JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

私はイスラム教徒です@ Re:牛久大仏へ(その3)(11/19) New! 神神は言った: コーランで 『 (21) 人…
オジン0523 @ Re:「酔芙蓉」咲く(09/23) 純 白というより既に淡~~いピンクが。 …

Favorite Blog

2025年版・岡山大学… New! 隠居人はせじぃさん

続日本100名城東北の… New! オジン0523さん

【甥のステント挿入… New! Gママさん

ムベの実を開くコツ… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2018.04.03
XML
カテゴリ: 国内旅行
3月20日~22日に2泊3日で久しぶりに妻と下関・萩に旅をして来ました。
早朝、自宅を出発し電車で羽田空港に向かい、ここから山口宇部空港へ。
定刻に山口宇部空港に到着。多くの団体ツアー客が乗り込んでいました。



山口宇部空港から、レンタカーで最初の訪問地の長府毛利邸に向かう。



明治36年(1903)長府毛利家第14代藩主毛利元敏(もととし)によって建てられた邸宅。
明治天皇の行在所(あんざいしょ)としても使われ、現在もその部屋が残されていた。
また、邸内の池泉回遊式庭園は石灯篭、楓、池など絶妙な配置により、安らぎの空間を演出。
紅葉の名所でもあると。



小雨の中、白塀の先にある屋敷表門に向かう。









邸内案内図。



毛利秀元(もうり ひでもと)公像。



毛利秀元は、 ​​ 安土桃山時代 から江戸時代前期にかけての武将・大名。
長門長府藩の初代藩主。毛利元就の四男である穂井田元清の次男として天正(てんしょう)7年に
備中(びっちゅう)(岡山県)猿掛城で誕生。母は村上通康の娘・妙寿院。
正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。
子に光弘、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。
朝鮮出兵に毛利輝元の名代として出陣。のち輝元に実子秀就(ひでなり)が生まれたため分家。
関ヶ原の戦いの後、宗家より3万6000石を分与されて長門(ながと)(山口県)府中藩主毛利家初代となる。古田織部門の茶人としても著名。慶安3年閏(1650年うるう)10月3日死去。72歳。







長府毛利邸正面。




玄関入り口左には入場料200円表示と邸内の四季折々の写真がポスターで。



当時来客用として使われていた玄関。
襖絵は幕末・明治初期の日本画家である川端玉章によって描かれたと。
築113年経っても、色あせることなく美しく保存されていた。




裏側には「白い鷹図と松図」。



武家屋敷造りの邸宅。



書院造の床の間のある部屋。



掛け軸には
毛利秀元公の歌「降し雨も今日を晴とや我君を待ち得し山の甲斐はありけり」。



庭園。



明治天皇 御宿泊の間。
完成間近の明治35年(1902)には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、
当邸を行在所(あんざいしょ)として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、
往時を偲ばせてくれました。
また、津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされているのだと。



ガラスには歪みが有り歴史を感じさせてくれた。



雨に濡れた庭園は風情あり。
ミツバツツジのピンクも美しかった。



吊し雛と七段飾りの雛人形。



長府おさげものひなまつり。
子どもの成長を願い作られたつるし飾り。



7段飾り。







床の間には、咲き始めた雪柳の花が。



廻遊式庭園の池。



庭園からの邸宅。



湧き水による細き流れが池に向かって。



四季折々の表情を魅せる純和風の庭園。



大きな石灯籠とミツバツツジ。



松も見事な姿に。



毛利家展示室。



毛利秀元画像。



「長府毛利家の家紋は「一文字三星」と「抱沢瀉(だきおもだか)」を定紋とし、他に替紋として
「菫(すみれ)」・「五七桐」・「十六菊」を用いました。このうち「桐」と「菊」は天正18年
(1590)藩祖秀元が元服の際、後陽成天皇から紋章の使用を許されたものです。
紋の使用法については細かく文書で規定されており、一般の家庭のように表紋と裏紋等の区別は
なかったようです。
長府藩のような支藩では萩の本藩と区別するため同じ家紋でも微妙に形を変えたものを
使用しています。
有名な「一文字三星」紋を例にとりますと以下に示すようになります。
一文字の「一」の字の書体が萩藩では普通の筆文字ですが長府藩では四角形、徳山藩では舟形、
清末藩では最後の筆抑えがない文字となります。
このうち萩藩と清末藩の違いが分かりにくく混同されているのを見かけます。」と。



毛利藩 藩領配置図。



毛利家 家系図。
毛利元就といえば、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の息子に以下のような教訓を
残したことで有名。
「1本の矢ならば折れる。2本の矢でも折れる。しかし、3本の矢ならば折れない。
兄弟3人が力を合わせれば、家が滅びることはない」
まず、毛利隆元は父の毛利元就より先に死んでしまった。
その後を毛利隆元の息子の毛利輝元が継ぎ、吉川元春と小早川隆景が補佐を務め、
毛利家を守って行く。
しかし、皮肉にも「3本の矢」の逆が起こった。関ヶ原の戦いの時、吉川家と小早川家の
足並みがそろわず、毛利家は東軍の徳川家康に協力したにもかかわらず、広大な領地を減らされ、
周防国と長門国の2カ国を支配するだけなってしまったのだ。



緋寒桜の生け花。



中庭の風景。



見学を終え邸外に。

​​ ​​ ​​

                 ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2018.04.05 19:32:15
コメント(1) | コメントを書く
[国内旅行] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


Re:下関・萩への旅(その1)・長府毛利邸(04/03)  
無料の着物は着なかったのですか
私が行ったのは防府市にある毛利氏庭園でした (2018.04.04 23:40:58)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: