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隠居人はせじぃさんComments
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次に龍潭寺(りょうたんじ)を訪ねる。
寺伝によれば天平5年(733年)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺で
あったが寛治7年(1093年)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。
平安時代から井伊氏の菩提寺であり徳川四天王の筆頭井伊直政、幕末の井伊大老直弼など
井伊家四十代を祀る菩提寺。
元中年間(1384年 - 1392年)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したとも。
戦国時代の永禄3年(1560年)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から
龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり
水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。

龍潭寺山門。
山門は、明暦2年(1656年)の建立と伝えられ、巴瓦(ともえがわら)には
室町期のものも見られると。
扁額は明暦元年(1655年)、第六回朝鮮通信使(家継将軍就任祝賀)の
金義信(号は雪峰)の書による。幕府供応役の彦根藩主井伊直孝公の依頼により
彦根藩滞在中に書いたものを揮毫したもの。

寛永8(1631)年に建立された東門(旧鐘楼堂)。
龍潭寺の中では最古の建造物とのこと。

庫裡(くり)(1815年建立。静岡県指定有形文化財)。
拝観料を支払い、まず庫裏を上がり内部の拝観をはじめた。

庫裡の内部へ入ると建物を支える重厚な柱や梁が目に飛び込んで来た。
龍潭寺は禅宗系の寺院であり、建造物に華美な装飾などはないが、
だからこそ質素な美しさが際立って見えたのであった。

丈六(じょうろく)の仏 (1729年建立)。
木彫寄木造りの釈迦如来坐像で、身丈 2.80m(総丈台座共3.55m)。

本堂(1676年建立。静岡県指定有形文化財)。
ご本尊は虚空蔵菩薩。

また本堂には享保14(1729)年に建立された木彫寄木造りの釈迦如来座像や、
旭英(きょくえい)筆の「龍虎襖絵」などがあった。
そしてこの裏側に龍が描かれていた。

本堂前の、浜名湖を表現しているという普陀落の庭。
正面は仁王門(1987年建立)。

この龍潭寺本堂の玄関から鶯張りの廊下を渡った西側には、江戸時代初期に活躍し、
日光東照宮のねむり猫の作者としても有名な左甚五郎が彫った「竜の彫刻」が。
廊下上部に置かれた「竜の彫刻」の存在感は大きく、訪れる人の目を釘付け。

渡り廊下の先にあったのは大河ドラマにも一部出た、銀閣寺のような朱塗りの楼閣(開山堂)。
内部に入ると井伊家の籠が。しかしかなり小さい籠。
開山堂は、「遠州地方に禅宗を広めた黙宗瑞淵禅師」を祀っているのだと。

御霊屋。
井伊家御霊屋には、元祖・井伊共保公、22代・井伊直盛公、24代・井伊直政公の木像が
安置され、大老・井伊直弼の位牌を初め多くの位牌がお祀りされていた。
江戸時代に建てられ、県の文化財に指定されていると。

龍潭寺庭園。
小堀遠州による池泉鑑賞式庭園は「国指定名勝記念物 龍潭寺庭園」として
国の名勝にも指定された名園。
池泉鑑賞式庭園とは、『池などの水を使った「池泉」を本堂や屋内に座って
「鑑賞」する庭園』のこと。
庭園中央部分。「心」の形の「心字池」は大海を表していると。
正面に見える小高い丘は山の峰、丸く刈られた木は山脈を表現。
5月になればサツキが見頃を迎え美しい姿を示すのであろう。

日本庭園には「蓬莱神仙思想」が多く取り入れられていると。
龍潭寺庭園にも不老不死や永遠の繁栄の意が込められているのだ。
海に見立てた池に浮かぶ岩は仙人の住む蓬莱島(蓬莱岩島 ほうらいがんとう)で、
その左右には海にこぎ出さんとする亀(亀出島)、飛び立つ鶴(鶴出島)が表現されている。

庫裡の展示室にある井伊直虎像(池谷雅之作)。

ご朱印を頂きました。
御本尊の「虚空蔵

鐘楼。
祈りの鐘 で除夜と正月5日間は自由に撞く事が出来ると。
遠江八景「五山晩鐘」の一つ。 方広寺の鐘も同じと。

六地蔵。

井伊家歴代の墓所。

直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に
井伊家を取り仕切った女城主・井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。
正面右に初代の井伊共保、左側には22代井伊直盛の墓。
左側の列の奥から二番目が直虎の墓、一番左手前が直政の墓に。

後醍醐天皇第四皇子・宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう)陵墓。
井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で
死んだと伝えられていると。
皇族の陵墓とあって、みだりに立ち入ることはできなくなっていました。

井伊社。
22代当主となった「井伊直虎」は、苦境に立たされた井伊家を存続させるべく
周辺諸国の様々な圧力や干渉の中を類まれな判断力と領地運営力で乗り切りつつ、
後の徳川四天王となる井伊直政を育て上げ、井伊家再興の礎を築くこととなった。
こうした井伊家と皇室の結び付きは明治期の井伊谷宮創建に際しても変わらず表され、
親王様の御墓整備並びに井伊谷宮御鎮座が井伊家の多大なる貢献によって整ったことにより、
明治八年井伊道政公・高顕公を御祭神として「井伊社」が井伊谷宮本殿横に創建された。

井伊谷宮。
後醍醐天皇の皇子宗良親王を祭神とし、明治天皇の勅命により明治5年創建された新宮、
旧官弊中社。起源は、延享2年(1745年)信濃の旗本知久監物頼久が龍潭寺十世住職獨叟法達の
頼みにより境内に宗良親王の宝篋印塔を建立したことによる。
昭和5年には昭和天皇が奉賛され、昭和58年には今上天皇が皇太子時代に奉賛された。

ご朱印を頂きました。

参道鳥居から井伊谷宮社殿を振り返る。

井伊谷宮の参道入口はここ。

井伊家の祖といわれる井伊共保公出生の井戸を訪ねる。

寛弘7年(1010年)正月、八幡宮の宮司が井戸の端に捨てられていた男の子を見つけた。
その子は七歳までに八幡宮地蔵寺(現:龍潭寺)で養育され、遠州国司藤原共資の養子となり
成人してから当地に戻り、地名を使って井伊共保と名乗り井伊家の祖と云われていると。

井伊家の紋章は、この故事に由来し井戸(井筒)と傍らにあった橘の木となったと。

また、嘉永4年彦根藩主となった井伊直弼が御国入りの際、菩提寺の龍潭寺を参拝され、
この井戸で和歌を詠んだと。
『湧き出づる岩井の水のそこ清み曇りなき世の影ぞ見えつつ』。

井伊直親の墓は浜松市北区細江町の都田川の堤防沿いにあった。
石碑の前の灯籠は、桜田門外の変で討たれた井伊直弼により
嘉永4年(1851)寄進されたもの。

直虎の元許婚・井伊家第23代当主井伊直親の墓。
永禄5年(1562)、家老の小野但馬守が今川氏真にざん言をしたため、直政の父・直親は
弁明に駿河へ向かう道中、掛川城主朝比奈備中守によって謀殺された。

蜂前神社(はちさきじんじゃ)。
直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵。
応神天皇の時代、八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、
八ヶ前の地に本社勧請したのが始まりだといわれる。
直虎書状は浜松市博物館に保管されていると。

社殿。
本殿には、熯速日命を祀る。

境内後方の丘の上の桜も見事。

天王社。

折しも、「井伊直虎は男だった」なる説(小野政次説、井之次郎説)等が新聞等で
賑わっているが、真実は如何に?
そんな状況に対し、NHKでは「ドラマはあくまでフィクション」とのスタンスで通す様子だが、
さりとて視聴者の我々からすれば何かモヤモヤとしたものが胸の中に生まれているのも事実
なのであるが・・・・。
そして更に浜松駅方面に車を走らせ三方原古戦場跡に到着。
戦いがあった場所ついては、三方原台地であるということ以外、詳しいことはわかっていない
のだが、1984(昭和59)年、その歴史を長く伝えようと「三方原歴史文化保存会有志」の
手により、三方原の一角であるこの地に碑が建立されたのだと。
三方原霊園のこの場所を見つけるのに苦戦したが。

若き日の徳川家康が、武田信玄に大敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」。
三方原台地の一角に、この辺りが戦いの舞台となったことを示す碑が建てられていた。

家康はこの敗戦を教訓とし、いかにして勝つか、信玄の戦法を積極的に学び、
その後の数々の戦いに生かしていったといわれているのです。

最後に浜松城を訪ねる。
徳川家康が元亀元年(1570)に築城し、29歳~45歳までの17年間を過ごした浜松城。
天正3年(1575)、徳川家康に仕えた井伊直政は、家康の小姓として仕え、武功を重ねていった。
家康が出世の礎を築き、歴代城主の多くが後に幕府の重要ポストに登用されたことから、
別名「出世城」とも呼ばれている。
現在の天守閣は昭和33年(1958)に、天守門は平成26年(2014)に再建されたもの

浜松城公園内にある若き日の家康像。

浜松城天守を見ながら、桜の下でコンビニ弁当を楽しみました。
残念ながら花見の宴とはなりませんでしたが。

天守門から城内へ。

城内からの天主門。
平成26年3月に完成したばかりの天守門。
櫓門(やぐらもん)という構造になっており、内部を見学することもできる。

徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。
三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、
さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法。
「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、
本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られるのだと。

前身は曳馬城(引間城)で天文年間(1532~54)今川氏の属将飯尾氏の居城であった。
永禄11年(1568)徳川家康が攻略、元亀元年(1570)岡崎城から本拠を移した。
天正5年(1577)本多作左衛門を奉行に任じ曳馬城の城地をも含む大規模な城を築いた。
これが近世城郭としての浜松城である。
以来、家康は17年間在城する。
江戸時代になって諸代大名十二氏二十二代が入れかわったと。

秋葉神社。
家康が浜松城入城の際に勧請した歴史ある神社で、火の神様として有名。
また、浜松の地を争った宿敵・武田家が滅亡した時に、家康は多くの旧武田の家臣を
召し抱えたが、その際に家康への忠誠を誓わせた起請文をこの神社に奉納させていると。

浜松城の天守曲輪の一角、埋門のそばに井戸があった。
当時の井戸と考えられるが、すでに深さは1mほどになってしまっており、水もなかった。

浜松城公園内をしばし散策。
浜松市戦災被爆者慰霊碑。

浜松城公園庭園東門。

綺麗に整備された日本庭園の池の水面には散った桜の花びらが。
散った桜が水の上に帯のように浮かび流れる姿を筏(いかだ)にみたて
「花筏(はないかだ)」と呼ばれています。

野生のリスがいました。
野生といっても、もともとは浜松市動物園で飼育されていたタイワンリスとのこと。

そして浜松ICから第一東名を利用し、途中、中井SAにて腹ごしらえして帰路へ。

旅ともSさんが作成してくれたこの日の行程表です。
ドライブ距離約500kmの井伊直虎ゆかりの地「井の国」を急ぎ巡る旅であったのです。

Sさん、運転お疲れ様でした。ありがとうございました。
-------完--------
江戸東京博物館へ(その10) 2026.05.27
「かんなみ仏の里美術館から江川邸へ」(そ… 2026.04.05
「かんなみ仏の里美術館から江川邸へ」(そ… 2026.04.04