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森の声

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2025.08.16
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カテゴリ: カテゴリ未分類
色々なところで、「個性を大切にしよう」とか「自分らしさを大切にしよう」という言葉をよく耳にします。でもその一方で「平等を大切にしよう」という言葉もよく聞きます。

どうやら、現代社会では「平等」を大切にしながらも、「自分らしく」、「自分の個性を大切に」生きることを求められているようです。

でも、頭の固い私にはこれらの考え方を一つに統一することが出来ないのです。相反する概念を、理想論に基づいて無理矢理一つの入れ物の中に押し込めているような気がするのです。

それは、明るくて、元気で、思慮深くて、繊細で、勇気があって、大胆で、決断力があって、人付き合いも良くて、頭も良いといった「大人が考える全ての長所を詰め込んだ子」を求めているような感じです。でも多分、そんな子いないのです。

「平等」を優先すれば必然的に「個性」や「自分らしさ」を自由に発揮できなくなります。それが今の日本の教育の実態です。実際、スローガンとしては「個性や自分らしさを大切にしよう」と言いながら、子どもたちみんなに同じ行動を求め、同じことを教え、同じ結果を求め、同じ基準で評価しています。でもそれが「平等」ということなのでしょうか。そもそも「平等とは何か」という議論も説明も聞いたことがありません。平等の基準はどこにあるのでしょうか。「みんな同じ」「みんな同じ」というのが「平等」ということなのでしょうか。

私の理解では「平等」とは「社会的権利の平等」のことであって、「みんな同じにすること」ではなかったように思うのですが、どうも世の中的には「男女の差をなくすこと」が「男女平等」という言葉の意味のように語られているような気がするのです。私の感覚では、「差」(違い)を否定すること自体が差別に当たるような気がするのですが、それは私の思い違いでしょうか。

女性であること、男性であることにプライドを持っている人がいます。肌の色が白いこと、黒いことにプライドを持っている人がいます。そういう人は差別意識が強い人なんでしょうか。確かに自分の価値観を相手に押しつければそれは差別になります。でも、「自分はこう思っている」というのはアイデンティティーの問題であって差別とは関係がないような気がするのです。

私の印象では、明らかに存在している違いや差を無視して、みんなに同じことを教え、同じ結果を求め、同じ基準で評価し、同じように扱おうとすることで「平等」を確保しようとしているように見えるのですが、それが「平等」という事なんでしょうか?そんなことをしていたら「個性」や「自分らしさ」はつぶれてしまうのではないでしょうか?

実際、「個性」や「自分らしさ」を思いっきり発揮させて育てようとすれば、そのような「平等」を維持するのは困難になります。個性を大切にする欧米などでは、子どもの能力に合わせて「飛び級」などという「みんな一緒、みんな同じという平等」を無視した制度があります。でも、「平等」を大切にする日本では「飛び級」は認められていません。フリースクールも、公教育以外の多様な教育も、公的な組織としては認められていません。でも、「飛び級」が出来るほど能力が高い子に、退屈な授業を受けさせ続けるのは人権の侵害にはならないのでしょうか?



色々な年齢、色々な体格、おなかの空き具合もバラバラな子ども達に、定食のように同じ量、同じ種類の食べ物を与えるのが「与える側が考える平等」です。

それに対してバイキング方式のように、自分の意思と選択で、食べたいものを食べたいだけ取って食べるのが「受け取る側が考える平等」です。
バイキングでは、みんな違うものを、違う量食べているのですが、自分の意思で選んでいるという点では対等です。そして私は小学校のうちはバイキング型の教育の方がいいような気がするのですがどうなんでしょうか。





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Last updated  2025.08.16 06:00:49
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