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すべて、お楽しみさ… かめおか ゆみこさん

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森の声

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2012.04.22
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カテゴリ: カテゴリ未分類
「自由」の問題を考えていたら、「死」に行き当たりました。もしかしたら人間が自由に生きたいと願うのは「死」という現実を知っているからなのではないかということです。

「自分はやがて死ぬ」という事実を肯定的に受け入れている人は、自分が生まれてきた意味を知りたいと思うでしょう。そして、生きていることを楽しみたいと思うでしょう。

その場合の「自由」とは、「束縛からの自由」ではありません。「死」は「絶対的限界」だからです。逆に言うと、「死」という限界、すなわち「束縛」を肯定的に受け入れないことには絶対に「自由」はやってこないということです。

束縛は、そこから逃げようとするから「束縛」なのであって、受け入れてしまったらそれは「束縛」ではなくなるのです。

親から離れたい、親から逃げたいと思う人にとっては親は「束縛」ですが、「親と共にいたい」と願う人にとっては親は「束縛」ではないのです。

現象的には同じでも、拒否すれば「束縛」になり、肯定すれば「自由」になるのです。それはつまり、「束縛されている」と思い込んでいる人は、自分で自分を束縛しているということです。

ですから、「死」を否定し続ける人は、死ぬまで「死」に束縛されることになります。

それは旅に似ているかも知れません。「やがてこの旅は終わる」ということを肯定的に受け入れている人は、旅に来ている間は色々な物を見て、色々な体験をして、旅を楽しみたいと思うでしょう。

だから、「自由であること」の必要性が生まれ、あれこれ自由に考え、自由に行動することが出来るのです。



中には、せっかく旅に来たのに自分の部屋の中でテレビを見たり、ゲームをやっているだけのような人もいっぱいいます。

「自由であること」の必要性が生まれないからです。


「自分」を肯定できる人は「自分」に束縛されなくなるので、自由になることが出来ます。だから、他者とつながり合うことができます。

逆に、自分を肯定できない人は、自分にこだわってばかりいる人です。

それは、「自分で自分を抱いている状態」「「鏡に映っている自分の姿ばかりを見ている状態」です。だから、他者とつながり合うことが出来ないのです。

だからこそ、自由に生きることが出来るようになるためには、まず「肯定する」ということを学ぶ必要があるのです。

そしてそれが「楽しむ」という方法なのです。

それは「心の自由」においても「からだの自由」においても同じです。

「心」が自由な人は「心を楽しむことが出来る人」です。「からだ」が自由な人は「からだを楽しむことが出来る人」です。

自由に絵を描くことが出来る人は絵を描くことを楽しむことが出来る人です。
自由に描けるから楽しむことが出来るのではありません。楽しんでいるから自由に描けるのです。

でもみんな、「自由に描けないから楽しめない」と言います。そうではないのです。楽しめないから自由に描けないのです。



幼い子どもたちは下手くそなのに自由に描いているでしょ。幼い子どもたちはただ描くのが楽しいから自由に描くことが出来るのです。

それを上手に描くことを求めてしまうから楽しくなくなり、自由に描くことが出来なくなるのです。





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Last updated  2012.04.22 06:40:28
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