JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.02.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『大木神社』一の鳥居の斜向かいに当たる民家の塀に、『東海道石薬師宿』の標札が貼ってあり、
鉄柵の隣に東海道53次之内石薬師宿の絵が描かれていた。



『廣重画 東海道五拾三次の内 四日市』。



『廣重画 東海道五拾三次の内 石薬師 石薬師寺』。



元旅籠だった家の壁には陶板で宿の町割りが再現されていた。



『石やくし宿江戸時代の軒並図』。



17.障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく(五歳作)
18.むすべば 手にここちよし 清き水の 今もわきいづる わが産湯の井
19.ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を
20.願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはばや



程なく右手に『石薬師宿 小澤本陣跡』。



東海道石薬師宿は、元和2年(1616)幕命によって設立され、宿の名は当時有名であった
石薬師寺からとった。
この家の前には『小澤本陣址碑』があり、建物には鈴鹿市の小澤本陣跡解説が貼られており、
隣の家の前には石薬師地区明るいまちづくり推進協議会の小澤本陣跡解説が建っていた。
『小澤本陣址碑』。



「小沢本陣跡
東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった
石薬師寺からとった。 大名の泊る宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。
屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には
赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。 国学者萱生由章(1717-75)もこの家の出である。」



隣の家の前に建つ『小澤本陣跡』案内板。



「小澤本陣跡
東海道石薬師宿は元和2年(1616)、幕命によって設立された。 この時から、村名も
宿の名も「石薬師」となった。当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、
寺名をとって村名とした。
大名が泊まるところを本陣といい、小澤家が本陣を勤めていた。 石薬師宿は小高い台地にあり
小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」ともいわれていたという。
小澤家には当時の文書が多く残されており元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の
名も見える。」



『小澤本陣跡』を振り返る。



『小澤本陣跡』の隣に『天野記念館』があった。
天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者であり、記念館前に
天野修一翁揮毫の『天野記念館碑』が建っていた。



入口上の『天野記念館』表札。



「天野記念館
天野修一翁はこの記念館を昭和39年(1964)ふるさと・石薬師町本町のために建てられました。
天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者です。
前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫です。
また、天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげられています。」



天野修一翁揮毫の『天野記念館』碑。



21.天地の あるじとなるも 何かせむ いかでまさらむ 此のゑひ心地
22.これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために
23.日本語 いく千万の 中にして なつかしきかも 「ふるさと」といふは
24.なげくなかれ 悲しむなかれ 日輪は 人間の上を 照らしたまへり



民家の立派な石塀。



『鈴鹿市立石薬師小学校』校門。



『石薬師小学校』の校門脇に『石薬師文庫』があった。
石薬師文庫は、昭和7年(1932)佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。
以前からあった土蔵(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、
伊勢国学に関する多くの版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。



「石薬師文庫
昭和七年、佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したものである。以前からあった土蔵
(今も裏側にある)を文庫とし、本建物が閲覧所として建設され、伊勢国学に関する多くの
版本や写本などを含む貴重な書籍が贈られた。開所式には、明治の元勲田中光顕、
三重県知事などが出席された。本文庫は、神宮文庫と並び紹介されたりしている。






弘綱は信綱の父である。



『歌碑』。



「歌碑
これのふぐら 良き文庫たれ 故郷のさと人のために 若人のために
信綱が石薬師文庫を寄贈するに当たり詠んだ歌であり、歌碑は没後二年祭(昭和四十年)を
期して郷人によって建てられた。」



ふるさとの 鈴鹿の嶺呂の 秋の雲 あふぎつつ思ふ 父とありし日を
傾きて バイクを駆れる 群れが行く 鈴鹿の山は 父祖のふるさと



『石薬師文庫』の旧入り口か。



『空木(うつぎ)・卯木(ユキノシタ科)うのはな』
「酔歩蹌踉 山上憶良 いゆくあとに そひゆく道の 卯の花月夜」
卯の花は空木(ウツギ)の別称であり,4月下旬から5月上旬にかけて見頃を迎える。
佐佐木信綱記念館の玄関先や,佐佐木信綱生家の庭などに植えられている。
佐佐木信綱作詞の有名な歌『夏は来ぬ』の1番の歌詞には,
「卯の花の にほふ垣根に ほととぎす 早も来鳴きて しのび音もらす 夏は来ぬ」
と歌われているのであった。



「竹柏由来(なぎゆらい)
信綱は「竹柏園(なぎその)と号し、信綱はこの号を継ぐとともに創設した短歌結社を
「竹柏会」と名付けた。昭和24年信綱かえあ送られてきた種による樹が平成19年枯れたので、
その兄弟樹から生まれたものを同年後継樹として植え替えた。
本樹は、昭和19年度石薬師小学校卒業生寄贈により植樹したものである。」



『距 津市元標 九里四町十七間』道標。



『佐々木信綱の生家』は美しい竹塀で囲まれていた。



『石薬師文庫』の隣に『信綱生家』があり、その隣に『佐佐木信綱資料館』が建っていた。



『信綱の生家』。



生家前の信綱歌碑
「目とづれバ ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父」



「佐佐木信綱資料館
当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた
佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、 市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、
博士生誕の地に建設したものです。
市では、今回の開館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた
品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。
資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には
「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」の主著三部作をはじめ、 歌集「おもい草」
「山と水と」など多数を保管、展示しています。」



『佐佐木信綱資料館』入口。



「佐佐木信綱記念館
佐佐木信綱記念館は、「佐佐木信綱資料館」「生家」「土蔵」「石薬師文庫」から
成り立っています。
佐佐木信綱は明治5年6月3日、この地に生まれ、6歳まで石薬師で過ごしました。
その後一家は松阪へ移り、信綱が11歳の時に東京へ移ります。 この時、「生家」は
他家の所有となり、鈴鹿市和泉町に移築されました。 昭和7年には信綱は還暦を記念して
「石薬師文庫」を贈り、地域の図書館として現在でも多くの人々に親しまれています。
そして、信綱は73歳から熱海へ移り、昭和38年12月2日、92歳でこの世を去りました。
信綱の没後、昭和45年12月12日、「生家」を再び現在の場所に移築し、佐佐木信綱記念館が
誕生しました。 その後、昭和61年5月28日には、展示施設等を備えた「佐佐木信綱資料館」
が開館し、今日に至っています。」
『登録有形文化財』の銘板がその下に。



この日は月曜日で休館日。



『佐佐木信綱と卯の花の里』案内板。
「石薬師宿
石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。 天領であったこの地に宿駅が
設置されたのは、元和二年(一六一六)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
弘化二年(一八四五)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約一八○軒のうち
旅籠屋が約三十軒、百姓は約一三○軒で全戸数の約七割をしめており、 農村的性格の
強い宿場であった。 街道の中ほどの西側には小沢本陣がありその向かいには園田家が
つとめていた問屋場があった。 当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱
(一八七二~一九六三)の生家で、一家が松阪へ移住する明治一○年(一八七七)までの
幼年期をこの家で過ごした。 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六三年(一九八八)から地区を挙げて
「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。 初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも
白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。」



「石薬師宿
石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が
設置されたのは、元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち
旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約七割をしめており、農村的正確の強い
宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめて
いた問屋場があった。
当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、
一家が松坂へ移住する明治十年(1877)まで、裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六十三年(1988)から地区を挙げて
「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にも、また道端にも
白い可憐な花が咲き、清楚な趣をそえている。」



『佐佐木信綱記念館』、『佐佐木信綱生家』を振り返る。



『東海道 石薬師宿』名所案内。



『石薬師小学校南』交差点を渡る。



県道115号線を渡ると、左手に『石薬師宿』の看板が建っていた。





                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 19:43:13
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