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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
八間通りを東に進むと、交差点右手にあったのが『寺町通り』と書かれた木製風アーケード。
ここが『桑名寺町通り商店街』。
桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展した。
永正12年(1515年)頃の連歌師・宗長の手記では「港の広さが5、6町。寺々家々の数が
数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とある。
江戸時代には東海道宿場の整備も行われて、伊勢の国、三重県桑名市は東海道五十三次の
宿場町(七里の渡し)として栄える。
「その手は桑名の焼き蛤」とは、宿場町として栄えた江戸時代につけていただいた
「歴史上最高のキャッチコピー」と言える。
更に、桑名特産品である「志ぐれ蛤」は、当時、松尾芭蕉の高弟の一人である各務支考が、
ここ寺町通り商店街にある本統寺に宿泊の際、「蛤の美味しい時期は11月ごろ」
「それは俳句の季語で言う時雨(しぐれ)の時期」ということで「時雨蛤(しぐれはまぐり)」と
命名したことが始まりという。
幕末~明治期は、豪商諸戸家がおり、その邸宅である「六華苑」は鹿鳴館で有名なイギリス人
建築家ジョサイア・コンドルが設計したものである。
昭和に入ると大きな戦争があり、桑名も空襲を受けた。本統寺の「親鸞聖人像」の傘の穴が
空襲の被弾を今も物語る。戦後の闇市もたち、そんな時代も桑名の商人はたくましく
立ち向かってきたのだと。
『通り井』の説明板があった。
「桑名は木曽川の土砂が堆積してできたとちであるため、海岸に近い所は昔から水質が悪く、
住民は飲み水に苦しんでいました。

正面に赤煉瓦で囲まれた、揖斐川に続く水路(運河)・『住吉入江』が現れた。
『住吉入江』の末端は階段状になっており船の乗り降りが水位に関係なく可能なようであった。
『住吉入江』に沿って揖斐川に向かって北上する。
『住吉入江』を振り返る。
『住吉入江』は右手に折れ揖斐川に繋がっていた。
旧諸戸(もろと)清六邸の総称、『六華苑』と呼ばれる国の重要文化財・名勝が正面に。
六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成した。
本苑には、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計による
4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などがある。
和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産であり、国の重要文化財に
指定されている。また、庭園は国の名勝に指定。
現在は、一般公開され、人々が語らい、憩い、交流する空間として、また、文化を創出する
空間として多くの観光客でにぎわっていると。しかしこの日は改修工事中であった。
元は桑名藩の御用商人であった山田長者屋敷が、明治17年に『日本一の山林王』と言われる
諸戸(もろと)家当主諸戸清六が購入し、その後は店を兼ねた本邸、御殿や洋館など建築されて
拡大していったのだと。
『住吉入江』に近い手前の建物は、現在改修工事中であった。
こちらが『六華苑 日本庭園 旧諸戸清六邸』(ネットから)
薄い青色が目を引く洋館の外壁は、2014(平成26)年に修理と。
『重要文化財 諸戸家住宅 保存修理第3次2期工事』松井建設 と。
なまこ壁野先には古そうな蔵が並んでいた。
古いコンクリート造りの蔵。
『諸戸家煉瓦蔵』。
『住吉ポンプ場』。
そしてここが『六華苑』入口門であったのだろうか。
時間はまだ7:40。
紅葉も始まっていた。
『諸戸家の煉瓦塀の基礎』が芝生の中に。
『諸戸家の煉瓦塀の基礎』案内板。
福島城南線の下を潜る。
ここが『住吉浦』。
揖斐川に臨み松林に二基の石燈籠が風趣を添え、特に満潮時の満水に浮ぶ様は、
水郷ならではの佳景。
その昔この辺りでは、廻船の船溜りで、江戸中期船奉行の歓請で住吉神社が祀られていた。
『住吉神社』。

「住吉神社

俳人 山口誓子作
「水神に守られ冬も大河なり」
碑陰には「昭和四十九年六月 絲遊俳句会」と。
『有本芳水の詩碑』
「揖斐乃ながれのしがらみに にほいあせたる花うきて
波にうたひて波に去る 可もめよ何を鳴き行く可」
大正5年(1916年)につくられた「桑名にて」という詩が彫られているのだと。
『拝殿』
そして『拝殿』と近すぎる?『三の鳥居』。
揖斐川の上流側を見る。
『長良川河口堰』。
「三重県の長良川の河口部に治水と利水を目的に作られた堰(河口堰)。

漁船は蜆(しじみ)の漁か?
遠く名古屋市の高層ビル群がカメラズームで見えた。
『アクアプラザながら』。
映像やパネルで長良川や河口堰について学べる資料館。
『住吉水門』の建屋屋根が左側に。
住吉水門。
高潮堤補強工事に伴う排水機樋管を併設した防潮水門。
ドルフィンゲートと言う方式で、写真だとわかりにくいが、今は「開」状態。
円形の回転体が手前側にもあり、今は屋根状に見える仕切り板をグルっと下に持ってきて
「閉」と成る。
自分でも分かりにくいので、下に他の河川管理事業のウェブサイトから引用した解説図を載せる。
【 https://ameblo.jp/clemonjhonson/image-12442211143-14360960094.html
】
幅12.5m×高9.05m×1門。
住吉水門を渡って、住吉浦を見る。
揖斐川下流、長良川との合流地点が見えた。
七里の渡跡の鳥居が見えた。
七里の渡跡から蟠龍櫓と鳥居を見る。
蟠龍櫓をズームで。
七里の渡跡の大鳥居・「伊勢国一の鳥居」。
「伊勢国一の鳥居」は、20年に一度の式年遷宮ごとに建て替えられる伊勢神宮宇治橋外側の
大鳥居を貰い受けて建て替えられます。この宇治橋外側の大鳥居は外宮正殿の棟持柱として
用いられていた御用材で由緒あるものです。
ちなみに宇治橋内側の鳥居は、内宮正殿の棟持柱として使用されていたのもので、
関宿東追分の鳥居の建て替えに用いられます。
この鳥居が建てられたのは天明年間(1781~1789年)と。
桑名の商人、矢田甚左衛門・大塚与六郎が発起人となり関東地方を廻って寄付を
集めて建立された。
当時は、東海道をまたぐように道路上に建っていたと言われている。
正面から。
七里の渡し場跡にある鳥居は「伊勢国一の鳥居」。
これは、東国から来た旅人たちにとって、七里の渡しから桑名に着くと、この鳥居をくぐって
伊勢国に入る、東の玄関口にあたるから。
『東海道五十三次 七里の渡跡』案内板。
「桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が
七里(約二八キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。
七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間
(一七八一~一七八九)に建てられました。
七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、
人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
昭和三三年(一九五八)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。
昭和三四年(一九五九)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。
現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる
表情を見せています。」
伊勢参宮名所図会「日永追分」。
歌川広重「丸清版・隷書東海道五十三次」より (四日市・日永村追分 参宮道)。![]()
東海道沿いに走る水路・船溜まりを見る。
この水路は桑名城外堀であったようだ。
『宝暦治水』。
木曽三川流域の輪中(わじゅう)地帯の歴史は、水害の歴史であり、水害がおきるたびに田畑は
もちろん、家も流され、家族の誰かが溺れて亡くなっていきました。人々はこうした度重なる
水害に対応するため、村を輪中堤で囲むなど個別に対策をとる一方、水害の大きな原因と
なっていた木曽三川合流を解決することを悲願としてきました。
木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していましたが、三川それぞれの川底の高さは
同じではなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていたため、水が増えるとみな揖斐川の
方へ流れてきてしまったのです。
こうした時代背景の中、宝暦3年(西暦1753年)江戸幕府はこの美濃から1,200kmも離れた
薩摩藩に、幕府の設計に基づいて、人手・お金・材料を負担して工事を実施するよう命令を
出しました。これには、旧高須藩主であった尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が今は実子が藩主を
務める高須藩領や尾張藩領、幕府領を水害から守り、さらに雄藩であった薩摩藩の経済力を
弱めるねらいがあったと考えられています。
薩摩藩ではこの命令に対し、おもだった家臣の全てが集められての会議が行われましたが、
意見はまとまらず、むしろ「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見が
大勢を占めました。
そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)公の意見は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を
水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。
幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、
この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、
その名を末永く後世に残すことができるのではないか」というものでした。
これによって、薩摩藩は幕府の命令に従うことを決め、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は
開始されたのだと。
『蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)』が復元され水門統合管理所となっている。
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名城の象徴として
蟠龍櫓を描いている。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで水を司る聖獣、
航海の守護神として据えられたものと考えられている。
『水門統合管理書』
「水門統合管理所の概要
管理所周辺は、城跡や名所旧跡・リクレーション施設等が整備された公園として、
市民や観光客の憩いの場となっています。
揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを
阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・
川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、
安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。
管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、
建物の設計にあたってこの櫓の概観復元を目指すこととなりました。
伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、
絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけられるよう
推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に
天守閣が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。
桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。
蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)について
このなかでも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う
人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。 歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、
海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる
正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。 蟠龍の名が文献に初めて
表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所絵図」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。
この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、
この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。 「蟠龍」とは、天に昇る前の
うずくまった状態の龍のことです。 龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの
装飾モチーフとして広く用いられています。
蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物
「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。
ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。」
『三の丸公園』のモニュメント。
この先に『九華公園(桑名城跡)』があった。
「九華→くはな→くわな→桑名」ということで、「九華=桑名」とは気づかなかったが、
長良川と揖斐川の合流地点に当たる桑名城跡の本丸・二の丸一帯を整備して公園化した
桑名公園は、七里の渡跡のやや南側一帯である。
昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後百年記念に、桑名町(当時)が桑名城跡の
本丸・二の丸一帯を整備し公園にしたもので、園内には、辰巳櫓跡・神戸櫓跡が残っている。
伊勢国の東入口を表す伊勢神宮一の鳥居。
明治以降は神宮式年遷宮のたびに宇治橋外側の鳥居を削って建て直されている。
1959年(昭和34年)、三重県の指定史跡となった。
ここから桑名宿の東海道53次が再び始まるのでもあった。
『旧跡 七里のわたし』碑。
そしてその左の路地の右手、明治38年創業の老舗料理旅館「山月」の入口下にあったのが
「勢州桑名に過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」の石碑。
桑名の春日神社の青銅大鳥居や、高級な女郎(のいる遊郭)は、桑名には釣り合わないほどである
…といった意味であるとのこと。
更にその先が『桑名宿大塚本陣船津屋跡』。
大塚本陣は、桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。
建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業しているとのこと。
その先の板塀の中にあったのが『歌行燈句碑(うたあんどんくひ)』。
「歌行燈句碑(うたあんどんくひ)
かはをそに
火をぬすまれて
あけやすき 万
明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演する
ため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。
この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。
昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は
船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず
新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化に
あたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が
這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。
自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に
建てられた。」
そしてすぐに旅友の待つ場所に引き返し、旧東海道歩きに戻ったのであった。
・・・ もどる
・・・
・・・ つづく
・・・
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
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