全63件 (63件中 1-50件目)
ここ数日、国民民主党の玉木雄一郎代表が、けっこう立て続けにテレビに出ていて、その分かりやすい、立て板に水の雄弁さに驚いた。はっきり言って、よく知らなかった。あの大失敗した民主党政権の残党の片割れぐらいにしか見ていなかった。SNSの発信で、若い世代がつとに発見していたといわれる。おのが不明を恥ずる。すみませんでした。今回の関ケ原の決戦では、自民党のオウンゴール(自爆)の状況があったとはいえ、議席を一挙4倍増まで躍進させた党首は、さすがに頭脳明晰で明朗闊達、親しみやすい快活さがあると再認識、いや、初めて発見した。改めて見てみれば、なかなかの人物なのであった。発言内容も、変に理想論や理念に走らずきわめて現実的・具体的で、じっくり話し合い一定の妥協をすれば、他党も呑み得る政策であると思った。こりゃ衆院選「戦後」も与野党双方から引っ張られて、綱引き状態になるわけだよなと、得心しているところである。さしあたっては、パートやアルバイト従業員への課税「103万円の壁」撤廃問題が最初の大ヤマ・試金石になる見通し。国民党側は自民党に対し、物価スライドで178万円への引き上げを主張しているが、これはちょっと吹っ掛けたなという感じである。実際には、政策協議で140~150万円でも勝ち取れれば、上々吉ではないか。石破政権側がこれを呑めれば、ひとまず政局は安泰になりそうだ。が、これによって税収には大穴が開く(仮に満額回答ならば7兆6千億円の巨額減だという)ことになる。マジかよって感じだ。消費税を凍結するぐらいの、巨大なスケールの話だ。しかもこちらは、恒久的な税制改正である。これは両党だけの話ではなく、財務省などの水面下の強硬な抵抗も予想される「三国志」である。そう簡単に妥結できる問題でないのも事実だ。こういうのって、戦国時代の古い言葉でいえば「調略」だよね。その名人代表は、織田信長麾下時代の木下藤吉郎(豊臣秀吉)だった。黒田官兵衛の助言を聞きつつ、山内一豊をボディガードにつけて、決死の覚悟で交渉に当たった。その交渉力は、のちに「人たらし」と言われた。こういった政局好きの政治家は、与野党を問わず政界に一定数いるといわれるが、彼らにとっては、「俺の出番だ」とわくわくどきどきぞくぞく、楽しくてたまらない局面なのだろうなと想像している。その気分は、分からないでもない。政治家冥利といったところだろう。我々庶民でも、仕事の楽しさ面白さって、けっこうこんな風な不定形なところにあったりする。
2024年10月31日
コメント(0)
laica breeze一聴して分かる最高のセンス。今の耳で聴いてもすごいわ。20年前の作品であるとは信じられない。お聴きの通り、これほどの音楽的・詩的実力に加えルックスもけっこうカッコよかったのに、ほとんどまったく売れずに消えてしまった。不思議すぎて、今なお腑に落ちないのである。・・・もしかすると、ジャニーズ全盛期の当時の芸能界で、干されたようなことでもあったのか(ただの憶測)。リンク先 16:52 からの「STARLIGHT」は多少ヒットした。当時、初恋の人を含むメル友たちに絶賛紹介した。たった1枚のアルバムで大ファンになったけどな。当時けっこう音楽的意識が高かった僕はすぐに見つけたのだが、彼らはあっという間にいなくなってしまった。J-POP史上の七不思議の一つだと、今も思っている。芸能界ってほんとに運否天賦のバクチなんだなとため息をつく。売れなかった要因は、ひとつには意味不明で覚えにくいユニット名のせいもあったのかなと、残念至極なのである。「ライカ(固有名詞?)の微風」って何? 意味分かんないっす。それと、しいていえば、あまりにも完成度が高すぎてとっつきが悪く時代がついて来られなかったというあたりか。芸術芸能の歴史では、しばしばあった現象である。熱烈なファンはいたと思うが、きわめて少数だった。生まれてくるのが、ちょっと早すぎた。
2024年10月28日
コメント(0)
奥田民生 マシマロ
2024年10月28日
コメント(0)
国政選挙、とりわけ衆議院総選挙といえば、昔でいえば「関ケ原」みたいなものである。当事者でもなんでもなくても、また結果はどうあれ、やはりなんとなく血沸き肉躍るものがある。というようなわけで、しろうとの私がぶつくさ駄文を書いても仕方ないとも思いつつ、とりあえずちょっと書く。以下は主に田崎史郎氏の受け売りと、ただの思いつきの感想文である。「自民惨敗」という四字熟語(?)を見るのはずいぶん久しぶりだなと思ったが、それもそのはずで、実に15年ぶりのことだという。それが現実のものとなってしまった。当地・宇都宮の栃木1区は、天下の作新学院オーナーの船田元氏が盤石なので全くの無風だったが、全国の惨状は目を覆うばかりであった。自民党政権の長い善政が、昭和の戦争で一度は滅んだこの国の復興と繁栄を導いてきた功績は多くの国民が認めるところであり、今回も底堅い支持はあったと思われる。ただ、現下の政治とカネ(裏金)問題への国民の反発は予想以上に強く、裏金をせしめた当該議員は当然としても、それと関係のない自民党議員にまでその暴風雨が襲った模様である。選挙戦最終盤での、非公認候補者への2000万円「武士の情け・陣中見舞い」にもあきれ果てた。共産党機関紙『赤旗』にリークしたのはどこのどいつだ。スパイ大作戦かよ。投票率は低迷し、野党票が伸びたというよりも、どちらかというと自民党の誇る岩盤支持層が、嫌気がさして投票所に行かなかった(棄権した)という分析もある。自民支持層が消極的にお灸を据えたという構図だったか。仮に小泉進次郎首相(総裁)だったとしても、結果は同じかもっとひどい状態だったとも思われ、いま首相にならなくて本当に良かったなと思う。彼はやっぱりついてるし、「持ってる」のだろう。将来、首相になることは確実なので、ますますの修行と精励に期待する。また、この問題をきっかけに、日本社会に根強い「水平化バイアス圧力」も作動してしまったと僕は見る。日本の映画やドラマでは、時代劇・現代劇を問わず、代官といえば悪代官であり、大商人は悪徳廻船問屋である。ブルジョワの子弟は嫌味な悪役に決まっている。庶民に縁遠い平安貴族社会を描く大河ドラマ『光る君へ』は(私を含め熱烈なファンは付いているが)低視聴率に喘いでいる。このエピステーメー(共同的認識の枠組み)は、たぶん日本人のほとんどが基本的に農耕民族・農民・百姓の末裔だからである。こういう集団心理を惹起させた。(一応書いておけば、私は武家の子孫である。)安倍元首相は偉大な政治家だったと今も思っているが、好事魔多し、安倍派はやはり多少調子に乗りすぎて驕ってしまった面が無きにしもあらずだったのかも知れない。この問題に限っていえば、自分にほとんど責任がない石破首相は悲運で気の毒だとも思う。・・・ とはいうものの、少し引いた視線で見れば、大幅伸長したとはいえ立憲民主党への政権交代が起きるわけでもなく、激震・激動というほどでもないのかなと思う。まあ、せいぜい「動揺・流動化・混迷・不安定化」といったところか。政権選択選挙である衆院選で過半数割れの敗北になったのだから、場合によっては即退陣とか短命政権になってもおかしくないところだが、昔のいくさと違い、敗れた側も生きており、一応比較第1党は維持しており、しかもこの場面で火中の栗を拾う次の政権のなり手がいないという、なんともすっきりしない状況となっている。虎視眈々と次期首相を狙う高市早苗氏も、今はちょっと手が出せないだろう。結局、当分は自民党主流派と反主流派、そして野党勢の三つ巴(三すくみ?)で、だらだらと石破政権が続く模様である。言っては悪いが、こういう敗戦処理みたいな状況は、地味な石破氏に似つかわしいとも思える。青息吐息ながらも、持ち前の粘り腰でなんとかかんとか対処していくような気もする。とりあえず自民公明の連立与党は、弥縫策として国民民主党の連立取り込みを図り、おそらく国民党も遅かれ早かれこれに応じ、新たな連立の枠組みで衆議院の過半数233以上を確保する思惑なのではないか。取り込むところまでいかなくてもいいし、さほど急ぐ必要はないし、これ以外に道は思い浮かばず、うまくすれば当分はこれでけっこういけるかも知れない。少なくとも来夏の参院選前まで、そして内閣不信任案提出までは。この辺では一つの「政局緊迫」も予想される。躍進した国民民主党は、(細かいことを抜きにすれば)かねてより自民党と比較的考え方が近い部分が多く、与党とまずまず友好的な関係を保っていると見られている。ここは素直に連立協議を受諾して政権を支えるのも国家国民のためではないか。玉木代表をはじめ、じっくり話せば分かりそうな人士が多いとも思う。成熟した民主主義先進国のヨーロッパ諸国では3党以上の連立政権が常態化しており、何も悪いことでも恥ずかしいことでもない。多様化した価値観・ニーズに対応した政治の形というべきであろう。ただ、玉木代表は早くも、自公との連立はないと拒否の姿勢を明言してしまったようだが、これはちょっと勇み足だったのではないか。この言質をいつどのように翻し撤回するのかはちょっと問題だ。まあ、最初は個別の政策や法案・予算案などの部分連合ぐらいから始めて、ゆっくり取り組めばいい。場合によっては野党要求の「丸呑み」も辞さないのは、自民党の窮余時の得意技である。時間が解決するのではないか。それよりむしろ、自民党内の「政局」、内輪もめの方が懸念される。今や弾尽き矢折れ壊滅状態に近い旧安倍派だが、むしろ旧安倍派の責任である政治資金問題での敗北で、責任なき石破氏の結果責任を責め立てて、「石破おろし」などを実行する構えなのだろうか。個人的意見だが、それはやめといた方がいいんじゃないかと、僭越ながら衷心から諫言したいところである。一時的にせよ、現在の力は著しく弱っている。共倒れまっしぐらになる。日本国民の民度は、世界有数に高いよ。見てないようで、ちゃんと全部見ているから。旧安倍派は、今は臥薪嘗胆の秋である。予想以上に国民の視線がきわめて厳しいことがはっきりした今、ここは当分、真摯な反省と新たな戦略の練り直しに注力し、当分は謹慎・沈淪すべきではないか。・・・ それにしても、僕の隠れアイドル・丸川珠代さまの涙の演説を見ていたら、本当にかわいそうで不憫で、ますます好きになってしまった 珠代ちゃん、大丈夫だから、他日を期して、今はしばらく辛抱してね
2024年10月28日
コメント(0)
今さらながら、今にして思えば安倍晋三元首相は偉大な政治家だったなあと、あの明朗快活で闊達な笑顔の面影を偲びつつ、めっきり肌寒くなった風が身に沁む秋の陣である。きょう投開票の衆議院総選挙の終盤情勢について、おとといぐらいまでに報道各社の分析予測が出揃った。それらによると、ほぼ異口同音に「与党の自公両党を合わせても、過半数獲得が微妙な情勢」だという。これをもう少し平たく言えば「良くて過半数ぎりぎり、おそらくは過半数割れ」というニュアンスだろう。もしそうなるとすれば、これはもう敗北と言わざるを得ないだろう。自公のタッグでこれほどの苦境に立たされるのは、あの民主党政権樹立前夜以来、ずいぶん久しぶりという気がする。選挙前・序盤の楽観論に比べきわめて厳しい予測に、自民党内に動揺が走るとともに、早くも「石破おろし」を含む「自民党内政局」の勃発も予感させている。残念ではあるが、国民の厳粛な審判であるから、何ともいたし方ない。ただ、私が言いたいのは、政治とカネの問題(裏金問題)は、確かに褒められたことではなく、けしからんことではあったが、当該議員はそれなりに厳しい党内処分も受け、また一部マスメディアによる過剰なまでの社会的制裁も受けて十分反省していると思う。内憂外患の政治的な課題は山積しており、こればっかりが問題であるかのように連日連夜報道している一部メディアは、やはりバランスを欠いているのではないか。国民はもう少し冷静だと思うし、冷静であってほしいと願う。本丸は、何といっても経済である。戦争が相次ぐ国際情勢や異常気象、鳥獣の感染症などによる物価高は、もともと政府自民党に責任はないが、これに着実に対処できるのは、安定した政治である。その物価高による庶民生活の困窮化などについても同様であり、一足飛びの短兵急な解決はあり得ない。一部野党の言っている消費税の減免や廃止とか、一気に最低賃金1500円とかは、実現可能性のない、無いものねだりの、絵にかいた餅の非現実的な主張であって、そんなことを実行に移せば、リストラ(解雇)の嵐となり失業者が街に溢れ、経済全体がむちゃくちゃになる。あり得ない。私は経済学部の出身であり、経済のメカニズムについてはある程度分かっているつもりである。この点については、はっきり指摘しておきたい。・・・というか、野党は本気で政権を獲る気がないから、そんなお花畑の夢物語のうわごとを言っていられるのだろう。外交、安全保障・防衛については、さらに憂慮される。縷々説明する必要もないであろう。緊迫する東アジア情勢、北朝鮮の暗躍、台湾侵攻・有事も視野に入ってきている中国の傍若無人。激化する一方の中東情勢、われわれはあの悪夢のオイルショックを記憶している世代である。いずれも、安定した政権があってはじめて対処できる。国内で内輪もめなどしている場合ではない。私も忙しい身で、この土日も仕事をしている職種である。詳しく書いている暇がないが、以上の2点の問題だけでも、この拙文を目にした国民各位におかれましては、冷静な判断と投票をお願いしたいと、心から切望しております
2024年10月27日
コメント(0)
Official髭男dismSubtitle
2024年10月26日
コメント(2)
一条天皇 御製(おおみうた、ぎょせい) 御辞世露の身の草の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞかなしき藤原行成『権記ごんき』藤原道長『御堂みどう関白記』露のように儚いこの身がかりそめの宿である草の葉に君を残して塵にまみれた現世から去ってしまうことがたまらなくかなしいのだ。註NHK大河ドラマ『光る君へ』第40回「君を置きて」、10月20日放送。超絶美青年・塩野瑛久あきひさの好演が評判となった。明らかに一人の女性への思慕を詠んでいるのは、公の立場の高貴な上つ方の辞世歌としては珍しい例なのではないか。「君を置きて」の一字余りが、ここでは強い執着を示し、むしろ印象的・効果的。辞世:この世を辞するにあたって詠む和歌。もと皇族・貴族の風習だったが、のちには武士階級とその末裔にも伝承され、現在に至る。君(を置きて):この「君」が誰であるかについては、古来憶測を逞しゅうされてきた。最期を看取った中宮・藤原彰子と見るのが普通だろうが、いやそうではなく、今は亡き前皇后の藤原定子のことだという解釈も根強い。定子は第3子出産時に逝去しているが、当時の仏教の教理では、産褥死は成仏できず、その霊はまだこの世をさまよっているという考えによる。行成は定子説、道長は当然実の娘の彰子説だったといわれる。同時代に生きた紫式部(藤式部)の見解も聞いてみたいものだ。まあ、今となっては永遠に答えが出ない問題ではある。ことぞかなしき:この結句は、側近の重臣で能吏だった行成の公的職務日誌『権記』による。道長の『御堂関白記』によれば「ことをこそ思へ」(~ことを深くしみじみと思うのだ)となっている。この場合、「思へ」は命令形ではなく、強調の係り結びの連用形。ただ、どちらにしても歌の大意に影響はない。
2024年10月25日
コメント(0)
山本潤子 忘れていた朝
2024年10月24日
コメント(0)
日立の樹作詞:伊藤アキラ作曲:小林亜星日立グループ東日本大震災お見舞いCM
2024年10月24日
コメント(0)
佐佐木定綱(ささき・さだつな)ぼくの持つバケツに落ちた月を食いめだかの腹はふくらんでゆく歌集『月を食う』(令和元年・2019)* 現代短歌(とりわけ近年の作品)には著作権がありますので、安易には引用できません。ご承知置き願います。
2024年10月23日
コメント(0)
工藤吉生(くどう・よしお)十七の春に自分の一生に嫌気がさして二十年経つ歌集『世界で一番すばらしい俺』(令和2年・2020)
2024年10月22日
コメント(0)
EPO百年の孤独
2024年10月21日
コメント(0)
会津八一(あいづ・やいち)かすがのにおしてるつきのほがらかにあきのゆふべとなりにけるかもかすがののみくさをりしきふすしかのつのさへさやにてるつくよかもくわんのんのしろきひたひにやうらくのかげうごかしてかぜわたるみゆふぢはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびるおほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへすゐえんのあまつをとめがころもでのひまにもすめるあきのそらかなあめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむあまごもるやどのひさしにひとりきててまりつくこのこゑのさやけさかすがののしかふすくさのかたよりにわがこふらくはとほつよのひと歌集『南京新唱』(大正13年・1924)歌集『鹿鳴集』(昭和15年・1940)* 作者特有の細かい分かち書き表記は、私個人としては、読みづらく興趣をも削いでいるように思われるので、僭越ながら普通文表記に直して掲載する。cf.) 原文「かすがの の みくさ をり しき ふす しか の ~」。この連作は、古都・平城京奈良を詠んで、短歌詩形表現のひとつの白眉ではないかと思う。註かすがの:奈良の春日大社の境内から東大寺・興福寺へかけてひろがる、平城京東郊の台地。 現在の奈良市春日野町付近。おしてる:照りわたる。一面に照る。みくさをりしき:深草を折り敷き。さやに:さやか(亮)に。くっきりと、清らかに。「爽やか」とは別語。くわんのん:観音。観世音菩薩。やうらく:瓔珞(ようらく)。菩薩や密教の仏の装身具、または仏堂・仏壇の荘厳具の一つ。古代インドの貴族の装身具として用いられていたものが仏教に取り入れられたもので、菩薩以下の仏像に首飾り、胸飾りとして用いる。ふぢはらのおほききさき:光明皇后。父は藤原不比等(ふひと)。うつしみにあひみるごとくあかきくちびる:法華寺本尊十一面観音。光明皇后に現世であいまみえるような心地の紅い唇。おほてらのまろきはしらのつきかげ:大寺の丸い柱の、月に照らされた翳。すゐえん:水煙。塔(ここでは薬師寺東塔)の九輪(くりん)の上にある火炎状の装飾金具。火事の連想を避け、同時に水難をおさえる意味もこめてこう名づけられたといわれる。あまつをとめがころもでの~:薬師寺東塔の水煙に透かし彫りされた天つ乙女(飛天、天女)の衣の隙間にさえ、澄み渡っている秋の空だなあ。かたよりに:かたわらに(いて)。わがこふらくはとほつよのひと:私が恋しくてたまらないのは、遠い昔の世の人である。
2024年10月21日
コメント(0)
まさに「聖地巡礼」。日本映画史上に燦然と輝く、今なお忘れ得ぬ人も多いであろう名作『砂の器』(松本清張原作、野村芳太郎監督、昭和49年・1974松竹)のロケ地巡り動画。ふと何気なく見つけて、驚くべき労作とその情熱に感服。ロケ地の変貌ぶりにも驚きつつ、一本の映画を作ることがいかに大変かにも、改めて気付かされる。リメイクはもはや不可能だなと嘆息させる。投稿主ウォーキング・テットさんに深い敬意を表する。〇 映画 『砂の器』 ロケ地探索 島根県編〇 『砂の器』 ロケ地探索伊勢志摩・二見浦、大阪・通天閣編〇 『砂の器』ロケ地探索 茨城県編〇 『砂の器』映画評 圧倒的な映像叙事詩ちなみに、この映画における緒形拳は、僕にとって男の一つの理想像である。人格的、あるいは口調・挙措動作への影響さえ受けたと思う。人として、なかんずく男子として生まれたものは、かくありたいと、けっこうまじで思っている。人情に厚い善人そのものなのだが、惜しむらくは、いかにも明治男らしくやや直情径行なところがあり、あまりにも苛酷な「宿命」によって心に深い闇を宿してしまった犯人の逆恨みを買って殺されてしまうという悲劇的な役どころである。本当に気の毒である。その一方で、大きな声では言えないが、犯人役の加藤剛も最高にかっこいい。難しい役だと思う。音楽表現に憑りつかれて、道徳を超えてしまった芸術家の深い悲しみを満面の表情に湛えて、こちらも名演。松本清張の原作(読売新聞連載)発表時から映画公開後にも、犯行動機の弱さに批判が燻っていたというが、これはもうしょうがないだろう。丹波哲郎の「癩病であったのであります」という衝撃的な台詞から始まる、クライマックスのダイナミックかつ悲痛な映像美の凄さが、すべての批判を吹っ飛ばす。殺人犯・加藤剛、被害者・緒形拳。大物演技派俳優同士の空前絶後の火花散る共演であった。その事件を追う丹波哲郎、森田健作の両刑事も、それぞれ代表作の一つと言えるほどの力演。もちろん、加藤嘉、春田和秀親子の名演は、もはや言葉を超えた真の伝説。■「砂の器」伝説の名子役、春田和秀さん43年を経て語る、子役という “宿命”一定以上の年齢の方はご存じだろうが、こういう気の毒な人や親子は、僕らの子供の頃にはけっこうそこらへんにいた。哀しい。〇 『砂の器』とハンセン病療養所〇 【妄想配役】 映画 『砂の器』 を2023年の俳優でキャスティングしてみたこれはもう、完璧だね。一杯飲みながら見ていたら、これだけで泣けた。この投稿者は、明らかに素人じゃないね。芸能界インサイダーのプロだろう。このキャストで、本当に見てみたい。
2024年10月20日
コメント(0)
小島ゆかり秋霊はひそと来てをり晨あしたひらく冷蔵庫の卵のかげに時かけて林檎一個を剥きをはり生きのたましひのあらはとなれり夕闇のショウペンハウエルそつと来て幼子のひかる膝を冒せりぶだう食はむ夜の深宇宙ふたり子の四つぶのまなこ瞬きまたたく夜のたたみ月明りして二人子はほのじろき舌見せ合ひ遊ぶ註ショウペンハウエル(ショーペンハウアー): 生は苦であるという仏教的厭世観・悲観主義を標榜したドイツの哲学者。特に近代日本の知識層には人気が高く、大きな影響力があった。ほぼ同時代の、学者として好敵手だったニーチェの、ポジティヴ一辺倒の生の哲学・超人思想としばしば対比される。
2024年10月19日
コメント(0)
斎藤史(さいとう・ふみ)人を瞬かすほどの歌無く秋の来て痩吾亦紅やせわれもこう それでも咲くかするすると夕闇くだり見て居れば他人の老はなめらかに来るとどこほる生のひととせ忘ぼうじたる古歌の下句の〈命ともがな〉婚姻色の魚うをらきほひてさかのぼる 物語のたのしきはそのあたりまで氷頭ひづ食はめば歯に砕けつつ溶けやらぬ 忘れず壮年死の男一匹銅あかがねの色を鎧よろひて蝉の殻あれど脆しもろし わが頼める平和
2024年10月19日
コメント(0)
古泉千樫(こいずみ・ちかし)秋さびしもののともしさひと本もとの野稗のびえの垂穂たりほ瓶かめにさしたり秋の空ふかみゆくらし瓶かめにさす草稗くさびえの穂のさびたる見れば充ちわたる空の青さを思ひつつかすかにわれはねむりけらしもひとり親しく焚火して居り火のなかに松毬まつかさが見ゆ燃ゆる松かさゆくものは逝きてしづけしこの夕べ土用蜆どようしじみの汁すひにけり遺稿歌集『青牛集』(昭和8年・1933)
2024年10月18日
コメント(0)
虫の知らせだったのか。秋の夜長のおとといの夜、ふいに映画『学校』が心に浮かんで、今は亡き冨田勲の美しい主題曲へのリンクをブログにエントリーしつつ、繰り返し聴き入っていたところ、今日17日、その映画に主演した西田敏行さんの突然の訃報が飛び込んできた。享年76歳。現代劇から時代劇まで、コミカルな役からシリアスな役まで、幅広く何でもこなす稀代の才人だった。役柄の通り、優しい人柄で知られた。若い頃から器用だったが、しだいに軽妙かつ重厚な存在感と包容力で魅せる大御所になっていった。『学校』は、シリアスな現代劇での代表作の一つであろう。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。・・・さびしい。河馬顔か二枚目なのか変幻の名優なりし西田敏行 野原
2024年10月17日
コメント(0)
坂本野原サラスパでアラビアータをこしらえる短歌のほうはスランプである麺ばかり女房の留守に食べている秋の昼下がりのしどけなさ秋らしくなき暑き秋 虫たちが元気に鳴いているはうれしきこの世にはもういないひと夜半よわに聴く冨田勲が胸をえぐるよ間違ってなかったなんてふと思う子どもを見ればぼくの生き方秋が来て内因性のプチ鬱がぼくの脳なずきを覆いはじめたくしゃみさえかわいかったね思春期の感じやすさといったら異常都会では雀も絶滅危惧種にて生きることってどういうことか頑張って生きているのは分かるけど烏は嫌い悪いなごめん鰻重をはしごして食はむギャル曽根の旦那はセルジュ・ゲンスブール似自民党単独過半数割れもあり得るという天の裁きは石破氏がビシバシやると角が立つ 安倍派はしばし歯ぎしりの夜ヘーゲルは予言者だった自民党正反合の三国志かなほんとうは恐ろしきらしクリスチャン石破茂のマキャベリズムはワンポイントリリーフなのかある程度長くやるのかいまだ読めざりとりあえず応援しようはじめから否定するのはたやすかれども序盤から大不評にて「おしん」とは逆の現象あわれ「おむすび」
2024年10月16日
コメント(2)
藤原惟規(ふじわらののぶのり) 辞世都にも恋しき人のおほかれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ後拾遺ごしゅうい和歌集今昔物語京の都には恋しい人がいっぱいだからなおもこの度は生き抜こうと思うのだ(浄土に行く前に、都にもこの旅は行こうと思うのだ)。註NHK大河ドラマ『光る君へ』13日放送。作者は、紫式部の兄弟(兄または弟)。大河ドラマでは弟の設定。姉妹・紫式部ほどのずば抜けた文才はないが、快活で人好きのする風流人であったと伝わる。演:高杉真宙。ナチュラルな演技が良かった。越後守(えちごのかみ、勅命による新潟県知事のようなもの)として赴任した父・藤原為時の命に従い、おそらく役人実務見習いとして訪れた越後国で、間もなく病を得て急逝。まだ三十歳代だったという。大河でも、ややあっけにとられるぐらいの急な展開だったが、おおむね史実だという。この一首は、今わのきわの病の床で自らしたため、「思」の字まで書いたところでこと切れたと伝わるから、まさに辞世中の辞世の歌。父・為時が悲しみの中で末尾の「ふ」を書き足したという。このたびは:「この度は(今回は)」と「この旅」を掛けている。菅原道真(すがわらのみちざね)の名歌「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」を踏まえている。全体としても、この道真の歌の華やかなイメージをそこはかとなく響かせているとも見える。いかむ:「行こう」と「生かむ(生きよう)」の両義を掛けている。「この旅は行こうと思う」の文脈の場合、「死出の旅だが、せめて魂だけでも都に帰ろうと思う」という、哀切悲愴なニュアンスも帯びる。
2024年10月16日
コメント(0)
冨田勲 幸せっていうのは映画 『学校』 (山田洋次監督)オリジナル・サウンドトラック『学校』 予告編『学校 Ⅱ』 予告編『学校III』予告篇
2024年10月15日
コメント(0)
若山牧水(わかやま・ぼくすい)白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ歌集『路上』(明治44年・1911)註酒をこよなく愛した名匠のしみじみとした秀歌。強調などの係り結びでないにもかかわらず、文末「けり」が連用形に活用している初出の形。のちに作者自ら、古典文法的に正しく(無難に)「飲むベかりけり」と改作した模様だが、こちらの方に独特の情感があると見るのは私だけではないだろう。多少の文法的破格(違反)は、短歌表現では多数の例があり、古今東西の詩歌に見られる、いわゆる「詩的許容(ポエティック・ライセンス)」の範囲内であろう。敬愛する偉大なる兄貴、サザン桑田の歌詞なんか、そういう視点で見るならば、文法違反のオンパレードである
2024年10月15日
コメント(0)
細川慎二 いとしのエリーアルトサックス 路上ライヴサザンオールスターズいとしのエリー
2024年10月14日
コメント(0)
細川慎二 糸アルトサックス 路上ライヴ中島みゆき 糸
2024年10月13日
コメント(0)
恋に落ちて 路上ライヴ細川慎二:アルトサックス小林明子 恋に落ちて
2024年10月13日
コメント(0)
CarpentersI Need To Be In Love原題:愛に包まれることが、わたしには必要なの青春の輝き 路上ライヴ細川慎二:アルトサックス
2024年10月13日
コメント(0)
小倉百人一首 四十平兼盛(たいらのかねもり)忍ぶれど色に出いでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで拾遺しゅうい和歌集 622 いやはや、心に秘めていたつもりだったが顔色に出てしまったんだなあ、私の恋は「恋患いですか」と人がいじってくるほどに。
2024年10月13日
コメント(0)
小倉百人一首 四十一壬生忠見(みぶのただみ)恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか拾遺しゅうい和歌集 621恋わずらいをしているという私の噂がもう立ってしまったのだなあ。人知れず密かに思いはじめたばかりだったのに。註恋すてふ:「恋すといふ」が約つづまったもの。恋をしているという~。現在では「コイスチョー」と読むが、当時は「コフィステフ」または「コピステプ」のように発音した(当時のハ行は、f音またはp音だったと推定されている)。またサ行は、奈良時代にはts音(ツァ、ツィ、ツ、ツェ、ツォ)だったが、平安期の発音は不詳。まだき:「早くも、もう、夙つとに、まだその時期ではないのに」などの意味の副詞。形容詞「まだし(未だし)」(まだその時期ではない、機が熟さない)と語源的関係があることは明らかだが、やや複雑なニュアンスを帯びた語。立ちにけり:動詞「立つ」の連用形「立ち」に、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」と詠嘆の助動詞「けり」が付いたもの。人知れず:おそらくこの歌などの影響で現代語に残ったと思われる言い回し。動詞「知る」の未然形「知れ」に打消しの助動詞「ず」が付いたもの。人が知ることがない。人に知られない。(人知れず)こそ(思ひそめ)しか:係助詞「こそ」と、過去の助動詞「き」の已然形「しか」が係り結びで、強調とともに逆接の「思い初(そ)めたばかりだというのに~」の意味となる。
2024年10月13日
コメント(0)
小倉百人一首 四十二清原元輔(きよはらのもとすけ)契ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末すゑの松山波越さじとは後拾遺和歌集 770約束したね。互いに(涙に濡れた)袖を絞りつつ末の松山を波が越えることは決してないとね。註作者は、清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫で清少納言の父。(後拾遺集の詞書きによれば)「心変はりてはべりける女に、人に代はりて」(心変わりした女に、友人の代作で)頼まれて詠んだという一首。古今和歌集1093「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(君をさしおいて異なる心・浮気心をもし私が持ったら、波が決して越えないという末の松山も波が越えてしまうだろう)という東歌(当時の辺境の民謡のようなもの)の本歌取り。契ちぎり(契る):特に男女関係などで、堅く約束を交わすこと。(契り)きな:過去の助動詞「き」の終止形に、詠嘆や念を押す意味の終助詞「な」が付いた形。「な」は現代語「ね」「のね」「な」などに当たる。 cf.) 小野小町「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」かたみに:互いに。交互に。かわるがわる。短歌では、現代でも用いられる語。末の松山:現・宮城県多賀城市八幡の歌枕の地。当時、海辺にありながら、決して波が越さないという言い伝えがあった。現在では同地に「末松寺」という寺院があるが、昔日を偲ぶ面影はほとんどないという。(波越さ)じ:想像による否定の推量を表わす助動詞。ないだろう。よもやあるまい。まずありえない。末すゑの松山波越さじ:変わることはありえない、二人の誓いが破られることは絶対にないとの寓意。
2024年10月13日
コメント(0)
小倉百人一首 四十三藤原敦忠(ふじわらのあつただ)あひ見ての後のちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり拾遺しゅうい和歌集 710 あなたとお逢いできて契りを結んでからあとのますますつのる切なさに比べれば昔は何も思い悩んでいなかった(ようなものだ)なあ。註思いを遂げ逢瀬の枕を交わした後にますます滾たぎるばかりの狂おしい思いに比べれば、逢う前の片思いのつらさなどは、今思えばものの数ではなかったという恋愛心理の機微。敦忠が、雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)に贈った相聞歌。二人の間には踏み踰こえがたい身分差があり、遠からず引き裂かれる予感が背景にあったといわれる。あひ見る(逢ひ見る、相見る):動詞「あふ(逢ふ、会ふ)」の連用形、またはそれが転じた接頭語「あひ(相)」に「見る」が付いた動詞。対面するという意味もあるが、ここでは男女が契りを結ぶこと。
2024年10月13日
コメント(0)
小倉百人一首 四十四藤原朝忠(ふじわらのあさただ)逢ふことの絶えてしなくは なかなかに人をも身をも恨みざらまし拾遺しゅうい和歌集 678逢うことが(いっそ)全くないのならばなまじっか(時々はお逢いする)あの人(のつれなさ)もこの身(のはかなさ)も恨まないものを。註文法的にも意味的にもなかなか凝った表現で、解釈がやや難しい一首。絶えて:否定語を伴って「全く・・・ない」の意味を示す副詞。動詞「絶ゆ」が語源であることは明らかだが、副詞として別の語とされる。古語動詞「敢(あ)ふ」(負けまいと耐える、しおおせる)と、現代語にも残る副詞「敢えて」の関係に似ている。(絶えて)し:強調・整調の副助詞。特定の意味はない。(なく)は:仮定条件を表わす接続助詞。文末の「まし」に掛かっている。もし・・・だったら。なかなかに:中途半端に。なまじっか。かえって。身をも恨み:自分自身を恨むということだろうが、意外に難解な語句とも思う。われとわが身の「至らなさ、はかなさ、浅はかさ」などを悔しく思うといったところだろうか。(恨みざら)まし:反実仮想の終助詞。「なくは」の仮定条件を受けて、「(そんなことはあり得ないが)・・・だったら、・・・だろうになあ」といった意味になる。
2024年10月12日
コメント(0)
小倉百人一首 四十五藤原伊尹(ふじわらのこれただ、謙徳公けんとくこう)あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな拾遺しゅうい和歌集 950(あなたにすげなくされて)「ああ、お気の毒に」とでも言ってくれそうな人も思い浮かばずこの身は空しく滅んでしまうのだろうなあ。註拾遺集の詞書(ことばがき)によれば「もの言ひはべりける女のつれなくはべりて、さらに逢はずはべりけれ」(懸想し言い寄った女性がつれなくて、ちっとも逢ってくれないのだなあ)とあり、失恋を嘆いている歌なのは間違いない。が、どこまで本気で言っているのか、モテ男の貴公子の、やや大仰な身振りの修辞や余裕の擬態的な言葉遊びが入っているのかどうかは微妙なところ(・・・個人的にはたぶん後者かなと思う)。作者は、右大臣の子に生まれ、本人も太政大臣まで昇りつめた権力者である。藤原行成の祖父。昔は、切ない悲恋の歌と大真面目に解釈・鑑賞されていたようだが、現代の目で見ると、半ば「自虐的ジョーク」に近い歌ではないかとも見える。あはれと:「かわいそうだ、お気の毒だ、哀れだ」と。(あはれと)も:強調の係助詞。いふべき人:言ってくれるであろう(親身な)友人、または別の女性。思ほえで:「思ほゆ」(思い浮かぶ)に、「・・・ないで、せずに」の意味を表わす打消しの接続助詞「で」が付いたもの。現在では「オモオエデ」と読む(当時は「オモフォイェデ」のように読んだ)。(思ほえ)で:打消しの助動詞「ず」の古い連用形「に」に、接続助詞「て」が接合して約つづまったものと見られる接続助詞。活用語の未然形に付く。現代語でも「古都ならではの情緒」「下町ならではの人情味」などの言い回しに残る。体言に接続する格助詞・接続助詞の「で」とは別の語なので要注意といえる。なお、従来の語源説では「ず」の比較的新しい連用形「ず」に「て」が接合した「ずて」が約まったものとされてきたが、「ずて」から「で」への音韻の変化は不自然であることなどから、現在では上記の語源説が有力。「に」の用例は「知らに」(知らないで)などがある。「ず」の活用は難しいが、きわめて基本的な語ほど活用形が複雑だったりするのは、例えば英語のbe動詞などにも見られる現象である。これは、活用形ごとに語源が違うためである。いたづらに:空しく。はかなく。無駄に。現代語でも、この意味で用いられる。いたづらになりぬ:恋い焦がれて空しく死んでしまう。
2024年10月12日
コメント(0)
小倉百人一首 四十六曾禰好忠(そねのよしただ)由良ゆらの門とを渡る舟人梶かぢを絶え 行方ゆくへも知らぬ恋のみちかな新古今和歌集 1071由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が櫂をなくしたように行方も分からない恋の路だなあ。註きわめて洗練された難解晦渋な歌も多い新古今集・百人一首にしては珍しく、割と分かりやすい歌である。「由良ゆらの門とを渡る舟人梶かぢを絶え」までが「行方も知らぬ」を導く序詞(じょことば)。由良の門:現・京都府(丹後国)宮津市由良・石浦、および舞鶴市西神崎付近とする説(契沖の説)が有力だが、紀淡海峡の由良岬付近であるとする説も根強くある。門と(戸):瀬戸、海峡、河口など水流の出入りする場所をいう古語。「港、瀬戸」などのほか、「江戸、長門、水戸、鳴戸」などの固有名詞に多く含まれる。梶かぢ:楫(かじ)、櫓・艪(ろ)、櫂(かい←かぢ)、「オール」の類い。現在いう「舵」は、語源は同じと思われるが、意味が変わっている。梶かぢを絶え:梶を失くして。古来、「梶を」は「梶尾」(梶を船に取り付ける綱、「楫の緒」の意味か)であるとする説もある。この場合「梶を絶え」は「梶尾が切れ」の意味となり、これはこれでやや捨てがたい解釈である。
2024年10月12日
コメント(0)
小倉百人一首 四十七恵慶(えぎょう)法師八重葎やへむぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり拾遺しゅうい和歌集 140 幾重にも葎が生い茂っている荒れ果てたこの家の寂寥に訪ねて来る人とてないのだがひとり秋だけは忘れずにやって来たのだなあ。註拾遺集の詞書に、「河原院かはらのゐんにて荒れたる宿に秋来るといふ心を人々詠みはべりけるに」(河原院で、荒れ果てた家に秋が来るという主題を人々が集まって詠んだのだが)とある。八重葎やへむぐら茂れる宿:河原院。もと源融(みなもとのとおる、百人一首14番作者)が、京都六条に奥州・塩釜の浦の景色を模して作らせた豪壮な別荘・庭園だったが、恵慶がこの歌を詠んだのはそれから約百年後で、荒れ果てて半ば廃墟になっており、恵慶の親友・安法(あんぼう)法師が気ままに住んでいたという。葎むぐら:アカネ目(新体系ではリンドウ目)アカネ科の密生し藪をつくる草。植物分類学的にはかなりの種類がある。さびしきに:寂しいところに。寂しい状態に。寂寞に。連体形の準体言(見なし体言)用法。「ところ」などが省略された言い回しであり、これを補うか体言化(名詞化)して読む。(人)こそ(見え)ね:係助詞「こそ」と打消しの助動詞「ず」の已然形「ね」で、強調・逆接の係り結び。人は来ないのだが。「こそ」と活用語の已然形の係り結びは、現代文でも用いられる。「大鵬さんとは競技こそ違え、同じアスリートとしていつもその偉大な足跡を追い続けてきました」(長嶋茂雄・読売巨人軍終身名誉監督、元横綱大鵬の納谷幸喜さんの死去に際しての談話)見え(見ゆ):この場合は「来る」の意味。現代語でも「お見えになる」(「来る」の尊敬語)、「お目見え」などと使う。
2024年10月12日
コメント(0)
Boz ScaggsWe're All Alone日本公演 1983〇 路上ライヴ 急にサックスで「We are all alone」を演奏したら駅前が最高にロマンティックな雰囲気に
2024年10月11日
コメント(0)
Serge Gainsbourg & Jane BirkinJe t'aime... moi non plusJe t'aime... moi non plus明らかに煽情的なサウンドと歌詞が問題になり、日本を含む多くの国で放送禁止指定。日本未発売。ゆえに公式な邦題もなし。洋楽では珍しい。しかし、当時から、なんでか知らないが、何となく聴いていた気がする。直輸入版みたいなのがあったのかも知れないが、今ではよく覚えていない。今の耳で聴いても、けっこう名曲だなあ。酒飲んで聴いてたら、泣いた。フランス映画やフレンチポップスおたくのピチカート・ファイヴ小西康陽が、このサウンド(特にベースラインなど)をどこかで引用していたのを思い出した。原題は、『「愛しているわ」・・・「僕は全然愛してないよ」』さすがエスプリの国フランス、ひねりの利いたタイトルだね。
2024年10月11日
コメント(0)
10ccI'm Not In Love君の写真を、壁のボロ隠しに貼ってある。ただそれだけさ。もう愛してなんかいないんだ。・・・未練たらたらの、哀れな男の孤独な捨てぜりふ。若きウェルテルよ、古今東西、失恋は詩歌の泉である
2024年10月11日
コメント(0)
10ccThe Things We Do For Love僕が愛のために出来ることスペルマは一人一回だいたい2.5㏄、4人合わせて10cc。なんともふざけた名前のバンドだが、1970年代後半の音楽シーンで、センスは抜群だった。
2024年10月10日
コメント(0)
与謝野鉄幹(よさの・てっかん)神無月かみなづき伊藤哈爾濱ハルピンに狙撃さる この電報の聞きのよろしき詩歌集『相聞(あひぎこへ)』(明治43年・1910)神無月十月、伊藤博文がハルピンで銃撃されて亡くなった。この外報を聞いて、日本男児として見事な生き方、死に様だったと私はいっそ痛快に思った。註初代内閣総理大臣で、当時の前・朝鮮総督だった伊藤博文は、明治42年(1909)10月26日、当時満洲のハルピン(現・中国黒龍江省都)駅頭で、韓国人過激派活動家・安重根(アン・ジュングン、あん・じゅうこん)に狙撃され、暗殺された。妻・晶子とともに短歌結社「明星」を主宰するとともに、今でいう保守派知識人のような立場でも鳴った作者はこの知らせを聞いて、激動の幕末から明治維新、そして近代日本の草創期を駆け抜けた伊藤の生き方・死に様を、日本人として、政治家として、男として、人として立派だったと讃えている、一種の壮絶な追悼詠。この目も眩むような凶報を、明治時代の日本人がどのように受け止めたのかが分かる貴重な肉声であり、短歌の形で示された歴史的証言であるとも言えるだろう。漢字を多用し、「聞きのよろしき」という、韻を踏みつつ聞きなれない言い回しの硬質な文体を用い、遺憾なく重厚鮮烈な表現になっている雄渾な秀歌。初句「神無月」は、縁語である「紅葉」を暗喩し、鮮血の赤のイメージを響かせていると思われる。
2024年10月10日
コメント(0)
Eric CarmenAll By Myselfすべて自分ひとりでなんて、耐えられないよ。僕には君が必要なんだ。
2024年10月09日
コメント(0)
中島みゆき地上の星
2024年10月08日
コメント(0)
中島みゆきファイト!吉田拓郎ファイト!
2024年10月07日
コメント(0)
赤い鳥翼をください
2024年10月07日
コメント(0)
若山牧水(わかやま・ぼくすい)児等こら病めば昼はえ喰はず 小夜さよ更けてひそかには喰ふこの梨の実をこほろぎのしとどに鳴ける真夜中に 喰ふ梨の実のつゆは垂りつつ歌集『くろ土』(大正10年・1921)子供たちが病やまいで臥せっている手前昼は食べられず清らかな夜が更けてからはひそかに食う。この梨の実を。秋の虫がはなはだしく鳴いている真夜中に食う梨の実の汁は滴って。註こほろぎ:今でいうコオロギだけではなく、広く鳴く虫全般を指した古来の意味で用いていると見て間違いないだろう。しとどに:はなはだしく。したたかに。ひどく。やや被害的な感情を含意する。ここでは、秋の虫が「うるさいぐらいに」鳴いていて、その合唱と夜陰にまぎれて、といった意味合いか。垂り(つつ):現代語の動詞「垂れる」ではもちろんなく、中近世以降の「垂る」(下二段活用)でもなく、鎌倉時代頃までの、とりわけ(おそらく作者の意識としては)万葉時代(奈良時代)の上古語としての「垂る」(四段活用)の連用形なので、この形になる。動詞「したたる(滴る←下・垂る)」の造語成分。一種の古拙(アルカイック)な素朴さと格調を醸し出している。私の勝手な印象では、牧水はこういった古典文法的な技巧に凝るのが好きで、かつ得意だったと思う。言葉に対して、今でいうマニアックな気質があったのだろう。詩歌人としては、とても幸福な資質だと思う。
2024年10月07日
コメント(0)
『プレバト』(大阪MBS制作、TBS系全国ネット)10月3日放送。今回は、芸能界の俳句の手練れたちが集う、四季恒例のスペシャルの一つ『金秋戦』。ちなみに、金秋は錦秋の古語的表記。金魚などと同様。兼題は「自分で撮った写真」(事実上の自由題)。的場浩司(1位・優勝)三日月や真朱まそほの隠岐に藍の波こりゃすごいわ。もはやプロフェッショナル。ホームラン・バッターによる、さすがの特大アーチ。文句なしの優勝。季語は秋の「三日月」。隠岐の島の海辺の美しい夕焼けの光景を、一幅の絵のごとく詠んだ。「真朱まそほ(真赭)」とは天然の辰砂しんしゃの色のことで、やや鈍色にびいろがかった赤だという(HTMLタグなどの16進法表記で#D57C6Bあたり■)。こんな古語、よく見つけて来たよね。感服。kis-My-Ft2 千賀健永(2位)灯台の周期 星月夜の深閑季語「星月夜」。原作「星月夜の無辺」を、評者で俳人の夏井いつき氏が「深閑」に添削。宇宙的な広がりと孤独感がクールで清冽。句またがり破調が現代詩的。フルーツポンチ・村上健志(3位)長き夜や絵本の丸き角を拭く「長き夜」は秋の夜をあらわす季語。幼子を持つ自身の実生活に取材したという佳句。角の丸まった絵本は乳児・幼児用を示し、小さな子が舐めてしまって涎がついた角を拭いている幸福感。ただ、「読書の秋」と「本」の取り合わせの発想が、わずかに即きすぎでやや類型的、既知感があると評された。FUJIWARA 藤本敏史(4位)銀杏を剥き終へ自由なる十指やや雑で散文的な原作「銀杏の実を剥き終へ自由になる十指」を夏井氏が推敲。臭いが強くて面倒なぎんなんの実の殻剥き作業を終えて、手指がようやく解放されたよという諧謔味。kis-My-Ft2 横尾渉(5位)外苑はさやか一人のカチョエペペ季語は「さやか」(秋の冷涼な空気感)。カチョ・エ・ペペは、イタリア語で「チーズと胡椒」の意味で、文字通りそれだけで味付けしたシンプルなパスタのことだという。なんとも旨そうだ。『孤独のグルメ』を意識して、ややスノビズムに走ってしまったという作者の「孤食の」を、夏井氏が素直な「一人の」に添削。おしゃれな一句。
2024年10月06日
コメント(0)
DAOKO × 岡村靖幸ステップアップLOVE
2024年10月06日
コメント(0)
岡村靖幸愛はおしゃれじゃない
2024年10月06日
コメント(0)
Pet Shop BoysWest End Girlsロンドンの街を覆う夕暮れの憂愁の中で東の果ての川沿いの下町の痩せた少年は西の果ての山の手の優美な少女に魅せられるのさ。当たり前だろ。
2024年10月06日
コメント(0)
赤い鳥 竹田の子守歌山本潤子 竹田の子守唄竹田の子守唄 原曲京都府竹田地区民謡尾上和彦:採譜・編曲高石ともや:補作詞音楽好きの私が、この人生で聴いてきた無数の曲の中でトップクラスに美しく、哀しく、好きな歌である。かたびら(帷子):着物、衣。 cf.) ゆかたびら→ゆかた(浴衣)。もんば(飯):(米が貴重だった時代、かさ増しのために混ぜた)おから。在所:(かつての)被差別部落。放送禁止歌:昭和34年(1959)に日本民間放送連盟(民放連)が定めた「要注意歌謡曲指定制度」により指定された楽曲の通称。罰則はなく、拘束力はないガイドラインとされたが、事実上の強制力を持っていた。また、すでに撤廃されたとされているが、民放での放送禁止の扱いはほぼ従来のままではないかと見られる。NHKは独自のスタンスを取ってきたが、事実上似たような取り扱いをしてきたと見られる。が、美輪明宏『ヨイトマケの歌』が超看板番組の紅白歌合戦の晴れ舞台で披露されたり、歌番組で山本潤子が『竹田の子守歌』を歌うなど、民放より柔軟に判断しているとも思われる。
2024年10月06日
コメント(0)
原由子I Love You はひとりごと同性愛を扱った、エッチで艶笑的・煽情的な内容ではあるが今の耳で聴くと、なんで放送禁止にまでされたのかよく分からない程度の表現である。ほんの少し前までは、このように理不尽ともいえる自主規制(業界の事実上の検閲?)がまかり通っていた。隔世の感がある。放送禁止歌:1959年に日本民間放送連盟(民放連)が定めた「要注意歌謡曲指定制度」により指定された楽曲の通称。罰則はなく、拘束力はないガイドラインとされたが、事実上の強制力を持っていた。また、すでに撤廃されたとされるが、民放での放送禁止の扱いはほぼ従来のままであると見られる。NHKは独自のスタンスを取っているが、事実上似たような取り扱いをしていると思われる。が、紅白歌合戦で歌われた『ヨイトマケの歌』や『竹田の子守歌』など、むしろ民放より柔軟に判断しているとも見られる。
2024年10月06日
コメント(0)
全63件 (63件中 1-50件目)