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2月4日(日)~10日(土)までの坐禅回数(〇は結跏趺坐、他は半跏舗座)4日 ①+1+② 5日 ①+① 6日 ②+① 7日 ①+①+① 8日②+①+1 9日②+①+① 10日 ②+②+①+①1回が15分程度(数息観で1回で1~100まで数える)なので、長くても都合1時間半程度ではある。私は仏教布教のために尽してきた、どれほどの功徳があろうか?の武帝の問に「無功徳」と答えたのは、達磨大師である。それにならえば、坐禅して何の役に立つか?何の役にも立たない、ただ今、ここに坐るだけである ということになろうか。達磨(ダルマ)大師の教え 「無功徳」とは?ダルマは「達磨」。あるいは古くは「達摩」と漢字で表記され、今から約1500年前の方であり、示寂したのは諸説あるが、西暦532年(宇井伯寿説)、150歳であったと伝えられている。 達磨大師は、出生は南インドの香至王国の第3王子で、後に中国に渡り、禅の教えを初めて広められたことにより、「禅宗初祖」として尊仰(そんごう)されている。 その達磨大師が若き王子の頃、仏道に入ることになったのはこういう機縁があった。 ある日、お釈迦様の仏法を継承した第27代目の祖師である「般若多羅(はんにゃたら)尊者」が香至王(こうしおう)のもとを訪れた際、国王は光輝く宝珠を与えた。 その時、尊者は3人の王子に「この宝珠にまさるものは、この世にあるだろうか?」と問うと、兄の王子達は「これ(宝珠)にまさるものはない!!」と答えた。 しかし、第3王子は「物である宝珠より、仏陀(ブッダ)の智慧の方がはるかに勝る」と答えた。 それを聞いた尊者はその王子を弟子として受け入れ、やがて第28代目の祖として「菩提達磨(ぼだいだるま)」(ボーディダンマ)という名を授けた。 その後、般若多羅尊者が亡くなられるまで側につかえ、師の亡きあと、60歳の頃に中国に「仏法」を伝えんが為に渡ることを決意した。その達磨大師の伝えた仏法は、尊者より受(う)け嗣(つ)いだ「禅の教え」であった。 あの「起き上がり小法師」のダルマさん。七転び八起きのダルマさんは、実は「坐禅」の姿と心を具象化したものである。 脚を組み、両手を組んでの姿、「坐禅」をしている姿であり、転んでも起き上がるというのは何事にも動じない「不動」なる「坐禅の心」そのものである。 その達磨大師が、インドから初めて中国の地を踏んだ時、師の名声を聞き及び、当時、南中国の国主であった「梁(りょう)の武帝(ぶてい)」という王が、是非にも会いたいと切望した。 武帝(ぶてい)は、多くの堂塔伽藍(がらん)を造立し、あるいは沢山の僧侶を庇護しては篤く仏教に帰依していた。 武帝は会うと達磨にこのことを話し「私にはどれほどの功徳が有るのだろうか?」と問うた。 「帝(てい)問(と)うて曰(いわ)く、朕(ちん)、即位(そくい)して已来(いらい)。寺を造り、経を写し、僧を度(ど)すこと、あげて記(き)す可(べ)からず。(数えきれないほど)何(なん)の功徳(くどく)有(あ)りや!!」「師(し)曰(いわ)く 無功徳(むくどく)!!」 功徳なんか有りません!!無功徳なりと、武帝の問いを喝破した。 国主の武帝は自分は、大いなる功徳が有ると思っていたので驚いた。—しかし— この「無功徳」の達磨大師の答えは、実はただ単に厳しく言い放ったものではなく、もっと実に深遠なる「禅の教え」である。 達磨大師は武帝の心を、しっかりと受け止め、真(まこと)の「功徳」のあり方を教えた。 仏教の帰依とは、功徳を求めるものではなく、まして見返りを望むものではない。「帰依」というその心と行い自身に、すでに「功徳」は、そなわっている。そこに「有る」とか「無い」とかに、執着してはならない。 それは、経を写し、読むことも、また坐禅に作務、托鉢にしても全ての仏道修行には、功徳は、そのままにそなわっている。だから、そこに功徳を求め、有る無しとしてはならない。 達磨大師は、その「有るか無いか」との、こだわった武帝の心を喝破し、その執着心を戒めた。 「無功徳」の「無」は「有無相対」の価値観の心、あるいは「有る」と心が動き、「無し」とも心が動く、その揺れ動く心を否定した「動ずること」のない「不動の功徳」ともいえる。 「無功徳」とは、有無相対を超越した「絶対無」であって、「無なる功徳」あるいは「無の功徳あり」と解釈できる。 まさしく、達磨大師の「坐禅の姿」であり不動なる「坐禅の心」である。—ひるがえって— 冒頭の達磨大師が、若き王子の頃、般若多羅尊者との初想見の時、「この宝珠にまさるものはあるだろうか」に、王子の「物の宝珠より、仏陀の智慧がまさる」との答えた。 達磨大師は宝珠という物のあり方に執われず「仏陀の教え」そのものを尊いとしている。 達磨大師は若き時代より、それは確固としてあった。 その昇華した言葉が「無功徳」という「喝(かつ)」であると私は思う。 私は今、あらためて、この「さわやか説法」を書きながら達磨大師の説かれている「心」を学んだ。—かく考えるならば— 私、高山和尚なんぞは、真っ先に達磨大師からお叱りを受けるであろう。「お前ぐらい、功徳を求める者はいない!!」「あっちや、こっちと求めてばかりいる!!」「しっかりと不動なる心を見据えよ」と…。 しかしながら、私は、達磨大師の教えも分からず、「ダルマさん」を棚に飾っているだけなのだ。 それゆえなのであろう。いつも私は「七転八起(しちてんはっき)」ではなくして、「七転八倒(しちてんばっとう)」の中で悶え転げ回っている。二宮先生語録巻の3 【247】【二四七】達だる磨まの悟ご道どう、至いたると謂いふべし。其その像ざう或あるひは七しち堂どう伽が藍らんに坐ざし、或あるひは小せう児じの弄もてあそぶ所ところと為なる。仏ぶつ経きやうの如ごときは、則すなはち片へん紙しと雖いへども人ひと之これを汙けがすを恐おそる。不ふ倒たう翁おう(だるま)の如ごときは、則すなはち之これを弄もてあそび、之これを踏ふみ、之これを破やぶり、之これに溺いばり(小便)す。人ひとも亦また之これを怪あやしまず。是これ悟ご道どうの至いたり、無む心しんの極きよく。以もつて之これを致いたすなり。《訳》達磨の悟道は至っていると言うべきじゃ。その像はあるいは七堂伽藍に坐し、あるいは子どものおもちゃとなる。お経のようなものは、少しでも人は汚すことを恐れる。ダルマのごときはこれをもてあそんだり、踏んだり、破ったり、水につけても、誰もこれをあやしまない。これは悟道の至り、無心の極で、達磨の悟道は至っているというわけじゃ。1『報徳秘稿』一五八「一休の歌に、坐禅する祖師の姿に加茂川にころびながるる瓜か茄子(なすび)かとあり。是そしるに似てもむる也。夫れ、瓜・茄子とを川へ流す時は、石に当りても、又岸に当りても、淵といえども、終に沈む事なきを云う也。」どおれ、もう一度坐ろう(^^)
2024.02.11
「マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り」より「しばらく前から、私たちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこへ行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。 ガテマラのシシターたちは、どこでもするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、私にあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力でどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりました。彼はシスターにこう話しました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね」 現在彼は、仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつも何かを持ってくるのです。 このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。」☆なにか貧者の一灯を思い出させるエピソードだ。貧しい人がなけなしのものを捧げるとき、それは豊かな者が余裕があるなかから差し出すものよりも心がこもっていて尊い、愛そのものの深さが違うということか。ああ。先日、小田原の飯泉観音に参った帰り道に「復活書房」という大きな古本屋さんがあった。日野原さんのCD付きの本にも心ひかれたが、結局、神渡良平さんの「生き方のヒント」を一冊だけ買った。パラパラめくっていたら、マザー・テレサにかかわる話が載っていた。日本からボランティアに行った女子学生のこんな話だ。「森泉由美子さんは、マザーテレサが亡くなってから2年後の1999年の夏休み1ヶ月、インド・カルカッタのマザー・テレサの宣教会でボランティアをして過ごした。ボランティアを志していったものの、「死を待つ家」で汚物にまみれた衣服やシャツを洗い、ベッドや床を掃除し、食事や排泄の介護をするのは並大抵のことではない。手洗いの最中、衣類から汚物が出てきたり、患者の崩れ落ちた皮膚やがりがりに痩せた体を見ると、耐え切れずに逃げ出したくなった。 言葉も分らず、患者から要求されていることも理解できず途方に暮れる毎日が続いた。 そんな不安の中でのボランティアだったが、不思議と森泉さん自身が癒されていた。病室に毎日外を指差して泣いている同年代の女性がいた。(外に出たいのだろうか、大切な家族に会いたいのだろうか)そう思うと会いたい人に会えない切なさに涙があふれてきた。するとその女性は、手で森泉さんの涙を拭ってくれて抱きしめてくれた。この出来事でそれまで言葉に頼っていた、相手の気持ちを分ろうとする気持ちがあれば言葉の壁はこえていけるのだと気づいた。 森泉さんは5日ほど休みを貰って、ベナレス、ブッダガヤ、ラージギール、サールナートなどの仏跡を巡ることができた。ナーランダの遺跡を訪ねたとき、大勢の物乞いの子どもにまとわりつかれた。森泉さんはあまりのしつこさに、いらないお菓子を与えて追い払おうとした。すると子どもたちの顔がゆがんだ。そのとき、森泉さんの脳裏にマザー・テレサの教えが浮かんだ。「いらないものに思いはこめられていない。 余っているものを与えたとしても、決して自分が満たされることはないのです。」 森泉さんは深く後悔した。ベナレスのガンジス河のほとりの沐浴場に来た時は、そんな反省もあって、子ども達と一緒に遊んだ。子ども達は喜んで見送って、いつまでもいつまでも「サヨーナラ」と叫んでいた。 再びボランティアに戻った森泉さんは、患者の中に自分から飛び込んでいった。歌が好きなおばあちゃんと一緒に歌い、衰弱したおじいちゃんの体をマッサージし、体が硬直したおばあちゃんのリハビリを手伝った。相手が求めているものは、こちらが一心に耳を澄ますと魂に聞こえてくる。森泉さんは自然と笑みが絶えることがなかった。 ある日、ガリガリに痩せ、苦しそうに肩で息をし、肺結核の少女の世話をした。乾いた咳をし、目は赤く変容していた。森泉さんは気を奮い立たせてお世話をした。固形物が飲み込めないので、ミルクをすくってのませようとするが、床に吐き出す。「お願い、少しだけでも飲んで・・・」とつぶやきながら、スプーンを口に運ぶと、少女は少し目を開けて森泉さんを見た。そして苦しそうに顔をゆがめながらも飲んでくれた。森泉さんはうれしくて、ココナツオイルを塗って顔をマッサージしてあげた。翌日森泉さんがその少女のそばにいくと、目をうっすらと開けて微笑んだ。森泉さんがきのうと同じように顔をマッサージすると少女は森泉さんを抱きしめた。涙を浮かべながら何か話しかけてきた。森泉さんも涙を浮かべ、しっかりと彼女を抱きしめた。森泉さんはカルカッタに来てよかったと思った。
2023.08.05
「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」より「大学を卒業したばかりのあるシスターをわたしは覚えています。 彼女はインド国外の裕福な家庭に育ちました。 わたしたちの修道会の規則に従って、入会したまさにその翌日から、志願者はカルカッタの「死を待つ人の家」へ行かなければならないことになっています。 彼女が赴く前に、わたしは言いました。『あなたは、ミサの間、司祭がどれほどの愛をこめて、また繊細な注意をはらって、キリストのお体にふれていたかを見ました。あなたがホームに着いたら、しっかりと司祭と同じようにするのですよ。なぜなら、貧しい姿に身をやつして、イエスがそこにいらっしゃるのですから』 彼女は出かけて。3時間後に戻ってきました。 大学を出たのですから、いろいろなことを見てきて、知識も豊富だったでしょう。 その彼女が、とても美しい笑顔を浮かべてわたしの部屋にやってきて、こう言うのです。『3時間の間、わたしはキリストのお体にふれていました!』そこで、わたしは言いました。『どうしたんですか。何が起こったんですか』彼女は答えました。『道端から男の人が運ばれてきました。排水溝の中に落ちてしまって、だれにも助けられずに、しばらくそのままだったのです。ウジ虫と泥にまみれて、傷ついていました。とても大変だと思いましたが、わたしは、彼をきれいにしました。そのとき、わたしはキリストのお体にふれているのだと知ったんです!』そう、彼女は知ったんです!」☆瀧村和子さんは、地球交響曲の瀧村仁監督の姉である。1997年、龍村和子さんは、インドのダラムサラでダライ・ラマ法王と謁見した。その後、インドの瞑想法を学ぶ予定だった。「あのね、毎晩マザー・テレサが夢に出てくるのよ。呼ばれているような気がするから、マザーテレサアシュラムに行って、奉仕活動をしてくる事にしたわ。」和子さんは、次の日にこう言い残して、カルカッタのアシュラム(修行所)に向った。ホテルで少し仮眠し、朝5時マザーハウスに向かった。1日目に洗濯の奉仕活動。汚物を払い、消毒釜で煮る。別の釜に移し再度煮る。水槽で冷やし川に運ぶ。手で洗う。また釜で煮る。冷やし、絞る。屋上に運び、天日で干す。以上を一日中40度以上の炎天下で行なう。「どうして、こんな非能率的な洗濯をする?洗濯機ですればもっと早くできるのに」マザーテレサの答えはこうだ。「人の心がこもってこそ奉仕になる。そのエネルギーが心身に伝わるのよ。」2日目の奉仕活動は孤児院だった。インドは特にストリートピープルが多い。道路で生まれ、道路で育ち、道路で一生を終える。和子さんが訪れると子供達は何十人も足にしがみつく。「抱っこ」をして欲しいのだ。和子さんはこう書いた。「こんなに沢山の子供を抱っこした事は無かった。」そして2日目もクタクタになりながら充実な奉仕を感じていた・・・和子さんの3日目は一番重病のホスピスでの奉仕活動だった。昼夜問わずカルカッタ中を走り、道路で死にかけている人達を連れてくる場所だ。いきなり外から担ぎ込まれてきた女の人を担当した。女性は骨と皮のみのガリガリで、衣服はボロボロドロドロだった。右胸が破裂していて、生の癌がドンと出ていた・・・体を洗い、髪を洗って、服を着させて、ベッドに寝かす。その間もずっと痛みと苦しみで、とても恐ろしい形相だった。すでに食物は受け付けず、僅かに水だけを口に含めるだけだった。和子さんはその女性に一晩中付き添った。彼女の痛さ辛さでの大きな唸り声が、和子さんが背中をさすっていると静かになる。そのうち女性は手を差し伸べて、和子さんの手を握った。そして何かを言う。言葉が判らなくても何が言いたいのかわかる。「Thank you!! (ありがとう)」この女性が和子さんに何度も同じ言葉を繰り返すうち、不思議な現象がおきた。末期の痛みと苦しみで、恐ろしいほど歪んでいた顔が徐々に静かで平和な表情に変わり始めた。そして幸せな顔に変わった。今のこの女性にあるモノは「感謝」だけだ。「感謝」はする方もされる方も「感謝」になる。「感謝」に感謝する「幸せ」。和子さんは涙が止まらなかった。マザーはこのことを教えるためにきっとここへわたしを呼んでくれたのだ。命を懸けてこの事を教えてくれた女性とこのことを学ばせるためにここへ呼んだマザー・テレサ。この2ヶ月後マザー・テレサは昇天した。
2023.08.05
マザー・テレサへのインタビューが終わった後、マザーはお茶の用意を始めた。そして、取材者たちに「疲れたでしょうから、一緒にお茶をいただきましょう。」と誘った。マザーとお茶を飲めるのはうれしかったが、翌日の撮影スケジュールを打ち合わせておく必要もあった。翌日、ハンセン氏病患者の平和の村に行くか農村医療の巡回班のどちらを撮影するか決めかねていたのだ。「どっちに決めますか」とシスター白井がインタビューアーに決断を迫った。そのときマザー・テレサは笑顔でこう言った。「無理なことをどうこう思い悩むのは、無駄なことです。 神さまはできることしか選ばれない。 できないことは神さまがお望みでないのだと思いなさい。 」そういって、お茶をすすめながらこんな話をしたという。1年前、ドイツのカメラマンが二度もカルカッタへ来て撮影したのに、なぜか両方ともフィルムが真っ白だったというのである。「それはきっと神さまが望んでいらっしゃらなかったのでしょう。もし神さまがお望みなら(ゴッズ・ウィル)あなたがたの撮影はきっとうまい考えが浮かぶでしょう。 」この言葉は、いつも迷ったり、決断が遅い私には、大きな忠告であり、救いであった。そのときのマザーのちゃめっけいっぱいの笑顔がとても親しく身近に思われたものである。結論からいうと、翌日の撮影は、ふたつとも可能になった。それは、私たちの協力者のイエズス会のロベルジュ神父によって、思いがけず、サブ・カメラの使用が延長できる知らせが入ったからだ。さっそく私たちスタッフは、A班、B班に分かれて撮影することにして、マザーにそのことを伝えた。するとマザーは即座にいった。「神さまは、今回は二つのことをおのぞみなのでしょう。よかったですね。」このとき以来、私たちスタッフの間で、マザーの言葉を真似るのがはやった。それは「ゴッズ・ウィル」(なにごとも神さまがおのぞみならば)というすてきなものであった。(「マザー・テレサとその世界」より)
2023.08.02
「マザー・テレサとその世界」よりマザー・テレサへのインタビューが終わった後、マザーはお茶の用意を始め、取材者たちに「疲れたでしょうから、一緒にお茶をいただきましょう。」と誘った。マザーとお茶を飲めるのはうれしかったが、翌日の撮影スケジュールを打ち合わせておく必要もあった。翌日、ハンセン氏病患者の平和の村に行くか農村医療の巡回班のどちらを撮影するか決めかねていたのだ。「どっちに決めますか」とシスター白井がインタビューアーに決断を迫った。そのときマザー・テレサは笑顔でこう言った。「無理なことをどうこう思い悩むのは、無駄なことです。 神さまはできることしか選ばれない。 できないことは神さまがお望みでないのだと思いなさい。 」そういって、お茶をすすめながらこんな話をしたという。1年前、ドイツのカメラマンが二度もカルカッタへ来て撮影したのに、なぜか両方ともフィルムが真っ白だったというのである。「それはきっと神さまが望んでいらっしゃらなかったのでしょう。もし神さまがお望みならあなたがたの撮影はきっとうまい考えが浮かぶでしょう。 」とマザーはちゃめっけいっぱいの笑顔で話したという。
2023.08.01
「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」よりある晩、わたしたちは外へ出て、路上から四人の人たちを救いました。一人は危篤状態でした。わたしはシスターに言いました。「あなたたちは、ほかの人をお世話してください。 わたしはこのいちばん容体の悪い人を見ます」 わたしのありったけの愛を、わたしは彼女にそそぎました。 彼女をベッドに寝かせると、その顔に美しいほほえみが輝いているのです。 彼女はわたしの手をとり、たった2つの言葉を、やっとのことで言いました。「Thank you」(ありがとう) そして彼女は目を閉じました。 貧民街のゴミの中から、虫に半分食べられかけていた男性をわたしたちは救ったことがあります。その男性はこう言ったのです。「わたしは道端で動物のように生きてきたが、愛と看護の手に囲まれて、天使のように死のうとしている」このように話すことができて、そのように死ぬことができる人間の偉大さに立ち会えたことは、とてもすばらしいことでした。だれものろわず、だれにも痛烈な非難を浴びせることなく、自分をだれとも比較することはなかったのです。彼はまさに天使のように死にました(die like an Angel)。☆自分を彼女や彼の身におきかえた時、天使のように死んでいけるか、また、介護する側に身をおいた場合、虫に半分食べかけられた人をその人の心に触れるような介護ができるだろうか。神渡さんの「思考が人生を創る」にマザーのもとでボランティアしたときの話が出てくる。「ある日、プレム・ダンという重度の障害者を抱えている病院で仕事をしていた時です。朝、最初各病室の掃除から始まるんです。みなさん簡易ベッドで寝ているのを、起こして簡易ベッドを片付け掃除が始まる。片付けると、あちこちウンコの山ができている。体力がないから、自分のベッドの脇で用を足す。そういうのが山のようになっている。それをバケツで洗い流し、デッキたわしで磨いてシーツを洗う。部屋がきれいになったら患者さんの沐浴の手伝いが始まる。風呂場でバケツにぬるま湯を入れ、頭からかけながら、一人一人の体を石鹸で洗う。そんな事をやっている時でした。お風呂場に路上から拾われてきた右足を骨折した乞食のおじいさんが担ぎ込まれて来た。かかとが骨折し、骨が突き出していた。蛆虫が湧いて腐っていて非常に臭いも激しかったんですね。彼のテイク・ケアをしようとしたら、泣いてわめいて傍に寄せ付けない。困っていたら、通りかかったボランティアの青年が「僕がやろう」と言って、その方をなだめ着ている物を脱がし、体を洗い、右足の消毒が始まった。消毒液を溜めたバケツに足を入れ、ピンセットで腐ってる肉をつまみ出して行く。蛆虫がいる。蛆虫を引っ張り出すと、もう泣きわめくんですね。そのおじさんを動かないように押さえ込んで、右足の治療をする。それが終ったら、当然、彼を担いで病室に僕は行くものだと思っていました。ところが、その青年は、彼を抱きしめたんです。するとそれまで泣いてわめいて人を寄せ付けなかった、その乞食のおじさん、ポロポロと涙をこぼしたんですね。インドのカースト社会というのはひどい社会で一番下の不可触民は、人間とみなされていません。彼は幼い頃からそういう扱いしか受けてこなかった。それを抱きしめる。その暖かさがその人のかたくなな筋肉を解きほぐしたんだと思うんですね。涙が出ました。そのシーンを見た時に私は「ああ、僕はこれを見る為にカルカッタに来たんだ」と思いました。マザー・テレサはいつもこうおっしゃっていたのです。「みなさん、わざわざカルカッタまで来て、ボランティアをして下さってありがとう。でも、気をつけて欲しい事があるんですよ。私達がやっている事はソシアルワーカーがやっている事と全然変りません、だから、ソシアルワーカーのようにやってしまったら、私たちがやっている意味はなんにも無いんです。その人が「私は生きていて良かった、これほど大切にして頂いてありがたいな」というふうに思って頂かなかったら意味がない。どうぞ、相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいね」
2023.07.31
「マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り」より「しばらく前から、私たちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこへ行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。 ガテマラのシシターたちは、どこでもするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、私にあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力でどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりました。彼はシスターにこう話しました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね」 現在彼は、仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつも何かを持ってくるのです。 このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。」☆なにか貧者の一灯を思い出させるエピソードだ。貧しい人がなけなしのものを捧げるとき、それは豊かな者が余裕があるなかから差し出すものよりも心がこもっていて尊い、愛そのものの深さが違うということか。ああ。先日、小田原の飯泉観音に参った帰り道に「復活書房」という大きな古本屋さんがあった。日野原さんのCD付きの本にも心ひかれたが、結局、神渡良平さんの「生き方のヒント」を一冊だけ買った。パラパラめくっていたら、マザー・テレサにかかわる話が載っていた。日本からボランティアに行った女子学生のこんな話だ。「森泉由美子さんは、マザーテレサが亡くなってから2年後の1999年の夏休み1ヶ月、インド・カルカッタのマザー・テレサの宣教会でボランティアをして過ごした。ボランティアを志していったものの、「死を待つ家」で汚物にまみれた衣服やシャツを洗い、ベッドや床を掃除し、食事や排泄の介護をするのは並大抵のことではない。手洗いの最中、衣類から汚物が出てきたり、患者の崩れ落ちた皮膚やがりがりに痩せた体を見ると、耐え切れずに逃げ出したくなった。 言葉も分らず、患者から要求されていることも理解できず途方に暮れる毎日が続いた。 そんな不安の中でのボランティアだったが、不思議と森泉さん自身が癒されていた。病室に毎日外を指差して泣いている同年代の女性がいた。(外に出たいのだろうか、大切な家族に会いたいのだろうか)そう思うと会いたい人に会えない切なさに涙があふれてきた。するとその女性は、手で森泉さんの涙を拭ってくれて抱きしめてくれた。この出来事でそれまで言葉に頼っていた、相手の気持ちを分ろうとする気持ちがあれば言葉の壁はこえていけるのだと気づいた。 森泉さんは5日ほど休みを貰って、ベナレス、ブッダガヤ、ラージギール、サールナートなどの仏跡を巡ることができた。ナーランダの遺跡を訪ねたとき、大勢の物乞いの子どもにまとわりつかれた。森泉さんはあまりのしつこさに、いらないお菓子を与えて追い払おうとした。すると子どもたちの顔がゆがんだ。そのとき、森泉さんの脳裏にマザー・テレサの教えが浮かんだ。「いらないものに思いはこめられていない。 余っているものを与えたとしても、決して自分が満たされることはないのです。」 森泉さんは深く後悔した。ベナレスのガンジス河のほとりの沐浴場に来た時は、そんな反省もあって、子ども達と一緒に遊んだ。子ども達は喜んで見送って、いつまでもいつまでも「サヨーナラ」と叫んでいた。 再びボランティアに戻った森泉さんは、患者の中に自分から飛び込んでいった。歌が好きなおばあちゃんと一緒に歌い、衰弱したおじいちゃんの体をマッサージし、体が硬直したおばあちゃんのリハビリを手伝った。相手が求めているものは、こちらが一心に耳を澄ますと魂に聞こえてくる。森泉さんは自然と笑みが絶えることがなかった。 ある日、ガリガリに痩せ、苦しそうに肩で息をし、肺結核の少女の世話をした。乾いた咳をし、目は赤く変容していた。森泉さんは気を奮い立たせてお世話をした。固形物が飲み込めないので、ミルクをすくってのませようとするが、床に吐き出す。「お願い、少しだけでも飲んで・・・」とつぶやきながら、スプーンを口に運ぶと、少女は少し目を開けて森泉さんを見た。そして苦しそうに顔をゆがめながらも飲んでくれた。森泉さんはうれしくて、ココナツオイルを塗って顔をマッサージしてあげた。翌日森泉さんがその少女のそばにいくと、目をうっすらと開けて微笑んだ。森泉さんがきのうと同じように顔をマッサージすると少女は森泉さんを抱きしめた。涙を浮かべながら何か話しかけてきた。森泉さんも涙を浮かべ、しっかりと彼女を抱きしめた。森泉さんはカルカッタに来てよかったと思った。
2023.07.29
愛には限界がありません神は愛であり愛は神だからですですからあなたがほんとうに神の愛のうちにいるなら神の愛は無限なのですだからこそこう言うのですどれだけたくさんのことをするかが問題なのではなくどれだけたくさんの愛をその行為にこめるかが大切なのです「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」89ページより愛という大きな贈物The Great Gift of Loveしばらく前から、わたしたちはガテマラにシスターたちの小さな共同体を持っています。わたしたちがそこに行ったのは、かなりの被害をもたらした、1972年のあの地震が続いているときでした。ガテマラのシスターたちは、どこでもそうするように、愛し、奉仕するためにやってきたのです。彼女たちは、わたしにあるすばらしい話をしてくれました。街路から助けられて、わたしたちのホームの一つに運ばれたとても哀れな人についての話です。彼は重い病気で、障害者でもあり、おなかをすかせて、自分の力ではどうすることもできませんでした。それでも、助けを受けて、なんとかまた元気になりいました。彼は、シスターにこう言いました。「わたしはもうここを出て行って、ベッドをあけてやりたいと思います。わたしがここへ来たときに受けた助けと同じだけの助けが必要な、ほかのだれかのためにね。」現在、彼は仕事を持っています。たいした稼ぎがあるとは思いませんが、とにかく働いてはいるのです。わずかなお金を得るたびに、ホームにいる障害を持った人たちのことを思い出して、会いにやってきます。彼はいつも彼らのために何かを持ってきます。たとえ、ほんのわずかでも、いつでも何かを持ってくるのです。このような気持ちこそ、貧しい人たちからの大きな贈り物です。すなわち、彼らが持っている、愛そのものなのです。
2023.07.29
(「マザー・テレサ愛のこころ最後の祈り」よりバンガロー(インド南部マイソール州の首都)での研修会で、ほかの修道院のあるシスターが、わたしに言いました。「マザー・テレサ、あなたはものを無償(ただ)で与えて、貧しい人たちを甘やかしています。彼らは人間の尊厳を失っています」みんなが押し黙ったところで、わたしは静かに言いました。「神さまご自身ほど甘やかしている人はいませんよ。わたしたちに無償で与えてくださる、すばらしい贈り物を見てごらんなさい。ここにいる皆さんのだれも、メガネなどかけていないのに、皆見ることができます。もし、神さまが、私たちの視力にお金をとることになったとしたら、どうなりますか。わたしたちは絶えず酸素を吸って生きていますが、お金など払ってはいません。もし神さまが『おまえたちは4時間働くなら、日光を2時間分だけやろう』と言ったならどうしますか。そうなったら、この中で、いったい何人が生き残れるでしょう。」そしてまた、わたしは言いました。「お金持ちを甘やかせている修道院はたくさんあります。貧しい人びとの名において、その人たちを甘やかす修道会が一つくらいあってもいいでしょう」会場は水を打ったように静まり返って、そのあとは、だれも何も言いませんでした。☆マザーの回答にはユーモアがあり、微笑みがある。 しかも、深い真実が含まれている。
2023.07.29
親切で慈しみ深くありなさいあなたに会った人がだれでも前よりももっと気持ちよく明るくなって帰るようにしなさい親切があなたの表情にまなざしに、ほほえみに温かく声をかける言葉にあらわれるように子どもにも貧しい人にも苦しんでいる孤独な人すべてにいつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい世話するだけでなくあなたの心をあたえなさい(「マザー・テレサへの旅路」神渡良平)マザーテレサは1910年8月26日は、バルカン半島のマケドニアの首都スコピアで生れた。父はニコラ・ボヤジューとドラナフィル・ボヤジュー。兄弟は長女アガサ、長男ラザロ。マザーの本名は、アグネス・ゴンジャ。(?なんで両親と苗字が違うんだろ)父ニコラは、アグネスが9歳の時なくなった。スコピオでは、イスラム教徒が多く、キリスト教もギリシャ正教が主流だったが、アグネスはカトリックに属した。アグネスは聖心小学校に通い、ここで海外布教を知り、幼心に「異国の地で宣教活動に身を捧げたい」と願った。18歳のとき、ロレッタ修道院に入会志願した。母に告げると、部屋にひきこもるほど悲しんで、どうすべきか祈った。涙を拭って娘の前に現れ、「ゴンジャよ、心を固くし、主イエスと歩きなさい。」と許した。アグネスは1928年9月26日母と姉に付き添われ、スコピオ駅を発ち、ザグレブ駅で二人に別れを告げ、パリ経由でアイルランドのダブリンにあるロゼッタ修道院に入った。そして12月1日インドへと派遣された。カルタッタに着いたのは翌年1月、ダージリンのロレット修道院でテレサの名を貰い、この地で2年修練を積んだ。1936年、シスター・テレサはカルカッタ東部のエントーリにある聖マリア小学校で、地理と歴史を教えていた。1939年5月24日、テレサは終生誓願を立てた。もはや還俗は許されず、親の死に目にも帰省できない。この年、第2次世界大戦が起った。1944年テレサは聖マリア小学校の校長に就任した。34歳の時であった。1945年世界大戦は終り、インドはマハトマ・ガンジーの指導のもと独立したが、ヒンドウーとイスラムの間で紛争が続き、カルカッタでも大暴動が起き血の海に染まった。その年1946年ぼ9月10日の早朝、シスター・テレサはシャルダー駅から避暑地のダージリンで観想するために汽車に乗り込んで、ロザリオをたぐってカルカッタの暴動で傷ついていた人々をお祈りした。「あの方々が今日もよき生活を恵まれますように」と。汽車は、北上して、シルグリ駅で乗り換え、ダージリンに向う汽車に乗り、祈り続けていた。ヒマラヤ第三の高峰カンチェンジュンガが見えてきた。その時、突然魂の深みに神が語りかけてこられた。「すべてを捨てて、スラム街に出なさい。 そこで貧しい人々に仕えなさい。 あの見捨てられた人々こそ、私の友です。 そこでキリストに従うのです。」シスター・テレサはあぜんとした。思わず周囲を見回した。二つ向こうのボックスに白人の夫人がお喋りに夢中になっているだけだった。その声は再度響いた。「私についてきなさい。 私は貧しい人々とともにいます。 あなたはそこで人々に仕えなさい。」シスター・テレサは逡巡した。テレサは終生誓願を立てており、上長の許可なしに外に出ることはできない。それは、ローマ法皇の許可を得て、新たな修道会を興して初めて可能になる。苦しみ、そして祈った。 ああ、イエス様はおっしゃっている。 「あなた方によく言っておく。 私の最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことである」 あの見捨てられ、のけ者にされ、食べるものにもありつけず、ひもじい思いをしている人々を放っておいてはいけない。 一介の修道女の私に何ができよう。飢えている人はあまりに多い。しかし、シスター・テレサは、終生を貧しい人々に捧げることを決意した。「ハイ、私はあなたの命令に従います。」 ダージリンでの瞑想の日々、テレサはあの汽車の中での霊的体験を思って繰り返し祈った。そして確信した。 私の生きるところはスラムしかない。そこがイエス様が私に望まれる所だ。シスター・テレサ36歳のときだった。1997年9月5日(現地時間)午後9時半マザー・テレサがなくなられた。マザーはいつものように元気に活動し、夜になって呼吸ができないと苦しみだし、医者に連絡する間もなく午後9時半に息を引き取られた。一緒に働いていたシスター・フレデリックが付き添っていた。「マザーはいまやっとお休みをいただかれたのだ」とこぼれ落ちる涙をどうすることもできなかった。マザー・テレサは、第2の召命を受けて、実に50年間貧しい人々に仕えてきた。マハトマ・ガンジーも実践の人だった。非暴力と愛の実践によりインドの独立を勝ち取った。マザーテレサが愛した言葉だれかがやるだろうということは、だれもやらないということを知りなさい
2023.07.28
「愛をこめて生きる」渡辺和子より インドのカルカッタに当年とって78歳になるマザー・テレサという」一老修道女が住んでいる。この人は「神の愛の宣教者」という修道会の創始者であり、国際連合が『世界最悪の居住条件を持つ』と宣言したこの街で、貧しい人の中でも最も貧しい人々に仕えることを使命としている。その貧しさとは物質的なものもさることながら、それ以上に、この世で人々から『不要』『邪魔者』扱いをされている人々、自分自身『生きていても、いなくても同じ』、または、『生きていない方がいいかも知れない』と思っている『貧しい人々』である。 1979年のノーベル平和賞受賞者であるマザーはかくて、望まれずして生まれたが故に捨てられた子どもたちを拾って育て、人々に忌み嫌われるハンセン病患者を手厚く看病し、さらに、路傍で一人寂しく死んでゆこうとする瀕死の病人を『死を待つ人の家』に連れて死なせてやることに力を尽くしているのである。・・・『人間にとって、生きのびることもたいせつですが、死ぬこと、しかもよい死を迎えることは、もっとたいせつなことなのです。』 生まれた時から不要者として生み落とされ、その後の年月をひたすら社会の邪魔者とのみみなされて来た浮浪者たち、死ぬことによって厄介払いと他人から喜ばれるような一生涯しか送れなかった人々が、その生涯の最後において、死の直前の数分間、または数時間、生まれて初めて人間らしく扱われ、優しさを体験するのである。 かって貰ったことのない薬が惜しげもなく与えられ、受けたことのない温かい扱いを受け、身体をきよめられ、名前と宗教を尋ねられて、彼らは治療に勝る、かつ治癒と次元の異なる『たいせつなもの』を取り戻して死んでゆく。・・・ マザーの手の中でこのように死んでいく人々がほとんど例外なく最後の息をひきとる前に言うことばが『サンキュー』であるということ、感謝して死ぬという事実がマザーの信念を支えているという。・・・この話を終ってマザーは言うのであった。 It is so beautiful.「それは本当に美しい光景です」と。
2023.02.13
「God's Will!」マザー・テレサはよくそうおっしゃったという。日本からマザー・テレサの活動を取材にいった撮影隊がマザー・テレサへのインタビューを30分行った。「マザー・テレサは私たちに向かって、疲れたでしょうから、一緒にお茶をいただきましょうと誘ってくれた。私たちは、喜んでテーブルについた。マザーと一緒にお茶を飲めたのも嬉しかったが、翌日の撮影スケジュールを打ち合わせておく必要もあったからだ。そのとき、私は悩んでいた。翌日は、ハンセン病患者の村の取材と同時に、空港近くの農村医療の巡回団の取材のどちらも撮影したい。しかし、カメラは一つ、どっちかに決めなくてはならない。「どちらに決めますか?」通訳のシスター白井が決断を迫る。私はもう少し考えさせてくれと言った。そのとき、マザー・テレサが迷っている私に笑顔で「無理なことをどうこう思い悩むのは無駄なことです。神さまはできることしか選ばれない。できないことは、神さまがお望みではないのだと思いなさい。」そう言って、お茶を話を進めながら話を続けた。1年前ドイツのカメラマンが2度もカルカッタへ来て撮影したのに、なぜか両方ともフィルムが真っ白だったというのである。「それはきっと神さまが望んでいらっしゃらなかったのでしょう。もし神さまがお望みなら(ゴッズ・ウィル)あなたがたの撮影はきっとうまい考えが浮かぶでしょう。」・・・結論からいうと、翌日の撮影は、2つとも可能になった。それは、私たちの協力者であるイエズス会のロベルジュ神父によって、思いがけず、サブ・カメラの使用が延長できる知らせが入ったからだ。さっそく私たちスタッフは、A班、B班に分かれて撮影することにして、マザーにそのことを伝えた。するとマザー・テレサは即時に言った。「神さまは、今回は2つのことをお望みなのでしょう。よかったですねー。」この時以来、私たちのスタッフの間で、マザーの言葉を真似るのが流行った。それは「ゴッズ・ウィル」(なにごとも神さまがお望みならば)という素敵なものであった。(「マザー・テレサとその世界」111ページより)
2023.02.07
旅にでないワインが旅に出た話 「以前、大分県の直入町役場で働いていた首藤さん、県議会議員をされているんだけど、その人の講演録をインターネットで見つけたらとてもよかった。 直入町ではドイツのバードクロイツインゲンと友好都市となっていて毎年未来を担う中学生を派遣していた。ドイツからも市長さんはじめ毎年多くの方が見える。 町民が百人ドイツに行ったのを記念して、国際シンポジウムを開催した。ドイツの物産展を開催したらね、これが好評で、特にドイツワインが飛ぶように売れた。するとね、『首藤さん、あのワインをうちの町でずっと飲むことはできないだろうか』と商工会のメンバーが言う。ところがこのワインは、「旅に出ないワイン」と言われて、そこに旅をしないと飲めない。そのくらい貴重な、少量だけど非常にうまいワインだ。商工会長自らドイツに行ったが分けてもらえない。そこで町長と首藤さんと通訳でドイツに渡った。それで苦しんだけどうまくいかない。最後の日、向こうの商工会が招待してくれたので『未来の子供達にあなた達が作ったヨーロッパでも有名なこのワインを飲ませたい』と頼んだ。すると通訳のマチ子さんが黙りこんで横を向いて泣き出した。『どうしたの、マチ子さん?』と首藤さんが聞いた。『首藤さん、私は長い間、日本の方々をドイツにお招きして通訳の仕事をさせて頂いた。ただ、これほど、今夜ほど私は自分が通訳をしていてよかった。こんなに感動した夜はありません』とマチ子さんが言う。『首藤さん、ドイツの皆さんは遠く海を渡って何回も来たあの日本の友人たちに自分たちの秘蔵のワインを分けてあげようじゃないか。そのために直入とクロツィンゲンの頭文字を取ったナークロという会社を新たにつくって、ワインを上陸させて、直入町の皆さんの期待に答えてあげようじゃないかと話しているのですよ』 マチ子さんはそういう会話を聞いて思わず瞼が熱くなったんだね。 首藤さんはね、宿に帰って、シャワーを浴びながら男泣きに泣いたんだって。 平成元年からドイツとの交流が始まってまだ四年にしかならない。こんな農村であんなことをやって、あいつらはドイツかぶれだという陰口もある。それなのに、こうしてまだ数回しか会ったことのないドイツの友人が私たちの夢を実現してあげようという、そう思うと、泣けて泣けて仕方がなかったというんだ。 そして喜んで帰りの飛行機に乗ったらね、帰りの機内誌の中に、マザー・テレサの特集があった。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉なんだって。「誰かがやるだろうということは誰もやらないということを知りなさい」マザーが愛したその言葉が強烈に首藤さんに降り注いできた。つまり、前年に商工会のみんながドイツに渡っている。ワインの交渉もやろうと思えばできていたかもしれない。ただ、誰かがやるかもしれない。 地域づくりのほかのことに対してもそうだ。これはいい話だが、誰かがやるだろう。そうではなくて、気がついたあなたがやらなければ、誰もやりませんよ。そういうマザーテレサの言葉に、『ああ、そうか。3人でこのことに挑戦をする』ということの意義が、マザーテレサから示唆されたような気がしたと首藤さんはいうんだよ。いい話だろう。」「うん」と友人はちょっと感銘を受けたように頷いた。
2022.08.31
マザー・テレサ マザーテレサが愛した言葉「暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい」 と その続きの言葉カテゴリ:マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 「どんな本に出会うだろう」古本屋に入ったおりに、こうした楽しみを持つ、ごくたまにたまに本のほうから「私はここにいます」というように表題が目に飛び込んでくる場合がある。本とも波動があうということがある。そのときも、これといった本はないなと本棚をみながら締めかけていたら、ぐるっと廻った入り口付近に「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」という本があった。さっそく買った。マザーの「祈り」「エピソード」を集めた箴言集で、マザーが語るこんなエピソードが載っている。わたしたちのシスターの中には、オーストラリアで活動している者もいます。アボリジニーのある居住地に、年配の男性がいました。その貧しい老人くらいひどい境遇を、あなたがたはいままで見たことはないと、私は断言できます。彼はだれからも完全に無視されていました。その家は散らかりほうだいで、汚れていました。「家の掃除と洗濯をさせてくださいませんか。 それからベッドをととのえさせてください。」わたしは彼に言いました。「これでいいんだ。ほっといてくれ。」彼は答えました。「もし、わたしにやらせてくれたなら、もう少しましになりますよ」もう一度、わたしが言うと、彼はとうとう納得しました。そこで掃除と洗濯をすることができたのです。わたしが部屋を片付けていると、ほこりまみれのきれいなランプを見つけました。彼が最後にそれに明かりをともしてからどれだけ時間がたったのかは、神のみぞ知るです。わたしは言いました。「ランプをともさないのですか。もう使わないのですか」「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。いったいだれのためにつけろっていうんだね。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」彼はうなづきました。その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。わたしはその人のことをすっかり忘れていましたが、彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。」これを読んでいて「暗いと不平をいうよりもすすんで明かりをつけましょう」という聖パウロの言葉が浮かんだ。昔、朝ラジオからよく流れてきたものだ。この言葉はマザーが愛した言葉だという、そしてこの言葉には続きがある。暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい。だれかがやるだろうということは、だれもやらないということを知りなさい。
2022.08.26
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