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愚か者は心を制御しようとして必死だ。いったいどうしてそれが可能だろう?賢く、自己を愛する人に、それは自然に起こるのだ。ある人は存在を信じ、ある人は「何も存在しない」と言う。そのどちらも信じない人は稀だ。彼は混乱することがない。愚か者は、真我が純粋で分割不可能だと知っているかもしれない。だが、愚かさゆえ、決してそれを見いだせない。彼は一生悩み続ける。自由を求める人の心は支えもなくつまずく。だが、すでに自由になった人の心は自らの足で立ち、熱情に溺れることがない。感覚は虎だ、臆病な人は、虎を見ると一目散に近くの洞窟へと逃げだして、集中や瞑想を修練する。だが、無欲の人はライオンだ。出くわした途端に逃げ出すのは感覚のほう!まるで象のようにこっそりと走り去る。逃げ切れなかった時は、奴隷のように彼に仕えるのだ。疑いをもたず、真我と一つになった人の心は、もはや自由を求めない。彼は、見、聞き、触れ、嗅ぎ、味わいながら、この世で幸せに暮らす。ただ真理を聞いただけで、彼の心は無限に開かれる。その気づきは純粋そのもの。彼は努力や静寂を気にかけない。彼は自分が無関心でいることにさえ無関心だ。師は子どものようだ、良い事も悪いことも、何であれ、起こるにまかせて振る舞う。自分の足で立つことで、人は幸福を見いだす。自分の足で立つことで、人は自由を見いだす。自分の足で立つことで、彼は世界を越える。自分の足で立つことで、彼は究極にたどりつく。真我を実現するとき、人は行為者でも、それを楽しむ者でもない。彼の心のさざ波は静まったのだ。師の道は束縛がなく、はかりごともない。彼は輝く。だが、愚か者に平和はない、その心は欲望で渦巻いている。師は心から解放された。彼の心は自由だ。この自由の中で、彼は遊び、素晴らしい時を過ごす!時には山奥の洞窟に隠れて暮らす。王様であれ、女性であれ、あるいは親愛なる人と出会っても、師は何も欲しない。神や聖地や聖典に精通した人を讃えたとしても、彼のハートには何の願望もない。まったくといって無いのだ!彼は心乱されない、たとえ召し使いが彼を見下したとしても、あるいは、妻や息子や孫が彼をあざ笑ったとしても、たとえ、家族全員が彼を馬鹿にしたとしても動じない。彼にとって苦痛は苦痛ではなく、快楽は快楽ではない。ただ、彼のような人だけが、その崇高な精神を知っている。彼には姿かたちがない、彼の姿は空なのだ。彼は不変で純粋だ。彼には人を世間に縛り付ける義務という感覚がない。師は義務を果たしながらも、決して煩わされない。愚か者は務めを怠りながらも、心乱され、落ち着かない。師はなすべきことを完全な平静さをもって行う。座るとき、彼は幸せだ。話し、食べるとき彼は幸せだ。眠るときも幸せだ。来るときも去るときも幸せだ。彼は自己の本性を知っている。だから普通の人のように苛立つこともなく、するべき事を成し遂げる。広大な湖の水面のように穏やかに輝いている。彼の悲しみは終わったのだ。愚か者の心は、静かにしていても忙しい。師は忙しくしていても、静寂の実りを得る。愚か者はしばしば所有物を放棄したりする。師はもはや身体に執着しない、いったいどうして彼が魅力や嫌悪を感じるというのだろう?愚か者の気づきは、考えることや考えないようにすることでいつも限られている。内なる生を生きる人の気づきは、たとえ忙しく考えているように見えても、気づきそのものを越えている。師は子どものようだ、その行為には何の動機もない。彼は純粋だ、何をしようとも、超然と見守っている。彼は祝福を受けたのだ、真我の本性を理解し、もはや心は渇望しない。何を見ようと、聞こうと、嗅ごうと、触れようと、味わおうと、どんな状況でも彼は変わらない。師は大空のよう、決して変わる事がない。世界やその反映が、彼にとって何の意味があるというのか?探求や、探求の終焉、それが彼にとって何だというのか?彼はいつも変わらない、勝利は彼のもの。彼は世界を征服したのだ。彼は本来無限なるもの、自己の完全なる本質そのもの。これ以上、何をいうことがあろう?彼は真理を知り、もはや快楽も解脱も望まない。いつであれ、どこであれ、彼は熱情から自由なのだ。心とともに現れる二元性の世界を、彼は棄て去った。それはただの名前でしかない。彼は純粋な気づきだ、なすべき事はもはやない。純粋な人は、何も存在しないことを知っている。それはみな幻影のしわざ、彼は目には見えないものを見ている。その本性は平和だ。かれは世界という現れをみない。規則や無執着、放棄や自己制御、それが彼にとって何だというのだろう?彼の姿は純粋な輝く光なのだ。彼は世界を見ない。喜びや悲しみ、束縛や解脱、それが彼にとって何だというのだろう?彼は限りなく輝いている。理解が起こる前は、世界という幻影が支配している。だが、師は熱情から自由だ。彼には「私」も「私のもの」もない。そして彼は輝く。彼は真我が苦しむことも、死ぬこともないと知っている。だから知識や世界のことを気にかけない。「私は身体だ」や「身体は私のものだ」という感覚ももたない。愚か者は、精神集中や霊的修練をあきらめるやいなや、空想や欲望のとりこになる。真理を耳にした後でさえ、愚か者は愚かな考えにしがみつく。彼は必死になって、平静と落ち着きを保とうとする。だが、彼の内面は欲望で渦巻いている。真理が理解されたとき、仕事は消え去る。他の者達の目には、師は仕事をしているように映る。だが、実際、彼は話をしているわけでも、何かをしているわけでもない。彼には恐れがない、彼は常に変わらない。彼には失うものがない。彼にとって暗闇はなく、光もない。全く何も存在しないのだ。彼には自分自身という存在がない、彼の本性を描写することは出来ない。忍耐や識別や勇気、それが彼にとって何だというのだろう?師の目には何も存在しない。天国もなければ地獄もない。解脱などと言うものもありはしないのだ。これ以上何が言えよう。彼は何も得ることを期待しない。何も失うことを恐れない。彼の心は落ち着き、甘露の雨を浴びている。彼は欲望から自由で、心の平和な人をほめることもなく、心の邪悪な人を責めることもない。喜びにも悲しみにも、変わらず幸せだ。何も為すべき事はないと知っているのだ。彼は世界を憎まない、真我を求めない。彼は喜びや悲しみから解放された。彼は生きていない、そして死んでもいない。彼には家族への執着がない、欲望や感覚から解き放たれ、身体のことを心配しない。師は何も期待せず、ただ輝く。何が起ころうと、彼はいつも幸せだ。彼は風の向くままにさまよう。どこにいようと、日が暮れたとき居るところが彼の眠る場所だ。身体が生きようと死のうとかまいはしない。彼は自己の存在の中に確立し、生と死の輪廻を越えたのだ。彼は喜びに満ちている。何事にも執着せず、所有せず、自立している。彼の疑問は晴れた、彼は一つのことを別の事に対立させることなく、思うがままに生きる。師は輝く、彼は決して「私のもの」とは言わない。金も石も土も、彼にとってはみな同じ。怠惰に浸ることも、活動に夢中になることもない。彼はハートのくびきを断ち切ったのだ。彼に並ぶ者がどこにいよう、何も気にかけず、幸福で、自由な人。その心には欲望のかけらさえない。ただ無欲の人だけが、見ることなしに見、話すことなしに話し、知ることなく知る。彼の目には、善と悪の違いは溶け去った。王様であろうと乞食であろうと、無欲の人だけが輝くのだ!彼には、まったく邪心がない。彼は道を見いだしたのだ、彼は純真そのもの。自制することも、自由奔放にすることも、気にかけない。真理を探し求めることにさえ全く関心がない。彼は無欲で、真我の内に幸せに安らぐ。悲しみは終わりを告げた、彼が何を感じているのか誰が知ろう?たとえぐっすり眠っている時でさえ、彼は眠っていない。たとえ夢を見ているときでさえ、彼は夢を見ていない。何であれ起こるにまかせて彼は幸せだ。彼は考えることなしに考え、感じることなしに感じる。彼は聰明だが心を持たない。彼には人格があるが、自分という考えがない。彼は幸せでもなく、不幸せでもない。冷淡ではなく、とらわれてもいない。自由ではなく、自由を求めてもいない。彼はこれではなく、あれでもない。混乱のさなかでも、彼は乱されない。瞑想のさなかでも、彼は瞑想してはいない。愚かしいが、愚かではない。すべてを知っていながら、何も知らない。彼は常に内なる生を生きている。彼はどこにいても同じだ。行為や義務は、彼には何の意味ももたない。無欲ゆえに、為してきたことや為しえなかったことを気にかけることがない。非難が彼を当惑させることはなく、賞賛がかれを有頂天にさせることもない。人生を楽しむことも、死をおそれることもない。彼の心は静かだ。森林に孤独を求めることも、群衆から逃げ出すこともない。いつであれ、どこであれ、彼は一なるものとしてとどまる。
2012年08月26日
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あなたの真我を愛しなさい。その本性は幸福、平和、そして輝き!本来の自己に目覚めなさい。そうすれば全ての無明は夢のように消え去る。世俗のものごとをたくわえることで、いったいどれほどの喜びを得るというのか?幸福を見いだしたいなら、すべてを諦めなさい。義務感という苦悩が、灼熱の太陽のようにあなたのハートを焼き焦がした。静寂の雨をあびてごらん、そのやさしく降りそそぐ静けさの中であたは幸福を見いだすだろう。世界は無だ、それはただの概念に過ぎない。ただ、存在と非存在の本質だけは決して消え去らない。真我は決してかわらない。常に満たされ、完全無欠で、選択や努力を要しない。それは身近にあり、しかも限りない。真我が知られれば、妄想はすべて消え去る。ヴェールが剥がされ、あなたははっきりと見る。あなたの悲しみは晴らされたのだ。真我は自由だ、そして永遠に生きる。それ以外はすべて想像にすぎない。これを理解するゆえに、師は子どものようにふるまう。あなたは神だ、存在するものと存在しないもの、どちらも想像にすぎない。それを知って、ついに欲望から自由になるとき、いったい言うべきことや、するべきことが残されているだろうか?すべては真我だ。探求者がそれを知る時、かれは静かになる。彼はもはや、「私はこれだ。私はあれではない」と考えることはない。そのような想いは消え去ったのだ。彼は静かだ、快楽も苦痛も、混乱も集中も、学習も無知もない。彼の本性は条件付けから自由だ。勝とうと負けようと彼には何の違いもない。森林深くに一人在ろうと、世間に在ろうと、天上の神であろうと、ただの乞食であろうと、彼には何の違いもない。彼は二元性に縛られない。富や快楽、義務や識別も彼には意味のないこと。何を成し遂げようと、成し遂げまいと気にしない。この生で自由を見いだした探求者は、義務も欲望もハートにとどめない。彼にはすることがない、ただ、あるがままに生きるだけ。師は欲望という境界を越えて生きる。妄想、はたまた世界。真理への瞑想、解脱そのもの、それらが彼にとって何だというのだろう?あなたは世界を見る、だからそれを消し去ろうとする。だが師にはそんな必要がない、欲望がないからだ。彼は見ているが何も見ていないのだ。神を見たとき、あなたは神に瞑想する。「私は神だ」と言いながら。だがあなたに想念がないとき、二というものはなく、ただ一なるものだけが存在することを理解する。だとすれば、いったい誰が誰に瞑想出来るというのか?心が迷い混乱したとき、あなたは精神集中を修練する。だが師はかき乱されることがない。彼には達成すべき事がない。いったい達成しなければならないような何が残されているというのだろう?彼は普通の人のようにふるまう。だが内側では全くことなっている。彼は自己の内に、いかなる欠点も、いかなる混乱も、瞑想の必要性も見ない。彼は目覚め、満たされ、欲望から解き放たれている。彼は存在するわけでもなく、存在しないわけでもない。彼はいつも動いているように見える。だが、彼は何もしていない。奮闘していいようと、静かにしていようと、彼は決して乱されない。何であれ、起こるに任せて自由にふるまう。そして彼は幸せだ。彼には欲望がない。彼は鎖を解き放って、雲の上を歩く。風に舞う木の葉のように、生から生へと自由に舞い踊る。彼は世界の彼方へと消え去った。喜びや悲しみを越えて。彼の心はいつもさわやか。あたかも身体がないかのように生きる。彼の心は清らか、真我の歓喜の中に在る。彼には放棄したいものがなく、欠けているものもない。彼の心は本来空、彼はあるがままに生きる。彼は普通の人ではない、賞賛や非難は、彼には何の意味もない。「これをするのは身体であって、私ではない」「私の本性は純粋だ」この想いを胸に、何をしようと、彼は何もしていない。だが、彼は知らぬふりをする。彼はこの生で自由を見いだした。だが、彼は普通の人のようにふるまう。それでも彼は愚かではない。幸せに輝き、世界を楽しむ。気まぐれな心に疲れ果て、ついに彼は落ちついた。彼は知ることも考えることもなく、聞くことも見ることもない。彼は心乱されず、瞑想もしない。束縛されることもなく、自由も求めない。彼は世界を見るが、それが幻であることを知っている。彼は神のように生きる。たとえ静かにしていても、利己的な人の心はせわしい。たとえ忙しくしていても、無私無欲の人は静かだ。彼は自由だ、彼の心は困難や快楽に揺るがない。行為や欲望や疑いから解放され、彼は静かに輝く。彼の心は瞑想や行為のために努力しない。彼の心は、意図せず瞑想し行為する。愚か者が真理を耳にすると混乱する。賢い人がそれを聞くと内側に向かう。彼は愚か者のように見える、だが彼は混乱しない。愚か者は、心の制御と集中を修練する。だが師は眠る人のように自己の内に安らぎ、それ以上何もすることはないと知っている。努力しようと静かにしていようと、愚か者が平和を見いだすことはない。だが師は、ただ、物事をあるがままに知って平和を見いだす。この世で、人はあらゆる道を探り続ける。だが彼らは、愛すべき真我を見逃してしまう。目覚めていて、純粋で、完全で、満ち足りた、世界を越えた愛すべき真我を。愚か者は集中を修練しても、決して自由を見いだせないだろう。だが、師がしくじることはけっしてない。ただ、物事をあるがままに知っているから、彼は自由でいて揺るぎない。愚か者は神に成りたいと願うため、決して神を見いだせない。師が神になりたいと願うことはない、彼はすでに神なのだ。愚か者は根拠なく、自由を求めて苛立ち、世界をきりきり舞いさせるだけ。だが、師はすべての苦しみの根を断ち切る。愚か者は平和を探そうとするため、それを見いだせずにいる。だが、師は常に平和だ、なぜなら、物事をあるがままに知っているから。世界に注意を払っていたら、どうして自分自身を見ることができよう?師はあれやこれによって心乱されない。彼は自分自身を見る、不変の真我を。後半につづく…。
2012年08月26日
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幸福で純真で友を愛する人は、修練と智慧の実りを得る。 真理を知る人は、世界の中にあっても決して不幸せではない。 なぜなら、ただ彼だけが宇宙を満たすからだ。 象がサラキの葉を好み、ニームの葉を嫌うように、自分自身を愛する人は、常に感覚を拒絶する。 まだ体験していないことへの欲望を棄て去った人を見つけるのは難しい。 世界を体験しながら、それに動かされずにいる人を見つけるのも難しい。 この世界で、ある人は快楽を切望し、ある人は自由を求める。 だが、そのどちらをも求めない人を見つけるのは難しい。 かれは偉大な魂だ。 富や快楽、義務や解脱、生や死…… それらを求めも避けもしない、ハートを開いた人をみつけるのは難しい。 かれは世界が消えようが続こうがかまわない、何が起ころうと、かれは幸せに生きる。 なぜなら、彼は本当に祝福を受けたからだ。 今、彼は理解し、満たされた。彼の心は内に向かい満たされたのだ。 彼は見、彼は聞く、彼は触れ、嗅ぎ、味わう。 そして彼は幸せだ。 何をしようとも、彼は意図せずに行為する。彼の感覚は静まり、彼の目は空っぽだ。 彼には欲望も嫌悪もない。 彼にとって、世間での困難は尽き果てたのだ! 彼は眠らない、目覚めてもいない。 彼の目は開くことも閉じることもない。 どこにいようと彼はすべてを越え自由なのだ。 自由な人はいつもハートで生きている。彼のハートはいつも澄み切っている。 何が起ころうと、かれは欲望から自由だ。 何を見ようと、何を聞こうと、何に触れようと、何を嗅ごうと、何を得ようと、かれは自由だ。 彼に努力は要らない、彼に静寂は要らない。彼は実に偉大な魂だ。 非難や賞賛、怒りや喜びももたず、何を与えることもなく、何を取ることもない。 彼は何も、全く何も欲しがらない。 熱情に満ちた女、あるいは死そのもの、誰が彼に近づこうとも彼は揺るがない。 彼はハートにどとまる。彼は本当に自由なのだ! 男であれ、女であれ、幸運であれ不運であれ、幸福であれ不幸であれ、彼にとっては同じ事。 何の違いもありはしない。彼は穏やかだ。 もはや世界は彼を拘束出来ない。人間のさがという束縛の彼方へ彼は越えていった。 慈悲も敵愾心もなく、誇りも謙遜もない。 何も彼をかき乱さず、何もかれを驚かす事はない。 彼は自由で、この世のものごとを望むことも、軽んじることもない。 何がおころうと受け入れる。彼の心は常にとらわれない。 彼の心は空っぽだ、瞑想することや、瞑想しないこと、善と悪の葛藤など、彼にとってはどうでもいいこと。 彼はすべてを越えてひとりある。 「私」はなく、「私のもの」もない。 彼は何も存在しないことを知っている。彼の内なる欲望はすべて消え去ったのだ。何をしようとも、彼は何もしていない。 彼の心はもはや機能しない!それはただ溶け去ってしまった…… そして、それとともに、夢も妄想も、愚鈍さも溶け去ったのだ。 そして彼がなったもの、それに与える名前はない。
2012年08月26日
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我が子よ、あなたは好きなだけ聖典を読みあさり、討論することに忙しいかもしれない。だが、あなたがすべてを忘れ去るまでは、決してハートで生きることはないだろう。あなたは賢く遊び、仕事をし、瞑想をする。それでもあなたの心はいまだに、すべてを越え、すべての欲望が消え去る彼方を望んでいる。努力こそが悲しみの根本原因なのだ。だが、誰がこれを理解するというのだろう?この教えを理解して祝福をうけるとき、初めてあなたは自由を見いだすだろう。師より無精な人がいるだろうか?瞬きひとつにさえ苦労する!それでも、ただ彼だけが幸せな人なのだ。ただ彼だけが!これを見て、あれを無視する……だが、心がひとつのことを別のことに対立させる習慣をやめると、それはもはや快楽を渇望せず、富や修行や、解脱のことなどもはや気にしなくなる。感覚的快楽への渇望から執着が生まれる。それらに価値がないと見なすことが出来たとき、あなたは無執着を学ぶ。だが、何も望まずそして何も拒絶しなければ、執着も無執着もあなたを縛りつけはしない。識別なしに生きるときに欲望が生まれる。欲望がつきまとえば、好き嫌いといった選り好みの感覚も生まれる。それらが、世界の根であり枝なのだ。活動から欲望が、放棄から嫌悪が生まれる。ところが賢者は子どもなのだ、彼はけっしてひとつのことを別の事に対立させたりしない。それは本当だ!彼はこどもなのだ。もしあなたが世界を望めば、悲しみを避けるために世界を放棄しなければならないだろう。その代わりに、欲望を放棄しなさい!そうすれば、あなたは悲しみからも自由になり、世界があなたをかき乱すこともないだろう。もしあなたが自由を望みながら、まだ「私のもの」などと言い続けて、自分を身体だと感じ続けるなら、あなたは賢者でも探求者でもなく、あなたはただの苦しむ人間だ。ハリ、蓮から生まれたブラフマン、あるいはシヴァから学ぶがよい。あなたがすべてを忘れ去るまでは、決してハートでいきることはないのだ。
2012年08月26日
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学んできた道が何であれ、心の澄んだ人は自己を実現するに至る。世俗の者達は、一生かけて求め続けながらいまだに途方に暮れている。感覚に囚われなければあなたは自由だ。囚われればあなたは束縛される。これを悟ればあなたは思うままに生きる。これを悟れば利口でせわしなく言葉巧みな人も静かになる。彼は何もしない。彼は静かだ。この世の快楽にふけりたい者達が、これを理解したがらないのも無理はない。あなたは身体ではない、身体はあなたではない。あなたは行為者ではない、それを楽しむ人でもない。あなたは純粋な気づき、すべてのものごとを見守る観照者だ。期待もせず自由だ。どこへ行こうと幸せでありなさい。欲望や嫌悪は心のもの、そして心はあなたのものではない。あなたはその混乱から自由なのだ。あなたは不変なるもの、気づきそのもの。どこへ行こうと幸せでありなさい。なぜなら、見がよい、真我は生きとし生けるものの中に存在し、生きとし生けるものは真我の中に存在している。知るがいい、あなたは「私」からも、「私のもの」からも自由なのだ。幸せでありなさい。世界は大海原の波のようにあなたの内に沸き起こる。それが真実だ、世界は波に過ぎない。あなたは気づきそのもの。世界という熱病からあなた自身を解き放ちなさい。信じなさい、我が子よ、信頼するがよい。迷ってはならない。なぜならあなたは全てを越えた全知のハート。あなたは真我、あなたは神なのだ。身体はその本来の性質に縛られている。それは現れ、しばらくの間生きながらえ、消え去る。だが真我は来ることも去ることもない。ならば、なぜ身体について嘆くのか?たとえ時が果てるまで身体が生き延びようと、今日消え去ろうと、何を得て、何を失うというのか?あなたは純粋な気づきなのだ。あなたは果てしない海、その中で世界は波のように湧き起こり、静まりかえる。だから、何を得るということも、何を失うということもない。我が子よ、あなたは純粋な気づき、それに他ならない。あなたと世界は一つ。ならばどうしてそれに執着したり、それを放棄したり出来よう?いったいどうしてそんなことができるというのか!あなたは純粋で静かな澄み切った気づきの空間。そこには誕生も行為も「私」もない。あなたは一なるもの、変化も死もあり得ない。見ものすべてにあなたは存在している、ただあなただけ。腕輪や、足輪や、ゆれる足飾りがみな同じ金で出来ているように。「私はこれではない」「私は神だ」そんな区別は棄て去るがいい。すべてが真我なのだ、あらゆる意図、あらゆる区別を手放しなさい。そして幸せでありなさい。世界は無知から生まれる。ただあなただけが真実なのだ。あなたから分離した人など誰もいない。神でさえも。あなたは純粋な気づき。世界はただの幻にすぎない。この世界はリーラなのだ。これを悟れば欲望は消え去る、あなたは平和を見いだしたのだ。なぜなら、本当に何も存在しないのだから。存在の大海の中には、ただ一なるものだけが在る。いままでも、これからも、ただいちなるものだけが在る。あなたは既に満たされているのだ。どうして束縛されたり、自由になったり出来るというのか?どこへゆこうとも幸せでありなさい!決して肯定や否定に心を乱されてはならない。静かになりなさい、あなたは気づきそのもの。自己の本性のまま、幸福に生きるがよい。あなたは幸福そのものなのだ。考えることがいったい何の役に立つというのか?きっぱりと、瞑想など棄て去るがいい。何も心にとどめてはならない。あなたは真我、あなたは自由だ。
2012年08月26日
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私の心は本来空、眠りの中でさえ目覚めている。私は考えることなく考える。世界の印象はすべて消え去った。私の欲望は溶け去った。金銭や感覚的渇望、友人や知識や聖典のことなど、何を気にすることがあろうか?解放や束縛、それがいったい何だというのか?自由のことなど何を気にするというのか?なぜなら私は、神、無限の真我、すべてを見守る観照者を知ったのだから。外見は愚か者。内心は無心。私は自由に生きる。そして私のような者にしか、私の道は理解出来ない。
2012年08月19日
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無所有によって得られる自由な満ち足りた境地に達する人は稀だ。私は何も受け取らず、何も拒まない。そして私は幸せだ。身体は震え、舌はまわらず、心は疲れ果てる。それら全てを棄て去り、人生の至高の目的の内に、私は住まう。幸福に。私は何もしないということを知りながら、何であれ、生じるにまかせて行為する。そして私は幸せだ。身体に縛られて、探求者は奮闘を続けたり、静かに坐ったりする。だが、私はもはやこの身体が私のものだとも、私のものでないとも見なさない。そして私は幸せだ。眠っていても、座っていても、歩いていても、私には、良い事も、悪い事も起こらない。私は眠り、私は座り、私は歩く。そして私は幸せだ。努力をしようとも休もうと、得るものも失うものもない。私は勝ち取る喜びや、失う悲しみを手放した。そして私は幸せだ。快楽は来ては去ってゆく。いったい何度、その移り変わりを見てきたことか、体験して来たことか。だが、私は良い事も悪いことも手放した。そして私は幸せだ。
2012年08月19日
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はじめに行為を放棄し、それから無駄な言葉を、そして最後には思考そのものを棄て去り、今私はここに在る。散漫な心を晴らし、一心不乱に、音やすべての感覚を締めだす。そして、私はここに在る。瞑想が必要になるのは、偽りの想像によって心が乱されたときだけ、これを知って、私はここに在る。喜びも悲しみもなく、つかむものも拒むものもない。ああ、師よ、私はここに在る。人生の四住期を守ろうと無視しようとそれが何だというのか?瞑想、心の制御、それらはただの気晴らしにすぎない。今、私はここに在る。行為、あるいは無為、どちらも無知から起こる。これを知って、私はここに在る。思考の彼方なるものについて考えることは、いまだに考えでしかない。私は思考を手放した。そして私はここに在る。誰であれ、これを満たした人は、自己の本性を満たした本当に満たされた人だ。
2012年08月19日
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すべてのものごとは立ち現れ、苦しみは移り変わり過ぎ去ってゆく。これが本来のありようなのだ。それに気づけば、何もあなたをかき乱すものはない。何もあなたを傷付けるものはない。あなたは静かになる。それはたやすい。神がすべてを創られた。ただ、神だけが存在する。それに気づけば欲望は溶け去る。何にもしがみつくことなくあなたは静かになる。遅かれ早かれ幸運や不運はあなたに訪れる。それに気づけばあなたは何一つ望まず、何一つ嘆くこともない。感覚を鎮めてあなたは幸せだ。何をしようとも喜びや悲しみ、生や死はやってくる。それに気づけばあなたは執着なく自由に振る舞う。いったい達成しなければならないような何があるというのか?すべての悲しみは恐れからやってくる。それ以外はありえない。それに気づけばあなたは自由だ。そして欲望は溶け去る。あなたは幸せに、そして静かになる。「私は身体ではない、身体は私ではない、私は気づきそのもの」それに気づけば、成し遂げたことや、成し遂げられなかったこと、といった想いは消え去る。あなたは一なるもの、完全で分割不可能なものになる。「ブラフマー神から草の葉にいたるまで、すべてのものの中に私は在る」それに気づけば、成功や失敗といった想いや、気まぐれな心は消え去る。あなたは純粋、あなたは静寂そのもの。世界とそのすべての不思議も無に等しい。それに気づけば欲望は溶け去る。あなたは気づきそのものだから。何も存在していない。ハートでそれに気づけば、あなたは静かだ。
2012年08月17日
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おはようございます。今日(8月06日)の珠玉のリーディングをお届けします。レタスの葉1枚で、千匹の寄生虫を殺すことができる。One leaf of lettuce will destroy a thousand worms.(2015-10)それでは今日も素晴らしい1日になりますように!NPO法人 日本エドガー・ケイシーセンターhttp://edgarcayce.jp
2012年08月06日
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