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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
国道1号線沿いに歩き、しばらく進み、「市場町」の交差点で左の道・県道327号線に入る。
市場町の信号を越えた先に、市場村の解説と藤川宿の案内板が立っていた。
『東棒鼻(ひがしぼうばな)』
藤川宿の東の入口へ到着。棒鼻とは宿場の出入口を指す。
『東棒鼻』
「「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので
「東棒鼻」と呼んでいる。
藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。
なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の
藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の
行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に
石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。
最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、
その存在も認められた。
とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。」
榜示杭『従是西 藤川宿』。
『東棒鼻跡』
「宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。
広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に
入ってくるところを描いたものである。」
安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』
広重は毎年幕府から朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いています。
絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、
ここを棒鼻と呼ぶようになった。
傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の
お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、
八朔とは、旧8月1日のことである。
こちらが本物?の
安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』
地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。
幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に
参加した。図は藤川宿に差しかかるこの行列を迎える様子が描かれている。
愛らしい黒赤二頭の馬。夕雲がたなびく。一行を迎えて犬まで座っているところが面白い。
街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。

道標『藤川』
「京へ46里27丁、岡崎へ1里半、赤坂へ2里9丁、江戸へ78里29丁。」
『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町』案内板。
『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町 ~藤川の歴史と文化を訪ねて~』
秋葉山常夜灯
宿場の出入口付近に、寛政7年(1795)に建立の秋葉山常夜灯が」現存しています。
商家「銭屋」
問屋場跡から家数にして5軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや
旅人の姿を思い出させる味わいの深い建物です。
脇本陣跡(藤川宿資料館)
脇本陣橘屋大西家は中町の東海道北側にあり、明治天皇御小休所の座敷もありました。
昭和30年に藤川村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。脇本陣で
現存するのは門のみですが跡地全体は岡崎市の史跡に指定されています。
現在は宿場町の模型等を展示した藤川宿資料館として利用されています。
十王堂(芭蕉句碑)
元禄期に建立されたと伝えられる藤川の十王堂。
その境内には「ここも三河 紫麦のかきつばた」と詠んだ芭蕉の句碑が建てられています。
これは寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されています。
棒鼻跡
平成4年に、棒鼻モニュメントが復元されました。東は国道一号との分岐点、西は藤川小学校の
前に整備されています。
道標(吉良道)
東海道から左へ分岐する脇道を吉良方面へ通じる道「吉良道」と呼んでいます。
この道は塩の道として利用度の高い道でした。現在でも吉良道の道標が残っています。
藤川の松並木
天保14年(1843)には、34間(「町」の間違い。約3.5㎞)の長さが続いていたと伝えられる
藤川の松並木。昭和38年に市指定の天然記念物になった際には、幹周り2㍍のクロマツ90本が
町の西はずれに約1キロに渡って東海道の左右に立ち並んでいたと言います。 
『むらさき麦栽培地』
「今から三百年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、
これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、
幻の麦となってしまいました。
平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から
下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます。」



棒鼻の冠木門をくぐり、細い道を抜けて右へ鍵の手に曲がり車道にもどる。
『藤川宿の「曲手(かんねんて)』
「地元の人たちは、この辺りを「曲手」(かねんて)と呼んでいる。
曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。
別名「桝形」とも言われている。
藤川宿の曲手は、慶安元年(1648)に、三河代官が藤川宿東端に、約500mほどの街道を
造り、地割りをして市場村の人々を移転させ、加宿市場村を設けたときに、その東はずれを
意識的に道を曲げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から宿場町を守るためとか、
道を曲げることによって、街道の長さをふやし、そこに住む人をふやしたとも言われている。
この付近は、当時、道中記にも書かれて繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、
常夜灯(秋葉山灯篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影を止めている。」




































藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
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