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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは常に見なれぬ鳥の来て軒のき遠からぬ樹に鳴きしとき志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいのは、日頃見慣れない鳥が来て家の軒先から遠くない樹で鳴いた時。
2009年01月31日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは尋常よのつねならぬ書ふみに画ゑにうちひろげつつ見もてゆく時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しみなのは、尋常ならざる傑出した書に絵画にと、うち展(ひろ)げながら次々と目を運んでゆく時。
2009年01月31日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは意こころにかなふ山水やまみずのあたりしづかに見てありくとき志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しみは、意に適う山や川や庭園のあたりをしづかに見ながら散策する時。
2009年01月30日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつづけて煙艸たばこすふとき志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいのは、心に浮かんで来るさまざまな思いつきを思いつづけて煙草を吸っている時。
2009年01月30日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは朝起きいでて昨日きのふまで無かりし花の咲ける見る時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいことは、朝起き出してきのうまで無かった花が咲いているのを見つけた時。
2009年01月30日
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ドイツのクレッチマーが提唱し、シェルドンなどにより若干修正された、人間の「性格の3(2+1)分類」は、皆さんも聞いたことがあると思うが、心理学や精神医学の基礎的定説として広く認められている。文学などに興味がある者なら必須科目といえるし、それ以外の人でも、知っておくと人間理解に役立ち、重宝である。なお、現在の精神医学・犯罪心理学などの中では非常に精緻に再構成されており、人格障害との「ボーダーライン(境界例)」などの語は、凶悪犯罪者などに関してメディアでもよく使われる。こうした最新の知見は、精神科医、心理学・カウンセリング関係者必携の「DSM-IV(精神疾患の分類と診断の手引き・第4版 Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders / Fourth Edition)」にも含まれる。ただ、生まれつきの気質に関することであり、基本的には一生変わらないとされていることもあり、特に精神病質者の基本的人権と予防拘束問題などにからんで、こういう観点で人間を分類すること自体に根強い反対(いわば、思想的・政治的反対)意見が存在することも事実である。したがって、しろうとの方が傍目八目で、発言しやすい面もある。しかし、われわれ一般人の生活を通しても、以下の分類がおおむね妥当であることは日々経験するところである。【やせ型=分裂性気質・内閉性】基本的特徴: 非社交的、もの静か、用心深い、きまじめ、変わり者 敏感性の場合: 臆病、恥ずかしがりや、繊細、敏感、神経質、興奮しやすい、自然や本を好む 鈍感性の場合: 従順、おひとよし、無関心、鈍感 【肥満型=躁鬱性気質・循環性・同調性】基本的特徴: 社交的、親切、温かみがある、善良 敏感性: 明朗、ユーモアがある、興奮しやすい、活発 鈍感性: 静か、無口、落ち着いている、柔和 【筋肉質型=粘着性気質・癲癇性 (分裂性の一種とされる)】基本的特徴: 熱中しやすい、几帳面、秩序を好む、頑固 敏感性: まわりくどい、人に対して丁寧、仕事は確実だが手早くやることは苦手 鈍感性: 時に激しく興奮したり、爆発的に怒り出す 引用 : 山田ゆかり 1992 以上の気質(いわゆる“性格”)と体質との連関については、生物学の発生論的な説明もなされているが、本質的には遺伝的な内分泌系のホルモン分泌(の過剰・不足などのバランス)が根本にあるものと見られているが、割愛する。この分類は、生物学でいう分類のように厳密な線引きはできず、むしろいくつか混ざり合っているほうが常態であるとされる。詳細に説明したら時間と紙数がいくらあっても足りないので、興味がある方は、あなたはシゾフレ人間かメランコ人間かなどをお読みください。ここでは、骨子にごく簡単に触れるにとどめる。分裂性(統合失調性)気質は、内閉性気質とも言い、優れた思想家、詩人・芸術家などが多い。現代日本を代表し、私も畏敬している詩人・谷川俊太郎の作品群が、典型的なこの気質の頭脳の産物であることは明らかだと思う。その他、やはり詩人の吉増剛造、女優・中谷美紀、世界的モデルでダンス・パフォーマーの山口小夜子などもそうだろう。この気質は古くから、変わり者だが魅力的なものとしても見られてきた。英語のシゾイド schizoid、ドイツ語のスキゾなどとしてもよく知られ、精神的に“トランスポゾン(神出鬼没)な存在”などとして他の人文科学の概念としても援用される。この気質が極端に昂じて病的となったのが、統合失調症(旧・精神分裂病、シゾフレニア)である。躁鬱性気質(の敏感型・発揚型、軽躁型)は、分かりやすく言えば、みのもんた、石塚英彦、東ちづるなどが典型。文学者では、ゲーテ、バルザックなど。作品は、ユーモア・人間味のある、面白いものが多いが、通俗に流れ深みに欠けるきらいがあるといわれる。昂じれば、躁鬱病(躁病および鬱病)になる。「鬱病」の英語メランコリア、メランコリック(憂鬱な)はよく知られている。なお、筆者くまごろうもこの型が優位(若干分裂性含み)であると思われる。躁鬱性気質の人は、分裂性気質の異性に引かれるとされる。山口小夜子さまは、まさに僕の女神である。粘着性気質は、分裂性の大きな分枝とも見られ、スポーツマンに多い。努力と信念の人である。指向性は固着し、軽妙なユーモアは苦手分野である。またいわゆる真面目でお堅い職業といわれる警察官、銀行員、役人、自衛官、研究者などに多い。また逆に、“任侠関係”の方の気質を支配しているのもこの気質である。伝説の漫画「巨人の星」は、作者梶原一騎がこの型であったことを反映して、主人公星飛雄馬は中心的な粘着性そのもの、親友伴宙太はやや躁鬱性寄りの粘着性、好敵手花形満はやや分裂性寄りの粘着性といった感じで、この気質の人間性のオンパレードであった。芸術家では、大文学者を輩出している。ドストエフスキーが典型であり、しかもこの気質が昂じると現れる癲癇(てんかん)持ちでもあった。近代哲学の祖カントやヘーゲルなどもこの型である。なお、小泉純一郎前首相は典型的な粘着性であるという玄人筋の見方が、よく新聞紙面を賑わせた。この他、顕示性性格や、神経質性格などが知られているが、これは生育歴などの後天的なものであり、精神医学的にはその扱いは揺れているようである。そして、やっと本題に近づいたのだが(笑)、この粘着性気質の特徴を強めた上に分裂性の特徴を加味したような感じの、偏執性気質(パラノイド)というものが存在する。闘争的であり、自我拡大感を持ち自信満々、思想や信念の権化であり、自説を絶対に曲げない、疑い深く、“自分以外はみんな敵”みたいになりやすい。その信念は、論理的に支離滅裂ではなく整合性がありすぎるほどあり首尾一貫しているが、どこかピントが外れているとの感を周囲に抱かせ、周りを振り回すこともあるという。これが昂じると偏執病(パラノイア)になる。このタイプの頭脳が優秀であった場合(性格と知能は別個のものであり、直接の関係はない)、政治や宗教において大組織の独裁者となり、大きな災厄をもたらすことがあるといわれ、歴史的実例は枚挙にいとまがない。原因としては、内因的要因に加え、ネグレクト(育児放棄)や性的なものを含む幼時の虐待歴との関連も指摘されている。浅田彰「逃走論」では、スキゾ(分裂性)人間をよしとし、パラノ(偏執性)人間の営々として築き上げる硬い構造の制度からは逃走すべきものとして捉えている。偏執性の者は作家にはかなり多く、このタイプの人が持つ果てしない自我意識と猜疑心/疑心暗鬼などは、遠くで見ている分には面白く、長編小説を書く者の必須の資質とさえ言われている(文芸評論家・福田和也慶大教授の「作家の値打ち」)。桐野夏生の前人未到の小説世界はパラノイア的とも評される。笙野頼子の一種悪魔的な世界もこのタイプの頭脳の産物である。一般人でも、自己の正当性を執拗に主張して裁判に明け暮れたりすることがあり、好訴症とよばれる。山本有三「路傍の石」の主人公の少年・吾一の父で没落士族のろくでなし男も、この典型である。坂東氏の今回の一連の言動、固着的思考と激しい自己主張は、この偏執性気質の発作そのものだ。さらに、氏のこれまでの作品をひもといて分かることは、指向性が“死”に固着している。精神病理学的に言うと、「タナトフィリア(死愛好症)」の傾向があることは明らかであろう。さらに深層心理学的にいえば、エロスが死体や汚物に固着した「ネクロフィリア(屍体愛好症)」の傾向も否定できないであろう。これもまた、その猟奇的なイメージと暗いロマンチシズムが文学とは馴染みがいいのか、推理(探偵)小説の祖エドガー・アラン・ポーや「悪の華」のシャルル・ボードレールをはじめ前例は少なくない。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のラストシーンや、ハムレットで川を流れていくオフィーリア姫のイメージ、また「眠れる森の美女」のイメージなどの深層にもこれが潜在しているとされる。坂東氏も「眠れる美女」に関して著作が多い。またそのものズバリ「死国」というタイトルの人気小説をはじめ、一貫して死人のイメージが中核にある作品群を展開している。これは、死への衝動であるということもできる。猫を殺すことで、自分も死ぬような苦しみを味わっているという弁明(?)は、案外本音であると受け取ることが可能だ。次々と子猫を殺すことは、眼前に死を出来(しゅったい)させるということである。崖の下を、死で埋め尽くすことである。この辺りは、お読みの通り、かなり差し障りのある部分であり、しろうとがあまり断定的なことを書くのは厳に慎むべきことであろうからこの辺で筆を擱くが、いずれにせよ、まず、死/殺しへの止みがたい衝動があり、あれこれ倫理的なことやエコロジカル(環境学的)な論理を振り回していることは、たぶん“後付けの理屈”なんだろうな、と強く感じさせたのが、今回の顛末であったといえるのではないか。
2009年01月30日
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直木賞受賞者で、原作が続々映画化されている人気作家・坂東眞砂子氏が、日本経済新聞の2006年8月18日(金)付夕刊コラムに発表した、「子猫殺し」をモチーフとするエッセイが、轟々たる反発を招き知識人の発言も相次いでいる。発端となった坂東氏の文章をはじめ、数度に亘る弁明の全文、全経緯、知識人らの反応についてはネット掲示板「鬼畜 子猫殺し・坂東眞砂子」(すでに削除)に詳細にまとめられている。いかにもネット掲示板らしく、一部ガラの悪い表現も散見されるが、反対意見や擁護する意見も含め、非常によくまとまっており、これを一読すれば問題の全体像がほぼ完璧に掴める。大変な労作だと思う。私は、動物好き、わけても猫好きにかけては人後に落ちない。祖母・母が猫好きであったため、物心ついてからずっと、家には猫がいた。現在幼い3人娘の養育中のため猫は飼えないが、今でも野良猫を馴らす名人であると自負している。「捨て猫」が昔からあり、現在も後を絶たないことはもちろん承知しており、(怪しからぬことではあるが)中にはやむにやまれず捨てるという例もあるかも知れない。捨てることは、結果として死なせることが多く、ほぼ同じだという意見もあるが、やはり直接の意思を以って投げ捨て、殺すこととは天と地の差があるだろう。猫好きの感情論で言えば、言語道断の非道であり、“許されざる者”であり、ありえない話だ。品悪く言えば、胸くそ悪く、虫唾が走るが、しかしこれでは大人の議論にならない。この際個人的な感情の偏移(バイアス)は極力排除すべきであろう。この問題に関する私くまごろうのスタンスは、オウム追及で知られるジャーナリスト・江川紹子さんの長文のブログ記事が、さすがに命というものへの洞察に溢れ、情理を尽くして見事であり、これに尽きる。100%同感といってもいい。この問題と直接の関係はないが、私は坂東氏と同世代であり、同時代(コンテンポラリー)の空気を呼吸して生きてきた者である。彼女の言っていることに違和感を覚えながらも、そういう方向に捻じ曲げられ、偏った主張と感性を持つに至った背景にあるものは、多少なりとも朧気ながら腑に落ちるものがあるのも事実である。僕たち(と言わせてもらうが)の多感な思春期だった1970年代は、政治にも社会状況にも文学にも演劇・映画にも、暴力と恐怖(テロル)、憎悪(ルサンチマン)と退廃(デカダンス)、無秩序とアナーキズムの嵐が吹き荒れていた。鋭敏・繊細な感受性を持つ者ほど、多少気が変にならない方がどうかしていたといってもいいだろう。こうした時代に埋没しそうな(大げさに言えば)魂の危機と救済を、僕らより6~7歳上の世代の東京のお兄ちゃんで、おそろしくオシャベリな東大受験生の視点から、“饒舌体”と呼ばれた独特の文体で描ききった清冽な青春小説の名作に、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」をはじめとする“薫くん4部作”がある。中学3年生の僕はこの小説を熟読玩味して栃木県の読書感想文コンクールで上位入賞するとともに、完全に人生を狂わされた(笑)。――さて、問題の“告白”は、避妊手術を受けさせずに飼っている3匹の雌猫に次々と生まれる子猫を、在住しているフランス領タヒチの森の崖から、ことごとく投げ捨てて殺しているという。このことを自ら公表して非難を浴びると、「死の意識が生を充実させる」というような、実存主義的な論理を以って応じている。また、子猫を殺すことで自分も死ぬような苦しみを味わっているという、分かったような分からないような、一種の弁明(?)をしている。さらに、避妊手術はナチスドイツや昔の日本政府がハンセン病患者に強制した断種手術と同じだという。フランスの動物愛護関係の法律が適用されそうなことについては、「言論弾圧」という強い言葉を用いて反駁している。完全な、確乎たる“思想犯・確信犯”である。なお、この“行為”は弁明文などから見て事実のようであるが、仮にフィクションだとしても、有力な作家として一つの“fact”を公に呈示した責任は全く変わらず、問題の本質に影響しない。・・・ところで、なるほど彼女も知識人らしく、読書好きから見ると現代思想として一部、全く分からないでもない論理が含まれてはいる。人間だけがアクセスできる“死の意識(人間である自分は、有限な時間の中に生きており、死に向かっているという意識)”が、実存(目覚めた人間・意識)の胚珠であり、前提条件であるとする実存主義思想は、キュルケゴ-ルに始まり、マルティン・ハイデガーによって大成され、ジャン・ポール・サルトルによって“おフランス軟派芸術論”風に展開され、フロイト、ユングの深層心理学、果てはマルクス共産主義も加えて、20世紀後半の先進諸国の思潮を支配した。現代の芸術は、分野を問わずこれに著しい影響を受けており、それをさらに一ひねりして展開したのが哲学や小説におけるポストモダーンの構造主義であったろう(過去形)。いずれも、生(性)と死のコンセプトは避けて通れず、それがない作品は「星菫派(せいきんは。星よ菫よ)」の少女趣味“学芸会”か、人畜無害の「花鳥風月」道楽と見なされ、フフンと鼻で笑われるのが落ちである。現代芸術家は、偽悪を気取ってさえこうしたテーマやディテイルを追求せざるを得ない。ついでに言えば、太平洋の離れ小島タヒチは、印象派の中でも特に自然回帰派の画家ポール・ゴーガン(ゴーギャン)がフランスの文明社会から逃れるように移り棲んで思索に励み、大作「われわれはどこから来てどこへゆくのか」などを描き上げた島である。この世の楽園とも称されるが、何ほどか、生や死にかかわる根源的な問いに直面するような風土なのかも知れない。例えばそのコンセプトを描ききった典型は、現代日本文学が到達した一極北と評される、桐野夏生グロテスク(上)、グロテスク(下)である。最近文庫版になった。興味がある方は、このアフィリエイトでどうぞ。 ・・・というわけだが、だからといって、“子猫を殺して生の充実を図る”云々の論理(?)が通るはずもない。似て非なる事柄である。全く牽強付会、我田引水、支離滅裂な植草、いや言い草の詭弁と言わざるを得ないだろう。実存主義が言っているのは現存在(人間)プロパーの意識についてだからだ。さらに、そもそも思想・論理のために生き物を殺すということが成立しうるのか。日本人の感性では、ハナから違和感を感じることである。こうしたことに思いを至すと、きわめて多くのことが頭に浮かび、こりゃキチンと書こうとしたら大変なことになるわいと、いささか後悔し始めている(笑)。――Nothing to kill or die for.(そのために殺したり死んだりする何物もない) ジョン・レノン「イマジン」宗教を含む思想信条、国家などを含む制度のための殺人を言い出したら、宗教戦争、テロリズムの歴史からおさらいしなければならない。いくらなんでもそんな悠長なことをしている暇はない。近年の思想・宗教のための殺人で真っ先に脳裏をよぎるのは、言うまでもなく9.11ニューヨーク同時多発テロであり、オウムによる大量殺人事件であり、それ以前で言えば共産主義過激派による一連の内ゲバリンチ殺人事件などである。これらについて総括的に捉えた名著としては、探偵小説作家で世界的な哲学者・笠井潔のテロルの現象学がある(あんまり興味のある人もいないと思うが)。要するにテロリズムとは、思想(本人の意識では「正義」)のために行う、必中必殺の殺人である。またその他の(戦争状態などでの)組織的殺人も同様である。――何の話をしてるんだ、子猫殺しの話題ではないのか?とツッコまれるかも知れないが、たぶん混乱しているのは私ではなく坂東氏の方である。彼女の精神構造の中では、まさにこうしたことがゴッチャになっているのだ。子猫を殺すことによって、思想を実践している。ある種の意識の変革を遂行しようとしている。ダシに使われている子猫が哀れである。つづく To be continued.
2009年01月29日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは空暖かにうち晴れし春秋はるあきの日に出いでありく時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しみは、空も暖かくうち晴れた春秋の日に出歩く時。註ありく:現代語「歩く」の語源である古語だが、雅語として用いる場合は、「あちこちそぞろ歩く」「散策する」のニュアンスが強い。
2009年01月28日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみはものを書かせて善き価あたひ惜しみげもなく人のくれし時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいのは、揮毫をさせて高価な礼金を惜しむ様子もなく人がくれた時。
2009年01月28日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは妻子めこむつまじくうちつどひ頭かしらならべて物をくふ時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいのは、家族睦まじくうちつどい頭を並べてものを食べている時。
2009年01月27日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは百日ももかひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出いできぬる時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいことは、百日苦吟しても出来かった和歌がふと面白く出来てしまった時。
2009年01月27日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外ほかに能よくかけし時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいのは、和紙を広げて執る筆が思いのほかに闊達に書けた時。
2009年01月27日
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くまんパパ 「短歌人」2月号掲載作品切り取つた潮うしほに包囲されてゐるアクアリウムの冥くらき階梯きざはし *1赤裸なるホモ・サピエンスひたぶるにレンズを磨くスピノザの冬魅死魔いふ「死こそ完成」からからと笑ひし般若「虚体」となりつ *2冬よ来よ吹雪荒ぶれ人間は秋に生まれて冬を越え来ぬ *3「生きとし」の文法的な構造はいかなるものか古語辞典引く僕たちもなるほど「わけの分からないことで悩んでゐるうちに」だね *4*1 「短歌人」誌上では、「くらき」は「杏」の下部の「口」の部分が「日」になっている字を用いましたが、ネット上には見当たりませんので、やむなくこの形で掲載します。*2 三島由紀夫と埴谷雄高(本名・般若豊)/埴谷雄高「死霊」*2 杉山隆「人間は秋に生まれた」/杉山氏は、短歌結社「コスモス」所属の夭折した歌人。当地・宇都宮出身。*3 岡本修巳「襟裳岬」(森進一、吉田拓郎)著作権を有します。© 2009 Kumanpapa Daddy Bear All rights reserved.
2009年01月27日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは珍しき書ふみ人に借りはじめ一ひら広げたる時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しみは、貴重な書物を人から借り初めに一頁を広げた時。
2009年01月26日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみはすびつのもとにうち倒れゆすり起こすも知らで寝し時志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎん楽しいのは、炭櫃(すびつ)の傍に寝そべって揺すり起こすのにも気が付かないで寝込んでいる時。註炭櫃:大型の、暖房・湯沸し用の火鉢。
2009年01月26日
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けっこう歴史は好きな方だけど、直江兼続(なおえ・かねつぐ)なんて武将、これまで名前ぐらいしか知らなかったし(・・・今もよく知らない)、全然期待してなかった今年のNHK大河ドラマだったのだが、3回目、4回目のオンエアを見て、早くもハマってしまった(・・・初回、2回目は見逃した)。疾走感と爽快感のあるダイナミックなテーマ曲、いいっ!!歴代大河ドラマのテーマ曲の中でも、5本の指に入る名曲ではないだろうか。ちょっと黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(音楽:佐藤勝)を思い出した(・・・ジョージ・ルーカス監督が「スター・ウォーズ」シリーズの下敷きにした日本映画)。勇壮で華麗なファンファーレから始まって、ドイツロマン派的な疾風怒涛と甘美なバラード風のモティーフを展開していく曲の構成は、映画史上の不朽の名作「ベン・ハー」(ウィリアム・ワイラー監督)のテーマ曲(音楽:ミクロス・ローザ)のテクスチャーを思わせる。タイトルバックの、実写と組み合わされたCG映像、スゲ~っ!武田双雲の「天地人」の題字、カッコいいっ!大の男が、も~これだけで若干ウルウルしちゃう~^^;ドラマの方はまだ始まったばかりで、状況・人間関係の説明と“若い頃の苦労は買ってでもせよ”的な逸話ってところで、まだまだこれからだが、今後大いに期待できそうだ。生き生きした、ヴィヴィッドな躍動感溢れる演出も、第一級であると見た。主演の妻夫木聡をはじめ、常盤貴子、北村一輝、阿部寛などなど抜群のハマリ役揃いで、見てる方もノリノリ~っ!役名や話の流れから見ると、今後、宍戸錠が義理のお父さんになるってことかな~?それも面白い展開だね~。ただ、要所要所で「これはしたり」という決め台詞が目立つな~。「利家とまつ」の時の信長の「・・・である」みたいな感じ?・・・ど~も、今後これが口癖になっていくような、ちょっといや~な予感もするね~■NHK大河ドラマ「天地人」オフィシャルウェブサイト
2009年01月26日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)たのしみは艸くさのいほりの莚むしろ敷きひとりこころを静めをるとき志濃夫廼舎しのぶのや歌集 独楽吟どくらくぎんたのしみは、粗末な草庵の筵を敷いて座り込んで独り心を静めているとき。註橘曙覧:夙(つと)に近代的感性を持ち、「月並和歌」ではない「近代短歌」を準備したと、明治時代になって正岡子規が絶賛した、幕末・越前(福井)の歌人。昨年の大河ドラマ「篤姫」に、勝海舟の後ろ盾として登場した福井藩主・松平慶永(よしなが)春嶽(しゅんがく)にも称揚され、「志濃夫廼舎(しのぶのや)」の雅号を賜った。明治維新を思想的に準備した国学者たちの群像の一人でもある。仕官せず、生涯清貧を貫いた。なお、「あけみ」といっても、もちろん男ですから、念のため三人の男児の父で、今でいう「家族愛」を詠んだ歌が多数。家集「志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集」に収録された「独楽吟」連作52首は、ほとんど現代語訳もいらないほどの平明な表現ながら、まことに心温まる和歌史上の名作の一つである。僕の場合、読んでいるだけで、ほとんど法悦さえ感じる。本日から全文をご紹介する。 ■橘曙覧の世界奥村晃作 ただごと歌の系譜新井満 樂しみは 橘曙覧・独楽吟の世界
2009年01月25日
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女子マラソン・渋井陽子選手の、長くつらかったスランプからの完全復活に続いて、今度は大相撲初場所で、横綱・朝昇龍も完全復活を印象付ける堂々の優勝!おめでと~っ!!今日は、なんか「復活」「蘇り」の大吉日なのだろうか?・・・カレンダーを見てみたら、確かに「大安」なのでした~品格や素行(?)面で、総攻撃のバッシングを受け続けて来た横綱だったが、ついに勝負師の意地を見せつけてくれた感がある。だいたい、品性だの人柄だのがいくら良くったって、勝負の世界ばかりは強くなくっちゃ何の価値もないものね~。勤め人とは違うよね。千代の富士だって、初代と三代目の貴ノ花/貴乃花あたりだって、僕が知る限り、現役時代にはけっこう性格はキツかったよ~。その後、親方になって多少丸くなったかも知れないけど。勝負の世界で頂点を極める男が、そうそうニコニコばかりしてるわけはないよね。猛々しいぐらいでちょうどいいんじゃないだろ~か。モンゴルから単身異国に渡って来て孤軍奮闘の努力をしている彼に、僕はずっと同情的だったんだよね~だから今回は、心からおめでと~!!と言いたい気分なのです~
2009年01月25日
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先ほど開催された大阪国際女子マラソンは、いずれも当地・栃木県出身の渋井陽子(那須塩原市出身)、赤羽(あかば)有紀子(芳賀町)、原裕美子(足利市)の3選手のワン・ツー・スリー・フィニッシュで、本県勢が表彰台を独占する快挙を成し遂げた。やったね~っ!本当におめでとうございます~っ!!栃木の誇りだ~っ!栃木県民としてすごく嬉しいし、ある意味、鼻が高いよ~・・・僕もけっこうそうだったけど、栃木県民は子供の頃、野山を駆けめぐって育ってるから、もともと長距離競技には向いてるのかもね~(・・・ま、要するに田舎だから~)昨年11月の東京国際女子マラソンで4位に甘んじた渋井陽子(29、那須拓陽高―三井住友海上)は、2時間23分42秒で8年ぶり2度目の優勝を果たし、8月の世界選手権ベルリン大会の代表に内定した。初マラソンの赤羽有紀子(29、真岡女子高―城西大―ホクレン)は2位だった。3位に原裕美子(27、宇都宮文星女子高―京セラ)が入った。前半はスローペースで進んだが、渋井は29キロ付近でスパートして逃げ切った。渋井選手は、これまで苦しいスランプの時期が長かっただけに、喜びも一入(ひとしお)で、レース後に感極まってあふれ出た涙が美しかった。インタビューでしゃべり始めると、名は体を表わすということわざ通り、一転して“陽気”な“陽子節”が炸裂~っ!彼女の周りは朗らかな笑いに包まれた
2009年01月25日
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いささか旧聞に属する話で恐縮なのだが、先日の読売新聞18日付日曜版(「あたしンち」が連載されている版)の最終面の隅っこの「編集室から」というコラムに、鈴木美潮さんという人気女性記者が「字が書けなくなる恐怖」という記事を書いていた。それによると、鈴木記者いわく、「宅配便を送ろうと、コンビニで伝票を記入していた時のことである。なんと、字が書けないのだ。正確に言えば、他人が読める『きちんとした文字』が書けないのである。伝票には小学生の落書きのようにゆがんだ漢字が並ぶ。とても大人の書いた文字には見えない。しかも、何件か住所を書くと、手が痛い。書くための筋肉が退化した感じなのだ。原因は、わかっている。パソコンや携帯電話で文字を「打つ」ことになれてしまい、文字を「書く」機会が激減したからだ。同じ原因で「漢字を忘れた」ことは認識していたが、忘れるどころか、字が書けないとは、驚きを通り越して、空恐ろしくなった。」・・・と、ここまで読んで、ブルータスお前もかよっ!と、はたと膝を打った。よくぞ書いてくれたと思う。共感と苦笑いが止まらない。Because,まさに僕も同病相哀れむの口だからだ。文章を書くのが商売の新聞記者にしてこうなのだから、我々一般人の惨状は推して知るべしである。この頃本当に字がヒドイ。マトモな字が全然書けなくなってしまったこれって、けっこう内心ショックだよね~。もう何年も、まとまった字を「書く」機会なんてほとんどない。せいぜい、ちょこっとしたメモぐらいか。ほとんどパソコン内蔵のワープロやメモ帳などに頼りきっている。このブログだって、各方面から饒舌さをからかわれたりしていて恐悦至極だが、直接キーボードで打っている。短歌などの参考資料はあるが、原稿はもとより、メモすらない。いわばアドリブである。字を書く筋肉や、局部的な運動神経(?)みたいなものが退化してしまったのだ。一流のピアニストは、1日弾かなければ腕が落ちると聞いたことがある。・・・例えに挙げるのも、ちとおこがましいが深海魚が、しばしば目が見えないのと一緒だ。使わないものは退化する。幼稚園児の娘が、ぼちぼち自分の名前ぐらいは平仮名で書けるようになってきたが、その字といい勝負って感じだ~(・・・これはちと誇張が過ぎるか~?)。特に最近痛感したのは、年賀状の宛名書きである。裏面は、もちろんパソコンの作成ソフトで作ったが、宛名ぐらいは肉筆で書こうと思って取り掛かったところ、あまりのヒドさに唖然呆然!僕は歌詠みの端くれである。送り先には一流歌人のお歴々も少なくない。当然のことながら、皆さん非常に達筆であらせられる。ま~なんとかかんとか気合を入れて乗り切ったけどね~、本当に冷や汗ものだったよ~実は、僕だけのことかと思って、密かに悩んでいたのだった。髪の毛の薄い方の密かな苦しみがよく分かった。だから、この記事を書いてくれて嬉しかったですよ~ん。ありがと~、鈴木記者~っ
2009年01月24日
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おととい18日(日)の朝写す。近所の日蓮宗のお寺の若いお坊さんたちが、行衣(ぎょうい)に身を固めて、団扇太鼓(うちわだいこ)を街じゅうに鳴り響かせながら、この寒空のもと、元気に托鉢(たくはつ)に繰り出して行きました。わが家は浄土宗なので詳しくは知りませんが、これは日蓮宗の節分前の行事らしく、毎年この時期の風物詩です。こういった行(ぎょう)を称して、俗に「だんだん良くなる法華の太鼓」と言いますが、この「なる」は、「鳴る」と「成る」が掛けてあるそうです~♪
2009年01月20日
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待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ千載和歌集 802 / 小倉百人一首 80末長くわたしを思っていてほしいあなたのお心が分からず、黒髪が乱れるように今朝は心も乱れて物思いに沈んでいるのよ。註長からむ心:文法的にはなかなか難解で、助動詞「む」のニュアンスをどう見るかで、解釈がいくつかに分かれる。普通に「推量」の意味と見れば「末長いであろうあなたの心」だが、「婉曲な願望」と見れば、上記訳出のような意味になる。一応後者と見ておく。ただ、いずれにしても、その「心も知らず」であるから、男の心を疑っていることには変わりはない。「長かり」「乱る」は、いずれも髪の縁語であり、心象を象徴させている。きわめて技巧的な一首。
2009年01月19日
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藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどはおもかげぞたつ新古今和歌集 1389かきのけたその黒髪の一筋一筋に至るまで、独り寝ている時には面影が浮かぶのだ。
2009年01月19日
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和泉式部(いずみしきぶ)黒髪のみだれもしらずうち臥ふせばまづかきやりし人ぞ恋しき後拾遺(ごしゅうい)和歌集 755黒髪の乱れにも気づかずに横たわっていると、初めてこの髪をかき撫でてくれた人が恋しくて仕方がない。註恋愛の名歌。まづかきやりし人:初めてかき撫でてくれた人、すなわち「初恋の人(ファースト・ラヴ)」であるとするのが普通であろうが、一説には、己の半生を省みて「親」を偲んでいるのだという穿った(禁欲的な?)解釈もある。「まづ」が「かきやり」ではなく、「恋し」に掛かっているとする見方もある。一理ある。この場合は、初恋ではなく最近の恋(?)ということになり、全くニュアンスが変わってくる。どちらが妥当かは不明。
2009年01月18日
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若山牧水(わかやま・ぼくすい) 第一歌集「海の声」より安房あはにて忍びかに白鳥しらとり啼なけりあまりにも凪なぎはてし海を怨ずるがごとああ接吻くちづけ海そのままに日は行かず鳥翔まひながら死うせ果てよいま接吻くちづくるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ夕やみの磯に火を焚たく海にまよふかなしみどもよいざよりて来よ春のそら白鳥まへり觜はし紅しついばみてみよ海のみどりをくちづけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る第一歌集「海の声」(明治41年・1908)註この歌に読まれているのは、当時、牧水と熱烈な恋愛関係にあった園田小枝子という女性。
2009年01月17日
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若山牧水(わかやま・ぼくすい)白鳥しらとりはかなしからずや空の青海のあをにも染そまずただよふ第一歌集「海の声」(明治41年・1908)註僕は若山牧水が大好きである。第一歌集「海の声」などを読んでいると、清冽な抒情とロマンティシズムの塊が連なっており、どれを取ってみても名歌だと思う。いったいどこから、これほどの珠玉の言葉が続々と湧き出して来るのかと、いささかいぶかしむほどである。アルコールが大好きで、日ごと日本酒の文字通り一升酒やらウィスキーのお湯割りなどを飲みながら、次々と名歌を繰り出したと伝えられる言うまでもなく、稀に見る天才である。上古語から現代語までを自在に往還しつつ、明治・大正当時としては、最尖端・最前衛といってもいいような言葉の実験も試みている。わたくしごとだが、僕の祖父母は戦前、根岸アララギ派系の下手な写実短歌を詠んだりしながら、地元歌壇(下野歌壇)の事務局的立場でもあり、牧水とも交流があったらしい。・・・羨ましいと同時に、ちょっと誇らしい。
2009年01月17日
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明治天皇睦仁陛下 御製(おおみうた、ぎょせい)あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな明治37年(1904)初冬新緑のように生き生きとした青色が澄みわたった大空の広大無辺を自分の心と出来たらなあ。註欧米以外で初めてこの国に偉大な近代化を齎した英邁なる君主にふさわしい、まことにおおどかで気宇壮大な名歌。「明治天皇御集」明治37年の御製の前後の配列から見ると、初冬(年の瀬)の作品と見られる。もがな:詠嘆を込めた強い願望を示す終助詞。「・・・であったらなあ」「・・・と出来たらなあ」。願望を表わす上古語終助詞「もが」に、詠嘆の終助詞「な」が付いたもの。上代では「もがも」の形で、万葉集などに頻出する。この語尾の「も」も詠嘆。
2009年01月17日
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木下利玄(きのした・りげん)街をゆき子供の傍そばを通るとき蜜柑みかんの香かせり冬がまた来る歌集「紅玉」(大正8年・1919)
2009年01月16日
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江戸狂歌門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし註一休宗純作とも伝わるが、疑わしい。出典は、平賀源内「根無草(ねなしぐさ)」。
2009年01月14日
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全くの私ごとであるが、伯母(父の姉)が、11日(宇都宮初市の日)の深夜亡くなった。享年89歳(90歳目前)だったので、平均寿命が延びた現在でも、まあ大往生の部類だったといえるだろう。父と私の二人で看取った。まことに穏やかな死顔だった。戦後、大手生命保険会社の保険外交員として口八丁手八丁で活躍し、当時の言葉で言えば「職業婦人」の嚆矢(はしり)のような人だった。陽気で話上手で、すごく快活な人だった。葬儀に集まってきた兄弟たちも、口では伯母がナンバーワンだったと苦笑いしていた。俳優座の大女優だった故・杉村春子さんあたりを思い浮かべてもらうと、割と感じが掴めるだろうか。顔までちょっと似ていたように思う。僕は子供の頃からミョ~に馬が合い、親類の中でも特に可愛がってもらい、思い出もたくさんある。占いや迷信めいたものがけっこう好きなのが玉に瑕(きず)で、今でいう細木数子のような言説もしばしば弄したが、話半分に聞いてる分には楽しかった。・・・寂しい今夜通夜、明日本葬と決まった。身内親戚のほとんどが東京や横浜に行ってしまっているので、こういう時のさまざまな段取りの負担は、全て地元在住の父や僕に掛かって来る。・・・まあ、地元に残っている者の義務だとは心得ているが、なかなかつらいよ* なお、親の兄・姉をいう場合は「伯父・伯母」と書き、弟・妹の場合は「叔父・叔母」と書きます。いい大人が知らないと、恥をかくかもよ~。・・・ミニ・トリヴィアでした
2009年01月13日
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大阪在住の楽天ブロガー仲間 magadelanroseさん にご教示いただいたのですが、「商売繁盛で笹持って来い」の掛け声で知られる、通称「えべっさん」こと大阪・今宮戎(いまみやえびす)神社の新春の行事「十日戎(とおかえびす)」が、1月9日~11日の3日間、盛大に執り行われました(9日「宵戎」、10日「本戎」、11日「残り福」)。■朝日新聞「大阪・今宮戎神社の『十日戎』」・・・うわ~、福娘たち、きれい! かわいいっ! 付き合いたい!
2009年01月13日
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当地、栃木・宇都宮の“厄除け”郷土民芸玩具「黄鮒(きぶな)」と昔懐かしい「でんでん太鼓(豆太鼓)」 11日夜写す。
2009年01月12日
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楽天ブロガー仲間の finesさん にご教示いただいたのですが、きょう1月11日、北海道の漁師町では広く「船魂祭(ふなだまさい)」という行事が行なわれるのだそうです。僕は全くの初耳でしたが、検索してみたらいろいろ出てきました。表記は「船玉祭」でもいいようです。また新暦の1月11日に行なうところと、旧暦で行なうところがあるようです。読んで字のごとく、船の神霊に祈り、一年間の海上安全と乗組員の健康、豊漁などを祈願する行事だということです。この日は一切漁をしない習わしです。十勝地方の広尾町というところでは、街の無形民俗文化財に指定されているそうです。古式ゆかしく、あるいは色とりどりの大漁旗がひるがえる壮観。すばらしい伝統行事ですね~。勉強になりました~■漁師のお正月「船玉祭」■大漁旗の日■船魂祭の日■十勝メール――広尾メール
2009年01月11日
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当地・栃木県宇都宮市では、きょう1月11日、毎年新春恒例の初市(ダルマ市)で賑わっています。宇都宮初市は、遅くとも江戸時代以前からの数百年の歴史があり、旧・奥州街道の一部である市内中心部の「上河原通り」を歩行者天国にして開かれます。歴代の殿様、つまり藩主も、天下の奥州街道を一日限り町人に開放する許可を与えていたそうです。江戸期の初代藩主・本多正純が許可を与えた記録も残っているとのことです。ダルマのほか、おなじみの熊手や昔懐かしいでんでん太鼓、当地の厄除け郷土民芸玩具「黄鮒(きぶな)」などの縁起物を売っています。そのほか、飲食物・土産物・おもちゃなどの香具師(やし)さんの屋台が数百店、ズラ~リと並びます。現在のように不景気の時は「神だのみ」的な心理が働くのか、こういった縁起物の売れ行きは好調だそうです。 11日午後写す。
2009年01月11日
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西行(さいぎょう)冬枯れのすさまじげなる山郷やまざとに月の澄むこそあはれなりけれ玉葉和歌集冬枯れの荒涼とした光景の山里にただ月だけが澄み渡っているのが本当にじーんと心に沁みるなあ。■冬の月
2009年01月11日
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山崎方代(やまざき・ほうだい)たんぽぽを掘りとってきて正月の小屋にこもりて眼をほそめいる歌集「迦葉」(昭和60年・1985)註方代の歌の特徴は、下記リンクの(凄い)論者によれば、「自己と他者への傍観」であるという。なるほどと思う。言い換えれば、「無関心ではないが、非関与」「違和感ではないが、距離感」などと言ってもいいだろうか。確かに、多くの作品がオチのない自虐的一発芸のようでもあり、すっとぼけた、ある種ドライな感触に満ちている。しかし、それにも拘らず、どこか微かなユーモアが漂っており、しばしばハートウォーミングでさえある。などと、分析めいたことなんぞしてみてもしょ~がね~やという気も、若干しまくりである。これはもう、天性のものとしか言いようがないだろうね。・・・うう、パクりたい【関連リンク】■手土産に思いをこめる――山崎方代■山崎方代の「うた」――自他への傍観■私の気になる方代の「うた」たち■十六回目を迎えた鎌倉山崎方代忌――「自ら」が居させられてしまう「うた」■恋歌 恋句 23 山崎方代■山崎方代さんの歌
2009年01月09日
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石川啄木(いしかわ・たくぼく)いつしかに正月しやうぐわつも過ぎて、わが生活くらしがまたもとの道みちにはまり来きたれり。歌集「悲しき玩具」(明治45年・1912)註啄木の歌には、くどいくらいに、全ての漢字にルビ(振り仮名)が振ってある。また、改行・句読点も原文のまま。
2009年01月09日
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清原元輔(きよはらのもとすけ)姫小松大原山のたねなれば千歳ちとせはただにまかせてを見む後拾遺和歌集 437このたびお生まれになった常緑樹(エヴァーグリーン)の小松のようなお姫様は大原山の貴いお胤(たね)ですから、無限の千歳の将来はひたすら氏神様のご加護に任せてお見守りいたしましょう。註平安時代、当時の政界を席巻しつつあった藤原氏一族の姫君の誕生を、めでたい姫小松になぞらえて祝うとともに、ひたすらヨイショしている、なかなかに技巧的な一首。・・・いつの世も、ゴマすりはつらいよ清原元輔:歌人。才女・清少納言の父。一般的には、逆七光り?大原山:京都左京区大原野。藤原氏の祖神・春日大明神を祭る大原野神社がある。たね:「(姫小松の)種」と「(血縁の)嫡胤」をかけている。・・・清少納言の文才も、やはり一日にしては成らなかった?
2009年01月08日
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よみ人知らず芹せり 薺なづな 御形ごぎやう 繁縷はこべら 仏の座 菘すずな 清白すずしろこれぞ七種ななくさ註1362年の「河海抄」という随筆が初出か。秋の七種の歌は万葉集に見え、天下の山上憶良というれっきとした作者がいるが、こちらは古い俗謡か。南北朝時代の文人・政治家の四辻義成説もあるが、不明。いずれにせよ、野趣溢れ人口に膾炙した、なかなかの名歌と思われる。芹せり:せり科。薺なづな:あぶらな科。ぺんぺん草。花茎の塔(とう、あららぎ)が立ち、三味線の撥(ばち)のような果実を付ける。冬から早春の葉(ロゼット)を食べる。御形ごぎやう:母子草。きく科。繁縷はこべら:ハコベ。なでしこ科。仏の座:コオニタビラコ。きく科。菘すずな:蕪(かぶら)。あぶらな科。清白すずしろ:大根(あぶらな科)の美称。「蘿蔔」とも書く。
2009年01月07日
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赤染衛門(あかぞめえもん)春日野のけふ七草のこれならで君をとふ日はいつぞともなし家集「赤染衛門集」春日野の今日の七草摘みの好機を逃しては、あなたをお尋ねする日は、もういつとも知れないのよ~っ・・・あたしに明日はないのよ~っ!!註なんかシチュエーションが今一つよく分からないのだが、この女性は崖っぷちに追い詰められていて、今日がほぼアタックするラストチャンスらしい(?)彼女は上級貴族の子女の女房(にょうぼう、女官兼家庭教師兼秘書のようなもの)だったので、今で言うキャリアウーマンみたいなものだった。・・・恋をする暇も、そうそうなかったのかもしれない
2009年01月07日
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西行(さいぎょう)卯杖うづゑつき七種ななくさにこそ老いにけれ年を重ねて摘める若菜に山家集(さんがしゅう)卯杖をついて、毎年七草粥を祝っているうちに老いてしまったものだなあ。年を重ねて、摘んだ若菜で。註卯杖:正月初の卯の日に、魔よけの具として用いた杖。柊(ひいらぎ)、桃、梅、柳などの木を5尺3寸(約1.6メートル)に切り、2、3本ずつ5色の糸で巻いたもの。
2009年01月07日
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松永貞徳(まつなが・ていとく)おもふどち野べに出いでつつ春はつみ秋はをりとる七種ななくさの花家集「逍遊集」(江戸初期)思い思われる者同士で仲良く野辺に出かけて、春は摘み、秋は折り採る七草の花。
2009年01月07日
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正岡子規(まさおか・しき)あらたまの年のはじめの七草を籠に植ゑて来し病めるわがため歌集「竹の里歌」(明治37年・1904、子規没後刊行)
2009年01月07日
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橘曙覧(たちばなのあけみ)正月むつきたつすなはち華のさきはひを受けて今歳ことしも笑ひあふ宿志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集元旦が来た。だから、梅の華の祝福を受けて今年も笑い合う明るい我が家。註橘曙覧:夙(つと)に近代的感性を持ち、「月並和歌」ではない「近代短歌」を準備したと正岡子規が絶賛した、幕末・越前(福井)の歌人。昨年の大河ドラマ「篤姫」に、勝海舟の支持者として登場した福井藩主・松平慶永(よしなが)春嶽(しゅんがく)にも絶賛され「志濃夫廼舎」の雅号を賜った。明治維新を思想的に準備した国学者の群像の一人でもある。なお、「あけみ」といっても、もちろん男ですから、念のため三人の男児の父で、今でいう「家族愛」を詠んだ歌が多数。「独楽吟」連作52首は、和歌史上の最高傑作の一つだと思う。僕の場合、読んでいるだけで、ほとんど法悦さえ感じるほどだ。今後、追々ご紹介していきたい。ちなみに筆者は、歌詠みの端くれとして、深甚な影響を受けた。この「正月」は旧暦(太陰暦)なので、今でいう1月末から2月上旬頃に当たる。早咲きの梅なら、そろそろ咲く頃だ。正月むつきたつ:元日になること。ちなみに、「朔(ついたち)」は「月立ち」の音便。さきはひ:「幸い」の上古語。(神霊などに)祝福されること。ここではたぶん、(華が)「咲き」と掛けてある。宿:本居宣長の流れを汲む国学者らしく、ここでは万葉時代の上古語の意味で用いている。「屋戸」が語源で、「わが家」の意味。関連リンク ■橘曙覧の世界奥村晃作 ただごと歌の系譜新井満 樂しみは 橘曙覧・独楽吟の世界
2009年01月06日
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よみ人知らずわが君は千代に八千代にさざれ石の巌いはほとなりて苔の生すまで古今和歌集 343わが君は千代に八千代に悠久に、小石が育って大岩になって緑の苔の絨毯がびっしりと生えるまで。註もともとは、女から親しい男に向けた相聞歌(恋歌)風の、当時の一種の民謡のようなものを採録したと解されている。古今和歌集の「よみ人知らず」は、その種のものが多いといわれる。しかし、初の勅撰和歌集である古今和歌集の賀歌(新年の祝いの歌)の部の劈頭に、撰者・紀貫之らによって配置され、延喜5年(905)4月、醍醐天皇に奏上した時点で、「わが君」の指し示す内容は「日本国天皇」の意味に確定した。このおよそ100年後、藤原公任(きんとう)編「和漢朗詠集」に、一句目を「君が代は」として収録された。この形で人口に膾炙し、薩摩琵琶の古謡などの歌詞として長らく伝承されていたのを、明治3年、元・薩摩藩士だった海軍首脳部高官らが取り上げ、多少の曲折を経たのち宮内省雅楽寮に持ち込まれ、林広守(1831-1896)作曲の古式ゆかしい雅楽調の旋律を付けて、宮中において明治13年(1880)11月3日初演。この歌詞・楽譜は明治21年(1888)、国家的礼式を定めた「大日本礼式」の中で「Japanische Hymne(「日本国歌」、ドイツ語)」として、海軍省が公式に各条約締結国(先進国)に配布、国際的に認知された。この一連の過程に亘り、当時の文部省は全く関与しておらず、独自の国歌制定を模索していたが、明治20年ごろから各学校独自の判断で広く「君が代」が愛唱されるに至ったので、明治26年8月12日「文部省告示第三号」で、「祝日大祭日歌詞並びに楽譜」として官報で公布、事実上追認し今日に至っている。
2009年01月05日
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東京で間もなく1月17日(土)に封切りになる、純然たるアメリカ製のハリウッド映画(!)「ラーメンガール The Ramen Girl 」(ロバート・アラン・アッカーマン監督)というのが、なかなか悪くないという前評判なので、ちょっとご紹介します。巨額の製作費をかけた大作ではなさそうだが、予告編などを見ると、なるほど、これはけっこう面白そうなヒューマン・コメディって感じ~。しかも、あの天下のハリウッドが、「下から目線」で謙虚に来てるみたいだよ~ん。世界も変わったもんだね~。ジャパニメーションが Cool Japan なら、こっちは Hot Japan(熱い日本)かな~?Oh! Rising Sun!!西田敏行も、ついにハリウッド進出と相なったか~・・・似合わね~けど、カッコいい~っ!それに第一、このラーメン屋の佇まいが、ニャンともいいね~。今どき、こんな店、重要文化財クラスだよ性格女優・余貴美子が演ずる、貧乏臭いけど優しそうな女将さんの佇まいも、メチャクチャすてき~!まさに、生きた異文化交流のモティーフ。「ブラックレイン」とか「レッドブル」の、東京ラーメン版かな。“ラーメン道”つながりか、故・伊丹十三監督「タンポポ」の主役だった山崎務も重要な役で出てる。・・・というか、脚本家自身が、「タンポポ」を下敷きにしたと言っているようである。そりゃそうだろうね。ついでに、その時の共演者で、今や国際スターである渡辺謙も出ればよかったのに~とか、ちょっと思うけどね~しかし、関東地区では(・・・というか、日本全国でかな?)、当面は東京・テアトル新宿の単館上映だけらしいんだよね~「小品佳作」タイプの映画ではよくある興行形態。まあ、ヒットすれば、順次、全国拡大ロードショー公開ってなこともあり得るんだろうけどね。なお、皆さまにご紹介しておいて何ですけど、僕は一本の映画を見るためだけに、この冬空のもと、わざわざ上京する時間も気力もありゃませんので、悪しからず、ごめんちゃいね~東京や近郊に在住の方は、よろしければご照覧下さいませ~。僕はもともと、ラーメンよりは日本蕎麦の方が好きなのだけれど、このラーメンに限っては、本当に美味そうだな~と、否応なく認めまする~これはもう、間違いないね~伝統の東京ラーメンそのものだ。ところで、実を言うと僕は、よく洋画に出てくるちょっとヘンテコリンな日本を見るのがけっこう好きである。・・・日本って、本当に魅力的な、不思議の国だと気づかせてくれるから~■作品情報■英語版作品評(ただし筆者は日本人らしい)■産経ニュース;ニューヨークで本格「Ramen」ブーム? 有名店出店、地元メディアも特集■ロバート・アラン・アッカーマン監督・日本滞在日記
2009年01月05日
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Hey Hey Hey Girl仕事だから とりあえずがんばりましょう全歌詞1994年9月、CDシングルとして発売、発表。作曲:庄野賢一歌唱:SMAP註天下の人気グループだけあって、SMAPの曲には名作が多い。なかんずく、歌詠みの端くれとして言えば、特に歌詞がいい。きわめて洗練されつつ、心に沁みるのが多い。「夜空ノムコウ」、「らいおんハート」、「セロリ」なんかも、涙なくしては聴けない出来栄え。この作品は、世代は一回り以上も違う僕らくたびれた中年男にも、えっ?アレっ?ウソっ!と思わせた、彼らの最初の爽やかなインパクト。確かに、20代の頃なんて、毎朝こんな感じだったよな~と微苦笑を禁じえない、J-POP史上不朽の名作。重層的でプロフェッショナルなサウンド・デザインも、見事というほかはない。リズムとブラス系セクションのアレンジがノリノリで、グルービーな高揚感をもたらしてくれる。
2009年01月05日
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近所にて、けさ写す。*「山茶花」と「寒椿」はきわめて近似の種で、なかなか見分けが付かないほどだそうです。しいて言えば、比較的高さの低い品種を「寒椿」と呼んでいるとのことです。■関連リンク「寒椿」
2009年01月04日
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あけましておめでとうございます本年もよろしくお願い申し上げます平成二十一年 元旦大伴家持(おおとものやかもち)新あらたしき年のはじめの初春の今日降る雪のいや重しけ吉事よごと万葉集 4516新しい年の初めの初春の今日降りしきる雪のように、ますます重なれ、吉よき事よ。註あの巨大かつ偉大なる万葉集全巻の掉尾を飾る、編者・大伴家持による記念碑的名歌。新あらたし:現代語「新しい」の語源。「あらたし」が、いつの間にか「あたらしい」に変わってしまった、日本語では珍しい転訛の例。なお、明治以前は旧暦(太陰暦)であり、元日は現在の太陽暦の1月下旬頃に当たる(今年で言えば、1月26日)。
2009年01月01日
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