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隠居人はせじぃさんComments
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梅寿庵前のロータリーからの向唐門(むかいからもん)またの名を「勅使門」。
總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との
綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれたので、「勅使門」の名を
残しているのだと。
禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の移転記念日の時に開扉されると。

切妻造,檜皮葺の四脚門で,前後に唐破風を付けている。
木鼻や頭貫など彫りの深い細部を備え,両側面の花狭間や組物間彫物などが精緻。
桁行約6mと大規模で,両側に築地塀が延び,仏殿前方の重厚な景観を形造っていた。

そして広い大駐車場の奥まで歩を進める。
大駐車場はかっては竜王池という名の綺麗な池であったとのこと。
ネパール旅行の時に見たストゥーパ(仏塔)の如き慰霊碑。
紋章の上に「大学」の文字が。何の慰霊碑?

鶴見事故慰霊碑。
鶴見事故とは、昭和38年(1963年)11月9日午後9時40分、東海道線新子安・鶴見間の
滝坂不動踏切から、鶴見寄り約500m地点で、脱線転覆した下り貨物列車に衝突した
上り横須賀線電車が脱線し、さらにさしかかった横須賀線下り電車が衝突した
三重衝突事故である。この事故は死者161名、重軽傷者119名の犠牲者を出す大惨事。
私が中学1年の時の出来事、国鉄に勤めていた父にも動員がかかったことを覚えている。

「日本同志援助中国革命追念碑」

2代目の放光観音(ひかりかんのん)像

放光観音像は、本山が能登から移転後15年ほど経った大正14年、本山としての寺容も
整ったことと、 大事業が滞りなく進んでいることを感謝して建てられたものだと。

畜霊塔。
と殺された狂犬病犬や動物たちの霊も慰霊することを目的とし,募金運動を展開し
昭和3(1928)年12月18日供養 式を開催・除幕したとのこと。

寒緋桜 (かんひざくら)、別名「緋寒桜」(ひかんざくら)も赤い蕾を。

釣り鐘状の花が特徴で、葉は秋になると紅葉すると。

「雲水群像」。
雲水群像は昭和49年(1974)寶物殿前に建立された。
雲の行くまま、水の流るるままの拓鉢遍路をして精進する僧を、雲水と呼ぶ。
彫刻家・矢崎虎夫氏が透徹した禅の精神と情熱を傾倒して制作されたのが、
この「雲水群像」であると。
昔、フランス・パリを訪れた時に、ヴァンセンヌの森にも同じ像があったのではと???

宝蔵館「嫡々庵(てきてきあん)」(旧、宝物殿)は金色に輝く擬宝珠(ぎぼし)を
頂いた建物で、開祖瑩山禅師650回大遠忌の記念に建立。

向唐門を内部から斜めに。
泥土をつき固めて作った塀・築地塀(ついじべい)のレンガ色?が
美しかった。

黄金の菊の紋が2つ。

向唐門から三松閣(さんしょうかく)の屋根が。

中雀門(ちゅうじゃくもん)。
中雀とは、鍮石(ちゅうじゃく)、 つまり真鍮の異名、昼を表すのだと。

右手奥には香積台(こうしゃくだい)が。

中雀門に近づくと門の奥に仏殿(ぶつでん)が見えて来た。

百軒廊下(ひゃっけんろうか)。
長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下。
通称「百間廊下」と呼ばれていると。廊下の途中にはそれぞれ、
朝を表す「金鶏門」(東)、昼を表す「中雀門」(中央)、夜を表す「玉兔門」(西)と
呼ばれる脇門(通用門)があるのです。
中雀門は潜る事が出来ない?構造なので玉兎門を潜り歩を進める。

左手の木々の奥には、七堂伽藍の重要な堂宇に大僧堂が。
大僧堂は、雲水僧が集まり来るという意味で「雲堂」、また仏祖を選出する道場の意から
「選佛場」、あるいは古木然として兀坐を行じているので「古木堂」などの名称があると。

百軒廊下の下を潜る通路も。

玉兎門(ぎょくともん)。

百軒廊下の階段部分。

振り返って中雀門を見るとその先に向唐門が。

仏殿(ぶつでん)。
七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」とも
呼ばれています。
中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)を祀っています。
如来は、死の恐怖、病気、四苦八苦など様々な衆生の悩みや苦しみを救済するため、
その具体的な請願によって出現される仏です。尊像は、右手を施無畏印、
左手は与願印の印相をしている。
この印相は、人々の不安をとり除き、あらゆる願いをかなえてくれる大慈悲の心を表現。
ご本尊の脇侍として向かって右は比丘相の迦葉尊者、左には若年美顔相の阿難尊者。

放光堂(ほうこうどう)。
明治44年(1911)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された
記念すべき建物。この堂宇は安政年間(1850年代)に山形・鶴岡の総穏寺本堂として
建立されたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として
中心的な役割を果たしたのだと。

鐘鼓楼は放光堂から衆寮に通じる回廊の中にある。
禅門の行・住・坐・臥、日常生活の合図は、すべて言葉ではなく梵鐘、木版、
雲版、太鼓などの打楽器群の合奏によって、全山に休まず有時を刻み、報知されると。

蟇股(かえるまた)と欄間(らんま)に施された、浪形のみごとな彫刻。

北部玉兎門を潜る。

左手に墓所案内所か?

墓所案内図。

入口に「石原裕次郎氏の墓処」と書かれた札が立っていた。

広大な墓地を案内に従い奥に向かって歩く。

再び案内板。

石原裕次郎さんが永眠している墓。
中央に岡山産の御影石の五輪塔が。

昭和62(1987)年07月17日 午後4時26分、肝癌のために死去 享年52歳。
入口の左右の石には「裕次郎」と刻まれていた。今年ははや没後30年。
元東京都知事の兄の最近の姿をどう感じているのであろうか?

「美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを 逞しき者に更に力を
全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く」 と
石原裕次郎の墓の石碑には、冒頭の石原まき子夫人の詩が刻まれていた。
「日本中で最も愛された男」と称された石原裕次郎のポリシーは、
「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、
人にして貰ったことは生涯忘れるな」だったと。 私は反省しきり!!
![yujiro3[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/1686bc5047e2ed55af5d4a894cbdccdecc807f31.15.2.2.2.jpg?thum=53)
戒名:陽光院天真寛裕大居士。
私の戒名は「陽蜂院菜遠楽仁大居士」か??(笑)。

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