JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.02.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

この日は11月24日(日)、近鉄・JR桑名駅前のホテルを7時に出発し桑名の七里の渡しに
向かうが、寄り道をすることに。
国道1号線を長良川方面に北上。



桑名市のマンホール蓋。
揖斐川の流れと「七里の渡し」が描かれているようだ。
橋は現代の伊勢大橋。



こちらは桑名といえば「ハマグリ」。



浮世絵-歌川(安藤)広重「東海道五十三次・桑名」の一部のデザイン。
駐車禁止の文字が入っていた。



そして桑名市参宮通にある『参宮国道』碑に到着。
正時代,木曽・長良・揖斐の三大川は渡船に頼っていたようで,ここに橋を架ける運動が
進むとともに,「東海道国道」が新しくつくられることになりました。
これが現在の国道1号線です.町屋橋から伊勢大橋までの3.87㎞は,昭和6~7年
(1931~32年)にかけて,当時のお金で55万円でつくられました。
その竣工記念として西桑名町(当時)によって建てられたのが,この参宮国道碑.
参宮町の国道1号線の傍らに建っていた。



『参宮国道』碑を横から。



『参宮国道』碑の裏側。
「昭和7年3月竣工」の文字が。



『美濃街道』を桑名・七里の渡しに向けて歩を進める。



『北桑名神社』手前にあった祠。



そして『北桑名神社』前へ。
佐乃富神社、中臣神社、太一丸神明社などを合祀し、現社名に改称。右側に社号標が。
「持統天皇御舊跡」の石碑が左に。
壬申の乱の際、持統天皇が滞在したと伝わっていると。



『北桑名総社北桑名神社由緒書』。



『北桑名神社』の参道を進む。



右手に『拝殿』と『本殿』が。



扁額『北桑名神社』。



『狛犬阿形像』。



『狛犬吽形像』。



『境内社』。



桑名の千羽鶴のデザインのマンホール蓋。
一枚の紙で連続して折れる桑名の千羽鶴として桑名市の無形文化財に指定されている。
[千羽鶴の由来] 
桑名に伝承されている千羽鶴は、一枚の紙から数羽の連続した鶴を折る独特の連鶴です。
これは、江戸時代、長円寺の住職だった魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)によって考案された
連鶴で、2羽から97羽の鶴を、一枚の紙に切り込みを入れるだけで繁いでいく方法です。
義道のこの折り方は「桑名の千羽鶴」と名付けられていると。



そして次に訪ねたのが今中町にあった浄土真宗本願寺派『専正寺』。
『山門』と『三竜山 専正寺』の寺号標。
江戸時代から桑名は蛤で有名。江戸の文政年間に建てられた蛤に対しての感謝と供養の意を
込めた供養塔「蛤墳」が境内にあったた。また長篠城の戦いで有名になった鳥居強右衛門の子孫で、
桑名藩に仕えた代々の鳥居強右衛門の墓も境内に。



「専正寺
真宗本派元正念寺戦後専久寺と合わせて専正寺と称する

この辺りは、江戸時代初期には漁村で、当地名産蛤の貝殻で地面は覆われていました。
文政六年この地の住人谷氏が、これら無尽蔵の貝殼をみて、蛤の供養を思い立ち、
正念寺の墓地に碑「蛉墳」を建てた。もとはlm足らずのものでありましたが、
大正に入り「桑名の蛤」として全国に桑名を宣伝し又商売繁盛をさせてくれた感謝の為、
時雨蛤商の業者によって改築されました。
昭和四十一年十一月二十二日市の有形民俗文化財に指定されております。」


『本堂』。



『本堂』内部。



本尊は阿弥陀如来。



『蛤墳(こうふん)』



「蛤墳
昭和四十一年士月二十二日指定
昔このあたりは漁村で、付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたので文政六年(一八二三)に
今一色に住んでいた谷氏が蛤の供養のために、この碑を正念寺(現在専正寺)に建てた。
碑文は、桑名の狂歌師里沢行業(一雲山人)に依頼したものである.行業は国学者・歌人として
有名だった桑名藩士黒沢翁満の父。
今でも時雨蛤の業者が毎年、供養を行っている。
「あまおふね のりのみ声にはまぐりの 貝の耳にもと めてしのばむ」



八間通りを東に進む。



こちらはマンホールでは無く、広重「東海道五十三次・桑名」のデザインを使ったプレート。



上記と別バージョンのプレート。 こちらは船が3艘。



左手にあったのが曹洞宗(本山 永平寺 総持寺)『法性山海藏寺』。



『本堂』。

本山は福井の永平寺・横浜の総持寺であります。
旧伝によれば、昔は西方村にあって現在地に移りましたが、その時期は明らかではありません。
後年本末改めの際、津の四天王寺より『啅州有暾(タクシュウユウトン)大和尚』を請うて 
当山の改組となりました。
特に当寺は、徳川幕府のお手伝い普請の『宝暦治水工事』における自害者51名の半数に近い
24名の薩摩義士の墓所であります。
(3基は明治までに墓碑湮滅、うち1基は平成6年に鹿児島の遺族の子孫により再建され、現在は22基)」



『さざれ石』。
日本の国歌である「君が代」の歌詞に歌われることで、その名が知られている。
ただし、歌詞中のさざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、
それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、




さざれ石は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を
炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化した
「石灰質角礫岩」を、日本の国歌である「君が代」の歌詞にある巌(いわお)であるとして、
この岩を指してさざれ石と呼ぶことも少なくないと。



『六地蔵』であろうか。




枯れた松の巨大な幹がこの様に置かれていた。



「千本松原の松の木
ここに展示してあります輪切りは宝暦治水工事(一七五四~五五)の際に薩摩藩士が植えたと
される千本松原(岐阜県海津市)に生えていた松の木です。松くい虫被害などにより枯れたため、
平成十八年十月に伐採されこの度 国土交通省木曽川下流河川事務所のご厚意により
寄贈されたものです。
この松の木は現存する中で最も幹が太いものであり千本松原を守る活動を続けてきた人々の間で
「守り松」と呼ばれていたものでした。
(参考)生きていた時の大きさ 幹廻り約3.52m 樹高約29m」


『薩摩義士 墓所』案内板。



『寶暦治水薩摩義士之碑』



『薩摩義士 墓所』。



「桑名市教育委員会指定史跡
  薩摩義士墓所 二十四基
  昭和四十一年十一月二十二日指定
  桑名市北寺町十番地 海蔵寺
宝暦年間、木曽、長良、揖斐三大川治水工事 に際し御手伝普請(おてつだいぶしん)に当った
薩摩 藩士の工事の難関に処してよくこれを克服したが その間悪疫に紛争にまた重大な工事費の
超過 など責任を負って殉職した二十四名の墓所(三名の墓碑は湮滅) である。
この二十四名は凡て割腹した藩士ばかりで 中央は総奉行平田靱負(ゆきえ)正輔
(戒名 高元院殿節岑操大居士 宝暦五年五月二十五日没 行年五十二才)の墓碑である。」



『薩摩義士墓所』中央部。



私のカメラでは1枚には入りきれなかったため、ネットより、」


    【 https://blog.goo.ne.jp/arai1130/e/81a8e9ac8a11016afab342df5bce10a5

海蔵寺に埋葬並びに墓碑建立、再建された薩摩義士二十四名

          右欄 ● 印 は安龍院より改葬
戒名    氏名   没日  死因
實宗玅真居士 本田甚兵衛  宝暦四年九月 九日 割腹
功外宗勲居士 江夏次左衛門    〃  六月 五日  〃 
堅心元固居士 井出上渡右衛門    〃  七月二十八日   〃   〔正面右側〕
荷月良圓居士 音方貞淵    〃  四月十四日  〃 
以心相傳居士 滝聞平八    〃  八月二十九日  〃 
---------- ------- ------------ ---
實田法心居士 濱島喜左衛門  宝暦四年八月二十七日 割腹
實傳要眞居士 永吉惣兵衛    〃  四月十四日  〃 
桂林智昌居士 崎本才右衛門    〃  九月十六日  〃 
月庭楚天居士 藤崎伊右衛門    〃  七月 八日  〃 
本室智空居士 川上島右衛門    〃  十月十九日  〃 
高元院殿節岑操大居士 平田靱負  宝暦五年五月二十五日  〃   〔正 面〕
大運玄道居士 家村源左衛門  宝暦四年十月二十四日  〃 
靑岳徹霜信士 同右、下男長助    〃   〃   〃  〃 
功岩良節居士 野村八郎右衛門    〃  八月十四日  〃 
本窓要源居士 四本平兵衛    〃  十月 七日  〃 
悦岩共忻居士 山元八兵衛    〃  十一月二十一日  〃 
---------- ------- ------------ ---
瑞應玄的居士 鬼塚喜兵衛  宝暦四年十一月二十八日 割腹
提岩智全居士 姓名不詳    〃  八月二十三日  〃 
鎖定要關居士 永田伴右衛門    〃  七月二十六日  〃   〔正面左側〕
靑林宗松居士 前田兵右衛門    〃  八月十九日  〃 
達翁宗本居士 恒吉軍太郎    〃  八月 五日  〃 
秋林宗仲居士 薗田新兵衛    〃  八月二十二日  〃 

●青岳徹相信士の墓石は、二百四十年忌(平成六年)の
 追悼大法要時に、家村源左衛門の子孫家村美代氏(鹿児島市) により再建される。
●即如傅心居士(茂木源助)
 高雲青峰居士(永山孫市)
 右二名の墓石は二百五十年忌(平成十六年)の追悼供養特別大法要記念に
 海蔵寺(二十世代)が再建する。

 この案内板は、顕彰奉賛会元会長 加藤勝巳氏の寄贈による。



『治水観音』。
伊勢湾台風の犠牲者の冥福を祈るものと。




観音さまは三十三の姿に変身して一切の衆生をお導きヽお救い下さると、古天から
伝えられています。宝暦の頃、薩摩義士が治水の大事業を完遂して岐阜、愛知、三重の三県下に
わたる三大川沿岸の百万以上の人々の生活を護って下さった行為は全て観音さまの権化と信じます。
昭和三十四年の伊勢湾台風では有史以来の五千人余の犠牲者がでました。
この度、治水観音と御名を稱(とな)えあげ、ここに安置いたしまして亡き人々の冥福と
国土の繁栄をお祈りする次第であります。
皆さま、朝な観音を想い、夕に観音を念じて下さい。」



海藏寺を後にし、八間通りを東に進むと左手には桑名市消防団の火の見櫓が。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.02 16:28:01
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