JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2020.02.28
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カテゴリ: 国内旅行
そして、再び『了仙寺』の駐車場に戻る。
駐車していた伊豆バスには葛飾北斎の冨嶽三十六景『凱風快晴』そして『神奈川沖浪裏』の
ラッピングが。『凱風快晴』は『赤富士』とも呼ばれているが、オリジナルに較べて雪の量が
かなり多く描かれていたのであったが。



『了仙寺黒船美術館かわら版』にて了仙寺の所蔵品を紹介していた。




所蔵されています。
教科書やテレビ番相で使用されている了仙寺伝来の書画などの歴史資料・美術品を展示
しています 。」



「了仙寺では、黒船来航を日本人が描いた絵巻物や肉筆画、錦絵やかわら版、長崎や横浜の
南蛮人・異国人の絵、海外で出版・作成された日本についての版画や肉筆画・古地図、
外交関係の報告書や資料など、3,000点を超える黒船・開国コレクションを所蔵しています。」




駐車場前横の土産物屋。



様々なレーザー彫りされた丸玉の人工水晶も並んでいた。



車に戻り次に『宝福寺』を訪ねる。
『宝福寺』手前にあった『下田八幡神社』。



境内にある宝福寺の看板が目立つのであった
米総領事ハリスに仕え、後に非業の死を遂げた、お吉の墓所のある寺。
敷地内にはお吉記念館があった。幕末には日米交渉の際の幕府役人の宿舎にあてられた寺。



『山内容堂 勝海舟 謁見之地 坂本龍馬飛翔の地』石碑が境内左手に。
文久3年(1863)1月、嵐のために下田港に避難してきた土佐藩の船と幕府の船。偶然にも
前土佐藩主山内容堂と勝海舟は、この下田で出会う事となった。
そして、海舟が坂本龍馬の脱藩の罪を許して貰うために山内容堂に直談判したのがここ宝福寺。
龍馬の脱藩の許しを請う為に、海舟が飲めない酒を容堂にすすめられ、ためらうことなく
飲み干した。その時使われた朱の大杯の実物が保存されていると。
ここで許されたことで龍馬の足物が取れ自由に飛びまわれるようになり、まさに龍馬にとって
伊豆下田は「飛翔之地」となったのである。



「八幡山 宝福寺 浄土真木 永禄二年(一五五九)権大僧都了善開基 
嘉永七年(安政元年~一八五四)三月に締結された日米和親条約により下田開港となり日
ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。
ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。
ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や
川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久三年(一八六三)下田に入港した大鵬丸に
乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が
訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。
慶応元年(一八六五)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調錬が行われた。
なおヽ墓地には『下田年中行事』八七巻を書き上げた手井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓が
ある。安政の東海地震(一八五四)後の津浪は本堂の床上まで達した。 下田市」



『八幡山 宝福寺』の境内。




境内右手には巨大な木像が。



龍馬木像『風の夢』  
この木像は、伊豆龍馬会の要請に応え、河津町にある、ログハウスの建築などを手がけ、
静岡県内で唯一「森の名手・名人」に指定された天城カントリー工房の土屋宗一郎社長が制作し、
寄贈された木像とのこと。
名称の『風の夢』は、龍馬が下田の宝福寺で脱藩の罪を許されてから一年半後の
元治元年六月十八日、乗船した長崎丸のシリンダーが故障して下田港に停泊していた勝海舟の下に、
引船の黒龍丸と翔鶴丸を率いて来た坂本龍馬が合流。
下田の町に上陸して「蝦夷地の夢」を語り合っていた事に由来。
龍馬は、幕府に次々と失われてゆく若い命を、蝦夷の開拓に向けることで未来に繋げたいと、
海舟にその準備が整った事を下田で告げているのだと。



『宝福寺 本堂』を正面から。



本堂左手には『幕末下田奉行跡』と書かれた木札が掲げられていた。
この寺は幕末、下田奉行所が置かれた場所でもあり、世界遺産韮山反射炉を造った
江川英龍の息子、韮山代官江川太郎左衛門英武が、農民調練の場にした場でもあると。



扁額『八幡山』。



『唐人お吉記念館』受付の建物。



『唐人お吉記念館受付』案内板。



『龍馬飛翔 山内容堂・勝海舟 謁見の間』案内板。



中には入らなかったので、『山内容堂・勝海舟 謁見の間』をネットから。


      【 http://aitabi.com/guidebooks/izu/?p=2667 】より


同じく『唐人お吉の墓』(新しく改葬されたお墓)。



     【 https://tabisuke.arukikata.co.jp/mouth/30203/ 】より


『宝福寺』前から『寝姿山』の山頂付近の巨岩をズームで。



そして隣りにあった『下田八幡神社』を訪ねた。



一の鳥居。
境内入口は南東向き。
石橋の奥に鳥居が立っており、参道右手に「八幡神社」と刻まれた社号標。
当社の正式名は八幡神社のようだが、
拝殿扁額には「八幡宮」とあり、再建之碑には下田八幡神社とある。



『歌碑』。



『下田八幡神社』境内。
正面に『神門』右手に『鐘楼』。



「下田八幡神社再建之碑
当下田八幡神社は正応年間(一二八八年頃) 既に鎮座せりと伝う
縁起書によれば永正四年(一五〇七年)建設に なる社殿は享和二年(一八〇二年)失火により
焼失、文化四年(一八〇七年)再建さる
爾来百七十有余年に亘り下田の総鎮守 として崇敬をあつむ
昭和五十八年(一九八三年)十一月二十二日不慮の 事故により出火全焼せり氏子崇敬者一同
大いに恐懼奮起してその再建に当る
昭和六十一年(一九八六年)八月十日旧にまさる 権現造りの壮麗堅固なる社殿及び
手水舎新築完成す
このことは神社役員はもとより広く氏子 崇敬者各位の奉賛による一大事業 でありここにその名を
刻し徳を後世に 遺すものである」



『鐘楼』。



『神門』は八脚門。



『神門』下には石像が。
仁王像が石造であることは珍しいのであった。



反対側。



「下田八幡神社の仁王像
江戸時代後期の作と伝えられているこの仁王像は、昭和初期まで参道に据えられ、
見事な均整美を保ちながら満身の力をたくわえ、八幡神守護の睨みをきかせています。
粗い凝灰岩から豪快に彫刻された等身大の石像。
肋骨が浮く無骨な体、歯を剥き出す口元など見慣れた石像とは一線を画す迫力があります。」



階段上に『拝殿』。
江戸中期、再造営の社殿は昭和後期に焼失、権現造りの現社殿は昭和61年(1986)造営。
拝殿は入母屋造り。



扁額『八幡宮』を見上げて。



『力石』。



参道を戻ると、神橋の左にあった『迎神の松』。



老松の幹が横に伸びて。



「ペリー艦隊日本遠征記」からの当寺の写真であるようだ。
ウィルヘルム ハイネはぺリー艦隊に乗っていたドイツ人の画家とのこと。



『迎神の松』石碑。



柳の木も新芽が出てきていた。



「銀座の柳二世
この柳は寝姿山にある「蓮杖写真記念館」に展示してある下岡蓮杖翁が撮ったとされる
「銀座の柳之写真」の複製を贈呈したお礼として銀座金春通り会長であられた故勝又康雄氏と
銀座御門通り会長であらされた故椎葉一ニ氏が育てた「銀座の柳二世」を下岡蓮杖翁生誕の
下田市に贈られたものです。」


市民文化会館の前にあった『1837年製カノン砲』。




第50回黒船祭を記念して米国海軍から贈られたようであった。



第50回黒船祭を記念して米国海軍から贈られた錨も。



道路の反対側にあったのが『宮小路伏見稲荷神社』。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.03.02 11:33:39
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