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◇ 1月27日(火曜日); 旧正月二日 壬申(みづのえ さる): 友引、国旗制定記念日昨日は朔日。太陰暦(旧暦)の節月は、朔をもって月初めとします。朔とは新月の日のことです。満月のことは望。月の満ち欠けは朔→(三日月)→上弦→望→下弦→朔と、約29日の周期で一巡します。粗っぽくいうと、望の日つまり満月は夕方の6時に東の空に昇り、朝の6時に西の空に沈む。朔の日(新月)はこの逆で(実際には見えないけれど)朝の6時に東から昇って夕方の6時に沈みます。だからちょっと計算すると分かる(24×60÷29)ように、月の出は毎日約50分位ずつずれていくのです。どっちへずれるかというと、時間が遅れるほうにずれていきます。つまり満月(十五夜)の月の出が夕方の6時だったなら、十六夜(いざよい)は6時50分頃に、少しだけ上の方がひしゃげた月が昇ってきます。次の日は7時40分頃が月の出で、これを「立ち待ちの月」と云います。更に次の日は月の出は8時半頃となり「居待ちの月」。更に更に次の日は午後9時20分頃が月の出で、「寝待ちの月」というのです。今のように電灯の無い昔の夜は早かったので、9時半近くまで起きて月の出を待っているのは中々の執念だったでしょう。それでも疲れてしまうから、横になって待っている。まぁ他にやることも大して無かったとはいえ、ご苦労様なことです。月齢は19ですから、もう「まあるいまあるいまん丸い」お月様ではありません。こうして満月の頃には月の出を気にしますが、上弦とか下弦の月という時は月が西の空に沈むときを基準にします。つまり月(この場合は半月です)を弓に見立てて、西の空にかかったときに弓の弦が上に見えるのを上弦の月、下に見えるのを下弦の月というのです。上弦の月は宵の内に西空に見えますが、下弦の月が見えるのは従って深夜から明け方にかけてとなります。こんな事を知っていても現代では余りものの役には立ちませんが、昔は出かけなければならない時に夜の明るさを予め知っておいたり、漁の時に潮の満ち干を知ったりするのに具体的に役に立っていたのです。ついでに、現代でも役に立つ天体情報のご紹介をしましょう。太陽と腕時計で方角を知る方法です。屋外で方角を知りたい時には便利です。必要なものはアナログ式(つまり時針と分針がある)の腕時計と太陽です。太陽は位置さえわかれば別にお天気でなくても構いません。先ず時針(短針)の指す方向を、その時の太陽が有る方向になるべく正確に向けます。日が照っていれば文字盤にうつる短針の影を利用して、かなり正確に方向を定めることが出来ます。方向が定まったら文字盤の12時の方向と短針の指す方向の、丁度真ん中を見ます。その方向が南になります。南が分かればそれ以外の方向は文字盤の上で、90度単位で離れた方向を見れば分かる事になります。簡単ですが、僕の経験では意外に正確に、少なくとも屋外での実用上は充分な精度で方向を知ることが出来ます。この理屈の前提になっている仮定は二つです。一つは、太陽は大体朝6時に真東から昇って夕方6時に真西に沈むこと。もう一つは太陽が真南に来る(南中といいます)のは正午であることです。時計の短針は、上の日の出から日没までの12時間の間に360度回転します。一方の太陽は見かけ上24時間で地球の周りを一周しますから、時計の短針が進む速度は太陽が天球上を進む速度の倍です。だから正午に南中するという仮定と合わせると、短針の指す太陽の方向と文字盤の12時の方向の丁度中間点が南になるのです。これはちょっと絵にしてみるとすぐに分かります。実際には冬の太陽は午前6時より遅く昇り、夏の太陽は逆に早く昇ってきます。又地球の自転軸が傾いている所為で、日の出や日没の方向は普段真東や真西ではありません。それに日本中の時間は明石市を基準に定められた標準時一つに定められていますから、日本列島の東の端と西の端では、同じ時刻の太陽の位置にずれが生じます。従ってこの方法ではかなりの誤差が出るということになります。しかしこの場合、そんな事は気にしないのです。屋外での実用上はこれで何の問題もありません。こういったものの精度に問題が生じるのは、ミサイルを目標にぶつけたり、高速道路をちゃんとつなげたりといった、全て人工文明上の都合です。(そういう意味では腕時計も人工物ですが、その辺はあえて大目に見てもらいます。)晴れていればこうして方角を定め、曇っていれば木の幹に着いたコケの多寡で、「あ、こっちが北だ」と知り、立って待っているくらいの時間で月が昇ってくれば立ち待ちの月。そんな程度で人間の本来の生活には支障が無いのです。さてさて、昨日の26日は朔。つまりは旧正月の元旦だったのです。改めて明けましておめでとうございます。
2009.01.27
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◇ 1月24日(土曜日); 旧師走二十九日 己巳(つちのと み): 仏滅、初地蔵一月は初の字の付く行事が多い。初詣(以上1日)、初夢、初荷、書初め(以上2日)、初水天宮(6日)、初薬師(7日)、初金比羅(10日)、初観音(18日)、初大師(21日)、初地蔵(24日)、初不動(28日)。その他、初の字は付かないけれど、一月には七草、どんど焼き、鏡開き、蔵開き、小正月、うそ替えなどの行事もある。更には暦には選日というのが定まっていて、一粒万倍日、不成就日、八専、三隣亡、天一天上、天赦日、土用、十方暮などがあり、それぞれに何をして良い日とか悪い日とかが決められている。又々、六曜といって、大安、友引、先勝、先負、赤口、仏滅などというものもある。六曜は「お日柄」といって、今でも婚礼や法事の日にちを決める参考にされる。昔の人は暦を見ながらこういう様々(細かく云えばもっと色々な要素があるようだ)を考慮して予定を立てたり、その日の行動を決めていたのだ。迷信だといってしまえばそれまでだが、暦を睨みながらあれこれの要素を考え合わせていくのは、中々知的な作業だったはずだ。今の我々の生活には、こういう暦を考えるという「しきたり」が廃れてしまったから、自分や相手の都合だけで色々決めていく。昔と較べれば合理的だということになろうが、合理的とは一方では伝統や文化というものから疎遠になるという事でもある。子供の頃に、お正月の二日になると書初めだといって、墨をすり、馴れない筆を持って半紙に「お正月」とか「たこあげ」などと書いた。女の子は、「すごろく」とか「はねつき」などが定番だった。それを神社の境内などで行われるどんど焼きに持っていって、お正月の飾りなどと一緒に焼く。焼いた灰が天に向かって高く舞い上がると字が上手になるなどといわれた。床の間に飾った鏡餅が段々ひび割れて行くと、鏡開きが待ち遠しかった。鏡餅は砕いて生醤油で付け焼きにすると美味しくて、僕は大好きだったから、早く食べたくて仕方が無いのだが、「鏡開きまではダメ」といわれで許されなかったのだ。今の子供たちには、こういった「しきたり」の記憶は伝承されては行かないのだろうと思うと、寂しくもあるし、可哀相な気もする。さて、今日は初地蔵。地蔵尊は道の辻などに良く立っていらっしゃる。関西では特に子供たちの守り仏とされているそうだ。「お地蔵さん」と云って親しまれる身近な仏様で、赤い頭巾や笠などを被せられて昔話にも登場する。大伽藍の奥深くというより、戸外のそこいらに普通に見られるからといって、軽んじてはいけない。仏様の階層の中では、菩薩といってかなり高位にいらっしゃるのだ。仏教の教えでは、お釈迦様が亡くなった(入寂という)後、弥勒菩薩が出ていらっしゃるまでの56億7千万年(!)の間、現世には仏が居なくなってしまう。この間人間たちは、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道という、要するに世間や世界のことです。)を迷い、悩みながら輪廻しなければならない。それをお救い下さるのがお地蔵様だ。だから、昔の街道筋や道の辻など、「分かれ道」がある場所に置かれていることが多い。つまりは、実務型、現場型の仏様だといえる。お地蔵様の縁日は24日。だから1月の24日は初地蔵だ。東京では巣鴨のとげ抜き地蔵尊の例大祭が有名だ。巣鴨の旧中山道筋は、今年に入って二度目の大賑わいとなり「じじばばの原宿」が出現する。同じ人混みでも、巣鴨のそれは例えば新宿歌舞伎町辺りの人混みとは全く趣も違うだろうから、又行ってみたい気がする。但しこの日は六曜では「仏滅」。こういう時には、お地蔵様はどうされているのか、よく分からない。
2009.01.24
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◇ 1月22日(木曜日); 旧師走二十七日 丁卯(ひのと う): 黙阿弥忌オバマ新大統領の演説を聴いた。NHKがライブで就任式典の中継をすると言うので、DVDに録画しておいた。日本の深夜に起きていてまで聴きたいとは思わなかった。しかし、史上4番目に若い大統領だそうだし、史上初めての非白人の合衆国大統領であり、しかも今このアメリカ発の経済危機をどう沈静できるかが彼の肩にかかっているとなれば、彼の世界に向けた最初の公式の声明にはどうしても興味がある。翌日DVDを再生して聴いた演説には、しかし、正直云って感動しなかった。それ以前に、NHKの放送には同時通訳(女性が二人?入れ替わり通訳されていた)が入っていて、その声がオバマ氏の声に被さって聴き取り辛いこと夥しい。ここはどうしても本人の声と言葉で聴いておきたい。そしたらNIKKEI NETのウェブに演説原文全文が掲載されているのを見つけたので、DVDで聴いたのと重ね合わせながら読んでみた。それでがっかりしてしまった。何だ、まるで生徒会長の演説か、NHKの青年の主張みたいじゃないか。冒頭で「オバマ新大統領」と書いたが、世界の人々は(全部では無いけれど)まるで彼を自分たちの国の大統領のように見ている。彼のルーツであるアフリカの国でも、日本のどこかの市でも、果ては名前が似ている温泉地でも結構な大騒ぎになっている。日本のメディア(権威ある主要メディアですぞ!)でもオバマ大統領が携帯メールを使っている(今までは機密上の理由で大統領は携帯メールを禁じられていたのだそうだ)と、どうでもいいようなゴシップが事々しく報じられる有様だ。現在時点での日本のみならず各国の大勢としては、彼の演説に感動して涙すらしたというものである。だから今やオバマ大統領は「米国新大統領」ではなく、単に「新大統領」と、「米国」の文字を外したほうが良いような雰囲気が世界中にある。そうであればこそ、彼の就任演説は「世界」を強く意識して、その中での米国の役割をしっかりと見据えたものであるべきではないか?その上で米国民のみならず世界中の人々の精神を鼓舞するものであるべきではないか?それが全体としてどうも内向的である。地味である。格調というものが余り感じられない。何より百年に一度とか云われる金融危機も、元々は米国の安易な楽天主義に端を発したものだ。その結果世界中に不況が広がり、或いは会社が潰れ、或いは大幅な赤字転落で失業者が続出し、或いは住むところを無くし、或いは就職内定を取り消され・・・・。これは日本だけの事ではないのだ。つまり、未曾有(最近は「ミゾユー」と読むらしい)の経済不況の「犯人」はアメリカじゃないか。でもこの「犯人」は断罪できない。結局はこの「犯人」しか現状を解決出来る力を持たないからだ。(少なくとも世界はそう思っている。)だから世界は(無論日本も)「犯人」に依存しなければならない。それが皆分かっているから、「新大統領」に切実に期待するのだ。そういう期待が僕にも強くあったから、この就任演説にはがっかりしてしまったのだ。間違っているだろうか?何故多くの人達がこの演説を賞賛し、涙まで流したのか、本当に分からない。彼の演説は、概して話題が卑近であり、文章が長く、リズムが欠けているのだという気がする。あらゆる局面でアメリカの抱える問題が深刻で待ったなしであることを思えば、道路建設や、太陽・風力エネルギー、教育制度の改革などの「卑近な」話題を取り上げるのはやむを得ないかもしれない。それなら、聴いている人を高揚させるのは、文章の力でありリズムだろう。今回の就任演説で必ず引用されるのは(つまりは最も人々やマスコミの印象に残ったのは)、「新しい責任の年代」(New era of responsibility)という言葉だろう。「今私たちは、新たな責任の時代にいるのだという事を知らなければならない」というほどの意味である。しかし、この部分の原文全体はこうなっている:What is required of us now is a new era of responsibility - a recognition, on the part of every American, that we have duties to ourselves, our nation, and the world, duties that we do not grudgingly accept but rather seize gladly, firm in the knowledge that there is nothing so satisfying to the spirit, so defining of our character, than giving our all to a difficult task.長すぎる!まるで生徒に長々と御説教しているようだ。同じ事をケネディ大統領はこう云った:And so, my fellow Americans:/ ask not/ what your country can do for you/-Ask what you can do for your country.これだけ。文中スラッシュ(”/”)は「息継ぎ」の場所だと思ってください。実際に声を出して読んでみると、リズムがあって、次第に気分が高揚してくるような気がする。そしてケネディは、アメリカ国民以外にも呼びかける。My fellow citizens of the world:/ ask not/ what America will do for you,/ but what together we can do/ for the freedom of man.Finally,/ whether you are citizens of America/ or citizens of the world,/ ask of us here/ the same high standards of strength and sacrifice/ which/ we ask of you./ With a good conscience/ our only sure reward,/ with history/ the final judge of our deeds,/ let us go forth to lead the land we love,/ asking His blessing and His help,/ but knowing/ that here on earth/ God's work must truly be our own.ね?随分違うでしょ?又オバマさんは演説の初めの方で、On this day, we gather because we have chosen hope over fear, unity of purpose over conflict and discord. (今日のこの日、私たちが此処に集まっているのは畏れではなく希望を選んだからです、云い争いや不和ではなく目標を調和させることを選んだからです。)と、おっしゃる。そして、「今まで政治を抑圧してきた、些細な不平やいい加減な約束、非難の応酬、独断は終わったのだと宣言します。」となる。これと同様なことをケネディは;We observe today /not a victory of party/ but a celebration of Freedom/--symbolizing an end/ as well as a beginning/--signifying renewal/ as well as change.For I have sworn/ before you/ and Almighty God/ the same solemn oath/ our forbears prescribed/ nearly a century and three-quarters ago.といい、更に有名な「炬火のフレーズ」に続く;We dare not forget today/ that we are the heirs/ of that first revolution.Let the word go forth/ from this time and place,/ to friend and foe alike,/ that the torch has been passed/ to a new generation of Americans/--born in this century,/ tempered by war,/ disciplined by a hard and bitter peace,/ proud of our ancient heritage/--and unwilling to witness or permit/ the slow undoing of those human rights/ to which this nation has always been committed,/ and to which we are committed today/ at home and around the world.如何にも青年大統領の意気込みが感じられて清清しい。特に「to friend and foe alike」など、敵対する側への断固たる自信と恫喝すら垣間見えてカッコいいじゃないか。東西の冷戦の最中で「善悪」の基準がはっきりしていたケネディの時代と較べると、現代は「敵」の所在が地理的な場所を越えてそこいらじゅうに分散している。色々なものがネットワークで結ばれて「グローバル化」している中で、過去からの集積の結果である問題が複雑に絡まりあい深刻化し、何処をどう押せば解決できるかは非常に不透明だ。そういう中で世界最強の国の首長に就任したオバマさんは、ケネディの時とは環境も立場も違うのは当たり前だ。しかし、ケネディの時代と同じなのは、世界は否応なくアメリカにその安寧も存在自体も委ねざるを得ない状況にあるということだ。それを思うと、やはり今回の就任演説はどうしても物足りなかったのだ。最後に、関連する余談を二つ。アメリカの大統領は演説の際には、「My Fellow Citizens」という呼びかけから始める。このFellow Citizensという言葉は好きだ。特に「Fellow」という言葉が良い。日本の政治家はこう云わない。第一そういう感覚が全く無いのだろう。麻生さんなど「My Fellow Party Members」というのがやっとだろう。又、オバマさんの演説の中に;The question we ask today is not whether our government is too big or too small, but whether it works - whether it helps families find jobs at a decent wage, care they can afford, a retirement that is dignified.という部分があったが、何となく小沢一郎氏の口癖を思い出してしまい、彼に聞かせたいと思った。
2009.01.22
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◇ 1月21日(水曜日); 旧師走二十六日 丙寅(ひのえ とら): 初大師「今日誰かの心が捨てられていた」ドキッとして見たテレビの画面に、夏目漱石の「こころ」が映っている。カバーの外れた文庫本はゴミ箱に捨てられて雨に濡れそぼっている。「あぁ可哀想に」と思ってしまう。古本の買取と販売で有名な店のテレビコマーシャルだ。続きは良く覚えていないが、「捨てないでお店に持ってきて下さい。そうすれば又誰かの心になれる。」そして、「あなたもお店に会いに来て下さい。」と、そんな内容だった。フォーカス甘めの、何となくパステル調の映像で、ナレーションと共にしっとりした気持ちを抱かせる。「ウムム小癪な!オヌシ中々やるじゃないか。」と思ってしまう。僕は自他共に認める活字中毒症で、文字通り山のように本を持っていた。本を愛する気持ちは人後に落ちない。本は借りるものでなく買うものだともずっと思ってきた。だから図書館は殆ど利用することが無い。本の重さで床が抜けてはいけないと、部屋の支えを強化する改装をした位だ。それに、目を付けていた新刊は誰より先に買わないと気が済まない。東京の大きな書店は、奥付にある発行年月日より2週間ほども早く店に並べることがある。そういう本を見つけると無条件に買い込んでしまう。そして、発行日が来る前に読みきってしまう。その本が例えばミステリーだったりすると、知人に無闇と勧めて買わせる、或いは貸してあげる。そして途中まで読んだと思える頃に、結末を教えてあげるのだ。はっきり云えばイヤなヤツである。だから、僕の書棚にあったハードカバーは初版本が圧倒的多数を占めていた。過去形で書いたのは、そういう本の殆どが今は無いからである。昨年、ある事情で蔵書の大部分を処分せざるを得なくなった。しかし、愛書家の僕としては本を売るという決断を中々出来なかった。初版本が多いとは云っても、稀覯本というほど価値の有りそうなものは殆ど無いから、目利きがひしめく神田の古本屋街へ持っていくのはいささか気が重い。第一気持ちだけではなく何冊もの本を持ち運ぶのも重い。そんな頃に目にしたのが冒頭のコマーシャルだったのだ。そうか、この本たちも僕の書棚で退蔵されているだけでなく、あの店に持って行けば誰かの「こころ」にはならないまでも、何がしかの心の糧にはなってくれるかもしれないのだ。そう思ったら気分が晴れて早速連絡をしてみた。件の店はある程度以上の量になると、家まで出張して買い取ってくれる。これも中々良心的じゃないか。家に来てくれたのは、未だせいぜい30歳台くらいのお兄ちゃんである。このお兄ちゃんは、雰囲気からして読書家でも愛書家でもない。僕が書棚から取り出したり、以前から箱詰めにしてあった本を、手際よくどんどん持参の専用箱に詰めては、下に停めたワゴン車に積み込んでいく。その様子は、どう見ても「誰かの心を預かっていく」というものではない。僕にしてみれば、一冊一冊にそれなりの思い入れや思い出がある。まるで、教師が卒業していく生徒を送り出すようなしんみりした気分なのに。大方搬出が済んだ頃に、買い取る際の値段の付け方を聞いてみた。そうしたら、「本の状態で決まります。」とそっけない。「初版本とか、全部揃っている全集だとかは、それなりの評価があるんじゃないの?」と聞いても、「いえ、ウチの場合は本の状態だけで査定するのが方針です。」とおっしゃる。そりゃ心じゃないだろう。見かけだけでの判断じゃないか。そう思ったけれどもう遅い。プラスチックのケースに詰められていく本たちが急に不憫に思えてきた。専門書やどうしても手許に置いておきたい本を残して結局数百冊以上の本が身売りをしていった。量が多かったため、買い取り代金は店に戻って査定してから払います。査定が終わったら連絡します。という事になった。この店は本だけでなく、ゲームソフトやDVD、CDなども引き取るというので、同じ機会にクラシックのCDや、昔カラオケの練習をするために買ったCDも一部買い取ってもらった。何時間かして連絡が入り、振り込みますと云われたが、電車で行っても一駅の距離だし、取りに行くことにした。つい先ほどまで我がものだった本たちの行く末を、この眼で見たかったこともある。結果は拍子抜けするほどの値段だった。要するに「一山幾ら」という程度の値段なのだ。一つ一つの本の中身には、遥かな価値が秘められているはずなのに、その辺は致し方ないとはいえ全く考慮されていない。買い取った明細を渡してくれるのでそれをツラツラ見ると、書物の方は文庫本何冊で幾ら、単行本何冊で幾らと、十把一絡げでしか書いてない。それに対してCDの方はもう少し細かく出ている。情けなかったのは、クラシックのCDより、演歌のCDの方が遥かに高い値段がついていたことだ。バッハの「音楽の捧げもの」より都はるみのアルバムの方が5倍も高く買い取られているのだ。都はるみには悪いけれど、これは理不尽というものではないか。文明や文化に対する侮辱ではないか。この店は書物をジャンル別に、作家名の五十音順に並べている。それは買う側にとっては親切だと云える。ざっと見たところ本の状態で値段が大きく左右されているのは勿論だが、概ねその本が刊行された日付を遡るにつれて廉くなっていくようだ。これだと何年も前の初版本なんて価値は無いな。書棚に並んでいるのは圧倒的に漫画本が多く、次いで文庫本が多い。中に「105円コーナー」と言うのがあって、其処に並んでいる本は全て一冊105円だ。文庫本だけではない。単行本にも「105円モノ」が、それも数多くあるのだ。こういうのを著者が目にするとどういう気持ちがするのだろうか。情けなくも索漠とした思いで涙が出るのか、それとも「多くの人に読んでもらえるのだから105円でも幸せ」と思うのだろうか。捨てられていた「誰かのこころ」は従って、「105円のこころ」だという事になる。いや、あれは雨に濡れていたから、「買取対象外」といって、結局捨てられてしまうのだろう。このお店、最近は方々に出店している様子だが、たまたま出かけた先で、気楽に読める、しかし新刊本として買うには勿体ない小説を探そうとインターネットで検索してみたら、東京23区では千代田区と中央区には一軒も無いことを発見した。
2009.01.21
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◇ 1月20日(火曜日); 旧師走二十五日 乙丑; 大寒、二十日正月今日は二十四気の大寒とは名ばかりの暖かさだ。ある人が、「今年の1月20日が大寒だ、というのは本当なのでしょうかね? 大寒だの何だのってのは、旧暦をもとにしているのではないの?旧暦と新暦の、この一月弱のズレ。これを踏まえた上で大寒だの何だのって言っているのか、それとも、そのズレをほったらかしにしたまま、そのまま新暦の日付に当てはめているのか・・・。」とおっしゃった。昔の日本の暦は月の満ち欠けを基本にした太陰暦だ、これが明治になって外国とのやりとりに不都合になって、欧米で広く使われていたグレゴリオ暦、つまり太陽暦に変更された。それ以来太陰暦を旧暦、太陽暦を新暦というようになったのは良く知られている。太陰暦は電灯の無かった時代には夜の明るさ(月の満ち欠け)を知る目安として便利だった。潮の満ち干を知るにも便利だ。又、海がめや蟹の産卵、珊瑚の放卵のように、動物や人間の体の具合にまで月の満ち欠けの影響は大きいから、日頃の生活や漁師の人々には役に立つ暦だった。しかし、月の満ち欠けの周期(およそ29.5日)は太陽の運動(=地球の公転周期、約365.2日)とはずれている(365は29.5では割り切れない)から、太陰暦では太陽が支配する季節からずれて行ってしまう。だから太陰暦では閏月などをねじ込んだりして辻褄を合わせていた。これだと、気温の寒暖や雨量などに大きく頼っている農業には不都合になってしまう。それで採用されたのが二十四気なのだ。地球は一年間をかけて太陽の周りを一回転(360度)する。これを地球上から見ていると、一年間で太陽は天球上を一周すると言い換えられる。この時天球上を太陽が通っていく道を「黄道」という。昼と夜の長さが等しい春分の時に太陽が居る黄道上の点を「春分点」といって、これを「黄経0度」と決める。黄経は0度から360度まであって、黄経360度は黄経0度と同じ春分点である。さて、黄経を均等に24分割すると一つの分割単位は15度になる。太陽は黄道上を一日にほぼ1度ずつ進んでいく(黄道の周囲は360度で、一年は365日だから)。つまり、太陽は一つの分割単位をほぼ二週間かけて進んでいくのだ。これ位に分けると、大まかな季節の指標になるので、それぞれに名前を付けて出来上がったのが二十四気で、これは月ではなく太陽の動きを基にした太陽暦だ。それも太陽の動きに忠実な立派な太陽暦である。昔の日本人は太陰太陽暦を使っていたのである。二十四気の名称には、その季節をイメージさせるようなゆかしいものが多い。僕が中でも好きなのが、雨水(二月中ごろ。それまでの雪や氷が融け雨水になっていく頃。)、清明(四月始め。万事清浄明潔。新芽が何の草かを知る頃。)、白露(9月始め頃。暑気が漸く衰え始め、朝には露凝りて白色となる頃。)などである。ところで、冒頭の方の「大寒だ、というのは本当なのでしょうかね?」というのは、二十四気と実際に体感する季節のずれをおっしゃっているのだと思う。実際「立春」の頃は未だ寒さの強い時期だし、8月の初めに「立秋」だと云われても「このクソ暑いのに!」とピンと来ない。東洋(昔の中国文化圏)では、冬は立冬に始まり冬至にピークとなって立春で終わるとされる。同様に春は立春から春分を経て立夏まで。夏は立夏から夏至を経て立秋まで、そして秋は立秋から秋分を経て立冬までとなる。つまり冬至と夏至の「二至」、春分と秋分の「二分」を軸として四季の中央を「二至二分」としたのだ。再び、これは黄道上の太陽の動きを基にしたものであることに注意して欲しい。ところで、太陽の動きは地面や海水を通して、約1ヵ月半後に日中気温に反映される。だから例えば太陽が一番高くなる夏至(例年では6月21日)は、それから約一ヵ月半を経た立秋(例年では8月8日ころ)に体感上の盛夏をもたらすのである。言い換えると大寒の気温をもたらしたのは、昨年の12月初め頃の日照なのだといえる。西洋の季節は東洋とは異なり、「二至二分」ではなく「立」を四季のピークとする。つまり、西洋では冬は冬至に始まり立冬をピークとして春分で終わる。春は春分に始まり立夏を経て夏至までの事をいう。冒頭にご紹介した方が「立春なんて一番寒い頃でしょう!」とおっしゃるのは西洋流の季節の感じ方、つまりは体に正直なご意見なのだ。「立春正月」といって、日本人は西洋の真冬に正月を祝った。この立春の日は日本人には特別の日で、前日の節分の日には玄関にヒイラギの枝や鰯を差し、豆を播いて旧年の邪気を払った。穴八幡宮の一陽来復のお札を貼って金運を願うのも節分の真夜中、つまりは大晦日の真夜中、年が改まる瞬間だ。八十八夜とか二百十日もこの立春を基準にしている。日本人(東洋人)は、西洋の真冬のさなかを立春として春の兆しを感じ、クソ暑い中でダラダラ汗をかきながら秋の兆しを看ようとする。この「兆し」に敏感なところが、日本人が本来持っている「ゆかしさ」の心に通じるのだと思う。日本人は西欧人と較べて積分値より微分係数に敏感なのだ。そこが僕は好きだ。農作業は、太陽の動きを見て種を播いたり収穫の段取りを決める「先行型の作業」だから、体感上はともかく、太陽を基にした指標が定まってさえいればよろしい。しかし、二十四気の二週間という間隔は精密な農作業には粗過ぎるもののようで、昔は更に七十二侯という区分が設けられていた。これは二十四気の間隔を更に「初候」、「次候」、「末候」と三等分するものである。つまりは一つの「候」は黄道上の5度になり、日数としてはほぼ五日間である。例えば、立春の七十二候は、初候が「東風凍りを解く」、次候が「鶯鳴く」、末候が「魚氷に上がる」などとなっている。これくらい細かく分割して季節の移ろいに敏感でいないと、温室やハウスなどの人口環境など無い時代にはちゃんとした農業を営むのは難しかったのだろうと思う。最後に、二十四気ではなく「二十四節気」と云われる(日本語の基準を定めるとされているNHKでも「二十四節気」と云っている)のが普通だが、本来は「二十四気」が正しい。一年十二ヶ月(旧暦では十二節月という)の中で、例えば立春は「正月節気」、次の雨水は「正月中気」というように、二十四の区分はそれぞれ「節気」と「中気」を交互に繰り返して現れる。この「中気」は所属する十二節月が決まっている。つまり春分は旧二月、夏至は旧五月というように、「定住月」が固定されていて、これを外れてはいけない。太陽暦である二十四気が太陰暦とずれていって、その月の中気が隣の十二節月に入ってしまうような事になると、そこで閏月を置いて調整し、ちゃんとその月の「中気」が所定の節月に収まるようにしたのだ。ともあれ、「節気」は年に12回しかない。残りの12回は「中気」である。両者に共通するのは「気」であるから、二十四節気ではなく「二十四気」が正しいのである。これは別に屁理屈ではなく、中国でも日本でも暦に関する古い本には皆「二十四気」と書かれているのだ。
2009.01.20
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◇ 1月18日(日曜日); 旧師走二十三日 癸亥(みずのと い); 下弦の月、初観音1月13日のブログに巣鴨のカレーうどんに触れたので、続きを書いてみる。今年のお正月の2日に地蔵詣でを兼ねて食べに行ったのだが、この日は早稲田の穴八幡宮に先ず詣でた。一陽来復のお札をいただいた後、思い立って早稲田から都電に乗って行った。多分穴八幡宮から刺抜き地蔵に行くには都電で行くのが一番便利だと思う。そこで、先ず都電について書いてみよう。東京の都電は、明治15年(1882)に新橋~日本橋間に鉄道馬車が走るようになったのを起源とする。その後地面に軌道が敷設され、路面電車となったのが明治36年(1903)。明治28年(1895)にわが国最初の路面電車が走った京都市に遅れること8年だった。その後都電(当時は東京市だったから、正しくは市電)はどんどん路線を拡張して、漱石の没年(大正五年=1916)の頃には営業キロ数は130キロを超え、東京の街中を縦横に走っていたようだ。時代が下るにつれ、道路の渋滞を酷くするとか、架線が美観を損なうし邪魔だ、採算が取れない、などと散々邪険にされるようになって、どんどん廃止の憂き目に会ったのは、日本の他の町と同様である。とうとう昭和47年(1972)に、荒川線のみを残して東京の町からは路面電車が消えた。現在は早稲田から三ノ輪橋までの12.2キロメートル、一路線だけが残っている。都電の魅力の第一は、その駅名だ。駅じゃないな、路面電車の場合には停留所と云わなければ。早稲田→面影橋→学習院下→鬼子母神前→都電雑司が谷→東池袋4丁目→向原→大塚→巣鴨新田→庚申塚→新庚申塚→西ヶ原4丁目→滝野川1丁目→飛鳥山→王子駅前→栄町→梶原→荒川車庫前→荒川遊園地前→小台→宮ノ前→熊野前→東尾久3丁目→町屋2丁目→町屋駅前→荒川7丁目→荒川2丁目→荒川区役所前→荒川一中前→三ノ輪橋、と30もの停留所がある。つまりは、停留所の平均間隔は420メートルほどだ。普通に歩いても苦にならないところに次の停留所があるのだから、本当に「足代わりに乗れる」事が良くわかる。停留所も今のような車社会になる前に、ちょっと用があって人々が良く出かける先を基準にして、設置されたのであろう。以前の庶民の生活が忍ばれて風情が有るのだ。もう一つの魅力はその料金だ。全線一律大人160円(小人はその半額)の均一料金なのだ。都電には一日乗車券というのも有って、その日の内ならば、大人400円で何度でも好きな停留所で乗り降りできる。よそ様が暮らしていらっしゃる家の軒をかすめるようにゴトゴト走って行くのは心地よいものだし、何より廉い。乗っている人もゆったりしていて、何となく気さくに声をかけられそうな雰囲気だ。郷里の岐阜市にもかつては市電が有って、徹明町、千手堂前、稲葉、長住町、忠節橋、鵜飼屋、神田町、柳ヶ瀬、北一色など、母などは待ち合わせの場所の目印を停留所にしていた。これらの懐かしい名前は未だ頭に残っているが、岐阜の市電は平成17年(2005)に、惜しいことに全廃されてしまった。今はエコ社会がはやりということで、路面電車のような地域密着型の公共交通機関が見直されている。特にドイツでは力を入れていて、数多くの町で路面電車を見る(乗る)事ができる。ひょいと乗れて、適当に思い付いたところでひょいと降りられる気軽さは何処でも同じだ。ちょっと思い付いて調べてみたら、わが国では北は札幌市から南は鹿児島市に至るまで、21地区62路線の路面電車が健在である。もう片手の指に余る程度の町にしか残っていないかと思っていたが、意外に多くて嬉しくなった。わが国でも、エコロジーを口実にしても、大義名分にしても良いから、今走っている路面電車は残して欲しいし、願わくば高齢者対策としても新路線を増やして貰いたいものだ。その際には是非均一料金や、一日乗車券なども採用してもらうとともに、停留所の名前も昔から暮らしている人達に懐かしいものにして欲しいと思う。さて、巣鴨のカレーうどん。穴八幡から早稲田大学図書館の脇を抜けて、新目白通に出るともうすぐ其処が都電の早稲田停留所だ。都電は日中5~6分おきに走っているから、発車時刻など特に気にする必要は無い。やってきた電車に乗って入り口で160円也を払う。電車が走り出せば九つ目の停留所が庚申塚である。乗っている時間は高々17分。庚申塚停留所で降りて進行方向すぐの踏切を右へ折れれば、巣鴨地蔵商店街筋に入る。これは旧中山道だ。この町筋を道なりに歩いていけばやがて白山通りに出て巣鴨駅に出られる。とげ抜き地蔵は、その途中の左手にある。正式には萬頂山高岩寺といい、曹洞宗のお寺だ。ご本尊は延命地蔵尊である。とげ抜き地蔵という名の由来は、昔毛利大名家の女中が誤って縫い針を呑み込んでしまったのを、このお地蔵様の御影(地蔵尊を描いた紙切れ)を呑んだら針が出てきたという話にあるという。境内に入ると左手の露天に仏像があって、大勢の人々がこれに柄杓ですくった水をかけている。これは洗い観音といって、観音様の体の、自分の体の具合の悪いところと同じ場所に水をかけたり、濡れ手拭でこすったりすると、それが治るのだそうだ。僕が行った時には、ご本尊の鎮座する本堂より観音様の方が人気で、大変な行列だった。どうもこれをとげ抜き地蔵だと勘違いされていらっしゃる方が多いようだ。ご本尊のお地蔵様は秘仏として本堂の奥に隠れて姿をお見せにならない。さて、件のおうどん屋さんは、庚申塚から来ると高岩寺の手前、お寺の築地塀に沿った路地を左手に入ったすぐの鮨屋の隣にある。時分時だと行列ができるほど人気がある店だからすぐに分かる。屋号は古奈屋。近年改装したようで、随分小奇麗な感じになった。手狭な店で十数人がカウンターに並べばもう満員である。人気がある店だから行列ができる。それがお寺の塀沿いにずらっと並んで、お行儀良く順番にお待ちになっている。それが目印になる。メニューは基本的にカレーうどん一品(今回行ったらカレー雑炊などというのも有ったが)。それに天ぷらや揚げ餅などを注文でトッピングする。基本となるカレー(素)うどんは一杯1050円で、天ぷらなどを乗せると1500円とか1600円位になるから、うどんとしては決して廉いとは云えない。うどんには、甘酢生姜と発芽玄米ご飯の小さな塊りが付いて来る。ご飯は「うどんを食べ終わったら最後に丼に入れて雑炊として召し上がってください。」という。カレーは柔らかな味でうどんに良く合い美味しい。うどんも細めで、全体として中々上品な感じだ。見ていると注文が入るたびに、大鍋から人数分のカレールーを小鍋に移しては味を調えて作っている。天ぷらもその都度揚げている。量も適当で、お客は皆押しなべて黙々と食べでは、外の行列に並んだ人と入れ替わって帰って行く。平均滞留時間は恐らく20分以内。中々の繁盛で、ご同慶の至りだ。以前はこの巣鴨のお店だけだったのが、今では池袋の東武デパート、横浜のランドマークタワー、六本木ヒルズ、神楽坂などにも支店を出しているそうだ。この秋には兵庫県西ノ宮の阪急デパートにも出店の予定だそうだ。カレーうどんもB級グルメ食品に分類したい食べ物だから、六本木ヒルズに相応しいかどうかちょっと疑問があるが、うどんの本場でうるさ方の大勢いらっしゃる関西の地で古奈屋のカレーうどんが、その味と値段でどう受け止められるかは興味がある。何れにしろ、「とげ抜き地蔵脇のカレーうどん」は知る人ぞ知る名物だし、美味しいのは間違いは無いから、地蔵詣での折には一度はいらしてもよろしいと思う。
2009.01.18
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◇ 1月17日(土曜日); 旧師走二十二日 壬戌(みずのえ いぬ); 土用狭山湖(正式には山口貯水池というのだそうだ)のオオタカ君は、その後どうしているだろうと、又行ってみた。西武鉄道には色々な支線があって、その中の西武狭山湖線という、終点と始点の間に一つしか駅の無い電車に乗ると、終点の西武球場前から歩いて坂を上れば狭山湖だ。広々とした開水面を前にすると、いつもながら思わず深呼吸を繰り返し、背も伸びる。狭山湖は尻尾のちょん切られた、口を開けたワニのような形をしている。尻尾を切られた切り口が湖の東端で、700メートル弱の堰堤が南北に真っ直ぐ続いている。堰堤を境に広がる湖は途中から長く伸びた岬によって南北に分かれて、ワニの開いた口を形作る。こうしてできた入り江の最深部までは堰堤から2.5キロ程もある。つまりは、晴々とした気持ちで深呼吸をしたくなるほど広いのだ。狭山湖でオオタカが良く見られるのは堰堤の北端近くの雑木林の付近である。堰堤の北端には四阿風の休憩所があって、付近にはご近所の(だと思うが)アマチュアカメラマンやバードウォッチャーのカメラや望遠鏡の砲列が並ぶ。オオタカは堰堤の一角に掲げられている解説によると、2月から3月頃が繁殖期になるそうで、観察できる機会も増えるのだそうだ。運がよければ交尾や営巣の有様も見られるそうだ。今日のオオタカ君は、僕が現場に着いた最初のうちは中々姿を見せなかったので、彼らも週休二日なのかと思っていた。しかし、その内付近のカラスの群れが急に騒がしくなり、観測家の皆さんもそわそわしだした。いきなり雑木林の一角から、明るい色調の鳥が飛び出して来て、一羽のカラスを背後から蹴るような動作をした。オオタカの狩りだ。あっという間にカラスはオオタカの足爪に掴まれる。そのまま二羽は岸近くの水面に落下し、真っ白な羽毛で覆われたオオタカの脚でカラスは水中に押し付けられる。溺れさせるつもりなのだ。カラスはあっけなく絶命した様子で、オオタカはそれを岸辺に引き上げ、食事になった。この間ものの一分もしない出来事である。先日もそうだったが、付近にはカラスが群れを成している。オオタカの狩りの間も、十羽に余るカラスがオオタカを追尾して飛んでいた。そして犠牲者が屠られ、オオタカの食事が始まると、周りにとまって食事の現場を包囲するように様子をうかがっている。その内包囲の輪は段々狭まって行き、ついにはオオタカに威嚇され追い立てられるものも出てくる。威嚇されると一瞬飛び上がるが、すぐに舞い降りて又様子を窺いながら近づいて行く。少し離れた辺りでは、カラスの行水を始めるものまでいる。オオタカの食事の余禄にありつこうとしているのだ。人間の感覚で判断するのは妥当なことだとは思わないが、つい先ほどまで生きた仲間だったものが、目の前で襲われ、食われている。その余禄にありつこうというのは、如何にも倫理や人情(烏情か)にもとると思える。何しろ仲間で群れを成してオオタカを挑発し、仲間の一羽を襲わせ、その余禄にありつこうというのだ。カラスは常にうるさい。オオタカ君は周りの喧騒には無頓着で、始終無言で獲物を毟って食うことに専念している。その様子は、悠揚迫らずと云うべきなのだろうが、僕にはどうも浅ましいと思えてしまった。肉食の鳥なのだから、命の糧として狩りをし、獲物を食するのは当たり前なのだが、実際に食事の現場を見ると浅ましさを覚える気持ちの方が先立ってしまう。思えば、動物でも人間でも食事の現場というものは浅ましいものだ。浅ましいとまでは言わなくても、他人を憚る一種淫靡な雰囲気をかもす行為である。だから食事を共にする相手はある程度以上親しい間柄に限られるし、食事の場所も原則として他人からは見えない屋内である。屋外でものを食べるのは、ピクニックや縁日など、ハレの環境に限られるのだ。だから僕は見ず知らずの大勢の人間が集まるビュッフェパーティなどというものは嫌いだし、電車の中で平気でものを食べる輩はもっと嫌いだ。お余りを奪取しようと窺うカラスは論外だが、オオタカ君も衆人環視の中でガツガツと獲物を喰らっている姿を見て少し幻滅してしまった。せめて巣にでも持ち帰って、其処で食べて欲しいと思うのだが。この日は、見ている間に少し離れた場所でもう一羽のオオタカの狩りが行われた。獲物は同じくカラスである。付近のご常連によれば、この付近には少なくとも三羽が見られるのだそうで、短時間で二度もオオタカの狩りの瞬間を見られるのは珍しいとの事。我に返れば、大きなレンズを着けたカメラや双眼鏡を持ち出して、よそ様の食事や交尾を観察に来る我々の方が浅ましいのかも知れないなぁ。
2009.01.17
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◇ 1月16日(金曜日); 旧師走二十一日 辛酉(かのと とり); 薮入り、 閻魔詣り昨日の、区議をしている同期生からのメールがきっかけで、このところ何人かの同期生とのメールの往還がひとしきり始まっている。その中の一人からちょっと気になるメールが届いた。「小生はここ数日、フラついておりまして、立っては立ちくらみ、歩いても頭が定まらずという状態です。病院に行きましたが、原因不明です。昨年6月にもこの状態が2週ほど続いて、普通の状態に戻ったので、しばらく部屋の中でブラブラしています。」彼は高校時代は、郷里の現職首長を生徒会長に押し立てた、いわば現首長の現在への道を拓いた(ちょっと大げさか?)根回し屋であり、社会に出てからは某出版社で精力的な取材で名を馳せた猛者である。僕の(卒業後ではあるが)高校での七番目の友人という希少な存在でもある。だから大いに気になる。僕自身も昨年の6月、母の末期を看取るため岐阜に行っていた際に似たような症状になった。日中妹と交代で母を看て、夜実家に帰宅してビールを飲もうとするとどうも様子が変なのだ。頭を上に振ると、目の絞りがスーッと開くような感じがする。天井の蛍光灯の色調も変化する。再び頭を振り下げると、また同じ過程を逆に辿る。友人の場合と同じで、風呂で浴槽から出たり、急に立ち上がったりすると立ちくらみがする。母の件で紛れてはいたが、数日しても治る気配が無いので、実家近くの診療所に行ったが原因不明であった。と、いうよりは医師自体が遠来の、しかも程なく帰ってしまう患者をちゃんと診たがらなかったということがある。自宅に帰ってからかかり付けの病院に行った。僕には通風のケ(高尿酸血症)があって、その時も暫く足に痛みが有ったから、いつもの整形外科に行ったら、担当医師がいきなり顔を曇らせて内科に回された。血液検査、尿検査を始め何種類かの検査を経て、著しい鉄欠乏性貧血だと診断された。「本来ならすぐ入院しなければならない数値です。」と云われたけれど、此方にはそんな余裕は無い。内臓出血の疑いがあるということで、便に血が混じっていないかとしつこく聞かれたけれど、そんな覚えは無い。便の様子は体調の指標だと聞いているから、毎朝じっくり観察することにしているが二日酔いの朝は別としてビリルビン色素も鮮やかで血が混じっている気配など微塵も無い。やがて、病院では上部消化器系と下部消化器系の検査が行われた。要するに胃カメラと直腸内視鏡検査だ。胃カメラはともかく、直腸内視鏡の方は前日から当該部位を空にして清浄にしなければならないから大変だった。結果は???であった。検査とは別に増血剤(僕の場合はフェロミア錠だった)も処方されていたから、貧血もそれで改善されたのかもしれない。まぁ、人間の体も60年も使っていれば方々が可塑性を帯びるようになるのだろう。何らかの外圧に対する耐性の範囲も狭くなってきているはずだ。敬愛する友人にも、大過ない結果となって、元気に「七番目の友人」としてのお付き合いを続けていただきたいと思う。
2009.01.16
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◇ 1月15日(木曜日); 旧師走二十日 庚申; 小正月、 小豆がゆ都内某区で区議会議員をなさっている女性からメールをいただいた。彼女は郷里の高校で同期だった人で、しばらく前に蕎麦アレルギーの原因物質を特定した事で、新聞などでも紹介された。何年か前に区議選に出馬し、首尾よく当選。現在は二期目を務めておられる。僕は数年前に、首都圏とその近郊に在住する高校OB・OGの同期会の幹事を引き受ける巡り合わせになった。元々高校時代は友達が6人しか居ないような人間で、もっともらしい同期会の幹事など役柄でも無いのだが、「連絡はEメールだけ。余計なプロトコルは無し。とにかくいい加減になりゆきで開催して、カジュアルにやる。それでも良いなら。」と結局引き受けてしまった。それがもう数年も続いてしまい、不精な連中から「終身幹事に」などと云われたけれど、これは固辞させていただいた。それで結局「就寝幹事」と云う事で落ち着いた。彼女とはなりゆき同期会のご縁で知り合った。(というより、実際は再会したのだが、気分は御互いに「初めまして」だった。)お殿様やお姫様気分の同期生が多い中では、彼女はアクティブで、地域に根ざした区政活動を続けておられる。僕が文字通りになりゆきで続けてきた同期会では、取り立ててのアジェンダなどはなく、要するになんだかんだの口実で一宵酒食と共に懇談するのが常だが、彼女はそういういい加減な会員の中でも真面目なほうの最右翼に居られて、時々此方が身の引き締まるようなことをおっしゃる。郷里の岐阜県では25日は首長選挙の投票日であり、これまた同期の、僕とは中学以来の友人が再選をかけて立候補している。彼女は2期目の区議選の際に、彼に応援をしてもらったこともあり、そのお礼とお手伝いを兼ねて岐阜にいらしたのだそうだ。まぁ選挙のことは、投票前でもあり差障りもあろうからさて置くとして、彼女のお母上は郷里で独居の状態で、最近は体の具合を悪くされていると、件のメールでうかがった。僕の母も父親が亡くなって以来郷里で独居の時間が長く、冬の雪の日に玄関先で滑って転んだのがきっかけのようになって、ボケが始まった。最後は施設に移り、ボケだけでなく病も得て、昨年の6月に他界した。此方で仕事を得て以来、郷里に戻るのは年末年始位であったため、母が亡くなる10年ほど以前から、近隣の温泉に連れて行くようになった。高山、平湯、下呂、新平湯、奥飛騨、福地、養老、・・・と(中には、どういうところかを知らないままに、間違えて琵琶湖畔の雄琴温泉に連れて行ってしまったこともある!)随分色々なところに行った。彼女にはその話が印象に残っているようで、「それを思い出して一生懸命親孝行しようと思っています。」とおっしゃる。僕が温泉に母親を連れて行ったのは、無論親孝行が第一義だとは云え、実際には自分自身も行きたかったのだし、自分の温泉好きを満足させるために母親を口実に使ってしまった面も強い。だから、彼女のメールを読んで面映い気持ちになったものである。それにしても、親孝行は親が生きているうちである。亡くしてみると身に沁みてそう思う。昨年は自分の不如意の所為で、母親の末期から告別式にはちゃんと傍にいることができたが、四十九日にはついに行くことができなかった。父親の十三忌法要もやらなかったのに、母親の四十九日にも来ないとは、親不孝の極みだ、と妹には責められることしきりだ。しかし、「亡くなった後は折に触れて思い出すことそ供養。此方が覚えていて、時に思い出している限り、物故者は記憶の中で生き続けるのだ。法要などの仕来りなんかは坊主と生者の為のものでしかない。」と(本当にそう思うから)云ったら、「屁理屈だ」と妹に又叱られた。わが同期の彼女は、区議会議員の職務とともに、専門の医療分野の学会での仕事も続けておられるそうだから、忙しい中大変だろうけれど、親孝行をなさってください、と申し上げたことではある。
2009.01.15
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◇ 1月13日(火曜日); 旧師走十八日 戊午; 三りんぼうこの楽天のブログで時々ご厚誼をいただいている釈迦楽さんという方が、糸井重里氏の最近のブログを引いて、「最近は飽きるまでお餅を食べることが無くなった」と慨嘆(というほどでもないが)されていた。僕は、「それはお餅をコンビニやスーパーで簡単に買えるようになった所為ですよ。」とコメントさせていただいた。左様に、「便利になる」というのは、ありがたさが薄れるということと裏腹である。釈迦楽さんは名古屋の大学で教鞭をとっておられる先生だが、文化系の先生には珍しく(失礼!)中々洒脱な文章で、手際よくバサバサと身近な世相をお切りになる。特に食には中々通じておられ、ご立派なB級グルメでいらっしゃるとかねがね感じてきた。B級グルメと云ったって決して馬鹿にして申し上げるのではない。A級グルメ、つまりはワインや高級料理に薀蓄を傾ける輩よりは、僕は(自分もそうだから)B級グルメに、より愛着と尊敬の念を持つものである。大体が、高級なもの、つまりは高いお金を払っていただく料理などは美味しいのが当たり前。不味ければ職人の腕が悪いか、店がインチキをしているのだ。つまりはA級グルメを自認される方々は、常に自分の舌が試されているのではないか、職人や店に騙されているのではないか、そういう強迫観念に囚われているわけで、その根底には見栄や虚栄がある。お気の毒なことである。それはともあれ、釈迦楽さんのブログでは件のブログに関して、「磯部巻きは甘辛醤油派か生醤油派か」というやり取りがあった。釈迦楽さんは、「ワタクシは、断然、生醤油派。ワタクシ、甘いものは甘く、辛いものは辛く、という嗜好の持ち主で、甘辛、というものの価値をいま一つ解さないんですよね~。」とおっしゃる。まことにその通り!僕も砂糖醤油で焼いたお餅など嫌いだ。生醤油でいただく餅のみを認めている。時々は鰹節の削りくずなどを醤油にまぶせば、これはささやかな贅沢となる。所沢には「焼き団子」というB級名物がある。これは米の団子を串にさして焼き、生醤油に浸し、遠火で乾かしたものだ。これを売る店は遠くからでも、生醤油の立てる香ばしい匂いで分かる。生醤油の焼き団子はお隣の川越にもあるようだ。しかし、それ以外の他所では余り見たためしが無い。他所で見るのは「みたらし団子」といって、甘ったるい砂糖醤油を滴らせた、全く似て非なるおぞましいものばかりである。同じ甘いのなら、鶯団子、きな粉団子、ゴマ餡団子だったら、いっそ潔い。しかし僕は甘い焼き団子はどうも好きではない。此方に出てきて所沢に住むようになってもう三十年以上になるが、所沢から引っ越す気持ちになれない理由の一つは、生醤油だけで焼いた焼き団子のある所為かもしれない。生醤油ついでに、B級の話をもう一つ。巣鴨の刺抜き地蔵に続く商店街は、俗に「オバアチャンの原宿」といわれるように、中高年の女性向けのファッションの店が軒を連ねている。それも皆廉い!暖かそうなフリースのズボン(無論オバチャン向け)が驚くような値段で売られている。何故か同年代の男性向けの服飾店が圧倒的に少ない。これは、明らかにその年代の男女の力関係の差だ。他には漬物屋や和菓子屋など、やはりそれらしい店も並んでいる。この町筋では、こ洒落た喫茶店や高級洋菓子店は探しても先ず見つからない。巣鴨駅から地蔵通り商店街の筋に入るとすぐの右手に雷神堂というお煎餅屋さんがある。現在は新築工事中で、少し先に行った右手のファミリーマートの筋向いの路地を入ったところに仮店舗が構えられている。この雷神堂には生醤油のお煎餅を焼きながら売っている。原型は直径30センチ程にもなろうという大きさを適当な大きさに割り砕いた、割れ煎餅である。お煎餅を焼いている火鉢の脇には一抱えほどの大きさの陶製の甕が置いてあって、中には生醤油(だろうと思う。とにかく甘辛くはない。)がたっぷり入っている。お煎餅が焼きあがるとトングで何片かをはさみ上げて、この甕にジャブンと浸す。それをかじりながら通りを歩くのが此処のファッションなのだ。ちゃんと「食べ歩きセット」というのが有って、袋に五片入って確か2百円だったと思う。原宿だとソフトクリームかクレープだろう。此処では生醤油の焼きたてのお煎餅だ。焼きたての温かさに醤油の香りが立って、ところどころ沁みた醤油が乾ききらずにしっとり湿っている。巣鴨に行ったときの僕のお目当ての一つである。このお煎餅には「醤油二度付け」、「三度付け」というオプションもある。刺抜き地蔵の脇には、人も知るカレーうどんだけを食べさせる店もあって、大いに流行っている。又刺抜き地蔵を通り過ぎると、やがて庚申塚商店街と名前が変わり、都電荒川線の庚申塚停留所に至る。この辺は中々風情があるのだが、これは又いつかご紹介することにしよう。
2009.01.13
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◇ 1月12日(月曜日); 旧師走十七日 丁巳; 成人の日昨年は僕の「後厄」の年だった。厄というのは前厄、本厄、後厄と都合三年の間続く。だから後厄が終わった今年は、僕は晴れて完璧に綺麗な身になったという訳だ。厄年というのは、その昔、一定の年齢になると神社の祭礼や式典などの「役」が巡ってきたのが起源だとか、或いは陰陽道の考えに依るものだとか云われる。いずれにしても厄年の歴史は平安時代にまで遡るそうで、そんなに歴史が長いとなれば、無闇と無視をしてはいけない気持ちになる。僕自身前厄の頃から事毎についていない。色々な問題がこれでもかという位に出てきて、特に昨年は殆ど進退窮まるような状況にまでなってしまった。「誕生日が過ぎれば後厄も明けるから」と我慢していたが、誕生日が過ぎても運が好転した兆しはちっとも無い。よく考えると、厄年は誕生日を境にしているのでは無さそうだ。厄年は満年齢ではなく数え年で決まる。数え年は誕生日ではなく、お正月が来るたびに一つ齢を重ねることになる。だから同じ年の一月早々に生まれた子も、師走ぎりぎりに生まれた赤ん坊も、年が改まれば、元旦に等しく2歳になる。つまりは、誕生日が来てもダメで、暦が改まらないと後厄は明けなかったのだ。なるほど。そう納得したから、このお正月は後厄明けのお礼とこれからの開運のお願いに、出来るだけ多くの神様や仏様に詣でようと思い立った。それも大きな寺社だけではなく、近所の辻などに見かける小さなお社も疎かにしないように。初詣というものは、地元の鎮守様から始めて、近隣の主だった寺社を一通りへ巡ってするものだと、昔母親に教わった記憶がある。それに、大きくて著名な寺社だと、訪れる人も大勢居て、神様や仏様も大忙しだ。忙しさにかまけて、此方のお祈りも疎かにされてしまうだろう。その点小さな祠であれば、お詣りする人の数も少なかろうから、神様だって嬉しい筈だし、こちらのお祈りにも注意を向けてくれるだろうと、そういう作戦でもある。そんな訳で、年明けから今日までにお詣りした寺社を数えてみると;芝増上寺、狭山不動尊、山口観音、狭山湖傍の名も無い小さなお稲荷さん、通りすがりの路傍にあった氷川神社の祠、藤森稲荷、曹洞宗梅林山全徳寺、穴八幡宮、巣鴨刺抜き地蔵、王子神社、王子稲荷、鳥越神社、靖国神社、明治神宮、東京大神宮などなど。一日でこれだけ行った訳では無いけれど、初詣のハシゴをしてしまった。まだまだ行き漏らしているお社は沢山あるが、これは立春正月までには極力お詣りいたす事にしようと思っている。今日は成人式で祝日だったので、都心に出かけたついで(といっては叱られるが)に、明治神宮に詣で、その後所用で行った先の近くの靖国神社(明けて以来二度詣りになった)へ行き、最後に飯田橋駅の近くの東京大神宮に詣でて来た。こうしてみると、わが国には大から小まで、本当に沢山の寺社がある。これだけの数の寺社がそれぞれに古くから崇められ、そして未だちゃんと残っているのだから、日本人は本来は信仰心が篤い民族なのだろう。信仰心というよりも、もっと素朴な「畏れ」の気持ちと云った方が良いかもしれない。寺社の方もそれぞれに細かい工夫を凝らしたり、差別化を図っているようで注意してみると面白い。明治神宮の御神籤は、お札を授けてもらうと、明治天皇か奥さんの昭憲法皇太后の御製の歌が書いてあって、それが人生に於ける諌めや諭しになっている。大吉とか小吉、凶などという直截な判断が書かれていないから、何となく物足りない。もっと白黒はっきりしろよ!と云いたくなってくる。こういう御神籤でも専用に設けられた針金に結び付けていくのが何人もいるのがおかしい。アレは縁起でもない御神籤を授かってしまった時に、神域の木の枝などに結んでおくことで、悪運を消し去り、運を清めてもらうおまじないだ。それなのに、白も黒も無い諭しの詞を結んで置いて来てしまっては、ちょっとまずいじゃないか。靖国神社の御神籤には、大吉、中吉、小吉だけが有り、凶の札は無いのだそうだ。何となく衆におもねる気がするが、あそこは戦没者を慰霊する神社だ。だから、戦争で命を落とした身内や先祖の霊に手を合わせに来た人には、凶運に値するものは居るはずが無い、という前提があるのかもしれない。但し、祀られているのは「天皇のための戦」に「天皇のために戦って落命した人」の霊だ。だから、鳥羽伏見の戦いや、その後の上野の山や奥羽戦争、函館戦争で幕軍の側で命を落とした人や、西郷隆盛さんの霊はあそこには無い。驚いたのは東京大神宮だった。お正月の三日に別用で九段下の田安門から飯田橋駅へ抜ける道を通った時には、東京大神宮へ続く道に無慮長蛇の行列が続いていて、とにかく行列に並ぶのが大嫌いな僕としては参詣を失礼させていただいた。今日はもう初詣の時期は殆ど終わっているからと思って行ってみたら、それでも随分の人がいて、入り口から手水場、そして本殿に続く参道に粛々と列を成している。それも、女性が圧倒的に多い。皆妙齢の方々ばかりである。神社や仏閣の常連であるオバチャン達は全くと云って良いほど姿を見かけない。そう云えば三日に通った時も、行列の大勢は若い女性が占めていた。リビドーが匂いたつばかりの若い女性の群れに混じって、遅々としか進まぬ参詣の行列に並んでいるのは、中々独特の気分である。それでもオヤジ独りのお詣りはちゃんと済ませて帰って来た。インターネットで調べてみたら、日本で最初に神式結婚式が行われたのがこの東京大神宮なのだそうだ。それをネタに10年ほど前から神官の方々が、ご利益の前面に「縁結び」を掲げ、様々なメディアでこれを宣伝してきた。それが、数年ほど前からインターネットやブログ、口コミで広がって、今では此処にお詣りすると恋人が出来る、好きな人と結ばれる、と若い女性の人気を博すようになったのだそうだ。なるほど、これは神社のマーケティングの成果だったのだ。最初から知っていれば・・・・・
2009.01.12
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◇ 1月11日(日曜日); 旧師走十六日 丙辰; 望、鏡開き、奈良若草山山焼き「ちゃっとまわしして来るで待っとって!」僕の高校時代同期の友人がしばらく前に語ってくれた話だ。学校だかクラブだかの何かで、ある女生徒を呼び出す用事ができた彼は、彼女の自宅を訪れたら、玄関先に出てきた件の女生徒にこう云われたのだそうだ。彼は中学校の時に四国から岐阜の町に引っ越してきて、僕と同じ高校に進んだ。彼はそう云われて、玄関先で彼女を待つ間「何故彼女はマワシなんかをして来るのだろう?」と、疑問に思いつつもその姿を想像してドキドキしてしまった。暫くして現れた彼女は、ごく当たり前に外出着を身にまとっていて、色々想像をたくましくして待っていた彼としては拍子抜けしたのだという。花も恥らう年頃の娘が、相撲取りのように裸身にマワシをして出てくれば、さぞかし・・・と思う。残念。これは、岐阜(恐らくは美濃地方の)の言葉で、「急いで仕度をしてくるから待っててね」と、共通語ではかような意味になる。しかし彼が育った四国ではこういう表現は無く、彼は当惑すると共についあらぬ(健全な男子高校生としてはごく自然な)想像をしてしまった、という訳だ。「まわし」というのは、当時わが郷里ではごく自然な言葉で、身支度だけではなく「ご飯のまわしをする」とか、「正月のまわしをする」など、広く「色々な仕度」という意味で使っていた。他にもとっさに思いつくのは、「もうやい」という言葉だ。「モウヤイにする」とか、「喧嘩せんと二人でモウヤッコにしやぁ」などとつかう。「公平に均等分けにする」という意味である。だから上は「喧嘩しないで二人で分けなさい」という意味だ。これはずっと以前にはるばる我が家を訪れた母がお土産を紐解く時に使って、子供たちが分からなかったから、やはり岐阜に独特な言葉だろうと思う。又、英語なら「I would like you to ・・・」と、ある行為を相手に勧誘若しくは依頼する文脈で「・・・」の動詞の語尾に「jaa = ィヤァ」を付ける。つまり「いらっしゃい」は「イリャァ」、「しなさい」は「シャァ」などとなる。これは岐阜というよりあの辺りに共通の習いのようで、某タレントが「あそこでは横断歩道の信号までミャァミャァ云っている」などと紹介して有名になった。「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く」という短歌があるけれど、随分以前は帰省するおりなど、電車が段々郷里の町に近づくにつれて、耳に入ってくる周りの人達の話す言葉の響きが変化していった。それにつれて、此方の懐かしい気持ちも、「帰ってきた!」という気分も増していったものだ。しかし、今はもうこういうことも無くなってしまった。前回母の容態が悪くなって久しぶりに岐阜に帰ったが、新幹線を乗り換えた在来線の中でも、郷里の街頭でも、聞こえてくる言葉は首都圏の其処此処と変わらない。暫く前までは、「文字にすれば共通語」であっても、話されるときのイントネーションは昔のままという風であったが、もうそういうことも感じられなくなってしまった。言葉だけではない。郷里の町にも知らない道路が其処かしこに出来、良く名前の知れたコンビニや量販店ばかりが目に付き、目にする風景も首都圏のそこいらと変わらなくなってしまった。様々な領域で共通の「符号」が普及・蔓延し、それぞれの本来の特徴が薄められて均質化され、「標準化」されていくことを一言でいえば、「グローバリゼーション」となる。グローバリゼーションは効率化、合理化を促進するという点では悪いことだとは思わないが、一方で集約化や巨大組織による寡占化をも促進する。などと考えると、またぞろ昨今の社会情勢への批判になってしまう。今、岐阜の町で「マワシしてくる」と云っても、ひょっとして最早誰も分からない死語になってしまっているのではないだろうか?
2009.01.11
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◇ 1月6日(火曜日); 旧師走十一日 辛亥; 東京消防出初式、高崎だるま市「金融経済と実体経済の乖離」という言葉がある。記憶ではこの言葉を初めて聞いたのは昨年の9月、所謂リーマンショックが騒がれた時だ。麻生首相がテレビの記者会見などでしきりに口にしていた。僕はそれまで「金融経済」などという言葉を聞いたことが無かったので、「へぇそんなものがあるのか!?」と驚いたことを覚えている。無論金融という分野には僕自身は門外漢なので、ひょっとしたらその世界では当たり前の言葉なのかもしれない。皆さんはご存知でしたか?しかし、それ以来色々な人間が事あるごとに「金融経済と実体経済の乖離が問題なのだ」という主旨のことを言い出すに及んで、「これはおかしい!」と強く感じるようになった。金融経済というのは、とどのつまり株価や為替などの変動によって、それを売り買いしたり、決算や資産評価に組み入れた結果、利益を生んだり、或いは損をしたりする事を云うのだろうと思っている。それに対して、実体経済というのは、実際にものやサービスの生産や売買に関わる分野のことを言うはずだ。乱暴かもしれないが、それで概ね正しい理解だろうと思っている。そうならば、「経済」とは本来実体経済でしかない。実際時事英語で調べてみると、実体経済は「Real Economy」というそうだ。金融経済は、「Financial Economy」と言うのかもしれないが、何となく同語反復のようでしっくりしない。僕が調べた範囲ではちゃんとした訳語は見当たらなかった。ならば、「Real Economy」に対して「Unreal Economy」と解釈するのが適当じゃないか?「金融経済」などという「新語(?)」が出現した所為で、本来単に「Economy」だけで済んだものを敢えて「Real Economy」と呼ばなければならなくなったんじゃないだろうか?元々「経済」などというものは人が社会という環境に生きるようになって以来、「生業」として生まれてきたごく自然な行為、或いは活動である。それが、生活圏が拡大するにつれて、単純で素朴な物々交換が多岐にわたるようになって、全体として「富」という概念が生じた。更に域際的、国際的に拡大していく過程で、その流通や分配のしくみとして体系化されるようになったのだと思う。体系化といっても、元々人間の素朴で自然な社会行為なのだから、主義や主張と云った主観的である意味恣意的なものが入り込む余地は大いにある。それが嘗ては共産主義とか資本主義などと云われて、国際対立の軸にもなった。つまり、経済又は経済学は本質的に従来の自然科学とは同一には語れるものではなく、どう解釈するか、どう向けるかという意思の対象である。それを本質的に崩したのが、所謂「グローバリゼーション」だ。その根底には、移動や通信手段、もっと広くにはコミュニケーション手段の進歩と国際化(所謂ボーダーレス化)である。これによって、様々な異文化や異なる環境が混合されるようになると、共通のメディアが必要になる。このメディアには、言語はもとより、通貨や更には経理上の共通ルールなどが含まれる。要するに汎世界的な符号の出現である。言語では英語が、そして経済の世界では主要通貨といわれる「符号」が使われるようになるのだ。通貨という符号は主なものに米ドル、ユーロ、ポンド、円などがあり、相互は為替レートという変動ルールで連結されている。この点では言語とは少し事情が異なる。さて何であれ共通符号化されると、その符号は一人歩きを始める。局所的にはある会社の時価総額や、色々なものを証券化されたものも、これまた符号の一種だ。符号であるから、抽象概念である。抽象概念であるから符合相互のやりとりも可能であり、そこでの損得も生じる。そこに着目して儲けようと始まったのが所謂「金融経済」というものの正体であると思う。つまりは元来は抽象的な世界での損得勘定の営為に過ぎない。だから元々「Unreal」であるのは当然なのであり、噂や感情などに左右される極めて脆弱なものである。だから、「金融経済」は、実体経済(つまり本来但し書きの無い「経済」)と乖離する宿命を本来的に持っているのであり、それを防止したり改善するのは、それらの制御を担当すべき政治や金融界首脳の責任である。だから彼らがこれを大げさに驚いたり問題視したりする、ましてやこれを口実に雇用、融資、課税などの措置を採るなどは言語道断だといえる。日本を代表する規模の企業は、「金融経済が実体経済に影響を及ぼした所為で」(上記により、こんな議論は噴飯ものだと思う)業績は甚だしく悪くなった。従ってやむを得ず・・・・などと云われると「なるほど」と思ってしまうのがいけない。上記のような企業は赤字であっても手持ち資金は潤沢に持っている。実際に上記によって大きな影響を受けるのは、大企業の傘下で活動せざるを得ない下請けなどの中小零細企業であり、更に弱い個人である。政府に金が無いことは事実だけれど、こういう滞留資金をどう社会に還流させてまじめに働く中小企業や、経済弱者である人達の生活を下支えするのは、当然政治や金融の世界の首脳たちの責任だし義務である。ところがマスコミを始め、そういう論調がまるで見られないというのはどういうことなんだろう。我々は、錯綜したり混沌とした状況に名前が付けられ、その「言葉」を覚えるとそれで納得してしまうところがある。「金融経済と実体経済」なんて、漢字が一杯含まれたもっともらしくも、耳新しい言葉を聞かされて、分かった積りで納得していてはいけないのである。専門家でも無い僕の乱暴な意見かもしれないが、本当にそう思う。明日はもう七草。己丑の年ももう松が取れる。
2009.01.06
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◇ 1月5日(月曜日); 旧師走十日 庚戌; 小寒、初水天宮己丑の年が明けて五日。今日は二十四気の小寒である。日本海側の連日の降雪にも関わらず、関東地方は例年通りの冬晴れが続いている。オオタカ(大鷹)という鳥がいる。体長約50センチ、翼を広げると1メートル以上にもなる肉食猛禽類だ。我が家からほど遠からぬ狭山丘陵地帯の一角に、狭山湖がある。秩父山系を源とする多摩川の水を集めて、東京の上水として供給するために、埼玉県の領内に作られた理不尽な人造湖だ。此処の水は埼玉県には分配されない。その証拠に、狭山湖には石原東京都知事の筆になる「五風十雨の趣」とかいう石碑があるが、埼玉県知事の碑は置かれていない。少し東南に離れた所には多摩湖という湖も有って、この二つの人造湖の周辺は里山が豊かに残され、近隣の人や動植物にとって癒しと生息の場所になっている。狭山湖の堰堤は暫く前に大改修が施され、新しくなった堰堤に沿って歩くと、湖面を近景にはるか秩父連山や富士山を望むことが出来る。広い開水面のあるところは人の心を晴れやかにしてくれる。その一角にオオタカの営巣地があって、地元の好事家には観鳥、撮影の人気ポイントになっている。西武球場のドームを過ぎて狭山湖の堰堤の端に登ると、遥かもう一方の端がオオタカ観望の適地になっている。其処に作られたあずまやの付近には、いつ行っても何人もの人が集まって湖岸の一角、入り江になった付近を眺めているのが常らしい。僕が訪れた日はあずまやのテーブルにはお弁当や飲み物なども広げて、ピクニック気分の人達も居た。近くにある狭山不動や山口観音に初詣をしがてら見物に来た人もいたのだろう。あずまや周辺と湖を隔てる柵には、長大な望遠レンズを装着したカメラが何台も並んで放列を敷いている。皆立派なカメラで羨ましい。「本体のレンズが600ミリで、それに900ミリの望遠を付けているんです。」などと、カメラ自慢の話も聞こえてくる。しかし、それがにらむ方向の水際にはカラスが群れているばかりである。どこでもそうだが、ここでもカラスはカァカァと鳴き交わしてうるさい。時々カラスの群れの中の一羽が舞い上がると、それにつられて他のカラスたちも飛び立ち、入り江の脇の枯れ木林に向けて煽るように飛ぶ。ひとしきり騒ぎまわるとまた元の場所に舞い戻る。水際は浅瀬になっていて、其処で文字通りカラスの行水をしているのもいる。それを何度も繰り返している。周りの常連さんたちの話を聞いていると、これはカラスがオオタカを挑発しているのだそうだ。挑発に乗ってオオタカが狩りに飛び立つ。そして獲物を捕らえるとオオタカはその獲物を傷つけて湖面に一旦落とす。そしておとなしくなった獲物を食うことになるが、カラスはその食べ残しを頂戴するのだという。オオタカの獲物は、小動物や小型の鳥だそうだが、時にカラスも獲物にすることもあるのだそうだ。そうなるとそのお余りを頂戴するカラスは共食いをすることになるが、その点はカラスは気にしないのだろうか?やがて、俄にカラスの群れがいっそう騒がしくなった。周りの常連さんたちから「出た出た!」という声が上がる。入り江の枯れ木林の一角から、明るい灰褐色に見える鳥が飛び出した。オオタカだ。オオタカは矢のように湖面に向かうと、あわや水に接するかという刹那、身を翻して急上昇していく。カラスの群れは吹流しのように先頭のオオタカに追随していく。オオタカは鷹狩りに使われた鳥だ。最高スピードは時速80キロにも達すると云われる。飛翔するスピードはだから到底カラスの及ぶところではない。オオタカは追いすがるカラスの群れを尻目に猛然と狩りをしているのだろう。が、しかしそれを知らずに見ている限り、たった一羽のオオタカが無慮十羽程ものカラスの群れに追いかけ回されているような様子なのである。この「狩り」は時間にしてそれ程長いものではない。せいぜい長くても30秒程度の時間に、上記のような行動が2~3度繰り返され、オオタカは枯れ木林の中に戻っていく。カラスの群れも再び水際に戻るのである。この日は、風がやや強めの晴れた寒い日だったが、同じような光景を数分おきに観る事が出来た。常連さんたちによれば、こんなに頻繁に見られるのは運が良いのだそうだ。「今日は余程腹がすいているのかなぁ」という声も聞かれた。オオタカは1月の下旬頃から恋の季節に入るのだそうだから、今は来るべき熱情の時に備えて体力を蓄えようとしているのかもしれない。途中ひときわ背の高い枯れ木の枝にオオタカが独り止まっているのも見えたそうだが、肉眼しかない僕には見分けることが出来なかった。オオタカは孤高な鳥というイメージがある。狭山湖一帯の食物連鎖の中では最上位に位置する生き物だから、孤高にならざるを得ない。一方のカラスは自分では狩りをしないのだという。衆を頼んでオオタカを挑発し、その狩りの余禄を(時には同類の肉まで)食らうのだ。そういう手法を集団という場で編み出したわけだ。頭脳という点ではカラスの方が賢いといえるかもしれない。僕自身は、どうしてもオオタカの方に肩入れしてしまう。しかし、大勢のカラスに付きまとわれて、結果はカラスを養うことにもなるというのも皮肉な話だ。何だか人間の世界を思うと、身につまされるものがある。
2009.01.05
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