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森の声

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2012.05.18
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日は、人間は「頭の記憶」と「心の記憶」と「からだの記憶」の三つの記憶を持っていると書きました。

からだには「からだの言葉」があります。
心には「心の言葉」があります。

ですから「からだの記憶」は「からだの言葉」として記憶され、また語られます。
「心の記憶」は「心の言葉」として記憶され、語られます。
「頭の記憶」も同じです。


私たちは文字で書き笑わすことが出来るものだけを「言葉」として考えていますが、「言葉」を「コミュニケーションのための道具」として考えるなら、この世界には、文字で書くことが出来ない言葉も、音声化することもできない言葉もあります。

ちなみに、その「文字化出来る言葉」を「頭の言葉」と定義しておきます。

そして、「心の言葉」も「からだの言葉」も文字で書き表すことは出来ません。ですから文字化出来るような言葉として語ることも出来ません。




次に、「心の言葉」を学び始めます。それは声や表情やしぐさによる言葉です。

ですから、子どもにとっては「何を言ったのか」という「文字化出来る情報」ではなく、「どのような声としぐさと表情で言ったのか」ということの方が重要になります。

大人が優しい言葉で語りかけても、その時の声や表情やしぐさに優しさを感じないなら、子どもはその言葉から大人の意図とは異なる意味を理解します。

思春期前の子どもたちはそのように「からだの言葉」や「心の言葉」の方が得意なので、子ども同士でも「頭の言葉」はあまり使いません。

ですから、思春期頃の子どもは議論することも可能ですが、思春期前の子どもには議論は出来ません。

そしてそのため、思春期前の子どもは自分の心やからだの状態や、心やからだが体験したことを「頭の言葉」として言葉化することが苦手です。

「からだの言葉」や「心の言葉」として表現はしているのですが、そのような言葉に鈍感になってしまっている大人は、「頭の言葉」で説明してもらわないことには理解することが出来ないのです。

子どもは、からだの調子が悪い時や、お腹が痛い時や、頭が痛い時なども、どの辺がどのように具合が悪いのか、痛いのかを言葉化することが出来ません。
そして、ただ機嫌が悪くなったり、寝込んだり、泣いたりするだけです。

そんな時、不安になったお母さんが一生懸命にその様子を聞きだそうとしても、子どもはそれを説明することが出来ません。

何か心の問題で幼稚園や学校に行けなくなった時も、子どもはその心の状態を説明できません。



子ども同士がケンカした時も、どうしてケンカしたのか、どのようにケンカしたのかなどを説明することが出来ません。

遠足の作文を書かせると、「○○へ行きました。楽しかったです。」「○○を見ました。面白かったです」的な記述ばかりです。

何かを食べて感想を聞いても「まずい」とか「美味しい」というような、紋切り型の言葉しか出てきません。

読み聞かせをして感想を聞いても「楽しかった」というような言葉しか返って来ません。

大人は「どこがどのように面白かったのか、そしてどのように感じたのか」と言うことを聞きたいのですが、子どもはそれを説明することは出来ません。それで大人はがっかりするのですが、子どもたちは感じていないのではないのです。ただ、「頭の言葉」で言葉化することが出来ないだけなのです。



思春期前の子どもでは、「心の働き」と「からだの働き」はつながっているのですが、それらと「頭の働き」(意識の働き)がまだつながっていないからなのです。

「大人の言葉」(文字化することが出来る言葉)は「頭の働き」によって生まれてきます。心で感じたこと、からだで体験したことを言葉化するためにはそれらを「頭の働き」を通す必要があるのです。でも、それがつながっていないため、それらを言葉化することが出来ないのです。

でも、感じていないわけではありません。覚えていないわけでもありません。なぜなら絵のような芸術的な表現活動の中では表現することが出来るからです。

手のない自分の絵を描く子、真っ黒に塗りたくる子、いつも小さくしか描けない子、色を使うことが出来ない子達に、「どうしてそういう絵を描くの?」と聞いても答えることは出来ませんが、でも、何かを感じているからこそ、そのような表現をすることが出来るわけです。

臨床心理学では「箱庭療法」というものを行うことがあるようです。これは簡単に言ってしまえばジオラマで遊ぶ遊びのようなものです。一種の表現活動でもあります。そのような活動の場では、自分の状態を言葉で表すことが出来ないような子ども達でも、表現として自分の心やからだの状態を表すことが出来ます。

思春期前の子どもたちにとって、「頭の言葉」は「大人と話すための道具」であってまだ自分自身のための道具ではないのです。

だから「自分のこと」を語ることが出来ないのです。そして子ども同士では「頭の言葉」を使わないのです。

自分の心やからだの状態を自分の言葉で語ることが出来るようになるためには、思春期が来て、「頭の働き」と「心の働き」と「からだの働き」が統合され、「自分の言葉」を持つことが出来るようになってからです。

確かに幼稚園や小学生の子どもでも、言葉の表現が上手な子もいます。大人のような表現をする子もいます。テレビでよく見かける子役の子どもたちはみな言葉の使い方が上手です。

でも、ここで誤解してしてはいけないのは、「言葉の表現が上手」だからといって、「自分の心やからだと対話するのが上手」だとは限らないということです。

そのような子は、ただ単に「大人と話すのが上手」というだけのことなんです。さらに、その言葉は「自分の言葉」ではありません。

子どもにとって大人は自分たちとは異なる感覚や思考や言葉を持った外国人と似たような存在です。

ですから、子どもたちが大人と会話しようとする時には、「心の言葉」や「からだの言葉」といった自分たちの「子ども語」ではなく「大人語」を使う必要があります。

そのため、自分の感覚や心やからだの世界を感じる能力が萎えてしまう恐れがあるのです。

そのような子は、言葉をいっぱい知っているのに、自分のことを語ることが出来ません。そこで語られる「自分」は自分の心やからだとつながった本当の自分ではなく、大人が理解できるように頭の中で作り上げた「観念的な自分」です。

そのような子は自分に嘘をつくのが上手です。





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Last updated  2012.05.18 10:08:27
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