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森の声

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2025.08.15
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カテゴリ: カテゴリ未分類
現代人は「平等」という考え方を大切にしようとしています。少なくとも公的には、「性別、肌の色、障害の有無に関係なく人間は皆平等だ」と考えようとしています。

でも、この「平等」という考え方は、縦割りシステムの中でしか意味を持ちません。「国」というものがあるから「国民は皆平等だ」という考え方が成り立つのです。国が消えてしまったら「平等」を保証してくれる権威が消えてしまうからです。実際、国の考えが変わっただけで、「平等」や「人権」の中身は簡単に変わってしまいます。国が奴隷を公認すれば、奴隷を使っていても人権侵害にはならなくなるのです。

キリスト教では「人は神の前では平等だ」と言いますが、このように「平等」が成り立つためには「平等を保障してくれる権威」が必要になるのです。そしてその権威は時代や文化によってもコロコロ変わっています。だから時代や文化によって「平等」とか「権利」とか「人権」というものに対する考え方も大きく変化しているのです。

「平等」とか「権利」とか「人権」というものを「普遍の真理」のように言う人が居ますが、そのような考えには論理はあっても、根拠も実体もありません。

「北斗の拳」という漫画があります。皆さんが知っている「アチャチャチャチャー、お前はもう死んでいる」というあれです。あの漫画では 「世界的な核戦争によって文明と人々の秩序が失われ、争いが繰り返されるという最終戦争後の199X年(20世紀末)が舞台。」 (ウィキペディアより)です。

あの漫画で描かれているのは、「人権」や「平等」を保証してくれる政府が消えた理不尽な世界の中で必死になって生き延びようとしている人々と、そのような人たちを助けようとするケンシロウの活躍です。「人権」や「平等」という考え方は、国が崩壊したり、国家がそういうものを大切にしようとしなければ簡単に消えてしまうのなのです。「平等」とか「権利」とか「人権」というものは、「社会的な取り決め」であって、「客観的に存在しているもの」ではないからです。そこはちゃんと理解しておいた方がいいです。

実際、自国が戦争を始めたら、国の都合に合わせて「人権」や「平等」は簡単に抑制、制限されてしまうのです。「高い税金を払っている人間」や「身分が高い人間」にだけ「人権」や「平等」が認められるようになる可能性すらあります。

そうなってしまったら、それ以外の人が「人権や平等を認めろ」と訴えても、「お前にはそんなものない」と簡単に追い払われてしまうのです。北朝鮮の人が「人権や平等を認めろ」と言ったら銃殺されてしまうかも知れません。



そんな子ども達でも分かるのが「対等」という考え方です。「対等」という考え方は個々の関係性の中で決まるもので、それを決める第三者的な権威を必要としないからです。

仲良く群れて遊んでいる子ども達は、「自分たちは対等だ」と考えています。「対等」だから仲良く群れて遊ぶことが出来るのです。群れ遊びの場に「平等」という考え方はありません。鬼ごっこしていても「鬼」と「逃げる子」は対等なんです。対等だということが理解できているから、タッチされたら役割を交代することが出来るのです。

相撲にはスポーツのような体重制はありません。体の大きな子も小さな子も対等です。 平等ではないですが対等ではあるのです。

「鬼ごっこ」では足の速い子も遅い子も対等です。これを無理に「平等にするためにみんな同じ早さで走れ」と言ったら「鬼ごっこ」は楽しくなくなってしまいます。まただから、足の遅い子は自分の別の特性を生かして足の速い子と対等に戦おうとするのです。

「対等」だからこそ、自分の能力や個性を発揮して、体格差を補おうとするのです。

大きい子と小さい子がケンカをしている時、大人は体格的に平等ではないからケンカをやめさせようとします。でも、 体は小さくても、力は弱くても「負けるもんか」と立ち向かっている子どもは、体が大きな子と対等なんです。だから大人が簡単に止めてはいけないのです。

子どもが多いと、お母さんは「子ども達を平等に扱おう」と考えるでしょう。でも、そんなお母さんでも「自分と子どもは平等だ」とは考えないでしょう。「与えるもの」と「与えられるもの」は平等にはなれないからです。でも、「一生懸命に生きようとしている一人の人間としては、子どもも私も対等だ」とは考えることが出来ますよね。

お母さんとお父さんは社会的には平等でも、家庭内では役割が違うので平等ではありません。「赤ちゃんを産む役割を交代してくれ」と旦那に要求しても無理です。そのような違いを肯定することなく、無理に役割を平等にしようとしたら家族が家族としてのまとまりを失ってしまいます。

でも、お互いに相手を思いやることで「対等」にはなることが出来ます。「平等」を成立させるためには、「平等」を保証してくれる権力や権威と言ったものが必要になるのですが、「対等」を成り立たせるために必要になるのは「思いやり」なんです。

問題は、「平等」とか「人権」といったものは知識の一種なので、授業などで言葉だけで教えることが出来ますが、「対等」というものは知識ではなく感覚なので、授業では教えることが出来ないということです。「対等」ということが理解できるようになるためには、「大切な仲間と群れて遊ぶ体験」が必要になるのです。

ちなみに自然界では、ミミズも、ライオンも、象も、人間も対等です。だから循環が成り立っているのです。仏教にはこのような考え方がありますが、キリスト教にはこのような考え方はありません。だから平気で異文化を否定し、異民族を殺し、異文明を破壊してきたのでしょう。キリスト教やイスラム教のような一神教の世界では、同じ神様を信じているものだけが平等なんです。





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Last updated  2025.08.15 08:59:37
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