JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.06.03
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カテゴリ: JINさんの農園
E6ー3 庶民の旅と祈り 」。



庶民の旅と祈り
江戸時代には、街道や宿場の整備もあって、参勤交代で往復する武士の旅はもとより、
生産や江戸を往来する商人の旅や、信仰・物見遊山に出かける庶民の旅が発達した。
江戸市中や近郊には、浅草寺や七福神など、さまざまな神仏への参詣地が数多く設けられた。
これらはしだいに江戸名所として多くの出版物によって全国に紹介され、江戸の人ばかりで
なく地方から来た人々の江戸めぐりをさかんにさせた。
さらに人々は、講をつくり、伊勢・大山や富士山、江ノ島、成田、善光寺などへの参詣や
物見遊山の旅をおおいに楽しんだ。参拝を兼ねて観光・名所めぐり、各地の情報を見聞して
帰ってくる当時の旅は、日常生活を活性化する役割も果たしていた。」



関東主要参拝旅行地
Major Worship Destinations in Kanto
関東地方での参拝は、坂東や秩父の観音巡礼、利根川の舟運を利用した鹿島・香取詣でや
成田詣でがさかんであった。東海道を利用した大山や富士山への登拝も行われた。
In the Kanto region, pilgrimages to the sites of Kannon worship in Bandō and Chichibu, pilgrimages to Kashima and Katori Shrines using Tonegawa River’s boat transport, and pilgrimages to Narita were popular. Pilgrimages to Mount Ōyama and Mount Fuji
were also made along the Tōkaidō Highway.
秩父34カ所観音巡礼地
1 四萬部寺  2 真福寺  3 常泉寺  4 金昌寺5 語歌堂   6 卜雲寺  7 法長寺  8 西善寺
9 明智寺   10 大慈寺  11 常楽寺   12 野坂寺13 慈眼寺   14 今宮坊  15 少林寺   16 西光寺

25 久昌寺   26 円融寺  27 大淵寺   28 橋立堂29 長泉院   30 法雲寺  31 観音寺   32 法性寺
33 菊水寺   34 水潜寺
坂東33カ所観音巡礼地
1 杉本寺  2 岩殿寺   3 安養院    4 長谷寺
5 勝福寺      6 長谷寺     7 光明寺    8 星谷寺
9 慈光寺    10 正法寺   11 安楽寺   12 慈恩寺
13 浅草寺  14 弘明寺   15 長谷寺   16 水澤寺
17 満願寺  18 中禅寺   19 大谷寺   20 西明寺
21 日輪寺  22 佐竹寺   23 正福寺   24 楽法寺
29 千葉寺  30 高蔵寺   31 笠森寺   32 清水寺
33 那古寺
地図中の主な参拝地・山岳
・日光東照宮・中禅寺
・榛名山
・赤城山
・妙義山
・筑波山
・大山
・富士山
・七面山
・箱根権現
・江の島
・鹿島神宮
・香取神宮
・息栖神社
・成田山新勝寺
・平間寺川崎大師
・大國魂神社(六所宮)
・中山法華経寺
・鹿野山神野寺
・鋸山日本寺
・千光山清澄寺
・信州善光寺
・甲斐善光寺
・身延山久遠寺
右側の浮世絵タイトル
・富士詣で
・大山詣で
・江ノ島詣で
・成田詣でこの展示は、江戸時代の庶民にとって「旅」が、単なる信仰だけでなく、
・仲間との娯楽名所巡り・情報収集・土産文化を含む大きな楽しみであったことを
 示しています。特に江の島・大山・成田などは、現在の観光旅行に近い賑わいを
 持っていました。」



富士詣で

富嶽三十六景 詣人登山」葛飾北斎/画 」。

冨嶽三十六景 諸人登山 | 葛飾北斎 | 収蔵品詳細 | 作品を知る | 東京富士美術館(Tokyo Fuji Art Museum, FAM)

大山詣で
諸国滝廻り 相州大山ろうべんの瀧 葛飾北斎/画 」 

Katsushika Hokusai 【その他】 「諸国滝廻り 相州大山 🎳 ろうべんの滝」

江の島詣で。
「相州江之嶋弁財天開張参拝群集之図」歌川広重/画
」。

江の島観光情報 - 江の島さんぽ

成田詣で
「御礼参り贔屓船之図」歌川国資(初代) /画。

藤澤浮世絵館・『江戸の祭神 弁財天と不動明王』展へ(その5) | JINさんの陽蜂農遠日記 - 楽天ブログ

「旅中必携 五海道中独案内記




旅中必携 五海道中独案内記
(りょちゅうひっけい ごかいどうちゅうひとりあんないき)
The five main highways Guide Map
1851年(嘉永4)秋
養山堂甲良/撰・誌
須原屋茂兵衛/他17名板
五街道(当時は「五海道」とも記された)の経路を表した地図。五街道とは、江戸時代の
代表的な5つの街道のこと。持ち運びに便利で、広げて見やすいよう、折り本の形に
製本されている。」


七ざい所巡 道しるべ旅行便覧 」。


七ざい所巡 道しるべ旅行便覧
(しょめぐり りょこうびんらん)
Guide book to famous spots, temples, and shrines between Edo to Kyoto
1804年(文化1)
※初版は1761年(宝暦11)
行田養翁/著
前川六左衛門、奥村喜兵衛/発行
江戸から京都へ上る道中にある名所を案内したガイドブック。寺社の紹介が主であるが、
“あまざけ有”などの周辺情報も載せている。七ざい(在)所巡りとは、畿内方面の巡拝を
指している。」 



参拝と霊場の旅
江戸中期以降には、人々は積極的に信仰や行楽の旅にも出かけた。
「一生に一度はお伊勢詣り」の言葉にはこうした当時の人々の信仰と旅への思いが
示されている。
関東一円では、坂東、秩父の観音巡礼、利根川の舟運を利用した鹿島・香取詣でや成田詣でが
流行し、遠く善光寺や西国巡礼も京や大坂の名所めぐりとセットで行われた。
関東には信仰の山が多い。とりわけ大山や富士山、高尾山、武州御嶽山への登拝は、
講を形成し、代表を山へ送る代参の形で行われた。」 



大山講納太刀(複製) 」 



廻り込んで。
太刀の銘文(判読可能部分)
奉納 大山大聖不動明王石尊大權現 」。



旅行用心集 」。


様々な旅の携帯品。



早道(銭入れ) 」。


ネットから。

Photo.06 鹿革早道

江戸の富士塚
Fuji Mound in Edo
旧暦6月1日の富士山山開きの日、富士山へ登拝する代わりに、多くの人々が江戸市中に
築かれた富士塚に詣でた。
On Mt. Fuji’s “opening of the mountain” day on the first day of the sixth month of the lunar calendar, many people went to the Fuji mounds (fujizuka) built in the city of Edo instead of climbing Mt. Fuji to worship.
図版キャプション
・「名所江戸百景 目黒新富士」 歌川広重/画
・「駒込富士塚」『江戸名所図会』」



「名所江戸百景 目黒新富士」 歌川広重/画  をネットから。

目黒 新富士 東京目黒区 歌川広重 江戸百景 レトロ 浮世絵 印刷物風景 富士山 目黒新富士」−水が絵師を繋いでる?!−『名所江戸百景」|おうよう

「駒込富士塚で」『江戸名所図会』 をネットから。

東京の富士塚 74ヶ所 | 江戸御府内千社参詣

E7 文化都市江戸 」。



E7-1 江戸の文化交流



E7-1 江戸の文化交流 」。


大山街道の道標(複製)


大山街道の道標(複製)
練馬区・内田之氏原蔵
Signpost to Oyama
1753年(宝暦3)
内田久右衛門・並木庄左衛門/願主
大山を信仰する下練馬村の名主が願主となり、天下泰平・交通安全を祈願して建立したもの。」


江戸の文化交流
全国から人々が集まり、各地の情報が集結する江戸には、人々が身分を越えて交友を結ぶことを
容易にする、都市独特の自由な雰囲気があった。そこでは大名、諸藩の武士、さまざまな職種の
町人、地方の文人たちが、自らの興味と関心のおもむくままに同好同学の士として集い、
互いに文学・芸術・学問の成果を競い高め合っていた。
18世紀後半の宝暦、明和、安永ころから幕末にいたるまで、江戸にはこのような文化サロンが
次々と生まれ、文化の創造に大きな役割を果たした。こうした人々の自由な交流によって、
多様な文化が生み出されたことは、江戸文化の特質の一つといってよい。」


『吉原細見(よしわらさいけん)』
Guide to Shin-Yoshiwara
(Yoshiwara Saiken)
1797年(寛政9)
蔦屋重三郎/版
吉原細見は吉原の案内ガイドブックであり、単に“細見”とも呼ぶ。
最初は一枚刷りであったが、のちに横本形式の小冊子となる。1773年(安永2)に
新吉原大門前に書肆(=本屋)を開業した蔦屋重三郎が、1775年(安永4)に竪本にして
以来この形式が定番となる。」


『吉原楊枝(よしわらようじ)』
Yoshiwarayouji
1788年(天明8)
山東京伝/著  北尾政演/画
遊郭などでの遊び方を描いた洒落本のひとつ。吉原楊枝の精が吉原の遊びを論じている。
精神論や客と遊女の細かい観察など、幅広い内容となっている。」


『手藝の清水(てわざのしみず)
Tewaza no Shimizu : the book of flower arrangement
written issue by Tsutaya Jūzaburō
1777年(安永6)
清水燕斎/著 北尾重政/画
蔦屋重三郎/版
本書刊行の3年前の1775年(安永4)、蔦屋重三郎は、遊女を挿花に見立てた遊女名や
髪句評判記『一目千本』を出版し、販売元としての活動を開始した。
本書は、同評判記の図を転用したもので、遊女名や発句などを削り、華道書に仕立て
直したものである。」 


江戸の文化サロン
ともに趣味・学芸を楽しむ文化グループは、18世紀後半から多く登場した。平賀源内の
物産会は本草学を発展させ、大久保巨川と旗本大久保甚四郎の絵暦の交換会から錦絵が生まれ、
大田南畝や山東京伝とその仲間が江戸文芸に革新をもたらし、大槻玄沢の学塾に集う人々が
蘭学興隆の担い手となった。
文化サロンの中心にいた文化人の身分や職業もさまざまで、柄井川柳は浅草の町名主、
狂歌スキヤ連の鹿津部真顔は汁粉屋の主人、同じく伯楽連の石川雅望は馬喰町の宿屋の主人で
あった。好学の大名池田定常(鳥取新田藩)、姫路藩主の弟で画家の酒井抱一なども、
多くの同好同学の士を集めた。
こうした文化グループの機能は18世紀フランスの《サロン》にも比べられ、いわば
「江戸の文化サロン」といってよい。江戸サロンは文化の源泉で、そこで生まれた作品を
本屋が出版し、なかでも自らサロンを持ち作者らと交流を深め、江戸出版に革新を
もたらしたのが蔦屋重三郎である。」



『絵本吾妻遊(えほんあずまあそび)』
Picture Book Amusements of Edo.
1790年(寛政2)初春序
寄々羅金鶏/著 喜多川歌麿/画
蔦屋重三郎/版
狂歌師の寄々羅金鶏(ききら きんけい)の24首の狂歌に、浮世絵師 喜多川歌麿が、
吉原・山谷堀・目暮里などの江戸名所を描いている。
美人画で一世を風靡した喜多川歌麿は、寛政初期までは、版元の蔦屋重三郎のもと、
当時流行していた狂歌に絵を添える絵入狂歌本を多数描いた。」 



ネットから。

吾妻遊

『和歌夷(わかえびす)』
Picture and Japanese Poetry Book of New Year’s
Amusements
1788年(天明8)
喜多川歌麿/画
蔦屋重三郎/版
72人の狂歌師が寄せた各1首の狂歌と、浮世絵師 喜多川歌麿の挿絵5図を収めた狂歌絵本。
元旦雑煮・武蔵の年頭風景(三河万歳)など新年の風俗をきめ細かに描いている。」 



ネットから。

作品詳細 | 『龢謌夷』 | イメージアーカイブ - DNPアートコミュニケーションズ

「蔦屋重三郎の活躍とネットワーク」
Tsutaya Jūzaburō’s Activities and Networks
版元の蔦屋重三郎(1750〜1797)は、朋誠堂喜三二、山東京伝、喜多川歌麿など、
かねてから付き合いのあった狂歌師、戯作者や絵師らを集め、洒落本や狂歌本、浮世絵などの
企画を打ち立て、次々に話題作を刊行した。
The publisher Tsutaya Jūzaburō (1750-1797) gathered together kyōka poets,
caricaturists,and ukiyo-e artists with whom he had long been associated, such as
Hōseidō Kisanji,Santō Kyōden, and Kitagawa Utamaro, and launched new projects,
one after another, publishing sharebon (novellette about pleasurequarters),
kyōkabon (books of comic poems), ukiyo-e woodblock prints, and other works.」

 年表・ネットワーク図
・25歳(安永4)より
 吉原細見の出版
・31〜39歳(天明期)
 狂歌師・戯作者との交流、狂歌絵本の出版
・31〜41歳
 黄表紙出版の全盛
・39歳(寛政元)より
 『狂歌百鬼夜狂』刊行
・44歳(寛政6)
 浮世絵の刊行
・45歳(寛政7-8)
 次世代の登用
 曲亭馬琴・十返舎一九 
主な交流人物(図中)
・朋誠堂喜三二(1744〜1813)
・恋川春町(1744〜89)
・喜多川歌麿(1753〜1806)
・山東京伝(1761〜1816)
・北尾重政(1739〜1820)
・十返舎一九(1765〜1831)
・曲亭馬琴(1767〜1848)
・東洲斎写楽(生没年不詳)



蔦屋の店先(耕書堂) 【画本東都遊】葛飾北斎/画。 ネットから。

2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公、蔦屋重三郎とは? 『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(田中 優子)

『吉原大通会』1784年(天明4) 
ネットから。
狂歌の会を描いたもので、
❶大田南畝(おおたなんぼ) ❷朱楽菅江(あけらかんこう)
❸朋誠堂喜三二 ❹は蔦屋重三郎だ。蔦重の狂名(狂歌を詠むときの名前)は
蔦唐丸(つたのからまる)である。大田南畝は四方赤良(よものあから)、喜三二は
手柄岡持(てがらおかもち)など、かなりユニークである。狂歌と狂名はかなり個性的というか、
ふざけた感じだが、当時の狂歌の会の自由な雰囲気が伝わってくる。



「江戸の遊芸」
江戸は将軍家・大名など多くの武家人口を抱えていたが、茶の湯・生け花・香道などの遊芸は、
まず武家社会のなかで社交の場に欠かせないものとして成熟した。やがて経済的に豊かと
なった町人たちもすすんで遊芸に親しむようになり、遊芸人口は飛躍的に増大した。
元禄時代の『女重宝記』には琴・三味線・筝などが、女子の諸芸として記されている。
また、武家奉公にあがるには、そのほかに箏・薙刀・茶の湯・料理などの諸芸が必要で、
子供のころからその稽古を行っていた。なお、町人の娘たちにとって武家奉公で身につけた
教養が、良縁の条件ともなっていた。
やがて18世紀後半には家元制度が成立して、江戸の町人層にまで多彩な遊芸文化が栄えた。」


『女今川教文(おんないまがわおしえぶみ)』。



ズームして。



『女今川教文(おんないまがわおしえぶみ)』
A textbook to learn writing for girls
1778年(安永7)
長友松軒/著 北尾辰宣/画
蔦屋治兵衛/版
『女今川』は、女子用の教科書として江戸時代最も普及した。扉絵上部には、女子が読むべき
教養書の書名が書き連ねられる。本書も5番目に挙げられ、『女大学』などと共に女子の
必読書であることがうたわれている。」。



『女今川雲井鶴(おんないまがわ くもいのつる)』
A textbook to learn writing for girls
(Onnaimagawa kumoinotsuru)
1867年(慶応3)
国貞/画
『女今川』は、江戸時代に最も普及した女子用の教科書である。
女性としての心構えが書かれており、してはいけない事として、他人を悪く言う事、
人の憂いを楽しむ事などがあげられている。」 



「「 女子の諸芸」
Various Arts for Women
江戸時代、町人の娘にとって、武家奉公にあがり、そこで教養を身に付けることが、
良縁の条件となっていた。
In the Edo period, a condition for a good marriage for daughters of townspeople was
to go into serviceat a samurai family and acquire culture and etiquette there.」 
[江戸名所百人美女]より 
左より「いひ田まち」「するがだい」「小石川牛天神」「赤さか水川」「妻恋稲荷」(部分)
奉公に出るためには…『浮世風呂』に登場する庶民の娘の1日
・寺子屋で机を準備する
・三味線の朝稽古に出かける
・家で朝ごはん
・踊りの稽古に出かける
・寺子屋で手習い
・家でおやつ
・風呂屋に出かける
・琴の稽古に出かける
・三味線や踊りのおさらい
・ちょっとだけ遊ぶ
・琴のおさらい
時間帯:朝・午前・午後・夕方・夜
吹き出し部分
おッかさん
せっかく稽古しているのだから、身に染みるほど覚えなきゃ役に立ちませんよ。
女の子は私の担当だから、あなたは構わないで下さいな。今のままだとあの子が大きくなって、
きっと後悔をしてしまいます。
おとッさん
そんなにやかましく言うことはない。あの子が気ままに過ごしても、そのうち何とかして
覚えるだろうから、放っておけばよい。ご奉公に出るための稽古なのだから、
ちょっと覚えさえすればよいんだ。
(絵はすべて『教訓親の目鑑』〈部分〉)」 



「在来技術の発展」
江戸時代を通して、全国的に産業や商業がいちじるしく発展したが、江戸においても、
職人らの高度で緻密な技術がつちかわれ、精緻な手業や優れた意匠が、人々の日常の
衣食住や娯楽の世界で発揮された。根付などにみられる細やかな技法や、からくり仕掛けの
精密な技巧など、諸職諸芸の職人たちが互いの能力と技術を磨き発展をみせた。
加えて、諸藩の情報が行き交い、身分越えた文化交流が実現していた点も、ものづくりの力を
押し上げていたといえよう。
この在来技術の発展は、やがて、明治時代から本格化する欧米技術の移植を速やかに受け入れ、
次の日本の産業発展の道への土壌となっていった。」 



「「 枕時計(まくらどけい) 」。



「「 枕時計(まくらどけい)」
Clock
江戸時代末期(1842〜67年)
江戸時代は「不定時法」(1日を昼と夜に分け、それぞれを6等分=1刻)を採用していたため、
季節によって1刻の長さが異なっていた。そのため西洋から伝来した現在使用しているような
機械時計では役に立たず、速度や文字盤を変えることで生活に応じた「和時計」が作られる
ようになった。
枕時計は和時計の中でも最も豪華な置き時計で、本資料はトケイソウの模様が施されている。」


「無尽灯(むじんとう)(田中久重系統)」



「無尽灯(むじんとう) (田中久重系統)
Automatic-refueling lamp
1863年(文久3)頃
無尽灯は、江戸時代後期に開発された自動給油式の灯火具で、田中のものは空気圧で油を
灯芯まで押し上げる仕組みになっている。
空気ポンプによってできる圧搾空気で発砲する「気砲」の原理を応用したとされる。」 



「田中久重(からくり儀右衛門)の系譜
Genealogy of Tanaka Hisashige (Karakuri Giemon)
田中久重は、当時の先端の科学技術を意欲的に学び、機械の発明に取り組んだ。江戸の在来技術を
生かし、近代技術へと発展させた。
Tanaka Hisashige was eager to learn about the cutting-edge science and technology
of the time and worked on the invention of
machines. He made use of the Edo technology rooted in traditional common practice
and developed it into modern technology.」 

在来技術の展開(久留米→京都)
1799年(寛政11)
・祖右衛門誕生。べっこう細工の長男として九州の久留米に生まれる
1804年(文化1
・2代目久重を襲名。幼い頃から「からくり儀右衛門」の異名をとる
1812年(文化9)
・久留米藩の機械細工師となる
1819年(文政2)
・からくりの興行を開始
1820年(文政3)
・気砲(空気鉄砲)を発明
1824年(文政7)
・江戸の両国でからくり興行を行う
1825年(文政8)
・大坂に移り、欄間細工などを製作
1834年(天保5)
・大津へ移り、竹田で日を友と改め、京都に移る
(※「友」は判読困難)
1837年(天保8)
・「弓曳き童子」を製作
・円盤を送ると弓を射た
・門田製作の発砲式気砲などを参考

欧米近代技術への接近(佐賀→長崎→久留米)
1848年(嘉永元)
・3月、借家を借りてからくりの興行
・京都御所の御用時計の修理を行う
1849年(嘉永2)
・避雷針を製作
1850年(嘉永3)
・万年時計を製作
・佐賀藩主鍋島斉正に近江大掾を得る
1851年(嘉永4)
・西洋近代技術への接近(佐賀→長崎→久留米)
・佐賀藩精煉方に招かれる
1853年(嘉永6)
・佐賀藩校精煉方
・石黒寅次(1861年の鍋島藩西征図にも参加)
・中村奇輔(佐賀藩の砲術・佐賀藩反射炉・蒸気船などの製造を訪ねる)
1855年(安政2)
・蒸気工事・蒸気船の製造を製作、長崎海軍伝習所に参加
・長崎製作
 石丸安世(藩学者・工部省初代長官)
 秀島藤蔵之助(長崎・アームストロング砲の鋳造などに学ぶ)
1862年(文久2)
・佐賀藩蒸気船の気缶(ボイラー)を製作
1864年(元治元)
・久留米藩に招かれ、火薬製造を兼務
1865年(慶応元) ・佐賀藩にて蒸気船凌風丸を製造
1866年(慶応2)
・蒸気船購入に従い、久留米藩より上海へと渡航
1867年(慶応3)
・長崎でイギリス外交官アーネスト・サトウと会見
近代技術への発展(東京)
1873年(明治6)
・上京
1874年(明治7)
・モールス電信機を製造
1875年(明治8)
・銀座煉瓦街に田中製造所を構え、電話機・時計器を製作
1881年( 明治14 )
・久重、83歳で死去
・田中製造所は1893年に芝浦製作所と改め、1939年東京電気と合併、現在の東芝へ



「花鳥螺鈿箪笥(かちょうらでんたんす)(台付)



「花鳥螺鈿箪笥(かちょうらでんたんす)(台付)
Chest with Bird and Flower Design in Inlaid Mother
of Pearl (with Stand)
江戸後期(1746〜1841年)
様々な色が透けて見えるように加工した螺貝によって、華やかな模様を表現する技法で
装飾された輸出用の漆器。
描かれる孔雀(マクジャク)はもともと日本にはいない種で、こちらも南蛮船によって
日本へもたらされ、知られることになった鳥である。」


                                ・・・​ もどる ​・・・                




                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2026.06.03 05:53:48
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