであると信じられています。辺戸岬は、東は太平洋、西は東シナ海を見渡しています。観測ポイントに立っと、晴れた日には北に鹿児島県の与論島を見ることができます。そして、右側の木々の間には巨大なヤンバルクイナ展望台があります。」「辺戸岬」の上空からの写真をGoogleマップから。沖縄本島最北端に位置し、断崖絶壁に囲まれ自然のダイナミックさを感じられる絶景スポット。「太平洋」と「東シナ海」との境界線が示されていたが・・・。この境界線が正しいのであろうか?この地図ではこの日に訪ねた「慶佐次」は「東シナ海」に面していることになるのだが。ネットにはこの地図が。いずれにしても「辺戸岬」先端部は「東シナ海」に面していることになる。これが正しいのではないだろうか?「炬火 友情の火」碑。「第42回国民体育大会 海邦国体 炬火 友情の火 昭和62年10月21日採火 辺戸岬」と。友情の火は東コース 西コース 離島コースに分火され太陽の火(与那国町) 海の火(仲里村) 平和の火(糸満火)と集火して海邦の火となる と。前方に見えた「祖国復帰闘争碑」に向かって進む。「テリハクサトベラ」の群生に囲まれた石碑。「祖国復帰闘争碑」この石碑は、アメリカの統治下にあった沖縄が、祖国である日本に返還されたことを記念して建てられたモニュメント。辺戸岬は、祖国復帰を強く願っていた沖縄県民の想いが詰まった、平和を祈る場所でもあるのだ。「全国のそして全世界の友人へ贈る吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。 打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。 米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。 祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。 今踏まえている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。 一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。 しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。 闘いを振り返り、大衆が信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。」風の音は沖縄の祖国復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だと謳っている。一方でこの碑は喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもないと複雑な思いも吐露されているのであった。記念碑が建てられてから多くの年月が流れ過ぎていった今、辺野古問題等、書かれている事がより生き生きと沖縄の現状を表して警鐘を鳴らし続けている事を考える時、その何十年かの間に日本は沖縄に対してどのような姿勢をとり続けてきたのか、沖縄県民はどうだったのかを真摯に問われている、熱き熱き文章なのであった。建立年月日 一九七六年四月建立者 沖縄県祖国復帰協議会設計施工者 沖縄関ケ原石材碑文 桃原用行(復帰協 第三代会長) 文字 中曽根 悟(復帰協 第六代 事務局長)御嶽(うたき)であろう。断崖絶壁の下にはどこまでも青い海が。青と白の海のカオス。鹿児島県・与論島の島影も見えた。辺戸岬からは22kmと、鹿児島よりも沖縄から近い島。伊平屋島、伊是名島であっただろうか。ズームして。サンゴ岩に負けじと茂っている植物「テリハクサトベラ」の群生。高さ70~300㎝の常緑低木。珍しく海辺や強い日差しにも負けない植物だそうで、足元に這うように茂っているのは、海辺という厳しい環境下で生き抜くために根本にバリアを張るためなのだとか。葉は枝先に集中して付くので輪生のように見えるが互生。ヘラ形で大きく、表面に毛がなく、光沢がある。葉の先端部分に丸みはあまりなく、浅く鋸歯がある。葉腋に半月型の白い花を群生する。果実も白色に熟し、よく目立つ。テリハクサトベラの花の写真を2枚ネットから。テリハクサトベラが開花すると、ハチがブンブンと音を立ててうるさく飛び回りると。花の中心部には色がついていて、ネクターガイドになっているだと。ハチが体をねじ入れるのだと。奇妙な形で唇弁花と呼ばれまると。上に飛び出てアンテナ状になっているのが柱頭。柱頭の先は杯のようにくぼんでいて、最初はそこにおしべから花粉を貰い蓄えておきます。花弁は飛んでいる虫たちの飛行甲板になっていて、誘導路みたいな線もあります。ハチは奥の蜜を貰いに体をねじ込むと、背中に花粉がつきます。めしべは後から成熟し、ハチが次に訪れた際に背中から花粉を貰うのだと。「辺戸岬」から南方向の山々を見る。やんばるの森から突き出したブキミな岩塔。これが「安須杜御嶽」・「辺戸御嶽」のようだ。御嶽(うたき)とは沖縄の聖地のこと。この辺戸御嶽は沖縄開闢神アマミキヨ(アマミク)が久高島に降臨したのち、最初に創造した第一の聖地であると。左端ピークが岩塔(主峰)。かつて薩摩から荒海を越え、島々をたどって南海を目指した船乗りたちが、最初に目にする「琉球」がこの山だったろう。辺戸御嶽は、琉球王国の玄関を見下ろして睨みをきかすシーサーなのであった。山の名は左から「シノクセ」、「アフリ」、「チザラ」、「イヘヤ」と。卵形の石碑「琉球鐘鬼門」。文字の上に透明の丸い物質がはめ込まれていたが。誰かが無許可で設置したのでは とネットにはあったが・・・?その先の石碑を臨む。「夕月夜 みやらひの歯の 波寄する 欣一」沢木欣一は昭和43年、復帰前の沖縄に一か月余り滞在。5年後に「沖縄吟遊集」という句集を発表。「みやらひ」とは沖縄の言葉で「乙女」のことと。海の白波は乙女の歯にたとえられ、美人の形容になっている。健康な美的感覚。沖縄の月は明るい。月下の波の穂の鮮やかな白さを詠んでいる と。句碑の裏面。「沢木欣一は大正八年富山県生れ 昭和四十三年夏沖縄本島に滞在し句集「沖縄吟遊集」を編む「乙女(みやらひ)の句」はこの中にありこれを記念して碑を建つ」白い鳥の姿は「与論島・国頭村友好記念碑」。近づいて。アメリカが沖縄を占領していた時代、沖縄最北の村である国頭村(くにがみそん)と、北東数十キロの沖合に浮かぶ鹿児島県最南の島・与論島との間で、年に一回だけ交流集会が開かれていたと。本土から沖縄に行くのも、沖縄から本土に行くのも、パスポートが必要な時代だった。交流集会はちょうど沖縄最北のここ辺戸岬と与論島との間、北緯27度の海上で開かれたのだと。「ヨロン島・国頭村友好のきずなヨロン島のシンボルかりゆしの像愛と平和と旅の安全祈願」最北端ならではのダイナミックな景観。「やんばる国立公園 辺戸岬」案内板。これからの秋から冬にかけては北風が強くてうねりも高いので、鋭く尖ったサンゴ岩に当たって砕ける波のしぶきの迫力はすごいのであろう。隆起し絶壁となった岩。「やんばる国立公園 辺戸岬」案内板。環境省が設置したもの。ユニークな形状の石碑。「新沖縄観光名所 國頭東海岸線」碑。海岸にそそり立つ岩。「Rock Spire at Hedo Point」とGoogleマップには。辺戸岬の「不動明王」像。「不動明王」像の奥の岸壁に近づいて。再び「辺戸岬観光案内所」を見る。写真撮影スポット「沖縄島最北端の地 辺戸岬」。「国頭村文化財案内マップ[辺戸・宜名真]」「沖縄海岸国定公園」案内板。「沖縄海岸国定公園」は、沖縄島読谷村残波岬から名護市世冨慶までの海岸沿いと嵐山及び屋我地島を含めた羽地内海から辺戸岬までの海岸一帯と学術的に貴重な動植物のみられる与那覇岳、名護岳を含めた区域と周辺海域を合わせた19,352ヘクタール(陸域6,817ヘクタール、海域12,535ヘクタール)です。沖縄特有の隆起石灰岩の海蝕崖とサンゴ礁の変化に富んだ海岸線は、常に水平線を望みながらのロードパークとも言えるものです。山岳地帯の与那覇岳一帯は、典型的な亜熱帯常緑広葉樹林を形成しており、ノグチゲラなど貴重な動物の生息地でもあります。また、名護市字喜瀬及び恩納村字仲間地先海面については、稀少なサンゴや色彩豊かな魚類が豊富に生息しているため、この地域を『海域公園地区』として指定しています。また、一部の動植物については、採取・捕獲が規制されています」とネットから。「辺戸岬園地 沖縄島最北の園地」碑。再び先端の断崖絶壁を見る。雲も静かに流れいつまでも眺めていたい絶景なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.11
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この日は沖縄旅行から帰った日9月30日(金)の昼前、今年も車で20分ほどの場所にある『小出川(こいでがわ)彼岸花』を訪ねに行ってきました。「小出川」・「大黒橋」の近くに車を停め、しばしの散策の開始。「大黒橋」には今年も横断幕が。小出川 ”彼岸花”の案内板。この付近は花のピークは既に終わっていた。ズームして。彼岸花を楽しめる場所は、遠藤の小出川沿いの大黒橋~追出橋の間約3km。おまつりの本会場:遠藤会場 他、打戻会場、おおぞう会場、せりざわ会場(茅ヶ崎里山公園内)「ようこそ彼岸花に 案内用チラシです 自由にお取りください」。今年の「第15回 小出川彼岸花まつり」のパンフレットを通路脇の箱の中から頂きました。6日前の9月24日(土)開催と。パンフレットの裏側。今年はスタンプラリーは行われなかったようであった。そして小出川沿いをしばしの散策。花のピークは終わっている場所もあったが、まだまだピークの場所も。以下、「キャプション」は省きますが、ゆっくり写真をお楽しみ下さい。 ・・・END・・・
2022.10.10
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次に訪ねたのが「瀬嵩埼(せだかさき)灯台」。国頭郡国頭村安田。瀬嵩埼灯台は沖縄本島の最東端に位置する場所にあった。ここからの眺めは青々とした海と太平洋が見渡せる絶景スポット。「瀬嵩崎燈台初点 昭和43年4月改築 昭和57年3月」こちらにも「瀬嵩崎燈台」。青い海に白の波筋が幾重にも。安田の浜にあるテトラボットが円を描くように見事に並べられていて、透明度の高い海の青いコントラストが美しい素晴らしい風景が見渡せたのであった。この風景を背景に、結婚式の前撮り写真を撮っているカップルの姿もあった。「安田漁港」を見る。「安田漁港」の先には「安田海岸」その先に岬が。ギンネム(銀合歓)であろうか、白い小さな球状の花が。和名はネムノキに似て、白い花を咲かす様子を雅語的に表現したところから。中南米が原産地だが、世界中に移植され現在世界のあらゆる熱帯、亜熱帯のアルカリ土壌地帯に繁茂している。日本国内には小笠原諸島と沖縄県に人為移入され、その後野外に逸出して帰化した。近年は南九州まで分布を拡大しているようである。更に県道70号線を進むと風力発電設備が2基姿を現した。「沖縄新エネ開発株式会社 楚洲風力発電所」。設備容量:3,600kW(1,800kW×2基)メーカー:エネルコン社(ドイツ)カーブの先に2基目が。「楚洲(そす)の浜」が右手に。その先に「赤崎」。「楚洲の浜」の先に国頭郡国頭村奥の岬が現れた。砂浜には何列かの黒き筋が。令和3年8月に発生した小笠原諸島・福徳岡ノ場の海底火山噴火に由来するとみられる軽石が沖縄周辺のこの海岸にも押し寄せたのであろう。白波の筋が青い海に映えていた。「ニライカナイの海 アダンビーチ」に車を停める。「ニライカナイ」とは海のはるか向こうや、または海底にあるとされている、理想郷のことを指す言葉とのこと。沖縄特有の信仰に深く関係する言葉で、生命の生まれる場所や死後に行く場所と考えている人が多いそうです。またニライカナイにいる亡くなった祖先は死後7代で、守護神に生まれ変わるとも考えられているのだと。海の向こうにあるニライカナイからは毎年、神様が沖縄に来訪し沖縄の人々の生活に、さまざまな恩恵を与えてくれるのだとか。「アダン」とは見た目がパイナップルに似ている「アダン」の木のことか?「沖縄県国頭村 田名展望台国頭村は沖縄県の中で、西表島と並び山を中心にした自然が最も豊なな村であります。ここ字楚州は国頭村の東海岸(太平洋側)北寄りにあって字の北側田名から南側我地に至る細長い集落です。この地域は田名という部落名でしたが、県道(70号線)が開通する以前は生活環境が困難、難儀であったと言われ、沖縄本島で最初の離部落となったようです。部落を離れた人々は山原の自然が忘れられず在那覇楚州郷友会、そして地元の人達の御協力によりこの土地が提供され、その創意によって展望台が作られました。晴れた日には遠方に与論島が見え、夜になると満天の星が見え星の降るビーチと変わります。ニライカナイの海、(水平線の彼方なら幸せが来る)右前方には夫婦岩があり、男と女の縁結び、子宝の祈願、家庭円満、健康長寿、交通安全等々の祈願者が訪れます。時間の止まったタイムリゾート、アダンビーチ」「時折ヤンバルクイナの鳴き声も聞こえます。展望台を訪れた皆様が山原の自然を満喫出来れは幸いです」。「夫婦岩」。「夫婦岩」方向を見る。男岩。女岩。これから行く北方向の海岸線を見る。米軍のヘリコプターであろうか。そして更に国道58号を利用して車を進めると「辺戸岬」が近づいて来た。辺戸の安須森の山裾の先には巨岩が肌を剥いていた。途中にあったのが「宇佐浜遺跡」。「宇佐浜(うざばま)遺跡」案内板。「宇佐浜遺跡 1972(昭和47年)5月15日 国指定史跡沖縄本島北部国頭半島の先端部は、高さ20メートル以上の断崖となって海にのぞんでいる。宇佐浜遺跡は、この断崖直上にあり、南から北へゆるやかにさがる傾斜地にある。この遺跡では、昭和45年琉球政府が発掘調査を行っている。その際、遺構として一辺約3メートルの方形の周囲に、幅約0.8メートルで帯状にこぶし大の砕石をめぐらしたものが検出された。内部は周囲より0.3メートル低くなっており、炉跡かともみられる焼土部分が一個所発見されている。調査者は住居跡ではないかと推定しており、先史時代の遺構としては沖縄諸島でははじめての発見である。出土品には、石器と土器があり、石器には磨製石斧のほか石皿が注意をひき、土器では外耳土器の出現と壺型土器の増加がやや著しい。遺構の年代はほぼ奄美諸島の宇宿上層式に平行し、本土の縄文時代末期あるいは弥生時代はじめにあたる時期のものと推定されている。したがって南島先史時代において縄文時代から弥生時代への転換期の様相をしめす代表的遺跡といえる。遺跡の現状は畑と山林で、約4600平方メートルである。」。「史跡 宇佐浜遺跡」碑。おもだったものは石碑が建っているだけで、あとは草に覆われていた。近づいて。そして「ヤンバルクイナ展望台」が見えた。ズームして。村の鳥をモチーフにした高さ11.5mの展望台であり、辺戸岬等の雄大な景勝地を望むことができるとのこと。首と胴体に展望窓がありようだ。南側の「世皮崎」方向の海岸線を見る。そして「辺戸岬」方向。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.10
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ブログアップが遅れましたが、今年は9月18日(日)に、今年の最初の趣味の養蜂のハチミツ絞りを行いました。この日は4群より8枚の巣枠を家に持ち帰りました。3年前、10年以上使っていたプラスチック製の遠心分離機が壊れてしまったため、新たに同じ型式の遠心分離機を購入しました。採蜜は我が家の部屋の室内縁側で。外でやるとミツバチがアッという間に集まって来るからです。今年も天候不順?により、ミツバチたちが溜めてくれたハチミツの量は例年の半分くらい?になっていました。蜜蜂と格闘し、巣にいた蜜蜂嬢を刷毛で払った後、蜜のぎっしり溜まった巣碑を巣箱に入れて自宅に持ち帰りました。一輪車に載せ自宅に持ち帰り、早速ハチミツ絞りの実施。持ち帰るものは、巣枠の殆どが蜜の濃縮を完了し、蜜蓋で覆われているものとしています。蜜蓋のないものも絞れますが、濃縮が完了していないので、濃度が薄く、天然ハチミツ特有の味が薄いと感じているのです。雨が続き外に出られないミツバチは、貯めていたハチミツを食べるのです。所々に白い蜜蓋がなくなっている場所が貯めていたハチミツを食べた場所だと思います。ハニカム部の色で、この巣枠の歴史が解るのです。ハニカム部が白いものは、今年になって蜜蝋(みつろう)で巣を盛り上げて作ったもの、茶色くなっているのは数年前に盛り上げて作ったものなのです。今年も妻が事前に遠心分離機や包丁、濾過網等を熱湯消毒しておいてくれました。妻が熱湯で暖めた包丁でこの蜜蓋を剥ぎ取ります。巣蓋を剥ぎ取ると、今年もハチミツが溢れて滴り落ちて来たのでした。きれいに蜜蓋を剥がし終わった状態です。遠心分離機に入れた状態です。遠心分離機には2枚を入れて、回転させます。1枚ですとバランスが壊れ、遠心分離機の破損に繋がってしまうからです。遠心分離されたハチミツが、槽の下部に溜まって来ました。遠心分離機の槽にハチミツが溜まった状態です。そしてハチミツの濾過の開始です。今年も網目の小さな金網で濾過。出口を開けると周囲にハチミツの香りが更に拡がって来ました。 琥珀色の濃度・糖度の高いハチミツがダラーーーと。遠心分離機で剥ぎ取られた巣房の欠片もきちんと濾過。上部から。濾過され容器に移したハチミツ。そしてこのまま1週間以上放置し、更に容器の底に沈んだ不純物や浮上した不純物らしきものがあれば、これも熱湯殺菌したスプーンやストローでコマメに除去。妻が通販で購入した容器もようやく届きました。ガラス瓶を大きな鍋に入れ熱湯消毒、蓋も同様な方法で。プラ容器では、この熱湯消毒が難しいのでやはりガラス瓶が良いのです。そしてゆっくり自然乾燥させた瓶にハチミツの充填作業を。瓶が水道水で濡れていても、雑菌が入る可能性があるからなのです。そして瓶詰め作業も完了。これらパッケージング作業は全て妻がやってくれたのです。ラベルも印刷して瓶に貼り付けて。『Jinさんちのおいし~い蜂蜜』。住所、名前、採取日、注意書きも記入してあります。これは内容量600gのもの。もちろん添加物、加熱操作の全く無い100%天然の超濃縮ハチミツ。そして瓶詰めの完了。更に1本1本ビニール袋に入れてパッケージングの完了です。今年も多くの友人、知人からリピート予約を頂きましたが、趣味の素人養蜂家ですので、毎年採蜜出来る量は安定しないのです。全てがミツバチ嬢の頑張り次第なのです。今回も4本、5本等の予約の御連絡も頂きましたが、出来るだけ多くの方にお分けし、楽しんでいただきたいので、今年もお一人様MAX2本とさせていただきました。そしてお陰様で全て発送、手渡し済みとなりました。ご予約いただいた皆様、どうか100%完熟の天然ハチミツをお楽しみください。今年のハチミツの味はいかがでしょうか? ・・・END・・・
2022.10.09
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国頭郡東村慶佐次の山を超えて「国道311号」を国頭郡東村の「平良海岸」方面に向って進む。そして「道の駅 サンライズひがし」に立ち寄る。県道70号線、海辺の赤瓦の屋根が目印。国頭郡(くにがみぐん)東村(ひがしそん)平良550−23。「日本一 パイナップル」と。沖縄本島北部「山原」(やんばる)の東海岸に位置するここ東村。自然豊かな東村は県下一の「福地ダム」、日本一の生産量を誇るパイナップルで知られており、「花と水とパインの村」をキャッチフレーズに村づくりを進めている と。東村にはパイナップル生産に欠かせない3つの条件「酸性の土壌」、「水はけの良い土地」、「高い気温」が揃っているのだと。パイナップル作りに最適な土地として、約180もの農家の方たちが10種類以上のパイナップルを作っている。日本で唯一のパイナップル加工場があるのも、東村。これぞ日の出の光景に「サンライズひがし」と。店の外では「東村 露地パイン」が売られていた。そして内部では巨大なとうがん(冬瓜)やスイカも。駐車場横の案内板。「東村案内図」。東村は「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部、東海岸に位置する縦に細長い村。その総面積の約73%は森林で、その森林を源とした大小14の河川が流れている。人口はおよそ1,800名で沖縄本島で最も人口の少ない地域。「やんばるの森」には多種多様な動植物が生息し、東洋のガラパゴスとも称され、2016年9月に「やんばる国立公園」に指定され、さらに2021年7月には、第44回世界遺産委員会において、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が世界自然遺産として登録が決定された。村の花は「つつじ」、村の鳥は「ノグチゲラ」、村の木は「ヒルギ」、村のキャッチフレーズは「花と水とパインの村」。「花」は3月に満開なるつつじを始め、コスモス・ブーゲンビリア・ハイビスカス・野ぼたんなどが咲き誇るのだ と。「世界自然遺産 ようこそやんばる国立公園へ」「やんばる国立公園」は、沖縄県国頭郡国頭村、大宜味村および東村ならびにこれら3村の周辺海域を区域とする国立公園である2016年の当公園の国立公園の指定は、日本全国で33番目。新規の指定としては、2014年の慶良間諸島国立公園以来2年ぶりで、沖縄県内においては3番目の指定となった と。「沖縄・東村 観光案内マップ」。東村の山中を走る県道70号線をひたすら北上して行くと、左手にあったのが「北部訓練場 」。「北部訓練場 」は、沖縄県国頭郡の国頭村と東村にまたがるアメリカ海兵隊の基地。総面積は約35.33km2であり、沖縄県における最大の軍事演習場である。本区域の上空2000フィート(≒610m)までは米軍による使用が認められているとのこと。さらに県道70号線・国頭東線を北上する。そして沖縄県国頭郡国頭村(くにがみそん)に入る。「めんそーれ 杜と水とやすらぎの里 国頭村へ」。「めんそーれ」はもともと「いらっしゃい」「おいでなさい」という歓迎の意味。山中を走る県道70号線・国頭東線をクネクネと。左手に石碑があったので車を停める。「官の山拓き甦る大地」碑。国頭郡国頭村安波。「この開発地は、もともと国有林野で日米両政府間の地位協定によって軍用地として提供された地域でありましたが、安波区はもとより耕地面積が少ないことから戦前戦後と山依存による生活が余儀なくされたことから農地を拡大し農業生産を増し農家生活の向上を図るため農地開発事業を目的に昭和四九年村を始め県政府関係省庁に対し国有林野土地の活用払い下げを要請致したところ国始め熊本営林局の御配慮と日米合同委員会の御高配によって昭和五ニ年十月十五日一三一haが返還合意され、同日基本計画策定が承認、全体実施設計が着手、昭和五三年度から県営農地開発事業として採択、着工 昭和六〇年度には造成地七四haの甦る大地か見事完成されました。ところがこの圃場の土質は強酸性赤土色土壌で保水力に乏しくかんがい施設は急務とされておりましたが、農産物の自由化等に対し、生産性の向上、地作物への転換の円滑化等農業経営の合理化を図るため平成ニ年度に県営緊急畑地帯総合整備事業が採択され畑地かんがい営農用水施設土層改良農道が整備されたことにより七四haの耕地に散水可能となり「水無し農業」からの脱却が図られ今後の農業経営安定に大きく寄与するものと期待されている。今、この地は広大な平地に変貌しパイン キビ 花卉等の産地として大きく飛躍を遂げております。ここに関係機関に深く感謝の意を表し強く心に銘じ永く我が字の発展に資することを祈念してこの碑を建立する。」「水と緑の里」碑。「県営緊急畑地帯総合整備事業地区名/国頭村安波地区事業主体/沖縄県事業時期/平成2年~平成5年事業費/532,000,000円工事概要/農道 1,876m 土層改良 33ha 営農用水 85ha 畑地かんがい 73ha」。車窓からパイナップル畑を撮ったが・・・。更に進むと左手に「安波節」碑。「安波節👈リンク安波の真はんたや 肝すかれ所宇久の松下や ねなしところ」「県道70号線 国頭村安波(あは)」。川を渡る。「普久川(ふんがわ)」。「御拝橋(うがんばし)」。「御拝橋」を渡った直後の右手にあったのが、「安波のグスク」。県道70号線の道路脇の石段を降りた場所に石鳥居があった。石段の先には急な長い階段が続いていた。先を急いでいたのでこの先は諦めたので、以下2枚の写真はネットから。「安波のグスク」の「拝所」。「安波のグスク」であるが、周囲に石垣等は残っていないようであった。そして「拝所」の内部。石鳥居の先にあった石碑。「慰霊塔」のようであった。「御嶽」であろうか。この石碑も解読不能。県道70号線「アダ・ガーデン ホテル沖縄」沖縄最北端に位置する国頭村、やんばる国立公園内に建つ沖縄最北端のリゾートホテル。このホテルは2000年、沖縄とベトナムの友好の証として、建築資材から調度品までをベトナムから運び、すべてベトナム技術者の手によって建てられたのだと。国頭郡国頭村安田1285−95。その先に県道2号線との交差T字路があった。次に訪ねたのが「安田(あだ)のシヌグ」碑。国頭郡国頭村安田39。「国指定重要無形民族文化財 安田のシヌグ」。「安田のシヌグ👈リンク安田のシヌグは、おおよそ400年の歴史を持ち、私達の祖先が生み出した貴重な民族文化で、安田の村づくりの根幹をなすものである。往時の生活は厳しかった。開拓の途上にあった安田の村落共同体形成や村落自己防衛の理念は、シヌグに滲みるとともに各行事にも顔を覗かせている。つまり、安田の村づくりの根底にある独自性は野性的で、土臭さの理念が潜在する。シヌグ行事のヤマヌブイ、ウシンデークは、神仏、自然への祈りをとおして、合力加護を賜り、村落の安寧、五穀豊穣、また村人の無病息災を招来する古代社会の自然信仰に繋ぐお祓いの祭祀である。シヌグ行事は、旧暦7月の初亥の日から2日間にわたり執り行われる。ウフシヌグ(大)、シヌグングワー(小)は、隔年交互行事で行われる。従前、ウフシヌグは3日間行われていた。ウフシヌグは、村の男達がこぞってメーバ、ヤマナス、ササの3方の山に入る。ヤマヌブイによって、男達はつる草や小枝を身につけ、頭にガンシナー(花・小枝の冠)をかぶり、山の神からセジ(霊力)を受け草装神になる。「エーヘーホーイ」「スクナーレー」を唱和し、田畑や村人のお祓いをする。シヌグ行事の前の旧暦6月25日の夕刻には。ウシンデークの練習を知らせる太鼓(ナイムンハジミー)の合図で村の女性たちがアサギマーに寄り集まりウシンデークの練習を始める。祭りの前夜祭とも言える。1975年(昭和50年)12月、安田のウシンデークが沖縄国際海洋博覧会に出演、翌年、1976年(昭和51年)7月14日、安田古文化財の保存と後継者の育成を目的に安田古文化財保存会を発足させ正式な活動が始まった。1978年(昭和53年)5月22日には、国の重要無形民俗文化財として、文部大臣により指定された。それを契機にシヌグの民俗的文化価値は、県内外の公的機関、民俗学者、音楽家、報道機関、写真家等から高く評価され、研究が盛んに行われるようになった。現在、安田のシヌグは、内容が多面的、多彩であり、多くの人が参加する。この行事は、沖縄の「祓い」の神事の古い姿をとどめ、民族文化の原型的なものを見せている。この貴重な伝統的な民族文化を保存し継承することは、互いの社会的責任であり、安田の地域興しの道に通じると確信するものである。安田は山の里、海の里、シヌグの里でもある。仮に、シヌグ祭りが無ければ古里に寄せる心情も変わっていたに違いない。 平成23年7月31日 国指定重要無形文化財 安田古文化財保存会発足35周年記念」茅葺き屋根の「神アサギ」もあった。神人(かみんちゅ:琉球信仰の神職者)達が祭祀の時に使う壁のない、屋根と柱で構成された建造物。茅葺の「神アサギ」は本島には数えるほどしか残っていないとのこと。「安田小学校発祥之地」碑。創立135年という、国頭村の中でも最も長い歴史を持つ小学校の一つである安田小学校の発祥の地を示す記念碑。「安田小学校の前身は、1887年4月16日に創設された簡易学校。3年後の1890年4月1日に安田尋常小学校として独立しました。それ以来、楚洲尋常小学校が独立したり、国民学校になったり、小中学校になったり、様々な経緯をたどりましたが、現在では、安田小学校単独校として、創立130年以上を誇る、国頭村でも最も長い歴史を持つ小学校となっています。戦後の1952年5月5日には、現在地(安田279番地)に移転していますが、かつての安田小学校は、安田集落の安田協同店の斜め向かいにありました。この碑は、かつての安田小学校が建っていた場所を示すもので、碑の設置年月は不明ですが、安田小学校創立記念事業として建立されたものと思われます。」と。門柱には「安田尋常小学校」と。安田協同店のすぐ近くには、ガジュマルが枝を伸ばす公園が。公園内には、遊具の他に、小さな祠と「平和之塔」と刻まれた慰霊碑もあった。小さな祠。その右側には「平和の塔」。多くの合祀者名が刻まれていた。ガジュマルの巨木。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.09
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「国道331号」を更に北上する。次に「東村ふれあいヒルギ公園」を訪ねた。慶佐次(げさし、けさし)の沿岸に繁茂するヒルギ林(マングローブ)など、熱帯特有の植物が観察できる公園。なかでも、「ヤエヤマヒルギ」は国の天然記念物にも指定されており、ここが北限の地とされる。国頭郡東村字慶佐次54−1。「やんばる国立公園 慶佐次湾」「国立公園 東村ふれあいヒルギ公園 案内図」近づいて。東村にある「東村ふれあいヒルギ公園」は、熱帯特有の自然を身近に感じられる緑あふれる公園。やんばる国立公園にも指定されている慶佐次湾のそばに造られた公園で、園内には展望台や遊歩道を設置。ドライブの立寄りスポットとしてや、マングローブカヤックツアーを楽しむ人が多く訪れる人気の場所のようであった。「ヒルキ(天然記念物)やシオマネキ等生物の保護のため、マンクロープ林内へ立ち入りを禁止します。」と。展望台の前方からヒルギ林(マングローブ)を見る。ヤエヤマヒルギ(八重山蛭木、八重山漂木、学名:Rhizophora stylosa Griff.)は、ヒルギ科ヤエヤマヒルギ属の常緑高木。別名オオバヒルギ(大葉蛭木、大葉漂木)、シロバナヒルギ(白花蛭木、白花漂木)。幹の根元をズームして。幹の根本近くから周囲に向かって、多数の弓なりの形状の呼吸根を伸ばしているのだ。この呼吸根は、幹の下部から斜め下に向かって出て、枝分かれしながら泥に入り込むので、見かけはタコノキ類のものに似ている。むしろ幹を支えているようにも見えるので、支柱根と言うこともあるのだ。果実は卵形で、樹上にあるうちに先端から長さ30cm以上にも及ぶ細長い緑色の幼根が伸びることから、胎生種子と呼ばれる。成熟した胎生種子は、他のマングローブ植物と同様に母樹から落ちて海流に乗って移動する海流散布によって分布を広げるとのこと。こちらの写真はネットから。「東村のマングローブ」案内板。慶佐次湾のマングローブは沖縄本島では最も広く、本島で見られる4種類のマングローブ植物のうち3種類が見られ、ヤ工ヤマヒルギの北限地であることなどから「慶佐次湾のヒルギ林」として1959年に当時の琉球政府の天然記念物に指定され、1972年に沖縄の祖国復帰と同時に国の天然記念物に指定されました。また、慶佐次湾に多く見られるオヒルギ、メヒルギ、ヤ工ヤマヒルギなどの「ヒルギ」は、1993年に、村政施行70周年を記念して新たなシンボルとして「東村の木」に指定されました。2016年にはやんばる国立公園(慶佐次湾)として指定を受けています。」「上空から見た慶佐次湾のマングロープ(ヒルギ)林沖縄本島で見られる多くのマングロープ林の中で最も規模が大きく、面積は約10ha(100,000m2)もあります。」「マングローブとは海岸をよく見ると、満潮の日は海になり、干潮の時には陸地のようになるところがあります。このような場所のうち、川の河口付近の、真水と海水が混じり合う場所を汽水域と呼んでいます。マングローブとは、熱帯や亜熱帯地方のこのような汽水域に、海水の塩分濃度に耐えられる樹木がたくさん集まってできる林や森のことをいいます。マングローブに生える植物マングローブに生える植物は、陸上の植物とは違った形や性質を持っています。いちばん大きな違いは根です。陸上の植物は水を求めて広く深く地面の中で伸びていますが、マングロープに生える植物は、地面の上でタコの足のようになっていたり、くねくねとシャクトリムシが這うような格好になっていたり、波形になっていたりします。また、植物の体の中では害になる塩分を体の外に出したり、吸い込まないようにする性質を持っていると考えられています。」「マングローブに棲む生き物たち慶佐次川でみられる貴重な生き物マングローブには、鳥、昆虫、貝、カニ、工ビ、魚などの多くの生き物たちが棲んでいます。」「失われつつある慶佐次川の自然」「慶佐次川の豊かな自然を取り戻そう!」多くの小魚も泳いでいたが。【慶佐次湾のヒルギ類の区別点】「その名前から、オヒルギは雄の木で、メヒルギは雌の木で、雄と雌の両方の木があるので実がなり、種子をつけるのだと考えがちですがそうではありません。オヒルギには赤い色をした萼の花が咲き、メヒルギには白っぽい色の花が咲きます。オヒルギとメヒルギでは花や種子の形や色も違い、全く別の種類の木なのです。」「展望台」。展望台からマングローブを見る。公園の入口にはシオマネキ(カニ)のシンボルが。意外と大きいので迫力があるのであった。国道331号の「慶佐次大橋」。公園事務所のガラス戸に貼ってあった「外来ヘビ類の目撃情報を集めています。これらの外来へビは、やんばる三村(大宜味村・東村・国頭村)ではまだ分布していないことになっていますそのため、早期発見・初期防除がとても大切です。【特定外来生物】タイワンハブ 80 ~ 130 cm中国南部、台湾原産。ハブ酒に用いるため輸入されたものが逃げるなどして、名護市などで急速に分布を広けている。ハブよリー回り小さいが、気性が荒く攻撃的。うかつに近づくと矢のよう飛びかかってくる。【特定外来生物】タイワンスジオ 180 ~ 270cm台湾原産。うるま市や沖縄市などで分布を広げている。しっぽの両側の黒いスジが特徴的でこの名がついている。毒はないが、2mを超える大きなヘビとなリ、ネズミや小鳥を好んで食べるため、もともとすんでいた生きものに深刻な影響をおよぼすと考えられている。以下 略」と。「沖縄・東村 観光あんないマップ」「ウッパマ 慶佐次湾のヒルギ林」案内板。「ウッパマ」は沖縄の方言で、漢字で「大浜」と書くと。その名前の通り、長い砂浜が続く、静かな場所と。「ウッパマ」はそんな東村の慶佐次エリアにある。マングローブ林で有名な川のある場所から車で数分のところに「ウッパマ公園」があり、その先が海になっているのであった。「東村ふれあいヒルギ公園」入り口左にあった「天然記念物 慶佐次湾のヒルギ」案内石柱。次に「東村ふれあいヒルギ公園」の前、「国道331号」を渡った場所にあった建物を訪ねた。入り口には「シーサー」が鎮座。シーサーは、ここ沖縄県などでみられる伝説の獣像。魔除けの意味を持ち、入口や屋根の上に設置されることが多いとされている。名前は「獅子(しし)」(元はサンスクリット語のライオン、シンハー)を沖縄語で発音したものである。八重山方言ではシィーシィー、シーシ-という。一体で置かれることも、仏教の影響か阿吽像一対で置かれることもあるが、単体よりも一対で置かれることの方が多いとも言われる。阿吽の違いにより雌雄の別があり、各々役割があるという。一般的に口の開いたシーサーが雄で向かって右側に置き、福を招き入れ、口を閉じたシーサーが雌で向かって左側に置き、あらゆる災難を家に入れないとされているが、口の開け閉めによる雄雌の区別には議論があるという。敷地内の植栽には濃いオレンジ色の花が。沖縄三大名花の一つ「サンダンカ(山丹花)」であろう。鮮やかな赤色やオレンジ色の花を咲かせるサンダンカ。ビビッドな花色とその特徴的な姿は、この時期・沖縄の夏?の景色にぴったり!!慶佐次地区公民館の立つ中庭にあったのが「島袋正雄(しまぶくろ まさお)師之像」。島袋 正雄👈リンク(しまぶくろ まさお、1922年9月25日 - 2018年4月24日)は、沖縄県国頭郡東村慶佐次出身。 国の重要無形文化財「琉球古典音楽」の保持者(人間国宝)に認定された。台座には「歌の道学で 人の真理さとれ 我肝修めよる 要ともて」と。自己の心を修める要と思い、歌の道を学んで、人の道の真理を悟りなさい、という意味であろうか?「島袋正雄翁座像建立趣旨島袋正雄翁は大正十一年、東村慶佐次に生誕し、少年期より村芝居の地謡を務めていた父の歌三線を聞きながら成長されました。翁は天性の音楽才能に恵まれ、昭和ニ十六年に野村流古典音楽の宮平三栄師に師事、昭和三十五年から幸地亀千代師に師事し歌三線を学び、ニ人の師の下で技能を研鑽し弛まぬ努力の結果、実演家として傑出した歌三線の技量を発揮。翁の格調高い歌唱は、聴く人を魅了してやまず、名人と讃えられるようになりました。また、翁は野村流音楽協会の会長の要職を十年にわたり歴任するとともに、更に組踊・地謡の技能向上のために琉球古典音楽の普及及び後継者育成にも情熱を注ぎました。慶佐次区では、翁を我がふるさとの誇りとし、功績を永久に讃えるとともに三線音楽の普及並びに次世代への懸け橋としてその功績が引き継がれていくことを祈念し、生誕の地に座像を建立するものであります。 平成ニ十四年五月十九日」「島袋正雄師略歴」。略歴は省略。右は「大正十年三月三十一日創立 慶佐次育英会 創立記念碑」左は「慶佐次健児のうた」碑。「慶佐次健児のうた 宮城盛吉作詞一、流れは清き慶佐次川 永久に流れるこの水に 産水くみて生れたる 我らは慶佐次健児なり われらは慶佐次健児なりニ、みどりしたたる四方の山 さえづる鳥もたのしげに ひる木にすだく鳩の声 われらが幸をうたうなり 我等が幸を祝うなり三、真砂きらめく大浜に よせては返す白波の 和信と勇気にあふれなる 我等が心の姿なり われらが心のすがたなり四、育ちし里は小さいけれど 我等が未来は洋々と やがてはとばん五代州 いでやはげまん諸共に いでや進まんもろともに」「慶佐次地区公民館」。慶座次共同売店の建物の煙突?にも「慶座次湾のヒルギ林」と。慶座次の汚水マンホール蓋。慶佐次湾のマングロープ(ヒルギ)林を進む二人乗りのカヤックとヒルギ林そして東村の村章がデザインされていた。この木は?ホウオウボク(鳳凰木)であっただろうか。パイナップルに似た果実を付けていたタコノキ科の常緑樹「アダン(阿檀)」。公園の係の方に名前を尋ねたが、度忘れしてしまったと。タコノキ科タコノキ属(パンダヌス属)の常緑樹。奄美大島~沖縄から台湾、東南アジア、太平洋諸島まで亜熱帯~熱帯地域に広く分布する。タノノキ属は「蛸の木属」。海岸のそばで群落をつくることが多く、横に伸びた枝からタコの足のように支柱根を垂らす。樹高は3~6mほど。幹にはリング状に落葉痕が並ぶ。「アダン」は、沖縄に出かけると目にすることが多い南国の雰囲気あふれる植物。「アダン」の実には毒があるともいわれていると。「アダン」がどのような実で、沖縄ではアダンがどのような食べ方をされているのかをネットで調べてみました。「アダンは実だけでなく、葉も食べることができます。人間が食用として主に用いられているのはアダンの新芽や葉です。主に石垣島や宮古島などで観光客向けにアダンの茎や葉を使った料理がされています。また、お供え物としてもアダンが利用されることがあったそうです。ヤドカリなどの好物というイメージや、アダンには毒があると聞いている方も多いことからも、一般的には食べられていないことが多いです。アダンが食べられていない理由がいくつかあります。アダンの実は硬く、繊維がたくさんつまっています。サトウキビのようなイメージで食べられる範囲も少ないため、食用としてはあまり適していません。アダンの実は中心の白い芯の部分が食べられる部位です。食べるとほのかに甘い味がします。パイナップルのような見た目と一変、アダンの実はそれほど甘くないのであまり食べられていないようです。アダンをおいしくいただくにはあく抜きをするなどと少し手間がかかりますが、沖縄や南国地域に出かけた際はアダンを使った料理がどんな味かも、お店でぜひお試しください。」と。断面はこのようになっていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.08
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「国道331号」を海岸線に沿って進むと、右手にあったのが「聖火宿泊碑」。1964年の東京オリンピックの聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建築された碑。沖縄県名護市嘉陽63番地。一番右の石碑には「一九六四年九月七日 オリンピック東京大会の聖火の当地宿泊を記念する」と。中央に「聖火宿泊碑」。左手に「聖火台」。「History of the olympic torch」案内板。案内板では聖火台の歴史や聖火宿泊碑、久志村内の聖火リレー、聖火台前での式典の模様などを写真で紹介していた。「History of the olympic torch聖火火台の歴史1964 (昭和39 )年10月10日第18回オリンビック東京大会が開催された。第18回オリンビック東京大会の聖火は、8月21日に近代オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで採火され、世界11か国を経て、9月7日正午(台風で1日遅れた)に「City of Tokyo」号にて沖縄に到着。翌8日から、沖縄本島一周の聖火リレーが開始され、第1日目の宿泊地として、久志村(現名護市)嘉陽区に一泊した。聖火台は、台座の高さ約90cm、約130 cmのヒューム管でできた、円柱の上に直径約lmのシンメーナーべ(大型鍋)の点火台でできている。実は、こにある聖火台の歴史は古く、1958年4月、日本で初めて開催された第3回アジア競技大会の聖火リレーの聖火台として使用され、民政府(現県庁)前にて聖火が灯されたものである。製作者の、森山一成氏の好意により、東京オリンピックの聖火台として、久志村(当時)に寄贈され、嘉陽区民をはじめとする、地域住民の協力により、現在の地に移設された。聖火台として当時の姿を今に伝えるオリンピックレガシーは、第3回アジア競技大会・第18回オリンピック東京大会の聖火を灯し、2020年東京オリンビック・バラリンビック聖火リレーで、3度目の聖火を迎える。聖火宿泊碑(久志村行政による)1964 (昭和39 )年9月、オリンピック東京大会の聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建設された。宿泊碑の月日が1964年9月7日となっているが、台風で型火の到着が、1日遅れたためである。実際の宿泊の日は9月8日である。聖火の到着前に、宿泊碑の建設を行い、宿泊した当日に除幕式を行った。当時の村民の、聖火宿泊にかける熱意と思いが伝わる。以後、この日を基点として「聖火宿泊記念駅伝・20kmロードレース大会」が毎年開催されている。聖火のあとさきの碑(嘉陽区民による)1965 (昭和40 )年3月28日除幕式挙行。嘉陽小中学校PTAの記念事業として、PTA会員及び全校区民、区出身者の協力を得て建立された。当時の、嘉陽区民の聖火を迎える感動と興奮、聖火が去った後の虚説感や充実感などが表現されている。」~久志地域ロゴに込められた想い~・朝日の昇る名護東海岸・聖火台に灯る炎は、当時の感動と興奮、13区が守り続けてきた地域の誇り・聖火台を支える13本のラインは、久志13区をイメージ・1964年から2020年。そして未来へとツナグ地域の請り、受け継いでいく想い、 未来への希望「聖火のあとさき」碑。「聖火のあとさき世界を相手に嘉陽がお祭り行事をしたのだから大ごとだ心の片隅に生えた小さな企が みるみる聖火が近づくにつれてふくれ上がりただならぬ様相を呈し とうとう村人では手におえないものとなったか やっとのこと手綱は放さなかった昨日も今日も 純粋な聖火到来の希望に励まされながらも待ちくたびれた挙句すかさず西の果からギリシャから御神火は赤橙の光に白い煙を引いてすいすいトクトクと日の丸の渦波を突走って海近く森近くオリンピア に似ているという潮騒の嘉陽 の岸辺にランランと燃えた安堵か神秘か感激か シュンとした興奮がそこの群集を掩うていたそして聖火の台風一過嘉陽も人も名残りさびしくさびれたしかし満足と喜びの後味は良く五輪の池は静かに平和の影を映し碑文は永く後世に語り告げん」そして「嘉陽海岸」まで足を延ばす。東海岸に面した嘉陽集落沿いに続く細長いビーチ。国道脇だが、モクマオウの防風林のおかげで比較的静か。遊泳禁止のようであったが。海面からニョッキと付き出た岩が印象的。右手には「ギミ崎」そしてその先に「安部オール島」。「聖火台」の左手にあった門には「嘉陽小学校」と。名護市立「嘉陽小学校」(沖縄県名護市嘉陽41)が閉校したのは、2009年3月末のこと。創立以来99年間の歴史を誇った当校。卒業生の数は621名。目の前が美しい海という恵まれた環境に抱かれて、生徒はのびのびと成長することができたようです。当校の歴史上特筆すべき点、それは東京オリンピックの聖火が宿泊した施設であるということ。実際に現地にはその史実を記す記念碑も佇んでいたのであった。現在は自然環境を学べる施設(美ら島自然学校)として引き続き地域にとって大切な場所となっているのだ と。「本日は休校日です」と。毎週月曜日、年末年始は休校日 と。さらに「国道331号」を北上して進むと「嘉陽層の褶曲(国指定天然記念物)」の案内があったので右折して「天仁屋ビーチ」に、向かって進むと右側に案内板が立っていた。「天仁屋原遺跡(てにやばるいせき)」と。天仁屋公民館の南東側、神アサギやニガミヤーなどの拝所のある広場は天仁屋の初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁、青花、近世~近代の沖縄製陶器などが採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています と。「天仁屋原遺跡」案内板。「天仁屋の初期集落跡と考えられており、グスク時代の土器片や中国産の青磁、染付や近世・近代の沖縄産陶器が採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています。時代:グスク時代~近代(約900年前~約70年前)」。「天仁屋原遺跡」案内板の近くに、石が転がっていたがこれも遺跡から発掘されたものなのであっただろうか。「嘉陽層の褶曲(国指定天然記念物)」案内板がここにも。石鳥居。「天仁屋御嶽」があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれている と。「天仁屋の宮」のイビ。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」は「琉球国由来記(1713年)」に「アフラヤマ嶽/神名:コパヅカサノ御イベ」と記されており、ニガミ(根神)の崇み所であったと伝わります。ニガミ(根神)とは集落発祥のニーヤ(根家)から出たノロ(祝女)を意味します。「天仁屋集落」にはかつてニガミ(根神)、ウドゥイガミ(踊神)、サンナンモー(神人の小使い)、ニーブガミ(男神)と呼ばれる神役が存在していました。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の鳥居を抜けた先には「天仁屋御嶽」のイビが鎮座しており、御嶽で最も重要な聖域であると崇められています。この御嶽は「天仁屋集落」の南西側にある「嘉陽ウイグシク(上城)」へのウトゥーシ(遥拝所)であるとされています とネットから。「天仁屋」バス停の奥には「神アサギ」があった。「神アサギ」は、集落の守護神を歓待する祭祀の場で、集落を守護する御嶽の近くにあります。御嶽はノロなどの神女以外入ることが許されていないため、人々が集い祭祀に加われるのはこの場所になります。神女たちが御嶽へ遥拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所として使われます。 ここの「神アサギ」の特徴は寄棟の茅葺小屋で、軒が低く中へ入るためには腰をかがめなければ入ることができません。柱は石柱を地中に挿しただけの穴屋【アナヤー】形式で、屋根は扠首(さす)構造でできています。 現在でも「神アサギ」で祭祀が行われていますが、戦後に建てられた建物の多くは、瓦屋根やコンクリート造づくりとなっています。扠首構造とは、逆V字型に寄りかかった2本の材を、水平方向に架けられた材で支えた構造で、沖縄ではこの2本の材を【リン】と呼よびます。小屋組みでは、頂部の棟木(屋根の頂部に用いる水平材)部分でこの【リン】を交差させて結ぶことで、小屋内に束が立たず内部を広くとることができます と。そして坂道を下って行くと、海岸の岩場の手前に案内板が姿を現した。「国指定天然記念物 名護市 嘉陽層の褶曲」。「現在の日本列島の骨格は、3億年ほど前からの地層の付加作用により形成されてきました。沖縄地域も例外ではなく中生代三畳紀以降、おおむね西側から東側に向かって次々と付加作用により発達したことがわかっています。付加作用とは、海洋プレートが海溝で沈み込むとき、その上にある堆積物が大陸プレートの縁に剥ぎ取られてそのまま大陸プレートの一部になることです。天仁屋からバン崎にかけての海岸には、新生代古第三紀始新世(約5400万年前~約3700万年前)の最も新しい時代に付加された嘉陽層と呼ばれる地層が分布しています。嘉陽層は、当時の海溝付近の深海に堆積したタービダイトと呼ばれる砂岩と泥岩の互層を主体とする地層です。海底地すべりの堆積物よりなる嘉陽層は、さまざまな堆積構造や逆断層が見られ、特に地層の褶曲現象が発達しています。褶曲構造の波長は、砂岩層が厚いほど大きくなる傾向があります。20cm以下の厚さで砂岩層と泥岩層が繰り返すバン崎周辺では、細かな褶曲が見事に発達しています。また、比較的厚さの薄い砂岩層には、深海に棲息する動物によって形成されたと考えられる生痕化石(生物が活動した痕跡)がしばしば観察されます。ここで見られる生痕化石は水深2000mを越える深海底の環境を示すものとされています。このように、嘉陽層には付加作用によって形成された日本列島の成り立ちを示すさまざまな現象が保存されており、極めて重要であることから、平成24年( 2012年) 9月19日に国の天然記念物(地質)に指定されました。」「嘉陽層の褶曲」案内地図。【付加作用の仕組み】👈リンク。「国指定天然記念物「名護市嘉陽層の褶曲」を見学されるみなさまへ褶曲のある海岸線はとても崩れやすく、土砂崩れが何度も起きています。見学の際は、崖に近づかす、離れて観察しましよう。」「嘉陽層の褶曲」案内地図では、海に向かって右側の「嘉陽層の褶曲」の位置が示されていたが勘違いして左側に行ってしまったことに今、気がついたのであったが。海蝕洞を見る。近づいて。海蝕洞の上には「嘉陽層の褶曲」が確認できた。嘉陽層と呼ばれる地層。ここには激しい褶曲が、逆断層か。北側の絶景を見る。ズームして。正面の岩島。天仁屋崎からバン崎を望む。別の場所に移動して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.07
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国道331号を進むと、右手の対岸に沖縄県名護市辺野古で進む「米軍新基地建設」現場が見えた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設計画地である。ズームすると盛り土を積み込んだ運搬船の姿が確認できた。米軍普天間飛行場の「名護市辺野古移設計画地」案内図。埋立開始前2017年前後の航空写真。そして2022年9月の埋立状況。すでに海面から4mの高さまで土砂投入➡最高10mまでかさ上げ予定 と。滑走路が予定されている東側の埋立地は軟弱地盤が発見され工事が全く進展していない。国は地盤改良の設計変更を申請しているが沖縄県はこれを承認せず法廷闘争に進展する可能性が強くなっているのである。左側の岬を見る。左手には多くの幟が立っていた。「エナジック スポーツ高等学校 学生寮建設予定地」と。本学院は、通信制の星槎国際高等学校(札幌市)と連携して高校卒の資格も取得できる体制を整え、野球とゴルフに特化した、特色ある学校のようであった。高等学院は最高水準の設備を用意。ゴルフ部門は18ホールを備えたエナジック瀬嵩カントリークラブとその練習場を使用。クラブハウスも完備。野球部門はエナジック社会人野球チームが本拠としているエナジックスタジアム石川(うるま市)を活用。本学院は、恵まれた環境と卓越した講師陣を備えた、日本初のエリートアスリート育成機関といえるのだと。ゴルフ大会で優勝した生徒の名前が書かれた幟が並ぶ。そして次に訪ねたのが「汀間公民館」の前にあった「御嶽小(うたきぐぁー)」と呼ばれている祠。近くにおられた地元の方に尋ねると「汀間」は「ていま」と読み、地元の方は「てぃーま」と言っているとのこと。名護市字汀間22。「拝所の概要所在地 名護市字汀間二二番地この聖地は通称御願小(うがみぐぁー)とよばれ、戦前は大小種々の樹木や植物が繁茂し、うっそうたるなかに昭和十三年御嶽小とよぶ祠が建立された。広い聖地は左綱(ひじゃいつな)が張りめぐらされ、人々は畏れをなして立ち入ることはなかった。一九五七年この聖地に拝殿(とうぬ)か建立されウンバハリーからロー火神(ひぬかん)、村内(むらうち)から根神火神(にかみひぬかん)、世ヌ神(ゆーぬかん)が合祀された。拝殿の建立と併せて御嶽小(うたきぐぁー)は原型のまま東側へ移設し、神アサギはウンバハリーより移転された。以来神事の折々には、祭司が祈願を司る聖地として信仰されている歴史ある拝所である。旧拝所は、老旧化か激しく改築は区民及び関係者の強い願望であったことから新築された。なお、建物の規模を大きくしたため総体的に東寄りになったが向きや配置は旧拝所とおなじである。」「御願小(うたきぐぁー)」。中央に「根神火神 (ニーガンヒヌカン)」、右に「ヌロー火神」、左に「世神」。根神とは沖縄本島で、村落の旧家(根屋)から出た神女。根屋の当主を根人 (にっちゅ) というのに対し、その姉妹をいうのだと。ヌローとはノロ・祝女と。沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。最高の神官、聞得大君(きこえおおぎみ)の統率のもとに、村落の神人を指揮して神事をつかさどるのだと。そして世神(ゆーがみ)、 世神は、古くは自然の岩穴を信仰の対象としたようだ。そこへ、明治の末頃に木造瓦葺の祠が造られたと云う。岩穴は死者を弔う神聖な場所である。また、ご先祖様は黄泉の国、ニライカナイに神として住むと信じられ、洞窟はニライカナイに通じる入り口でもあるのだと。「神アサギ」。御嶽(ウタキ)の近くには、守護神を招いて祭祀を行う「神アサギ」と称する広場があるが、沖縄本島北部ではそこに軒高の低く、壁や床もない穴屋形式の祭屋を設けている場合が多くなっている。軒が低い理由については、牛や馬、鳥などが聖なる神アサギに侵入しないようにとか、ムラの神役が行う神聖な祭祀儀礼を外部から見られないように配慮したものと考えられているのだと。神女達が御嶽へ遙拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所。別の角度から。これも小さな「御願小」であろうか。それとも我が関東等の神社でいう境内社?「御願小」を別角度から。屋根の瓦には若木が。「汀間当」碑。「汀間当👈リンク一、汀間と安部境の川下の浜うりて 汀間の丸目カナと請人神谷と恋の話し (はやし)サーアーフンヌカヤーヒヤー マクトカーヤー二、神谷が言葉やぬんで言たが 明てぬ四、五、六月 呼ばしがちゃんどちとみて待ちよれ (はやし)サーアーテカチャンヤーヒャー 丸目カナー三、月のある間る 思いすんどさたすんど 月のいり下りば 思いんさんど (はやし) サーアーユティクーカンクー ワウデマクラ」意味は一、汀間と安部境の井戸の下の浜に降りて汀間の丸目加那と請人神谷との恋の話し 本当かな おい 真実かな二、神谷の言葉は何だと言ったか 年明けて四、五、六月あたりになったら使いが来るので 辛抱して待っていろよ よくやったぞ 丸い目の加那(愛する人)よ三、月の出ている間は思いもするぞ うわさもするぞ 月が西に沈むと思いはしないぞ 噂もしないぞ 近くにこい ちょっとこい 私の腕枕そして、「ガジュマル」の老木。デンドロビュームが宿り木の如くに。公衆トイレ。壁には様々な貝が埋め込まれていた。こちらは貝の内側が表面に。これぞ沖縄の民家!!この樹は?「ハスノハギリ」と。「ハスノハギリ(蓮の葉桐)」の葉。葉は互生し、卵円形で、長さ10~30cm、幅8~20cm。先は尖り、基部は浅心形で全縁、両面無毛。質はやわらかい革質で光沢がある。葉柄は葉身の下部に楯状につき、長さ5~15cm。路地の角にも石碑が。「石敢當」と。「石敢當」(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)は、丁字路の突き当り等に設けられる「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。石敢当、泰山石敢當、石散當等と書かれたものもある。中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県や鹿児島県に多く分布する。ここ沖縄県ではその存在意義や効果が未だに根強く信じられており、当地では丁字路や三叉路が多いことから、現在でも沖縄県の各地で新しく作られた大小様々の石敢當を見ることができる。これらの地域では、市中を徘徊する魔物「マジムン」は直進する性質を持つため、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりに石敢當を設け、魔物の侵入を防ぐ魔よけとする。魔物は石敢當に当たると砕け散るとされるのだ と。「汀間川」に架かる「嘉手刈橋」。ズームアップすると、ここからも「米軍新基地建設現場」が見えた。「汀間川」の対岸にあったのが「汀間御嶽」の石鳥居。次に訪ねたのが「カヌチャリゾート(Kanucha Resort)」.県内最大級のリゾートホテル。しかし、守衛所があり予約者以外は進入禁止と。次に訪ねたのが「神着宮(カヌチャグウ)」。「カヌチャリゾートホテル」の敷地内にある神社であると。名護市安部。自然石を用いた巨大な石灯籠。その横の池には白い鳥が。ニワトリの一種であろうか?鳥居に向かって進む。「神着宮」を正面から。左右にあった水晶の球が昔は置かれていたとネットから。。水晶の球の中には龍の姿が。「尽事無難に皆の者が心深く感謝の意を表して一つに業にいそしみ励み、天地万物の大神の恩惠みでカヌチャベイリゾートに大い御繁栄あらしたまえとかしこみかしこみ み申す」内陣には布袋さんと恵比寿さんの姿が。「神着宮」は商売繁盛の神様なのであろうか。次に訪ねたのが「安部御神殿」。名護市安部11−2。扁額「安部御神殿」。「安部神殿建設記念碑」。電柱の奥には巨木が。「天然記念物 安部拝所のガジマル」。「安部拝所のガジマル」案内板。「安部拝所のガジマル樹齢約220年 樹高約21.6m、胸高周囲約6.85 mガジマル()はクワ科の常緑性高木で、屋久島以南、沖縄、台弯、熱帯アジア、オーストラリアに分布している。漢名を榕樹(ようじゅ)と言い、防潮防風林や緑陰樹として広く植栽されている。「安部拝所のガジマル」は安部のニガミャーの隣にある拝所のフクギの群落に混じって生育している。周りにはフクギの他、モクタチバナ、.ヤブニッケイ、アカテツ、ハマビワ、コクテンギ、ゲッキツ、クロッグなどが生育し、御嶽林を形成している。幹は真直ぐに伸び、2m高で東に大径の幹のような枝をやや斜めにのばし、4m ~ 5m高で多数分岐して、ほぼ円形状に四方に技を広げる。5m高で多くの気根が巻きつき、普通のガジマルより垂下根が少ない。巻きついた気根は若々しく、周りに生育するフクギを締めつけている。根元には、根の露出がみられ、踏圧はほとんどないが傷が多い。大きな根には板根が発達し、傾斜地に立つ特徴を示している。傾斜は南東に15°。毎年旧盆にはガジマルの木の下で御行事が行われており、古くから区民に親しまれている木である。」廻り込んで下部の垂下根を見る。更に近づいて。そして近くにはバナナの樹も。たわわに小型のバナナが実をつけていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.06
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2日目・9月26日の朝は6:30にホテルを出発し、駐車場に向かう。ホテルの前から、早朝の空に虹が出ていることに気がつく。ホテル前の交差点の角にあった案内柱。●「波の上ビーチ」沖縄には美しいビーチが多数るが、沖縄随一の都市<那覇>は、沿岸部に空港や港があるため遊泳可能なビーチが1か所しかない と。●「波の上うみそら公園」「波の上ビーチ」のある公園。場所は沖縄で最も格式高い神社である波上宮の近く。ただ泳ぐだけではなく、スキューバダイビングやバーベキューも楽しめる と。●「三重城ふるさと海岸」。海とヤシの木に囲まれた遊歩道を、ゆっくり散歩できる場所。那覇空港の近くに位置していることもあり、離着陸する飛行機の姿を眺めることができる。そして夕方になると、美しいサンセットを見ることができる と。ここ那覇港周辺案内図。那覇港は沖縄県の玄関口として国際コンテナ航路を含む50以上の貨物航路を持ち、40以上の島々の経済活動を支えている港。久米島(くめじま)、慶良間(けらま)諸島といった沖縄本島周辺離島への航路の拠点としてフェリー、高速船、遊覧船が就航している港は「泊ふ頭ターミナル「とまりん」」。現在地は那覇市西3丁目3付近。駐車場への道の正面にあったのが「ロワジールホテル 那覇」。那覇市西3丁目2−1。駐車場を出て、那覇自動車道の「那覇IC」に向かって進む。今回の観光場所は、事前に主要ドライブルートを決定し、それに沿った寺社、遺跡、名勝地等々をGoogleマップでチェックしリストアップしておいたのであった。沖縄本島のGoogleマップにはかなり細かな遺跡、御嶽、沖縄戦の霊場等が表示されているので全てを回りきれないのは出発前から明らかであったが、取り敢えず多くをリストアップし、時間、天候から訪問場所を取捨選択していくこととし、今回の旅行に臨んだのであった。観光初日のこの日は那覇自動車道の宜野座ICから国道329号、そして331号、県道70号線、国道58号を利用して太平洋と東シナ海の荒波が打ち寄せる沖縄本島最北端の岬・辺戸岬を目指したのであった。前方に沖縄都市モノレール・「ゆいレール」の「旭橋駅」が現れた。沖縄都市モノレール線は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2022年3月現在「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」である。「旭橋」交差点を通過。前方に「壺川駅」。「とよみ大橋」とその左手奥に「NHK・OTVデジタルテレビ・NHK-FM那覇 88.1MHz 豊見城高安送信所」。国道329号「新那覇大橋」から見えた巨大クジラ。445mの斜張橋「とよみ大橋」を渡る。「とよみ大橋」の欄干には様々なプレートが。那覇市長田の街並みを見る。県道222号線真地泉崎線の「真地大橋」が見えた。県道82号線那覇糸満線を進む。そして沖縄自動車道の那覇ICの案内板が現れた。「崎山交差点」下の地下道を進む。沖縄道・那覇料金所を通過。沖縄自動車道(おきなわじどうしゃどう、英語: OKINAWA EXPWY)は、沖縄県の名護市を起点とし那覇市に至る延長57.3キロメートル (km) の高速道路(高速自動車国道)である。高速自動車国道としては最南端かつ最西端の路線である。略称は沖縄道(おきなわどう)。高速道路ナンバリングによる路線番号は、那覇空港自動車道とともに「E58」が割り振られている。青空の見える中にまっすぐ立ち並ぶヤシの木の様子は、やはり南国リゾート。「喜舎場(きしゃば)スマートIC」手前から正面に見えたのが「コスタビスタ沖縄ホテル&スパ」。中頭郡北中城村喜舎場1478。長さ215mの「喜舎場トンネル」。太平洋側にある平安座島、宮城島、伊計島(いけいじま)が見えた。伊計島は与勝半島の北東約11kmにある。地元では「イチハナリ」と呼ぶことがあり、最高標高49m、琉球石灰岩におおわれた平坦な島。サトウキビ作の半農半漁で、北西沖には定置網漁場がある。昭和57年に南側にある宮城島とを結ぶ長さ198mの伊計大橋が完成し平安座島と海中道路を経て、与勝半島と陸続きになった。島の南側一帯に集落、北端にはリゾート施設があり、町の観光のメッカとなっている。昭和54年から土地改良事業が導入され、島の約47%にあたる84.2haが整備されている。那覇ICから約40分、50km強を走ると「宜野座(ぎのざ)」出口が前方に。「宜野座」料金所を通過し一般道へ。ここを左折し国道329号で名護方面へ。この後の一般道の走行ルートは下記のごとく。コンビニに立ち寄りトイレ&オニギリを購入。前方に標高335mの「久志岳」、右手に標高332mの「辺野古岳」を見る。この先を右折する。国道331号・二見バイパスを進む。二見バイパスを左折し、直前に通過した「二見大橋」を見る。「二見大橋」の下を潜り進むと正面に石碑があった。「二見情話の里」碑。名護市二見227。別の角度から。二見バイパスを見上げる。「ようこそ!二見情話の里へ」「二見情話誕生時代風景二見美童や だんじゅ肝清らさ 海山ぬ眺み 他所に勝てヨ」 作者である照屋朝敏氏は、昭和20年6月、米軍の命令により 仲間と共に二見に移動しました。二見の村民らを心よく迎え 入れたので、村の「ニ見の歌」創作要請を快諾し、昭和20年 11月にこの「ニ見情話」を完成させました。 この歌は、平和祈念とニ見の人々への命からなる感謝をこめた 御礼のメッセージでもあるそうです。 この「ニ見情話」の記念碑が、ニ見区コミュニテイセンターに 建設されています。」「二見情話👈リンク一、二見美童や だんじゅ肝美らさ 海山の眺み 他所に勝てョ二、二見村嫁や ないぶさやあしが 辺野古崎坂ぬ 上い下いョ三、待ちかにて居たる 言里上いやしか 出発ちゅる際や 別りぐりさョ四、行かい行ち来うよと 交わすいくとばや ぬがし肝内に 思い残ちョ五、戦場ぬ哀り 何時が忘りゆら 忘りがたなさや 花ぬニ見ョ 昭和二十年十一月 作詩曲 照屋朝敏 直筆」「敗残兵の一斉掃討をするから民間投降者は避難せよ」沖縄戦が終結した昭和二十年六月二十日、米軍の命令により、私は他の投降者と共に摩文仁から与那原に出、海路、大浦崎を経て二見に移動した。村民は心よく迎え入れ、皆、安堵した。相互扶助の生活が日々、顕著になった或日、村長事務所で年長者会議があり、席上、二見の歌の創作要請を受け二ヶ月後に完成したのが、「二見情話」これは、平和祈念と二見の人々への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある。 平成二年七月吉日 元二見村長 照屋朝敏」杉田川に架かる杉田橋(すぎんたばし)越しに来た道を振り返る。そして車に戻り引き返していくと左手に、「民謡「二見情話」が流れる道 メロディーロード」と。ここが「メロディーロード 起点」と。そして直後の「メロディーロード」の路面にはト音記号🎼が書かれていた。沖縄県内で唯一のこのメロディーロードは、2012(平成24)年11月23日(「いいふたみ」の日)に完成した。二見区の要望を受け、設置された。国道331号線の旧道を約340mの区間で約30秒間、三線と歌の重奏で「二見情話」が流れる。これは、メロディーロードの技術を開発し、特許を持つ北海道標津町の篠田興業さんにより作られた。現在国内外に23か所あるメロディーロードのうち、8番目に作られたのが、この「二見情話ミュージックライン」👈リンク。作られた当時、「三線と歌声の重奏」は全国初とのこと。道路に刻まれた規則的な溝の上をタイヤが通ると、発生する音が、メロディーとして聞こえる仕組みになっている。車の窓を閉めて、速度約40km(この道路の法定速度)で車を走らせることで、本来のテンポで二見情話のメロディーが流れるのだと。このメロディーロードにより、走行速度を抑制し、安全運転を促せる効果があるとのこと。再び「二見バイパス」の下を通過すると、直ぐ左手にあったのが「津波古松吉之墓」。沖縄のお墓は「墓石」「墓地」のイメージとは少し離れた、「小さな家」のような感覚がある。しっかりとした扉に屋根、故人がそこで住んでいるがごとし。沖縄で今のような形式のお墓が造られるようになったのは、16世紀以降とのこと。もっとも代表的な亀甲墓や破風墓と呼ばれるお墓を造ることは、王族や士族にしか許されておらず、一般庶民は森や洞窟の中に遺体を安置・埋葬する「風葬」が一般的であった。廃藩置県が行われた明治時代に、やっと一般の人々がお墓を造ることが許されたのだと。そのことから、沖縄は日本の中でも火葬の歴史が浅く、独特の風習が残ったと言えると。特に琉球王国時代、聖地となっていた久高島においては、1960年代まで風葬が行われていた。なぜ沖縄のお墓はほかの地域のお墓に比べて大きいのか?その理由の1つとして、風葬文化が起因していると。かつて沖縄で行われていた風葬は、石で覆われた部屋の中に遺体を安置し、骨になるのを待って遺族が骨壺に納骨するもの。広い空間が必要だったことから、大きなお墓になったのだ。2つ目の理由が、父系親族全員の遺骨を埋葬する伝統的な門中墓の風習。門中墓は、儒教の影響を受けているため「先祖を敬う」という意識が強く、必然的に多くの骨壺を納骨しなければならない。そのほかにも、故人を供養するための行事である「清明祭」という宴会がお墓の前で行われるため、親族や故人とゆかりのある人々が集まるスペースが必要なことも、お墓が大きく造られる理由と言えるのだと。「二見情話ミュージックライン」案内板がここにも。「ギミ崎」方面を見る。そして次に訪ねたのが「久志間切番所跡」。「名護市役所久志支所」内の中庭に石碑があった。名護市瀬嵩7−1。立派な松の巨木の下に石碑が。「久志間切番所跡」碑。間切(まぎり、沖縄方言: マジリ)は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。琉球王国時代は第一級行政区画に相当した。琉球処分による沖縄県設置後以降も継続していた旧慣温存政策により、1896年(明治29年)の郡制施行(沖縄県区制)以降も間切制は、1908年沖縄県島嶼町村制施行により間切→村(そん)に移管されるまで続いた。間切の区割りは概ね現在の沖縄県内の市町村に相当する。ただし、沖縄戦やアメリカ統治時代を含む近現代に市町村合併等が繰り返されているため、現在の市町村の区割りとは大きく異なっている。久志間切創設は1673年で間切番所はここ久志村に置かれた。しかし14年後の1687年に久志村から瀬嵩村へと番所は移設。番所の移転は名護間切の負担の軽減だったと。国頭方の東宿・西宿とも名護間切経由だったのを、久志間切番所を瀬嵩村に移動することで、久志間切から名護間切を経由せず羽地間切をつなぐコースとなる。当然のことながら『琉球国旧記』(1731年)の久志間切の駅(番所)は瀬嵩邑(村)。「名護市役所久志支所」の塀にあった沖縄の守り神と言われる「面シーサー」。まさにここはカラフルな「面シーサー」の野外展示場のごとし。それにしても個性あふれる秀作揃いなのであった。その先にあったのが「久志村歌」碑。久志村歌 作詞 宮城敏男 作曲 安谷屋一雄一、潮髙鳴る東の海原 仰ぐ朝日に光さざめく万波 太平洋波の打ち寄すところ 潮風かおる里は十ニ われら友よわれら里よ二、力あるか大洋の水の 南の浜にもののふの夢 破るは文化の時の声 躍るは雄々しき無限の思い われら友よわれら里よ三、見よ白雲たびく久志山 独立自主の緑かざして立つ 髙き姿を心にて 仰ぎてうたえいざ久志男子 われら友よわれら里よ」「沿革我が久志地域、旧久志村は「久志間切」の時代から一九七〇年(昭和四五年)合併により名護市になるまでの間約三〇〇年の長い歴史があります。その歴史をたどれば一六七三年(康熙十二)金武間切から二ヵ村(久志、辺野古)名護間切」から十〇ヵ村(大浦 瀬嵩 汀間 安部 嘉陽 天仁屋有銘 ◯坊次 平良 川田)を割いて久志間切創設された。当初久志(現久志区)にあった間切番所は一六八七年(康熙二六)に瀬嵩(現久志支所)に移された。一八九七年(明治三〇)に「久志間切番所」が「久志間切役場」に改称され、一九〇八年(明治四一)には沖縄県島嶼町制の施行により「久志間切役場」が「久志村役場」となった。一九二三年(大正十二)に有銘以北が分かれ、東村が新設された。その後、三原、二見、大川、底仁屋、豊原が独立して行政区を設立した。「久志村歌」は宮城敏男により作詞、安谷屋一雄により作曲され、昭和の初年(昭和二年~昭和六年)の間」に制定された。作詞者 宮城敏男(一九〇一年~一九七二年) 嘉陽出身 大正十年三月県立第一中学校卒業、一中時代、優秀な成績を修め、入学から卒業まで特待生として授業料免除に浴したという。「久志村歌」の他に「久志小学校校歌」、「宮古中学校校歌」、「三中応援歌」を作詞、近年においては「聖火のあとさき」と題する詩を書き残している。作曲者 安谷屋一雄(一九〇六年~一九三三年) 嘉陽出身 昭和二年三月沖縄県師範学校卒業、師範学校時代は常に上位成績で教師学友から信頼されていたという。また郷土芸能や琉球音楽にも興味を持ち琉球古典音楽や琉球民謡に優れた才能を発揮していた。「久志村歌」の他に「高江新川節」(作詞作曲)「遠海の唸り」「稲作節」・・・」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.05
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無料連絡バスで第3ターミナルバス停に到着し、第3ターミナル出発ロビーに向かって進む。第3ターミナルのバス停案内。第3ターミナル案内。連絡通路を進む。第2ターミナルに続く道路。第3ターミナル入口。フードコート。そして、事前に自宅からネットでオートチェクイン済みのチケットで荷物を預けようとしたが上手くいかない。旅友が近くにいたジェットスターの係員に聴いたところ、まず下の写真の機械のキオスク端末から手荷物タグを印刷するとのこと。チケットのバーコードを読み取らせると、黄色の□からタグが出て来たのであった。このバーコード、1989年シンボルテクノロジー社によって開発されたスタック型の「PDF417」と呼ばれる規格に基づくもので、海外で多く使われているのだ。そして預ける荷物にタグを取り付け、自動手荷物預け機に向かう。そして同様にオンラインチケットにより、無事荷物を預けることが出来たのであった。やれやれ!!。そして機内持ち込み手荷物検査も無事通過。そして搭乗ゲートに向かって進む。窓から、駐機場を見る。エスカレーターで降りる。利用便は15:05発 ジェットスター GK309便。売店にお茶のペットボトルを購入。この場で約1時間強、搭乗開始を待つ。そして搭乗へ。搭乗通路のビニールハウスの如き様子はこれぞLCCと感じるのであった。この日の利用便 ・A320型機。座席は事前に窓側席を確保。定時に出発し、滑走路に向かって進む。そして離陸。利根川を見る。川の水面が輝く。そして遠く、雲の上に顔を覗かせた富士山の姿を確認。浦安、有明方面。三浦半島、相模湾を見る。再び富士山の姿を。そして太平洋上を沖縄・那覇空港に向かって進む。機窓から見えた飛行機の後方には飛行機雲が。別の飛行機も。そして巨大な入道雲の如き雲が孤立して。そして沖縄本島に近づく。「伊平屋島」と「野甫島」を結ぶ「野甫大橋」の姿が見えた。「伊是名島」の南側の「伊是名漁港」そして小さな「降神島」。「伊江島」が見えて来た。沖縄本島本部半島の北西約9kmの位置にある伊江島。ズームして。島中央から少し東にずれたところにある標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で親しまれている。産業は主に農業、漁業から成り立っている。本部港からもフェリーで30分あまりということもあり、「日帰り可能な離島」としての人気も高い。また、戦争に関する施設・史跡もあることから県内外からの修学旅行の需要も多い とウィキペディアより。そして手前は沖縄本島の本部半島の国頭郡本部町。本部半島の南側の付け根、名護市2丁目にある「21世紀の森ビーチ」が現れた。沖縄本島で唯一の「海中展望塔」のある、そして2000年の九州・沖縄サミット首脳会合の会議場に選ばれた「万国津梁館」のある「部瀬名岬」。海上に延びる「海中展望塔」への通路が確認できた。遠くに見えたのが水納島(みんなしま、みんなじま)。本部半島の沖合、北西1.5キロメートルのサンゴ礁に浮かぶ三日月型の小さな島で、上空から観察すると写真の如きクロワッサンに見えることから、クロワッサンアイランドと呼ばれている。標高26.9メートル、面積は0.47平方キロメートル。人口40人余の観光の島である。かつては無人島で、島全体が「メンナノ御嶽」として聖域とされていたが、1903年(明治36年)に瀬底島から13戸が移住し製糖に従事した。もともと水資源が乏しいことから「水の無い島」が島名になったとされる。現在は沖縄本島から水が供給されている。代表的な産業は、観光業および農業・畜産業である。観光業は年間60,000人を越える来島者があり、ダイビングやシュノーケリングなどのサービスが提供されている。また、農業ではニンジンやダイコン、スイカの栽培が行われている トウィキペディアより。左に旋回して太平洋に出る。国頭郡金武町屋嘉地区の海岸線。海の水面が夕日に染まる。オレンジ色に輝く水面。「前ぬ浜(久手堅ビーチ)」付近であっただろうか。菜園用の温室の屋根ガラスも夕方の陽光を反射して。荒崎海岸、米須海岸。ズームして。糸満市喜屋武の海岸線。右手の白い建物は「沖縄県 水産海洋技術センター」。糸満フィッシャリーナ。プレジャーボートやヨット等の係留・駐艇場が利用出来るヨットハーバー。美々ビーチいとまん。中央の建物は「サザンビーチホテル&リゾート沖縄」。糸満市西崎町の街並み。そして那覇空港に着陸。時間は17:57。管制塔は高さ88メートルで、国内の管制塔では羽田空港に次ぎ2番目に高い。管制官が技術を習熟するため、2020年1月から運用を開始している と。海上自衛隊 那覇基地。多くの固定翼哨戒機(P-3Cオライオン)が駐機中であった。そして飛行機を降り、預けた荷物が出て来るのを待つ。そして荷物を受け取り、レンタカー送迎車のバス乗り場へ到着。ABCレンタカーで日産マーチをレンタル。そしてレンタカーで10分ほどで、「タイムズ沖縄西町」駐車場の到着。駐車後24時間最大500円のこれも格安駐車場。駐車場から徒歩5分にて4泊お世話になる「ホテル・アンドルームス那覇ポート」に当到着しチェックイン。もちろんダブルではなくツインの部屋。旅友と夜を共にするのは、2019年の「ルーマニア・ブルガリア」旅行以来3年ぶり。今年も2月に伊豆半島への宿泊旅行したが、初日に旅友の体調不良があり・・・・。トイレと洗面所、風呂。そしてこの日はホテルの近くにあった「味の店 沖縄料理しろま」でこの日の反省会を。カウンターに座り生ビールの後は沖縄泡盛を注文。オススメのマグロの刺身とポテトサラダ等を注文。写真は撮り忘れました。沖縄料理・ニンジンシリシリ。そして私は仕上げにチャーハンを。旅友は沖縄うどんを。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.04
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9月25日(日)から4泊5日でいつもの旅友と沖縄本島に行って来ました。昨年も南九州旅行で利用したNEEDS TOUR(ニーズツアー)社の超格安ツアー。なんと一人27,400円!!料金に含まれるものは、往復航空券代・宿泊料金(4泊ツイン部屋)、レンタカー代金5日分、空港施設利用料(必要な空港のみ)・消費税等諸税。ただし利用便はLCC( Low Cost Carrier)のジェットスターで成田~那覇便。もちろん、宿泊中の食事代は含まれていない。日本ではLCCを「格安航空会社」と呼ぶのが一般的。 LCCの最大の特徴はその名のとおり、航空券の安さ! JALやANAなどの既存のフルサービスキャリア(FSC=Full Service Carrier)より割安な航空運賃を提供している。 旅行や出張で飛行機を利用する人たちの強い味方なのである。1日目のこの日、9月25日(日)は15:05成田空港発で沖縄・那覇までの移動日。いつものように茅ヶ崎に住む旅友が10:30過ぎに我が家に愛車で立ち寄って下さいました。成田空港に向かって我が家を出発。「戸塚警察署」交差点を左折して東海道へ。「横浜新道」へ入る。「横浜新道・戸塚料金所」を通過。「新保土ケ谷IC」を通過。国道1号横浜新道と、国道16号保土ヶ谷バイパスおよび国道16号横浜横須賀道路を接続するインターチェンジ。「横浜新道」から「第三京浜」へ。「首都高速」に向かって進む。「首都高速神奈川2号三ツ沢線」を進む。「金港JCT」を通過。「大師橋(だいしばし)」が見えて来た。「大師橋」は、多摩川に架かる橋で、東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。この橋は川崎市が管理している。「首都高速神奈川1号横羽線」の「高速大師橋」を渡る。東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)に架かる「大師橋」を横に見る。中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る「斜張橋」。「首都高速神奈川1号横羽線」を更に進む。「昭和島JCT」を通過し「東関東道」に向かって進む。羽田空港を離陸した飛行機の姿が上空に。「首都高速湾岸線」を進む。「首都高速湾岸線」から「東関東自動車道」へ進む。酒々井PAにてトイレ休憩。再び東関東自動車道へ。「成田JCT」に向かって進む。「成田」出口に向かって進む。「成田料金所」とその奥には「アートホテル成田」の姿が。「成田料金所」を通過。「成田IC」交差点を右折し「空港通り」へ。正面に見えたのが「ANAクラウンプラザホテル成田」。成田国際空港を見おろす絶好のロケーションに位置。そして、旅友が予約していてくれた目的地の「USAパーキング」の看板が姿を現した。「USAパーキング」入口。コロナ前の海外旅行や国内旅行で利用しているこれも格安駐車場。この場所に旅友の愛車を29日(木)まで5日間預けておくのだ。5日間で税込み2,750円(別に基本料金税込770円)、機械洗車の無料サービス付きとのこと。時間は12:40過ぎでここまで我が家から約2時間。北側には「ホテル日航成田」の姿が。無料送迎車に乗り換えて成田空港第2ターミナルに向かう。「成田航空地方気象台 航空気象ドップラーレーダー」を見る。空港気象ドップラーレーダーは、成田空港を中心とする半径120Km以内の降水域を観測。空中線(アンテナ)から電波を発射し、雨粒などに反射され戻ってくる電波を観測して降水領域の強さ、方向、距離を測定していると。また、戻ってくる電波の周波数の変化(ドップラー効果を利用)から雨粒の移動速度、つまり風速を計算する。航空機の運航に大きな影響を与える恐れのある「低層ウィンドシヤー」と呼ばれる、高度およそ500m以下の風向風速の急激な変化の検出を行っていると。第2ターミナルで送迎車を降りる。道路の反対側にあった第3ターミナル行き連絡バス乗り場まで歩く。第3ターミナルまで340mとの表示があり、徒歩にても可能であったがこの日はバスにて。運行間隔は4分から7分。無料連絡バスに乗り込み出発を待つ。そして第3ターミナルに向かって出発。「ランプセントラルタワー」を見る。1978年の成田空港開港以来、旧管制塔(ランプ中央運用室)でランプコントロール業務を行って来たが、建物が老朽化したことから、近傍に新たなコントロールタワー「ランプセントラルタワー」を設置し、2020年9月10日より供用開始。成田空港では、航空管制官(国土交通省の公務員)が飛行機への指示を受け持つ区域と、ランプコントローラー(成田国際空港株式会社の会社員)が受け持つ区域とに分けられていると。航空管制官は滑走路と誘導路を受け持ち、ランプコントローラーは駐機場付近の区域(ランプエリア)を受け持つ。ランプエリアの飛行機を誘導する仕事をランプコントロールといいますが、他の空港では航空管制官が行うことを、成田空港では成田国際空港株式会社の会社員が担っているのだと。左手に「ランプセントラルタワー」、右手に「管制塔」を見る。そして第3ターミナルで無料連絡バスを降りる。時間は13:14。そして第3ターミナル出発ロビーに向かって進んで行ったのであった。 ・・・つづく・・・
2022.10.03
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」を後にして、「汐見台海岸」に徒歩で向かう。「浜須賀歩道橋」を利用して海岸に。湘南海岸を通る国道134号浜須賀交差点の立体歩道橋である。「斜張橋(しゃちょうきょう、Cable-stayed bridge)」の「浜須賀歩道橋」。「浜須賀歩道橋」のこの場所の左右下にはソーラーパネルが並んでいた。斜張橋は、橋の形式の1つで、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造。ケーブルを利用し吊って支えることから、広義には吊橋の一種と言える。「相模湾」が見えて来た。「浜須賀歩道橋」上から平塚方面を見る。富士山の姿も。ズームして。9月6日(火)に江の島からの「ダイヤモンド富士」にTRYしたが、この「浜須賀歩道橋」も「ダイヤモンド富士」鑑賞の人気の場所なのである。ネットから。2019.9.9と。 【https://twitter.com/chigasaki/status/1171045803533619200】より藤沢方面を見る。斜めの鋼主塔を持つ「浜須賀歩道橋」下のソーラーパネルも見えた。Y字型の歩道橋を海に向かって進む。そして「汐見台海岸」に到着。「汐見台海岸」から茅ヶ崎・菱沼海岸沖にある、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩・烏帽子岩」を見る。正式名称は「姥島(うばじま)」。ズームして。形が「烏帽子(えぼし)」のように見えることから「烏帽子岩」の名で親しまれている。高さは14.6m、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにある。1,200万年前の海底地層が隆起しているものと言われており、砂岩層と火山層が縞模様の地層を造り出している。 昔は、岩の先端部が尾をひいたように長く出ていたが、米軍の射撃訓練の標的として使用されていたため、現在は、先端部分が欠けているのだ。 「えぼし岩周遊船」で間近まで行くことができる。岩を背面方向から見られるほか、江の島をはじめ、天気の良い日には富士山までが見渡せるのだ。もちろん、ここも「初日の出」&「ダイヤモンド富士」の鑑賞スポット。「茅ヶ崎 海・浜の利用ルール」。遊歩道兼サイクリングロードを藤沢方面に進む。江の島の姿を遠望する。ズームして。「江の島シーキャンドル」。「注意この付近の砂浜で旧日本軍のライフル弾等不発と思われるものが発見されました。海中に埋もれていた不発弾が高波等により漂着したと思われます。発見した場合には危険物ですので、絶対に手を触れず下記連絡先まで通報をお願いします。」と。ウッドデッキ(展望デッキ)が設置されていた。この場所に流れ出る川の名は?いや、雨水配管の放流渠なのであろう。ウッドデッキ(展望デッキ)の下には、高潮や高波などを防ぐため、海岸管理者である神奈川県により防潮扉が設置されていた。砂防林には「S24茅ヶ崎市汐見台」と砂防林の管理区域表示が。そしてCの中央に案内板が。「ダイヤモンド烏帽子」の写真の下側に説明文が。「日本初ロケット火薬実験の地JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授 的川泰宣氏の「日本ロケット物語」によれば「1934年(昭和9年)に村田勉博士により日本で最初にロケットの打ち上げ(火薬実験)が行われたのは辻堂海岸だった」とのことです。日本の宇宙開発の第一歩として挙げられるのは、1955年(昭和30年) 4月12日に東京都国分寺市で公開試射された糸川英夫博士のペンシル・ロケットですが、このロケットの燃料に結実する火薬実験地が、当時、横須賀海軍砲術学校辻堂演習場であったこの海岸でおこなわれました。土井隆雄・野口聡一と二人の宇宙飛行士ゆかりの茅ヶ崎は、日本の宇宙開発の黎明にも深く関わってきたことになります。記念地が海岸一帯におよぶことから、2か所に記念碑を建立しました。ほかの一つはここから西約2.5kmの加山雄三通り前海岸にあります。」沖には釣り船の姿が。この日の狙いの魚は?そして遊歩道を引き返しながら富士山の姿を。箱根・二子山の姿も。右が上二子山・1,099m、左が下二子山・1,065m。再び烏帽子岩・姥島を。「カツオノエボシ(クラゲ)に注意! !絶対にさわらないでください!!死んでいても猛毒がります。」と。「カツオノエボシ」をネットから。カツオノエボシは自分で泳ぐことができないため、普段は浮き袋を使って水面を漂っている。ところが毎年5~9月になると、台風などの強い風の影響で沖合から海岸に吹き寄せられる。これがカツオノエボシが海岸に漂着する理由で、この時期は各地で警戒されている。竹製の砂防柵の向こうに、雪のない富士山の姿が。再び帰路に「浜須賀歩道橋」を上って行く。「はますかほどうきょう(浜須賀歩道橋)」と。歩道橋の途中には休憩・展望用ベンチが設置されていた。正面に見える建物はマンション2SLDK 10階建ての「ライオンズガーデン湘南緑が浜」。2SLDKは居室が2つとサービスルームが1つ。再び富士山の勇姿を見る。雲も多少少なくなっていた。ズームして。そして「藤沢土木事務所汐見台庁舎 」の駐車場まで戻る。駐車場の東側には、「海浜自然生態園」があったので最後に立ち寄った。「海浜自然生態園この海浜自然生態園は、湘南海岸の砂防林を模して作られたもので、海からの潮風や飛砂より住宅や道路を守っている植物の観察の場として、開設されました。海浜地域に生育する砂草林内の樹木などの種類を園内のそれぞれのゾーンに配置し、広く知ってもらい、見学いただけるように作ったものです。この広場を皆さんの自然のふれあいの場として、いつまでも可愛がってご利用ください。」「海浜自然生態園」案内図。前方に広がる「海浜自然生態園」。周囲には砂防林が拡がっていた。「砂防林で見られるおもな樹木湘南海岸の砂防林は、潮風や飛砂から、海岸地域の住宅や道路を守っている。単一樹種の林より多様な樹種による林の方が生態的に強いことから、当初から植栽されているクロマツに加え、アキグミ、ウバメガシ、スダジイ、モチノキ、タブノキ、ヒメユズリハ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、ヤマモモ、カクレミノ、ネズミモチ、トベラ、マサキ、シャリンバイの計15種に自然に侵入した樹木を加え、諸害に強い砂防林育成を行っている と。シェルターが2基。木道(ボードウォーク)を進む。シェルターを振り返る。この場所は休憩場や催し物会場として利用されているのであろう。左前方には「四阿(あずまや)」が。この日は花の数は少なかった。「生態園や砂浜で見られるおもな砂草砂草とは、常に潮風や飛砂にさらされる環境で育つのが、ハマヒルガオなどの「砂草」と呼ばれる植物です。「砂草」は、砂浜から砂が飛び去るのを防ぐとともに、みどりや花で砂浜に彩りを添えています。湘南海岸では開発や海岸の浸食により、砂浜が減少したことから、「砂草」が生育できる砂丘が減少しています。」オカヒジキ、コウボウシバ、コウボウムギ、ツルナ、ハマエンドウ、ハマゴウ、ハマダイコン、ハマニガナ、ハマヒルガオ、ハマボウフウが写真付きで説明されていた。そして「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」、「海浜自然生態園」を独り占めし楽しんだ後は、この日の目的地・平塚に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.10.02
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【ソフィー・ジェルマン素数】(ソフィー・ジェルマンそすう、Sophie Germain prime)はフランスの数学者ソフィー・ジェルマンにちなんで名付けられた素数で、2p + 1 もまた素数であるような素数 p のことである。それに対し、2p + 1 のほうを【安全素数 (safe prime) 】👈リンク と呼ぶ。例えば 11 と 2 × 11 + 1 = 23 はともに素数であるので11 はソフィー・ジェルマン素数】、23 は【安全素数 】である。【ソフィー・ジェルマン素数】が無数に存在するかどうかは分かっていない。最も小さいものは 2 である。ソフィー・ジェルマン素数を 2 から小さい順に列記すると2, 3, 5, 11, 23, 29, 41, 53, 83, 89, 113, 131, 173, 179, 191, 233, 239, 251, 281, 293, 359, 419, 431, 443, 491, 509, …「ソフィー・ジェルマン伝説」👈リンク。【ソフィー・ジェルマン素数】かつ【安全素数 】である素数は5, 11, 23, 83, 179, 359, 719, 1019, 1439, 2039, 2063, 2459, 2819, 2903, 2963,…2016年現在知られているものの中で最大のソフィー・ジェルマン素数は 2618163402417 × 2^1290000 − 1 であり、388342 桁の数である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.02
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n^2+n+41=n・(n+1)+41(n は0以上の整数)の形をした素数を【オイラー素数】といいます。「n に 0 から 39 を代入するとすべて素数になる」というレオンハルト・オイラー [1707 - 1783] による発見が由来。例:0^2+0+41=411^2+1+41=432^2+2+41=473^2+3+41=534^2+4+41=615^2+5+41=71...38^+38+41=152339^2+39+41=1601このようにオイラーの素数生成式は連続して40個もの素数を与えます。n=40のときは、40^2+40+41 = 1681=41✕41となって初めて素数でなくなります。10000以下の【オイラー素数】は合計86個。41 43 47 53 61 71 83 97 113 131 151 173 197 223 251 313 347 383421 461 503 547 593 641 691 743 797 853 911 1033 1097 1163 12311301 1373 1447 1523 1601 1847 1933 2111 2203 2297 2393 2591 26932797 2903 3011 3121 3347 3463 3581 3701 3823 3947 4073 4201 44634597 4733 4871 5011 5153 5297 5443 5591 5741 6047 6203 6361 65217013 7351 7523 7873 8231 8597 8783 8971 9161 9547 9743 9941 なお、X^2+X+41 の類似でX^2+X+a (a は2以上の整数)という式を考えたとき、X=0 から a−2 まで代入した値がすべて素数であるような a を【オイラーの幸運数】と呼びます。オイラーの幸運数は a=2,3,5,11,17,41 の6つだけであることが知られています。よって41 はオイラーの幸運数の中で最大の数というわけ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.01
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」の散策を続ける。「1st ふじさわ都市デザイン賞 景観部門 1991.3」。「かながわの花の名所100選海浜自然生態園及び辻堂海岸 ハマヒルガオ平成7年3月神京川県定」。「奨励賞 第37回神奈川建築コンクール」。「二十一世紀に引き継ぎたい「日本の白砂青松100選」湘南海岸昭和六十二年一月十日に「社団法人 日本の松の緑を守る会」。「湘南港 今昔」。「湘南港 今昔湘南港は、相模湾北東部にある「県指定史跡名勝、江の島」の東側に位置し、島の北方約400mの対岸は片瀬東浜海水浴場としてその名を知られています。昭和30年までは小型漁船数隻の船泊まりでしたが、海岸浸食対策として防波堤工事の実施に併せて、この防波堤を利用した2000t級観光船を対象とする観光港が計画されました。その後、昭和39年の東京オリンピックでは、ヨット競技のメインハーバーとして事業費約24億円を費やし、現在の湘南港が完成しました。」「東京オリンピック当時の湘南港」。東京オリンピックのヨットレースの写真。「=これからの湘南港=余暇時間の増大、アウトドア活動の多様化など、海洋性レクリエーションの受け皿として、マリーナ整備への要請が一段と高まってきています。そこで、ヨットの保管隻数の拡大と人々が気軽に訪れることができる開かれたマリーナをめざして、平成3年から湘南港の再整備を進めています。この湘南港は平成10年の「かながわ・ゆめ国体」のヨット競技会場として、また、大規模地震災害時の緊急物資輸送拠点として、今後ますます重要な役割が期待されています。」「現在の湘南港」。円形の「シアター」の外の周遊通路を歩く。前方にも案内板が。「湘南なぎさプラン」。「湘南なぎさプラン湘南なぎさプランの対象地域は、江の島から大磯に至る約19kmです。この湘南海岸の各地域を分析し、特色ある6拠点を設定しています。 (1) 江の島・片瀬・鵠沼海岸地区 (2) 辻堂・菱沼海岸地区 (3) 茅ヶ崎中海岸地区 (4) 相模川河口周辺地区 (5) 平塚海岸地区 (6) 大磯地区この拠点地域を集中的に整備・保全することにより、周辺の地域へ面的波及をはかります。湘南なぎさプランの具体的な推進は、各事業のスケジュールなどを明確にした「湘南なぎさプラン実現プログラム」に基づき、国、県、市町、民間が各種事業の整合を図りながら、総合的に行っています・行政と民間が一体となり事業を進めていくために「湘南なぎさプラン推進協議会」を設置し、行政と地元関係者との連携をとりながら、合理的かつ効果的なプランの推進を図っています。」「湘南なぎさプラン」。「湘南なぎさプラン豊かなみどりと美しいなぎさが生かされた快適ですごしやすい海岸文化ゾーン・湘南。「湘南なぎさプラン」は、緑、海岸、交通、漁業など様々な問題を抱える湘南海岸地域について、21世紀を展望する長期的かつ総合的プランとして、昭和60年7月、「湘南なぎさサミット」において、神奈川県、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、大磯町及び県民の共同作品として確認されました。このプランは、自然環境の保全を基調としつつ、居住環境の整備とリゾートゾーンの整備という目標を持っています。今ある自然を良好な形で子や孫に伝えながら、様々な課題を解決していくという基本的な考え方により、いろいろな事業を進めています。県民の皆様のご理解とご協力により、「湘南なぎさプラン」を推進し、豊かな緑と美しいなぎさが生かされた快適ですごしやすい湘南海岸地域を創造していこうとするものです。」「湘南なぎさプランシンボルマーク色彩により、自然の空と海と陸を表し、さらに、水玉が3つ、順次大きくなることにより、湘南が未来に向かって躍進することを象徴しています。」「湘南海岸」。円形構造の「150インチ大画面シアター」。子供たちの校外学習で使用されている。「宇宙飛行士展示コーナー」として令和3年3月まで使用されていたのだと。当時は「茅ヶ崎市は、土井宇宙飛行士、野口宇宙飛行士という2人の茅ヶ崎ゆかりの宇宙飛行士を輩出しています。次代を担う子どもたちをはじめ、多くの市民の皆さんに宇宙に関する夢を育んでもらい、土井さんや野口さんに続く人が育ってくれることを願い宇宙飛行士展示コーナーを開設しました。2人の茅ヶ崎ゆかりの宇宙飛行士に関する貴重な資料や、宇宙航空研究開発機構(JAXA)提供の様々な資料を展示しています。シアターでは150インチの大画面で「STS-114ミッション」「きぼうの、その先へ~1Jミッション」「野口宇宙飛行士第22・23次長期滞在」ほかを上映しています。定期的に展示内容を更新しています。水圧で動くロボットアームやコスモキューブでも遊ぶことができます。」と。「海のフラッグ1990(平成2)年、人と海のかかわり方を試みながら21世紀に向けた新しい生活・文化づくりをさぐる海の総合イベント「サーフ '90」が開催されました。イベントの一環として新しい「海の時代」にふさわしい「大漁旗」が、粟津潔、浅葉克己、池田満寿夫、岡本太郎、斎藤寿一、日比野克彦、福田繁雄、柳原良平、U.G.サトー、渡辺豊重の各氏により制作され、また、子供たちによる一般公募から配島美穂さん(当時小学校1年生)の作品が大賞に選ばれ、同じく「大漁旗」として制作されました。」壁にかかっていた「大漁旗」。魚が渦を巻いて。福田繁雄さんの「サーフ '90」の作品。2番目の「TSUNAMI」コーナーの前にあった「神奈川県津波浸水予測図の見方」。①南関東地震現在の県・市町の長期における防災目標とする想定地震であり、海岸保全における津波防御目標です。今後50年問の発生確率: 0 ~ 5 % 発生問隔: 200 ~ 400年②神奈川県西部地震現在の地域防災計画で切迫性が指摘され津波被害についても想定される地震です。また海岸保全における津波防御目標です。今後50年間の発生確率:評価なし 発生間隔: 70年間隔③神縄・国府津ー松田断層地震小田原における歴史地震(過去の地震)との関連性について現在議論されつつある地震です。今後50年問の発生確率: 0.4 ~ 30 %発生間隔: 800 ~ 1,300年④元禄型関東地震過去、実際に発生した地震であり、想定地震の中で最大の津波被害を起こすことが予想されることから、沿岸到達図および浸水予測図を作成しました。今後50年間の発生確率: 0.0 % 発生間隔: 2,300年」藤沢市沿岸の「津波浸水予想図〔南関東地震〕」「江の島周辺」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。藤沢市沿岸の「津波浸水予想図 相模トラフ沿いの海溝型地震(西側モデル)」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。藤沢市沿岸の「津波浸水予想図 元禄関東地震タイプ」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。「江の島周辺の浸水深さ」。「新聞記事 スマトラ沖地震の津波被害2004年12月27日 朝日新聞 夕刊」。2004年12月26日午前7時58分(日本時間午前9時58分),インドネシア共和国スマトラ島アチェ州沖でM9.0と推定される海溝型巨大地震が発生したのであった。「津波、1000キロ以上渡る」と。津波がインドネシア、タイ、インド、スリランカをはじめインド洋沿岸に甚大な被害を及ぼした。この津波は5000km以上離れたアフリカ沿岸にも被害を及ぼし、南極の昭和基地でも水位変動が観測されたのだ。「海岸ごみ(海藻は除く)は川から7割」。川からのごみ「人工系」20%:河川から来たビン・カン・ペットボトル・プラスチック製品等の 人工系のごみ海洋発生ごみ3%:放置ゴミ 31%:海岸に来た人が直接海岸に捨てたごみ「自然系」46%様々な「人工系」のごみが展示されていた。「ゾウ×575毎年集める海岸ごみの量は2300トン。なんとゾウ575頭分の重さに匹敵します。みんなの海のために、あなたができること。目分のごみ。持ちろう。」「防砂林・湘南海岸を襲った災害・・・」第2室戸台風(昭和36年)~平成19年台風9号までの台風による砂防林の被害が説明されていた。● 第2室戸台風(昭和36年) 砂防柵が倒れ、残った苗も塩を浴び、砂を被ってしまいました。● 昭和40・41年の台風 潮害でマツの葉が全面的に赤く枯れてしまいました。● 昭和54年 台風20号 各所で防風ネットが倒壊苗が砂を被り、サイクリングロードが高波で崩落しま した。● 平成19年 台風9号 高波でサイクリングロードが崩落しましたが、砂防林には大きな被害はありま せんでした。「なぜ 国道134号の横には木がたくさん生えているの?~湘南海岸砂防林の概要~砂防林の役割神奈川県の湘南海岸では、毎年10月~ 5月頃にかけて、低気圧の通過後など、強い南西風が吹き荒れ、潮風や飛砂で、海岸地域の住宅や道路に多くの被害をもたらしています。湘南海岸砂防林は、こうした災害から暮らしを守るために育てている林です。かっては現在の国道134号が砂で埋まるほどの被害が発生していましたが、現在では、一年を通じて飛砂による通行止めはありません。砂浜の厳しい環境のなか、大きく成長した砂防林は、開発が進んだ沿岸地域において白砂青松の美しい景観に寄与する貴重な緑となっており、さらには炭酸ガスの吸収、騷音軽減、大災害時の火災延焼防止、津波被害の軽減など多様な働きが期待されています。砂防林の歴史昭和3年 昭和天皇の即位記念事業の一環として砂防林の造成に着手昭和16年~ 戦時中の松根油採取のための抜根や、終戦時の極度の燃料不足によるクロマツの 盗伐などで砂防林は荒廃した。昭和21年~ 砂防林の復旧に着手。戦後の砂防林の荒廃は、国道134号に飛砂による通行障害を もたらし、周辺の土地利用にも支障を及ほすなど影轡が大きかった。昭和36年~ 度重なる気象被害で砂防林は全面的に衰退し、地域一帯に飛砂や潮風による被害が 及んだ。相次ぐ被害を受け相次ぐ被害を受け、農林水産省、県林業試験場、 東京大学芝本農学博士らに造林、保護、育成について指導を仰ぎマツの他にトベラ、 マサキを混植、全国で初めて防風ネットを設置し3度目の砂防林整備を実施。昭和58年~ 長期的により安定した砂防林を目ざし、クロマツのほか、常緑広葉樹の混交密植に よる多層林化を目ざし、横浜国立大学宮脇教授の指導のもと、スダジイ、タブノキ、 ウバメガシ等の試験植栽を行う。※これまでに沿岸地域は開発が進み、良好に生育した砂防林は貴重なみどりとして、なぎさを 彩っています。強い砂防林をめざして 砂防林は、クロマツのほかに、十数種類の常緑広葉樹を混交させ、諸害に強い森 林を育成しています。また、防風ネット、砂防柵などの構造物と、砂浜で飛砂を 防ぐ砂草などが一体となって飛砂が道路や住宅に及ばないよう防いでいます。」「--海辺で見られる植物--」「かながわ公園マップ」。「緑の相談所 花情報《冬場の室内植物の管理》」「藤沢土木事務所 汐見台庁舎」案内。「なぎさギャラリー」の入口方向を見る。「こんな海にしたい こんな町にしたい」茅ヶ崎市立 汐見台小学校 2年生 の作品と。奥の方向を振り返って。奥正面に旧・原安三郎氏別荘「松籟荘」の85%に縮小復元された別荘玄関が見えた。通路の壁には多くの絵画も展示されていた。そして入口付近にあった「休憩場」しかし立入禁止、ソファーには使用禁止のテープが。TSUNAMI、「湘南なぎさプラン」の活動、松籟荘の歴史等、多くを学び「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.01
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