JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.08.22
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カテゴリ: 海外旅行
さらに、Muckross House・マックロス・ハウス内の散策を続ける。
「Explore Our Collections(私たちのコレクションを探訪してください)」という案内。
マックロス・ハウス(Muckross House)内の「 Library(図書室) 」。



壁一面の本棚
背の高い木製の書棚が部屋の壁を覆い、色とりどりの古書がずらりと並んでいた。
19世紀の英国貴族の典型的な書斎のような様式で、学術的・装飾的両面で重厚感が。
手前にあるクラシックなソファは、英国スタイルを象徴するチェスターフィールド型で、
格式高い雰囲気を醸し出していた。
約2,000冊以上の本が革装・金箔装飾・布装丁で並び、主に以下のジャンルをカバー。
・古典文学(英・仏・ラテン語)
・歴史書(イギリス史、アイルランド史、ローマ史など)
・宗教書(聖書、説教集、教父文献など)
・自然科学(博物学、植物、天文学)
・旅行記や地理書(当時の探検記も含む)
・美術・建築に関する図録・版画集



この図書室は、Muckross House(マックロス・ハウス)の内部にある展示室の一つ。
ビクトリア時代に建てられたこの屋敷は、現在は博物館として公開されており、当時の
上流階級の生活様式を再現した内装・家具・蔵書などがそのまま保存されていたのであった。
天井は格子状の装飾パネル(コファード天井) となっており、ビクトリア時代の上流階級建築に
典型的な意匠であると。
天井と壁の境界にはスタッコ(漆喰)による細かい葉模様の装飾が施され 、豪奢(ごうしゃ)な
印象を与えてくれたのであった。

Muckross House – Lookoom

Mr. William Bowers Bourn(ウィリアム・バワーズ・ボーン) 」の肖像画。
アメリカ・カリフォルニア州の大富豪で、 ボーン・ヴィンセント家
(Bourn Vincent family)の当主
ボーン氏はカリフォルニア州のEmpire Mine(金鉱山)の所有者として知られ、莫大な富を
築いた人物 と。
1911年、マックロス・ハウスを娘マウドと娘婿アーサー・ヴィンセント(Arthur Rose Vincent)
夫妻のために購入
その後、家族の悲劇(娘マウドの若年死)を経て、1932年にマックロス・エステートを
アイルランド政府に寄贈した と。



マックロス・ハウスのこの図書室は、19世紀中頃のアイルランド貴族の邸宅における
知的・社交的中心空間として設計された。この部屋は単なる読書スペースではなく、




図書室(Library)を別の角度から。
左側に 大理石の暖炉と金色鏡(オーバーマントルミラー) 、暖炉上には花瓶・燭台・陶器などが
展示され、花束も飾られていた。
キャンドルが2本灯されているクラシカルな燭台があり、その中心には片腕を上げたブロンズ風の
人形彫刻が配置されていた。
その右には、おそらく歴代の所有者や家族の肖像画などが。



右側の燭台とディスプレイ。
King Charles II(チャールズ2世)の文字が。
チャールズ2世(Charles II, 1630–1685)とは?
イングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1660年~1685年)
・ピューリタン革命(清教徒革命)後、父チャールズ1世の処刑を経て、王政復古によって即位。
・宮廷文化の復興、科学アカデミーの支援(王立協会の設立)などで知られる と。



次の部屋は「 Billiard Room 」。



壁面の装飾は鹿の角(トロフィー)。
壁の高い位置に立派な鹿の角を2対掲げており、これは狩猟の戦利品(ハンティング・
トロフィー)。
こうした飾りは、ヴィクトリア朝以降の貴族的アウトドア趣味の象徴であり、特に
「Game Room(猟の部屋)」や「Dining Room(食堂)」に多く見られる と。
中央には大きな装飾壺、周囲には絵付けされたプレート(皿)が美しく配置されていた。
釣りの戦利品としての 魚の剥製(サーモン) が下部に飾られていた。



別の展示棚であり、さらに 豪華で細密な木彫装飾 が。
そして、 青白磁の皿(デルフト風)、伊万里様式風の皿、東洋・洋風を融合させた様々な
図柄のプレート が。
この展示棚下部のガラスケースにも中型の魚(ブラウントラウト?)の剥製が。



左の壁面には18世紀〜19世紀の 海戦画、帆船画 が4枚飾られており、これは 英国貴族の
男性的趣味「戦史・軍艦・征服・植民地支配」の象徴 であったのだろう。



そいて中央にビリヤード台が。



移動して。



右の額には大きく 「BILLIARDS」 の文字が。
これはビリヤードに関する解説文またはルール説明??
他の額縁もすべて文章形式で、ビリヤードのルール、マナー、歴史などが解説されている??



William Bowers Bourn(ウィリアム・バワーズ・ボーン)の肖像画。
・アメリカ・カリフォルニアの鉱山王(Empire Mine所有者)
・娘モード・ボーン(Maud Bourn)のために1911年、マックロス・ハウスを購入
・娘の早逝(1929年)をきっかけに、1932年にマックロス・エステートを
 アイルランド政府に寄贈
・現在のマックロス・ハウス博物館化の礎を築いた人物



そして「 メインホール(Great Hall / Entrance Hall)
来館者がまず足を踏み入れる場所であり、建物全体の格式と上流階級の生活様式を象徴する空間。
このホールは、建物内での中心的な交差点
 ・正面奥右手 → ビリヤードルーム
 ・階段上 → 主寝室階・展示ギャラリー
 ・左側 → 図書室、朝食室、ドローイングルーム等
カーペットは 赤地に金の菱模様の絨毯 =格式の象徴。階段にも同柄が続く。
木製の壮麗な階段は2階ギャラリーへと通じており、光の入る大窓が設置されていた。
天井中央に大型のクリスタルシャンデリア。

Muckross House - Muckross House Killarney
「Stairs(階段)」案内。



メイン階段(Main Staircase)を見上げて。
直線+踊り場+直線というL字型 の典型的な大邸宅スタイルで、登りながら階下全体を

手すり部分はツイスト(ねじり)状の挽物(ひきもの)細工 で装飾された重厚な
木製バラスター(欄干柱)。



2階にあったのが「 Master Bedroom
(主寝室) 」。



廻り込んで。
壁には格式高い服装をした人物の肖像が飾られ、部屋の由緒ある性格を示していた。。
豪華な陶磁器の壺(花瓶)は「ドイツのマイセン様式やフランスのセーヴル磁器の影響を
受けたものか!?。
鹿の頭部の壁飾りにあった。


ヴィクトリア朝時代特有の重厚で華やかな柄の絨毯(カーペット)。



ベッドの上部には立派な天蓋(キャノピー) があり、側面に美しいカーテンが付いていた。
寒さや虫から身を守るためだけでなく、プライバシーの確保や装飾的要素としても重視された。
ベッド左側にある3連の衝立(スクリーン)は、着替えやプライベートな作業時に目隠しとし
て使われたのせあろう。



「主寝室(Master Bedroom)」内の窓際に設けられた ティーセット付きの小卓。
足元のカーペットは、 ヴィクトリア朝の「Axminster(アクスミンスター)スタイル 」に似た




木製のヘッドボードとフットボードを持ち、青緑色のダマスク柄の布で囲われた天蓋
(キャノピー)が特徴的。
二脚のアームチェアと一つの足置き(オットマン)が。



そして、隣接する Nursery(子ども部屋・育児室) へ。
写真右手前には小型のベッドが。サイズや高さから見て子供用ベッドであり、幼少期の子ども
たちが使用していたもの。
白を基調とした軽やかな装飾とシンプルなアイアンまたは木製の構造が特徴。
写真左中央には、長方形の小さな角テーブルと、背の低い子供用の椅子が4脚ほど並べられて。



手前の白木ベッド(シングル)子ども用。
中央にはダークウッドの乳幼児用の柵付きベビーベッド。
このような部屋の構成から見て、この空間は単なる「子どもが寝る場所」ではなく、
育児・教育・日常生活がすべて行われるNursery(ナーサリー)として設計されていた と。
19世紀のアイルランドやイギリスの大邸宅では、 上流階級の子どもたちは専用の部屋
(Nursery)でナニー(乳母)やガヴァネス(家庭教師)と過ごすことが一般的 であった と。

The Children's Bedroom in Muckross House © Marathon :: Geograph Britain and  Ireland

「Master Bedroom(主寝室)」に付随する ドレッシングルーム(更衣室・洗面室)。
左手前には 木製の便器チェア(commode chair)。
実用的な家具付きトイレ。蓋つき椅子に陶器製のポット(便器)が組み込まれていたのだと。
現代の水洗トイレ普及以前に上流階級の室内用として使用された と。
中央左には、 白い楕円形のバスタブ。ポータブルな寝室用バス(hip bath)
給仕人が湯を運び入れて使用 した と。

Muckross House Tour – Muckross House Tour

木製の便器チェア(commode chair) に近づいて。



左端の肖像画は女性の胸像で、当時のドレスと髪型からヴィクトリア朝中期〜後期の人物か?
マックロス・ハウスの歴代の住人の女性の一人か?。
中央の風景画2点は湖や山、森を描いたアイルランドの風景画と思われ、ケリー州周辺
の景勝地を描いた作品か?。



「Emily Julia Keane(エミリー・ジュリア・キーン) 」 
この女性は、マックロス・ハウスの初代当主ヘンリー・アーサー・ハーバート(1815–1866)
の息子、 ヘンリー(ハリー)・アーサー・ハーバート(1840–1901)の妻 です。
すなわち、 マックロス・ハウスにおける第2世代の女性当主 にあたります と。



「Emily Julia Keane (1848 – 1911)
wife of Captain Henry (Harry) Arthur Herbert
(1840–1901,
by John Butler Yeats.」 

【エミリー・ジュリア・キーン(1848年–1911年)
ヘンリー(ハリー)・アーサー・ハーバート大尉(1840年–1901年)の妻
ジョン・バトラー・イェイツによる作品】



The Herberts of Muckross
Large areas of Munster were seized by the English Crown following the collapse
of the Desmond Rebellion in 1583.

Three years later Queen Elizabeth I granted lands at Castlelough, near Killarney,
to the Welshman Sir William Herbert of St. Julians.
By the early eighteenth century members of the Herbert family had settled at Muckross.
Henry Arthur Herbert
He was the eldest son of Charles John Herbert (1785-1823) and his wife
Louisa Middleton (1796-1828).
Henry Arthur Herbert was born at Muckross.
By the time Henry was thirteen years of age his parents and younger brother, Charles,
had died. Having spent much of his early years in England, Henry inherited the Muckross
estate in 1837 and immediately set about improving the estate. He built new farm
buildings, school and a church in Cloghereen (Muckross) village.
Cloghereen (Muckross) July 1833」 

マックロスのハーバート家

1583年、デスモンドの反乱の崩壊後、イングランド王室はマンスター地方の広大な土地を
接収しました。

その3年後、エリザベス1世はキラーニー近郊のキャッスルローの土地を、セント・ジュリアン
出身のウェールズ人、サー・ウィリアム・ハーバートに与えました。
18世紀初頭までには、ハーバート家の一族がマックロスに定住していました。

ヘンリー・アーサー・ハーバートはマックロスで1815年に生まれました。

彼はチャールズ・ジョン・ハーバート(1785–1823)とその妻ルイーザ・ミドルトン
(1796–1828)の長男として生まれました。
ヘンリーが13歳になるまでに、両親と弟チャールズはすでに他界していました。若年期の多くを
イングランドで過ごした彼は、1837年にマックロスの領地を相続し、直ちにその改良に取り組み
ました。彼は新しい農場の建物、学校、そしてクロヒリーン(マックロス)村に教会を
建設しました。

クロヒリーン(マックロス) 1833年7月】



Mary Balfour & Henry Arthur Herbert
Mary (1817–1893), daughter of James Balfour and Lady Eleanor Maitland of East Lothian, Scotland was a talented writer and artist.
She met Henry Arthur Herbert (1815–1866), while holidaying in Rome with her family
during the winter of 1835.
Charles Balfour had helped to educate Henry at Cambridge University and was then
enjoying a European tour.
James Balfour agreed to the marriage of his daughter Mary to Henry as he considered
the latter to be a responsible, intelligent and admirably wealthy young man.
The young couple were married by William Gladstone at the Balfour family home,
on the 25th of September 1837.
Upon their return to Muckross, Henry and Mary lived in Torc Cottage, before moving
into a house that stood at the foot of Torc Mountain.
Soon afterwards, William Burn, the Scottish architect, was engaged to design the present Muckross House, which was completed in 1843.」 

メアリー・バルフォアとヘンリー・アーサー・ハーバート
メアリー(1817年–1893年)は、スコットランドのイースト・ロージアン出身のジェームズ・
バルフォアとレディ・エレノア・メイトランドの娘で、才能ある作家・芸術家でした。
彼女は1835年の冬、家族と共にローマで休暇を過ごしていた際に、ヘンリー・アーサー・
ハーバート(1815年–1866年)と出会いました。
チャールズ・バルフォアはケンブリッジ大学でのヘンリーの教育を助けた人物で、そのときは
ヨーロッパ旅行中でした。
ジェームズ・バルフォアは、ヘンリーのことを責任感があり、知的で、非常に裕福な若者だと
考え、娘メアリーとの結婚を承諾しました。
若い2人は1837年9月25日、バルフォア家の邸宅でウィリアム・グラッドストン
(※後の英国首相)によって結婚式を挙げました。
マックロスに戻った後、ヘンリーとメアリーはまずトーク・コテージに住み、その後、
トーク山の麓にあった邸宅に移り住みました。
その後まもなく、スコットランド人建築家ウィリアム・バーンが現在のマックロス・ハウスの
設計を依頼され、1843年に完成しました。】



Muckross – the mid-19th Century
Henry and Mary enjoyed a high social profile.
Henry was elected to the Irish Parliament in 1847 and briefly occupied the position of
Chief Secretary for Ireland in 1857.
The high point of the Herberts' ownership of Muckross was the visit of Queen Victoria,
with members of her family, in August 1861.
Thereafter, Henry appears to have suffered from ill-health and he died in February 1866.
Mary and Henry had four surviving children.
Their eldest son, the so-called Harry, but whose real name was Henry Arthur Herbert
(1840–1901), inherited Muckross.
Soon after his father's death, Harry married Emily Keane, in 1868, and his mother Mary
also settled in London.
Harry and Emily had three children together but were divorced in 1882.」 

マックロス ― 19世紀中頃
ヘンリーとメアリーは非常に高い社会的地位を享受していました。
ヘンリーは1847年にアイルランド議会の議員に選出され、1857年には短期間ながらアイルランド
主席秘書官の職にも就きました。
ハーバート家によるマックロス所有の最高潮は、1861年8月にビクトリア女王とその家族が
訪問したことでした。
その後、ヘンリーは健康を害し、1866年2月に亡くなったとされています。
メアリーとヘンリーには4人の子どもが生き残りました。
長男は「ハリー」と呼ばれましたが、本名はヘンリー・アーサー・ハーバート(1840–1901)で、
マックロスを相続しました。
父の死後すぐの1868年、ハリーはエミリー・キーンと結婚し、母メアリーもロンドンに居を
構えました。
ハリーとエミリーは3人の子どもをもうけましたが、1882年に離婚しました。】



この肖像画の人物は「 EDWARD AMPHLETT 1824~1887 」。



ネットから。
マックロス・ハウスとは深い結びつきがある人物であるとのこと。

Documents and Papers relating to the Herbert family

Muckross: the late 19th Century
From the 1870s onwards the Muckross Estate was heavily mortgaged to the Standard Life Assurance Company of Scotland.
Following his divorce, Mary Herbert spent time in America and Muckross was let out for its hunting, shooting and fishing.
Retired Captain Edward Amphlett periodically leased the estate for this purpose in the late
1870s and 1880s.So too did Mr. Ralph Sneyd, who left the estate in the late 1890s.
The Standard Life Assurance Company foreclosed on the Herbert mortgage in 1898.
A year later, following another auction that gave rise to Lord Ardilaun, of the Guinness
brewing family.
He, in turn, sold it in 1911 to Mr. and his wife Agnes. They presented Muckross as
a wedding present to their daughter Maud, upon her marriage to Arthur Rose Vincent of CooIanla, County Clare.
Following Maud’s early death her parents gifted Muckross to the Irish people.」 

マックロス:19世紀後半
1870年代以降、マックロス・エステートはスコットランドのスタンダード生命保険会社に対して
多額の抵当権が設定されていました。

メアリー・ハーバートが離婚した後、アメリカに滞在することが多くなり、その間マックロスは
狩猟・射撃・釣りの目的で貸し出されました。

退役大尉エドワード・アンフレット(Edward Amphlett)は、この目的で1870年代後半から
1880年代にかけてこの地所を借りていました。
その後、ラルフ・スニード氏(Ralph Sneyd)も利用し、1890年代後半に退去しています。

1898年、スタンダード生命保険会社はハーバート家の抵当権を差し押さえました。翌年の
オークションでは、ギネス醸造家一族のロード・アーディローン(Lord Ardilaun)が
購入しました。

彼はその後、1911年にマックロスをボーン氏とその妻アグネス(Agnes)に売却しました。
夫妻はこれを娘モード(Maud)への結婚祝いとして贈り、彼女はクレア州クーランラの
アーサー・ローズ・ヴィンセント(Arthur Rose Vincent)と結婚しました。


モードが若くして亡くなった後、両親はこの地所をアイルランド国民へ寄贈しました。】



マックロス・ハウス(Muckross House)内の「 Children's Staircase(子どもたちの階段) 」と
呼ばれる階段の上部の様子
この階段はおそらく、子ども部屋やナーサリー(nursery)に通じる使用人階段的な役割を
果たしていたと考えられます。



階段を下る。
「Children's Staircase(子どもたちの階段)」の下り方向を撮る。



マックロス・ハウス(Muckross House)内に復元・展示されている
ヴィクトリア時代の トイレ(化粧室)の一室
白い陶製の基礎台(pedestal)の上に、木製の便座と蓋が載せられていた。
背後には木製のタンクがあり、内部に水を蓄える構造 と。(early flushing toilet の初期型)。
このタイプの便器は19世紀後半~20世紀初頭にかけて広く使用され、上流階級の邸宅に多く
見られたのだ と。




                                                                                   ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2025.08.22 18:15:03
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