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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルバイシン2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿の対岸にあるアルバイシンの丘を散策しました。有名なサン・ニコラス広場からアルハンブラ宮殿を眺め、アルバイシンの観光ポイントを巡ります。途中で、「Placeta Cristo de las Azucenas :アスセナス(白百合)のキリストの小広場」という広場を見ました。この地には昔、アスセナス(白百合)を捧げられたキリストの絵が収められた祠があり、アスセナス(白百合)が供えられていました。伝説ですが、アルバイシンに町一番美しいとされる孤児の娘が住んでいました。祖母は娘に刺繍の仕事を教えて生計を立てさせており、娘は美しさだけでなく、心も優しく働き者で、多くの若者が彼女に求愛しました。ある日、娘は町で最もハンサムだが放蕩な若者に恋をしてしまいます。若者は娘を犯した後に娘を捨てて姿を消します。祖母は若者に対して激しく怒ります。その後、キリスト教の絵のある祠の前で、偶然にも祖母が若者を見つけ、若者に対して「責任を取り、娘と結婚しなさい」と迫ります。若者は祠に供えられていた、すっかり枯れた白百合を見て、「この枯れたアスセナス(白百合)が再び咲いたら娘と結婚してやる」と嘲笑しました。その瞬間、枯れていたアスセナスが奇跡的にみずみずしく蘇り、祖母も若者も言葉を失いました。この奇跡を目の当たりにした若者は、怖れと後悔に包まれ、娘に対して犯した罪を深く悔い始めました。若者は心を入れ替えて娘に謝罪し、二人は結婚しました。この奇跡の話により、この地はアスセナス(白百合)のキリストの小広場と呼ばれるようになりました。この祠は、近くにあるConvento de Santa Isabel la Real (サンタ・イサベル・デ・レアル修道院)の壁にあったそうです。↓ サン・ニコラスの十字架像。↓ 広場とアルハンブラ宮殿。↓ サン・ニコラス貯水槽。↓ サン・ニコラス教会。↓ ブーゲンビリア。↓ 「Placeta Cristo de las Azucenas :アスセナス(白百合)のキリストの小広場」。↓ グラナダ王国最後の王ボアブディルの母后アイシャの屋敷があったらしい。アルバイシンは貴族のアベンセラーヘ家の地元で、アイシャを支持していた。↓ サンタ・イサベル・デ・レアル修道院(Santa Isabel La Real)。↓ サン・ミゲル・バホ教会(SAN MIGEL BAHO)。↓ サン・ミゲル・バホ広場。↓ ラ・ロナ(LA LONA)展望台
2026.02.28
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、グラナダ・アルバイシン地区のサン・ニコラス広場で、アルハンブラ宮殿、そして「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」の場所を遠くに見ました。1942年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に宮殿の鍵を渡して降伏し、711年以来約8世紀間アンダルシアを支配し続けたイスラム教徒の勢力が、ついにイベリア半島から消えていく事になりました。イスラム王国最後のボアブディル王が宮殿を出て、シエラ・ネバダ山脈を越えたラス・アルプハラの地に移動することになりましたが、その途中でボアブディル王は岩山の頂きにかけ登り、アルハンブラ宮殿を振り返り、もの悲しい叫びを上げた場所があり、そこは「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p263~264には、その光景の記載があり、紹介します。これを最後と、グラナダに別れを告げたボアルディルが、ついに眼を転じた時、思わずもの悲しい叫びを上げたとされるこの岩山は、いまでも「モーロ人最後のため息:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼びならわされている。比類ない王国、比類ない王宮から追放された現実を受け入れなければならない彼の悲しみは、言語を絶するものだったろう。彼は、アルハンブラとともに、父祖たちの誉れのいっさいを、そして人の世の栄光と喜びのいっさいを、ここで振り捨てようとしたのだと思われる。この断腸の思いは、息子の苦難をたびたび共に忍んできた母アイシャの𠮟責によって、ますます搔き毟られた。王国の危機に際して、ボアブディルを力の及ぶかぎり援護してきた母后は、もはや甲斐ないとは知りながら、彼女自身の気丈な精神を息子に吹き込み、奮い立たせようとしたのだ。「泣くがいい」と彼女は言った。「男として守り切れなかったからには、女のように泣くがいい」↓ アルバイシンのサン・ニコラス広場で、アルハンブラ宮殿をバックに記念撮影。↓ 赤い矢印の部分が、ボアブディル王が振り返りアルハンブラを見て泣いたとされる「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれる場所。↓「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」の場所。画面右側にある敷地は、アルミーニャ空軍基地(Base Aérea de Armilla)。↓ アルハンブラ宮殿のアルカサバ。↓ 1991年にアルハンブラ宮殿に初めて行った時に購入した現地のガイドブック。Segunda Edicion Septtiembre 1989 ©Editional En Su Mano.↓p7 Aerial view of the Alhambra with the city in the background.街を背景にしたアルハンブラ宮殿の航空写真。↓ 赤の囲みが「七階の塔」。青い囲みが「裁きの門」。以前は7階の塔があったが、1812年のフランス軍撤退の際に破壊されてしまった。1492年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に降伏を決め、城塞の大手門(裁きの門:青色の囲み)ではなく、この7階の塔(赤い囲み)から出立した。グラナダの住民の眼に、その落ちぶれた姿をさらしたくなかった。ボアブディル王は、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に対して、今後再び、何人たりとこの門を通ることを許さないで頂きたい、と懇願した。彼の祈願はイサベル女王の温情によって叶えられ、城門は壁の中に塗りこめられてしまった。↓ グラナダ陥落(1492年1月2日)の様子が描かれた絵。左側はグラナダ王国最後のボアブディル王とアルハンブラ宮殿。右側はカトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)。↑ 「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p236~237この日(1492年1月2日)、グラナダ王ボアブディルは、アルハンブラ宮殿のコマレスの塔の王座の間(大使の間)で、アルハンブラ宮殿の鍵をカスティーリャの将軍に渡したのです。この将軍というのは、テンディーリャ伯イニィゴ・ロペス・デ。メンドーサで、初代グラナダ市長に任命されます。午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族と共にグラナダ東部の山間の町アルブハラに向かいます。その後、カトリック両王はグラナダに勝利の入城をし、イスラムの習慣を尊重すること、信仰の自由を保証すること、イスラムの法秩序を残すことを約束しました。ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。ボアブディルの妻モライマは、降伏の翌年、まだグラナダにいる間に死去しました。二人の息子アフメドとユースフは父ボアブディルと一緒にアフリカに渡りますが、その後のことはわかりません。娘も一人いたようで、ソール・イサベル・デ・グラナダという名前が残っています。修道女になったのでしょう。ボアブディル自身はアフリカの地で、74歳まで生きています。↓ クロニック世界全史/講談社。p3841491年10月、ボアブディル王は降伏し、12月30日に降伏文書に調印。翌1492年1月2日、カトリック両王にグラナダ市とアルハンブラ宮殿を明け渡し、イスラム教徒のアンダルシア支配は終わった。↓ p384 15世紀末のスペイン。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー私は高校時代、日本史ではなく世界史を選んでおり、特にヨーロッパの歴史に興味がありました。アフリカのムーア人がジブラルタル海峡を渡り(711年)、イベリア半島を席巻して西ゴート族を滅ぼしました。その勢いでイスラム軍はピレネー山脈を越え、今のフランスの地を北上していきますが、732年、フランスのトゥールとポワティエ間でキリスト教であるフランク王国がイスラム軍を撃退し、イスラム軍はイベリア半島に撤退します。有名な「トゥール・ポワティエの戦い」です。もしフランク王国が戦争に負けていたら、ヨーロッパはキリスト教ではなくイスラム教の国になっていたかもしれません。私がオランダに駐在していたとき、休みに車でフランス人の文通相手の家を訪問することにしました。オランダのロッテルダムからベルギーのブリュッセルを通り、フランスではパリ、トゥール、ポワティエ、ボルドーと幹線道路を走り、彼女が住んでいるベルジェラックに行きました。運転途中、看板にトゥール、ポワティエの文字を見ると、世界史の教科書に出ていた「トゥール・ポワティエの戦い」を思い出しました。イベリア半島ではイスラム王朝が支配し、グラナダでは1230年にナルス朝が始まりますが、キリスト教のカスティーリャ、アラゴン王国がイスラム国と戦い、イベリア半島をキリスト教国とする国土回復運動(レコンキスタ)が活発化します。キリスト教軍はコルドバ、セビーリャなど主要な街を奪取していき、1492年アルハンブラ開城により、レコンキスタが完了となりました。↓ 妻と結婚した時、妻が買ってくれた本。クロニック世界全史/講談社。↓ p233 「イスラム勢力の拡大続く。ついにイベリア半島に上陸」 714年春。イスラム軍の司令官ターリクは、イベリア半島南端のカルペ山を占領。半島征服の足場にした。カルぺ山はターリクの山すなわちジュベル・ターリクとよばれ、ジブラルタルの地名の由来となった。↓ p235「宮宰カール、トゥール・ポアティエ間で、イスラム軍の北上を阻止」732年10月25日。↓ トゥール・ポアティエ間の戦い。フランク騎士とイスラム騎兵が突撃する場面では、イスラム側は槍と弓矢、斧などの武器を使用し、駱駝にまたがっているものもいた。フランク側は歩兵が主力である。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院/平成2年12月20日発行。↓ p24 ヨーロッパ主部私が車でオランダ・ロッテルダムからフランス・ベルジュラックまで移動したときのルート。(赤字)オランダ・ロッテルダムベルギー・ブリュッセルフランス・パリ(青地)フランス・トゥールフランス・ポワティエ(赤字)フランス・ボルドーフランス・ベルジェラック↓ パリ、トゥール、ポワティエ、ボルドー、ベルジェラック。↓ フランス・ベルジェラックで、文通相手と初めて会う。
2026.02.27
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【旅行8日目】2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿、ヘレナリフェ離宮を見た後、ダーロ川を越えてアルバイシンの丘を上っていきました。私は1991年に初めてグラナダを旅しましたが、当時持っていた「地球の歩き方ヨーロッパ(1990~1991版)/ダイヤモンド社」には、p676にアルバイシンの紹介、p657の読者投稿欄に囲み投稿があり、アルバイシンに行ったら注意しないといけないと思っていました。(p656)グラナダで最も古い地区アルバイシン(Albaicin)を歩いて見よう。アルハンブラ宮殿の北に広がる、グラナダでも最も古い地区。タイルや、窓辺の花に飾られた家並みに沿って歩きつつ、サン・ニコラス教会までいってみよう。シエラ・ネバダ山脈を背にしたアルハンブラ宮殿は、一見の価値あり。(p657)アルバイシンに入ってすぐの道には子供もたくさんいるし、危険だという話などすっかり忘れてしまう雰囲気なのですが、ちょっとせまい道にフラフラと迷い込んでしまったとたん、ナイフ片手の男2人につかまってしまいました。「金を出せ!」とおどされて、けっきょくお財布の中に入っていた8000Pts全部を取られました。まあ、カード類は返してくれたけど、変に抵抗したり、現金をあまり持っていなかったりしたら、生命にかかわっていたかもしれません。その後、少し歩いただけで人通りのある道に出ました。~ とにかく皆さんは、常に人通りのある道を歩くように心がけてください。ーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p286から「風見のある館」、「アラブの占星術師の伝説」という話が続きますが、アルバイシンの不思議な話が記載されており、読むとアルバイシンはまるで魔法がかかっているような不思議な地区に思えます。グラナダで最も高いアルバイシンの丘は、アルハンブラの真向かいにあって、ダーロ川の狭い峡谷から高だかと聳えたっているが、その頂きに、モーロ人が最初に創建した王宮の跡がある。王宮跡とはいっても、いまはすっかり埋もれ切っていて、わたしは、土地勘のよい、物知りのマテオ・ヒメネスにも手伝ってもらったのだが、それでも探し出すまでにおおいに手間取ってしまった。この城址は、ここ数世紀の間、「風見のある館:La casa del gallo de viento:ラ・カサ・デル・ガーリョ・デ・ビエント」という呼び名でとおってきた。こう呼ばれるのは、その昔、城の小塔のひとつに、騎馬の戦士をかたどった青銅の像が、風見として取り付けられていたためである。その風見は、グラナダのイスラム教徒の間では、「魔除けの風見」と考えられていた。いくつかの伝承によれば、この風見には、次のようなアラビア文字の銘句が記されていた。賢王アベン・ハブースいわく、かくの如くアンダルシアの民は奇襲にも備えを怠らずこのアベン・ハブースは、モーロ人の古い年代記のいくつかでは、スペインに侵攻した征服王のひとり、ターリクの率いたモーロ軍の一将で、ターリクによって侵略地グラナダの太守に任ぜられた、とある。この風見の像は、太守ハブースが、アンダルシア(アル・アンダルス)のイスラム教徒に対して、敵地にあっては身の安全を図るには、ひとえに国防と臨戦の備えが不可欠だとの見地から、その不断の警告のために設置したもの、と解されている。~さらに詳しく述べたものがある。あるイスラム教徒の年代記者は、シディ・ハサンという行者の証言を記している。彼は、この古い要塞が修繕された時期に、この風見が取り壊される現場に居合わせたのである。「私は見ましたぞ」と、この尊い行者は言っている。「この眼でな。それは七角型の風見で、次のような詩句が刻まれておりましたー『麗しきグラナダの王宮は、魔除けの風見こそ砦なれ。青銅の身なれど騎馬戦士にて、四方吹く風に巡るなり。さあれ、こは賢者にひとつの神秘を黙示する、やがて禍い来たりて滅ぼさん、王宮、その主ともどもを』と」。予言は的中した。~ これが「グラナダのイスラム教徒の王国がついに崩壊に帰した、あの悲惨な戦いの予告にして序曲」にほかならなかったのである。↓ ターロ川を渡り、アルバイシン地区に入る。↓ ターロ川。↓ 右はサクロモンテの丘に行く道。↓ ブーゲンビリア。↓ エル・サルバドル教会。13世紀にできたモスクの上に建てられた教会。↓ ブーゲンビリア。↓ 丘の上にあるサン・ミゲル展望台。↓ サン・アグスティン貯水槽。↓ サン・ニコラス広場に到着。↓ サン・ニコラス広場からアルハンブラ宮殿を臨む。↓ アルカサバ。↓ アルハンブラ宮殿。↓ ヘネラリフェ離宮。↓ ヘネラリフェ離宮。(ズーム撮影)↓ アルハンブラ宮殿の奥に見えるシエラ・ネバダ山脈の雪。↓ アルハンブラ宮殿。↓ 記念写真。
2026.02.26
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【旅行8日目】2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿、ヘレナリフェ離宮を見た後、その二つの宮殿の間にあるCuesta del Rey Chico(小さな王の坂)を下りました。「小さな王」とは、アルハンブラ宮殿でイスラム教徒の最後の王となったボアブディルのことです。ボアブディルは父親のムレイ・ハセンによって、母親のアイシャとともにコマレスの塔に幽閉されます。アイシャは自分や下女たちのスカートを結んで塔の窓から垂らし、ボアブディルはそれを持って、無事に塔の外に出ます。待機していたアベンセラーヘ家の騎士の背に乗り、この「小さな王の坂」を下って逃げました。この経緯は、「アルハンブラ宮殿物語/グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p198~203の「妻と愛人」に記載されており、要約して紹介します。ムレイ・ハセンの妻アイシャはムハンマド9世の娘で、ムハンマド10世妃となっていましたが、ムハンマド10世がサードとその息子のムレイ・ハセンに殺されると、今度はムレイ・ハセンの妻となりました。1455年、ムハンマド10世が殺害された年にムレイ・ハセンとアイシャは結婚し、数年後には待望の男子、ボアブディルが生まれました。ボアブディルが生まれるとすぐに占星術師のところで占われることになり、占星術師はボアブディル誕生時の星の位置を確認し、「この子は偉大なる王になるが、王国を失うことになる」と言いました。父のムレイ・ハセンは、多分このことが原因でやがて息子を嫌うようになったのです。ムレイ・ハセンはキリスト教側の領土であるコルドバの近くに侵略し勝利していくのですが、勝利すれば戦利品として捕虜を捕まえ、敗北した側は、捕虜を返してもらうために高額のお金を支払うことになるのです。捕虜の中に、マルトス城塞主で指揮官のサンチョ・ヒメネス・デ・ソリスの子どもたちがいたのですが、そのうちの一人がイサベル・デ・ソリスでした。どうしたことか、ムレイ・ハセンは、そのイサベル・デ・ソリスを一眼見るなり恋に落ちたのです。何という美しさ、けなげさ、品の良さ。イスラムの女性にはないものでした。アイシャは、自分の知らないところで、恐ろしいことが起きているのに気づきます。ムレイ・ハセンはイサベル・デ・ソリスを「囚われ人の塔」に住まわせ、イスラム教に改宗させ、名前をキリスト教名のイサベルから、イスラム名のソラヤに変えさせていたのです。ムレイ・ハセンは、なんと妻アイシャを離縁し、ソラヤを正式な妻とするのです。そしてハーレムの指導権を握ったソラヤは、王位継承を自分の息子にしようと企てるのでした。アイシャにすれば、キリスト教徒の捕虜の女を妻にするなど許せることではありません。さらに、ボアブディルという男子を産んでいるのに自分を離縁するなど、ありえないのです。その上、もしあのソラヤが男子を生んだらそちらに王位が行くかもしれない。そして事実、ソラヤは息子を2人産むのです。その時から、アイシャとボアブディルは「ムレイ・ハセン憎し」で歩調を合わせ、ムレイ・ハセンを退位させるための陰謀を練っていきます。ムレイ・ハセンにとっては、アイシャは美人ではない上に強情で、夫である自分の命令に従わず、少なからず辟易していたのでしょう。陰謀を巡らした罪でアイシャとボアブディルをアルハンブラ宮殿のコマレスの塔に幽閉するのです。しかし、アイシャには常にアベンセラーヘ家が付いています。父ムハンマド9世時代からの強い味方の貴族です。アベンセラーヘ家の力でアイシャもボアブディルも塔から逃げ出し、ボアブディルはグアディスクで味方を集めるのです。ーーーーーーーーーーーーー↓ 暑いので、アルハンブラ宮殿の外にある店でドリンクを購入した。↓ 水は€1.7、ファンタは€3.0。↓ レストランがある。↓ レストランを通ると、チコの坂道がある。↓ 水の塔と水道橋。左側はアルハンブラ宮殿、右側はヘネラリフェ離宮。↓ Cuesta del Rey Chico (小さな王の坂)の看板。コマレスの塔からスカーフを垂らし、ボアブディルはこの道まで下りた。待機していたアベンセラ―ヘ家の騎士の背に乗って、ボアブディルは逃げた。そのため、小さな王の坂という名前が付いた。↓ 水が流れる。↓ アマポーラ(ひなげし)。↓ 対岸のアルバイシンの丘が見えてきた。↓ アルバイシンの丘。↓ アルハンブラ宮殿のアルカサバを見上げる。↓ 水道橋。↓ ふもとに下りた。↓ アルハンブラ宮殿を臨む。
2026.02.25
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿、ヘネラリフェ離宮を散策しました。アルハンブラ宮殿から石橋を渡り、対岸の丘にあるヘネラリーフェ離宮を歩きます。離宮の庭は花で美しく飾られ、糸杉の並木道がとても印象的でした。「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p22~27には、ヘネラリーフェ離宮について書かれてあり、一部を紹介します。アルハンブラの丘陵よりいちだんと高い、山の胸部に当たるところに、ヘネラリーフェ離宮の高い塔郡や白い城壁が、刺繡の図柄のような庭園を従え、堅固に築かれた段丘のただ中にに聳えている。数多くの伝説を秘めて眠る、妖精のお城といった趣だ。いまも糸杉の巨木が鬱蒼と森をなしている。モーロ人の時代にも青々と繁り、ボアブディルと彼の后をめぐる伝説的な物語にも登場する、あの名高い糸杉である(注1)。(注1)「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p346ボアブディルの王妃モライマの「不貞」説は、アーヴィングによれば、当書が初発である。ランスロットとグィネヴィアもどきのロマンスとして語り継がれてきたもので、王妃モライマはボアブディル王の宮殿における華の騎士、アベンセラーヘ家のアルビン・マヘットと恋に落ち、ヘネラリーフェ離宮への糸杉の道の奥、あるいはヘネラリーフェ最奥の「糸杉の中庭」で密会を重ねていたが、その現場を、アベンセラーヘ家と勢力を二分する騎士の名門セグリー家の騎士らに目撃され、讒言された。ボアブディルは、狂乱し、后を投獄して拷問にかけ、身の潔白が証明されなければ火刑に処すると宣言する一方、ハメットと35人のアベンセラーヘ家の騎士を「ライオンの中庭」に招いて、ひとりずつ「アヘンセラーヘ家の間」に呼び入れ、噴泉の傍らで首を刎ねさせた、とされている。この斬首事件については、アーヴィングは次章で、アベン・オスミン(ムハンマド10世)もあるとしながら、彼の調査では、ボアブディルの父王ムレイ・アブール・ハッサンが、宰相アブル・カシム・ベガネス一派に唆されて行ったものである、と断定している。p24~25それにしても、この離宮は、たわわに実る果実、咲き乱れる花ばな、馨しい大気、緑したたる四阿と天人花の生垣、涼風とほとばしる噴泉、と南国好みのエピキュリアンを喜ばせるすべての条件を備えている。ここを訪ねると、画家たちが好んで画題にする南国の宮殿や庭園を、まさに目の当たりに見る思いがするのである。その日は、カンポテハル侯爵の令嬢の守護聖人の祝日だった。令嬢は、長い夏の一日を、このモーロ人の宮殿の見晴らしのよい広間や四阿で楽しく過ごそうと、グラナダから若い友人たちを数人連れてやってきた。朝の離宮訪問は、心が躍るような経験だった。訪問客は思い思いに連れ立って、気の向くまま芝生の散歩道や、陽光の中できらめく噴泉、イタリア式階段、広々とした段丘、大理石の欄干へと散策の足をのばし、みな晴れ晴れとした顔をしていた。屋外ベランダになっている柱廊にも人々が群がり、素晴らしい景観を楽しんだ。わたしも、この見晴らしのよい柱廊に腰を下ろした。アルハンブラ宮殿、そのずっと下方にグラナダ市とベガ(沃野)が広がり、そのはるか彼方に連なる山脈が地と空を綴じ合わせている。眩しい、夏の陽光を浴びて浮かび出た風景は、夢の世界さながらだった。うっとり見惚れていると、緑濃いダーロ川の渓谷から、ギターの音や、カスタネットを打ち鳴らす音が、微かにたちのぼってきた。この丘陵地の中腹にも、木立の下に1グループが陣取って、草むらに寝転んだり、楽器に合わせて踊ったり、典型的なアンダルシア風ピクニックを楽しんでいるのが見て取れた。↓ アルハンブラ宮殿からヘレナリフェ離宮へ移動する。↓ 水の塔。↓ 水道橋。↓ 水道橋。↓ ヘネラリフェ離宮に移動する。↓ 糸杉。↓ トカゲがいた。↓ ヘネラリフェ離宮の「アセキアの中庭」。「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p66ヘネラリーフェとはアラビア語で「建築家の庭園」という意味なのですが、ここを建設するのに、ムハンマド2世は相当な建築家に任せていたのだと言われます。また、庭園を爽やかで涼しげなものにしている印象的な「アセキアの中庭」ですが、「アセキア」とは「灌漑用水路」という意味で、美しさと実用を兼ね備えている場所だったのです。↓ アセキアの中庭。↓ 糸杉をバックに記念写真。
2026.02.24
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を散策しました。リンダラーハの中庭からカルロス5世宮殿を見て、城塞の端まで移動しました。アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p164~166に、「リンダラーハの庭」について記載があり、紹介します。モーロ人の年代記にたびたび出てくる、あの「リンダラーハの庭」は、この内庭のことである。この美しい名前、リンダラーハとは、どんな女性だったのだろか?わたしは、その名前をたびたび聞き、ことあるごとに口ずさんでいながら、リンダラーハについては何も知らなかった。早速調べて、若干の事実を知ることができた。リンダラーハは、ムハンマド左利き王の宮廷で華と謳われたモーロの麗人だった。彼女の父は、王の忠臣中の忠臣で、マラガの要塞の城将だった。ムハンマドが王位を追われたとき、城将はマラガ要塞に王を匿い通した。やがて、王位を奪還したムハンマドは、城将には恩賞をもって報いる一方、彼の美しい娘を引き取って、宮殿に一室を与えて住まわせ、さらに、王自身が親代わりになって、アベン・フード公正王の血を引くセティメリエン公家の若き貴公子ナサール公を彼女に娶せた。二人の婚礼は、間違いなく、この宮殿で盛大に執り行われた。そして二人は、丸一か月の新婚生活を、いまもその麗人の名を持って呼ばれる、この奥まった美しい庭に面した居室で過ごしたのである。美しいリンダラーハも身罷り、かくして四世紀もの歳月が過ぎ去った。しかし、リンダラーハが暮らし、生きたこの場所は、滅びやすい美の宿命を物語りつつも、それでもいまだ往時の面影をいたるところに遺している!麗人のかつて在った悦びの庭は、いまも花ばなが咲き誇り、かつて、彼女がその艶姿を映した噴泉は水面を水晶のように研ぎ澄まして、静かにあふれつづけている。カルロス5世宮殿ですが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)の孫カルロス5世が、1526年の新婚旅行でアルハンブラ宮殿に来た時、ルネッサンス様式の宮殿を造ることを決め、資金はグラナダのイスラム教モーロ人から徴収して建設が始まりました。↓ 城からアルバイシンの丘を見る。↓ 地下通路。↓ リンダラーハの中庭。リンダラーハは、ムハンマド左利き王の宮廷で華と謳われたモーロの麗人だった。彼女の父は、王の忠臣中の忠臣で、マラガの要塞の城将だった。ムハンマドが王位を追われたとき、城将はマラガ要塞に王を匿い通した。やがて、王位を奪還したムハンマドは、城将には恩賞をもって報いる一方、彼の美しい娘を引き取って、宮殿に一室を与えて住まわせ、さらに、王自身が親代わりになって、アベン・フード公正王の血を引くセティメリエン公家の若き貴公子ナサール公を彼女に娶せた。二人の婚礼は、間違いなく、この宮殿で盛大に執り行われた。そして二人は、丸一か月の新婚生活を、いまもその麗人の名を持って呼ばれる、この奥まった美しい庭に面した居室で過ごしたのである。美しいリンダラーハも身罷り、かくして四世紀もの歳月が過ぎ去った。しかし、リンダラーハが暮らし、生きたこの場所は、滅びやすい美の宿命を物語りつつも、それでもいまだ往時の面影をいたるところに遺している!麗人のかつて在った悦びの庭は、いまも花ばなが咲き誇り、かつて、彼女がその艶姿を映した噴泉は水面を水晶のように研ぎ澄まして、静かにあふれつづけている。↓ リンダラーハの中庭から、カルロス5世宮殿へ移動する途中。↓ 浴槽の屋根。窓から浴槽に光を取り入れていた。↓ カルロス5世宮殿。↓ カルロス5世宮殿内部。↓ カルロス5世宮殿をバックに記念撮影。↓ 暑いので、休憩する。↓ ホテルの部屋に置いてあったチョコレートを持参していた。↓ チョコレートを食べる妻。↓ カール5世宮殿。↓ サンタマリア教会。↓ レアル・デ・ラ・アルハンブラ通り。↓ ホテルアメリカ。
2026.02.23
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を見学しました。アラヤネスの中庭から王の浴場を通って、ライオンの中庭に来ました。12頭のライオンの噴水があります。この南側には、名門貴族のアベンセラーヘ家の男性達が、王の命で殺害され水盤に血があふれ、切り落とされた多くの生首が並んだという有名な事件があった、アヘンセラーへスの間があります。「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p177~179に、1462年にあった残虐な「アベンセラーヘ事件」が紹介されています。サード王の日々は終わりに近づいたように見えました。アルハンブラ宮殿近くのアルバイシンの町は、今やアベンセラーヘ一族が支配しています。それなのに王とその一族、信奉者たちは、アルハンブラに閉じ込められているということになるからです。サードと息子たちはアルハンブラの一室に集まりました。サードはもう自分はいい年齢だし、と諦めていたのです。退位をせまられることは時間の問題でした。アル・サガルは成人になったばかりで、どうしたらよいのかと父と兄を見つめていました。ムレイ・ハセンは、これは長男の自分が決めるときであると考えていました。そして部屋を出て臣下を呼び、「アベンセラーヘ一族を探し、サード王は退位を決めていると伝えよ」と命令したのです。やがてアベンセラーヘ一族は宮殿に招かれました。皆、年老いたサード王がどのように決断したのか、すぐに退位をするのか、王国を放棄するのか、何か条件を出すのか、いずれにしても今日ですべては変わる、我がアベンセラーヘ一族の想いのままになるのだと思っていたのです。アベンセラーヘ一族の何人かは、一人で考えに耽りながらアルハンブラへの坂を登ってきましたし、多くの人たちはグループで会話などをしながら坂を登ってきたのです。王家の3人は、招待したアベンセラーヘ一族を、アルハンブラ宮殿の柱廊のところで穏やかに待っていました。一族を愛想よく迎えましたが、それは、王位から退く時に慈悲を懇願するためのものでした。ムレイ・ハセンとアル・サガルはアベンセラーヘ一族をライオンの中庭に優しく導くと、豪華な一室に招き入れ、その部屋は暑いカーテンで装飾されていたのですが、カーテンから離れた所に案内しました。しばらくするとサード王が威厳を持って現れました。王に対してムレイ・ハセンは会釈をし、重いカーテンを掴んだのですが、それが合図でした。カーテンの後ろから王党派の臣下たちが現れ、虐殺が始まったのです。王党派は、サード王の武装した奴隷たちで、これは突然のことだったのです。アベンセラーヘの一族はこうして殺害されました。その血は床に、壁に、天井に飛び散ったといいます。これが伝説の「アベンセラーヘ一族殺し」で、1462年7月のことでした。アルハンブラ宮殿のライオン宮に「アベンセラーヘスの間」がありますが、この殺戮のあった部屋だったのです。ーーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p92~93には、次の記述があります。ライオンの中庭の片側には、立派な門がある。それは「アベンセラーヘ家の間」へと通じている。名高い騎士の名門、アベンセラーヘ家の勇敢な騎士たちが、不忠の罪によって、この広間で虐殺されたという伝承から、この名で呼ばれる。この伝承は、すべて作り事だと言う人もいるけれども、わたしたちの信実な案内人、マテオは、門の潜り戸を指さして、アベンセラ―家の騎士たちはあの門から一人ずつライオンの中庭に連れ出され、それから広間の中央の白大理石の噴水のところで、首を刎ねられたのだと言った。マテオは、さらに、敷石の上に広がる、かなり赤みを帯びた部分を示して、あれが騎士たちの流した血の跡で、いくら洗い流しても、また現われ出てくるのだと言われている、と説明した。マテオは、私たちが彼の話を真面目に受け取っていると思ったらしく、こんな因縁話をしてくれた。ライオンの中庭では、夜になると、しばしば多数の人間がいっせいに咳き始めるような、低い混乱した声が、地の底から聞こえてきたり、時折、遠くで鎖をひきずるような、かすかな金属音がきこえてくる。非業の死を遂げたアベンセラーヘ家の騎士たちの亡霊がたてるのだ。夜ごと、受苦の場所に出没しては、自分たちを虐殺した者たちに対して、天の報復を祈願しているのだ、と。↓ 鍾乳石飾りの間。↓ 1590年に起きた火薬庫の爆発で鍾乳石飾りがなくなった。↓ ライオンの中庭。↓ アベンセラーヘスの間。王家の3人は、招待したアベンセラーヘ一族を、アルハンブラ宮殿の柱廊のところで穏やかに待っていました。一族を愛想よく迎えましたが、それは、王位から退く時に慈悲を懇願するためのものでした。ムレイ・ハセンとアル・サガルはアベンセラーヘ一族をライオンの中庭に優しく導くと、豪華な一室に招き入れ、その部屋は暑いカーテンで装飾されていたのですが、カーテンから離れた所に案内しました。しばらくするとサード王が威厳を持って現れました。王に対してムレイ・ハセンは会釈をし、重いカーテンを掴んだのですが、それが合図でした。カーテンの後ろから王党派の臣下たちが現れ、虐殺が始まったのです。王党派は、サード王の武装した奴隷たちで、これは突然のことだったのです。アベンセラーヘの一族はこうして殺害されました。その血は床に、壁に、天井に飛び散ったといいます。これが伝説の「アベンセラーヘ一族殺し」で、1462年7月のことでした。アルハンブラ宮殿のライオン宮に「アベンセラーヘスの間」がありますが、この殺戮のあった部屋だったのです。↓ 二姉妹の間。↓ 12頭のライオンの噴水。↓ 左側は「アベンヘラーセスの間」。右側は「鍾乳石造りの間」。奥はカール5世宮殿。↓ 諸王の間(裁きの間)。「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p223~224夕暮れ時には、わたしは「裁きの間」へとよく足を向ける。「ライオンの中庭」のちょうど真向かいにあたる、薄暗がりのアーケードに囲われた広間がそれである。アルハンブラがキリスト教徒の手に落ちたとき、この広間に祭壇が設けられて、フェルナンド王とイサベル女王を中心に、勝ち誇った廷臣たちが居並び、スペインの大枢機卿と主だった高位聖職者による大戦勝ミサが挙行された。~ ふと見れば、やがて新大陸の発見者となるコロンブスが、この広間の末席につつましげにたたずみ、この一大パジェントを控えめに、場違いな眼で見つめている。↓ 二姉妹の間。↓ ステンドグラスの光が映っている。↓ リンダラハの中庭。↓ 格子窓の中庭。
2026.02.22
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を見学しました。コマレス宮の正面(ファザード)、そしてコマレスの中庭の池に映る、コマレスの塔を見ました。コマレスの塔は、王妃アイシャの監禁事件、長男ボアブディルをスカーフで逃亡させる事件の舞台になったところです。「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p250~252に、コマレス宮の事件が記載されているので、一部を紹介します。ムレイ・アブール・ハッサン王は、青年時代に、不運の星を一身に背負ったともいうべきムハンマド左利き王の娘、つまり彼の従姉妹に当たるアイシャ・ラ・ホルラ公女と結婚した。彼女との間に二人の王子をもうけたが、その長子が、ボアブディル(アルハンブラ・イスラム国の最後の王になる)である。しかし、王は、壮年期になって、もう一人の后を迎えた。若く、美しいキリスト教徒の捕虜で、本名はイサベル・デ・ソリス。しかも、モーロ人の間では、ソライア妃の名で通っていた。そして、王は第二王妃との間にも、二人の王子をもうけた。宮廷では、王位継承権をめぐって王妃動詞の敵対関係が生じ、二つの党派が生まれた。~宮中における両派の対立軋轢は、日に日に緊迫の度を加えていった。権謀術数が渦巻く宮廷の例にもれず、宮中はありとあらゆる陰謀の巣と化した感があった。そんな中で、アイシャ王妃の陰謀説が巧みにムレイ・アブール・ハッサン王の耳に吹き込まれた。すなわち、王妃は、夫である現王を追放して、息子のボアブディルを王位に就けようと謀を巡らせている、というものだった。王は激怒し、母子を「コマレスの塔」に監禁し、思わず我を忘れて、ボアブディルは生かしておくまい、と口走ったのだった。心配した母の王妃は、深夜、自分のスカーフと待女たちのスカーフをかき集めて繋ぎ合わせると、塔の窓から息子を吊り下ろした。下には、王妃に忠誠を誓う騎士数名が騎馬を用意して待ち受けていて、王子を一気にラス・アルプハラスの山中へと連れ去った。↓ メスアール宮からコマレス宮に移動する。↓ 柱廊におかれたジャムカ(折り畳み椅子)。↓ 黄金の間。天井はムデハル様式。↓ 黄金の間から見たコマレス宮の正面(ファザード)。向かって左側の開いてある部分が、王族専用の出入り口。↓ 黄金の間の中庭にある噴水。↓ コマレス宮の正面(ファザード)。「新アルハンブラ物語/安引宏、佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」p14定められた道順通りにアルハンブラを歩くとき、イスラム装飾の圧倒的な迫力に息をのむ最初の場がこのコマレス宮の正面(ファザード)である。ここは謁見の間でもあって、王はファザードを背に王座にすわり、人々は黄金の間に直立して、中庭の近衛兵たちの頭ごしに、王に言上した。そのさまを後宮(ハレム)の女性たちが二階の透かし彫りの窓から覗いていたという。精緻な壁面の文様は、かつては彩色されていて、高くなるほど深い色が塗られていた。↓ アラヤネスの中庭を見る妻。↓ アラヤネスの中庭。奥はキリスト教時代に建てられたカール5世宮殿と、それを造るために取り壊されたイスラム建物の残り。↓ アラヤネスの中庭から、コマレスの塔を見る。両側左右の建物は、王の4人の正妻の住居。↓ コマレスの塔。「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p251~252。そんな中で、アイシャ王妃の陰謀説が巧みにムレイ・アブール・ハッサン王の耳に吹き込まれた。すなわち、王妃は、夫である現王を追放して、息子のボアブディルを王位に就けようと謀を巡らせている、というものだった。王は激怒し、母子を「コマレスの塔」に監禁し、思わず我を忘れて、ボアブディルは生かしておくまい、と口走ったのだった。心配した母の王妃は、深夜、自分のスカーフと待女たちのスカーフをかき集めて繋ぎ合わせると、塔の窓から息子を吊り下ろした。下には、王妃に忠誠を誓う騎士数名が騎馬を用意して待ち受けていて、王子を一気にラス・アルプハラスの山中へと連れ去った。↓ 水を飲む猫。↓ 王座の広間。「新アルハンブラ物語/安引宏、佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」p24~25。王座の広間は、コマレスの広間とも大使の広間とも呼ばれる。アルハンブラで最大の部屋である。この部屋は後宮(ハレム)とはいえ、重要な告示の決定のさいにも、外国使節の謁見のさいにも使われていた。8017個の嵌木細工でつくられた天井から彩釉タイルを敷きつめた床まで、信じられないほどの細密さと繊細さで、アラベスク文様がびっしり描き出されている。コマレス宮の正面(ファザード)と同様に、ここもかつては赤・青・緑・金色に彩色されていたという。そのエネルギーの厖大さに茫然となる。これはたんなる職人の技ではない。信仰者の祈りなのだ。↑ 「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p235~236に、この「王座の間が、イスラム教グラナダ王国が終焉を迎えた部屋であったことが記載されています。1492年1月2日、グラナダは降伏しました。この日、グラナダ王ボアブディルは、アルハンブラ宮殿のコマレスの塔の王座の間(大使の間)で、アルハンブラ宮殿の鍵をカスティーリャの将軍に渡したのです。~ 午後、ボアブディル一行はグラナダの門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アメフドを返されます。武器を渡し、家族とともにグラナダ東部の山間の町アルプハラに向かいます。~ ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。
2026.02.21
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を見学しました。次の内容を紹介します。①アルハンブラの軍事城塞であるアルカサバの軍事住居区。②アルハンブラから見えるシエラネバダ山脈。③マチュカの庭とメスアール宮。シエラネバダ山脈ですが、私が1991年11月(今から約35年前)にスペイン・ポルトガルを旅した時、グラナダで購入したガイド本に紹介がありました。万年雪の山で、スキー場があります。昔は「Camino de los Nveros:雪取り人の道」というルートがあり、そのルートを登って雪を取ってはアイスやシャーベットを作って売る人がいた事が書いてありますいつか将来、シエラネバダの山に登山したり、スキーができたら楽しそうと思っています。「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫」p105~106に、シエラネバダ山脈まで雪を取りに行く人の話があったので紹介します。「でも、マテオ、あのチラチラする光は何だろか。シエラ・ネバダの雪の峰のすぐ下で、チラチラしているだろ。星みたいに見えるけど、赤いし、それに山の暗がりの位置にあたるしね」「ああ、あれは、セニョール、火ですよ。雪と氷を集めて、グラナダに運び下ろす連中が、火を焚いているんです。毎日、午後になると、連中はラバとロバを率いてあそこまで登り、順番に暖をとるんです、一方がせっせと氷を積んでいる間にね。で、夜明け前にグラナダの門にたどり着けるよう、あそこから降りてくるんです。あのシエラ・ネバダは、セニョール、アンダルシアのただ中に聳え立って、酷熱の夏を涼してくれる、巨大な氷の塊のようなものなのです」↓ 正面奥は夜警(ベラ)の塔:Torre de la Vela、その手前は武器の塔、手前左は忠誠の塔。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」P5人類が造ったもっともロマンティックな建物といわれるアルハンブラ宮殿は、スペイン南部、アンダルシア地方の小都市グラナダにあって、街の東側の小高い丘にたっている。城壁と塔に囲まれた宮殿は外から眺めれば単なる小規模な城塞にすぎないが、一歩中に入ると、その精緻な装飾空間に誰もがアッと息をのむ。キリスト教軍によりスペイン南端にまで追いつめられながら、255年にもわたる命脈を保ったスペイン最後のイスラム王国ナスリ朝が主として14世紀に造った建築である。コロンブスの新大陸発見の年(1492)、イスラム勢力はスペインから完全に放逐されたが、この宮殿は、その美しさの故か、破壊されずに奇跡的に今日に伝えられた。↓ アルハンブラ宮殿の向こうにあるアルバイシンの丘。↓ 城壁にある狭間。↓ 荷物を吊り上げるためのフック。↓ ひび割れた塔。↓ 正面は夜警(ベラ)の塔。手前は軍区。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」P7アルハンブラの西側は純粋に軍事的な城塞(アルカサバ)であり、ここには宮殿はない。この城塞部分で一際高くそびえ立つのが夜警(ベラ)の塔:Torre de la Vela である。この塔を、当時の人々は誇りを込めて太陽の塔と呼んだ。↓ BARRIO CASTORENSE バリオ・カストレンセ(軍区居住区)。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」P8夜警(ベラ)の塔の東側に軍区が広がる。かつてここには二階建ての兵舎が17棟ひしめいていたが、いまは土台を残すのみ。↓ 中には、トイレの溝もあった。↓ 井戸。↓ ハマム:hammam(アラブ式の浴場)跡。↓ アルハンブラ宮殿から見るシエラネバダ山脈。↓ シエラネバダ山脈のベレテ山(Velete 3,470m)。↓ 約35年前になりますが、私が1991年11月にスペイン・ポルトガルを旅した時、グラナダで購入したガイドブックです。GRANADA in your hand / Segunda Edicion Septiembre 1989 ©Editorial En Su Mano.今はインターネットで簡単にグラナダの情報を検索して知ることができますが、当時は「地球の歩き方」くらいしか持参しておらず、現地の英語ガイド本を購入して読む必要がありました。この本のp60~63には、シエラネバダ山脈(Sierra Nevada)の写真と紹介文が書いてありました。ポイントとしては、シエラネバダ山脈は万年雪で覆われた山で、主要な峰はベレテ山:Velete(3,470m)、ムラセン山:Mulhacen(3,481m)、アルカザバ山:Alcazaba(3,314m)です。Camino de los Nveros:雪取り人の道というルートがグラナダからシエラネバダ山脈まであり、雪取り人(Nveros)が万年雪を取っては、アイスクリーム、シャーベットにして売っていたそうです。また、ベレッテ山の斜面はスキー場になっており、リフトも整備され、多くの観光客がスキーを楽しんでいることが書いてあります。「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫」p105~106に、シエラネバダ山脈まで雪を取りに行く人の話があったので紹介します。「でも、マテオ、あのチラチラする光は何だろか。シエラ・ネバダの雪の峰のすぐ下で、チラチラしているだろ。星みたいに見えるけど、赤いし、それに山の暗がりの位置にあたるしね」「ああ、あれは、セニョール、火ですよ。雪と氷を集めて、グラナダに運び下ろす連中が、火を焚いているんです。毎日、午後になると、連中はラバとロバを率いてあそこまで登り、順番に暖をとるんです、一方がせっせと氷を積んでいる間にね。で、夜明け前にグラナダの門にたどり着けるよう、あそこから降りてくるんです。あのシエラ・ネバダは、セニョール、アンダルシアのただ中に聳え立って、酷熱の夏を涼してくれる、巨大な氷の塊のようなものなのです」p12~13 アルハンブラ宮殿とシエラネバダ山脈。p60~61 シエラネバダ山脈のベレテ山斜面にあるスキー場。↓p62~63 シエラネバダの高い峰の紹介、Camino de los Nveros:雪取り人の道の説明、スキー場リゾートの紹介。↓ イスラム教のムーア人は、シエラネバダ山脈を「太陽の山」と言う意味でYebal Xolairと呼んでいた。↓ 城塞(アルカサバ)内にある貯水槽。↓ アダルベス庭園。Jardín de los Adarves。16世紀には大砲が並べられていたが、17世紀にはモンデハル侯爵により公園に変えられた。↓ 葡萄酒の門を出る。↓ 有料エリア入場チェックを受ける。↓ マチュカの中庭。↓ マチュカの塔。↓ メスアール宮:Mexuar(アルハンブラ宮殿・行政・裁判・謁見の場にあるセラミックタイル。↓ 中央は、メスアール(行政・裁判・謁見の場)の柱頭。↓ 左は天井の隅にはめる木製のパネル。右は石膏パネル。↓ メスアール宮(行政・裁判・謁見の場)の天井。イスラム王国時代は、ステンドグラスが天井にはめられていたが、キリスト王国時代になり、木製の天井になったらしい。↓ 木製の天井。↓ メスアール宮の床。木とセラミックタイルの組み合わせが面白い。私と妻の靴。↓ 祈祷室:マチュカの中庭の露台(テラス:メスアール宮)。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」p12~13。マチュカとは、イスラム撤退後にアルハンブラにカルロス1世宮殿を建てた建築家ペトロ・マチュカの名に由来する。彼はこの中庭を設計室に使っていた。「アルハンブラ宮殿物語 ”グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p89「メスアールの間」の北側に「祈祷室」がありますが、他の部屋とその向きが一致していません。それは、メッカを指して南東を向いているからなのです。ーーーーーーーーーーーー【参考文献】↓ 新アルハンブラ物語/安引宏、佐伯泰英/とんぼの本/新潮社↓ GRANADA in your hand / Segunda Edicion Septiembre 1989 ©Editorial En Su Mano.↓ 「アルハンブラ宮殿物語 ”グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」
2026.02.20
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ宮殿2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿に入りました。裁きの門を見て、葡萄酒の門を通り、アルカサバ(Alcazaba)と呼ばれる城塞に進みました。門には、イスラム教で重要な意味を持つ「手」と「鍵」が刻まれています。伝説では、手が鍵を掴んだとき、城塞の塔が崩れ、地下からイスラム・モーロ人が貯めてきた財宝が現れると言われています。妻はアルカサバを散策しながら、「アルハンブラの思い出」の有名なメロディーを鼻歌で歌っていました。葡萄酒の門では、「A Claude Debussy por La Puerta del Vino」(クロード・ドビュッシー『葡萄酒の門』によせて」というプレートがあります。フランスの有名な作曲家ドビュッシーが、「葡萄酒の門」という曲を書いており、その紹介がなされています。アルカサーバの城壁から、アルバイシンやサクロモンテの丘が見えます。沢山のツバメが城壁近くを飛んでおり、景色の写真を撮ると、ツバメの姿が写っています。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p123~124には、ツバメ釣りの話があり、とても興味深かったので紹介します。(約200年前の話です)(p123~124)この観察記録をしめくくるに当たって、ここの城塞の村の住民たちがうち興じている娯楽の中で、特別に印象深く思えた1エピソードを、ぜひ記しておきたい。わたしは、林立する塔の頂上のひとつに、長身の瘦せこけた男が腰を下ろし、2,3本の釣竿を優美に操っているのを、たびたび目撃した。まるで、星を釣っているかのように思われた。しばらくの間、わたしは、この中天の漁師のしぐさを眺め上げては、奇妙なことをするものだ、といぶかしく思っていた。ところが、その奇妙な仕種をしているのは、この男だけではなかった。塔の上だけでなく、狭間胸壁や稜塁の上にも、同様のしぐさをしている男たちがいるのに気がついた。ますますわけが分からなくなって、マテオにわけを尋ねてみた。謎は、ようやく氷解した。この城壁の上空には、ちょうどマクベスのコーダーの城のように、清らかな快い風が吹いていて、家ツバメや岩ツバメにとっては雛を育てるのに最適の場所らしい。無数のツバメが、まるで学校から解放されたばかりの学童のように、歓声をあげ、塔のまわりを嬉々として飛び交っている。彼らは、目まぐるしく旋回しているツバメを、釣り針にハエをつけ、釣ろうとしているのだ。これは、うらぶれ果てたアルハンブラの息子たちのお気に入りの娯楽のひとつだという。彼らは、このように、根っからの道楽者にふさわしい、浮世離れした独創的な才を発揮して、天空で釣りを楽しむ気晴らしの術を発明したのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ アルハンブラ宮殿の城壁とカピタンの塔。↓ シエラネバダ山脈から引かれている水。↓ 宮殿の敷地内に入る。↓ サンタ・マリア教会。↓ 正義の門の近くにあるフランスの大砲。1810年から1812年にフランスのナポレオン軍がアルハンブラを占領し、大砲を設置していたことから、コレクションの大砲が置かれている。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p76に、フランス軍に関する次の記載があります。先のスペイン内紛で、グラナダがフランスの支配下に置かれていた時期、アルハンブラはフランス軍の駐屯地になり、宮殿は、時折、軍司令官の宿舎として使用された。征服者とはいえ、フランス国民をつねに特質づけるあの洗練された美的趣味のおかげで、モーロ人の遺したこの優雅と豪奢の記念碑的建造物は、もはや取り返しのつかない全き崩壊と荒廃に陥る一歩手前で、どうにか救済されたのだった。フランス軍は、屋根を修復し、客間や柱廊が雨風にさらされるのを防ぎ、廃園をよみがえらせ、導水渠に水をはしらせ、こうして噴泉は、ふたたび、きらめきながら舞い立った。スペインの昔日の詩的記念物の中でも比類なく美しい、つきない魅力の源泉であるアルハンブラ宮殿を、こうしていまに遺してくれた侵入軍には、スペインはそれなりの感謝をして然るべきだろう。フランス軍は、ここから立ち去る際に、外部城壁の塔をいくつか爆破し、戦時の城塞の主要な防御機能を奪い去った。この時をもって、城塞の軍事上の重要性はついえた。↓ 裁きの門。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p83~84に、次の記載があります。この門は、イスラム教徒の統治時代、ここの柱廊で法廷が開かれ、民事訴訟関係の即決裁判が行われたことから「裁きの門」と呼ばれている。この民事法廷はオリエントの国ぐにに一般的に見られたもので、その興りは大方の意見では、聖書の、「あなたがたのすべての町の門に裁判人と役人を置き、正しい裁きをもって民を裁かせなさい」(申命記16章18節)によるものとされている。この塔の入口の間は、アラブ風の馬蹄形アーチで支えられている。聳え立つ塔の高さの半ばに及ぶ、巨大なアーチである。このアーチの要石に、大きな「手」が彫り込まれている。また、車寄せの内側にも、アーチ門の要石に、大きな「鍵」が同じように彫刻されている。自称、イスラム教図像に詳しい人たちの説では、「手」は預言者ムハンマド(マホメット)の教えのエンブレムで、5本の指は5大戒律、つまり、断食、聖地巡礼、施し、沐浴、異端者に対する戦いを表わし、「鍵」は、信仰または信仰の力のエンブレムで、預言者ムハンマドに受け渡されたダオウド(ダヴィデ)の鍵を表わす、との事である。後者は、イザヤ書の「わたしは彼の方にダヴィデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じるものなく、彼が閉じれば、開くものはないだろう」(22章22節)を受けたものとされる。↓ 裁きの門の「手」。↓ 裁きの門の「鍵」。↓ アルハンブラ宮殿から見たシエラネバダ山脈。↓ つばめが青空を飛ぶ。↓ 葡萄酒の門(外側)↓ 葡萄酒の門(内側)↓ 「鍵」↓ 葡萄酒の門では、「A Claude Debussy por La Puerta del Vino」(クロード・ドビュッシー『葡萄酒の門』によせて」というプレートがある。フランスの有名な作曲家ドビュッシーが、「葡萄酒の門」という曲を書いている。↓ ケプラータの塔、忠誠の塔。↓ アルカサーバの有料の区間に入る。↓ 忠誠の塔。↓ 夜警の塔。↓ 下はトリステス通り。奥はアルバイシンの丘。↓ 忠誠の塔。↓ 中央はサン・ニコラス教会。↓ サン・ベルナンド礼拝堂。↓ (左)マチューカの塔、コマレスの塔。(右)カルロス1世宮殿。↓ カルロス1世宮殿。↓ ツバメが飛ぶ。↓ 参考本。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」「アルハンブラ物語(下)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」
2026.02.19
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)早朝、宿泊所を出て、裏通りとゴメレス坂を上り、アルハンブラ宮殿のチケット売り場まで行きました。道の途中で、有名な「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」を書いた、アメリカ文学の父と言われたワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の銅像があったので、記念写真を撮りました。アーヴィングはアメリカ公使館の書記官としてスペインに赴任し、1829年にグラナダのアルハンブラ宮殿に滞在し、その時の記録、聞いた伝説などをまとめて書いたものが、「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」として1832年に発表されました。スペイン旅行前に「アルハンブラ物語」を読んでいましたが、伝説の話がとても面白く、印象に残りました。ーーーーーーーーーーーーー↓ アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店グラナダの丘に今もその姿を残すアルハンブラ宮殿。アーヴィング(1783ー1859)はアメリカ公使館書記官としてスペインに赴き、偶然の幸運からモーロ人の築いた城に滞在した。その幻想的な日々が、処々に伝わるさまざまな物語を織りまぜて、詩情豊かに綴られる。(全2冊)↓ 目次1.旅(p13)2.アルハンブラ宮殿(P73)3.歴史的交渉ー著者、ボアブディルの王位を継ぐ(P103)4.アルハンブラの住人達(P116)5.大使の間(P125)6.イエズス会図書館(P139)7.アルハンブラの築城者、アルハマール(P143)8.アルハンブラ宮殿の完成者、ユースフ・アブール・ハジーグ(P154)9.神秘の部屋(P161)10. コマレスの塔からの眺め(P180)11. ドロレスと放蕩児(P193)12. バルコニー(P199)13. 煉瓦職人の冒険(P211)14. ライオンの中庭(P220)15. アベンセラーヘ家(P235)16. ボアブディルゆかりの場所(P257)17. グラナダの大祝祭(P266)18. アルハンブラの民間伝承(P281)19. 風見のある館(P286)20. アラブの占星術師の伝説(P291)↓ 地図(レコンキスタの進展)(P368)↑ イベリア半島はイスラム教徒が支配していたが、キリスト教徒がこの地を戦いにより奪回する運動(レコンキスタ)が進んだ。1236年にコルドバがキリスト教徒に奪回されてから、グラナダはイベリア半島におけるイスラム教徒の最後の砦として、ナルス朝グラナダ王国の首都となった。しかし、1492年にグラナダは陥落となり、城の最後の王ムハンマド11世は、シエラネバダ山脈の道からアルハンブラ宮殿を眺め、惜別の涙を流したという。これでレコンキスタは終了し、キリスト教徒であるイサベル女王が統治した。↓ アルハンブラ物語(下)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店城を抜け出し、フクロウとオウムをお供に恋の巡礼の旅に出る王子。モーロ人の遺産を偶然手に入れるお人好しの水売り。亡霊の残した銀のリュートを奏でる美しい乙女。片腕の総督、豪傑な兵士・・・・。伝承の世界の人々が、アルハンブラを舞台によみがえる。↓ (目次)21.アルハンブラの来訪者たち(P8)22.遺品と家系(P16)23.ヘネラリーフェ離宮(P22)24.アフメッド・アル・カーミル王子の伝説ー恋の巡礼行(P28)25.アルハンブラの丘をマテオと歩く(P95)26.モーロ人の遺産の伝説(P114)27.ラス・インファンタスの塔(P154)28.三人の美しい王女の伝説(P158)29.アルハンブラの薔薇の伝説(P202)30. 歴戦の老兵(P231)31. 片腕の総督と公証人(P235)32. 片腕の総督と兵士(P248)33. アルハンブラの祝宴(P278)34. 二体の思慮深いニンフ像の伝説(P287)35. アルカンタラ騎士団長の十字軍(P321)36. スペインのロマンス(P335)37. ドン・ムニョ・サンチョ・デ・イノホサの伝説(P340)38. イスラム・アンダルスの詩人たちと詩歌(P353)39. マヌエルの遠征(P365)40. 魔法にかけられた兵士の伝説(P371)41.グラナダに別れを告げる(P400)↓ 地図 王宮見取り図(P419)↓ 地図 アルハンブラ見取り図 P420~421)ーーーーーーーーーーーー↓ 2025年5月24日(土)早朝。 部屋で湯を沸かす。↓ コーヒー。↓ 前日にパン屋で購入した「魚パイ」を食べる妻。↓ 私が食べる分の魚パイ。↓ パン屋で購入したクッキー。↓ 部屋を出る。↓ PLAZA NUEVA : ヌエバ広場。↓ Royal Chancellery of Granada (グラナダ王室官庁)。アンダルシア高等裁判所(High Court of Justice of Andalusia)が入っている。↓ REINA DE LA ALHAMBRA :アルハンブラの女王。↓ Cuesta de Gomérez : クエスタ・デ・ゴメレス坂を登り、アルハンブラ宮殿へ進む。↓ ザクロの門 Puerta de las Granadas.1526年にカルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)によって建設された、キリスト教王国の権威を示す門。↓ ザクロの門。↓ 図の赤い線を歩いて、アルハンブラ宮殿のチケット売り場に行く。↓ 有名な「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」を書いた、アメリカ文学の父と言われたワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の銅像。アーヴィングはアメリカ公使館の書記官としてスペインに赴任し、1829年にグラナダのアルハンブラ宮殿に滞在し、その時の記録、聞いた伝説などをまとめて書いたものが、「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」として1832年に発表された。この本により、アルハンブラ宮殿は世界中に知れ渡り、廃墟状態になっていた城は修復され、今やスペイン有数の観光地となっている。↓ Pilar de Carlos V (ピラル・デ・カルロス5世)。16世紀に神聖ローマ帝国カルロス5世(カール5世)の命で建設された、ルネサンス様式の噴水。↓ Puerta de la Justicia: 正義の門。馬蹄形アーチが特徴の門。↓ アルハンブラ宮殿のチケット売り場、入場場所。↓ LA ALHAMBRA。アルハンブラ宮殿。
2026.02.18
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)、グラナダの大聖堂(カテドラル)付近を散歩した後、気になっていたパン屋「PANADERIA LA ROMANILLA」に入ると、行きに見た肉パイが売り切れていました。大変残念だったのですが、朝食用にすると言って妻は魚パイを購入しました。グラナダ大聖堂近くのロマニーリャ広場(Plaza de la Romanilla)にある、Monumento al Aguador(水運び人の記念碑 作者:Aurelio Teno:アウレリオ・テノ 1999年制作のブロンズ像)を写真に撮りました。イスラムがグラナダを支配していた時代から20世紀までの約1000年間、町には上水道施設がなかったため、水運び人がロバの背に20L入り水瓶を2つ掛け、ヘニル川や井戸から水を汲んで水瓶に入れて、街中を回って水を売りに行きます。川の水は値段が高く、井戸水は安かったそうです。大通り近くに「CAFETERIA INTERNATIONAL」という店があり、夕食ということで、ビールとスパゲッティを頂きました。次の日は「アルハンブラ宮殿」に行くので、宿泊所で早く寝ることにしました。↓ ABANICOS PINTADOS A MANO (手書きで絵付けされた扇子)↓ パン屋さん「PANADERIA LA ROMANILLA」。↓ 肉パイは売り切れたと店の方に言われたので、妻は魚パイを注文した。↓ 支払いをする妻。↓ グラナダ大聖堂近くのロマニーリャ広場(Plaza de la Romanilla)にある、Monumento al Aguador(水運び人の記念碑 作者:Aurelio Teno:アウレリオ・テノ 1999年制作のブロンズ像)。イスラムがグラナダを支配していた時代から20世紀までの約1000年間、町には上水道施設がなかったため、水運び人がロバの背に20L入り水瓶を2つ掛け、ヘニル川や井戸から水を汲んで水瓶に入れて、街中を回って水を売りに行った。川の水は値段が高く、井戸水は安かった。↓ 「CAFETERIA INTERNATIONAL」でメニュー表を見る妻。↓ この店で食事をすることにした。↓ 宿泊所に戻る。
2026.02.17
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)夕方、ホテルでチェックインした後、次からは別の入口から直接部屋に入って良いと言われたので、妻が別の入口から本当に入れるか試しました。確認が終わると、グラナダのカテドラルがある中心街を散策しました。「PANADERIA LA ROMANILLA」というパン屋に妻が入り、肉のパイ、魚のパイが置いてあるのを見て、明日の朝食用に肉のパイを買おうと言いました。荷物になるから、散策が終わって帰りに買おうという事にしましたが、とても人気のあるお店で客がひっきりなしに入っていきます。帰りに寄ると、肉のパイは売り切れており、行きに買っておけば良かったと後悔しました。↓ 「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」の受付入り口が右側。左側の入口は、部屋に直接入れるとのことで、妻がチェックした。↓ チェックアウトするときに鍵を入れるポストを確認。↓ 部屋に行けることが分かった。↓ 散策に出発。↓ グラナダの大聖堂(カテドラル)が見えてきた。↓ 王室礼拝堂とカテドラル。↓ 市場へ進む。↓ サン・アグスティン市場は閉まっていた。↓ 「PANADERIA LA ROMANILLA」というパン屋.肉のパイと魚のパイがあり、妻が朝食用に肉のパイを買おうと考えたが、散策帰りに買うことにした。しかし、帰りに寄ると、肉のパイは売り切れていた。残念。↓ オレンジの木。↓ オレンジ。
2026.02.16
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)夕方、グラナダの宿泊所にチェックインしました。アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ( Arteaga Hostal & Baños Arabes Elvira)です。チェックインのカウンターで鍵を4本渡され、部屋までの行き方を教えていただきました。建物の構造が複雑で、部屋に着くまで、何か所もドアを鍵で開けながら進まないといけません。どのドアにどの鍵かを試す必要があり、細かい作業が得意な妻に任せることにしました。部屋に入ると、タオルで象が作られており、私の氏名が入ったウェルカムカードが置いてあったので嬉しくなりました。妻も部屋を気に入りました。妻がもう一度鍵のチェックをするというので、部屋から受付まで、4本の鍵を使いながら進みました。受付の方から、次からは受付の建物ではなく、その隣にある建物から直接入るように言われたので、今度は半分の鍵だけで部屋に行けました。↓ 宿泊所:アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ( Arteaga Hostal & Baños Arabes Elvira)。↓ 受付で4本のカギを受け取り、何か所もドアを開けながら、やっと部屋に入った。↓ 部屋の中。妻はすぐに気に入った。↓ タオルで作った象。↓ アメニティが入っていた。↓ 私の氏名が印刷されていたウェルカムカード。↓ 妻がかわいい象だと気に入っていた。↓ 部屋を出て鍵を掛ける妻。4本の鍵を使って、受付までたどり着けるか試す。↓ 2つ目のドア。↓ 3つ目のドア。↓ どの鍵か分からなくなり、試してみる。↓ 4つ目のドア。↓ 受付までエレベータで降りる。↓ ホテルの入口。受付がある。↓ 次回からは、受付のある入口ではなく、隣の入口から部屋に入って良いと言われた。入口をチェックする妻。↓ ここから部屋に直接行く事になった。↓ ホテルの周りを散策することにした。
2026.02.15
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)夕方、グラナダ駅に到着しました。私は宿泊所まで歩いていくつもりでしたが、疲れたのでバスに乗って行くと妻が言い、バス停の販売機で2人分のチケットを購入しました。宿泊所近くのバス停で下車し、そこからは歩いて移動しました。今回の宿泊先は、妻がBooking.comで予約した「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」です。↓ グラナダ駅。↓ 地図で行き先を確認した。↓ 記念撮影。↓ シエラネバダ山脈。↓ 路面電車。↓ 徒歩で移動した。↓ 途中で妻が、疲れたのでバスで移動すると言い始めた。↓ 早速2人分のチケットを購入し始めた。↓ 1.6ユーロ。↓ ホテルの場所を確認する妻。↓ バスに乗車する。↓ バスを下車した。↓ バス停。↓ Booking.comで予約した宿泊所「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」の予約書類。スマホが使えなくなることがあってはいけないので、妻は必ず紙も印刷して用意している。ツインで2泊、37,652円。↓ 本日の宿泊先「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」。
2026.02.14
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)午後、マドリード・アトーチャ駅13:35発、スペイン国鉄Renfe AVLO 02136に乗車し、グラナダ駅16:52に到着しました。Antequera アンテケラ駅を過ぎて、Loja ロハ駅に停車し、終着駅のGranada グラナダ駅に着きました。35年前に私は鉄道でマドリードからグラナダに移動しましたが、その時と今回では車窓の景色が全然違う印象でした。昔は、車窓がゆっくり流れ、どこまでいってもオリーブの木が続く感じでした。同じ景色を見ていたはずなのに、昔のことがあまり思い出せませんでした。高速鉄道に変わったからかもしれません。マドリードからグラナダまで、車内のルート案内にある気温表示を見ていましたが、温度が大幅に動くのでとても興味を持ちました。コルドバ付近は30度あたりで暑いですが、グラナダは山脈地帯なので気温が下がるようです。マドリード Madrid 22度ラ・サグラ La Sagra 24度シウダード・レアル Ciudad Real 26度プエルトリャノ Puerto llano 26度コルドバ Cordoba 28度サンタエージャ Santaella 30度プエンテヘニル Puente Genil 30度アンテケラ Antequera 22度ロハ Loha 22度グラナダ Granada 22度↓ Antequera アンテケラ駅を過ぎて、Loja ロハ駅に進む。↓ Loja ロハの街。↓ 画面左側の教会 Iglesia Mayor de la Encarnación (Loja):ロハのエンカルナシオン大教会。↓ Loja ロハ駅停車。↓ 出発。↓ ヘニル川が流れる。↓ 16:28 時速95㌔ 22度Loha ロハの次はHuetor Tajar ウエトルタハルを通る。↓ コルドバからグラナダまでのルートが表示されている。↓ ピノス・プエンテ Pinos Puente。↓ グラナダ市内に入る。↓RENFE(スペイン国鉄)269形電気機関車(Cercanías塗装)。側面にたくさんのルーバー(通風口)のスリットが見える。↓ Granada グラナダ駅。↓ Renfe AVLOと記念写真。↓ Renfe Avant S104型と記念写真。↓ グラナダ駅。↓ グラナダ駅構内と妻。↓ グラナダ駅出口。
2026.02.13
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【旅行7日目】スペイン・マドリード→グラナダ2025年5月23日(金)、マドリードからグラナダまで、スペイン国鉄RenfeのAVLOに乗りました。マドリード・アトーチャ駅13:35発、グラナダ駅16:52着です。前回はマドリードからコルドバまでの車窓を紹介したので、今回はコルドバからアンテケラ近くまでを紹介します。↓ コルドバ駅を出発。↓ コルドバ近く 15:30 時速243㌔、29度。 ↓ 妻が持っていたカンロの「海苔のはさみ焼き 梅味」。↓ 小腹が空いたので、早速いただく。↓ 妻も食べる。↓ Santaella サンタエージャ付近。15:37 時速298㌔、30度。↓ Santaella サンタエージャの街。↓ サンタエージャの教会。Iglesia de Ntra. Sra. de la Asunción - Catedral de La Campiña」被昇天の聖母教会 ― ラ・カンピーニャ大聖堂。↓ コルドバからグラナダまでのルート。↓ Puente Genil プエンテヘニルに進む。 15:41 時速296㌔ 30度。↓ Puente Genil プエンテ ヘニル駅 通過。↓ Puente Genil プエンテ ヘニル駅 通過。↓ Santa Ana サンタ アナ駅通過。↓ Santa Ana サンタ アナ駅通過。↓ 線路は南から東側に大きく曲がる。この先に、Base AVE Bobadilla ANTEQUERA:ボバディージャ高速鉄道基地(アンテケーラ)がある。↓ 線路が平行する部分。↓ この線路はこの後大きく南に曲がり、セビーリャに向かう。↓ Proxima estacion: Antequera AV.次の駅はアンテケラAV (高速鉄道駅)。↓ Peña de Antequera:アンテケーラの岩山 。↓ Antequera AV NUEVA アンテケラ駅に進む。↓ Antequera AV Nueva アンテケラ駅。↓ Antequera アンテケラ駅からロハ駅へ進む。16:06 時速122㌔ 22度。↓ Archidona アルチドナのラス・グラハス洞窟。↓ Venta del Rayo ベンタ・デル・ラヨ。↓ Venta del Rayo ベンタ・デル・ラヨ↓ Loha ロハ駅に進む 16:21 時速65㌔ 22度。
2026.02.12
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【旅行7日目】スペイン・マドリード→グラナダ2025年5月23日(金)、スペイン・マドリード・アトーチャ駅で13時35分マドリード発、16時52分グラナダ着のRENFE・AVLOに乗車しました。左側の窓席から撮った、マドリードから途中のコルドバ駅までの写真を載せます。ガラトラバ(GALATRAVA)では、セントラル・シウダード・レアル空港(Aeropuerto Central Ciudad Real)の飛行機が見えました。また、プエルトリャノ(PUERTOLLANO)近くにはサンタ・アナの丘があり、炭鉱労働者の記念碑(MONUMENTO AL MINERO :モヌメント・アル・ミネロ)が見えました。作者はペペ・ノハ(PEPE NOLA)で、1983年2月26日に設置されました。プエルトリャノは炭鉱で栄えた街で、その炭鉱労働者を讃える記念碑です。↓ スペイン・マドリード・アトーチャ駅で13時35分マドリード発、16時52分グラナダ着のRENFE・AVLOに乗車。↓ アンテケラ経由グラナダ行き。↓ 13:35発。↓ アトーチャの聖母の鐘楼(Torre Campanile de Nuestra Senora de Atocha)↓ スペイン国鉄RENFEの高速鉄道保守整備工場。↓ スペイン国鉄RENFEの高速鉄道車両保守整備工場。↓ マドリードを出発した。13:43 時速137キロ 気温22度。↓ 赤いアマポーラ(ヒナゲシ)が線路のそばに続く。↓ トレド近くのLa Sagra(ラ・サグラ)を通過。14:00 時速270キロ 気温24度。↓ マドリードから終点グラナダまでの線路ルート。↓ Mora-Orgaz(モーラ・オルガス)、 Urda(ウルダ)へ進む。↓ Malagon(マラゴン)、 Ciudad Real(シウダード・レアル) を過ぎ、Galatrava(ガラトラバ)へ進む。14:27 時速270キロ 気温26度。↓ Galatrava(ガラトラバ)にあるセントラル・シウダード・レアル空港(Aeropuerto Central Ciudad Real)。↓ Puertollano(プエルトリャノ)へ進む。↓ サンタ・アナの丘。↓ Puerto llanoのサンタ・アナの丘に建つ炭鉱労働者の記念碑(Monumento al Minero : モヌメント・アル・ミネロ)ペペ・ノハ:Pepe Nola 作。1983年2月26日建立。↓ グレースの聖母教区。↓ Puerto llano プエルトリャノ駅。↓ プエルトリャノ駅に停車。↓ 駅を出発。↓ Villanueva(ビジャヌエバ)へ向かう。 14:39 時速265㌔ 気温26度。↓ プエルトリャノとコルドバの中間あたり。14:52 時速250㌔ 気温26度。↓ もうすぐコルドバ駅。14:58 時速204㌔ 気温26度。↓ 15:05 時速137㌔ 気温26度。↓ 本を読む妻。↓ コルドバ駅構内に進む。15:15 時速102㌔ 気温28度。↓ Cordoba コルドバ駅停車。
2026.02.11
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【旅行7日目】スペイン・マドリード2025年5月23日(金)、スペインアトーチャ駅で各車両の写真を撮った後、妻が予約していたスペイン国鉄RENFEのAVLOに乗車しました。13時35分出発、アンテケラ経由グラナダ行きです。グラナダには16時52分着の予定です。↓ マドリード・アトーチャ駅。↓ 列車内で飲むドリンクを妻が購入した。↓ グラナダ行き RENFE AVE 02136 乗り場3A。↓ スペイン国鉄(Renfe)の高速列車AVLO (アブロ)。↓ スペイン国鉄新幹線(右側)AVE S100型。(左側)ALVIA S120型。↓ ALVIA S120型。↓ AVE S100型。↓ AVE S100型。↓ IRYO(イリョ) ZEFIRO V300。↓ スペイン国鉄(Renfe)の高速列車AVLO (アブロ)。↓ AVROに乗車する妻。↓ アンテケラ経由グラナダ行き。(ANTEQUERA-AU GRANADA)↓ カバンを荷台に置いた。↓ 予約していた席。
2026.02.10
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【旅行7日目】スペイン・マドリード2025年5月23日(金)、市内散歩を終えて宿泊所のJQCルームズに戻り、預けていた荷物を受け取った後、地下鉄ソル駅からアトーチャ駅に移動しました。アトーチャ駅の外側には、作者アントニオ・ロペス氏が生後6か月だった孫のカルメンちゃんをモデルにした『Dia y Noche (昼と夜)』という像で、昼の部分が設置されていました。アトーチャ駅は高速鉄道の列車数の増加に対応するため、線路と構内工事を行っており、古い旧構内は熱帯植物が置いてありました。↓ JQCルームズで荷物を受け取った。↓ カバンを持ってブエルタ・デル・ソルの広場にある地下鉄ソル駅に行く。↓ ソル駅入り口。↓ 地下鉄1号線を確認する妻。↓ アトーチャ駅で下車。↓ アトーチャ地下鉄駅。↓ 13時35分マドリード発グラナダ行き Renfe AVE 02136を予約済み。↓ 荷物チェック場。↓ アトーチャ駅。↓ 作者アントニオ・ロペス氏が生後6か月だった孫のカルメンちゃんをモデルにした『Dia y Noche (昼と夜)』という像。↓ 昼の像。↓ レンタカー会社。↓ レンタカー置き場。↓ オンリーユーホテルアトーチャ。↓ アトーチャの聖母の鐘楼。Torre Campanile de Nuestra Senora de Atocha.↓ 農林水産省。↓ アトーチャ駅。↓ 工事中のアトーチャ駅。↓ アトーチャ駅構内。↓ シートの裏は熱帯植物が置いてある。↓ オープンスペース (espacio abierto)
2026.02.09
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【旅行7日目】スペイン・マドリード2025年5月23日(金)朝、マドリードの王宮付近を散策した後、マヨール広場に戻り、妻が気になっていたというイカリングの店に行く事にしました。マヨール広場近くにある「ラ・カンパナ:La Campana」という店で、イカフライサンド(ポカティーリョ・デ・カラマレス)が有名です。イカフライ、オリーブ、ジュースを頂きましたが、イカフライがとても美味しく、私は夢中で食べました。散歩をした後だったので、大満足でした。食後は、宿泊所のJQCルームズに戻りました。預けていた荷物を取ってアトーチャ駅まで移動です。↓ マヨール広場。↓ 妻が、気になっていた「ラ・カンパナ」という店に向かう。↓ 「ラ・カンパナ」を見つけた妻。↓ 店の様子を見る妻。↓ 入ることにした。↓ イカリング、オリーブ、オレンジジュース。↓ イカリング。↓ オリーブ。↓ オレンジジュース。↓ イカリングが美味しく、夢中で食べた。↓ 「ラ・カンパナ:La Campana」。↓ 2人で14ユーロだった。↓ 満足だった妻。↓ ホテルに戻る。↓ 宿泊所のJQCルームズに戻り、預けていた荷物を受け取る。
2026.02.08
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【旅行7日目】スペイン・マドリード2025年5月23日(金)朝、スペイン王宮、スペイン広場、王立劇場、マヨール広場を散策しました。一部の写真を載せます。↓ スペイン王宮。↓ 王宮とアルマス広場。↓ サバディーニ庭園。↓ サバディーニ庭園を覗く妻。↓ スペイン広場まで歩いていく。↓ スペイン広場。ドン・キホーテの作者セルバンテスのモニュメント。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像。後ろはスペインビル。↓ ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像。↓ ドン・キホーテ。↓ サンチョ・パンサ。↓ ドン・キホーテ、サンチョ・パンサ、作者のセルバンテスのモニュメント。光輝いている建物は、マドリードタワービル。↓ ドン・キホーテの作者セルバンテス像。↓ 王宮前のオリエント広場に戻る。↓ フィリッペ4世騎馬像。↓ フィリッペ4世騎馬像。↓ 王立劇場。↓ 王立劇場。↓ イザベル2世像。↓ 地下鉄オペラ駅。↓ 朝のマヨール広場へ行く。↓ マヨール広場。↓ フィリッペ3世騎馬像。
2026.02.07
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【旅行7日目】スペイン・マドリード2025年5月23日(金)朝、妻と一緒にマドリードの街を散策しました。サン・イシドロ教会などを見学し、スペイン王宮近くのアルムデナ大聖堂まで歩いた写真を一部紹介します。↓ ハシント・ベナベンテ公園(Plaza de Jacinto Benavente)にある有名な銅像。『マドリードの道路清掃人1960:Barrendero madrileno 1960)』↓ (左)テアトロ・カルデロン。(右)モラ・ホステル。↓ テアトロ・カルデロン。↓ ティルソ・デ・モリ―ナ地下鉄駅。↓ 私と妻の影。↓ スペインの有名な劇作家「ティルセ・ド・モリ―ナ:Tirso de Molina」像。代表作は「セビーリャの色事師と石の招客」で、プレイボーイの色事師ドン・ファンが、4人の美女の操を次々に奪っていくすごい話を書いた。↓ YAN KEN PON 寿司・ラーメン屋。↓ ラ・ラティーナ(LA LATINA)地下鉄駅。↓ ジム・ラ・ラティーナ。↓ サン・イシドロ中等学校。↓ サン・イシドロ教会(Coleglata de San Isidro)。最初は聖フランシスコ・ザビエルを祀るイエズス教会として17世紀に建てられたが、18世紀にイエズス会が追放された後、聖イシドロを祀る教会となった。イシドロは12世紀の農民で、井戸に落ちた子供を生き返らせたり、岩から湧き水を噴出させたり、穀物の半分を鳥にわけたのに、目的地に着いた時には穀物の量が元に戻っていたりと、奇跡を起こしたので神として祭られた。祭壇の棺の中には、聖イシドロの遺体が腐敗せずに残っているらしい。↓ 教会の入口。中を見学したが、撮影禁止とのことで撮らなかった。↓ スーパーマーケット・ディア(Dia)。↓ バスク地方の有名なブランド「エスパドリーユ」の子ども靴を見つけ、可愛いと言って写真を撮る妻。↓ 右がサン・フスト通り、左がセゴビア通り。↓ サン・ミゲル教皇座(Pontifical Basilica of Saint Michael)。↓ コルドン広場(Plaza del Cordon)。↓ 地下道の上の広場には、アーティストであるホセ・ミゲル・ウタンデ氏の「自由の門」という茶色の記念碑がある。第二次世界大戦中に多くのマドリード共和主義者がナチスの強制収容所マウントハウゼン(オーストリアのリンツ近くの石切り場)に移送され亡くなられたことを忘れないために造られた。↓ 軍事大聖堂(Cathedral Church of the Armed Forces)。↓ 1906年5月31日にマドリードで行われたスペイン国王アルフォンソ13世とヴィクトリア・エウヘニアの結婚式当日、結婚式を終えた国王夫妻の馬車が軍事大聖堂の前を通った時、無政府主義者のマテオ・モラルが建物から爆弾をパレードに向けて投げ込み、警護の兵士や観衆など約30人が亡くなり、約100人が負傷した。国王夫婦は奇跡的に無事だった。この天使が祈りをささげた碑は、爆弾テロの犠牲者追悼の記念碑。↓ 「1906年5月31日の犠牲者追悼碑(Mounmento a las Victimas del 31 de mayo de 1906)」。↓ ウセダ侯爵宮殿で、この建物は総司令官室と国務院が入っている。↓ アルメニア領事館。↓ 教皇ヨハネ・パウロ2世の記念碑。↓ スペイン王宮。↓ アルムデナ大聖堂。↓ アルムデナ大聖堂。バロック様式のカトリック大聖堂。
2026.02.06
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【旅行7日目】スペイン・マドリード2025年5月22日(木)夜、サン・ミゲル市場で食事をした後、宿泊所のJQCルームズに戻りました。マドリード最後の夜なので、荷物を整理しました。翌日5月23日(金)、宿泊所に荷物を置かせてもらい、市内観光をすることにしました。↓ サン・ミゲル市場での食事。↓ サン・ミゲル市場。↓ 日本料理店 松下。↓ マヨール広場。↓ ブエスタ・デル・ソル。↓ マドリード自治政府庁。↓ 宿泊所 JQCルームズ。↓ 朝食。↓ JQCルームズを出る。荷物は置かせてもらった。
2026.02.05
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【旅行6日目】スペイン・マドリード2025年5月22日(木)、マドリードのサン・ミゲル市場に行きました。妻は市場を見るのが大好きで、必ず中を一周し、気に入った店で注文します。私はチーズが好きなので、複数のタイプのチーズを食べました。↓ サン・ミゲル市場。↓ 料理を注文した妻。↓ 早速いただく。↓ 私はチーズが好きなので、複数のチーズを選んだ。↓ 妻が店の外から、私がチーズを食べている姿を撮った。↓ 中央が私。
2026.02.04
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【旅行6日目】スペイン・マドリード2025年5月22日(木)、セゴビアからバスでマドリードに戻り、ラス・ベンタス闘牛場があるべンタス駅から地下鉄でプエスタ・デル・ソル(太陽の門)広場のソル駅まで移動しました。プエスタ・デル・ソルから歩いてマヨール広場に行きます。広場にはフィリペ三世の銅像がありました。↓ ベンタス駅。↓ 地下鉄。↓ プエルタデルソル広場があるソル駅で下車。↓ プエルタ・デル・ソル広場。↓ カルロス三世の騎馬像。↓ マヨール広場。↓ フィリペ三世の像。↓ サン・ミゲル市場。
2026.02.03
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【旅行6日目】スペイン・セゴビア2025年5月22日(木)、セゴビア観光が終わり、バスでマドリードのラス・ペンタス闘牛場まで戻りました。車窓の様子を備忘として残しておきます。闘牛場で試合が開催されているようなので、嫁さんに見ようと提案しましたが、疲れたという事で止めました。↓ バスの集合場所まで歩く。↓ 観光バスに乗車する。↓ バスはセゴビアからマドリードに向かう。↓ タス・ペンタス闘牛場の近くで下車した。↓ ラス・ペンタス闘牛場。
2026.02.02
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【旅行6日目】スペイン・セゴビア2025年5月22日(木)、セゴビアのローマ水道橋のそばにある珍しいメリーゴーランドを見ました。”Le Manège d’Andréa” (アンドレアのメリーゴーランド)で、フランスのアート集団であるLa Machine(ラ・マシン)が制作した、芸術性の高い乗り物です。機械のクワガタ、ペガサス、ダチョウ、魚、カメレオン、海馬、船などの乗り物が動き、不思議な印象があります。1999年に誕生した集団で、現在は主に ナント(Nantes) の「機械仕掛けの島(Les Machines de l’île)」に巨大な機械の象などの乗り物が設置されていることで有名です。水道橋の西側を歩いていくと、妻が飲み物を買っておこうと言って「BURBUJA」という店に入り、ジュースを買いました。↓ ローマの水道橋と”Le Manège d’Andréa” (アンドレアのメリーゴーランド)。↓ 1999年 ”Le Manège d’Andréa” (アンドレアのメリーゴーランド)。↓ 小銭を用意して、店で飲み物を買う妻。↓ BURBUJAでジュースを購入。↓ ローマ水道橋。
2026.02.01
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