JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.12.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


旅行をご一緒する旅友の女性と旅友Sさんそして私の3人で旅行前の親睦をはかる。
そして翌朝・10月15日のホテルの我が部屋からの朝焼けの光景。



ホテルのフロント横の壁に掲げられていた『東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋 / 歌川 広重 』の
一部を取り出し、アレンジして織り上げた絨毯が。
図の橋の名は矢矧之橋といって、東海道中で一番長い橋で、208間(378m)ある。



こちらが、『東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋 / 歌川 広重 』。
カーブを用いて長さを強調した。川の中は白砂で、水深は浅い。
大名行列が橋を渡っているところであり、向こう側には岡崎城の櫓が描かれている。
家康誕生の城を当時の人は特別の思いでみたであろう。豊臣秀吉が蜂須賀小六と
出会ったのはこの橋である。



ホテルで6時半から朝食を取り早々に出発し、乙川に架かる明代橋を渡る。
この日の「旧東海道を歩く」は御油宿から豊明駅辺りまでを予定。
明代橋から下流を望む、ビルと林の間に岡崎城が小さく見えた。



岡崎城天守をズームで。



名鉄・東岡崎駅前にあった『ようこそ、岡崎へ』の大きな看板。
「岡崎新時代ナビゲーター 竹っちょ」だと。
徳川家康の幼名竹千代(松平、徳川の幼名)からとったもの。



名鉄名古屋本線の豊橋・豊川稲荷方面の「普通 伊奈」6:53に乗る。



定刻に伊奈行きに乗り、御油駅を目指す。



御油駅に到着し、改札口を出ると『御油宿・赤坂宿観光案内』が。



『御油駅』
御油の町は東海道五十三次の御油宿として発展。過去には御油城もあった。
しかし、東海道本線は御油宿を経由せず、 1888 年から 1948 年の間は、現在の愛知御津駅が、
御油駅を名乗っていた。この理由について、勾配を避けるために蒲郡経由で敷設されたのだと。



国道1号線を渡る地下道を通る。
地下道の壁には子供たちの絵が展示されていた。



「この絵は御油小学校の六年生が卒業記念に描いたものだと聞いて、私たちボランティア委員会は
地下道のそうじをしました。みんなの地下道をこれからもきれいに使いましょう」と。



県道374号線の御油橋東交差点に向かって進む。



県道374号線の音羽川に架かる新御油橋を渡る。
右手左側に『御油の松並木資料館』、その先に『音戸橋』が見えた。



『音羽川』と『狂歌入東海道 御油』の銅板の浮世絵。
狂歌は「此ゆふべ櫛やけづらむ妹が髪あけ油てふ宿につく夜は」。




旅人を襲い拉致するかの凄まじい留女が描かれている。
なお「御油」の由来は〝日本書記の持統天皇〟が近くに来た際に油を献上したという伝説からとか。



『新御油橋』。



『行書版 東海道 五十三次之内、御油 / 広重画』。
河原には大きな老木が2本。



そして左手には旧東海道の『御油橋』が。



川沿いを進み旧東海道に突き当たりここを右折して進む。
歴史を感じさせる民家には一面の格子戸が。



旧東海道・県道374号線を再び進むと、左手にあったのが『御油宿』説明板。
ここは『御油宿 鈴木本陣跡(鈴木半左衛門家跡地)』。



隣には判読できない石碑も。




御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ
東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、
わずか十六町(約1.7km)と東海道の宿場間では最も短い距離です。
当初、両宿で一宿分の役割を果たしていた時期もあったようです。
天保14年(1843)頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2

この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です。
本陣とは、参勤交代の諸大名をはじめ、宮家・公家・幕府役人などが宿泊する施設であり、
原則として門・玄関及び上段の間を備えるなど、庶民が利用する旅籠とは 異なっていました。」



その先にあったのが『イチビキ株式会社』。



『イチビキ株式会社 第一工場』。
愛知県名古屋市熱田区新尾頭一丁目11番6号に本社を置く調味料メーカーである。
ブランドステートメントは「おいしさスマイル」。
「イチビキ」の商標は、明治末期から大正にかけて行われた北海道での大豆の買い付けが
由来とされる。当時、大豆の品質を調べる際、「サシ」と呼ばれる鉄の半円筒を俵に刺し、
中の大豆を取り出して良品のみに荷印を打って粗悪品と区別していた。
大津屋(おおつや。現在のイチビキ)の荷印は「スッキリ引いた一本棒」で、
これを「一引き」(いちびき)と呼ばれるようになり、商標および社名の基となったのだと。



イチビキ第1工場の『味噌の館』。



案内板。



『味噌の館』入口。
昔は味噌蔵だったのであろうか。
御油宿で味噌・醤油の醸造を行っているイチビキの工場(蔵)。
明治44年に御油工場に完成したと。桶底の直径が1丈3尺(約3.9m)高さ1丈3尺(約3.9m)
容量約50tという日本最大級の味噌仕込桶が自慢のようである。
一度実物を見てみたいものだ。



旧東海道を左に折れ進むと正面にあったのが『東林寺』山門。
山門前の大きな石柱には、ごゆ(御油)観音と書かれていた。



手水舎。



真新しい『本堂』。



『普益殿』と書かれた扁額。



巴紋に似た紋が。



「東林寺
東林寺は、室町時代の中頃の永享年間(1429~1441)に龍月日蔵和尚によって創建され、
当初「洞元庵」と呼ばれていました。
本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されています。言い伝えによれば、
この如来像は奥州に下る牛若丸(義経)と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏で、
龍月日蔵和尚が当寺に移し、本尊として祀ったとされています。
この寺には、徳川家康が二度も立寄っています。また、芝増上寺の管長祐天大僧正が
たびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。」



見事な先代の鬼瓦も展示されていた。



本堂の鬼瓦を見上げる。
半菊に一の字の寺紋。



東林寺の『飯盛女の墓』。
境内の墓地には、江戸時代から昭和時代にかけての町の名家や有力者が
多く葬られており、
東林寺が御油の中心寺院であったことがうかがえます。この墓地の中央、土塀
寄りのところに、
飯盛女の墓が5つ並んでいた。飯盛女とは宿場にいた遊女のことで、その多くは、生計が苦しい
家や年貢を納めることが困難な
農家が、金を借りるために年季奉公に出した娘たちであった。
御油宿は遊興の宿場として知られ、多くの飯盛女がいたが、彼女らは非常に不遇な立場に
置かれていた。これらの墓石は、旅籠屋の抱え主が飯盛女の菩提を弔うために建てたも
ので、
あまり知られていない宿場町の歴史の一つ
を今に伝えていると。



東林寺の白塀。



そして隣りにあった『清海寺』にも立ち寄る。
西国三十三所観音、九番札所 千手観音の文字が。



三河三十三札所順礼御詠歌
「此のたびは 花のうでなに よももれじ 千すぢの御手の 糸にひかれて」



『本堂』。



境内にあった『三界万霊塔』。
三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、
無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。
また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるもの
すべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。
多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。



『清海寺』を後にし、旧東海道(県道374号線)に戻り更に進む。



連子格子の古民家が右手に見ながら『御油の松並木』に向かって進む。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 15:31:37
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