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「誰も知らない」 2004年 日本映画 監督 是枝裕和 出演 柳楽優弥 YOU カンヌ映画祭で、主演の柳楽優弥が最年少で主演男優賞を受賞し、当時非常に話題になった是枝監督の出世作です。GYAOの無料動画で観賞しました。 2DKのアパートに、スーツケースを抱えた母親のけい子(YOU)と息子の明(柳楽優弥)が引越してきました。大家には「主人が海外出張中の母子2人です。」と挨拶しますが、実は、スーツケースの中には次男の茂、次女のゆきが入っており、長女の京子も人目をはばかり、こっそり家にやってきます。 子ども4人の母子家庭だと家を追い出されかねないと、その事実を隠したいけい子は、大家や周辺住民に見つからないように、明以外の外出禁止など、子どもたちに厳しく注意しています。子どもたちは出生届未提出らしく、12歳の明も含め、学校に通ったことさえありませんでした。 当初は、けい子が百貨店で働き、明が弟妹の世話をする日々が続きますが、新たに恋人ができたけい子は家に不在がちになり、やがて恋人と同棲を始め、子供達の生活費は現金書留で送り帰宅しなくなってしまいます。そこから兄弟だけの、誰も知らない生活が始まるのでした。 男女で気持ちいいことをして、その行為が子どもを作るための行為だということを忘れている人がいます。そして、子どもを持つ覚悟がないまま子どもを作ってしまう人がたくさんいます。そして、時として、この映画のような悲劇が生まれてくるのです。 人類はその進化の過程の中で、子孫繁栄のため、非常な快楽を伴う交尾を獲得し、月に1回受精できる能力(ほかの哺乳類と比較して、非常に多いですよね。犬なんて年に2回だし。)を獲得し、生まれた子どもを保護し育てる能力を獲得しました。その結果、今地球上に人類はあふれかえっています。 見境なくしている人や、激しくしている人に対し、“動物的”とか、“野性的”と言う形容詞をつける人がいますが、確かに特定の相手とだけというわけではないという点では“動物的”かもしれませんが、快楽のためだけにするのは人間だけで、野生の世界では交尾の目的は子孫を残すことだけです。非常に激しかったり、普通じゃなかったり、時間や回数が多かったりして、より快楽を得ることを求めているのは人類だけであり、その結果として、女性のおなかの中に新しい生命が宿ることになるという可能性を忘れているのは、人類だけです。そして、自ら進んで新しい生命を宿すかもしれない行為を行いながら、その新しい生命を守っていく覚悟がない者が少なからずいるのも事実です。 人類は、お金というものがないと生きていくことが困難な複雑な社会を作り上げ、大人の保護がない子どもが生きていくことが不可能な世界を作り上げてしまいました。しかし、一方では、自らの子どもを守っていく覚悟のないまま子どもを作ってしまう快楽主義者が少なからずいる事実があるのです。 この映画は実話をもとにしているそうです。今もこのような子どもが世界のどこかで泣いているのかと思うと、心が痛んできます。そんなことを思ってしまう、衝撃的な映画です。子役にありがちなオーバーすぎる演技のまったくない、ほぼ無表情なリアルな演技の柳楽君がとにかくすごいです。 「八日目の蝉」の時も思いましたが、子どもができるかどうかは、男性にゆだねられています。結果的にどこに出すかどうかという問題です。一時の快楽を得たいと思うのは、悲しいかな、あることだと思います。しかし、その行為が子どもを作る行為だということを、世の男性諸君はしっかりと自覚しておいてほしいものです。予期せぬ子どもを宿して苦労するのは大体女性の方です。その女性を大切に思うのなら、男性がしっかりすべきです。
2018.01.29
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「ペーパー・ムーン」 Paper Moon 1973年 アメリカ映画 監督 ピーター・ボグダノヴィッチ 出演 ライアン・オニール テイタム・オニール ゴールデン・ウィークなので、DVDを借りてきました。 今回は、かつて僕が大好きだった女優テイタム・オニールが初出演にして、アカデミー助演女優賞を最年少(受賞時10歳、現在も最年少記録です。)で受賞した、懐かしの名作を借りてきました。 確か、かなり依然TV放送かレンタルビデオ(DVDではない。)で観た覚えがあるんですが、テイタムの文句なしの可愛さは覚えていたのですが、ストーリーはよく覚えていなかったんで、再確認したかったのです。(可愛いテイタムが観たかっただけという話もありますが。) 9歳のアディ(テイタム・オニール)は、母親を自動車事故で亡くし、身寄りはミズーリにいる叔母だけでした。形ばかりの埋葬の場で、急きょ駆け付けた母親のかつての恋人モーゼ(ライアン・オニール)は、牧師夫婦からアディを叔母の家に届けるように頼まれてしまいます。ミズーリへ聖書のセールスに行くと言ってしまった手前、渋々引き受けざるをえなかったのです。 モーゼは、交通事故を起こした男の兄を訪ね、示談金200ドルをせしめ、その金で今まで乗っていたボロ車を新車に買い替え、邪魔っけになったアディを汽車に乗せてポイしようとします。ところが、アディは、モーゼが200ドルせしめたやり取りを立ち聞きしていて、私のお金だから返してと主張します。アゴの線がそっくりだからもしかして父親なの?だったら返さなくてもいいけど、と言うのです。父親ではないとかたくなに主張するモーゼですが、お金を使ってしまった以上、返しようがありません。じゃあ、稼いで、と言うアディと旅を共にするしかないのでした。 もうとにかく、テイタムが可愛いの一言に尽きますね。(かつてファンだったという蟇目を抜きにしてもね。) とにかく可愛くて聡明で小生意気で、この天才子役がいなかったら、痛快でちょっとホロっとさせるこの名作は成り立たなかったでしょう。 この映画、まず、テイタム有りきで作られた、という話を聞いてびっくりしました。 ジョー・デヴィッド・ブラウンの小説「アディ・プレイ」を映画化したいと考えていたボグダノヴィッチ監督が、主役のアディにぴったりの子がいると紹介されたのがテイタムで、その後、「ある愛の詩」のヒットでスターになっていた実の父親ライアン・オニールをモーゼ役にという話になったということです。(ちなみに、この原作小説「アディ・プレイ」、この映画のヒットの後、題名が「ペーパー・ムーン」と変更されたそうです。) ということで、テイタム・オニール初出演にしてキャリアハイの映画史に残る名作を、今回は紹介しました。 ところで、映画の中では親子かどうかわからないとなっている2人ですが、アゴどころか、顔全体がそっくりじゃないかよ!!!というツッコミを入れたのは私だけではないですよね。
2017.05.05
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「ミラージュ」 MIRAGEMAN 2007年 チリ映画 監督 エルネスト・ディアス=エスピノーサ 主演 マルコ・ザロール ネットのおすすめ動画で観ました。なんとなくヒーローものなんだなと思い、予備知識ゼロで、まあ、暇つぶしになればという感じで観始めたんですが、中身の意外な重さに、思わず見入ってしまいました。 クラブの用心棒マルコ(マルコ・ザロール)は、強盗に襲われ、両親を惨殺された過去をもつ男でした。彼の唯一の家族、弟のチトはそのショックで心を閉ざし、現在入院療養中です。弟の治療費と生活費を稼ぐため、クラブのオーナーからの嫌がらせに耐えながら、毎日1人黙々とトレーニングを続けるマルコでした。 ある日、マルコは、日課のジョギング中に強盗団が押し入る現場に遭遇します。とっさに強盗のマスクを奪って顔を覆い、強盗団を撃退し、襲われていた女性を救い、そのまま顔を見せずにその場を立ち去ったのです。 次の日、ワイドショーでは『覆面ヒーロー、強盗を退治!』のニュースで大騒ぎでした。マルコが助けた女性は人気美人TVレポーター、マリアだったのです。 チトもニュースを見て大喜びし、覆面ヒーローのマネをして少しずつ心を開いていきます。その様子を見たマルコは、弟のために一大決断をするのです。 お手製の覆面をかぶり、“ミラージュマン”と名乗り、街に巣食う悪者たちと戦うことを決意するのです。 強盗に両親を殺され、精神を病んでしまった弟を抱えたマルコは、クラブの用心棒の仕事の傍ら、自宅で自作の器具を使い、黙々と体を鍛える日々を送っていました。そして、偶然強盗団を撃退し、そのニュース(それが兄だとはわかってはいませんが、)に弟が喜び、回復の兆しが見えてきたことから、正義のヒーローとして戦うことを志します。 しかし、彼は世紀の大富豪や、巨大軍事企業のオーナーではなく、手首から糸が出たり、傷がすぐに治ったり、金属を自在に操ったり、といった超能力があるわけでもありません。ただ単に独学で体を鍛えているだけのごく普通の一般人です。というか、どっちかというと、日々の生活にいっぱいいっぱいの、はっきり言って貧乏人です。 そして、その戦う相手も、超能力や超兵器を駆使したり、常識はずれの超犯罪を行うぶっちぎれた極悪人ではなく、普通の強盗やひったくり犯です。 だから、この物語は、ほかのヒーローもののような夢物語ではなく、非常に生活感にあふれ、地に足がついたリアルな物語なのです。 マルコは、へたくそな絵で、覆面をデザインし、ホームセンターで材料を探し、情報を集めるのに苦労(なんとあろうことかネットに電話番号を公開し、困った人からの情報を求めます。なんという無謀なことをと思ったのは私だけでしょうか。)し、上から目線で手助けしようとする金持ち女に騙されて落ち込んだりします。 しかし、彼がヒーローとして戦う目的は、金を儲けたいとか、有名になってちやほやされたいとか、女にもてたいとか、とってつけたような正義感に目覚めたとか、そんなものではありません。彼は、心を病んでしまっている弟に元気になってもらいたい、ただそれだけなのです。 ということで、そのリアル感、ドラマ感に、思わず感動してしまう、全く無名なチリ映画に、思わず出会ってしまった、というお話でした。 ところで、マルコ役のマルコ・ザロールという人、もちろんチリ人の俳優さんなので全く知らなかったわけですが、格闘家としても活躍している、チリでは有名なアクションスターのようですね。彼の身のこなし、なかなか半端ねえですよ。すごいです。
2016.12.23
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「アヒルと鴨のコインロッカー」 2007年 日本映画原作 伊坂幸太郎監督 中村義洋出演 濱田岳 瑛太 関めぐみ 大塚寧々 松田龍平 岡田将生 なぎら健壱 以前紹介した「フィッシュストーリー」と同じく、伊坂幸太郎の原作小説を中村義洋監督が映画化した作品です。夜中にひっそりと放映されていましたので、伊坂幸太郎原作というのが気になって、ほぼ予備知識なしで録画しておきました。 仙台の大学に入学し、ひとり暮らしを始めた椎名(濱田岳)が、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさみながら荷物を片付けていると、隣人の河崎(瑛太)が声をかけてきました。 変わり者の河崎は、隣の隣に住むブータン人にプレゼントするために本屋を襲って広辞苑を盗みに行こうと誘ってきます。最初は断った椎名だったが、結局、手伝うことになってしまいます。 ところが、本屋強盗に入った河崎は、目的の広辞苑ではなく広辞林を盗んできて、一向に構わない様子です。 ある日、椎名は、大学構内でペットショップの店長、麗子(大塚寧々)と出会います。彼女は河崎が椎名に気をつけろと忠告し、バス停で困っていた外国人女性を助けていた女性です。麗子は、河崎に気をつけろと言ってきます。 やがて椎名は、河崎と、その元カノでペットショップの店員だった琴美(関めぐみ)、そしてブータン人のドルジの、3人の物語を知るのでした。 ドルジと琴美は2年前に起こっていたペット殺害事件の現場に出くわし、巻き込まれてしまっていたのです。 結構スローテンポで始まり、主演が“金ちゃん”こと濱田岳ですし、瑛太演じる河崎の変人ぶりから、予備知識のほぼなかった僕は、「あれ、コメディかな?でも、伊坂幸太郎だよな?」と思って観始めました。(だって、いきなり拳銃2丁を手に強盗に誘ってくるんだぜ。瑛太がボケで、濱田岳がツッコミだと思うでしょ。濱田岳のお父さんがなぎら健壱だったし。)しかし、河崎や麗子が椎名に語る2年前の出来事が挿入され、ペット殺害事件との絡みが明らかになるにつれ、だんだんと物語に引き込まれて行きます。 そして、河崎に関するある秘密が明らかになり、もう1人のキーパーソン、松田龍平が演じる男(正体は秘密です。)が現れる(回想の中ですから厳密にいうと現れていないですけどね。)につれ、どんどん面白くなっていきます。さすが伊坂幸太郎です。 ということで、やっぱり、伊坂幸太郎のミステリーは面白かったね。というお話でした。もちろん、主演の濱田岳、瑛太の2人の巧みな演技があってこそですけどね。あっ、そうそう、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、非常に効果的に使われていますね。観終わった後、思わず口ずさんでしまうくらいです。 ちなみに、椎名の大学の友人役で、今やときめく岡田将生が映画デビューしています。全く物語の展開に関係ない、本当にちょい役ですけどね。
2016.07.30
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「海街diary」 2015年 日本映画監督 是枝裕和出演 広瀬すず 綾瀬はるか 長澤まさみ 夏帆 堤真一 樹木希林 大竹しのぶ リリー・フランキー 風吹ジュン 鈴木亮平 加瀬亮 前田旺史郎 待望の「海街diary」観ました。是枝監督の最新作の宣伝のためでしょう。早々と地上波放送してくれたので、一も二もなく、録画しました。 このブログで何度も触れているように、原作大好きですし、日本アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞を受賞しましたし、絶対絶対観たいと思っていたので、非常にうれしかったです。 14年前に家を出た実父が亡くなり、その父が再々婚しており、遠く山形に暮らしていたことを香田家の三姉妹は知ります。自分たちを捨てた父親との確執から長女の幸(綾瀬はるか)は仕事を理由に次女の佳乃(長澤まさみ)と三女の千佳(夏帆)を告別式に送り出します。 2人を駅で出迎えたのは中学生になる腹違いの妹すず(広瀬すず)でした。 翌日、葬儀に来ない予定だった幸がなぜか現れます。看護師である幸は、すずの置かれた肩身の狭い境遇とすずが父を看取った事を感じ取ります。 葬儀の後、幸はすずに父との思い出の場所に案内して欲しいと言います。するとすずは小高い山の上に姉妹たちを案内しました。佳乃たちはそこが鎌倉の風景によく似ていると話します。 すずとの別れに際し、幸が「鎌倉で一緒に暮らさない?」と持ちかけます。すずは「行きます。」と即答します。 こうしてすずを迎えた香田家は四姉妹となります。サッカー好きで明るい性格のすずは鎌倉の生活にもすぐに溶け込み、地元の“湘南オクトパス”に入団します。チームでコンビを組む風太(前田旺史郎)と親しくなり、三姉妹を温かく見守ってきた“海猫食堂”のおかみさん二ノ宮幸子(風吹ジュン)や、食堂の常連で、喫茶山猫亭のマスター福田(リリー・フランキー)にも気に入られます。 いかんですねえ、原作をよく知っているとどうしても原作と比べてしまいます。 映画化されると聞いた時から思っていた通り、四姉妹と父の関係性に絞って作られています。サッカーチームのエース多田裕也の足の病気の件とか、佳乃の元カレ朋章の件とか、原作の比較的初めの方にあるエピソードですが、それぞれ結構重いエピソードなので、切られているのは予想通りでした。 しかし、原作でも結構後ろの方にある二ノ宮さんの病気の件が、結構重みをもって取り上げてあるのは意外でした。(その割には緒方家との絡みが全くなく、結構あっさりしていたけど。)やっぱり、父親と四姉妹の関係性を中心にするなら、父親の一周忌を描かなきゃいかんでしょう。 冒頭のお葬式の場面で、すずの義母陽子(父親の3人目の妻、3人のお姉さんたちの母親が1人目で、父親が出ていく原因になったすずの母親が2人目です。)とその連れ子の2人の義弟(すず曰く“なんちゃって弟たち”)の描写がすごい少ないなあと思っていたらそういうことなんですね。僕はキャストが発表されたとき、てっきり陽子役が風吹ジュンだと思っていました。あれですかね、ちゃんと演技できる小1くらいの男の子がいなかったからですかね。確かに福君も征史郎君も達臣君も健太君も大きくなっちゃったからねえ。(サッカー部のエース多田裕也のエピソードを描いていたら、達臣君だったのかな。風太役の前田君はぴったりだけどね。でも、二ノ宮さんの件をしっかり描いていたら、緒方家の皆さんがしっかり登場してくるので、緒方将志役の方がよかったけどね、関西弁だから。) 上3人の母親都(大竹しのぶ)と大船のおばちゃん(樹木希林)をちゃんと登場させている(2人は予想通りでした。ぴったりです。)のですから、やっぱり一周忌で終わるのが必然ではなかったのでしょうか。すずのカーテンの件もなかったしね。(このエピソードはつい涙を誘われてしまいますよね。) 二ノ宮さんの件は続編の中心に持ってくればよかったのに、幸と佳乃の新しい恋とともに。サッカーチームの監督井上(鈴木亮平)と信金の坂下課長(加瀬亮)に主役級の配役をしているのは、続編のためかなと思っていました。幸の不倫相手・椎名医師役の堤真一は良かったけどね。(シカ先生じゃなかったのが残念だけど。)千佳の彼氏アフロ店長なんて、多田の足の件が切られたおかげで、“ヒマラヤのツル”のエピソードがなくなって、ほんのちょい役に成り下がって、役者としては無名の人の配役だったしね。(ミュージシャンとしては大した人みたいですけど。)元登山家アピールは余分だったしね。 ということで、とっても丁寧に作ってあって、感動できるいい映画なんですけど、どうしても原作と比べてしまって、残念に思ってしまったというお話でした。 あっ、前に文句言っていた四姉妹の配役ですが、予想に反して、結構いいなあと思ってしまいました。まあ、やっぱり4人の演技力ですかね。ただ、しっかり者のナース姉ちゃんがしっかりしすぎて、明治時代の八重と被ってちょっと嫌だったのと、千佳がアフロじゃなかったのがちょっと残念でしたけどね。ちょっと不安だったすずのサッカーは、ちらっとしか出てこなかったけど、上手にごまかしていましたね。(そうか、多田の足の件を切ったのはそういう理由もあったのね。)
2016.05.26
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鑑定士と顔のない依頼人 La migliore offerta 2013年 イタリア映画監督・脚本 ジョゼッペ・トルナトーレ出演 ジェフリー・ラッシュ ジム・スタージェス ドナルド・サザーランド キャプテン・ジャック・スパロウのライバルでありつつもけっこう仲良しなキャプテン・バルボッサや、滑舌のよくない王様の家庭教師など、存在感のある脇役で知られる、ジェフリー・ラッシュ主演で、なかなか面白いという評判が気になっていた映画を、いつもの夢○書店で借りてきました。 ヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は美術鑑定士として成功を収めていましが、女性と接するのが非常に苦手で、隠し部屋に大量の女性の肖像画を飾り鑑賞するという奇妙な性癖を持っていました。ヴァージルは自身が開催するオークションで友人のビリー(ドナルド・サザーランド)と共謀し、格安で落札していたのです。ビリーは画家を目指していましたが、ヴァージルに才能がないと一蹴され、諦めていました。 ある日ヴァージルのもとに、電話を通じて、死去した両親が収集していた美術品を競売にかけて欲しいという依頼が入ります。依頼人の邸宅には確かに様々な美術品が置いてありましたが、依頼人のクレアはどうしても姿を見せません。クレアは広場恐怖症で、部屋に長年引きこもっていたのです。 ヴァージルは扉越しに接するうちに、クレアの容姿に興味を持ち、ある日、クレアの容姿を盗み見ます。クレアは長年引きこもっていたとは思えないほど美しく若い女性でした。 クレアにすっかり夢中になったヴァージルは、友人の機械職人ロバート(ジム・スタージェス)のアドバイスを受けながら、交流を重ね、対面することに成功し、ついにはプロポーズに至るのですが………。 手袋をしたまま食事をしたり、ティシュやハンカチでくるんで携帯を使ったり、何より生身の女性に強い抵抗感を持っているなど、何かと病的なところが気になる初老の男性と、広場恐怖症とみられる症状で、思春期の頃から十数年も引きこもりを続けてきた女性との、それぞれの病気を克服しながらの、純愛の物語と思っていたら、最後に意外な展開で、ヴァ―ジルと同じく初老の男性である僕としては、尋常ではないショックを感じました。 何故かクレアの屋敷内で次々と見つかるオートマタ(機械人形)の部品、向かいのバーにいつもいる何故か数字に異様に強い小人症女性、十数年も引きこもっていたのに何故か結構簡単に恐怖症を克服するクレア、それまでにほとんど合ったことがないのにロバートの女性問題についてヴァ―ジルに相談に来るロバートの彼女、などなど、後から考えれば、不自然な事柄(つまり伏線)がいろいろと散りばめられていましたが、ついつい自分と同年代の主人公に感情移入して、クレアの純愛を信じてしまっていた自分に気づかされました。 さすが、「ニュー・シネマ・パラダイス」や「海の上のピアニスト」などで知られるイタリアの巨匠、ジョゼッペ・トルナトーレ監督です。もちろん、「シャイン」での米アカデミー主演男優賞を始め、数々の演技賞を受賞している名優、ジェフリー・ラッシュの演技の巧みさもあるでしょう。 ということで、例によって詳しく述べることは控えておきますが、ラストでヴァ―ジルが訪れた場所が、ちゃんと実在していたことで、若干救われたと思いつつ、彼女はやっぱり現れないだろうなあ、と思う、寂しい初老のおじさんが、なかなか見ごたえのある佳作を紹介しました。
2016.02.07
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「ヒューゴの不思議な発明」 Hugo 2011年 アメリカ・イギリス映画監督 マーティン・スコセッシ出演 エイサ・バターフィールド クロエ・グレース・モレッツ ベン・キングズレ― ジュード・ロウ あけましておめでとうございます。今年も細々と、映画について勝手な意見を書かせていただきます。よろしくお願いします。 さて、新年1発目は、マーティン・スコセッシ監督が、ロバート・デ・ニーロでもレオナルド・ディカプリオでもなく、少年を主人公にした映画を作り、その年のアカデミー賞に11部門もノミネート(受賞は技術系ばかり5部門)され話題を呼んだ、ハートフルな作品を紹介します。 1930年代、パリ、孤児ヒューゴ・カブレ(エイサ・バターフィールド)は、亡き父親(ジュード・ロウ)が遺した壊れた機械人形とその修復の手がかりとなる手帳を心の支えとして、モンパルナス駅の時計台に隠れて暮らしていました。彼は駅の構内を縦横無尽に行き来して、大時計のねじを巻き、時にはカフェからパンや牛乳を失敬して生きてきたのです。 ある日、ヒューゴは、駅構内の片隅にある玩具屋で、機械人形を修理するための部品をくすねようとした時、店の主人ジョルジュ(ベン・キングズレ―)に捕まってしまい、手帳を取り上げられてしまいます。ヒューゴは、店じまいをしたジョルジュの後を尾行し、彼のアパルトマンにたどり着き、ジョルジュ夫妻の養女であるイザベル(クロエ・グレース・モリッツ)という少女と知り合います。彼の話に興味を持ったイザベルは、手帳を取り戻す協力をしてくれると言います。 明くる日、再び玩具屋を訪れたヒューゴは、壊れた玩具を元通りに修復して、父親仕込みの腕前をジョルジュ認めさせ、玩具屋の手伝いをしたら手帳を返してやると告げられます。仕事の手伝いを続ける中で、彼はイザベルとも仲良くなり、本の虫で映画も見たことが無いという彼女を連れて、映画館に忍び込んだりするのです。 機械人形はほとんど修理が済んでいましたが、人形のぜんまいを巻くためのハート型の鍵が見つかっていませんでした。ところがイザベルが身に着けていたペンダントがまさしくハート形の鍵でした。早速、機械人形に鍵を差し込みぜんまいを回してみると………。 謎ときにワクワクして、追いかけっこにハラハラして、ラストにほっこりして、みんなの優しさにほのぼのして、映像が美しくて、映画愛にあふれていて、とってもいい映画でした。ジェームズ・キャメロン(「ターミネーター」「アバター」の監督)曰く、「ようやくできた子どもたちを連れて行けるスコセッシ映画」です。というのも、マーティン・スコセッシ監督って言えば、「タクシードライバー」とか、「ギャング・オブ・ニューヨーク」とか、「ケープ・フィアー」とか、「シャッターアイランド」とか、「ディパーテッド」とか、ギャング映画や犯罪映画など、血生臭くって、男臭くって、犯罪や殺人に充ち溢れたものばかりでしたので、この映画のようなファミリー映画は初めてではないでしょうか。はっきり言って、「スコセッシ監督どうしちゃった???」というような感じです。 とりわけ、主役の2人の子どもたちが、素直で聡明で頑張り屋で優しさにあふれていて、その奮闘ぶりに、観客は誰もが心から応援したくなってしまうでしょう。イザベル役の女の子は、「キック・アス」のヒット・ガール役で一躍脚光を浴び、「ダーク・シャドウ」での存在感をこのブログでも絶賛したクロエ・グレース・モリッツちゃんです。ヒューゴ役の男の子もどこかで見たことがあるなあ、と思ったら、かつてこのブログでその結末のショッキングさを紹介した「縞模様のパジャマの少年」の主役の少年でした。2人とも、現在18歳、今後の活躍が楽しみな逸材です。 ところで、気になることがひとつあります。それは邦題です。 この題にある“発明”というのは、やっぱり、ヒューゴの父親が仕事場の博物館で埋もれていたのを発見して持ち帰りひそかに修理していた“機械人形”のことを指していると誰もが思いますよね。でも、これって、ヒューゴが発明したものではないんですよね。ね、題名が内容と合ってないんですよ。 この映画、原題は「Hugo」です。まあ、よくある主人公の名前を題名にしたものです。そして、実はこの映画、原作がありまして、その邦題がブライアン・セルズニックという人の「ユゴーの不思議な発明」です。(フランスのお話なので、英語読みで“ヒューゴ”ですが、フランス語読みでは“ユゴー”なんですね。)その原作小説の原題が“The Invention of Hugo Cabret”です。この“Invention”を直訳して“発明”なんですね。でも、調べてみたら、“考案・発案”という意味もあるんですね。この物語のラストの展開は、ヒューゴの考えで進んでいくんですよね。原題の“Invention”とは、この結末のことを指しているのではないでしょうか。だとしたら、“Invention”は、“発明”と訳してはいけないですよね、しかも、“不思議な”と形容するのもおかしいですよね。外国語を訳すのって、難しいですね。 ということで、ちょっと細かいことが気になってしまう、右京さんのような悪いクセが出てしまいましたが、心がほっこりする、いい話です。ぜひ、ご家族で楽しんでください。 ところで、この映画のDVD、いつもの“夢○書店”では、SFコーナーに置いてありました。“機械人形”はゼンマイ仕掛けのからくり人形のようなもので、決してロボットではないですよ。また邦題や予告編の雰囲気などに惑わされましたね、夢○書店さん。
2016.01.02
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「小さいおうち」 2014年 日本映画監督 山田洋次出演 黒木華 松たか子 吉岡秀隆 倍賞千恵子 妻夫木聡 片岡孝太郎 4代目相棒、決まりましたね。反町隆史さんで、役名は冠城亘(かぶらぎわたる)だそうですね。だから言ったでしょ、仲間由紀恵(社美弥子)さんじゃあないって。まあ、彼女が、河北満(かわきたみちる)とか柏原春(かしわばらはる)とかって名の別人役で、っていうことなら話は別ですが。 ところで今回は、中島京子の直木賞受賞作を、山田洋次監督が映画化した作品です。 主演の黒木華(くろきはると読みます、はなではないんですね。)が、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞し、話題になった作品です。 大学生の健史(妻夫木聡)の大叔母のタキ(倍賞千恵子)が亡くなりました。遺品の中に、健史宛てと書かれた四角い缶が見つかります。開けてみるとタキが健史にうながされて大学ノートに書き記していた自叙伝でした。 昭和11年、タキ(黒木華)は山形から上京し小説家の女中を経て、おもちゃ会社の常務をしている平井家へ奉公に上がります。平井家は東京郊外にあり、昭和10年に建てられたばかりの少しモダンな赤い瓦屋根の小さいおうちでした。 平井(片岡孝太郎)とその妻・時子(松たか子)、かわいらしいが小児まひになった息子・恭一らとの穏やかな暮らしでしたが、おもちゃ会社に新しく入った芸大卒の青年・板倉(吉岡秀隆)の出現で状況が変わってくるのです。 大叔母の自叙伝を現代の青年(健史はタキの孫ではありません。タキは生涯独身だったようですから。)が読むという形で、戦時中の内地の中流家庭の生活を描くというお話かと思ったら、青年・板倉の登場で話は意外な方向へ向かい、ちょっとびっくりしました。でも、そのおかげで、とてもドキドキして楽しく観賞できました。松たか子の妖艶さ、見事です。どういう展開かは、まあ、秘密にしておきましょう。 ところで、僕としては、ネットでいろいろと話題になっている吉岡秀隆ミスキャスト説について、一言申し上げたいと思います。 まず、大前提として、この板倉という青年は、徴兵検査で丙種(甲・乙・丙の丙です。)ということになり、戦時中であるにもかかわらずに徴兵されていない存在だということです。つまり、いかにも女性にもてそうな健康的なイケメンはすべて徴兵されて内地には残っていないということなのです。 だから、この板倉という青年はどう考えても兵隊としては不向きな、軟弱な青年でなければならないということで、しかも、どう考えても、微妙な表情など、難しい演技が不可欠なんですよ。 結局、この板倉という青年を演じられる若い俳優は、彼ぐらいしかいないということですよ、今の日本の映画界には。確かに、実年齢的に(実は、今年45歳)無理があると言えばそうなんですが、はっきり言って、本当に他にいないということですね。あまりにもブサイクな男だと物語が破綻してしまいますし、ジャニーズ系の子たちじゃあ、どう見ても丙種じゃないからね。 だから、批判されるべきなのは、吉岡秀隆を板倉役にキャストしたスタッフではなく、この役を見事に演じられる俳優が彼ぐらいしかいない、今の日本映画界の現状ではないでしょうか。 ということで、実は137分というちょっと長めの映画ですが、まったく退屈せず、のめりこんで見入ってしまった名作を紹介しました。 あっ、そうでした。松たか子さんの妖艶な奥様もいいですが、黒木華さんの控えめだけど実は芯の強そうな女中の演技が最高です。彼女の地味目な容貌(ごめんね。)も、役にぴったりです。
2015.08.25
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「あしたのジョー」 2011年 日本映画監督 曽利文彦出演 山下智久 伊勢谷友介 香川照之 香里奈 杉本哲太 「あしたのジョー」大好きです。マンガはもちろん単行本を持っていますし、アニメも「2」はリアルタイムでしっかり観ています。(「1」の時はちょっと年齢的に間に合っていません。マンガの連載も。当時はまだ幼児でした。)当時、毎週のTV放送の時間は必ずTVの前に陣取って、食い入るように見ていました。(そして、嘔吐物をキラキラで表現するという画期的な画面に、なぜか感動していました。) 実はずいぶん古いマンガなんですよね。「週刊少年マガジン」に1968年から1973年まで連載していた、高森朝雄原作ちばてつや作画のマンガです。同時に連載していた「巨人の星」(梶原一輝原作川崎のぼる作画)と2大看板作で、当時「少年マガジン」は大人気でした。その人気の中心は大学生で、当時、電車の中で「少年マガジン」を開く大学生が揶揄されたり、学生運動のバイブルとして、「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」と言われたほどです。そういえば、『我々はあしたのジョーである。』と言っていた(マンガのラストになぞらえて、『燃え尽きるまで戦う。』という意味のようです。)のは、よど号ハイジャック事件の犯人(赤軍派)でしたね。ジョーのライバル力石の死の際には、架空の人物にもかかわらず、実際の葬儀が行われた、というのは有名なエピソードです。 ちなみに原作者の高森朝雄というのは、梶原一輝です。先行していた「巨人の星」と同時に掲載されるということで、同じ原作者の作品が同時に掲載されているのはまずい(?)ということで、別のペンネームにしたということだそうです。 アニメの方は、「1」は1970年から1971年にかけて放映されており、お話の内容が、雑誌の連載に追いついてしまったため、途中で打ち切られていたそうです。そこで、おそらくは、TVスタッフの中に熱狂的ファンが居り、途中で終わっているのが心残りだったのか、「2」のTV放映が始まったのが、1980年でした。 そんな僕ですから、昨今のかつての人気アニメ・マンガの実写映画化の風潮にのって作られたこの映画、絶対に観てみなければ、と思っていたのです。だって、「デビルマン」みたいなことがあったらいやですものね。(でも、そうだったら、このブログで、思いっ切りこき下ろしてやりますけどね。) 昭和40年代、東京の下町で殺伐とした生活を送る矢吹丈(山下智久)は、その天性の身のこなしから、元ボクサー・丹下段平(香川照之)にボクサーとしてのセンスを見出されます。 ところが、問題を起こしたジョーは少年院へ行ってしまいます。 そこでジョーは、チャンピオンレベルの力を持つプロボクサー・力石徹(伊勢谷友介)と運命の出会いを果たし、ふたりは反目しながらも互いの力を認め、ライバルとして惹かれ合うようになっていくのです。 一足先に少年院を出た力石は、財閥の令嬢・白木葉子(香里奈)の支援による恵まれた環境のなか連戦連勝、圧倒的な強さでエリート街道をひた走ります。 一方のジョーは、橋の下のオンボロジムで段平と二人三脚の特訓を始め、野性むき出しで“クロスカウンターパンチ”を得意とする人気ボクサーとなっていきます。 やがて力石は世界タイトルに手が届くところまで上り詰めますが、世界戦の前にジョーとの決着を望み、葉子を困惑させます。 ジョーも、力石戦実現を強く求めていましたが、ふたりの間には、そのキャリア、実力の差もさることながら、ボクシングでは決定的となる階級の差もあったのです。 しかし、力石は命を削るかのような超過酷な減量に臨み、ふたりの宿命の対決が実現されるのです。 全体的な印象としたは、とってもいいです。まず何と言っても時代を昭和40年代のままにしたのがいいです。この物語、その背景に流れる時代感、貧困とか、汚さとか、格差とか、そういうものが非常に大事なんですよね。映画の冒頭の絵から、スタッフがいかにこの作品を愛しているかがうかがえ、非常にうれしかったです、(「デビルマン」とは大違いですね。) そして、主役2人の肉体改造、すごいです。 山Pに関しては、はっきり言って、ジャニーズということもあり、ちょっと不安があったのですが、まさにボクサーという肉体、見事に作り上げましたね。その不幸な生い立ちからくる悲壮感溢れるジョーの雰囲気も見事演じていましたね。(でも、実は原作のジョーは最初けっこうお調子者でクレイジーなヤツなんですけどね。悲壮感溢れるジョーは物語の後半のジョーです。)ちょっと山P見直しました。(まあ、ジャニーズだからといって、バカにしちゃいけませんね。岡田君も生田君も山田君もいますから。) でも、はっきり言って、力石役の伊勢谷さんに完全に喰われています。というか、彼がすごすぎるんですね。お話上それがなかったら決して成り立たない、力石の人間の限界を著しく超えた過酷な減量、それを見事自らの肉体で表現していました。計量時に露わにされるその肉体の衝撃は、原作を見事に再現しています。前回も書きましたが、やっぱり彼はクレイジーな男が非常にうまいです。現大河「花燃ゆ」の吉田寅次郎(松陰)役も、もっとクレイジーに演じてほしいですね。まあ、天下のNHKの大看板番組の実質的主役としてはそうはいかんか。 そして、丹下段平、さすが香川照之です。「龍馬伝」「半沢直樹」と同じく見事な怪演です。まさに丹下段平、見た目も言動も見事に再現されています。一部ネットで、「実写映画の中で1人だけマンガ」とか、「あんな人は実際にはいない」とか、けっこう言われています。でも、考えてごらんなさい、あの容姿以外の丹下段平を、あなたは丹下段平と認識できますか?あの個性あふれる特異な容姿、その個性があまりにも強すぎるがために、それがあまりにも有名になり過ぎたがために、丹下段平は丹下段平であるがゆえに、あの容姿でなければならないのです。それよりも、香川さんが持前の演技力で、あの滑稽な容姿を違和感なくシリアスな物語にマッチさせていたことをほめるべきでしょう。 と、ここまではベタ褒めですが、ちょっといただけない所も言わせてください。 まず、白木葉子お嬢様、完全にミスキャストですね。ここまでの葉子お嬢様っていうのは、高飛車でわがままで、ツンケンしたお嬢様、はっきり言って非常に嫌な女なんです。(力石とジョーのおかげで、この高飛車なお嬢様がだんだんと丸くなっていくんですよ。そして最後の告白です。)香里奈さんは一応、ツンケンした演技をしていますが、人の良さがにじみ出てます。きれいで上品そうならいいってもんじゃあないんですよ。彼女は「こち亀」の麗子さんがお似合いです。そうですね、今なら、すっかりいじめ役が板についてきた菜々緒さんなんかいいですけどね。 それから、少年院のエピソードが短かすぎるのも気になりました。西の存在が薄すぎるとか、ジョーの成長に欠かせない青山君というキャラが消されているとか、そんなことは言いません。ジョーと力石の関係性に深みが感じられないということが言いたいのです。力石が超過酷な減量に臨んでまでジョーとの対決を熱望していたにしては、その理由が「ただひとり引き分けた男がいることが許せない。」では説得力がないです。お話を熟知している僕らは、ジョーと力石の関係は理解できますが、この映画で初めて見た人には、「こいつ、自分を何様だと思ってるんだ。」と反感を買うだけじゃないでしょうか。 もうひとつ時間の都合上でしょうか、消されているのが、ドヤ街の八百屋の娘、紀ちゃんの存在です。何かと丹下ジムの世話を焼いており、ジョーに片思いし、ジョーが全く気がないと気付いて結局は西と結婚した紀ちゃん、彼女は、ジョーとの最初で最後のデートで、物語のラストにつながる重要なセリフを引き出しているのです。そう有名なあの「真っ白な灰」です。この映画から紀ちゃんが消されているということは、「2」は絶対にないということを表しているのでしょうか。この物語がラストまで描かれることはないという意味でしょうか。 僕は、「あしたのジョー」の物語は、力石が死んで初めて始まる物語だと思っています。(「タッチ」と一緒だね。)ジョーがなぜ、“真っ白な灰”になるまで戦おうと思ったのか、なぜ、後半のジョーに悲壮感が漂っているのか、そこは最大のライバル力石の死という事実がジョーの心の奥深くこびりついているからです。彼は天才的チャンピオン・ホセ・メンドーサと戦いながら、自分の中の力石の亡霊と戦っているのです。だから、このまま「2」が作られないとしたら、この「あしたのジョー」の映画が完結しないということではないでしょうか。なるほど、この映画でジョーが完全に力石に負けているのはこういう意味だったんですね。 重要なキャラが消されている半面、時折意味ありげにアップになる黒ずくめの男(杉本哲太)、結局全くセリフもなくジョーたちに絡むことなく、その割には結構有名人を起用している、原作には出てこないキャラ、いったい何だったんでしょうか。僕はこの後、力石の死によりスランプに陥り、草拳闘の舞台にまで落ちぶれていったジョーを、ひょんなことから助けることになるゴロマキ権藤を「2」の伏線のために登場させているのだろうと思っていましたが、Wikipediaで調べたら、安藤洋司-杉本哲太、とありました。ええ!何もんやあ?紀ちゃんとか青山とか重要なキャラを消しておいてなんでこんな無駄なキャラを出さなきゃいかん?まったく意味わかりません。 後、ラストも気にくわないです。力石の死のまま終わるのはあまりにもと思ったのでしょうが、なんか無理やりハッピーエンドに持って行った違和感を覚えました。(一応詳しいことは秘密にしておきます。力石が死ぬことはあまりにも有名なので秘密にしてもしょうがないので、堂々と書かせていただきましたが。)結局物語を途中で切っている弊害がここにも表れているのでしょう。思い切って、どこかのタイムマシン映画のように、“To be continue”と画面いっぱいに描いておけばよかったのに、と思いますが、紀ちゃんを登場させていないということは、「2」はないということなので、それもできなかったのですね。結局ジョーと力石の関係性というのは、あの程度で立ち直れるほどのものだったということですか。少年院の描写が少なかったのもそういう意味ですか。力石はただ単に異常な負けず嫌いでプライドが高すぎる男だったということですか。結局その程度の映画だったということですね。 ということで、根強いファンの多いにもかかわらず後編は決して作られないであろう、偉大なる名作マンガの映画化前編、または、あまりにもプライドが高すぎたために、すべてのものに勝たなければならないと思い込み、自ら破滅の道を選んでしまった悲劇の男の物語、を今回は紹介しました。 ただ、「2」を作るんだったら、山Pがおっさんにならないうちに作っとかないかんぜ。何しろ、この後ジョーも過酷な減量に苦しむことになって来るからね。金竜飛戦では、その減量にまつわるエピソードが重要だからね。 余談ですが、有名な“蛇口に針金”がしっかり描かれていて、嬉しかったです。しかし、あの葉子お嬢様が1人で黙々と蛇口を針金で縛っている姿を想像すると、ちょっと笑えますけどね。(その姿こそ菜々緒さんにぴったりですね。ニヤつきながらやっていたら最高です。)
2015.03.10
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「真夏の方程式」 2013年 日本映画監督 西谷弘出演 福山雅治 吉高由里子 杏 風吹ジュン 前田吟 山崎光 昨年公開のガリレオシリーズ最新作「真夏の方程式」を観ました。(真冬ですが。)けっこう以前(多分夏頃)にTV放送していたのを録画していましたが、なかなか観られず、季節外れとは思いつつ、このほどやっと観ることができたのです。 手つかずの美しい海が残る玻璃ヶ浦で進められている海底鉱物資源開発計画の説明会に招かれた物理学者・湯川学(福山雅治)は、川畑夫妻(前田吟・風吹ジュン)が経営する旅館「緑岩荘」に滞在することになり、そこで、親の仕事の都合で、夏休みの間、親戚である川畑家の旅館で過ごすことになった少年・恭平(山崎光)と出会います。 翌朝、堤防下の岩場で、旅館のもう1人の宿泊客・塚原の変死体が発見されます。彼は元捜査一課の刑事で、服役後に消息を断ったある殺人事件の犯人を捜していたらしいのです。 現地入りした捜査一課刑事・岸谷美砂(吉高由里子)は、さっそく湯川に協力を依頼します。 やがて、環境保護活動にのめりこむ旅館の1人娘・成実(杏)や、観光業がふるわず廃業を考えていたという川畑夫妻、そして恭平をも巻き込みながら、事件を巡る複雑な因縁が次第に明らかになっていくのです。 いやあ、なかなかいい人間ドラマでした。はっきり言って、推理ドラマというには、手の込んだトリックはないですし、犯人は初めから丸わかり(過去の事件については意外でしたが)でしたし、ほぼ観るべきところはありませんが、子ども嫌いと自ら明言する湯川と恭平との交流、環境保護活動に妄信的にのめりこむ成実の心境の変化、緑岩荘の人々の家族愛など、湯川と関わることで生まれる人間ドラマには感動しました、(ただ、成実や恭平のトラウマについては、疑問が残ります。結末に関わりますので、詳しくは述べませんが。) で、例によって、僕は話の筋とは違うところで気になったことがありましたので、述べさせていただきます。 ひとつは、恭平君の理科嫌いについてです。 堤防と高さと下駄が死体と一緒に落ちていた件から、地元警察が事故死として処理しようとした事件を、いち早く殺人だと見抜いたほど聡明な恭平が、理科が嫌いだと明言したことに、理科教育に携わる者として、カチンときてしまった湯川は、何とかしなければと思い、ペットボトルロケットを使った堤防から200m沖の海中調査を、恭平を助手にして行います。 最近、理科嫌いな子どもが多くなっているみたいですね。 子どもたちは動物園や水族館は大好きですし、恐竜や宇宙の話をすると必ず目を輝かせてきます。一瞬にして色が変わる色水の実験や段ボール砲の実験などにも、たちまち食いついてきます。 そうです、本来子どもたちは、大自然の不思議を解明する理科という教科は大好きなはずなんです。 なぜそういう状況が生まれてくるのでしょうか。 思うに、昨今の学校の理科教育が問題なのではないでしょうか。 この間、街角で通りすがりにこんな会話を耳にしました。5歳ぐらいの女の子と、そのお母さんの会話です。 娘「ねえ、夕日はどうして赤いの?」 母「………。」(聞こえないふりか?) 娘「ねえっ、夕日はどうして赤いの??」(大きめな声で) 母「どうしてかねえ??……」(言葉を濁す。) 通りすがりだったし、全く知らない人だったので、駆け寄っていって、 「夕方は日光が通る空気が多くなるから、いろいろな色が混ざっている日光が赤い方に偏るからだよ。」と教えてあげることはできませんでした。あのお母さんが後日ネットなどで調べて、娘のカワイイ疑問について答えてあげているであろうことを希望しています。 日光については小学校3年で基本的なこと(まっすぐ進むということ、影を作るということ、など。)を学習し、中学校で、理論的なこと(反射や屈折、波であることなど。)を学習することになっています。しかし、現在は色については詳しくやらないようですね。何年生だったか忘れましたが、僕は理科室で日光をプリズムで受けて虹を作る実験を見て、虹がどうしてできるのか、色とは何なのか、教えてもらった覚えがあります。 「空はどうして青いの?」「夕日はどうして赤いの?」「日食はどうして起こるの?」「雨はどうして降るの?」「コンクリートは何でできているの?」「マグロが食べられなくなるって、どうして?」などなど、子どもたちの素朴な疑問に、正しく、わかりやすく噛み砕いて教えられる親や先生がどれだけいるでしょうか。 あと、この物語の根底に流れる、環境保護運動と地域開発についての兼ね合いについて、思うところがありました。 杏扮する旅館の娘成実は、海底鉱物資源開発計画に、瑠璃が浜の美しい自然環境保護のため、反対運動にのめりこんでいます。その説明会で、湯川は「地下資源を採鉱すれば生物には必ず被害は出ます。人間はそういうことを繰り返して文明を発達させてきました。その恩恵はあなたたちも受けてきたはずだ。」と、熱弁する成実を一蹴します。 僕も常々同じ意見です。人類文明の発達は環境破壊の歴史と同義語です。人類が文明を発達させてきたこの1万年ほどの間の生物の絶滅のスピードは、地球上の多くの生物が絶滅した大量絶滅の時代(45億年の間に数回あります。有名なのは6500万年前の恐竜の絶滅ですが。)の絶滅スピードを遥かに凌ぐそうです。 レアメタル発掘に反対するんだったら、お前ら携帯電話やパソコン使うんじゃあねえぞ。と言いたいです。お前ら、瑠璃が浜じゃなかったら他のところの環境を壊して鉱物発掘するのは反対しないんだろう、と言いたいですね。すべての文明生活を捨てて、自然に帰った人の言葉なら耳を貸しますけどね。 ということで、例によって、話の本筋ではない別のことが気になってしまいましたが、この映画が非常によくできた、いい人間ドラマであるということには変わりありません。 ところで、この映画では、湯川先生が終始出張中ですので、研究室の場面が全くなくて、例のうっとうしい、栗林万年助手(渡辺いっけい)と岸谷刑事(吉高由里子)の掛け合いが全くなかったのはよかったです。(というか、渡辺いっけいさんは全く出演していません。)
2015.01.21
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「あなたへ」 2012年 日本映画監督 降旗康男出演 高倉健 田中裕子 佐藤浩市 余貴美子 草なぎ剛 ビートたけし 大滝秀治 綾瀬はるか 浅野忠信 岡村隆史 長塚京三 高倉健さん、菅原文太さんと、日本映画界を支える重鎮が相次いで亡くなりました。ともに80代、まあ仕方がないことかもしれませんが、非常に口惜しい限りです。 思い返してみれば、映画ファンを自称していながら僕は、この2人の偉大な俳優の映画をあまり見ていないことに気が付きました。2人が盛んに東映任侠映画に出ていた時代は、まだ子どもだったので仕方がないのですが、けっこう日本映画を毛嫌いしていた時期があったからでしょうかね。 でも、「幸せの黄色いハンカチ」や「ミスター・ベースボール」「ブラック・レイン」は観ていて、寡黙で男気のある男を演じる健さんはすごいと思っておりましたし、文太さんは、大河ドラマ「徳川慶喜」(幕末物は必ず見るようにしています。好きだから。来年はやっと長州側からの幕末ですね。1977年の大村益次郎を主人公とした「花神」以来です。)での慶喜の父親斉昭役や、最近の「千と千尋の神隠し」や「ゲド戦記」での声優で、さすがの存在感には圧倒されておりました。 このほど、健さんの追悼企画として、遺作となった最後の主演作「あなたへ」をTV放映しておりましたので、観賞させていただきました。 富山の刑務所で指導教官を務める倉島英二(高倉健)のもとに、亡くなった妻・洋子(田中裕子)から絵手紙が届きます。そこには今まで知らされることの無かった“故郷の海に散骨して欲しい”という洋子の想いが記されていました。 倉島は、その真意を知るために、自分でキャンピングカーに改造したワゴン車で、洋子の故郷長崎県平戸の漁港・薄香へのひとり旅を始めます。 富山から始まり飛騨高山、京都、大阪、竹田城、瀬戸内、下関、門司、そして洋子の故郷・薄香へと続く旅の中、風光明媚な地で出会う様々な人々と、様々な人生、出会いと別れを繰り返し、倉橋は洋子の深い愛情に改めて気付かされるのでした。 まずやっぱり、健さんです。相変わらずの寡黙で無骨な男、まさに、かつて彼自身がCMで語っていた“不器用な男”そのものでした。やっぱり高倉健の高倉健たるところでしょう。さすがです。 でも、旅の途中で挿入される倉島が回想する亡き妻との思い出の場面では、意外にも結構饒舌で、表情豊かな姿を見せており、いかに無骨な男倉島が中年になってから見つけた生涯の伴侶を愛していたかを表現しており、物語の深みを出していました。さすがです。(すっごいラブラブでうらやましい限りです。) 脇役も芸達者な役者の皆さんをそろえ、大スター健さんの6年ぶりの主演を彩っています。(ただ、警官役の浅野忠信さんと、うるさい阪神ファン役の岡村隆史さんは余分でしたね。無名の人で充分です。浅野さんなんて、まったくチョイ役過ぎて全く気が付きませんでした。) 中途採用で年下の上司の下きつい仕事を頑張る訳ありな男南原役の佐藤浩市さんは、あのナイフをなめていた男(「ザ・マジックアワー」参照)と同じ人とは思えない非常に抑えた渋い演技でした。明るくふるまっているが実は訳ありの実演販売員田宮役の草なぎ剛さんも、その明るさのわざとらしさをうまく表現していました。若く明るい漁村の食堂の看板娘奈緒子役の綾瀬はるかさんも、ずいぶん年上の倉島にもきちんと自分の主張ができるしっかり者(大河ドラマ「八重の桜」後半の怖いおばさんの八重が見えて、ちょっといやだったけど。)を巧みに演じていました。わざとらしく山頭火の句を引用する自称国語教師杉野役のビートたけしさんは、さすがの怪しさでした。頑固な超ベテラン漁師大浦吾郎役の大滝秀治さん(健さんと同じく遺作になります。)は、出番が非常に少ないにもかかわらず、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞も納得の存在感でした。 しかし、僕がここで取り上げたいのは、2人の女優さんです。 まず、漁村の食堂のおかみ濱崎多恵子役の余貴美子さんです。女手ひとつで食堂を切り盛りするしっかり者ですが、ちょっとした表情からその秘められた思いが見え隠れします。詳しくは秘密にしておきますが、最後の場面を正しく理解するためには、彼女のちょっとした動きを見逃さないことが大事です。僕はよくわからなくて、巻き戻して見直してしまいました。 彼女はここで日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞しますが、前々から尋常じゃない眼力で怪しい演技でいつも存在感のある女優さんだなあと思っていました。大河ドラマ「篤姫」では、薩摩城主島津斉彬の正室英姫を、「八日目の蝉」では“エンジェル・ホ-ム”の教祖を、どちらも怪しさたっぷりで好演していました。 もうひとりは、主人公倉島の亡き妻洋子役の田中裕子さんです。童謡歌手として刑務所の慰問にやって来た倉島との出会いから、2人で旅する様子、ちょっとした日常の場面や、晩年の入院生活など、倉島が旅の中で回想しているので順不同ですが、彼女の表情・態度から倉島との関係性の変化が手に取るようにわかります。とりわけ、夫婦でラブラブな場面での、笑顔は最高です。あの大ヒットしたNHKの朝のテレビ小説「おしん」の主演で注目を浴びた時から、その演技力には定評のあった演技派女優さんですが、こんな可愛らしい人だったんだ、と倉島の同僚塚本(長塚京三)曰く、“カタブツの倉さんを落とした女”も納得です。僕も落ちてしまったかもしれません。 ということで、久々に素直に感動できるいい作品に出合いました。僕は古い写真館の場面で、涙があふれてきてしまいました。 洋子の遺言の意味、よーく考えてくださいね。ヒントは『千の風』です。 やっぱり高倉健さんいいですね。今度は「鉄道員」とか「夜叉」とか観てみようかな。(「南極物語」は別に観たくありません。ほかの犬の死体を食べて生き残ってきた犬の話が何で感動できるのか分かりませんから。) ところで、洋子が歌っていた歌、宮沢賢治作詞・作曲『星めぐりの歌』というんですね。すごい気になりました。
2014.12.04
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「相棒シリーズXday」 2013年 日本映画監督 橋本一出演 川原和久 田中圭 国仲涼子 別所哲也 田口トモロヲ 山西惇 木村佳乃 六角精児 及川光博 水谷豊 現在僕がはまっているたった1つのTVドラマ、「相棒」のスピンオフ作品です。このほど、「劇場版 相棒III」の宣伝のために、TV放映していましたね。 今回の主役は、何と“トリオ・ザ・捜一”のリーダー格、刑事のカンを大切にし、頑ななまでの現場主義を貫き、常に“特命係”を邪険にしながらも“警部殿”の推理力には一目置いている、捜査一課の伊丹刑事(川原和久)です。 そしてその“相棒”を務めるのは、シリーズ初登場、IT企業をバブル崩壊のためリストラされ、警視庁サイバー犯罪対策課に転職してきた、ちょっと人付き合いが苦手そうな現代っ子、岩月刑事(田中圭)です。 燃やされた百万円入りの封筒と、ビルから落下して死亡した男性が発見されます。 捜査へ乗り出した警視庁捜査一課の伊丹らは、被害者が東京明和銀行システム部の中山と知ります。そこへ、警視庁サイバー犯罪対策課専門捜査官の岩月が現れます。中山はjuctice11というハンドル名で、ネット上に不信なデータを配信していたため、サイバー犯罪対策課がマークしていた人物だったのです。 警視庁はこの不可解な事件の調査を始めますが、殺人事件の捜査は自分の担当ではないと事件に協力姿勢を見せない岩月に、証拠は渡さないと伊丹は腹を立てます。 中山の自宅を捜査する伊丹たちは、鑑識課・米沢(六角精児)から中山には恋人がいた事、juctice11のデータは、中山のパソコンから配信された事実などを知ります。 中山雄吾殺人事件の捜査本部が警視庁に立てられることになり、伊丹はいつも行動を共にしている同じ捜査一課の三浦や芹沢とは別動班として捜査に当たることになります。 東京明和銀行システム部で中山の上司にあたる朽木(田口トモロヲ)に接触を図る伊丹だが、そこにjuctice11のアップしたデータについて確認に来た岩月も合流します。 データが流出していたことを驚く朽木は、このデータをただのマニュアルだと答えるが、彼の態度に不信を覚えた伊丹はデータの提出を要請します。 また、中山の恋人である美奈(国仲涼子)に会うため、伊丹らは、東京明和銀行を訪れます。美奈は恋人の死に対してもどこか余所余所しく、中山がアップしたデータについても知らないと答えますが、何らかの隠し事がある様子です。 その頃、警視庁組織犯罪対策部では第5課長角田(山西惇)らが、最近羽振りが良くなり覚せい剤の買い占めを行っていた暴力団事務所の強制捜査を行い、麻薬を押収して抵抗する組員たちを逮捕していました。そこで角田らは、事務所の奥で1人の青年が扱っていた大量のコンピュータでの証券取引のデータを目にします。 一方、テロ対策としてネット監視の法案設立を目指す総理補佐官の片山雛子衆議院議員(木村佳乃)に、財務省族議員の戸張(別所哲也)が接触を図ってきていました。片山の法案に興味があり、勉強会を開きたいという戸張の目的を計り兼ねる片山は、彼らに何か不祥事が起きていなかったかの調査を行い、ネットに流れていた中山のデータへと辿り着きます。 片山は、法案の主導権を握りたいという戸張の思惑を阻止するため、警察庁長官官房付の神戸(及川光博)に声を掛け、勉強会には警察庁からも参加してくれるように促します。 神戸は片山から預かったデータを解析するため、ロンドンにいる杉下(水谷豊)に連絡を取ります。 いやあ、面白かったですね。「相棒」の劇場版の中では1番面白いんじゃないですか? なんといっても、「相棒」のレギュラーキャラの中で、1,2を争う個性派の伊丹刑事を主役に抜擢したところ、そしてその相棒に、現場主義・足で稼ぐ派というアナログを絵にかいたような伊丹刑事と真逆なIT刑事・岩月を持ってきたところが最高ですね。 この真逆な2人が、不本意ながら“相棒”として捜査を進めるうちに、それぞれの良さに気付き、互いを認め合うようになっていく、その描写が何とも言えませんね。 また、事件の背景に国家的陰謀(詳しくはネタバレなので語りません。)があるのですが、伊丹刑事が主人公なため、そこまで言及しないまま(というか、伊丹刑事はそこまで気づいていません。)、話が終わっているところも面白いです。これが右京さんが主人公でしたら、国家的陰謀に気づき、とことん追求するまで話が終わらなくなってしまって、大混乱になってしまったところでしょう。何しろ、神戸君に電話で話を聞き、流出データのコピーをFAXしてもらっただけで、事件に裏があることに気付いてしまったくらいですからね。 また、個人的には、いつも「暇か?」と特命係の部屋(警視庁組織犯罪対策課の奥にあります。)へやってきて、思わずTVの前で「お前の方が暇だろう!!」と、ついツッコミを入れてしまう、角田警視庁組織犯罪対策第5課長が、ちゃんと自分の仕事、つまり暴力団事務所への家宅捜査(いわゆるガサ入れというやつですね。)をして、暴力団相手に立ち回りをするかっこいい姿や、その取り調べで、相手の虚を突いて、証言を引き出す姿など、やり手なところを見せていたところが非常に楽しかったです。さすが京大卒ですね。(笑) ところで、ひとつ気になるところがあるのでツッコませてください。 それは、東京明和銀行システム部の朽木という、今回の被害者中山(データ流出事件に関しては加害者ですが。)の上司にあたる人物についてです。 なんかこの人物、大手銀行の責任ある立場にある人物として、あまりにも小心者過ぎないですか?伊丹らの事情聴取に対して、見るからに動揺しすぎてますし、データの流出がまだ続いていると聞いて、すぐに削除に走るなど、慌てているところが見え見えな行動が目立ちますし、最後には、追い詰められてなりふり構わず逃げ出してしまいます。 どうやら、この流出データの裏、つまり国家的陰謀についても知っている立場にあるようですし、こんな小心者がそんな重要な地位にいていいのでしょうか? もちろん、お話としては、こういう人物がいなければ、事件解決が進んでいかないというのはわかりますが、我が国の経済を左右しかねない大手銀行の責任ある地位で、国家的陰謀の一翼を担っている立ち位置に、彼のような小者がいるとしたら、不安でたまらないのではないでしょうか。 まあ、これはお話の中だけのことで、実在の大手銀行や官庁などの責任ある立場には、こういう人物はいないであろうと信じていますが。(希望と皮肉を込めて。) ということで、大人気シリーズのスピンオフ作品で、本筋ではないにもかかわらず、意外としっかり作ってあって、楽しい作品でした。 今公開中の「劇場版 相棒III」も楽しみです。(でも、僕が観るのは多分1年以上先ですけどね。) ちなみに、この後、本編のTVドラマ(season11.12)に、岩月刑事がたびたび出演しているのは言うまでもありません。
2014.05.08
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「宇宙兄弟」 2012年 日本映画監督 森義隆出演 小栗旬 岡田将生 麻生久美子 堤真一 マンガ「宇宙兄弟」は大好きです。単行本はもちろん購読しており、次の23巻を心待ちにしています。 理系男子だった僕は、当然のことながら宇宙も大好きで、アポロやビッグバンや相対性理論や彗星や宇宙人(科学的なものに限る)など、宇宙に関する本なども、以前に語った恐竜の本の隣にたくさん並んでいます。 そんな僕ですから、子どもの頃漠然と宇宙飛行士になりたいと思ったことがあります。近所の公園のジャングルジムを宇宙船にたとえて遊んだりしていました。でも、僕が少年時代を過ごした70年代、アポロが盛んに月を目指していた時代ですが、日本の片田舎の少年にその夢をかなえるすべなどあるはずもなく、いつの間にか、はかなく消えていった夢だったわけです。(だから、僕はマンガを読みながら、同年代の福田さんをひそかに応援していました。一方で無理だろうなとも思いながら。) そんなわけで、マンガ「宇宙兄弟」にはまっています。(ちなみに、今はまっているマンガは、他に「ONE PIECE」「BLEACH」「花よりも花の如く」「海街Diary」です。単行本の発売を心待ちにしています。) そんな「宇宙兄弟」が実写映画になったということで、しかも、ニュースなどで見る、主演の2人の風貌が、マンガのイメージにぴったりということで、非常に期待してしまったわけです。今まで何回も何回も好きなマンガの実写映画化に裏切られてきたことも忘れて。 2006年7月9日、謎のUFOを目撃した南波六太(ムッタ)と弟の日々人(ヒビト)は、「一緒に宇宙飛行士になろう」と誓い合います。 19年後の2025年、夢を叶え宇宙飛行士となった日々人(岡田将生)は、第1次月面長期滞在クルーの一員として、間もなく日本人初となる月面歩行者として歴史に名を残そうとしていました。 一方、兄の六太(小栗旬)は、勤めていた会社をクビになってしまい、鬱屈した日々を送っていました。 そんな六太の下に、JAXAから宇宙飛行士選抜の書類審査通過の通知が送られてきます。それは、共に宇宙を目指すという夢を諦めない日々人が応募したものでした。 いつの頃からか、宇宙飛行士になることを諦めていた六太は、再び宇宙を目指すことを決意するのです。 結論から言いますと、やっぱりがっかりしました。 もちろん、原作通りのわけないのは重々承知していましたが、でもやっぱりガッカリしました。 何かやたらと急いでいる感じがして、省略されている部分がやたら多くて、まるで連続ドラマのダイジェスト版を見せられているかのような印象を受けました。物語に全く深みがなく、表面だけさらっとなぞっているかのような感じでした。 特に残念だったのは、ムッタとヒビトの兄弟の宇宙への夢に1番影響を与えた、天文学者シャロンの存在をそっくり省略してしまった点です。 この物語の中でムッタとヒビトとシャロンの交流の描写(特に子ども時代の描写)は、2人が宇宙への夢を膨らませると同時に、2人の性格や能力がどのように形成されてきたかを語る重要な部分です。 そんな物語の根幹にかかわる重要な、シャロンとの交流の部分がそっくり省略されているために、2人の宇宙への夢がUFOを目撃したためという非常に薄っぺらいものになってしまっていますし、まるでムッタが選抜試験でヒビトの兄ということで贔屓されているような感じになってしまっていますし、ヒビトが月面での第一歩で「イエーイ!!」と叫びジャンプするというチャラ男になってしまっています。 また、ムッタの選抜試験の描写も非常に簡略化されていて、非常に薄っぺらいものになっています。 この物語のいいところは、登場人物それぞれのドラマがしっかり描かれており、それぞれの長所短所・行動原理が手に取るようにわかり、それぞれが愛すべきキャラに描かれていることです。 しかし、その描写がやたらと省略されていたおかげで、ケンジはやたらと正論を吐くだけの、鼻につく優等生になってしまっていますし、やっさんは文句ばかり言うただの癇癪持ちになってしまっていますし、福田さんは全く空気が読めないただのお荷物な年よりになってしまっています。ヒロインになるはずのセリカさん(麻生久美子)にムッタが一目ぼれする描写もあいまいでしたし、彼女の個性的な性格(はっきり言って天然です。)も全く描かれていません。JAXAの試験管の星加(堤真一)に至っては、過去の思いだけを大切にする、公私混同男という、重い責任を担うには最もふさわしくない人間になってしまっています。 なぜこんなことになってしまったのでしょうか、監督や脚本家が読解力や構成力に乏しく、物語のテーマをしっかりと理解して再構成できなかったからでしょうか。 思うに、1番の原因は、単行本9巻にあるヒビトの月面事故まで描こうとしたからではないでしょうか。 以前にもこのブログで語ってきたと思いますが、僕は1本の映画で描けるのは漫画の単行本5巻ぐらいが限界だと思っています。それでも、余分な描写を削って再構成するという作業は不可欠で、全く省略せずに物語をそのままに描こうとすると、2,3巻が限界でしょう。第9巻の内容まで描こうとしたら、省略しまくらにゃならないのは当たり前です。 確かにムッタの試験とヒビトの月面ミッション、この2つが終わるまでは物語がひと段落しないので、仕方がないのかもしれませんが、何とかならなかったのでしょうかね。まあ、今の日本映画界の現状では、初めから3部作で作るという「ロード・オブ・ザ・リング」のようなことは、なかなかできないのでしょうね。(「GANTZ」や「DEATH NOTE」の2部作、「20世紀少年」3部作という例もあるけどね。)でも、原作の良さをしっかり生かして作れば、3部作でも4部作でも原作ファンは観に行くと思うんだけどなあ。 結局、決定権を持っている偉い人が物事を理解できていないということなのですね。残念です。 ということで、やっぱりの結果になってしまったという、悲しいお話を今回はお贈りしました。 ところで、ムッタ・ヒビト・せりかさん、見事なキャスティングでしたね。まさにイメージ通りでうれしかったです。でも、JAXAの茄子田理事長が出てこなかったのは残念でした。非常に個性的で、好きなキャラなのに。 なお、原作を知らない人にはチンプンカンプンな文章になっていることをお詫びしておきます。
2014.03.17
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「CO2」 CO2 2010年 アメリカ映画監督 ジョン・デビュー またまた、いつものレンタルビデオ屋で、見つけてしまいました。スターは全く出ていない、B級中のB級映画です。(それって、C級ってこと?) もちろん日本未公開です。 盆地の底に湖と町がある土地で、産廃業者が地下に溜め込んでいた大量の二酸化炭素(CO2)が、地震によって湖から噴出して、空気よりも重いため、盆地に充満して、人々が酸欠で次々倒れていくというお話です。 地球温暖化が世界的規模の大大大問題になっている昨今、まさにタイムリーなお話です。 猛暑続く10月のある日、キャバナス湖周辺で大きな揺れが観測された事を受けて、地盤調査員のローレンは原因究明のため湖へと向かっていました。 一方、休日を過ごそうと湖を訪れていたネイサンとジェニファーは、水面から謎のガスが吹き出すという異様な光景を目の当たりにしていました。 不気味に湖から発せられた謎のガスは瞬く間に周囲に充満し、ネイサン達はその場に倒れ込んでしまいます。 ローレンが湖に着くと、窒息状態で亡くなっているネイサン達がそこには居ました。 その後、ローレンを中心に、何人か(最初は2人、最大8人、最終的に助かったのは3人)で、酸素ボンベを抱えて、酸素を求め、山の上(つまりCO2が充満しているところより上ということですね。)へ、徒歩(酸素がないとガソリンを燃やして走る自動車は動きません。)で避難していくという、基本ただただ歩いているのみという地味な展開で、敵が目に見えない二酸化炭素ということもあり、はっきり言って、非常に退屈な状況が長々と続く映画です。もちろん、途中でいろいろな障害もあって、人数が減ったり増えたりしますし、事件の背景や一行の人間関係にかかわる過去映像も挿入されたりして、何とか退屈しないように工夫されているのですが、基本歩いているので、展開がゆっくりで、やっぱり退屈です。 どうやら事件の背景に、産廃業者のずさんな処理があり、人災的なにおいもプンプンするのですが、そこら辺ははっきりさせないままです。もっとそこを膨らませて社会派ドラマにできたのではないだろうか、と、テーマがタイムリーで深刻なものなだけに、非常に惜しいと思ってしまいました。 アメリカという国は、政府が二酸化炭素削減に非常に消極的で、民間企業に丸投げしているところがあるようで、こういう題材がそこら中にゴロゴロしているんだろうとも思うと、やっぱりもったいないなあ、と思います。(しかし、真剣に描こうとすると、政府の圧力があったりするのかな?) ところで、この映画についてネットで検索してみたら、日本未公開なだけに、記事の数がたいへん少なかった(そのため、いい画像が拾えませんでした。)のですが、その数少ない記事の中にかなりの比率で、CO2を何かの有毒ガスと勘違いしているものが多くあり、情けなくなってしまいました。 しかも、DVDの字幕で、二酸化炭素と書くべきところを“炭素”と略してあるところが多大にあって、非常にがっかりしました。確かに、字幕は映像の邪魔にならないように、サッと読めるようにできるだけ短くしなければならないのですが、“二酸化炭素”と“炭素”では、全く違う物質になってしまいます。“炭素”って、炭だよ炭。(上記の勘違いもそのせいかもしれません。) 何でこう自分の無知さ加減を自ら進んで全世界に披露している人が多いんでしょうか。最近話題になっている、痴態をネットで晒している若者たちも含めて、あまりにもおバカすぎて呆れてしまいます。(とか言いつつ、自分も記事の中で、アホなことを言っているかもしれない、ということは棚に上げています。) ということで、テーマは非常にタイムリーですが、描き方がいまいちうまくなく、非常に残念でした、というお話でした。
2013.08.28
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「フィラデルフィア」 Philadelphia 1993年 アメリカ映画監督 ジョナサン・デミ出演 トム・ハンクス デンゼル・ワシントン アントニオ・バンデラス メアリー・スティーンバーゲン トム・ハンクスが、初めてアカデミー賞主演男優賞を受賞した作品です。「シンドラーのリスト」が作品賞・監督賞をはじめ、7部門独占した回で、その主演のリーアム・ニーソンを抑えての受賞です。 主演賞単独受賞の作品に、名作はないという噂があります。確かに、その主演俳優だけが突出して目立っているための受賞ととらえることもできるわけで、この映画はどうだろうか、とちょっと気になっていた作品です。 フィラデルフィアの一流法律事務所に務める弁護士アンディ・ベケット(トム・ハンクス)は、重要な案件を任されるなど、その手腕を買われ、期待されていました。しかし、その重要案件の訴状が紛失しかかり、危うく提訴できなくなるという事件が起こります。その後、突然呼び出されたアンディは、ウィラー社長に解雇を言い渡されます。 アンディは、実は同性愛者であり、エイズに侵されていました。会社には内緒にしていたのですが、日々体調は悪くなり、顔などにあざが目立つようになってきていたのです。 弁護士ジョー・ミラー(デンゼル・ワシントン)は、以前敵同士として渡り合ったアンディの突然の訪問に驚きます。自分の解雇が不当だと思い、訴訟を決意したが、方々で断られてきたと語るアンディに、ジョーはエイズに対して抜きがたい恐怖を感じていたため、申し出を断ってしまいます。 しかし、世間の冷たい視線に対しても毅然と対処し、結局自分で弁護するため、図書館で熱心に資料を漁るアンディの姿に、ジョーの心は動かされ、弁護を引き受けます。 解雇から7カ月後、“自由と兄弟愛の街”フィラデルフィアで注目の裁判が開廷します。 正義感にあふれ、アンディの家族にも真摯に接することができる、まじめな弁護士ジョー役を、落ち着いた感じで演じたデンゼル・ワシントン、エイズに侵された恋人をけなげに看病するミゲールを抑えた感じで演じていたアントニオ・バンデラス(ゾロの人)、憎まれ役の会社側の弁護士を聡明な感じを前面に出して演じたメアリー・スティーンバーゲン(ドクの彼女クララ)、彼らの演技もなかなかでしたが、やっぱり、画面に映し出されるたびにやつれ弱っていく様子が非常にリアルに伝わってくるが、目だけは執念の光を放ち続ける主人公アンディ・バケットを演じたトム・ハンクスの鬼気迫る演技は群を抜いていました。 お話自体は、予想通りの展開で、アンディとジョーは勝訴を勝ち取り、アンディは最後に亡くなりますが、トム・ハンクスの迫力に、やっぱり感動の結末でした。(誰もが予想できる結末ですので、はっきり書いてしまいました。ごめんなさい。) だから、取り立てて名作というわけではありませんが、淡々とした真面目な語り口で、好感の持てる秀作でした。 デンゼル・ワシントン演じるジョー・ミラーは、最初にアンディ・ベケットの訪問を受けた時、まず、彼の変わりように驚き、そして、エイズと聞いて、アンディが部屋の中で触れたいくつかの場所に視線を配り、アンディの帰宅後、すぐに医者の検査を予約します。 このジョーの最初の行動でも分かる通り、1981年にアメリカで初めて同性愛男性から発見され、広がり始めたころ、原因不明の死の病に対する恐怖感に加えて、感染者にゲイや麻薬の常習者が多かったことから感染者に対して社会的な偏見が持たれました。 偏見や誤解からくる差別は、そのものに対する情報の欠如から来ること多くあります。根拠のないうわさや伝聞に左右されることなく、冷静に対処し、当事者に嫌な感情を抱かせないために、あらゆる機会を通じて、正しい知識を伝えるということは大事なことです。 もちろん、それはエイズに関することに限ったことではなく、人種や宗教、出身や性別、病気や障害など、この世界のあらゆる差別に言えることであり、映画やTV、書籍やネットなど、現代社会に氾濫する非常に多くの情報の中から、正しい情報を冷静な判断力で正しく選択することが重要です。 そういう意味で、この映画は非常に価値ある存在だということが言えるでしょう。 ということで、トム・ハンクスのアカデミー賞受賞にふさわしい迫真の演技が印象的な、見ごたえのある社会派ドラマを今回は紹介しました。 氾濫する情報を確かに判断する目を持ち、物事を正しくとらえ、いわれなき偏見によって人を傷つけることなく、多くの人々に信頼される人になりたいと常々思っています。
2013.08.04
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「ザ・ファイター」 The Fighter 2010年 アメリカ映画監督 デヴィッド・O・ラッセル出演 マーク・ウォールバーグ クリスチャン・ベール エイミー・アダムス メリッサ・レオ 「ダークナイト」ではヒース・レジャーに「ターミネーター4」ではサム・ワーシントンに、主役でありながら、強烈な個性の脇役に喰われ、子役時代から積み上げてきた演技派としてのプライドを傷つけられてきた(勝手な推測)クリスチャン・ベールが、かつて「マシニスト」で見せたようなストイックな役作りを見せ、見事主役を喰ってアカデミー賞・ゴールデングローブ賞の助演男優賞をはじめ、数々の賞をかっさらった作品です。 実在するプロボクサー、ミッキー・ウォードと、そのトレーナーであり異父兄のディッキー・エクランドの姿を描いた伝記映画です。(エンドロールで、現在の本人たちが出てきます。) かつて“ローウェルの誇り”と呼ばれ、5階級制覇の偉大なチャンピオン、シュガー・レイ・レナードからダウンを奪ったことがあることが自慢のディッキー・エクランド(クリスチャン・ベール)は、薬に溺れ身を持ち崩し、現在は弟のトレーナーに専念してます。一方、同じくボクサーで、父親違いの弟ミッキー・ウォード(マーク・ウォールバーグ)は、兄とマネージャー役の母アリス(メリッサ・レオ)の言いなりで、彼らが組んだ明らかに不利なカードで一勝もできず、不遇の日々を送っていました。 ある日、ミッキーはバーで働くシャーリーン(エイミー・アダムス)と出会い、気の強いシャーリーンに押し切られながらも、いい関係を作っていきます。そんな中、ディッキーが窃盗の現行犯で逮捕され、既に逮捕歴のある彼は実刑となり、投獄されてしまいます。 ミッキーの父は息子の将来を案じ、別のトレーナーに話をつけ、ミッキーは家族と決別、シャーリーンと共に新しい人生へと旅立つ決意をします。 そして、ミッキーのまさかの連勝が始まるのです。 才能あるボクサーが、手っ取り早く金を稼ぐために、プロモーターの母親とトレーナーの兄に、時には、階級を無視して9kgも体重が重い選手と戦わされたりと、強豪選手の咬ませ犬のような仕事ばかりさせられていました。 それが、兄が逮捕を機に、父親の手引きで、きちんとしたトレーナーに付き、才能を開花させ、出所した兄と母親も改心・仲直りして、一家団結して世界戦に挑むという、予想通りの展開でした。 そんな予想通り進むわかりやすい物語なのですが、やっぱり見どころといえば、俳優陣の非常に気合の入った鬼気迫る演技でしょう。 まず、なんといっても不良な兄ディッキー役のクリスチャン・ベールです。 「マシニスト」の例でもわかる通り、徹底した役作りに定評がある彼ですが、今回は、十数kgの減量をし、歯並びを変え、後頭部にはワザとハゲを作ったそうで、目はギラギラして焦点が定まらず、挙動不審な感じは見るからにヤク中、そしてルーズで下品な言動、それでいて、しまった筋肉質の体で、窓や塀を軽々飛び越える身軽さを見せる男です。いったいこれが、大富豪で正義感に燃え、夜な夜な悪人を退治する男、あるいは抵抗軍のカリスマ的指導者と同じ人物とは全く思えません。本当にヤク中になってしまったのかと思ってしまうような鬼気迫る演技でした。 もう1人の注目は、母親役のメリッサ・レオという人、実年齢は、マーク・ウォールバーグとは十歳しか違わないのですが、金に汚く言動は下品、気が強くわがままで、すべて自分の思い通り進まないと気が済まない、思いっ切りいやな女を好演し、僕自身も思いっ切り嫌悪感を抱いてしまいました。彼女は、この演技で、アカデミー賞助演女優賞をはじめ、数々の賞を受賞しました。 ミッキーの彼女になるシャーリーン役のエイミー・アダムス(いつになくセクシーさを出し)と、ミッキー役のマーク・ウォールバーグ(ボクサーらしいマッチョな体に肉体改造するなど)も、頑張ってはいましたが、やっぱり、前出の2人にははっきり言って負けていましたね。 しかし、これは個々の演技の問題ではなく、脚本あるいは編集の問題だと思いますが、ディッキーの出所後、兄と母が改心と仲直りをし、再びミッキーのスタッフに加わり、世界戦へ向かっていくところの、2人が改心した過程がよくわからず、唐突な感じがしたのが非常に残念でした。兄ディッキーは、獄中で、自分の再起のためとか騙されて撮影されていた映像が、かつての天才ボクサーがヤク中になって転落していく姿を描いたドキュメンタリー番組になっているところを観せられたことを機に、獄中生活の中で猛省をしたということが推測されますが、母親に至っては、おそらくはミッキーに新しいトレーナーを紹介した父親が説得したのだと思いますが、全くその描写がなく、なぜおとなしくなったのか、まったくわかりません。前半の演技が迫力たっぷりだっただけに、その訳わからない変貌ぶりに、非常に違和感を持ってしまいました。 ということで、終盤の変化があまりにも唐突だったので、今ひとつ感動できなかったのですが、クリスチャン・ベールの鬼気迫る名演技を観るだけでも価値がある作品を今回は紹介しました。 しかし、あのただただ騒いで茶化して、まとまる話もぶち壊してしまう、思いっ切りおバカなお姉さんたち(なんと7人)って、どうにかならなかったんですかね。もううっとうしくてたまりませんでした。
2013.06.30
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「ブリキの太鼓」 Die Blechtrommel 1979年 西ドイツ・ポーランド・フランス・ユーゴスラビア映画原作 ギュンター・グラス監督 フォルカー・シュレンドルフ主演 ダーフィト・ベンネント カンヌ国際映画祭のパルム・ドール、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞している、名作中の名作です。 実は僕、この映画、若い頃観ています。公開時に観たと思うんですが、定かではありません。当時レンタルビデオもCATVもなかったことを考えると、劇場で観たのでしょう。 しかし、主人公の母親が生魚をむさぼり食べている場面を覚えているだけ(よっぽど印象深かったようです。)で、内容をほとんど覚えていませんでした。 このほど、CATVで放映していましたので、録画しておきました。 1899年のダンツィヒ郊外のカシュバイの荒野で4枚のスカートをはいて芋を焼いていたアンナは、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェクをそのスカートの中にかくまいます。それが因でアンナは女の子を生み落とします。 第一次大戦が終わり、成長したその娘アグネスはドイツ人のアルフレート・マツェラートと結婚しますが、以前から恋仲だった従兄のポーランド人ヤンと愛し合っていました。アグネスは、1924年、ヤンの子と思われる男の子オスカル(ダーフィト・ベンネント)を生みます。 3歳になったオスカルは、その誕生日の日、母からブリキの太鼓をプレゼントされます。 この日、彼が見た大人たちの狂態を耐えられないものと感じたオスカルは、大人になることを拒み、自ら階段から落ち成長を止めました。周囲は事故のせいだと信じていました。 そして、この時からオスカルには一種の超能力が備わり、太鼓を叩きながら叫び声を上げるとガラスがこなごなになって割れるのでした。 毎週木曜日になると、アグネスはオスカルをつれて、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクスの店に行きます。彼女はマルクスにオスカルをあずけて、近くの安宿でポーランド郵便局に勤めるヤンと逢いびきを重ねていたのです。それをそっと遠くから目撃するオスカルは、いたたまれない気持ちで、市立劇場の大窓のガラスを割るのでした。 街には、第三帝国を成立させ、ダンツィヒを狙うヒットラーの声がラジオから響いていました。 第1次大戦の前、主人公のオスカルの母親の母親(つまりおばあちゃん)が妊娠するところから始まりますが、ナレーションはオスカル自身が務めるという、ある意味シュールな展開から始まり、やはりオスカル自身のナレーションで、自分が生まれるシーンも、すでに社会に批判的な姿勢で、自身で解説しています。その生まれる直前のお腹にいるオスカル(そういう映像があること自体シュールです。)も、生まれてすぐの産湯を浴びているオスカルも、ダーフィト・ベンネントが演じています。さすがに幼児大の子どもが産湯を浴びている絵はシュールです。 こういった冒頭のいくつかのシーンから、「この映画普通ではないぞ。」と思わせてくれ、オスカルが大人たちの言動から絶望感を覚え、「自分はあんな大人にはならないぞ。」と、3歳の時点で成長を止めることを決意させ、自ら地下室の入り口から階段を落下し、成長を止めること、甲高い声で叫ぶとガラスを割ることができるという能力を持っていること、という超自然的な展開を肯定できる説得力を与えています。 オスカルは成長せず、子どものままでいることで、周囲の社会から孤立し、その情勢を、距離を置いたところから、冷めた目で見つめ、語っていくのです。 2人の男と愛し合う母親が、予期せぬ妊娠をして心を壊していく様子、ナチスの党員として活動に燃える父とポーランド人としてのプライドを大切にしたいヤン(実の父)、ナチスが力を付け軍隊が街に増えてくる様子、などなど、そして、徐々にナチスが追いつめられる様子などなど、激動の時代の中で、うごめき合う大人たちの愚かさや汚さなどを、一歩離れた地点から見て描き出しているのです。 それは、ダーフィト・ベンネントという、実際には撮影時11歳だということですが、見た目4.5歳に見える天才少年の存在がなければ、描くことは叶わなかったでしょう。 見た目は3歳のまま成長しないのだけれども、その心は着実に年相応に成長していっているという少年の物語を的確に理解し、その豊かな表情で見事に演じきる、彼の存在があってこそ、この物語は成立しているのです。 というわけで、3時間近くある(ディレクターズ・カット版でしたので。)長い物語ですが、まったく退屈することなく、途中トイレ休憩で1回止めた以外、一気に観てしまった、30年以上前の作品ですが全く色あせていない名作を今回は紹介しました。 激しく求め合うアグネスとヤンとか、水中に沈めた馬の首に無数のウナギがうごめく場面とか、生魚を無表情でひたすら貪り食うアグネスとか、見た目は幼児のオスカルのベッドシーンとか、エロ・グロ満載の映画ですので、そういうのが苦手な人はご注意を。
2013.06.06
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「17歳の肖像」 An Education 2009年 イギリス映画監督 ロネ・シェルフィグ主演 キャリー・マリガン 恋愛映画は苦手ですが、最近僕のお気に入り女優に仲間入りしたキャリー・マリガン主演ということで、CATVで放映していたので、録画しました。 第82回アカデミー賞(「ハート・ロッカー」と「アバター」で、元夫婦対決が話題になった、あの回です。)で、作品賞・主演女優賞(もちろんキャリーです。)・脚色賞にノミネートされ、英アカデミー賞主演女優賞(もちろんキャリーです。)など、様々な賞を受賞している作品です。 1961年、もうすぐ17歳の女子高校生ジェニー(キャリー・マリガン)は、オックスフォード進学を目指す優等生でした。楽団でチェロを弾き、フランスに憧れ、ロマンティックな恋を夢見る彼女は、大学に入ればもっと自由に好きなことができると信じ、厳しい父ジャックの指導にも耐えていました。 楽団の練習の帰り道、どしゃぶりの雨に見舞われたジェニーは、高級車を運転する見知らぬ大人の男性から「君のチェロが心配だ」と声をかけられます。自宅までのほんの僅かな距離を行く間に、彼の紳士的な態度と柔らかな物腰、ウィットと教養に富んだ言葉がジェニーの心を捉えます。それがデイヴィッドとの出会いでした。 数日後、ジェニーは街角でデイヴィッドを見かけて声をかけます。デイヴィッドが彼女を音楽会と夕食に誘うと、ジェニーはその申し出を喜んで受け入れます。 デイヴィッドの友人で美術品取引の仕事仲間のダニーとその恋人ヘレンを紹介されたジェニーは、彼らが足を運ぶナイトクラブや絵画のオークションに同行、洗練された大人の世界にすっかり魅了されていくのでした。 キャリーは1985年生まれということですから、現在28歳、この映画の撮影当時は22・3歳のはずですが、ノーメイクの女子高生姿に全く違和感がありません。(童顔なところもますます好みです。)厳格な父親にしたがって、オックスフォード大学を目指す優等生ですが、ジャズやパリのファッションにあこがれる若者らしさも持ち合わせています。 そんな彼女が、どう見ても胡散臭い三十男に引っかかってしまうという物語なのですが、この彼女を騙すデイヴィッドという男が、確かに非常に口が立つのですが、どう見てもさえない中年男で、なんでこんな男に引っかかってしまうのか、単純に考えると疑問に持ってしまいます。 しかし、この男が誰もが羨むイケメンでないところが、かえってリアリティがあって、賢いはずのジェニーが引っかかってしまうのに説得力を与えているのではないでしょうか。 しかも、厳格だったはずの父親まで、コロッと騙されてしまい、このまま永久就職でもいいかな、と思わせてしまうのですから、たいしたものです。 観ている観客は、どう見ても胡散臭い男に引っかかるジェニーたちに、「おいおい、大丈夫か、騙されているよ。」と突っ込みを入れながら、ハラハラドキドキして、その動向を観届けずにはいられない心境に陥ります。そして、観終わった後は、この聡明なジェニーにふさわしい、めでたしめでたしの結論(もちろんそれは秘密です。)に、すっかり安堵し、満足している自分に気づかされるのです。このロネ・シェルフィグというデンマーク出身の女流監督、キャリアはとても少ないのですが、只者ではないな、と思わせてくれます。 ということで、確かにアカデミー作品賞ノミネートにふさわしい、ただの恋愛映画ではない、いい映画に出会えて満足したというお話でした。 もちろん、かわいい女子高生姿から、実は結構セクシーで美しいプロポーションが際立つファッショナブルな大人っぽいかわいらしさ、そしてベッドシーン(さすがに激しい性交シーンはありませんが。)まで、キャリーの魅力を満喫でき、僕的には大大大満足だったことは言うまでもありません。 ますます「華麗なるギャツビー」が楽しみです。
2013.06.05
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「マイ・ブラザー」 Brothers 2009年 アメリカ映画監督 ジム・シェリダン出演 トビー・マクガイア ナタリー・ポートマン ジェイク・ギレンホール キャリー・マリガン CATVで放送していたのを、予備知識ほとんどなく、録画しました。なんか、少し前のデンマーク映画のリメイクみたいですね。最近のハリウッドは、他国の作品のリメイクが得意ですから。 数日後アフガニスタンへ出征することが決まっている米軍大尉サム・ケイヒル(トビー・マグワイア)は、銀行強盗で服役していた弟トミーの(ジェイク・ギレンホール)が仮出所するため、車で迎えに行きます。 アメフトのスター選手として学生時代を過ごした兄のサムは、チアリーダーのグレース(ナタリー・ポートマン)と結婚し、2人の娘に恵まれていました。一方、弟のトミーは、長年定職にも就かず、とうとう犯罪に手を染めてしまったのです。 元海兵隊の父・ハンクは厄介者の次男に辛辣な言葉を投げつけ、グレースと娘たちも彼への嫌悪を隠そうとしていません。トミーが唯一心を開くのは、変わらず接してくれる、兄サムだけでした。 ところが、サムが戦地へ旅立って間もなく、アフガニスタンで撃墜され、死亡したとの知らせが届きます。一家は悲しみに暮れ、トミーも現実から逃げるかのように酒に溺れる日々でした。 トミーは次第に、兄が何よりも大切にしていたグレースと娘たちを、自分が支えなくてはと思い始め、以前からグレースが使いづらいと嘆いていたキッチンのリフォームを進めたりしていく中、娘たちは徐々に笑顔を取り戻し、最初は迷惑そうだったグレースの気持ちも救われていき、トミー自身の心も癒されていくのでした。 そしてある夜、初めて本音を語り合ったトミーとグレースはどちらからともなく唇を重ねるのでした。罪悪感を覚えながらも、互いに惹かれていく2人だったのです。 しかし、ある日一報が届きます。実は、サムは生きていたのです。部下の二等兵とともに、ゲリラの捕虜として捕えられていたのでした。 グレースやトミーたちは、空港に降り立つサムの痩せ細った姿に驚きながらも、再会を祝います。しかしサムは、もはや以前のサムではなかったのです。 優等生の兄と出来の悪い弟という古典的な構図ですが、そこに戦争後遺症と兄嫁との関係を絡めた、まあまあ感動できる秀作です。 主要の3人に、今が旬の若手演技派スターをキャスティングしているだけあって、彼らの三人三様の演技が見ごたえがあります。 「デイ・アフター・トゥモロー」や「ゾディアック」など、どちらかというと優等生的な若者を演じていたジェイク・ギレンホールが、悪びれているは、根はいい奴というひねた弟を好演していますし、ナタリ-・ポートマンは、夫を愛しながらも、頼りになる義弟に心が揺れ、変わり果てた夫に困惑している女性を、抑えた演技で巧みに表現しています。 でも僕的には、「スパイダーマン」で、お調子者のヒーローを演じていたトビー・マクガイアが、戦地帰りでやせ細って、目がいってしまっている男(元々、目力がある人だとは思っていましたが。)を怪演していたのが、非常に印象に残りました。(つくづく、僕っていっちゃてる演技が好きですね。) ところで、気になるところがないわけではありません。 それは、優等生の兄と出来の悪い弟の対比が、会話の中で語られるだけで、映像での描写がないのが残念だということです。 トビー・マクガイアもナタリー・ポートマンも童顔で、メイクや服装で工夫すれば十分に大学生に見えるので、学生時代スターだったサムとグレース、それを羨みながら陰から見つめるトミーという回想場面が、1つ2つ挿入されていれば、より3人の関係がわかりやすかったのではないだろうかと思ってしまいました。 ということで、なかなかの秀作に出会え、ちょっとうれしかったというお話でした。 ところで、最近僕のお気に入り女優の仲間入りしたキャリー・マリガンが、サムとともにゲリラに捕虜として拘束されていたが死亡した二等兵(なぜ死亡したのかは一応秘密にしておきましょう。)の残された奥さん役で、ちらっと出演しており、思いがけず出会えてうれしかったですが、演技派の彼女にしては出番が少なすぎて、ちょっと物足りなく感じ、残念でした。(まあ、彼の死亡理由を考えると、この奥さんの出番がもっとあったら、泥沼になっていたかもしれないので、よかったかもしれないけどね。) 今度、ディカプリオ主演の新作「華麗なるギャツビー」のヒロインやってるんですよね。ちょっと、楽しみです。
2013.05.26
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「アントキノイノチ」 2011年 日本映画原作 さだまさし監督 瀬々敬久出演 岡田将生 榮倉奈々 松坂桃李 原田泰造 TVCMで、“アントニオ猪木”と非常に似た題名で、主演の2人が、「元気ですか~!?」と叫んでいる映像が流れていたのが非常に気になっていた映画です。あのプロレスの大御所の名と似た題名で、しかもお決まりのセリフを2人で叫んでいる、ということはコメディですか、と思っていたのです。 遺品処理業者の話ということも分かっていました。実は、遺品処理の苦労などを書いた本を読んだことがありまして、遺品処理を依頼してくるのは、けっこう老人の孤独死の場合が多く、その多くは死後1カ月後の発見とか、遺体の腐敗した後など、溶けてしまった人体がこびりついた絨毯とか、死臭が滲み付いたカーテンとか、けっこうきついものがあるという話で、それがどのように描かれているかも気になったのです。 さだまさしさんは好きです。何が好きかって、歌詞の美しさ、巧みさ、そして歌っている時間よりもMCの時間の方が長いコンサート。「パンプキンパイとシナモンティー」とか「もうひとつの雨やどり」とか「雨どりや」とか、「木根川橋」とか、明るい歌が好きです。「敗戦投手」も好きですね。「前夜」とかも。 この映画、さだまさし原作だなんて、全く知りませんでした。観始めてびっくりしました。でも、それならハッピーエンドだな、と思いました。暗いシリアスな歌が多い人ですが、本人は冗談好きで、非常に明るい人ですから。 高校時代にいじめや友人の自殺などに遭い、心を閉ざしてしまった永島杏平(岡田将生)が、遺品整理業で働くことになり、先輩社員・佐相(原田泰造)、久保田ゆき(榮倉奈々)にいろいろと教えられ、働いていく中、残された家族と交流したり、同じく心の闇を持つゆきと心をつなげていく様子を描くとともに、もうひとつ、生まれつきの吃音のため物事に積極的になれない杏平が、心を壊していった高校時代のエピソードが、並行して描かれ、つながっていく命の大切さなどをテーマに作られているお話です。 一般的にはあまり知られていない“遺品整理業”という仕事の様子と遺族との交流、杏平に心を壊した高校時代のできごと、そして、杏平とゆきの恋愛、この3つが描かれているわけですが、はっきり言って、すべて中途半端で、心の奥のまでしっかりと描き切れていないような気がします。 “命”というテーマで、つながりあっている三本柱なので、どれもが切れなかったのだと思いますが、内容が盛り沢山過ぎて、しっかり整理し切れていないのだと思いました。 はっきり言って、観客の誰もが「うそ~~~!!!」と思ってしまった、実は調べてみたら原作とは違うという、結末(一応どんな結末かは書かないでおきます。)の部分はいらないので、ゆきが仕事を辞めるのをなしにして、2人が砂浜で叫んでいるシーンで終わりにして、その分、よく内容を吟味して、より分かりやすく描いてほしかったなと思いました。 特に、高校時代のエピソードが違和感ありありなのが非常に気になりました。 まず、気になったのが、いじめっ子の松井(松坂桃李)という男、彼の心の動きがちぐはぐというか、全く分からないんですよ。 生徒たちが集まって見つめている先にいたのは、ナイフを持っている山木、そしてそれを突き付けられておびえている松井です。日頃、山木は松井にいじめられていて、その積もり積もった鬱憤が爆発したということでしょう。その後、仲間だと思っていた杏平に止められた山木は、3階の渡り廊下から飛び降りてしまいます。 ひとりの生徒が自殺するきっかけとなったいじめをしていた松井は、それでも反省せず、次は恭平を標的にして、その後も今まで通りに高校生活を続けています。 なぜでしょう。後からの描写を見ても、そんなずぶとい神経を持つ男とは思えないのですが、反省して更生するか、心を壊してしまうか、徹底したワルになってしまうか、そのどれかだと思うのですが、1番有り得ない、そのまま続けるという展開、非常に不可解です。 それから、先生たちは何をしているのかということも気になりました。 生徒(山木)が自殺したんです。その前に、ひとりの生徒(松井)にナイフを向けているんです。ということは、ナイフを向けられた生徒に事情を聴くはずですよね。そうすると、彼がいじめをしていたことが明らかになるはずですよね。そうしたら、指導するはずですよね。 しかし、その後の彼の言動を考えると、指導されたとは思えないのですが、どうでしょう。松井は、その後、標的を杏平に変え、いじめを続けます。そして、山岳部の事件を経て、文化祭での事件です。 また、山岳部の先生の言動も変です。 山岳部で合宿かなんかで、山に行ったとき、杏平と松井の2人きりで、“アリの門渡り”といわれる、幅1mもない両側崖の道を行くことを、なぜ許可するのか。いくら杏平が登山に関しては経験があり、信頼できるといっても、高校生ですよ。何か事故があったとき、どう責任を取るつもりだったのでしょうか。しかも、後の文化祭の場面の言動ではっきりするのですが、杏平と松井の関係を知っているんですよ、彼は。 その上、案の定、危ない状況(怪我するという状況ではなく、命が危ないという状況です。)、になっていて、しかもそれを下の方から見ていて(まあ、助けに行ける距離ではなかったと思いますが。)、しかもその上、写真まで撮って、大きく引き伸ばして文化祭で展示するという能天気振りです。いったい、彼は教育者なのでしょうか。彼には親御さんから生徒を預かっているという責任感というものがあるのでしょうか。 ということで、杏平が壊れても当然という状況なのですが、いったい、現在の教育現場の状況というのは、こんなものなのでしょうか。 以上、感動して涙ポロポロになってもおかしくない題材なのですが、あまりにもうまくない作り方で、全く感動できなかった、非常にもったいない映画を、今日は紹介しました。 ところで、さだまさし原作だから、当然主題歌も彼だと思ったら、Greeeenでしたね。結末を変えるなど、ひどい出来にしたから、怒っているんですかね。
2013.03.22
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「八日目の蝉」 2011年 日本映画監督 成島出出演 井上真央 永作博美 小池栄子 渡邉このみ 劇団ひとり 森口瑶子 ということで、「八日目の蝉」です。 以前「金曜ロードショー」で放映していたのを、録画していましたが、内容が重いことが分かっているので、なかなか踏ん切りがつかず観ていなかったのを、昨日、「ディープエンド・オブ・オーシャン」を観たことにより、これは観なければと思って、観てみました。 日本アカデミー賞10部門受賞(作品賞・監督賞・主演・助演女優賞など)を筆頭に、数々の賞に輝いた、角田光代原作の同名小説の映画化です。 野々宮喜和子(永作博美)は、不倫の末妊娠した子を中絶し、子宮が癒着し二度と子が産めない体になります。 喜和子は同時期に生まれた不倫相手の本妻(森口瑶子)の娘・恵理菜を一目見たいと、夫婦が2人で外出した夜、家に忍び込みます。 赤ん坊を見た喜和子は、愛おしいあまり赤ん坊を連れて逃げてしまい、生まれるはずだった子につける予定だった名前・薫と呼び、育てます。 4年後、小豆島で逮捕され、薫こと恵理菜(渡邉このみ)は本当の両親の元へ返されました。 17年後、恵理菜(井上真央)は、大学生になり、都会でひとり暮らしをしていました。ある日、バイト先に、誘拐事件のことを調べているので話を聞かせてほしいと、千草(小池栄子)という女が現れます。 恵理菜は、岸田(劇団ひとり)という妻子ある男と不倫しており、妊娠していることが分かり、ひとりで産む決意をします。 現代の恵理菜の元に千草がやってきて、事件のことを振り返り始めるのと並行して、喜和子と薫(恵理菜)の逃亡生活の様子が映し出されていきます。(恵理菜は逃亡中は薫と呼ばれているので、逃亡生活の部分では、薫と書きます。ご注意を。) 序盤から目がウルウルして来て、要所要所でこみ上げて来て、観終わったらボロボロでした。喜和子が赤ん坊を持ち去るシーンから始まり、とりあえず入ったホテルで泣きやまない薫におっぱいをあげようとするがあげられなかった(当然)シーン、家に戻ったばかりの恵理菜が逃げ出し、「知らないおじさんとおばさんの家にいる。」と警察に保護される回想シーン、恵理菜が“お星さまの歌”を歌ってと言われ分からず、ヒステリーを起こした母親に「お母さんごめんなさい。お母さんごめんなさい。……」と何度も繰り返し謝るシーン、喜和子がエンジェルホーム(傷ついた女性たちが救いを求めて集まってくる謎のボランティア団体)に入れてもらおうと泣きながら話をするシーン、エンジェルホームに警察が来ると聞いて、喜和子と薫が逃げ出すシーン(“お星さまの歌”は“見上げてごらん夜の星を”でした。)、喜和子と薫が小豆島(あずき島ではない「しょうど島やでぇ。」)で、きれいな海を見ながらいろんなもの見に行こうというシーン、それと呼応して恵理菜がお腹の子のエコー写真を見て「この子にいろんなきれいなものを見せてやる義務があるんだ。と思い、産むことを決意した。」と千草に打ち明けるシーン、お祭りで宵闇の段々畑に松明の光が並ぶのを見て、喜和子と薫が見とれるシーン、島の写真館(たぶん唯一)で写真を撮るシーン、フェリー乗り場で喜和子が捕まるシーン、それと呼応した、フェリー乗り場でそのシーンを恵理菜が思いだすシーン、そしてラストシーン、もう涙が後から後から溢れて来て止まりません、でも、全く映像を止めることなく、2時間ちょっと、一気に観てしまいました。 とにかく、女優陣の演技がどれもこれも、最高です。 永作博美さんが前からうまいなのはわかっていましたが、明るい可愛い娘ばかりだった井上真央さんがこんなにシリアスな演技ができるなんて思いませんでした。小池栄子さんも、いつも男勝りなきつそうな女ばかりだったのに、こんな控え目な優しい女ができるとは知りませんでした。 そして、お母さん役の森口瑶子さん、ヒステリックで神経質な女を、見事に演じていて、心の底から嫌な女と思ってしまいました。 あっ、そうそう、忘れちゃいけない、子どものころの恵理菜(薫)を演じていた渡邉このみちゃんも最高でした。この子の顔のアップで、涙があふれてきたのが一番多いです。 しかし、恵理菜のお父さんといい、岸田といい、男って、何て身勝手なんでしょうか。子どもができて困るんなら、初めからキチンと避妊しておけよ。欲望に任せて女を抱いて、避妊もせずに、「おろせよ。」とか、「できちゃ困る。」とか、馬鹿じゃないの。 それと、恵理菜のお母さん、自分のヒステリー気質がすべての原因だと気が付いていないのですね。かわいそうな女です。確かに、生まれたばかりの赤ん坊を置いて2人で出かけちゃあ行かんぜよ。 恵理菜はきっと、生まれた子に「薫」と名付けますね。男でも女でも。そして、愛情たっぷりに育てますね。きっとかわいい、いい子に育ちます。
2013.03.17
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「ディープエンド・オブ・オーシャン」The Deep End of the Ocean 1999年 アメリカ映画監督 ウール・グロスバード出演 ミシェル・ファイファー トリート・ウィリアムズ ウーピー・ゴールドバーグ 夜中にTVで放送していたものを録画しました。はっきり言って、内容はまったく知りません。いったいどんな映画なのでしょうか。 1988年のウィスコンシン州マディソン、写真家のベス(ミシェル・ファイファー)は夫パット(トリート・ウィリアムス)と2人の息子、生まれたばかりの娘の5人で幸せに暮らしていました。 ある日、ベスは高校の同窓会に子どもたち3人を連れて行きますが、7歳の長男ヴィンセントに手をつないで待っているように言っておいた3歳の次男ベンが、ベスが目を離した隙に行方不明になります。担当のブリス刑事(ウーピー・ゴールドバーグ)らの懸命な捜査にもかかわらず、ベンが見つからないまま9年の月日が流れてしまいます。 家族でシカゴに移り住んだベスは、ある日、近所に住む12歳の少年サムがベンにそっくりであることに気付きます。 ブリス刑事らに連絡して調べてもらったところ、サムがベン本人であることが判明しますが、サムの父ジョージにはサムが誘拐された子であるとの認識は全くなく、5年前に自殺したジョージの妻の連れ子だということでした。その妻は、ベスの高校時代の同級生セシルであり、精神を病んでいたため、亡くなった自分の子と同い年のベンを9年前の同窓会で誘拐していたことが判明します。 なるほど、「八日目の蝉」でしたか。 なんかアメリカの平均的な普通の家庭が出てきて、男の子がひとりいなくなって、その捜索のため、ウーピー・ゴールドバーグ扮する敏腕らしき女刑事が出てきて、これは、誘拐事件を敏腕刑事が解決するサスペンスかな、それとも子どもがいなくなって家庭崩壊する物語かな、思っていたら、子どもが見つからないまま、いきなり9年もたってしまって、あっさり行方不明の次男が見つかって、という展開でびっくりしました。 ドラマはその後でした。9年間も違う親と違う家で育てられた少年、しかも、人格形成に大切な幼児期から児童期を丸々です。見つかった時点で12歳、「実は君の家はここなんだよ、今日からここで暮すんだよ。」と言われても、「はい、そうですか。」とはならないですよね。そこには絶対ドラマが生まれます。うまくいかなくて家庭崩壊するとか、返って家族のきずなが強まってめでたしめでたしか、もしかしたらクライム・サスペンスに発展するのか(子どもを奪われたジョージが奪われた子どもをまた誘拐するとか、ベスの一家を惨殺するとか。)、どんな方向に転んでも、面白いドラマが作れそうですよね。 でも、はっきり言ってこの後のお話が面白くないんですよね。というか、どういう方向にいくかどうかは秘密にしておきますが、脚本が良くないのか、演出が良くないのか、役者の演技が良くないのか、それともその全部なのか、とにかく、登場人物の心情の表現がうまくないというか、心の動きがあまりよくわからないんですよ。だから、感動するはずの話が、感動できないのです。 ということで、非常にがっかりした次第です。 この映画ヒットしなかったでしょうね。お話は面白くないし、大スターは出てないし、おばさんになったミシェル・ファイファーが主役で、歌いも踊りもしないウーピー・ゴールドバーグでは目玉にならないし、売れる要素ゼロですからね。 ところで、題名の意味が全く分からないのは困りものですね。同じ題名の原作小説ならどこかに題名の意味がわかる描写があるのかなあ? さあ、今度は同じ題材で感動できる、「八日目の蝉」でも見ることにしよう。
2013.03.16
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「フラガール」 2006年 日本映画監督 李相日出演 松雪泰子 豊川悦司 蒼井優 岸部一徳 富司純子 山崎静代(南海キャンディーズ) あの東日本大震災からちょうど2年です。今日のこの日に合わせて、この2.3日、TVでは、ニュース番組やワイドショー、特別番組などで、2年たった被災地の様子を映し出しています。 被災地の街は、復興しつつあるところもありますが、津波でさらわれた町には人々は戻らず、更地のままのところが多くあります。原発の事故で汚染された地域は、除染などが思ったように進まず、警戒区域を解除された地域でも、人々は戻ってきておりません。いまだ警戒地域の場所では、全く手つかずで、あの日のままの状態で壊れた家や瓦礫が放置されています。原発の現場も原子炉などもそのままで、汚染水を貯めておくタンクだけが不気味に増殖するばかりです。 人類はこれまで、発電や乗り物の動力など、いろいろな形で原子力を利用してきましたが、人体に有害な放射能を無害にする方法が開発されていないまま、利用してきてよかったのだろうか。かつて未来のエネルギーとして希望の星だった原子力ですが(鉄腕アトムの動力源も原子力です。)、それは本当に人類に有益なことだったのでしょうか。原子力発電などで使用済みの汚染された廃棄物が、処理できずに、ただ貯めてある状況の中、原発の建築を推進してきてよかったのでしょうか。 今また、停止していた原発を、再び動かそうとしている人々がいます。あの大災害は、「人類よ、つけ上がるでないぞ。」という神の警告ではなかったのではないでしょうか。 そんなことを考えさせられた、二年目の今日の日です。 さて、今日は、そんな日にふさわしい映画を紹介します。 福島県いわき市を舞台に、斜陽化しつつある炭鉱の町が、「常磐ハワイアンセンター」(現スパリゾートハワイアンズ)を作り、町おこしに取り組んだ顛末を描いた映画で、当時大変話題になり、日本アカデミー賞最優秀作品賞をはじめ、多くの賞に輝いた映画です。 このスパリゾートハワイアンズのフラガールの皆さんは、大震災で施設が破壊されたにもかかわらず、復興の一助として、各地を回って公演を重ね、人々を励まし続けてこられたことが、広く知られています。 そんなフラガールの最初の皆さんが四苦八苦しながら、一人前になっていく姿、その周りの炭鉱で働く男たちの姿、何とか新事業を成功させ町を維持していきたいと頑張る人々の姿、そんな人々の働きや思いをリアルに映し出している感動作です。 昭和40年、福島県いわき市の炭鉱町、“求む、ハワイアンダンサー”の貼り紙を見せながら、ここから抜け出す最初で最後のチャンスだと、早苗は紀美子(蒼井優)を誘いました。 男たちは、数世代前から炭坑夫として、女たちも選炭婦として鉱山で働いてきました。しかし、今や石炭から石油へとエネルギー革命が押し寄せ、閉山が相次いでいます。この危機を救うために炭鉱会社が構想したのが、レジャー施設「常磐ハワイアンセンター」でした。 紀美子の母・千代(富司純子)も兄・洋二朗(豊川悦司)も、炭鉱で働いています。父は落盤事故で亡くなっていました。千代は炭鉱を閉じて“ハワイ”を作る話に大反対ですが、紀美子と早苗はフラダンサーの説明会に出かけます。 2人のほかに集まったのは、会社の庶務係で子持ちの初子、一際大柄な女の子・小百合(山崎静代・南海キャンディーズ)だけでしだ。 そんな中、娘たちにフラダンスを仕込むために、ハワイアンセンターの吉本部長(岸部一徳)は、東京から平山まどか先生(松雪泰子)を招きました。 本場ハワイでフラダンスを習い、SKD(松竹歌劇団)で踊っていたダンサーだったまどかは、ど素人の娘たちに踊りを教える意欲などなく、母親の借金を背負い、半ば自暴自棄になっていました。 しかし、紀美子たちの熱意に次第に心動かされ、ひたむきな娘たちと接するうちに夢を持つ大切さを思い出していました。 だが、世間の風当たりは依然強く、さらに予期せぬ出来事が次から次へと起きてくるのです。 この映画、なんといっても役者陣の演技がいいです。 都会で敗れ、田舎に流れてきた感が強く、自暴自棄だったが、田舎娘たちのひたむきさに打たれ、気持ちが変わっていくダンサー・まどか、心の底では妹たちを応援していながら、炭鉱の男として素直になれない兄・洋二朗、炭鉱の事故で夫を亡くし、どうしても今までの生活を捨てきれないが、心の底では娘を心配している母・千代、フラにやりがいを感じ、ひたむきに練習する紀美子、炭鉱の作業員たちからは裏切り者と言われながら、ハワイアンセンター設立にお情熱を注ぐ吉本、それぞれがその役にふさわしい、好演を見せてくれます。 しかし、やっぱり注目は、大きな体に似合わず、気が弱く、口べたのため自分の気持ちをうまく伝えられない娘、小百合を演じている、しずちゃん(南海キャンディーズ)です。もちろん皆さんご存じのように、本業はお笑い芸人のしずちゃんですが、実際の性格に近い役を演じてはいるのだと思いますが、いつも変なことを言って観客を笑わせている彼女ですが、実はとてもまじめな性格のようで、真摯に取り組んでいるところが感じられます。 この間、夜中の番組で、相方の山ちゃんが語っていたのですが、ピンの仕事が増えてきているのですが、でも、自分の原点は南海キャンディーズというお笑いコンビだから、ピンの仕事でも、名前のクレジットに必ず(南海キャンディーズ)と入れてもらっている、と、しずちゃん(南海キャンディーズ)が語っていた、ということを聞きました。(だから、この記事でもそうさせていただいております。)オリンピックには出場できませんでしたが、まじめにストイックに挑戦している姿に、好感を持って観ていました。 また、フラガール役の皆さんが、本気でフラを練習し、最後の“常磐ハワイアンセンター”開園の時も、吹き替えでなく、本当に舞台上で役者の皆さんが踊っていたのにも、好感が持てました。どうしてそう思ったかというと、遠景になっても、舞台の端に、ひときわ大きな女性が踊っているのが確認できたからです。 ラスト、踊りきった後のダンサーたちの笑顔や涙は、彼女たちが本当にやりきった達成感から生まれた自然な表情で、だからこそ観ているぼくたちも感動できるのだな、と思いました。 ということで、大震災からちょうど2年たった節目の日に、東北の被災地の皆さんが元気になれる映画を紹介しました。
2013.03.11
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「キャスト・アウェイ」 Cast Away 2000年 アメリカ映画監督 ロバート・ゼメキス出演 トム・ハンクス ヘレン・ハント アカデミー作品賞を受賞している「フォレスト・ガンプ / 一期一会」の監督と主演が再びコンビを組んだ感動作です。全編の半分以上がトム・ハンクスのひとり芝居です。22kg減量し、ゴールデングローブ賞の主演男優賞(ドラマ部門)を受賞しています。(アカデミー賞はノミネートのみです。) 国際運送会社大手のフェデックスに勤めるチャック・ノーランド(トム・ハンクス)は、常に効率よく、短い時間で荷物を届られるように、従業員に発破をかけるのが仕事です。社用機で飛ぶ出張先にも自らストップウォッチ入りの荷物を送って時間を計るほどの徹底ぶりです。 仕事も充実し、結婚を考えている恋人のケリー(ヘレン・ハント)もいて、不満のない人生を送っていました。 ロシア支社の出張から帰り、つかの間のクリスマス休暇を楽しんでいましたが、仲間とのパーティの最中、ポケベルに連絡が入ります。ケリーに「大みそかは一緒に過ごそう」と告げ、クリスマスプレゼントの、ケリーの祖父の形見だという懐中時計(ケリーの写真入り)を手に、チャックは、社用機でいつものように出張に出かけます。 ところが天候が荒れる中、飛行機に事故を起きてしまいます。 チャックが目を覚ますとそこは南太平洋の無人島だったのです。 上映時間144分ですが、そのうち1時間15分ほど、トム・ハンクスのみの場面です。もちろん無人島に流れ着いたというお話なので当たり前ですが、さすがはアカデミー賞の常連(主演男優賞2回)の演技派トム・ハンクス、見事な演技で、まったく退屈しません。 無人島で4年間過ごしたチャックの心のよりどころは3つありました。懐中時計のケリーの写真、流れ着いた宅配の荷物の中で天使の羽根のイラストが気になって開けずに残していた箱、そしてバレーボールのウィルソンです。 ウィルソンは、けがをした手で偶然触ってついてしまった手形が顔に見えたことから、彼の寂しさを紛らわす話し相手です。名前は、ボールに初めから書いてありました。グチを言ったり、けんかをしたりと、何かと話しかけています。 このウィルソンとの別れのシーンは、冷静に考えてみたら非常におかしな状況ですが、彼の巧みな演技のため、さんざん感情移入させられている観客は、涙なしには見ていられないでしょう。 また、この映画、チャックが奇跡の生還をして、ケリーと再会して、めでたしめでたしで終わっていません。チャックが生還してからも30分以上お話は続くのです。その部分が長すぎるという意見もありますが、僕はそうは思いません。 チャックが消息を絶って4年の月日が流れています。周りのだれもが、彼は死んだと思っていました。まあ、普通は待っていないでしょう。 しかし、彼は帰ってきました。でも、4年は長いです。彼を亡くした悲しみは癒され、新しい生活ができ上っていて当然の時間です。うれしい気持ちはありながら、普通は戸惑いの気持ちが大きいでしょう。詳しく書くことは控えておきますが、この映画のラストの展開は、当然でしょう。とても現実的です。トム・ハンクスの非常にリアルな演技にふさわしい、リアルなラストだと思います。 ということで、涙なしには見ていられない、感動作です。
2013.02.23
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「ブラック・スワン」 Black Swan 2010年 アメリカ映画監督 ダーレン・アロノフスキー主演 ナタリー・ポートマン ナタリー・ポートマンが、10kgの減量と、1年半のバレエレッスンで臨み、鬼気迫る熱演をして、米アカデミー賞の主演女優賞はじめ、数々の賞に輝いた名作です。 ニナ(ナタリー・ポートマン)は、ニューヨークのある一流バレエ団に所属し、バレリーナとして人生の全てをバレエに捧げる日々を送っています。一緒に住む母親も元バレリーナで、自分が果たせなかったバレリーナとしての夢をニナに託し、彼女に対して過剰なほどの愛情を注いでいます。 バレエ団の監督トマは、次の公演『白鳥の湖』のプリマ(主役)に、今までのプリマ・ベスではなく、新人のリリー・ヴェロニカ・ニナの中から選ぼうとしていました。 しかし、ニナの生真面目で几帳面な気性はホワイト・スワン役には向いていたが、ブラック・スワンを表現しきれず、トマはヴェロニカを主役に選ぼうとします。 再考を懇願しに監督のところへ行き、トマに突然キスをされたニナは、思わず彼の唇を噛んでしまいます。 ニナに意外な面があることに気付いたトマは考えを翻し、ニナを主役に抜擢します。 バレエ団は次の公演のためにレセプションを開き、トマはバレエ団のプリマだったベスの引退を発表し、さらにその場でニナを新しいスターとして招待客に紹介しました。 ニナは華々しいデビューを飾るが、ロビーでトマを待っていたところにベスが現れ、トマを性的に誘惑してプリマの座を得たのだろうと詰られ、ショックを受けます。 その後、トマのアパートに招待された彼女は、ブラック・スワンを演じるために性的な喜びを追求することが必要だと忠告を受けるのです。 次の日から過酷な練習が始まるが、ニナは性的に魅了するような情熱に欠けているとトマに責められ、やがて精神的に疲れ幻覚や妄想に悩まされるようになり、代役として控えているリリーが、自分がせっかく射止めた主役の座を奪おうとしているようにも思えてならなくなってくるのです。 いいですね、清純派のバレリ-ナがだんだん壊れていく様子。 いつの間にかついている背中のひっかき傷、指のささくれからの出血から始まり、すれ違った女性の顔が自分の顔だったり、誰もいないはずなのに視線を感じたり、最初は些細なことだったのが、母親からのプレッシャー、監督からの厳しい指導、プリマの座を奪われたベスからの罵倒と自虐的な事故、ライバル・リリーの存在、そういったことが、だんだんと彼女を壊していき、幻覚や妄想がひどくなっていきます。とりわけ、舞台初日の前日と当日の描写はすごいです。(どうすごいのかは、内緒にしておきましょう。)幻覚や妄想ではない場面でも、普通の場面でも、だんだんと笑顔を見せなくなり、表情がこわばっていき、普通の精神状態ではないことがひしひしと伝わってきます。 このニナがだんだん壊れていく様子を見ていて、山岸良子先生の漫画を思い出しました。 山岸先生は、「アラベスク」とか、「舞姫テレプシコーラ」といった、バレエを題材にした漫画を描いていますが、それではありません。ああ、そういえば「黒鳥ブラックスワン」という、白鳥はうまく踊れるけど黒鳥がうまく踊れないバレリーナの話という、この映画と似た短編もありましたが、それでもありません。 「鬼子母神」という短編です。 できのいい兄とできの悪い妹の二卵性双子のお話です。ちょっとコメディタッチな妹の語りで話は進みます。「兄は王子様で、私は悪魔で、母は菩薩様で、父は表札です。」という家族のお話です。双子ですが、兄は跡取り息子として、大切に育てられ、兄自身もそれにこたえようと必死で頑張り、T大合格率No.1の進学校に必死で進学します。しかし勉強についていけず、登校拒否になり、父親に暴力を振るうようになります。妹は女の子だからと言われ、家事の手伝いを強要されるが、反抗するので、期待されずに育ち、普通の高校に進学します。 結局、兄は母親の溺愛の元最後まで立ち直れないのですが、主人公の娘の方は、自分で道を切り開いてたくましく生きていこうとするところで、お話は終わります。溺愛されて育てられた息子の方のことはもちろんなのですが、娘の方のエピソードも思い出しました。女子として母親に家事の手伝いを強要され、お客様にお茶を運ぶように命じられる場面のことです。母親は、お客様に失礼がないように「もう4年生なのだから、これくらいできなくちゃね。」とプレッシャーを与えます。すると娘は、いつになく緊張し、お茶をこぼしてしまうのです。 ニナは、母親が志半ばであきらめざるを得なかった、プリマバレリーナになるという夢を託されて、厳しく育てられたようです。映画の中で、『白鳥の湖』の主役を獲得した夜、母は、お祝いのケーキを用意していました。ケーキを切ろうとしている母に、ニナは、「大きい、大きい。」と、ダイエットを気にします。その態度を見て、「悪かったわ、これはもう捨てるわ。」と、ケーキを丸ごとゴミ箱に放ろうとする母を、ニナはあわてて制します。ニナがどのように育てられてきたか、よくわかる場面です。 とりわけ、バレリーナとしてこれからという時に、ニナを妊娠してしまい、引退を決意した母にとって、性的な部分でのプレッシャーはかなり厳しいようで、レセプションのあった夜、黒鳥の気持ちをつかむために、監督から自慰をする宿題を出されたニナは、翌朝起きがけにベッドの中で自慰を始めますが、夜着替える時に背中のひっかき傷を発見され心配してベッドわきでうたた寝したまま朝を迎えた母親を発見して、あわてて布団の中に隠れます。 なるほど、ニナの生真面目で几帳面で、臆病な性格は、こうした母親からのプレッシャーで作られてきたのだな、と思いました。 「鬼子母神」の女の子は、母親からプレッシャーを受けつつも、小さい時に母親の二面性に早々と気付き(母親の後頭部に鬼神の顔があるという表現になっています。)、反抗すること(つまり悪魔です。)で、プレッシャーから自己防衛することができたのですが(でも、女としての自信はすっかり失っていました。)、母親のプレッシャーを思いっきり受け、必死で応えようとしていたお兄ちゃん(つまり王子様です。)は、母親の庇護の元から脱却することができませんでした。 ニナも真面目に母親の期待に応えようと頑張ります。おかげで、バレエ団のトップを狙える位置まで来ることができました。 しかし、最後の難関をクリヤするために課された課題は、母親が1番嫌悪していた性的な経験でした。今まで受けてきた母親の教えと、180度違う課題を監督から与えられたことにより、自分自身が崩壊していってしまうのです。 お人形様のように美しい王女役でスターになったナタリー・ポートマンが、ベッドでの自慰や性交する姿や、だんだんと精神的に混乱してくる姿など、まさに体当たりで演じているのには、はっきり言って圧倒されます。演技派女優としての彼女の今後が非常に楽しみです。 ところで、リリーの背中に大きなタトー(ツバサかな?)があったのですが、あれって、いいのですかねえ。確かに自由奔放に生きる女性として、わかりやすいですが、バレリーナとしては、よろしくないのではないかと思ってしまいましたが。
2013.02.09
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「レスラー」 The Wrestler 2008年 アメリカ映画監督 ダーレン・アロノフスキー主演 ミッキー・ローク 年末年始に録画していた作品です。ミッキー・ロークが、ゴールデングローブ賞主演男優賞(ドラマ部門)を受賞し、アカデミー賞でも最有力だ、と当時話題になった作品です。アカデミー賞の受賞は惜しくもなりませんでしたが、最近、「ドミノ」や「アイアンマン2」で、渋くてたくましく男くさい男を好演している彼が渋いロートルのレスラーをどう演じているか是非見たかった作品です。 ランディ・ロビンソン(ミッキー・ローク)は、1980年代、“ザ・ラム”の愛称で一世を風靡した人気レスラーでした。しかし現在は、スーパーでバイトしながら、週末はリングに上がるという、ときには家賃が払えず、大家から閉め出しを喰うこともあるほどギリギリの生活を営んでいました。 家族とも別れて久しい彼の楽しみと言えば、たまに行くバーで、お気に入りのストリッパー、キャシディと酒を飲むことくらいでした。 しかし、プロモーターにかつての名勝負ジ・アヤトラー戦の20周年記念試合の企画を聞き、心躍らせていました。 そんなある日、激しいデスマッチの後、ランディは、突然の心臓発作で倒れてしまいます。長年の激しい試合と、マッチョな肉体を維持するために服用してきた薬のため、彼の体は悲鳴を上げていたのです。 心臓のバイパス手術をしたということで、医者から激しい運動を禁止されたランディは、引退を決意し、人生をやり直そうと、キャシディからのアドバイスもあり、別れていた娘ステファニーと会い、関係を取り戻すことができました。 しかし、深酒をして、娘とのデートの約束をすっぽかしてしまったランディは、ステファニーに愛想を尽かされてしまいます。 自暴自棄になったランディは、バイト先のスーパーでもミスしたことから店頭で暴れ、クビになってしまいます。 やっぱり自分にはリングしかないと決意したランディは、ジ・アヤトラーとの記念試合を再び企画してもらい、心配して駆け付けたキャシディの制止も振り切り、命をかけてリングに上がるのでした。(調子にのって全部あらすじを書いてしまいました。) やられました。観終わった後、涙が止まりませんでした。今も文章を打ちながら思い出して、目がうるんできてしまっています。 かつては、「がんばれ元気」の第2巻(元気のお父さんが死ぬところ、本当に泣ける話です。)以外、何かを見て泣くなんてめったにない僕でしたが、最近は、「ロード・オブ・ザ・リング」のサムを観て泣いたり、「トイレの神様」のフルコーラスを聞いて泣いたり、と、年のせいか、何かと涙もろくなっている僕ですが、この映画は、心の奥底から、泣けてきてしまいました。 やられました。僕のようなさびしいおじさんが見てはいけない作品でした。いろいろとランディの気持ちがストレートに伝わってきて、自然と涙があふれてきてしまったのです。 最後の場面、試合のクライマックス、トップロープからの必殺技“ラム・ジャム”で、飛びかかったところで、プツっと切れて真っ暗になるのは、やっぱり、そういう意味ですよね。(と、打ったところで、また眼が熱くなってきてしまいました。) でも、やっぱりリングの上で迎えることができて彼は本望だったのですかね。そう思いたいです。 試合の前に戦うレスラー同士で打ち合わせをしていたり、控室でドーピングの薬を買う場面があったり、と、プロレスの暗部も包み隠さず描いたことで、やや物議を醸している作品だということですが、ミッキー・ロークが文字通り体を張って大大大熱演を見せてくれた、素晴らしい作品でした。
2013.01.29
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「クライマーズ・ハイ」 2008年 日本映画監督 原田眞人出演 堤真一 堺雅人 遠藤憲一 滝藤賢一 高嶋政宏 山崎努 小澤柾悦 まだまだ、年末年始で録画した映画の紹介は続きます。 1985年8月12日、群馬県の御巣鷹山山中に墜落した日航機の事故の取材を巡る、地方新聞社(架空)の奮闘を描いた、以前このブログでも紹介した「半落ち」の作者横山秀夫の同名小説の映画化作品です。 1985年8月12日、北関東新聞社の記者悠木(堤真一)は、仕事終わりに友人の同新聞社販売局員の安西(高嶋政宏)と谷川岳に登る約束で、新前橋駅で待ち合わせをしていました。 しかし、社を出ようとした悠木に県警キャップの佐山(堺雅人)が駆け寄り、耳元で囁きます、「ジャンボが消えたそうです。」と。 急遽、全権デスクに任命された悠木は、現場が混乱する中、安西との約束を果たせず必死で指揮をとります。まず、ジャンボが落ちたのは群馬だろうとほぼ確信し、佐山と神沢(滝藤賢一)を現場の山に送ります。 一方、安西は仕事を必死で処理し、急いで新前橋駅に駆けつけたが電車に間に合わず、そのままクモ膜下出血を発症して意識不明となり日赤病院に運ばれていました。悠木にその事実が知らされたのは翌日で、病院に駆けつけた時には遷延性意識障害のため植物人間のような状態となっていました。 佐山と神沢が必死でつかんだ一番最初の現場雑観は、旧態然とした首脳部の考えから無線が導入されておらず、下山しないと連絡できないことや、輪転機の不調から締め切り時間が早まっていることを、かねてから確執のある等々力部長(遠藤憲一)に知らされていなかったことから、締め切りに間に合わず、記事から落とされしまうのでした。 この題材となっている日本航空123便の事故については、520名もの犠牲者を出しており、その中にかつて一世を風靡した歌手坂本九さんがいたり、奇跡的に4名の生存者がいたり、当時非常に話題になった事故ですから、自分自身、非常に印象深く記憶に残っています。 その事故の裏側の報道陣の奮闘を描いたというだけで、非常に心動かされる題材であり、映画にする意味は多大にあると思います。 そして、お話自体は、ベストラー小説ですし、その内容は感動できる話であることは疑いようがありません。 しかし、この「クライマーズ・ハイ」という題名ちょっと不安でした。“クライマーズ・ハイ”とは、登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことです。つまり怖いことが快感になってしまう状態のことで、非常に怖い状態のことです。 この物語、登山が趣味の記者が主人公ということで、他社を差し置いてスクープ記事をゲットし、すっぱ抜くことを登山に例え、異常な興奮状態で、倫理観とか、遺族の気持ちとかを考えずにスクープ記事をすっぱ抜こうとする記者の話かなと、思ってしまったからです。 確かに、主人公悠木は、思いがけず全権デスクに任命され、結構な興奮状態で、連日の記事を作っています。そして、事故の原因についてのスクープを巡っての攻防がこの映画のクライマックスになってくるわけですが、ここで“クライマーズ・ハイ”になって、たいへんなことをしでかさないかな、と不安だったわけです。 で、どうなったかというと、ここでは詳しいことを述べることはやめておきますが、結果としては、安心しています。最後の最後になって、悠木は冷静でした。このある意味どんでん返しの結末は、良かったのではないでしょうか。僕は、原作も、TVドラマ版も観ていませんので、そういう意味では、ドキドキできてよかったです。 ということで、お話的には、いい話だな、と思ったわけですが、実は手放しにいい映画だと思ったわけではありません。 それは、全体を通して、緊迫感がいまいちだなと思ったことです。確かに、紙面を巡って、駆け引きをしたり、どなり合ったり、結構激しいやり取りの描写がみられるのですが、何かいまいちの感が否めないのです。 その原因は何かなと考えるに、画面のリアリティがいまいちなのではないかと思いました。 例えば、北関東新聞社の会社内がきれいすぎるということ。 舞台は1985年です。新聞社とか、雑誌の編集部とかって、もっとゴチャゴチャしているイメージが有りませんでした? 狭いスペースに事務机(よくある灰色のやつね。)がたくさん並んでおり、その上には書類やファイルが山積みになっており、灰皿には吸殻が山積みで、その間に無精ひげだらけで見るからに寝不足でくわえ煙草の男がボサボサ頭を掻きながら、原稿(手書き)を書いている、かつての新聞社って、そんなイメージではないですか? なんか、この映画の北関東新聞の社内って、きれいすぎるんですよね。さすがに、全机にCPが並んでいるということはありませんでしたが、なんか今どきのオフィスという感じで、広々として、スマートなんですよね。 また、佐山と神沢が必死の思いで登山をし、まだ自衛隊や地元の消防団たちが遺体の収容や生存者の捜索をしている事故現場にたどり着き、その悲惨さを目の当たりにするのですが、その事故現場に、バラバラになった機体はあるのですが、乗員乗客の遺体が全く見えないんですよ。自衛隊員が袋にくるまれた遺体らしきものを運んでいる描写はありましたが。バラバラになったり、血だらけになったりして、機体の破片とともに転がっているはずの遺体が全くないんですよね。 まあ、子どもも観るわけだし、遺族にも観せる予定があって、倫理的に問題があるという判断なのかもしれませんが、佐山と神沢は、少し出遅れており、山の中で若干迷っているような描写もあったので、もうすでに遺体の収容は済んでしまってからの到着だったのかと思ったのですが、その後、2人の話に出てくる現場の様子とあまりにも違うので、違和感を持ってしまいました。 とりわけ、神沢は本来は地域報道班(つまり地元のほのぼのとしたニュースばかり扱ってきたということですかね。)で、今回駆り出されて、初めて死体を目の当たりにしたと言っていたこともあり、この後、必死の思いで作ってきた原稿が、時間切れで初日の紙面に間に合わなかったこともあり、精神的に参ってしまうという展開になってしまうのですが、彼が見たものと、画面に見えていたものがあまりにも違いすぎるので、なぜ彼がああなってしまった(一応どうなったのかは秘密にしておきましょう。)のか、リアリティが感じられないのです。 それから、話の本筋とは関係ない(でもきっと、作っている側としては関係していると主張すると思いますが。)ところが、気になりました。 例えば、安西がクモ膜下出血で倒れること、登山仲間としての安西の存在は必要だと思いますが、なぜ倒れ、植物人間にならなければいけないのか、全くわかりません。 例えば、ワンマン社長(山崎努)のわがままぶりとセクハラの件、そして、それと関連して、悠木の母親の件、社長があんなに個性的である必要は全く感じませんし、ましてや、悠木が社長の隠し子である説や、悠木の母親がパンパンだった話は、全く必要ないですよね。 何か話を盛り込みすぎて本筋がぼけてしまうような気がしました。いくら原作にある話だ(原作は読んでいないんで分かりませんが。)としても、いらないものはどんどん切っていいと思いますよ。 ということで、とてもお話的には感動できる話なのですが、どうも今ひとつだったという感想でした。なるほど、日本アカデミー賞に、作品賞をはじめ、多数ノミネート(日本アカデミー賞では、“優秀○○賞”というので非常に紛らわしいのですが。)されていますが、受賞は0というのは、そういうわけなんですね。(ちなみにライバルはあの「おくりびと」でしたので、しょうがないという話もありますが。) ところで、主演の堤真一が優秀主演男優賞というのはわかりますが、堺雅人の優秀助演男優賞というのは、疑問を持ってしまいました。 確かに、よくない演技だとは思いませんでしたが、演技派の彼としては今ひとつ目立っていなかったような気がします。 僕は、彼より、何かと悠木と対立していた等々力部長役の遠藤憲一(LPガスの人です。本当に多くの作品に脇役で出演している、いい役者さんです。) や、事故の現場の生々しさから精神的に参ってしまう神沢役の滝藤賢一(大河ドラマ「龍馬伝」で、薩摩藩家老小松帯刀を好演していた人です。または、「踊る…」で、新任の中国人刑事をやっていた人です。)の方が、目立っていたと思います。 でも、この日本の映画界というのは、こういう地道に脇役でがんばっている人には、脚光を当てないんですよね。日本アカデミー賞では、助演賞でも他の映画では主役をやっている人ばかりノミネートされていますからね。(ちなみに、堤真一は、この同じ回で、「容疑者Xの献身」で、優秀助演男優賞にも入っています。) どうも、コナン映画が毎回優秀アニメ賞に入っているのと同じ、大人の事情が匂ってきますね。
2013.01.28
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「シンデレラマン」 Cinderella Man 2005年 アメリカ映画監督 ロン・ハワード出演 ラッセル・クロウ レネー・ゼルウィガー ポール・ジアマッティ まだまだ年末年始に撮りためた映画の紹介は続きます。 世界恐慌期に、実在したボクサー・ジェームズ・J・ブラドッグの物語です。 1928年、上り調子で世界戦も間近なボクサー、ジェームズ・J・ブラドッグ(愛称ジミー、ラッセル・クロウ)は、妻メイ(レネー・ゼルウィガー)と3人の子どもと豪邸に暮らしていました。 5年後、1933年、ブラドッグ一家は、ぼろいアパートで暮らしていました。世界的な大不況のため、港での日雇労働も毎日できるわけでなく、貧困にあえいでいたのです。 そんな中、試合の準備中、マネージャーのジョー(ポール・ジアマッティ)は、ジミーが右手を痛めていることに気付きますが、金を稼ぎたいというジミーに熱望され、試合をすることを容認してしまいます。 その試合中、ジミーはますます右手を痛めてしまい、クリンチを繰り返すしかなく、無気力試合と判断され、無効試合となり、ファイトマネーももらえず、ライセンスも取り上げられてしまいます。 右手のけがを隠して日雇労働で働くジミーでしたが、思うように稼げず、生活は苦しくなるばかりです。とうとう電気も止められ、メイはジミーが仕事に行っている間に、子どもたちを親せきに預けてしまいます。 ジミーは、恥も外聞も捨て、救済センターに援助を求め、ボクシング委員会にも無心に行き、何とか滞納していた電気代を払うことができ、子どもたちを呼び戻しました。 そんな状況を知ったジョーは、試合直前にけがをした選手の代わりに出場する話を持ってきます。そして、その試合でジミーは勝ってしまうのです。 ジミーの実力を再認識したジョーは、家財道具を売り払い、ジミーのライセンスを復活させ、試合を組んできました。ここからジミーの快進撃が始まります。 冒頭、ボクサーとして絶好調のジミーでしたが、突然5年後、つまり世界恐慌に入ってからの、貧困にあえいでいる場面に切り替わります。その間、何があったのかは、詳しく語られておりません。確かに社会全体が突然、大不況に陥ってしまうのですが、ボクサーとして好成績を上げていれば、そんなに落ち込むことはないはずですが、その辺何が起こっていたのかは、はっきりわかりません。 その後、けがが原因の無気力試合でライセンスを取り上げられ、貧困のズンドコ、じゃなくてどん底になってしまうのですが、マネージャーのジョーが持ちかけてきた、実は期待の新鋭の“かませ犬”としての意味合いだった試合で、ジミーは貧困のどん底の中、ろくにトレーニングもしていないのに、勝ってしまいます。そして、その後は、連戦連勝の快進撃です。 ジェームズ・J・ブラドッグというボクサーは、どうやらすごく強いボクサーのようです。じゃあ、いったい1928年から1933年の、この映画で語られていない5年間の間、いったい何があったのでしょうか。 冒頭の好調な場面からいきなり何の説明もなく、貧乏な場面に移ってしまい、「あれ、いったい何があったの???」と疑問に感じながら、その後の貧困のどん底であえいでいる姿を見せられてしまうので、ますます「???」という頭のまま、話が進んでしまい、感動のストーリーのはずが、いまいち乗り切れませんでした。 それから、ライセンスを取り上げられる原因となった無気力試合になってしまったときのクリンチの仕方が、タックルのように肩からぶち当たっていき、いかにもクリンチをするためだけに前に向かっているように見え、そんな見え見えのクリンチなら、無気力試合と認定されてもしょうがないなあ、と思ってしまいました。 だから、その後の貧困な場面に感情移入できませんでした。 そして、後半の快進撃が、トレーニングをしている描写がほとんどないので、全くリアリティを感じられませんでした。だって、最後は世界タイトルマッチまで行ってしまうんですよ。必死のトレーニングをしなければ、そこまで上がっていくのは容易なことではないでしょう。 トレーニングをせずに連戦連勝でき、世界タイトルマッチまで進めるのでしたら、とんでもない天才ボクサーで、貧困にあえいでいた時期というのはいったい何なんだ、という話になりますよね。 だから、感動のストーリーに、今ひとつ乗り切れませんでした。 このお話、基は実話ですから、お話の展開に間違いはないでしょう。 だから、実際は空白の5年間の間には、のっぺきならない事情があるのだろうし、快進撃の裏には、本当はすごいトレーニングをしているはずです。 どうも、貧困にあえいでいるブラドッグ一家の描写に力を入れるあまり、大事な部分を省略してしまったのではないでしょうか。これは、脚本家の責任でしょうか。せっかくの感動のシンデレラストーリーが台無しです。 ということで、非常にがっかりした、という次第です。 主役のラッセル・クロウが、貧乏なボクサー役ということで、非常にスマートになっており、役作りのために、結構大変な減量をしたんだなあ、と思うと、非常に残念でなりません。
2013.01.24
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「パーマネント野ばら」 2010年 日本映画原作 西原理恵子監督 吉田大八出演 菅野美穂 小池栄子 池脇千鶴 夏木マリ 江口洋介 宇崎竜童 まだまだ、年末年始にTVでやっていた映画の紹介は続きます。 この映画、比較的最近の映画なので、名前だけは記憶に有りました。しかし、その内容は、確か菅野美穂が主演だったよなあ、ということぐらいで、全く何も知りませんでした。 ある田舎の漁村にある唯一の美容院「パーマネント野ばら」。なおこ(菅野美穂)は離婚し、娘を連れて、母(夏木マリ)の経営するこの美容院に身を寄せていました。 美容院は町の女たちの「たまり場」と化していて、 あけっぴろげに自分たちの悲哀や愚痴をこぼし合い、罵り合い、笑いあっていました。 なおこの2人の友人も男運が悪く、みっちゃん(小池栄子)はフィリプンパブを経営しながらヒモ男に金をせびられ、 ともちゃん(池脇千鶴)も付き合う男が皆暴力男で、捨てられてばかりいるのです。 なおこは、地元中学校教師のカシマさん(江口洋介)と密会を繰り返していました。 しかし、愛情を感じながらもなおこは掴み所のないカシマさんの態度に、戸惑いと孤独を感じていたのです。 田舎の漁村に暮らす、だらしない男たちとたくましく生きる女たちの姿を、コメディタッチで描いたお話でした。とりあえず。 みっちゃんは、フィリピンパブを切り盛りしていて、見るからにたくましい女性です。(小池栄子さんの個性そのままです。)ヒモ状態と化している旦那が、店の女の子に手を出しているということで逆上し、車で旦那を引き、自らも怪我してしまいます。 ともちゃんは、見た目はおとなしい地味な女(あまりにも地味すぎて、最初誰かわかりませんでした。)です。どうにも男運が悪いそうで、暴力を受けた上に捨てられてばかりだそうです。今の旦那は、暴力はしないそうですが、ギャンブルばかりしていて、とうとう家に帰ってこなくなってしまい、なおこが山に潜伏しているのに偶然出会うが逃げられ、その後、死体で発見されるというオチになってしまいました。 なおこの母は、町で唯一のパーマ屋を切り盛りし、出戻ってきた娘と孫の世話をし、とたくましいですが、再婚した夫(なおこはニュー父ちゃんと呼んでいるらしい、宇崎竜童)には逃げられてしまっています。(ニュー父ちゃんは別の家で、もっと年上の女と暮らしています。) “パーマネント野ばら”の常連客、パンチパーマの3人のおばちゃんたち(もちろん3人ともいい体格をしています。)は、店に集まっては、下ネタ連発でわいわい騒いでいます。その中のひとりが、気に入った男(細身の中年男)をラブホテルに連れ込んだ、という話が挿入されています。 そんな豪快というか、破天荒というか、たくましく生きる女たちのエピソードの中、なおこが、学校の理科室で、体育館で、トンネルのある山道(帰り道?)で、カシマさんと逢瀬を楽しむ場面が挿入されます。 カシマさんは、まさに理想的なカッコいい男で、なおこをとても大切に扱ってくれます。なおこも、彼と会っている時は、恋する乙女といった感じで、非常にかわいいしぐさや表情を見せています。(思わず、「惚れてまうやろー!!!」と叫んでしまいそうになるくらいです。) しかし、なにか、この2人の場面だけは、豪快な女たちの喧騒とは、まるで別世界で、非常に違和感がありました。 実は最後にその違和感が何かというのは明らかになるのですが、カシマがトンネルの所で一瞬消えてしまったり、2人で行った温泉への小旅行の時、突然先に帰ってしまったり、という風に、実はちゃんと伏線が作られていたのです。(その伏線のおかげで、僕は、「もしかして……。」と思ってしまいましたが。) というわけで、豪快なたくましい女たちに囲まれながら、唯一まともに見えるなおこが、実はとんでもない秘密を抱えているのですが、それは観てのお楽しみということにしておきましょう。 ということで、いろいろなエピソードを笑いながら、ラストはちょっと驚かされつつも、温かい気持ちになれる、そんな日本映画お得意のちょっといい話でした。 しかし、宇崎竜童さんって、本当はロックンローラーなのに、田舎の農家のオッチャンが異様に似合うのはどうしてでしょうか。
2013.01.21
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「ジョゼと虎と魚たち」 2003年 日本映画原作 田辺聖子監督 犬童一心出演 池脇千鶴 妻夫木聡 上野樹里 前々から、いい映画だとは聞いていたのですが、なかなか手が出ず、興味を持っていながら見ていなかった作品です。この年末に地上波で放映していたので、録画しておきました。 大学生の恒夫(妻夫木聡)は、バイト先の雀荘で、妙な噂を耳にします。それは、夜明けに乳母車を押して歩く奇妙な老婆の話でした。 ある日の明け方、店の用事で出かけた恒夫は、乳母車を押す老婆に出合います。 恒夫が恐る恐る乳母車を覗くと中には、年頃の女の子がいました。 恒夫は興味をひかれ、2人についていきます。女の子は、自らをサガンの詩の登場人物になぞらえ、ジョゼ(本名はくみ子、池脇千鶴)と名乗る、足の不自由な子でした。 恒夫は、適当にSEXさせてくれる女友達もおり、お嬢様然とした美人の彼女・香苗(上野樹里)もおり、バイトに精を出し、そろそろ就活でもするか、といった感じのごく普通の大学生です。 ジョゼは、原因不明だが、生まれつき足が動かない子で、両親に疎まれたため施設で育ち、祖母に引き取られてからは、“コワレモノ”と言われ、世間の目に触れないように育てられてきており、楽しみといえば、祖母が時々拾ってきてくれる本を読む事と、人目の少ない夜明けに行く、乳母車に乗せられての散歩だけでした。 そんな2人の恋愛物語です。 いやあ、いい映画でした。恋愛ものは苦手なのですが、この映画は純粋にいいと思ってしまいました。 以下、何がよかったか触れていきますが、過分にネタバレも含んでおりますので、結末を知りたくない人は読まないようにね。 何がいいって、やっぱりまず脚本でしょう。 文字通り箱入り娘で、半ば軟禁状態で育てられたため、人との接し方がわからず、口のきき方もわからない、ジョゼのぶっきらぼうなしゃべり方、世間知らずで、わがままで、実はさみしがり屋だけど、強がっている、そんな彼女のキャラクターを如実に表しています。 しかも、全編を通して同じようにぶっきらぼうなのですが、恒夫とジョゼ、2人の関係が変化するにしたがって、微妙に変化していくところ絶妙です。 最初は、警戒心から、言葉足らずな感じだったのが、親密になって来るにつれて、だんだん親しみが籠ってきて、男女の関係になってからは、わがままいっぱいだけど愛情が籠っており、別れを意識し始めてからは、なんとなく感慨深げになってきます。 もちろん、それは池脇千鶴の演技力のなせる技かもしれませんが、脚本のうまさがそれを引き出しているのは否定できないでしょう。 また、意味の深い、印象に残るセリフの数々があるということ。 例えば、「お前は“コワレモノ”だから、その分をわきまえなきゃいけないんだ。」と言うおばあさんとか、「あんたのその武器が憎い」と言った香苗に対し、「だったら、その足切ればいいじゃないか。」と返すジョゼとか、「世界で一番Hなことしていいよ。」とか、「私はその暗い海の底にいたんよ。」とか。 それから、原作の短編を1本の映画に作り上げるために、つけ足したところの見事さ。 恒夫の彼女だった見るからにお嬢様な香苗の存在、ラストに2人を別れさせたところなど、テーマをより深くえぐり出しているような感じがします。 次に、出演者の皆さんの巧みな演技。 妻夫木は、初めは興味本位で、そして同情から純粋な恋愛へ発展し、結局は現実を考えて、その重みに耐えかねて身を引く、という、まさに現代の若者そのものを、全くの自然体で演じています。こういう自然な感じというのが実はすごく難しかったりするんですよね。 上野樹里は、相談したいことがあると言いながらしっかりモーションを掛けてきて、大した覚悟もないのに格好だけで福祉を勉強したいという、いかにもで、その存在が鼻に付くお嬢様を好演しています。 このときなんと17歳だそうで驚きですが、「スイングガールズ」でブレイクする前の年です。もちろん、「のだめ」の大ブレイクはもっと後になります。 しかし、「のだめ」のイメージと、インタビューやバラエティで、時々見られる素の彼女の天然イメージからすると信じられないほどのお嬢様ぶりです。 実はとってもきれいな子だったんですね。どうも僕の中では、「のだめ」のイメージが抜け切れません。大河は見ていないので。 そして、なんといっても、ジョゼ役の池脇千鶴です。 とにかく、いちいちのセリフ、仕草が、憎たらしいほどすごいです。 煮物のレンコンを味見させた後の箸を、しばらくそのまま出したままにするところとか、唐突に手を握られ、思わず力を込めてしまうところとか、長らくの軟禁生活のため、仮面のように張り付いてしまった無表情なのに、微妙に目つきが違ったり、口の端で笑ったりとか、「帰れって言われて帰る奴は本当に帰れ!!。」と言いながら、背中をたたく仕草とか、もう、TVの前で、「惚れてまうやろー!!」と何度叫んでしまったことでしょうか。 まだ、20歳そこそこのはずですが、自らブラウスとブラジャーを取るベッドシーンも含めて、なんとすごい子だろうと思ってしまいました。 身障者と暮らすということ、対等な人間であろうとすること、そういうことを、どう考えたらいいのか、しっかりと考えさせられる作品でした。 しかし、ラスト、ジョゼと別れた後で、「障害者に彼氏取られた」発言をした香苗と共に去っていく恒夫、というのはちょっといかがなものか、と思ってしまったのは、私だけではないはずです。そこまで恒夫の株を下げなくてもいいだろう、と思ってしまいました。素晴らしい映画ですが、そこだけはいただけませんでした。
2013.01.16
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「ショコラ」 Chocolat 2000年 アメリカ・イギリス映画監督 ラッセ・ハルストレム出演 ジュリエット・ビノシュ ジョニー・デップ ジョディ・デンチ キャリー=アン・モス アルフレッド・モリーナ 年末年始に、地上波で夜中に映画がいっぱい放映されていました。そのうちのひとつです。確か、まだ、売れていないころのジョニー・デップが出ているヤツだなあ、と思い、どんな映画かはよく考えず、録画しておきました。 フランスのある村に一組の親子が北風とともにやってきました。その親子・ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)とアヌークは、マヤから受け継がれるチョコレートの効能を広めるため世界中を旅していて、この村でも老女・アルマンド(ジョディ・デンチ)から借りた物件でチョコレート店の開店準備を始めます。 ヴィアンヌは、一人一人の希望にぴったりと合うチョコレートを差し出し、その不思議なチョコレートの作用から村人達を惹きつけていきます。とりわけ、夫の暴力に悩むジョセフィーヌや、その奔放な性格のせいで厳格な娘カロリーヌ(キャリー=アン・モス)から絶縁されているアルマンドにとっては、ヴィアンヌの明るく朗らかな人柄やチョコレートの美味しさと不思議な効果は、ひとときの安らぎとなるのです。 しかしミサにも参加しようとせず、私生児であるアヌークを連れたヴィアンヌの存在は、敬虔な信仰の体現者で村人にもそれを望む村長のレノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)の反感を買ってしまいます。レノは村人たちに、ヴィアンヌのチョコレート店を悪魔的で堕落したものだと説いて出入りを禁じるのです。 そんなある日、村にジプシーの一団が流れ着きます。レノによって村人たちから「流れ者」としてボイコットされる彼らと境遇を同じくするヴィアンヌは、そのリーダーであるルー(ジョニー・デップ)と思いを交わします。そんな様子を知ったレノは、ますますヴィアンヌに対する風当たりを強めていくのでした。 閉鎖的で排他的な村に流れてきた親子が、チョコレートを通じて、村人と心通わせ、村の人々も、その親子も心が癒されていくという、心洗われるドラマでした。 信教に敬虔な堅物の村長レノ伯爵も、奔放な母親からの反発で息子に厳しかったカロリーヌも、厳格な母親のおかげで祖母に合わせてももらえていなかった息子リュックも、娘との確執で孫に会わせてもらえなかったアルマンドも、夫からDVを受けていたジョセフィーヌも、流れ者で行く先々で歓迎されず寂しい思いを持っていたジプシーのリーダー・ルーも、そして、主人公のヴィアンヌ・アヌークの親子も、みんな救われるという、心温まるお話でした。(たったひとり、DVしていたジョセフィーヌの夫だけは救われませんでしたが。) まあ、ちょっと時間が空いた時に観る、心癒される佳作といった感じでしょうか。 初対面で、日曜のミサに行かない宣言をしてしまったヴィアンヌは、堅物で敬虔なクリスチャンである村長のレノ伯爵ににらまれてしまいます。また、ルーたちジプシーは、その存在自体敬遠されてしまいます。そして、村長は村人たちを煽り、ヴィアンヌ親子やジプシーたちを排除しようと動き始めます。 僕は常々こういった異教徒や不信心者を排除しようとする、とりわけ熱心な信教家ほどみられるこの傾向が非常に気になっています。特に、キリスト教、イスラム教にその傾向が強いように見受けられますが、なぜ、自分の信じるところと違うというだけで、その人の人となりや性格など全く考えずに毛嫌いしたり、排除したり、攻撃したりするのでしょうか。 確かに、男女関係とか、親友とかのように、深く付き合うのには宗教的な一致は必要かと思いますが、ふつうの知り合い、ご近所さんぐらいの付き合いなら、別に宗教的に一致しなくてもいいんじゃないでしょうか。あいさつ程度の表面的な付き合いにとどめておくとか、相手にしないでおくとかではいけないのでしょうか。なぜ、積極的に排除しようとしたり、嫌がらせをしたりしなければならないのでしょうか。 魔女狩り、宗教裁判、十字軍、ナチスのユダヤ迫害、中東戦争など、人の歴史が始まって以来、宗教的な対立や支配、戦争など、人の生死に関わる争いが起こっています。 そういった異教徒を積極的に排除しようする意識が、その一因となっているということは否めない事実でしょう。 「信じる者は救われる」というお題目は、裏を返せば、「信じない者は救われない、排除しよう」ということになっていくわけで、人々を救うはずの宗教が、人々の争いの元になっているというのは、本末転倒ではないでしょうか。 そんな“裏テーマ”を、この映画から感じてしまいました。 ところで、ヴィアンヌが店を構えた家の大家アルマンドに反発するあまり、息子を厳しくしつけているカロリーヌ、何となく見覚えがあるなあ、と思っていたら、何と、「マトリックス」の主人公救世主ネオの彼女となる、戦う女トリニティーでした。 黒いレザーファッションに身を固め、勇ましく戦う女からはかけ離れた、長い髪で、女性らしいワンピース姿でしたが、その独特の冷たさを秘めた鋭い目力は隠しようが有りませんでした。 やっぱり彼女は、その容貌から、こういった冷たさを持った女しかできないのでしょうか。ちょっと気になります。(以前からこのブログをご存知の方はよくわかっているとは思いますが、僕のタイプからは180度離れている女性ですが。) あと、アルマンド役のジョディ・デンチというイギリスのベテラン女優さんが、偏屈な老女を装いながら、その優しさ、寂しさを密かに匂わせるというなかなか老獪な演技力を発揮し、圧倒的な存在感を出しているのが、さすがだなあ、と思ってしまいました。 そう、あの、007シリーズで、Mを演じている大女優さんです。 ということで、元々はギタリストだったジョニー・デップのギター演奏も観られる、お得な佳作を今回は紹介しました。
2013.01.13
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「ウィンターズ・ボーン」 Winter’s Bone 2010年 アメリカ映画監督・脚本 デブラ・グラニク主演 ジェニファー・ローレンス 「X-MENファースト・ジェネレーション」で、若き日のミスティークを十二分な存在感で好演し、注目していた若い女優さん(ちょっとタイプだったのでということもありますが。)が、米アカデミー賞の主演女優賞にノミネート(作品・脚色・助演男優賞も)された作品があるという情報を得て、それは観てみなければと思い、レンタルしてきました。 調べてみたら、サンダンス映画祭でグランプリを受賞した作品で、彼女も、アカデミー賞だけでなく、様々な映画賞の主演女優賞にノミネートされており、いくつかの賞を受賞しているようです。 ちなみにサンダンス映画祭というのは、ロバート・レッドフォードが主催する映画祭で、「明日に向かって撃て」で彼が演じた“サンダンス・キッド”から、名付けられたもので、インディペンデント映画を上映する映画祭です。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「セックスと嘘とビデオテープ」や「ソウ」などが注目され、ケヴィン・スミス、クエンティン・タランティーノなどの監督が世に出てくるきっかけになっています。 ミズーリ州の山中の村で、17歳の少女リー(ジェニファー・ローレンス)はまだ幼い弟と妹、そして精神を病んだ母を抱え、一家の生活を支えていました。 ドラッグを製造・販売していた父のジェサップは警察に捕まっており、懲役刑を言い渡されていました。 ある日、保釈保証人が現れ、自宅と土地を保釈金の担保にして保釈中だということ、翌週の裁判に彼が出廷しなければ、家と土地は没収されてことを告げていきます。 リーは伯父や村人たちに父の消息を聞いて回りますが、何故か誰もが彼女と会うことすら拒もうとします。やがて彼女はどうやら父が既に死んでいるらしいことを察します。 アメリカという国は、世界のリーダーを自負しており、最先進国であるがごとく印象を持っている人が多いと思いますが、実は生活保護とか、健康保険とか福祉的な部分では、全く充実してはおらず、生活弱者が、犯罪に走る率が非常に高い国です。 そんな社会に最下層で、何とか、自分と家族を守ろうとするけなげな少女の物語です。 父の消息を調べて回るうちにリーは、村のみんなが何か隠し事をしていることに気付きます。どうやら、麻薬の製造・販売は、村全体で作る“組織”の仕事らしく、父のジェサップは、その“組織”の掟に逆らい、その秘密を暴こうとしているらしいことに気づくのです。 実は保釈金は、家・土地を担保にしただけでは足りなかったのですが、何者かが現れ、その足りない分の現金を払っていたということがわかり、父は”組織”の秘密をばらさないために始末するために保釈されたのだ、ということをリーは推察したのでした。(ネットで、感想を調べていたら、「保釈金の足りない分はだれが払ったの?」などという見当違いなことを言っている人がいました。そのくらい推察しなさいよ。恥ずかしいです。) 僕は、観ていて、だんだん腹が立ってきました。生活弱者に優しくないアメリカという国にはもちろんなのですが、ここでは、むしろ、“組織”のボスに対してです。 リーが、話を聞きたいと、“組織”のボスを訪ねて行ったところ、彼は全く会ってくれませんでした。仕方がないので、彼の職場に直談判に行ったところ、その夜、リーは“組織”の女たちのリンチを受けてしまいます。 何というボスでしょう。確かに父のジェサップは、“組織”の掟を破ったので、処分されてもしかたないでしょう。しかし、彼の家族、とりわけ何も知らない子どもたちには何の罪もありません。ジェサップを処分するのなら、その残される家族は、“組織”が守ってやらなければいけないでしょう。それが“組織”のボスの責任でしょう。 それなのに、真実を知ろうとするリーから逃げ回るだけではなく、傷めつけて黙らせようとするなんて、愚の骨頂です。そんなことだから、ジェサップに裏切られるのですよ。 なんてことを思ってしまいました。 結局、伯父のティアドロップ(父の兄)の手助けもあり、何とかリーと幼い弟妹は、救われます。(しかし、リーはおぞましい経験をさせられます。それは何かは内緒にしておきます。題名と関係ある、とだけ語っておきましょう。) とにかく、リーの孤軍奮闘ぶりは素晴らしいです。もちろん、それを演じているジェニファーが素晴らしいのです。今後大注目の新人です。
2013.01.04
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「グリーンマイル」 The Green Mile 1999年 アメリカ映画原作 スティーヴン・キング監督 フランク・ダラボン出演 トム・ハンクス デヴィッド・モース マイケル・クラーク・ダンカンジェームズ・クロムウェル ゲーリー・シニーズ(カメオ出演) このブログでも、かつて紹介した「ショー・シャンクの空に」に続いて、フランク・ダラボン監督が、スティーヴン・キングの小説を映画化した作品です。 スティーヴン・キング原作の映画は、このブログでも、たびたび紹介していますが、だいたいが酷評しているように感じます。そんな中で、「ショー・シャンクの空に」は、米アカデミー賞に何部門かノミネートされていることからもわかる通り、ラストの爽快感が何とも言えない、いい作品です。 さて、この「グリーンマイル」はどうでしょうか。 実はこの映画、全く予備知識なしに、トム・ハンクス主演で、米アカデミー賞作品賞にノミネートされているということで、絶対感動する話だと確信し、観始めたのでした。 1995年、老人ホームの娯楽室で名作映画「トップ・ハット」を見たポール・エッジコムは、脳裏に60年前の記憶が甦り、それを友人の老婦人に語り始めます。 大恐慌下の1935年、ジョージア州コールド・マウンテン刑務所の看守主任ポール・エッジコム(トム・ハンクス)は、死刑囚舎房Eブロックの担当者でした。死刑囚が電気椅子まで最後に歩むくすんだ緑色のリノリウムの廊下は“グリーンマイル”と呼ばれていました。 毅然とした態度で真面目に勤め、部下や囚人たちから信頼される看守主任のポールでしたが、重い尿道炎に悩まされており、用を足すたびに地獄の苦しみを味わっていましたが、なかなか仕事を休めず、医者に行けないでおりました。 部下は副主任のブルータル(デヴィッド・モース)はじめ頼れる連中ぞろいですが、州知事の甥である新人パーシーだけは傍若無人に振る舞い、囚人に暴力をふるうなど、問題を起こしてばかりで、同僚たちに嫌われていました。 そんな死刑囚舎房に、突然招かれざる客がやってきます。それは、1匹のネズミでした。看守たちは捕まえようと追いかけますが、なかなか捕まりません。特にパーシーは目の敵にして、執拗に追いかけますが、全く歯が立ちませんでした。 そのネズミを、死刑囚のひとり、殺人と放火の罪のデルが飼いならし、“ミスター・ジングルズ”と名付け、飼いならしてペットにしているのを見て、パーシーは苦々しく思っていました。 そんなある日、ジョン・コーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)なる大男の黒人が死刑囚として収監されてきます。幼女姉妹を虐殺した罪で死刑を宣告された彼ですが、見た目こそ2mの巨体で、マッチョですが、「ジョン・コーフィです。飲み物と同じ発音ですが、綴りが違います。」と丁寧に自己紹介をし、言葉遣いも丁寧で、とても凶悪犯には見えない優しい男でした。 ポールの尿道炎は悪化し、その痛みから、夜満足に練れないほどになってしまいました。今日こそは、新入りを見届けたら、早退して医者に行こうと覚悟して仕事に臨んでいました。 新入りは、ウォートンという凶悪犯で、問題児という話でしたが、クスリでも打たれているのか、ボーとして、大変おとなしい様子でした。しかし、部屋に入れようとした途端暴れ出し、数人がかりで必死の思いで抑え込まなければなりませんでした。 そんな中、非常に痛そうにしていたポールを、コーフィが呼びます。ポールがコーフィの部屋の前まで行ってみると、鉄格子越しに、すごい力で体をつかまれてしまいました。 暫くつかまれていると、コーフィはいきなり手を放し、せき込んでいます。そして、彼がおもむろに天井を見上げて大きく口を開けると、彼の口から、小さな虫のようなものがたくさん吐き出されてきます。 突然放り出されて、呆気にとられているポールは、尿道炎の痛みが全くなくなっていることに気が付きます。 実はコーフィは、手を触れただけで相手を癒すという奇跡の力を持っていたのです。 長々とあらすじを書いてしまいました。しかし、実はこれで、全編の3分の1ほどです。やっぱりこの映画の1番のミソである、コーフィの不思議な力が出てくるまで書かなければならないと思い、こんなに長くなってしまいました。 死刑囚ばかり収監されている、刑務所の話であり、それぞれ登場人物を紹介し、死刑の執行をしている様子を映し出し、パーシーという問題児の看守、ウォートンという凶悪犯“ミスター・ジングルズ”の登場と、役者がそろったところで、いよいよ物語の核心に入っていくのです。結局、ここまでで1時間ほどかかっています。 ポールたち看守がパーシー以外いい人ぞろいだし(はっきり言って、刑務所の看守がいい人という映画は珍しいです。だいたいが、パーシーみたいに囚人を人間扱いしない看守ばかりです。)、気は優しくて力持ちタイプのコーフィは、どうやら無実らしいし、まだまだ人種差別の残るアメリカ南部の田舎町が舞台だし、無実の罪を着せられた黒人を、いい人ぞろいの看守たちが助けるという、人種差別がらみの感動のお話なのかなあ、と思って観ていたのです。 ところが、刑務所の情景を丁寧に映し出しているなあと思った矢先、いきなりの超常現象で、「えっ、えっ、えっ!!!」というのが、ここまでの正直な感想です。 はっきり言って、人種差別がらみの社会派ドラマだと勝手に思い込んでいた僕がいけないのですが、この時点で、多大なる違和感を持ってしまったので、この後、彼の超能力がらみの感動的な展開になっていくのですが、実はあまり感動できなかったのです。(スピルバーグはこの映画で4回も泣いたそうですが。) しかし、このコーフィの超能力こそが、この映画のミソであり、この超能力なしに、この物語は成り立ちません。 何でかはよくわからないが、超能力を持った心優しい大男がおり、ちょっとその周辺の人々をその超能力で救って、そして旅立って(結論、コーフィはやっぱり死刑になります。)行ったんだよ。というちょっとしたファンタジーだったのです。 刑務所、死刑囚、大男、あまりにもファンタジーに不釣り合いな舞台設定ですが、ポールという老人が語る、ちょっといい話(とても1分間では語れませんが。)ということで、僕のようなひねくれ者ではない、一般の皆さんは、素直に感動できる話ではないでしょうか。(でもやっぱり、コーフィが黒人で、そこがアメリカの南部でなければ、死刑にはならなかったのではないだろうかと考えると、そのあたりをもっと深く突っ込んでほしかったなあと思ってしまいました。) 余談ですが、トム・ハンクスと「アポロ13」や「フォレスト・ガンプ」で共演している、名脇役のゲーリー・シニーズが、ポールがコーフィのことを調べるため、訪ねて行った弁護士の役で、カメオ出演しています。もちろんトムと仲良しということでのカメオ出演なのでしょうが、この弁護士、犬と黒人を同列に考えて、コーフィの凶暴性を語るなど、当時のアメリカ南部ではごく普通の人物なのでしょうが、非常に嫌なヤツでした。僕の好きな役者のひとりなので、非常に残念でした。 また、コーフィ役の大男マイケル・クラーク・ダンカン(今年、急逝されたそうです。ご冥福をお祈りします。)ですが、本当にでかくてびっくりしてしまいますが、刑務所長役のジェームズ・クロムウェルと並んでいるシーンがあるのですが、2人ほぼ同じ高さでした。 このジェームズ・クロムウェルという人、「アイ・ロボット」での自殺してしまう博士など、老科学者役とか、組織のえらいさんなどでよく見る名脇役さんですが、ヒョロッとして大きい人だなあと思っていたのですが、こんなにでかいとは思いませんでした。調べてみたら、2人とも2mぐらいあるんですね。 フランク・ダラボン監督は、その監督作こそ数本なのですが、そのどれもが、感動できるいい作品ばかりです。以前「マジェスティク」というジム・キャリー主演の感動作を取り上げさせていただきました。映像化の難しい、スティーヴン・キングの小説を感動作に仕上げることができる、素晴らしい監督です。あともう1本「ミスト」という作品があります。また、いつか記事を書かせていただきます。
2012.12.21
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「真夜中のカーボーイ」 Midnight Cowboy 1969年 アメリカ映画 監督 ジョン・シュレイダー出演 ジョン・ヴォイト ダスティン・ホフマン アメリカン・ニューシネマの代表作です。(アメリカン・ニューシネマについては、以前の「卒業」についての記事を参照してください。) 今やアカデミー賞俳優となった名優2人が、ほぼ無名のころ、抜擢されて主演しています。ダスティン・ホフマンは、以前紹介した「卒業」での抜擢主演により、演技派で有望な新人という扱いかもしれませんが、ジョン・ヴォイトの方は、本当に無名だったようです。 アメリカの農場などで、テンガロンハットをかぶって、主に牛を追っている牧童たちのことは、牛(cow)を追う男(boy)ということで、この映画の原題のように、cowboyと呼ばれており、日本語表記では、“カウボーイ”となるはずですが、この映画の邦題は“カーボーイ”です。 話によると、当時映画配給会社の社員だった、後の映画解説の大御所、故水野晴郎氏が、都会(ニューヨーク)的な雰囲気を出したいということで、“カーボーイ”(carboyの意味らしい)と、邦題をつけたらしいです。 主役のどちらもcarを運転しているところは全く出てきませんが、それでいいのでしょうか。はっきり言って、困った親父です。 でも、この“カーボーイ”が邦題としては、正しいものになってしまっています。映画の題ということで、固有名詞ですから、みなさんお間違えの無いようにお願いします。 しかし現代では、日本でもアメリカでも、都会は地下鉄網が発達していて、車が無くても移動には全く困らないのですけど。むしろ田舎の方が車無しでは何もできません。(特に日本の車社会の総本山トヨタを抱える、我が愛知県三河地方では、本当に車無しでは買い物も仕事も行けません。) 最近の都会に住む若者たちの車離れというのは、激しいらしいですね。僕ら田舎暮らしの若者は、高校を出るころ(就職する人は高校在学中、大学行く人は大学生の内)には、当たり前のように自動車免許を取っております。まあ、車っていうのは、持っているだけで、金を食ってしまうものですが。 オッと、話が明後日の方にそれてしまいました。映画の話に戻して、あらすじです。 男性的魅力で富と名声を手に入れようと、ジョー(ジョン・ヴォイト)は、テキサスからニューヨークに出てきました。カウボーイスタイルに身を固めた彼は、女を引っ掛けて金を要求するが、逆にお金をふんだくられてしまいます。女こそ名うての娼婦だったのです。 ジョーはスラム街に住むラッツォ(ダスティン・ホフマン)という足が不自由な小男に出会い、売春の斡旋人を世話してくれるという約束で10ドルを手渡します。 ところが、斡旋人は男色を専門としていました。騙されたと知ったジョーは、ラッツォを捕まえて問い詰めますが、既にラッツォの手にはお金がありません。その代わり、罪滅ぼしにラッツォは、カモ探しに協力することになり、二人はラッツォのねぐらである廃墟のビルで共同生活を始めるのです。 テキサスの田舎で育ったジョーは、ニューヨークという大都会で一旗揚げようと意気揚々と上京してきます。というか、後で挿入される回想などで明らかになって来るのですが、彼は田舎で散々な思いをして、ニューヨークに逃げてきたような感じがします。 ニューヨークという大都会なら、きっと、アメリカンドリームがあるかもしれないと思って出てきたのでしょうが、彼を待っていたのは、都会の冷たい空気と、スラム街でした。 だいたいが、初めから自分の体を売って、生計を立てていこうと思うのが、カウボーイスタイルの男の色気が売れると思っているのが、世間知らずというか、考えが甘いというか、まったく無理なのです。 だから、ジョーは大都会の最底辺へ行くしかありませんでした。 そして、そこにはラッツォがいたのです。 詐欺師でゲイで小男で足が不自由で極貧で病気持ち、世の不幸を一手に背負ったかのような男、それがラッツォでした。 しかし、彼には夢がありました。それは、サンサンと陽光きらめくフロリダのマイアミで暮らす事でした。ニューヨークのスラムで暮らす彼にとって、常に明るい太陽が輝いているであろうマイアミは、すべてが光り輝いて見えたのでしょう。そんな2人が、都会の最底辺でうごめきながら、友情をはぐくんでいく物語です。 米アカデミー賞の作品賞・監督賞・脚色賞を受賞しており、演出や脚本が素晴らしいのはもちろんですが、やはり主演の2人の演技がとにかく素晴らしいです。(2人は共に主演男優賞にノミネートされましたが、受賞は逃しています。) ジョーは、明るい希望を抱いてニューヨークに出てきたはずですが、その表情には、何かしら哀愁が漂っています。もちろん希望を抱きつつも、新しい土地への不安があるでしょうし、故郷の苦い思い出に思いが及んでいるのかもしれません。そして、ラッツォとの共同生活に及んでからは、何かと体の不調を訴えてくるラッツォを面倒くさそうに世話しながらも、彼を憎からず思っていることがにじみ出てくる感じが見事です。また、時折見せる、遠くを見つめる表情が、無表情ながらも、哀愁というか、悲壮感というか、何とも言えない感じが伝わってきます。 ダスティン・ホフマンは、この映画の2年前に公開された「卒業」では、お金持ちのボンボンでしたが、今回は都会の最下層にうごめくドブネズミの様な男で、その振り幅の大きさに驚かされます。まだまだ駆け出しの若い俳優が、非常に短期間に、これほど違う役を見事に演じ分けている例は他に知りません。 極貧で、体が不自由で、病気持ちで、悲壮感たっぷりですが、口は達者で調子のいいことを言って、突っ張るだけ突っ張っておきながら、フロリダの夢を語る、そんな見るからに不幸な男を、小さい体で、存在感たっぷりに演じています。 特に、最後の方では、顔の表情だけでなく体中で、○○したり、○○するところ(一応ネタバレにならないように伏せておきます。)、もう最高にすごいです。 やっぱり演技のうまい人というのは、若い頃からうまいんだなあ、と感心させられます。 ラストは、バッドエンド?ハッピーエンド?人によって意見が分かれるところではありますが、僕としては、ハッピーエンドだと思います。 もちろん彼らは、一般的に感じられるような幸せになったわけではありませんが、あのニューヨークのどん底からは、2人とも(その方向は違いますが)、脱することができたわけですから、これからの人生は明るい方へシフトチェンジするのではないでしょうか。(ネタバレにならないように、この程度の表現でとどめておきます。) ということで、とことん暗い映画ですが、ラストは明るい兆しが見えてくる、いい映画を紹介しました。 ところで、ジョン・ヴォイトって、アンジェリーナ・ジョリーの実父だったんですね。最近まで知りませんでした。そう言われてみれば、ジョン・ヴォイトってゴッツい外見には似合わず、目が結構可愛かったりしますよね。口元や目元がそっくりです。 ということは、ニコラス・ケイジ(ベン・ゲイツ)はアンジーのお兄さんということになりますか?(笑)
2012.11.17
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「さまよう刃」 2009年 日本映画監督・脚本 益子昌一出演 寺尾聰 竹野内豊 伊東四朗 東野圭吾のベストセラー小説を映画化した作品です。東野圭吾といえば、「容疑者Xの献身」で直木賞を受賞するなど、数々の賞を受賞しており、「手紙」「秘密」「白夜行」「流星の絆」「ガリレオ」「新参者」など、その作品が映画やドラマ化されている、大人気ミステリー作家です。 女子中学生の遺体が荒川で発見されました。 被害者は長峰重樹(寺尾聰)の一人娘・絵摩。 妻をがんで亡くし、娘の成長だけを楽しみに生きてきた長峰にとって、あまりにも衝撃的な娘の死でした。 長峰は詳しい死因などの説明を求めますが、捜査を担当する刑事の真野(伊東四朗)はあえて事実を隠そうとします。部下の織部(竹野内豊)は、そんなやり方に疑問を抱きますが、「被害者遺族を苦しめるだけだ」という真野の言葉に逆らうことができません。 絵摩は何者かに理不尽に陵辱された末に殺害されていたのです。織部ら刑事たちは、目撃者の証言をもとに懸命に捜査を続けます。 一方で長峰は捜査の進展を聞いても知らされず、ただショックから立ち直れずにさまよい歩く日々を送っていました。 そんなある日、留守電を再生した長峰に衝撃が走ります。 「絵摩さんを殺した犯人は、トモサキアツヤとスガノカイジです。トモサキの住所は、………。」 半信半疑で言われた住所へ向かい、侵入した長峰は、犯行の一部始終を収めたビデオテープを発見してしまいます。 長峰は、あまりにも悲惨な絵摩の死の真相を知り、その場に座り込んで、呆然としてしまいます。 やがて、伴崎敦也が帰宅します。室内に潜んでいた長峰は、伴崎を襲い、殺害してしまいます。 こうして、長峰の復讐劇が始まったのです。 ここまでで、30分ぐらいです。あと1時間半は、もうひとりの犯人菅野快児を追う長峰と、刑事たちの攻防となります。 とにかく、暗く重苦しい物語です。 たったひとりの家族を理不尽に殺され、もうその恨みを晴らす事しか、生きている意味を見いだせない初老の男、心情的には長峰に同情しながらも、法の番人として、彼を追わざるを得ない刑事たち、長峰と真野・織部両刑事、中心人物の3人が3人とも、無口で難しい顔をしています。 とりわけ、長峰役の寺尾聰さんは、燃える復讐の炎をほとんど表面には出さず、ほとんどしゃべらない、寡黙で静かな男を、いつもの調子で巧みに演じています。後半はほぼ彼の独壇場ですので、彼の雰囲気が、映画全体の雰囲気となり、非常に重苦しい空気が全体を包んでいるのでしょう。もちろん、たったひとりの愛娘を殺され、密かに復讐に燃える男なわけですから、明るく演じるわけにはいかないので、当然ですが。 しかし、3人が寡黙なせいもあり、全体にその心情など、説明不足の感が無きにしも非ずなのが、残念なところです。 例えば、長峰がいかに娘の絵摩を愛していたのか、ところどころ、過去の回想場面で、娘や亡き妻との思い出を挿入したり、冒頭で朝家を出る時の様子を映し出したりしていれば、長峰と絵摩の関係性などがよくわかったのではないでしょうか。 また、若い刑事織部がたびたび長峰に対し同情的な言動を見せるのに対し、その上司であるベテラン刑事真野は、終始覚めた感じで、自分の仕事を冷静に全うしようとしています。ベテランが故に、様々な経験をし、今織部が思っているようなことは、とうに通り過ぎてきているのであろうことは想像できますが、やはり、過去の事件の経験などの場面を挿入していただけると、「長峰には、未来がない。」と言い切った、彼の心情をより理解することが出来たのではないでしょうか。 ところで、この映画を語るためには、「少年法」の話題を避けるわけにはいかないでしょう。 この映画での事件の犯人、伴崎と菅野は、まだ十代の若者でした。彼らは、長峰の娘絵摩を凌辱し薬物を投与して死なせただけでなく、ほかにも多くの女の子を拉致し同じような目に合わせていたらしいことが、劇中で語られています。 はっきり言って凶悪犯です。 ところが、十代ということで、一般の刑法で裁かれることはなく、「少年法」の対象となります。そのため、保護・更生を主目的とする「少年法」の精神にのっとり、決して極刑(つまり死刑)になることはありません。 長峰はそれがわかっていたからこそ、自分の愛娘を惨殺した2人を、自らの手で処刑しようとするわけです。織部刑事は、そんな彼の心情を鑑み、菅野を“保護”しなければならない、自らの立場に迷ってしまうわけです。 この映画、および原作小説は、そんな「少年法」の矛盾に対し、問題定義することがテーマであることは明らかです。 まあ、そんなお話ですので、暗く重い話になってしまうのはしょうがないところでしょうか。 だから、最後の、実は原作と違うという(原作は未読ですので、どうなっているのかはわかりません。)結末、多くの方々がネットで述べているように、僕も納得できませんでした。 長峰が伴崎を殺害したのは、自分の愛娘の悲惨な最期を目撃してしまった直後であり、衝動的な行動であったが、その後、菅野を追って数日過ごすうちに、復讐の炎が治まって来て、冷静に判断できるようになってきた結果だということなのでしょうか。(こう書くと結末がわかってしまいますかね。) なんか、納得できませんね。日数がたって冷静になってきたとしても、本人を目の前にすれば、また気持ちが高ぶって来るのではないでしょうか。しかも、見るからに本人は全く反省などしていない様子でしたし。(明らかに大々的にTVなどで報道していそうな事件であるのに、菅野自身は全く気付いておらず、金を物色しに、川崎の町中に堂々と現れるというおバカさんだし。) でも、僕も、復讐のために命を奪うことは反対です。だいたいが、ああいう若い時に無茶をする連中というのは、早くから人生投げ出している奴らが多いんですよね。だから、自分の命が無くなるかもしれないということを恐れていないやつが多いような気がします。そんな奴の命を奪ったとしても、苦しい社会から逃れられるということで、かえって感謝されたりするかもしれません。 だから、僕だったら、命を奪って楽にさせてあげることはやりたくないです。例えば、拉致監禁して、どこかの離島の監獄に一生閉じ込めておくとか、閉じ込めて強制労働させるとか、自由を奪いつつ、死なせもしない方法で、自分の愚かさに気付かせてやりたいと思います。愚かさに気付いたからといっても、開放してやらないけどね。どうせ、自分の手を汚すのならば、その方がいいでしょう。(実はすごい陰険な人間だったりするんですよ、僕って。) そういえば、そんなドラマがありましたね。「ジョーカー」だったっけ。堺雅人さんが主役だったやつ。結構興味深く見ていた覚えがあります。 ということで、重く苦しく、つい陰険なことを考えてしまった、いまいち納得がいかないけれど、僕のようにひねくれた心で見なければ、素直に感動できる映画を今回は紹介しました。
2012.11.10
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「岳-ガク-」 2011年 日本映画監督 片山修出演 小栗旬 長澤まさみ 佐々木蔵之介 渡部篤郎 市毛良枝 昨年、非常に話題になった映画です。この間、早々とTV(地上波)放送をしていたので、録画しておき、やっと昨日時間が取れたので、どないなもんだ、と思い観てみました。 原作は、『ビッグコミックオリジナル』で連載していた漫画ですが、漫画好きを自称している僕も、残念ながらまだ未読です。そして、登山の趣味は、当然のことながら、持ち合わせてはいないので、その辺の知識は全くありません。ですから、トンチンカンなことを言ってしまうかもしれませんが、その辺はご容赦ください。 長野県警の婦人警官椎名久美(長澤まさみ)が、新しく所属することになった山岳遭難救助隊本部に到着すると、野田隊長(佐々木蔵之介)以下の隊員たちは、単独での登山者の遭難の知らせを受けたところでした。 ヘリがすぐに飛べないという知らせを受け、対策を相談していると、隊長は、「三歩がいる。」と突然思いつき、無線を撮ります。 知らせを受けた山岳ボランティア島崎三歩(小栗旬)は、「現場まで40分の所にいます。」と答え、救助に向かいます。 救助隊の面々もあわただしく救助に向かいます。その場にいた久美も新任のあいさつもできずに、わけがわからないまま、一緒に救助に向かいます。 遭難者は、クレパスの途中に引っかかっていました。三歩が遭難者を救助し、上に上がってくるとちょうど救助隊のヘリがやってきました。 久美は、遭難者を助けてきた青年の、非常に前向きな発言とさわやかな笑顔に驚くと同時に、何者だろう?という疑問が湧いてくるのでした。 ミニスカートの制服を着るのが嫌だったため志願してきたという、登山についてはほぼ素人(一応父親が元山岳救助隊員で、ごくわずかだが経験はあり、赴任前に一通りの訓練は積んで来たらしい。)の新人救助隊員椎名久美が、謎の山岳ボランティアの島崎三歩や、野田隊長をはじめとする救助隊員たち、山の空を知り尽くしているという救助ヘリの乗組員牧英紀(渡部篤郎)などの指導の下、山小屋のおかみさん(市毛良枝)などに癒されながら、1人前の山岳救助隊員として、頼もしい登山家として、成長していく姿を描いていきます。 山での遭難者を助ける山岳救助隊のお話ですから、人の生き死にが関わってくるのが当然で、感動的なお話になるのは必然です。 一緒に登山していた父親が遭難し、天涯孤独になってしまった(母親はその前に亡くしているらしい。)少年や、久美が初めて救助した人を背中の上で亡くしてしまった話、回想で語られる、三歩が初めて背負った死体が一緒に登山していて滑落してしまった親友だということなど、涙を誘うエピソードが目白押しです。 どうしても感動せざるを得ないエピソードばかりですが、やはり突っ込みどころも満載です。 三歩が親友を亡くした時、2人きりのパーティ(当然2人がバディになるはず。)らしいのに、どうして互いの体をロープで結んでなく、それぞれ単独のロープだったのか(2人がロープで結ばれていれば、落ちていく親友に手が届かなくても、食い止めることができたのではないかと、素人目にも思いました。)とか、クライマックスで、久美は知らぬ間にクレパスに落ちているのに、どうして、非常に都合よく、真っ赤なマフラーがクレパスの上に引っかかっているのかとか、いったいナオタ少年(父親を遭難で亡くし天涯孤独になってしまった子)は誰に引き取られ、どこの小学校に通っているのか、どうして頻繁に山小屋に来れるのか(当然原作では語られているはずですが。)とか、エトセトラ。 ひとつひとつ語っているときりがないので、今回は2つの大きな突っ込みポイントについて語らさせていただきます。 まずは、山岳ボランティア、島崎三歩という人物についてです。 話の中で説明されているところからすると、彼は、世界中での登山を経験しているらしく、この日本アルプスについては知り尽くしている男らしいです。しかし、その私生活については、全く語られておらず、常に山のどこかにいるという印象です。実際、映画の中では、ナオタの小学校に行ったとき以外は、山か山小屋か救助隊本部にいるところしか出てきません。 何処に家があるのか、家はなくて山の中を常に転々としているのか、いったい生活費などはどうしているのか、全く謎です。 もちろん、原作の漫画の中では語られているのでしょうが、せめて誰かのセリフで説明するなどしてほしかったと思いました。 また、最後のクライマックスでの、久美と三歩の行動について、遭難者を救助する側の人間として、山岳のプロとして、あれでよかったのかどうかということです。(どういう行動かについては、ネタバレになるので、言わないでおきます。) 山岳遭難救助隊として取るべき行動としては、野田隊長が命令していた行動が、正しいと思います。プロとして、二次災害を防ぐことは非常に重要だと思います。だから、いかに三歩の信念が、「山に絶対に置いてきてはいけないものは、命だ。」であったにしても、彼らの感情に左右された行動が、いかにも正しかったという感じで終わるラストが、はなはだ疑問です。たまたま、すぐに天候が好転していたから助かっただけで、久美も三歩もはっきり言って、自殺行為だと思います。 まあ、牧さんの行動はプロとしては当然なのかもしれませんが、危険は承知であそこまで来たんだから、あと数分待つことはできたのかなという気もしないではないですが。(上記と同じ理由で、どんな行動かは語りません。自分で映画を観て下さい。) この手の、一般にはなじみが薄い世界を舞台に語られている物語では、その世界を一般に紹介するという任務を、意図してるかどうかにかかわらず、負ってしまっているわけで、感動させるための演出とはいえ、プロとしてあるまじき行為を肯定するようなお話はよろしくないのではないかと、思ってしまう私は、頭が固いのでしょうか。 しかし、小栗旬って、憎たらしいぐらいに、さわやかなキャラクターが似合いますね。世の女性たちが、その魅力に参ってしまうのもわかります。 というか、今回は、その世界のことを知りすぎているがための、悟りの境地に至っているキャラということなのでしょうかね。やたらと明るく、常に前向きに物事を考え、積極的に行動する、島崎三歩というキャラは。(原作を読んでいないので、わかりませんが。) 長澤まさみちゃんも、体を張って、頑張っていましたね。でも、女優としても、登山家としても、素手で岩をつかんで登るのは、いかがかと思いますよ。
2012.10.29
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「コンフェッション」 Confessions of a Dangerous Mind 2002年 アメリカ映画監督 ジョージ・クルーニー出演 サム・ロックウェル ドリュー・バリモア ジョージ・クルーニー ジュリア・ロバーツ アメリカで60~80年代に活躍したTVプロデューサーが、実はCIAの工作員だった(事実かどうかは不明)という衝撃の告白をした自伝を、アカデミー賞常連の演技派俳優、ジョージ・クルーニーが初監督で、映画化した作品です。 1981年、ニューヨーク、チャック・バリス(サム・ロックウェル)はホテルに出引きこもっていました。恋人のペニー(ドリュー・バリモア)がやってきて、「結婚しましょう。」と言ってもドアを開けず、追い返してしまいました。 1961年、チャックは、ABC放送の臨時職員として働いていました。彼はTVはこれからの時代必ず発展すると信じ、新しい番組のアイデアも持っていましたが、なかなかチャンスをつかめずにいました。 その時、「一撃で人の命を奪う方法を30通り教えよう。」と、チャックの前に、ひとりの男が現れます。CIAの工作員だと名乗るそのジム・バード(ジョージ・クルーニー)という男は、前々からチャックに目をつけていたと言います。 お金に困っていたチャックは、ジムの申し出を受け入れ、厳しい訓練を経て、CIAの工作員として、暗殺をする任務につくようになります。 その頃、チャックのアイデアが認められ、視聴者が参加するという、当時としては画期的な番組、「デート・ショー」が始まります。 チャックの番組は好評で、ゴールデンタイムに進出することが決まり、彼はそのために付け加えるアイデアを考えていました。そこへ、またジムが現れます。 人気TVプロデューサーが、実はCIAの工作員で、秘密裏に殺人を繰り返していたなんて、非常にスキャンダラスで、面白そうな題材ではありませんか。 チャックは、初めのうちは駆け出しのTVマンで、収入も少なく、貧乏生活だったので、非常に怪しいジムの誘いに、不安がりながらものってしまったわけですが、彼の企画の番組が人気になり、次々と人気番組を手掛け、忙しくなって来ても、ジムは任務を持ちかけてきます。 「金はもう充分稼いでいる。もう殺しはたくさんだ。」とチャックが断っても、「君には天性の殺し屋のセンスがある。」とジムは言います。そのため渋々任務に向かいますが、連絡員のパトリシア(ジュリア・ロバーツ)という女とHしたりして、結構乗り気でやっているような気もします。 その後も、いくつもの人気番組を抱えながら、嫌がりながらも、幾度となく任務を重ねていっているようです。(ダイジェストで描写されています。) チャックの創る番組は人気でしたが、“お下劣番組”との批判も多くありました。彼自身もソ連に捕まったり、知り合いのエージェントが殺されたり、だんだん暗雲がやって来るのです。 本業の方でも、彼の番組はだんだんと視聴率が下がってきて、とうとう打ち切りが決定してしまいます。 そんな中でチャックはだんだんとノイローゼになってきて、そして、冒頭の場面につながるのです。 というように、人生は山あり谷ありということなのでしょうが、チャックが得意としていた視聴者参加のバラエティ番組の能天気振りからはほど遠い、全編ダークな雰囲気で、人物も逆光で映されている場面も多く、重苦しい空気が全面から香ってくる感じです。 何しろ、いつも明るく元気で、テンションが高いジュリア・ロバーツが、シリアスで、ダークな女スパイを演じ、結構激しいベッドシーンなども披露しているぐらいです。あまりにもダークな雰囲気すぎて、最初は彼女とは気がつかなかったほどです。 ということで、全体に暗い雰囲気で、主役も地味な、ジョージ・クルーニーの初監督作品を紹介しました。 ちなみに、「オーシャン」シリーズつながりで、仲良しな、ブラッド・ピットとマット・デイモンがカメオ出演で、ほんのチラッと、本当にチラッと、出演しています。どこに出ているか分かるかな?
2012.10.28
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「ロリータ」 Lolita 1962年 イギリス映画監督 スタンリー・キューブリック原作・脚本 ウラジミール・ナボコフ出演 ジェームズ・メイソン スー・リオン ピーター・セラーズ “ロリータ・コンプレックス”(略してロリコン)の語源となった、ウラジミール・ナボコフの小説を、原作者本人の脚本で、まだ巨匠となる前のキューブリック監督が撮った作品です。 休暇で夏を過ごそうと田舎町にやって来た大学教授ハンバート(ジェームズ・メイソン)は下宿先を探していました。 そこで出会った少女ロリータ(スー・リオン)に心を奪われ、少女が未亡人である母親シャーロットと暮らすその家を下宿先に定めます。 やがてハンバートは、ロリータと一緒にいたいがためだけに、シャーロットと結婚しますが、その事実を知ったシャーロットは逆上し、道に飛び出して事故死してしまいます。 悪い噂から逃れるためにハンバートはロリータを連れて車で旅に出ますが、行く先々で出会う謎の男(ピーター・セラーズ)に振り回され続けるのです。 「時計じかけのオレンジ」よりも、「2001年宇宙の旅」よりも、「博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」よりも以前の作品です。 原作ではロリータは12歳という設定ですが、本作では高校生となっており、またあからさまな性描写は全くありません。どうやら、なんらかの制約がかかっていた模様です。 「アイズ・ワイド・シャット」で結構どぎつい表現をしていた巨匠ですが、まだまだ実績のない新人監督であった時代、自由には作らせてもらえなかった様です。(まあ、実際12歳の子で露骨な性描写を撮るわけにはいかないと思いますが、いくら巨匠でも。) だから、世間一般でイメージされている“ロリータ”の印象から、この映画を観てしまうと、がっかりするかもしれません。 物語の主眼は、小悪魔的な魅力の少女ロリータに魅せられ、身を持ち崩していく中年男性の悲哀にあるので、必ずしも、露骨な性描写は必要ではないのでしょう。そういった点では、丁寧に、映し出されているとは思いましたが、ロリータ役の子の演技力にも左右されているのかもしれませんが、彼女がそこまで魅力的かというと若干疑問が残ります。(まあ、僕的には、結構かわいい子だなあと思いましたが、より多くの男性を魅了するほどの子ではないなあ、と思ってしまいました。) 少女に翻弄される、情けない中年男(ジェームズ・メイソン)と、怪しさ150%の謎の男(ピーター・セラーズ)、2人の名優の演技には、目を見張るものがありますので、見て損はない名作だとは思います。(ただ、2時間33分という長さに堪えられればという話ですが。) ちなみに、我が日本のごく一部ではやっている、“ロリータ・ファッション”と、本作(原作も)は、全く関係ありませんから、ヒロインのロリータが、ひらひらのレースやリボンたっぷりのエプロンドレスみたいのを着ていないのはおかしいという、脳天気な批判は、全く筋違いですので、ご注意を。(教養が疑われます。)
2012.10.13
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「127時間」 127 Hours 2010年 アメリカ映画監督 ダニー・ボイル主演 ジェームズ・フランコ 岩山でたったひとり遭難し、127時間後、奇跡の生還をするという感動の実話の物語、はっきり言って、ヘタに作るとどう考えても退屈な内容になる、この物語が、何と米アカデミー賞作品賞にノミネートされた(受賞は「英国王のスピーチ」)という話を聞き、いかに1本の映画に仕上げてあるのか、非常に興味をひかれたので、馴染みのレンタルビデオ店(このブログを続けて見ている人にはお馴染みの、「ザ・ライド」をホラーに、「ゲット・スマート」をアクションに分類している、あのビデオ屋です。)で、旧作100円になるのを待ってレンタルしてきました。 映像のほぼ80%をたったひとりで奮闘している主人公に、「スパイダーマン」のピーターの親友であり、好敵手“グリーン・ゴブリンJr.”を好演している、ジェームズ・フランコ、監督は、「スラムドッグ$ミリオネア」でアカデミー賞(作品賞も監督賞も)を受賞している、ダニー・ボイルです。 アーロン・ラルストン(ジェームズ・フランコ)は、金曜の夜、仕事を終えると大急ぎでブルー・ジョン・キャニオンへ向かう用意を始めます。忙しい喧騒の都会を一刻もはやく離れようと、妹からの、たまには家族に連絡してという留守電を無視して、出発します。 週末の登山やロッククライミングは彼にとって生きがいそのものなのです。 翌日、車の中で起きたアーロンは、ビッグドロップというところへ、通常4時間かかるところを45分で向かおうと、マウンテンバイクにまたがり、ノリノリで岩場を走り抜けていきます。途中、岩にぶつかり自転車から投げ出されてもお構いなしです。 彼は自然の中でひとりを満喫し、見たものをデジカメやビジオカメラで記録しながら行きます。 自転車を降りて、跳ねるように渓谷の岩場を進んでいると、道に迷っている女の子2人と出会います。彼は意気揚々と彼女たちの前に現れ、道案内を買ってでます。 取っておきの遊び場を紹介すると、2人は大喜びです。 アーロンは彼女たちにパーティーに招待され、そこで別れます。 再びひとりになったアーロンは好きな音楽を聞きながら目的地へ向かいます。トントン跳ねるように進んでいたが、ある岩に足を乗せたとき、彼の運命は一変するのです。 突然岩が崩れ、彼は狭い谷底に落ちてしまいます。最悪なことに落石した岩が、彼の右腕を挟み身動きできなくなってしまうのです。 プロローグ的に、アーロンがブルー・ジョン・キャニオンに向かう様子、2人の女性ハイカーに出会い、地底湖で遊ぶ様子が、美しい大自然の景色とともに、軽い調子で、映し出されていきます。このプロローグは、彼の性格というか、自然に対する姿勢というか、そういうものを表していると思います。 アーロンは、週末の度に、登山やキャニオニング(渓谷などを探検したりして楽しむことをこう言うようです。)に出かけており、このブルー・ジョン・キャニオンについても熟知しており、慣れているようです。 そのため、けっこう軽装(ロープは結構持っていましたが、水は400ccほどの水筒1個です。)で臨んでおり、自らの優れた身体能力を頼りに、渓谷の岩の上を跳ねるように進んでいきます。 彼は、大自然を完全になめきっており、それは、誰にも出かける先を告げずに出かけている、という姿勢にも表れています。はっきり言って、いやな男です。 プロローグで、彼のこのような軽い様子を映し出しているおかげで、遭難したあとの、回想や妄想を繰り返す彼の心情が、手に取るようにわかり、最初はいやな男だなあ、と思っていたのですが、だんだんと感情移入していきます。 そして、ほぼ雨の振ることのない乾燥地帯で、全く人が通ることもなく、通ったとしても、途中で映る上からの映像からもわかるように非常に狭い岩の裂け目のため、上から見ても全く姿が見えず、岩を削って動かそうとしても、途中で彼自身が気づいたように、岩が削られるとますます挟まった右手に岩が食い込んでくるという状況、上部の岩のでっぱりにロープを引っ掛けることには成功していますが、それを頼りに岩を持ち上げようとするが、現状の装備ではそれもかなわず、という、八方ふさがりの状況です。 つまり、彼が助かるために残された方法は、たった1つしかありませんでした。はっきり言って、観ている観客にもそれはわかっていました。 だから、127時間のうちのほとんどは、彼が、そのたったひとつ残された脱出方法を実行するための覚悟をする時間だったわけです。 最後の水を飲んでしまった後、彼はその最後の脱出方法を実行します。それは、充分な装備がない中でのことですから、スパッとできるわけはなく、結構時間がかかったことでしょう。かなりの覚悟と、強い精神力が必要です。 彼は終始冷静でした。自分の置かれている状況を客観的に判断し、大声で助けを呼ぶ、岩を削ってみる、岩を持ち上げてみるなど、できうる方法はすべて試し、残された水は少しずつ飲み、おしっこをビニール袋に貯めておき、ビデオカメラに、家族や知り合いへのメッセージを残し、岩の間にスクービー・ドゥーの風船を見た時は、デジカメを通して見て幻覚であることを確かめています。 そう、彼はなかなかの男だったのです。プロローグで見せていたチャラい男ではなく、危機に陥っても冷静に判断し、最善の方法を実行できる、なかなかできた男だったのです。 それは、最後の脱出方法を実行し、その場を離れた後、振り返って、自分が127時間奮闘した現場を写真に撮るという行為にも表れています。(もちろん残った“あれ”も、写っているはずです。) アーロンがそういうなかなかできた男だということが、だんだんわかってきて、最後彼が助かった時、観ている我々も安堵することができたのです。 94分という短い映画ですが、というか、内容からしたらずいぶん長い時間、見事に持たせたな、というのが正直な感想です。はっきり言って、「仰天ニュース」や「アンビリーバボー」で30分くらいで紹介されるような事件です。 それは、やはり演出の力と、主演のジェームズ・フランコの演技力に負うところが大きいでしょう。見事な映画でした。
2012.10.08
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「阪急電車 片道15分の奇跡」 2011年 日本映画監督 三宅喜重出演 中谷美紀 戸田恵梨香 宮本信子 谷村美月 南果歩 有村架澄 勝地涼 玉山鉄二 芦田愛菜 高須瑠香 阪急今津線、始点から終点まで8駅7.7km、片道15分を舞台にしたハートフル群像劇です。 高瀬翔子(中谷美紀)は、結婚を間近に控えた会社の同僚の彼氏から、突如、後輩女性との浮気を告白され、彼女が妊娠しているので、結婚を取りやめ彼女と結婚したいと言われます。驚きと怒りが隠し切れない翔子ですが、2人の結婚式に出席させることを条件に、2人を許します。 結婚式当日、翔子は、まるでウェディングドレスのような純白のドレスで出席し、帰りの電車の中で注目されてしまいます。 森岡ミサ(戸田恵梨香)は、見た目は非常にイケメンだが、自己中で、怒ると暴力をふるう彼氏に悩んでいました。2人で電車に乗っていると、ちょっとした誤解から、彼が怒りだし、途中の駅でミサを突き飛ばして降りて行ってしまいます。 伊藤康江(南果歩)は、平凡な家庭の専業主婦です。PTAのつながりからセレブ気取りの主婦たちのグループに入ってしまい、1食数千円のランチの食事会を断り切れず、悩んでいました。食事会に向かう電車の中で、人目を気にせず大声でおしゃべりするおばちゃんたちの中、つい人目が気になってしまいます。 権田原美帆(谷村美月)は、地方出身で関西学院大に通っています。野草を取るのが趣味で、都会の大学生活に今ひとつなじめないでいました。電車の中で、同じく地方出身で関西学院に通う、見た目パンクな軍事マニア、小坂恵一(勝地涼)と出会います。 門田悦子(有村架澄)は、あこがれの関西学院大を目指している受験生で、電車で通学しています。社会人の彼氏、竜太(玉山鉄二)と交際していますが、合格するまではHはしないと言われています。しかし、進路指導で、関西学院はかなり難しいと言われ、自暴自棄になって、彼氏に「今日でいいよ。」と言ってしまいます。 樋口翔子(高須瑠香)は、沿線の小学校に通っていますが、友達からのいじめに悩んでいました。 夫に先立たれ1人暮らしの老婦人、萩原時江(宮本信子)は、近所に住む、孫の亜美(芦田愛菜)のお守りをするのが唯一の生きがいでした。いつも阪急電車を利用し2人でお出かけしています。 そんな平凡な人々が、1本の電車を通して関わり合う姿を、その背景となるエピソードとともに語りながら、心温まるドラマが作られています。 ちょっとした出会い、ちょっとしたアドバイスが、人生の分岐点となり、悩みを解決し、新しい世界が広がっていくのです。 ついホロっと来たり、安心したり、スカッとしたり、心和む逸品です。心が疲れている時に観るといいかもしれません。まあ、映画館で2000円近く払って観るとなると、ちょっと?ですが、DVDで観るには十分でしょう。 電車というものは、全く見ず知らずの老若男女が同乗し、様々な出会い、別れなどのドラマを生み、昔から映画やTVドラマ、演劇などの題材とされてきました。 実際に世界中のどこかで、多かれ少なかれ、このようなドラマが繰り広げられてきているのではないでしょうか。 余談ですが、関西学院大ごときに、引っ掛ったらもうけものと言われている学力って、ちょっとおさびしいのではないでしょうか。“絹”という漢字を知らない彼氏を、笑っている場合ではない様な気がしたのは、僕だけでしょうか。
2012.09.17
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「悪人」 2010年 日本映画原作・脚本 吉田修一監督 李相日出演 妻夫木聡 深津絵里 柄本明 樹木希林 モントリオール世界映画祭の最優秀主演女優賞を初め、数々の賞を受賞している、話題の日本映画「悪人」を、やっと観ました。前々から観たいと思って、以前TV放映していたのを録画してあったのですが、内容が暗いということは分かっているので、なかなか踏ん切りがつかなかったのです。 土木作業員・清水祐一(妻夫木聡)は保険外交員女性・石橋佳乃を殺してしまいます。祐一は別の女性・馬込光代(深津絵里)を連れ、逃避行をすることになります。事件当初、容疑者は裕福な大学生・増尾圭吾でしたが、拘束された増尾の供述と新たな証言者から、容疑の焦点は祐一に絞られる事になるのです。 題名にある“悪人”とは誰のことでしょうか。やはり、佳乃を殺した祐一のことでしょうか。 祐一は、幼いころに母親に捨てられ、祖父母に育てられました。口下手で不器用な男で、親戚の会社にやっと雇ってもらっています。仕事と年老いた祖父母の世話で精いっぱいで、夜中に車をブッ飛ばすことと、出会い系サイトで出会った女性と、つかの間の恋愛で、孤独を紛らわしているようです。 佳乃と会う約束をしていましたが、目の前で別の男の車に乗って去っていくところを見せられ、カッとなって後をつけ、犯行に及んでしまったようです。 光代は、非常に内気な女性で、生まれた町で小・中・公と通い、その町の男性用品店で働いています。 やはり孤独を紛らわすために出会い系サイトを利用し、祐一と知り合います。 祐一の強引な出会いがしらの「ホテルに行こう。」との誘いに、戸惑いながらも応じてしまい、殺人犯と知りながら、自分と同じ匂いを感じ、逃避行してしまうのです。 佳乃は、出会い系で知り合った祐一と約束をしながら、その目の前で憧れのイケメン大学生増尾と会ってしまい、強引に増尾の車に乗って行ってしまいます。 しかし、その直前に食べたギョーザのにおいをぷんぷんさせながら、一方的にしゃべり続けたため、増尾に嫌われ、山中に置き去りにされてしまいます。 後を追ってきて、手助けしてあげようとした祐一に、悪態をつき、カッとさせてしまい、犯行に及ばさせてしまいます。 就職した福岡で親元を離れて暮らしていますが、新規の契約を取るために、親に知人を紹介してもらうなど、結構わがままに育てられてきたのかなと思われます。 増尾は、湯布院の一流旅館の御曹司で、福岡の大学に通い、夜な夜な友人と繁華街で遊んでいるようです。 強引に車に乗ってきた女性を、気に入らないからと言って、人里離れた真っ暗な山中に、平気で置き去りにできる男です。 事件後、「なぜ置き去りにした。」と食い下がってきた佳乃の父親(柄本明)のことを、友人たちと笑いものにしていました。 衝動的に殺人を犯してしまった祐一の側から話が書かれていますので、わからなくなってくるのですが、幼い祐一を捨ててしまった母親、佳乃をわがままいっぱいに育ててしまった両親、社会的弱者に対し優しく出来ていない社会も含め、真の“悪人”とは誰か、ということを考えさせられる話になっています。 しかし、妻夫木聡という役者は、まだ若いのですが、末恐ろしいというか、いったいどれだけの顔を持っているのでしょうか。 このブログでも、「どろろ」「ドラゴンヘッド」「パコと魔法の絵本」「クワイエット・ルームにようこそ」「ザ・マジックアワー」と、出演作を紹介していますが、そのすべてで、違う顔を見せています。 今回も、殺人を犯した男でありながら、悪人には見えないという、難しい役どころを見事に演じ切っています。 最近は、TVCMで、30歳ののび太君をまさにリアルに演じていますね。「お前、いつまでもドラえもんに頼ってんじゃねえよ。」と思わずTVの前で、突っ込んでしまいます。 数々の賞をもらっている、陰のある女を演じさせたら、現代の女優陣の中では右に出るものがいない、深津絵里さんの演技も見事ですし、娘を殺された無念をどこにぶつけたらいいかわからず、つい増尾を追い回し、食って掛かってしまう、不器用な父親を演じた柄本明さん、自分が手塩にかけて育てた孫が殺人に問われ、家の周りにはぶしつけなマスコミ人が張り付いていても相手にせず、気丈に日常生活を送る、祐一の祖母役の樹木希林さんなど、脇役の方々の演技も非常に巧みで、見ごたえのあるドラマを形作っています。 やっぱり、日本映画は、宣伝費をたっぷり使い、大スターをずらっとそろえた大作ではなく、こういった地味な作品が、見ごたえがあって、いい作品がたくさんありますね。
2012.08.06
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「ザ・ライト ~エクソシストの真実~」 The Rite 2011年 アメリカ映画監督 ミカエル・ハフストローム出演 コリン・オドナヒュー アンソニー・ホプキンス このブログの記事には珍しく、新しい映画です。 この映画、前評判を聞いていると、実話だそうで、バチカンには、真剣に“エクソシスト”(悪魔祓い)を養成している機関があるそうで、そこでの真実の物語を題材にしてドラマということで、興味をひかれていました。 行きつけのレンタルビデオ屋で、早々と旧作100円になっていたので、借りてきました。ホラー映画のコーナーにありましたが、ホラーじゃないはずと思い、借りてきました。(このブログを前から読んでいる人は知っていると思いますが、僕はホラーは苦手で、ほとんど観ていません。まあ、「エクソシスト」とか「オーメン」とか、非常に話題になったものは観ていますが。) 葬儀屋の息子、マイケル・コヴァック(コリン・オドナヒュー)は、家業を継ぐのが嫌で、あまり神を信じていないのに、神父になろうと神学校に進学します。 4年後、一般教科の成績は優秀だが、神学の成績があまり良くなく、司祭になる試験を受けようとしないマイケルに、先生(もちろん神父)はバチカンにある「エクソシスト養成講座」を勧めます。 「エクソシスト養成講座」でも、悪魔憑きと精神疾患の違いについて言及するなど、悪魔の存在に懐疑的なマイケルに、講師のザビエル神父は、ベテランエクソシストのルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)の下を訪ねるように促します。 ルーカス神父の下、父親にレイプされた子を身ごもる少女ロザリアの悪魔祓いを手伝うマイケルでしたが、ロザリアが異様な表情をし、男の声で話し、ありえない姿勢をとるのに遭遇しても、未だ懐疑的です。 やがて、ロザリアの悪魔祓いは失敗し、母子ともになくなってしまったころから、マイケルの身の回りに不思議な現象が起こり、アメリカにいる父親が亡くなったという知らせを受けるのでした。 誇張された表現や、オーバーアクションもなく、物語は非常に落ち着いた感じで、淡々と進んでいきます。悪魔に憑りつかれたという少女の表現も、全く刺激的なところはなく、確かにありえない姿勢で暴れたり、表情や声、口調が変わったりしますが、全く怖くありません。どう考えても、ホラー映画ではありません。 というか、信仰に懐疑的なひとりの青年が、信仰に目覚め、1人前のエクソシストに成長していく姿を描いたドラマです。どちらかというと、ホラー映画と思われないために、悪魔祓いの実態を、できる限り観客を怖がらせないように、淡々と描くことに力を注いでいるような気がします。 例のごとく、ネットで、この映画の評判を調べてみました。すると、結構、クソミソに批判している人がいました。 しかし、よく読んでみると、そういう批判している記事は、あのホラーの名作「エクソシスト」と比較していたり、悪魔に憑りつかれている少女の表現が生ぬるいとか、少しも怖くなかったとか、この映画をホラー映画としてみた時の批判ばかりでした。 そりゃあ、ホラー映画じゃないんだから、ホラー映画としてみたら出来は良くないに当り前です。題名に“エクソシスト”とついていたら、ホラー映画に決まっている、という固定観念にとらわれた、頭の固いおバカたちの批判は聞く必要はありません。 だいたいが、固定観念にとらわれるような融通の利かない頭で、批判される方が、迷惑というものだよ。 ということで、固定観念にはとらわれずに、優れた師の下で、有望な青年が力をつけていく物語で、その題材がたまたま“エクソシスト”であったという捉え方で、いいドラマを味わってください。 そんな中、やはり見るべきは名優アンソニー・ホプキンスの演技です。 アンソニー・ホプキンスといえば、「羊たちの沈黙」の食人鬼ハンニバル・レクター博士の印象が強いと思います。確かに、あの映画でのどう見ても正気でない鬼気迫るレクター博士の演技は見事でした。 しかし、この映画のルーカス神父はレクター博士とは全く別人でした。 マイケルがルーカス神父の下を訪ねた、最初の登場シーンから、その表情は非常に穏やかで、目の奥には、やさしさが漂っています。その顔は、確かにアンソニー・ホプキンスなのですが、レクター博士の顔とは全く違うのです。 悪魔祓いをしている時の表情も、まさに真剣な表情ですが、レクター博士とは全く違うのです。 そして、驚くべきは、ロザリアの悪魔祓いに失敗した後、ルーカス神父自身が悪魔に憑りつかれてしまう(未見の方ごめんなさい、秘密にしておきたかったのですが、書いてしまいました。)のですが、その表情は、レクター博士の狂気の表情とは違う、憑りつかれた表情なのです。 もう、見事としか言いようのない、すさまじい演技力です。悪魔よりも恐ろしい、アンソニー・ホプキンスの演技力なのです。 ということで、Wikipediaにも、ホラー映画と紹介されていますが、ホラー映画ではない、優れたドラマの作品を紹介しました。 DVD返す時には、「これホラーじゃないよ。」と忠告してあげようと思います。
2012.06.19
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「カーテンコール」 2005年 日本映画監督 佐々部清出演 伊藤歩 藤井隆 鶴田真由 奥貫薫 井上尭之 夏八木勲 またまた、レンタルビデオ屋で、見つけてしまいました。 日本映画のほのぼのとした小品を楽しみたいと思い、レンタルビデオ屋で探していました。出演者の中に、藤井隆という名を見つけ、そして、映画館の幕間芸人の映画と書いてあるので、ちょっとしたコメディかと思い、借りてみたわけです。 ところが意外や意外、思わずウルウルしてしまう、感動作でした。 雑誌編集のアルバイト、橋本香織(伊藤歩)は、スクープ写真を撮った女優が自殺未遂を起こしたことにより、職を失い、編集長の好意で、出身地下関に近い福岡のタウン誌の編集の職を得ます。 香織は、読者の投稿により、下関の古い映画館にかつていたという幕間芸人の取材に出かけます。 昭和33年からこの映画館に勤めるもぎりのおばさん、宮部さんによると、その安川修平(藤井隆)という人は、最初は雑用などをする従業員として勤めていたが、幕間に騒ぐ観客をなだめるために、成り行きで舞台に上がったことから、歌や物まねで客を楽しませるようになっていったということでした。 やがて修平はファンだった女性、良江(奥貫薫)と結婚し、ひとり娘をもうけたということですが、高度成長期で国民の生活が豊かになり、TVなど、娯楽が多様化し、映画界の斜陽からくる経営不振のため、リストラされ、今はどこにいるか分からないということでした。 どうしても修平本人を取材したい香織は、長らくご無沙汰していた実家に泊まり、取材を続け、修平が在日朝鮮人であることを突き止め、そちらの関係からその娘、美里(鶴田真由)を見つけます。 美里の話によると、修平が映画館をクビになった後、間もなく母親は亡くなり、修平は市内のキャバレーなどで、芸をしていたが受けず、次第に仕事も少なくなり、美里が小学校6年生の時、「必ず迎えに来るから」と言い残し去って行き、それきり会っていないということでした。 美里は父を恨んでいるようでしたが、香織は親子が再会を果たすまでは、この取材を続けたいと思い始めます。 かつては、どんな地方都市にも、わが街の映画館というものがありました。その多くは個人経営で、家族と、数人の従業員で経営しているところがほとんどでした。 2本立ての上映が基本で、安い料金で、1回ごとの入れ替えもなく、観ようと思えば、何度でも観放題でした。だから、幕間に移動しない客も多く、幕間芸人と呼ばれる方々の仕事もあったのでしょう。 昭和30~40年代のことですから、僕が子どもの頃、親に連れられて、近くの地方都市の映画館で、「東宝チャンピオンまつり」(「ゴジラ」の映画を中心に短編のアニメなど数本を上映していました。)や「東映まんがまつり」(「長靴をはいた猫」などの東映動画を中心に同じく数本の短編アニメを上映していました。)などを観ていたころには、すでにいなくなっており、僕自身は、幕間芸人という方々は見たことはありません。 僕は、高校時代、そんな地方都市の小さな映画館では満足せず、休みになると、わざわざ名古屋(電車を乗り継ぎ、2時間ぐらいかかります。)の大きな映画館へ出かけて行き、大きなスクリーンで、単独上映(まだまだ2本立てが多かったのですが、洋画の大作などは1本で上映していました。)の洋画を見ることを楽しみにしていました。ちょうど「スターウォーズ」などのSF映画を中心に、洋画が幅を利かせるようになってきた時代です。このブログの第1回の記事で語っている、「2001年宇宙の旅」のリバイバル上映(すでにリバイバルでした。)を続けて2回観たのもその頃です。(1回ごとの入れ替えはもちろんなかった。) この映画で出てくるような、吉永小百合の青春映画や、高倉健のヤクザ映画、勝新の「座頭市」、「男はつらいよ」の初期作品など、日本映画が元気だったころ、つまり、人々の娯楽が映画ぐらいしかなく、この映画に出てくるような地方都市の小さな映画館が元気だったころのことは、実は僕は知らないのです。(だから、僕自身洋画の方が馴染み深く、このブログの記事が洋画、しかもハリウッド映画に偏っています。) だから、幕間芸人という存在を、僕は知りませんでした。日本の映画業界が斜陽化していったこの時代、日本全国でこの映画で描かれているような状況に置かれた幕間芸人がたくさんいたことは想像できます。 特に、この映画の修平は、実は素人で、成り行きで芸人を始めたという存在ですから、その後、芸人を続けようとしても難しかったのでしょう。 しかも、修平は在日ということもあり、まだまだ偏見が根深く残る中、他の就職も難しかったのでしょう。決して人種差別を肯定するわけではないですが、というかむしろ憤りを感じてはいますが、そういう偏見があるのが現状でした。 斜陽化する映画界、理不尽な偏見による人種差別、修平は打ちのめされ、そして離れ離れになる親子、そんな時代にほんろうされ、負けてしまった親子を、香織は何とか再会させてあげたかったのです。それは、自分のわがままからうまくいっていなかった、父親(夏八木勲)との関係を修復することにもなっていきます。 そんな2組の親子のドラマに思わず、目がうるんできてしまいました。こんなに泣ける話とは思っていなかったこともあり、はっきり言って油断していました。でもだからこそ、純粋にドラマに感動していました。 ところで、藤井隆という人、僕が最初にTVで観たのは、吉本新喜劇で、オカマっぽいキャラで変な歌と踊りで笑いをとる芸人でした。そして、東京へ進出してもやはり、変な言動で笑いをとる芸人でした。いつの間に、こんないい演技をする役者になったのでしょう。とりわけ、舞台の上で、素人っぽくギター片手に芸をする姿、映画館のロビーのソファーで親子3人仲むつまじくお弁当を食べる姿が、いい味わいを出していました。それから、意外と歌が上手だったんですね。特に「いつでも夢を」の歌声が、心に残っています。 また、現代の安川修平を演じていた井上尭之さんも、いい味を出していましたね。 思いがけず、いい話に出会い、ちょっと幸せでした。そんなお話です。
2012.06.17
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「アイズ・ワイド・シャット」 Eyes Wide Shut 1999年 アメリカ映画監督 スタンリー・キューブリック主演 トム・クルーズ 二コール・キッドマン 僕の大好きなキューブリック監督の遺作です。 セレブ相手の開業医ビル・ハーフォード(トム・クルーズ)は、美しき妻アリス(二コール・キッドマン)と、結婚9年目、ひとり娘は7歳だが、やや倦怠期気味でした。 ビルの患者で友人の富豪ジーグラーのパーティに夫婦で出席していました。2人で踊っているとビルは、バンドのピアニストが医学部の中退した同級生ニックであることに気付き、声をかけ、普段はバーでピアノを弾いていることを聞き出します。その後、ビルはモデルの女の子2人の肩を抱き、アリスはロマンスグレイの紳士と踊っていましたが、ビルはジーグラー氏に呼ばれます。 ビルが呼ばれていった2階の寝室では、ひとりの女性が全裸で倒れ、ジーグラー氏がうろたえていました。ヤク中で気を失ったらしき女性に応急処置をし、一命を取り戻させたビルに、ジーグラー氏はこの件は他言しないように頼むのです。 ある晩、マリファナを吸いながら夜の営みに臨む夫婦、パーティの話から口論となり、女性はよからぬ妄想をしないというビルに対し、かつて旅行先で見かけたイケメンの海軍将校にときめき、すべてを捨てて彼についていく妄想をしたことをアリスは告白します。ビルはショックでした。 その時、電話が鳴り、患者のひとりが亡くなった知らせを受け、ビルは駆け付けますが、妻の言葉が頭から離れません。亡くなった患者の娘マリオンを元気づけていると、突然、愛の告白をされてしまいますが、マリオンの彼氏が駆け付け、その場を辞することができました。 帰り道も、つい妻がイケメンに抱かれているところを妄想してしまいます。すると、美しい娼婦に声をかけられ、思わずついて行ってしまいました。そこへ、携帯に妻からの着信、我に返ったビルは、彼女を抱かずにその場を離れます。 また、妄想しながら歩いていると、ニックが言っていたバーを見つけ入ります。舞台上では、ニックが仲間とともに演奏していました。 演奏が終わり、話し始める、ビルとニック。ニックはこの後、謎の場所で目隠しして演奏する仕事があると言います。その話に興味をひかれたビルは、場所とパスワードを聞き出します。 ニックと別れたビルは、タキシードとフード付きのマント、そして仮面が必要だという謎のパーティに潜入するため、貸衣装屋をたたき起し、その場に向かいます。 そこは、秘密の乱交パーティでした。 宇宙、戦争、暴力、恐怖などをテーマに、様々な分野で、意味の深い難解な作品を送り続けてきた、キューブリック監督ですが、今回のテーマは、夫婦の嫉妬です。 キューブリック監督には珍しく、トム・クルーズ、ニコール・キッドマンという、大スターの2人を主役に持ってきました。 これは、当時2人が実際に夫婦(その後、離婚していますが。)であり、演技のできる美男美女であるということが理由でしょう。お互いの言動に嫉妬する、倦怠期の夫婦を非常にリアルに演じています。 冒頭、いきなりニコールの全裸(まだ後ろ姿ですが、スレンダーで非常に美しいです。)で、度肝を抜かれます。そして、裸で愛撫し合う夫婦の描写(上半身のみ)もありますが、前半、普通に倦怠期の夫婦が愛を確かめ合うという、お話かと思いました。 しかし、やっぱり一筋縄ではいかないところがキューブリック監督です。話はどんどん妖しい方向に進んでいきます。 もう、裸はもちろん、性交している描写(残念ながら、トムとニコールではありません。)も普通に出てきますし、はっきり言って非常に乱れています。その辺免疫のない方には刺激が強すぎるかもしれません。(もちろん、R-18指定です。) でも、題材はなかなかショッキングな内容ですが、キューブリック監督にしては、比較的わかりやすく、結構ストレートにテーマを表現しているなあ、と思いました。 最後に登場する仮面の謎など、いろいろに解釈できるところが有りつつも、最後の結論については、思いっきり共感してしまいました。夫婦関係を煮詰めていけば、結局はそこに行きつくのかなあ、という感じです。 しかし、はっきり言って、官能的な裸の美女(仮面をつけているので、顔はわかりませんが。)が、非常にたくさん出てきて、みな非常に美しいプロポーションなのですが、スレンダーな人ばかりです。僕個人の好みとしては、もっとポッチャリ(デブではない)な子がいてもいいのにな、と変なことも考えてしまいました。
2012.05.27
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「グラン・トリノ」 Gran Torino 2008年 アメリカ映画製作・監督・主演 クリント・イーストウッド 今や、だれもが認める名監督となった、クリント・イーストウッドが、自ら俳優引退を宣言した作品です。 長年連れ添ってきた妻に先立たれたウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、フォードの自動車工として、50年勤めあげ、デトロイトの郊外で隠居生活をしていました。頑固者の彼は、日本の自動車メーカーに勤める息子との関係はおもわしくなく、極少数の気の合う友人と悪態をつき、最近町に増えてきた東洋人の住人を面白くなく思っていました。彼の意固地さは朝鮮戦争での苦い思い出からきており、亡き妻は、自身が信頼する神父に懺悔するように遺言を残していました。 ある日、不良グループにそそのかされた、隣に住むモン族の少年タオが、愛車“グラン・トリノ”を狙って、ガレージに忍び込み、ウォルトに銃で脅され退散するという事件が起こります。また、ウォルトが成り行きで、同じ不良グループに絡まれていたタオの姉スーを助けたこともあり、隣のモン族の一家との交流を深め、ホームパーティに招待されたり、愛車の盗難未遂の償いということで、家事を手伝うタオに、ウォルトは、男の生き方を教えたりするのです。 そんな中、不良グループの嫌がらせは、ますますエスカレートしていくのです。 クリント監督は、最近の自身の出演作では、一貫して、老いた男のけじめのつけ方を追求してきたように思います。「許されざる者」しかり「ミリオンダラーベイビー」しかり「スペースカウボーイ」しかり。その、集大成として、本作は位置づけるべきでしょう。 本作のテーマは、ずばり、“男としての最期”です。(あっ、書いちゃった。仕方がない、書いてしまったので秘密にすることなく書いてしまいますが、この映画の最後、ウォルトは死にます。) 男として、如何に残る者に自らの糧を引き継ぎ、如何にかっこよく、悔いの無いように死ねるか、それがテーマだと思います。 はっきり言って、この映画を見て、「なんであんなところで死んじゃうの。」とか、「あんな奴らのために命を落とすことないじゃん。」とか、「犬死やん。」とか、思う人はいるかもしれません。 しかし、人は必ず死にます。病気や事故に合わなくても、老いていけば必ず死にます。その死は全ての人にとって避けられないものであるのですから、どう死ぬか、が非常に大切になってきます。 財産を残す人、作品を残す人、家族を残す人、人はそれぞれ死に際して、何らかの生きた証を残したいものです。でも、1番残したいものは、心ではないでしょうか。自分が生きてきて大切にしてきたもの、考え方、生き様、そういったものを残されたものに託していきたいのではないでしょうか。その象徴が“グラン・トリノ”なのです。ウォルトが生きた証は、タオやスーの心の中に、必ず生きているはずです。 その残されるタオやスーに、少しでも役に立つ形で、ウォルトは逝きたかったのです。彼らがもうタオやスーに悪さをすることは、二度とできないようにしておきたがったため、ウォルトは命を投げ出すことを決意したのです。(ああしておけば、彼らは普通死刑、よくて終身刑になるはずです。) ひとり暮らしの老人の孤独死が多くなっている昨今、男として、残されるもののために死んでいけるウォルトは、幸せなのではないでしょうか。彼が朝鮮戦争で犯した過ちも、これですくわれるのではないでしょうか。 そんな男の死に様を考えさせられた映画でした。 また、例によって、この記事を書くに当たって、ネットの中のこの映画に対する批評を探してみて、「ウォルトは現代アメリカの象徴である」という趣旨の文を見つけ、はなはだ共感しました。 ウォルトは、かつての戦争によるトラウマを抱えており、最初は、タオたちを執拗に狙う不良グループのひとりを、ボコボコに痛めつけることにより、問題を解決しようとしますが、その後、彼らの嫌がらせは、エスカレートしてしまいます。 まるで、ベトナムでのトラウマを抱え、湾岸戦争などで、散々痛めつけた相手に、報復でひどいテロをされてしまったアメリカのようです。その後、アメリカ政府は、またまた報復だということで、大部隊を中東に送っています。はたして、それは正しかったのかという問題定義をしているのだというのです。 最後のウォルトは丸腰でした。そして、その結末を法による裁きに委ねました。アメリカもそうすべきだったと言っているというのです。 暴力には暴力が返ってきます。平和に仲直りするには、あやまって話し合うべきです。個人個人の交流の場面では、みんな当たり前のようにやっていることです。 なぜ国家間の争いに際しては、そういうことができないのでしょうか。まるで、子どものけんかのようではないか。ということが言いたいのではないかというのです。 かつては、マカロニウエスタンや、「ダーティハリー」シリーズなどで、銃を頼りにした男を演じ、スターになってきたイーストウッドですが、「許されざる者」で描かれているように、暴力を糧に生きてきた者の結末は悲しいものにならざるを得ないのです。 「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」を作り、戦争のむなしさを訴えてきたイーストウッド監督ですから、そういう思いが、こめられているというのは、有り得ることかもしれません。 そしてまた、ウォルトが後を託していく人たちが、自分の息子ではなくて、東洋人であるというのも、何かしら象徴的しているのかな、と思ってしまうのは、考えすぎでしょうか。 人によっては、アカデミー賞を受賞した「許されざる者」や「ミリオンダラーベイビー」、そして、受賞こそは逃しているが、非常に評価の高い「ミスティック・リバー」、それらの作品を抑え、イーストウッド監督の最高傑作であると、いう人もいる傑作を、今回は紹介しました。
2012.05.19
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「テラビシアにかける橋」 Bridge to Terabithia 2007年 アメリカ映画監督 ガボア・クスポ出演 ジョシュ・ハッチャーソン アナソフィア・ロブ ゾーイ・デシャネル 以前、「イエスマン“イエス”は人生のパスワード」で、ヒロイン役だったゾーイ・デシャネルに魅せられてしまったので、彼女を追って、この映画を見てみました。 後から知ったのですが、キャサリン・パターソンという児童文学作家の原作で、アメリカでは、非常に有名な作品だそうで、映画化は2回目だそうです。 田舎町に住むジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)は、5人姉弟の真ん中で唯一の男の子、仕事に忙しい父と、娘にかまってばかりの母のため、絵をかいては空想にふける孤独な少年でした。 ある日、同じ年の女の子レスリー(アナソフィア・ロブ)が、隣に引っ越してきます。運動も勉強もでき、男勝りな子でしたが、少し変わりものでした。 作家の娘で、お話を作るのが得意なレスリーと、空想の絵が得意なジェスは仲良くなり、家の近くの川をロープで飛び越えた森の中に、自分たちだけの国“テラビシア”を空想して遊んでいました。 ジェスが密かに憧れている音楽のエドマンズ先生(ゾーイ・デシャネル)に、美術館に誘われ、レスリーも誘おうか迷った末に、彼はひとりで出かけます。その時、悲劇が起こるのです。 DVDのパッケージから想像するに、子どもたちが、異世界に出かける「ナルニア国」シリーズのようなファンタジーを想像していましたが、違いました。 “テラビシア”は、最新のCGを駆使して映像化されていますが、それはジェスとレスリーの空想の域を越えず、彼らの秘密の遊び場である森から出ることはなく、彼らは夕方は必ず家に帰ります。 この物語は、ひとりの少年が、悲しみを乗り越え、1段階大人へ近づいていくための成長物語だったのです。 ジェスは、学校では、親しい友人もおらず、上級生にはいじめられ、家でも女兄弟たちに囲まれて、自分の居場所が見つからない、そのため、夜中のベッドの中で、ひとり空想にふけっている少年でした。 ところが、同じく空想好きであるにもかかわらず、レスリーは非常に活発な少女でした。そのレスリーに引っ張られる形で、今までひとりで、内にこもって想像していたジェスは、“テラビシア”と言う舞台を得て、その想像力を外に向かって発揮することを覚えるのです。 だから、深い悲しみを乗り越えて、ラストの彼は、前向きな行動に出ることができるのです。(どんな悲しみで、どんな前向きな行動なのかは、ネタバレになるため秘密です。) この後、彼が絵が上手なことが先生にも認められたこともあり、ジェスは自信をもって前向きに進んでいくことでしょう。そんな物語なのです。 ところで、お目当てのゾーイ・デシャネルですが、先生役ということもあり、出番も少なく、ちょっと残念でした。 しかし、レスリー役のアナソフィア・ロブが、非常に魅力的でした。以前、このブログで、「ウィッチマウンテン/地図から消された山」を紹介しましたが、そこで、宇宙人の少女サラをやっていた子です。目がクリクリっとした大変魅力的な子です。「チャーリーとチョコレート工場」の生意気なガム少女の時は、わき役ということもあり、あまり魅力を発揮できませんでしたが、この映画では、その魅力をいかんなく発揮しています。今後楽しみな子です。(だから、この映画の結末は実は大変不満です。なぜ不満なのかは秘密。) また、ジェス役のジョシュ・ハッチャーソンも、今後楽しみな子役です。「ザスーラ」、この映画、「センター・オブ・ジ・アース」と着々とキャリアを重ねつつあります。今、「センター・オブ・ジ・アース」の続編が公開中ですよね。前作から引き続いての出演で、活躍しているようです。
2012.04.21
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「スペース・カウボーイ」 Space Cowboys 2000年 アメリカ映画監督・主演 クリント・イーストウッド出演 トミー・リー・ジョーンズ ドナルド・サザーランド ジェームズ・ガーナー 先日、夜中にTV放映していたので、つい観てしまいました。以前レンタルで観て、面白かった覚えがあって、今回も思わず見入ってしまいました。 1958年、アメリカ空軍のチーム・ダイダロスは、アメリカ初の宇宙飛行士になるはずでした。しかし、政府は計画を中止し、新設されたNASAは、テスト飛行にサルを選ぶことを発表しました。ダイダロスのメンバーは、宇宙への夢をあきらめ、技術者として勤務し、やがて退役するのでした。 40数年後、ダイダロスのメンバーだったフランク(クリント・イーストウッド)は、妻とのんびりした余生を送っていました。そこへ、突然NASAの使者がやってきます。 旧ソ連の衛星“アイコン”が故障し、軌道を離れ落下しつつあり、その旧型の装置にフランクの設計した物が使われており、現在のNASAには修理できるものが皆無であるため、落下阻止のための協力を求めに来たのです。 フランクは、自らNASAに出頭し、確執のあるかつての上官ガーソンに、“アイコン”修理のため、チーム・ダイダロスを復活させ、宇宙に送ることを約束させます。 フランクは、かつてのメンバーを自ら集めに行きます。曲芸飛行のパイロット・ホーク(トミー・リー・ジョーンズ)、ジェットコースター技師のジェリー(ドナルド・サザーランド)、牧師のタンク(ジェームズ・ガーナー)。 かつては宇宙飛行士候補だった4人も、今は老齢の身、健康チェックを何とかごまかし、厳しい訓練にも耐え、スペースシャトルに乗り込み、夢にまで見た宇宙へと旅立っていくのです。 社会派ドラマの多いイーストウッド監督には珍しく、コメディタッチの映画です。 まあ、かつては宇宙飛行士候補だったとはいえ、老人が宇宙飛行士になるなどという荒唐無稽の物語は、コメディにしかならないのでしょうがないのでしょうか。 とにかく、4人のじいさんたちがそれぞれ個性的で、面白いのです。 リーダーのフランクは、しっかりしているが、自分の考えをなかなか曲げない頑固者です。上官のガーソンとは、かつて現役時代ひと悶着あったようです。仲間のホークともケンカ別れしていたようで、最初迎えに行きづらい感じでした。 ホークは情熱家で豪快なパイロットです。空軍時代、無茶な加速や上昇で何機も戦闘機をおシャカにしているようです。フランクと何かと張り合い、時には衝突することもあります。見かけによらずロマンチストで、宇宙飛行士として、月に行く夢を4人の中で1番強く思っているようです。 ジェリーは、無類の女好きです。老齢となった今でもお盛んなようで、フランクが訪ねてきた時、娘さんと思って声をかけた傍らにいた美女は、どうやら彼女のようで、ジェットコースターから降りてきていきなり熱いキスを交わしていました。NASAでの訓練中でも、職員や見学者の女性にやたら声を掛けまくっています。その自信はどうやら自慢の一物にあるようで、健康診断で全裸になっても、前を隠さず、堂々としています。 タンクはほかの3人に比べ、控えめで目立たない存在ですが、基本的に陽気な性格のようで、常にその場の空気を和らげるような冗談をサラっと一言話しています。結構性格的に激しいメンバーの中で、その中を取り持つような潤滑剤のような役割でしょう。 そんな4人と、NASAの職員のサラや、司令官のガーソン、ベテラン管制官ジーンや、ほかの若い飛行士たちと絡み合う前半の様子は実に楽しめるものです。 後半、宇宙へ飛び出してからは、目的の旧ソ連の衛星がとんでもないものだったり、その正体をロシア軍から派遣されている者と司令官ガーソンが秘密にしていたり、同行している若い飛行士イーサンがガーソンから秘密の指令を受けていたりと、緊迫する状況になって来るのですが、残念ながら、説明不足のためか、いまひとつなぜそういう展開になるのかよくわからず、いまいちハラハラできませんでした。 イーサンはひとり船外に残って何がしたかったのかとか、ロシアは冷戦が終結しているというのに“アイコン”を修理し軌道に戻してどうしたかったのかとか、なぜ“アイコン”は暴れ出しシャトルとのドッキングが離れてしまったのかとか、“アイコン”を葬り去るのにあの方法しかなかったのかとか、説明が不十分で、いまひとつよくわかりません。 何が起こっているのかよく分かったら、もっとハラハラできたのかと思うと、非常に残念です。 しかし、老人たちの年甲斐もない奮闘により、よくわからない危機は脱することができ、シャトルが無事帰還でき、ラストシーンでは、何となく、目に熱いものがにじんできてしまいました。 というのも、科学的なところで説明不足でよくわからないところがありつつも、全編を通して、年甲斐もなくがんばる老人たちの、芯の通った熱い男のドラマが描かれているからでしょうか。 ところで、ご年配が宇宙へ行くという奇想天外な作り話ということで、いろいろなところで語られているこの物語ですが、実は、かつてマーキュリー計画で、ロケットで地球を周回したことのある元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員(そのマーキュリー計画をドキュメントタッチで描いた映画「ライトスタッフ」で、エド・ハリスが演じていました。)が、1998年に、77歳で、スペースシャトルで宇宙ステーションに行っており、あながち夢物語ではないことが証明されています。 しかし、ホークの恋愛エピソードはいらなかったね、とこの映画を見た多くの方々が思っているように、僕もそう思いました。
2012.04.14
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「卒業」 The Graduate 1967年 アメリカ映画監督 マイク・ニコルズ出演 ダスティン・ホフマン アン・バンクロフト キャサリン・ロス ずいぶん古い映画です。いわゆる“アメリカン・ニューシネマ”(和製英語)と言われる映画の先駆的な作品です。あまりにも有名な花嫁を強奪するラストシーンは、いろいろなところでパロディにされているので、まだ未見の若い映画ファンの人も、その存在は知っているでしょう。 “アメリカン・ニューシネマ”と言うのは、アメリカのベトナム戦争反対運動などの反体制的な社会風潮を受け、1950年代までの、勧善懲悪的なハリウッドの傾向に反抗し、若い映画人たちが、1960年代後半から70年代にかけて、反体制的な若者を主人公にした、バッドエンドな映画を多く作り、ヒットした、その映画たちのことを言います。 「俺たちに明日はない」「イージーライダー」「明日に向かって撃て」「真夜中のカーボーイ」「カッコーの巣の上で」など、今では、名作と言われている映画たちです。 そんな中で、ダスティン・ホフマン、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、デニス・ホッパー、ウォーレン・ビーティ、ジャック・ニコルソンといった名優たちや、マーティン・スコセッシ、フランシス・コッポラなどの名監督も生まれてきています。 大学を卒業して故郷に帰ってきたベンジャミン(ダスティン・ホフマン)は、次の目標を失い悶々とした日々を過ごしていましたが、ふとしたことから、父の会社の共同経営者の夫人であるMrs.ロビンソン(アン・バンクロフト)に誘惑され、つい肉体関係になってしまいます。 Mrs.ロビンソンと秘密の逢瀬を繰り返すつつ、自宅のプールで泳いだり、卒業祝いに買ってもらったスポーツカーを乗り回したりと、自堕落な日々を繰り返す息子に、両親は、早く次の目標を決めてほしいと望んでいます。 そんな中、ベン(ベンジャミンの愛称)の両親が縁談を期待している、ロビンソン家の娘のエレイン(キャサリン・ロス)が夏休みでバークレー大学から戻ってきます。ところがMrs.ロビンソンは、ベンにエレインとはデートするなと言います。 しかし、両親に強く勧められたベンは断りきれず、エレインとデートすることになります。Mrs.ロビンソンの要望をかなえたいベンは、エレインに嫌われようと、乱暴な運転をしたり、いかがわしい店に連れて行ったりしますが、優しくないベンの態度にエレインが泣き出してしまい、ベンは今までの態度を誤り、人妻と不倫していること(彼女の母親が相手なことは秘密)を明かし、実はエレインを好きなことを告白します。 2人がうまくくっついたことが面白くないMrs.ロビンソンは、デートに誘いに来たベンを待ち伏せし、問い詰めます。エレインの元へ逃げてきたベンの態度から、不倫の相手が自分の母親であることを悟ったエレインは、彼を追い出し、さっさと大学に戻ってしまいます。 まだエレインに未練があるベンは、バークレーにアパートを借り、彼女の大学に通い(もちろん学生としてではない)、しつこくプロポーズします。 そんな中で、実は彼女もまだ未練があることを知り、希望に胸をふくらましたベンであったが、ある日アパートに帰ると、Mr.ロビンソンが来ていました。 Mr.ロビンソンは、ベンと自分の妻との不倫を知り、ベンが未だ自分の娘に付きまとっていることから、自分たち夫婦は離婚し、エレインは大学を中退させ、結婚させると言います。 Mr.ロビンソンが帰った後、すぐにロレインを追ったベンですが、すでに大学は中退しており、彼女は姿を消していました。 方々探し回り、ついに結婚式場を突き止めたベンは、間一髪結婚式の場に間に合いました。教会の式場を望む2階のガラスをたたき、エレインの名を連呼するベン、エレインもそれに呼応し「ベン!」と叫びます。 父親の制止を振り切り、母親の罵声を浴びながら手を取り合って逃げる2人、ちょうど来たバスに乗ることができ、一安心する2人でありました。 ラストがあまりにも有名な作品なので、ついあらすじを全て書いてしまいました。 しかし、ラストシーンしか知らない若い人は、周囲に反対されても純愛を貫く若い2人の愛の物語だと思っているかもしれませんが、あらすじの通り、ちょっと違います。 ベンジャミンは、はっきり言って世間知らずのお坊ちゃまです。 息子が帰ってきたとか、21歳の誕生日だとかで、広いプール付の自宅でパーティをすぐに開き、お祝いにポンとスポーツカーを買い与え、だらだらと過ごす息子に湯水のように小遣いを与える(不倫のホテル代や、バークレーでのアパート代など結構浪費していますが、アルバイトしている風ではないので、そう推測します。)など、非常に甘やかされています。 そんな彼と、逃避行してしまったエレインは幸せになれるでしょうか。 この後、お互いの両親に頼ることはもちろんできず、2人が苦しい生活を送るであろうことは目に見えています。2人が愛し合っているうちはそれでもいいでしょう。でもそのうち、生活苦から2人の愛は冷め、悲惨な結果になることは容易に推測できます。 実は、映画を作っている人たちも、そんなことは分かっているのです。 それは、ラストのラスト、結婚式場からの花嫁強奪に成功し、バスに乗り込んで一安心する2人ですが、ひとしきり笑いあった後、2人は真顔に戻り、戸惑うような表情を見せ、そしてエンディングなのです。 観客は、一時の思いで駆け落ちをしてしまったが、ふと我に帰り、これからのことに思いがいった2人の複雑な表情、と感じるはずです。実際、僕もそう思いましたし、ネットに載っている感想などを見ても、多くの人がそう思ったようです。 実は、監督がカットというのを少し遅らせたため、まだまだ俳優としては新人の2人(ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロス)が、本当にどうすればいいのか戸惑っている表情らしいのですが、観客にそういう印象を持たせるために、わざとそのまま使ったということです。 だから、一見ハッピーエンドに見えるこのお話ですが、実はほかの“アメリカン・ニューシネマ”の作品たちと同じようなバッドエンドの物語なのです。 この物語は、前述の”アメリカン・ニューシネマ”の作品たちのように、主人公たちはアウトローではありません。どちらかというと、社会の底辺にいるアウトローたちとは真逆のブルジョワに属する若者です。 しかし、そんな将来に不安のない若者たちでさえ、親に引かれたレールに逆らい、反抗していくのだという物語であり、まさに“アメリカン・ニューシネマ”の風潮通りの作品なのです。 そして、世間に反逆している人物はもう1人います。 それは、この物語のもう1人の主人公、Mrs.ロビンソンです。 ロビンソン家とベンの家は会社の共同経営をしています。だから、ベンとエレインが一緒になり、会社を継いでくれれば、その両親たちも万々歳のはずです。 ところが、黙っていればそうなるはずのレールを自らぶち壊してしまうのが、Mrs.ロビンソンなのです。 彼女は、若かりし頃の過ちでできちゃった結婚をし、今はもう夫婦の愛は冷め、別々の部屋で寝るような家庭内別居の状態でした。そこに現れた若い男性、お世辞にもかっこいいとは言えないベンジャミンですが、アラフォーの女盛りの男日照りの身には、眩しすぎる存在だったのでしょう。つい深く考えることなく、惚れてしまったのです。 そのため、自分の娘の幸せとか、自分の安定した老後とか、まったく考えず、一時の熱情に身を任せてしまったのです。 そんな、女の性(さが)とでも言いますか、情念のようなものに従って、順風万帆の人生のレールを踏み外してしまうのでした。 タイトルクレジットを見ると、1番にアン・バンクロフトの名があり、その下にダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスの名が並んでいます。この映画の公開当時、すでにスターだったのはアン・バンクロフトのみで、あとの2人はほぼ新人の抜擢です。しかし、普通は、新人が主役でスターがわき役だった場合、最初に来るのは新人の主役のみで、そのスターはクレジットの最後にand付きで名前が出てくるはずです。ということは、映画のスタッフも、Mrs.ロビンソンも主役であるという認識でこの映画を作っていたことがわかります。 なるほど、アン・バンクロフトが米アカデミー賞主演女優賞ノミネートなのはこういうことだったのですね。 ちなみに、この映画、その他にも作品賞・監督賞・主演男優賞(ダスティン・ホフマン)・助演女優賞(キャサリン・ロス)・脚色賞・撮影賞にもノミネートされています。受賞は監督賞のみでしたが。 そう考えると、なかなか奥が深い、映画史に残る名作であることがわかって来るでしょう。まさに、“アメリカン・ニューシネマ”の王道を行く物語なのです。 ちなみに、この映画、音楽も素晴らしいです。 BGMは、すべてサイモン&ガーファンクルの歌のみです。主題歌「サウンド・オブ・サイレンス」はもちろんのこと、「スカボロウ・フェア」や「ミセス・ロビンソン」(この曲のみこの映画の為のオリジナル)が、ベンジャミンの心の動きなどに合わせて、非常に効果的に流れてきて、美しいです。
2012.04.09
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「ミスティック・リバー」 Mystic River 2003年 アメリカ映画監督 クリント・イーストウッド出演 ショーン・ペン ティム・ロビンス ケヴィン・ベーコン 米アカデミー賞に作品賞・監督賞をはじめ、6部門にノミネートされ、主演男優賞(ショーン・ペン)・助演男優賞(ティム・ロビンス)を受賞した、名匠イーストウッド監督のサスペンス・ドラマです。 ボストンの下町で、ジミー・ショーン・デイブの3人の少年が遊んでいました。そこへ警察と名乗る男たちが現れ、デイブを連れ車で去ってしまいます。数日後、デイブは発見・保護されましたが、それ以来3人は一緒に遊ばなくなりました。 25年後、3人はそれぞれの人生を歩んでいました。ジミー(ショーン・ペン)は一時いた犯罪社会からは足を洗い、雑貨屋の主人として静かに暮らしていました。デイブ(ティム・ロビンス)は豊かではありませんが、妻と息子と穏やかに暮らしていました。ショーン(ケヴィン・ベーコン)は刑事としてまじめに働いていましたが、妻とうまくいっていませんでした。 ある朝、ジミーの娘が死体で発見される事件が起こります。その前の晩、デイブの妻は、血だらけで帰宅し、男を殺したかもしれないという夫を迎えます。 事件の担当となったショーンは、2人の幼馴染と、久しぶりに再会することとなりました。 はっきり言って、非常に暗く重苦しい映画です。原作の小説はミステリーということですが、この映画では謎解きよりも、被害者の父と容疑者、そして刑事という三者三様の立場に立った3人の幼馴染のドラマに重きを置いています。 そのため、その3人の演技力が重要になってきますが、そこは演技力に定評がある3人です。それぞれの難しい役どころを、見事に演じきっています。 ジミーは、かつては犯罪に手を染め、刑務所に入っていたこともある男で、今は足を洗って雑貨屋の主人をしていますが、手下を使って町を裏から牛耳っています。身内を非常に大切にし、娘の死に涙を見せ、犯人を憎み、自ら見つけ始末しようと静かに燃えています。そして、かつての友を疑い、……。 ショーンは、刑事として事件の解決のため、かつての友を尋問し、信じたい気持ちを持ちながらも疑わざるを得ず、思案にくれます。一方、半年前に出て行った妻からかかって来る無言電話にも悩まされています。 デイブは、子どもの頃誘拐されたトラウマから、実は立ち直れてはいませんでした。血だらけで帰った土曜日の晩から、妻と話していても、ジミーと話していても、警察に尋問されていても、普通ではありません。 3人とも巧みな演技ですが、しいて言えば、デイブ役のティム・ロビンスが見事でした。大きな体ですが、終始何かに脅えている気の弱い男を、彼は巧みに演じています。あの「ショー・シャンクの空に」の刑務所に入れられながらも、自信に満ち溢れて、前向きに道を切り開いていった青年と、同一人物とは思えないほどです。 また、デイブの妻セレステを演じているマーシャ・ゲイ・ハーディという女優さんもいいです。愛する夫を心配しながら、夫の普通じゃない言動に怯え、誰かに相談したくても、なかなか言い出せず、ひとり思い悩む様子が非常に見事でした。おしくも受賞は逃していますが、米アカデミー賞助演女優賞ノミネートは納得です。 結局、ショーンと相棒の活躍で、最後は意外な犯人が分かり、事件は解決しますが、後味の良くないもうひとつの結末もあり、すっきりとはしません。 暗く重厚なドラマですが、名優たちの演技力のぶつかり合いを味わえる逸品です。 ところで、僕は、この映画の前に、「デイ・アフター・トゥモロウ」を偶然ながら見ていまして、あんなに聡明で真面目な女の子が、夜の酒場で羽目を外しているのを見て、「もうこんなにあばずれになっちゃって。困ったもんだ。」と、勝手に思ってしまいました。(笑)
2012.03.25
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「ターミナル」 The Terminal 2004年 アメリカ映画監督 スティーブン・スピルバーグ出演 トム・ハンクス キャサリン・ゼタ=ジョーンズ あの日から、ちょうど1年ですね。なかなか復興が進まず、たいへんな日々が続いていると思いますが、無力な僕は、募金をするぐらいしかできませんですが、1日も早く元の生活に戻れることを祈っております。 今日は、1年前の大災害とは関係ないですが、被害に遭われた方々が元気に前向きに進んでいけるように、心温まる1本を紹介します。 クラコージア人のビクター・ナボルスキーはJFK国際空港に降り立ちましたが、アメリカに入国できません。英語が全くわからない彼は途方に暮れてしまいました。 何が何だかわからないうち、空港ロビーをさまよっていると、TVのニュース映像が、彼の目に飛び込んできました。彼が飛行機に乗っている間に、母国のクラコージア(架空の国、旧ソ連の中央アジア当たりという設定です。)にクーデターが起こり、政府が消滅しまったため、彼のパスポート・入国ビザが無効になってしまったのです。 ビクターは、アメリカに入国することもできず、母国に帰ることもできず、空港に留まることしかできないのでした。 入国できず、帰国できず、言葉もわからず、寝るところもなく、お金もなく、知り合いもいない、全く八方ふさがりの状況ですが、ビクターは非常にまじめで、前向きでした。 ロビーや増築の工事現場で寝、お金を稼ぐ方法を見つけ、言葉を独学し、そして、毎朝入国窓口を訪れます。もちろん、入国できず、毎日がっかりするのですが、彼はめげません。実は、空港の外に出る出口は近くにあり、ダッシュすれば出ていけそうなのですが、彼は決してそうしません。必ず、正式に入国できる時を辛抱強く待っているのです。 そして、空港の職員やCAと仲良くなり、楽しく過ごすこともできるようになっていきます。 そんな、まじめでシンが強い男を、トム・ハンクスが感情などを押さえた演技で、しみじみと巧みに演じています。今やだれもが認める演技派のトム・ハンクスですが、彼がビクターでなかったら、これほど万人を感動させる映画にはならなかったと思います。 とりわけ、最初は全く英語が分からなかったビクターで、彼のアドリブ100%のクラコージア語を話しているのですが、入国できない意味が分からず、途方にくれ、TVで母国のクーデターを知り(もちろん言っている言葉は理解できていませんが、映像で理解した模様。)、意気消沈する様子など、英語を全く話していないので、字幕も入らないのですが、彼の一喜一憂が見事に伝わってきます。 僕は、昔のコメディ時代のものから、トム・ハンクス映画をいろいろと観ています(以前、このブログでその理由は書きましたが、「ダ・ヴィンチコード」と「天使と悪魔」はもちろん見ていません。)が、「プライベ-ト・ライアン」の、実は任務に疑問を感じながらも、黙々と任務を遂行していく部隊長の彼と、このビクター役の彼がとても大好きです。 だから、最後に、無事入国でき、アメリカ訪問の目的を、無事果たすことができたときには、思わずウルウルとしてしまいました。 ネットで、この映画の感想を見てみると、この最後の彼の目的が「大したことではなくて、がっかりした。なんで彼はそこまでして空港で暮らしていたのか分からない。」という意味のものがあって、がっかりしました。 全く映画の内容を理解していないからです。 彼は空港に居たくて居たのではありません。入国することも、帰国することもできなかったからです。目的の重要性や大きさは全く関係ないのです。もちろん前述のように、ダッシュして密入国することはできました(空港の警備主任のディクソンは、さっさと密入国してほしくて彼を野放しにしていたようです。)が、そうすると犯罪者になってしまい、へたすると二度とアメリカに来ることができなくなってしまいます。 だから、どっちかというと、大した用事じゃない方がリアリティがあっていい、と思いませんか? 誰かの命がかかっていたり、重要な任務がかかっていたりして、無理やり密入国するようでしたら、全く別の映画になってしまいます。そういうのは、トム・ハンクスではなくて、ブルース・ウイルスやシュワちゃんに任せておけばいいのです。 どうも、自分の理解力が乏しいことを、披露したくてたまらない人が多くて困りますね。 また、ビクターの周りに集まってくる人々が、みな優しいのもいいですね。機内食の運搬係のエンリケ、清掃員のグプタじいさん、エンリケが思いを寄せる入国審査の窓口係のドロレスなど、そして、空港のいろいろなお店の人たちや工事現場の人たち、みんなビクターのまじめな性格に好意を持ち、やさしく接して来てくれた人々です。その多くが白人ではなく、メキシコ系やアフリカ系の人々というところが、非常にアメリカ的で、何かを暗示しているようで、いいと思いました。 そして、最後まで彼がいつも空港にいる意味が理解できなかったKYのCAで、非常に美人で抜群のプロポーション(僕は全く好みではありませんが)のアメリア(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)と、ロマンスになりそうで、ならなかったのも、僕は気に入っています。 仕事の都合上、何日か置きに空港にやって来る彼女は、ビクターがいつも空港にいるとは全く思っていません。飛行機で移動することの多い仕事をやっていると思っているだけです。 彼女は、人の気持ちとか事情とかを親身になって理解することは苦手で、そのくせ、いつもそばにいてくれる頼れる男性を求めている女性と思われます。はっきり言うと、KYで自己中な女です。 そんな女と、まじめなビクターがくっつかなくてよかったと思っているのです。そんな女とビクターがくっついても、まじめな彼が自己中な彼女に振り回されるだけだからです。 はっきり言って、この映画には、そんなロマンスは必要なかったと思います。ビクターの祖国での家庭状況は全く語られていないのですが、もしかして、祖国で待っている妻がいるのかもしれません。それなのにこんな旅先でロマンスをしていたら、入国できる日々をじっと耐えて待っている、まじめな彼のキャラクターが全く崩れ、最後の感動も生まれないでしょう。それはいけません。映画自体が崩れてしまいます。そんなキャラクターはジェームズ・ボンドやインディー・ジョーンズに任せておけばいいのです。 ということで、スピルバーグにしては、地味で静かな映画ですが、しみじみと感動できる映画を、今回はお届けしました。
2012.03.11
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