JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.01.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『浄泉寺』を下り、坂道を降っていくと右手にあったのが
『鳴海万福寺』の扁額が掛かる表門。



表門の奥に石段が続き『万福寺』山門が現れた。



階段の途中から、この前に訪ねた『浄泉寺』の鐘楼(右)、納骨堂(左)が見えた。




『手水舎』。



『鐘楼』。



『本堂』。



『万福寺』。
享栄年間 三井右近太夫高行の創建 真宗高田派。 永禄3年(1560)兵火で焼失したが再建され、

明治6年(1873)に鳴海小学校仮校舎となり、校名を広道学校と称した。



境内のツワブキ(石蕗)の花も美しく。



寺務所であっただろうか。



見事な彫刻。



街道に戻って『枡形 を曲がる。



鳴海町本町の旧東海道を進む。



左手に緑生涯学習センターがあるが、敷地手前角にあった石碑には
『旧愛知郡鳴海町役場跡地』と刻まれた石碑が。



ここは現在「緑生涯学習センター
があるが、ここはかつての『東の問屋場跡 であると。



『東海道の宿場 鳴海宿』。
鳴海宿には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、宿の東と西に常夜灯が両方残されており、
約1.5㎞の宿場町であったと。
江戸から87里(341.7km)、京へ38里21丁 人口約3,650人。



『本町』交差点を右に折れると左にあったのが『来迎山誓願寺』。



天正元年(1573)、僧・峻空の開山で、西山浄土宗、山号は来迎山。本尊は阿弥陀如来で
境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。この供養塔は、元禄7年(1694)10月(芭蕉死去の翌月)の
命日に建立された。芭蕉の供養塔としては最古のもので、昭和52年、名古屋市指定文化財に
なっている。芭蕉堂は、安政年間に永井士前という門人の建立で、芭蕉手植えの杉の古木で
彫刻した芭蕉像が安置されている。



徳本の『南無阿弥陀仏名号碑』。
德本上人(徳本上人)の独特の字体で南無阿弥陀仏と書かれていた。
徳本上人は,江戸時代の念仏行者で全国的にも高名であり,ただひたすら「南無阿弥陀仏」を
唱えて日本各地を行脚し,庶民の苦難を救った清貧の思想の持ち主です。
信者は,近畿,東海,北陸,信州,関東地方にまでも広がり,現在でも「徳本講」は引き継がれ,
その気高い生き方は時代を超えて人々に大きな影響を与えて来たと。



境内の奥の石碑の場所を寺の関係者?に教えていただく。



『芭蕉翁』 と刻まれた最古の『芭蕉供養塔』。



「芭蕉最古の供養塔
誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmほどの青色の自然石で、表面に「芭蕉翁」、
背面に「元禄7年(1694年)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。
芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、
その後、翁の門人下里知足の菩提寺である当寺に移された。
芭蕉最古の供養塔で昭和52年市の史跡に指定。」



『芭蕉堂』。
安政5年 (1858)に永井士前始めその門人により建立された。



『碓氷君徳政碑』
鳴海代官だつた碓氷清八郎重治の顕彰碑である。



『碓氷君徳政碑』の文字が確認出来た。



県道に面して建つ『観音堂』。
『聖観世音菩薩』と刻まれた石柱が『観音堂』正面右に。



観音堂の前の道路の向かいにあったのが『鳴海宿高札場』。



『東海道 鳴海宿高札場(復元)』案内板。

東海道 鳴海宿では、江戸時代、宿場に中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に
大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。
この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、
長さ三間、幅一間との記述が残されています(一間:約180㎝、一尺:約30㎝)。
また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した
高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。
現存する鳴海の高札 
高札場には、現存する鳴海の高札8枚のうち①~⑤の5枚のレプリカを掲出しています
①太政官高札:慶応4年(1868年)
 「徒党・強訴・逃敗を禁ず」
②太政官高札:慶応4年(1868年)
 「外国人への乱暴を禁ず」
③江戸幕府高札:正徳元年(1711年)
 「キリスト教を禁ず」
④江戸幕府高札:慶応3年(1867年)
 「駄賃人足賃を記す」
⑤太政官高札:慶応4年(1868年)
 「五倫の道を記す」
⑥太政官高札:慶応4年(1868年)
 「逃散を禁ず」
⑦太政官高札:慶応4年(1868年)
 「キリスト教を禁ず」
⑧行政官高札:慶応4年(1868年)
 「金札の流通の妨げを禁ず」
高札の実物は名古屋市博物館に保管されています

東海道 鳴海宿
 東海道鳴海宿は、東海道五十三次の四十番目の宿場です。東海道五十三次とは、江戸時代に整備された五街道のうちの「東海道」の五十三の宿場のことをいいます。」



そして坂道を上るとその先にあったのが『史跡 鳴海城阯』。



『史跡 鳴海城阯』石碑。



『天神社(鳴海城址)』



『社殿』。
近くの乙子山に鳴海神社の本社があるから、その境外末社の『神明社』のようです。



右手に『成海神社御旅所竣工記念碑』。
まだ新しい石碑。『御旅所」とは、『成海神社の祭神が故地(ふるさと)を訪ねられる際に、
お寛ぎ(くつろぎ)になられるようにと願って造営されたもの』とネット情報より。



『鳴海城跡碑』。




根古屋城ともいい、応永年中(1394-1427)安原宗範の築城といわれる。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、
義元が討たれた後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、
天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。
「尾張志」 は東西75間、南北34間で四面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。」



高札場のある三菱東京UFJ銀行の裏手に真宗大谷派の 『竹林山圓龍寺』 があった。
『竹林山圓龍寺』 は、当初、天台宗の善正寺と称したが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの
前哨戦で寺が焼失し、寛永10年(1633)この地に再建され、浄土真宗竹林山圓龍寺と改称された。



そして下に戻り、道路を渡ると『圓道寺』の『山門』が。
曹洞宗の『庚申山圓道寺 』。



圓道寺は、天正年間(1573-91)の創建で、当初庚申山猿堂寺と称していたが、本堂は有松に
移転し祇園寺となった。一方、旧地に残った地蔵堂は安永3年(1774)に庚申堂と改称し、
昭和17年(1942)に圓道寺となった。



本尊は青面金剛で、山門には『見ざる・聞かざる・言わざるの三猿』が扁額代わりに?



『本堂』。
屋根にも 「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が据えられていた。







本堂の扁額には『庚申山』と。



一面六臂の青面金剛(左)、くくり猿柄(右)。



『青面金剛明王』の幟が並んでいた。



『秋葉社』。



『弘法堂』。




もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 15:49:12
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