全99件 (99件中 1-50件目)
次は、U君の場合である。彼は、ムーディストであり、転輪聖王願望が強かった。わたしは、それを彼のエネルギーと彼の心が発している光の色を見て知った。 そこで、「徳を積むことによって、それがかなうんだ。」というアドバイスをしたのである。むろん、わたしの本意は彼の望みをかなえることではなく、功徳を積ませて修行を進めさせることであった。彼はといえば、いくら否定したとしても、潜在意識にそれがあったので、黙々と功徳を積むようになった。 これはサキャ神賢(釈迦牟尼)が、いとこのナンダに修行をさせようとしてとった方法と同じである。サキャ神賢はナンダを天界へと連れていき、美しい天女たちを見せて言ったのである。「修行すれば天界に生まれ変わり、この美しい天女たちを自分のものにできるのだ。」と。 その後、サキャ神賢はナンダを真の修行者へと導いていくわけだが、それはさておき、功徳を積んできたUは、その功徳によって今は大変美しい女性たちにかしずかれている。 そして、その状態を味わわせた上で、それは苦であると教えていっているのであるが、まだ完全にそういう心を捨断し切れず、マハー・ムドラーの成就には至っていない。 なお、多くの女性にかしずかれることによる苦とは、女性間の嫉妬によっての影響や、修行に対する欲求を女性によって妨げられたりすることなのである。 これらはすべて漏尽に属する。漏尽は実際に心の発する光の色を見るという状態、視覚的に見るという状態、あるいは、声によって相手の煩悩を聞き分けるという状態、実際に匂いで相手の煩悩を嗅【か】ぎ分けるという状態、そして触れて相手の煩悩を知るという状態、心の部分と直接コンタクトをとることにより、つまり、相手の心と自分の心を合わせて煩悩を知るという状態等いろんな状態がある。 他の神通力との違いは、これらの煩悩は自分の内側に入ってきても、すべてその煩悩が自分のものでないということがはっきりわかるということである。つまり、煩悩と真我との区別がはっきりとしている、これが漏尽の状態なのである。ところが、他心通、あるいは宿命通、死生智などの場合、その中に没入しているときは、その没入した世界とそれから見ている自分との区別がつきづらい。ここに、大きな違いが存在している。タントラ・ヨーガについて 次に紹介するのは、前世からのタントラ・ヨーガの修行者だ。タントラとは密儀マントラ・ヨーガのことで、その特長としては、速やかに魂を最終ステージに到達させることが挙げられよう。 しかし、その反面危険を伴ってしまうことは避けられない。というのは、タントラでは煩悩を止滅(弱めていった上でなくすこと)させるのではなくて、昇華させていくからである。昇華させるためには、煩悩を逆に強めていった上で、身体にある重要な管を通してサハスラーラから逃がさなければならない。もし、逃がすことができなかったら、発狂したり狂い死にしたりしてしまう危険がある。 これらタントラの修行者は、あえてその危険な道を歩もうとしているのである。 さて、タントラ修行者の特徴を挙げておこう。一言で言えば大変エネルギッシュであり、一流の才能を持っているということである。それは、強い煩悩のエネルギーが、必ずどこかで引っかかっていて、そこの部分で才能を発揮しているからである。ちなみに、どこにも引っかかるところがなかったら、その人はもう成就しているということだ。 また、タントラの修行者はその才能の裏返しとして、欠点も併せ持っている。例を挙げるならば、喉で引っかかっている人は、そこのチァクラの特性として口が悪い。が、リーダーとしては抜群の才能を持っているということである。 さて、最後にタントラ修行者にとっての必要な条件を書いておく。 それは、完璧な帰依、強い求道心、どんな障害をも乗り越えることのできる強い意志の三つである。-引用終わり- 麻原死刑囚は、グル(導師)ではなくて、魔王になって、物欲の権化となったばかりか、多くの犯罪行為を為してしまった。しかも、弟子達の帰依を利用して、弟子達にその犯罪行為をさせたのである。帰依は各自が神に対して為すべきものであると思います。私も一系の神に帰依し続けています。何事に対しても2度目は無いという生き様を続けています。常に私にとって最善と受け止めるという事です。一系の神の愛が信じられない者達は、物事を2度目、3度目と繰り返していく事になってしまいます。でも自分が納得するように生きればいいと思います。それが自分なのだから。私は一系なので、同じ事は二度やらないのですが。多分、一生セックスをしないと思いますが、したとしても1人だけという事です。うまくいかなくて離婚しても、再婚はしないという事です。そういう神の愛を信じられない事は私にはできないんです。自由に生きている私ですが、神中心の生き方しかしていないようです。それが私にとって当たり前の生き方だから。身についている、自然な生き方だから。-引用開始-http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter2/con2-6.htm第二章 6.大我とは 「大我については後で説明する。」と書いてしばらくたちました。およその見当はついていらっしゃるかと思いますが、一応、書いておきます。高橋師の本を見ずに書きますので、間違いもあるかと思います。 私たちは普段、五官で感じることを基準にして生きております。この肉体こそが自分だと思い、自分には足りないものが沢山あると思って求めて回り、美しいものを見るなど、五官に心地よい時に幸せを感じ、それゆえ外物にとらわれて飽くなき欲望の人生を送ります。 また自分の名誉・世間体・評価・地位といったものに執着し、これらを得るため、あるいは守るために四苦八苦します。 そして利害が対立する人と争い、相手より優位に立とうと様々な手を打ち、騙したり悪評を流したり意地悪をしたり、裏で様々な謀略を用い、それでもダメならば、極端な場合は相手を殺してでも自分の欲を満たそうとします。 こういったことは自分の正体を知らないために起こってくるものです。「これが自分だ。」という誤った認識を持って苦しみの人生を送るわけですが、このような「自分」を「偽我」といいます。または「小我」といいます。 大抵の人は偽我・小我のまま一生を終えるわけですが、考えてみれば惨めで憐れなことで、こんな一生を送ったところで心からの安らぎは味わえず、決して幸せにはなれないことは明らかです。何のための一生なのか解らなくなります。 そこで人間は何のために生まれてくるのか、何のために生きるのか、なぜ病に罹り、なぜ老いるのか、そしてなぜ死んでいかねばならないのか、といった疑問を持つわけですが、その疑問と真っ向から取り組んだ人の一人が釈尊です。 釈尊は何人かの修行者に師事し、肉体を痛めつける修行(肉体行)をしますが悟れず、心をカラにする禅のようなこともしますが悟れず、ある少女が歌う歌を聴いて「中道」の大切さに気づき、それからは自分の人生を「中道」という尺度に照らし合わせて反省し、一つ一つの想念と行いを振り返って懺悔し、自分の中の苦の原因をつみ取り、大悟します。 その時釈尊の意識(この場合は光子体ともいいます)は宇宙大に拡大し、「宇宙全体が自分である、生きとし生けるものは自分の中で息づいている、神は宇宙を動かす意志・意識であり、慈悲と愛であり、誰の心の中にもおわすものであり、すべての存在は神の子であり、秩序と調和こそ神の意志であり、生きとし生けるものは循環の法(輪廻転生)のなかで神の意志を具現化していく永遠の生命である。」ということを悟るのです。人間の正体・自分の正体を知り、人間の・自分という者の偉大さにはじめて気づき、生きることの意義を知り、生命の大切さ、この世にあることのかけがえのなさ、神に常に愛され、守られてきたことの有り難さ、それに気づかずに感謝もせずにきた自分のふがいなさが解り、泣きに泣いて、その感激の涙はしばらく止まらなかったはずです。 この時釈尊が発見した自分こそ、「大我」とか「真我」と呼ばれるものです。宇宙大に拡大した自分ということです。この時「自分・他人」という区別はなくなり、「すべては自分だ。」ということが解ります。 「心の原風景」で何度も申しましたが、釈尊は「自己を確立させよ。」と言っています。高橋師もそうです。「自己を確立させる。」ということと「自他の区別をつけない。」ということは一見、矛盾しているように思われるでしょうが、そんなことはありません。 「自己を確立させる。」とは、何ものにもとらわれない自己を築き上げる・何もの(お金・地位など)の奴隷にもならない自己を作る・自分だけが自分の主人になる・自由自在の心になるということであり、とらわれないからこそ意識が宇宙大に拡大できるのです。偏りのない円満な心を作れるのです。そして宇宙大になれば、すべては自分ですから、自他の区別はなくなります。その後も、自他の区別がなくなったといっても、やはり何ものにもとらわれてはいけないのですから、しっかりとした自己を保つ必要があるわけです。矛盾はないのです。 確認のために申しますが、偏らない円満な心とは「中道の心」であり、中道とは「真ん中」ですが、右にも左にも「とらわれない」ことをいいます。生活の中で怠けすぎず、頑張りすぎずというのも中道ですが、それは心にとらわれがない時に自然に実現する生活です。中道は具体的には厳しすぎず、優しすぎず(○○すぎず、××すぎず)といったことになりますが、もっと掘り下げて一言で言えば「とらわれないこと」であり、これを極めようと思えば口で言うよりもずっと難しく奥が深いことがお解りでしょう。いわば円の中心に収まるのが中道なのですが、それはちょうど、意識の「中心」に「心」があり、その心に神がおわし、その神に出会うようなもので、いかに難しいかということです。 ちなみに、キリストの言葉に「汝の敵を愛せ。」といったものがありますが、こういった言葉は宇宙大に拡大した心・自他の区別のなくなった心からでなければ発せられないものだそうで、キリストもまた釈尊同様、宇宙大の心を持っていたということです。 このような「大我」を体験することは通常は無理ですが、それでも自分の内なる良心、すなわち神に忠実に生きることはある程度できます。そんな時の自分を「善我」といいます。 偽我・小我を捨てて、せめて善我の自分で生きていきたいものです。 (後記)後に高橋師の『心の対話』を読み、確認したところ、この文章の内容に間違いがないことが判りました。安心してお読み下さい。私も自信がつきました。(2006年8月12日 加筆)-引用終わり- 取り敢えずの目的地は、ニルヴァーナではなくて、宇宙即我の体験をする事だと思います。否定は良くないと思います。何かを否定するのだったら、もっと別の良いものを肯定しましょう。独存の状態はやがて飽きると思います。神が神だけの状態で満足していたのなら創造は無かったのです。神の創造のより良きパートに参加し続けた方が楽しいというのが私の判断です。自分が楽しい事をし続けるというのが存在している意義だと思います。麻原死刑囚も物欲の権化、権力欲の塊、最低最悪のエゴが楽しかったからそうしたのでしょう。警察権力がボケッとしていたのが悪いのです。世の中には、魔王が楽しい者達も一杯いるのだから、取り締まってくれないと困ります。私は聖者として、尊敬される生き方をする方が楽しいと思うのですが、何故、麻原死刑囚はそれをしなかったのか、悔しいです。物欲の世の中、扱き使われていて、締めつけられていて、つまらないので、聖者が一杯いる世界の方が楽しいと私は思うのですが。
2007.08.31
コメント(0)
覚醒――それは異次元への門 四人、全員が前世で修行者だった。 前世でもクンダリニーが覚醒していたので、今生でも簡単に覚醒している。 このグループの特徴は、ヴィジョンをよく見ることと、アストラル・トリップをしやすいことだろう。しかし、解脱の前にはそういうイメージが邪魔になる。大変だろうが、それらを無視する訓練をしていかねばならないのだ。行としては、第二章で書かれている「四つの記憶修習の現象化」の瞑想が最適だろう。それを繰り返すうちに、イメージを構成している心や観念が崩壊し、イメージは消える。そうしたら、“幻身のヨーガ”あたりに入っていけることだろう。恐怖と戦慄の魔境 次は、魔境に入って苦しんだ人の体験だ。魔境の内容については、読めばおわかりになるだろうが、原因は異次元のエネルギーを受けてしまうことである。ところで、魔境に入りやすい人のタイプはわりとはっきりしている。念が強く、超能力を持ちやすい人や霊能者的素質がある人である。このタイプの人は自分の殻が堅く、また、意識の浄化をすることで修行が進みやすい。一概に魔境が悪いとはいえないと思う。エネルギーの弱い人は入ることもできないからだ。 問題は、どうやって魔境から抜け出すかだろう。次のことを実践すれば、すぐに抜け出すことができるはずである。1.正しいグルを持つ 正しいグルとは、解脱し、かつ大乗思想を持った指導者である。2.功徳を積む この功徳とは、前述のように「神とグルに対する布施と奉仕」である。3.強い信を持つ4.行の種類を少なくする もしあなたが魔境に入ってしまったら、決して焦らずに今挙げたことを実践することだ。体を貫く強烈なエクスタシー――第一静慮・歓喜 クンダリニーを覚醒させ、戒を確立し、修行を進めていくと、わたしたちは四つの静慮【じょうりょ】に入る。 その第一段階は、思索により種々の愛欲から離れることから始まる。このときの思索を、仏典では熟考と吟味という言葉を使っているわけだが、この熟考とは何かというと、原因についてあれやこれやと考えることである。吟味とは、その結果について考えることである。そして、その結果から、次にどのような因を生じさせるのかを考える。そして、完全に捨断するのである。このとき、慈愛の達成によって、わたしたちは喜びの身体、喜びの瞑想を得ることができる。心の底からわき上がる喜と楽――第二静慮・喜 第二段階に入ると、思索を完全に止めてしまう。また、逆の言い方をすれば、思索が止まった段階、何も考えていないような状態、これが第二段階なのである。このとき、雑念から完全に解放されているから、心の中は落ち着き、そして精神は一点に集中するようになる。このときは真我はより深い状態に入り、熟考、吟味を完全にやめてしまっている状態である。この状態によって喜と楽が生起している状態、これが第二段階なのである。この静慮の段階で、わたしたちは悲哀の実践を行なう。これによって、わたしたちは光と音の祝福を受けるようになる。完全なるリラックスの境地――第三静慮・静【+寂】、楽 第三段階では、心の喜びから離れることにより、諸現象に対して無頓着となる。そして、完全に肉体がリラックスの状態に至る。 この第三静慮によって、わたしたちは美しい世界の経験を始めるようになる。ピュアな意識状態と呼吸停止――第四静慮 第三静慮の次は、いよいよ第四静慮に入っていく。感覚というものは楽の裏側には苦しみが存在するので、最終的には平坦な水、波立たない水のように楽を捨断しない限り、苦しみも捨断できないわけであるが、この第四静慮においては、楽と苦しみを完全に捨断することになる。そして、楽と苦しみが捨断されたがゆえに、以前の幸福と落胆とを完全に全滅することとなる。つまり、この段階において経験の構成が静止したかのように見えるのである。 このときの意識の状態は不苦不楽である。不苦不楽なるがゆえに、完全なる無頓着の状態が生じ、ただ記憶修習のみが存在している。そして、意識状態は純粋でピュアな状態を形成している。 このときわたしたちの呼吸は完全に停止し、感覚も完全に止まることとなる。化身で変幻自在に――神足通 四つの静慮を通過すると、五つの神通がつく。そして、最初につく神通が神足通である。 この段階で、わたしたちの頭頂から別の身体が抜け出す。このときの身体は、幻影の身体ともあるいは化身とも呼ばれる身体である。そして、この身体はこの大地に足を着けることもできるし、大地から足を離すこともできるし、行きたいところに自由に行くことのできる身体である。そして、姿・形を心の働きによって自在に変化させることのできる身体なのである。 この身体の特徴は、一つの形がいろいろな形に変化したり、あるいはテレポーテーションをしたり、あるいは城壁や塀【へい】や山やあるいはビルや、すべてのものを自在に超えることができることである。そして、この身体はいっさいのものと接触をしない。よって、例えば壁を通り抜けるときも、それはちょうど空間のような状態で通り抜けるのである。そして、この大地についても同じで、この大地の中に潜ることもできるし、あるいは大地の上へ浮き上がることもできる。これは、ちょうど水の上のような状態なのである。また、水上を歩くこともできるし、空中を自在に飛行することができるのである。また、この身体はその世界に存在する月や太陽についても直接触れることができ、すべての世界に対して、例えば形状界の世界に対してまでも自在に至ることができるのである。これが、初めに備わる神通なのである。 わたしの場合も、渋谷で修行していたときにこの状態を経験した。実際に肉体の頭頂から身体が抜け出し、そしてドアを通り抜け、壁を通り抜けるのである。また、行きたいところへ自在に行けるのである。神々の声を聞く――天耳通 次に生じる神通は、天耳世界の精通である。これは、その人の持っている表象が完全に浄化されたときに起きる状態で、その浄化によってこの世界やあるいは天耳世界が完全にクリアとなり、天の神々や人間、あるいは近くや遠くのいろいろな声をまさに間近で聞くことができるのである。 この段階の感覚器官は、耳ではなく、喉を使う。他の部分で聞こえる声、これはわたしたちに正しい示唆を与えないが、喉で聞こえる声、正確にいうと喉と頭上で聞こえる声、この二つがわたしたちに正しい示唆を与えるのである。人の心をズバリ見抜く――他心通 次に生じるもの、これは他心通である。この状態は、例えば他の生命体や他の魂の心の働きを、その発するヴァイブレーションによって認識し、理解するのである。ここで検討しなければならないことは、他心通イコール、何となく相手の心がわかるというのでは他心通とはいえない。ここでの他心通は、相手の心がはっきり把握できるだけではなく、視覚的にとらえられなければならないのだ。つまり、相手の煩悩を色としてしっかりとらえられてこそ、初めて正確な他心通ということができるのである。過去世を知る――宿命通 次は、宿命通である。宿命通とは、わたしたちの前生を知る力である。これはもちろん、個人の前生をまず知る力であり、派生して他人の前生をも知ることができる力ということになる。 このときわたしたちは、この現象界のスピードより大変早いスピードで、そのときの前世の経験を単に思い出すだけではなく、アナウンスメントされた形で聞くことができる。例えば、一分間の間に、わたしたちは生まれてから死ぬまでの一生を、サマディの世界では経験できるのである。 わたしも実際、多くの生を思い出している。そして、このときはその状態と、そして光り輝く空間と説明との三つが存在しているのである。来世を知る――死生智 この宿命通まで終わると、次は死生智【ししょうち】へと至る。この死生智とは何かというと、自分のカルマがどのようなふうに現われ、そして来世が形成されるのかということを理解する力ということになる。 このとき、わたしたちは、今生の要素の蓄積によって、まず次の生の光を見、その光をスクリーンとして、その世界の導きのヴィジョンを見ることとなる。これらの経験の後、わたしたちは本当にこの人生が苦であることを認識することができるようになるわけである。相手の煩悩を完全に理解する――漏尽通 死生智まで到達すると、魂は、当然この現実生活がわたしたちにとって悪業を蓄積するものであるということを理解するようになる。つまり、ここで生じてくるのが現世否定なのである。そして、偏った愛著、とらわれは、わたしたちをこの愛欲の世界へと縛りつけ、あるいは上位形状界への道を捨断するということが理解できるようになる。それによって、現世否定、離愛著の状態が生じ、そして漏尽の状態へと至るのである。離解脱は別名漏尽ともいえる。 では、漏尽通について説明をしよう。この離解脱には二つのプロセスがある。 第一のプロセスは、智慧の離解脱である。智慧の離解脱というのは、まず心において現世否定、離愛著をなすのである。つまり、この現世否定、離愛著の記憶修習を徹底的に行ない、心に生起したものを一つ一つ精神集中によって破壊するのである。これによって生じる解脱、これが智慧の離解脱なのである。 そして、その後に来る心の離解脱は、完全にその心の中にあるけがれが破壊されてしまい、けがれが破壊されるがゆえに、心は完全に絶対的な空を経験するのである。これが、心の離解脱なのである。そして、この心の離解脱まで到達した魂を最終解脱者と呼ぶのである。ここでは、わたしの体験談を紹介しよう。 T君という子がいた。T君は東大生で大変優秀であった。彼は、専門分野でその学年でトップに立つぐらいの成績を修めていた。そのT君は、学業において大変まじめで、そして論理的に追求する心も人並外れて持ち合わせていた。しかし、彼は貪りのカルマをなかなか切ることができず悩んでいた。つまり、食べ物に対する執着があり、その執着を切ることができず悩んでいたのである。 わたしはT君に対してその好きな物、一つ一つを言いなさいという話をした。彼は好きな物を列挙した。わたしはそのすべてを大量に用意し、そしてそれを厭逆【えんぎゃく】させながら、彼に食べさせることにした。彼は、それを食べたことにより、食べ物に対して、その大量に食べることが本質的には苦しみなんだということを理解し、それを数度経験し、その後食の煩悩から離れることができた。 これは、彼がもともと論理的な思考をなすことができる人であり、そして修行に対してしっかりと目的意識を持ち、グルに対してある程度の帰依ができているという条件を備えていたからこのようなことができたのである。もし、彼に帰依の心が弱ければ、食べなさいといってもわたしは食べたくないということで結局彼は煩悩を持ち続け、その煩悩を超えることができなかったであろう。
2007.08.31
コメント(0)
ここでのポイントは、瞑想によって「心は無常なり。」を悟ることである。これを悟らない限り、次へと移れないし、反対に悟ることができたら、以後はスムーズに進むはずである。 では、実際にはどのように修行を進めたらよいだろうか。まず、真我を心から切り離すことの意味について考えてみよう。 真我は、純粋観照者である。純粋観照者とは、他の事物と全く関係を持たない、独立した存在であるということだ。 ところが、真我は心が自分だと錯覚してしまっている。つまり、心が傷つき悲しんでいたりすると、真我は自分がそうなっていると思い込んでしまうのである。これが人間の苦悩や悲しみの根源なのだ。 それはまだいい。もっと大変なのは、愛着の場合である。心が何かに対して愛着していて、真我が自分の愛着だと錯覚していると、輪廻・災禍に巻き込まれてしまう原因となる。 例えば、ある代議士が権力欲の塊であったとしよう。彼は死ぬ瞬間まで権力に心を残していることだろう。もし、そのまま死んでしまったらどうなるか。彼が、力だけで権力を持とうとするタイプであったら、次に生まれ変わるときには、集団生活をしている動物、それも力関係でボスが決まるサルなどに生まれ変わってしまうだろう。反対に頭を使って権力を持つタイプであったら、人間以上の生き物に生まれ変わって、権力を集中させ続けるだろう。 つまり、真我が愛着というものを錯覚することによって、それを再び表わそうという方向へ動いてしまうのである。そのため、永久に輪廻の輪の中で苦しまねばならなくなってしまうわけだ。 そうならないようにするには、真我を心から切り離して、錯覚をなくし、本来の姿に戻してやらなければならない。【瞑想の仕方】 まず、自分が愛着(執着)している事物を知る。そして、瞑想でそれと自分の関係の変化を追う。 例えば、好きな異性がいたとする。その場合、 恋愛 ↓ 結婚 ↓ 家庭生活 ↓ 死別・生別という過程を繰り返し瞑想する。特に、愛着していながら別れなければならない、という最後の場面を重点的に行なう。それを繰り返し、繰り返し行なうことによって、真我の経験となっていく。真我は心の動きを見ることによって、自分の経験としていくのである。そして、いずれ真我は「心の動きが無常であり、苦の原因である。」と悟るだろう。そのとき真我はその心の状態から離れていくのである。 しかし、真我を完全に心から切り離すには、これではまだまだ足りない。この他にも多くの愛着が残っているからだ。だから、その自分の愛着を一つずつ取り上げて、同様に瞑想を行なわなければならない。 そして、そのすべての愛着を消滅させることができたときに、真我は完全に心から離れるのだ。ここまで来たら、かなりのレベルである。心が起因となる苦しみを全く受けつけなくなっているはずだ。※心は高め続けた方がいいと思います。愛するという行動を続けた方がいいと思います。心は宇宙大の大きさにまで広がっていくものです。それを目指して、広げ続けた方がいいと思います。とにかく、私は否定的なものには反対です。何ものも活かした方がいいと思います。4 法は無我なり この瞑想の目的は、いっさいの観念やイメージが虚構であることを悟り、真実の世界(ニルヴァーナ)へ入ることである。この世では、あまりにも観念やイメージに縛りつけられているので、何が真実かということを見失ってしまっている。 例として、身近な出来事を挙げてみよう。 オウム真理教の信徒にI君がいる。I君は修行に打ち込みたいがために仕事を辞めて、それまでの貯えで修行生活をし始めた。 ところが、それを伝え聞いた両親は上京し、I君の所に怒鳴り込んできた。I君は気丈な母親に数発の平手打ちをくらった。母親は言った。「ちゃんと仕事をしろ! 豊かな生活をして、肉魚も食べろ。子供の豊かな生活を見るのが親の楽しみなのだから。」 ここで問題となるのは、両親の思い込みである。I君は、人間として生まれた目的は何か、どうすれば苦しみや悲しみをなくすことができるか――ということを考えた末に、修行をして解脱を目指す人生を選んだ。 ところが、両親は、豊かな生活=幸福だと思い込んでいるのである。その上、そういう自分の価値観を息子に押しつけているわけだ。I君の両親は、戦中・戦後を体験している。そのころ、だれもが強いられた悲惨な生活体験が、現在の価値観をつくり上げたということが考えられるだろう。 だったら、当然時代や体験が違ったら、その価値観というものも違ってくることを考えなければなるまい。このように、観念は変わるものである。したがって真実からは程遠い。 教育にしてもそうである。終戦日まで、天皇は神として教えられていた。その神のために死んでいくのが、国民の義務であった。 ところがどうだ。今度はアメリカの占領政策とともに入ってきた民主主義が、現代人の気風をつくり上げた。新しい価値観をつくり上げたのだ。 人は、こんなに変わりやすい観念やイメージに左右されているのである。一刻も早くそのことに気づき、そこから脱却しなければならない。真我の錯覚を取り除かない限り、人間の苦しみの生は永遠に続くのである。【瞑想の仕方】 では、真我の錯覚を取り除くポイントを書くにあたって、先程のI君を例に挙げて進めてみよう。 まず、幸福とは何か――ということについて考えてみる。母親が言うように、おいしい食べ物を食べる。豊かな生活をする、お金がある――これらが幸福をつくり上げる必要条件かを考えてみる。 まず、息子のI君にとって、それが幸福でなかったことに注目しよう。彼はわたしに会うまでわりと豊かな、母親に言わせると「幸福」な生活をしていたのである。しかし、それが真の幸福でなかったから、彼はその生活に満足できなかった。それゆえ、その生活を捨てて、修行生活に入ったのだ。ここで既に、豊かな生活=幸福であるという観念はもろくも崩れ去る。 また、こうも考えてみよう。母親にとって今の世が続く限り、豊かな生活=幸福かもしれない。しかし、必ず死はやってくるものだ。魂は生き続けるが、肉体は滅する。したがって、豊かな生活も、食べ物も、お金も必要なくなってしまうのである。つまり、幸福の条件だと思っていたことが、何一つなくなってしまうのである。 このように、一つずつ観念を否定しながら、真我の錯覚を取り除いていく。これが、「法は無我なり。」の瞑想である。 あなたも、自分が今関心を持っていることを取り上げてこの瞑想を行なってほしい。それは、愛情、地位、名誉、権力、嗜好【しこう】等いろいろあるだろう。それらが永遠に続く真実であるかどうか考えるのだ。 では最後に、「四つの記憶修習の現象化」の瞑想の目的を確認しておこう。その目的とは、永遠に生き続ける真我(魂)の錯覚を取り除き、永遠に幸福な真実の世界(ニルヴァーナ)へ真我を導くことなのである。 『阿含経典【あごんきょうてん】』から、釈迦牟尼の言葉を引用してみよう。「わたしは、すべてを経験し尽くした。これ以上何を経験する必要があるだろうか。わたしの迷いの生はこれで終わった。すべての苦は滅尽したのである。さあ、わたしは絶対自由で幸福なニルヴァーナへ入ろう。もはやこの世に再生することはないであろう。」生死を超えるWednesday, September 27th, 2006第三章 覚醒から解脱へ最終解脱に至るプロセス この章は、体験談を載せるようにした。それは、以下のような点を考えてである。1独力で修行した場合に、自分のレベルを知るための参考2壁にぶつかったときに、抜け出す手がかりとして3第二章での修行を終えて、シャクティーパットを受けた場合の変化の目安4グルの重要性を認識する(特に“喜”の段階以上では、グルの意識を弟子にコピーすることが必要となる)すべての土台――信 第一番目には、その真理の教えに対しての信を持つことから始まる。つまり、苦しみありて信ありなのである。そして信を持つことにより、わたしたちが高い世界を経験するためのクンダリニーの覚醒をしてもらえるように、グルに対して帰依をするわけである。 次の四人の体験は、グル(この場合はわたし)のそばで功徳を積みながら修行した結果である。この場合、功徳というのは「神とグルに対する布施と奉仕」それのみである。これを実践できるのは、ほんの一握りの人間であろう。それほどに功徳というものは、心の問題が難しい。修行の素質というものは、全く関係ない。確固たる“信”を持つというのが第一条件なのだ。信がなかったら、いくら功徳を積んでいるつもりでも、何にもならないだろう。 残念なことだが、わたしのそばで功徳を積みたいという人の中には、心の中に、それとは裏腹の望みを持っている人もいる。わたしの弟子集団の中で、権力を持ちたいという望みである。これは現世的な欲望であり、修行においてはマイナス要因である。気をつけなければならないことだ。 また、途中から野心を持ったり、功徳の心をなくしてしまった場合、今まで積み重ねてきた修行もあっさりと崩れてしまう。この点にも留意していただきたい。 わたしは功徳が最も大切だと思っている。例えば、修行が進んで異次元とつながったとき、功徳のある人は修行の助けとなるような次元とつながる。したがって、修行は滞ることなく進んでいく。反対に、功徳がなければ魔境に落ち込んでしまうからである。
2007.08.31
コメント(0)
マハー・レーチャカ・バンダ・ムドラー1蓮華座を組む。手は膝に置く。2背すじを伸ばして普通呼吸を数回行なう。3息を吐ききったところで息を止め、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。このとき、ムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に意識を集中する。4限界まで保持してから、ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、息を吸い込んだところでジャーランダラ・バンダを緩めて1の姿勢に戻る。5十分に休んでから、もう一度繰り返す。ただし、このときは、アージュニァー・チァクラ(眉間)に精神集中を行なう。 以上四種類のムドラーを挙げたが、ムドラーはアーサナ、調気法と違い、この中から選ぶというのではなく、全部を行ずる必要がある。また、時間の取れる人は、毎食前に一時間ずつ行ずると数十倍の効果が得られる。 ムドラーだけでも長期間やれば、必ず三昧に入れるだろう。それだけの効果を持つ行法である。わたしは、ムドラーを一日十時間以上行じた時期があった。標準修行プログラム 修行期間 修行内容 合計 第一期(1カ月目) アーサナ 1時間 1時間 第二期(2カ月目) アーサナ 1時間 2時間 調気法 1時間 第三期(3カ月目) アーサナ 1時間 3時間 調気法 1時間 ムドラー 1時間 第四期(4カ月目) アーサナ 1時間 4時間 調気法 1時間 ムドラー 1時間 瞑想 1時間生死を超えるWednesday, September 27th, 20064.瞑想――四つの幸福の扉幸福をもたらす瞑想 いよいよ最後の修行に入るときが来た。アーサナ、調気法、ムドラーに加えて瞑想を取り入れる。ここでは、わたしが解脱するために用いた「四つの記憶修習の現象化」の瞑想をご紹介しよう。 ここまで修行を続けられたあなたは、アーサナによって瞑想が可能になっているだろうし、調気法とムドラーによって数々の神秘体験をしていることだろう。しかし、まだ心の幸福感はもたらされてないはずだ。これは、肉体・心・感覚・観念に対する愛着が強いからである。それを取り除くのが「四つの記憶修習の現象化」の瞑想の目的である。この瞑想が成就したなら、真我(本当の自分)がもろもろの束縛から解き放たれて、本来の姿に戻ることができる。これができた人には、もはやグルは必要ないのだ。四つの記憶修習の現象化の瞑想1 我が身これ不浄なり 「真我」というものは、純粋で清らかである。そのため、不浄なものを嫌っている。だが、あなたも含め、だれ一人そのことに気づいていないのが現状だ。そこでこの瞑想が必要となる。 この瞑想を行なうと、自分の肉体が不浄のものであるということを、真我に観照させることができる。それによって真我は肉体に対する執着から離れられるのである。 ――我が身これ不浄なり―― 例えば、お風呂に一カ月もの間入らなかったとしよう。当然体中がかゆくなり、じめじめとして異臭を放つようになるだろう。アカにもまみれるだろう。また、運動したとしたら、汗をかき、通常よりも早く体が汚れていくだろう。 このように、肉体は汚いものなのだ。何もしないで自然になるように任せていると自ら汚くなっていく。それはもともと不浄だからである。 おいしく飲んだり食べたりしたものも、最後にはキタナイとされている便や尿となって体外へと排出される。便や尿がキタナイのだったら、それらを体内で作るこの肉体もキタナイのはもちろんのことである。 それだけではない。肉体は病気にもなれば老化もする。清浄・純粋なものだったら、そんなことが起こり得るはずがないだろう。 このように、肉体は清浄・純粋なものではない。不浄・不純なのだ。その上、病気や老化などの“苦”の原因ともなっている。そんな自分の肉体に「これはわたしです。これはわたしのものです。」などといって執着することに何の意味があろうか。 真我は肉体への執着から離れなければならない。これが「四つの記憶修習の現象化」の瞑想の第一、「我が身これ不浄なり。」が行き着かなければならないところである。 なお、「四つの記憶修習の現象化」は、「プラティヤーハーラ(制感)」に属する瞑想法である。プラティヤーハーラとは、五感と意識を外界から自分の内面(この一番奥に真我がある)に向けていく行である。これを行なうと、外界の変化や事物に惑わされなくなり、強い精神集中力を身につけることができる。【瞑想の仕方】 肉体について、様々な状態を思い浮かべ、不浄であることを理解することに努める。※肉体は別に不浄ではありません。単なる動物です。様々な体験を与えてくれる大切なものです。だから、私は肉体を通して、どういう体験をするかが重要であると思っています。性欲に溺れている体験を霊体に刻むと、あの世の性欲地獄に通じて、淫獣霊に憑かれてしまうわけです。だから、やめた方がいいと私は思います。 私達の霊体は光体なのです。私は性欲を満たす体験は不要なものだと思っています。あの世に行ったら肉体は無いのだから、この世にいるうちから、あの世の生活をしていた方がいいと私は思うのです。食事の快楽まで無くすほど厳密ではありませんが、性欲を満たすのは損だと思っています。性エネルギーは昇華した方が喜びが大きいと思います。 性欲を満たす対象として女を見ているのは魔王的だと思います。セックスは子づくりの為だけにすればいいと思います。私はセックスに興味が無いので、何の苦労も要りませんが、光体である自分が、肉欲を満たして肉体に堕ちるのは大損害なので、頑張って、性欲を昇華できるようになった方がいいと思います。あの世では、地獄以外、セックスはしないのです。勿論、地獄でもセックスした気になっているだけで、この世ほど実感が無いみたいです。だから、肉体に憑いて一緒に体験する為にホテル街等に地獄霊がうろちょろしているそうです。淫獣霊が幸せな存在だと思いますか。真善美愛の喜びを追求した方がもっともっと幸せな存在に成れると思われます。 肉体の体験を通して、日々、自分の霊体を創り続けている、その為に生きているのです。2 受は苦なり 受とはすべての感覚器官のことである。すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を総称している。これらは、わたしたち人間にとっては重要な器官であるはずなのだが、実は皆幻影なのだ。そのことに気づかなければならない。そのための瞑想が「受は苦なり」なのである。第一段階……今までの感覚が、弱くなったりなくなったりしたときの苦しみを知る。【瞑想の仕方】 まず、自分の目が見えなくなったと強く思い込む。美しい風景も、恋人も、テレビも、新聞も、マンガもすべてが突然見えなくなったのだ。当然、この目で見たいという欲求が起こってくるだろう。その欲求はあなたを苦しめるだろう。苦しくてたまらない。 ↓ この状態になるまで瞑想を続ける。すると最終的にあなたは次のことに気づくはずである。 ↓ 今まで楽しみであったはずのものが、苦しみの原因となっている。執着していたものから離れなければならない苦である。さらに、このまま自分が死んで感覚が消滅してしまったとしても、永久に残る真我はものすごい苦を負うことになるだろう。それだったら、一刻も早くこの執着から離れなければならないのではないか。 そう気づいたらしめたものである。同じようにこの瞑想を続ければ、感覚に対する執着から離れることができるだろう。それは、感覚があっても当たり前、なくても当たり前という境地に至ることである。第二段階……物事の移ろいを知る苦しみ【瞑想の仕方】 愛する者または物を一つ取り上げる。例えば、夫、妻、子供、恋人、ペットなどである。それらの人が、ひどいやけどを負ったとしたらどうだろうか。ただれたケロイドが、今まで一番好きだった顔に残ってしまったとしたら、どうだろうか。あなたは、今までと変わらぬ愛情を持ち続けることができるか、否か。 そのことについて瞑想し続けてみよう。それによって、移ろいを知る感覚器官が苦の原因であることに気づくであろう。それに気づいたら、前述の第一段階、「今までの感覚が、弱くなったりなくなったりしたときの苦しみ。」の場合と同様に、感覚器官に対する執着から離れるまで瞑想を続けてみてほしい。第三段階……嫌なものを、見たり聞いたりする苦しみ だれでも、嫌なものを見たり聞いたりするのは嫌であろう。嫌いなことを、否応なしに受けなければならないのも感覚器官があるからである。そのことを瞑想によって悟り、感覚器官からの執着から離れるのが、ここでの目標である。 これら第一段階から第三段階までを完全にマスターすることによって、「受は苦なり。苦なるがゆえに無我である(真我ではない)。」という真実を自分のものにすることができるだろう。※感覚は美しいもの、素晴らしいものの体験を得る為に重要なものであると私は思います。否定するなんてとんでもない事です。あの世は、上に行けば行くほど、美しい世界、素晴らしい世界になっていくそうです。心の豊かさが環境の豊かさを創造している世界です。高次元のあの世は自分の心のままに創造できるようです。3 心は無常なり この瞑想は次のプロセスをたどる。 心は無常なり ↓ 無常なるがゆえに苦なり ↓ 苦なるがゆえに無我である(真我ではない) ↓ 無我なるがゆえに、それを脱却して解脱しなければならない(心と真我を切り離さなければならない)
2007.08.31
コメント(0)
効果1クンダリニーを覚醒させる。2ムーラダーラ・チァクラとマニプーラ・チァクラを開発する。3気力を充実させる。4体の動きが軽快になる。5軽い病気をすべて治す。6発汗を促進する。7寒さに強くなる。ディルガ・シュワサ・プラシュワサ・プラーナーヤーマ1好きな座法で座る。2両鼻孔から息を長く力強く吸う。このときに、腹は使わず胸式の呼吸になるようにする。3吸い終わったらすぐに、長く力強く息を吐き出す。41から3を肉体的条件に応じて繰り返す。入息・出息時間が、いっそう長くなるように練習する。 ※注意……これは、歩きながら行なってもよい(わたしはよく歩きながら行なう)。効果1オーロビントは、この調気法に熟達して空中浮揚ができるようになった。空中浮揚までいかなくても、体が浮いたような感覚を得る。2健康になり、寿命が延びる。3アナハタ・チァクラを開発する。4鼻と肺を浄化する。5胃と肝臓を強くし、消化力を増進させる。シャンムキ・レーチャカ・プラーナーヤーマ1吉祥座で座る。2右手の人さし指を眉間に当て、右鼻孔を押さえて左鼻孔から息を吐き出す。このとき腹部をへこませて、横隔膜を引き上げるようにして息を吐き出すとよい。3耳を親指で、目を人さし指で、鼻を中指で、口を薬指と小指でそれぞれふさぐ。4ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)をして、息を吐ききったまま、できるだけ長く保持する。このとき眉間に精神集中をしておく。5息を吸うときは、左鼻孔だけ中指を離してゆっくりと行なう。6息を吸ったら、保息しないですぐに吐き出す。7反対の鼻で同様のことを行ない、自分の状態に応じて繰り返す。効果1真智(インスピレーションによって真実を知る力)を得る。2透視能力を得る。3アージュニァー・チァクラとヴィシュッダ・チァクラを開発する。4心が不動となる。サルヴァ・ドゥワラ・バッダ・プラーナーヤーマ1蓮華座を組む。2両鼻孔から息を吐き出す。3次に、腹と胸に力を入れて、尾てい骨から喉にかけて、息を満たすようなつもりで息を吸う。4息をいっぱいに吸ったら保息する。このとき、親指で耳を、人さし指で目を、中指で鼻孔を、薬指と小指で口をそれぞれふさぎ、眉間に精神集中をしておく。5我慢できるだけ保息した後、中指を鼻孔から離して息を吐く。63から5を五回繰り返す。効果1クンダリニーが覚醒する。2解脱に対して大変有効である。3後は前述のシャンムキ・レーチャカ・プラーナーヤーマ同様の効果を持つ。ヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナーヤーマ1蓮華座を組む。このとき、首と背中は真っすぐにして座る。2手のひらを膝に置き、眉間に精神集中をする。3両鼻孔で素早く二十五回の呼吸を繰り返す。4完全に息を吐き出した後、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を行なう。息を吐ききったまま、できる限りそれを保持する。5我慢できなくなったら、両鼻孔で息を吸う。そして、できる限り保持する。6我慢できなくなったら、両鼻孔で勢いよく息を吐き出す。7肉体的条件によって、回数を決めて繰り返す。しかし、四十回以上繰り返してはならない。効果1速やかにクンダリニーを覚醒させる。2知能が高くなる。3体重を減らし、体を細く強くする。4若返る。5慢性化した風邪を治し、痰を取り除く。 ※備考……これは他の調気法と違い、三昧に至るためのものである。これを行じることによって、数々の神秘体験をするであろう。ブラーマリー・プラーナヤーマ1吉祥座で座る。2右手の人さし指を眉間にあて、右の鼻孔を親指で閉じる。3息が尾てい骨にまで達するような気持ちで、左鼻孔で息を吸う。4しばらく保息する。5ゆっくりと息を吐きながら、ハチの羽音のような音をハミングで出す。吐息は長ければ長いほどよい。効果1集中力を増し、速やかに三昧に入る。2ナーダ音(アナハタ・チァクラで出している神秘の音)が聞こえるようになる。3この音によって“幻身のヨーガ”に入れるようになる。4心を落ち着かせる。生死を超えるWednesday, September 27th, 20063.神に近づくムドラー 三カ月目にはムドラーを加える。ムドラーの実践によって、確実にクンダリニーを覚醒させ、解脱への準備を進めることができる。しかし、効果がある反面、肉体を傷つけやすいので、十分な注意を要する。マハー・プーラカ・ムドラー1両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。2左膝を折り曲げて、左足の踵を会陰にしっかりとつける。左膝は床につけておく。3右脚を伸ばしたまま、右足の親指を右手の人さし指と親指でつかむ。次に左手で重ねてつかむ。このとき、右足先に真っすぐに上半身を向ける。背すじを伸ばし、肩は床に対して水平を保つ。4下腹を引き締めて息を吐き出し、次に下腹をゆるめて息を入れる。5さらにゆっくりと胸に息を入れながら、顎を上げて背中を反らせる。6息が胸をいっぱいに満たしたら、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。息を止めたまま、限界までこれを続ける。このときムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に精神集中をしておく。7ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、ゆっくりと息を吐き出す。吐ききったら、ジャーランダラ・バンダを緩めてゆっくりと1の姿勢に戻る。8十分に休んだら脚を替え、同様のことを繰り返す。ただし、このときは精神集中をアージュニァー・チァクラへと変える。マハー・レーチャカ・ムドラー1両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。2左膝を折り曲げて、左足の踵を会陰にしっかりとつける。左膝は床につけておく。3右脚を伸ばしたまま、右足の親指を右手の人さし指でつかむ。次に左手で重ねてつかむ。このとき、右足先に真っすぐに上半身を向ける。背すじを伸ばし、肩は床に対して水平を保つ。4ゆっくりと腹をへこませ、横隔膜を引き上げるようにして、息を吐ききる。顎を上げて背中を反らせる。5ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。息を止めたまま、限界までこれを続ける。このときムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に精神集中をしておく。6ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、ゆっくりと息を吸う。7息を吸い終わったら、ジャーランダラ・バンダを緩めて、ゆっくりと脚を伸ばして座った姿勢に戻る。8十分に休んだら、脚を替えて同様のことを繰り返す。ただし、このときは精神集中をアージュニァー・チァクラに変える。マハー・プーラカ・バンダ・ムドラー1蓮華座を組む。手は膝に置く。2背すじを伸ばして普通呼吸を数回行なう。3息が入ったところで息を止め、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。このとき、ムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に精神集中をする。4限界まで保持してから、ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、ゆっくりと息を吐き出す。吐ききったら、ジャーランダラ・バンダを緩めて1の姿勢に戻る。5十分に休んでからもう一度繰り返す。ただし二回目はアージュニァー・チァクラ(眉間)に精神集中を行なう。
2007.08.31
コメント(0)
前屈してねじるアーサナ1両脚をそろえて、伸ばしたまま座る。2手を使って、左膝を折り曲げて左足の踵を会陰にしっかりとつける。右脚は伸ばしたまま、両脚を十分に開く。左膝は床につけておくこと。3右手で右足の親指をつかむ。つかみ方は、手のひらを上へ向け、右足の内側(親指側から)つかむ。左手は、左太ももの上に置いておく。背すじは伸ばす。4息をいっぱいに吸う。次にゆっくりと息を吐きながら、上半身を前に倒していく。最後には、右肘が右膝の内側の床につく。5その姿勢のまま、左手を頭上を越えて前へもっていき、右足の外側(小指側)をつかむ。6今度は、息を吸い、5の姿勢を保ったまま普通呼吸を三回する。7最後に息を吸ったら、次はゆっくりと息を出しながら、上半身をねじりながら右脚に近づけていく。顔は上を向ける。8上半身をできる限り、右脚に近づけたら(できる人はつけてもよい)普通呼吸をしながら五秒間この姿勢を保つ。9ゆっくりと息を吸いながら、次第に上半身を起こしていき、2の姿勢に戻ってから、1の姿勢に戻る。10十分に休んでから、反対側で同様のことを行なう。ねじりのアーサナの効果1これは、背骨のずれを修正するので、スシュムナー管が真っすぐになる。そのため、スシュムナー管を通るクンダリニーが上昇しやすくなる。2内臓の充血を取り除くので、肝臓・脾臓【ひぞう】の病気にも効果がある。3精神が安定するので、長時間の瞑想が可能になる。首を柔軟にし強化するアーサナ鋤のアーサナ1仰向けになる。手のひらは下向き。2ゆっくりと息を吸いながら、脚を真っすぐに伸ばしたまま上へ上げていく。3脚が床に対して垂直になるまで上がったら、今度は息を出しながら、背中を床から離し、足先を頭上の床につくように持っていく。4手を背中に当ててバランスをとり、普通呼吸をしながら三十秒から一分この姿勢を保つ。5両腕を元に戻し、手のひらを床につける。6ゆっくりと息を吸いながら、静かに脚が床と垂直になるまで戻していく。7脚が床と垂直になったら、今度は息を出しながら脚を下げていき、1の姿勢に戻る。8「シャヴァアーサナ」を二分程度とる。鋤のアーサナの変形(1)1「鋤のアーサナ」の1から4を行なう。2普通呼吸が終わったら、息を吐きながら、片脚ずつ頭上の床の左側へ持っていく。3息を吸いながら、片脚ずつ元に戻す。反対側で行なう。4「鋤のアーサナ」のやり方に従って元に戻し、二分間「シャヴァアーサナ」をとる。鋤のアーサナの変形(2)1「鋤のアーサナ」の1から4を行なう。2普通呼吸が終わったら、手でそれぞれの足の指をつかみ、息を吸いながら、脚を開いていく。できる限り開いたら、その姿勢を保ったまま三十秒から一分普通呼吸をする。3ゆっくりと息を吸いながら、脚を元に戻していき、腰に手を当てる。4「鋤のアーサナ」のやり方に従って元に戻す。ビバリータ・カラニー1仰向けになる。腕を体の両側に伸ばし、手のひらは床につける。2両脚をそろえたまま、ゆっくりと息を吸いながら上げていく。床と直角になったら息を止め、五秒から十秒間その姿勢を保つ(足首には力を入れないようにする)。3息を吐きながら、上げていくときの二倍くらいの時間をかけて脚を下ろす。4両脚が床に静かについたら、全身を緩める。少し休んでから、もう一度2、3を行なう。5今度は、床の上の手のひらに力を入れ、息を吐きながら、腰を床から上げていく。6次に両手を腰に当てて支え、体が「く」の字になるようにする。7その姿勢を一分間保持し、ゆっくりと息を吐きながら元の姿勢に戻り、そのまま休む。休む時間は、6の姿勢を保持した時間と同じか倍までとする。 ※注意……6の姿勢の保持は、一分間から始めて一日に一分間ずつ増やして、一カ月後には三十分になるようにする。もちろん、その後の休む時間もそれに応じて長くする。休むときには必ず「シャヴァアーサナ」をとる。 逆転している時間が長くなるにつれ、腰の痛みや胃の痛みが出てくると思うが、これは生体反応が過敏になっているためなので、我慢してそのまま続けること。このアーサナを始める前には、準備運動として、首を左右にゆっくりと三回ずつ回しておく。首を柔軟にし強化するアーサナの効果 首から上の血液交換を十分に行なうことによって、1ストレスや精神的な疲労を速やかに取り除く。2ホルモンのバランスを整え、若返らせる。3神経系統の働きを整え、静める。4“幻身のヨーガ”“光のヨーガ”と密接な関係がある。全期を通じてアーサナの効果【→ねらい】1異常な興奮や無気力を取り除く。2筋肉・関節を緩め、かつ強めることによって、長時間の瞑想に耐えられる体をつくる。3大脳・神経・ホルモンのバランスを整え若返らせる。4背骨を修正し、クンダリニーの通り道であるスシュムナー管を浄化する。これがクンダリニーの覚醒を促す。5体を健康にし、内臓を強化する。これがハードな調気法の準備となる。 さあ、準備段階という色彩の濃い一カ月目の修行をやり遂げたら、二カ月目の修行へと入ろう。二カ月目は、アーサナに加えて調気法の実習を行なう。これは、イダー管・ピンガラ管・スシュムナー管の浄化を行なうので、クンダリニーが覚醒しやすくなる。早い人では、この修行中にクンダリニーの覚醒が起こるだろう。また、この修行を終えたころには、超能力を得るに足る心身ができ上がるはずである。しかし、超能力については本書の主旨ではないので説明は省かせていただく。 なお、調気法はほとんど本邦初公開の行法を取り入れてみた。生死を超えるWednesday, September 27th, 20062.超能力が目覚める調気法アヌローマ・ヴィローマ・プラーナーヤーマ1好きな座法で座る。2下腹を引き締め、両鼻孔から息を吐き出す。3右手の人さし指を眉間【みけん】に当て、親指で右の鼻孔をふさぎ、左鼻孔から息を素早く吐ききり、左鼻孔から息を入れる。4息をいっぱいに入れたら、苦しくならない程度に保息する。5保息が終わったら、中指と薬指で左鼻孔を押さえ、右鼻孔から息を吐ききる。6同じ右鼻孔から息を入れ、保息し、反対の鼻孔から吐く。7このようにして左右交互に繰り返すが、回数は自分の肉体的条件によって決める。苦しくなったら、左右同じ回数のところで止める。 ※注意……呼吸(入息・保息・出息)に精神集中を行なう。慣れてきたら、入息・保息・出息の長さを一対一対一から一対四対二にする。つまり例を挙げると、最終的には、入息・保息・出息が四秒対十六秒対八秒のようになる。効果1体を若返らせる。2気を強化する。3肺と鼻を浄化する。4心が穏やかになり健康になる。5意識を鮮明にし、心を透明にする。ナディ・シュッディ・プラーナーヤーマ1蓮華座を組む。2下腹を引き締め、両鼻孔から息を吐き出す。3右手の人さし指を眉間に当て、親指で右の鼻孔を押さえ、左鼻孔からゆっくりと息を入れる。そのときには、息がスシュムナー管を通って尾てい骨のムーラダーラ・チァクラに届くような気持ちで行なう(保息はしない)。4次に中指と薬指で左鼻孔をふさいで、右鼻孔から息を吐く。その息がスシュムナー管を通って帰っていくような気持ちで行なう。5そのまま、右鼻孔から息を吸い、左鼻孔から吐く。このように左右交互に続ける。6回数は肉体的条件によって決める。効果1イダー管とピンガラ管を浄化し、クンダリニーを速やかに覚醒させる。2ムーラダーラ・チァクラを開発する。これによって甘い香りを感じるようになる。3手足の動きが軽快になる。4安定した集中力が身につく。5呼吸の回数が減少する。それによって長寿を得られる。6血液を浄化する。(この調気法は、瞑想を取り入れたもので、わたしの好きな調気法の一つである)アグニ・プラディプタ・プラーナーヤーマ1蓮華座を組む。2下腹を引き締め、両鼻孔から息を吐ききる。3右手の人さし指を眉間に当て、親指で右鼻孔を閉じる。4左鼻孔から、首から尾てい骨にかけてのスシュムナー管に息が満ちることを意識して息を吸う。5おなかに力を込めて、顔が赤くなるまで保息をする(初めは軽く保息する程度から始める)。6苦しくて耐えられなくなったら、中指と薬指で左鼻孔をふさぎ、右鼻孔から息を吐き出す。7今度は、右鼻孔から息を吸い、同様に保息をした後、左鼻孔から吐き出す。このように左右交互にそれぞれ三回ずつ繰り返す。 ※注意……心臓病の人は絶対にやってはならない。 保息のとき、気が首から上に上昇しないように気をつけないと、気絶してしまう。危険を除くためにも、二人以上で行なった方がよい。
2007.08.31
コメント(0)
それを、大本営発表のように、情報操作し、情報をでっちあげ、自分の可愛い弟妹(きょうだい)弟子、同じ朋友にマインドコントロールをかけるのは、本当にもうやめてほしい。 私を含めた幹部の社会復帰は、難しいかもしれない。しかし、弟妹弟子は、あなた方が、この誤った宗教、破壊カルトになってしまった、オウム真理教に縛りつけることさえしなければ、まだ社会復帰できるのだ。それをオウムのリーダー達は、事実から目をそむけさせ、自己を正当化するために、そして教団組織維持のために、弟妹弟子に嘘をつき、そして何よりも自分自身に嘘をつき続けている。解脱・悟り・救済を信じて集ったあの渋谷のたった6畳の道場で、我々が目指していたものは何だったのか。もう一度自分に問い直してほしい。 やるべきことはひとつ。オウムの犯罪を認め、被害者の方々と社会に対して謝罪し、賠償すべきです。そして、弟子の社会復帰のために、しかるべき措置を取ったあと、一刻も早く、オウムを解散し、オウムの悲劇を終らせるべきです。 私は現役のオウムのリーダー達に、これを強く、強く訴えたい!! そしてまた、私と最も強い縁があり、最も愛したオウムで法友だった、未だ現役で頑張っている信徒・サマナ達の方々へ、私が必死で訴えかけるこの願いを、この想いを、この声を、聞いてほしく私はこれらを伝えたかった、のです。 最後に、私と私の所属していたオウム真理教によって、被害者となられた方々と、その御遺族の方々に、重ねて心からお詫びします。また田口修二さん、越智直樹さん御両名と、その御遺族の方々には、本当に何とお詫びをしてよいか、何の言葉もみつかりません。私は、これから、ご迷惑をおかけしてまった沢山の方々のために、私の出来ることを一つでも多くし続けようと思います。今こうして、身体を拘束され、司法の裁きを受けているのは、誰が悪いのでもなく、四無量心のかけらもなかった私が、私こそが悪かったのです。 本当に申し分けありませんでした。大内利裕-引用終わり--引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e7%94%9f%e6%ad%bb%e3%82%92%e8%b6%85%e3%81%88%e3%82%8b/生死を超えるWednesday, September 27th, 2006伸展のアーサナバッタのアーサナ(片脚)1うつぶせになる。腕は体の横に伸ばしておき、手のひらを床につける。2顎を精いっぱい前へ出す。3ゆっくりと息を入れながら、右脚を伸ばしたまま、上げていく。このとき、骨盤が床から離れないように気をつける。4十分に右脚を上げたら、膝や足先を意識的に伸ばし、息を止めて十秒間この姿勢を保つ。5ゆっくりと息を吐きながら、右脚をゆっくりと静かに下げていき、脚が床についたら全身をゆったりとさせる。6顔を横に向けて床につけ、少し休んだら左脚で同様のことを行なう。バッタのアーサナ(両脚)1うつぶせになる。額を床につけ、両腕はこぶしを握って床に置く。2ゆっくりと息を吸いながら、両脚をそろえて伸ばしたまま上へ上げていく。3十分に上がったら、息を止めて十秒間この姿勢を保つ。4ゆっくりと息を吐きながら、上げていた両脚を静かにゆっくりと下げていく。脚が床についたら全身をゆったりとさせ、力を抜く。5少し休んでから同じことを繰り返し、全部で三回行なう。バッタのアーサナ(全身)1うつぶせになる。両腕は前方へ真っすぐに伸ばし床につける。2ゆっくりと息を吸いながら、両腕、そろえた両脚を一緒に上げていく。3全身を腹で支えるような状態まで両腕、両脚を上げて体を反らせたら、普通呼吸をして二十秒間その姿勢を保つ。4ゆっくりと息を吐きながら、両腕、両脚を同時にゆっくりと下げていく。5両腕、両脚が床についたら、全身をゆったりとさせ、力を抜く。6少し休んだら同じことを繰り返し、全部で三回行なう。コブラのアーサナ1うつぶせになる。額は床につけ、腕を曲げて、手のひらが胸の横の床につくようにする。肘は立てて腕を脇につける。2ゆっくりと息を吸いながら、額、鼻、顎の順に床にこするようにして頭を持ち上げていき、胸が床についている程度に背中を反らす。3次に両手で上半身を支えるようにして、さらに強く反らせる(腹が床から離れない程度)。4両腕を伸ばし、恥骨が床につくほどに体を反らせる。5最後に思いきり反らせ、2から吸い続けていた息を止め、肛門を引き締め、五秒間その姿勢を保つ。6ゆっくりと息を吐きながら、今までと逆の順序で元に戻っていく。弓のアーサナ1うつぶせになる。両腕は体に沿って伸ばして床に置く。顎は床につけておく。2膝を少し開いて折り曲げ、踵を尻につける。それぞれの足首をそれぞれの手で外側から握る。3四秒間かけてゆっくりと息を吸う。それと同時に、腕で足首を引っ張り、体全体を反らせる。両脚はなるべくつけるようにする。43の姿勢を保ったまま、二十秒間普通呼吸をする。5八秒かけてゆっくりと息を吐きながら、体を緩めて1に戻る。6顔を横にして休んでから、もう一度行なう。 ※注意……痛みのあるところか、尾てい骨に精神を集中する。ラクダのアーサナ1金剛座で座る。膝は少し離しておく。2腰を伸ばして膝で立つ。3息を吸いながら、両足首をそれぞれの手で握り、腰をできるだけ前に突き出す。普通呼吸を三、四回繰り返す。4息を吸いながら、2の姿勢に戻る。5少し休んでから、もう一度繰り返す。壁を使って体を反らすアーサナ1壁に背を向けて、壁から六〇センチほど離れて立つ。足は肩幅に開く。2息を吸いながら、両手を伸ばしたまま上げていき、頭上を通り越して後方の壁に手のひらをつける。3その姿勢を保ったまま、普通呼吸を三、四回繰り返す。4息を吸いながら、1の姿勢に戻る。少し休んでから、もう一度繰り返す。伸展のアーサナの効果1心身共にエネルギッシュにする。2勇気、決断力を与える。3強い精神集中力が得られる。ねじりのアーサナワニのアーサナ(両脚)1仰向けになる。2足先をそろえて脚を伸ばしたまま、ゆっくり息を吸いながら静かに両脚を上げていく。脚は床と垂直になる。3息を吐きながら、脚を右手の指先に向かって倒していき、床につける。それとともに顔は反対方向へ向けていき、左手の指先を見る。その姿勢を三秒間保つ。4ゆっくりと息を吸いながら、2の姿勢へ戻る。5両脚を上げたまま、今度は左へ倒していきながら、同様のことを行なう。6息を吐きながら、垂直に脚を伸ばしたまま下ろし、1の姿勢に戻る。 ※注意……背すじはできるだけ両手に垂直にしたまま保持する。ワニのアーサナ(片脚)1仰向けになる。2ゆっくりと息を吸いながら、左脚を伸ばしたまま上げていき、床と垂直にする。3息を吐きながら、脚を右へ真横になるように倒していき、床につける。それとともに顔は左を向く。左手の指先を見て、三秒間その姿勢を保つ。4ゆっくりと息を吸いながら、脚を垂直に戻す。同時に顔を戻す。次に息を吐きながら、1の姿勢に戻す。5少し休んだら、反対の脚で同様のことを行なう。背骨をねじるアーサナ1両脚を伸ばして座る。2左膝を曲げて床につけたまま、踵を尻の右側につける。3右膝を曲げて、右足を両手を使って左の太ももの横に置く。立てた右脚はできるだけ自分の方へ引き寄せておく。4右手は尻の右側の床に置く。次に左脇の下を右脚の太ももにつけて腕を伸ばして右脚の土踏まずをつかむ。それができたら、右手を床から離して右脇腹に手のひらを当てる。5息をゆっくりと吐きながら、顔を初め上半身を右の方へねじっていく。このとき顎は引き、背すじを伸ばす。十分ねじれて息を出しきったら、その姿勢を十秒間保つ。6ゆっくりと息を吸いながら、上半身を元に戻していき、4の姿勢に戻る。次に左手を右足の土踏まずから離して正面を向く。最後は1の姿勢に戻る。7少し休んだら、今度は反対側で同様のことを行なう。ねじりのある三角のアーサナ1直立をする。両脚を広く開く。2ゆっくりと息を吸いながら、両腕を真っすぐに伸ばしたまま、肩の高さにまで上げていく。手のひらは下向きにしておき、左右の指先を結ぶ線が一直線になるようにする。3ゆっくりと息を吐きながら、上体を左へねじりながら倒していく。最後には、右手を左足の外側の床につける。両腕を結んだ線が一直線になるように気をつける。左指先を見る。4息を吐ききったまま息を止め、3の姿勢を十秒間保つ。5ゆっくりと息を吸いながら2の姿勢に戻していく。62の姿勢に戻ったら、今度はゆっくりと息を吐きながら、1の直立の姿勢に戻る。7少し休んでから、反対側にねじって同様のことを行なう。
2007.08.31
コメント(0)
現役は自分達も仏教徒であると思っているかもしれないが、実は何も知らないものであり、霊的な覚醒のかわりに、人間の、最も貴重な宝物を失っている事を知ったら、どれほど驚くことでしょう。 今まで心のどこかで感じていた疑問が氷解しました。なぜオウムがあのような未曾有の犯罪を犯したのか? それはオウムの教えが、ただ自己中心的な愛のない魔物を創り出す教えであり、人間の魂をダメにする教えだからです。 なぜオウムの現状がこのような状況に陥っているのか? それは外道の教えを実践したが故の報いなのです。私は仏陀釈迦牟尼の法にやっと巡り会い、涙があふれそうになりました。 その後、正しい仏教の修行を行ううちに、やさしい気持ち、他人を思いやる気持ち、人間らしい感情、自分で考える力が徐々に自分の中に復活していくことを実感できました。 そして、今まで敵としか思えなかった教団外の人達が、いい人達であり、同じ地球号に乗っている大切な仲間であることにやっと気がつきました。 それらは、私がオウムで修行しているつもりになっている間に、どこかに、置き忘れていた、人間の大切な宝物であったのです。 そして、この宝物こそ、私が子供の頃から目指していたはずのものだったのです。私はこの時、心情的には、完全にオウムを脱会しましたが、正式に脱会表明をしなかったのは、ロシアの状況がそれを許さなかったのです。 現役信者は、私が脱会をしたのは逮捕され、罪を軽くするため、自己保身のためにやっているのだと思うかもしれない。しかし、私は心の底から「オウムの教えは間違っている。」と確信したから脱会したのです。私はオウム及び、松本氏に対する信仰心は、ただの1パーセントもありません。そして、重罪に問われているかつての高弟達が脱会しているのも、現役信者が考えるような、マハームドラーに負けたからでも、自己保身のためでもなく、いつのまにか忘れていた人間の心を取り戻したからに他ならないのです。脱会後のロシアでの活動 それは言葉では言い表すことの出来ない地獄のような日々でした。それは今、私が日本にいて、こうして肉体を持っているのは奇跡であると、このような表現をしたら、わかってもらえるかもしれません。 ただ不遜に思われても仕方がないのですが、松本氏が誤った教えをロシアに広め、それによって何の罪もない、ロシアの信者達が苦しんでいるのを、私は日本人として、仏教徒として、いや人間として、知らないふりはできませんでした。 私は、この置かれた状況で何をすべきか考え続け、ロシアにおけるオウム真理教の責任を、責めがあるならば、私一人で受けようと決心しました。もし、有罪判決がでれば、悪環境のロシアの刑務所に行かなければならず、おそらく生きて戻ることはないなと思いました。それでも、罪のない、ロシアの法友達の誰一人をも、責めを追わせるわけにはいかないと思ったのです。 ここでもっとも私を苦しめたのは、上祐氏からタントラ・ヴァジラヤーナを説かれていた一部過激サマナ達でした。上祐氏はロシアにいた時、これらのサマナだけを集めて「これはお前達だけに。」と密(ひそ)かに授けていたのです。 しかも彼らを、ロシアサマナの上位に置いたために彼らはものすごいエリート意識を持つに至りました。彼らの暴走を止めるには、正悟師というタイトルがどうしても必要だったのです。 彼らだけが逮捕されるなら自業自得というもので仕方がない。しかし、当時、ロシアのオウム真理教の刑事事件は未だ終了していず、彼らが暴走すれば、善意の仲間達までシベリアに送られてしまうかもしれなかったのです。 また、誤解に基(もと)づく、様々な理由により、命を狙われた時期もありました。実際あるときなど、ナイフを持った人達に取り囲まれ、もう少しで、命を落としそうになったこともありました。 しかし、そんな中で、私は、私の囲りにいた良心的な仲間達には、少しずつオウムの誤りを説き、脱会させ、ロシアに来ていた、伝統的仏教や、ヨーガの指導者のところへ教えを学びに行かせました。日本の信者に対しても、国際電話という手段で、脱会の手伝いをしていました。また、97年3月頃には、私と親しい日本の脱会信者の仲介で、江川紹子さんと何度か電話で話しました。国際電話で話せる範囲で、私なりに説明させて頂きました。 その他のマスコミの方々には、こうした諸々の事情により、結果的に真実を伝えることが出来ずに終わってしまい、申し分けありませんでした。現役信者へのメッセージを伝えたい 現役信者は、リーダー達に、オウムが引き起こした犯罪が、組織犯罪であったという現実を認識しないように教えられている。しかし、組織の一員である以上、直接的ではなくても関わったのだというカルマを、もう一度見つめ直す時期にきていると思うのです。それはオウムで、功徳を積んだと思っていた、ひとつ、ひとつの行為が結果的にオウムの組織犯罪を引き起こしたからです。 現役信者は、脱会信者を裏切り者と思うかもしれない。しかし、弟子達は松本氏の言う解脱・悟り・救済を信じ、まさに命がけで帰依をした。その弟子の真心を利用し、弟子達を犯罪に走らせ、不幸にしたのは、松本氏であった。※松本氏がサタン、魔王だからです。複数の愛人に6人もの子を孕ませ、多数の女性信徒と淫行に耽っていた者が聖者のわけないんです。愛人達も女性信徒達も狂っていました。人の心を失っていました。サタンの血統を実現してしまいました。 あなた方が辿っている道は、私や今、極刑に問われようとしている先輩達が辿ってきた道であり、けっして正しい道ではない。同じ過ちを犯してはならない。「尊師には深いお考えがある。」と教えられた先輩である私達が経験したことは、何のお考えもなく、最悪の犯罪を、ただ松本氏のエゴ・野望の為にさせられただけであった。今あなた方は「尊師のお考えは私にはわからない。」と思考を放棄してはいけない。自分の頭で考えることをやめた時、人はマインドコントロールされた魔境に陥るのです。※主体的に生きる事、自己判断・自己選択・自己責任は基本事項です。 現役信者は、オウムが伝統に根付かない外道であると言われたら、驚き・怒り・絶対違うと、反論することと思う。それはオウムというフィルターを通してしか仏教を学んでいないからで、今までの観念を捨て、もう一度仏教を学び直してほしい。オウムの教えは、仏教とは完全に「本質」が異質です。なぜなら「空の教え」も「四無量心の教え」も、オウムには存在していないからです。 そして、オウムの組織犯罪が、タントラ・ヴァジラヤーナの教えに基づいて、と言われているが、タントラ・ヴァジラヤーナの教えは、松本氏の妄想が創り出した、悪魔の教えであり、チベット密教の崇高なヴァジラヤーナの教えとは、縁もゆかりもない。意外かもしれないがオウムにはヴァジラヤーナの修行システムが存在しない。それゆえに、オウムの修行では、一生かかっても、いや、何百生かけても、解脱・悟りや、心の平安をもたらすことはない。 オウムは「絶対という不完全」「真理という嘘」「戒という破戒」「矛盾はないという矛盾」の二元性に満ちている。そして私達は、何も知らないものであり、最も仏教的なベースを欠いた者であったのです。 解脱はグルに与えられるものではない。仏性はすでにあなた方の内側で光り輝いている。そして、この世界には、ここかしこに、太陽の暖かさが満ちている。この小さくて、そして大きな暖かさを感じる人間になってほしい。 私は正悟師ではなく、一人の人間として、この事実を伝えているのです。どうか、自分の目と耳で、頭で、もう一度、事実を確かめてほしい。疑問があるなら、迷うなら、会いに来てほしい。そして話しましょう。 というのも、今の私の接見交通は、全面解除となっています。どうか、現役の信徒・サマナである人達は、東京拘置所の私の所へ面会に来てほしい。先約がない限り、誰とでも会います。遠い方は手紙で。また脱会して、なお、心の整理がついていない人も訪ねて下さい。上祐氏及びオウムのリーダー達へのメッセージ 出所後、オウムを統括するであろう上祐氏には、四無量心に目覚め、オウムを解散してくれるように切に望む。オウムは社会に対して、悪業を積んでしまっただけでなく、弟子の魂を傷つけてしまっただけでなく、崇高なる仏教・ヨーガに対する世間の信頼を、かつてない規模で傷つけてしまいました。 ヨーガ道場では、聖音「オーム」の真言を唱えることさえ、はばかれるようになったと聞いています。特に、オウムがヴァジラヤーナの名を詐称して、凶悪犯罪を行なったために、チベット仏教に、まるで犯罪背定論が存在しているような、誤解を世間に与えてしまったことを心からお詫びします。 このような状況の中に於て、上祐氏は、オウム事件について「裁判に委ねよう。」などという詭弁はもう捨てるべきだし、あなたはすべてを知っていたはずです。松本氏の予言も、すべてが予言通りではなく、当たらなかったことの方が多かったことは、お互いはずれた後の理由づけに駆り出されたことを思えばわかるはずです。「救世主は予言を一つでもはずしたら、それは救世主・キリストとは言わない。」とは、あの松本氏自身が、かつて自ら言った言葉であるのに、あなたは、裁判で、「尊師は、救世主であり、すべて予言通りである。」などと、嘘をついている。 オウムのリーダー達も、多くの事実を認識しているはずである。なぜなら、あなた方は、犯罪の一部に手を染めていたり、数々のオウム犯罪が松本氏の下命により行なわれたことや、新人サマナの知らない松本氏の汚れを見聞きしているからです。
2007.08.31
コメント(0)
それは、今のオウム真理教のように、世界制覇するというような、大それたことではなく、オウムが正しい仏教の教えを実践し、この社会に仏教的なモデルケースとしての空間を作り、社会のお手本になろうという謙虚なものでした。そして、私は、精神向上の究極(きゅうきょく)である解脱・悟りと、菩薩としての救済、理想社会を説く、松本氏を、真のグルと信じて、出家したのです。帰依と依存心について オウムの犯罪とは、人間が自分の倫理観を捨てて、他者に盲目的に従うという、依存心の落とし穴とも言えます。オウムの信者は「グルが自分を解脱させてくれるから、帰依をする。」と言います。しかし、逆を言えば、世間の人は「自分を解脱させてくれるわけではないから、どうなったっていい。」のです。 「グルに、絶対的帰依をし、無思考でいれば、グルのエネルギーによって、ある日突然、智慧が生じ慈悲が生じ解脱できる。」、これがオウムのばかげた教えです。 ところが、伝統的仏教では、依存心こそ、解脱の妨げと説かれています。グルに対して、依存することを戒め、代わりに、グルに対して完全に心を開くことを説いているのです。絶対的帰依とは、主従関係を伴います。しかし、正しい仏教徒は、上下関係がなくても、心を開けることができます、法友にも、教団外の人にも、グルと同じように、心を開けるのです。 仏教の目的とは、究極的には、ブッダになることであり、ブッダになりたいなら、弟子自身が、慈悲心を、日々培う努力をしなければなりません。いくらグルが、慈悲にあふれていても、それはあくまで、他人の慈悲心であり、その他人の慈悲心を、いくら見つめていても、弟子自身(じしん)の慈悲心は、培かわれないのです。また、ずーっとグルの言うことを、盲目的に従い、自分で考える訓練をしないで、どうしてある日突然に、智慧が生じるのでしょうか? 絶対的帰依。オウムは、そして、私は出発の段階で誤った道を選択してしまっていたのです。それはグルを受け入れる代わりに教団外、いや仲間さえも拒絶する道でした。私はその後10年間にわたり松本氏に盲目的に帰依し続けていました。 時折、松本氏に疑問が生じたことがありました。「グルは、本気なのだろうか。」「これは、本当に、救済なのだろうか。」、等々、様々な思いが錯綜しました。 しかし、「絶対服従」という考えに呪縛され、その都度、「下から上は見えないのだ。」「これは、マハームドラーである観念崩しである。」とか、「グルには深いお考えがあるのだ。」と考え、盲目的な帰依をし続ける訓練をしました。そしていつしか「グルが言われているのだから・・・・・・。」と、自由で健全な意志決定力を完全に失い、自分で物事を考えることができない、自分で判断することに恐怖する人間、松本氏にすべてを依存するロボット人間になっていたのです。 今の現役信者は、この頃の私です。オウムでの松本氏に対する私の帰依 クンダリニー(霊的エネルギー)の覚醒から、幽体離脱の体験を、実際に自分自身で体験して、松本氏の持つ力に驚き、ますます私は、本物であるという確心を持つに至りました。 それは畏怖のようなものでした。私はこの体験以後、松本氏の言うところの全て、その一言(ひとこと)一言の全てを、全身全霊を傾けて信じるようになりました。 これは帰依と言う以外に、どのような言葉も適さないと思います。松本氏は、私にとって、信仰の対象以外の何ものでもなく、初めのうちは松本氏を通じ、その導きにより仏教的真理に到達したいと思っていたのですが、松本氏と接するうちに、松本氏こそ真理そのもの、真理を体現した人なのだ、と思うようになりました。※真理は人の数だけ、否、動物の数だけ、否、生き物の数だけ、あると思います。人によっては、鉱物も神だと言うので、鉱物にも真理があるのでしょう。ちょっと私はその意識からは遠いですが。とにかく、全ては神です。松本氏だけではないのです。こういうところが、菩薩には足らないところなので、心を広げて下さい。 松本氏自身やがては、自分は真理と最終的に合一したというようになりました。それ故、松本氏を信仰する私達全員にとって、松本氏への帰依は、それ自体喜びであり、松本氏を信じること、それ自体が即ち、真理を実践することだったのです。※松本氏はサタンの悟り、魔王の悟りを得ただけでした。菩薩の意識すら持っていない。阿羅漢の悟りにすら到達していない。阿羅漢は聖者です。 オウムの帰依は、解脱・悟りをあきらめるか、脱会しないかぎり、一生松本氏への絶対的帰依に縛られ続けるという、オウム真理教の信者にとっては、これが帰依のキーワードになってしまいました。この帰依という言葉を言い換えれば、それは完全な思考停止と松本氏に対する絶対服従こそが帰依の証(あかし)となってしまったのです。 その後、松本氏が悪魔的なまでに、傲慢になり、最終解脱したと称し、自ら神であり・仏陀であり・シヴァ大神の化身であると、称するようになったとき、松本氏に対するこの弟子達の純粋な帰依の念は、松本氏の欲望と野望、それがどんなものであれ、それを実現せずにはおかない、狂気となったのです。私自身、少なくとも、田口さん事件に関与したときには、このような狂気に捕われていました。しかし、その当時の私は、松本氏の言うことを実現する道具以外の何ものでもなかったのです。例え、松本氏の言うことに、疑念が生じたとしても、松本氏に対する絶対帰依・グルの意思の具現化というグルに対する絶対的服従心が、ゆうに、この疑念を封じ込めるほどになっていました。そして、松本氏の言うことに疑念を持つことは、それ自体で真理から遠ざかることなのだ。これが当時の私の帰依の帰結でした。 現在の時点で、松本氏の教えの誤り、その独善性と欺瞞(ぎまん)性を知ってしまった私は、この当時の私の思いを正確に表現することに、大変な苦痛を覚えます。田口さん、越智さんの事件に関与することに至った、そもそもの出発点が、この時、私が、松本氏を純粋(じゅんすい)な善(ぜん)なる気持ちで信じた結果の帰結だと思うと、深い絶望と、なぜだ!!と松本氏に問いたい、という思いが湧いてくるからです。ロシアでの活動について 私は教団組織よりも、信徒やサマナ中心に考えてしまう、この性格が疎(うと)ましく思われたのか、最後は、松本氏に「オウムの癌である。」とまで言われ、ロシアに飛ばされました。このような経緯で、ロシア支部へ送られたせいか、私は「裏」の非合法活動については、何も聞かされていず、従って私は何も知りませんでした。ロシアでの私は宗教活動のみを担当していたのです。 95年3月の地下鉄サリン事件直後、上祐氏は何の引継ぎもなく、たった一言「一週間で戻る。」と言って、日本に帰国していました。その後まもなく、ロシアでは、ロシアオウム真理教に対し、布教禁止令が発令されました。 私は一人ロシアに残り、何の情報も与えられないまま、ロシアの信者達の行く末を、死ぬほど心配して、後始末に追われる日々を過ごしていましたが、95年7月、私はモスクワ市警に逮捕されました。逮捕される前、私は苛酷なロシアに残るよりは、日本に戻りたいと思いましたが、私までロシアから逃げたら、次に刑事責任を追及されるのは、ロシアオウム真理教の創立に名を連ねた、ロシアのメンバー達であることは明白でした。私は逮捕され、予審として起訴するかどうか決まるまで、3年間に及ぶロシア検察当局による、いつ果てるともない長く厳しい取り調べを受けたのです。 聞くところによると、取り調べにあたった捜査官達の間では、「日本人は、皆逃げて、馬鹿が一人残って逮捕され、ロシアの責任者でもないのに、上祐の責任を負わされ、それでもロシア人が好き・ロシアの信者のためにと、この期に及(およ)んでも、走り回っている。」と、聞いたことがあります。この馬鹿とは、私のことだったのです。脱会について 95年の夏頃、ロシアで、坂本弁護士一家の事件が、オウムの犯行であったと知り驚愕しました。この事件は絶対オウムではないと思っていましたので、私は10年来帰依し続けてきた松本氏に対する信仰心が初めて大きく揺らぎました。それと同時に、私は松本氏を信じ、松本氏の力を信じ、松本氏のポワであるという言葉を信じて、心がズタズタになりながら為した、田口さんの事件を瞬間的に思い出していました。 さらに、地下鉄サリン事件も、オウムであることを知り、これはポワではない無差別殺人であると。ならばあの時の田口さんは本当にポワであったのだろうか? ポワでなかったとしたら・・・・・・。私は10年来の帰依をかけ、考えたくないという思いを退けると、慟哭の思いがわき上がってきました。その心然的に導かれる結論に青ざめ、茫然自失し、愕然としました。そしてそれは、激しい不安を呼び、途方もない悔悟の中でもがき苦しみ、時間を戻してほしいと、痛恨の極みに至りました。 田口さん事件当日、心に生じた「これはおかしい。」という一瞬生じた松本氏への疑念。そして「止めましょう。」と喉まで出ていながら、言い出せなかった勇気のなさと、四無量心のなさを自分で責め、悔悟の中ですべてが悲しく、悲しみの思いが深まるばかりでした。 もはや、ポワであったという宗教的確信は崩れ、「なんということをしてしまったのだ。」という後悔の念は、何度も何度も、私の臓腑をえぐり続けました。 それよりも、そんなことよりも、私が田口さんに与えた苦しみは、幾ばかりか。その悲しみ・苦しみは、私が一生かけても、百生かけても、償いきれるものではない。私は、心が潰れそうになりながらも、私の置かれたこの状況で「私に今何ができますか。」と考えました。そして私は、まず、ロシアの法友たちに、出来ることから始めようと思ったのです。 そんな時、96年3月に、仲のよかった脱会信者が、オウムの教義のでたらめさを完全に悟り、私にその手紙を送ってくれました。 衝撃的でした。今まで絶対の真理だと信じてきた、オウムの教えは、実は仏教とは、全く異質の方向性を持つ教えであり、尊師しかいないと思い込んでいた精神の師は、実は日本にも、世界にも、多数存在しており、修行だと信じて、今まで実践していたことは、実は心を解放させず、心を閉じこもらせる、実践であり、解脱を遠ざけ、悟りを妨げる実践であったのです。
2007.08.31
コメント(0)
Re:シルバーバーチの霊訓に書かれている“愛”http://plaza.rakuten.co.jp/spiritualizm/diary/200708310000/・・・こんなこと(08/31)(1)トノ01さん お久しぶりです。やっと出ました。私から見ると、過激な発言をされるので、興味関心を持って読んでいます。楽しみにしているので、更新、よろしくお願い致します。 シルバーバーチの言葉ですが、イエス様と同じような事を言っているなと感じました。少し、別の観点を紹介すると、敵という者はいないという意識を持っている者達も一杯いるのです。私にとって、サタンルーシェルは敵ではないのです。私と異なる考え方、存在の仕方をしているだけで、彼には、彼なりの正義があると思っているのです。どうしてもこれだけは譲れないという正義を彼は持っていると思うので、その正義の線に沿って、その系統で、もっと上の生き様をしているのです。サタンが納得する生き様を積み重ねているのです。だから、サタンは敵ではないのです。 下から見ると、悪に見える事も上から見ると、悪ではないのです。人類皆、おそらく、自分の正義を生きているのです。私はそこに共感する事からスタートかなと思っています。でも耐え難い考え方(障害者礼讃)をする者達もいるので、その生き様には距離を置いています。一杯一杯一杯涙を流して、受けたカルマを浄化致します。 苦しい事、悲しい事、辛い事、苦しいって言っていいんだよ、悲しいって言っていいんだよ、辛いって言っていいんだよ、神の前には、素直に、正直に、生きていきましょうというのが私のスタンス、生き様だからです。高貴な生き方なんて誰がするかと思っています。(2007年08月31日 22時26分50秒)Re:シルバーバーチの霊訓に書かれている“愛”・・・こんなこと(08/31)(2)トノ01さん しかし、高貴な生き様をする人も学びの対象だと思っています。おそらく、高いプライドの持ち主だと思われます。サタンルーシェル、元三大天使長の長の血統です。超ハンサムな超一流外人男優、サタンの血統なので、別に、サタンだからといって悪いわけではありません。人気あるんです。サタンに憧れる雌(人間ではないので女ではなくて雌と呼ばせて頂きます、まだ愛が解らない段階の存在、人の心(良心、善我)を持っていない動物です)一杯いるんです。しかし、サタンには愛が無いんです。物欲の主です。私が思った事も少し、書きました。 楽しみにしているので、何でもいいから、どんどん書いて下さい。特に自分の意見を書いて下さい。人生は自分の創造だから。よろしくお願い致します。(2007年08月31日 22時29分32秒) 物欲に生きていると、サタンの血統です。まだ、人間ではないのです。人間は愛を知っているので、良心、善我があります。家族、両親、御先祖様、親神様に迷惑をかけてはいけない、即ち、悪を為してはいけない、善を為さなければならないという心があるのが、人間です。 サタンには、そういう人間の信頼関係が無いので、婚外セックスという大罪を犯しても平気です。セックスは基本的には子づくりの為にします。自分と相手との血統の子をつくる神聖な行為です。婚外セックスをすると、とんでもない事が起きてしまうのです。血統が混じってしまうのです。それがどれだけ、罪か、夫婦間の愛、親子間の愛について考えれば解る事です。絶対にやってはいけない事なのです。しかし、サタンはへっちゃらなので。愛が無いからです。雄と雌には困ったものです。-引用開始-http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/10-11.html被告人の陳述(11) 元プンナ・マンターニプッタ正悟師こと大内利裕被告の陳述意見陳述書 1998年10月22日 私に対する起訴状及び各公訴事実について、私の意見を申し上げます。 まず、田口修二さんに対する殺人事件について、田口さんが殺害されたとき、私はコンテナの外で見張りをしていました。 また、追起訴状記載の越智直樹さんに対する死体損壊については、石井久子氏、山本まゆみ氏とともに、追起訴状記載のとおりの行為を行なったことは、間違いありません。 このように私が、田口さんに対する殺人・越智さんに対する死体損壊に関与したことは間違いなく、御本人と、その御遺族の方々には、想像を絶する大きな悲しみと苦しみを与え、償いきれない罪を犯してしまい、何とお詫びしてよいのか、言葉になりません。本当に申し訳ありませんでした。 また、オウム真理教の元教団幹部として、教団によって引き起こされたその他数々の犯罪によって被害者となられた方々と、その御遺族の方々、そして教団がかつてない大きな不安を日本全国の皆様に与えましたことを、心からお詫び申し上げます。 さらに、私を信じ、私の言葉によって、オウム真理教という迷宮に迷い込んでしまった信者の方々にも、私は深くお詫びを致します。 現在の私は、松本氏の教えが、完全に間違っていることがわかりますが、当時は松本氏を「尊師」と崇めて帰依し、その教えを唯一無二(ゆいいつむに)の真理と信じ、その呪縛に縛られていたために、服従せざるを得ませんでした。 松本氏の教えが完全な誤りであったことを認識した今、言葉では言い表せない悔悟と慚愧の中にあります。 今の私に出来ることは、田口さんと越智さん、そして、御両名の御遺族に心からお詫びするとともに、なぜ、私が松本氏の教えを信じるに至ったのか、そして、なぜ、田口さん・越智さんに対する犯罪に関与してしまったのか、それを出来る限り明らかにしていくことだと思います。 また、今でも松本氏の教えを信じている信者に、私がなぜ大きな過(あやま)ちを犯すに至ったかを知ってもらい、私のような過ちを、二度と、決して繰り返してほしくないと願って、この裁判に真摯に臨みたいと思います。入会・帰依そして出家 私が生まれたのは、阿武隈山麓の寒村でした。雑貨屋を営んでいた両親は、困った人を見ると、見ていられない質(たち)で、自分たちの仕入れ代金に困るようなときでも、貸し倒れ承知で、お金を貸したり、店の商品を持たせてあげたり、世のため・人のため・学校のためと尽くしていました。私も、そんな両親の感化で、子供の頃から、そのような生き方をしなければいけないという、漠然とした強い、救済願望がありました。 中学生の頃、教科書で平家物語の「盛者必衰の理をあらわす。」と言う言葉を、初めてみた時、大きな衝撃が走り、この世の移ろい、無常感が、私の胸を打ち貫きました。私の家も、今は、幸福な家庭かも知れない。しかし、いつまでも、このままなのだろうか? 私は家に帰り、長男に話してみると、縁起でもないと、一蹴されましたが、この後、変化しないもの・永遠なるもの・真実とは何かと、考えるようになりました。これが、私の精神世界への旅立ちでした。 その後、私は人並に結婚をし、それなりの幸福な人生が約束されていたように思います。しかし、心の中では、このままでいいのだろうか? 何かもっとしなければならないことが、あるのではないだろうかと、思い続けていました。大人になり、本音と建前を使い分けなければ生きていけないこの世界が、自分にはとても苦しかった。ふと、自分を振り返ってみると、私はいつしか、子供の頃の純真な心を失いつつあった。例えば、小さい頃は、饅頭が1個あったら、必ず大きいのと小さいのを作って、大きい方をいつも相手にあげていました。それが年を重ねるごとに、この饅頭の2つに割った比率が、どんどん真ん中によってきている。真ん中によった分だけ何か大切なものを失ったように思い、自分自身を許せないでいたのです。※この生き様は、菩薩の生き様です。他を優先する利他行は、菩薩行です。 何か本当の事がある。そして無常観を越え、嘘のない、本音と建前のない真実の世界があり、他(た)のために何か大事なことをしなければならないのではないか。こうして私は泣き叫ぶほど、霊的指導者である、グルを捜し続けていたのです。 そして私は1985年、松本被告に出会ったのでした。 当時の松本氏は、静かで謙虚で、清らかで、独特の雰囲気があり、話をすると、すごく心が落ち着きました。それは私にとって迷子になった幼子(おさなご)が母親を見いだしたような喜びで、グルである松本氏を「グル・グル」と寝ても醒めても考えるようになりました。また松本氏の教えは、今まで思い悩んでいたことの、解答を得たような気分にさせてくれ、ヨーガを続けていくと様々な神秘体験もしました。そのひとつに幽体離脱があります。これは臨死体験と言ったら、わかり易いと思います。 松本氏と出会って間(ま)もなく、私はヨーガの儀式の一種であるシャクティ・パットというものを受けました。これはヨーガの指導者が弟子の額に親指を当てて、霊的エネルギーを移入するというものです。この5日後の夜、私が自宅で寝ていると、不思議な、それこそ神秘体験としか、いいようのない経験をしたのです。背骨が火のついたように熱くなり、やがてオレンジ色の光が私の体を包むのが見えました。そして私の幽体は肉体から離れ、純粋な意識が抜け出した肉体を眺めていたのです。この時のこの体験が、その後長年に渡り、私を呪縛することになりました。 こんなこともあり、ますます私はすばらしいグルに、この日本で巡り会えたと松本氏を強く信ずるようになりました。この頃は、というよりこの頃だけ、松本氏も道を求め、修行していたと思います。ですから、松本氏の欲望も、野心も、かなり抑えられていました。またこの頃、神秘体験をさせる力があった。 しかし、だからと言って、彼が釈迦牟尼以来(いらい)の最終解脱者であるというのは、考えてみれば愚かな論理の飛躍でした。松本氏は「今の世の中は末法である。今後ハルマゲドンがくる。人類救済のために真剣に修行し、解脱・悟り、この世に、真の仏教の経典にある、千年王国を体現しよう。」と、言いました。
2007.08.31
コメント(0)
「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」、これが麻原死刑囚の悟りである。この悟りと「この世は全て苦である」という認識が、彼の最低最悪の行動を生んでしまったと考えられます。それで、その悟りに反論したいと思います。 自己の苦しみは苦しみであり、喜びにはならない。苦しみは仕方ないから、耐えるのであり、はっきり言って、前向きな意味など何も無いというのが私の見解です。圧倒的に障害となる。自業自得だから、諦めるしかないのですが、非常にマイナスとなってしまうという現実は動かし難いです。苦しみは失敗と思います。これが私の認識です。 他の苦しみは、他の失敗であり、他はそこから、学び取らなければならないのです。その主体性を奪う事は、最もしてはいけない事だと私は思います。主体性は最も尊いものだと私は思うから。他の神性・仏性を信じるのだ。自分で全てやる力があると信じさせて頂く事が一番の愛だと私は思います。他の尊厳を卑しめるような事をしてはいけない。自分が思った事、言った事、した事の責任を取るのは自分だけです。これが自分の尊厳なのです。 この世が全て苦だったら、この世は存在し得ないのです。この世が楽だと思っている存在達がいるから、その存在達の為にこの世は存在しているのです。全ての存在界は神の愛によって成り立っています。言い換えれば、そこに住む存在達の楽の為にその存在界は存在しているのです。徳分の勘定がマイナスになったから、苦を感じていただけで、徳分の勘定がプラスになれば、楽を感じるのです。そういう仕組みです。だから、積徳惜福の生き方をしなければいけないというのが私の悟りです。 自己犠牲は迷惑です。自己犠牲された方もその分、誰かに自己犠牲しなければいけなくなって、不幸の拡大生産になるから。愛は自己犠牲ではないのです。愛したいから愛するのであって、愛したくなかったら、愛さないのです。人間は機械ではないのです。全ての人を平等に愛せるわけないのです。そういうのを観念的な悟りと私は言っています。自分と似ている存在を一番愛するのは当然の事です。自分と全く似ていない存在を愛さないのも当然の事です。 愛は仕事ではない。プレゼントだから、自分の自由意思でできるんです。仕事は、お金を戴いた分、サービスを提供するという事です。仏陀釈尊が全人類を平等に愛しましたか。イエス・キリストが全人類を平等に愛しましたか。地道に一人ずつ愛していったのではないですか。弟子達の方が、弟子でない者達よりも、より多くの愛を受けたのではないですか。自分の説法を聞きに来ない者達と、一生懸命耳を傾けて聴いてくれる者達とを平等に愛するわけないのではないですか。 麻原死刑囚には、現実を生きる事を学んで欲しいと思います。自分に一番近い者達を一番大切にするのが人間関係の基本だと思います。別に愛着しているわけではないのです。感謝しているのです。麻原死刑囚よ、人を力で支配しようという考えは正しくない。自由意思で自分を支えて下さっているから、感謝なのです。麻原死刑囚よ、貴方を支えて下さっていた者達は一杯一杯いる。感謝の気持ちになりませんかねえ。 この世にあるささやかな喜びを肯定する事できませんか。-引用開始-http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/10-10.html元マハー・ケイマこと石井久子被告の陳述 本当の宗教とは、生きる喜びを与えてくれるものではないのか。真理を知りたいというのもその喜びを得るためではないか、それが本当の宗教といえるものではないかと気付いたのです。仏教の修行は自分の中に存在する心の本質、すなわち、真の自己を見いだすためのプロセスですが、オウムの修行は形は似てはいますが、グルヘの依存心を極限まで強めることによって、自己を見失うプロセスであったと気付いたのです。見かけは似ていても、オウムの教義は仏教とは根本から違います。真理を知るために、全てを犠牲にし、人間らしい感情を否定し、信じないことは地獄への道と思いこまされ、いつのまにか、麻原の教義は恐怖と猜疑が中心となっていたのです。この教義も、この教祖も、本来の宗教の原点とは程遠いものになっていっていったのです。 自分の人生と自分の心を取り戻して欲しいのです。 私のオウムでの経験と、オウムが為したことを深く心に留め、反省の念を持ち続けていこうと固く決意しています。私の今後の人生において、出来る限りの贖罪を為していきたいと思います。-引用終わり- 麻原死刑囚よ、自分のこの人生、成功だったと思いますか。もし失敗だったと思うのならば、巻き込んでしまった弟子達への責任はどう思いますか。プロは頂戴したお金の分は、それに見合うサービスを提供しなければいけないと思われます。逆に言えば、核戦争を止めるとか、第三次世界大戦を止めるとか、人類を救済するとか、そんな誇大妄想を実現する必要全くないと思われます。自分の積み上げた功徳の分しか、他の為になる事はできないのが現実です。それともう一つ、超重要な事は、自分より幸せな者達に愛を与える事はできないという事です。だから、一番大切な事は自分自身を最高最大に幸福にするという事です。自分を幸福にした分しか、他を幸福にする事はできないという人間のレベルについて学んで下さい。神様は最高最大の幸福者だと思われます。喜びを否定するのは間違っていると思われます。結局、貴方は物欲の権化になってしまったではないですか。人の道から外れてしまったではないですか。聖者になっていないではないですか。あの世は地獄以外の世界はプラスの積み重ねです。プラスの生き様の結果の世界です。マイナスな事やっても意味無いです。地獄に堕ちるだけです。考えてみて下さい。 心豊かな世界が高次元の世界だと私は思っています。要するに、一杯愛を与えた世界が高次元の世界です。愛の質の高い世界、人格の高い世界、質の高い心の世界が高次元の世界だと思います。考えてみて下さい。空っぽな世界、透明な世界ではないと思います。 愛の原点は家族愛だと思います。自分ではない人の事を考える最初の人が家族だと思います。家族に迷惑はかけられない。両親に迷惑はかけられない。御先祖様に迷惑はかけられない。神様に迷惑はかけられない。 そして、隣人に迷惑はかけられない。弟子達に迷惑はかけられない。人間の心の基本です。人間性を成長させる事が進化だと思います。心の成長が悟りの世界だと思います。
2007.08.30
コメント(0)
シッダアーサナ(達人座)1両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。2左脚を折り曲げて、踵を会陰【えいん】につける。足の裏は太ももにつける。3手を使って右脚を折り曲げて、踵を恥骨の前に置く。足先は左脚の太ももとふくらはぎの間に差し込む。4手は、自然な形で膝に置く。(つらくなったら、左右の脚を組み替える。)パドマアーサナ(蓮華座【れんげざ】)1両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。2手を使って左脚を右もものつけ根に乗せる。3右脚を左もものつけ根に乗せる。4手は膝に置く。(つらくなったら、左右の脚を組み替える。) 五種の座法を覚えたところで、標準的な修行プログラムを知っていただきたい。 修行期間の四カ月は、一カ月ごと四期に分けられる。第一カ月目は一時間、二カ月目は二時間、三カ月目は三時間、四カ月目は四時間の修行時間が必要である。修行内容は、以下のとおりである。 独習の場合は、危険を冒さないためにも、このプログラムで行なうこと。また、このプログラムどおりでやってみても、心身に変調を来したときは、必ず問い合わせること。特に、効果の高い行法を選んであるので、決して無理をせず、自分の状態に合わせて行なうことが大切である。 プログラムの期間はあくまでも目安であって、それ以上かかっても構わない。 それでは、全期を通して行なうアーサナから入ろう。アーサナは普通の体操と違い、呼吸法、精神集中、保持(体を一定の形に保つ)が含まれている体位法である。大きく分けると、1前屈、2伸展、3ねじり、4首を柔軟にし強化する、の四種のアーサナがある。本書では多くのアーサナを載せてあるが、それぞれの種類から、二、三のアーサナを選んでほしい。それを毎日一時間ずつ続けるのである。 疲れたら必ず、次に挙げる「シャヴァアーサナ」をして休むこと。シャヴァアーサナ1仰向けになり、脚は一五度に開く。腕は体から少し離して、手のひらを上へ向けて自然に床に置く。目は軽く閉じる。2体の末端である指先、足先から心臓へと向かってゆったりと弛緩していく状態を意識する。3全身を緩め、リラックスした状態を保つ。(写真6) ※注意……ヨーガは、ただがむしゃらにやれば効果があるというものでもない。緊張と弛緩も重要なポイントである。そのためには、全身をリラックスさせる「シャヴァアーサナ」に熟達しなければならない。また、このアーサナを終えて起き上がるときには、その前に手足を曲げて一度力を入れてからにするとよい。前屈のアーサナガス抜きのアーサナ1体を真っすぐにして、仰向けになる。2左脚は、力を抜いて自然に伸ばしたままで、右脚を折って、組み合わせた手で押さえる。3息をいっぱいに吸い、ゆっくりと吐きながら腕で右脚を引き寄せ、それとともに上半身を持ち上げていき顎を膝につける。そのまま普通に呼吸をして二十秒から三十秒間保つ。4息を吸いながら、脚と上半身を元の状態に戻していき、2の姿勢に戻る。52から4までを三回繰り返して、1の姿勢に戻り、次に反対の脚で同様に三回繰り返す。65までが終わったら、両脚で同様に行ない、1の姿勢に戻って終了する。 ※注意……曲げた脚が外側を向いてしまう人が多いので、必ず体の真上に来るように気をつける。鷺【さぎ】のアーサナ1両脚をそろえて、前に伸ばして座る。2背すじを伸ばしたまま、左膝を立てて両手で足首を持って踵を脚のつけ根につける。3左足を少し上げて、組んだ両手で左足の裏を持つ。4ゆっくりと息を吸いながら、膝を伸ばしていき脚を持ち上げる。脚が伸びきったら息を止め、左脚の親指を見つめ五秒間保つ。5ゆっくりと息を吐きながら、左脚をいっそう上げて額につける。息を止め五秒間保つ。6ゆっくりと息を吸いながら、左脚を額から離して4の姿勢へと戻る。7ゆっくりと息を吐きながら、左脚を曲げて321と逆に戻っていく。1に戻ったら反対の脚で同じことを行なう。 ※注意……常に背すじは真っすぐに伸ばしておく。額に脚がつかなくても、背中を丸めてつけるのでは意味がない。つかなくても、練習を重ねて完成に近づけていくことが大切である。頭を膝につけるアーサナ1両足を前に伸ばして座る。2左脚を曲げて、踵を会陰部につける。曲げた左脚は床につけておく。3両腕を伸ばし、右手の人さし指と親指で右足の親指をつかむ。次に左手の同じ指で重ねるようにつかむ。右膝が曲がらないように、注意する。43の状態で下腹を引き締めて息を吐き、次に緩めて息を吸う。5ゆっくりと息を吸いながら、腰を引きつけ顎を上げて背中を反らせる。十分に息を吸ったら、五秒間そのまま保持する。6ゆっくりと息を吐きながら、顎、背中、腰を緩めるように前に倒していき、額を右膝につける。このとき、両膝の外側をはさんだ両肘【ひじ】は床につけ、背中は、丸くなっている。7なおも息を吐きながら上半身を前に倒していき、両手で右足の親指を引き寄せ、額を膝から足首の方へ滑らせていく。それとともに胸、腹は右脚につき、背中は伸びる。上半身がぴったりと右脚についたところで吐く息を止め、その姿勢を十秒保つ。8ゆっくりと息を吸いながら、頭を膝まで戻していき、上半身を起こして3の姿勢に戻る。両手を右足の親指からゆっくり離して元に戻る。9少し休んだ後、反対の脚で同様に行なう。 ※注意……全部を通して、伸ばした方の脚は膝が曲がらないようにする。もし脚の親指がつかめなかったら、膝でも足首でも、つかめるところから始めて、徐々に親指にまで持っていくようにすること。背中を伸ばして前屈するアーサナ1両脚を前に伸ばして座る。2左脚を曲げて、足の甲を右の太ももの上に深く乗せる。3左手を背中側から回して、左足の親指をつかむ。4右手は人さし指と親指で右足の親指をつかむ。このとき、左膝が床から離れないように注意し、両肩と右足の親指で二等辺三角形を描くようにする。特に肩が床に傾かないように注意する。5ゆっくりと息を吸いながら、背すじを伸ばして五秒保つ。6ゆっくりと息を吐きながら、上半身を倒していき、顔、胸、腹の順に右脚につけ、十秒間そのまま保持する。7息を吸いながら、ゆっくりと上半身を起こしていき、右手を離す。次に左手を離し、左脚をゆっくり前に伸ばす。1の姿勢に戻って少し休み、反対の脚に替えて同様のことを行なう。 ※注意……「頭を膝につけるアーサナ」と違い、背すじは常に伸ばすように心がける。カエルのアーサナ1金剛座で座り、次に英雄座へ移る。両膝がついているように気をつける。2手のひらを膝の前に置く。そのままゆっくりと息を吐きながら、上半身を前に倒していき、肘を床につけ、胸は膝につける。3次に、ゆっくりと息を吸って保持しながら、顔を斜め上へ向ける。このとき、首に力を入れて反るようにする。4三十秒ほどそれを保持した後、ゆっくりと息を吐き出す。51から4を二、三回繰り返す。 ※注意……背中を丸くしないで、腰から曲げるようにする。太っている人はやりづらいだろうが、根気よく練習すれば、できるようになる。膝に鼻をつけるアーサナ1両足をそろえて前に伸ばして座る。2膝を腰の後ろにもっていき、手のひらを床に置く。3息を吐く。4息を吸いながら、ゆっくりと両脚を伸ばしたまま上げていく。5次に頭を前に出し、鼻を膝につける。6そのままの姿勢で、五、六回普通呼吸をする。7ゆっくり息を吸いながら中間まで脚を下げ、次に吐きながら2の姿勢に戻る。8これをもう二回繰り返す。黒蜂のアーサナ1金剛座で座る。2息をいっぱいに吸って五秒間保持する。3ゆっくりと息を吐きながら、上半身を前に倒していく。そして、肘を膝の前の床につける。4次に軽く頭を上に上げ、口から息をいっぱいに吸う。そのまま自分の限界まで息と姿勢を保持する。5我慢できなくなったら、その姿勢のまま鼻から息を出す。そのときハミングをして、蜂の羽音に似た音が出るようにする。再び口から息を入れ、これを三回繰り返す。65を三回繰り返した後、口から息を入れながら金剛座に戻る。前屈のアーサナの効果1各部分の関節や筋肉を緩め、柔軟にする。2心を落ち着かせ、瞑想に入りやすくする。3眠りを深くする。-引用終わり-
2007.08.30
コメント(0)
アージュニァー・チァクラの崩壊 初めて宇宙神素の光を知った数日後、わたしは一段と上の段階に上がった。この日を境に、アージュニァー・チァクラへの精神集中がなくとも、絶えず光の中にいられるようになった。そのためには、アージュニァー・チァクラの崩壊が必要だったらしい。 そのときわたしはシャヴァアーサナをしていた。気づくと寒さのために体をねじっている。これが頭が熱くて体が寒い状態か。わたしはあるヨーガ行者に言われたことを思い出した。体を真っすぐに直すと、クンダリニーが突き上げてきてアージュニァー・チァクラの所で止まった。 わたしはアージュニァー・チァクラに精神集中をしてみた。しばらくの間、わたしはアストラル体で劇を演じていた。それが終わると、わたしの周りで四人の小人がうるさく騒ぎ始めた。「うるさいなあ。集中できないじゃないか。」アストラル体にあるわたしの意識がそう思っている。「自分はここにいるんだ。」瞑想のときいつも出てくる意識が、肉体にくっついたままこう思っている。このときわたしは二つの意識を同時に持っていたわけである。ここで少し触れておくと、人間は四つの意識を持っているのだ。わたしがこのとき使っていた意識の他に、日常的な活動をしているときの意識と熟睡時の意識がある。 さて次の瞬間、ものすごい圧力がアージュニァー・チァクラにかかった。「目をやられるのではないか。脳をやられるのではないか。」そういう恐怖を感じるほど、強い圧力だった。しかしそれと同時に、「わたしはこれを――眉間に穴を開けられるのを、数百年の間待っていたんだ。耐えてみよう。」という思いもわき上がってきた。わたしはさらに精神集中を続けた。すると、ボーンという大きな爆発音とともに、わたしのアージュニァー・チァクラが崩壊したのである。このとき、わたしの“光のヨーガ”が完成した。すべては光でつくられる わたしはいつも光の世界にいるようになった。自分のアージュニァー・チァクラが光り輝き、炎のように見えた。 あるときは、瞑想中に空元素を見た。スカイブルーの光で構成され、形は一カ所が切れている円形である。ぐるぐると左回りに回転しながら、わたしのアージュニァー・チァクラに近づいてくる。近くまで来たとき、それが右側に何かを引っ張っているのがわかった。空元素はアージュニァー・チァクラに吸い込まれていった。そのとき、引っ張られてきたのが、心臓内のヴィジョンであったことを知った。心臓内のヴィジョンとは、コーザル体(原因体)と呼ばれる生の源のことである。これは心臓に存在しているのだ。 コーザル体は、六つの光球から成り立っている。それは、真我【しんが】、神素、我執、微細生気、微細根本自性、絶対者ブラフマンの六つである。真我は湖面に映るダイヤモンドのような光である。神素はライトブルー、我執は青緑、微細生気はバラ色、微細根本自性はミカン色である。そして、絶対者ブラフマンの光球は白である。コーザル体の説明は、光の色についてだけにしておこう。今回は、“光のヨーガ”に関連して少々触れてみただけなので、詳しいことは後の機会に譲りたいと思う。 ある日は、人の感情も光によって表わされることに気がついた。頭頂にあるブラフマ・ランドラを霊視すると、感情の状態によって、その中にある「意思球」と「イメージ球」の色が変化するのである。それは、自分の場合でも他人の場合でも同じである。例えば、情欲があるときは、その光球は赤黒くなって波打つのだ。 最終的には、全宇宙の構成物質の中で、一番高レベルのものが光であることを知る(全宇宙は、光、音のヴァイブレーション、粗雑物質でできている)。 そろそろ“三昧”の段階に修行すべき、五種類のヨーガについての説明を終わることにしよう。これらは皆、解脱のための重要なジャンプ台だ。そして、最後の瞬間に用いるのが残りの一つ“意識を移し変えるヨーガ”なのである。これについては、解脱の項で述べよう。なお、“バルドのヨーガ”“夢見のヨーガ”“幻身のヨーガ”“光のヨーガ”についてはとても奥が深く、とてもここですべてを書くことができなかった。そのことをお断りしておかねばならない。生死を超えるWednesday, September 27th, 20064.そして解脱へ――如実知見――真実の世界を知る “三昧”がクリアできると、“如実知見”の段階に入ることができる。だが、その前に“三昧”でわたしが到達した考えをお話ししよう。整理して書くと次のようになる。 1諸行は無常である。 全宇宙、全次元の万物は流転するものであり、決して元の形をとどめることはない。 2諸法は無我である。 もろもろの観念・社会通念は、真我(本当の自分)の所有物ではない。 3存在が悪業を積む。 人間も含めて生き物は、存在している(生きている)こと自体が悪業の源となってしまう。例えば、殺生や嘘が悪業に含まれる。 そして、「いっさいが苦である。」という結論を得た。これが“如実知見”である。“三昧”によってすべてを知ってしまうと、“如実知見”が生じるのである。皆さんもこの状態に至ると、必ずそれを感じるはずだ。遠離と離貪――心の解放 ところで、ここまで来たら、一時的にでも社会生活から離れた方がよいだろう。弟子や友人からも離れなければならない。なぜなら、このころになると見る世界、感じる世界が普通の人と違ってしまうからだ。考え方にも隔たりがあって、うまく合わせることなどできなくなるだろう。そういうことが積み重なると、精神的に異常を来す恐れがあるし、自分でも他人を避けるようになってくる。それだけでなく、この期間は自分を確立するためにも離れなければならない。今までの過程を通ることによって、全く違う自分になっているので、何の影響も受けないようにして確立しなければならないのである。これが“遠離”の段階である。わたしはこの時期、ヒマラヤ山中などで修行していた。だれにもわずらわされずに修行に没頭できたのは、後にも先にもこの時期だけである。なにしろ、日本にいては逃れられない電話さえないのだから。 さて、新しい自分を確立するためには“離貪”の行を進めなければならない。“離貪”の行としては、特殊な瞑想が有効である。その瞑想は、心、体、物質などのすべてをグルに差し出すというものである。解脱はニルヴァーナへのパスポート この行を終え、心が消滅し真我が何の影響も受けなくなると、いわゆる唯我独存の状態が訪れる。これが解脱なのだ。生きていながらにして、苦のない状態である。また、好きなときに肉体を捨てて、ニルヴァーナに入ることが可能になっている。ただ、ニルヴァーナに入ってしまうと、二度とこの世には帰れない(帰る必要がない)ので、その時期は慎重に選ばなくてはならない。 ニルヴァーナに入った後は、意識も体も不滅となる。つまり、四大苦といわれている生老病死が存在しない。しかも、真我は永久に歓喜状態である。ここに真の幸福があるのだ。 しかし、わたしは解脱はしたが、ニルヴァーナには入らないつもりだ。この世の生を終えても、また人間界に生まれ変わるつもりだ。何回でも何回でも生まれ変わって、すべての魂をニルヴァーナに送るのがわたしの使命なのだから。これが、わたしが前世において解脱してもニルヴァーナに入っていない理由である。 もしこのわたしが、この世の体を捨てたとする。何もしないでいると、自動的にニルヴァーナへ入ってしまう。これはわたしの本意ではない。そこで“意識を移し変えるヨーガ”が必要となる。これはいわば、自由に転生するための練習である。何もわたしだけとは限らない。大乗の仏陀(大救世主)に必要なヨーガである。大乗の仏陀は、何回も生まれ変わって人々を救済し続けているからだ。意識を移し変えるヨーガ――ポワ では、最後の修行となる“意識を移し変えるヨーガ”について述べよう。これは瞑想で三昧に入って意識を移し変えながら、あらゆる転生を体験して転生を知り尽くすのだ。これをやっておくと、死んだ瞬間に自分の望む世界に意識を移し変えることができるのである。わたしが死後の世界を熟知しているのも、このヨーガをやったからである。 それでは、次の章でクンダリニー覚醒などの具体的なテクニックを書くことにしよう。生死を超えるWednesday, September 27th, 2006第二章 実践テクニック四カ月楽々クンダリニー覚醒法1.アーサナがすべての基礎だ 第二章では、行法をご紹介する。いずれもクンダリニー覚醒を主眼としたものである。きちんと修行をすれば、初心者の場合でも、四カ月程度でクンダリニー覚醒にまでこぎ着くことができるだろう。 第一章でも述べたように、クンダリニー覚醒は、解脱への重要な第一歩である。それ以降は解脱者が直接相手にコピーしなければならないので、本書には書くことができない。その点をどうかご了承願いたい。もしこの段階に到達した人で、わたしからのコピーを希望する人はご連絡を――。 では、調気法や瞑想を行なうにあたって、必ずマスターしなければならない基本座法五種から始めよう。ヴァジラアーサナ(金剛座) これは、いわゆる正座である。膝頭【ひざがしら】をそろえ、背すじを伸ばす。肩の力を抜き、顎【あご】を引く。足の親指は、軽く触れ合うようにする。手は膝に置く。ヴィラアーサナ(英雄座) 最初に金剛座で座る。次に両脚を尻の両側にずらし、尻を床につける。両脚はつけておく。手は膝に置く。スワスティカアーサナ(吉祥座【きっしょうざ】)1両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。2左脚を折り曲げ、踵【かかと】を右の太もものつけ根につける。足の裏は、太ももにつけておく。3手を使って、右脚を折り曲げ、踵を左もものつけ根につける。足先は、太ももと、ふくらはぎの間に入れる。左右の親指だけが見える状態がよい。4手は、自然な形で膝に置く。(つらくなったら、左右の足を組み替える。)
2007.08.30
コメント(0)
修行者の死 魂は透明で明るい死後の世界へ飛び込んでいく。この一瞬に、修行者だった魂で資格あるものは、ニルヴァーナ(涅槃【ねはん】)に入ることができるのだ。その資格とは、生前の修行でほとんど完成しているということである。 もし、完全に完成している解脱者であったなら、全く違う過程をたどるので少し触れておこう。 解脱者は自分で自在に死をコントロールできるようになっている。まず、死期を自分で選べる。要するに、この世での役目が終わったとき自由に肉体を捨てることができるのだ。そのときは、先程述べたような死のプロセスは必要ない。カルマは修行で消滅してしまっているし、魂は簡単に肉体から飛び出せる。肉体を持っている状態から、死の状態に意識を移し変えるだけですんでしまうのだ。これは、“意識を移し変えるヨーガ”の応用である。これについては後で述べよう。解脱者の魂は直接明るい死後の世界に飛び込める。そこから、ニルヴァーナへ入れるし、特別に望むなら、人間界やその他の世界に生まれ変わることもできるのである。死後の世界でも自由になるのだ。光に飛び込め! では、修行していなかった普通の人間は、死後の世界に入った後どうなるのであろうか。最初にとてもまぶしい透明光が射し込んでくるだろう。そのゾッとするような美しさ、強烈さにほとんどの魂は恐怖し、動けなくなるだろう。もし、それに飛び込むことができたら、無色界と呼ばれるニルヴァーナに次ぐ素晴らしい世界に行くことができるだろうに。そこに飛び込めるのは、生きている間に心の浄化ができ、かつ完璧に真の宗教心を培った人である。そこは、光だけで構成された高い精神状態の世界である。そこに生まれ変わると、光の身体を持ち、寿命は数千億年といわれている。仏教で法界と呼ばれているところである。わたしはよくここを訪ねる。そして、サーリプッタ(釈迦牟尼仏の第一の弟子)から仏教の精神的な理論を学ぶことが多い。 この光は、半日から一日続くが、この光に飛び込めなかった魂には、次の光が射してくる。その光は透明に近い白銀光だ。この光に飛び込めば色界に生まれ変わることができる。仏教で報界と呼ばれている世界である。そこは、絶妙の物質で構成されている。ここの食物は光である。衣服も光でできている。もちろん、普通の魂にはまぶし過ぎて飛び込めない。飛び込めるのは、宗教上の功徳が非常に高かった人の魂のみである。 やがて白銀光は消え、代わって美しい赤紫の光が射してくる。赤紫といっても、ムーラダーラ・チァクラから立ち昇る、精力を表わすエネルギーの赤紫とは異質の色で、大変美しい。その光に入れるのは、衆生(すべての生き物)に対する愛の強い人だ。その世界は、変化身の住む世界であり、天界の中でも高次元にある。仏教では、応界と呼ばれている。マイトレーヤ(弥勒菩薩【みろくぼさつ】)が住んでいることで有名な兜率天【とそつてん】がここの中心である。釈迦牟尼仏も実はここから人間界に降りてこられた。チベット仏教の総帥であるダライ・ラマもここから降誕された。実は、このわたしもそうである。また、ここに生まれ変わると、天龍になったり、修行者を励ます天女になったりする。 わたしが解脱する前、ヒマラヤ山中で修行しているときのことである。くじけそうになると決まって、パールヴァティー女神が励ましてくれた。女神は応界に住んでおられ、赤紫色の光線に乗って、人間界で修行中のわたしのところに来てくださった。とても優しい方であった。生前のカルマが転生を決める 普通の人間は、応界にも入っていけないだろう。したがって次の光を待つことになる。そして、光からだんだん具体的なヴィジョンへと移っていき、それぞれの魂は自分に合った世界へと飛び込んでいくのだ。死んでから四十九日目が最後の世界である。飛び込んだ後は、吸い込まれるように落ちていく。たいていの場合、性交のヴィジョンが見え、無意識にそこへ飛び込んでしまう。すると、落ち着く先が子宮であったり、卵の中であったりというわけだ。だから、長くとも四十九日後には新しい世界で生を受けていることになる。 ここで留意していてほしいことがある。それは、死ぬ前が人間だったからといって、人間界に生まれ変わるとはいえないということである。第一日目から次第に次元が落ちていき、人間界はずーっと下なので四十三日目くらいに回ってくる。四十五日くらいになると、動物界だ。一番最後の四十九日は、地獄である。一般に「地獄に落ちる。」と言うが、魂がそのまま地獄に落ちるのではなくて、地獄に生まれ変わるのである。 わたしは、バルドのヨーガによって、すべての世界の転生を体験している。しかし、量が多いので、今回は全部は載せられない。そこで、現存する書物に書かれていないことを、ここに書いてみた。したがって、他の書物でもわかる箇所は省いてある。興味のある人は、『チベット・死者の書』を読んでみるといいと思う。あとは思い浮かばないなあ。みんな死後の世界について、嘘ばかり書いてあるから。だいたい、「ただ信じていれば死後幸せになれる。」という類いの宗教が多過ぎる。そんなに甘いものではないはずなんだけれどね。それを信じてしまうのも、まさにカルマとしかいいようがないだろう。バルドのヨーガが知らしめるもの このバルドのヨーガは次のような結果を生む。 1死後の世界の存在を確認できる 2転生の秘密を知る 3功徳(よいカルマ)と修行の必要性を理解する 4功徳と修行以外が無力であることを知る すると、この世のすべてのものが幻影であると感じるようになる。そのことで、執着から離れることができる。これが解脱への大きな布石となるのだ。夢見のヨーガ――あなたが世界の創造主 “バルドのヨーガ”の次にわたしは、“夢見のヨーガ”の段階に入った。これは、アナハタ・チァクラに精神集中し、イメージし続けることから始まる。そして、この世と全く違う世界をつくり出して、そこに遊ぶことができるのである。その場合の主人公は必ず自分だ。その世界では、触れることも、見ることもできる。聞くことも、におうことも、味わうこともできる。その上考えることもできるのである。あなたも自分がつくり出したイメージの世界で、思うがままの体験ができたら素晴らしいと思うのではないかな。決して普通の夢とは違う。テレビを見たり、本を読んだりする追体験とも違う。この世で体験するのと同じ実体験をするのだ。 現実同様、イメージでつくり出した世界でも実体験ができる。だったら「この世」だと思っている世界も、実際はイメージでつくっているだけなのではないだろうか……。イメージの世界に入っていけるレベルになった修行者は、やがてこの歴然たる事実に気づく。これは体験した者でないとわからないのだが、イメージの世界でも、アストラル体(異次元)でも、この世と全く変わらない自分を存在させることができるのだ。しかも、そのあらゆる世界への出入りは自由だ。それだけではない。行が進むと、この世にいてさえ、自分の思いどおりにすべてを操ることができる。要するに、この世と他の世界との間に、隔たりがないのである。この世も幻影、異次元も幻影、このヨーガによってそのことを悟るのである。 それでは、幻影でない世界はあるのだろうか。たった一つだけあるのだ。それが、ニルヴァーナである。幻身のヨーガ――時空を超える “夢見のヨーガ”が完成したころ、わたしはヴィシュッダ・チァクラを開発しようと思って、ビバリータ・カラニーというムドラーを始めた。一日に三時間ずつ、五カ月間これを続けた。すると四カ月ほど経ったころ、ある変化が現われたのだ。ビバリータ・カラニーが終わった後は、長時間のシャヴァアーサナというアーサナをとらなければならない。その間に瞑想していると、二時間くらい経ってブーンというハチの羽音のような音が聞こえてくるようになった。しばらくして、周囲の様子が一変してしまう。そして、自分が時や空間を超えた場所に移動してしまっていることを知るのだ。自分が育った当時の家に行っていたり、我が家の一階から二階に移動していたこともあった。シヴァ大神の神殿に飛んでいたこともあった。テレポーテーションである。これは幻覚でも嘘でもない。そのうちに、テレポーテーションしたわたしを目撃したという人も現われた。 ある日、R子さんというOLが、渋谷のバス停でわたしを見かけたという。挨拶【あいさつ】をしようと思って声をかけたが、返事をしない。それどころか、すぐ目の前にいる彼女が目には入らないようだった。わたしが歩き出したので、つられるように後を追ったがどんどん先に行ってしまう。そして、とうとう見失ってしまったのだという。 後でこの一件を聞いたのだが、わたしはその時間にはビバリータ・カラニーをやり過ぎて、気絶していた。いうなれば、深い瞑想(虚空三昧【こくうざんまい】)状態である。その間無意識にテレポーテーションしてしまったらしい。 またこのころは、会う人会う人がわたしを見るなり「今日は顔がいつもと違いますね。」とか、「今日はいやに身長が高いですね。」と言うのであった。わたしの体つきとか顔が、瞬間的に変わってしまうのだ。 このようなことを通じてわたしは、時も空間も、そして自分自身さえも幻影だったのだと思うようになった。わたしはこのヨーガを“幻身のヨーガ”と呼ぶことにした。光のヨーガ――神が送る光のサイン やがて三昧においての最後のヨーガである“光のヨーガ”の段階に入る。このヨーガによってこの世や異次元を構成している光の意味を知るようになる。これは例を挙げないとわかりづらいので、わたしが見た順に説明していこう。これらは、解脱直前のヒマラヤ山中や富士山麓での修行中に起こったことである。わたしは宇宙神素を見た わたしは、眉間【みけん】のアージュニァー・チァクラに精神集中をし、宇宙神素【うちゅうしんそ】を見た。宇宙神素とは、宇宙の根源的なものからの伝達で、アーカーシック・レコードとも呼ばれている。それは巨大な球体光で、わたしはそれに溶け込んでいた。ところで、このときは溶け込んだのだと思ったが、本当は違っていた。修行が進んでわかったことだが、ブラフマ・ランドラ(頭頂)と心臓から二本の赤紫の光線が出て、宇宙神素と結ばれるのであった。いずれにしろ、あまりにもそれが巨大だったので、一度に形状をつかむのは困難だった。だから以下に述べるのは、その後何回も宇宙神素に溶け込んだ結果、わたしが推察したものである。中心は透明で、その周りが青、青紫、赤紫と色が混ざり合いながら変化し、一番外側が赤である。中心の透明な部分には、細かい点が無数にうごめいている。その点は、中心に行くほど白くなり、外側に行くほど黒っぽくなっている。その一粒一粒が情報である。例えば、中心の白い点は宇宙的なレベルの情報で、外側に行くほど個人的な情報になる。わたしが人に頼まれて予言したりするときは、ここから情報を得るのである。
2007.08.30
コメント(2)
“軽安”は瞑想の条件 あなたは、不思議に思うことがなかっただろうか。瞑想のためとはいえ、よく長時間座りっ放しで平気だなあ、と。ごく少数ではあるが、ヨーガ行者の中には、何日座り続けても平気な人がいる。釈迦牟尼仏も七日ずつの瞑想を七回行なった、と伝えられている。わたしも実は不思議だったんだ。自分が長くは座れなかったからね。座ることが、苦痛で苦痛でたまらなかった。足はしびれてしまうし、腰は痛くなる。全体的に体が重くなってしまうし、雑念はわく。そうするとイライラしてしまって、やたらとトイレに行きたくなってしまうんだ。あるときなど、「ああ、今日は長く座れた。」とうれしく思って時計を見たら、なんと十五分しか経っていなかった。それほど苦痛であった。だから、長時間の瞑想というのは、わたしの修行における七不思議の一つだったのだ。 ところが、この“軽安”に至った途端にすべてのナゾが解けてしまったのである。ここでは肉体的な痛みを感じなくなるのだ。そうして、解脱にどうしても必要な長時間の瞑想が可能になる。 その他の特徴としては、日常生活において体が軽くなって、歩いているときなど浮いているような気さえすることが挙げられる。 ところで、どうしてこのようなことが起こってくるのだろうか。まず“喜”の状態を思い出していただきたい。それは、心が非常に満足した状態だった。その満足した心が、肉体的に素晴らしい影響を与えるのが“軽安”である。肉体のコンディションが、心の状態に影響されることはだれでも知っているだろうし経験もあるだろう。あるニュース番組で、音楽と血圧の関係を調べていた。それは、好きな音楽を聴いているときは血圧が正常になり、嫌いな音楽を聞くと状態が悪くなってしまうというものだった。好き嫌いという心の問題が、ストレートに数値に影響するのだ。それと同様に“喜”が肉体に影響してつくり出すのが“軽安”なのである。無限のエネルギーの源“楽” “軽安”の次に来るのが“楽”である。これは、ものすごいエネルギーを持っている。この段階に到達したときからわたしは、一日に十六時間から十七時間もの修行が平気になった。もはやどんな体力自慢でもわたしにはついてこられない。これは、“楽”によってエネルギーが満ちあふれているからだ。自分がやらなければならないこと以外、意識が向かわなくなる。このことがエネルギーのロスをなくし、エネルギーを体内に充実させるのである。 “喜”の満足に対して、“楽”は安定である。外界の刺激に反応しなくなる。また、高いレベルのヨーガ行者の言葉に、「解脱のためには、最低六時間の瞑想が必要である。」というものがある。“楽”に入ると、長時間の瞑想に苦痛を感じないどころか、瞑想のために座るのが一番楽な状態になるという、大幅な変化が起こる。これが次の三昧の重要な準備なのである。だから、必ずここを越さなければ解脱に至ることができない。生死を超えるWednesday, September 27th, 20063.すべてを思いのままにする“三昧”三昧とは何か? 三昧の説明はわたしにも難しい。参考のためにと思って、『広辞苑』で引いてみた。すると、「心を一事に集中して他念のないこと。一心不乱に物事をすること。」とある。仏教から出た言葉であるはずなのに、どうも違う。本当は、心を集中した結果得られる状態を三昧というのだ。では、その三昧とはいったい何か。一言でいえば、主体と客体の合一なのである。主体とは自分自身のことであり、客体とは相手や対象物を指す。それが合一するとは、強い精神集中をすることにより、自分が相手や対象物に溶け込み、一体となることなのである。 例えば、木に精神集中して凝視する。少なくとも三十分以上その精神集中が持続するなら(つまりこの段階まで来ていることを意味するのだが)、木に溶け込み、木と一体になることができる。しかも、一体となることによってその木のすべてを理解できる。これが三昧なのだ。相手の心に精神集中したなら相手の心と一体になり、相手の感情も考えもわかるだろう。神に精神集中したなら、神と合一するだろう。 この三昧には、外的なものと内的なものの二種類がある。前者は周囲のものと合一することであり、後者は自分の内側のものに集中して、それと合一することである。自分の内側とは、チァクラ、心、器官等のことで、その中で真我と合一するのが、内的三昧の究極ともいえる。 わたしもそうだったが、外的なものから三昧に入る訓練をしなくてはならない。その方が精神集中しやすいからである。それに習熟してから内的なものへと移り、さらに訓練を続けると次の段階である“如実知見”の状態に入ることができる。 それではここで、わたしが体得した三昧の話をしよう。これは例の六種のヨーガと関係している。三昧の段階は大変重要であって、六種のヨーガのうち実に五種類が含まれているのだ。チベット密教のカギュ派もこれと同じ見解に立っていることを後に知ったのだが、当時のわたしは無意識にこの過程をたどっていた。熱のヨーガ――内なる炎 わたしは自分のスヴァディスターナ・チァクラに精神集中をした。すると下腹部で強烈な熱が発生した。その熱は背骨を伝わって上がっていった。わたしはこの過程を毎日繰り返して練習することにした。 わたしがそう決めたのは、密教の火界定がヒントとなった。この行法と火界定が同じものではないか、と思ったのだ。火界定は煩悩【ぼんのう】を焼き尽くすといわれている行である。 また、こうも思った。「熱が背骨を伝わるということは、背骨にある交感神経と副交感神経に尋常ならざる影響があるのではないか。神経が突然変異でも起こしてくれて、スーパーマンにでもなれたらいいなあ。」――というわけで一生懸命やったら、スーパーマンにはなれなかったものの次のような変化があった。 まず、背中全体が熱くなるようになった。そして、どんな寒さの中にいても平気になった。たとえ、氷点下の寒さでも、裸でいられるほどである。また、精力絶倫となった。わたしはこの行法を“熱のヨーガ”と呼ぶことにした。バルドのヨーガ――死の体験 次にわたしはマニプーラ・チァクラに精神集中をしてみた。この行でわたしはバルド(死)の体験をした。 だれでも「死ぬ瞬間はどういう気持ちになるのだろうか。」とか「死んでからは、どうなるのだろうか。」などという、疑問を持ったことがあるんじゃないかな。そして、それぞれの人がそれぞれの漠然とした結論みたいなものを、心に抱いて生きているのだと思う。かといって、その考えが本当の死と一致しているとはいえないだろう。例えば、「死んだら土になるだけだ。」と思っている人もいるだろうし、「天国へ行く。」つもりになっている人もいる。あるいは、この世で結ばれることのできない恋人と「生まれ変わったら一緒になろうね。」と来世を信じて誓い合う人もいるかもしれない。このように、死については、いろいろな考え方があるからね。 だいたい、死んでみなければ実際がわからない、というのが不安であり恐怖でもある。反対に死んでしまったら、「本当はこうだったんだよ。」と遺された人に伝えたくてもその術【すべ】がない。生あるものは皆、遅かれ早かれ死を迎えるというのに、不都合この上ない。 ところが、わたしはマニプーラ・チァクラに精神集中をするこの“バルドのヨーガ”を実践することによって、死と転生のプロセスを何回も何回も体験することができたのだ。だれでも三昧に入ることができるようになったら、自分で体験することができるだろう。しかし、これから修行に入るという皆さんにはまだ無理だろうから、参考のためにここでお話ししよう。死の瞬間 まず、死の瞬間から。死の直前には、感覚器官が働かなくなってしまう。よくテレビなんかの臨終シーンで、明るいのに「暗いから電気をつけて。」などということがある。あれは本当だ。音が聞こえなくなることから始まって、何も見えなくなってしまう。そして、嗅覚【きゅうかく】も味覚も触覚も次々と衰えていってしまうのだ。 それから、意外なことに、まだ生きているうちから身体を構成している要素が分解し始める。分解されて、“自性【じしょう】”に還元されていく。自性とは、この世を構成している物質的な根源で“地”“水”“火”“風”の四つのエレメントからできている。 初めに、肉体が地のエレメントに分解される。このときは、自分の体がぶよぶよになるというか、何となく変な感じだ。そして、それを感じているのは、今までの自分ではない。もう一人の自分――、つまり魂がそれを感じているのだ。また、この過程では、黒と黄色の混ざったような色を見ることができる。 次に、血液や体液が水のエレメントに分解される。このときには、鼻汁が出たり体がむくんだりする。血液の流れもこのときに止まってしまうのだ。ヴィジョンとしては、「水に映る白い月。」というイメージの色がパッ、パッ、パッときらめいている。 さて、今度は、体温が火のエレメントに分解されていく番だ。下腹部から冷えてきて、その冷たさは背中を伝わって全身に広がっていく。体が冷たくなって、動きがぎこちない。硬直しているのだろう。自分の体がまるで鉄になってしまったみたいだ。また、この過程では朱色が見え続けている。 最後に、息が風のエレメントに分解される。このときは、呼吸しづらくなってしまって、息苦しい。呼吸したい。呼吸して生き続けたい。そういう生命に対する抑え難い執着が、一気に表面化する。愛している人と別れるのは嫌だ。死ぬのは怖い! すでに、肉体的な痛みや苦痛はないが、死ぬことに対するひどい恐怖を感じるのは決して避けられない。わたしはそれを経験した。嫌だと思った。でも、わたしの気持ちなどにはお構いなしに、死ぬための手続きは進んでいってしまった。魂は、青緑色を見ている。呼吸が少しせわしくなったかと思うと、最期に長い息を吐き出す。……そして、すべてが終了した。こうやってわたしは死んだ。前世のカルマの終焉 死んだ後も、魂はしばらくの間心臓にとどまり、この世の清算を受ける。そのために、まず天から真っ白な光が降りてくる。その光は少し甘みを伴っている。光が甘いというのも、生きている間は感じることはできないが、ここでは魂が感じるのである。この光は、父親の精液の象徴だ。次にへそのあたりから、赤黒いエネルギーが上昇していく。それは、いろいろな煩悩を伴っていて、母親の経血を象徴している。 白い光も赤黒いエネルギーも、胸にあるアナハタ・チァクラの内側に吸収されていく。わたしは、これは両親から受け継いだ遺伝子に関係するカルマが、自性に還元されていく過程なのではないかと思っている。もし精子と卵子が結合した瞬間が、この世への誕生だとすれば、そのときに受け継いだものを自性に返し終わったときが本当の死であろう。 もう一つ、誕生時にすでに持っていたカルマがあった。それは前世でつくったカルマである。前世のカルマによって今生を生きる。だから死ぬときには、それも自性に返さなくてはならない。これが最後に行なわれる手続きなのである。天界から真っ黒い光でできた一本の道が降りてくる。下位の世界である人間界のけがれたカルマが、この黒によって象徴されているのだ。これも、アナハタ・チァクラの内側に吸収されていく。 こうして、両親から受け継いだものと、自分の前世のカルマが自性に帰ってしまったとき、この世との縁が切れる。魂は肉体を離れ、今度はたった今生きていた世界でつくったカルマによって、転生の準備を始めるのである。
2007.08.30
コメント(0)
“悦”は最高のエクスタシー クンダリニー覚醒後、さらに修行を続けると“悦”の段階に至る。これは、クンダリニーが上昇してものすごいエクスタシーをもたらす状態である。本来ここに至るためには、瞑想が必須条件である。ところがわたしは瞑想がそんなに好きではなかった。すでにヨーガに転向していたものの、せいぜいやっても一日に二時間程度のものだった。だったら何をやっていたかというとアーサナ(調気体操)、プラーナーヤーマ(調気法)そしてムドラー(霊的覚醒の技法)である。瞑想で座ってばかりいてもしょうがないじゃないか。それだったら、神経系やホルモン系、大脳を刺激する行法をやっていた方がましだ。そう思っていた。だからこの段階にまで来て、当然“悦”に入っていかなければならなかったのに、それができなかった。無智といえば無智だが、教えてくれるグルもいなかったし、わたし自身科学万能主義に侵されてもいたので、どうしようもなかったといえる。 そのため、しばらく経ってから“悦”に入ることはできたものの、全くおかしな入り方をしてしまったのだ。きちんと瞑想していたなら、瞑想中に入るはずである。だが、わたしの瞑想時間が短か過ぎて、そのときは入れない。というわけで、わたしのクンダリニーも行き場がなくて困ったのだろう。 例えばムドラーを行じているとき、クンダリニーが突然上昇してわたしは“悦”に入った。何気なく立っているときや、歩いているときにもそれは起こった。それが起こるときには、必ずムーラ・バンダ(肛門の締めつけ)と性器の締めつけが自動的に始まり、体を震わせながらクンダリニーが駆け昇る。その感覚たるや、この世で味わうことのできる、最高のエクスタシーだといえるのではないかと思う。どう表現したらいいだろうか。セックスの快感とは全く違う。とても優しく柔らかく、溶けてしまいそうな感じである。“悦”に入っている間、その快感は強まることはあっても決して弱まらない。しびれも伴って、それがまた気持ちいい。そして、数分間その快感に浸っていることができるのである。 最近はわたしも瞑想時間を長く取っている。だから瞑想によって何時間もこの状態を持続させることができるようになった。不死の甘露を呼び起こす この段階は重要な意味を持っている。クンダリニーは上昇して、頭頂にあるサハスラーラ・チァクラに到達するのだが、到達することによってサハスラーラ・チァクラに隠されている不死の甘露を落とす働きをするのである。不死の甘露とはネクターともビンドゥとも呼ばれているもので、心を歓喜状態にすることができる。また、さらに修行が進んで、これが体中に満ちると意識が鮮明になり、かつ途切れることがなくなる。それは、眠っている間も死後も同様である。これが不死の甘露といわれるゆえんである。 では、不死の甘露によって起こる心の歓喜状態について、さらに述べよう。ここまでしかない経典の記述 わたしは、前にも書いたように、解脱をして初めてクンダリニーと「縁起の法」の関係を悟った。だから、今から書こうとする“喜”についての知識は、当時全く持ち合わせていなかった。それもそうだろう。わたしが今まで読んだどの書物にも、その記述がなかったのだ。ヨーガの経典にしても、一つ前の段階である“悦”の状態までしか説明がない。バグワン・シュリ・ラジニーシという、大変有名なインド出身の宗教家がいるが、彼も“悦”までしか自著に書いていない。しかも、“悦”ですべてが終わるとしている。したがって、“喜”の段階以上に到達した修行者というのは、ほとんどいなかったのではなかろうか。 いずれにしろ、これから先何が待っているのか見当もつかないまま、わたしは修行を続けていった。そして、だれ一人言い表わしてくれなかった段階に入ったのである。これは、クンダリニーがサハスラーラ・チァクラを刺激して滴らせる、不死の甘露が巻き起こす状態である。 ところで、ヨーガ経典にはクンダリニーがサハスラーラ・チァクラに到達する瞬間の記述があって興味深い。シャクティー女神(クンダリニー)がシヴァ大神(サハスラーラ・チァクラ)と一つになったとき、すべてが完成すると表現しているのである。これは、バグワンがそこで終わるとしていることと共通している。 実際には、先程述べたようにそれ以上の段階があったわけである。経典でさえそんなレベルであったことを知ったら、どれほどわたしが苦労して解脱へと向かっていったか、おわかりになるだろう。 すべての段階が書き尽くされている仏教の「縁起の法」は、解脱するまでは理解できなかったので、当時は参考にしていなかった。そして、同様にそのころは気がつかなかったが、日本の太古神道の修行者である川面凡児【かわづらぼんじ】の記述の中に“喜”のことが出ていた。それは、七つの鳥居という言葉で表現されているが、そのヴィジョンは“喜”そのものである。また、仙道のチョー・サンポーが書いた『三峰金丹説要』にもその段階の説明がなされており、「この状態にまで来たら仙人となる。」とされている。しかしながら、両者ともここまでしか書かれていない。 要するに、この段階はそれほど高度なのだ。ヨーガ経典にここまでは書かれていないことしかり。神道、仙道がここで終わっていることしかり。ただ、出発点も内容も違うはずのそれぞれの行法が、同一の道をたどっている点は面白いと思うし、それだけの意味を持っていると思う。わたしが教えるヨーガには、他の修行法も取り入れられているのだが、このようなことが影響している。至上の幸福“喜” ちょっと話が横にそれてしまったが、元に戻そう。サハスラーラ・チァクラの上部から滴り始めた不死の甘露は、まずサハスラーラ・チァクラをそれでいっぱいにしてしまう。次にヴィシュッダ・チァクラへと移りそこを満たし、アナハタ・チァクラへ、アナハタ・チァクラからマニプーラ・チァクラへと次第に下へ降りていく。いうなれば、チベット密教でいうツァンダリーと同じものである。ちなみに、チベット密教ではここまでは経典に記されているが、これ以上は極秘にされて、ごく少数の選ばれた修行者によって受け継がれているらしい。このことを、わたしはアストラル体(異次元)でミラレパという昔の修行者から聞いた。その理由は、技術の問題ではなくて心の問題であり、そのためにグルが弟子に密接にかかわらなければならないからだ。 さて、各チァクラを満たし終えた不死の甘露は、最後にスヴァディスターナ・チァクラを満たすとともに、そこに強烈な震動を呼び起こす。その震動に呼応して、ムーラダーラ・チァクラから再び“悦”を伴ってクンダリニーが上昇する。サハスラーラ・チァクラまでクンダリニーが到達すると、このときもまた不死の甘露を滴らせる。このプロセスが何回も繰り返されることにより、クンダリニー上昇時に生まれる“悦”に加えて、心の満足感である“喜”がつくられ、徐々にそれは強くなっていくのだ。それはもう、これ以上にない満足感である。しかし、欠点もある。とにかくその状態が崩れやすいのである。ちょっと精神的に揺さぶられただけでも、あっさりと壊れてしまうのだ。大きな音を立てられても、壊れてしまう。だから、この状態に入るには、外的な環境のことを考えなくてはならないと思う。 そんなこともあって、この段階にまで来た修行者は、二つの生き方からどちらかを選ばなくてはならないだろう。すべての障害から離れて、隠棲生活を送ることが一つ。もう一つは、自分の状態を保つために、周囲の環境が良くなるように努めることである。わたしは、真の宗教を広めて環境を良くするという意味で、後者を選んだことになるが……。 “喜”に入ることのできる人間は、他の人に必要とされる。普通の明るさとは違う、心が満足して解放されきった明るさなので、相手を安らがせるからだ。そして、人の喜びを増大させ、苦しみや悲しみをなくすことができる。たとえ、失恋したばかりの人がいたとしても、その悲しみを消してくれるだろう。ただ、そばにいるだけでそれだけの好影響を与えるのである。したがって、“喜”に入った人は、自分が自分自身のものではなくなってしまう。多くの人間のものとなってしまうのだ。必要とされるがゆえに。ここに供養を受ける資格ができ、その人にはお金や物、名誉などが集まってくるだろう。ここで、そういうことに満足し執着してしまうと、堕落してしまうので要注意。せっかくこの段階にまで来ても、何にもならない。解脱に比べたら、ちゃちな満足であり幸福である。解脱はすべてを超越したところにある真の幸福だ。幸いにも、わたしは前世において解脱を経験していたため、ここで惑わされることなどなかった。 また、この段階では満足しているので、心に雑念がなくなる。そのため、強い精神集中(凝念【ぎょうねん】)を習得することができる。
2007.08.30
コメント(0)
精神世界へのいざない それでは、現状に満足していない、求道心を持つあなたと素晴らしい世界に旅立つことにしよう。 その素晴らしい世界とは、精神世界を意味している。ただ精神世界などといっても、あまりにも漠然【ばくぜん】としているので、少し例を挙げてみようか。例えば密教ヨーガがこの中にある。その修行がある。そして、その最終目的として“解脱”がある。解脱とは、釈迦牟尼仏【しゃかむにぶつ】が得た“悟り”のことだ。つまり、人間が人間でなくなり、生も死も超えた存在、絶対自由な存在になることなのである。その段階に到達することのできた者のみが、真の幸福に浸ることができるのだ。 釈迦牟尼仏は確かに偉大だった。彼は厳しい修行の後、解脱を果たした。彼の尊い教えは、遥かな時を隔てた現代にまで伝わり、多くの人々の心の支えとなっている。だからといって、彼の解脱を特別視してはならない。解脱はだれにでも可能であるからだ。だれでも修行をすれば、絶対自由・真の幸福の世界に行き着くことができるということである。ただ、その具体的な修行方法が明らかでなかったため、解脱というものがとても難しいことのように考えられていただけである。 かくいうわたしも、数年前はそう思っていた。解脱など雲をつかむような話だと思っていた。しかし、その思いとは裏腹に、痛切に解脱を願っていた。当時のわたしは、生きることが苦しくてどうしようもなかったからだ。この苦しみの人生から抜け出すには、解脱するしかない! わたしは、すべてをなげうって修行に没入したのだった。しかし、だれ一人教えてくれる人などいはしない。それこそ試行錯誤の連続だった(わたしの修行歴については、拙著『超能力・秘密の開発法』オウム出版に詳しい)。釈迦牟尼仏が残した解脱法 そして、八年というつらく長い歳月をかけて、やっとの思いで解脱を果たしたのである。それと同時にがく然とした。わたしは、今まで気づかなかったのだ。なんと、釈迦牟尼仏は、後世の修行者のために解脱への修行法を残していたのだった。「縁起の法」がまさにそれだ。もちろん、これはかなり有名なので、知っている人も多いことだろう。『阿含経【あごんきょう】』の中心となる教えである。釈迦牟尼仏の入滅後すぐ、高弟たちがまとめた釈迦牟尼仏の教えだ。したがって、経典の中では、最も忠実に釈迦牟尼仏の教えを表わしているといってよいだろう。だが、問題は今までだれ一人この深淵な意味を理解し得なかった点だ。日本語訳はあっても、ただ表面的に訳してあるにすぎなかった。それが、苦労して解脱を果たした途端、この偉大な先哲が何を言いたかったのか理解できたのだった。彼は、必ず解脱できる具体的な修行法を残したつもりだった。が、だれも理解できなかった。そして今、このわたしがこの世でただ一人理解することができたのだ。かくなる上は、わたしが「縁起の法」を改めて世に出そう。真の意味を広めよう。わたしの思いは募った。「縁起の法」をわたしの経験を交えて説き明かすことができたら、解脱を望む人たちへの何よりの贈り物となるだろう。それをやり遂げるのが、わたしの使命の一つであると自負している。クンダリニーの覚醒なしには始まらない さて、先程クンダリニーが最も重要だ、ということを書いた。クンダリニーについて説明しよう。それは、霊的なエネルギーで、人間の精神を高い次元へと押し上げる働きを持っている。すべての人が、このエネルギーを持っているのだが、眠った状態だ。解脱を目指すのだったら、まずそれを目覚めさせなければならない。これがいわゆる“クンダリニーの覚醒【かくせい】”である。釈迦牟尼仏はクンダリニーを覚醒させた後、さらに修行を続けて解脱をした。わたしもそうであった。そして、クンダリニーの覚醒後は六種のヨーガの成就をもって、最終解脱が訪れる。六種のヨーガとは、 1熱のヨーガ 2バルドのヨーガ 3夢見のヨーガ 4幻身のヨーガ 5光のヨーガ 6意識を移し変えるヨーガ(成就のヨーガ)であり、後に来るほど対応するチァクラも高次元となる。わたしはインドのヨーガ経典を中心にして修行を進めた結果、この考えに到達した。つまり、身をもって理解したのだ。ところが驚いたことに、チベット密教のカギュ派が同じ考えを持っていた。チベット密教は最も多くの解脱者を出しているといわれている。やはり解脱という最高の目的に向かっては、同様の修行方法になってしまうのだろうか。超能力と精神レベルを支配するチァクラ チァクラという言葉が初めて出てきたので、説明しておこう。チァクラとは、人間の身体にある霊的なセンターで、だれでもそれぞれの場所に持っている。主なものは七種である。ただ、普通の人はそれが眠った状態で働いていない。修行によるクンダリニーの上昇とともに開発されていくものである。チァクラは、身体の下部に位置するものに比べ、上部へ行くほど次元が高くなっていく。ヨーガ行者が持つシッディ(超能力)なども、実はこのチァクラが司っているのだ。今述べた六つのヨーガに対応させてみると、 1熱のヨーガはスヴァディスターナ・チァクラ 2バルドのヨーガはマニプーラ・チァクラ 3夢見のヨーガはアナハタ・チァクラ 4幻身のヨーガはヴィシュッダ・チァクラ 5光のヨーガはアージュニァー・チァクラ 6意識を移し変えるヨーガはサハスラーラ・チァクラにそれぞれ関係している。例えば、熱のヨーガを成就したときには、クンダリニーはスヴァディスターナ・チァクラにまで昇り、そこを活性化させているわけである。そして、そのチァクラが高次元であればあるほど、人の精神レベルも高くなっていくというわけだ。 また、釈迦牟尼仏が持っていた六神通と呼ばれる超能力もこの六種のヨーガに関係している。彼は、解脱にあたって、当然六種のヨーガを成就してチァクラを支配していたからである。このことに関しては、後に詳しく述べたいと思う。生死を超えるWednesday, September 27th, 20062.“楽”は“苦”から始まる「縁起の法」しかない! 「縁起の法」の一番のポイントは、人が人生のすべてを“苦”だと感じることが解脱への第一条件だということである。詳しいことは後にして、だいたいの流れを述べてみよう。“苦”を感じると、藁【わら】をもつかむ気持ちから解脱したいという強い思いが生じる。これを“信仰”という。信仰があると解脱への“修行”をするようになる。修行すると“クンダリニーが覚醒”する。クンダリニーが覚醒すると、“悦”が生じる。それがサハスラーラ・チァクラに到達すると“喜”が生ずる。喜がサハスラーラ・チァクラに満ちると“軽安【きょうあん】”が生じる。軽安が体を満たすと“楽”が生じる。精神的にも肉体的にも楽で満たされると、強い精神集中を得ることができる。それによって“三昧【さんまい】”に至る。三昧によってすべてのことを完全に知ることができる。これを“如実知見”という。すべてのことが理解できたとき、この世が幻影だと悟り“遠離【おんり】”する。遠離すると“離貪【りとん】”する。離貪することによって“解脱”する。自分でも解脱したという納得が生じる。 これが、釈迦牟尼仏が残した解脱法の概要だ。こう書くと、いかにも簡単なようだが実際はなかなか大変である。そこで、わたしの体験を交えて、わかりやすく説明していこうと思う。“苦”あるゆえに“信”あり 人生が苦だと感じるのが解脱への第一条件だと釈迦牟尼仏は言った。まさしくわたしが修行の道に入ったのも、苦を感じたときである。九年ほど前のことだ。それまではごく普通の生活をしていた。ところが、いつのころからか絶えず疑問にさいなまれ続けていたのだ。自分自身の人生に対する疑問であった。そういう自分の内面をごまかそうとすると、自信とコンプレックスの葛藤が渦巻く。わたしは、次第に疲れ果てていき、精神的にも大変不安定になってしまったのだった。あるとき、わたしは初めて自分をごまかすことをやめた。そして考えた。いったい何のために生きているのだろうか、と。絶対のもの、真の幸福はこの世に存在するのだろうか。わたしは、それを手にすることができるだろうか。このときわたしの魂が求めたものが解脱だとは知り得なかった。だが、いても立ってもいられない。そんな気持ちが高じて、わたしの模索が始まった。強い思いであり、信仰だった。いうまでもなく、生活は一変してしまった。仕事などはそっちのけで、まず運命学に手をつけた。 自分の運命をはっきり知ろうというわけである。たとえ運命が悪くても、運命学によって何らかの操作をしたら幸せになれると信じていた。 それからというもの、わたしは「気学」「四柱推命」「断易」「六壬【りくじん】」「奇門遁甲【きもんとんこう】」……と、運命学の研究に没頭した。これは何にでも一度はのめり込む性格によるところが大きい。しかし、それらは奥儀まで極めたものの、期待していたほどの効果がないことを知ってがっかりしたのだった。クンダリニーの覚醒 それでもわたしはあきらめなかった。次にわたしは仙道【せんどう】へと目を向けた。このときから、本格的な修行人生を歩み始めたことになるだろう。仙道は、以前から不老不死や仙術を得られるというイメージがあった。そのころ生命エネルギーが欠乏しているような状態だったので、これが現状を打開してくれるのではないか、という多大な期待をもって臨んだ。 結果的には、仙道ではなくヨーガを選ぶことになるのだが、なんとわたしのクンダリニーはこのときの修行で覚醒したのである。仙道において、わたしは小周天【しょうしゅうてん】、大周天【だいしゅうてん】という段階を修めた。前者は、人体を宇宙と見なして、後ろから前に気(エネルギー)を回す技法である。これによって頑強な体ができ上がるのだ。大周天は、尾骨にあるムーラダーラ・チァクラから頭上へと気を突き抜けさせる。これがクンダリニーを覚醒させるのである。わたしは、独学ながらクンダリニーを覚醒させ、解脱への第一歩を印した。超能力を得たのもこれと同時だった。 ところで、ここで断っておきたいことがある。それは、わたしは仙道でクンダリニーを覚醒させることができたが、読者の皆さんにはヨーガによる方法をお教えするつもりだ、ということだ。なぜかというと、ヨーガの方が確実に速いからだ。わたしは、当時(今もそうだが)師もなく、ヨーガも知らず、全くの暗中模索の状態だった。今になって考えると、ヨーガははるかに優れている。仙道での覚醒には四年もかかってしまったが、ヨーガを用いたならば数カ月ですむだろう。現にわたしの弟子たちはいずれも短期間でクンダリニーの覚醒に成功している。まあ、わたしもシャクティーパットという技法を使って助けているが……。 シャクティーパットとは、わたしの持っている霊的エネルギーを直接相手に注入する方法である。その人のクンダリニーの覚醒を促すことができる。それでは、クンダリニーが覚醒するとどのような変化が起きていくか「縁起の法」に従って述べてみよう。
2007.08.30
コメント(0)
-引用開始-http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter1/con1-22.htm第一章 22.宗教家の見分け方 これだけ宗教がたくさんあるということは、間違った教えがたくさんあると言っていいでしょう。教祖とか教団幹部といわれる人たちの見分け方を書いておきます。 まず、神仏は絶対に人に罰など与えませんから、「罰が当たるぞ。」といって脅す宗教家はニセモノです。 同様に、「助けてやった恩を忘れたか、呪ってやる。」などと言う者はもちろんニセモノです。神の心を学び広めている教祖ならばそんなことを言うはずがありません。 人の心を縛って自分で判断させないようにする、いわゆるマインドコントロールをしようとする宗教家、他人の心から自由を奪おうとする者はニセモノです。 次に、何かにつけて「金を出せ。」と言う者、信者たちに、新たな信者獲得のノルマを課す者、信者に自著をたくさん買わせてベストセラーにしてしまう者、やたらと宝石などで身を飾る者、これ見よがしの大御殿を建てて住む者、豪華な本部を建設するだのご本尊の偶像を作るだのといって多額の寄付を求める者、みなニセモノです。建物は信者が教祖の話を聞く講堂と、自分の心を見つめる道場(禅堂)、簡単な宿泊施設ぐらいで充分なはずですし、風変わりな建物にする必要もありません。ご本尊は心の中におわすので、偶像など必要ありません。 何かにつけて威張った態度をとる者、弟子を怒鳴りつけるような者、人を見下してあざ笑うような者、感情の起伏が激しい者、気取った者、知識や理屈ばかりの者、奇抜な服装や髪型を好む者、これらもニセモノです。 宗教家を見る場合、まず相手の言っていることが筋の通った、人を幸せに導こうとする教えなのかどうかを考える、すなわち教義をチェックする必要があり、その次に教祖の素行から人格を見て取るべきでしょう。相手の心を感じ取れる場合はいちいち素行を見なくても判断できますが、心を感じ取れない場合は相手の素行を見ること、言うこととやることがあまりにかけ離れてはいないか、チェックすることが大切です。金持ちや権威ある人には低姿勢で一般人には高圧的、などというのは平等である神の慈愛を理解した人のやることではありません。また、まともな宗教家ならば(昔からの伝統で着物を着て剃髪するということならばともかく)、ごく一般的な服装とごく一般的な髪型で、しゃべり方も普通であるはずで、奇をてらっているようならばニセモノでしょう。 更に、ここが最も問題になるところですが、いわゆる霊能力を発揮する人は、それだけで周囲の人から「すごい人だ。」などと思われてしまう傾向があります。 しかしこの場合もその人の教えや人格を見ることが何よりも大切です。というのも、心が調和した人も霊能力を発揮する一方で、それとは正反対で心が欲にまみれきったような人も、迷霊に支配されたり、あるいは過去世で霊能力を得るための修行を積んでいたりすると、それなりに力を発揮するからです。霊能力だけで心が伴わない人は、きちんとした教えを説くことはできません。 いったん病気を治してもらっても、少ししたらまた再発した、そして教祖に、「それは信心が足りないからだ。」と言われたという場合、それもニセモノです。また教祖自身が病気で、「この病気は信者の業を引き受けたために罹ったものだ。」と言うなら、それもニセモノです。他人の業を引き受けるのは基本的に不可能なことです。自分の主人は自分であり、自分のなしたことの責任は自分で果たす以外ないからです。それに業を引き受けて病気になるならば、「神仏も半病人のはずである。」(『心の発見 科学篇』)と高橋信次師も書いています。 様々なことを次々と当てるからといって、それだけで相手を偉大な宗教家だと思うのも危険です。 また、心の調和した人が霊道を開いて過去世を語ったりするとはいうものの、だからといってその人が次元の高い魂であるとは限らないそうです。高橋師はそのことを強調しています。霊能力がなくても高い意識を持った方もおられるそうです。また、霊能力を発揮できるようにするかどうかは基本的には守護霊が判断するのだそうで、既にアラハンと呼ばれる境地に至っていても霊道が開けずにいる人もいるわけです。例えば『人間・釈迦2』ではシャリープトラ(釈尊の右腕といわれた舎利弗尊者)が既にアラハンの境地に達していたのに霊道が開けず、釈尊が光を与えることでようやく霊道が開けます。 ついでに書きますが、高橋師のような悟った人が側にいますと、その人からは目に見えない光が出ていますから、その光を受けてしまうと知らないうちに想念帯に亀裂が入り、潜在意識が表面意識へとなだれ込んできて過去世を思い出してしまうそうです。更に師の講演など聴きますと、言葉も光の粒子でありエネルギーを持っていますから、その影響でやはり霊道が開けてしまうらしいのです。高橋師存命中に100人を超える人々が過去世を思い出したのはこういう理由によるのです。自分で、「こころの修行」を積んだ結果ではなかったのです。霊道が開けると、心が悪い方向に向けば迷霊に憑依(ひょうい)されやすくなりますから、こういう人たちは不安定で、だから高橋師は、「私のいないところで霊道実験をしてはならない。」と弟子たちに言ったのでしょうし、また師の晩年には裏切る人が多発したのでしょう。 『人間・釈迦』を読んでも、その他の本を読んでも、人々は釈尊や高橋師の説得・説教などに対し、妙に素直に説き伏せられてしまうのですが、これも調和した心から出る言葉を聞き、光を受けたためにそうなるのでしょう。悟った人の心は神の心に通じた心であり、その心こそ私たちの正体である神性・仏性というものですから、故郷の川のせせらぎを聞くような懐かしさとともに素直にならざるを得ないのでしょう。慈悲と愛を前に我を張り続けることのできる者はいないということです。 霊道を開いた後にしっかりと、「こころの修行」を積まなかった人たちは、高橋師の死と同時に霊能力を失ったそうです。ということは独力では霊道を開けなかったはずだということになります(他力で霊道が開けるとは何やら不公平という気がしますが、こういった人たちは、師の教えの正しさを現象面で証明する役割を背負って生まれたから苦労せずに霊道を開いてもらえた、とも言えるのです。)。自力で霊道を開くことは非常に難しいことのようです。-引用終わり- 私が一番大切だと思う事は、主体的に生きるという事です。実際問題として、幾つもの世界観が提示されていて、どれが真実が決めかねるのです。だから、自分の体験を頼りに進めていくしかないです。特に麻原死刑囚もそうなのですが、仏教系の輪廻転生観には動物や虫けらにまで転生するという考え方があります。現実問題として、認知症があるわけです。人格が破壊された者達は果たして、人間であろうか。動物としての能力もないように観察される。 あと、前回、動物人間の血統という概念を得たのですが、動物としての本能だけで生きている者達、一杯いるようです。本能プログラムの通りにしか生きていない者達、一杯いる事が解りました。 人間は自由意思を与えられているのです。マインドコントロールをしようとするサタン・魔王もいますが。正神界は、自己判断・自己選択・自己責任の自由を常に尊重致します。尊い自己創造の自由を奪ったり致しません。皆、オンリーワン、唯一の存在価値を持っている存在と思っています。 だから、何を選ぶかは、自分で決めなければいけないという事です。麻原死刑囚や、文鮮明のように、自由を奪ったりは絶対にしないのです。皆、自分と異なる存在なのだから、責任取れないという事です。自分に合うものが、その者にも合うかどうかは判らないという事です。勿論、真理は、その者も自分の一部なのですが、そんな集中力を一々発揮していられないという事です。 私は私の光を発信して、同系統の光をその分、上から受信し、また、自分が発信した光エネルギーの影響の結果が返ってくる事によって、進歩向上を続けているわけです。 物質的な徳分というのは、物質的に奉仕して、その分、物質的な快楽の素を稼ぐというものです。この徳分エネルギーは、物質的な快楽に化して、化した分、消えます。この徳分がマイナスになると、その分、物質的な苦痛に化します。様々な不幸が顕現してきます。だから、常に、物質的な徳分はプラス勘定にしておかなければ不幸になってしまうという事になります。この世に生きている限り、物質的な徳分を積み続ける事は必須の事です。-引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e7%94%9f%e6%ad%bb%e3%82%92%e8%b6%85%e3%81%88%e3%82%8b/生死を超えるWednesday, September 27th, 2006第一章 絶対幸福の鍵を解く縁起の法があなたを救う1.本当の幸福を得たいあなたに幸福を呼ぶクンダリニー クンダリニー――。あなたは、この言葉を一度でも聞いたことがあるだろうか。はっきりいって、ごく普通に社会生活を送っている人には、全く縁のない言葉に違いない。ところがどうだろう、ある世界では真っ先に出会うのがこのクンダリニーなのだ。それも、最も重要な位置を占めている。わたしはこれからあなたに、クンダリニーとその世界のことをお話ししようと思う。あなたはおそらくびっくりするだろう。この世にそんなことが実在するのか、と。しかし、それらはあなたの内側にも存在するし、あなたを取り巻いてもいる。計り知れない過去から未来永劫【みらいえいごう】まで、一貫して変わらない。虚像や錯覚で成り立っているこの世の中で、それのみが真実だからだ。人間の肉体や精神、そしてエーテル体(霊体)などが透明で綺麗な状態に昇華【しょうか】されたとき、混沌【こんとん】たる諸現象の中から真実がその姿を現わす。そして、その真実にまみえることのできた人は、必ずや永遠の幸福に浸れるのだ。わたしは見つけた! わたしは、そこへ至る方法を知ることができた。もちろん、簡単にそれができたわけではない。苦節八年、やっとのことで探し当てたのだ。日本で、いや世界でわたし一人しか知らないだろう。普通だったら、こっそり秘密にしておくに決まっている。でもわたしは違う。一人でも多くの人に幸せになってもらいたいと願っているのだ。だからこそ、ここに公表するつもりでペンを持ったのである。 そうだ、忘れていた。その前にあなたに確かめておかなければならなかった。あなたが今幸せであるか、それとも人生に何かしらの疑問や不安を抱いているか、ということを。この本を手に取ってくれた人に対して、こんなぶしつけな質問をすることをどうか許していただきたい。なぜなら、この本は読んだ人の人生を一変させてしまう力を持っているからである。わたしは、現在の自分や人生に満足していない人にこの本を読んでもらいたい。そして、ぜひ知ってもらいたいのだ。本当の幸せがどういうものかということを。反対に、今幸せを感じている人は読まない方がよいと思う。なぜなら、これを読むことによって平凡な幸せ、現実的なものに対する満足が消えてしまうからだ。
2007.08.30
コメント(0)
ロベスンジュ さあ、ロベスンジュの状態からお話しようかね。先の第三イニシエーションで、微細体とクリアーライトを得ているんだけれども、このことを言い忘れてしまっていた。悪かったね。とにかく第三イニシエーションの段階を成就すると、微細体とクリアーライトを持てるようになるんだよ。微細体とは、いいですか、仏陀の体なんだ。そして、クリアーライトはね、仏陀の心と思ってもらえばいいだろう。ここまできた人は、すでにこの二つを持っているということだよ。 しかしね、持っていると言っても、それらは別々に存在しているんだね。心と体が別々――これじゃあ当然役には立たないんだよ。そうだろう。 そこでだよ、微細体にクリアーライトを移し変えることが必要なんだね。この移し変えの技法をポアというんだけれどね、この修行には長くかかると言われているんだよ。 さて、ポアに成功したとしたらどうなるかな。まず、カルマの影響を受けなくなるね。しかし、心が微細体に移った為にカルマの影響を受けないだけであって、カルマが消えてしまったわけではない。このカルマを消してしまわないと、再び生まれ変わってしまうんだからね、そうならない為にはカルマを消滅させなければならないよね。そこで、次のミロベスンジュの修行が必要となってくる。 ところで、ポアによって心を持った微細体が活動を開始するとね、この微細体によってその人は高度な神秘体験をしだすんだよ。ミロベスンジュ 最後の最後の段階、これがミロベスンジュだ。これは、残っているカルマを消滅させていく段階でね、カルマを落とし切ってしまったら、もうあなたはグヤサマジャなんだよ。グヤサマジャというのが、タントラの仏陀だ。ここに全てが成就――ということになる。 こうやってね、イニシエーションのこの長い道のりを聞くとね、大変だと思うだろう。でも、それは決して不可能ではないんだよ。いいですか。そもそも、タントラというのはね、一つの生で成就する為の修行法をもっているんだよ。特に、私が教える修行法は、不必要なものを一切省いてあるんだ。効果的なんだ。だから頑張って消化してくださいよ。そして今生でグヤサマジャとなってくださいよ。-引用終わり- 地道に修行者としてだけ生きていれば、ここに書いてある事を体現した弟子達がどんどん出現していて、死刑囚ではなくて、聖者としての社会的地位を得ていただろうに。日本国に聖者っていないんだよね。物欲を満たす者達ばっかり。上祐一派もアーレフの者達も是非、聖者になって頂きたいと思います。麻原死刑囚の残した修行法の中から、使えるものだけを選んで、修行体系を創り上げて頂きたいと思います。勿論、自分が体験した世界までしか創り上げる事はできないのですが。 物欲の世界、競争させられているのですが、私はその親玉はサタンだと思っています。だから、馬鹿らしいから、私は愛の世界しかやりませんでした。その結果、市と県に裁かれてしまいましたが。サタンの物欲レースやらない者達を神は裁くみたいです。それでも、勿論、私は唯一絶対の神の道を貫き通すだけですが。そういう生き様を積み重ねているので。その私が思うに、物欲レースやりたくない者達の行き場が必要だと思うのです。かといって、私の生き様、心を育てる、人格を育てるもやりたくないと。そういう者達の為に聖者の道が必要だと思っています。阿羅漢の道です。菩薩の道も如来の道も嫌だと。男の道、北極星の道も嫌だと。人それぞれですので、色々な道が必要だと思っています。勿論、私は物欲の道はやらないので、お稽古事の道に関しては触れません。お稽古事いくらやっても、阿羅漢にも菩薩にも如来にも成れないと思うから。 聖者っていうのは、業財を浄める力のある者達の事をいうと思います。私はそれができないので、その分、福祉をやっています。あと、基本的に子に業は背負わすという考えです。子は物欲の塊ですから。その為に子はいると思っています。福祉は義理の子の子育てと考えています。子供相手の場合、愛ではなくて、奉仕です。子供は未来を生きている私の上の地位の存在だから。世の中、物質的にはどんどん進歩しているので。そういう物質的進歩の世界にも興味関心があったのですが、市と県に裁かれてしまったので、それも運命と受け止めて、やめました。しかし、その世界はその世界で、やり甲斐、生き甲斐はあったと思います。北極星の下で、男の道を前進し続けていたのですから。その時の私は女性に対して、非常に優しかったと思います。人間に対して優しかったと思います。今は、人の心を持っている人だけですが。猛烈に小さくなりました。 人間なんて、そんなもんだと思います。9次元宇宙界の主と言われるエル・ランティこと高橋信次氏の生き様、どうですか。同じく、9次元宇宙界のエル・カンターレこと大川隆法氏の生き様、どうですか。同じく9次元存在と大川氏が言っている仏陀やキリストと並ぶ生き様なのでしょうか。一体どういう貢献を人類に対してしたのでしょうか、或いは、するのでしょうか。9次元的生き様、9次元の法とは何なのか、興味関心があります。社会だけではなくて、世の中、色々、興味関心の対象はあるのです。功徳を積む目的はあるのです。ブログ、書けば書いただけ進歩向上するみたいです。だから、毎日、更新しているのだと思います。何でもいいからやればやっただけ結果がついてくるという事でしょう。よろしくお願い致します。有難うございます。
2007.08.29
コメント(0)
イニシエーションFriday, October 6th, 2006第七話 タントライニシエーションの全貌秘伝の伝授――イニシエーション タントラのイニシエーション、それと修行法についてお話ししたいと思う。イニシエーションとは、一言で言えば秘伝の伝授だ。グルが弟子に教え、霊的なエネルギー、経験を授ける儀式なんだよ。したがって、イニシエーションが行なわれて初めてそのレベルの修行がスタートするんだ。大変重要な儀式だと言えるね。 イニシエーションはね、大きく分けて四段階あるんだよ。第一イニシエーションから、第四イニシエーションまでね。では、第一イニシエーションから順に説明していくよ。いいですか。第一イニシエーション これは、チベット語では『プモワン』と呼ばれているイニシエーションだ。これはタントラの入門の儀式なんだね。言い換えれば、五仏になる為の参入の儀式だよ。 しかし、タントラでは入門と言ってもね、ここに来るまでには大変な修行が必要なんだ。その大変な修行というのはね、布施の極限、持戒の極限、耐えて意志を強める極限、精進の極限の四つの修行だ。この四つの修行の基礎ができて初めてタントラという、一層高度な修行へ入っていくというわけなんだよ。 ただ、皆さんに言っておきたいことはね、――まあ、いつも言っているんだけど――このタントラの基礎となる修行は自分でやってくださいよ、ということだ。私が皆さんに教えるには、時間的制約がある。しかし、私はその限られた時間の中で、最高の修行法を教えたいと思っている。だから、基礎的なことは自分でやっておいてほしい。ね、いいですか。わからないことは、指導員に聞いてね。それを前提として話を進めるよ。言い忘れたが、基礎的修行によってタントラに必要な、長時間精神集中する力を得るんだよ。だから、基礎がしっかりしていないと、次の修行が成り立たない――とこうなるんだね。 さて、話は『プモワン』、すなわち第一イニシエーションに戻るよ。このイニシエーションの儀式ね、これは各派によって多少の違いがあるんだ。ここでは、ゲールク派のイニシエーションを例に取って説明しようと思う。 第一イニシエーションの中には六段階あるんだ。一番最初は『水のイニシエーション』だよ。ここでタントラの修行者としての参入が認められるわけだ。このとき、修行者はグルから水と修行法を授かるんだよ。 その次は『王冠のイニシエーション』だ。ここではね、王冠とラトナサンバヴァ(宝生如来)になる為の修行法が授けられる。 三番目は『ヴァジラのイニシエーション』。ヴァジラとは、仏陀の心を表わすものだ。日本語では金剛と言っている。このイニシエーションは、グルからこのヴァジラとアミターバ(阿弥陀如来)となる為の修行法を授けられるというわけなんだね。 さて、四番目へ行くよ。四番目は『ヴァジラベルのイニシエーション』だよ。ここではヴァジラベルとともにアモガシッディ(不空成就如来)となる為の修行法が伝授される。 次のイニシエーションでは、タントラの修行者としての名前とヴァイローチャナ(大日如来)になる為の修行法。そして最後が、アクショブヤ(阿しゅく【もんがまえに“人”が三つ】如来)になる為の修行法だ。 今述べてきたのが、チベット仏教でのイニシエーションだよ。私の、つまりオウムのやり方は、若干違っているので、そのことに触れて第一イニシエーションを終わりにしたいと思っている。 私のやり方っていうのはね、私が過去世で修行を進めてきたそのプロセスをあてはめているんだ。私は過去世でもタントラの修行者だったんだよ。そして、成就することができた。そういう過去世での経験があるからこそ、今生でも若くして成就することができたんだね。皆さんは、私という指導者がいるから、私の教える修行に励めば最後まで行くこともできるだろう。つまりね、タントラの仏陀になれるだろうということね。 しかし、今生での私にはグルがいなかった。過去世の記憶を頼りに修行したんだよ、私の場合は、ね。そして、どうしても行きづまってしまったときは、シヴァ神が示唆を与えて下さったんだけれどもね。 私は皆さんにはね、自分が辿ったのと同じプロセスにのっとったイニシエーションを与えたいと思っているんだよ。いいですか。すでに、一定のレベルに達した人にはイニシエーションを与えているよ。だから、これについては知っている人もいるだろう。では、私が授けるイニシエーションとはどういうものか、説明していくことにしようね。 まず、第一イニシエーションのその1は『参入の儀式』であって、チベット仏教と同じだから省くことにしよう。そして、その2~その6までが、五仏になる為の修行法だ。ここでは、チベット仏教と順序が違うよ。いいかな。第一イニシエーション その2 この二番目のイニシエーションではね、ヴァジラとともにアクショブヤになる修行法を伝授するんだよ。この修行法をクリアーするとだ、功徳による修行上のゆるぎない基礎ができるんだ。第一イニシエーション その3 次に私は、神秘刀とともにラトナサンバヴァになる為の修行法を伝授する。これによって、一切の雑念を振り払い、強靭な意志の力を作ることができるんだよ。第一イニシエーション その4 次は、アミターバになる為の修行だ。このとき与えるのはヴァジラベル【-だ】。そしてね、正確な識別智というものを得ることができるんだ。これによってだよ、正確な識別智を得て衆生を法によって救済するんだ。ここでのポイントはね、ヴァジラベルの音色をこう観想するんだ。その音が識別智によって発する仏陀の声、だとね。第一イニシエーション その5 第一イニシエーションのその5ともなると、三次元的に使えるシッディが身につく。シッディとは超能力のことだよ。そして、三次元的というのは、この世で――という意味なんだ。だって、この段階では、まだアストラル・ボディーを持ってはいないのだからね。ここで伝授されるのは、アモガシッディになる為の修行法とね、経典だ。この経典は普通の仏教の経典とは全く違うよ。この私が、アストラル世界から持ち帰った教えが書かれている。したがって、私からイニシエーションを受ける人以外、知ることはできないんだよ。ね、早くこのイニシエーションの段階まできなさいよ。そうしたら、どういう内容かわかるからね。第一イニシエーション その6 いよいよ第一イニシエーションの最終段階にまでやってきた。これはヴァイローチャナになる為の修行法だよ。このときグルは、グルが異性と交接しているアストラル的なイメージを与えるんだ。そのアストラル次元での精子と卵子との結合によって、あなたは自分のアストラル・ボディーを作ってもらうことができるんだよ。ここらへんまでくると、大分タントリックな様相を呈してくるね。第二イニシエーション さて、第一イニシエーションはこのくらいにして、第二イニシエーションへと話を移そうかね。これはシークレット・イニシエーションと言われているんだよ。秘密のイニシエーションという意味だよね。ここでグルが弟子に与えるものは何か――? それは白い精液と赤い血だ。しかし、まあ、ほとんどの場合、白ワインと赤ワイン、ヨーグルトとお茶などの白と赤の象徴で代用されるんだよね。そして、グルと弟子が共に高レベルのときは本物が使われるはずなんだけど、まれなことなんだ。なぜって、グルと弟子が共に高レベルのことなんて、皆無に等しいからね。私は過去世では、本物でイニシエーションを受けたけれどね。 血は全血管を働かせるんだよ。脳細胞も含めて、ね。精液は、グルの経験を伝える為に必要だ。人間を構成しているのは、母親から受ける経血と父親から受ける精液だったね。だから、グルの子となるタントリストがこれらを受けるのは当然のことでもあるね。経血と精液の話、まだ知らない人は私が書いた『生死を超える』の死の瞬間の項を読んでおいてください。 それから、つけ加えておこう。私が行なうシャクティーパットはね、この第二イニシエーション以上の伝授のときに使うものなんだよ。第三イニシエーション 第三イニシエーションに入ろう。このイニシエーションは、チベット語ではデワチェンボ、サンスクリット語ではマハースカと呼ばれる状態に導くんだよ。私はその状態を大楽という言葉を用いて表現しているけど、みんな同じ状態のことをいっているんだ。 このイニシエーションではね、絵・像・言葉などによってね、ダキニのイメージを与えるんだよ。ダキニとは天女、修行者を助ける天女だ。 そのイメージによって性的に刺激する。すると、修行者の性エネルギーは非常に強くなって上昇するんだ、ね。そのエネルギーは頭頂のブラフマランドラを刺激して、智のエネルギーが下に降りていく。この智のエネルギーの下降は、心を浄化するんだよ。これはトゥモ(クンダリニーの覚醒)からツァンダリーまでのプロセスだ。ツァンダリーによってデワチェンボ、すなわち大楽を得ることができるんだよ。 ところでね、話は変わるけど、チベット仏教のラマ(高僧)にロブサン・テンジンという人がいるんだ。彼は、二年前に性エネルギーを上昇させるトゥモの科学テストをした。そのテストは、アメリカのハーバード大学で行なわれたんだけれどね。体温が通常よりも十五度も高くなったんだそうだ。それほど強いエネルギーが上昇するんだよ。 私は彼にインドのダラムサーラーで会ったけれど、彼は山の中で瞑想修行をしていたね。彼の天然の岩を利用して作った小さな小屋で、修行について話し合ったものだ。 余談になるけど、この段階は女性よりも男性の方が成就しやすいんだよ。男性の方が性エネルギーが強いからね。 また、いろいろな神秘体験をしだすのも、第三イニシエーション以後となる。それは、ツァンダリーが神秘の源だからだよ。第四イニシエーション これがタントラの最終的イニシエーションとなるね。このイニシエーションでは、グルがね、弟子にプロセスを説明するんだ。神秘体験から解脱に至るまでのね。これはとても重要なんだよ。なぜなら、間違いが起こりやすいから。例えばね、まだ成就していないのに成就したと思い込んでしまうとかね。とにかく間違いが多いんだよ。 よくいるんだよね。私から見たら成就していない人間が、「私は解脱した。」と公言してはばからないとかね。そういう人は、本当はここで修行に失敗したんじゃないかな。私はそう思うよ。皆さんの場合はね、私がちゃんとついているから大丈夫だよ。ちゃんと最後までいけると思うよ。やる気さえあれば、ね。 それとね、この頃は心がとても複雑になるからね、グルはその点もふまえて説明するんだよ。心が複雑になると、突然恐怖が襲ってきたり、悲しくなってしまったりする。その影響を最小限にくい止める為にもね、グルからの説明は役に立つんだよ。 ここではもう最後の修行だ。それは、スンジュという状態を作るものであってね、二つのレベルがあるんだよ。一つはロベスンジュ、そして、もう一つはそれより高いレベル、タントラの最高レベルであるミロベスンジュなんだ。
2007.08.29
コメント(2)
最期の救済メソッド ところで、私達は次のようなことも考えていかなければならない。現代はいくら個人に力があったとしても、ね、このシステム的に動いている社会を、どうこうすることはできないよ。そうでしょ? だから、オウム自体もシステム的に動かなきゃならない。そして、その中でもとりわけ大切なのは、「私は解脱をしたいんだ。私は悟りたいんだ。」と願う人に、その場所を提供できるようなね、そういう組織にしていくことじゃないかな。これは私ひとりの力じゃどうしようもない。皆さんの力が必要なんだ。皆さんの協力が必要なんだよ。そして、私達が救われる道も、この方法しか残っていないんだよ。私の見ているヴィジョン、直感智、それから私のジュニアーナ・ヨーガによる推理智を総合するとね。真理の道場『地球』を守れ もちろん、いくら一九九九年、二〇〇一年、二〇〇三年にだ、第三次世界大戦と言われる大きな戦争が起きたとしてもだ、それまでに成就していればその人にとっては大したことではないよ。「何かピカッと光った。さあ、私はクリアーライトに入ろう。」とね。肉体はそのとき捨ててしまえばいいからね。しかしだよ。自分のまわりの人達が苦しみもがいているときにだ、「あなた方は修行しなかったから仕方ないよ。私は修行し成就しているから、私だけ楽な世界に入りますよ。」と、そういうことができるか? ま、そんなことできないよね。考えられないよね。だったら、そういう事態、第三次世界大戦を回避するようにしなくては! 私はインドに四回行った。そして、いろんな聖者に会ってきたが、誰ひとりとして回避する道を歩いている人はいなかった。例えばね、あのチベット仏教ですらそうだった。精神世界に固執し、自分達の国が滅亡しているということをね、意識しすぎて真実の道を踏みはずしているように私には見えた。 私達に国は無いんだよ。もともと国は無いんだよ。確かに今、欲六界のうちの人間界に生まれているよ、私達は。でも、これから先いつ虫ケラに生まれ変わるかも知れない。いつ地獄の住人に生まれ変わるかも知れない。ね、それを考えたら私達に国は必要ではない。いいですか。エゴを全うするような国は必要ないんだ。 じゃ何が必要だ? それは私達がこれから先にね、何度でも再生して真実の道を歩ける、そういうスペースが必要なんだよ。空間が――。 それは日本でもなければアメリカでもない。ヨーロッパでもないよ。地球全体がそうなんだよ。したがって、地球を守らなければならないんだよ、私達は。あなたも救済者 今、チベットの僧の中には、インドの兵隊に精神的な教育を行なっている人もいる。「もしあなた方が国を守らなければ、あなた方は戦争に負けてしまいますよ。あなた方の身内も苦しめられますよ。」とね。私はこの話を修行中の若い僧から聞いたときにはびっくりしたね。だってそうでしょ。そんなこと釈迦牟尼如来は言っていないよ。他の成就した聖者達も、誰ひとりとして言っていないよ。 しかしだ、私達の最後の砦の一つである、チベット仏教の僧達は、軍隊の教育という職業に就いたら、そう言わなければならない。そんな環境、条件下で生活しているんだよ。 じゃあね、誰が自由に発言できるんだ? 誰が自由に生きることができるんだ? それは私達なんだよ。今の日本ほど、自由に発言し、表現できる国はないよ。 おそらく、この中の多くの人は過去世において多大な修行をし、その功徳によって日本に生まれてきたのだろう。救済の一端を担う為に生まれてきたのだろう――そう私は考えている。 私はまだインドと中国しか知らないけど、確かにみんなのんびりしているよ。中国ものんびりしていた。インドものんびりしている。しかしね、彼らは確かに自由ではあるけれども、私に言わせるとそれは動物的自由に近い。私達日本人もエコノミック・アニマルと言われているけれどね、しかし、精神的に自由になることもできるよね。そうだろう? まあ、その為にはもっともっとシステム化された、大きな組織が必要なんだけれど。例えば、あなた方が心の自由を欲したとき、一カ月でも二カ月でも瞑想修行をし、悟ることのできる組織がね。この修行をヘルプする組織を作るには、あなた方の協力が必要なんだよ。さっきも言ったようにね。真理を広めよ 私達は今修行をしている。だから、いかなる事態に陥っても最終的にはクリアーライトという逃げ道がある。クリアーライトというのは、要するに意識をアストラル・ボディーに移し変えてね、アストラル世界に逃げてしまうということだ。そうすれば、いくら核兵器が使われたとしても、私達の肉体は滅びるがアストラル・ボディーは滅びない。またこの世に生まれてきたかったら、新しい肉体を持って再生すれば良い。成就者だったらそれができるんだ。その時地球が荒廃し、手がつけられない状態だったら、他の惑星に生まれればいいよ。 でもねえ、話を元に戻すよ。他の人々が焼かれ苦しんでいるときに、見て見ぬふりはできないよね。自分達だけが幸福だったらいいなんて、思えはしないよね。 だから、私はあなた方にこう言いたいんだよ。あなた方が仏陀になりなさいよ。そうして、あなた方がきちんと私の教え――いや言い方を変えよう、宇宙の真理だ――真理を説いて、もっと多くの仏陀を誕生させなさい。そして、世界的にオウムの修行システムを広めてね、仏陀を点在させなさい、とね。そうなったら、一切の戦いは無くなるはずだ。完壁な修行体系 じゃあ、なぜ戦いが無くなるはずだと言えるのか。一つは前にも述べたように、各国に信者が存在すれば、日本が攻撃されることは無くなるということ。しかし、それだけじゃない。真の教えを信じる人々が多い国だったら、その国内でも争いは無くなるだろう。そして、対外的にも争いを避けるだろう。このような国が多くなればなる程、地球は平和で安全だ。したがって、一切の戦いは無くなるはずだ、とね、私は言い切ることができるよ。 そして、それを可能とすることのできる宗教的な組織と言ったらね、オウムしかない。それはね、オウムには素晴らしい修行体系があるからだよ。あなた方が悟る為の、解脱する為の修行体系は完璧だ。もし、これが世界に広まったならば、確実に第三次世界大戦を防ぐことができる。これは私が約束しよう。 これからのオウムの動きはわかったね。いよいよ組織的になっていくだろう。 しかしだよ。組織的になっていくからと言って、皆さんひとりひとりの意見をね、無視して進めるつもりはない。逆に、今からはより一層、皆さんの意見あるいはアドバイスを聞いていきたいと思っている。それらは、どしどしオウムに寄せていただきたい。続出する成就者 来年の十二月いっぱいをもってね、私のシャクティーパットは終わるだろう。それは、私は他にやらなければならないことがあるからだ。 じゃあ、会員の皆さんはそれ以降シャクティーパットを受けられないのかと言ったらそうではない。私は必ず皆さんが認めることのできる仏陀というものをね、作っていくよ。そうすれば、会員の皆さんは私以外の仏陀から、シャクティーパットを受けることができるわけだ。 まず、ケイマを独房修行に入れる。そして、彼女が成就するまで外に出さないつもりだ。次はNという具合にね、やっていくつもりだよ。まあ今年中はせいぜい二人か三人だね。しかし、これはネズミ算的に増えていくはずだから、シャクティーパットについては安心してほしい。これからの三年間 一九八七年、つまり今年から一九九〇年の三年間に起きることを簡単に話しておこう。 まず、日本における選挙だが、これは非常に波があるだろう。波があるというのは、例えば、自民党が大勝したり、逆に大敗したりということだ。大敗というのは二百議席すれすれを意味する。衆議員は特に波の激しい選挙になるだろう。 人々は、より一層現実主義にね、移行していくだろう。そして、私達を操っているマスコミはだ、いいですか、私達に食欲、性欲、それからスポーツというね、三つの享楽しか与えなくなるだろう。別の言い方をすれば、精神的な面を徐々に制約していく、ということだよ。 次に――いいですか、良く聞いておいてくださいよ――、政治的な面だが、国家の力・警察の力が増大していくだろう。日本の国民は徐々に徐々に、同じような物の考え方に統一されていくだろう。 それからね、冬と夏の区別がつきづらくなってくるだろうね。例えば四月五月になろうとしているのに急に冷えたり、あるいは十二月になってぽかぽか陽気になったりといった現象が起きてくるだろう。 また、円高は一層進むだろうね。私は百円を切ると考えています。それから、一九九一年から二年くらいの間に、農作物の輸入自由化が行なわれるだろうね。政治的には右傾化してくるはずだ。一九九三年には再軍備だ。 まあ、小さいこともいろいろあるが、今日はこのくらいにしておこうか。※いやはや、麻原死刑囚の妄想の世界でした。誇大妄想があるようです。でも人間って、カリスマ性のある者の言う事、信じちゃうんですよね。私に言わせれば、解脱・悟り以外の事、ほとんど考えるべきではなかった。修行に専念するべきだった。そういう事になります。自分が責任を持てる事と持てない事はきちんと区別して、責任を持てる事だけを一所懸命やるだけで良かったと思います。世界は広いが、自分の経験は非常に狭いのだから。セミナー、お金取ってやっていたんでしょう。お金はその人の仕事に於ける苦しみがつまっています。そういうカルマも受け取るのだから、それに相応しいだけのサービスを提供するという事に専念した方が良かったと思います。社会の事は難しいと思いますが。特に、核戦争の話は吃驚仰天しました。脅し体質が表れていますね。 現実を見ていると、突然、不幸は降ってくるようです。だから、自分の本当にしたい事だけを最優先してやった方がいいと思います。私はそういう生き方でした。私が一番したかった事は死後の世界の準備をするという事でした。大学に入った後は、もう悟り・解脱を求めていました。異性を求めていた者達とは考え方が全く異なっていました。人間、何時死ぬか判らないのに何を悠長な事やっているのだろうと思って見ていました。今、思うと、本能に突き動かされている者達の悲しさですね。魂が経験を重ねて、生きる目的、魂の進化向上を持つようになるまでは変わらないと思います。魂が寝ていると、動物的本能だけで生きているようになると思います。それ以外の世界観、何も持っていないという状態だと思います。 私は良心、善我ですね。これが大切だと思います。麻原死刑囚よ、貴方の生き様は、結局、最低最悪だった。他の存在に一杯害を与えた。人間は善い事をする為に生きていると私は思うのですが。それが人間としての最低限だと。快楽の為に生きているのは動物と変わらないと。趣味に生きている者達を見ると動物だなあと感じます。精神性が全くない。人間は神の子、精神的存在なのに。それでも、動物的生き方でも、他に害を与えないだけ、麻原死刑囚よりましなのです。悲しい現実的評価。自称最終解脱者の生き様が最低最悪とは。そういうエゴ、自我の持ち主だったとは。 だから、人間、解脱よりも、悟りの方が大切だと思うのです。悟りはその者の書いている事を読めば判ります。解脱しても、エゴ、自我は変わらないという事が、最終解脱者麻原死刑囚によって証明されました。 生き様がその者の正体を表すという事です。
2007.08.29
コメント(0)
時代は移り、仏教は今言ったように堕落した。それとは逆に、バラモン教から発達したヨーガは力を持つようになった。だから、「ヨーギ(ヨーガ行者)の方が力がある。私達を高い世界に連れて行ってくれる。」と感じた信者達は、仏教を見捨てだした。僧を見捨てだした、ね。 今度困ったのは、仏教の僧達だ。これじゃ生きていけないものね。そこで、一部の非常に優秀な僧達は、それこそ一生懸命に修行をしたわけだよ。そして、信者達の要求をどうしたら受け入れることができるか考えたわけだ。そうして、最終的に大乗仏教が誕生する。君には六つの極限しかない 大乗仏教には、八正道が無い。七科三十七道品も無い。しかし、大乗仏教が劣っているとは言えない。なぜなら、六波羅蜜があるのだから。これが、私がいつも言っている六つの極限の修行だ。この六つの極限の修行の偉大な点は、在家の人達でも解脱できるプロセスが含まれていることだ。これは、出家できない、特に日本の社会にあって解脱を望む人達にとって、ぴったりの修行法だと言えるだろうね。 中には初心者もいらっしゃるようだから、もう一度ここで六つの極限について触れておこうと思う。布施 まず布施だ。ここで皆こう考えるかもしれない。「どの宗教も布施のことを言うよ。あれは金を集める為の手段じゃないか。」と。まあ、そう思って金を集めているところもあるかもしれないよ。しかし、布施の本質的な意味は、物質的なものにこだわらない。あるいは心の安らぎにこだわらない。あるいは間違った観念にこだわらない。これが布施の原理なんだよ、ね。 凡夫というものは、物に対するこだわり、自己の安定に対するこだわり、あるいは観念に対するこだわりがあるわけだ。だからそこで布施の実践が必要なんだよね、こだわりを消していく為に。 だから、例えば全財産を布施できる人、自分が苦しいのに他人に安らぎを与えてあげようと手を差し延べられる人、真理の法を理解して他に真理を説ける人は、別に布施の実践をしなくてもこだわりがないので大丈夫だということになる。持戒 これはグルがね、「これはやってはいけないよ。これを無くしなさいよ。」と言ったことに対して、いつもハイハイと二つ返事ですべてを実行できる人、この人はもう持戒を守る必要はないよ。しかし凡夫は、それを守ることができないから、この修行があるんだ。また、エゴによって、自分の欲求によって、いろんなことを求めるから、ね。それを押さえ込む為に持戒があるんだよ。いいですか?忍辱 そして三番目の忍辱だ。これも、例え身体がちぎれようがね、例え血を吐こうが、たとえ死のうがだ、自己の極限に絶えず挑戦している人、この人はもう忍辱波羅蜜を実践する必要はないんだね。これも当たり前のことだよね。 しかし、私達の意志の力は大変弱いから、そこで忍辱波羅蜜の実践が、忍辱の実践が必要となった、ね。精進 最後に精進だ。世事のことと修行とを比較して、絶えず修行の方をとっている人にとってだ、精進波羅蜜というのは必要ではないんだ。しかし、凡夫は修行よりも世事のこと、快楽、こんなものを求める。だから精進波羅蜜が大切なんだよ、ね。極限の修行が必要なんだよ、ね。 ほら、ここでは在家を否定してないよ。どこに一切を苦しみなさいと言っているか? どこに愛着を捨てなさいと言っているか? 持戒はパタンジャリのヨーガスートラを見てごらん。初めに、やってはいけないこととやらなければならないことが書いてあるじゃないか。 忍辱波羅蜜は意志の強化だよ。ラージャ・ヨーガのプロセスと同じだ。そして修行に入りなさいよ。これが精進だ。六波羅蜜では精進の次に瞑想の極限、そして最後にすべてを知る極限がくる。これはヨーガでは精神集中・瞑想・三昧のプロセスと一致している。 このような一致は、仏教とヨーガが歴史上競い合って、互いに良い影響を及ぼしたということだろうね。それだけじゃなく、同じ真理に至る道だから同じになったということもあるだろうね。確信を持て 八正道、七科三十七道品は素晴らしい修行法である、と私は思っている。しかし、現代では使えない。使えるわけがないんだよ。例えば八正道の正見。それは私達日本人にとって、正見のマニュアルが無いんだ。真理の見方については、私しか示すことができないだろう。また、この錯覚の世の中にあり、しかも真我がいまだに暗に落ち込んでいっている人にとっては、苦を感じることはできないだろう。楽しいことだって一杯あると思ってしまうだろう。正しく見ることなどとてもおぼつかない。 マニュアルが無い。正見の実践は自分だけでは不可能だ、となったら、もうすでに八正道の第一プロセスで引っかかってしまったことになる。 だからこそ、オウムでは私達にぴったりの、独自の修行システムを作っているんだよ。必ず悟る、解脱するというね、それだけのシステムがオウムにはあるんだ。だから皆さんは確信を持って修行してほしい。※麻原死刑囚はこの世の全てを苦だと思っているようです。それは一つの見方であって、真理ではないです。真理は人それぞれ感じ方が異なっている、何故なら、過去の経験が異なっているからという事になると思います。麻原は、自分で苦の原因を創っていると思います。今生も大勢の人々に殺害、傷害という苦しみを与えました。勿論、彼が死刑になった後、あの世の体験をして、再び、この世に生まれ変わってくる時、この世でやった事の報いを受ける事になると思われます。それで、彼はますます、この世は苦であるという体験を深めるでしょう。原因を創ったのだから、当然の事ですが。しかし、世の中の現実を見れば解る通り、生まれてくる事が喜びの人達もまた一杯いるわけです。その人達は、喜びの原因を過去生に創ったと考えられるわけです。 私は神智学もやっているのです。神智学大要やトランスヒマラヤ密教入門のHPをやっている人が見つからないので引用できませんが。そういう世界観も持っているし、生きているのです。麻原死刑囚の世界観の最高の世界である上位コーザル界の上の世界であるブッディ界、アートマー界、アヌパーダカ界、アーディ界についても知っているのです。 複数の愛人に6人もの子を孕ませ、多数の女性信徒と姦淫をなした麻原死刑囚には全く感じられない愛の世界が一杯あるという事です。婚外セックスをすると全ての人の心の世界を失ってしまって、物欲の権化である魔王になってしまって、快楽の世界しか残らないという事なのでしょう。イニシエーションFriday, October 6th, 2006第六話 予言と救済確実に核戦争だ! これから先世界がどうなるか、私達は一体どんな生き方をしたらいいか――ということについて話したいと思う。 まず、これから日本が辿る道に目を向けてみようか。日本は今まで豊かな生活をしてきたね。それは、戦中・戦後しばらくの間の苦しい生活がもたらしたものだ。苦しい生活がもたらしたというのは、日本人が苦しい生活をすることによって功徳を積んだ。その積んだ功徳によって豊かな生活を得たという意味だよ。 しかし、功徳によって得た豊かな生活も、ただ単にそれを亨受していたら今度は功徳を磨り減らすという結果を招いてしまう。人間というものは、このことになかなか気付かないものだ。気付かぬままに、この大切な功徳を失ってしまったら、どんな事態が待ち受けているのだろうか。本当に大変なことになるよ。 これは私の予言だよ。日本は、アメリカ・ヨーロッパとのね、経済摩擦をきっかけとして、少しずつ少しずつじり貧の生活に入っていくだろう。いいですか。その本当の口火が切られるのは一九九〇年だ。そしてもしだよ、一九九三年までにオウムがね、世界に、世界各国に少なくとも一つないし二つの支部を持っていたら……私が今から話す予言は外れることになるだろう。 しかし、もし一九九三年までに、本当のボーディサットヴァ(大乗の仏陀になる為に修行している人)が集まって、世界各国に二つ以上の支部ができなかったらどうなるか。九三年に再軍備だよ。いいですか。そして、一九九九年から二〇〇三年までに確実に核戦争が起きる。ね、私麻原は初めて核戦争について触れたよ。私達に残されている時代は、あとわずかに十五年くらいしかないんだよ。世界へ羽ばたけ でもね、その頃にはきっと各国に支部を持っているだろうね。そして支部のリーダーには、きちんとヨーガを成就している、少なくとも仏教の悟りを開いている人がなっているだろうね。オウムの会員の皆さんは、非常に真面目で真剣だから、きっとそうなっていると思うよ。そうなることが、私の願いでもあるよ。 なぜかというとね、もしそれがなされるならば、核戦争を回避することが可能だからだ。じゃあ、なぜ核戦争を回避できるんだとね、皆さんは思われるかも知れない。それはこういう理論なんだ。 各国の支部のリーダー達がね、成就者であったら、これは仏陀(目覚めた人)だ。釈迦牟尼如来が多くの人々に敬愛されたのと同様に、その国の人々に敬愛されていることは想像するに難くない。 その国の人々は知りたがるだろう。「仏陀達の根本はどこですか、仏陀達の根元的エネルギーを発しているところはどこですか。」、とね。「それは日本ですよ、オウムですよ。」私達は彼らに伝えることができる。「オウムは、戦争を否定します。殺生を否定します。メンバーは真理しか語りません。真実の生活しかしません。」 オウムの心は外国の人々にも必ずや伝わるだろう。いいですか。そうなったとき、日本はだ、外国からの攻撃は受けないようになるだろうね。それはそうだろう。自分達の魂の根源、魂の根源的城がだよ、日本にあるとしたら、それを誰が攻めることができようか。その国の二割でも三割でもオウムの信者がいたら、日本との戦争は避けるだけのパワーがあるだろう。それは確かだよ。 さて、このような理由から、オウムの教えを世界に広めていかなければならない。支部を各国に作っていかなければならない。アメリカ――、最初にアメリカ合衆国に支部を持とうよ。アメリカという国は、何でもそうだが、非常に流行するのが速い。それは日本でのスピードとの比ではないよ。もし、成就者が出て、あるいは成就できなくとも成就に近い人間がね、「オウムの教えとはこういうものだ。」とね、「真理の宗教、その根本となすものはオウムの教えですよ。」と、それを普及したならば同じように闘争は無くなるだろう。アメリカの次はヨーロッパ。最後に私達は、仏教やあるいはヨーガの発祥の地であるヒマラヤに道場を持とうよ、ね。――そして、ひととおり私の仕事は終わる――。 いいですか。もし九三年までにオウムがだよ、シヴァ神の意思を理解し実行し、役割を果たすことができたならだ。確実に戦争回避はできる、ね。そして、逆にだ。シヴァ神の意思をわからないで、理解できないでだ、自分達のことだけを考えていたなら回避は不可能だろう。
2007.08.29
コメント(0)
麻原死刑囚救世主、文鮮明救世主が失ってしまった人の心の世界、信頼関係の世界です。姦淫をする事がどれだけ、人の尊厳を貶めるか、計り知れないものがあります。そうやって注いだ愛情の酬いとして、旦那の経験を共有できるという事もあります。女は共有財産です。それが男の心です。見通せてしまうのです。人間は繋がっているという事なのでしょう。他の男の女も可愛いと思う、そういう男心、大切だと思います。そうだよなあ、そういう世界、全部、奪われたんだとつくづく思いました。でも、神様はイエス・キリストに対して、右側の強盗殺人犯の支持だけで、あとは全部、奪ったんだよなあと思い返しました。人類のキリストが得たものが強盗殺人犯の支持だけ。まあ、これが神様のやり方だから、仕方ないですが。 最低最悪の事をした麻原死刑囚の説法を利用しているのも惨めですが。役に立つと思うから、利用しているのですが、毎回、毎回、彼のカルマを修正しなければ到底使えないのですが。彼には人間のプラスの世界、素晴らしい世界が何にも無いから。私には人間は皆、美しいものを得る為に一生を一生懸命生き続けているように思えるのですが。人類は皆、それぞれの一生で何かしら美しい事を成し遂げていると思うのですが。だから、殺してはいけないのです。人類は皆、その人なりに神を実現しているのですから。獣姦がそんなに喜びなのでしょうか。人の心を失うだけだと思うのですが。-引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e3%82%a4%e3%83%8b%e3%82%b7%e3%82%a8%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3/イニシエーションFriday, October 6th, 2006第五話 その2 苦の滅尽を知りなさい苦の根本『無明』を滅せ 話かわって阿含経のことに移ろう。阿含経は仏典の一つだよ。その中にこう書かれている。――この人生というものは一切が苦です、とね。何ゆえに苦が生じたのでしょうか? それは、私達の無明が根本的な原因です。無明とは、真実を理解していないということです。 例えば、愛着。愛着の根というのは大変おいしい。私達を喜ばせてくれます。しかし、これは真実ではありません。瞋りというものは、私達を守ってくれます。私達のエゴを満足させてくれます。しかし、これは真実ではありません。ウソをついても、その時逃れられればとても楽です。しかし、これは真実ではありません。愛欲が生じた時、誰でもいいからセックスしてしまう。その愛欲は一時的におさまることでしょう。しかし、それは真実ではありません。―― 数えあげたらキリがないくらいの真実でないものがある。そして、それを言い換えると無明だと言っているんだよ。この無明あるがゆえに、私達は苦しんでいるんだと釈迦牟尼如来は言っているんだ。真実の程は、あなた方が体験してくださいよ。 じゃあ、その無明を滅するにはどうしたらよろしいかとね。釈迦牟尼如来はこう言っていらっしゃる。――まず、この世の苦を知りなさい。一切この世は苦であることを知りなさい。――――苦というものは、私達が生きている限り、粗雑な肉体、微細な肉体を持つ限り、起き上がってくるものですよ。――と言っていらっしゃる。いい言葉だねえ、起き上がるというのは、ね。ふだんは眠っているわけだ、苦はね。しかし、私達が歩いていて、つまり生きていて、けつまずくと起き上がるわけだ。それを苦の生起と言っている。そして、――苦の滅尽を知りなさい。――と言っていらっしゃる。じゃ、その方法は何か、というと、ここで登場するのが八正道なんだね。 しかしねえ、これは在家の修行者では無理だ。この日本の環境では無理だ。でも、あなた方の中で挑戦してみたいという人がいるかもしれないから、一応説いておくよ。いいかな?時代錯誤――八正道 今まで、多くの宗教家が八正道について説いた。そして、これは実践できるものだと言っている。 しかし、私はこう思うんだ。ある程度実践できるかもしれないけれど、これは正確にやることは不可能だ、とね。それは今から説く八正道の正確な意味合いを考えたらわかるはずだ。正見 まず、第一に正見だ。正しく見る。メモする人はしてもかまわないよ。この正しく見るというのは何か? これは、すべてのものを縁起の法によって見なさいよ、すべては苦なんですよ、ということだ。 しかし、私達は日本という一つの社会の中で生きているんだよ。生きる為にはお金も稼がなきゃならない。食べていかなきゃならない。あるいは、家庭生活を営んでいる人はね、妻や子を慈しまなければならない。そうなると、ここですでに正見は不可能と見なければならないんじゃないかな? だって、そうだろう? 俗世を離れた出家行者だったらいざ知らず、私達は、俗世にどっぷりとつかっているんだから。俗世はすなわち錯覚の世界、誤った世界なんだ。その中にいて、いくら目を凝らしても無駄だと思うよ。 まあ、八正道を説くと言ったんだから、一応苦の生起に触れておこう。苦というものは十二縁起の法によって生起しているんだよ、正見によってそのことに気付きなさいよ、と八正道は言っている。十二縁起の法については前にも説明したけどね、ここでざっと復習するよ。 独存の状態にあった真我は、三グナの干渉によって錯覚を起こし、間違ったプロセスを歩み始めた。そして、コーザル世界、アストラル世界を経験した後、苦界に生まれ出て苦を味わうと、ね。そして愛着しとらわれて生まれ変わっては一層苦を増大させている、と、これが縁起の法だったね。正思惟 そして、縁起の法の一つ一つのプロセスを正確に理解する修行、これが正思惟だ。どういう修行かというと、まず、一般的なものや、あなた方のまわりの事情を分析しなさいよ、それが正見につながるかどうか分析しなさいよ、と言っている。 そして、次はあなた方の行為、物の考え方を分析しなさいよ、と言っている。これが正思惟だ。これはできるかもしれない。しかし、この正思惟へと進む前提条件が正見だから、正見ができなかったらこの正思惟もダメだということになるね。正語 次は正語。これは以外とやさしい。真実のみを語りなさいよ、とね。やさしい言葉を使いなさいよ、とね。正業 そして正業。これは日々の生き方についてだ。一日一日を大切にして努め励めよ、と釈迦牟尼は言っていらっしゃる。しかし、これじゃ漠然としすぎているね。実は、これは仏道修行について言っているんだよ。修行以外はやるなというに等しい。しかし、これも不可能だろうね。 強いてあなた方在家の修行者に当てはめたら、こういうことだろう。仕事は仕方ない。家庭生活の楽しみは最小限に押さえて修行しなさいよ。アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラー、あるいはグル・ヨーガ、ツァンダリーの瞑想、これらを一生懸命やりなさいよ、とね。 なぜなら、人というものはいつ死ぬかわからないんだからね。明日死ぬかもしれない。あさって死ぬかもしれない、ね。しかも、死んだって来世の保証はないんだよ。来世での幸せを願うんだったら、一日一日を大切にして努め励めよ、と。こうなるだろう。正命 正業が日々の生活のことを言っているのに対し、こちらはライフ・ワークだ。一生を通じて真の解脱、真の悟りに目覚めるような生き方をしなさいよ、と言っていらっしゃる。これは出家を意味している。しかしね、これもなかなか難しいよ。私達は働かなきゃなんないんだよ。家庭生活も営まなければなんないんだよ。子供をほうっておいたら不良化するだろうよ。親をほうっておいたら悲しませることになるだろうよ。 しかし、釈迦牟尼は、「そういうことはどうでもいい。出家し解脱を目差し励みなさい。一切の執着の根を断って、ただひたすら解脱にまい進しなさい。」と言っていらっしゃる。これが正命だ。正念 次は正念ね。これは何か? これはね、出家というものは非常に辛かろう。しかし、それにまず耐えて、自分自身に精神集中し、悟りの思いを絶えず持ち続けなさいよ、ということだ。これを正念と言っている。これは心のプロセスだ。正精進 正精進が実際のアクションだ。例え雨が降ったとしても、このマニプーラ・チャクラの下までしか水が溜まらなければ、瞑想をし続けなさい、とかね。ただひたすら瞑想修行に打ち込みなさいよ。ただひたすら正法の流布を実践しなさいよ、といろいろな規定、これが正精進だ。正念と正精進は順番が逆でも差し支えはないよ。正定 最後に正定だ、ね。正定というのは何かというと、正しい瞑想という意味なんだよ。正しい瞑想というのはね、私が先程言ったように、一切の潜在意識を止滅させる瞑想だ。『死ね』の『死』じゃないよ。『止める』の『止』ね。止めてその根を焼き払ってしまう。この修行を全力でやりなさい、と。これが正定だ。 正見・正思惟・正語・正業・正命・正念・正精進・正定、この八つだ。この八つの実践を八正道と言っている。さあ、この日本の社会においてだ、私達が八正道を実践することができるか? できないね、当然。大乗仏教誕生 さて、釈迦牟尼如来が入滅され、その高弟達が亡くなられたあとね、みんな怠慢になった、ね。仏教の弟子達は怠慢になったんだよ、アホだから。なぜ怠慢になったかわかるか? 釈迦牟尼と高弟達はね、素晴らしいスーパー・パワーを持っていらっしゃったんだ。そして、ひたすら修行をし、真理を知っていらっしゃった。それほどに高レベルの人達だったから多くの信者を持っていた。 その為、それ以外の仏教の修行者も、仏教の名に支えられて食べ物に困らなかった。寝泊りに困ることもなかった。信じられていたからね。そして、まだ修行中で力も無いというのにね、ぬるま湯につかったような生活を味わっちゃったんだ。だから、本格的に修行をしたことのない怠慢な彼らは、釈迦牟尼の入滅後、ただ教えしか述べることができなくなっちゃったね。「私はかように聞いた。ある時世尊(釈迦牟尼)は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました……。」とね。単に教えしか話すことができなくなっちゃったんだ。 一方、ヨーガの源流であるバラモン教はだよ、仏教が広まった時、その勢いにおされてすたれてしまった。しかし、バラモン達は「これではいけない。」ということで昔からあった古いタイプのヨーガを改良し、それを武器として仏教に対抗したんだ。
2007.08.29
コメント(0)
Re:ちょっとちょっと… トノ01さん 隆司さん>ボーリング→カラオケ→居酒屋→ホテル>これだけで15マンってやばくね? →http://seiyoku-pet.net/ 15万円の価値を与えているという事だという事です。私にはそれがよくよくよくよく解ります。それが解れば、何故、私が絶対にしないか解ると思われます。私は自分の人生がとてもとても尊いという事をよくよくよく知っているのです。勿論、貴方の人生もです。私のブログを読んで下されば、人間の尊さを理解する事ができると思われます。 コメント有難うございました。貴方の尊厳をお金と交換している貴方は救世主です。世の女性達は貴方に感謝していると思われます。私には理解できない貴方の正しさを追求なされて下さい。しかし、私はその正しさを地獄と呼んでいます。私には地獄と感じられるから。貴方の天国が私の地獄なのです。 間違った愛情と、本当の愛との違いだと思われます。大変、失礼な事を言っています。すみませんでした。 (2007.08.29 15:38:43) 地獄に堕ちていた人類始祖エヴァを、人類始祖アダムは抱いてしまって、共に、地獄に堕ちてしまった。サタンルーシェルは神に勝利した。否、人類には、神の血が流れているのである。だから、私が誕生したのです。この私の尊厳をお金と交換している男の中の裏切り者がいます。しかし、私は怒りません。多分、その者には、男の血が流れていないと思うから。男の血が流れている人達は皆、私に従うはずだからです。それが神の血統であり、男の血なのです。 サタンは多分、女なのです。だから、私は怒らないのです。見かけ上は、男に見えるけれども男の魂を持っていない。要するに、動物の雄。神の血統ではない。そういう者達がいるという事だと思われます。愛し愛される心を持った人、人間ではないのです。心が有れば、神、先祖、両親に愛されている存在であるという自分の尊厳をお金と交換する事はできない。神の悲しみ、先祖の悲しみ、両親の悲しみの心情が伝わってくるから。人間というのはそういう高度な生き物なのです。良心を持っているのです。 イエス・キリストは右側の強盗殺人犯の支持を得ただけで、あとは全て否定されて、十字架上で刑死させられた。それでも、神を信じていた。そして、多くのキリスト信者達がそのイエス様を慕って、同じく、十字架の道を行った。人間はサタンルーシェルの血統ではない。自分の命を懸けて、それを証明していった。そのキリスト信者達の犠牲を裏切った文鮮明は2万年地獄に堕ちるそうですが当然の事です。性欲に溺れて、多くの女性達とセックスを重ねて、人間の尊厳をセックスの快楽と交換したサタン文鮮明に相応しい世界だと思われます。 セックスの快楽よりも、愛の方が素晴らしいと思います。私は45歳の今まで、セックスをした事はないけれども、何の問題も無い。セックスの快楽何の魅力も感じない。操が無い雌、人、人間ではないので、獣姦したいと思うわけないのです。人、人間は、人、人間にしか魅力は感じないのです。当たり前の事ですが。 当たり前の事ですが、神は唯一絶対だから、全ての人に一人だけ相対者を創ったと思うわけです。その唯一の相手にしか異性としての魅力は感じるわけないのです。これが唯一絶対の神様を信じているという事です。他の異性は兄弟姉妹です。セックスの対象ではないのです。 サタン麻原は、弟子達が勝手にテロを起こしたと言った。指導者としての愛が無かった。一般人に対して、テロを行って、殺害・傷害を与えた。隣人愛も無かった。娘達が面会に行っても何も言わない。家族愛も無かった。子供達は親の生き様を背負って生きていくしかないのです。親としては、自分の正義を語るべきなのです。子は親の正しさを信じて生きていくのです。世間から何を言われようと自分だけは親の正しさを信じていく、それが子供の正義なのです。それもしない麻原、本当に一日も早く死刑にしたくなりました。人の心を何も持っていない。こんな存在が世の中にいるなんて。非常に驚きました。麻原の正義とは一体何なのか。 「人類皆をマハー・ニルヴァーナに入れて、自分は最後の一人となるのではなかったのか。」 その為に全ての悪業を背負う救世主となったのではなかったか。子供達は、それを信じて、世の中の苦しみに耐えていくしかないのではないか。弟子を裏切った師麻原も許せないけれども、何と言っても、親心まで持っていない麻原は、本当、最低最悪の生き物だと思います。 私はこの世の一切の不幸に関わらず、神の人格を信じています。神は理想人格、最高人格であると信じています。これが私の神への信仰です。勿論、この私を否定した市・県は私以上の生き様をしなければ地獄堕ちです。当たり前の事です。私から地上天国を創るという人類の夢・希望への参加権を奪ったのだから。サタンの血統を証明したのだから。サタンは神の邪魔ばかりしています。それでも勿論、神の血は神の道を前進させ続けるのです。人類には神の血が流れているのです。人の心を持っているから、婚外セックスなどしないのです。サタンのセックスの快楽の誘惑に負けないのです。これが神の血統の証明なのです。婚外セックスをするという事は神の血を否定するという事なのです。その者の本性は行動に表れます。行動を見れば、その者の本性、本音が解るのです。神の子か、サタン・魔王の子か。 人類始祖エヴァが、サタンルーシェルと姦淫をして地獄に堕ちてしまった。人類始祖アダムはどうするべきだったのか。人類始祖エヴァの神性を信じて、地獄から、復帰するまで、待つべきだったのである。これが私の見解です。女と男とは対等なのである。対等でない存在は、自分の相対者、パートナーと成り得ないのである。地獄の存在を愛しても、何の美も返ってこない。自分の鏡に成らない。即ち、パートナーではないのだ。獣姦しても何の喜びも感じない。感じるわけないのだ。即ち、人類始祖アダムは人、人間ではないという事です。それは動物だった。人、人間ではなかった。心を持っている人、人間は、親である神の悲しみの心情が解るから、獣姦などできない。 愛し愛される人の心を持っているのが人、人間。人の心を持っていない者達は、動物。その人を愛している両親・先祖・神がいるのである。結婚しないのに、その人とセックスするというのは、その両親・先祖・神を悲しませるのである。だから、性欲を感じても、実際にやる事はできない。それが最低限の人の心です。その人の心を無視して、自分の性欲を満たすのは獣、即ち、サタン・魔王の心です。 私は45歳の年寄りなので、人の心と性欲との葛藤はありませんが、性欲が盛んな年頃だったら、葛藤があると思うのです。自分の両親・先祖・神が相手の両親・先祖・神にお詫びをしなければいけない事などしてはいけないという心を持った方がいいのです。そうすれば、自分の両親・先祖・神を否定しなくてもすむのです。性欲に負けてしまうと、良心の呵責から、神・先祖・両親を否定するようになってしまうんです。自分の根っこを否定して、破滅的な生き方になってしまうのです。神を否定したサタンルーシェル、人類始祖エヴァ、人類始祖アダムと同じように、獣になってしまうのです。大変な事です。性欲は死んでもいいから満たしたいという思いになってしまう、そういう危険があるのです。そういう時に、信仰が試されるんです。そして、勝利して、サタンの血統を越えていくのです。 人間の証明。獣の血の否定。 愛し愛される人の心というものはこれほど大切なのです。両親・先祖・神の信頼を裏切ってはいけないという心を持っていなければ、獣の血、サタンの血統に負けて、婚外セックスをしてしまうのです。一人の人のパートナーにしかなれない、即ち、人格の責任取れない事をしてしまって、人格崩壊してしまうのです。 人格は神格。大切なものなのです。 神を選ぶか、サタンを選ぶか、そういう試練の連続なのです。これが生きるという事です。神を選び続けた生き様が人格を育てたのです。そして、これからも育て続けるのです。世の中、そういう仕組みになっているみたいです。 そして、救世主の愛情は間違っていると思います。人は自らの神性に従って、自ら成長できるのです。主体性を奪ってはいけないのです。自らは見本となって、輝いているだけでいいのです。自分で徳を積んで、自分の事は皆、自分で救うのです。それが人間の誇りです。尊厳です。ただ、信頼していればいいのです。 あと、男の気持ちも少し、戻りました。女がいないと、男の気持ちも無くなってしまっていました。男は太陽ではなくて、北極星です。女がいる方は、北極星を仰がなくては駄目だと思います。私は女がいないので、男の責任を果たす必要もなく、心境が落ちていた事を認識致しました。 しかし、神が与えた環境なので、私は従っていこうと思います。しかし、女に支えられていて、男心が発生している人は、私のブログの心境では足りないと思います。私は自分の現実でない事書けないので、自分で自分の中に発生する男心に従って、男の道を前進し続けて下さい。仕事をしていた時は、女と男の分業がありました。 もうすっかり忘れてしまっています。遠くなってしまっています。これも神がなさった事なので私にはどうにもできません。そういうパートナーの感覚、現実の仕事では大事な事だと思います。その元になっているのは自分の女への愛情です。それが、他の男の女への愛情になっている。そういう社会的連帯感も当たり前の事ですが大切です。男としての優しさです。 そういう女心の可愛さ、美というものをここに記しておきます。もう思い出になってしまっていて、私の現実ではありませんが、多分、そういう美の心を受け止めて、その分、男心を発揮して女を護っていくという世界も大事な心の世界だと思います。勿論、女だけではなくて男同士もそうです。お互いに支え合っていくという心の世界、信頼関係の世界、尊い心の世界でした。 婚外セックスをすると、そういう人間同士の信頼関係を裏切るので失ってしまう世界です。
2007.08.29
コメント(0)
魂のきょうだいたちはとても性格が似ています。高橋師は「あの人の分身はあの人です。」といったことを言ったり書いたりしていますが、本などで調べてみますと、なるほど、よく似た性格の人物なので納得させられます。 通常、本体をAとしてB、C、D、E、F、という分身がいる場合、Aがこの世に生まれる場合はBが、Bが生まれる場合はCが守護霊を務めるというのが基本のようです。基本的には順番に生まれますが、修行をきちんと出来ずに死んだ場合、その魂がそのすぐ後にもう一度生まれてくるということもあるようです。誰かが地獄界に落ちてしまいますと、あとの五人は心配でもあり、また地獄界に堕ちたきょうだいが気になって、天上界での活動が制限されてくるそうです。きょうだいの誰かが地獄界にいる間は、別のきょうだいがこの世に生まれることは出来ません。 まあとにかく、私たちを守ってくれている守護霊は、もともと自分と同じ生命で、自分とうり二つの、誰よりも自分を深く理解してくれている霊だということです。守護霊を恐れたり、守護霊に遠慮したりするのは間違いなわけです。 ちなみに、六人のうち、誰かが如来になってもあとの五人はまだ菩薩であったりするわけですが、この六人は全体としてはやはり向上していくのであって、誰かだけが全く向上できずにいるということはないそうです。(一つ述べておきますが、空海の師匠のそのまた師匠である不空三蔵と、最澄は魂の兄弟です。しかしこの二人は7年間ほど、同時にこの世に存在したことになっています。空海が不空の死んだ日に生まれ、最澄は空海より7つほど年上ということになっているのです。しかしこれは歴史記録のほうが間違っているはずです。真言宗では空海は偉大な不空の生まれ変わりということになっているのですが、死んだ人が同日にまた生まれるということはあり得ません。業の修正をしなくてはいけないからです。思いますに、空海を不空の生まれ変わりということにするために、誰かが不空の死亡年を細工してしまったのではないでしょうか。単なる記録の間違いかも知れませんが、空海に関しては神格化された面がかなりあるように思われます。あるいは最澄の生まれた年が本当はもっと後だったのかも知れません。)(2006年5月24日:改訂して再掲載)-引用終わり- 私の立場は心を持とう、そして、その心を育てようという事です。即ち、他を愛そうという事です。愛し、愛された分だけ心は育つからです。物欲の世界に関しては、やりたい人はやればいいと思っています。私も肉体を持って生きている以上は、最低限の福祉を行っています。物欲の世界というものは最低限しかやる気に私はならないのです。理由は苦しみだからです。味わった苦痛の分だけ、快楽はあるのだと思いますが、私にとっては、その全体が馬鹿げているのです。もう快楽要らない精神状態になっているのだと思われます。名誉欲は元々無いのですが、他の物欲もほとんどありません。お肉は食べたいのですが、自分で買ってまで食べたくはありません。糖尿病という非常に恐ろしい病が美食の後には待ち受けているので。美食家の深見東州氏が糖尿病になって、炭水化物が食べられなくなっています。お金がかかる上に満足のない食事になっています。反面教師になっています。もっとも私にとって、イエス・キリストも反面教師ですが。 物欲の世界は、半端でない恐怖の世界だと私は現実を見て、つくづく思っています。特に、人間性を破壊する認知症は大変な事だと思っています。物欲を満たし過ぎて、物質的な徳分が無くなって、劫が顕現してきた時の現実的な地獄の恐ろしさというものは物凄いものだと感じています。世の中、金、金、金で、金を稼ぐ為だけに人生はあるというようになっていますが、私は心を育てる、人格を育てる、愛し愛される為にあると思っています。私にとって人生は心の学びの為にあるのです。物質的な快楽の世界である天国もその裏にある地獄の苦痛が嫌だから、魅力が無くなっています。 心の喜びを知ると、物質の喜びが要らなくなるみたいです。 物質的な喜びを追求するのならば、福祉をせっせとやった方がいいのではないかと思います。一生分の徳分を遣い果たして、早死にしてしまった者達を見ると、悔しくて仕方ないです。どうして、徳分を積まないのかと。どうして、そんなに欲が深いのかと。楽しみの量と苦しみの量とは釣り合わせなければいけないというバランス感覚をどうして持たないのかと。 私は真理をお金と交換しませんが、世の中には、お金と交換してもいいという救世主達が一杯いるので、今は本代さえ出せば、真理を手に入れる事ができます。勿論、少しですが、私のブログでも、物質的な徳分の事について触れているので、真理を知る為の徳分さえあれば、タダでその真理を得る事ができるのですが。私と縁の無い者は、私のブログを読めないのでどうしようもないです。私は救世主ではないので、お金は取りませんが、徳分の無い方々を救う事はできません。救世主、地獄に堕ちるだけですので、やる方々、異常だと私は感じています。真理の厳しさ、尋常ではないから。イエス様と同じ目に遭わなくて本当に良かったとつくづく思っています。ギリギリのギリギリを通り抜けてきたのです。 物質的な天国は、物質的な徳分を遣い果たしたら、次は、物質的な地獄に堕ちるんです。快楽は苦痛の裏返しなのです。積徳惜福という教養を身につけて頂けたらと思います。4次元幽界・5次元霊界・6次元神界は物質的な徳分の世界だと思うので、功徳の法則をよく学んで頂きたいと思います。 家族愛・隣人愛・指導者としての愛もよろしくお願い致します。心の世界も大切に育てて下さい。人の心が通じる世界には私もいる事ができるので。快楽の世界にはいる事ができませんが。救世主、地獄堕ちするだけだから、私にとっては反面教師です。やってはいけない事です。 間違った愛情によって、地獄に堕ちるのではなくて、神の世界に到達して、人類の希望となる事が一番の愛だと私は思うのです。イエス・キリストの十字架の道ですら、多くのキリスト信者は辿ったのです。そこに救いの道を見出して。これほど、人類は逞しい生き物なのです。道があれば、大変な道でも行く人は一杯いるのです。だから、見本となって頂きたい。それだけでいい。誰の業も背負わなくていい。皆、神の子だから、希望さえあれば、自力でいけるのだから。救済なんてしなくていい。完成して下さい。道を開いて下さい。負け組にとって、この世はあの世の為の修行の場なのです。それ以外、生きている意味無いのです。私も子孫いないから、私の血統、残らないのです。私が得た世界、この世から、消えてしまうのです。格差社会をつくった政治家達、人類を分断したのです。もう、一緒に人類の未来を夢見る事はできなくなったのです。これも勿論、神がなさった事です。人類を分断したのです。子孫のいない人達の為にあの世の希望の道を開いて下さい。毎日、毎日、殺されている人達一杯いるんです。真理の道を必要としている人達、一杯、一杯、いるんです。 麻原も、あんなになってしまうなんて。若者達の希望だったのに。現実はどんどん、過酷になっていっています。これも物欲に支配されている人類に対する神の試練かもしれませんが。 勿論、子供がいても、人類の未来を夢見られない人達は、あの世の為に修行なされても結構です。子供は子供だけの力で勿論、生きていけますから。人類の未来を夢見られなくなった貴方も負け組ですが。 頑張れ、勝ち組達!!! 言葉だけ応援致します。少しだけ、物質的な世界に私の持っている世界のデータを与えました。私はそういう魂も持っているのです。市と県はそういう私を裁きましたが。勿論、人類の未来を夢見て歩み続けなければ人道を踏み外す事になります。私は人なのです。人間なのですから。神の摂理のブログを創っている人間なのですよ。
2007.08.28
コメント(0)
『識』から『解脱』へ そこで、昨日の話と結びつく。私達の魂は、いいですか、私達の真我は、三グナの干渉によってこの迷いの生に引きずり込まれたわけだったね。その中の『識』の段階を覚えているかな? ここで真我はアストラル世界の経験をするんだったね。いいですか? ここが大切だよ。潜在意識はアストラル世界と結びついているんだ。したがって、潜在意識をいじることによってそこでの経験を無くしてしまう、つまり、そこの段階にまで逆のぼってね、以後のプロセスを消滅させることができるわけだ。 そのやり方としては三つあるよ。一つはそれ以上のカルマを作らないで、カルマが無くなるのをひたすら待つということ。潜在意識を通じてその『識』のプロセスを完全に理解できるから、それが可能となるんだ、ね。二つ目は、真我に納得させることだ。真我よ、お前はこのようにして暗に深く迷い込んでしまった。もういいかげんに気付きなさいよ、抜け出しなさいよ、とね。三つ目の方法は、真我が経験したことに対する反対の想念をインプットしてね、今までの記憶を消してしまうことだ。 こうして、アストラル世界での経験を消してしまうと、アストラル世界は透明になり、『識』の一つ前の段階『行』が理解できる。この『行』においてする、コーザル世界での経験は、『三昧』によって消すことができる。当然コーザル世界は透明となり、『無明』を理解できるようになる。真我は三グナの干渉によって苦へ至るプロセスを歩み始めたんだ、ということを理解できるようになるんだ、ね。そのことを真我が理解する――理解すると三グナの影響を離れる、ね。このことがわかった以上、好き好んで苦のプロセスに入って行くわけがないからね。 こうして、最後に残された『無明』は消滅する。この瞬間が解脱であり悟りであるんだ。そして、「私は解脱した。」という実感を得ることができる。いいですか? このことは今まで誰も解明していなかったんだよ。どの経典を見たって、こんなことを書いていない。今私がこれを明らかにする――これは不遜なことではないか――とさえ思っているんだよ。でもこれは皆さんに対するプレゼントだ。『からっぽ』は仏陀の意識 話が度々飛んでしまって申し分けない。元に戻すよ。瞑想を進めていってね、顕在意識が完全に無くなり、潜在意識だけの世界に入る、ね。潜在意識で瞑想を始めると、初めのうちは眠った状態、あるいは眠りに近い状態だ。思考の力が働かない。いいか? ところが功徳、あるいは六つの極限の実践によって、その眠りに近い状態でありながら、思考することができるようになってくるんだよ。そうしたら、更に一つ一つに精神集中をすることが必要となってくる。それによって潜在意識を透明にしていくんだ。 さっきは、潜在意識と『識』→『行』→『無明』を逆のぼっていくプロセスと結びつけて説明したね。今度は、潜在意識だけにしぼるよ。いいですか? 潜在意識の働きを、すべてストップしてしまった段階で、その人は仏陀となる――一言で言えばこうだ。仏陀とは目覚めた人なんだ。そこはからっぽです。じゃあ、何がからっぽなんだ? 一切の情報がね、整理されて完全な状態、観念が無い状態――これを私はからっぽという言葉で表わしたんだ。まあ、これはここまで到達した私の実感から出た言葉なんだがね。最高の修行法はこれだ! このことからもわかるように、私達の瞑想のポイントは『いかにして潜在意識にアプローチするか。』なんだ。 オウムでは、その効果的な方法としてね、布施・持戒・忍辱・精進の四つの極限的修行を提唱しているよ。しかし、これはね、なかなか皆さんが実践できるものじゃない。だから、別の方向でもアプローチできる方法を考えている。まず、アーサナをやって座法を安定させなさい、と。プラーナーヤーマをやって気をコントロールしてね、潜在意識に入り易い状態を作りなさい、とね。そしてムドラーを行なうことによって、完全に潜在意識に入りなさい、と。潜在意識に入った段階で内側のものを落としてしまいなさい――とね、これがオウムの修行だ。 おそらく地獄から始まって天界まで至る欲六界、色界、無色界を通してだ、オウム以上の修行を考えることはできないだろう。オウムの修行法以外の修行はあり得ないと考えた方がいいだろうね。 もう少しつっ込んでオウムの修行について説明しておこう。あなた方に大変関係してくるからね。 ムドラーで潜在意識に入れるようになった、と。そこまで進むことができたら、ね、私はあなた方に秘伝的な瞑想法を伝授するだろう。その秘伝的な瞑想法とは、グル・ヨーガやツァンダリーなどだ。これによって、あなた方は潜在意識を変えていく。どのように変えていくか、というと、大乗の仏陀となる為の心を潜在意識に植えつけるんだ。 すると大乗の仏陀となることを潜在意識が欲する。したがって、顕在意識は六つの極限の修行、四無量心、救済などに打ち込むようになる。このことによって、修行の進歩が早まる上に、カルマもどんどん落ちていくんだよ。 でもね、中にはこれをクリアーできない人もいるんだ。どういう人がクリアーできないのかというと、エゴの強い人だ。例えば、自分の為にこの世があると考えている人、物欲が強い人、生存欲が強い人だ。 こういうエゴの強い人にとって、大乗の仏陀の心はギャップがありすぎ、異質なものなんだね。だからスムーズに受け入れられない。無理して受け入れようとしても混乱してしまうだけなんだ。反対に、そういう心の基盤のようなものを持っている人は何も問題が起きないんだね。一瞬にして苦を滅する解脱者 ねえ、解脱した人、悟った人には“苦”はあると思うか? 無いと思うか? あなた方はこれについてどう考えるだろうね。たぶん、絶対幸福、絶対自由の状態にあるのだから苦を感じることなど無いと思うだろう。しかし、本当は苦があるんだよ。この世に肉体を置いている限り、苦から離れられないんだ。苦はあるんだけれども、その処理の仕方を知っている。実際に、速やかに処理して苦を消滅させてしまうことができる――これが解脱者であり悟った人なんだよ。 苦の原因はね、私達の感覚器官を通して顕在意識に入ってくる。普通の人間の場合はだね、顕在意識に入った苦の原因となる情報が潜在意識に入って根づいてしまうんだ。これは最悪だよ。一旦潜在意識に根づくと、容易に取り去ることができない。しかも、潜在意識に根づいた情報がだ、その人の行動に対して、あるいは思考に対して悪影響を及ぼしだす。そしてますます苦を感じるようになる。いや、この時から本当の苦が始まると言った方が良いのかもしれない。 これに対して解脱者は、苦の原因が顕在意識に入った段階で消滅させてしまえるんだ。瞑想によって逆の想念をちょっと入れるだけで消滅してしまう。だからとっても楽だ。だから絶対自由・絶対幸福と言えるんだよ、ね。潜在意識に根づくような、本当の苦の発生はもちろんないしね。http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter2/con2-17.htm第二章 17.本体と分身 初めて高橋信次師の教えに触れた方は驚かれるでしょうが、生命には本体と分身があるそうです。 例えば人間には一人の本体につき五人の分身がおり、通常は順番にこの世に生まれてきます。本体が何か大きな使命を帯びて生まれる場合は、分身がまずその国に生まれ、実情を知り、また本体がやがて活躍できるよう、準備をしたりします。かの木戸孝允や坂本龍馬も、やがて本体がこの世に生まれて法を説けるよう、封建社会を倒して近代国家を造ることを目的として生まれた分身たちだそうです。 当然ながら本体のほうが責任が重く、分身は自分一人が造り出した業を修正すれば良いところ、本体は分身たちが造り出した業をも修正せねばならないとのことです。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る。」というのが正法の基本ですが、本体・分身というのはもともと一つの生命ですから、他人の業を引き受けるということではないのです。 このような本体・分身のことを「魂のきょうだい」と呼びます。 分身は本体の周りを回って、お互いに助け合い、一つの生命をなします。ちょうど原子核を中心に電子が円運動を描いて「原子」という一つのまとまりを作っているようなもので、分身(電子)は本体(原子核)を補う働きをします。 なぜ本体と分身という仕組みになっているのか、高橋師は悟った当初、解りませんでしたが、指導霊からのヒントと、心の調和度を高めることなどにより、ついに解答を得たようです。以下に、『心の対話』に載っている話に私の言葉を付け加えてご紹介します。 あの世もこの世も神の意識が作った以上、同じ法則で貫かれているわけです。慣性の法則も、作用・反作用の法則も、心の世界と物質界の両方において成立しています。 神はエネルギーでもあるわけですが、この世においては熱、光、電気、磁気、重力のエネルギーが組み合わさって物質が出来上がります。神のエネルギーを「本体エネルギー」とすれば、五つのエネルギーは「分身エネルギー」とでも呼んで良いかもしれません。人間が神の本体エネルギー・分身エネルギーと同様に本体一・分身五であるのは、人間が「小宇宙」と呼ばれるように、神と同様の宇宙大の心を持ち、自由と創造性が与えられているからでしょう。と申しますのは、植物や鉱物は分身の数が異なっているからです。 動物の細胞を見ますと、核、原形質膜、ミトコンドリア、ゴルジ体、中心体、脂肪粒から成っていると高橋師は説きます。もっと沢山の細胞内小器官がありますが、大きく分ければこうなるということなのでしょう。これらが互いに補い合って「細胞」を作っているわけですが、核を本体とするとあとの五つの器官が分身に相当し、従って人間以外の動物も本体一、分身五だそうです。 植物の細胞では核、原形質膜、液胞、色素体、細胞膜から成るとのことで、本体一、分身四なのだそうです。 鉱物では例えば炭素では原子番号が6ですが、これは核外電子の数ですから、これに核の一を足した数が本体と分身の総数だそうです。つまり本体一、分身六です。 要するに中心となるものが本体、それを補っている要素が分身、本体と分身が合わさって一つの機能を持つ生命である、ということでよさそうです。不思議な話ですが、高橋師も「不思議といえば不思議」と言いつつ、「形の世界は心の反映」で、生命(魂)の組織がそのまま形の上にも反映していると言っています。 さて、本体・分身の話と性別のことを申しましょう。本体と分身の構成は、以下の三つのパターンがあります。1.本体が男性、五人の分身がみな男性2.本体が女性、五人の分身がみな女性3の1.本体が男性、分身のうち二人が男性、三人が女性3の2.本体が女性、分身のうち二人が女性、三人が男性 1から3まで、どれが欠けても男女の数に不均衡が出るとのことです。 このことに限らず、宇宙は三つの要素から成っており、それを高橋師は「三体制理論」と呼び、初期の頃『大自然の波動と生命』という著書で述べたのですが、占い師たちが悪用するようになったため、すぐに絶版にしたと聞いています。
2007.08.28
コメント(0)
『苦』から『六ヨーガ』へ ――このように今、あなた方の魂はオウムに集まってきている。あなた方の魂は、そこで苦から抜け出そうと考える。『苦』あるがゆえに『信』あり、あなた方は麻原の教説を真理だと信じてオウムに集まった。ね、そして一生懸命修行しようとね、いいですか、あなた方は悟りと解脱のプロセスを歩き出すわけだ。 『信』を基礎とした修行によって、クンダリニーが上昇し『悦』が生じる。『悦』が生じてくると、私達の背骨にあるね、先程言ったスシュムナー管、イダー管、ピンガラ管、この三つの管を浄化する。そして、三つの結節を破るんだ。 まず、マニプーラ・チャクラの裏側のブラフマン結節、それから、アナハタ・チャクラの裏側のヴィシュヌ結節ね、そして、後頭部にあるルドラ結節を破るわけだ。最後にサハスラーラ・チャクラが崩壊する。すると、ツァンダリーが起きる、ね、いいですか。 ツァンダリーは、私達の過去世からの汚れを浄化する。これが『喜』だ。そして、ここを通過するとね、『軽安』『楽』と進む。ま、『楽』というのは、長く座れ瞑想に適している状態だ。この時期に三昧に入ることができるようになる。この時、心臓は若干動いている。しかし、聴診器くらいではわからない。これが三昧だ、ね。 三昧に入ると、その人の精神的レベルによって、いずれかのチャクラから魂が抜け出す。ね、そして六ヨーガが生じる。それはわかるね。読んでない人は『生死を超える』を読んでくださいよ、わかるから。バルドー、夢見、幻身、ね、光ね、そしてポアだ。あれ、これでは五つだ。一つ足りないじゃない、ね。S、何が足りないか?S「熱です。」 よし、なぜ私が六ヨーガの中に熱を入れなかったかというと、すでに上昇させるプロセスで熱のヨーガが入っているんだよ。ベースにあるわけだ。 さて、この六ヨーガによって、私達は一切を知ることができる。ね、『如実知見』だ。そうすると、私達のね、『無明』から始まってこの世に再生してくるプロセスがだよ、良くわかるようになる、ね。 そして、「ああ、こんなのは嫌だ。離れなければならない。」と切実に思うようになる。そして『遠離』ね。それから『離貪』ね。それが終わった段階で、私みたいに解脱するんだよ。 いいかな、これが釈迦牟尼如来のお説きになった縁起の法だ。ねえ、簡単だろう。それから、私が普段言っていることと少しも矛盾しないだろう。だいたいね、真理というものがね、矛盾するのがおかしいんだよ。そうじゃないか。チベット仏教だって、原始仏教だって、ヨーガだって、同じことを目差しているんだよ。真理を追求しているんだ。真理はひとつ 仏教とヨーガのプロセスが同じことに気付かない人がいるかもしれない。では、パタンジャリのヨーガ・スートラをサッサッサッとみてみよう。ヨーガ・スートラには――これはラージャ・ヨーガなんだけれどね――こう書かれている。一に悪いことを極力しないようにしなさい。二に良いことを徹底的にやりなさい。三に座法を安定させなさい。四に調気法によって心を制御しなさい。五に一切の感覚を外界から引き離しなさい、とね。そして、精神集中、それから瞑想、超覚醒というね、八つのプロセスを歩くわけだ。 非常に似ているね。普段私が言っている六つの極限の実践と非常に良く似ている、ね。つまり、パタンジャリのヨーガ・スートラも、大乗仏典の六波羅蜜の六つの極限の修行も同じことを言っている。私が先程言った縁起の法ともダブッている。 だいたい真理を示しているものにね、矛盾があるはずがないんだ。イニシエーションFriday, October 6th, 2006第五話 その1 潜在意識をつかめ!潜在意識――指令室 さあ、今日は五日目。それでは私がね、瞑想中に体験したことを話そう。これはあなた方が今から行なっていかなければならない瞑想の中で、特に悟りと関係のあるプロセスだから良く聞いてほしい。いいですか? まず、瞑想の目的を考えてみようかね。それには、私達の意識のことから説明しなくてはならないだろう。 私達の意識には、潜在意識とそれを覆っている表層意識があるね。表層意識というのは、顕在意識という言い方でも表わされているよ。普通私達は、この顕在意識でものを考えている、ね。しかも、私達は顕在意識の動きしか知らない。 しかし、顕在意識でものを考えてはいるがだよ、その原動力となるものは潜在意識なんだ。潜在意識の指令によってね、それを受け取った顕在意識が考えているんだよ。いいですか? ――瞑想が始まる、ね。私達は瞑想によって、潜在意識にアプローチするわけだ。修行が進むにつれて、潜在意識を知ることができるようになる。潜在意識と顕在意識は相反する性格を持っているんだ。潜在意識は、直接的、本能的なんだよ。どう言ったらいいかな――有るか無いかなんだね。 例えば、人を愛する愛さないのどちらか、中間が無いんだ。少し愛しているとかいうことが無い。少しおなかがすいているとかなんてことも無いんだね。つまり、両極端しか無いんだ。 ところが、顕在意識は全く違う。確かに潜在意識の指令を受けて、顕在意識は働き出すよ。しかし、潜在意識のように両極端にはならないんだ。今までの経験から得たデータによってね、「これくらい食べると自分は満足できる。」あるいは「これはおいしそうだから、これくらい食べられる。」などというように、分析し判断するわけだ。そして食べる。精神分裂――解脱直前 要するに、私達には相反する二つの意識が同時に存在しているわけだ。そのうち、修行が進んでいくとだよ、自分でもどちらが顕在意識か、潜在意識かわからなくなってしまう。区別がつかなくなってしまうんだね。 ある時は潜在意識の中にいる。ある時は顕在意識が働いている――ここで精神分裂が起きるんだよ。いいですか? だから、修行者は必ず解脱前に分裂する。分裂を通り越さないと成就はあり得ない。わかりますか? あなた方がこの時期を通り越す為にも、オウムが必要になってくるよ。普通の社会生活ができなくなるからね。悪くすると精神病院へ入れられてしまうしね。しかし、オウムではあなた方を保護できる、ね。これは決して忘れてはいけないよ。 もう一つ、精神的におかしくなってしまう時期があるので、つけ加えておこうね。その時期というのはね、ほとんど潜在意識しか使わない時期――最終的には潜在意識のみにするのを目差すのだけど――このほとんど潜在意識しか使わなくなり、ほんの少しだけ顕在意識が残っている時だ。この時期は、煩悩の影響をストレートに受けてしまうんだよ。成就してしまえば、潜在意識だけを使っても何の問題も起きない。成就にあたって煩悩は消滅してしまっているからね。しかし、煩悩があり、それが潜在意識に影響すると、それはそれはひどい状態になる。さっきも言ったように、潜在意識には両極端しかないのだからね。煩悩が顕現してしまうんだ。 ただ前生から修行している人、あるいは今生で修行しながら徹底的に功徳を積んでいる人は、この時期、少しおかしくなるという程度で済むようだ。潜在意識こそ欲望の根源! では、次に潜在意識と顕在意識がどのように働いているかだ。もう一度繰り返すと、潜在意識は顕在意識の原動力だ。潜在意識の指令で顕在意識が動いている。 例えば、潜在意識からこういう指令が出たとするよ。「私は異性を欲している。このストレスは異性によってしか解消されない。」とね。その指令を受け取った顕在意識は、手頃な異性を捜し始める。ね? 手頃な異性を捜すことができなければ、ソープランドかなんかへ行く、ね。そして、男性の場合だったら射精、女性の場合はエクスタシーなんだけれども、これを得た瞬間、顕在意識は満足し、顕在意識レベルでの欲求は消えてしまうんだ。 一方、指令を出していた方の潜在意識はどうなるか? 一旦おさまったかのように見えるだけで、実は欲求を持ち続けている。どうしてこうなるのかわかるかな? 例えば、異性を欲する――、これは単純にセックスだけを望んでいるわけじゃないんだ。相手の愛が欲しい、安らぎたい、独占したい、性欲に満足したいなど、多くの欲求が複雑に混ざり合っているんだ。この欲求の条件というものをすべて満足させることは不可能だよ、ね。つまり満足できないからその欲求は残っているんだ。だからまたすぐに指令を出すだろう。これは果てしない繰り返しだ。この経験が行きつくところまで行くと苦を感じるんだったね。これは前回話したからここでは省くよ。潜在意識へのアプローチ さて、私達が瞑想に入るとね、初心者はまずその顕在意識のレベルで一生懸命瞑想をやっているわけだ。例えばジュニアーナ・ヨーガだ。「何ゆえに私には性欲があるのであろうか?」ということを分析していく。昨日ポルノ映画を見たからだと、ね。あるいは強精剤を飲んだからだと、ね。あるいは、この性欲というものは、本能的なものだと考えるかもしれない。 しかし、それはすべて本質的なものではないよ。例えば、条件を一つずつ落として行ってごらん。もし、昨日ポルノ映画を見なかったら、今日性欲は起きていない。確かに今日は起きなかったかもしれない。しかし、明日起きるかもしれない、ね。もし、女性のヌードを見たから性欲が起きたと考えていたとする。じゃ、見なかったら起きなかったのか?そうではないね。 じゃ、次に食欲について考えてみようね。道を歩いていて、おいしそうなカレーのにおいがしたから、おなかがすいて食べたんだと言うかもしれない。じゃあもし、カレーのにおいがしなかったら、永遠に食べなくて済むのか? もし、いいですか、運動をしたからおなかがすいて食べたんだ、という人がいるかもしれない。本当にそうか? じゃ、運動しなかったら食べずに済むのか? いいですか。こういうアプローチをし続けているうちにだ、私達は「待てよ。」と考えるようになる。「これはすべて末端にすぎないんじゃないか。」と。「この元の情報を出している何かがある。」とね。この元の情報を出している何か、これが潜在意識なんだ。入れ替えよ――潜在意識 顕在意識とこの潜在意識の中間は眠りみたいなものだ。ボーッとした状態だ。だから、瞑想で顕在意識を落としていくとね、ある段階までくるとね、ボーッとしてものが考えられなくなる。それはそうだよね。今まで顕在意識が考えていたんだからね。それが無くなっていったら、ボーッとなってしまうのは理解できるだろう。そして、ある時は顕在意識に戻ってしまい、ある時には潜在意識に入ってしまう。これが、さっき言った精神の分裂なんだね。 ところで、前生からの修行者は、すでに過去の修行で表層意識が少なくなっている。だから、生まれながらにして精神分裂を起こしているような人もいる。 しかし、それは決して恥ずかしいことでも何でもない。その人が前生から一生懸命顕在意識を落としている証拠にすぎないんだよ。 さて、顕在意識が完全に落ちたら、次は潜在意識の世界に入っていくよ。これは、すでに話したとおり、有るか無いか、だ。両極端しか存在しない。直接的だ。 例えば、瞑想をすると性的衝動、即セクシュアルなヴィジョンとなる。例えば、食欲的衝動、即食物のヴィジョンが出てくるんだ。眠っている時もこの瞑想と同じ状態になる。また、例えば、愛する人を求める。愛するというのは性愛じゃないよ。本当の意味で愛する人を求める。即、その人と話ができる。これが私達の潜在意識だ。 だからね、潜在意識は非常に理解しやすいんだね。単純なんだ、潜在意識は、ね。したがって、データの入れ替えさえスムーズに行なえれば、きれいに透明にすることができるんだよ。
2007.08.28
コメント(0)
執着のステージ 一つ具体的に例をあげてみようね。あなた方の身近にこういう人がいないだろうか。それは、自分のさびしさを紛らしたいが為に、数多くの異性とつき合っている人だ。ある人はこう言うかもしれない。「観念が無いから解脱に近い。」と。しかし、私に言わせればそれは無智だ。無智に加えて、無智からスシュムナー管に移動したばかりの、低次元の性的執着があるに過ぎない、ということになる。この人のやっていることは、例えばおなかがすけば、何でも手当たり次第に食べるのと同じじゃないか? また、他の人にはわき目もふらず、たったひとりの人を追いかけるタイプの人もいるね。この人は執着の段階だ。しかも、アナハタ・チャクラのレベルつまり愛に対する執着の段階だね。 前者と後者を比べてみると、人間の進化のプロセスで、どちらが上でどちらが下かわかることだろう。気道の浄化は外せない 話をもとに戻そう。このイダー、ピンガラ、スシュムナーというね、三つの管が、修行によって浄化することができる。イダー、ピンガラの浄化が終わって、最後がスシュムナーだ。 これが釈迦牟尼如来のお説きになった、ね、人間観だよ。いいですか。「そんな事はどこにも載っていない。日本のどの経典をさがしても載っていない。」とあなた方は考えるかもしれない。しかし、それは日本にまで伝わっていないだけでね、インド仏教の経典にはちゃんと載っているんだよ。――貪、瞋、癡のすなわち貪り・瞋り・無智の三つの心の働きは、三つの管の障害となる――とね。いいですか。このように解脱のプロセスにおいても悟りのプロセスにおいても、この三つの管の浄化が必須条件なんだよ。今日は悟りのプロセスとの関係を話したが、解脱のプロセスとの関係については、『生死を超える』を読んでおいてください。それと病気と三本の管との関係については、『超能力秘密のカリキュラム|健康編|』に書いてあるので、こちらも読んでみるといいだろう。イニシエーションFriday, October 6th, 2006第四話 その2 十二縁起の法『苦界』へのプロセス さあ、次はね、去年も触れたことがあった『縁起の法』について考えてみよう。これはちょっと難しいよ。――私達は何ゆえにこの苦界に生まれたのであろうか――というね、生き物が苦界に生まれ出た理由というか、プロセスを追って解明しているものなんだよ。苦界というのはね、欲界・色界・無色界の三界を指しているんだ。私達が現在いる人間界はこのうちの欲界に属している。したがって苦界の一つなんだね。 苦界に入ったプロセスは次のようになる。ざっと流すよ。『無明』ありて『行』あり。『行』ありて『識』あり。『識』ありて『名色』あり。『名色』ありて『六処』あり。『六処』ありて『触』あり。『触』ありて『受』あり。『受』ありて『愛』あり。『愛』ありて『取著』あり。『取著』ありて『有』あり。『有』ありて『生』あり。『生』ありて『苦』あり、とね。こうして私達は迷いの生を受けるんだと、釈迦牟尼如来は言っている。ちょっと今日の講義は難しいからね。まだ、わからなくてもいいよ。今から一つずつ正確な意味合いもね、含めて説いていくから。 じゃあ、まず、無明ありて行ありとは何かね。はい、君、無明ありて行ありとは何ですか? 会員「無明ありて行ありですか?」 麻原「はい、そうです。」 会員「無明とは無智のことです。」 麻原「それは、言葉の遊びだ。無明が無智になろうとだよ、同じだろう。それは言葉を理解したことになるか。無明とはどういう状態かと私は聞いている。」 会員「真理に疎いことです。」 麻原「真理に疎い。おお、いいねえ、なかなか。では真理とは何か。」 会員「絶対自由。」 麻原「絶対自由、それと?」 会員「絶対幸福。」 麻原「なかなかいいね。」 真理というものは、私達の真我が独存に入っていることだ。この時、絶対自由であり、絶対幸福であり、絶対歓喜という状態なんだ、ね。そして不滅でもある。いいかい。これが真理なんだよ。私達の真我は、本来この状態であった。 ところがね、その独存の状態にあった真我にね、三グナが干渉しだしたんだ。その三グナの干渉によって、真我は判断を誤り錯覚を起こしてしまった。それが『無明』なんだ。ここに私達の苦へ至るプロセスが始まってしまった! 次に、判断を誤り錯覚を起こした真我は、一見美しく楽しい世界、自由な世界へと入ってしまう。そこはコーザル世界と呼ばれている。ここから『行』へと移ったわけだ。行とは動くという意味だよ。行には身・口・意の三つがある。身は動くことができる、口はしゃべることができる、意は考えることができる、という意味だ。つまりね、もともと真我は自由に動くことができ、しゃべることができ、考えることができるということだ。 『行』の段階で、真我は今述べた身・口・意を使って経験を始める。この経験の舞台となるのはコーザル世界だ。コーザル世界とは、精神と観念だけで成り立っている世界だよ。 真我は、コーザル世界での経験をし尽くすと、今度はアストラル世界へと入っていく。経験し尽くして飽きてしまったコーザル世界より、未知のアストラル世界の方がステキだと、またもや錯覚してしまうんだね。アストラル世界とはイメージの世界、高次元の微細な世界だよ。 このようにして、アストラル世界へと入った真我が、ここで経験をしていく段階が『識』なんだよ。 経典ではこういう表現にはなっていない。しかし、実はそれが六識という言葉で表わされているんだ。この六識が何を指しているかというとね、まず、アストラル世界で見るヴィジョンね、聞く音ね、それから匂い、味覚、触覚、そして思いの六つだ。 もう一度言うと、『行』はコーザル世界で経験していくプロセス、『識』はアストラル世界で経験していくプロセスなんだよ。 それでね、アストラル世界での経験が終わってしまうと、真我は前と同様に、この世へと入って行ってしまう。この時、私達は粗雑次元の五大エレメントを使って、この世に生まれ出るというわけだよ。この段階が『名色』と呼ばれている。 『名色』とは何か? これは五蘊を表わしているんだ。五蘊とは五つの集まりという意味。その五つとは何か? 難しい言葉を使うならば、色・受・想・行・識の五つだ。これを私達が使っている言葉に置き換えるとだ、色は粗雑次元の五大エレメント、受は感覚、想は表層意識、行は深層意識、識は判断を表わしている。この『名色』の段階では、真我が五蘊に干渉してしまうんだ。つまり、五蘊を思い通りに動かし始める。より良い生活を求めてね。 そして『名色』ありて『六処』あり。『六処』は、『名色』が具体化するだけなので、同じものと考えても差し支えないだろう。『六処』とはすなわち、目・耳・鼻・口・触覚・意識だよ。 そして、これらが外界と接触する。接触するとそこでいろいろな感情の動きがでてくる。これが、『六処』→『触』→『受』→『愛』のプロセスだよ、ね。まず、『六処』が外界と接触する。これが『触』。それによって、感覚器官が働き、いろいろな外的情報が入ってくる。これが『受』だ。ここで愛着が生じる。これを『愛』と言っているんだね。 私達はこの愛着、言い換えれば執着から離れられない。修行によって離れるしかない、と私は何回となくあなた方に言ってきた。その愛着は、このように真我の経験から生まれたものだったのだ。いいですか。なぜ、私達に愛着、執着があるか、その理由はこれでわかったね。真我が経験をし始めた当初である、無始の過去から、私達は愛着を増加させてきたんだよ。 例えばここに女性が十人いてね、私達に無数の過去世において積み上げた経験が全く無かったら、特定の人を美人とも思わなければ、ね、醜いとも思わないし、普通とも思わないよ。しかし、実際は受ける印象が違うだろう? しかも、それぞれ、つまりひとりひとりの真我の経験は違うものだ。人は経験を判断基準としている、というわけで、“好み”の女性のタイプもひとりひとり違うんだね。例えば、A君が、「B子さんて美人だねえ。」と言ったら、C君は、「何だい、あんなチンクシャ。趣味悪いぜ。」と答えることもあり得る、ね。 これを『愛』と言っているんだ。愛着、執着だよ。いいですか。釈迦牟尼如来はこう言っている。「六つの入口から愛着のもとが入ってきますよ。」とね。この六つの入口が、先程述べた『六処』、すなわち目・耳・鼻・口・触覚・意識のことなんだよ。 愛着してしまうと、今度はこれにとらわれてしまう。これが『取著』だ。 例えば、いいですか。あまりにも宗教的な本ばかし読んでだ、理解はしていない人がいたとしよう。これこれこういうことをすると、天界に行けるなんて思い込んでしまったら、また、悟れるんだと思い込んでしまったら、それにとらわれてしまう。これは意識による『取著』だ。 ね、あるいは、今迄会った美人がみんな優しかったと。すると、美人イコール優しい人だと思い込んでしまうかもしれない。これがとらわれだ、『取著』だ。 ね、いいか。たまたまバナナを食ったら、おなかを下してしまったと。それが三回も続いたと。そうするとバナナを食べたら下す、と思う。これもとらわれだよ。ね、いいかな。一切のとらわれが愛着から、あるいはアンチ愛着からね、始まる。ね、これが『取著』だ。 『取著』があると、欲求する。もっと欲しい。もっと良くしたい。もっと満足したい、とね。すると、真我は自分の欲求に動かされて、物を作り出す。私達の欲界でもその作業は続けられているんだね。征服欲がいまや核兵器さえ生み出した。楽をしたいという欲求は、電子レンジや洗濯機、ガスや水道を作り出した。ラジオができた。テレビができた。自動車ができた。飛行機ができた。これらは、みんな真我の欲求が作り出したものなのだ。その作り出して、自分の世界を満足できるようにしていく段階、これを『有』と言っている。『有』だよ。 『有』はどんどん深みにはまっていく。欲は欲を生むからね。死んでも原因となっている愛着とこだわりは消滅しない。カルマとなって残ってしまうんだよ。そうなると、カルマによってこの世に再生する。これが『生』だ。 そうして、私達は生まれ出て『苦』を味わうことになる。これが『生』あるがゆえに『苦』ありなんだ。じゃあ、どうして『苦』を味わうのか、ということについても説明しておいた方がいいかね。ちょっとね、もともとのプロセスを思い出してごらん。屈折しているだろう。とらわれから生まれ変わっているわけだからね。とらわれていたら、正確に物を見ることができない。だったら幸福になれるはずがないんだよ、ね。 『苦』あるがゆえに凡夫は一層ね、愛着し取著し、楽しみを求め、一層の苦しみに入る、ね。それを私達はもう何生も何生も気が遠くなる程の生をね、繰り返してきたんだよ。 しかし、私達はこの世に生まれてきたから苦しまねばならない。例えば、病気をしたり歳をとったり、ね、あるいは悩みを持ったり、ね。要するに、苦はすべてのプロセスのまとめなんだよ。で、苦から離れなくてはならない、と気付いたら、今度は『生死を超える』のプロセスだな。これは、私の本に書かれているからここでは簡単に触れるのみとするよ。
2007.08.28
コメント(0)
しかしだ、Aを登用しようとBを登用しようと、ねえ、おそらくこのふたりはついて来ないだろうね。まず、愛がなければ、その言葉の端々に冷たさを感じるだろう。そして、絶えず否定的な意味合いのことを聞かされることによって、心は凍りついていくだろう。AもBも当然その冷たいリーダーからね、離れてしまうだろう。 今、例をあげたふたり、愛着を持っている人と愛の無い人はね、両者とも成就からは程遠いね。なぜってね、成就するときにはすべての人を愛せるようになるし、正確に見ることができるようになるのだからね。悟りを開く(成就)ということが、来世の保証だけでなくこの世の幸せを意味しているのもこれでわかるだろう。すべての人を愛せる、物事を正確に見ることができるということは、速やかにその人に幸せをもたらす条件なんだね。五本の柱 例をあげて考えてきたわけだけど、悟りを開く為に必要なことを、ここでまとめてみようね。次のことが大きな柱となるんだよ。1観念を崩壊させなさい。2愛着を捨てなさい。3すべての人を愛せるようになりなさい。4プライドを越えなさい。 この四つについて、今日話したね。これは順序は関係ないよ。みんな同じように大切なんだ。それと今日は触れはしなかったが、あと一つ柱となることがある。つけ加えておこう。それは瞋るなということ。やはり瞋りは正確なものの見かた・判断の妨げとなるからね。如来の条件 菩薩道を歩こうと決心した私達にとってね、スーパー・シッディ(超能力)を身につけること、そして最終的に解脱することは必要だ。しかし、それと同じように、悟らなければならないよ。解脱と悟りがそろった段階で真の救済者ができるんだからね。わかっていただけるかな。 深い意味で、事象をすべて正確に見つめる為には、スーパー・シッディが必要だ。しかし、スーパー・シッディだけでもだめだ。なぜなら、それだけでは見たものを正確に理解することができないからね。だから悟りも必要。そして、解脱と悟りが合わさってね、初めて私達は人々を救済することができるんだ。人々を真の自由・真の幸福・歓喜の世界に導くこと、これが私達の目指す救済だよ。幸せをもたらす瞑想 もう少し時間があるようだね。じゃ、ここで悟りに導くとともに、この世でも幸せになれる瞑想法を教えよう。さっき話した、ね。すべての人を愛せる、物事を正確に見ることができるということは、速やかに人に幸せをもたらす――とね。これから説明するのは、この状態を得ることのできる瞑想法で、四無量心というものだよ。今日特にこれを選んだのはね、皆さんが在家の修行者だからだよ。やはり、日常生活でも幸せを実感したいだろうと思うからね。 まず、すべての人や事象を平等に見る訓練が必要だ。平等心は『四無量心』の礎 例えば街を歩いていたとしよう。担架で救急車に担ぎ込まれている人がいる。それを見て、「ああ、今運ばれて行っている人は、私の父親ではない。母親でもない。」と確認したら、知らん顔かな? でも考えてみてごらん。今生では、あなたの親にはならなかったが、前生においては、あなたの父親だったかもしれない。母親だったかもしれないんだよ。いや、私達は無始の過去から、数えきれないほどの輪廻転生を繰り返しているではないか。だから、一切の魂がかつてあなたの父母であったと考えられるのではないか? だったら、現在の父母同様、愛すべきではないか? このことに気付くことができれば、いかなる人が苦しんでいるときにも、私達は涙を流すことができるだろう。また、愛している人と、無関係の人がね、論議していても、あるいは争っていても、どちらが真実を語っているのかを理解できるだろう。これが平等心。平等心の根底となるものは、一切の物を平等に愛するということだ。いいですか。あるいは平等に哀れむということだ。あるいは平等に喜びを分かち合うということだ。 四無量心の四つ、愛・哀れみ・喜び・平等心は不離一体だ。ベースに平等心を持ち、平等にすべてのものを愛することができなければ、真の愛を実践することができない。真の哀れみを持つことができない。真に喜びを分かち合えることができないんだよ。菩薩の糧『四無量心』 四無量心をマスターすることによって、現世の幸せがもたらされる。また、大乗のボーディサットヴァ(菩薩)にとって、「すべての魂をマハーヤーナに入れるぞ。」という大発願をした私達ボーディサットヴァにとっては、四無量心は欠くことができない。いや、欠くことができないのではなくて、四無量心の無いボーディサットヴァなどあり得ない。救済のテクニック ボーディサットヴァには、プライドはいらない。卑屈さもいらない。観念もいらない。ね、そして、すべてのものを平等に見、しかも愛し哀れみ、ね、喜びを分かち合う。この実践が必要なんだ。 四無量心で、ボーディサットヴァの心を持ちなさいよ。そして救済に向かいなさいよ。 救済の方法としては、まず、人々に自分を信じさせなさい。信じさせることから出発だ。その方法としては、病気から解放してあげる、悩みを解決してあげる、という二つの道がある。これらのことで人々を救ってあげ、それをきっかけとして人々を素晴らしい世界へと引き上げてあげなさいよ。悟りと解脱、その両方を合わせたときにそれが可能となるからね。 オウムではその為に、1六つの極限の修行、2煩悩を消滅させる瞑想、3四無量心の瞑想を行なっている。 それでは今日の話はこれで終わります。※反論。現実を無視していると思う。麻原の言っている平等は私には悪平等に聞こえる。自分を愛してくれている人はその分愛し返して初めて他の人と対等になるのです。麻原にはこれが解っていない。私の言っている事が現実的平等です。麻原のは観念的平等です。人間は相対的存在です。存在というものは皆、相対的存在なのです。絶対的なものは何一つ無いのです。距離感の違いが真実です。観念的な悟りは有害なだけです。現実を正しく見られるようになって下さい。お願い致します。イニシエーションFriday, October 6th, 2006第四話 その1 三毒の浄化こそ成就の鍵解脱、悟りは気道の浄化から 解脱、悟りとイダー管、ピンガラ管、スシュムナー管との関係に触れてみたいと思う。それから、これは話の成り行きによってなんだけど、チャクラの働きについて話せるかもしれないね。 まずね、私達の身体に三つの大切なエネルギーの通り道がある。これらが、イダー管、ピンガラ管、スシュムナー管と呼ばれる三本の管なんだ。一本は尾てい骨の右側から各チャクラを通過してね、――通過するとき交差するけれど――最後にアージュニァー・チャクラの右に至っている。これがピンガラ管だ。そして、尾てい骨の左側から同じように各チャクラを通過してね、アージュニァー・チャクラの左側へと通っているのがイダー管。それから、中央にスシュムナー管があります。 初日からセミナーに出席している人はわかっていると思うけど、私達の性的ストレス、瞋りのストレスね、あるいは食欲を含めた無智のストレスのエネルギーを通す管がだ、この三本の管なんだよ。中でもスシュムナー管が最も大切だ。 では、この管の働きは何か? まず、ピンガラ管がね、私達の瞋りのエネルギーを運ぶ管だ。いいですか。メモする人はメモしなさいよ。こんなのは、どの経典にも載っていないからね。次に、無智のエネルギー、これは私達の動きを止めたり、愚鈍にしてしまうんだけれど――、これを通すのがイダー管だ。いいですか。そして、私達の執着ね、心の引っかかりみたいなものを通過させていくのが、スシュムナー管だ。 ほらほら、これは仏教でいうところの貪、瞋、癡と一致しているだろう。貪は貪り、すなわち執着などだね。したがって、スシュムナー管と関係している。瞋は、瞋りでピンガラ管。癡、すなわち無智がイダー管というわけだ。これら三本の管をエネルギーが通るときに、それぞれのエネルギーの特質がはっきりと表われるよ。無智――イダー管 例えばだね、ピンガラ管のどこかがおかしくて、瞋りのエネルギーが通らない。一方、無智のエネルギーを通すイダー管は通っているとしようね。――このとき、肉体次元の症状としては、右の鼻がつまって左の鼻だけが通っているんだけどね。その人は無智に襲われる。無智だ、ね。いいですか? その無智というのはね、私達の動きを愚鈍にする。「あ~あ、やりたくないな。」とかね、「もう修行だけしておきたい。」とかね、思う。しかし、いざ、その人に修行をさせてみると、できない。修行もしないで寝ている、なんてことになる。 ねえ、これがイダー管の性質だよ。無智の性質だよ。「今日、食っていけたからいいや。」と、「明日は明日の風が吹く。」と、これがイダー管の性質だ、ね。瞋り――ピンガラ管 では、これとは逆に左の鼻がつまって右の鼻だけが通っていたらどうだろうか。要するに、無智のイダー管に障害があり、瞋りのピンガラ管は通っているということだ。このときはね、身体が熱くなる、ね。怒りっぽくなる、ね。いいかな。ピンガラ管の性質が表われるからね。このことから考えても、もしイダー、ピンガラの両方の管が通っていたら、無智と瞋りの両方が出ることがわかるだろう。執着――スシュムナー管 次は、中央のスシュムナー管のどこかがつまっている場合だ。私は、この管は執着を通過させると言ったよね。性的な執着、食べることに対する執着、こういうストレスのエネルギーがクンダリニーとなってここを上昇するんだったね。したがって、ここが通っていないと、クンダリニーの上昇は見られない。そして、経典に書かれているように、執着を招くんだ。逆の言い方をすれば、執着を取り除くには、このスシュムナー管を浄化する以外ないんだ、ね。スシュムナーへ導け スシュムナー管を浄化すれば、執着が消える。イダー管とピンガラ管に関してはね、無智のエネルギーと瞋りのエネルギーが入っているときに、無智と瞋りが表われて問題だ。だったら、どちらもつまってエネルギーが通らないのがベストかといったら、決してそうではない。いや、つまっているのは最低だ。なぜなら、それは低次元の無智、あるいは瞋りを意味しているのだから。例えば、スヴァディスターナ・チャクラで瞋りのエネルギーが止まっていたとしよう。その瞋りは性欲に関係した瞋りということになる。では一つ上のマニプーラ・チャクラのところで止まっていたら? これは学問や才能に関係した瞋りということになる。つまり、このエネルギーは上へ行けばいくほど、質が高度になるんだよ。したがって、ピンガラ管が完全に通っているときの瞋りは、――つまり、アージュニァー・チャクラまで到達した瞋りは――個人というよりは社会に対する瞋りということになるのだ。あれ、じゃあエネルギーがイダー、ピンガラを障害なく通っていてもいけない。つまって通らなくてもいけない。これじゃどうしたらいいかわからなくなるね。 よく聞いてくださいよ。修行のプロセスとしては、まずイダー、ピンガラの両管を完全に通してね、無智も瞋りも最高の質に高めるんだ。そうした後、そのエネルギーをスシュムナー管へ移動して、執着のエネルギーと変えてしまう。これが、イダー、ピンガラ管の浄化だ。そして、この時点で執着というストレスのエネルギーが生まれるんだよ。それが、クンダリニーとなって上昇するわけだ。 だから、無智と瞋りを消滅させるにしたがって、――これはつまり移動させてしまうということだが――執着が生まれる。だから、私は執着が一番最後の引っかかりだと言っているんだよ。
2007.08.28
コメント(0)
-引用開始-http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter3/con3-25.htm 神界の人は、智で悟ってあの世に帰られた方々だといいますが、学問を通してこの世で何を悟ったかといえば、まず神の存在とその智慧の偉大さ、神が宇宙のすみずみまで支配し、秩序立てていること、人間はその神によって造られ、生かされていること、誰もが神の子であること、そういったところでしょうか。この世にある間に、悪いことはどうやら自分の心に原因があると気づくところまで行ったかどうかは疑問です。 神界の人の限界は、その悟りが知的理解に留まってしまっているという点です。 もちろん、この世で生きる私達とは比ぶべくもないほど心の調和した方々ですが、まだ他者のために自ら犠牲になるといったことはする気にならないかと思います。「心の原風景」の<学歴と能力と心>で、宇宙は分割できないのではないかという話を、あくまでも頭で考えたこととしてご紹介しましたが、道元禅師も神界の人であるように、そういうこと(宇宙即我)を頭では理解し、あるいは禅修行などで感覚的には捉えることが出来ても、 宇宙即我の境地から自然に出てくるはずの「他者を自分同様に想う心・慈しむ心」 というものがまだまだ未発達といって良いでしょう。禅で悟った人が、社会の役に立とうとせずにのんべんだらりと生きていることからも解ります(「原風景」の<禅について1~3>参照)。 仏教を哲学化した張本人、龍樹という人も、菩薩などと言われていますが、おそらく神界の人でしょうし、仏教をおかしくした人のほとんどは神界の人たちであろうと思います。しかしそれより上の方々、つまり諸菩薩・諸如来は、だからといって神界の人を責めたりはしません。人間の、わずかな知性に頼る愚かさを知ってもおり、また慈愛に富んだ方々ですから、神界の人々が犯した過ち(正法の哲学化・形式化)を正すべく、生まれてきます。 そのような菩薩へと魂を進化させる上で、諸天善神という役割を果たすことが神界の人の義務にもなっていますが、この諸天善神というのは強い力を与えられ、また動物たちを手下として使ったりしますので、増長しやすく、なかなかクリアしにくい難しい役割なのだそうです。しかし諸天善神は世のため人のために尽くす役割ですし、神界の人は他にも幽界・霊界の人々を導く仕事もこなしていますから、そういったことを通して、 「他者に奉仕する」 ということを学んでいくのだろうと思います。それが出来なければ菩薩にはなれないからです。神界で 「人の悲しみは自分の悲しみにつながり、人の喜びは自分の喜びにつながってくる」 ということを重ねていって、いよいよ菩薩へということになります。 こうして考えましても、神界と霊界の境界で一つの大きな区切りになることが解ります。高橋師は「神界に至ってようやく人間と呼べる」と、厳しいことを言ったことがあるようですが、それは霊界までと神界からでは物事の捉え方が根本的に異なり、神界に至って初めて「全ては自分に原因がある」ということが解り、それは裏を返せば「それほど人間の心は偉大なのだ」ということが解るからでしょう。己の、神の子としての本性に目覚めるのは神界からだということになるでしょう。(2006年7月15日掲載)-引用終わり- 他の存在に愛を出せば出すほど、自分が大きくなる。あと、下の存在に愛を出した分、そのカルマによって、上の存在から、愛を与えられるという事があると思います。物欲があるうちは、自分より上の存在に奉仕して功徳を積み、その功徳によって、物質的に豊かになるという事しかできないので、他を愛するという事ができない。物質的な功徳がいくら貯まっても、自分は自分のまま。自分の心は何も成長しない。これが深見東州の言う天国です。5次元霊界の事です。ちなみに、中有界とは4次元幽界の事です。物欲に支配されている人はこんなにも下の霊界の居住者なのです。そして、6次元神界の者達を神社の神様として拝んでいるという事です。その上の世界が阿羅漢・菩薩・如来の世界です。 人間は物欲に支配された存在ではありません。心を持つ存在なのです。自分の心を知りましょう。自分の心に従って生きましょう。 麻原には心が無かった。家族・先祖に迷惑をかけてはいけない。隣人に迷惑をかけてはいけない。弟子に迷惑をかけてはいけない。そういう心が無かった。物欲だけの魔王だった。良心が無かった。誰も愛さないから、誰にも愛されなかったという事です。 妹、妻、娘を愛していたら、婚外セックスはできない。愛じゃなくて、快楽の為のセックスできない。兄として、夫として、父親として、妹、妻、娘に悪業を背負わせる事できない。これが兄の心、夫の心、父親の心です。愛するというのは、素晴らしい事です。愛した分だけ、相手の人生を共有できた。他人ではなくなった。 麻原に欠けているものを補充致しました。-引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e3%82%a4%e3%83%8b%e3%82%b7%e3%82%a8%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3/イニシエーションFriday, October 6th, 2006第三話 悟りの道程迷妄の源泉――『観念』 今までに私は、こだわり(思い込み)についてね、それから六つの極限についてね、話してきた。今日は、いかに真我というものが迷妄の中に入っているか、錯覚の中に入っているかということをね、話したいと思う。 実は、数日前の事だがね、ある子とテレパシーの実験をやったんだ。その内容は、彼の恋人の年令を当てるというものだった。その彼女の年令を私は知っていた。しかし、彼女は彼よりも年上だということを気にして、彼には自分の年令を教えていなかった。 その日、彼は私に、「彼女の年令を教えてほしい。」と言った。そこで、私は彼女に確認してから教えることにした。年令を隠して交際するのも不自然なことだ。 で、その教えた方法なんだがね、私はテレパシーで彼に送ることにしたんだよ。彼はかなり修行が進んでいたのでね、私がテレパシーで送った数字、これが彼女の年令なんだけれども、それを正確に受け取ったよ。 しかし、彼が持っている彼女のイメージがその枠外にあったものだから、どうしても納得できない。納得できないものだから、自分の受信した数字の方が間違っていると思ってしまった。つまり、その数字を否定してしまった。 これが何を意味しているかというとね、私達がいかに過去の経験や観念ですべての現象を見ているか――ということなんだよ。 きのうは、思い込みについて話したね。そして、今言ったのは、観念があるが為に、私が送ったテレパシーを受け取ることができなかったという例だ。『悟り』とは透明な鏡 コーザル世界にね、宇宙神素っていうものがある。この宇宙神素は、いわゆるデータ・バンクだ。私達はここから、いつでもどんな情報でも得ることができるんだよ。悟りを開きさえすればね。 しかし、悟っていない人は、そこから折角送られてくるデータを読み取ることができない。なぜなら、さっきのテレパシーと同じにね、観念によってねじ曲げたり、否定してしまってね。それは、片寄った心の働きによってもね、あるいは執着によってもね、正確に受信することができなくなってしまうんだ。透明な水がすべてを映すことができるだろう。心も水のようにきれいにならないといけないんだね。 心をきれいにするというのが、真我を本来の姿に戻していくということなんだよ。つまり、真我を迷妄の中から引き出してやるということ、真我の錯覚を取り除いてやるということなんだね。そのプロセスが悟りのプロセスだ。両極を捨てなさい さて、悟りの障害になるものについてもう少し話そうかね。例えば、プライドが高い人って、よくいるよね。仮に、ここにプライドの高いA子さんがいたとしよう。 A子さんは、「私はここにこの様にして生きています。」ということをアピールしたい。みんなからの尊敬を集めたい。当然こういう欲求のかたまりだ。 もし、自分のプライドを傷つける人がいたとしたらね、A子さんは断固として闘うだろう。プライドの高いA子さんはこういう動きをするだろうね。 しかし、このプライドは悟りにとっては邪魔なんだ。なぜだかわかるかな? 例えば、A子さんは物を上から見つめるようになっているはず。これでは物事をありのままには受け取れない。プライドを満足させることのできる条件に身を委ねたとき、自分を高めようなどとは考えられなくなってしまうだろう。これでは、悟りへ向かうことすらできないね。 じゃあ、そのプライドを潰されたならどうなるか。プライドを傷つけられるくらいだったら怒りもするだろうが、完全に潰されてしまったらどうなるんだろうね。ほとんどの場合、卑屈になってしまうよ。そうだろう? 卑屈になったA子さんは、物を下から見つめるようになる。消極的にもなってしまうだろうね。これでも、物事をありのままに見ることができない。当然悟りからは遠のくということになる。 ね、私達はプライドを持ってもいけない、卑屈になってもいけないんだ。愛着の向こうには ところで、愛着も私達が悟る為には取り除かねばならない障害の一つだ。例えば人に対する愛着だ。いいかな。もし愛着を持った人が、ね、組織を動かしたとしよう。そういう人は、組織を動かしていくにあたってね、自分が愛着を持った人を登用してしまうだろう。愛着を感じる相手に才能があってもなくてもね、そんなことにはおかまいなしだ。逆にね、自分が愛着を感じない人に対してはね、例えその人が組織に必要であったとしても、才能があったとしても、切り捨ててしまうだろうね。 そうするとどうだ? 発展すべきはずの組織というものがね、発展しなくなるんだ。ねえ、確かにそこで自己満足はするだろうよ。しかし、彼の役割としては良い仕事をしているとは言えないね。 じゃあ、次はだ、愛着と対照的に、何にも愛することができない人のことを考えてみよう。白け切った人がここにいたとしようね、いいですか。その人は一切を信じていない。一切を否定している。愛着と対照的だ。その人が組織を動かしたとしよう。その人は確かに条件を見つめる目は持っているかも知れないよ。Aは性格はいいが力が無い。Bは性格が悪いが組織にとって必要である。そして、ねえ、A子は美人だがこの際関係ない。B子は美人ではないが、この際登用すべきだとね。そこまではよろしい。いいかな。
2007.08.28
コメント(0)
> こんばんわ。> > 以下の「貝原益軒 養生訓」は正しいと思います。すんなり理解できる。単純明快。こういうものが分かりやすくていいです。いくら真理でも難解なものは、消化できない。 コメント有難うございます。私の場合は善行をして、その分、自分の人格を育てる。自分が積んだ徳分の範囲内で楽しむようにして、徳分がマイナスにならないようにして、怪我・病・事故・災害の原因をつくらない。できるだけ、長生きして、少しでも多く、徳を積むと同時に、学ぶ。という事で、ほとんど、貝原益軒と一緒の考え方です。だから、紹介しました。 色々、送っていますが、自分と波長の合うものだけを参考にして下さればと思います。私もそうしています。自己判断・自己選択・自己責任です。麻原死刑囚は、自分が説いた法を自分が全然実行しませんでした。自分の本音と違う事をしていたわけです。その説いた法、私には役に立っていますが、本人には役に立たなかったみたいです。何故、そういう事になったかというと、彼には業を背負うという怖ろしさが解っていなかったと思われます。私は太陽のように、一方的にプレゼントするだけです。少しでも役に立ってくれたら、その分だけ、私の徳積みになると考えています。何にも役に立たなくても、少なくても、自分は発信したという功徳で、その分、受信できると考えています。私は、難解なものを消化するなんて全く考えていません。自己確立をするという事が目的です。自分の中に元々あるものを引き出すという事が先ず、最初にやらなければならない事だと考えています。自分より素晴らしい人、立派な人に近づこうなどと全く考えていません。自分らしさを発揮していこうと思っているだけです。君も、自分らしさを発揮する為に、自分と波長が合うところだけを参考にして下されば嬉しいです。それ以上の事は考えていません。私はイエス・キリストの生き方は解りません。仏陀釈尊の生き方は解ります。即ち、キリスト意識、獲得できません。サタンルーシェルのHPをつくった事で、仕事を辞めざるを得なくなった事も失敗だったと考えています。世の中の人達を信頼し過ぎていました。神の計画かもしれないという気がしますが、私は賛成ではないという事です。でも神を信じていて殺された人一杯いるので、殺されなかっただけ、ましと思っています。ソクラテスも殺されましたが、「悪法も法」という信念の為に自分の命を捧げて善かったのだろうかと私は疑問に思っています。人は皆、創造主なのだから、創造主を実現するまでは死んではいけないと今は思っているわけです。完成人類始祖アダムにもなれると思っているので、肉体も、その命も非常に大切なのです。勿論、自他一如ですから、他の人達の肉体も命も、同じに大切なのです。勿論、皆、カルマに従って、毎日、死んでいっていますが。その人達にも功徳を積んで自分の人生をより良い方向に変えて欲しいと思い続けています。しかし、人類皆平等ですから、その人の意思を最優先致します。私のは単なる人類のうちの一人の一意見です。そういう立場でブログを運営しています。私は民主主義を受け容れていますから。 あと、大事な事は、自分がその人生を生きて、初めて、それは真理となるという事です。誰も生きなければ、それは真理ではないという事です。決めるのは自分だけです。自分の人生だから。だから、私には師はいないのです。自己責任です。自分の人生だから、自分で責任を取るのです。私は菩薩ではないんです。自分の人生を生きています。皆、オリジナルな生き方をした方がいいと思います。皆、長所があるはずだから、それを伸ばし続けていけばいいと思います。私はそういう考えです。 私の文章は、私だけの光です。学びの途上にあるのです。救世主無理。> > スピリチュアルではこの世は全て正しいと言っている。これがスピリチュアルの神の定義です。現実無視。それで無償の愛とか、無条件の愛とか言っているんです。そういう神になりたいですか。なりたいんならいいんです。なりたくなかったら、自分の善、自分の正義、自分の理想を追求して下さい。私は人類全員分の善、正義、理想があると思っています。人類全員がそれぞれの光、愛を輝かせている世界が理想の世界だと思うのです。> > > プロテスタントの主張の中に「万人司祭」というのがありました。その考え方結構好きです。 有難うございます。私は私と縁を持ってくる全ての方から、学ばなければいけないと思っています。私と縁を持ってくる方々は、私と縁のある方々だと思うからです。私のHPを見に来て下さる方は一番多い日でも一日あたりたった289名です。それだけの縁しか現実は無いんです。でも私はたった一人でも見に来て下さる方がいらっしゃれば、その為にブログを書きますが。一人でも鏡になって下さる方がいれば、私も一人なので、進歩向上、進化できるからです。しかし、私は心が通じる全ての方々が自らの光を発して輝いて欲しいと思っています。私の魂の仲間は一杯いるんです。 コメントを下さったお陰で、これだけの文章をつくる事ができました。大変、有難うございます。
2007.08.27
コメント(0)
そして、誰でも、いずれは、この如来の心を持つようになるのです。早いか遅いかの違いでしかないと高橋信次師も言いますが、いつかは誰でも如来になるのです。それまでの間、どれほど時間がかかろうと、如来は根気よく生まれてきます。おそらく喜んで生まれてくるでしょう。私の直接の師匠も、華光如来として、300年ほど後にインドに生まれてカースト制度を廃止するとのことです。来たって法を説く、それは如来にとっては喜びでもあるのです。神の御心が我が心になりきっており、神の法を説き、神の委託を受けてこの世とあの世を統治していますが、それは重圧ある苦しい仕事というより、喜びに満ちた仕事でもあるはずです。重圧だと感じるのはまだ充分に解脱できていないということです。世が悪い方向に行けば、如来達は気が気ではありませんが、だからこそ来たって法を説くのであり、決して諦めないのは、どんな悪人の心も、本来は、神の子としての慈愛に満ちていると解っているからです。人びとに本来の神性・仏性を思い出させるために生まれてきて人を救うのです。ただそれだけなのです。それが如来の心であり、神の心と表裏をなす心、つまり神の心であり、全人類がやがては至る心なのです。人間本来の心はここに行き着くのです。あなたの心もここに行き着くのです。必ず行き着くのです。あなたの真の故郷はここなのです。(2006年7月16日掲載)http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter3/con3-28.htm第三章 28.心の諸相6 如来界の更に上に、宇宙界というのがありますが、これはエルランティーとその分霊である釈尊、キリスト、モーゼだけの世界であって、余人には推し量ることの出来ない世界ですから、当然ながら省略します。(高橋信次師の本では宇宙界は紹介されておらず、釈尊たちは如来界に属するとなっています。)http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter3/con3-30.htm 師を盲信するのは間違いです。高橋師が「疑問を持て。」と言ったことを思い出し、目を覚まして下さい。高橋師を非難するサイトはたくさんありますが、私はそこを読んでも腹が立ちません。高橋師も、間違ったことを書いたり、予言をはずしたり、非難されても仕方のない面があるからです。そして私が高橋師を「正見」しているからです。肉体を持てば、誰であろうと間違えるのが当たり前で、高橋師もそう説いています。どんな師であろうと、その師に盲従するのは、自己の確立を目指す正法者のやることではなく、自己の持つ神性・仏性を捨てることだといえます。http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter2/con2-23.htm第二章 23.天上の諸相 あの世の天上界、実在界、天国と呼ばれる世界について、高橋信次師やその弟子達が幽体離脱をして見てきたことを書いておきましょう。『心の発見 科学篇』からはそれぞれの世界の特徴を、『心の対話』からは各世界がどのような「正しさの規準」のもとに運営されているかを引用して書いてみます。 あの世は思ったことがすぐに現象化するため修行効果が少なく、また時間も異なっていて、「現世の一年は実在界の修行では七十~百年に相当する。」とのことです。それだけこの世での修行が大切だということです。 また、低次元の世界から高次元の世界には行くことも出来ないばかりか、光が強すぎて見ることさえ出来ないそうです。仮に高次元の世界に行けるとしても、必ず高次元の霊に一緒に行ってもらう必要があるとのことです。 まず、この世(現象界)すなわち3次元世界から、9次元の「宇宙界」まで、次元は7つあります。この「7」という数字と、「5」、「3」は正法において重要な数字ですので、ご記憶願いたいところです。 各世界の呼び名を列挙します。自分の心の調和度によって、どの世界に住むかが決まります。 4次元世界 : 幽界 5次元世界 : 霊界 6次元世界 : 神界 7次元世界 : 菩薩界 8次元世界 : 如来界 9次元世界 : 宇宙界 まず幽界ですが、ここには国も存在し、いまだ人間社会の匂いが残っています。しかし幽界の上の段階へ行きますと、他国人とも共同で生活するようになり、この世とは比較にならないほど調和度が高いそうです。神界や霊界の指導者達がこの世界の人びとの教育をしているそうです。「肉体修行の目的で現象界に生まれてくる者は多い。」とあり、また、「幽界人達が肉体修行を申請するからである。」とも書かれています。ある、高橋師の高弟が「如来以外の霊は神の波動により一定周期で自動的にこの世に生まれさせられる。その際、生まれて来たくないなどと思ってあの世に執着すると、神の波動によりその執着は無理やり剥がされ、空白の意識で生まれ、『神などいない、あの世などない。』と言い出す。」といったことを言っているのは明らかに高橋師の教えと矛盾します。この人は「幽界人の親子関係は指導霊が決める。この親子はあの世で二百年ほど一緒に過ごして親交を深める」といったことも説いたようですが、「縁生」ということを否定したこの教えも間違いです。 幽界を支配している「正しさの規準」は、「自分という立場が正しさの尺度」になっており、自分を損なうものが悪であるという考え方で、つまりこの現象界は幽界の「正しさ」が支配しているということになります。 霊界は「芸能関係や、スポーツ関係、また思想的な小集団にいた住人達の非常に多い世界。」、幽界より精妙な世界で、住人は人類が皆きょうだいであることを自覚し、自分には魂のきょうだい(本体や分身)がいるということことも理解しており、きょうだいがこの世に生まれる際には守護霊を務めたりするそうです。この世に生まれた人が暗い想念に覆われると霊界人の守護霊も「ともに苦しい修行をする場合も」あり、「悲しんでいる。」そうです。「霊界には幽界から進化してきた生命も多く、あの世では幽界人と霊界人の数が最も多い。」そうです。 霊界の「正しさ」は「持ちつ持たれつ」で、「与えたものは与えられる、与えたものが返ってこないと気持ちがスッキリしない。」というものだそうで、「生前における常識の観念が、ここでは価値の尺度になって」いるようです。 神界は、何も「ここに神がおわす。」ということでこういう名になっているのではなく、おそらく、この世界の住人が「諸天善神」という、菩薩になるために必ず課される任務に就くからだろうと思います。 神界以上の住人をまとめて「光の天使」と呼ぶこともありますが、狭義ではこの世界の住人を「光の天使」と呼びます。 ここは哲学者や科学者など、「智で悟って実在界に帰られた天使達」が生活しており、この世の人々の研究努力に協力しているそうです。また霊界や幽界の指導をしている住人も多いとのことです。 神界の「正しさ」は「人から損害を与えられても人を非難しない、人を非難する前に、まずその原因をふりかえり、二度と再びその原因をつくらないよう努力する世界。つまり、『正しさ』の尺度を他に求める前に、自分に求め、第三者の立場で常に前向きに努めてゆく人びとの集団社会。」と表現されており、「八正道の尺度」は「神界にあります。」とのことです。高橋師は、神界に至ってようやく人間と呼べる、とどこかで厳しいことを書いていますが、これは神界で初めて八正道に適った生活が成り立っているということから出た言葉でしょう。「神界の尺度で己の心の動きをみつめてゆきますと、人の心がわかってきて、人の悲しみは自分の悲しみにつながり、人の喜びは自分の喜びにつながってゆく。」とも書かれています。 菩薩界の住人は「上段階光の指導霊」とも呼ばれます。菩薩はインドの言葉で「ボサター」といいます。 菩薩界では如来界とほとんど変わらない社会生活が営まれ、「この現象界に存在する一切の文明も存在しているが、その文明の高さは想像に絶するほど香り高い。」そうで、住人には「他の天体との外交官的な仕事をしている人も」おり、現象界と実在界の指導、および自身の修行をしているそうです。 この世界の「正しさの規準」ですが、「常に神の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す。」、「人びとの毀誉褒貶(きよほうへん)に心を動かすことはなく、ひたすら、神の愛と人びとを生かすことに人生の目的を求め」、「価値の尺度は神」だとのことです。 『人間・釈迦1』によると、菩薩と如来の中間的存在を「梵天」と呼ぶようです。菩薩の段階は卒業したものの、まだ如来にはなれず、如来の補佐役を務め、その智慧の泉は涸れることがない、とのことです。 菩薩といっても、段階の低い方から高い方まで、相当の開きがあるようです。 如来界は「神仏と表裏一体、この現象界と実在界の支配者の世界で、”光明の世界”という。」とのことで、「釈迦、イエス、モーゼ、すなわちアガシャー系グループといわれている上段階光の大指導霊の世界で、仏教的には金剛界とも如来界ともいわれている。(中略)大宇宙即一体の心を持ち、すべてにこだわりのない、万象大調和を根本とした社会を造り、この世とあの世を支配している。その環境には、植物、鉱物、動物の存在があり、また常春(とこはる)のような和(やわ)らぎと美しい調和の世界で、万国人民共存の社会生活が営まれている。」とのことです。 如来界の「正しさ」については、「衆生救済の心しかありません。価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙と己の心は不離一体です。」、「来たって法を説き、地上に光を与えていく。」と述べています。 高橋師存命時、すなわち今から30年前の時点で、四百数十人の如来がおられるということを読んだ覚えがあります。今のところすべて男性ですが、当然女性も如来になれます。高橋師の講演記録によれば、女性は自分を飾ろうとする心が強いため、如来にはなりにくいそうですが、同時に「菩薩でも大したものです。」とも言っています。女性では弥勒菩薩と呼ばれる方と、観世音菩薩と呼ばれる方が、心の調和度では如来のレベルに達しているものの、如来界が男性ばかりなので、遠慮して菩薩界に留まっているとのことです。 アガシャー系グループについてはいつか述べるつもりです。 釈尊、イエス、モーゼは、確か他の本では「上々段階光の大指導霊」とも書かれていたと思いますが、実はこの三人はもう一つ上の9次元宇宙界に属し、神を見ることの出来る人はこの三人だけだそうです。しかも、この三人はある一人の人物の「分霊」だそうで、その「一人の人物」が太陽系のリーダーということです。 こういった知識はどうでも良いのですが、いずれ高橋信次師とは何者であったかということを書かねばならない時が来るかと思い、そのための準備として書いておきました。(2006年5月23日:改訂して再掲載)-引用終わり- 菩薩とは何かという事を調べました。菩薩とは如来の法に向かっている存在だと思います。私の感覚では我が強いと感じます。かなり過激です。正論なので、反論できませんが。自分より他を優先している分、過激なのだと思います。麻原死刑囚も菩薩だと思います。自分の心の教え、自分の生き様が無いから。如来は自分の真理を自分で生きているんです。だから、自分の生き様から来る自分の心の教えの光を放ち続けているのです。だから、自分の生き様でない事説けない。自分の生き様による自分の光を放っているのが如来です。 菩薩に関してはまた何か解ったら報告したいと思います。
2007.08.27
コメント(0)
もっと簡単に言えば、日本人が海外で悪いことをしたと聞けば、同じ日本人として恥ずかしくもあり、また悲しいでしょう。一方、難病の子がみんなの援助により高額な手術を受けて助かったというニュースを聞けばホッとしますし、その「援助」の中に、自分の財布から出た寄付金も含まれていたら嬉しいでしょう。そういったことで菩薩の心を推し量って下さい。 ここまで来ますと、宇宙即我まであと一歩であることがお解りでしょう。自他の区別というものがなくなりつつあるのです。まだ、「自分が」、「他者のために」、「奉仕する」という意識があって、自他の区別がすっかりなくなるわけではなく、また意識的な奉仕であるかと思われますが。 「現れの世界では別々でも」というのは、本来は一つであるはずの人間の心、同じ成分で出来ていて同じ法則により成り立っているはずの人間の心も、この世、現象界においては、まるで「別の心」というものが存在するかのように、人間らしい心を忘れ去った人達が大勢いる、という意味でしょうか。天上界では、たとえ幽界人であろうと、人間同士の心は通じるわけですが(自分より次元の高い人の心を知ることは出来ません)、この世では「こころ」というものが通じない、文字通り「心ない人」がいます。そういうことを言っているのかと思います。あるいは、あの世は魂の世界であるため、「心は一つであって、人の心は孤立した存在ではない」と解りますが、現象界は物質の世界ですから、肉体だけが自分だと思ってしまい、「自分と他人は別々だ」という認識を持ってしまう、という意味かも知れません。 「形ある人びとの間というより~」というのは、要するに菩薩は他人の評価というものは気にせず、人びとの間に自分の価値を見出すのではなく、「人に良く思われたいから善行をする」などというのではなく、自分の心が神の御心に適っているかどうかだけを問題にして愛行に専念する、ということでしょう。 高橋師は、女性は自分を飾る心があるためなかなか如来にはなりにくいと言いつつ、「菩薩でも大したものです」と言っているように、この状態まで来るのは大変なことであるはずです。 ちなみに申しますが、菩薩が自分を飾るといっても、それは自分を良く見せて虚栄心を満たすためということではなく、自分で楽しんでいる程度なのだそうです。が、自分を飾って自分で楽しむということは、あの世の「光子体」が自分であるという思いが残っていて、宇宙全体が自分であるという自覚がなく、そしてやはり「自分」という意識があることの証拠でしょう。厳しすぎる言い方かも知れませんが、しかしまだ「自分」というもの、この世においてはこの肉体、あの世においては光子体に愛着があるということになります。この、「自分」という意識、まして自分の体への愛着があるうちは如来にはなれないでしょう。 とはいえ、菩薩達は神の御心の何たるかを知っており、神の御心に適うあり方を心がけ、従って尺度は神だということになるわけです。他者のためにいつでも一身を投げ出せるということは、普段は自分に多少の愛着が残っていても、いざとなれば他を生かすために自己を犠牲にできるのが菩薩の心だということです。「慈愛に基づく献身の心」が自分の血肉になっている状態、ということになるでしょう。 しかし、少し意地悪な受け取り方をしますと、いささか疑問も生じます。と申しますのは、「自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変わらない」、「その神性を汚すことは、自分を苦しめ」、「常に神の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す」ということですが、これですと、まるで、自分が幸せでありたいから、神の心を尺度として他人に奉仕する、自分の幸せを目的とし、その手段として他人に尽くすかのようなニュアンスが伝わってきます。もちろんこれは言い過ぎで、菩薩は慈愛に富んだ心を持っているはずですし、「ウソのない」とも書いてありますから、そんな下心はないはずです。しかし、人に奉仕する際、どういう心で奉仕しているのか、自分の幸せのためなのではないか、どうなのだろうか、と、意地悪な私には思えてきます(実際、奉仕は自分のためでもありますが)。また、「神の心を尺度として」ということですが、そういう尺度を奪われてしまったならば、頼るもの・心の指針がなくなって、自分勝手なあり方に成り下がるのでしょうか。 このあたりがはっきりしているのが、次の「如来」です。(2006年7月16日掲載)http://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter3/con3-27.htm第三章 27.心の諸相5 いよいよ如来界です。 「この世界は、心の調和度によって、神仏と表裏一体、この現象界と実在界の支配者の世界で、”光明の世界”という。 釈迦、イエス、モーゼ、すなわちアガシャー系グループといわれている上段階光の大指導霊の世界で、仏教的には金剛界とも如来界ともいわれている。上段階光の大指導霊達は、大宇宙即一体の心を持ち、すべてにこだわりのない、万象大調和を根本とした社会を造り、この世とあの世の支配をしている。 その環境には、植物、鉱物、動物の存在があり、また常春(とこはる)のような和(やわ)らぎと美しい調和の世界で、万国人民共存の社会生活が営まれている。」 「ここへきますと、神の意識と表裏をなすものですから、衆生済度の心しかありません。価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙と己の心は不離一体です。その宇宙に不純な波動があれば、その波動を正純なものに変えなくてはなりません。このため、来たって法を説き、地上に光を与えていく光です。」 「太陽界」という呼称もあるのですが、これは如来界と同じものなのか、それとも如来界の中でも上のほうの世界をいうのか、解りません。太陽界には、宇宙の至るところから情報が集まってくるセンターがあるそうで、太陽系以外の六つの天体からも情報がやって来ます。七大天使などはこの太陽界に所属するようです。 如来と申しましても、この世に肉体を持ちますと、使命を忘れ、死んでから「シマッタ」と思うこともままあるとのことです。またこの世で悟りを開いても、悟りの深さには無限の段階があるようですし、必ずしも正しいことを言うとは限らず、当然ながら間違ったことも説いてしまいます。行いもまた同様です。人間ですから仕方がありません。 如来は神の意識と表裏をなす心を持っている、つまり、宇宙全体が一つであり、それがまさしく自分であり、自分の中に全てがあり、それは他の人びとも本来はそうであり、つまり自他の区別は本来なく、一切は我が分身、一切は自分であって、従って如来の慈悲や愛というものは、神の御心がどうだからということではなく自心から自然に発揮される本物の慈悲・愛なのです。如来にとっては慈悲・愛という意識すらおそらくなく、慈愛を施すのが当たり前であって、自然であって、だからこそ神と表裏一体だといえるのです。如来とは神性・仏性そのものであるわけです。修行のために慈愛を施すといったことではなく、施すのが当たり前になっていて、疑う余地もなく、迷いもないということです。命あるものを見て自然に慈しみの心、生かす心が湧いてくるのが如来の心です。当たり前であるため、「尺度」などというものはありません。自分の心がすなわち法ですから、強いて言えば自分が尺度になるといえるかも知れませんが、その「自分」とは、「自分という意識を捨てた自分」、つまり我執のない自分、自他を区別しない自分、宇宙大の心ということです。私心はないのです。 むしろ、そういうことを当たり前と思わないものは、つまり何らかの下心があって善行をしようというならば、それは「不純な波動」なのであって、未だ悟らざる心から発せられる不純な思いですから、そういう思いを持つ人がいる限りは、根気よく生まれ、またあの世においても、人びとを如来界に一歩でも近づけようと法を説くのです。 如来は神の秩序がそのまま我が秩序になっていますから、如来があの世とこの世を支配しているといっても、神の秩序で支配しているのであって、力で抑えつけるような支配とは質が違うのです。生きとし生けるものを慈しむ心の中にその秩序は生きているのであって、秩序といっても人を束縛するようなものでは全くなく、むしろ解放するものであって、苦しみを取り除く、抜苦与楽(ばっくよらく)のための秩序です。 宇宙大の心を持つには、人間(神の子)本来の心を復活させる必要があり、それには一切のとらわれを捨てた、つまり「すべてにこだわりのない」心を取り戻す必要があり、またその「本来の心」は神の慈悲と愛に満ちており、こだわりがないからこそ自然に、生きとし生けるものにその慈愛を施すことになるのです。意識的に施すのではなく、あの太陽が無条件で熱と光を与えてくれるように、親が子を愛するように、如来の慈愛も自然なもの、一方的に与えるもの、報いを求めないものであり、それが如来にとっては当たり前のことなのです。 この世に生まれるに当たっては、「人を救う」、これしかありません。解脱しても業は完全には消えませんから、業の修正は如来といえどもやらねばなりませんし、中には強烈な人格の持ち主もいるように思われますが、とにかく人を苦しみから救う、それだけです、如来は。 ちょっと信じられないと思われるかも知れません。しかし、インド独立の父、マハトマ(偉大なる魂)と言われたガンジーは如来でした。そしてまさしく、インドの人々を救うというだけの目的で生まれてきたといっても過言ではありません。当時、アインシュタイン博士が、「後世の人々は、このような人物がいたということを、到底信じられないだろう。」と言っていますが、如来の衆生済度(救済して悟らせること)を思う心は、アインシュタインのような優しい人にもこのように思われてしまうほどですから、ましてこれまで、もし好き勝手に生きてきただけであるならば、信じられないのが当然かも知れません。しかし、人を救うことが如来にとっては喜びであり、楽しみであり、生きる目的であり、従って無理に救っているのではなく、自分から好きこのんで救っているのです。というよりも、「不純な波動(不純な思い)」なるものを感じた時、どうしてもそれを正さずにはいられないのが如来というものです。不純なものがあるうちは宇宙は一つになれません。再び宇宙を一つにしてしまいたくなる、すなわち宇宙を本来の姿に戻したくなるのが如来です。 繰り返しますが、如来の願いは「人を救いたい。」ということ、ただそれだけです。しかもその思いは義務感から生じるものというよりも、自然に生じるものです。なぜならば、苦しんでいる人を自分と見なすからです。「宇宙全体が自分」なのですから、人ごとではないのです。
2007.08.27
コメント(0)
疑問をなくそう セミナーというのは非常に短いよ。今回もわずかに六泊しかとれないね。だから、私もあなた方にほんのちょっとしか教えることができない。しかし、あなた方も先を急いでいるだろうから、最高のものを指導している。したがって、もう一度言うよ、あなた方は基礎的なことは自分でマスターするようにしなさい。もし、どこかで引っかかったら、きちんと指導員に聞きなさい。もし、指導員にもわからなかったら、私のところに上がってくるからね、大丈夫だよ。疑問を解決して、きちんと消化しなさい。そうすることによって今生で必ずやね、あなた方も仏陀になることができるんだ。-引用終わり- これは私と見解が異なります。麻原は、私が阿羅漢と呼んでいる者を仏陀と言っています。6次元神界以下の存在は、物欲を持っているので、積んだ功徳が全部、自分の物欲を満たす為に遣われてしまいます。その物欲から解放された者達が阿羅漢です。しかし、この阿羅漢の境地は飽きるのです。物欲を満たす為の苦しみから解放された事による苦しみの無さによる喜びの状態にやがて、飽きてしまうのです。だから、麻原のように、再び、魔王と言えるような物欲の権化の状態に堕ちてしまう可能性があった。麻原には教養が無かった。だから、愛人を一杯つくって、子供も一杯孕ませて、それだけでは足りずに、多くの女性ともセックスをした。美食をいくらしても、深見東州のように糖尿病になるだけですが、女に走ると、人間として失格になる。人間は一夫一婦を守らないと野蛮人という事になる。女性の人格を認めていないという事になる。深見東州のように名誉欲に走るだけだったら、人間的に尊敬できないというだけですんだのですが。家族愛に生きている普通の人よりも下の境涯に堕ちてしまったのでした。婚外セックスをする者は、他の者を奪う敵なわけです。サタンです。サタンは女性を一杯囲っている。人間の敵。男女はほぼ同数いる。一夫一婦制で平等になると考えられます。 女という生き物は、レベルが低い者もいる。一夫多妻でもいいという者達がいる。人格のレベルに達していない。愛されたいだけ。愛するという意識に欠けている者達がサタンに囲われている。そういう者達が私の書いた文章を読むわけないので、書いてもほとんど役に立ちませんが、そういう人格の無い雌も一杯いるという事で人間界の下の世界を知るという事ができたと思われます。その雌達は私の言っている人類ではないと私はみなしています。人格を持っていないのだから。 麻原には6次元神界の指導者の愛も5次元善人・精神界の隣人愛も無かった。テロを弟子達が勝手にやったと言って自分の指導者としての責任から逃げた。何の関係も無い一般人にテロを企てた。 阿羅漢というのは、人間の外面的な喜びの世界が遠くなった者達の事だと私は思います。例えば、私は勲章を辞退しない事が恥ずかしいと感じます。自分に名誉欲が有ったと思われる事が恥ずかしいのです。名誉欲を満たす為に自分の積んだ功徳を遣う事が人間として恥ずべき事だと感じるのです。即ち、私は個人として競争している社会に生きていないという事です。-引用開始-http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q118967501ベストアンサーに選ばれた回答 回答日時:2006/8/7 23:14:33 回答番号:30,192,412声聞界 先人の教えを学ぶ中から、無常観など、分々の真理を会得していく状態。縁覚界 独覚(どっかく)ともいい、声聞(しょうもん)が先人の教えを求めるのに対し、自然現象等を通じて自ら分々の悟りを得る状態。(声縁・縁覚の二界を合わせて、二乗ともいう)菩薩界 自身のことよりも、他人の幸せを願い、そのために尽くす状態。(声聞から菩薩までの三界を三乗ともいう。地獄から菩薩までを束ねて九界ともいう)仏界 崩れることのない自由自在の生命活動(常)、生きていくこと自体を楽しむ絶対の幸福感(楽)、何物にも粉動(ふんどう)されない円満かつ強靱な主体性(我)、何物にも汚染されない清浄な生命(浄)、以上の四つに象徴される最高の境涯。 回答した人: tukinoinkoさん http://www.jttk.zaq.ne.jp/badiq203/seimei.htm地獄界 七転八倒するような苦しみや、八方ふさがりの悩みのなかで、自己を不自由な境界に閉じ込めているものへの怒りの感情にとらわれている状態がこれにあたるでしょう。餓鬼界 激しい飢えにさいなまれ、あるいは財産や地位、名誉を求めてやまない生命。畜生界 強いものに媚び弱いものに威張る生命。また目先の本能的快楽のみを求めて・人間らしい思いやりや倫理に欠ける生命、或いは畜生。修羅界 自己本位で常に他人をさげすみ、他より勝とうとする歪んだ生命。人界 物事を判断したり考えたり行動したりする平穏な生命。天界 欲しかったものが手にはいって喜んだり、ほめられて幸を感じたりする生命。声聞界 法理を学び、世の無常を感じ人生について深く思索し・反省していく生命。「世間の無常」を見て達観していく生命。縁覚界 自然現象、また芸術等を通して、世間の無常を観じ、宇宙と人生を貫く法理の一分を悟る生命。菩薩界 他の人々、さらには生きとし生けるものへの慈悲をもち、幸せを願う生命。深い思いやり、慈しみの心。仏界 言葉では表現が難しい生命境界ですが、あえていうなら、何ものにも侵されず、限りない慈悲と智慧に満ち、過去・現在・未来を見通し、森羅万象の真実の法を見抜く生命です。また永遠の生命観に立脚した絶対的な幸福境涯を指すといえましょう。仏は尊極の衆生とされているように尊極の生命状態ですー聖教新聞社教学の基礎より抜粋ーhttp://homepage2.nifty.com/s-kokoro/chapter3/con3-26.htm第三章 26.心の諸相4 続いて菩薩界です。 「上段階光の指導霊の世界であり、如来界とほとんど変わらない社会生活が営まれている。あたかもこの現象界でいうと、中央都市とその近郊のような感じを受ける。大自然の美しさはこの現象界の比ではない。 この世界の光の指導霊の胸には、約六ミリくらいの、丁度ボタンかバッチに似たようなものが三個ついており、この機能は、通信から言葉のセレクターなど一切の感知作用をする。集積回路に似た機械である。この現象界に存在する一切の文明も存在しているが、その文明の高さは想像に絶するほど香り高い、次元の異なった世界である。他の天体との外交官的な仕事をしている人もいて、指導霊達は現象界と実在界の指導とともに、自分自身もまた生活の中で修行をしている。」 「菩薩界の人びとは、慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。それは幽界、霊界の心では、自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変わらないことが、実感として感じられてくるからです。つまり、人の心は一つであり、現れの世界では別々でも、人の心に二つはなく、心は神につながっているので、その神性を汚すことは、自分を苦しめ、人を悲しませるなにものでもないからです。 菩薩は、常に神の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。つまり、菩薩の「正しさ」は、形ある人びとの間というより、人びとの毀誉褒貶(きよほうへん)に心を動かすことはなく、ひたすら、神の愛と人びとを生かすことに人生の目的を求めます。価値の尺度は神なのです。ウソのない人びとの心です。」 「上段階光の指導霊」は菩薩のことで、次回出てくる「上段階光の大指導霊」は如来を意味します。 「菩薩行」という言葉がありますが、これは菩薩になるための修行、あるいは菩薩としての修行のことで、内容は主に他者への奉仕、それも報いを求めない奉仕です(もともと、報いを求めたら単なる商売であって、それを奉仕とは呼びませんが)。 高橋信次師の講演記録にあったように記憶していますが、かつて、人類の言語は一つであったところ、エデン追放、その後の現象界の乱れにより、言語は通じなくなっていったようです。ならばあの世に帰ってからも、いくらあの世が魂の世界で思ったことがすぐに相手に解ってしまうとはいえ、言語がそのまま通じるわけではないのでしょう。正確に相手の言語を理解するには何らかの装置が必要になるのかと思います(高橋師の講演に現れたガブリエルが、高橋師のために「日本語を学びました」と言っています)。それが「三個のボタン」なのでしょう。 魂の世界なのになぜ建物や機械があるのかと思われるでしょうが、あの世においても私達は「光子体」という、光の粒子からなる体を持っており、あの世もまた魂の修行場ですから社会があり、文明があり、各自の家もあり、文明は高度ではあっても、基本的にはこの世の生活と変わらないような、極めて人間的な社会生活があるわけです。この世があの世の投影されたものだと言われるのも、この世にあるものはあの世にも全てあり、ただあの世のほうがずっと進んでいるというだけだからでしょう。むしろあの世というものを、この世とは全く異なる世界だと考えるならば、あの世の諸霊はこの世の人々を導くことすら出来ないということになるでしょう。その霊がこの世で生きていた時代より、今のほうが進歩しているからです。この世とあの世は連続したものだと高橋師が説くように、あの世に行けばそれだけで救われるとか、あの世はこの世とは全く違う世界だとかと考えて、この世とあの世を隔絶したもののように捉えるのは間違いです。 さて、幽界や霊界の心は、まだまだ「自分」が中心にありました。しかし自己本位なあり方は自分の、神の子としての本性に反しており、そのため自分を傷つけ苦しめる元になります。よって「天にツバする行為と変わらない」ということになりますが、それを菩薩達は理屈ではなく実感として解っており、他者に奉仕することで心の安らぎが得られることを理解しています。 なぜ奉仕により安らぐかといえば、本来、誰の心も「神の子の心」として神性で満たされており、その偉大な神性に奉仕して他人を喜ばせることは、同じ神性からなる自分の心を喜ばせることだからです。逆に神性を汚せば、それは自分も他人も悲しませるというわけです。「人の心は一つ」とはそういうことです。
2007.08.27
コメント(0)
だからね、仏教やヨーガの教典ではね、「この世をあるがままに見なさい。そして自然に生きなさい。」と言っている。「自然に生きなさい。」とはどういうことかというとね、与えられた条件以上のものを望んではいけないよ、ということだ。その与えられた条件が、あなた方に与えられたカルマなんだからね。人間はカルマによって生きているんだよ。 ただ、このカルマというものは変わるんだ。私達がね、六つの極限的修行に挑戦する限りカルマは変わってくるんだよ。それでは、良いカルマを作り私達を幸せに導くこの修行について説明することにしよう。運命を変える秘密の修行 この修行は、大乗仏教では六波羅蜜と呼ばれているものである。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六種の修行を極限まですることなんだよ。『布施』は幸運をもたらす その修行の根底となるのは布施の極限だ。今日の参加者の七十五パーセントはセミナーを二回、三回、四回と経験している人だからわかると思うが、これには三つの極限的布施がある。一つは財施、次は安らぎを与える布施、そして法施だ。 財施は、――今私達は食べていければいい、着ていければいい、あとは世の中の為に、あるいは真理の為にすべてを差し出そう――というものだ。 次の安らぎを与える布施、安心施とはこういうものだ。私達は真理の法に触れている。だから私達の心は安らかである。確かに、あなた方は成就していないので少しは苦しみが残っているかもしれない。けれどね、それよりもたくさんの苦しみを持っている人達がいる。その人達を安らがせてあげようじゃないか。心を解放させてあげようじゃないかとね、これを実行するのが安心施だよ。 では、最後の法施とはどんな布施なのだろうかね。それは、こういうものなんだ。私達は真理の法、宇宙の法則というものを知っている。これをみんなに聞かせてあげよう。教えてあげよう。そして、みんなを真理のもとに集わせるように努力しようじゃないか、というものだ。それが法施だ。『持戒』は魔境を越える そして、この布施の極限を通過したときにグルはね、まあ、あなた方の場合たぶん私になると思うんだが、ひとりひとりに戒を与える。あなたはこの修行を一生懸命やりなさい。現実生活において、これはやってはいけないよ、というね、戒を与えるわけだ。そしてもらった方はそれを極限まで実行する。これが持戒の極限だ。 まず、布施功徳によって、あなた方にいいことが返ってくるだろう。あなた方の環境は変わってくるだろう。持戒の功徳によって、あなた方に悪いことが起きなくなるだろう。魔境から抜け出すことができるだろう。 このように、布施、持戒というものは、一見困難ではあるけれど、やりがいのある修行でもあるんだね。意志力は『忍辱』から 次に私達は、忍辱の極限、つまり耐えることの極限の修行をしなければならない。自己の限界に絶えず挑戦するということだ。 例えば瞑想修行は辛いね。私も瞑想修行を始めた頃は、瞑想を三分続けることさえ大変だったものだ。しかし、私は耐えたよ。耐えることで継続時間を少しずつ延ばしていった。今では十五時間でも十六時間でも平気で座れるようになっている。これは忍辱の極限の修行の賜物なんだよね。 今述べたような忍辱の極限の修行によって、私達は強靭な意志の力と強烈な精神集中力を持つことができるんだよ。これらの力が、心を一点から離さない状態に到達する為の素地となるんだ。あ、この心を一点から離さないというのはね、ラージャ・ヨーガやジュニアーナ・ヨーガに必要なんだ。 この修行は現実生活においても効果を発揮するんだよね。だって、普通の人が苦しいと思っている環境に対して平気で耐えられるようになる。苦しみの限界が広がるわけだ。これはすごいことだよね。三つの極限が『精進』を支える 布施、持戒、忍辱と進んできた。では次は? もうみんなわかっているね。精進、修行に対する精進、真理の道を歩く為の精進ね、これが私達に待っているわけだ。これまでの三種の極限――布施、持戒、忍辱――を土台として、精進の実践に入っていく。要するに、あなた方が今まで得た一切の功徳がベースとなるわけだね。 それらをベースに何の精進をするのか? 教典を読むね。例えば、真理の法を流布するね。布施の極限での法施と、この真理の法の流布は違うよ。法施は単にまわりの人に対して法を説くことだが、この精進の極限ではそれでは足りない。あなた方が出て行って法を説かねばならない。「皆さんは間違っている。真理の法はこうである。」とね。これが精進の極限の修行だ。瞑想をするにも、何はさておき瞑想するという心構えで没頭しなくては精進にならないよ。 例えば今台所班でね、あなた方が食事をする陰で、ひとり必死に食器洗いをしている男がいる。ね、彼がやっているのは忍辱の極限的修行であると同時に、精進の極限的修行だ。そうだと思わないか? 皆さんの食器をきれいに洗ってね、食事の時にはきれいな食器を出してあげて気持ち良く修行してもらおうとね、一生懸命やっている。毎日毎日食器洗いだけをやっている。人間だもの、こんなこと毎日やっていたら途中で投げ出したくなってしまうよね。しかし耐えて続ける。これは忍辱だ。そして、これも自分の修行だと自覚し、しかも人の修行の手助けの一端となれば、と更に頑張る。これはりっぱな精進だよね。私は素晴らしいことだと思っているよ。 このように何でもかまわない。「これは修行である。」、これを認識して、毎日毎日限界の修行をする。それが必ず法とつながる。これが精進の極限の修行なんだ。ポイントは、だからここではね、真理の法とつながるかどうかだ。『禅定』とは? そして、やっとこの段階を終了して初めて、本当の瞑想修行である禅定に入っていけるわけなんだね。 私は三月のセミナーでこういうことを言っているね。瞑想修行に入ったならば、二つの道があるんだよって。一つは『大乗の仏陀』になるやり方、もう一つはね、『タントラの仏陀』になる為のやり方。この二つがあるんだよってね。 大乗の仏陀というものは、単に真理を悟り、その法を説く。タントラの仏陀というものは、真理を悟り法を説くだけではなく、スーパー・シッディを見せて信を獲得する。この二つのタイプの仏陀がいるわけだ。 まず、普通の仏陀である大乗の仏陀からいくと、まず禅定がくる。禅定は漢訳なんだが、あなた方のわかる言葉でいうなら瞑想だ。ここでの瞑想は、ただ単に座るだけではないよ。瞑想の根本となるものは、つまり課題となるものは「私は誰なんだろう? 私は何なんだろう?」ということだ。 私は麻原彰晃だよ。しかし、それでは、本質を示していない。麻原彰晃というのはね、単に名前という観念をね、皆さんと私との間でかわしたにすぎない。麻原彰晃が名無しのゴンベエであっても、あるいはゲゲゲの鬼太郎であっても、ね、何でもかまわないわけだろう。『私はだあれ?』 では、「私はだあれ?」の瞑想法について少し話そうね。 私は誰であるのか? 私は人間である。いや、この人間も観念だから排除だ。人間という言葉は何も表わしてはいない。人間という言葉を使って、実態がわからないままに終わらしてしまってはならない。 私は生き物である――と、これはどうだ。そのとおり。これは正しいね。私は最低限生きものである。植物人間になってしまったとしても、最低限生きものであるんだ。 しかし、死んでしまったら生きものとは言えない。そこで簡単に私の定義が変わってしまうじゃないか? じゃあ、私は生きものではないんじゃないか? 断わっておかなくてはならないけれど、死んでも魂は存在し続けると信じる人の瞑想プロセスとして、私は例をあげているよ。成就した人間だと、『死の体験』などを通して魂の永遠性を実感するものだけどね。 さて、続けよう。私は感覚器だろうか? 触覚で感じるもの、これが私か? じゃ、もし感覚が無くなったら私は存在しているか、していないか?――私は存在しているよ。だとしたら私は感覚ではないね。目が見えなくなっても私は生きている。耳が聞こえなくなっても私は生きている。味覚がなくなっても私は生きている。皮膚感覚が無くなっても私は生きている。だから私は感覚ではなかった。じゃあ、私は何だろうね。 もう、みんなわかっているね。今やっているのは四念処の瞑想だね。心でもなければ観念でもない。では一体何か、とシャンバラ新聞にはここまでしか書いていなかった。ね、今日は更に先に行ってみようか。 私は、何かを決定する意志か? それとも夢の中の自分、あるいはアストラル世界の自分が私なのか? これも違う。じゃあ、そのアストラル世界に投影しているコーザル世界にある意識が私か? これも違う。 そこで、四つの極限の修行をやってきた菩薩は苦しむ。徹底的に苦しむ。一体私って何なんだ? それを追求している段階で、あるときふと気がつく。――なんだ、私というものは透明な水だったのか―― ここらへんは、自分で修行して経験してもらうしかないね。このときの心境は表現不可能だからね。そして、ここまでくると、あなた方は何もかも直感的に知ることができるようになる。その状態の人を目覚めた人、つまり仏陀というんだ。これが大乗の仏様だよ。 あれ、おかしいな? 私達は奈良の大仏さんを仏様だと言っている。仏陀だと言っている。しかし、あれは仏像であって仏陀ではない。鎌倉の大仏さんも同じだ、これは。真の仏陀というものは、今私が話したとおり目覚めた人のことなんだよ。その人は、一切の人達をね、論理的に御することができる。一切の世の中の動きを完全に理解できる――ね、いいですか? まあ、これくらいでいいだろう。これが大乗の仏陀なんだよ。基礎こそタントラブッダへの道 ところが、一部の仏教徒たちは考えた。こんなんじゃしょうがない、とね。それでは、ちょっと頭が良ければ仏陀になれるじゃないか、とね。そこで出てきたのがタントラだ。タンとは密儀、トラとはマントラのことだ。つまり秘密の修行をし、マントラを唱えることによって成就を目指す一派が現われたんだよ。この修行によって成就した仏陀は、スーパー・パワーを持っている。 そして、私達のオウムはこのタントラの修行を行なっているんだよ。このスーパー・パワーを持ったタントラの仏陀として成就することを目差しているんだよ。いいですか。この修行は今あなた方がやっているグル・ヨーガ・イニシエーションね、あるいは三月四月にかけて行なったツァンダリーのイニシエーションで詳しく説いているからね、ここではやらないけれども、自覚して修行してくださいよ。あなた方がやっているのは、タントラの仏陀になる為の技法だということをね(タントラの仏陀になる為の修行法は第七話を参照のこと)。 私は、セミナー中にあなた方に最高の技術的な指導をすることができるよ。しかし、あなた方にもし基礎がなかったら、例えば瞑想の為に座れなかったら、例えばプラーナーヤーマができなかったら、例えば先程言った四つのね極限の修行ができなかったら、何の意味も持たない。ザルで水を汲むようなもんだ。だから、それはあなた方から積極的に私にアプローチし、あるいは私の高弟にアプローチし、吸収しなさいね。「一体私は今、何をやったらいいのか?」、それを考えて吸収しなさい。そして、自分の弱いところを補いなさい。ツァンダリーの瞑想を行ない、グル・ヨーガの瞑想を行ないなさい。そうすることによって、あなた方は必ずやグヤサマジャになることができるだろう。グヤサマジャ、これはタントラでの釈迦牟尼如来だ。変化身だ。
2007.08.27
コメント(0)
だったらどうしたらよいか? この世は仮の居場所だからね、必要な分だけを取って還元しなさい。いいですか。それをするなら、今の苦しみを乗り越えることができるだけでなく、来世でも素晴らしい世界に行けるからね。そして何よりも、安定した平和な気持ちでね、人生を歩むことができるからね。解脱のプロセス では次に解脱のプロセスに移るよ。解脱というのはね、私達の執着、これを物理的に消してしまうプロセスだ。 例えば、お腹がすいたときはどこで感じるか? お腹で感じるね。性欲はどこで感じるか? このスヴァディスターナ・チャクラで感じるね。瞋【いか】りはムーラダーラ・チャクラからの熱だ。それらは、ストレスのエネルギーとも言える。ところが、凡夫はそのエネルギーの行き場を持っていないんだ。いいか? だから、空腹感を感じたら、その空腹感がおさまるまで食べなければならない。性欲があったら我慢して精神的におかしくなるか、あるいは漏らすかしなければならない。ね? 瞋りの感情というのは、コントロールすることなど到底できない。これが凡夫だ。 しかし、これらのストレスのエネルギーの流れ道が開いたならば違ってくる。あなた方のスシュムナー管、これが開いたならばそれがストレスのエネルギーの流れ道となるんだ。 例えば、性欲が起きたとき、スシュムナー管が開いていたら、性欲はスシュムナー管を通って上昇する。上昇して頭頂に集まる。食欲も同じ。瞋りも同じだよ。いいかな。だから、第一に私達は背中の中心にあるスシュムナーを開かなければならない。いいね? そして、上昇したエネルギーがサハスラーラを崩壊させるとだ、ツァンダリーが起こるね。 そのツァンダリーによって、上昇したエネルギーは、下降する。今度は、同じ道を辿らないで身体の中央を降りてくる。そこで、まあいろんな神通力が起こるわけだけれども、超能力が起こるわけだけれども――私達の食欲、性欲、瞋りというものはね、循環するようになるわけだ。いいですか。そうすると、例えば性欲は起きた瞬間にツァンダリーのエネルギーに変わるね。したがって、私達は全くストレスを持たない状態になるわけだ。 それだけじゃないよ。この食欲にしろ性欲にしろ瞋りにしろ、私達の大脳をいろんな形で振動させるんだ。興奮させて、喜ばしてくれるんだ。だから快感状態にひたることができる。何もしないのに、いつも気持ち良い状態でいられる。 ――これが解脱だ。私達がこの世に生まれているのは、煩悩があるからだったね。欲望や執着があるから輪廻の輪から抜け出せなかったんだね。だから、私達が煩悩から解放されたならば、私達はこの世という苦界に生まれてくることもない。幸せな高次元の世界へと行くことができるんだよ。それが解脱なんだよ。 要するに、理論的追究をした場合、『悟り』が起きる。物理的追究をした場合、『解脱』が起きる。この『悟り』と『解脱』とを合わせてしまえば、最高の状態になるんだよ。偉大なグル 一つつけ加えておこう。解脱のプロセスの途中で、もしサハスラーラ・チャクラが崩壊しなかった場合についてだ。サハスラーラ・チャクラが崩壊しなかったらどうなるか? これは大変なことになるよ。何しろストレスのエネルギーが下から上に移動したにすぎないんだからね。先程述べた、気が狂う危険性があるのがこの時なんだ。 例えば、性欲のかたまりの人間は、アストラル世界で性欲を満足させるようになるだろう。例えば、瞋りに満ちている人はアストラルの世界で闘争するだろう。私は、実はこのタイプだった。また、食欲過多、あるいは無智の人は、ね、いつも眠たくなるだろう。寝てばっかしいるだろう。 しかし、成就したグルがついていれば、必ずサハスラーラ・チャクラを崩壊させることができるだろう。その危険な状態をコントロールすることができるからね。まあ、悟りを開いた後に解脱のプロセスに足を踏み入れるのがベストなんだけれどね。この理由は先程も説明したね。 では、今日の説法はこれで終わりにします。イニシエーションFriday, October 6th, 2006第二話 悟りの障害と六つの極限苦楽の因は条件だ さあ、今日は少し思い込みについて話そうかね。思い込みが、いかに悟りの障害となっているか。どうしたら、その思い込みをね、私達は取り除くことができるか、ということに話をしぼりたいと思う。 ここに一軒の家があるとしようね。その間取りは十五畳、八畳、八畳、八畳だ。もしその家にだよ、今まで1LDKの家に住んでいる人が引っ越したとしよう。そうしたら、「私達は、なんと広い家に引っ越すことができるんだろう。」とね、感激するかもしれないね。 ところが、もしその3LDKの家よりも、二倍も三倍も広い家に住んでいる人が、その3LDKの家に引っ越したならばどう考えるだろうかね。「ああ、私はなんて運が悪いんだろう。運が悪いから、こんな狭い家に引っ越さなければならなかったんだ。」と考えるんじゃないかな、ね? でも、ちょっと待ってくれ。ここで問題となっている3LDKは同じ家なんだよ、空間の大きさというものは同じなんだよ。ところが、1LDKから3LDKに引っ越した人にとっては「広い。」、逆により大きな家から引っ越した人にとっては「狭い。」と感じるわけだ。どうしてかねえ。 さあ、今家の話をした。車はどうだ? 例えば、お金が無くてね、やっと車の免許を取った人にとってね、三十万、四十万――今、そのくらいじゃないか――六十万でいいだろう。六十万円の中古車を手に入れたときの感激といったらね、はかり知れないだろう。やっと私もオーナードライバーになることができたと、ね。 ところがだ。三百万、四百万の車に乗り付けている人にとっては、その中古車なんて車などと呼べない代物ということになる。しかし、対象となっている六十万の中古車は同じ物だ。 次は異性だ。まあ、オウムの場合、男性会員が多いから、一応は男性サイドに立って考えるよ。 今まで全くモテなかった男がここにいてね、ごく普通の女性と巡り会ったとしよう。その女性が自分に好意を持ってくれた。自分だって彼女が嫌いじゃない。そしてお付き合いすることになったとしようね。それは感激するだろうね。 反対に、今度はモテすぎてうんざりしている男がいるとしよう。同じ女性が「好きです。」と表現したら、その男はどう感じるだろうね。想像つくだろう? いいですか。条件となっているものは全く同じなんだ。3LDKの家、六十万の中古車、ごく普通の女性――。しかし、それらに対する評価は人によって違ってくる。そして、それは例えばあなた方が1LDKに住んでいるか、ね、あるいは3LDKの二倍も三倍も大きな家に住んでいたかによってね、反応が同じになるはずだ。今までお金が無かったか、あるいは高級車に乗り慣れているかによってね、やはり反応が同じになるはずだ。これは異性についてもね、同じだ。 で、それを「すべての苦楽は条件によって成立するんだよ。」と釈迦牟尼如来は言っていらっしゃるんだよ。だから、私達がそれらの条件に影響されて生き続けている限り幸福は無い。 おかしいじゃないか、例えば1LDKから3LDKに移ったとき、幸福になるんじゃないか、と言われるかもしれない。例えば1LDKから3LDKに移ったとき、幸福を感じるんじゃないか、と。確かにこのときは幸福を感じるだろう。 しかし、この世は無常だ。絶え間なく移り変わっていく。そうだろう? 3LDKから再び狭い家に移らなければならないかもしれない。やっと買えた六十万の中古車を手離さなければならなくなるかもしれない。そのときは不幸を感じるだろう。彼女が、今度は他の男性を好きになってしまった。「さよならしましょう。」なんて言われたら、これも苦を感じるだろうね。『思い込み』をなくせ! このように、外的環境・条件によって、私達は喜びを感じたり、苦しみを感じたりしているんだ。無始の過去から、想像もつかないような遠い遠い無始の過去から、私達は苦しみ続けている。あるいは、一時的な喜びを味わい続けている。これらは、さっきも言ったように、環境や条件に左右されているにすぎないんだ。思い込みがあるからね。しかし、こんなことに惑わされていたら真実は見えないね。だから『思い込み』は悟りの障害でもあるんだよ。悟りのステージ では、悟った人はどう感じるか、どう考えるかということになってくるね。あなた方がもし悟りを開くとね、セルフ・リアライゼーションの段階に入るとね、一切の影響を受けなくなるんだよ。 3LDKは、3LDKにしか見えなくなってくる。それは、大きい空間から狭い空間に移ったとしても、狭い空間から大きな空間に移ったとしても、そのことからは何の影響も受けない。1LDKは1LDK。それ以外の何物でもない。苦も感じなければ楽も感じない。3LDKについても同じだ。 六十万の車に乗ろうが、二百万の車に乗ろうが、三百万の車に乗ろうが、これも全く何も感じなくなる。 あるいは、どんなに外見の美しい人が現われようが、そんなことに一切こだわらなくなる。影響を受けなくなる。相手の心の美しさ、清らかさだけを感じるようになってくるね。たかだか、この短い五十年六十年の期間にだよ、都合が悪くなれば「はい、さようなら。」というようなね、人間に対して興味を抱かなくなる。本当に心が清らかで、愛してくれる人たち――それが誰なのか、あなた方のね、直感智によってわかるようになる。そう、これが悟った人の状態だ。あるがままに見なさい 特に修行中の人、人を見る目を持ちなさいよ。気を付けなさいよ。なぜなら、普通人は自分を良く見せようとするからね。例えば女性の化粧、あれは自分をより美しく見せようとする手段だと思うね。もっとも最近は男性用のメークアップ用化粧品も出まわっているそうだけども。 私の友人にO君というのがいた。O君は恋愛結婚をした。ところがだ、結婚後、彼女が化粧を落とした段階で、ショックを受けたそうだ。そんな夫婦関係だったら、簡単に崩れてしまうよね。 オウムの女性達を見てごらん。あまり化粧をしないだろう、ね、皆さん。でも、心の美しさがまわりに輝いている。化粧をするよりも、心を磨き上げて心の透明さ、心の清らかさを表現した方がずっと素晴らしいんだよ。修行していると、そのことに気付くだろうよ。皆さんも悟りの道を歩くならば、ありのままをありのままに表現しなさい。今、例として化粧を取り上げただけであって、美しさだけのみならず、すべてをありのままに表現しなさい。そうすることが、あなた方の最高の運につながるし、死後もいい世界へ行けるんだから。だって、ありのままに表現するというのは、欲望を落とすってことでもあるからね。欲望にこだわっている人が、自分を美しく見せようとしたり、大きく見せようとしたりするんだ。皆さんはできるだけ早く、こんなレベルから離れなさいよ。そして、もっと先へ行きなさいよ。あるがままに生きなさい 悟りを開いた人が、条件や環境に左右されず、ありのままに見ることができるというのも、思い込みが無いだけでなく欲望が無いからだ。いい条件から悪い条件になったとき、無欲だったら何も感じない。例えば、大きな家から小さな家に移ったときね、「ああ、こんな狭いところはイヤだ。大きい家がいい。」という気持ちがあるから苦を感じるんだ。望まなければ、欲しがらなければ、どうってことない。そのままを、何も感じることなく受けとることができる。しかも、正確に対象物を見ることができるよ。
2007.08.27
コメント(0)
-引用開始-イニシエーションFriday, October 6th, 2006第一話 修行の目的とプロセスそして成就苦へのプロセス 今日は修行の目的、修行のプロセス、そして成就――この三つについて語りたいと思う。 はっきり言ってね、この世が楽だと考える人、そういう人は修行者向きではない。なぜなら、まだ行きつくところまで行っていないんだよね、そういう人は。苦を感じるようになって修行を始める途中の段階とも言っていいね。 これを理解してもらう為には、私達の真我が自分の真の姿を見失っていくプロセスを知らなければならない。真我とはね、本当の私って言ったらいいかな、私達の根本となるものだ。真我に意志とかイメージとかが加わったのが魂なんだよ。こう言った方がわかりやすいかもしれないね。 その真我はね、功徳・悪徳・行動というね、三つのグナに影響されているんだ。三つのグナに影響されることによってね、どんどん自分本来の姿を見失って錯覚に陥っていってしまう。その錯覚に陥っていく、まだ途中の段階の人は、さっき言ったように、この世が楽だと考えているんだよ、ね。また、この世が絶対だとも考える。ね、いいですか。 しかしね、そのプロセスの最後まで行ってしまうと、つまり行きつくところまで行ってしまうと、今度は苦を感じるようになるんだよ。この世に生まれ変わってくることの苦しさ、無意味さなどをね、痛切に感じるようになるわけだ。真我がたくさんのことを経験した結果、それに気付くんだよ。 経験こそ修行の第一歩 例えばね、ここにオレンジがあるとしよう。オレンジ――もしオレンジを食べたことのない人がオレンジを食べて、「ああ、なんておいしんだろう。」って思ったとするよ。最初においしいと思っても、一日に五個、十個、二十個、三十個とね、食べていってごらん。毎日毎日それを続けてごらん。必ず飽きる。そうじゃないか。 それと同じように、すべての経験においてね、いずれ飽きるときがやってくる。恋愛だってそうだ。あるいは、地位とか名誉、これも同じだ。お金もそうだね。 この世での経験が激しければ激しい程、経験が多ければ多い程、この世の中に飽きてしまうんだね。これは潜在意識が満足しきってしまうからなんだよ。そうなると、この世は苦だ、この世は幻影に過ぎないとね、考えるようになってくるんだ。そして、この世から脱け出したい、苦しみの世界から脱け出したい、と望むようになるんだよ。 じゃあ、一体この苦しみの世界から脱け出すのにどうしたらいいんだ、とね、このことについて考えるようになってくる。こうして、修行によって魂の解放を願うようになるというわけだ。以上が人間が修行に入っていくプロセスなんだよ。迷妄を取り除け! さて、こうして魂の解放を願うようになった。次の問題は、その方法を知ることだよね。 魂が解放される為には、魂と肉体とがね、別個のものだという事実を感じ取らなければならない。次に、夢の世界とアストラル世界が、私達の魂と別個であることを理解しなくてはならない。そして最後にですよ、心と魂が別個であると認識する。いいですか。 これを認識する為には『理論的に認識する方法』と『経験的に認識する方法』の二通りの方法がある。そして、そのどちらも私達には必要だ。 経験として認識する方法は解脱だよ。論理的に認識していく方法は悟りだよ。どうしたら、その悟り、あるいは解脱をね、私達は得ることができるんだろうか。今度はこれを考えなくてはならない、ね。 ここに愚者と智者のふたりがいたと想定しよう。愚者は、例えばここでオレンジを一個買う。それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。次の日も二個三個四個と買って飽きるまで食べる。そして、オレンジに飽きる。もはやおいしくはない。次はリンゴにしようとね、彼はリンゴを食べる。飽きるまで食べる。次はバナナだ。バナナで同じことを繰り返す。こんなことを、懲りずに繰り返しているような人は、悟りや解脱までとても時間がかかるだろうね。 ここで、智者だったらどういうプロセスを辿るのかね。その人は、オレンジに飽きたとき、「なぜ私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。そして、「私は今度は、リンゴを食べたいと思っているけど、ひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」っと考え至るだろうね。そして、リンゴに挑戦するとき、「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ていこうじゃないか。」と決心する。そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら、ね、心の変化を理解していく。 そうするとねえ、オレンジとリンゴ、これくらいで飽きる経験はすんでしまうわけだ。飽きる経験がすんでしまうから、次のバナナまでいかない。いく必要がないんだね。 オレンジやリンゴがね、車に変わっても同じだね。私は車の名前をあまり知らないけれども、例えばブルーバードね、例えばスカイラインね、例えばシビックね。初めにブルーバードに乗っていてね、飽きてスカイラインにする。次はシビックにしてみる。これと、オレンジ、リンゴ、バナナのプロセスは全く同じだ。 異性について考えても同じだよ。A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。ね?悟り――パラダイス 私達は、だから、もしオレンジで心の動きを理解したならば、車に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。その時、自ずと悟りが訪れます。 急に、悟り、なんて言葉がでてきてびっくりしたかな。オレンジや車と悟りが、なにやらつり合わないような気がするかもしれない。しかし、悟りとは心の動き、あるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかをね、客観的に見て理解できる状態のことなんだよ。いいですか。これが悟りのプロセスだ。そして悟りに必要なのは、ジュニアーナ・ヨーガなんだよ。ジュニアーナ・ヨーガとは、分析的ヨーガとか哲学的ヨーガとか言われている。 悟りを開くとね、今何をなさなければならないか、この人生というものは何であるか、ね、それが理解できるようになってくる。 そうすると、お金に興味が無くなってくる。まあ、お金は一定量は必要だ。しかし、さして私達のね、人生に影響はない。例えば、ある人が三十万円もする背広を着ていてね、自分が五千円のジャージであったとしても、トレーニングウェアであったとしても、そういうことは問題でなくなってくる。例えばある人が、最高車であるプレジデントに乗っていて、自分が七十万のファミリアに乗ってたとしても、大した問題ではなくなってくる。例えば、ある人が美女と歩いていて、例えば自分がそんなに美人じゃない人と歩いていたとしても、大した問題ではなくなってくる。 だって、そんなことよりも、ずーっと大切なことに気付くんだから。一日一日をいかに充実して生きるか、ね。いかに、真我が本当に望んでいる絶対自由、絶対幸福、そして歓喜を求めて生きるか、ね。この点に少しずつ焦点がしぼられてくるんだよ。そして修行に入り、解脱へと向かうんだ。覚者こそ解脱する ここで、ちょっと触れておきたい。私は悟りを得た後修行に入り、解脱へと向かうと言った。これは、悟りを開いてからが本当の修行であり、本人も修行に没頭できるということなんだ。悟りを開いた人は、もはや修行に失敗することはない。修行以外のことには見向きもしなくなる。――そして、必ず解脱を果たすことができるんだ。 私がね、ジュニアーナ・ヨーガを重視しているのは、まさにこの理由からなんだ。あなた方に、一日も早くジュニアーナ・ヨーガで悟ってもらいたいと思っているんだよ。そうしないと、潰【つぶ】れてしまう可能性があるからね。潰れてしまう例――これは、このオウム内でもある。今までにも何人かの弟子が潰れていったよ。これは事実だ。 一番ひどい一件があったのは、私がインドに行っていた留守中のことだった。Rという男の弟子がいた。彼は以前、バグワン・シュリ・ラジニーシのところにいてね、私のところにきたとき、彼はすでにクンダリニーが覚醒していた。 そして、彼はね、師の無観念の、つまり一切の観念は必要ないという教えの影響を受けていた。そして、『一切の観念は必要ない。』という“観念”を持っていたんだ。 オウムではね、奉仕修行と瞑想修行をすることが弟子の条件となっている。厳しい規律も守らなければならない。それまで、男女が同居していても、そのことで男女の性的な問題が持ち上がることなど、一度もなかった。 ところがRは、「男性と女性が一緒に風呂に入ってはいけないなんて、それは観念じゃないか。」と言い出した。私は、解脱していない男女が一緒になると、そこで苦が生じるということを知っていた。その為に禁止していたのだった。 Rは無観念という観念を利用した。利用して、自分の性的欲望を満足させたかったのだった。結果的に、彼は自分の他に女性ふたりと男性ふたりを巻き込んだ。そして二組のカップルができ、肉体関係を持ったのだった。 最終的に立ち直ったのはたったふたり。肉欲に溺れていたRとその相手、そしてもうひとりの男を――彼は別の理由だったが――私は破門した。救済の門――それは『信』 このようにね、悟っていないと、修行者であってもね、あっさり潰れてしまうことがあるんだよ。巻き込まれても立ち直ったふたり、彼らは私に対する信が強かったからね、それができたんだと思うよ。 皆さんも悟ってはいない。こんな話を聞くと心配になるだろう。でもね、グルや神に対する信を持ち続けなさいよ。私を信じなさいよ。そうすれば、私はいつでもあなた方を見守って、助けてあげられるからね。ジュニアーナ・ヨーガは真理のサイン また、こういう恐しい話をしなくてはならない。ジュニアーナ・ヨーガで悟りを開く。クンダリニー・ヨーガで解脱する。しかし、解脱する為にもジュニアーナ・ヨーガが必要なのには、もう一つ理由がある。それは、クンダリニーのプロセスだけだと、成就できなかったら気が狂ってしまうということなんだ。ついこの間も、他のヨーガ道場のインストラクターが気が狂って自殺したという話を聞いたばかりだ。クンダリニーのエネルギーはそれほどに強い。しかし、ジュニアーナ・ヨーガで悟りを開いていれば、クンダリニーのエネルギーを正しい方向に使えるようになるので、気違いになってしまうというようなことはない。 ジュニアーナ・ヨーガの良いところは、「自分の状態を把握して、乗り越えていく。」というところにもあるんだよ。例えば、「病気で苦しんでいるんだ。」と。また、「私は今経済的な問題で苦しんでいるんだ。」という人がいる。あるいは、「恋愛問題に悩んでいるんだ。」という人がいるかもしれない。私はこう言うことができるよ。ジュニアーナ・ヨーガで健康を得なさい、経済的に安定しなさい、幸せな恋愛結婚をしなさい、とね。 直接そういう効果を持つものは、ジュニアーナ・ヨーガではなく、ラージャ・ヨーガあるいはクンダリニー・ヨーガなんだけどね。ジュニアーナ・ヨーガによる精神的基礎がないとね、修行者にあるまじき現世利欲の方向へ行ってしまうんだ。それはカルマとなってしまう。オウムの修行 オウムの修行というのは、非常に効果がある、ね。例えばプラーナーヤーマで二分、三分とクンバカ(保息)ができるようになったならば、相手を自由にコントロールできるよ。欲しいものはすべて手に入るよ。だからこそ、精神的基礎をジュニアーナ・ヨーガで作っておかないと堕落してしまうわけだね。悪いカルマを作ってしまうわけだね。
2007.08.27
コメント(0)
変化身 まず変化身は、マニプーラ・チァクラから現われる。下位形状界の天界から地獄界までを体験することができる。また、愛欲界にも姿を現わすことができる。修行が進んでいる人が使える身体なので、感情もあまり動かない。救済者が人間界へ降りるときもこの身体を使う。法身 法身は、アナハタ・チァクラから現われる身体である。中位非形状界と下位非形状界で活動する。報身 報身はヴィシュッダ・チァクラから現われ、上位形状界で活動する身体である。本性身 本性身は、アージュニァー・チァクラから現われ、上位非形状界で活動する身体である。金剛身 そして、サハスラーラ・チァクラから現われるのが金剛身で、純粋真我の状態である。六、管・風・心滴管・風・心滴 わたしたちが、タントラ・ヴァジラヤーナの修行(これについては、第二誦品以降で詳述する)を行なう場合、三つの要素を昇華・浄化することによって解脱を速やかに得ることができるのである。それが、管【かん】・風【ふう】・心滴【しんてき】である。 まず管とは何かというと、七万二千本のナーディーを指すのである。この管の中をエネルギーが流れている。このエネルギーが風なのである。そして、そのエネルギーに乗って動いているわたしたちの意識、これを心滴と呼んでいる。管・風・心滴の浄化 では、管の浄化とは何か。管の浄化とは、わたしたちの今までの経験におけるけがれ、これを止滅することである。 では、風を上に向け、強めるとは何か。これは、わたしたちが善を行なうことや功徳を行なうこと、あるいは法則の実行を行なうことにより、より高い意識状態へ意識を向けること、これが風を上に向け、強めることなのである。 では、心滴の浄化とは何か。これは、わたしたちが寂静の実行を行なうことによってのみ、心滴は浄化されるのである。三つの管 この七万二千本の管は、特に重要な三つの管を有している。この三つの管とは、中央のスシュムナー、左側のイダー、右側のピンガラである。イダー管 尾てい骨の左側から各チァクラを通過して、アージュニァー・チァクラの左側へと通っているのがイダー管である。この管は、迷妄のエネルギーを通す。つまり、この管が通っているとき、その人は迷妄に覆われるのである。ピンガラ管 同じように尾てい骨の右側から各チァクラを通過し、最後にアージュニァー・チァクラの右に至っているのが、ピンガラ管である。ピンガラ管は、わたしたちの邪悪心のエネルギーを運ぶ管である。この管が通っていると、わたしたちの身体は熱くなり、そして邪悪な心に支配される。スシュムナー管 そして、中央にあるのがスシュムナー管である。このスシュムナーは、わたしたちの愛著を通過させる管である。愛著とは、とらわれのことである。例えば性的なことに対する愛著、食べることに対する愛著、こういうストレスのエネルギーがクンダリニーとなってここを上昇するのである。したがって、ここが通っていないと、クンダリニーの上昇は見られない。そして、愛著を招く。愛著を取り除くにはこのスシュムナー管を浄化する以外にはないのである。三つの管の浄化 スシュムナー管を浄化すれば、愛著が消える。イダー管とピンガラ管に関しては、迷妄のエネルギーと邪悪心のエネルギーが入っているときに、迷妄と邪悪心が現われる。だから、この両管はどちらも詰まってエネルギーが通らないのが良いのかといったらそうではない。むしろ詰まっているのは最低である。なぜなら、それは低次元の迷妄、あるいは邪悪心を意味しているからである。 例えば、スヴァディターナ・チァクラで邪悪心のエネルギーが止まっていたら、その邪悪心は性欲に関係した邪悪心ということになる。一つ上のマニプーラ・チァクラで止まっていたら、これは学問や才能に関係した邪悪心ということになる。つまり、このエネルギーは上へ行けば行くほど、質が高度になるのである。 では、どうすればいいのか。修行のプロセスとしては、まずイダー、ピンガラの両管を完全に通して、迷妄も邪悪心も最高の質にまで高めてしまわなければならない。そうした後、そのエネルギーをスシュムナー管へ移動して、愛著のエネルギーへと変えてしまう。これが、イダー管、ピンガラ管の浄化である。そして、その時点で愛著というストレスのエネルギーが生まれる。それが、クンダリニーとなって上昇するというわけなのである。-引用終わり-
2007.08.26
コメント(0)
ルン・トラブル そして、これがルン・トラブルである。ルン・トラブルとは、エネルギーの障害によって起きる様々な苦痛のことである。ヒポクラテスの四つの体質 それでは、参考までに、ここで三体質と大変似ているヒポクラテスの四つの体質を検討してみよう。 ヒポクラテスは、紀元前四六○年~三七○年ごろに存在した偉大なる医者であった。彼は人間の体質を四つに分類した。第一は多血体質であり、第二は粘液体質であり、第三は胆汁体質であり、第四は黒胆汁体質である。そして、当然この多血体質が風と関係あることは、読者の皆さんもおわかりであろう。四、五行と六淫五行 次は、五行について説明をしよう。 五行とは、木【もく】・火【か】・土【ど】・金【ごん】・水【すい】を指す。この木・火・土・金・水とは何かというと、これは、エネルギーの相生【そうしょう】、あるいは相克【そうこく】、あるいは比和【ひわ】を指すのである。相生 例えば、木から火が生じ、そして、その木と火によって土が生じ、その途中には当然、その土の塊である金属が生じる。そして、金属を熱で熱すると、ドロドロとした液体が生じる。これが、木・火・土・金・水の流れである。そして、この液体は、次にまた木の養分として使われる。これを相生という。相克 そして、相克とは、例えば木は土を抑えると。これは、木が土の中に生存すると、当然その土は養分を失い、力を失うということから表現されている。また、ここに例えば、貴金属やあるいは宝石の鉱石があったとして、その鉱石や貴金属を強烈に熱するとそのものが熔け出し、そして全く価値をなさなくなる。例えば、ダイヤモンドなどはその典型で、高熱で熱すると炭素となって消えてしまう。このような考え方が相克である。五つの臓器 そして、これらの木・火・土・金・水の五行の考え方が身体に当てはめられ、肝【かん】・心【しん】・脾【ひ】・肺【はい】・腎【じん】という五つの臓器における機能を表わすカテゴリーとして分類される。 そして、例えば、肝機能を強めれば心臓機能が強まるだとか、心機能を強めれば脾臓の機能が強まるだとか、あるいは、逆に肝機能が強まりすぎると脾臓が弱まるだとかいう理論がそこから出てくるわけである。これは、現代医学的な考え方とも一致している面が多い。 これらの五行の理論を理解することによって、わたしたちはより優れた肉体を構築することができるようになるのである。六淫 では次に、どのような条件によって病にかかるのであろうか。これは、東洋医学の根幹の一つをなす中国医学に目を向けることによって、はっきりとその原因を理解することができる。 これは、特に六淫【ろくいん】論によって見ることができるのである。では、六淫とは何であろうか。これは、風邪【ふうじゃ】、火邪【かじゃ】、暑邪【しょじゃ】、寒邪【かんじゃ】、湿邪【しつじゃ】、燥邪【そうじゃ】の六つに分けることができる。風邪 これはどういうことかというと、まず風邪とは、例えば風に当たると風邪をひくだとか、例えば風に当たると脱水を起こす等なのである。 そして、この風邪は、風の働きによって神経等に痛みが出る場合、あるいはエネルギーの障害等を指す場合もある。火邪 そして、火邪とは、例えばやけど等を挙げることができる。暑邪 暑邪とは、暑いところにいるとそれによって脱水を起こす等である。寒邪 そして、寒邪とは、例えば寒いところにいると体が冷えて冷えの病を起こしたり、あるいは体に痛みが出たりする。これが寒邪である。湿邪 そして、湿邪とは、例えば湿り気の多いところにいるとむくみの病等にかかりやすい。これが湿邪である。燥邪 燥邪とは、乾燥しているところにいると、神経に痛みが出てくる。これが燥邪である。 これらの病の原因によって、わたしたちは病を起こすのである。タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006五、チァクラと五つの身体チァクラ それでは、わたしたちが修行に入ると、どのようなプロセスによって修行が進んでいくのだろうか。 まず、それは前項にも述べたとおり、わたしたちの尾てい骨にある神秘的なエネルギー、クンダリニーが覚醒する。 クンダリニーが覚醒することによって、ムーラダーラ・チァクラ、スヴァディスターナ・チァクラ、マニプーラ・チァクラ、チャンドラ・チァクラ、スーリヤ・チァクラ、アナハタ・チァクラ、ヴィシュッダ・チァクラ、アージュニァー・チァクラ、サハスラーラ・チァクラを一つ一つ解放していく。そして、この九つのチァクラはそれぞれの世界へと通じているのである。 チァクラとは、人間の身体にある霊的なセンターで、だれでもそれぞれの場所に持っている。しかし、普通の人はそれが眠った状態で働いていない。修行によるクンダリニーの上昇と共に開発されていくものである。 主なものは、ムーラダーラ、スヴァディスターナ、マニプーラ、アナハタ、ヴィシュッダ、アージュニァー、サハスラーラの七つである。チャンドラとスーリヤは、この七つのチァクラに比べると五分の一程度の大きさしかない。チァクラは身体の下部に位置するものに比べ、上部へ行くほど次元が高くなっている。ムーラダーラ・チァクラ それぞれのチァクラについて簡単に述べよう。 ムーラダーラ・チァクラは、霊視をすると暗い赤色で逆三角形をしている。スヴァディスターナ・チァクラ スヴァディスターナ・チァクラは八枚の花弁を持っている。花弁の中心は半月形が見える。色はオレンジ色で絶えず振動している。マニプーラ・チァクラ マニプーラ・チァクラの形は四角形で、色は輝くような藍色である。チャンドラ・チァクラ チャンドラ・チァクラは、白い満月のような色と形である。スーリヤ・チァクラ スーリヤ・チァクラは小さな太陽のような形で燃えるようなオレンジ色をしている。アナハタ・チァクラ アナハタ・チァクラは三つあり、一つは右乳頭、もう一つは左乳頭で、残る一つは左右の乳頭を結ぶ線と正中線が交わる点にある。左のチァクラは黄金色で、正中線上にあるものはスカイ・ブルー、右は深紅である。形はそれぞれ、左が十二花弁を持った六角形、中心は十枚の花弁を持った五角形、右は花弁を持たない円である。ヴィシュッダ・チァクラ ヴァシュッダ・チァクラの色は灰色。十六枚の花弁を持っていて円形である。アージュニァー・チァクラ アージュニァー・チャクラの花弁は大きく分けて二枚である。そして、それぞれが四十八枚に細分化されている。色は白銀、形は長円である。サハスラーラ・チァクラ そして、サハスラーラ・チァクラは球状の薄いブルーの入った白銀である。チァクラの解放 では、この九つのチァクラが解放されると、どのようなわたしたちの煩悩が止滅していくのであろうか。 まずムーラダーラ・チァクラが解放されると、わたしたちの邪悪心が止滅に向かう。スヴァディスターナ・チァクラが解放されると、わたしたちの性欲が止滅に向かう。マニプーラ・チァクラが解放されると、わたしたちの食欲が止滅に向かう。チャンドラ・チァクラが解放されると、わたしたちのイメージによるけがれが止滅に向かう。スーリヤ・チァクラが解放されると、わたしたちの怒りが止滅に向かう。アナハタ・チァクラが解放されると、わたしたちの卑屈さが止滅に向かう。ヴィシュッダ・チァクラが解放されると、わたしたちの嫉妬心が止滅に向かう。アージュニァー・チァクラが解放されると、わたしたちの現世の願望が止滅に向かう。そして、サハスラーラ・チァクラが解放されると、わたしたちは解脱するわけである では、次はそこから現われる身体について説明をしよう。五つの身体 まず、身体には五つの身体が存在している。しかしこれは、派によって三つという場合もあるし、あるいは七つという場合もある。しかし、ここでは原則的に、五つの身体を挙げておこう。 その五つの身体とは、変化身【へんげしん】、法身【ほっしん】、報身【ほうしん】、本性身【ほんしょうしん】、金剛身【こんごうしん】の順番である。
2007.08.26
コメント(0)
地球を旅たつとき未来も過去も幻想でしかなく、「いま」という時が常に続いているのです。私たちのこの世界は、過去という幻想と信じ込みの中で作られています。私たちがすべての信じ込みを捨てて乗り越えたときに初めて、創造性という無限の可能性が広がっているのです。未来も同様です。この宇宙に存在するのは実は「いま」だけであり、ただ「いま、在る」というのが続いているだけなのです。この地球での過去と未来に感情と執着を残さなくなったときに、私たちは地球を旅立つことができます。感情を味わう私たちが生きるこの三次元は、感情を味わうのに最高の場所であり「唯一の場所」です。私たちがこの三次元に来た理由の一つは、自分が表現する思考のすべてを感情として味わい尽くすことにあります。味わった感情は、私たち一人ひとりの魂の財産になります。経験した魂の過去のものは素晴らしい輝きを放ち、私たちの中に残ります。だから「味わっていない感情」については、魂はそれを味わいたいと渇望するのです。自らの思考が生み出したものが、この三次元でどのように経験されたかを知りたいのです。自分を大切にするすべての人は、この世で何らかの役割を担っています。さまざまなキャラクターの人がいることで、この世はバランスがとれているのです。それぞれのキャラクターは、それぞれ素晴らしく、貴重な存在です。人をそれとして認めるためには、まず自分を認める必要があります。自分がこの世の中に必要な存在なのだと認めることで、自分の中に光のエネルギーを取り込むことになるのです。そう自分に認めただけで、あなたは自分の中に力がみなぎるのを感じるでしょう。自分の光を放つために「これが私の光」と放出すると、自分にとっても他人にとっても癒しの力となります。人がさまざまなオーラ・カラーを持つように、私たちはそれぞれ個性的です。自分の個性のカラーに光を取り込んでください。そして放出するのです。私たちがそれを行うことで、世の中はすべての色のスペクトルが輝き、バランスがとれ、素晴らしい地球となるでしょう。自分にやさしくなってください。自分をいたわってあげてください。それが、この世を「天国」に変えていくのですから。-引用終わり--引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e3%82%bf%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%82%ac%e3%82%bf%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%93%e3%83%80%e3%83%b3%e3%83%9e/タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006第三章 人間の構成要素一、五大エレメント五大エレメント では、次に人間を構成するものに入っていこう。人間を構成するものにおいて、まず知っておかなければならないのは五大エレメントである。 この五大エレメントとは何かというと、地【ち】・水【すい】・火【か】・風【ふう】・空【くう】を指す。まずこれには粗雑な地・水・火・風・空と微細な地・水・火・風・空が存在している。地元素 粗雑な地・水・火・風・空については、まず地とはこの肉体、肉のことである。例えば骨は地元素に属し、あるいはこの筋肉は地元素に属すといったような形で固定的な形を持ったもの、これが地、つまり地元素なのである。水元素 では、水とは何であろうかと。これは、例えば血液、精液、胆汁といった水分に属するものを水元素と呼んでいる。火元素 では、火元素とは何であろうか。これは、わたしたちの体温を形成しているものである。ということは、これは当然、酸素の燃焼というふうにとらえてもいいと思う。風元素 では、風元素とは何であろうか。風元素とは呼吸である。つまり、わたしたちは外界から酸素を吸収し、それを燃焼させる。高いエネルギーである酸素が肉体に入り、ヘモグロビンと結合し、そして使われ、二酸化炭素となって排出される。この前段階の空気の取り入れ、これを表わしている。これが、風元素である。空元素 では、空元素とは何であろうか。これは空間である。例えば、鼻の穴、あるいは口の中といった空間が存在している。 そして、わたしたちの肉体はこの五大エレメント、地元素・水元素・火元素・風元素・空元素によって構成されているのである。微細な五大エレメント では、微細な五大エレメントとは何であろうか。これは、粗雑次元から微細次元へ移行する、エネルギーの低い次元から高い次元へ移行することを表わしている。 例えば、固体を加熱するとどろどろの液体になる。液体を加熱するとそれが炎となり、プラズマ化される。そして、それにもっとエネルギーを加えるとそれが核融合を起こし、そしてそれに対してもっとエネルギーを加えると、それは純粋な光へと昇華すると。 これは何を意味するかというと、地元素から水元素、水元素から火元素、火元素からから風元素、風元素から空元素へとエネルギーが昇華していることを意味している。つまり、微細な五大エレメントとはエネルギーのことなのである。二、五種の気五種の気 次に、五種の気について説明しよう。身体を動かしているものに、五種の気がある。この五種の気とは、アパーナ気、サマーナ気、プラーナ気、ウダーナ気、ヴィヤーナ気のことである。アパーナ気 アパーナ気は、へそから足の裏にかけてあり、色は煙色である。身体のけがれを取り去り、排せつ物を下降させたり、興奮状態を静め、精神安定や安眠をもたらすといった働きがある。サマーナ気 サマーナ気は、心臓からへそにかけて働いている。色は赤である。食物を消化し、養分を体中に巡らせるといった働きがある。プラーナ気 プラーナ気は鼻先から心臓にかけてあり、色は黄金色である。プラーナ(宇宙エネルギー)を呼吸とともに体内に入れる働きをする。ウダーナ気 ウダーナ気は、鼻先から頭にかけてある。色は青紫であるが、他の色に変化することもある。エネルギーを上昇させる働きがある。そのため、気分が沈んでいるときに、ここに精神集中をすると気分が高揚する。ヴィヤーナ気 ヴィヤーナ気とは、全身にわたって身体を守っている「オーラ」のことである。三、三体質と四つの体質三体質 では次は、わたしたちの体質について説明をしよう。わたしたちの体質は、胆汁【たんじゅう】、粘液【ねんえき】、風【ふう】の三つに分類することができる。 粘液とは、例えば粘膜に付着しているどろどろしたものであり、あるいは唾等である。そして胆汁とは、これは明らかに胆のうから出ている消化剤である胆汁である。そして、風とはわたしたちの七万二千本のナーディーをかけ巡っているエネルギーを指すのである。 これらの粘液、胆汁、風は、これは、タマス、ラジャス、サットヴァと関係しているのである。粘液 つまり、粘液質が強くなると当然わたしたちの水元素が強化され、そして粘りが強くなるがゆえに現象が動かなくなる。それにより病にかかると。例えば例を挙げるならば、知覚鈍麻だとか、あるいは健忘だとか、あるいは動きそのものがスローモーだとかいうことである。胆汁 そして、この第二番目の胆汁体質は、これは火元素と関係があり、わたしたちを活発に動かす力である。しかし、この粘液と胆汁のバランスが狂うと当然活発化はするわけだが、その火の影響によってわたしたちの身体を焦がしてしまう。例えば、熱の病などが、あるいは炎症などがこの胆汁の障害によって起きると考えられている。風 そして、三番目はサットヴァと関係する風の働きである。この風は、わたしたちの意識を動かすエネルギーであるともいわれている。この風の働きが阻害されると、わたしたちの智慧は低下し、頭痛、吐き気、あるいは痛み等にさいなまれなければならないのである。 なぜ風の働きが乱れると痛みが出てくるのかと。それは、これを考えてほしい。ここに一本のホースがあったとして、そのホースの一部分を締めつけたと。すると、水を流したとしてもその締めつけられている部分を通るとき、ものすごく大きな抵抗があるはずである。この抵抗こそが痛みの根本なのである。
2007.08.26
コメント(0)
-引用開始-http://plaza.rakuten.co.jp/yukiduke/diary/200607140000/ひろなかの幸せ日記2006年07月14日貝原益軒 養生訓 貝原益軒は言います。「人として生まれたならば、楽しまなきゃ損なことが三つある。」「一つは、よい行いをして、自分の中にある自尊心を高めることを楽しむこと。」「もう一つは、常に心身の健康を保って、日々の生活を楽しむこと。」「最後に、長生きをして、人生を長く楽しむこと。」 さらに彼は言います。「どんなに金持ちであっても、この三つの楽しみがなくては、本当の楽しみを得ることはできない。だから、金持ちになることは、この三つの楽しみを得ることとは関係ない。」 彼は何回も強調します。「もし自尊心を持たずに、心身の健康を守る方法を知らずに病気ばかりして、結局は短命に終わる人はこの三つの楽しみを得ないままに死ぬことになる。人として生まれたのに、一番大事な三つの楽しみを得ないまま死ぬなんてなんてばかばかしいことだろう。この三つの楽しみがないならば、どんな大金持ちを極めても、生まれてきた意味がない。」 財政的に豊かになることと、幸福になることとは関係がないと貝原益軒も考えていたのです。「どんなに金持ちになっても幸福を知らなければ生まれてきた意味がない。」と言い切っています。 もちろん、貧乏であっていいという意味ではありません。自分が困らない程度には経済的に潤った方がいいと思います。しかし必要以上の富は必要ないのです。 貝原益軒は、別の項で「およそ人のやまひは、皆わが身の慾をほしゐままにして、つつしまざるよりおこる。養生の士はつねにこれを戒とすべし。」と言っている。つまり、欲が多すぎて、自分の心身の健康や周囲の環境に無理や負担をかけることが問題なのです。 「経済的に豊かになりたい。」という欲はほどほどの方が幸せでしょう。 それよりも大事なことは、貝原益軒の言う「心に善を楽しむ」「養生の道」であり、我々アドレリアンから言わせると「共同体感覚」を成長させて、たくさんたくさん周囲の人や社会に適切な(社会がより良くなるような)貢献をすることだと思うのです。-引用終わり- 麻原のヴァジラヤーナの考えが少し見えてきました。最終解脱者として霊格、霊位しか見てないという事です。殺す事によって、相手の業を背負うという考えみたいです。即ち、殺された側、傷害を被った側は麻原よりも霊格、霊位が低かったという事です。もし高かったら、この行為、成立しないから。 世の中には、過激な者達、結構いるので、こういう者達の考えにも対抗できる生き様をしなければいけないという事です。米国のブッシュ大統領の武力による民主化のやり方も過激ですが、自爆テロで対抗する者達の考えも過激です。民主主義というのも統治だったのですね。私は神中心主義なので、一人一票の国民主権も神がそれを与えたと思うので、納得しています。私は人類皆平等、対等と思っています。 だから、救世主という考えはおかしいと思うわけです。彼らは自分は特別、自分は神だと思っているようです。こういう考え方をしている者達、結構いると思うので、彼らになめられないような生き方をしなければいけないと思いました。彼らは自分の事を人間だと思っていない。そして、人間をなめている。 多分、自己犠牲のせいだと思います。報酬の無い事、やってはいけないんです。やると絶対権力者になろうとする。これは非常に重要な事だと思います。スピリチュアルではこの世は全て正しいと言っている。これがスピリチュアルの神の定義です。現実無視。それで無償の愛とか、無条件の愛とか言っているんです。そういう神になりたいですか。なりたいんならいいんです。なりたくなかったら、自分の善、自分の正義、自分の理想を追求して下さい。私は人類全員分の善、正義、理想があると思っています。人類全員がそれぞれの光、愛を輝かせている世界が理想の世界だと思うのです。-引用開始-http://blog.livedoor.jp/longpa/archives/50617208.html2006年05月17日天国の法則 ― 人生を劇的に変える22のスピリチュアル・レッスン天国の法則―人生を劇的に変える22のスピリチュアル・レッスン藤崎ちえこ著 ビジネス社高次元の「愛」高次元の「愛」はまさに取引を超えた、無条件な「愛」です。高次元に行くと、私たち生きとし生けるものすべてがつながっているという感覚が「よみがえり」ます。エゴがなくなり、一つにつながった存在だったことを思い出すのです。すべてのことにとても客観的です。自分や他人を裁いたりしません。自分と他人のすべての三次元での所業を許し、温かく見守っているのです。過去の悲しい出来事にこだわったり、未来を憂えたりしません。ただ、いまその瞬間で物事を見ているだけという不思議な心境です。愛は高周波六次元以上の世界では愛にあふれています。そこからさらに上昇すると、まばゆい光の球、いわゆる私たちの魂の源とされる「セントラル・サン(創造主)」に値するものがあり、愛の波動を発しています。そこは高周波が存在するところです。つまり「愛は高周波」であると言えます。その至福の中にいると、全くエゴが必要ありません。そこに存在するガイドなどのスピリットたちはとても愛にあふれており、惜しみなく愛を供給してくれます。エネルギーのシステムところが、六次元より下に降りていくと、愛の波動は感じにくくなってきます。六次元より下のスピリットに対しては、特に愛の感謝が効果的なようです。何かをしてもらったらひと言「ありがとう。」と言うと、それに対してまたエネルギーが返ってきます。もちろん六次元以上のものに対して、感謝の気持ちや愛を送ることにも意味があります。こちらからエネルギーを送ると、それが戻ってくるのが次元エネルギーのシステムなのです。高次になればなるほど、より直接的に自分の投げかけたエネルギーが戻ってきます。ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、その投げかけたものがブーメランのごとく自分に戻り、それが現実となります。光の中に戻る魂というのは、一つの魂がほかの魂と分魂していたり、二つ以上の魂が自分の中に入っていたりします。「ツイン・ソウル」「ソウル・メイト」「ソウル・グループ」と呼ばれたりします。これらの魂同士は何度も転生を繰り返し、人生において互いに関わってきた経験があることが多いのです。魂は、その分裂していく過程でグループ分けされるようです。私たちは魂の「光ネット」をたぐり、最終的に元の中心の大きな光に戻っていきます。私という魂は、いままで中心と切り離されたことがなく、いつでも中心の温かい母なる光の中に戻れるのです。つまり、自分の分身は現在という時だけでなく、さまざまな過去、未来を同時に生き、次元を生きているのです。来世のテーマカルマを「悪いことをした結果としての罰」と考えるのは、間違った誤解を生みます。しかし、「自分の発した波動が波のように自分に返ってきただけ」と考えると、実に自然なことです。そこには何の価値判断もありません。障害をもって生まれてこようが、不遇な家庭に生まれてこようが、その人が「過去生で悪いことをしていた」と考える必要はありません。五体満足で生まれてこなかったことが、「不幸で悪いこと」とは限らないからです。多くの人は、何度も転生する上で繰り返す支配的なドラマを必ず一つ持っています。その問題を、生きているときにはうまく解けなかったとき、来世のテーマとして選ぶことが一般的です。それは、その魂がとことんまで自分で解決し、自らの魂の叡智としてそれを蓄えたいと思うからです。魂の叡智私たちの魂の叡智は、肉体レベルの叡智とは比べ物にならないほど深く広いものです。あれこれ人生をコントロールしようとせず、魂の選択に任せておけば、その人生では最も良い学びを得て終えることができるのです。ハイヤー・セルフと肉体のあなたは、究極的には一つです。そしてその距離をなるべく縮める必要があります。それによって、より肉体での希望と魂での希望が近づくのです。そのためには瞑想をし、自分の魂と語り合う習慣を持ってください。
2007.08.26
コメント(0)
-引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e3%82%bf%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%82%ac%e3%82%bf%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%93%e3%83%80%e3%83%b3%e3%83%9e/タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006三、下向と上向クンダリニー では次に、わたしたちの下向と上向についての話をしよう。下向とは三悪趣【さんあくしゅ】を指し、上向とは天を指す。そして、このキーポイントとなるエネルギー、それがクンダリニーなのである。 いったい、クンダリニーとは何であろうか。クンダリニーとは、わたしたちの尾てい骨のところに眠っている内なるエネルギーである。しかし、この内なるエネルギーはわたしたちの身体に大きな影響を与えることができる。つまり、内なるエネルギーは単なる精神的エネルギーだけではなく、肉体的エネルギーだということもできるのである。 では、このエネルギーがもし眠りから覚めたらどうなるのだろうか。当然それは、わたしたちの背骨に沿って存在するスシュムナーというクンダリニーの道を上昇し、サハスラーラへと到達する。このとき、七つの霊的センターであるチァクラを貫いて上昇するのである。三悪趣へ、天界へ もし、この霊的センターが覚醒せず、わたしたちが悪業を積み続けていたら、どこへ至るのだろうかと。それは、三悪趣へ至るのである。では、三悪趣とは何かというと、これは激苦地獄、動物、低級霊域という三つの苦しみの世界を指すのである。 もしわたしたちがクンダリニーを覚醒させ、そしてクンダリニーの道をしっかりと修行していったならば、どこへ至るのだろうか。それは、当然天界へと至ることができるのである。神 では、神とは何であろうか。 この神というのは、大変な曖昧語である。しかし、神を定義するならば、意識堕落天から、非認知非非認知境までの間に住んでいる魂ということになる。これらの魂は、前生における素晴らしい功徳の蓄積によって、わたしたちより高い世界へ生まれ変わり、そこで生命活動を営んでいるのである。もちろん、神というものは徳の力によって、わたしたちより偉大な力を有している。四、創世期光音天 真我は、この宇宙の還元期のとき、徳のある魂として光音天界へと転生する。この光音天界とは、光天とそして美天とを総称した天界である。この光音天へ転生した魂は、中間的創造の世界へと転生を始めるのである。 ここで少し、光音天での魂の生活を説明しよう。光音天の魂は、空中を飛行し、意識体として生活し、そして、純粋に清らかな素晴らしい喜びのフィーリングを与えてくれるエネルギーを食べる。その世界においての身分の上下というものは存在しない。十字金剛 しかし、この世界の状態が永遠に続くわけではない。還元期の一カルパ、あるいは二カルパの後、大虚空に緑色の金色に光る十字金剛が現われる。そして、この十字金剛の上にくびき型の雲が現われ、そしてものすごい量の雨を降り注ぐのである。 このくびき型の雲は黄金色で、そしてこの緑色の十字金剛は風元素の集積である。つまり、強烈なる風のエネルギーの凝縮なるがゆえに、くびき型の雲から降り注がれた雨水はその十字金剛内に蓄えられ、そして大海のようになったのである。オレンジ色の楕球 次に、十字金剛を包むようにオレンジ色の楕球が現われる。そして、このオレンジ色の楕球にも同じように雨が降り注がれる。 ところで、ここで一つ注意をしておかなければならないことがある。それは、この雨というのは実際には雨ではなく、水元素なのである。当然この世界は、成分の劣悪なもの、つまり比重の重たいものが下へと沈み、成分の中等度のものが中間に存在し、そして上等のもの、つまり成分的に軽いものが上へと至る。そして、この劣悪なものが大陸を形成する。その大陸の中央が、完全無欠山なのである。四つの大陸 そして、その四方に四つの大陸が存在している。この四つの大陸は、順に東から、「高貴なる身体を得る大陸」、南が「バラリンゴの大陸」、西が「願いがかなう牛の大陸」、北が「悪しき音の大陸」である。そして、これをオウム真理教では、プレートだと考えているのである。八つの島々 そして、この四つの大陸には、それぞれ二つの島が左右に存在している。そして、東は「身体」という島と「高貴なる身体」という島、南は「尾状の扇」という島と「別の尾状の扇」という島、西が「動き」という島、そして「完全な道を踏む」という島、北が「悪しき音」という島、そしてもう一つの島が「悪しき音の月」という島である。そして、わたしはこの日本はこの「悪しき音」の島であると考えているのである。完全無欠山 次は、完全無欠山の説明をしよう。完全無欠山の頂上には、先程も述べたとおり三十三天の神々が生活している。そして、東のふもとには堅固王国天の神々が生活し、南の面には成長天の神々が生活し、西側には統治変化自在天空天が生活し、そして北側には守庶民外傷天が生活しているのである。 そしてこれは、海面から山半分の高さまでに四つの段が存在している。 そして、完全無欠山の色は、東が水晶の色である。南がアクアマリンの色である。西がルビーの色である。そして北は黄金の色である。そして空はそれぞれの色をはっきりと反射しているのである。完全無欠山の外輪山 次は、完全無欠山の外輪山の説明に移ろう。内側から順に、くびきの形をした山、鋤【すき】の形をした山、「アカシアの木の場所」という山、「見て美しい」という山、「馬の耳」という山、完全に折り曲がった山、外周を形成する山。そして、それらの間の空間は湖を持っていて、そこには意識堕落天が生活しているのである。 この詳しい説明については、『創世期』に詳しく述べられているから参考にしていただきたいと思う。タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006五、輪廻転生輪廻 輪廻とは、わたしたちが死に、そして中間状態を通過し、子宮に入るまでの、あるいは天界や地獄の身体を得るまでの状態をいう。つまり、生まれ変わりの状態を輪廻という言葉で表わしているのである。四つの再生の仕方 この再生の仕方には四つあり、第一は卵による発生、これは皆さんもご存じのとおり、例えば鶏、アヒル等の鳥類、あるいは爬虫類【はちゅうるい】などがこれに属している。 第二は胎生である。胎生は、これは人間などがそれに属しており、子宮に転生するのである。そして、この子宮に転生するものは、動物、人間、低級霊域、そして意識堕落天がこれに属している。 それから、第三番目は熱による発生である。この熱による発生は、昆虫その他がそれに属しているといわれている。 そして、第四番目が奇跡的な発生である。これは地獄の一部や、あるいは戯れ堕落天などがこれに属する。ちなみに、戯れ堕落天は蓮華の花から生まれるのである。 経典にはこのようにうたわれているが、わたしは実際経験から、肉体から死後抜け出した魂は、そのまま天界へ至り、天界の神として生活するように思われる。バルドー 次はバルドーである。 バルドーとは中間状態を意味している。例えば、夢というのは今日から明日までの中間状態であり、例えばサマディというのは、サマディに入る前からサマディから出た後までの中間状態を指し、そして死というのは、今生の終わりから来世の始まりまでの中間状態を指す。これをバルドーというのである。 ここで特に重要なバルドーは、死のバルドーである。死のバルドーは、上位非形状界のバルドー、そして上位形状界のバルドー、そして下位形状界のバルドーの三つに分類することができる。上位非形状界のバルドー まず、わたしたちは死後、約三日から三日半、この上位非形状界のバルドーに安らぐことができる。これは、心の本質、そこには光、空間しか存在しない世界に安らぐのである。しかし、現代の日本人は精神性が全く低いため、この三日間、あるいは三日半のバルドーを経験することはできない。この状態は、瞬間的に通過すると考えてもよろしい。平和の神々のバルドー そして、この次に来るバルドーが上位形状界の平和の神々のバルドーである。このバルドーは、わたしたちが死の前の生においてどれだけの真理の実践をなしたか、特にこれは上座部の教えを実践したかということがポイントになってくる。上座部の教えとは何かというと、これは原始仏教のことである。 では、キリスト教、その他の宗教を実践した人はこの上位形状界の平和のバルドーを経験できないのかというとそうではない。この上座部の教えの一部は、当然キリスト教やあるいはユダヤ教、イスラム教等にも存在しているから、その人がどれだけ真面目に、例えば戒律を守ったかだとか、あるいはどれだけ真理にかなった教えを実践したかによって決まってくるのである。これは約一週間続く。恐怖の神々のバルドー 次に訪れるバルドーは、上位形状界の恐怖の神々のバルドーである。これは、タントラの修行やあるいはヴァジラヤーナの修行を行なった者たちが経験するバルドーである。日本では、念仏修行などを行なった魂が経験するバルドーと考えてよろしい。下位形状界のバルドー そして、これらの上位形状界のバルドーを通過した後、下位形状界のバルドーを経験するのである。この下位形状界のバルドーは、全くもってこの欲望の世界の裏側に属する世界であるから、わたしたちがこの現実世界の経験、あるいは動物や低級霊域や激苦地獄の住人が経験している経験、あるいは意識堕落天や戯れ堕落天が経験しているような経験、これがいろいろな形のヴィジョン、あるいは経験としてわたしたちを待ち受けている。そして、わたしたちはそのどれか一つに巻き込まれ、生まれ変わるのである。カルマ ところで、これらの生まれ変わりにおいて、絶対に知っておかなければならない言葉がある。それは、カルマである。では、このカルマとは何であろうか。 このカルマとは、日本の一般的な意味合いでは悪い行為、悪い結果を指すが、実際はそうではない。カルマとは、いいも悪いもなく、因がその条件を満たした段階で結果を招くということを意味しているのである。例えば、善因は果報として喜びを受け、悪因は果報として苦しみを受ける。善因でも悪因でもないものは、善でも悪でもない果報を受ける。これがカルマであり、カルマの法則なのである。-引用終わり-
2007.08.25
コメント(0)
-引用開始-http://www.ye-s.net/archives/2007/03/post_248.htmlお金持ちになる!と決心した主婦が株投資に挑みます。目標1億円。2007年03月01日「小澤征爾・大江健三郎 同じ年に生まれて」 実はまだ途中ですが,この本を読んでます。 いいですねえ。やはり,世界の第一人者になる方々は,人間が深いです。こういうふうに自分を深められたら,それは仕事にうちこんだ甲斐があるでしょう。というか,自分を深めていったからこそ,第一人者にもなれたのでしょう。 一番うるうる感動したのは,二人ともが,「仕事より家族が大事。」と明言していること。あの,世界の小澤征爾が,世界のクラシック界の頂点に立った人が,「子どもたちのためならば,音楽家なんかやめちゃってもいいと思った。子ども達にちゃんと食い物が与えられたら,あちこち世界中をまわらなければいけない指揮者なんか辞めちゃってもいいと思ってた。」とか書いていること。その気持ち,わかります。今の私には。 実は,24日,25日と,「アデプトプログラム」という,スピリチュアルのワークショップを受けてきました。そこでは,キリスト教が基礎の真理とともに,エネルギーワークを教えたわけですが,もちろん,輪廻転生は認めない訳。自分ではもう小学生の頃から生まれ変わりは信じていたので,受け入れがたかったけど,2日目には,「ああ,もう自分には生まれ変わりはないんだ。」と実感してしまって。ガン宣告をうけた人間みたいにショックを受けて,大泣きもしましたとも。 今まで,輪廻転生を信じていたこともあって,「いつ死んでもいいや。」と生への執着がほとんどなかったし,実際,医者から「癌かもしれないので再検査しましょう。」と言われた時も,「やったー,もし癌なら,もうしたくないことは全然しないで,やりたいことだけできる。」と喜んだほどでした。家族のことも,「いつ死んでも,側で見守っていられるからいいや。」と思ってたし。 が,この人生だけが人生さ,と思ったら,もう,絶対長生きしたいし,肉体が有るときでしかできないことをやろう,という意欲がいや増しました。もう,人生に対する考えががらっと変わりました。 まず,家族に関しては,育児ノイローゼにもなったし,子どものやることにイライラしてばっかりだったけど,それも今の人生,今のこの時だけしか味わえない子どものかわいらしさ,と思うと,ノイローゼもなんのその。もっと子どもが産みたいと本気で思ってます。 また,仕事に関してもですが,今までは,「社会に役立つ,社会をよりよくする仕事をしよう,自分を磨こう,成長しよう,徳を積もう。」なんて考えて,なにぶん専業主婦で特に人に優れた技能もないので,あたふたあれもこれも技能を身につけようと奮闘してましたが,それも「家族を大切にして,毎日を丁寧に過ごそう。」と思うようになりました。本当に,ささやかな毎日,生活を望むようになりました。 輪廻転生がない,と思うことは,私にとって,家族にとっては良いことだったと思います。社会貢献する気がほとんどなくなったのは,社会にとっては良いかどうか分かりませんが。まあ,まずは自分を幸せにすること,みんなが自分を幸せにすればいい社会になるはずだし。 結論:世界で名をなすことや社会貢献や人格の成長よりも,普通の毎日の生活と家族が大事。-引用終わり- 私は地獄ではない全ての人生を肯定しています。地獄の人生すらも、本人がしたいのなら、否定するわけにはいかないと思っています。昨日、「成功・お金の代償は体です。」というブログを書いて、今日、眠くて仕方なかった。お金の問題を扱う事は業を背負うなあと思った。私は世の中の役に立つという事は生き様を残す事だと思っています。道を開いてあげる事だと思います。見本になるという事だと思います。勝利した人間の後に続く事は楽です。さらに、自分の精進を積み重ねて、より良い生き様を残す事が生きる意味だと私は思っています。そうやって、人間はより良くなっていくのだと思います。これが私が肉体を持って生きる意味です。人類の種としての向上の為に私は生きているのです。 人類は皆、創造主だから、皆、主体的に生きる自由と責任とが有ると思います。できる事は自分の生き様で感化する事だけです。これが大川さんの言う如来の存在の愛の生き方です。 救世主の愛については謎です。仏陀は救世主ではないと感じます。救世主と言えば、やはり、イエス・キリストだと思います。私には地獄の生き様に見える。汚れる。多分、地獄堕ちです。-引用開始-http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9地蔵菩薩に関する伝承 過去久遠の昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいた。一人は自らが神となることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏になった。だが、もう一人の王は仏になる力を持ちながら、あえて仏となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を救おうとした。それが地蔵菩薩である。地蔵菩薩の霊験は膨大にあり、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多い。 菩薩は如来に次ぐ高い見地に住する仏であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ。」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。 幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話は有名である。 このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩である事から、古来より絶大な信仰の対象となった。 また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。 仏教上における餓鬼は、生前嘘を他言した罪で燃える舌を持っており、口に入れた飲食物は炎を上げて燃え尽き飲み食いすることは出来ないが、地蔵菩薩の慈悲を通した水は餓鬼の喉にも届き、暫くの間苦しみがとぎれると言われている(その間に供養を捧げたり徳の高い経文を聞かせたりして成仏を願うのが施餓鬼の法要の一端でもある)。 これは六道全てに隔てなく慈悲を注ぐと言われる地蔵菩薩の功徳を表す説であり、施餓鬼法要と地蔵菩薩は深い関係として成立していった。 ところで仏教上の非道者を指す一闡提という言葉があるが、これには単に「成仏しない者」という意味もあることから、地蔵菩薩のように一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で成仏を取り止めた仏を「大悲一闡提」と称賛し、通常の一闡提とは明確に区別する。 先に述べた「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。道祖神のことをシャグジともいうことから、シャグジに将軍の字を当て、道祖神と習合した地蔵を将軍地蔵(勝軍とも書く)とも呼ぶようになった。-引用終わり- 現在の私の救世主に関しての見解は、地獄堕ちです。大川さんだけが9次元と称して、救世主の世界と言っているだけなので、私はこれについて考えない事にします。しかし、皆、救世主だと思います。お金は業の塊だと思うから。そのお金を自らの衣食住の為に遣わざるを得ないので、地獄の業をその分、引き受けさせられているので。また、性欲・食欲を満たす事による快楽も快楽を味わった分、地獄の業を引き受けさせられるので。余裕がある方は、植物食に切り替えれば、その業を背負わされなくてすみますが。私は余裕がないので、出されたものを食べる事しかできませんが。私も食事に関しては救世主の業を積まされています。その分、福祉と障害保険にお金を出しています。神社にも物凄く玉串を捧げました。苦しい、苦しい毎日でした。 皆、あの世の楽さを思い出した方がいいと思います。この世は比べれば、猛烈に苦しい世界です。それに気づけば、この世は解脱・悟りの修行をする為にあると思うようになります。この世に執着している人達は、地獄の苦しみを楽しんでいるようなものです。地獄は楽しくないんです。この世という地獄の箱庭から、意識が抜けてしまえば、あほくさくて、この世の快楽に執着できなくなります。 快楽というものは、味わわなければ、無いんです。幻想なのです。幻覚なのです。しかし、味わえば自分にとっては現実になってしまうのです。婚外セックス、不倫、浮気しなければ、知らないですむんです。しかし、やってしまえば、多分、快楽があると思うのです。愛よりも、快楽を優先してしまうようになってしまうんです。人格なんてどうでもよくなってしまう、快楽の奴隷になってしまうんです。やっちゃあいけない。やっちゃった人は救われないんです。知ってしまった快楽、忘れる事はできないんです。だから、自分を大切にする人はそういう事はしないんです。しなければ知らないのだから、別に問題ないんです。知ってしまったら、麻原や文鮮明のように、奥さんと子供達を悲しませても、苦しめても、へっちゃらな卑劣な存在になってしまうんです。 小澤征爾・大江健三郎も、仕事より家族が大事なんですよ。そういう普通の人間の心を不倫、浮気すると失ってしまうんです。狂っている、凶悪な存在になってしまうんです。日本国は、一夫多妻の国ではないんです。自分の奥さんと子供達を苦しめている人に人類の救済なんてできるわけないんです。自分の一番身近な人を愛せなくて、他人を愛せるわけないんです。自分を愛するように、自分の身近な人達を愛する。自分の身近な人達を愛するように他人を愛する。そうやって、地道に、やっていくしか、具体的に、人を愛する事はできないんです。 皆、両親、先祖がいるんです。自分の身体は自分の自由ではないんです。大切にしなければいけないんです。イエス様の生き方は間違っているんです。人の道に外れているんです。自分の子を刑死で失った両親、先祖の身になれ。そういう生き方をする事は親不孝なんです。救世主も地蔵菩薩もやってはいけない生き方だと私は思います。不要な業を背負って苦しんではいけないんです。自分の両親・先祖より、人類を優先する生き方は人の道に反していると思います。貴方は貴方の先祖・両親の子なのです。人類の救世主ではないのです。これが私の見解です。 家族を大切にしましょう。自分の肉体を大切にしましょう。未来の人類の見本となる生き様をしましょう。病で死ぬ事は子孫に迷惑をかける事です。福祉をやって、病にならないようにしましょう。自分の体と成功・お金とを交換する事はやめましょう。自分の肉体の方が遥かに大切です。生きていく為に最低限のお金さえあればそれでいいと思います。神様事にはお金かからないんです。神様、お金必要ないんです。お金が必要なのは、神様ではなくて、人間です。もう嘘つくのやめましょう。宗教団体、嘘ばっかりついています。お金が欲しいのは、神様ではなくて、教祖である貴方、スタッフである皆さん方でしょうが。よくもしゃあしゃあと嘘が言えると思います。信じられない人間性です。これが金集め宗教への私の見解です。私は現実をありのままに見ているのです。
2007.08.25
コメント(0)
そして、その生命体の死および転生を見て、その生命体がその死ぬまでの間に、どういう善業と悪業と、あるいは善業でも悪業でもないカルマを積んだかによって、卑しい転生であったり、あるいは高貴であったり、あるいは器量が良かったり、醜い身体であったり、あるいは幸福な次の生であるか、苦しみの生であるかをしっかりと見て、認識し理解するのである。 それは、ちょうどこのような形で説明することができるのである。例えば、ある人がいたとし、その人は身において悪業をなし、言葉において悪業をなし、心において悪業をなし、そして真に聖者を誹謗し、誤謬見解【ごびゅうけんかい】を抱き、そして誤謬見解を抱いたがゆえに、悪業の蓄積という誤謬見解の蓄積をなしたとしよう。この魂は、当然地獄へと転生する。地獄については前項で説明したから、ここでは触れないことにする。 逆にまた別の人がいて、その人が身において善行をなし、心において善行をなし、言葉において善行をなし、そして真に聖者に対して布施や奉仕、あるいは言葉の供養等をなしたとしよう。つまりその人の経験の集積は善行だけであったとしよう。つまり、これは正しい見解にのっとり、正しい見解の実践をなしたということと同じことになるわけだが、この魂は、当然幸福だけの世界である天界へと転生するのである。 これらのことをしっかりと見、理解する力、これが死生智なのである。現世否定 そして、この死生智まで到達すると、魂は、当然この現実生活がわたしたちにとって悪業を蓄積するものであるということを理解するようになる。つまり、ここで生じてくるのが現世否定なのである。離愛著、離解脱 そして、偏った愛著、とらわれは、わたしたちをこの愛欲の世界へと縛りつけ、あるいは上位形状界への道を捨断するということが理解できるようになる。それによって、現世否定、離愛著の状態が生じ、そして漏尽【ろじん】の状態へと至るのである。離解脱は別名漏尽ともいえる。漏尽通 では、漏尽通について説明をしよう。この離解脱には二つのプロセスがある。 第一のプロセスは、智慧の離解脱である。智慧の離解脱というのは、まず心において現世否定、離愛著をなすのである。つまり、この現世否定、離愛著の記憶修習を徹底的に行ない、心に生起したものを一つ一つ精神集中によって破壊するのである。これによって生じる解脱、これが智慧の離解脱なのである。 そして、その後に来る心の離解脱は、完全にその心の中にあるけがれが破壊されてしまい、けがれが破壊されるがゆえに、心は完全に絶対的な空を経験するのである。これが、心の離解脱なのである。 そして、この心の離解脱まで到達した魂を最終解脱者と呼ぶのである。-引用終わり-
2007.08.24
コメント(0)
有熟考、有吟味 この有熟考とは、対象に対して深く考えることであり、有吟味とは、対象に対してそれを選択し、データとして内在させるか、あるいはそれを捨断する作業である。捨断 そして、捨断とは必要でない心のデータ、心の働き、言葉遣い、行為を完全にやめ、二度と生じなくさせることなのである。第二サマディ サマディの第二段階に入ると、思索を完全に止めてしまう。また、逆の言い方をすれば、思索が止まった段階、何も考えていないような状態、これが第二段階のサマディなのである。このとき、雑念から完全に解放されているから、心の中は落ち着き、そして精神は一点に集中するようになる。このときは真我はより深い状態に入り、熟考、吟味を完全にやめてしまっている状態である。この状態によって喜と楽が生起している状態、これが第二段階のサマディなのである。第三サマデイ そして、第三段階のサマディは、心の喜びから離愛著することにより、諸現象に対して無頓着となる。ただ、このときはまだ記憶修習【きおくしゅじゅう】のみが存在している。そして、この記憶修習によっていろいろな世界を正しい智慧によって観察する。そして、このときは完全に肉体がリラックスの状態に至る。 この状態に入った聖人たちは、一切の諸現象に対して無頓着である。ただそこには記憶修習のみしかなく、また、その記憶修習が心身にものすごいリラックスを与えるのである。これが、第三サマディなのである。記憶修習 この記憶修習について説明しよう。記憶修習とは、教えを記憶する段階から、より深い意識へと、記憶したデータを根づかせるために繰り返し記憶する作業なのである。第四サマディ 第三サマディの次は、いよいよ第四サマディの段階に入っていく。これは、感覚の生起のところでも説明したが、感覚というものは楽の裏側には苦しみが存在する。よって、最終的には平坦な水、波立たない水のように楽を捨断しない限り、苦しみも捨断できないわけである。 よって、この第四の静慮においては、楽と苦しみを完全に捨断することになる。そして、楽と苦しみが捨断されたがゆえに、以前の幸福と落胆とを完全に全滅することとなる。つまり、この段階において経験の構成が静止したかのように見えるのである。 このときの意識の状態は不苦不楽である。不苦不楽なるがゆえに、完全なる無頓着の状態が生じ、ただ記憶修習のみが存在している。そして、意識状態は完全に純粋でピュアな状態を形成している。この状態が、第四サマディなのである。如実精通見解 そして、この第四サマディを通過すると、如実精通見解【にょじつせいつうけんかい】へと至る。では、この如実精通見解とは何であろうか。これは、別名、五つの神通【じんつう】のことである。神足通 第四サマディの最終段階では、頭頂から別の身体を抜け出すこととなる。このときの身体は、幻影の身体とも、あるいは化身【けしん】とも呼ばれる身体である。そして、この身体はこの大地に足をつけることもできるし、大地から足を離すこともできるし、行きたいところに自由へ行くことのできる身体である。そして、この形状-容姿を心の働きによって自在に変化させることのできる身体なのである。 この身体の特徴は、一つの形がいろいろな形に変化したり、あるいはテレポーテーションをしたり、あるいは城壁や塀や山やあるいはビルや、すべてのものを自在に越えることができるのである。そして、この身体はいっさいのものと接触をしない。よって、例えば壁を通り抜けるときも、それはちょうど空間のような状態で通り抜けるのである。そして、この大地についても同じで、この大地の中に潜ることもできるし、あるいは大地の上へ浮き上がることもできる。これは、ちょうど水の上のような状態なのである。また、水上を歩くこともできるし、空中を自在に飛行することができるのである。また、この身体はその世界に存在する月や太陽についても直接触れることができ、すべての世界に対して、例えば形状界の世界に対してまでも自在に至ることができるのである。これが、初めに備わる正精通なのである。 わたしの場合も、渋谷に道場を開いて修行していた一九八四年に、この状態を経験した。実際に肉体の頭頂から身体が抜け出し、そしてドアを通り抜け、壁を通り抜けるのである。また、行きたいところへ自在に行けるのである。天耳通 次に生じる精通は、天耳【てんに】世界の精通である。これは、その人の持っている表象が完全に浄化されたときに起きる状態で、その浄化によってこの世界やあるいは天耳世界が完全にクリアとなり、天の神々や人間、あるいは近くや遠くのいろいろな声をまさに間近で聞くことができるのである。 ここで天耳通について、もう少し科学的に検証しよう。これは近ごろわたしが完璧に悟り得たことなのだが、この天耳通の原理というものは七万二千本のナーディーによるものと思われる。ナーディー わたしたちの身体には七万二千本のナーディーが存在している。この七万二千本のナーディーとは何かというと、微細な身体を構成しているエネルギーの流れ道なのである。 この七万二千本には二つの考え方があり、つまり血管等を含むという考え方と含まないという考え方があるが、わたしは含まないというふうに解釈している。 そして、この七万二千本のナーディーは、外界のいろいろなヴァイブレーションを受けることによって振動し、それを真我が受け止めるのである。つまり、七万二千本の弦がこの身体に存在し、その身体の弦が外界のヴァイブレーションを受けることによって振動する。そして、その音を聞いているのである。 ところで、近ごろシンセサイザーで声のサンプリングができることを皆さんご存じだろうか。つまり、わずかに十二ぐらいのキーボードしかないのに、わたしたちの声を表現できるのである。ましていわんや、七万二千本という大量の、ここに弦楽器が存在しているならば、いかなる音、つまり声をも再現できるのは当然のことと言わざるを得ない。 もし、この弦の五割でも六割でもが振動しなかったらどうだろうか。当然、わたしたちはその声を正確に、あるいは音を正確にとらえることはできないのである。よって、ナーディーを浄化すること、管を浄化することは、正確に外界のヴァイブレーションを理解するために必要なことなのである。他心通 次に如実精通見解が生じるもの、これは他心通である。これは、先程の天耳通よりもう一歩深く突っ込んだナーディーの働きであると考えることができる。この状態は、例えば他の生命体や他の魂の心の働きを、その発するヴァイブレーションによって認識し、理解するのである。 例えば、その対象が愛著を持っているとするならば、その愛著を愛著ある心として理解し、またその対象が愛著を持っていなければ、その対象が愛著を持っていない心であると理解するのである。また、その対象が他に対して邪悪心があるとするならば、その対象が邪悪心のある心であるということを理解し、また、邪悪心をその対象が離れているとするならば、その対象が邪悪心を離れている心と理解するのである。また、その対象が迷妄を有しているならば、迷妄を有しているというふうに理解し、迷妄を有していないとするならば、迷妄を有していないというふうに理解するのである。 また、その対象の心が閉鎖的な心であるとするならば、それは当然閉鎖的な心であると理解するだろうし、その対象が心が散乱しているとするならば、その心の散乱を当然理解することができるのである。また、その対象の心が広がりのある心であるとするならば、それを当然大いに広がりのある心であると認識できるし、その対象が広がりのない心であるならば、当然大いに広がっていない心であるというふうに理解するのである。 例えば、その魂が徳性においてより優れたものを持っているとするならば、それを当然しっかりと見抜くことができるだろうし、例えば、その対象が最高の心を持っているとするならば、当然その対象が最高の心を持っていると理解できるのである。 もし、対象がサマディに入っているならば、その対象を見てサマディに入っているということが理解できるし、もし、その対象がサマディに入っていないならば、それをサマディに入っていないと認識し理解することができるのである。 また、対象がもし離解脱しているならば、その対象の心を見て離解脱しているということを理解することができるし、もし、その対象がいくら自分は離解脱しているんだといっても、離解脱していなければそれを離解脱していない心であると認識し理解することができるのである。これが他心通なのである。 よく日本の教えの中で、他心通イコール他人の心がちょっとわかるということがあるが、そうではなく、これだけ大きな幅が他心通には存在しているのである。宿命通 次は、宿命通【しゅくみょうつう】である。宿命通とは、わたしたちの前生を知る力である。これはもちろん、個人の前生をまず知る力であり、派生して他人の前生をも知ることができる力ということになる。 これは、様々な前生の生き様を思い出す力ということができる。そして、これは修行の度合によって、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、十万生、多くの還元期、多くの再生期、多くの還元期と再生期において、わたしはその生ではこのような名前であり、このような家系に属し、このような身体とこのような顔つきであり、このような食物を食べ、このような苦しみと楽を経験し、そして、その生の最期はこのようであった、そして、その最期から死後、次の生は別のこういう世界であった、というふうに思い出すのである。 そして、そこでもまたこのような名前であり、このような家系であり、このような体と顔つきであり、このような食物を食べ、このような苦しみと楽しみを経験し、そして、その生の最期はこうであった、というふうに思い出すのである。そして死んだ後、この人間の世界へ転生したというような形で思い出すのである。 わたしも実際、多くの生を思い出している。そしてこのときは、その状態と、そして光り輝く空間と説明との三つが存在しているのである。死生智 この宿命通まで終わると、次は死生智へと至る。この死生智とは何かというと、自分のカルマがどのようなふうに現われ、そして来世が形成されるのかということを理解する力ということになる。 このときにポイントになってくるのは、より上のナーディーが浄化されていなければならないということなのである。それにより、「第三の目」の部分が完全に透明になり、その透明なナーディーと透明な意識状態によって天眼【てんげん】を生じる。
2007.08.24
コメント(0)
三グナ 三グナとは何であろうか。これは、ラジャス、タマス、サットヴァといわれている三つのエネルギーである。ラジャスとは熱エネルギーを意味し、タマスとは音のエネルギーを意味し、サットヴァとは智慧、光のエネルギーを意味している。 これら三つのエネルギーが真我に干渉した。そしてこの三つのエネルギーのダイナミックな動き、美しさ、光に感応した真我は、その中へと没入する。そのとき、ものすごい大きな爆発が生じた。これが、現代物理学でいうビッグバンなのである。タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006二、十二の条件生起の段階十二の条件生起の段階 ところで、これは一回目の宇宙の創造である。宇宙は、何度も創造され、維持され、破壊している。これら一回目の経験をした真我は、どんどんと高い世界から低い世界へと移行する。これを仏教では「十二の条件生起の段階」という形で表現している。非神秘力→経験の構成 つまり、まず第一に、非神秘力ありて経験の構成がある。この非神秘力ありて経験の構成があるとは何かというと、内側の神秘的なもの、つまり絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜ではないものに対して向かうがゆえに、三グナと干渉する。そして、それは真我が独存位になる以前の経験の構成というものを生起させるわけである。識別 そして、この経験の構成の生起が動きをかもし出し、そして識別作用が生じてくる。この識別作用とは、五つのとらわれの集積の項でも述べたとおり、例えば美しいと醜い、あるいは強い弱い、良い悪い等の観念である。これは、すべて経験によって裏づけされているのである。心の要素-形状-容姿 この識別作用が生じるがゆえに、よりいっそう具体的な経験、具体的な欲求を充足する方向に真我は動き出す。それによって、心の要素-形状-容姿をつくり出すのである。しかし、このときの形状-容姿は、あくまでも形状界の形状-容【+姿】であり、粗雑な肉体を有しているわけではない。しかしこの形状-容姿には、感覚、この肉体で感じる感覚よりずっと強い感覚が内在している。それと意識が同時に存在しているわけだから、わたしたちがこの粗雑な世界で経験している経験と同じレベル、あるいはそれ以上の経験をしているといってもよい。六つの感覚要素と対象 この形状-容姿と心の要素は、六つの感覚要素と対象を働かせることになる。この六つの感覚要素と対象というのは、眼識、耳識、鼻識、舌識、触識、意識の六つである。この言葉をもっとわかりやすい言葉で表現するならば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして意識ということになる。接触→感覚 この六つの感覚の要素が対象と接触するようになる。つまり、このとき他の真我も同じように落下のプロセスをたどっているわけである。それによって、感覚が生起する。渇愛 感覚が生起することによって、渇愛【かつあい】が生じる。つまり、その対象を求めたいという心が生じるのである。 なぜ初めから求めたいという心が生じるのか。これはもうすでに、十二の条件生起の段階の説明を理解すればわかるとおり、その前の段階で経験の構成、それから識別という作用をわたしたちは内在しているわけだから、その識別の中でよいと思うもの、美しいと思うもの、あるいは感覚的に素晴らしいと思うものに対して渇愛が生じるのである。とらわれ そして、渇愛が生じるがゆえにとらわれが生じるのである。 これは、例えばわたしの場合の例を挙げよう。わたしは、今生初めてコカコーラというものを飲んだ。初めてコカコーラを飲んだとき、コカコーラはわたしにとって大変刺激的な飲み物であった。決しておいしいという意識はなかった。しかし、それを二度、三度と飲んでいるうちにそれをおいしいと思うようになり、飲みたいと思うようになった。これがとらわれなのである。生存 そして、いよいよ低位形状界へと落ちていくことになる。つまり、より具体的なものを求める状態が形成されてくる。そして、このとき対象に対してとらわれているから、もうすでにわたしたちは自由ではなくなっているのである。これが生存なのである。出生 そして、子宮に対して生存したがゆえに、そこから出生し、この愛欲界へと転生するのである。 これが、十二の条件生起の段階である。つまり、十二の条件生起の段階とは、十二のわたしたちを落下させる条件を生起させるものという意味なのである。苦しみ では、この生存、出産、そして現実の生活での生活、これに対して真理の教えではどのように考えているのだろうか。この生存は、そして出生は、わたしたちにとって苦しみであると考えるのである。 では、なぜ苦しみなのか。それは、例えば形状-容姿と心の要素、つまり上位形状界で生活していたころに比べて自由が存在しないと。例えば歓喜が存在しないと、幸福が存在しないと。そういうことをしっかりと知っている魂は、この世が苦しみであると認識するのである。死 なぜ苦しみなのか。それは、例えばわたしたちがこの世に生まれて、いったい何歳まで生きられるだろうか。現実問題として、八十歳、あるいは百歳までといった短い期間しか生きることができない。つまり、いかにこの愛欲の世界が楽しくとも、死ななければならないのである。これは、よって苦しみである。老い あるいは、若いころはスポーツ、レジャー、恋愛等で自由である。しかし、年老いてくると肉体は動かなくなるし、感覚器官は弱ってくる。思考力はなくなる。よって不自由であると。つまり、老いという苦しみが存在すると説くのである。病 健康でいられるときは、わたしたちは快適な生活を送ることができる。しかしいったん病んでしまうと、わたしたちはその病によって苦しまなければならない。よって、病という苦しみは存在する。悩み そして心においても、不運な出来事、悲嘆、苦しみ、激痛、悩み等の苦しみが存在する。 もし、わたしたちが心の要素と形状-容姿の世界に安住することができるならば、これらの要素はずっと減少するし、あるいは真我の独存位の世界である完全煩悩破壊界に存在することができるならば、もっとわたしたちは自由で幸福で歓喜でいられるわけである。苦しみからの解放 よって、真理の実践者はその世界へ帰ろうと努力を始めるのである。 では、何を努力するのか。それは苦しみからの解放である。そして、そのために真理のいろいろな教えが存在し、そしていろいろな実践が存在しているのである。信 そして第一番目には、その真理の教えに対しての信を持つことから始まる。つまり、苦しみありて信ありなのである。そして信を持つことにより、わたしたちが高い世界を経験するためのクンダリニーの覚醒、これに導いてもらえるように、クンダリニーを覚醒してもらえるように、グルに対して帰依をするわけである。歓喜 そしていろいろな修行法の伝授を受け、クンダリニーが覚醒する。クンダリニーが覚醒することによって歓喜が生じてくる。これは、肉体的な部分で歓喜が生じるわけである。喜 そして、この肉体的な歓喜によって、心に喜が生じてくる。この喜というのは、何もしないのに心が大変明るい状態を指すのである。静寂 そして、この心の喜びは心に静寂をもたらすのである。大変静かな心の状態をもたらすのである。 ここで一つ注意をしておきたいことがある。よく外道の修行で寂静といっているのは、この心の静寂の状態を指している。しかし、実際この心の静寂は、まだ修行の途上なのである。楽 そして、この心の静寂は心身に楽を与えるのである。この楽の状態に入ると、煩悩が少しは生じるわけだが、その煩悩の量は普通の人に比べてずっと少ない。それによって、この現象界で与えられるものは大きくなるわけである。 これはどういうことかというと、わたしたちの欲求が小さく、しかしこの現象界で与えられる喜びが大きい、つまり、わたしたちの欲求しているものより与えられるものが大きいわけだから、当然わたしたちは、それらの要素に対して満足し、そして心、肉体ともエネルギーに満ちあふれ、楽を経験するのである。 この楽はわたしたちの真我をこの肉体から離脱させる方向へと向かってくる。 そして、サマディに至るのである。サマディ このサマディとは、五つのとらわれの集積に縛られている真我を解放するプロセスである。そして、それには四つの段階があるのである。第一サマディ その第一段階のサマディは、種々の愛欲を遠離【おんり】する、つまり愛欲から離れることから始まるのである。そして、愛欲界の構成要素である不善の法則を遠離し、思索し、煩悩を弱める。つまり、有熟考にして、有吟味にして、遠離からわたしたちは大変な平安を生じるわけだが、この平安、これこそが第一の静慮【じょうりょ】といわれているステージなのである。
2007.08.24
コメント(0)
http://www26.tok2.com/home/take5678/pikaso.htmピカソの前世はロシアのイワン大帝の側近であった!? ピカソの前世はロシアのイワン大帝の側近で、陰の立役者でありました。イワン大帝の業績の少なくとも90%は彼の功績だった。そのため、今世ではその当時に他人に譲った徳を大いに生かして、このように才能を開花させ、世界のピカソとなった。 彼の御魂は「前世は陰の活躍で目立たなかったので、今世は表現したい。みんなを驚かせたい!」と言っている。徳分があったので、今世はその願いが叶えられた。 ピカソの私生活は、若い頃から自由奔放でかなりの女性遍歴。今世でハチャメチャな生き方をしているのになぜ、今世は91歳という長寿を得たのでしょうか? その理由は、ピカソの志が大変高かったからだということです。彼は「一流の絵を描いていこう。」をいう強い意思と信念を持っていた。それが大きな理由です。もう一つの理由は、彼は毎朝1~2時間かけて奥様にマッサージをしてもらったらしいが、それによって若いエネルギーを吸収していた。それが長寿の理由。http://www26.tok2.com/home/take5678/ebilis.htmエビルスプレスリーの前世はニュートン!? エビルスプレスリーの前世はインドの王子で、オカルトに大変興味があった人であった。そして、なんとその徳があったからその後ニュートンに生まれ変わったのです。 万有引力の法則を知らしめたイギリスの大科学者ニュートン。彼の功績ははかりしれません。 今世で彼は徳分の半分を使いきってしまった。そして、今度生まれ変わってその残りの徳分を使いきるそうです。http://www26.tok2.com/home/take5678/mozart.htmモーツアルトの前世はピタゴラス!? モーツアルトの前世は、ギリシャの数学者、そして哲学者として有名なピタゴラスだったのです。 実は数学と音楽というのは密接な関係がある。昔は音楽の理論というのは数学の一種だったそうです。 ピタゴラスから三回生まれ変わってから、やっとモーツアルトとして生まれ変わってきた。モーツアルトの次の転生 なんとその後モーツアルトはアインシュタインとして生まれ変わってきていたのでした。(正確には80%がモーツアルト、残りの20%が他の御魂の合体でした。)なぜ天才に生まれてこられるのか? 「神霊と交流する術、方法、その感覚を、前世に習得、体得している人たちが天才となりうる。天才とは天の才を受ける人ですから、それ相応の努力は必要なんですけれども、ある程度の努力をした後というのは、天から才を受けて、人間技とは思えないことをなす。」-引用終わり--引用開始-http://sinri.wordpress.com/tag/%e3%82%bf%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%82%ac%e3%82%bf%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%93%e3%83%80%e3%83%b3%e3%83%9e/タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006六、三界の寿命三界の寿命 わたしは、愛欲の世界、上位形状の世界、そして上位非形状の世界を説明した。次は、これらの世界の寿命について説明したいと思う。 まず、意識堕落天の寿命については、前項で触れたので、これから愛欲天界、そして上位形状界の天界、上位非形状界の天界の寿命について説明をしたいと思う。愛欲天界の寿命 第一天界の四大王天の寿命は九百万年である。そして、第二天界の三十三天の寿命は、三千六百万年である。そして、第三天界の支配流転双生児天の寿命は、一億四千四百万年である。そして、除冷淡天の寿命は、五億七千六百万年である。創造満足天の寿命は、二十三億四百万年である。第六天界の為他神以神通創造欲望満足従事天の寿命は、九十二億一千六百万年ということになる。 ここで、皆さんはあれっと思われるかもしれない。この地球の寿命と第六天界の寿命は大変近いのである。つまり、地球の寿命の二分の一とかあるいは四分の一とかいう長さがこの第六天界の寿命なのである。とすると、宇宙の創造および破壊までの期間が、大神聖天の寿命と一致するとするならば、これらの数字はなかなか興味深いといわざるを得ない。 しかし、神々も人間の寿命と同じように、ちょうど人間の寿命が八万歳から今わずか八十年になったのと同じように、短くなってきている。よって、今の天界の寿命は、これよりかなり差し引いて考えなければならないのである。マイトレーヤ真理勝者 ところで、中国の仏典にマイトレーヤ真理勝者が五十六億七千万年後に、第四天界から降誕し、そして人類を済度するという教えがある。この五十六億七千万年というのは、確かにその数字はそうかもしれないが、その間中ずっと除冷淡天にマイトレーヤ真理勝者が存在しているということは、この寿命からもわかるとおり、ないのである。もちろん、マイトレーヤ真理勝者は、真理勝者であるから第四天界でずっと生き続けることはできる。しかし、彼は偉大なる救済者である。よって、第四天界だけにとどまるのではなく、多くの世界へわざわざ生まれ変わり、そして多くの世界に絶対的な真理を説き明かすのである。上位形状界の寿命 では、次に上位形状界の寿命へと入っていこう。まず、神聖衆愛欲神天から大神聖天までの寿命、これは一カルパである。そして、光愛欲神天から無量光愛欲神天までの寿命、これは二カルパである。そして、美愛欲神天から総美愛欲本質神天までの寿命は四カルパである。そして、偉大果報愛欲本質神天から超越童子愛欲本質神天までの寿命が五百カルパである。上位非形状界の寿命 そして、空間無辺境に存在する魂の寿命は二万カルパであり、識別無辺境に存在する魂の寿命は四万カルパであり、無所有境に存在する魂の寿命は六万カルパであり、そして非認知非非認知境に存在する魂の寿命は計算不可能であるといわれている。カルパ では、次にカルパについて説明しよう。カルパとは、宇宙の創造から、破壊、そして完全なる虚空までを表わす。これがカルパである。よって、例えば一カルパという場合、宇宙が創造され、破壊され、虚空に至るまでの期間だと考えていただきたい。 そして、このカルパは、再生期、継続期、還元期、そして虚空期の四つに分けることができるのである。タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006第二章 魂の落下のプロセス一、真我と三グナ真我の特性 魂の落下には二つのプロセスがある。 もともとわたしたちの本質である真我は、無始の過去においては、そのものは自由で、幸福で、歓喜であった。この、まず真我の特性についてお話ししよう。絶対自由 真我の特性の絶対自由とは何かというと、これは、非形状界、形状界、そして愛欲界の三つの世界に対して、自在に身体をつくり、現われることもでき、あるいは、そこから自在にまた元の世界へ帰ることができたという意味において自由だったのである。 当然、この自由は、死の自由を意味し、また生の自由を意味した。これはどういうことかというと、例えば愛欲界に身体を創造し、その身体が必要がなくなると、自分の意志によってその身体を捨て、そしてまた元の完全煩悩破壊界へ帰ることができるという意味において自由だったのである。絶対幸福 そして、第二番目の絶対幸福だが、これは、いっさいのカルマの制約を受けないということにおいて幸福だったのである。 この愛欲の世界、あるいは形状の世界はカルマの法則から脱却することはできない。このカルマは、わたしたちをがんじがらめに縛り、そのカルマの力によってわたしたちは幸福を奪われているのである。例えば、わたしたちが好もうと好むまいと、病の制約を受けることは事実だし、老いの制約を受けることは事実だし、あるいは過去の経験から来る苦しみ、悲しみ、哀愁、愁い等の経験をさせられることも事実である。 近ごろの若者たちが、ギャグっぽく生きているという実態がある。これは、明らかにギャグのデータをたくさん入れているがために自分の人生をギャグ化して生きているのである。 つまりこのように、情報からわたしたちは自由ではないのである。そしてこれは不幸なのである。 ところが、真我の特性は、いっさいの情報の影響を受けないのである。確かに、瞬間瞬間経験はしているのだが、この経験が根づかない。根づかないことによって、一つ一つの行為や言葉や心の働きだけが存在し、過去の経験からいろいろな感情が動くということはないのである。つまり、真我の特性の幸福とは不幸でないという意味において幸福なのである。絶対歓喜 では、絶対歓喜とは何であろうか。歓喜とは何かというと、もともとわたしたちの真我は、喜びのエネルギーというものを内在しているのである。そして、この喜びのエネルギーを漏らすことによって願望をかなえていく。つまり、願望がかなうということは喜びのエネルギーが減っていくということである。そして、喜びのエネルギーが減る代わりに、苦しみのエネルギーが増大してくる。これが、わたしたち人間なのである。 そして、これらの三つの状態、本来これらの三つの状態に安住していることが幸福であるはずなのに、三グナの干渉を受けることによって、そこへ巻き込まれてしまったのである。
2007.08.24
コメント(0)
-引用開始-http://www.ye-s.net/archives/2005/10/post_154.html2005年10月18日お金持ちになる代償を払わない方法 昨日,佐藤富雄氏のセミナーに参加した話はしましたが。その中で,お金の代償,という話がありました。「普通の宗教では,お題目を唱えると成功する,お金持ちになる,と教えて,実際に成功してお金持ちになる人がたくさんいる。これは,「信じることが実現する。」ということの実証で,あたりまえのこと。 ただ,説明しないことがある。それは,成功・お金には,代償が必要だということ。その代償は,体です。成功しても体で支払うことのないように,ウォーキングで体力,エネルギーをあげていなければなりません。でないと家族の不幸が起きるか,早死にするか,体が動かなくて何もできなくなります。」ということでした。 これは,佐藤氏に限らず,多くの成功哲学の方々がおっしゃってます。「マスターの教え」ジョン・マクドナルド 「成功者の告白」神田昌典 「ユダヤ人大富豪の教え」本田健 で,代償を払わずにすむ方法を,以上の話を元にまとめてみました。1.体力をつける 一日2時間のウォーキング。2.言葉を唱える 愛,平和,信頼,誠実,力,エネルギー,などなど,良い言葉を寝る前に毎日唱える。考えるだけでもオッケー。3.成功スピードを遅くする 自分も,周りの人も人生を楽しめるスピードに抑える。4.寄付をする 自分の豊かさを宇宙に証明して,どんどんお金を引き寄せる効果はもちろんですが,家族や子孫を守る効果も大です。カーネギー氏は,家族にどんどん不幸が起きたため,一生懸命,社会福祉事業に力を入れたそうです。有名なカーネギーホールは,もちろん,氏の寄付でできた建物。また,姓名判断ではとっくに死んでいたはずの人は,元気で成功していて,何故かと思ったら,ご両親がすごく人のために尽くしていた方だったそうです。私的に追加すると5.瞑想をする 成功した経営者はだいたい瞑想をしてます。代償を払わずにすんだ理由もこれでしょう。瞑想には,直感を高めるのみならず,宇宙エネルギーを取り込む,自分のエネルギーをあげる効果もあります。 では,皆様,自分も家族も人生を楽しみながら,知力体力を向上させながら,お金持ちになりませう。p.s.ちなみに,昨日大儲けしたら,夕べ早く寝たにもかかわらず,今朝子どもが二人とも,いつもの時間に起きられず,1時間待って,それでも無理に起こして,幼稚園は遅刻でした。こんなことははじめてです。これって,子どものエネルギーを奪ったってことかしらん?? 代償でしょうか。で,ちゃらにするために今日は大負けしてます。ほほ。(なんてね。)コメント お金持ちになるには体力も必要なんですね~知らなかった^^; 宇宙エネルギーとは壮大だし、お金儲けって大変ですねw 寄付金はお布施じゃないですよね? 私はお布施は反対派で、寄付は賛成です。罰当たりかもしれませんが、そのかわり私は寄付や、海外で見かけたストリードチルドレンやホームレスにほんの少しお金を渡します。http://www.ye-s.net/archives/2007/01/post_244.html2007年01月31日それなりの代償 セミナーというよりは,ヒーリング,古い話題ですが。1月6日にヒーリングを受けてきました。理由はうつうつと育児ノイローゼ。吉祥寺のグレースランドという所です。ご夫婦二人でなさっていて,南欧風の素敵な一戸建てのおうちでのヒーリング。行く途中で,超おいしいパン屋さんもみつけてお得な気分。 さて,カウンセリングの後,育児ノイローゼの原因の一つが,親への恨みや怒りなので,感情コードを切ることになりました。人は,出会って感情をもった相手全てとコードでつながっています。どんな昔にあった人とでも。それを,全部切って,クリアにすることになりました。 そうしましたらば。まあまあ。親のことを思い出すたびに,すんごい恨みつらみが頭の中をぐるぐる回っていたのが,すっきり。親のことを思い出すと,最初は額縁の中の絵になり,次は切手に,次はもやもやとした霞になりました。 おお,すごい!!!!! ヒーリングを何回か受けたことがありますが,こんなにはっきり効果を感じたのは初めてです!!! 軽い気分で1週間ほど過ごした後。うーん,なんかおかしい。子どもが,可愛くない。子どもの姿を見るだけで可愛かったのが,全然可愛くない。 「いったん全部コードを切ります。今のご家族のもです。触れば,また,コードがつながります。」ということでしたが。幼児独特の姿を見ても声を聴いても,全然可愛くない。独身時代の私は,赤ちゃんや子どもを見ても,子犬や子猫を見ても,可愛いなんて思ったことなかった。もちろん,小さい頃から,ぬいぐるみなんて欲しいとも思わなかったし買わなかった。それが,自分の赤ちゃんを見たときは,もう,可愛くて可愛くて,メロメロになりました。子どもが何をしても,何もしなくても,見ているだけで可愛くて可愛くて。 それが,それが,その胸きゅんが,まったくない!!! 怒りや恨みは,愛の裏返しってこのこと? 恨みつらみがなくなると,愛もなくなるの??目の前に小さい子どもがうろうろしてる,しか感じられない自分がつらくて2~3日,泣きました。 けど,なんとかなるもんです。赤ちゃん時代の昔の写真を眺めたり,いろいろしたら,なんとか可愛い感情が戻ってきました。ああ,よかった。ちゃんと,感情コードがつながってきてるんですね。 そういえば,「10歳でも20歳でも若返る方法があります。でも,それをすると,その年数分の記憶がなくなります。」というのを本で読んだことがあります。いくら若返っても記憶をなくすのは嫌だと思いましたけど。 今回のも似たような感じですね。全てには代償が必要だってことでしょうか。いろいろ考えさせられた経験でした。とりあえずハッピーエンドで良かったです。http://www26.tok2.com/home/take5678/madonna.htmマドンナの前世 マドンナはエジプトの女王だったことがあり、また、ある時はインドの王様、そして宗教家という、本当にすごい人生をずっと送ってきています。伝道者として、たくさんの人を救済して、本当にたくさんの徳を積まれた方である。http://www26.tok2.com/home/take5678/janet.htmジャネット・ジャクソン前世は行者!? 時は江戸時代。関東に三峯山という山がありますが、ジャネットはその三峯山で修行三昧の日々を送っていた行者でした。しかも、皇室の血を引くご落胤。もっとも隆盛を極めた当時の三峯山の修行者達を導いた方でありました。実は、今世にスターに生まれている方で行者の生まれ変わりという方は結構います。ジャネットとマイケルの関係は? 中国宋の時代。この時には、ふたりとも中国人でしたが、なんと親子でした。ジャネットがパパ、そして、マイケルがジャネットの坊やでした。しかも、ふたりとも恐ろしく頭が切れて、頭のいい天文学者でした。今世のマイケルもジャネットも作詞・作曲に必要な圧倒的な咀嚼力を持っていますが、その才能は前世のその頃に培ったものである。
2007.08.24
コメント(0)
識別無辺境 次は、識別無辺境である。わたしたちの心は経験により、例えば対象に対して邪悪心を抱いたり、あるいは迷妄を抱いたり、あるいは愛著【あいじゃく】を抱いたりする。この愛著とはとらわれのことである。 しかし、偉大なる四無量心の実践を行なっている魂は、その愛著、迷妄、邪悪心といったものがどんどん弱められ、識別の力が弱められるのである。よって、苦しみを苦しみと感じなくなったり、あるいは悲しみを悲しみと感じなくなったりするのである。この識別無辺境はその終点ということができる。つまり、この境地に達した魂は完全に苦楽を捨断しているのである。無所有境 第三番目の無所有境である。わたしたちは何かに対してとらわれて輪廻を繰り返している。しかし、この無所有境に到達すると、とらわれ、外的とらわれというものが存在していないのである。しかし、存在はしていないが、過去の経験からまだこの魂は身・口・意の働きというものを完全に止め切っているわけではない。あくまでもこれは、サマディに入っているときのみ、その無所有境の境地へ入るのである。非認知非非認知境 第四番目の非認知非非認知境は、すべての対象に対していっさいの認知をしない状態ということができる。つまり、非認知とは認知にあらず、非非認知とは認知にあらざることがなしという意味なのである。つまり、どの世界へいてもこの状況になると一緒なのである。五、認知経験滅尽認知経験滅尽 そして、これらの上位非形状界の四つのステージを通過した後、最終の解脱へと至る。これが、認知経験滅尽、つまり大完全煩悩破壊界へと至ることなのである。ニルヴァーナ ここまでお読みになった読者は、あれっと思われるかもしれない。なぜマハー・ニルヴァーナと、ニルヴァーナが存在するのかと。そのとおりである。 それは、例えば認知というものは個人個人によって違う。小さな世界しか知らなければ、その認知も当然少ないわけだし、あるいは小さな経験しかできなければ当然経験も少ないわけである。しかし、その魂が自分の経験やあるいは認知を滅尽したとするならば、その魂はその瞬間大平安の境地へと至るであろう。これがニルヴァーナなのである。マハー・ニルヴァーナ ところが、ここに偉大なる魂がいて、その偉大なる魂の認知は全宇宙に及んでいる。偉大な魂の経験は全宇宙に及んでいると。この魂が完全にそれらの認知や経験を滅尽した場合どうだろうか。これは、偉大な認知、偉大な経験の滅尽ということになる。これが、マハー・ニルヴァーナなのである。マハー・ボーディ・ニルヴァーナ では、ここにより偉大な魂がいて、この偉大な魂は生、つまり生きることそのものを、完全なる真の智慧へ至る実践として生きていたとしよう。この魂の経験、この魂の認知は、すべて真智に到達するための認知ということになる。よって、大到達真智完全煩悩破壊界(マハー・ボーディ・ニルヴァーナ)へ到達するのである。つまり、これはニルヴァーナ、マハー・ニルヴァーナ、マハー・ボーディ・ニルヴァーナの違いを説明したのである。
2007.08.24
コメント(0)
聖哀れみ 第二番目の偉大な心の実践、これは聖哀れみである。聖哀れみというのは、悲、悲しみという言葉で表現される。この悲しみという言葉でなぜ表現されるのかというと、哀れみの心と、そして悲しみの心とは大変似ているからである。しかし、大きな違いが存在している。聖哀れみは、自分自身の不幸、あるいは自分自身の苦しみについて悲しむのではない。これは、すべての魂の苦しみに対して悲しむ偉大な心なのである。 例えば、皆さんの周りの魂が、真理に気づかない、あるいは煩悩で苦しんでいる、それを見て悲しむのである。では、なぜ悲しみ、哀れむのかと。それは、その魂が迷妄なるがゆえに悲しんでいることを知っているから、迷妄なるがゆえに苦しんでいることを知っているから、悲しみ、哀れむのである。これが、第二番目の聖哀れみなのである。聖称賛 第三番目は、聖称賛の偉大な心である。この偉大な心は、その心を実践する魂を偉大な人物へと変えてくれる。もちろん、この上位形状界に入るような魂に成長していくわけだから、当然偉大な心を有しているといってよいのである。この偉大な心とは、わたしたちがわたしたちのライバルを否定せず、そしてそのライバルを心から称賛する心であり、それにより、ライバルの持っている要素をわたしたちも内在できるようになってくるわけである。 例えば、ある人が偉大なる功徳を積んだと。ところが、自分はまだ功徳を積むことができないと。それに対して称賛する。そうすると、相手の偉大な功徳を積むという実践を称賛する心から、自分もそれをまねようとする心が出てくる。そして、いずれ、称賛の対象となった功徳の実践、これを自分自身も行なうことができるようになるのである。 あるいは、ある魂が不殺生の戒を徹底的に守ったと。いかに他人に傷つけられようとも、じっとそれを耐える。あるいは、いかに他の生き物が自分を害そうとも、それをじっと耐えると。それに対して称賛の心が生じると、その称賛の心の生じた人も同じように、じっといろいろな生き物や、あるいは人から被害を被るようなことがあったとしても、それに対して耐え、そして不殺生の戒が守れるようになってくるわけである。 このような形で、称賛というものは、わたしたちの心を、知能を、そして智慧を増大させるのである。 逆に、嫉妬心というのは、相手のいい要素をねたみ、そねむがゆえに、自分自身もその努力ができなくなってくる。そうなると、このそねみ、ねたみは、対象に対する妨害の心を生起させるだけではなく、自分自身の知能や智慧の阻害にもつながるわけである。よって、この聖称賛の心の実践は大変難しいということになる。聖無頓着 そして第四番目、これは聖無頓着の実践である。聖無頓着とは、いかなるカルマの解放に対しても、それに対して頓着しない実践ということになる。 カルマの解放に対して頓着しないとはどういうことであろうか。 わたしたちの構成要素は五つである。これを「五つのとらわれの集積」といっている。この五つのとらわれの集積は、まず外側から順に、形状-容姿、感覚、表象、経験の構成、識別である。そして、これらはすべて、過去および過去世のカルマの蓄積なのである。 ということは、当然わたしたちが修行に入る以前は、大きな悪業をいろいろと積んでいるわけだから、修行の途上、善業をいくらなしたとしても、あるいは徳の修行をいくらなしたとしても、あるいは心を平安にする修行をいくらなしたとしても、あるいは宇宙の大法則にかなった修行をいくらなしたとしても、過去においてなしたカルマが当然返ってくる時期があるわけである。そのカルマの返りに対して全く頓着しないという修行なのである。 このカルマに対して全く頓着しないということは、どういう結果をもたらすのだろうか。 例えば、わたしたちは苦しいからそこから逃れたいと思い、逃れたいがために新しい悪業を積む。これを繰り返しているわけである。 しかしもし、ここに真理の実践者がいて、その真理の実践者が、悪業の結果として苦しいことが今生じていたとしても、それに対してとらわれず、ひたすら行為において善行をなし、言葉において善行をなし、心において善行をなしていたならばどうだろうか。悪業は必ずその終焉を迎え、そして善のみの集積になるわけである。そして、この善のみの集積の完成の段階が、上位形状界最後の六つの天界なのである。五つのとらわれの集積 ついでにここで、五つのとらわれの集積について説明をしよう。五つのとらわれの集積とは、まずこの肉体、形状-容姿である。第二番目の感覚。そして第三番目の表象、イメージ。第四番目の経験の構成。そして第五番目の識別である。形状-容姿 この第一番目の形状-容姿というのは、わたしたちの姿形を表わしている。そして、わたしたちの言葉がいかに綺麗な言葉であるかが、わたしたちの形状-容姿の美しさを決めるといわれている。感覚 第二番目の感覚は、これは強い感覚、弱い感覚、全く感覚がない状態の三つに分類することができる。 ここでなぜ、フィーリングのいい状態、フィーリングの悪い状態、つまり感覚のいい状態、感覚の悪い状態が取り上げられていないのかというと、感覚は元来良い悪いは存在しない。これは、鋭いか鋭くないかだけなのである。 そして、例えばわたしたちが感覚を強く求めようとすればするほど、いい感覚を強く求めようとすればするほど、必ず悪い感覚、嫌な感覚も強く感じなければならない仕組みになっているわけである。 それはちょうど、大きな波と小さな波を考えていただきたい。大きな波は、その波の高い部分がある代わりに逆に低い部分が存在する。感覚もこれと同じなのである。そして、真理の実践は、この波を少しずつ平坦にしていき、最後は真っすぐな一本の線にする。つまり、いっさいの感覚を捨断できる状態をつくっていくわけである。これによって、苦楽が捨断されるのである。表象 第三番目が表象、イメージである。これは、わたしたちがいろいろなものをイメージする。そのイメージすることによって内在するデータ、これが三番目の表象である。 そして、これはダイレクトに心の影響を受けるといわれている。心の影響を受けるとはどういうことかというと、例えばわたしたちは日々の生活において、心にいろいろな想念を生起させる。しかし、その想念のすべてを実践するわけではない。ところが、この表象にはそのすべてが投影されるのである。 そして、このイメージの世界は形状界の世界と通じており、わたしたちが心において偉大なる心を実践するならば、十七上位形状界のどこかへ転生することができるし、あるいは、悪い、不徳のイメージを、不徳の心を訓練するならば、わたしたちは、愛欲界の低い世界へと生まれ変わらなければならないのである。経験の構成 第四番目は、経験の構成である。これは、わたしたちは、身【しん】・口【く】・意【い】、身の行ない、言葉の働き、そして心の働きという三つ、この三つの経験を日々培っているわけだが、その培っている経験がデータとなってインプットされ、次の経験を呼び起こす、そういう集まりなのである。 例えば、ここにアイスクリームがあったとして、このアイスクリームを一回食べると。おいしいと考えると。二回食べると。もっとおいしいと考えると。そして三回目が食べたくなると。あるいは、一回目アイスクリームを食べると。下痢をすると。二回目アイスクリームを食べると。また下痢をすると。よって、三回目はアイスクリームを食べないと。これがなぜ起きるのかというと、一回目、二回目のアイスクリームを食べたときの喜び、あるいは苦しみ、これがデータとなって内在し、そして三回目を決定させるわけである。これが第四番目の経験の構成なのである。 そしてこれは、漢訳仏典では「行」と訳されている。なぜ行と訳されるのかというと、もうおわかりと思うが、つまり経験の構成が、次の動きを決定するからなのである。識別 そして第五番目は識別である。この識別作用がもしなければ、わたしたちはこの愛欲の世界へと転生することはない。 では、いったいこの識別とは何かというと、対象に対して、これはいいとか、これは悪いとか、これは美しいとか、これは醜いとかいったような心の働きの背景となっているものである。つまり、四番目の経験の構成は行動にダイレクトに影響を与え、五番目の識別はわたしたちの心の働きにダイレクトな影響を与えるわけである。 そして、これらの五つの要素をすべて浄化し、捨断したならば、当然わたしたちがこの愛欲の世界に、あるいは他の世界へ生まれ変わることはないのである。タターガタ・アビダンマThursday, September 28th, 2006四、上位非形状界無と空 それでは、次に上位非形状界の説明に入ろう。 最初に、よくいわれる無と空について説明しておきたい。 日本の仏教など、無と空を混同しているようなところがあるが、それらは全く違う状態である。 無というのは、下位非形状界に入ってしまったときの状態で、功徳を積まずに、行のみを一生懸命やった場合などに起こる。そこは真っ暗で何もないところである。 それに対して、空の方はこの上位非形状界に入った状態である。そこは、まさに光の海である。光しかないから空という表現がぴったりなのである。おわかりかと思うが、こちらは無などと比べものにならないほど、修行ステージが高いのである。上位非形状界 上位非形状界には四つの世界が存在している。下から順に、空間無辺境、識別無辺境、無所有境、非認知非非認知境である。これらは順に、心の実態の世界ということができる。空間無辺境 まず、空間無辺境は心の広がりが無辺である世界である。わたしたちの心というものは、ちょうど空気のように自由に広がったり、あるいは自由に縮まったりすることができる。そして、その状態を体験した魂が、そのカルマによって徐々に空間を大きく大きくしていくとこの世界へと内在するわけである。つまり、これは四無量心における発展的段階ということができるわけである。 例えば、ある人たちが慈愛の実践をしているとしよう。しかし、その人たちの慈愛の段階は違うわけである。それは何に影響を与えるかというと、この空間、心の空間に影響を与えるわけである。より偉大な慈愛の実践をしている人は、より偉大な心の空間を所有するのである。これが、この空間無辺境の意味合いなのである。
2007.08.24
コメント(0)
全99件 (99件中 1-50件目)