2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全12件 (12件中 1-12件目)
1
被災地の方々の苦しみや悲しみを我が苦しみ悲しみとして分かち合わんとするまごころをもってせめて祈りを捧げさせていただきます。『とりなしの祈り』神よ苦しめる同胞(はらから)にどうか光を与えてください。安らぎを与えてください。彼らの苦しみや悲しみがわずかずつでも和らぎますように。痛みが本当に癒されますように。そして、そればかりでなくいかなる出来事も、いかなる事態をも必然あるものとして引き受けることができるように彼らに勇気と力を与えてください。そこに響いている呼びかけを確かに聴くことができるようにわたくしたちを導いてください。 高橋佳子著「祈りのみち」より
2004/10/27
コメント(10)
ぼくは若い頃から(今も若いですがもっと若いころ(笑)、ブランド物に興味なし、車は走ればよい、服もなんでもよいタイプ。ベンツなどの高級車に乗る人がわからないなどと思っていて、自分では物欲が少ないほうだと思っていた。ある日、お金持ちのクライアント(なぜか僕の周りは友達もクライアントもお金持ちが多い、人の成功を心から喜ぶ修行なのか(^^ゞ)と話をしていて気づきを頂いた。その方がある日、ホテルに入っている超高級宝石店のウインドーで宝石をご家族で見ていたら中から「どうぞお入りください」と声をかけてくれたそうです。その宝石店は通常、常連や紹介がないと入れないお店で、そとでウインドーを眺めていても声などかけてくれないお店なのだそうです。中に入ると1千数百万円のネックレスや指輪があり、そのうちの一つを取り出して「これなどはいかがですか」と聞かれたそうです。結局その方はしばらく見て「また今度」といって出られたそうです。その話を聞いて、僕はその方に「そんな宝石を欲しいですか?」と聞きました。その方は「ん~欲しくない。というかそれを無理なくポンと買える現金を持っていたら欲しいかもしれないけど、今はそんなお金ないから欲しいと思わない」という答えだったのです。それを聞いて僕は「なるほどな~、僕も物欲がなくそんなものに興味はないと思っているけど、例えば3億円宝くじが当たって、現金を持っていたら普段興味のない服や車や宝石がほしくなるかもな」と思ったのです。本当の自分は物欲があるのに、それをどこか否定している自分に気づいた瞬間でした。イチローは野球のときの動作ひとつひとつに理由を説明できると言っています。僕は自分が無意識で行っていて、なぜそうするかがわかっていないことがたくさんあります。物欲がないと思い込んでいた自分を深くみたときに物欲が実はいっぱいあることに気づきました。たびたび出る行動や口癖で無自覚、無意識に行っていることを点検してなぜそうするのかを見ていくと本当の自分が見えてくると感じています。PS:この模様替え癖も無自覚の行動?(^^)
2004/10/22
コメント(24)
「仏となるのに本当にやさしい道がある。それはもろもろの悪をつくらず、生死に心を奪われず、生きとし生けるものに憐れみ深く接し、敬いと優しさを忘れず、どんなことでも嫌がったりせず、欲望したりして心に執着することなく、妄想することもない、ごく普通のあるがままの姿、それを仏と言う。それ以外の道があると考えるのは間違いである」道元禅師『正法眼蔵』より
2004/10/19
コメント(5)
自分が何に怒っているかをわからずに怒っていることがある。男は仕事の心地よい疲れを感じながら帰路についていた。「妻は今日はどんな夕食を用意いてくれているだろうか?」と夕食を楽しみに男は帰路を急いだ。自宅に到着「ただいま!」「おかえり~」さっそく手を洗い食卓に座る。夕食のおかずが並ぶ。妻は子供を寝かしながらテレビを見ている。男はご飯を入れて、遅い夕食を食べ始めた。そのおかずは冷えていた。温かいとおいしいであろうおかずだが、冷えているためおいしくない。男は徐々に苛立つ。そのうち食べることをやめて片付け始めた。その様子を見て妻 「もう食べないの?」すかさず、 男 「おかずが冷たいんや!」すかさず、 妻 「レンジで温めたらええやん」男 むか~~~!ずいぶん前に実際にあった我が家での話です。さてこの男(つまり僕)は「おかずが冷たい!」と妻に怒っていますが、何に腹が立っているかといえば、自分のことをほったらかしにされていることを実は怒っています。しかし、そのときはそれには気付きません。ただ腹が立って「おかずが冷たい」と不満をぶつけています。あとで冷静の考えると実は「俺をほっておくな」とか「大事にしてくれない」と言うことで腹が立っていることに気が付きます。しかし、男が妻に対して「もっと大事にしてくれ」とか「自分をかまって」などとなかなか口に出すことなど出来ない。しかし、それでは妻には怒りの意味は伝わりませんから、「おかずが冷めているならレンジで温めて」となるわけです。このように実際、口に出して言っている事と怒っている事柄が違っていることがある。怒っているときに何に対して腹が立つのかを考えてみると怒りの原因がはっきりし、解決することもある。(←怒りの本人へ)また、怒っている人の言葉の裏に真の原因が隠れているときがある。(←怒りの被害にあってる人へ)
2004/10/18
コメント(8)
映画「シックス・センス」をDVDで見た。この映画が上映されたときにどうしても見たくて、映画館に見に行った。そのときは、長男がまだ赤ん坊で女房と交代で抱きながら見た記憶があるが、当然じっくり鑑賞することは出来なかった。その後、レンタルビデオでも一度借りてみたが、途中で寝てしまったのかあまり印象がない。今回、ぼくのクライアントの方が「シックス・センス」のDVDを購入されて、「もう見たので見られますか」と貸してくださった。今日、久しぶりに昼間に見る時間ができたので、ゆっくりと3度目の正直で途中で眠ることもなく見ることができた。不覚にも少年が母親に秘密の暴露をする最後のシーンを見て、号泣してしまった。自分でもわからんが突然涙が溢れてきた。息子も娘も僕の顔を覗き込みながら「パパ泣いてる~!」「パパ泣きすぎや」と言っている。女房は「どうしたん?」とびっくりしている。僕は泣きながら「ええ映画や」というのがやっと。場面が変わって次のシーンになったときにはおさまった。人が生まれるとき、魂がこの人生で願うことがある。その魂願は前世において1.捻れてしまった関係の再結・・・今生も捻れた関係になるみたいです。2.志、半ばで終わってしまったことの成就3.人や場の照らし4.魂の成長(カルマの修正)なのだそうですが、それらを果たすための条件(親や土地など)を選択して、すべて忘却して生まれてくるそうです。しかし、生まれてから惹かれてやまないことや何度見ても感動すること、例えば同じ映画の同じ場面で必ず泣けるなどは、その個人の魂の願いに結びついているそうです。もしかすると「シックス・センス」のあの場面は、僕の魂願と結びついているのかも知れないと思った。
2004/10/16
コメント(10)
今日もとても気持ちのいい秋晴れのお天気。しかしPM3:00頃から、急に曇り出し、冷たい風と雨が降り始めた。保育園の娘のお迎えの時間、女房はいつも自転車でお迎えに行っている。雨に濡れて風邪をひいてもかわいそうと思い、ちょうど時間も空いていたことから、僕が車で迎えに行くことにした。保育園に着いたときちょうど雨がやみ、夕日が顔を出してきた。娘を呼んで帰ろうとしたその時、園長が「虹が出てます」と教えてくれた。見るときれいな虹が出ていました。僕はさっそく携帯電話のデジカメで虹を写した。しかし、綺麗に写っていなかったので、もう一枚写そうとしたときに虹は消えてしまいました。ほんの一瞬しか見れなかったけど、大人になってから虹を見た記憶がない。虹の彼方さんのところでいろいろな方が写された虹をUPされていますが、「そういえば長いこと虹をみてないな~」と思っていたら、何十年ぶりに生の虹を見ることができました。最近、ちょっぴり凹むことが続いたので、いいことがありますように・・・。○●○●○●○●○●○●★☆★☆★☆★☆◇◆◇◆◇◆◇◆先ほど日記をUPしてから、スーパー銭湯に行ってきた。気持ちよかった。今日はぐっすり眠って、虹の上を歩く夢でもみよう(_ _)zzz
2004/10/14
コメント(8)

今日は保育園の娘の運動会が開催されました。10月2日の土曜日が雨で、今日に順延されました。今日は秋晴れのよいお天気に恵まれ、暑いくらいの日差しでした。娘はその保育園へ1歳児から通っております。ひよこ組(1歳、2歳クラス)を2年、3歳児クラス、4歳児クラス、5歳児クラスと5年目です。来年の3月には卒園で、今年で保育園最後の運動会です。リレーや組み体操といった年長さんだけの演技を見ていると感動して、ウルっ( ; _ ; )ときてしまいそうでした。 ↑↑↑ 娘の保育園の十字架です
2004/10/11
コメント(12)
相互リンクをいただいているネイティブひろさんの昨日の日記「わが師 」を拝読して僕の心の師である高橋佳子先生の『縁友への祈り』をご紹介したいと思わせて頂きました。『縁友への祈り』☆父母への祈り☆父に感謝します(お父さん、ありがとうございます)母に感謝します(お母さん、ありがとうございます)あなたたちがいて、今のわたくしがあります。わが父母を敬い、愛し子としての道を尽くして祈ります。わたくしを生み育ててくれた両親に光を与えてください。両親が光に満ちた道を歩めるように導いてください。☆子への祈り☆わが子を助け愛し育み親としての道を尽くして祈ります。わが子に光を与えてください。わが子が健やかにたくましく愛に満ちた人となるように支えてください。☆伴侶への祈り☆わたくしは心を込めて祈ります。わが妻(夫)を敬い愛し妻(夫)のよき助け手となるように努めます。いついかなる時もわたくしと共にあるわが妻(夫)に光を与えてください。順境にあっても逆境にあっても共に語り合い共に支え合ってこの道を歩んでゆけるようにわたくしたちの家庭を支えてください。☆友への祈り☆友よ(○○さん)あなたに巡り合えたことを何よりも歓びとして祈ります。わたくしたちの友情を導いてください。わたくしは共に互いに心から語り合い、助け合い、尊敬し合います。絶えず、より深い一致に心を向けてゆきます。わが友に光を与えてください。わが友がいかなる時と場にあろうと変わることなく真を求め、まごころを尽くして歩み続けることができるように支えてください。「祈りのみち」 高橋佳子著よりPS:最後の「友への祈り」は楽天日記で巡り合えたみなさまへ祈ります。 ナトゥーラ
2004/10/10
コメント(13)
問題は体でなく心である。人を責め、追求し、他人の過ちのために、自分の労力を消費するが如きことをなさず、自分を楽しくし、他人を快くすることの空想を、いつも心の中に拡げて生きることが養生というものである。意志は体に対して脈一つ多くすることも出来なければ、涙一滴流させる働きも持たない無力なものであるが、空想すれば血行を変え、涙を出し胃液を分泌し、体中の働きをいろいろと方向づけることが出来る。楽しきことの空想、嬉しくなるようなことの空想、元気な空想、それぞれの空想している如き体の状態を創り出す。空想は創造する力である。月刊全生 平成10年7月号 巻頭言より
2004/10/09
コメント(10)
明日のあることを信ずる者は、今日だけしか無い生き方はしない。百年の生を想像し得る者は、30年の生しか信じられぬ者とは行動が違う。来世を信ずる者は、この世限りと思っているものとは行動が違う。来世が有るか無いか、明日が有るか無いかは判らないが、その心によって行動が違うということは判る。明日を信じ得る者は、豊かで暖かな生を得る。今日だけしか無い人々の生活は乱れる。月刊全生 平成10年8月号 巻頭言
2004/10/08
コメント(2)
楽しい時には苦労はない。スキーをしていれば、雪の冷たさも苦にならず、凧をあげていれば、寒い風も気にかからない。楽しめない人が苦労し努めて行っていることでも、スラスラ容易に行うと疲れることがない。その行うことの楽しさを先ず見つけ出そう。そして楽しんで行おう。苦を乗り超えれば楽になるという人もあるが、苦にしている限り楽はない。楽しさがあれば苦はない貧しさも辛さも楽にならないということはない。困苦も多忙も楽しめないということはない。辛いことが辛く思えたり、疲れたりするのは、楽しむということを知らないためだ。株価が下がったと言って蒼くなっていた人がいる。大分損をしたそうな。損をするから利のあることが面白い。先が読めない。"一寸先は闇"というが、明日のことがなんでもわかってしまったら、人生の面白さは半減してしまう。損したり得したり、思いがけない連続が世の中の色彩を豊かにしている。"一寸先は闇"もまた人生の面白さであろう。人生というものは、思う通りに運ばないと嘆いていた人がいる。だから思う通りにしようと活発に働く。思い通りになりだすと、間もなくたるんでしまう。人生は楽しい。雨も降る、風も吹く、そして晴れる日もある。寒ければ雪が降る、暑ければ夕立がある、月に叢雲(むらくも)も、また風情だ。すべてままならぬことも面白いし、一寸先が闇であることも楽しい。明日どうなるか分かっていたら、人生に生きる興味は半減してしまう。人生は楽しい。蒼空の白雲、黒雲中の雷光、夏の入道雲、朝焼け、夕焼け、何一つ捨てて良いものはない。晴れた日は快いが曇った日落ち着く。降るも良し、照るも良し、風の吹くのも良い。葉の緑、花の紅、人間の顔だって、泣いたり笑ったり、ふくれたり、いつだって同じということはない。自分の心が如何にこれから動くかということすら予想もつかないほど千変万化し、世の一切のこと滞るということがない。働くのは快いし、飯はうまいし、眠るのは愉しい。糞することにすら快感がある。生きているということは楽しく嬉しいものだ。この楽しい嬉しい世の中に不平のある人がある。不平のあることの中に、よりよくなる元気がある。不満は進歩の原動力だ。しかし、そういうことに苦しんでいる人がいる。そして何とかしてこれから免れ、煩いを捨てようと工夫している人がある。しかし環境を如何に変えようとも、それは変わらない。不満を満たせば不満は直ぐに生ずる。風が気にならなくなれば、水溜りが気になる。懐に煩いがなくなれば他人の顔色を気にするようになる。問題はいつも「それ」ではなく「これ」だ。<昭和32年3月>
2004/10/07
コメント(0)
世の中には様々な治療法、健康食品、健康法が氾濫している。私の生業であるカイロプラクティックのテクニックシステムだけでも、ディバーシファイド・テクニック、トムソン・ターミナル・ポイント・テクニック、ピアーズ-スティルワゴン・テクニック、パーマー上部頚椎テクニック、スパイナル・タッチ・テクニック、アプライド・キネシオロジー、ディレクショナル・ノンフォース・テクニック、アクティベーター・テクニック、二モ・レセプター-トーヌスセラピー、仙骨-後頭骨テクニック、そしてガンステッド・テクニックなど多数ある。(ちなみに私は主にガンステッド・テクニックをベースに治療を組み立てて考えております。)では、なぜこれだけの治療法が、必要なのでしょう。それはどれも100%、どんな患者でもよくなるわけではないからだと思います。それは、健康関連のどの世界にも言えることで100%のものは存在しない。ではなぜ100%にならないのか。どうすれば、100%に近づけるのかを考えてみた。そして、私は以下の結論に至った。「患者がよくなるために」まず、一番大きな要素は・・・治療者と患者の相性である。 治療者の気質を患者が受け入れ、なおかつ信頼されること。そのために治療者が様々な患者の気質を受け入れ、患者の治癒力を信頼しなければならない。次に大切なことは・・・治療者に愛があり、癒そう!よくなって欲しい!というインテンション(意思)があること←これは光となり患部を癒す最大のフォースである。介在が薬品であれ、手技であれ、これが強ければよく効く!三番目の要素として・・・治療者が病の原因を患者の肉体レベルだけでなく、感情面やエネルギー面も含めて考えている。四番目・・・大いなる存在を信じ、患者の健康回復を祈願しながら治療する。場合によって好きなものや事を一定期間、断つ。 以上のようなことを考えています。なんか他にもありませんか?
2004/10/01
コメント(8)
全12件 (12件中 1-12件目)
1