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現代人はすぐに正解を知りたがります。子育てや教育でも、ちょっとうまく行かないことがあるとすぐに「どうしたらいいのでしょうか?」と聞いてきます。子ども達の造形の場でも、考える前に聞いてきます。知恵の輪を渡すと、受け取ったとたんに「で、どうやって外すの?」と聞いてきます。で「自分で考えな」と突き放すと、「じゃあ、いい」とそこで放棄してしまいます。20年前には考えられなかった状態です。最近の子は「自分の頭で考える」ということが出来なくなってしまったようです。ものすごく危険な状態です。(もちろん全員ではありませんが、でもそういう子の方が多数であることは実感しています。)似たような状態の大人も増えてきました。「(子育ての)正解を教えて下さい」としつこく聞かれたこともあります。でも、科学には「正解」があるかも知れませんが、「子育て」を含めた人間の活動において「正解」など最初から存在していないのです。ですから、「正解を教えて下さい」と言われても答えようがないのです。特に「子育て」において正解を求めることは、無意味であるどころ有害です。ちなみに、科学が言う「正解」も「暫定的な正解」に過ぎません。10年後にはまた違った「正解」を言っている可能性もあります。それは科学の歴史を見れば明らかなことです。それなのに「科学」を水戸黄門の印籠のように使おうとする人は「科学が言う正解は絶対だ! エビデンスもある。異論は認めない。下がれおろう」というようなことをやっています。政治家が言う「正解」、政治家とつながった医者が言う「正解」はさらに怪しいです。というか怪しさしかありません。そういう「怪しい正解」を語る人は、「異論」を言う人に対して「陰謀論者」というレッテルを貼り付け、無視するように仕向けます。根拠を示しても「そんなの根拠にならない」と言って、議論や対話をせずに無視するのです。それでいて、「正解」が変化したら知らん顔して「正解」を書き換えます。謝らないし反省もしません。戦争に負けたときもそうでした。テレビにはそういう人がいっぱい出ています。ちなみに、それが「ワク派」でも「反ワク派」でも、「冷静な対話を拒否し、自分の意見を押しつけてくる人」の言うことは聞かない方が身のためです。それでも、正解が欲しい人、正解がないと動けない人は、「これが正解です」と言う人の言葉に簡単に従ってしまうのです。いまでは、ちょっと調べれば分かること、ちょっと考えれば分かることなのにそれをしないのです。その結果、心や、からだや、社会や、子どもに色々な問題が起きても、自然災害のように素直に受け入れ。諦めます。日本人の美徳?なのでしょうか。だからこそ、子どもたちの「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断する能力」を育てる必要があるのですが、意図的なのか、偶然なのかは分かりませんが、今の日本の子育てや、教育や、子どもを取り巻く様々な状況は、「子どもの考える力の育ち」を阻害するような状態になっています。そもそも「知識の量」を競わせるような方法で、「考える力」が育つわけがないのです。「科学教育」なども出来ません。「算数や数学の教育」も不可能です。他の学問だって同じです。「考える力」が育たなければ、どんな勉強や学問をやっても、自分自身の成長とつなげることはできないのです。道徳教育など全く無意味です。その「考える力」(思考)を支えているのは「言葉」です。でもいま、子どもたちの言葉がひどい状態です。それはそのまま子どもたちの思考の状態を現しているのですが、そのことに気づく人は多くありません。(続きます)
2025.12.04
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戦争反対を叫ぶ人は多いですが、戦争反対を叫ぶだけでは戦争はなくなりませんよ。これは歴史が実証している事実です。それは、戦争が「正義と正義の戦い」だからです。戦争反対を叫ぶ人は自分の正義に基づいて発言し行動するでしょう。そして、戦争に賛成する人たちを否定・非難してそういう人たちをやっつけようとするでしょう。でもそれもまた戦争です。戦争に賛成する人にも「国を守るために戦わなければならない」という正義があるかも知れません。軍拡をしたい人はそう考えているのでしょう。(問題は「正義」ではなく「金儲け」のために戦争を仕掛けようとする人も多いことです。)戦争に関してだけではありません。人は一人一人異なった「正義」を持っています。それが「人間」という生き物の特性でもあります。その時、「自分の正義」で「相手の正義」を否定すると、戦いが生まれます。夫婦ゲンカもその原理で始まります。その時、「話し合い」が出来れば「戦い」にまでは進まないのでしょうが、「話し合い」が成り立つためには「妥協」も必要になります。でも、「自分の方が絶対に正しい」と信じている人は妥協などしないでしょうね。そして、ケンカにまで至るような人は「自分の方が絶対に正しい」と信じているものです。また、多くの場合「正義」は後付けです。まず、個人的な欲望や恐怖や不安があって、欲望を満たし、不安や恐怖を取り除こうする行為を「正義」として意味づけするのです。人間にとって「自分を守る」という以上の正義はありませんから。その時、「つながり」から切り離されている人は「自分」だけを守ろうとするでしょう。そして、現代社会にはそのような人がいっぱい居ます。そのような人が多い社会では「個」と「個」のぶつかり合いがしょっちゅう起きてしまいます。それに対して、「つながり」に支えられている人は「つながり」を守ろうとするでしょう。そして、「個」と「個」のぶつかり合いもそれほど起きないでしょう。「つながりを支えている正義」を共有しているからです。国と国のケンカ(戦争)も同じです。政治・経済・文化などで密接な交流があり、つながり合っていることを実感出来ているような国同士では戦争など起きないのではないでしょうか。だから、本気で世界を平和にしたいのなら、子どもたちに「他者とつながる方法」を伝える必要があるのです。子どもたちを競争に追い立て、子ども同士のつながり、大人とのつながりから切り離すことが、戦争を育てているのです。いくら戦争反対を叫んでも、子どもを「つながり」から切り離し、競争に追い立てていたら意味がないのです。もしくは、宇宙人がやって来て、「私たちは皆同じ命、同じ地球に支えられ、つながっている仲間である」ということを世界中の人に自覚させるようなこと出来事が起きるかですね。だれか宇宙人を呼んできませんか。
2025.12.03
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生命は自然の一部として発生し、進化してきました。ですから、いかなる生物においても、その「生命」や「肉体」は自然に属しています。 人間も例外ではありません。どんなに自然から隔離された人工的な社会の中で生活していても、受精や、妊娠や、出産や、病気や、老いや、死といったものは自然の働きのままに進行します。たとえその受精が試験管の中で起きたとしても、それは試験管の中で自然現象を再現しただけのことです。 そして、死ねば大地に還ります。お墓に入れたとしても、やがて大地に還ります。それは単なる時間の問題に過ぎません。地球時間から見たら、人間時間など瞬間的なものです。 喜怒哀楽や愛情のような感情すら自然現象です。だから人は自分の感情をコントロールすることが困難なのです。 そして、生命や肉体が「自然」に属しているのなら、その生命や肉体の進化や成長や行動もまた「自然」の一部であり、同時に一つの「自然現象」であるはずです。 鳥が空を飛び、ライオンがシマウマを襲い、アリが砂糖を運ぶのも自然現象だということです。実際、私たちが「豊かな自然」という言葉を使う時には、そこに生きている「生き物」たちも、また、その「生き物たちの生活」も全て含めています。というか、生き物たちの活動を取り除いた自然など存在しないのです。 その自然現象としての生き物たちは、内側からの衝動に逆らうことなく、空腹になれば(目の前に食べ物があれば)躊躇なく食べます。排泄したくなれば排泄し、交尾したくなれば交尾し、眠くなれば寝ます。それは、風が吹けば草花が揺れる自然現象と同じです。自然現象としての生命体は、「あるがまま」に生きているのです。 でも、人間だけがその「あるがままの世界」から抜けだし、自分の意志と思考で自由に生きることが出来るようになりました。そして、自然を排除した社会を作り、その中で暮らすようになりました。その社会の中は「人工物」で構築され、「自然のルール」は否定され、「人間のルール」によって支配されています。 それでも、人々の生活が「自然」に依存していた頃は、「自然」という「あるがままの世界」を大切にし、その世界を破壊しないように心がけていました。あるがままの世界が壊れてしまったら、自分たちの衣食住までが失われてしまう可能性があったからです。 でも、機械文明が進み、人々の生活が「自然が与えてくれるもの」に依存しなくなると、人々は自然を大切にしなくなり始めました。一見、大切にしているように見えても、それは「あるがまま」を大切にしているのではなく、人間の趣味や都合に合わせて草木を植え替え、虫を殺し、山を削り、生き物たちからその生存環境を奪っています。 人々が「与えてくれるもの」を待つではなく、自分たちの都合に合わせて強制的に搾取するようになったのです。 実際には、それは「自然」を否定していることなのですが、現代人は自然を「資源」としてしか見なくなりましたから、生態系が失われていても緑がいっぱいなら「自然がいっぱい」などと喜んでいます。そして、「木を切っても植林すればOK」などと平気で言っています。 でも、それは見せかけだけの「不自然な自然」です。その「不自然な自然」は「多様性」と「循環」に支えられていないので、人間の管理がないと簡単に崩壊します。そして困ったことに、その「あるがまま」の否定は同時に、「自然」に属する自分自身の心や、からだや、成長の「あるがまま」を否定する意識へとつながってしまったのです。そして、妊娠も、出産も、子どもの成長も、病気も、死も、自分の心も、からだも、全て人間の都合に合わせてコントロールしようとし始めました。 自己肯定感が低い人が増えたのも、整形が流行っているのも、子どもを勉強に追い立てているのもその表れだと思います。 その結果、自然な状態の「子どもらしさ」も否定されるようになって来ました。そして子ども達は、人工的な社会の中で人工的な生活をするように強いられ、大人達の期待に合わせて成長をコントロールされています。でもそれは、子どもの家畜化に他なりません。 実際、現代社会では「子どもらしい子」はあまり肯定されていません。でもそのことで、子ども達は生命力を失い、自分の成長に必要なものを吸収出来なくなってしまっているのです。
2025.12.02
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古来から、人間が人間らしく生きるために必要な基準として「真・善・美」という考え方が大切にされてきました。goo辞書には「真・善・美」に関して以下のように書かれています。認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。でも、古来から大切にされてきたこのような考え方も現代人には「価値がないもの」になってしまいました。まず、AIの進歩で「真」が曖昧になりました。昔の人は「百聞は一見に如かず」と言いましたが、科学の進歩で「本物と区別がつかない偽物」を簡単に創り出すことが出来るようになってしまったからです。100年以上「真実」を写してきた写真ですら、撮ったその場で簡単に加工して「嘘」を創り出すことが出来るようになりました。AI技術を使えば、高市総理に花笠音頭を躍らせることだって出来てしまいます。皆さんが登場していなくても、皆さんそっくりの顔と姿と声を持ったアバターが登場するリアルな映画だって作ることが出来ます。それでアメリカでは役者の組合が懸念を表明しています。江戸川コナン君の決め台詞は「真実はいつも一つ」ですが、実際には「人間によって真実と認定されたもの」が「真実」として扱われるだけです。人間による判断が「真実」を決めているのです。そのため「真実」はそれを判断する人によってコロコロ変わります。芥川龍之介の小説 「藪の中」を基に撮った黒沢明監督の 「羅生門」という映画のとおりです。ちなみに「真実」と「真理」は異なります。「真実」は人間が確定しますが、「真理」の方は人間を超えた存在です。でもそれ故に議論の対象にはなりません。「美」と同じように「真理」を感じることが出来る人には「真理」は存在していますが、感じることが出来ない人には存在していません。そして、人間が作ったものに囲まれて暮らしている現代人は「真理」を感じる感性が萎えてしまっています。「美」を感じる感性も萎えてしまっています。現代人における「美」は社会的な雰囲気が作りだしている蜃気楼なようなものです。ですからコロコロ変わります。「善」もまた人それぞれです。ある人にとっての「善」は別の人にとっての「悪」であることもあります。アメリカと戦争していた時、日本人にとってはアメリカの兵隊を殺すのは仲間や国を守るための行為であり、善でした。でも、アメリカ人にとっては日本の兵隊を殺すのが仲間や国を守るための行為であり、善でした。「戦争は正義と正義の戦いだ」とも言われます。両方とも「自分の方が正義だ」と主張するのです。人々がまだ宗教を信じていた頃は、宗教が「善」を規定していましたが、異なった宗教を信じている人は異なった「善」を信じていました。現代人は科学を信じていますが、科学は「この世界には唯一の真実も、絶対的に正しい善も存在しない」ということを明らかにしてしまいました。また、「多様性を尊重する」という価値観の元では「善」を一元化する考え方は否定されています。「美」についても同じです。時代や国や文化が違えば「美」の基準は異なります。男性と女性でも異なります。もっと言えば一人一人異なります。美人コンテストでは美しい人を選びますが、その方法は多数決です。「美」には正解がないからです。人々がまだ「つながり」を大切に生きていた頃は、その「つながり」が「真・善・美」の基準を与えてくれていました。というか、「真・善・美」を共有することで「つながり」が維持されていたのです。でも、「つながり」が失われてしまった社会で生きるために必要になるのは「真・善・美」ではなく「お金」です。そして「お金」を得るために必要なのは競争です。「真・善・美」はみんなで共有する必要がありますが、「お金」は共有する必要がないからです。というか共有できません。そのため、多くの人が、我が子がその競争に勝ち抜くために子どもたちを競争に追い立てています。でも、幼い頃から競争に追い立てられて育った子は「安心感」も「自己肯定感」も育てることが出来ません。社会に出ても、会社に入っても、結婚しても、子どもが生まれても、他の人と助け合うことが出来ないのです。現代社会では「社会的に共有された真・善・美」は存在しません。でも、家庭や家族がつながり合い、支え合って、幸せに暮らすためには、少なくとも家族の間では「真・善・美」が共有されている必要があるのです。親子間、夫婦間で競争を始めたら家族は崩壊してしまうからです。また、子どもたちの群れ遊びの場でも同じです。「群れ遊び」が成り立つためには、仲間同士で「真・善・美」が共有されている必要があるのです。一人一人が自分勝手な「真・善・美」を主張していたら戦いが起きるだけです。ですから、戦争の悲惨さを伝えるよりも、みんなで一緒に遊ぶ楽しさを伝えることの方が平和を育てる助けになるのです。そしてそのためにはお母さんやお父さんが、自分の価値観、自分の生き方、自分が大切にしていることをはっきりとさせる必要があります。子どもが他の子をいじめた時にどういう対応をするか。ケンカをした時どういう対応をするか。ドロンコ遊びをした時どういう対応をするか。そういう日常的で些細な関わり合いが、子どもの「真・善・美」の感覚を育ててくれるのです。問題は、ゲームばかりやって育った子は戦争への嫌悪感が低いのではないかということです。
2025.12.01
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