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絵本を買うと、一応「〇〇才から」と書いてありますよね。でも私は、そういうものは気にしないでいいと思っています。確かに、幼い子には難しい内容の絵本もいっぱいあります。そういう絵本は、お母さんが読んでいても子どもは寄ってこないでしょう。でも、それでも、お母さんが、お母さんが読みたい絵本を、自分のために読むのはOKだと思っています。それに、子どもは聞いていないようで聞いているものです。嘘だと思ったら、子どもが寄ってこない時に「冷蔵庫にケーキがあるよ」などと呟いて見てください。すぐに反応しますから。また、お母さんが声に出して繰り返し読んでいると、意味は分からなくても言葉やストーリーを覚えてしまうこともあります。いわゆる「門前の小僧、習わぬ経を読む」の例え通りです。それに、「意味が分かるようになってから」では遅いのです。皆さんはお子さんに言葉が分からないうちから話しかけていますでしょう。意味が分からないうちから話しかけているから身につくのです。「意味が分かるようになってから話しかけよう」などと待っていたら、いつまで経ってもその時は来ないのです。「しつけ」も同じです。「言葉が分かるようになってからしつけよう」などと思っていると、手遅れになってしまうのです。言葉が分かる頃には「自分流のやり方」が身についてしまうからです。「やっていいこと」と「やってはいけないこと」は理屈ではなく「からだに染み込ませるもの」なんです。だから「躾」なんです。それと、「幼い子どもに対する読み聞かせ」においては、絵本そのものの内容よりも「お話を読んでいる時のお母さんの声」の方が「子どもの心とからだの育ち」に与える影響が大きいのです。幼い子どもが聞いているのは「内容」よりも「お母さんの声」なんです。内容は、繰り返し読んでいるうちに、その「声」を通して、知らないうちに子どものからだに染み込んでいくものです。だから、最初は子どものことなんか考えずに、図書館に行って「自分が読みたい本」を借りて来て読めばいいのです。ただし、その時子どもを連れて行ってください。そうすればお母さんが絵本を探している間、子どもも絵本を探すようになるでしょう。そして、そのうち自分に合った絵本を見つけることが出来るようになるでしょう。そうしたら、「お母さんが読みたい本」と「子どもが読んで欲しい本」の両方を借りてきて読めばいいのです。声を出して自分のために読む絵本は気持ちがいいですよ。
2026.09.07
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絵本の読み聞かせが、現実の世界での体験不足を補う助けをしてくれます。でも、その読み方にも工夫が必要です。まず、感想や評価を求めるのは止めた方がいいです。そんなことしたら「素直な体験」が出来なくなってしまうからです。また、声色を使ったり、大げさに演技するような過剰な表現も止めた方がいいです。絵本を読む時にあまり大げさに表現してしまうと、「お話し」そのものよりも、「読んでいる人」の方に子どもの気持ちが向いてしまうからです。絵本などの読み聞かせでは、主人公はあくまでも「お話し」であり「絵本」です。読み手は「声」を通してその世界を聞き手に届ける導き人であって、そこに余分なものを付け加えてしまうと子どもは絵本が創り出している世界の中に入ることが出来なくなってしまうのです。読み聞かせで必要になるのは「子どもを面白がらせるための演出」ではなく、「読み手の心やからだとつながった声」なんです。でも、私も読み聞かせを始めた頃はそのことを知らずただ大げさに演技しながら読んでいました。その方が子どもが喜ぶと思っていたからです。そして実際、多血質や胆汁質が強い子の場合は、大げさに読んだ方が喜びます。でもそれをすると、「お話し」や「絵本」が本来持っている力は失われてしまうのです。でも、「親子遊び」としてだけの「読み聞かせ」ならば大げさに演技しながら読むのもOKだと思います。楽しく読むことで絵本がお母さんと子どもをつなげる働きもしてくれるでしょう。また、劇遊びににもつなげることも出来るでしょう。ただ、そういう読み方では子どもが絵本を通して擬似的に体験することが出来なくなってしまうということです。その時大切なことは、「読み手自身もお話しの世界の中に入る」ということです。「読み手」はただ「文字を読む人」ではなく、「導き手」でもあるからです。大げさに演技している人は、自分の解釈によって「お話しの世界」を演じているだけで、「お話しの世界」の中には入っていないものです。だから不自然に大げさになるのです。読み手自身が物語の中に入って物語りを感じながら読んでいる時に、声の中に自然に現れる表現は演技ではありません。だからそれはそれでいいのです。よく、「絵本は淡々と読んで下さい」と言われますが、「淡々と」を演じてはいけないのです。「淡々と」を意識し過ぎろと、それもまた不自然な演技になってしまうからです。以前、知り合いの絵本作家の人が、自分が描いた絵本を、自分の気持ちに素直に読んだら、絵本の読み聞かせ活動をしている人から「そんな風に感情を入れて読んではいけないのではないでしょうか」と言われたそうです。それでその作家は「そうじゃないのに、分からないのでしょうか」とおっしゃっていました。「淡々と」にこだわることなく、お話を自分の中に取り込んで、自分の感覚と感情とからだに感じたままに素直に読めばいいのです。素直な声だから子どもは素直に受け取るのです。「目の前に大きな木がありました」と書いてあったら、読みながら、登場人物と同じ視点に立って、その「大きな木」を見るのです。それだけで「声」が変わるのです。すると、その「声」によって、子どもにも「大きな木」が見えるのです。人の感覚は、声を通して共鳴するように出来ているからです。「読み方」ではなく「声」が、子どもの心の中に「大きな木」のイメージを創り出すのです。「音が聞こえてきました」と言う時には、読み手もその音を聞くのです、すると子どもにもその音が聞こえてくるのです。その時、自然に現れる読み手の声の表現は「意図的な演技」ではないのです。素話のプロの友人がいます。彼女は「怖い話」が(も?)得意です。彼女の話を聞いていると、聞いているだけでゾクゾクしてきます。それは彼女自身がその物語の中に入って直接目撃しながら語っているからなのでしょう。
2026.09.06
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自覚しているかどうかはともかくとして、子育てをしている多くの親は、我が子に対して何らかの期待を持っています。例えば、「優しい子に育ってほしい」、「良い子に育ってほしい」、「自立した人間に育ってほしい」、「スポーツが得意な子に育ってほしい」、「勉強が出来る子に育ってほしい」、「強い子に育ってほしい」、「かっこいい子に育ってほしい」、「賢い子に育ってほしい」などなどです。子どもに対して何にも期待しないで子育てをしている人の方が少ないのではないでしょうか。そして、実際の子育てにおいても、その期待に沿って子どもに言葉かけをしたり、子どもを励ましたり、子どもを追い立てたり、子どもの遊びや生活の環境を整えようとしています。ですから、そのお母さんが子どもにどのような言葉かけをして、どのようなことに追い立てているのかを見れば、そのお母さんが子どもに何を期待しているのかを知ることが出来ます。本人が自覚していなくても、周囲の人には分かるのです。私の場合は、今思えば「賢い子に育ってほしい」だったのではないかと思います。ただし、子育てをしている最中にはそんな自覚はありませんでした。「今、振り返って思えば」ということです。だから勉強にも追い立てませんでした。「学校の成績」と「賢さ」は関係がないからです。「優しさ」も強制しませんでした。「優しさ」は「賢さ」の表れに過ぎないからです。「優しくしなさい」と言わないと優しくできないのは「優しい子」ではないのです。「良い子」も求めませんでした。大人や親の言うことに従うだけの子は「賢い子」ではないからです。「自立」も強制しませんでした。「精神的自立」もまた「賢さ」の結果に過ぎないものだからです。子どもに「自分らしく生きる」ことを望むのなら、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動することが出来る賢さ」を育てることが必要になります。じゃあ、私は何をしたのかというと、山のように絵本の読み聞かせをしました。仲間や自然と出会わせました。色々なところに連れていき、色々な大人と出会わせました。モノや道具に依存しない色々な遊びや活動に子どもたちを誘いました。「そのような関わり合いで育つ何か」を期待していたからです。今思えばそれが「賢さ」ということだったのではないかということです。じゃあ、その「賢さ」ってなんなのか、ということです。私はそれを「相手の立場に立って考える能力」なのではないかと考えています。「ナゾロジー」というサイトの記事の中にも同じようなものを見つけました。「賢い」と思われる人の条件は相手を思いやれること!11カ国で共通以下はこの記事からの抜粋です。「賢い」と思われる人には多くの国で共通する特徴があったようです。カナダ・ウォータールー大学(University of Waterloo)の研究チームは最近、11カ国における約2700名の参加者を対象に「どういう人を賢いと思うか」を調査。その結果、どの国でも「内省的で論理的に思考し、他人の感情を思いやって気遣うことができる人」が最も賢い人と捉えられていました。研究の詳細は2024年8月14日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。どうやら、私が「賢さとは何なのか」と考えていたことは、私一人の思い込みではなかったようです。ここではっきりしているのは、どの国でも、「成績が良いこと」を「賢いこと」とは認識してないということです。世界中で多くの人が、「賢さ」とは「相手の立場に立って感じ、考え、判断する能力」と考えているということです。それは、そこが「人間らしさの根幹」だということなのでしょう。ただし、「賢さってなにか」ということが分かっても、実際にそれを育てるのは至難の業です。なぜなら、「賢い子ども」を育てるためには、親もまた賢くなる必要があるからです。ただし誰にでも出来る簡単な事があります。それが絵本の読み聞かせや物語を語ってあげることです。自分の体験や、子どもだった頃のことを語るだけでもいいです。雲のこと、海のこと、命のこと、世界のこと、そういうことを語るのも「物語」です。それらの「絵本」や「語られた物語」には他者の視点が含まれています。子どもの賢さを育てるためには、その「他者の視点」との出会いが必要なんです。「賢さ」が育った子は「自分の運命は自分で切り開くものだ」ということを知っているので、「親ガチャ」などということは言わないでしょう。ただし、「賢さの育ち」を潰すのは簡単です。子どもから「つながり」を遠ざけ、狭い部屋の中に閉じ込め、テレビやゲーム機などの機械やオモチャで遊ばせ、言葉との出会い、物語との出会い、体験との出会いを奪い、子どもが感じていること、子どもが考えていること、子どもがやりたいこと、子どもの成長に必要なことを無視して一方的に親の期待と指示と命令を押し付けていれば「賢さの育ち」は簡単につぶれます。すると、自己中心的に感じ、考え、行動するようになります。うまく行かないことがあると人のせいにします。でも、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断する能力が育っていないので、簡単にだまされます。
2026.09.05
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5月に孫No.7が生まれ、7月に孫No.8が生まれました。両方ともかわいい女の子です。で、双方のお母さん(一人は娘、もう一人はお嫁さん)に「お祝いで絵本をプレゼントするから10冊選んで」と伝えました。娘の方は「10冊」と言ったのに11冊リストアップしてきました。お嫁さんの方は今選択中です。私がどうしてオモチャや衣服などではなく「絵本」をプレゼントの対象に選んだのかというと、オモチャや衣服は「その時だけのもの」なのに対して、「絵本」は「一生もの」だからです。「絵本」は絵と、言葉と、物語で出来ています。ただし、本来、子どもの成長に「絵」は必要ありません。「絵」が、子どもが物語を聞いて自由に想像したり空想することを阻害してしまうからです。また、絵によってお話の印象も大きく変わってしまいます。そのため、シュタイナー幼稚園などでは「絵本」を読まずに、絵のない「素話」を聞かせるようです。実際、人類は何十万年と物語を語り継いできましたが、その「語り継がれてきた物語」の多くに「絵」はついていません。寺院の壁画やタピストリーや洞窟の壁などに「物語の絵」が描かれたこともあったでしょうが、それは「特別なもの」だったでしょう。その伝承されてきた物語にあるのは「言葉」と「物語」だけです。昔、囲炉裏端で老人によって語られていた「むかしむかし あるところに」というお話しには絵はついていませんでしたよね。それに、物語を語るのは物語を聞いて育った人なら難しくないでしょうが、絵を描くのは誰にでも出来ることではありません。また、絵は「見るもの」ですが、言葉と物語は「聞くもの」です。そして、「見るもの」は脳によって解釈されます。それに対して「聞くもの」は直接心の中に届きます。「森の絵」を見ても「森の体験」は出来ませんが、「森の物語」を聞くと「森の体験」が出来るのです。それが「言葉の力」です。また、「絵」があるとどうしても「絵」に合わせて言葉や物語を理解しようとしてしまいます。その結果、「物語の主体」が「子ども」ではなく「絵」になってしまうのです。と、絵本の悪口のようなことを書いてきましたが、でも、生活体験や、自然体験や、人間体験が圧倒的に少ない現代の子ども達にとっては、「その言葉や物語を理解する手助けとしての絵」が必要なんです。「森」の体験がない子は「言葉だけで語られた森を舞台にした物語」が理解できないし、仲間と遊んだ体験のない子は「言葉だけで語られた仲間と一緒に活動する物語」を理解することが出来ないからです。また、「絵」があることで、また見たことも体験したこともない「森」や「仲間と遊ぶ活動」に興味を持つことも出来ます。それが「絵の力」でもあります。豊富な生活体験や、自然体験や、人間体験に満たされて育っている子には「絵」は必要ありませんが、そういう体験が不足している環境で育っている子には「絵」が必要なんです。絵があることで、絵本の中で主人公と一緒に擬似的な自然体験をすることも出来るからです。また、幼い頃に聞いた「言葉」や「物語」は魂の深いところに刻み込まれるので、大人になっても消えません。それは絵本でも同じです。子どもの頃に見たことは忘れても、聞いた言葉とか物語はそう簡単に消えないのです。子どもは「お話」や「物語」を聞きながら、世界観や、自然観や、人間観の土台を育てているからです。子どもの頃に聞いた「物語」自体は忘れてしまっても、その物語を通して育った世界観や、自然観や、人間観は大人になっても消えないのです。親が我が子のために絵本を選ぶ。その行為自体が、子どもに「お母さんが望む世界観や、自然観や、人間観」を伝えるための「祈り」であり「願い」なんです。そしてその「祈り」と「願い」が絵本を通して子どもに伝わっていくのです。「しつけ絵本」のようなものばかり選ぶ人は、「心やからだの育ちよりもしつけの方が大切だ」というような世界観や、自然観や、人間観を持っているのでしょう。また、自分自身がしっかりとした世界観や、自然観や、人間観を持っていない人は、そういう視点で絵本を選ぶことが出来ません。だから、子どもに選ばせます。すると、キャラクター的な絵本ばかり選ぶでしょう。幼稚園選びでも同じです。子どもに選ばせたら遊具がいっぱいあって遊園地のような園を選ぶでしょう。
2026.09.04
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9月13日(日)に、千葉県成田市の坂田ヶ池総合公園という場所で、「2nd school もりのこびとたち」の主催者である奥村奈美余氏と、同タイトルで対談を行います。前日の12日(土)は森で遊びます。対談の方はアーカイブも作るようです。まだまだ参加者募集中です。ご興味のある方は<こちら>を覗いて見て下さい。それに先だって、ブログの方にこのタイトルに関しての私の考えを書いてみます。ただし、当日、これと同じ話をするわけではありません。当日は対談的な形で行うので、どういう話の展開になるのかは不明です。で、タイトルは「からだの土台 こころの根っこ」です。今、この「からだの土台 こころの根っこ」を育てることが出来ないまま幼児期を過ごし、小学校に入り、中高(大)と経て、そのまま社会に出て行かざる終えない子ども達がものすごく増えてきています。確かに年齢が上がれば自動的に性的、肉体的には「大人」になります。でも、幼児期に「からだの土台 こころの根っこ」が育っていない子は、からだは大人になっても、「一人の人間」として、「一人の社会人」として自立して生きて行くことが困難になってしまうのです。会社の部品、社会の部品としての生き方は出来るのですが、自分の人生を、自分のものとして、自分らしく生きることが出来なくなってしまうのです。また、自分の周囲で起きていることが理解できません。周囲の人とつながることが出来ません。体験や他者との関わり合いを通して学ぶことが出来ません。「体験を通して学ぶ」という学び方を学ぶことが出来ていないからです。そのため、人間として成長することが困難になってしまうのです。というか、そもそも、最近はそんなことには興味を感じない人が増えてきています。「からだの土台 こころの根っこ」が育っていないと、「今を楽しく生きること」にしか興味を感じなくなってしまうからです。本来、幼児期の子ども達はそのような状態です。でも、「からだの土台 こころの根っこ」が育つ過程で少しずつその状態から抜け出すことが出来るのです。そのために必要なのは「つながる」ということです。お母さんやお父さんや自分の周囲にいる大人達とつながる。仲間とつながる。自然とつながる。見える世界、見えない世界とつながる。色の世界、音の世界、触覚の世界、味の世界、匂いの世界とつながる。過去の人たちとつながる。遠くの人たちとつながる。美の世界とつながる。などなどです。その過程で「心」と「からだ」もつながっていきます。人間は「つながり」を通してしか「自分の成長に必要なもの」を吸収することが出来ないのです。衣食住は与えられていても、その「つながり」から隔離された環境で育っている子は、「人間としての成長」が困難になってしまうのです。でも、つながるためには「つながりを支えるもの」が必要です。周囲の大人とつながるためには「言葉」や「生活のルール」を学ぶ必要があります。そういうものを学ぶことが出来ない子は大人とつながることが出来ません。だからといって子どもはそういうものを「義務」として学ぶわけではありません。子どもが「この人とつながりたい」と思えば、自分の意思で「つながるために必要なこと」を学ぼうとするのです。それは「つながりたい人」とつながるのが喜びだからです。子どもと子どもがつながるためには「遊び」が必要です。一昔前までは、その遊びは世代を超えて伝承されてきましたが、今ではそのほとんどが消えてしまいました。そのため、他の子とつながりたいと思っても、つながる術がありません。結果、「ネット」を介してつながろうとするのですが、ネット経由では感情や、感覚や、体験や、行動を共有することが出来ません。ネットで共有出来るのは「情報」だけです。その結果「遊び」を共有することで育っていた、「対話する能力」「助け合う能力」「みんなで一緒に考える能力」「遊びを工夫する能力」が育たなくなりました。最近の子は先生の指示があればみんなと一緒に行動することが出来ますが、指示がないとバラバラになってしまいます。自分たちの意思で他の子とつながって活動することが出来ないのです。でも、この能力が育っていないと夫婦生活を営むことも、一緒に子育てをすることも出来ません。会社に入っても、指示や命令を受けるだけの仕事は出来ても、部下を任せられたときにどうしようも出来なくなってしまいます。部下と心を通わせることが出来ないので、指示と命令だけで部下を動かそうとします。でも、それでは部下が苦しくなるばかりです。仕事にやりがいも感じません。結果、仕事がうまく回らなくなります。そして、そのような子育てをしている人もいっぱいいます。「つながり」から切り離されて育っている子は「自分が生きている世界」に対する興味も目覚めません。だから、意識が外の世界に向かいません。その結果、快楽や欲望を満たすことのみに一生懸命になります。「親ガチャ」という言葉は、「自分の可能性」を知ることが出来ないまま育った人の言葉です。国や、偉い人や、テレビや、AIが「〇〇は△△だ」と言えばそのまま信じてしまいます。「自分の考え」や「自分の視点」を持っていないからです。結果、そういう存在が「渡れ」と言ったら、赤信号でも平気で渡ってしまいます。それで事故に遭うと事故の相手を恨みますが、自分の判断を反省することはありません。じゃあどうしたらいいのか。この続きを聞きたい人は、12日、13日の活動に是非ご参加下さい。
2026.09.03
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デジタル機器を使っての学習はデジタル化した情報しか学べません。これはちょっと考えれば分かる当然のことです。それは、デジタル機器を使って学習し、どんなに多くのことを覚えても、自分の命やからだが存在しているリアルな世界のことは学べないということを意味しています。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で感じ、自分の舌で味わい、自分の鼻で感じ、自分のからだを動かして感じるようなことについては一切学ぶことが出来ないのです。確かに、デジタル機器を使って「命について」、「からだについて」学ぶことは可能です。でもそれは「命についての情報」「からだのついての情報」に過ぎません。「自分にとっての自分の命」や「自分にとっての自分のからだ」のことが学べるわけではありません。デジタル機器は分かった気にさせてくれるだけなんです。だからこそ、それが非常にやっかいだし、危険なんです。分かった気にさせてくれるから、子どもが成長していなくても、子どもの成長を阻害していても問題を感じないのです。また、子ども自身も「自分が成長していないこと」に気づかないのです。実際、動画でノコギリを使っているところを見た子は「ノコギリの使い方」が分かった気になってしまいます。でも、実際には使えません。でも、使う場がないので「実際には使えない」ということに気付くことが出来ないのです。これは非常に危険なことです。「自分は何でも知っている」、「何でも出来る」と思い込んでそのまま社会に出たら悲惨なことになってしまうからです。それに、デジタル化できる情報しか学んでいないのなら人間である必要がありません。AIも同じ情報を持っているし、AIの方が遙かに処理能力に優れているからです。AIには処理できない能力を持っていないと、これからの時代は「人間としての存在価値」が消えてしまうのです。また、新しい文化や文明を創り出すことも出来なくなります。AIが暴走したとき、止めることも出来なくなります。また、人間は他の人と言葉や、感覚や、思考や、価値観や、様々な文化を共有することでつながっています。この、「共有する能力」もデジタル機器を使った学習では学ぶことが出来ません。これはどんなに優秀なAIを使っても学ぶことが出来ません。AIの方にその能力がないからです。AIの中にあるのは情報と処理能力だけです。こちらの話に共感したように見せることは出来ますが、「共感したように見せているだけ」です。なぜなら、AIはAIを使う人の期待に応えるように作られているからです。AI自身は「主体性」も、「自分としての思想や価値観」も持っていないのです。そもそも、「私」は「個」ですが、「AI」は「個」ではありません。「AI」は竹やキノコと同じように、目に見える部分は個別に分かれていますが、その本体は人間には見えないところにある「集合体」なんです。でも、「共感したように見せているだけ」に騙されてしまう人がいっぱいいるのです。だからAIを恋人にしてしまう人まで現れてきました。平面化された画面ばかり見ていると、空間を感じ、空間を認識する能力が育ちません。空間を感じるためには、自分自身がからだ丸ごとでその空間の中に入る必要があるからです。また、見る人を飽きさせないように作られた映像やプログラムばかり見ていると、自分の意思で見て、感じて、考える能力が育ちません。でも、そのようなものに慣れてしまうと、自分の状態を客観的に見る能力も育たないので、自分で自分の事が分からなくなってしまいます。そして、自分で自分のことが分からない人は、他の人のことも分かりません。自分のことは分からないのに、他の人のことは簡単に批評批判するようになります。
2026.09.02
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最近の子ども達は、命や、からだや、それらのつながりによって支えられている「リアルな世界」から切り離されて育っています。現代の子ども達の多くは、命やからだだけでなく、過去とも、現実世界ともつながらない「時間も空間も因果関係も存在しない仮想空間」の中で日々遊んでいます。その世界を支配しているのは物理学でも、命の論理でも、自然の論理でもありません。そのゲームを作った人が決めたルールだけです。自然界には「自然界の論理」があります。それは人間を超えた論理です。そして人間は、その「自然界の論理」に従って生きています。昔から子ども達も、その論理に従い、その論理を利用して遊んできました。その論理を研究するのが物理学や生物学や化学といった様々な学問です。だから私も中学に入って物理学を学んだとき「ああ、あれのことか」と、「それまでの自分の体験」と「学問として学んだこと」がつながり、物理学に興味を感じたのです。子ども達が「学問」として学校で学ぶことの全ては「この世界に存在していること」や「存在していたこと」についてです。「この世界に存在していること」や「存在していたこと」だからこそ、学ぶ意味も価値もあるのです。また、自分自身についてや、自分の周囲に存在しているものの意味や価値を知ることが出来るから学ぶことが面白くなるのです。それに人は、「この世界に存在していること」や「存在していたこと」とのつながりの中にしか、自分の人生を築くことが出来ません。この世には存在しない「ポケモン」についていくら詳しくなっても、ゲームがいくら上手になっても、実際に「自分が生きている世界」と関わり、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来なければ、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することが出来なくなってしまうのです。その結果、誰かの指示や命令に依存するようになります。また、自分と同じ趣味や興味の人以外の人とつながることも出来なくなってしまいます。さらに、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来ないと、「過去から受け継がれてきたもの」を受け継ぐことが出来なくなります。その中には「自分の人生を自分のものとして生きるために必要なこと」の全てが入っています。そのため、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来ない子は、必然的に不安も強くなり、自己肯定感も低くなります。さらに、ゲームに夢中になって遊んでいる子どもは、自分が「自分が生きている世界のことを何も知らない」ということを知りません。その現実にぶち当たるのは社会に出てからです。でも困ったことに、その頃までには感覚回路も、思考回路も、行動様式も、からだの使い方も大方固定されてしまっているので、学び直すことは非常に困難です。子どもは日々の体験を通して学んでいます。それは大人でも同じですが、大人と子どもが違うのは、大人は「自分の学び方」で学んでいるのに対して、子どもは、その「学び方」そのものを学んでいるということです。子ども達が遊びを通して学んでいるのは「学び方」なんです。だから、いくらいっぱい遊んでも成績はよくなりませんが、「学び方」を知っている子は、勉強に興味を持ったとたんに急激に伸びるのです。その一方で、幼いときから遊ぶ時間も、遊ぶ場も、遊ぶ仲間も与えられず、ゲームでばかり遊んで育った子は、「学び方」を学ぶことが出来ません。せいぜい「ゲームの攻略法」を学ぶくらいです。でもそれは現実の世界では役に立ちません。リアルな世界での友達とのつながり方も分かりません。そのため、結婚しても助け合い、支え合うことが出来ません。子どもが産まれても、衣食住を与え、子どもの世話をすることは出来ても、子どもの成長を支えることが出来ません。そもそも、子どもとの関わり方が分かりません。だからゲーム機に子どもを預けてしまいます。塾に通わせていれば知識を覚えることは出来ます。ですから、「遊びはゲームで、勉強は塾で」という生活でも、小学校時代はなんとかなります。でも、塾では知識は教えてくれても、「学び方」は教えてくれません。それは部屋の中で、椅子に座って学べるようなものではないからです。
2026.09.01
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