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京都観光も一巡しました次回は5月~8月 そして9月~12月と更新します観光は観るたびに深く印象付けられます 相変わらずご後援のほどお願い致します賀茂川から鴨川へ】鯖街道から町に出た【出町】で【高野川】と【賀茂川】が合流【鴨川】と名が変わる。今出川橋から望む、合流地点 賀茂川高野川 山に京都五山の一つ 【法】が見えます。(妙法の法)今出川橋から【大文字】東山が見えます。合流して【鴨川】に名が変わります。賀茂川と高野川の合流地点 比叡山が望まれます。
2018.04.30
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【嵐山】女性に人気有る嵐山へ行ってきました。 嵐山電鉄の電車です。市内「四條大宮」から200円均一です。とても便利に成りました。右は、嵐山駅です。駅前に【天龍寺】があります。美空ひばり館も駅斜め向いにあります。【渡月橋】です。左の山の中腹に【法輪寺】虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)智恵の仏さんが祀られ、子供たちの「七五三の祝いに、先に法輪寺にお参りして、智恵を授かり、渡月橋を振り向かないで、子供さんが渡りきれば、智恵が授かると言う伝説で、真剣な様子の子供さん達を見る事が出来ます。大堰川に写る山の景色も、心和みます。天龍寺の紅葉頃のポスターです。紅葉の美しい嵐山そして、嵯峨野一帯は、京都の一つのポイントでしょう。 京都の代表的な景勝地【嵐山】山紫水明。害虫被害の「なら枯れ」もなく、緑一色で人の心を癒してくれそうです。渡月橋の最適のシャツターチャンスの場所。渡月橋の北詰めに建っていますが、殆ど関心なく通り過ぎられます嵐山の【三船祭り】に【車折神社】(くるまざきじんじゃ)よりのお旅所その前に、小さい石橋も【琴きき橋】と記されています。 小督の塚、仮住まいの場所とされています。渡月橋より10mの位置謡曲【小督】で物語れて居ます。【黒田節・第二節】 峰の嵐か 松風か 尋ぬる人の 琴の音か 駒(こま)引き止めて 立ち寄れば 爪音(つまおと)高き 想夫恋(そうふれん)嵯峨野は、女性の観光客の人気No1と言われています。歴史上の、女性の哀話が潜んでいるからかもしれません。嵯峨野めぐりの門出に、【琴きき橋】は見過ごされます。残念なことです。平清盛の頃、宮中で最も美人で、然も琴の名人でもあった【小督局】(こごうのつぼね) が【高倉天皇】の寵愛を一身に受けていました。ところが、高倉天皇の中宮(皇后)は清盛の娘【建礼門院】であったので、烈火のごとく怒り、小督を宮中から追放しました。そして此処嵯峨野に逃れました。然し高倉天皇の思慕は収まらず。家来の【源仲国】に遣わし秋霧のはざまにかすかに聞える琴の音に、此処渡月橋のあたりで馬を留め琴の音の館に立ち寄りますと、爪音高い激しい音でお互いが思いをはせる「惣夫恋」の曲を聴きました。早速宮中に事情を話し、連れ戻されました。その後、高倉天皇の遺言により、東山三十六峰【清閑寺山】麓、国道1号線東山トンネル西出口附近に、高倉天皇陵の側に、小督の墓もあり、共に仲良く眠っています。 渡月橋北詰めから三条通を少し東へ、大きい土産物屋の間に【臨川寺】(りんせんじ) が有ります。夢窓国師(むそうこくし) (こくしむそう)と覚えます、麻雀で手が着かないときに17個全部種類が違う、私も1回体験しました。が建てた寺で、 三代足利義満に墓所がみつかりませんが、戒名として【鹿苑院天山道義】として此の寺におさめられていますが、一般公開はしません。渡月橋の上から嵐山を望めます。三船祭りには、女官が乗船して扇を流す儀式が有ります。渡月橋を南に渡った位置からのシャツターチャンスです。真ん中のお饅頭のような形の山が、【小倉山】百人一首で有名な山です。右手奥には、【愛宕山】が見えます。 大堰川船を浮かべる為に、ダムにしています。正に山紫水明のこころが清々しくなるのを覚えます。 嵐山。大堰川(おおいがわ)の上流は渓谷となり、更に深淵の様相を味わう事が出来ます。川沿いの亀山公園には、今問題の尖閣諸島の中国漁船で、日中関係はギクシャクしていますが、中国の親日家周恩来総理の歌碑 が静かに佇んでいます。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。中国も、世界の世論に感じてか、最近になって軟化しつつありますが、一昨夜のテレビでエピソードが語られました。中国文化革命の際、とう小平首相のもと、赤色を掲げていましたが、信号機も赤は、進めとして、交通事故がたえなかったとか、周恩来首相は、諫めで、「世界万国が信号機の赤は止まれと決まりごとになっているので、それに従いなさい」と。中国の要人が日本を訪れるとき、よく表敬訪問します。日本で学び歌碑まで遺した周恩来の嘆きが聞えそうです。 【嵐山】 【嵐山公園亀山地区】大堰川を後にして、小高き亀山公園を経て、大河内山荘前に歩みました。やはり、女性の組かが多く出会いました。途中二箇所に銅像が立っていました。【角倉了以銅像】大堰川の開削の立役者として、燦然とした形で地元の人が建てました。了以は、過って【瑞泉寺】も紹介しましたが、【高瀬川】遠くは【天龍寺川】の開削にも、貢献有ったとされています。此の銅像は、幕末勤皇家 【津崎村岡局】の銅像です。NHK大河ドラマ【篤姫】にも登場します。名は矩子(のりこ)父津崎左京地元嵯峨の出身で、宮中【近衛忠熙】(このえただひろ)公家に使え、篤姫は鹿児島藩島津家より養女の位で、徳川将軍の正妻に立てられ、其の節村岡の局と親交がありました。勤皇の志士らの運動を助け活躍されました。幕府に捕らえられ江戸で永い謹慎を命じられました。後に徳川幕府は大政奉還し局は、嵯峨に戻り、【直指庵】に隠居附近の子女の教育に尽くされ、八十八歳で逝去。維新の女傑そして嵯峨庶民の慈母として尊敬されました。亀山公園の奥に嵯峨野の【小柴垣】の美しい小道を歩みました。風情が素晴しいです。秋を思わせる、萩らしきものが可憐で撮りました。「アレチヌスビトハギ」と名付けられているそうです。
2018.04.29
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【琵琶湖疏水物語】滋賀県の琵琶湖より京都は低く、 人の知恵で 琵琶湖疎水 が、明治に誕生しました。工学博士 【田邉朔朗】(たなべさくろう) 像 地下鉄東西線【蹴上】下車 【蹴上浄水場】ウエステイィン京都ホテル 隣接して建てられています。京都最高級ホテル。 蹴上交差点初めて電車が走りました。日本初【水力発電所】 レンガ造りが明治を象徴しています。【インクライン】 の堤防。舟を上流で載せて、傾斜を降り下流で離す。【インクライン】 近江の国から、追分峠そして東山を人馬で物を運ぶには難所でした。そこで舟を使って、水路を造り、京の都に運ぼうとしました。疎水の第一目的でした。インクラインに乗せた船を降ろす処、噴水の向うは動物園。舟を載せる所、 インクラインの長さ582m 高低差36m インクラインの巻き検索器ウエスティーン京都ホテル 蹴上浄水場 下水道の水を浄化京都市民の水道として、枯れない水源琵琶湖の水を供給されています。今でも断水は殆ど無く、恵まれました。地名が【蹴上】(けあげ)の名残は、源義経が頼朝に追われ、東北に落ち延びる際に乗馬の名手で(ひよどりごえを実行したほどの)でありながら、落人になると、馬にも蹴られた、エピソードがあり、花筒にも有るように【義経大日如来】石像が祀られていました。 山科からの第3トンネルからの出口。右の方へ蹴上浄水場へ流される。 水力発電に流れる水力発電の水を落とす菅。現在も発電しています。 疎水の流れ南禅寺から哲学の道へと流れていきます。南禅寺・水路閣へと流れていきます。水路閣は、南禅寺の三門の高さと同じ位で、京都の鴨川は北から南へ自然はながれていますが、疎水は南から北へ流され、哲学の道では、其の様が見られます。琵琶湖疏水は、かくして、【水運】【浄水】【発電】【潅漑】 (かんがい)【景観】として多様化して、京都の文化を高めました。疎水の周辺の美しい池の水は琵琶湖から採り入れているのです。 南禅寺 【水路閣】 【田邉朔朗工学博士】田邉朔朗は、1883年 工部大學卒業 現代の東京大学の前身卒業論文に琵琶湖疎水の広大な理想計画が書かれていました。当時の京都府第三代知事 【北垣国道】 の目にとまり、同年にアメリカに視察のために技術を習得。工事は始まりました。ところが、予想以上に工事は難航し、予定期日も大幅に伸び、挙句の果ては、予算超過は大と化し、 「こんど きたがきは ごくどうもの」と名前に合わせて、なじられました。学生ごとき夢の様な、計画をとりあげるからだと。然し、近江より二ヶ所の険しい峠を舟で運ぶだけで、とても助かり、運送の便も増えました。巨大な琵琶湖の水は、市民からは水道の枯れた事が無くなりました。あえて琵琶湖と京都まで緩やかに疎水を流し、蹴上(けあげ)での高低さを36mとし、舟はインクラインで岡崎の水に浮かびました。そしてどっと落差に水を落とすことで、日本で最初の 水力発電が実現しました。誰も考え付かないまでもアメリカで文明のはしりを学んだからでしょう。其の電気で、京都駅の近く塩小路高倉から伏見油掛け通(寺田屋の近く)これまた日本最初の チンチン電車 が走り出しました。2号電車は、平安神宮外苑に置かれて今でも見る事が出来ます。難波大阪より、水路 伏見港へ そしてその後、市電は 岡崎まで延びて日本最初の 「万国博覧会」 が盛大に行われました。疎水の水は 潅漑(かんがい) にも利用され、平安神宮の池をはじめ南禅寺各寺・永観堂の池そして別荘の池は、絶えることのない清流で人の心を癒してくれています。哲学の道を北へと流れ、北部 【松ヶ崎浄水場】まで水道を確保しています。一時はなじられた、北垣知事の英断は、現代の京都の近代文明に広く貢献し、疎水の下流に銅像が建てられて、讃えているようになりました。歴史は蔭にこうした功労者があって、現代恵まれている事にあらためて感謝したいです。
2018.04.28
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先日長岡天満宮を御紹介しましたが 京都市内の北野天満宮を観てみたいです毎日は25日、京都では天神さんの日として、縁日が立ちます。学問の神様として、受験者の方々は熱心に祈願に訪れられます。京都の昔からの慣わしに、「弘法さん」と「天神さん」とはとても仲が悪くって、東寺の弘法さんの21日が雨だと、25日天神さんは晴れると云っています。 【北天満宮野】祭神 菅原道真 中将殿(道真の長男) 吉祥女(道真の夫人) 学問の神様として【菅原道真公】が祀られて居ます。修学旅行では、日程に欠かさない貴重な参拝する場所でもあります。車中生徒さんに「祭神は?」と聞きますと返答に困る子が居ました。折角進学祈願するのに、お願いする相手の名ぐらいはと。 【菅原道真公が雷神にも】菅原道真公は平安時代の公家であり「右大臣」まで成られました。11歳で詩を詠まれるほどの文才がありました。醍醐天皇の時代、左大臣「藤原時平」の讒言により、右大臣「菅原道真」は、朝敵として、京の都から、福岡の大宰府に左遷されました。「道真公」の無念は、推し量ることが出来ないほどでしょう。北野天満宮には、臥牛の像が多く置かれています。その訳は、丑年の説と、今ひとつ流される途次、備前岡山の辺りで、道の真ん中で、牛が臥せて動きませんでした、従って道を変更されました。後で判ったことは、時平配下の刺客が待ち臥せて居たのを、その難を逃れられたと言う伝説も有るようです。都を離れられるときに、菅神社(私邸)の梅の花に向かわれて、東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ都の真の春を忘れないで、良き香りを東風に乗せて送ってくれ。とも受け留められる、菅公の歌でした。その後、雷神として、京の都は、雷と稲妻が激しく襲いました。時平は、恐れおののいて道真の怨霊が襲ったとして、狂い死にしたそうです。左大臣は、右大臣の上位に位置することで、権限を悪用した時平の疾しい心が、道真の怨霊と思いつめての結果で、地震・雷・火事・・・大自然の怖さが重なったと思われます。北野天満宮では、学問の神様と同時に、雷の神様ともされています。一の鳥居の側に、【影向松】(ようこうのまつ)が有ります。道真公が、初雪の日に、この松にご来臨あり、歌を詠まれるとして、社紋の梅と同じく社紋の「三蓋松」(さんがいまつ)の由来とされています。良心の呵責により、怨霊と思うのでしょう。歴史には多く現れてくるようです。現代も、学問の神様として、崇敬され親しまれています。「春な忘れそ」 初雪に天神さんがこの松に降りて来られる提灯に三葢の松(さんがいのまつ) 北野天満宮の家紋の一つ【本殿】【国宝】8棟の形式は「日光東照宮」にも継承され【権現造】の本源とされています。 【北野天満宮の祭礼25日の由来】845年承和12年6月25日誕生・延喜1年1月25日大宰府に左遷・延喜3年2月25日逝去【菅原道真】と【臥牛】(がぎゅう)本殿の拝殿の大鈴の上の欄間だけ立っています。 1.道真の誕生の年が,丑年。2.道真左遷の途中牛が道の真ん中で坐って動かず、避けた道を経ることで、時平の刺客から免れましたとか。3.道真が亡くなって、棺を引いた牛が墓に行く途中、へたりこんで動かなくなりましたので、 近くの「安楽寺」に葬られました。即ち現代の【大宰府天満宮】でした。【三光門】(中門)太陽・月・三日月の装飾が観られます。星は「大極殿」から拝殿に向かうと 「北斗七星」が見える仕組みと成っていますそうです。梅も家紋三光門【伴氏社】(ともうじしゃ)祭神が道真のお母君「伴氏」祀られて居ます、京の三珍鳥居の一つ 鳥居の足許が、蓮の花に成っています。外に、「蚕の社」・「京都御所」道真は親孝行でしたから、母上の「伴社」(大伴家持の子孫)に先お参りすれば、合格出来るかもといいますと、小さい社に真剣手を合わせていました。 【御土居跡】本殿の西側に豊臣秀吉が洛中を囲んだ御土居跡の公園が見られます。【梅園】道真が都を去るときに詠まれました。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」豊臣秀吉が、北野天満宮で「大茶会」を催しました。その道中、現場の近くに至った時、喉がかわき、とある小さき寺に「おい、茶をくれ」と言ったのでしょう、尼僧は体よく断ったそうです。そこで、秀吉は怒ることもなく、「湯たくさん 茶くれん寺」と名付け現代に至って居ます。北野天満宮の境内の表側に、「北野天満宮・大茶会の跡」の石碑と「太閤井戸」が示して有りました。
2018.04.27
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宮内庁は4月17日、来年10月の「即位礼正殿の儀」で、新天皇が即位を宣言する際に使われる「高御座(たかみくら)」と新皇后が上がる「御帳台(みちょうだい)」を京都御所(京都市)で公開されました【君子南面す】都は栄える 正門【建礼門】葵・時代祭の出発点 堺町御門葵祭・時代祭はこの門から外へ京都御苑の一部もみじの新緑が芽生えていました 山桜開放された御所正門【建礼門】葵祭・時代祭の出発点です車寄せ紫宸殿の回廊紫宸殿の回廊紫宸殿の正面左近の桜紫宸殿右近の橘(白い花を付ける)紫宸殿扁額 紫宸殿正面から開かれた【建礼門】を望む小御所の庭園小御所の庭園寿老人が杖と扇を持って鹿と対峙長寿を寿ぐ鶴の絵は、寿ぎから御殿内に200羽ほど画かれるいるとのこと御所の桜
2018.04.26
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四明ケ嶽】 (しめいがたけ)839m比叡山の頂上】 一般に比叡山と言われる山の頂上を 四明ケ嶽と称されています山頂の回転展望台比叡山の頂上には、遊園地と360度回転展望台があります。遊園地の各所に、「モネの陶画」が飾られ、池には、モチーフの蓮が咲いている時があります。回転台からは、京都市街・鞍馬・大原・琵琶湖大橋・大津・瀬田大橋が順次眺められます。 苑内各所に「モネ」の絵が見られます。 「将門岩」(まさかどいわ)・「純友岩」(すみともいわ)が頂上近くに存在します。•935年 藤原時平(左大臣)・菅原道真(右大臣)の頃、平の将門と、海賊の首領藤原純友とが、この岩の上に立ち、広大な絶景を見渡していた将門が純友に「お前は西日本を取れ、わしは東日本を取る。同時に事を起こして、再び此処で会おう」と約束したが、反乱は鎮められ再会は適わなかったという、言い伝えが有ります。岩だけが未だに残っています。以前は「将門岩」の標識が立っていましたが、今は苑内の案内書からもなく、苑内の管理女性に聞いて確かめました。ロマンがなく惜しまれます。将門岩眼下に琵琶湖が見渡せます。琵琶湖帰りは、京都方面に、「空中ケ-ブル」と「ケーブル」で 「八瀬」(やせ)に降りました。 空中ケーブル 空中ケーブル ケーブル 八瀬(高野川の上流)比叡山いかがでしたか
2018.04.25
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東塔】 【阿弥陀堂】阿弥陀堂 阿弥陀如来像 阿弥陀堂前に【水琴窟】 根本中堂の本尊が、薬師如来でした。 【西塔】常行堂と法華堂弁慶が担ったという。 「東塔」から奥比叡ドライブウエイで自動車から降りて、暫く歩を進めますと、【常行堂】(じょうぎょうどう)と【法華堂】(ほっけどう)とが廊下で結ばれています。弁慶が両堂を担ったという伝説から「弁慶のにない堂」と称されています。 【常行三昧】(じょうぎょうざんまい)慈覚大師円仁が五台山から伝えた修行法で90日間堂内を阿弥陀仏の名を唱えながら回る行といわれています。断食・苦行そして祈り皆功徳となるのですね【釈迦堂】国宝・釈迦堂 【横川】 (よかわ)【横川中堂】 慈覚大師円仁の開創 本尊 観音菩薩 【元三大師堂】(がんざんだいし)慈恵大師とも言われその住坊跡です。正月三日になくなられたので、「元三大師」とも言われ、【おみくじの元祖】とされています。 続いて山頂に参ります
2018.04.24
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私の青春期に育った天台宗の環境でした。伯父二人が麓、坂本の地の大僧正で、特に二番目の伯父は天台宗第250世天台座主にまでなりました。とても慈悲に富んだ心の優しさが心に残ります1959年11月遷化 末っ子の弟であった父も其の12月後を追うように亡くなりました余程頼りに成っていた兄であり高僧だったのでしょうね伯父の念願が適い遷化後世界の宗教はひとつ此処延暦寺で世界宗教サミット第一回が開かれましたローマ法王もご臨席になられ世界平和を祈られました【比叡山】 【延暦寺】比叡山から琵琶湖を望む世の中に 山という山は 多けれど山とは比叡の 御山をぞいう 慈鎮和尚 根本中堂根本中堂延暦寺は東塔・西塔そして横川(よかわ)の三塔からなり、【根本中堂】 (国宝)(こんぽんちゅうどう)【阿弥陀堂】【釈迦堂】さして【横川中堂】があります。 見渡す緑の山林の一木一草にも、伝教大師の精神が染み渡り人々の心のふるさととも申すべき聖地でもあります。根本中堂 開基 最澄(伝教大師) 世界文化遺産に登録 平安京の王城鎮護の役も務める。都の丑寅(北東)鬼門の位置にあります。 今から1200前延暦4年(785) 伝教大師最長が、19歳の時に山上に草庵を結ばれ、山川草木一切のものに、「仏性」が宿ると感得され日本仏教の母山と称せられる様になりました。 伝教大師の教えで、 【亡己利他】 (もうこりた)己の欲を無くし、人の利になるよう、常に心掛けること。 (注 私のプロフイールの座右の銘としています。)【一隅を照らす。これ国の宝なり】 その人の存在により、その周囲を明るく照らす。されば世の中は、平和であり、国の宝となるでしょう。 【東塔】【大講堂】僧侶の学問所で、本尊 大日如来 脇侍 弥勒菩薩・観音菩薩延暦寺を本山とする、伝教大師を始祖とするも、経典の解釈に従って、山で修行の結果、各宗教の始祖として、分かれて行きました。空也・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍 等その扁額が堂内飾られています。他には、桓武天皇・中国天台大師・聖徳太子・伝教大師・十大弟子大講堂【開運の鐘楼】自由にお願い事して撞けます。合掌されて余韻の音を聞かれると何ともいえない神々しさを感じます。【根本中堂】 【国宝】【延暦寺の総本堂】三代将軍徳川家光が再建•1. 本尊【薬師如来像】は、伝教大師最澄が刻まれた•2. 本尊の前に1200年間と灯し続けられています【不滅の法灯】が輝いています。織田信長の焼き討ちに会いましたが、山形県立石寺の分灯により、受け継がれています。ここから【油断】が生まれました。•3. 須弥壇のある【内陣】が【参拝者】の坐る中陣・外陣より低い谷底の様な場所にあり、仏像や法灯が参拝者の目の高さに来ているのは、「仏も人も一つ」と言う仏教の【仏凡一如】の思想を表現している意で、僧侶は低い内陣から祈祷されています。即ち天台宗の仏殿様式は、僧の謙虚さを表しているとも思われます。•4. 中陣は、挌天井形式で、板には、百花の図柄が掲げてあり、家光により、各大名が献花したもようです。•5. 太い檜の柱は、一本の木の芯を避け、4分の1の柱で、原木の太さが想像されます。同じ「東搭」ですが、「講堂」より西の方に、【阿弥陀堂】が有ります。阿弥陀堂阿弥陀如来像【西塔】 「東塔」から奥比叡ドライブウエイで自動車から降りて、暫く歩を進めますと、【常行堂】(じょうぎょうどう)と【法華堂】(ほっけどう)とが廊下で結ばれています。弁慶が両堂を担ったという伝説から「弁慶のにない堂」と称されています。この両堂で、修行僧が、「朝題目」そして「夕念仏」日毎に唱えておられます。【常行三昧】(じょうぎょうざんまい)慈覚大師円仁が五台山から伝えた修行法で90日間堂内を阿弥陀仏の名を唱えながら回る行といわれています。【転法輪堂】(てんぽうりんどう)【釈迦堂】三井寺の「金堂」を 移築された建物で、山内で最も古いものとされています【横川】(よかわ)【横川中堂】慈覚大師円仁の開創 本尊 観音菩薩【恵心堂】(えしんどう)恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が念仏三昧にすごした所です。【元三大師堂】(がんざんだいし)慈恵大師とも言われその住坊跡です。正月三日になくなられたので、「元三大師」とも言われ、【おみくじの元祖】とされています。「横川中堂」からの道中に、西国三十三ヶ所観音霊場が第1番から順次観音像を辿っていきますと、「元三大師堂」に至ります。殆ど人気がなく、静かな雰囲気で回れます。明日は、西塔の写真と比叡山の頂上
2018.04.23
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本堂阿弥陀如来【大善寺】(六地蔵尊) 浄土宗京都 六地蔵 宇治 JR六地蔵 京阪六地蔵 市営地下鉄六地蔵私の住む町内に京都の都の出来る前、705年造られた寺院があります。小野篁(おののたかむら)といって小野小町の従妹、歌人が一度、息絶えて黄泉の世界でお地蔵さんがせっせと火の海の人たちを錫杖(しゃくじょう)で救い出そうとしておられるところに出会い、そしてお地蔵さんから、お前はもう一度娑婆に帰って、地蔵信仰を深めよと再び蘇ったという、伝説がこの六地蔵の存在で、信仰が高められています。そしてお地蔵さんの言われた通り 木幡山の木で六体のお地蔵さんを造り京都の都への街道入り口に夫々一体を祀り 厄除けとして護られました8月22日23日は 六か所を巡る【六地蔵霊場巡り】が行われその根本道場となっています大善寺門前 門前に掲げられた今の住職さんのおことば つつじと阿弥陀堂 浄土宗・阿弥陀堂(本堂) 六角堂の地蔵堂 平安時代作 重要文化財 千手観音堂 徳川秀忠の娘・東福門院【千姫】の安産祈願の寄贈の釣鐘 千姫は大善寺の近くにあった伏見城から船で大阪城に嫁がれました 総本山知恩院布教師会 副会長 羽田 恵三 大善寺和尚さんの住寺されたお寺です街の老人会主催のお話しか゜老人向けの遺言となりましたがお盆前記してみますお盆に当たり私の地元で大善寺のご住職て且つ浄土宗知恩院での布教師NO2の法話が 貴重な遺訓になりました。宗派を問わず、人生の生き様が要を衝いておられますのでご参考までに。 六地蔵・大善寺 桃山東公会堂 地区老人会での法話を筆記したものです。この時は未だ筆記が出来ました(平成16年)地元【六地蔵】【大善寺】の和尚さんでこのお話後3ヶ月して、癌のため遷化されました。とても愉快な方でした。奥様もその1年後に同じく癌で亡くなられました。 夫婦仲もとても良かったのですね。先祖の大切さが印象に残ります。 総本山知恩院布教師会副会長 羽田 恵三(はだけいざん)大善寺和尚さま【心 やわらかに】 平成16年3月2日和歌山では暖かつたですが、京都に帰ると今晩は特に冷えますネ。でも何処となく春の兆しを感じます。皆さん眠かったら【幸せ者】どうぞお話を聞きながら眠ってもらって結構ですよ。(一同笑い)豆電球でも眠れない。 何か音が聞こえても眠れない。一杯ひっかけないと眠れない人が居られます。 大善寺は1200年の歴史があり【小野 篁】(おののたかむら)が六体のお地蔵さんを奉られその後、後白河法皇の信仰により、平清盛に命じて京都の各街道の辻に分けて奉られました。その中でも大善寺のお地蔵さんは、最も美しく【所願成就】として願い事を敵えて下さいます。 何が幸せか? 三つの要素があります。 身(健康) 命(長生き) 財(遣って困らないお金)でもこれらが揃って果たして幸せでしょうか? この場に皆様が居られるのも健康だからでしょう。 長生き人生生涯50年と云っていた時代があります。昭和20年の平均寿命でした。現在、少子化・高齢化によって 男 78歳 女 82歳 そこまで生きなければ、損したみたい。 平成8年に金さん銀さんが知恩院に法然上人が80歳で亡くなられたので80歳の方60名と共に来訪ありました。 何処へもお堂中黒山の人だかり。新幹線でご一緒しました。姉の金さんは前の席其の後ろに銀さんの席またその其の後ろに私が居ました。 金・銀・坊?(一同笑い)お姉さんの貫禄、握手攻めで、ここでは良い気分でも、 家に帰れば蒸しタオルが真っ黒。そしてハイポーズ(坊主)と(又笑い)100ばん・100ばん(ダスキン) 嬉しいような悲しいような、 長生きしたばかりにつらい日も多く共に味わった。今や100歳以上2万人。床に付かれたままで周りでお世話する人も大変。 財 お金が有っても邪魔なものでない。然し、大金持ちのお爺さんが医者に「時間の問題ですよ」と言われ、息子達は銀行から現金化して回った。三個の ミカン箱を何処にしまおうか、火をつけられたら大変、 考えに考えて天井裏に、そして夜もおちおち休む間が無かった。 お経の中に 【有田・憂田】 【有宅・憂宅】田が有れば、田によって憂う。邸宅が有れば邸宅で憂う。 世の常。 【唯、何の苦もなく水鳥の、足に暇なき我が思いかな】水戸黄門の歌ですよ。世間で名高い、先の副将軍 水戸の光圀公にあらせられる。 【娑婆】(しゃば) 仏教の世界から見て、俗世界のこと。インドの言葉で、忍耐する意味 【堪忍土】お互いが、許しあい、辛抱しあっていく世界。 幸せと思われる 【身・命・財】に満たされないのは【器】(心)ここが立派に耕されるかどうかが大切です。 【持つ人の受ける器で 宝とも仇ともなる 黄金かな】 お釈迦さまが手の中に砂を握られた。そしてこの一握りの砂と大地の砂とどちらが多いか?弟子達に問われた。勿論大地の砂です。と答えた。 そこで、人としてこの世に生を受けしは、この手の砂ほどであると。 また、糸を天井から吊るし、海底にある 【針孔】(めど)針の穴に通ずる確率は本人 両親 祖父母 曾祖父母 ・・・・先祖25代にして3,355万4432名の先祖の末裔である 尊い生命出生。 本来なら存在しない自分の姿。この世に生ある親の恩。確率は、お母さんのお腹の中で十月十日、お腹の中で亡くなることもある。よう産んで下さった。 今日の私の生命に関わる事ですぞ。【咲いた花にて 歓ぶならば 咲かせた 根元の恩を知れ】枝があり、葉っぱがあり、その下に根が有ったからこそ。この世に人として、生ある事即ち立派なエリート。 お釈迦さまの反対の親指に砂が残った。その数は人間として目覚めた人として、真の目的に達した人の数。 この世に何をする為に産まれて来たのか? 楽しい目先の目的要素に拘らず、人間の本当の目的は? 癌の専門医が2,000人の患者から、癌の告知をして最後に立ち会った。 死を迎える場合、諭す医師の手を掴んで、最も多かった言葉は•1. 遺して行く家族・子供が心配。•2. 先生、助からんとして、死んだらどうなるの?•3. 色々して来たが、振り返ってこの世に何をして来たか?癌が克服出来たらどれほど安心か。一度しかない人生そして必ず訪れる死。「おぎゃ」と産まれたら、種を抱える 【因果応報】死の縁は無量。 (この時、敢えて癌の告知の心境を話されたことは、 今思えばご自身に降り掛かった闘病を語られたと思われます。3ヶ月後示寂されました) 女性の漢字の推移 娘 嫁 嬶 姑 婆 (一同笑う)ハハ にご褒美を上げると ババ チチにご褒美を上げると ヂヂ(更に皆が笑う) お金で長生き出来る訳でもなく、総理大臣になっても 小渕さんの様に気を使って早死にする。 四苦 生老病死八苦 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五陰盛苦 私の一生何処から産まれて、何をするために、命が亡くなったらどうなるのか?生きている内が花。見た事、行ったことの無いあの世。見て来て帰ってきた事がない世界。釈迦の信仰を信じて極楽浄土を目指すことが、人生の目的。【臨死実験】死ぬ1歩手前。意識がなくなって、共通して、遠き昔は平安時代そして西洋でも、アジアでも科学的証明がなされています。京大教授 カールベッカー氏死の瞬間のメツセージ15年前 のぼり・たくろう氏がバス停で大型トラックに触れ大怪我殆ど即死情態で、お医者さんもお手上げ、霊安室に置かれた。塩沢先生(29歳)は成りたての医師集中治療室で、50日目にして、意思が取り戻されました。 ゼスチァーで何ぺーじにも書留められた。 【付合有体分離】 心が離れ、自分の身体を外から見て、生まれた時からずーとみている。カナダに旅行してアヒルを追っかけてたり、真っ暗闇で、一人ぼっち。其の内に、小さい光が見えた、長い暗闇のトンネルを出ると川があり、桟橋に白い髭のお爺さんが立って居られた。舟は川上へ川上へと昇り、得も云えぬお花畑が広がった、絵描きさんに描いて貰っても、首を縦に振らなかった。画がけられない程、神秘的風景であつた。 そこへ一人のお爺さんが「きさくか?」と父の名前を呼ばれた。首を横に振ると「お前が噂に聞く、たくろうか?」そうですと答えたら「お前は帰れ」お花畑を逃げ廻って、3回繰り返し舟に乗った。長い行列の最後に自分が並んでいた。閻魔さんのもう4人目になって「たくろう・たくろう」と呼び名で目が覚めた。 お花畑のお爺さんの特徴を言葉遣いで描くと、たくろうお前のお曽祖父さんや、お母さんの祖父で写真を見せるとこのおじいちゃん眼鏡をかけていなかったよ。と 極限の状態になったとき、私は経験していないので何ともいえないが、 カールベツカ氏の特徴的お話です。 夢ならお爺ちゃまは解からない。 生命が終わり、仏さま・神さまのお家に行ける様に、今日の日を大切に暮らしましょう。 死後のお手本が無い。然し人のお世話にもなり、お米もただでは食せられない。生命の手間賃として三度の食事で前後、両手を合わせて感謝しましょう。 親が拝めば、子も拝む。お手本を示しましょう。小さい子は身に付くものです。 お陰が無ければ、自分の本当の姿は見えません。 【振り向けば、ご恩を受けた人ばかり】自分の本当の姿に気付く事の大切さ。動物も生きている。無益な殺生はしない様に。 自分の尊い生命を授かり、相手さんの立場が考えられる。 もう物の時代では無い。 心の教育が大切。 今日の本当の姿を形に表して行く。親の姿で育てて行く事。 忙しさに、心の在り方を忘れがち、 合掌の後ろ姿をそして心を残して行くことは難しい。 仏さま・先祖に手を合わせることは、宝物で有ります。* 12年前に伺った法話、人間の一生の反省と お恵みを感謝して読み直す次第です
2018.04.22
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【将軍塚清龍殿】 天台宗【平安遷都】桓武天皇は784年に都を奈良から長岡京に移されましたが何かと事故が起こり呪われた地となり長岡京遷都から10年後の794年(延暦13年)(なくよ うぐいす平安遷都)この将軍塚の地にて、【和気清麻呂】が狩に事寄せて、【桓武天皇】を案内し、三方山々に囲まれ、絶好の都の地として、「此処に都を移そう」と決意された場所でもあります。中国の故事に「君子南面す永久に栄える」とあり東山北山そして西山の三方に囲まれ自然の要塞でもありました 南は平地で浪速に通じます因みにこの地で平安遷都を決められた日が延暦13年(794)10月22日で毎年、時代祭りを10月22日に行います。 天皇は都の鎮護のため 将軍の形をした人形を土に埋めて据えられたことから将軍塚と言われるようになりました平成26年10月 四方の方角を司る四神のひとつ青龍が護る東山に4年越しの工事で【青龍殿】が完成しました 護摩を焚いてご祈祷する内陣と国宝青不動明王を安置する奥殿 そして外に張り出す大舞台清水寺の4.6倍 今まで観光の穴場としていましたが新名所として多くの観光客が訪れています 写真でご紹介します青龍殿と将軍塚昔の儘の門とシャトルバス 100円→青蓮 青龍殿入り口国宝青不動尊明王安置 護摩の祈祷所大日如来石像は青不動明王の 右側に移動されて祀られています青龍殿の横を通って大舞台へ舞台ら青龍殿を望む舞台比叡山 大文字そして吉田山右手手前永観堂鴨川 下鴨神社糺の森 妙・法拡大で見れます北山連峰京都御所と二条城 君子南面す御所左の指が実感真如堂と黒谷 吉田山西の観覧席から遠く愛宕山 五山送り火鳥居も見えるそうです西山連峰西側観覧席から五山の送り火は皆見渡される幻想的な場所になりました 舞台からの出口西の観覧席はそのまま苔庭枯山水庭園 年が経ては 改装前の将軍塚 三鈷の松(さんこのまつ)松くい虫の被害で枯れてしまいました惜しまれます松は二本ですが 此処には三本の珍しい松があり持ち帰って三福の幸せを得るとお寺さんの勧めでご案内したお客様には好評で100%お持ち帰り為さいました永観堂にもあります 皆さんに幸せを運んで 3年前植木屋さんも護れず枯れたと受付のお爺さんがアルバム見せて眼を潤んでられました
2018.04.21
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2014年4月30日の貴重な昔の舞台の記録です現在青龍殿として広い展望舞台が出来上がっています明日現在の将軍塚ご紹介します 京の都の北西嵯峨野の山上に、桓武天皇の皇子「嵯峨天皇」の 御陵をご紹介しましたが、その平安京を遷都された誕生の地が 清水寺の裏手の東山ドライヴウエイを経て辿り着けます。 京都の街を一望出来る【青蓮院別院】の庭園は皆様とても感動されました。 長岡京が乱れ、和気清麻呂が桓武天皇に狩りに行きましょうと 東山のこの地に誘われ、三方が山に囲まれ、中国の易にも敵う 都造りに相応しいと、進言し、天皇も盆地を見下ろし納得された ようです。そして鎧兜を着せた将軍の人形をこの地に埋め 都を護ってくれるようにと「将軍塚」も建てられました。 【平安遷都】 10年後の794年(延暦13年)(なくよ うぐいす平安遷都) 「長岡京」より「丑寅」「北東」に【平安京】が誕生しました。 【青蓮院別院・大日堂】天台宗 別名【将軍塚】 入口の門 本堂。石仏 大日如来が祀られています お客様が京都の街を一望出来る、東山三十六峰の「長楽寺山」 の頂上に【将軍塚】があります。東山ドライブウエイの 「花山天文台」とは反対の地で、「大日堂」境内に拝観券を納めて 入園して下さい。展望場所は二ヶ所有ります。 庭内 展望台が高く築かれています 展望台からの庭園 この将軍塚の地にて、【和気清麻呂】が狩に事寄せて、 【桓武天皇】を案内し、三方山々に囲まれ、絶好の都の地として、 「此処に都を移そう」と決意された場所でもあります。 政治の中心として、都造りに、中国の「風水」とか「地相」 「四神相応」も参考にされ、中国では「君子南面す、 都は永久(とわ)に栄えるであろう」京都御所から南面した形 に成っています。国名も、山を背にしてか、「山背」から「山城」 と変えられました。 京都南方の市街展望 京都御所が四角の森で囲まれて見えます 君子南面すの形で 一般家庭でも、太陽の道として、南側に居間の有る建築様式が 望ましいようですが、近代建築はそうも言っておられません。 【将軍塚】には、此処も王城鎮護のため武将像を土で造り、 兜・鎧を着せ弓矢と太刀を持って、土壌の中に、西向きに埋めら れて居ます。 将軍塚 3月ごろには、紅白の「枝垂れ梅」が可愛く咲き、4月には桜が 、秋には紅葉と素晴しい庭園に成っています。 「三鈷の松」(さんこのまつ)と称して、松の葉っぱが「三本」と 珍しく、「三つ願い事が適う」と言ってお客様に渡すと、 100%持って帰られました。受付でも尼僧から戴けます。 三鈷の松(さんこのまつ) 普通2本が珍しく3本あります【現在松くい虫の被害で枯れてしまい姿を消しました】 京都の景観、そして観光客もご存じなくってか、殆ど訪問されず 、静かな「穴場的観光地」とも言えましょう。京の都は、恵まれて 1200年余の歴史と文化伝統等遺し、日本全国の「故郷」として 現在も憩いの場所として、皆様を待ち続けています。 因みにこの地で平安遷都を決められた日が 延暦13年(794)10月22日で毎年、時代祭りを10月22日に行います。 比叡山・手前が大文字山 京都五山の送り火は全部観られるところです
2018.04.20
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京都に都が移される前に 10年ほど京都府長岡京市に都を定められましたが、怨念の重なる出来事が起こりました。 【長岡京遷都】 784年(延暦3年)【桓武天皇】が、腐敗した政治の立て直すために【奈良の平城京】より都を、京都より大阪よりの西南方向、乙訓郡(向日市・長岡京市)に【長岡京】として遷都されました。その大極殿跡地と当時の都の地図の看板が、阪急西向日駅前の近所に、こじんまりした住宅街の公園にありました。中央「朱雀大路」を横切って、小畑川が斜めに横切っていました。何だか不吉な予感がしました。只でさえ、地元住民は、「暴れ川」と懸念されるほどに、桓武天皇と弟君「相良親王」(さわらしんのう)との間に天皇の重臣の変死に疑問を抱き、「乙訓寺」に幽閉され、そこで亡くなりました。怨念を恐れ、京都には、霊を慰める為に、「上御霊神社」「下御霊神社」が祀られています。 そして川の氾濫による、疫病が蔓延し、「呪われた都」と化しました。 地元「大原野神社」には、女官の方々の奈良への想い出が忘れられず、「春日神社の分身」を祀り、奈良の「猿沢の池」に対し「鯉沢の池」が現在も長岡京の、面影を残しています。 平安遷都に祈祷を大切にした由来が、長岡京での出来事から始まります。 奈良の平城京から長岡京に遷都2年目にして、都造りの総責任者【藤原種継】(ふじわらたねつぐ)が何者かに暗殺されました。反勢力の「大伴一族」として、その中に桓武天皇の弟君【早良親王】(さわら)も、疑いを掛けられ【乙訓寺】に幽閉されました。早良親王は、そうではないと、断食されて身の潔白を計られました。挙句、小豆島に配流の途次、餓死して果てられました。その後、近親に病死とか不幸が次々起こり、その上「暴れ川」が氾濫し、疫病が蔓延しました。桓武天皇は、弟の呪いとして、僧に祈祷を続けるだけでなく、死者に【崇道天皇】(すどう)と、称号を与え京都の高野川上流、上高野の地に【崇道神社】の祭神として祀り、上御霊・下御霊神社にも,鎮霊のため祀りました。後に、弘法大師さまも幾度となく菩提を弔うべく、十三の塔を建てて、霊をなぐさめられたそうで、弘法大師さまゆかりの寺として、何時しか、美しい牡丹で、飾られ、早良親王への無念さを偲ぶようになりました。弘法大師さまゆかりの寺 十三の供養塔 本堂 美しい牡丹の名所早良親王の霊が安らかに憩われますように。長岡京市には、平安京の前に、呪われた都として10年で長岡京から平安遷都されました。日本三怨霊 平将門・菅原道真・そして早良親王の二人が集う 昨日の菅原道真公とともに悲しい歴史が偲ばれます。明日は青龍殿平安遷都を決められた将軍塚に参ります
2018.04.19
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平安遷都の前に 奈良から一時長岡京が有りました然し洪水や良からぬ事件が多発し 794年京都に都を移されました菅原道真公の無念の気持ちを偲びつつ訪問し てきました。菅原道真公を祀る北野天満宮は学問の神様として有名ですが京都市から大阪よりの、長岡京市にも長岡天満宮があります。樹齢150年のキリシマツツジが4月末に最も華麗です。都が奈良から此処長岡京に遷都した場所でもあります長岡天満宮とキリシマツツジキリシマツツジの参道【長岡天満宮】 長岡京市 祭神 菅原道真公菅原道真公は、生前 歌人 在原業平と共にこの地で詩歌・管絃に甚く興じられていました憩いの場所ともいえます。後に、左大臣藤原時平の妬言で、右大臣であった菅原道真公が九州の大宰府に左遷されることになり、その道中此処長岡の里に立ち寄られ「わが魂 長くこの地に とどまるべし」 と 名残りを悔やまれたそうです。後の世に、その想いを留めるべく、道真公ご自身作の像を祀られました。朝廷からの信仰も厚く、後に桂離宮創設者 【八条宮智仁親王】が更に境内を広げ、【八条の池】が皆さんの憩いの場所ともなっています。八条の池向かいに見える家屋は【錦水亭】(きんすいてい)筍の高級料理店です。長岡京市は筍の産地として有名です。八条の池樹齢百五十年のキリシマツツジ長岡天満宮本殿昭和14年に平安神宮の旧本殿を移築されたものです。長岡天満宮本殿前学問の神様として此処もお参りが堪えません。やはり牛が臥しています。菅原道真公と臥牛菅原道真公のお誕生日 承和12年6月25日 (845) 遷化日 延喜 3年2月25日 (903) 58歳逝去何れも、丑年に当たります。そして25日も一緒で 天神さん日として縁日にもなり、親しまれます。京の都から大宰府に左遷されるときに、時平の刺客が構える街道で牛が臥して動かず、安全な街道に導かれて事なきを得たそうです。菅原道真公が亡くなられた時、遺骸を牛車で運ぶ途中やはり牛が臥して動かず。道真公の遺言通りその地に墓所安楽寺に葬られたとのことで、大宰府天満宮が祀られました。牛の臥している姿は此処から採られたともいわれています。明日は同じく「長岡京市」にある牡丹の寺【乙訓寺】に参ります。
2018.04.18
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此処も勅使の遣わされる神社です5月15日には葵祭が行われます葵祭りの上賀茂神社と下鴨神社が共に世界文化遺産に登録されています。国宝の建物があるからでしょう。歴史を感じる神社で、勅祭とされ、勅使の使わされる伝統行事でもあります。 賀茂と鴨と 字を変えています 【下鴨神社・賀茂御祖神社】 (かもみおやじんじゃ)世界文化遺産に登録本殿【東本殿】【国宝】祭神【玉依姫命】(たまよりひめのみこと)娘 【西本殿】【国宝】祭神【賀茂建角身命】(かもたてつぬのみのみこと)玉依姫の父 京都の街を高台から眺めますと、京都御苑と賀茂川と高野川とがY字型に挟まれたところにこんもりした森が目立ちます。 糺の森【糺の森】 (ただすのもり)と称して、参道がとても自然界の様に親しまれます。隣接地に「家庭裁判所」があります。神様の時代でも「糺された事」があったのでしょうか?今一つ川の「三角州」の事を「只洲」とも言うそうです。 さざれ石【さざれ石】 国歌「君が代」に歌われています。【連理の榊】2本の榊の木が上部で1本に繋がる不思議な木が【相生社】の横に見られます。 参道鳥居 楼門 神楽殿 御手洗社 【御手洗社】 (みたらししゃ)葵祭りの前に【斉王代】(さいおうだい)が【禊の儀】(みそぎのぎ)をされます。また土用の日には【足つけの儀】が行われ、無病息災を祈ります。常には水が流れていないのですが、土用が近付きますと、自然に水泡がこんこんと湧きでるところから、その形から【御手洗団子】(みたらしだんご)の発祥の地としたそうです。 立秋の前夜【矢取り神事】が行われます。お判りの様に、上賀茂と下鴨は(かも)の字を変えています。上賀茂の祭神は、「天神の子」として、雷即ち農耕の神様の様で、「賀茂別雷命」そして下鴨神社の祭神は、母上「玉依姫命」と「祖父の賀茂建角身命」と言われています。賀茂建角身命は、【松尾大社】の祭神でもあります。 5月15日の葵祭りには、京都御苑から下鴨神社経由、上賀茂神社へと行列が、その年の未婚の 斎王代の輿【斎王代】が選ばれ、のどかに牛車の輿に乗られて進まれます。 頭に葵の葉を装う【葵の葉】が象徴しています、雨乞いの祭りでもあり、何れ梅雨季を迎えることに成ります。【玉依姫丹塗りの矢】の伝承玉依姫が「瀬見の小川」で川遊びされていたときに、「丹塗りの矢」(にぬりのや)が川上から流れてきました。貴重な品として、持ち帰られ、床に就かれるとき、床の側に置かれたそうです。その後、孕(はら)まれて立派な「男の子」を産まれました。「別雷の神」です。男、不用で神の子誕生とされているようです。キリストのマリアさまからこの世に神の子として遣わされたように。【賀茂建角身命】 玉依姫の父にあたります。農耕を広め民生の安定に努められました。「五穀豊穣」「古事記」「日本書紀」には、「金鵄八咫烏」(きんしやたのからす)として神武天皇に使え、御功績が多く「導きの神」とも崇められ、厄除け・学問・旅行・方除け祈願に訪れる参詣者も多いです。私たちタクシーの乗務員の為にも、交通安全を祈願したいです。【加茂族】山背(山城)の古代氏族で、朝鮮からの渡来人とされています。賀茂と地名にも成りました。太秦の「秦族」も渡来人の一族です。京都の丹後は、日本海に面し朝鮮に近く、琵琶湖又は、山越えで、京都に移り住んだとも考えられます。とても博学多識、努力家で「治山・治水・農耕・絹織物」等、現在の京都の有り方に貢献されたものと、改めて敬意を表したいです。明日は、長岡天神に参ります
2018.04.17
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八幡八幡宮と同じ勅使の遣わされる神社です 下鴨神社が【賀茂御祖】(みおや)即ちお母さんで上賀茂神社はそのやんちゃ息子【賀茂別雷神】(わけいかづちのかみ)の関係にあります。 【賀茂川】 京都バス終点「岩屋橋」から更に山道を遠く辿りますと、【金光峰寺・志明院】(雲が畑)修験道の修練場で「岩不動尊」が祀られて居ます。岩から染み出る、一滴の水が源流となり、「賀茂川」が人々の心の憩いを与える景観を観られます。時季により、「ユリカモメ」が渡り鳥として、遠くシベリアから飛来し、賀茂川で群れ遊んでいます。とても人懐きで、平和を感じます。夜になると、比叡の山を群れで超え琵琶湖にて、憩うそうです。京都の街で、最も景勝を楽しめる通りでもあり、「大文字」も見られ、タクシーで走るときも、出来るだけ、賀茂街道を通るように心掛けました。春には、「桜並木」で誰しも感動されます。 その賀茂川の上流に、「上賀茂神社」がそして下流に「下鴨神社」が鎮座まします。「加茂族」と言う先祖が築いた北方の、静かな住宅街でも有ります。 大原を源流とする、高野川と合流する地点を「出町」と称し「今出川橋」から下流を「鴨川」と字が変わります。何れ淀川にそして大阪湾に至ります。 上賀茂神社 国宝本殿 【上賀茂神社・賀茂別雷神社】 (かもわけいかづち)世界文化遺産に登録祭神(賀茂別雷神)下鴨神社に祀る「玉依姫」の御子【本殿・権殿】【国宝】本殿の前には、「山城一の宮神社」と表示してありました。 母君 玉依り姫を祀る 片岡社本殿の楼門を出た直ぐの側に【片岡社】がありました。玉依姫を祭神として祀られています。 神楽殿【神楽殿】の前には【立砂】が白川砂で三角錐が飾られていました。何でも真上に松葉が差され神様が光臨されるそうで、清めの砂ともいわれています。 神楽殿の前に 立砂神社の後ろの小山は、【神山】として神聖な山で、人の立ち入らない山とされています。【御神徳】欽明(きんめい)天皇の時、雨は降らず作物実らず大飢饉でありました。天皇が勅して占われたそうで、人心が大変乱れているその祟りと言うことで、本殿でお詫びの祭祀行なわれたところ、「護国豊穣・天下泰平」となったと日本書紀に記されているそうです。「雷の神」の由縁でしょう。【葵祭り】この「欽明天皇」の起源により、毎年5月15日【京都三大祭り】として、全国から大勢の方が、観に来られます。 くらべうまの行事が行われる境内【行事】【競馬】(くらべうま)【烏相撲】【八咫烏】(やたのからす)神武天皇が東征の時「加茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が先導した際に、天皇の弓の先に止まったとされています。当時の「加茂族」を「烏族」ともいわれています。 【百人一首】 風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊ぎ(みそぎ)ぞ 夏のしるしなりけり 藤原家隆 楢(なら)の小川 【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒 ごとに橋が架かって母屋に入ります、神主さん・神道の方の屋敷が並んでいます。京都の風物詩とも観られます。明日は、下鴨神社にまいります。 賀茂と鴨の字がかえられています
2018.04.16
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昨日は皆様方のご支援でブログ京都観光を始めて9年にしてアクセス1,000,000頂きました多くのお祝辞と励ましを頂きご厚情に心より感謝いたします今後ともよろしくご指導のほどお願い致します本日は話題を明るく一休さんの眠って居られる場所をご紹介しましょう大徳寺にも一休さんのお寺【真珠庵】があります金閣寺とそう遠くは有りません 足利三代将軍義満と頓智比べの漫画は皆さんに慕われています 何故対等に話せたか今回は天皇の皇子さんだったことが宮内庁管轄の御陵があることで納得していただけると思います 【酬恩庵】 (しゅうおんあん)通称【一休寺】臨済宗大徳寺派 京都市と奈良市との中間点に位置する、京田辺市に有ります。 足利義満と頓知比べしたことで有名な【一休禅師】の 創設であり、仏に仕えられた所でもあります。 高僧【大応国師】が中国で禅を学びその教えに従った 一休禅師が、師のご恩に酬いる意味で、名付けられました。 一休さんは、第100代後小松の皇子で、皇位継承は成さらなかった のですが、出家されました。境内に宮内庁の御陵として ご廟所があり、88歳に示寂されました。 末後には「まだ死にとうない死にとうない」と絶句されたそうです 漫画「一休さん」義満も「一休どの」と敬称の言葉使いです。 81歳のとき、大徳寺【真珠庵】の住職も兼ねられました。 本堂・方丈庭園も素晴らしく、参道も新緑に包まれて清楚でした。 禅寺は、何処も掃除が行き届いて、塵一つ無く清潔な雰囲気が 一面漂っていました。 一休さん像、三体、箒を持つ像、木魚を抱えての寝姿はねずみが 添え寝しています。「あわてないひとやすみ・ひとやすみ」 可愛いです。 「このはしわたるべからず」の小さい橋もありました。 。酬恩庵表門参道の新緑宮内庁御陵・後小松皇子・一休宗純墓地宮内庁表札本堂・参道方丈庭園 方丈庭園丈庭園 一休さん像このはしわたるな本堂本堂参道掃除姿の一休さん時にはお昼寝も綺麗に掃けましたね次回は上賀茂神社に参ります
2018.04.15
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今朝の9時30分にアクセス1,000,000達生しました皆皆さんのご厚情に篤く感謝の意を表しますブログを始めて9年間 皆さまの温かい御声援のあっての事よくぞ此処まで京都観光一筋に辿り着けましたこと感無量です 齢もこの5月5日で満90歳これからもよろしくご支援賜りますようにお願い致します 豊臣秀吉と明智光秀の山崎の合戦地を見下ろした所にあります 社殿は今年国宝に指定されたとこです 【石清水八幡宮】 (いわしみずはちまんぐう)御祭神 東御前 神功皇后(じんぐうこうごう) 中御前 第十五代 応神天皇 西御前 比女大神(ひめおおかみ)【日本三八幡宮】宇佐八幡宮(大分)・鶴岡八幡宮(鎌倉)・石清水八幡宮【三大勅社祭】葵祭(京都上勅社)・石清水祭(下勅社)・奈良春日祭皇室の崇敬も深く勅使が、毎年拝礼に来られます。京の都の表鬼門として比叡山延暦寺に対し、裏鬼門として石清水八幡宮があり、厄除け国家鎮護のため鎮座まします。源氏にゆかりあり、源義家が「われは八幡太郎義家なり」は有名です。本殿の再興は、三代将軍徳川家光が此処も手掛けています。天慶2年(939)平将門と藤原純友が乱を起こしたときも、八幡の神が神威をもって鎮められたとされ、【武神・弓矢の神】として、必勝祈願もされています。 男山からは清水が湧き出て、石清水の名となったそうですが、宇治川・桂川(途中鳥羽で鴨川と合流)・そして木津川の大きい川の合流地点で八幡(やわた)からは淀川となって大阪湾に至ります。 【天下分け目の山崎の合戦】も此処【男山】と【天王山】の狭間で大軍が、ひしめき合った合戦場でもありました。 京都から大阪または、奈良への中間点でもあり、交通の要所でもあります。八幡市の隣接は大阪府枚方市です。 男山は、京阪「八幡駅」下車で、ケーブルがあり、頂上に本殿がありますが、展望台からの景色は、高速道路が渦巻き活気のある通過地点と考えられました。 【エジソン記念碑】まさか神域にと思われますが、エジソンが電球のフィラメントに男山周辺の竹を使い、長時間の点灯を可能にした偉業を永く顕彰するために、昭和9年に記念碑がたてられました。【徒然草の逸話】【高良神社】(こうらしゃ)八幡宮の摂社男山の麓(二の鳥居付近)にあり、仁和寺の老僧がこの社を八幡宮と誤り山上に登る人達を憐れんだと言う。それ程摂社でも立派な建物であったようで、諭として人に確かめもせず、案内も請わずして、自己判断にて目的の達せられなかった愚かな行為を戒めているようです。確かな情報は会得して置く事の大切さを教えているようです。 八幡神社の全国の数 4万社といわれています。八幡宮と天満宮は、祈願の目的が違うのですね。 男山ケーブル 本殿建物は今年初めに国宝指定となりました6月水無月の大払い【茅の輪】くぐると厄が逃れる。本殿本殿 お手洗い所エジソン碑電球のヒラメントのモニメント天下分け目の山崎の合戦手前が男山真ん中が天王山そのはざまを淀川が流れる狭い地点豊臣軍と明智軍が合戦した場所です。一番右手の山が比叡山表鬼門桂川・宇治川・木津川の合流点 高速道路がひしめき合っています。交通の要所。山並みの右方が長岡京市になりますケーブルで降りる途中の景色次回は一休寺に参ります
2018.04.14
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天皇両陛下もご参拝がありました。過っては、豊臣秀吉が 伏見城を桃山に築城、醍醐の花見のあと ここで まだ夢を果たしきれずに亡くなりました。その城の遺跡は、御陵内に存在し、宮内庁の管轄下で一般には見られませんが、参道の側に 石垣の遺石群がみかけられました。 明治天皇御陵 参道伏見城石垣の遺石参道が続きます御陵に近づきました正面の左側 青空が桃山を美しく見せてくれました御陵正面の眺望と石段の高さに驚きます もう一度 石段上から 振り返ってみました 御陵近くに降りて来ました昭憲皇太后の御陵明治天皇より一歩下がられて 共に安らかに眠っておられますそして、日本の国の行く末を優しく見守って下さっているようです真下に 緩やかな道をおりてきましたがこの坂を若い人たちは 登り降りておられます秀吉の築城した伏見城は石垣を遺して廃墟に成りました新幹線京都駅からお城の天守閣が見えますが現代近鉄の子会社の民間の建てた「伏見桃山城キャスル」で現在廃業と成っています皆さん私も含めて伏見城と勘違いしました京都にお城は二条城です念のため申し添えます
2018.04.13
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伏見の代表は【伏見稲荷大社】に尽きます。 アメリカでは何故か京都が世界一観光地とその中でも此処の稲荷大社が何故か特に選ばれています参道入口参道背景が稲荷山楼門 就学旅行生記念写真お使いの狐楼門の裏手本殿前の建物本殿奥の院への千本鳥居鳥居のトンネル鳥居を奉納する数の多さに圧倒されます奥の院のおもかる石外人さんにも人気 両手で持ち上げておられるおもかる石灯篭の前で願い事を祈念して石灯篭の空輪(頭)を持ち上げそのときに感じる重さが自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い重ければ叶わないとする試し石で一般には「おもかる石」で親しまれています。稲荷大社の近くのお店で【稲荷寿司】が美味です次回は伏見桃山明治天皇御陵に参ります
2018.04.12
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我が家六地蔵駅から二駅目に宇治の黄檗山万福寺が有ります。中国風の境内に浸ります。 禅宗には、臨済宗・曹洞宗そして本日の黄檗宗があります。曹洞宗では、観光寺院としてはなく黄檗宗では、庭園がありません。座禅・修行本意に造られています。 【黄檗山万福寺】 (おうばくさん・まんぷくじ) 黄檗宗総本山宇治は日本でも有名な茶処、JR黄檗京阪黄檗駅の近くにあります。【駒蹄影園碑】 が、総門の前に建っています。 駒蹄影園碑 鎌倉時代の初めごろ宇治の里人たちが、茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾(とがのお)高山寺の明恵(みょうえ)上人 が、馬を畑に乗り入れ、その蹄(ひずめ)の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています。この碑は明恵上人の感謝とその功績を顕彰するために建てられました。世界文化遺産の 【高山寺】の開祖です。 「栂山(とがやま)の 尾上(おのえ)の 茶の 木分け植えて 跡(あと)ぞ生(お)ふべし 駒の足影 明恵総門前の碑の側に龍の目の井戸がありました。 総門は、龍の頭 総門 龍の蛇腹を象った菱形の敷石 (禅寺では多く見掛けます) 龍の蛇腹を模した参道 菱形石 山門山門の前の碑 にんにく・酒を口にした人、入るべからず。中国風の門 「山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄 菊舎尼 万福寺の三門が初めて特別公開しているということで取材に行ってきました東福寺は臨済宗そして万福寺は黄檗宗と何れも禅宗の寺院です三門 階上に人影先ず総門から 龍の頭屋根の両側に摩伽羅(まから)インドの神話によります聖域を護るほかでも 仁王門 インドの護法神 仁王が護る敷石は龍の蛇腹三門に通じる敷石歌碑山門を 出ずれば日本ぞ 茶摘み唄 菊舎尼茶所 銀杏庵門中国風の城壁 銀杏庵山門前の石塔 「 不許葷酒入山門」くんしゅ 山門に入ることを許さず葷酒とはニンニク等匂いのきついまたは酒を飲んだ者修行の妨げとなるため特別拝観で三門の急な階段を一人づつ登りました 足が笑ってしまいました然し二階では釈迦十大弟子の等身大の写真パネルが有るだけで写真は駄目でした 上から境内だけは初めての鳥瞰図でした正面のお堂に布袋尊が祀られています開祖 隠元和尚の御廟所 左三門の外側 総門が見えます三門とは 説明では 三解脱門(さんげだつもん)と称し 解脱とは悟りを求めることで 仏教を学びたい者がこの門をくぐれるとされ難しくは 三昧(さんまい) 瞑想 涅槃(ねはん) の心境を目指すと 三の意味は解しましたがそれ以上はとてもとても 要するに門は参拝する人のための入口ということで石塔には山門?とは 寺院では山号を付けるので黄檗山 万福寺 万福寺は、開山 隠元(いんげん)禅師で10代まで中国の僧で占めています従って、境内は中国風の雰囲気に充ちているため詠われたもの。 【布袋尊】 (ほていそん) 都七福神 巡礼所のひとつ。正月には、七福神巡りで賑わいます。 布袋尊 みやこ七福神のひとつ写真撮影許可をもらいました。僧の姿だけは撮らない様にと 開版(かいばん)魚版で、木魚の原形となっているものです。 広々とした境内 開版 お魚の形 時を知らせるもので、禅寺の座禅で、魚は寝ていても目は開くことを諭しているとも言われています。 本堂には、三尊釈迦が祀られています。一般には脇侍(きょうじ)は、釈迦如来の場合。【文殊】【普賢】菩薩ですが、此処では 十大弟子の筆頭 【迦葉】 (かしょう)【阿南】 尊者が祀られていました。 羅怙羅 (らごら)父の釈迦の顔を胸に抱いている姿の像羅怙羅(らごら)尊者 お釈迦さんの実子で、出家して修行の末悟りを開かれ、心に仏性を抱くとして、胸を開けた場所に仏の顔が仏像として祀られていました。法堂(はっとう)砂紋が素晴らしいです。 法堂 舎利殿隠元和尚の開山堂隠元は中国人で万福寺を創設されました。豆知識インゲン豆は、メキシコ・中央アメリカの原産ですが、1654年に中国の僧隠元和尚さんが、中国(明)から日本に持ち込まれたことからの説もあるようです。次回は 伏見稲荷大社へまいります
2018.04.11
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私の住まいのお隣が宇治市で其処にある広々とした山肌にある寺院です。【三室戸寺】西国三十三箇所観音霊場代十番の札所です。宇治の平等院から、京阪電車一駅目に三室戸があります。 三室戸寺脊柱坂を上るまえの表門蓮池を伴う本堂前広場兎歳に作られた兎、地名を莵道(とどう)と名付け宇治上神社でご紹介しますが宇治の地名に繋がります。龍の蟇股本堂鐘楼と三重塔源氏物語【浮舟】歌碑三重塔本堂前のつつじ庭園庭園 【5月つつじの頃】昨年写しました。つつじの苑 新緑の三室戸寺 ツツジ 20,000本となっています。シャクナゲ・紫陽花そして蓮のときもすばらしいです。 新緑とつつじ つつじ苑 一人で鑑賞もよいですが、家族で「あつ、綺麗」とことばをかけあつて観るのも、また幸せを一層深めるものです。アジサイもツツジに代わって、 10,000株が見られます。明日は、黄檗宗万福寺に参ります。
2018.04.10
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我が町JR六地蔵より 木幡 黄檗 宇治の順に近くに世界文化遺産が観られます 現代大阪府堺市にある、古墳【仁徳天皇陵が話題になっていますが、宇治の地に祭神としても祀られています。兎角跡目相続で問題になりますが美談がのこされています。今回の富岡八幡の跡目相続の欲への醜態と比べ物になりません あまり、世間で著名でなかったと思われる、古い歴史を残す宇治に【宇治上神社】の方が世界文化遺産に登録されました。直ぐ隣接して、「宇治神社」も有りますが、戸迷う感じでした。 宇治上神社の鳥居【宇治上神社】 (うじかみじんじゃ)日本最古の神社形式(平安・鎌倉時代)世界文化遺産に登録 京都に世界文化遺産に登録17箇所のひとつです。【祭神】菟道稚郎子命 (うじのわきのいらつこのみこと) 【宇治の地名】父・応神天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られています。応神天皇第15代。菟道稚郎子命の父。仁徳天皇第16代。菟道稚郎子命の異母兄。宇治平等院から宇治川を渡った位置にあります。 宇治橋京阪宇治駅を宇治川に沿って、上に直ぐの所に、「宇治神社」が有ります。 宇治神社 近代的でまさかと思いきや、【さわらびの道】を 早蕨の道の入口付近 さわらびの道 更に通り過ぎて、少し坂を登った所に【宇治上神社】が有りました。世界文化遺産と言うことで、訪問しても、実にこじんまりとして、古さだけが目に映ります。 参道の紫陽花の花 でも歴史的には貴重な建物【本殿】【拝殿】共に【国宝】に指定されています。 拝殿 清めの砂 上賀茂神社にもありました。 本殿 本殿の狛犬 阿吽の狛犬 宇治上神社の蟇股 ここでの見所は、 【日本三蟇股】 (かえるまた)【宇治上神社本殿】【上醍醐・薬師寺】【奥羽中尊寺金色堂】【龍安寺】で由来を記していますが、 日光東照宮の左甚五郎作の有名な【眠り猫】も、蟇股の中で眠っています。裏には鼠が居るとか、要は、木製の建物は、火災から魔除けのために、水に関係する、蟇を飾ったと全国的に採用されています。清水が今でも湧きます 宇治の名水 桐原水 もう一つは、【桐原水】(きりはらすい)と言って、「宇治の七名水」の一つとして、未だに、清水が、湧き出ています。【源氏物語】にも関係するようです。自宅の付近で、歴史的に遠く昔を偲ぶことが出来る社寺があり恵みに感謝しています。次回は宇治にある三室戸寺に参ります
2018.04.09
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私の住む伏見区のほんの近所に、世界文化遺産の社寺が三ケ所もありとても恵まれています。醍醐寺・宇治平等院そして宇治上神社です。 藤原頼道は天下泰平となり更に生存中にして極楽浄土の世界を再現しようとしました阿弥陀さん の指と手の形の組み合わせ しるしてみました。浄土にも段階があるようです。此処は最高位の上品上生の阿弥陀さんです。 【平等院】 宗派は単立(天台宗と浄土宗) 開基 明尊 琵琶湖「瀬田」から流れてきました「宇治川左岸」に「宇治上神社」と対峙して存在しています。 国宝・鳳凰堂 池に写される 初代仏師【定朝】 じょうちょう)作の【国宝】【阿弥陀如来像】が実に落ち着いて素晴しい一語につきます。付随した【天蓋】【雲中供養菩薩】そして【壁画】も【国宝】で 「藤原頼道」が1000年前に末法思想が取り沙汰された時代で、生前中でも「極楽浄土」を再現しょうと考え、(金閣庭園を足利義満も同じ)貴族と僧侶によって、建てられました。 阿弥陀さんの座します【鳳凰堂】(ほうおうどう)もそして屋根の両端に飾られる【鳳凰】一対も【国宝】です。お堂の前に池があり鳳凰堂を池越しに眺めますと、池にも反射してとても美しい情景が観られます。「十円硬貨のデザイン」ともなっています。 万人を救った翼 平等院鳳凰堂1万円札の図柄に登場万人が幸せに成りますようにと飾られました 丸い窓を設けて、庶民にも阿弥陀さんのお顔だけ拝せる仕組み 頼道の思い遣りが、「阿弥陀さん」の顔の前面に、「丸窓」が見えます。「極楽浄土」を庶民にも一部垣間見ることが出来る様に、存在しています。 国宝・鳳凰堂 【日本三名鐘】「形の平等院」【国宝】 「音色の滋賀・三井寺」 「銘の高雄・神護寺」 日本三名鐘の形の美本物は宝物館で観られます。【鳳翔館】(宝物館)では、名鍾・雲中供養菩薩像・壁画・鳳凰【国宝】その他が展示されています。 【藤棚】藤の花が咲く頃は、とても美しいです。 仏像で一番多くお会いする阿弥陀さんよく見ると手の形で変化が有ります【阿弥陀さんの九印相】阿弥陀如来は、西国極楽浄土を支配されてると言う事で鳳凰堂の壁画も、 【御来迎の図】 が画かれ、九壁画に分かれているそうです。 極楽浄土も九段階平等院の阿弥陀如来像は、 【上品上生印相】 (じょうぼんじょうしょうのいんそう)で最高位。阿弥陀さんの手の指が、「親指」と「人指し指」 【上品】「親指」と「中指」 【中品】「薬指」と「親指」 【下品】円く交わる事で、夫々、「上品」「中品」「下品」と称し、阿弥陀さんの両手の位置か゛「膝の前で結ぶ」 【上生】「両手を開いてお説教するように、上に揚げる」 【中生】「右手を揚げて、左手は手の平を開けて膝の上に」 【下生】 (施無畏・与顔) (施無畏・与顔の形) (せむい・よがん)Google画像で出て来ます奈良の大仏さんの形右手は不安畏れを無くす施し。 主の平安(キリスト教)左手願いを適う与えましょう。 求めよ開かれん(キリスト教)「上生」「中生」「下生」(げしょう)と称します。この組み合わせで、九印相の阿弥陀像が表されます。極楽浄土への位置付けでしょうか。「上品上生」「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」太秦の広隆寺には、「中品中生」の阿弥陀像が見掛けられますが、殆どは、「上品」クラスのようです。 御家庭での仏壇では、「上品下生」(じょうぼんげしょう)の即ち、施無畏・与願の型で指は親指と人差し指を交えた形の阿弥陀さんが多いです。一度試してみてください。 宇治上神社から宇治川を渡って平等院への橋 魚の供養のための十三重の塔 源氏物語・紫式部の像宇治橋の側に建っています。 宇治橋次回は同じく世界文化遺産宇治上神社を訪問します
2018.04.08
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【醍醐寺】 世界文化遺産 金堂薬師如来三尊・四天王を祀る五重の塔京都府で最も古い塔弁天堂池 観音堂(元講堂)現在西国三十三ヶ所観音霊場納経所 彼方に見える山が、「上醍醐」です。山道3キロ、西国観音霊場の最難コースとされていました。新緑が美しいです。 国宝【唐門】勅使門真中が豊臣秀吉花紋「五七の桐勅使が入られるときは真中は開かれ菊の御紋でお迎え帰られたら桐の紋が真中に治まります。秀吉の考えそう?太閤秀吉が醍醐の花見行列をした場所この年の夏に伏見城で逝去します 【醍醐三宝院】勅使門 表門の側にあります。門を四面に分けますと、菊・桐・桐・菊の紋が刻まれています。桐は「五七の桐の紋」で秀吉の紋です。菊は「皇室の紋」で、勅使の一行が訪問するときには、真ん中の桐の紋は、観音開きで隠れます。勅使を歓迎した意図の様ですが、閉めれば、桐が中央に構えた形になり、豊臣を謳歌したように工夫されています。 京都で此処の庭園だけ、写真禁止で、見張り役を置くぐらいでしたが2年前から写真可と成りました 藤戸石・醍醐棚はGoogle画像で確かめてみて下さい表書院【国宝】揚舞台之間・孔雀蘇鉄の間。畳を揚げると「能舞台」になります。中段の間・上段の間は柳の四季を表し、床の間は松が画かれ、各部屋に段差があり、能の鑑賞が出来る様になっています。加茂の三石。川の流れに沿った縞模様が見掛けられます。激流または、緩やかな流れと変化した表現がなされています。藤戸石】(ふじといし)庭園の中心的存在で、【玉座】からも「真正面」に観られます。「三尊石」の形式を採り、【天下人石】十五代足利義昭・織田信長・豊臣秀吉と天下人が、引き継いで、自分の物にしたと言う名石となります。ふじとを「不死人石」に掛けて願ったのでしょう。庭園に「橋」が三種類あります。「石橋」「木橋」「土橋」と変化を表現しています。庭園全体が変化に富み、左方片隅から、瀧の水の流れと静かな雰囲気の音も聞えます。そして「鶴島」「亀島」が松の木を背負って飾っています。護摩堂。本尊「弥勒菩薩」(快慶作)「弘法大師」「理源大師」が祀られて居ます。前庭には、「苔」で瓢箪と杯(さかずき)とを現しています。藤吉郎時代ねねの進言で「功績」を成す毎に「千成瓢箪」 【奥宸殿・玉座】正面に「藤戸石」が眺められます。喜んでくれずだだをこねる主人に、瓢箪を飾ることを始めたとか【日本三棚】 「醍醐棚」「修学院離宮棚」「桂離宮棚」見所豊富で、桜の咲くころは、訪れる人で満杯となります。京都観光も此処まで訪問できれば最高と思います
2018.04.07
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伏見区【日野】は、醍醐寺のそばにあり、足利将軍の代々奥方の出身地でもあり、あの京都の悲劇応仁の乱の主役「日野富子」も此処の出でした。従って醍醐寺の金堂・五重の塔そして此処日野法界寺も応仁の乱の火災から免れました一方、浄土真宗(本願寺)の開祖 【親鸞上人】のお誕生の地として【日野誕生院】がのこされています。側には、宇治の平等院並みの国宝阿弥陀如来(定朝模様)の祀られた坐像が、【日野法界寺】として幼き頃より、親鸞さんも手を合わせていたのでしょう。 【親鸞上人お誕生日・承安3年(1173)5月21日】 【日野誕生院】楠が樹齢800年。得度を受けられた京都の【青蓮院】の4本の楠と同時期。 浄土真宗の開祖【親鸞上人】は今から約800年前、ここ「日野の里」でお生まれに成りました。醍醐寺の南方少し、離れた場所で京都市伏見区に属します。父は日野氏の一族で【日野有範卿】(ひのありのりきょう)母は、清和源氏の出身で【吉光女】(きっこうにょ)日本全国に浄土真宗の信者さんが多いですが、此処がその発祥の地とは言え、至って静かな、簡疎の地でも有ります。 【えな塚】 【産湯の井戸】【えな塚】とバックに【日野法界寺】の屋根が見えます。【乳薬師】とも云われ、安産・子育ての「薬師如来」が祀られて居ます。えな塚は、幼稚園の園内に属し、お断りをして、撮らして戴きました。さでした。 【日野法界寺】日野法界寺・国宝阿弥陀堂宇治の【平等院】の「阿弥陀如来坐像」は、仏師 【定朝作】(じょうちょう)で、此処も【定朝様作】として、本尊【阿弥陀如来坐像】も国宝に指定されています。建物は、鎌倉時代に再建されたもので、「応仁の乱」からは、焼失を免れています。写真の右手に屋根だけ見えますのが。【乳薬師堂】で、「えな塚」「産湯の井戸」と隣接した位置にあります。親鸞上人は、幼少のころより、この眼差し優しい「阿弥陀さん」に手を合わせ御育ちになったといいつたえられています。 親鸞上人9歳のお姿の銅像です「日野誕生院の境内」に建てられています。 出家決意のおん歳9歳での歌碑です。お父上は、4歳時そしておん母上は、8歳のときに浄土に召されました。世の中で最も大切なご両親を幼児期に亡くされ、阿弥陀さんにすがりつつも、仏道に決意なさったのでしょう。明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に 嵐の 吹かぬものかわ 京都の【青蓮院門跡寺】【天台宗】で 【得度式】(とくどしき)を挙げられました。そして 比叡山で修行を受けられました。今や、「西本願寺」「東本願寺」を初め全国に、【浄土真宗】の信者さんが多く居られます。難しい、お経を唱えて救われるものでない。ただ「南無阿弥陀仏」と【念仏】を唱えることで浄土に召されると。大衆庶民を対象に布教されました。
2018.04.06
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醍醐寺・勧修寺の側に位置します小野小町の住まいしていたという醍醐は小野の隋心院にはねず色の梅を求めで訪問してきました。名勝 小野梅園はねずいろの梅隋心院 真言宗善通寺派 はねず踊りが30日開催されます 厳寒 小野小町百人一首歌碑花の色は うつりにけりな いたづらにわが身世にふる ながめせしまに 小野小町花の色はすっかりあせてしまったことよ 春の長雨が降っている間に私の美しかった姿がたちまちおとろえてしまった空しく思いに耽っている間に 玄関口 朱華踊りの人形 本堂本尊如意輪観世音菩薩そま隣に 小町卒塔婆座像 左足を立てた半跏のかたち写真はダメでした。当時の榧の木(かや) 碁盤・将棋盤などつくられる 榧の木と十三塔 榧の実 深草少将【百夜通】 (ももよがよい)小野小町を慕って、雨の夜も雪の夜も通い続けて、邸宅にある榧の実をひとつづつ玄関に置いて通い続け九十九日目の夜に降る雪の基発病により想いは果たせず世を去ったという伝説があります。千百年前の出来事でした。夢にしか会えなかった思いを小町は歌人としてのちに六歌仙にまでえらばれました。 薬医門 はねす゜(うすべに)色の梅園本堂前で門跡さんの開会の挨拶ミス小町 二人の紹介地元、小学生のはねず踊り小野小町役・深草少将役・傘持ち役でわらべうたによりおどられるようです、地元の小学校4年生5年生6年生が出演とても大勢の人出撮れたものではありませんはねず色だけ見て下さい 小野梅園 はねず色の梅 牛尾山背景に 老木小野化粧の井戸小野小町は小野名水により美貌を逞しくしたということです。小野篁の孫で、小野東風とは従兄どうしで、共に詩歌に富み化人として名を遺しました。1100年前の出来事で、小町は舞姫として宮中の後の宮に仕え容姿秀絶一度笑みれば、相手を百媚生ずるそして和歌にも秀でました。然し人生の儚さを詠ったのは憧れの美女の本当の人間らしさかもしれません。明日は日野法界寺に参ります
2018.04.05
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御室の遅咲きの桜 本日地元紙夕刊で満開と報じられました【御衣黄桜】(ぎょいこうさくら)が珍しいです 浩宮さまお手植えの八重桜 珍しい桜が宮様の隣に植わっていました 御衣黄桜です神々しいです御室の桜 五重の塔 真言宗 金堂前外人さんファミリーが説明碑を真剣に見ておられました 金堂 本堂堂内には阿弥陀如来 観音菩薩 勢至菩薩がまつられています建物は御所の紫宸殿から移築 御所の雰囲気が溢れています 霊宝館には国宝の阿弥陀三尊像があんちされています経堂説明では、釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩が祀られ天台宗の学匠であった南光坊天海による【一切経】が収められています 此処でも家康の施策に貢献した南光坊天海の名がみられました南光坊は四国八十八しょ霊場第55番にあり、真言宗御室派とされています【関山】八重桜 少し坂を上って撮影 五重の塔を背景に 仁王門前からの風景手前が御室の桜苑 勅使門の前の桜
2018.04.04
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勧修寺の桜昨日訪問してきました満開は終わり余韻を味わってきました真言宗山階派の大本山で醍醐天皇が創建された門跡寺院で御所から移築された建物があります「氷室池」は池泉回遊式で正月に氷の張り方で豊作を占ったとされています日頃静かな人知れずの寺院ですが今回のJR東海018春「そうだ京都に行こう」で観光バスも多かったです映像だけ楽しんで見て下さい駐車場へ参道白屏に桜枝垂れ桜正門樹齢750年のハイビャクシン「勧修寺型燈籠」水戸光圀公寄進の燈籠 手前ハイビャクシン観音堂と桜観音堂と桜観音堂と桜氷室池と桜八重桜宸殿の桜氷室池 背景に牛尾山庫裏玄関の桜 バックの白屏は名神高速道路桜を求めて
2018.04.04
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醍醐から北方の山裾に 山科毘沙門天が祀られています天台宗京都五門跡のひとつで大原三千院・青蓮院・妙法院(三十三間堂)・曼殊院・毘沙門堂で比叡山延暦寺の天台座主は選ばれる前に門跡として原則的に此処のどれかの経緯を得て成られます伯父も250代天台座主に此処毘沙門堂に住まいして選ばれました 【毘沙門堂】 天台宗五門跡寺のひとつ 山科 本堂と弁天堂参道前の急な石段参道玄関玄関前のもみじ本殿弁財天堂庭園に注ぐ石橋 参道の急な石段 上からの眺め毘沙門天は北方の護法神で山科盆地の北方に位置します京都は 鞍馬山に 毘沙門天が祀られています
2018.04.03
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4月2日14時旧管理画面が無く成って試し更新です桜の満開が続き春を謳歌している中でも玄関の植木の花たちも美を競っています画像を採り入れてみましたすみれたちです
2018.04.02
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そうだ京都に行こう今年の社寺は勧修寺でしたポスターにも桜の満開が写されておりテレビでも実況放送が有りました京都盆地の東隣山科盆地の中央辺りに存在します。その南に【醍醐】があります。醍醐寺の側に小野小町縁の隋心寺も観られます 【勧修寺】 (かじゅうじ) 真言宗山階派大本山借景の睡蓮の池の背景の山が、【亀甲山】(きっこうやま)です。亀の甲羅を意味し吉兆を伴うことを願っての自然の配置です。伏見・深草より「深草少将」が醍醐・小野に【小野小町】を慕って「百代通い」をした山すその道が、労しいです。小野小町は「榧の実」(かやのみ)を99まで集めて、満願の日に深草の少将が雪道で病に倒れ恋は実らなかったとも云われています。 樹齢750年のはいびゃくしん 水戸光圀公寄贈の勧修寺形燈籠 観音堂 睡蓮と緋鯉勧修寺のカキツバタと睡蓮の池あまり知られていない、こじんまりしたお寺にも、自然との調和のとれた名勝がありました。醍醐天皇のおばあさんの霊を弔うために建てられました。【勧修】の名は、おじいさまの諡号から付けられたそうです。静かに眠られるには、素晴しい環境と偲ばれました。
2018.04.02
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世界文化遺産の醍醐寺の内容は後日にして、本日は伽藍と桜の写真だけお届けしてみます。太閤秀吉醍醐花見行列は毎年4月第二2日曜日に行われます 加賀のまつ(芳春院)も行列に加わっています醍醐寺の桜醍醐三宝院の玄関 勅使門太閤秀吉の花見行列の出発場所 仁王門行列は仁王門を通って進みます 太閤の五七の桐で飾られた垂れ幕左の建物 金堂(本堂)桜まつり行列は続きます 金堂の側 金堂薬師如来三尊・四天王を祀る花見行列の終着場所です五重の塔京都府で最も古い塔弁天堂池 観音堂(元講堂)西国三十三ヶ所観音霊場納経所太閤花見行列の参道4月8日(第2日曜日) 何れも霊宝館庭園壕川(ほりかわ)の桜 元秀吉の築城した伏見城の外濠伏見区 京阪中書島駅特急停車駅の側 宇治線乗換駅近くで桜とやなぎが美しいです近くに坂本龍馬の寺田屋があります。月曜日定休で中まではご紹介出来ませんでした 寺田屋の前に伏見港があります運河に成って大阪難波に通じていきます桜と柳が調和していますユキヤナギもきれいでしたテレビによく出る大倉酒造の背景です月桂冠酒造桜と柳十石舟が見えます船着き場側に大倉酒造が見学できます舟の車庫京阪電車の高架橋桜も最も見ごろでした
2018.04.01
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