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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、セビーリャ駅から宿泊所のZAIDA BOUTIQUE HOTEL:ザイダ・ブティック・ホテルまで移動するにあたり、私は歩いていく主張したのですが、妻は猛暑で大きい荷物を持っているのだからバスに乗ると主張し、結局バス移動することにしました。バスは32番に乗車です。メトロポル・パラソルを通過し、ドゥテ・ケル・デ・ラ・ビクトリア広場:Plaza del Duque de la Victoriaで下車し、目的地のサイダ・ブティック・ホテルで荷物を置かしてもらい、観光に出かけました。サイダホテルには、ザイダの胸像が置いてありました。サイダはアルカサバのムスリムの女王で、後にカスディーリャ王アルフォンソ6世の妻となった女性です。サイダはセビーリャのイスラム王家の女性で、コルドバ太守のアブー・ナスル・アル=ファト・アル=マムーンと結婚しましたが、1091に北アフリカのアルモラビト朝が侵攻してセビーリャが陥落した時、夫は殺害され、サイダは未亡人として、キリスト教カスディーリャ王アルフォンソ6世の宮廷に保護を求めました。サイダは王と関係を結び、キリスト教に改宗して「イサベル」と名乗り、サンチョという名の息子が生まれました。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅の駅前で、一番遠いところにバス停があった。↓ 乗車賃の用意。↓ セビーリャのバス。↓ 32番のDUQUE DE LA VICTORIA行きに乗る。↓ バスの中の妻。↓ メトロポール・パラソルが見えてきた。↓ ドゥテ・ケル・デ・ラ・ビクトリア広場:Plaza del Duque de la Victoria。↓ この公園で下車。↓ EL COLTE INGRES:エル・コルテ・イングレス・ショッピングセンター。↓ バス停で降りた。↓ EL COLTE INGRES:エル・コルテ・イングレス・ショッピングセンター。↓ ジャカランダ(Jacaranda)の青い花。↓ 路地で道に迷う。↓ やっとZAIDA BOUTIQUE HOTEL:サイダ・ブティック・ホテルを見つけた妻。↓ フロントで、荷物を置かしてもらうよう交渉する妻。↓ イスラムの中庭風。↓ ZAIDA (1063-1101)Fue una princesa musulmana de la Alcazaba, que acabo confirtiendose en esposa del Rey Alfonso VI de Castilla.サイダ:彼女はアルカサバのムスリムの女王で、後にカスディーリャ王アルフォンソ6世の妻となった。サイダはセビーリャのイスラム王家の女性で、コルドバ太守のアブー・ナスル・アル=ファト・アル=マムーンと結婚しましたが、1091に北アフリカのアルモラビト朝が侵攻してセビーリャが陥落した時、夫は殺害され、サイダは未亡人として、キリスト教カスディーリャ王アルフォンソ6世の宮廷に保護を求めました。サイダは王と関係を結び、キリスト教に改宗して「イサベル」と名乗り、サンチョという名の息子が生まれました。
2026.03.31
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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、コルドバ駅からセビーリャ駅まで鉄道で移動しました。セビーリャ駅で、私はホテルまで歩くと主張したのですが、妻は暑い中を歩きたくないと言って、ホテル近くまで走るバスの路線図をチェックし、駅前広場の遠いところにあるバス停に行きました。↓ セビーリャ・サンタ・フスタ駅。↓ RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着。↓ 駅の外に進む。↓ バス停は、奥の方にある。↓ バス停に進む。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅。↓ バス停まで横断歩道を歩く。↓ 駅の端に、バス停があった。↓ 行き先と料金を確認する妻。
2026.03.30
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【旅行10日目】スペイン・コルドバ → セビーリャ2025年5月26日(月)、RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着に乗車しました。コルドバ、セビーリャ間で進行方向左側の車窓を見ていたのですが、南の水平線からいきなり輝く光が目に飛び込んできて、心底ビックリしました。昼なのに眩しく、地上に小さい太陽がある感じです。塔の上から光が発せられているようで、何の施設の光か分からず、とにかく一生懸命カメラをズームにして撮影しました。約50分の旅でしたが、半分以上はその光を追っていました。この光の施設は、「TORRESOL ENERGY GEMASOLAR :トーレソル・エナジー・ヘマソラール」と呼ばれ、集光型太陽熱発電所でした。ヘマソラールは「太陽の宝石」という意味で、2011年10月4日に開設されました。セビーリャ郊外に2569個のヘリオスタット(反射板)を用いて、高さ140メートルの中央塔に集光させて発電を行うタワー式太陽熱発電を行います。反射板は20秒ごとに向きを変え、太陽の動きに合わせて太陽光線がタワーに当たるように調整されています。出力19,900キロワットです。ーーーーーーーーーーーーー翌日の5月27日夕方、セビーリャ・サンパブロ空港からポルトガル・リスボン・ポルテラ空港まで飛行機に乗ったのですが、飛行機の機窓から、鏡を円形に並べ、その中央にあるタワーに光を集めた太陽熱発電施設を見て、前日に列車から見た施設も太陽熱発電施設だったことを理解しました。以前、テレビの番組で、アメリカの砂漠地帯にこの太陽熱発電施設があり、太陽熱を鏡で集中させるためその施設の空気が高温となり、鳥たちがその施設を通ると、一瞬のうちに焼き鳥になって即死、落下するため、問題になっているという内容を見たことを思い出しました。日本に帰って太陽エネルギー発電に関する本を読みました。「今日からモノ知りシリーズ トコトンやさしい太陽エネルギー発電の本/山﨑耕造/R&Tブックス/日刊工業新聞社」P88~89に「世界の太陽熱発電は」という記事があり、スペインの太陽熱発電についても次のように書いてあります。スペイン南部アンダルシア地方は「欧州のフライパン」と呼ばれ、特に日差しが強いことで有名です。このセビリア近郊ではタワー方式のPS10(Planta Solar 10)があり、定格11,000ワットです。642枚の反射鏡で115メートルのタワーの上部に反射光を集め、その熱で蒸気による発電を行います。2009年には、その2倍の発電量のPS20が運転を開始、165メートルのタワーを設置し、ヘリオスタット(反射板)はPS10のほぼ倍の1255枚が使われています。↓ RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着電車。↓ 乗車する妻。↓ 進行方向左側の席を予約していた。↓ コルドバ駅発車。↓ はるか遠くに、眩しく輝く光の塔が見えてきてビックリした。↓ 何の施設か分からず、夢中で写真を撮った。↓ 大げさに言うと、太陽と同じくらい眩しく見えた。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅に着く。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅。ーーーーーーーーーーーーー【ご参考】2025年5月27日(火)、スペイン・セビーリャ・サンパブロ空港からポルトガル・リスボン・ポルテラ空港まで飛行機で移動していたとき、機窓から太陽熱発電施設 PS10(PRANTA SOLA 10)、PS20(PLANTA SOLA 20) が見えた。これで前日の5月26日に列車の車窓から見た施設が太陽熱発電所だったことを理解した。↓ 二つの光の点が見える。↓ 左側がSP20,右側がSP10。↓ 左側がSP20、右側がSP10。↓ SP20。↓ SP10。
2026.03.29
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【旅行10日目】スペイン・コルドバ2025年5月26日(月)朝、イタカ・コロンホテルから徒歩でコルドバ中央駅に移動し、RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着に乗車しました。コルドバ駅の様子を撮った写真を紹介します。↓ コルドバ駅。↓ 10:27 Sevilla Santa Justa:セビーリャ・サンタフスタ駅行きに乗車する。↓ RENFE (スペイン国鉄)窓口。↓ スペインの有名な雑貨ショップ「ALE HOP: エール・ホップ」。↓ CANDY & GOスペインの有名なお菓子であるチュッパチャップスを販売する会社。↓ お土産用になるかチェックする妻。↓ 10:27 セビーリャ行き鉄道は、4番プラットフォームとの案内が出た。↓ 荷物検査を受ける。↓ 4番プラットフォームに進む。↓ RENFE 447系電車。ーーーーーーーーーーー↓ RENFE 450系電車。ーーーーーーーーーーーー↓ RENFE 130系。ーーーーーーーーーーーー↓ 4番プラットフォーム。RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着↓ RENFE 490系が到着した。↓ RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着に乗車する妻。
2026.03.28
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【旅行10日目】スペイン・コルドバ2025年5月26日(月)朝、イタカ・コロンホテルの部屋で前日購入した食材を食べ、チェックアウトしました。荷物を持ってコルドバ駅に移動したので、その時の写真を紹介します。↓ 2025年5月26日(月)朝、ホテルの部屋にて。↓ 前日に「EL CORTE INGLES : エル コルテ イングレスショッピングモール」のスーパーマーケットで購入した食材を食べる。↓ ミニクロワッサン。↓ ハム。↓ ダノンヨーグルト。↓ バナナ。↓ ミックスジュース。↓ 水。↓ 部屋から見た中庭。ーーーーーーーーーーーーー↓ イタカ・コロンホテルを出発。↓ RTVA カナル・スル・ラジオ・アンド・テレビジョン。↓ 幸運の精霊「El Genio de la Suerte」ランプの魔人が四葉のクローバーを持っており、幸運を象徴するキャラクター。↓ アグリクル・トゥーラ庭園。↓ 公立図書館。↓ ジャカランダ(Jacaranda)の青い花。↓ コルドバ駅前広場。↓ コルドバ駅。
2026.03.27
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、私がお腹を壊したので、夕食は和風にしようと妻が決め、ホテル近くの「SUSHICOLOR UN MUNDO DE SABOR Y COLOR:スシカラー・味と色の世界」に入りました。日本料理屋風ですが中華系のようで、カツ丼を注文すると、カツがとても薄く、ご飯が中華スープで満たされていました。ホテルに帰ると、持病用の薬と正露丸を飲んで寝ました。↓ コルドバのスシカラー。↓ スぺインの有名な「MAHOU : マオウビール」。マドリードの「MAHOU SAN MIGUEL : マオウ・サン・ミゲル」社の製造ビール。↓ 自動配膳機。↓ キッコーマンのマークが見える。↓ 餃子。↓ カツ丼。ご飯が中華スープで満たされている。↓ 店の外。↓ ホテルで持病用の薬と正露丸を飲んだ。
2026.03.26
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバの「EL CORTE INGLES :エル コルテ イングレス ショッピングモール」に行き、最上階にあるスーパーマーケットで妻が買い物をしました。翌朝用の食材の買い出しです。↓ コルドバの「EL CORTE INGLES :エル コルテ イングレス ショッピングモール」最上階。↓ スーパーマーケット。↓ 店内風景。↓ YATEKOMO カップヌードル。YATEKOMOはスペイン語で、「今すぐ食べられる」という意味。スペインの食品メーカー GALLINA BLANCAが販売している。GANTA UN VIAJE A JAPON : 日本旅行が当たります!↓ モンスターエナジードリンク。↓ 水。↓ ポテトチップス。↓ ヨーグルト。↓ チーズ。↓ 店内は寒いので、妻は一枚羽織った。↓ ハム。↓ レジで支払い。↓ 資生堂。一階に戻る。↓ 店の入り口。↓ 店のビル。
2026.03.25
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、イタカ・コロン・ホテル(ITACA COLON)に入り、チェックインしました。朝にホテルに寄ってカバンを預けていたので、受け取りました。一日中外が暑かったせいか、私はお腹を壊してしまい、夜はスペイン料理ではなく和風にしようという事になりました。妻はホテル近くにある日本料理屋を2件検索し、実際に「スシカラー:SUSHICOLOR」と「シブヤ:SIBUYA」という店を見に行って値段を確認し、夜はスシカラーに行こうということにしました。その後、妻の要望でEL CORTE INGLES : エル コルテ イングレス ショッピングモールに行きました。驚いたのは、スーパーマーケットコーナーがビルの最上階にあったことです。日本ならば、ビルの地下1階あたりでしょうか。ショッピングモールの1階から最上階までの店舗の様子を紹介します。↓ イタカ・コロン・ホテル(ITACA COLON)。↓ ホテル1階の通路。↓ 部屋に入る。↓ エレベータで降りる。↓ ホテルを出た。↓ 「スシカラー:SUSHICOLOR」をチェック。↓ 次に「SIBUYA:シブヤ」をチェック。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 妻の要望で、「EL CORTE INGLES : エル コルテ イングレス ショッピングモール」に行った。スーパーマーケットが最上階にあり、エスカレーターで上がりながら、各フロアを見た。
2026.03.24
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、ローマ橋を往復した後、グアダルキビル川のそばにあるアルカサル(城)に行くと、日曜日は14時45分までで閉館になっており、残念ながらアルカサルは見られませんでした。将来、再びコルドバに行く事があれば、アルカサルを見たいと思います。ホテルでチェックインができる時間になっているので、ホテルに戻ることにしました。途中の風景写真も載せます。↓ アルカサル(城):ALCAZAR ・ライオンの門:PUERTA DE LOS LEONES.日曜日は14時45分で閉館となっていたため、中を見られなかった。↓ 日向ぼっこをする鳩。↓ キリスト教の王たちのアルカサル:ALCAZAR DE LOS REYES CRISTIANOS.↓ キリスト教の王たちのアルカサル:ALCAZAR DE LOS REYES CRISTIANOS.↓ 記念写真。 コルドバ訪問(VISITANDO CORDOBA) ↓ 川そばを進む馬車。↓ 大天使ラファエルの凱旋記念碑。↓ ラファエル像。↓ ギターの弾き語り。妻が熱心に聴いていた。↓ ホテルの方に進んでいく。↓ 暑いので、妻はタオルを頭に置いて、日陰を選んで歩いた。↓ バロソ通り。↓ サン・ファン教会(Iglesia de san Juan)。↓ エドゥアルド・ルセナ・バジェホ記念碑。(EDUARDO LUCENA VALLFEJO)1849年1月22日にコルドバで生まれた作曲家。↓ サン・ニコラス・デ・ラ・ビシャ教会(Iglesia de San Nicolas de la villa)↓ トラマス TRAMAS店。↓ アントニオ・ガラと彫刻家セサール・オリコ。(Antonio Gala de Cesar Orrico)アントニオ・ガラは、スペインを代表する詩人・劇作家・小説家・ジャーナリスト。1936年生まれでコルドバ出身。2002年に若い芸術家を支援するため、アントニオ・ガラ財団を設立した。↓ アントニオ・ガラ。↓ サン・ヒポリト文化センター:CENTRO CULTURAL SAN HIPOLITO.
2026.03.23
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、市内を流れるグアダルキビル川に架かるローマ橋(Puente Romano de Cordoba)を渡り、ローマ橋を守るために築かれたカラオーラの塔を見て、そばの公園で休憩しました。ローマ橋は紀元前1世紀に古代ローマ人により造られました。長さ280m、幅9メートルで、16個のアーチで構成されています。橋げたの先端は「カットウォーター」と呼ばれる三角形の角があり、水流の圧力を分散する構造になっています。橋の下流には、昔水車により使われていたレンガ造りの製粉所が残っていました。カラオーラの塔は、13世紀にイスラム王朝、ムワッヒド朝によって建てられましたが、14世紀にキリスト教のカスティーリャ王により、現在の形に増築されました。カラオーラの塔の中にあるアル・アンダルス博物館を見ようと思いましたが、妻が疲れたというので見るのは止めました。↓ コルドバ教区図書館:Diocesan library of Cordobaと、グアダルキビル川。↓ ローマ橋とグアダルキビル川。↓ グアダルキビル川。↓ ローマ橋とメスキータ。記念写真。↓ 製粉所:Molino de Enmedio。↓ 大天使サン・ラファエルの像。ローマ橋の中間に設置してある。↓ カラオーラの塔。13世紀にイスラム王朝、ムワッヒド朝によって建てられたが、14世紀にキリスト教のカスティーリャ王により、現在の形に増築された。カラオーラの塔の中にあるアル・アンダルス博物館を見ようと思ったが、妻が疲れたというので見るのは止めた。↓ 製粉所。↓ 橋脚にカットウォーターという水流を分散する形になっている。↓ ローマ橋とメスキータ。↓ メスキータ。↓ 対岸の広場で休憩する妻。気温35度。↓ この水車でグアダルキビル川の水をくみ上げ、宮殿に運んでいた。↓ 橋の門(プエルタ・デル・プエンテ)。↓ メスキータ。↓ 記念写真。↓ コルドバの有名なパティオ祭り。
2026.03.22
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、気温35度の暑い中、コルドバの町を散策しました。メスキータ近くのトリホス通りを歩き、「Roman Catholic Diocese of Cordoba : ローマカトリック・スペイン・コルドバ司教区」の中庭を格子越しに見ました。サン・ラファエルの凱旋記念碑、プエルタ・デル・プエンテ(橋の門)も見たので、紹介します。サン・ラファエルの凱旋(プエルタ・デル・プエンテ)コルドバの守護天使である大天使サン・ラファエルに捧げられた記念碑。17世紀に激しいペストの流行に見舞われた時代、聖ラファエルがアンドレス・デ・ラス・ロエラス神父の夢の中に現れ、コルドバを疫病から救うと伝えた。その後疫病が収まり始めると、大天使ラファエルの幻影が街中を駆け巡り、それ以降はコルドバの永遠の守護者に任命された。数年後、この記念碑が建て始められた。プエルタ・デル・プエンテ:Puerta del Puente(橋の門)16世紀にフィリップ2世の訪問を記念して建てられた。↓ メスキータの方向に歩く。↓ メスキータのミナレットと呼ばれる鐘楼。↓ メスキータそばのトリホス通りを歩く。ーーーーーーーーーーーーー↓「Roman Catholic Diocese of Cordoba : ローマカトリック・スペイン・コルドバ司教区」の中に入る。↓ 中庭の様子。↓ メスキータ。↓ メスキータ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ サン・ラファエルの凱旋(プエルタ・デル・プエンテ)コルドバの守護天使である大天使サン・ラファエルに捧げられた記念碑。17世紀に激しいペストの流行に見舞われた時代、聖ラファエルがアンドレス・デ・ラス・ロエラス神父の夢の中に現れ、コルドバを疫病から救うと伝えた。その後疫病が収まり始めると、大天使ラファエルの幻影が街中を駆け巡り、それ以降はコルドバの永遠の守護者に任命された。数年後、この記念碑が建て始められた。↓ 聖ラファエル。↓ プエルタ・デル・プエンテ:Puerta del Puente(橋の門)16世紀にフィリップ2世の訪問を記念して建てられた。
2026.03.21
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、妻と一緒にコルドバ市内を歩いていましたが、気温35度でとても暑く、レストランを探すのも面倒になりました。妻が自動販売機コーナを見つけ、そこで水とポテトチップスを買い、休憩しました。その先の広場には、「LA ABUEⅬA PLACERES GOURMET:グルメばあちゃん」というアイスクリーム屋があり、そこでアイスを買って食べました。↓ 自動販売機コーナを妻が見つけた。↓ 自動販売機。↓ 水とポテトチップスを購入した。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 近くの広場にあったアイスの店「「LA ABUEⅬA PLACERES GOURMET:グルメばあちゃん」。↓ アイスを選ぶ妻。↓ 気温35度。
2026.03.20
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバの「カサ アンダルシ:CASA ANDALUSI」を見学した後、ビクトリア庭園の方に進みました。気温が35度くらいになっていたので、妻はベンチに座って休憩していました。哲学者セネカの像が庭園にありました。(1965年建立)セネカは紀元前4世紀にコルドバで生まれ、ローマに移り住みました。ストア派の哲学者で、皇帝ネロの教師をしましたが、ネロは陰謀の罪でセネカを告発し、65年に自殺に追い込みました。「クロニック世界全史/講談社」P155皇帝ネロ、自殺を命じる。セネカやペトロニウスが死の旅へ。65年ローマ。皇帝ネロは、この歳に発覚した元老院議員ピソーを首謀者とする陰謀事件以降、多くの有力者を疑い、自殺を命じた。犠牲者の中にはネロの家庭教師セネカ、風刺小説作家のペトロニウスもいた。セネカは属州ヒスパニア出身の元老院議員。皇族女性との醜聞で配流されたが皇后アグリッピナによび戻され、ネロの家庭教師に任命された。そして、ネロの治世初期の善政の立役者の1人となったが、アグリッピナの暗殺後(ネロは皇后を暗殺していた)に引退していた。ストア派の哲学者でもあった彼は、手首の血管を切開し、著作の口述をしつつ亡くなった。↓ カサ アンダルシ:CASA ANDALUSI。↓ アルモドバル門。↓ 左側は城壁。右側は心臓外科病院。↓ 心臓外科病院。↓ 城壁。↓ ビクトリア庭園。↓ 気温が35度で高いので、ベンチで休憩する妻。↓ セネカ像。(コルドバ出身の哲学者で元老院議員。ローマ皇帝ネロの家庭教師をしたが、ネロに自殺を命じられて死ぬ)↓ サン・ロケ教会 IGLESIA DE SAN ROQUE。
2026.03.19
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバのシナゴーグを見た後、近くにある「カサ・アンダルシ:Casa Andalusi」を見学しました。ユダヤ人街の一角に、12世紀のイスラム風邸宅が再現されています。中央にパティオ(中庭)があり、中には紙博物館が併設され、イスラムの製紙文化を知ることができます。建物には地下室がありました。私が一番興味を持ったのは、大きな地球儀です。いつの時代に造られたものか分からないのですが、地中海近辺の都市名、国名が記載され、その時代の人たちの世界観が想像でき、見ていてとても楽しかったです。↓ 「カサ・アンダルシ:Casa Andalusi」。↓ 室内。↓ 部屋に置いてある大きな地球儀。ヨーロッパ、アフリカ大陸、大西洋を越えて南北アメリカ大陸が描かれている。↓ ヨーロッパ、アフリカ大陸。↓ イベリア半島。【詳細】↓ 「アフリカ:AFRICA」。ダチョウの絵が描いてある。↓ アフリカ大陸に、ラクダの絵が描いてある。緑の樹の絵は、アフリカのアカシアかも。↓ 船、トビウオ、魚、サメ。下の半島の付け根の町は、チュニジアの首都チュニスだと思う。↓ 中央は地中海。下半分のアフリカ大陸には、「FEZ:フェス:モロッコの都市」、「MELILLA:メリリャ:スペインの海外都市」上半分のイベリア半島には、「CORDOBA:コルドバ」の文字が見える。↓ イベリア半島だが、左端から「CORDOBA:コルドバ」、「AL ANDALUS:アル=アンダルス:イスラム世界ではイベリア半島をアル=アンダルスと呼んでおり、スペイン南部のアンダルシアの語源となった」、「XAFIVA:シャディバ」。画面右端の文字がはっきり分からず、どの都市なのか不明。地中海のイルカの絵が可愛い。↓ 中央の縦に並ぶ2つの島は、コルシカ島(フランス)とサルディーニャ島(イタリア)。画面左の3つの島は、スペインのメノルカ島、マヨルカ島、イビサ島。↓ 「FRANCIA:フランス」。城の絵が沢山描かれている。↓ 「SUIZA:スイス」。↓ 「HOLANDA:オランダ」、「ALEMANIA:アレマニア:ドイツ」。海峡の向こうはイギリス。↓ イタリア半島(ブーツの形)。奥はアドリア海。↓ 中央は巨大に描かれたシチリア島。シチリア島の下は、マルタ島やペラージェ諸島。シチリア島の上は、ナポリ湾近くのプローチダ島、イスキア島、ボンツィアーネ諸島など。↓ ギリシャ。白い建物が並んでいるのは、アテネ付近かと想像する。奥はエーゲ海の島々。↓ コルドバの絵図。↓ 地下室へ行く。
2026.03.18
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバのユダヤ人街にある「花の小径」を見た後、 市営クラフトマーケットZOCO MUNICIPALの中庭を見たり、ユダヤ人街にあるユダヤ教会「シナゴーグ」を見学しました。↓ 「CÓRDOBA AL CÉLEBRE OCULISTA MOHAMED AL‑GAFEOUL」記念碑。「コルドバより、著名な眼科医モハメド・アル=ガフェキへ」12世紀の眼科医で、白内障手術を手がけ、「眼科医の手引き:Guide for the Oculist」という医学書を書いた。1165年に亡くなったが、没後800年の1965年にコルドバ市が胸像を建立した。↓ ZOCO MUNICIPAL :市営クラフトマーケットMERCADO DE ARTESANIA - MARKET OF CRAFTS.↓ Las Bulas :ブラス氏の住宅だった。今は革製品などを作る職人たちの店が入っている。↓ ユダヤ人街の迷路のような道を進む。↓ シナゴーグ:Sinagoga(1315年に造られたユダヤ教教会)Junta de Andalucía:アンダルシア州政府管轄。↓ 天井。↓ 祈りの部屋。↓ 白い漆喰細工で、イスラム建築の影響を受けたアラベスク模様となっている。↓ シナゴーグ入口2階は、女性用バルコニー。↓ 東壁にある祭壇中央には、7枝燭台(メノーラ)が置かれている。イスラエルの国家紋章は、7枝燭台の周りにオリーブの枝を配している。旧約聖書「出エジプト記」25章で、神がモーゼに純金の七枝燭台を造るように命じた事が始まりとされており、シナゴーグの祭壇には、かならず7枝燭台の火をともさねばならない。↓ 中央が7枝燭台(メノーラ)。
2026.03.17
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバのメスキータを見た後、妻がコルドバで一番見たかったという「花の小径:Calleja de las Flores」に行きました。小径の白壁には花の小鉢が飾られており、路地は観光客で一杯でした。メスキータを観光する前に花の小径に行っておけば人が少なかったはずと後悔しましたが、記録として妻の記念写真を撮りました。↓ コルドバのメスキータ。↓ ミナレットと呼ばれるメスキータの尖塔。↓ メスキータの敷地を出る。↓ 出入口。↓ ベラスケス・ボスコ通りを「花の小径」の方向に進む。↓「El Abanico:エル・アバニコ」というレストラン看板の路地を右に曲がる。↓ 白壁に「花の小径:Calleja de las Flores」のプレートがある。↓ 花の小径。幅1メートル、長さ20メートル。↓ 小径の奥の広場は観光客がいっぱいで、みんな記念写真を撮っており、順番待ち。↓ 花の小径とメスキータの尖塔。↓ 妻はこの花の小径を見ることを、本当に楽しみにしていた。↓ 「コルドバの皮の専門店」と書いてある。↓ ブーゲンビリア。↓ ジャカランダの花。↓ ブーゲンビリア。↓ TETERIA PETRA : テテリア「ハラル」ペトラ。アラビア料理店。↓ ミゲル・デル・モラル・ゴメス広場。(Plaza Pintor Miguel Del Moral Gomez)↓ レストラン・El Burlaero。
2026.03.16
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバで一番の観光名所「メスキータ」の入場券を受付で購入し、中を見学しました。後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラーフマン1世は、コルドバを首都と定め、785年にふさわしいモスク(イスラム教の礼拝堂)を造り始めました。そして25,000人を収容する巨大なモスクができました。929年に即位したアブド・アッラフマーン3世の時代に全盛期を迎え、当時のコルドバの人口は50万人、町には300ものモスクが建てられ、東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルと競いました。その後、レコンキスタ(国土回復運動)により、コルドバがキリスト教の国になると、カルロス5世によりモスクの一部にカテドラルに改造されてしまい、1000本以上あったメスキータ内の柱が、今では850本に減っています。【スペインとコルドバの歴史】「スペイン謎解き散歩/西川和子/中経文庫/KADOKAWA」P24~28を参考として下記記載。紀元前3世紀頃、ローマはイベリア半島に属州ヒスパニアを置いたことから、国名はイスパニアとなり、スペインとなった。コルドバ市内には、ローマ神殿跡やグアダルキビル川に架かるローマ橋がある。375年に西ゴート族がローマ帝国内に入ってきた。「ゲルマン民族の大移動」である。5世紀初めにはイベリア半島に西ゴート王国が建国され、宗教はカトリックだった。ところが711年、ジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒が侵攻し、西ゴート王国は滅亡する。半島に入ったイスラム教徒は、わずか7年ほとの間に、イベリア半島の2/3を制圧した。キリスト教側の西ゴート貴族のペラヨは、イスラム側が要求する税金の支払いを拒否し、722年のコバドンガの戦いでイスラムに勝利した。これがレコンキスタ(国土回復運動)の始まりだった。このレコンキスタは、1492年にグラナダ王国が陥落することで終わりを告げ、780年をかけて、スペインは再びキリスト教国家となった。711年にイベリア半島に入ってきたイスラムは、ウマイヤ朝に仕えるベルベル人だった。その侵攻が成功するのを見て翌年本格的にイスラムの侵攻となる。ウマイヤ朝はアッパース朝に敗れ滅亡する(750年)が、アブド・アッラフマーン1世が、ウマイヤ朝の残った部族を集めて後ウマイヤ朝(756年から1031年)を、コルドバに建国した。その後、約100年ずつくらい、ムラービト朝とムワッヒド朝がスペインを支配するが、1250年頃からは、イベリア半島に残るイスラム国家は、ナスル朝グラナダ王国だけとなる。この王国は意外と長らえ、約260年間、スペインに存在した。このグラナダ王国を滅ぼしたのが、有名なイサベル女王とフェルナンド王である。2人が結婚して23年後の1492年にグラナダ王国は陥落し、この年をもって、レコンキスタは完了したと言われる。そして、これを記念して、時のローマ教皇アレハンドロ6世より、イサベルとフェルナンドに「カトリック両王」という称号が贈られた。↓ ミナレットと呼ばれる鐘楼。↓ ジャカランダの花。↓ コルドバの赦しの門。↓ オレンジの木が植えられている中庭。↓ 昔イスラム教徒が沐浴で身を清めた場所に、噴水が造られている。↓ メスキータの入場券を購入した。↓ 入口。↓ メスキータの内部。イスラム教の部分。【プロの添乗員と行く スペイン世界遺産と歴史の旅 増補改訂版/武村陽子/彩図社】p146内部はたくさんの二重アーチが柱で支えられている。柱やアーチを木とすればここはまさに森のようだ。「柱は石が使われていますが、そのまま天井を張ると低すぎるので二重アーチで支えることで天井を高くすることができました。二重アーチは、セゴビアのローマ水道橋からヒントを得ています。この赤と白のアーチですが、赤の部分はレンガで、白の部分は石でできています。つまり、軽いレンガと重い石とを交互にはめることにより、バランスを保っています」↓ キリスト教の部分。↓ クロニック世界全史/講談社後ウマイヤ朝に新カリフ誕生アッラフマーン3世がコルドバで宣言。929年1月16日、スペイン。後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がカリフを宣言し、コルドバのイスラム国が独立したカリフ国であることを表明した。~ コルドバを首都とするこの王朝は、全土で人口50万人以上を擁し、3000以上のモスクと300の浴場を数えた。またコルドバのメスキータを増築し、その郊外にあるメディナ・アッサハラ(輝く町の意味)に新しい宮殿を建造した。さらに国内体制の整備にも努め、毎週金曜日には、カリフみずからが壮麗な礼拝を司式し、彼の名を刻んだ貨幣を鋳造・発行し、臣下の生殺与奪の権利を握った。後ウマイヤ朝は、カリフの称号を得たアッラフマーン3世のもとで黄金時代を迎えるが、11世紀に入ると早くも内紛が起き、小王国に分裂。1031年には滅亡する。↓ コルドバはローマ人が建設した都市だが、アッラフマーン3世の治世下に後ウマイヤ朝の経済的、文化的中心地として最大の繁栄をみた。
2026.03.15
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバの路地を歩きながらメスキータを目指し、テンディーリャス広場を通りました。途中にあったサンタ・アナ修道院教会(Iglesia Conventual de Santa Ana)では、教会正面の壁の窪みで鳩が交尾をしてたので写真を撮りました。↓ 路地で見かけたブーゲンビリア。↓ コンテ・デ・トレス・カブレラ通りにある住宅。↓ COLEGIO DIVINA PASTRA 特別認可学校。↓ 伝説的な天才闘牛士の愛称マノレーテ(Manolete)として大変有名な、マヌエル・ロドリゲス・サンチェス(Manuel Rodriguez Sanchez Manolete) の生家。マヌエル・ロドリゲスは1917年7月4日にコルドバのこの地で生まれた。20世紀で最も偉大な闘牛士の一人とされ、牛に対して垂直に立つスタイルは現代の闘牛にも大きな影響を与えた。「コルドバの第4のカリフ(王)」との異名を持つ。1947年、リナーレスの闘牛場の試合中、牛(イスレロ号)の角に突かれ、30歳の若さで亡くなった。↓ コンテ・デ・トレス・カブレラ通り。↓ サン・ラファエル修道院(Convento de San Rafael)。↓ カプチナス広場(Plaza de Capuchinas)。↓ カプチナス広場にあるホシウス司教像。↓ ホシウス司教像。コルドバのホシウス司教は、コンスタンティヌス帝の顧問で、325年のニカイヤ公会議で重要な役割を果たした。↓ クロニック世界全史/講談社p186ニカイヤ公会議が開催される。アリウス派が異端となる。325年5月20日、トルコ。皇帝コンスタンティヌス1世は、キリストは神であるかどうかという問題で分裂が生じた宗教界を統一するため、ニカエアの公会議(世界宗教会議)で、キリストを神にもっとも近い人であるとするアリウス派を異端として追放した。コンスタンティヌスは、みずからの神聖な権威を示すため紫衣をまとい、公会議にのぞんだ。全ローマ帝国の市況を招集し、荒れ狂う暴力的な論争を鎮めようとしたのである。キリストが神であるかどうかの論争は、アレクサンドリアの司祭アリウスがキリストが神の子であるならば、子であるかぎりは父なる神より劣るものだと主張し、それに同調する者、反対する者がつぎつぎに現れ、この議論が帝国全体のキリスト教会に広まり、分裂の危機を生じさせた。~とにかく反アリウスという点で一致した信条をまとめあげてしまう。生まれた子は、父なる神と同じ本質をもつというのである。この結論をコンスタンティヌスは支持し、アリウス自身と結論に反対する司教を追放した。↓ ニカエア公会議。↓ テンディーリャス広場。↓ エル・グレン・カピタン像(el Gran Capitan)。スペイン王国の将軍ゴンザロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(Gonzalo Fernandez de Cordoba, 1453年9月1日~1515年12月2日)の像。イサベル王女につかえ、グラナダの戦いで名を成した。1492年、イスラム王国であったアルハンブラ城開城の際は、グラナダ側と協定を結ぶ使者の一人となった。1494年からのイタリア戦争でスペイン軍の司令官として選ばれた。1495年5月にはフランス軍とイタリア南部のセミナラで戦った(セミナラの戦い)が、初めて戦いに負けてしまった。そして同年10月、フォルノヴォの戦いでフランス軍を破り、フランス軍をイタリアから撤退させた。ゴンザロはギリシャへ遠征し、オスマン帝国からケファロニアを奪い取り、1498年にスペインへ戻るとエル・グレン・カピタンの称号を与えられた。1499年にフランス軍が再びイタリアへ侵攻して、第二次イタリア戦争が始まった。ゴンザロはスペイン軍司令官に選ばれ、1503年にチェリニョーラの戦いでフランス軍に勝った。↓ クロニック世界全史/講談社 P394スペインがフランスからナポリ王国を奪回。地中海進出の拠点に。1504年1月、イタリア。ヨーロッパ列強の抗争の焦点となっていたイタリアで、スペイン軍がフランス軍を破り、ナポリ王国を奪回した。スペインにとってフランスは、ピレネー山脈をはさむ国境をめぐる長年の敵だった。加えて、グラナダ・イスラム王国を征服し、レコンキスタ(国土回復運動)を完了したばかりのスペインには、余勢をかって積極的対外政策にのりだす機運があった。この戦争の結果、スペインのフェルナンド5世がナポリ王に即位し、ナポリはスペイン帝国の版図に組み込まれる。スペインは、アメリカ大陸という西への拡大とともに、イタリアという東への拡大にも成功し、大帝国建設への道を歩んでいく。↓ 「 Ave Fénix de Charles René」フランス人彫刻家シャルル・ルネ・ド・サン=マルソー(Charles René de Paul de Saint‑Marceux, 1845–1915)が制作した“フェニックス(不死鳥)”の彫像。↓ アンダルシア自治権のモニュメント。1977年12月4日、アンダルシアではスペイン全土で進む民主化の中、200万人以上が自治権の最大化を求めて街頭に立ち、アンダルシアの象徴である「城と緑の旗(アンダルシア旗)を掲げた。↓ Teatro Góngora:ゴンゴラ劇場。↓ ファウスティーノ・プリエト・ハムズ(ハム屋さんの前に置いてあるブタ像)↓ CONSERVATORIO SUPERIOR DE MUSICA "RAFAEL OROZCO"スーパー・ミュージック・カウンシル ”ラファエル・オロスコ”。↓ サンタ・アナ・修道院:Iglesia Conventual de Santa Ana。↓ サンタ・アナ・修道院の正面の壁の窪みに、2羽の鳩がいた。↓ 鳩が交尾をしようとした。↓ 交尾中。↓ 交尾が終了し、雄バトが飛んでいく。↓ 残ったメス。↓ ヴィンコルサ展示ホール。↓ ジャカランダ(Jacaranda)の花。↓ フェルナンデス・デ・メサ宮殿(Palacio de los Fernandez de Mesa)。ラス・ケマダス伯爵の住居だった。↓ メスキータの鐘楼が見えてきた。↓ 鐘楼。↓ メスキータと鐘楼。
2026.03.14
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、ホテルの受付の方が、観光地図に見るべき場所をマークしたので、その地図を頼りに進みました。最初のマークは、リンコン門塔の広場にある「La Regadora (ラ・レガドラ):じょうろ」という像でした。白い壁に、青い鉢、赤い花、美しい女性像で構成されており、女性が長い柄のじょうろを使い、鉢の花に水をやっています。白壁の右下のプレートに「UNESCO:ユネスコ」の記載があります。調べてみると、コルドバの伝統行事である「パティオ祭り」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたので、そのオマージュとして作られたそうです。作者:ホセ・マヌエル・ベルモンテ(Jose Manuel Belmonte)銅像:ブロンズ、約1.9m 場所:プエルタ・デル・リンコン(Puerta del RIncon)「パティオ祭り(Fiesta de los Patios)」は、毎年5月にコルドバで開催される、私邸の美しい中庭(パティオ)を一般公開する祭りで、2012年にユネスコ無形文化財に登録されました。私の妻は絶対に「パティオ祭り」を見たいと言ってスケジュールを考えていたのですが、祭りが5月上旬だけのため、今回は祭りの後に行く事になり、とても残念がっていました。スペイン在住のHさんに話すと、お嬢さんがパティオ祭りに行ったという事で、美しい庭と花が映った映像を見せていただきました。そして、このブロンズ像は3部作で、残りの2つは別の所にあるそうです。2つ目は「El Abuelo y el Nino」(祖父と少年)」で、祖父がバケツも持って、少年が椅子に上って水をやる姿です。3つ目は「La abuela(おばあさんの像)」で、花を抱えたおばあさんが、パティオの花飾りを準備する姿です。ーーーーーーーーーーーーー↓ リンコン門塔の広場にある「La Regadora (ラ・レガドラ):じょうろ」という像。コルドバの伝統行事である「パティオ祭り」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたので、そのオマージュとして作られた。女性が長い柄のじょうろを使い、鉢の花に水をやっている。↓ コルドバ・パティオ。ユネスコ無形文化財。↓ 1つ目の像。「La Regadora (ラ・レガドラ):じょうろ」。↓ 2つ目の像。「El Abuelo y el Nino」(祖父と少年)」で、祖父がバケツも持って、少年が椅子に上って水をやる姿。↓ 3つ目の像。「La abuela(おばあさんの像)」で、花を抱えたおばあさんが、パティオの花飾りを準備する姿。↓ プエルタ・デル・リンコン通り。↓ ヴィヴァ・デ・アル・アンダルス図書館(Biblioteca Viva De al-andalus)。↓ ブーゲンビリア。↓ カプチーノス広場の「ランタンのキリスト像」。
2026.03.13
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、スペインのグラナダから鉄道でコルドバに移動しました。イタカ・コロン・ホテル(ITACA COLON)でチェックインし、受付の男性に観光ポイントを地図に書いて教えていただいたので、そのルートを進むことにしました。ホテルからコロン広場のメルセー庭園、そしてリンコン門塔へ歩きます。↓ イタカ・コロン・ホテルの受付の男性が、観光地図に行くべき場所を書いてくれた。それを見ながら進む妻。↓ EL Corte Ingles :エル コルテ イングレス ショッピングモール。↓ キューブの噴水。↓ コロン広場。↓ コルドバビアナ宮殿(コルドバ州庁舎)。↓ メルセー庭園入口。↓ メルセー庭園内を歩く。↓ 噴水。↓ コロン公立学校。↓ コロン広場の階段噴水。↓ ドン・クリストファー・コロン・ビル(コロンブスビル)。↓ リンコン門塔。イスラム軍事建築で、中世の城壁の遺構。塔の横の建物の城壁に、ラ・レガオラ:La regaoraの像がある。↓ ラ・レガオラ:La regaoraパティオの花に水をやる女性の像。ホテルの窓口の男性は、この像を見せたかったのだ。
2026.03.12
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、グラナダ駅6:25発 Renfe AVANT 08475 に乗車して、コルドバ中央駅に8:10に到着しました。その後、妻が予約していたホテル・コロン(Hotel Colon)に向かいました。↓ コルドバ駅8時10分着。↓ スイス企業のMATISA(マティサ)。線路保守車両。↓ Renfe AVANT S-104系。↓ コルドバ駅構内。↓ コルドバ駅。↓ コルドバ公立図書館。↓ アグリクルトゥーラ庭園。↓ ジャカランダ(Jacaranda) の花。↓ ジャカランダの木。↓ リベルタ―通り。↓ アルアケンⅡ通り。↓ ホテル・コロン(Hotel Colon)。
2026.03.11
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【旅行9日目】スペイン・アンテケラ→コルドバ2025年5月25日(日)、グラナダ発6:25 → コルドバ8:10着のRENFE AVANT 08475 S104系に乗車しました。途中のアンテケラ サンタ アナ駅からプエントヘニル駅を通り、コルドバ駅までの車窓写真を備忘で載せます。車内で妻がスマホの位置情報を確認していたのですが、途中からコルドバ駅ではなくセビーリャ駅への方向が画面に示され、もしかして電車を間違えたのではないかと心配しました。ところが、コルドバ駅近くになると、画面の位置が急にコルドバに動き、一安心です。↓ アンテケラ サンタ アナ駅↓ 風力発電。↓ Estepa:エステパのサン・クリストバル丘。↓ Estepa:エステパ。↓ プエントヘニル駅。↓ トイレ。↓ アルモドヴァル城:Castillo de Almodóvar。↓ アルモドヴァル・デル・リオ:Almodóvar del Río。↓ コルドバ駅。
2026.03.10
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【旅行9日目】スペイン・グラナダ→アンテケラ2025年5月25日(日)、グラナダ駅6:25発 コルドバ経由 セビリア行き RENFE AVANT 08475 S104系に乗車し、コルドバを目指します。グラナダ駅、ロハ駅、アンテケラ Antequera AV NUEVA駅、アンテケラ サンタ・アナ Antequera Santa Ana駅までの車窓風景を紹介します。それから、「アルハンブラ物語/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」の中で、各地に触れている部分も併せて紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【グラナダ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P71~72。この男は、公証人だと名乗り、グラナダ中が自分のポケットの中のようなものだ、と言った。「そりゃもう、旦那様方! 素晴らしい都ですよ、グラナダは。街もよし、広場もよし、宮殿もよし、おまけに女もよし ーいやほんと、サンタ・マリヤ・プリシマ(いとも聖らかなサンタ・マリヤに誓って)、ー女も極上でして!」「そりゃ、結構だけど」と、わたし。「宿もよし、て具合にいくんだろうかね?」「いうまでもありません。本当ですとも、サンタ・マリアに! グラナダ一のポサダ(宿)ですよ。大きな客間に、豪華な寝台、ふかふかの羽根布団 ー本当に、旦那様方、アルハンブラのチコ王のように、ご馳走づくめとあいなります」「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P404~406。日没近く、道が大きく屈曲して、いよいよ山道に入るところまできた。私は場所を降り、これを最後と、グラナダを振り返った。わたしのたつ峠から、グラナダの都とベガ(沃野)、それをぐるりと取り囲む山やまの壮麗な姿が、見渡せた。この峠のちょうど真向かいが、「モーロ人最後のため息」の名で有名な、あの「涙の丘」だ。哀れなボアブディルが、立ち去らねばならない楽園に最後の別れを告げ、行く手に待ち受けている、険しい、草木の蔭ひとつない旅路に対面したときの悲痛を、この時ほど身近に感じたことはなかった。落日が、アルハンブラの朱い塔群を、いつもあの憂愁の目映い光で染め上げていた。目を凝らすと、楽しい数知れない夢想に時を忘れた、あの「コマレスの塔」のバルコニーの窓が、どうにか識別できた。都を取り囲むように青あおと繁る森や庭園が、落日の光を受けて黄金に輝き、と見る間に、夏の夕暮れの赤紫色の靄(もや)が、ベガ(沃野)一帯にどんどん立ち込めてきた。何もかもがいとおしく、立ち去る者の眼には、哀切きわまりなかった。「世にも美しいこの景観から急いで身を引かねば」と、わたしは思った。「日が沈んでしまわないうちに。いま、ことごとく美をまとったこの世界を形見に連れて行くのだ」この思いを胸に、わたしは山の中へと突き進んだ。グラナダも、ベガ(沃野)も、アルハンブラも、たちまち視界の外へ消えてしまった。↓ グラナダ駅。↓ グラナダ駅6:25発 コルドバ経由 セビリア行き RENFE AVANT 08475 S104系。↓ 出発した。↓ カバンを置いた。(切符を購入するときに、荷物置きも予約した)↓ 妻は「地球の歩き方」で、次の目的地コルドバの部分を読んでいる。↓ ロハ(Loja)駅。↓ ロハ(Loja)駅。【ロハ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P56~57。午後、わたしたちは、グラナダへぬける要路の一本で、かつて、フェルナンド王がグラナダ征戦の軍を突き進めたことから「王の峠:プエルト・デル・レイ」と呼ばれている、険しい、岩だらけの隘路をひたすら辿った。日没近く、ひとつの丘を迂回し終えると、ローハの城塞(アルカサル)が、眼前に姿を現した。フェルナンド軍を撃退した、あの名高い砦だ。「ローハ」とは、アラビア語で「監視者」の意である。ここは、かつて、グラナダ王国の国境を固め、肥沃なベガ(沃野)への侵入を阻止する、前線基地のひとつだった。ローハを守護する城将が、ボアブディル王の義父で、勇猛を謳われたあの歴戦の老将、アリ・アタルだった。そして、ボアブディル王が、グラナダ軍を結集して、攻略戦に打って出たのも、このローハからである。あの悲惨きわまりない激戦の結果、老将アリ・アタルは戦死を遂げ、ボアブディル自身も囚われの身となった。山岳道の要衝に位置し、いわばグラナダの門に当たるローハは、その地勢上の重要性から、グラナダの鍵、とまで言われたのも、無理からぬことなのだ。【アルチドーナ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P47~48。午前中に、3つの頂のある山が塔のように背後に聳える、高い丘陵の胸部に築かれた、かつてのモーロの要塞の町、アルチドーナを超えた。アルチドーナに至るには、「平原の王者通り:カリエ・レアル・デル・リャノ」と粋な名前が冠された、急傾斜の、岩だらけの道を、難儀に難儀を重ねて、よじ登らねばならなかった。何度も息が切れ、ため息が出た。しかし、難儀といっても、この山岳の町の反対側に待ち受けていた下り道の厳しさに比べれば、まだましだったのだが。↓ 恋人たちの岩:ペーニャ・デ・ロス・エナモラドス (Peña de los Enamorados)アンテケラ郊外にある。敵対する氏族の若いムーア人の恋人二人が、少女の父親と手下に追われ、この岩から手を握って飛び降りた。それから「恋人たちの岩」と呼ばれるようになった。↓ アンテケラ Antequera AV NUEVA駅。↓ アンテケラ Antequera AV NUEVA駅。【アンテケラ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P43~46。やがて、過ぎし時代に好戦的な覇気の高さでその名を轟かせた古い都市、アンテケラが望見される場所までたどり着いた。アンテケラは、アンダルシアを縦断して聳え立つシエラ・ネバダの山懐にある都市である。市街の前方に、美しいベガ(沃野)が展がっている。岩石のむき出しになった山やまに囲い込まれるかのような緑なす田園は、まるで、一幅の絵を見るようだった。~翌朝〈1829年5月4日)、早起きをして、散歩がてら、ローマ人の要塞跡に築かれたモーロ人の古い城を訪れた。崩れかかった塔の一角に腰を下ろして、わたしは、雄大な、変化に富んだ景色に見入った。風景それ自体の美しさに加えて、この土地にまつわる伝説やロマンスの幾場面が想い起こされ、わたしは身震いを覚えた。いまや、わたしは、モーロの騎士たちとキリスト教徒の騎士たちとが華々しく渡り合った幾多の戦いで名高い、その当の地の、ただ中にいる。眼下にのぞむ山麓には、年代記やバラッドにたびたび登場する、いにしえの戦士たちの町が横たわっている。グラナダ征戦の際、スペインの名家出身の、そして勇猛果敢をもって鳴る騎士たちの一隊が勇躍、向こうの城門を出立、隊列を組んであの丘陵を降りくだっていた。しかし、マラガ山中で痛ましい大虐殺の憂き目に遭い、アンダルシア中を悲嘆のどん底に沈めたのである。丘陵地の向こうには、グラナダの「ベガ(沃野)」の広大さには一歩ゆずるとはいえ、菜園や果樹園、小麦畑、緑の牧場が織り敷かれたベガが展がる。右手には、追い詰められたモーロの城将の娘とその恋人が身を投じた「恋人たちの断崖:エル・ペニヨン・デ・ロス・エナモラドス」が、岬の岸壁のように、平野に突き出ている。↓ カルフール。Carrefour.↓ アンテケラ サンタ・アナ(Antequera Santa Ana)駅
2026.03.09
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【旅行9日目】スペイン・グラナダ2025年5月26日、朝3時半に起きて、パン屋で買ったお菓子を食べました。5時20分に宿泊所「アルテアガオスタル&パニョスアラベスエルヴィラ」を出発し、カバンを持ちながらグラナダ駅まで歩きます。5時45分には駅に到着しました。駅の改札を通り、6:25グラナダ発RENFE AVANT 08475 に乗車します。セビーリャ行きですが、途中のコルドバ駅で下車予定です。↓ 朝4時に、菓子パンを食べる。↓ 5時20分、宿泊所を出る。↓ 「アルテアガオスタル&パニョスアラベスエルヴィラ」の前にて。↓ アルテアガ通り。↓ グラン・ビア・デ・コロン通りを進む。↓ グラナダ市教育行政機関。↓ コンスティスティション通り。↓ アンダルセス通り。↓ 5時45分、グラナダ駅到着。↓ 出発の掲示。6:25発 セビリア行き RENFE AVANT 08475 プラットフォーム5番。↓ 駅の待合にカフェ・レストランがある。↓ 改札開始。↓ チェックを受ける。↓ RENFE AVANT S104系。↓ 乗車する妻。↓ カバンを置いた。↓ グラナダ駅のRENFE AVANT S-104系。
2026.03.08
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダ市内を妻と散策しました。私が小学生低学年の時、誕生日に「ぼくのつくえはぼくのくに/著:佐藤さとる/絵:村上勉」の本をプレゼントでもらいました。主人公のかおる君が魔法の鳥の羽で机をなでると、部屋は海に、机は小島に、椅子は大型のヨットに、そしてかおる君は王様になります。小島に住むゴチャゴチャ虫を退治しにいくという話で、佐藤さとるさんのストーリーの面白さもさることながら、村上勉さんの味わいのある絵に引き込まれました。引越しの時に本を処分してしまい、今はこの本が手元にないのですが、時々図書館に行っては借りて読み返しています。図書館の画集棚に「村上勉 旅の画文集『ペインズグレイに誘われて』/作者:村上勉/発行:小峰書店/1994年10月10日第1刷発行」があり、村上勉さんがスペインのグラナダに行き描かれた絵と文章があります。とても楽しい文章で、一部を紹介します。↓「村上勉 旅の画文集『ペインズグレイに誘われて』/作者:村上勉/発行:小峰書店/1994年10月10日第1刷発行」ーーーーーーーーーーーーー↓ 「アビラのムッシュ① [Avila Spain:アビラ・スペイン]」この作品は、私の記念すべき一枚である。美大浪人生として上京。デザイン事務所の”お使い”をしながら、デッサンに通った。その頃、お使い先で、作家の佐藤さとる氏と出会うことになる。まだ、イラストレーションという言葉もない時代だった。絵本や挿し絵がどういうものかさえつかめていない19歳の若造と、すでに名の知れた佐藤氏が、コンビを組むことになった。今考えると、佐藤氏の無謀さにあきれるのだが、「絵を学びながら、ぼつぼつ描いてくれればいい」との約束であった。ところが、その後すぐに佐藤さとるブームがやってきた。いきなり、10本、20本と、原稿が手元に積まれ始めた。技術などあるわけもなく、ただ若い体力にまかせて描いた。そして、5年もすると、年に2,30冊の挿し絵を描く時代に入った。機械的に仕事をする状態が10年、15年と続き、さすがに疲れて、気力のない作品が続きだした。何か大きな忘れ物をしてきたという感じがどうしてもぬぐえず、絵にも悩み始めていた。スペインに逃げ出したのは、こんな時期。35歳になっていた。「しばらく絵から離れよう。絵をやめられるものなら、それでもかまわない」こんな思いから、画材はいっさい持たず、10月のスペインを観光客として点々とまわった。しかし、絵筆を持たない私は、ただの酒飲みでしかなく、1か月もすると、どこに旅行しても感激がなくなった。描きたい心を抑えに抑えていたが、毎晩飲み歩くバーの酔っ払いたちが、あまりにもいい顔・・・。とうとうしんぼうできず、クロッキー帳を買いこんで、夜な夜なバーで描き始めた。それだけでなく、画材不足のスペインで、できるかぎりの画材を集め、グラナダのアルバイシンにアトリエを借りることにしたのだった。グラナダに雪が舞う頃、すっかり画家に戻っていた私は、絵になる地方を描きまわった。その頃描いたこの絵が、タブローをやろうとした1枚目の作品となった。アビラの街は、千メートルをこす高地の荒れ地にある。冬になれば、一日中雪が降る。そんな中、カテドラル広場で朝市が開かれるのだが、大根を売っている親爺がいた。人参よりなさけない大根だったが、あまりの珍しさに、2倍ほどの金をわたして買うと、親爺は、カテドラルにひびくほどの奇声をあげ、変人ぶりを見せた。翌朝、その親爺にモデルになってもらいたくて、市場に出かけた。顔を見るなり、だれから教わったのか、「ハポネス(日本人)、ハポネス!」と遠くから奇声をあげる。親爺は「売れ残った大根を買い取ってくれるなら」と、モデルを了解し、ロバをホテルの玄関につないだ。私の部屋でワインを飲みながら、約1時間ほど描くことになった。親爺は、描かれているのが気になってじっと座っておられず、すぐ私の方に見にきてしまうので、なかなか仕事にならなかった。そして、わずかのモデル代を払うと、親爺はまたあの奇声を上げ、うれしさのあまり、玄関につないだロバを忘れて、帰って行ってしまったのだ。なぜか、いまだにこのムッシュが、私にタブローを始めさせてくれたような気がしてならない。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 「塔のある風景 [Granada Spain: グラナダ・スペイン]」むかし、スケッチに出かけると、まず1日目は場所探しだけで終わったものだが、最近ではどこの街にでかけても、街が俯瞰できる場所に迷わず登ることにしている。そして鳥瞰できる場所を起点に、モチーフになりそうな方へじょじょにおりていく。ところが、いい場所はたいてい旧市街から宮殿や城に通じる道筋にあるので、どうしても観光客の餌食になってしまう。グラナダのアルハンブラ宮殿北側の丘に、ひな檀のようにならんだアルバイシンという街がある。16世紀にアラブ人がつくった街だ。十数年前に、半年ほどアトリエを借りて住んだことがあるので、どの場所が絵になるか知りつくしていた。絵かきとは不思議なもので、これまで何枚も絵がいたことのある同じ場所に、また道具を広げるものなのだ。スケッチの場所が決まっても、私の場合、イーゼルを立てるでもなく、画家らしい道具などまるでない。しわだらけの和紙を広げ、風で吹き飛ばされないように、まわりに小石をならべる。あきかんの筆洗い、パレットは小皿2,3枚だけなのだ。ちょうどヒッピーたちが道ばたに布を敷き、アクセサリーなどをならべるスタイルに似ている。地べたにそのまま座り込み、硯で墨をすり、いきなり描き始めるのだが、これではどう見ても、ヒッピーの大道芸人としか見られない。こういう場所でスケッチする日は、観光客がこない早朝から仕事を始めるのだが、やはり10時をすぎるとギャラリーにかこまれてしまう。それが外人の場合は、静かに通りすぎるのだが(もっとも、後で何を言われても言葉がわからないから、気にもならない)、日本人の団体はそうはいかない。観光バスから降りたばかりなのだろう。おばさんばかりの団体が坂を登ってきた。白髪頭に顔中ひげで、日焼けした顔に、泥んこジーンズ姿の私をかこむ。(やばいな)と思い、無視をする。貧しい画材に人相、汚さから見て、私の国籍がわからないらしい。「ジャパニーズ? チャイニーズ?」無視して描き続ける。と、おばさんたち、どうやら日本人じゃないと思ったらしい。「こういう絵では、食べていけないのよね」「絵が暗いわね、苦労しているのよ」「まだ、水彩だわ。この歳だと油絵になってないと、おかしいんじゃない?」(黙っていれば、いい気になって!)しかし、抑えた、抑えた。「国に帰りたくても、きっと帰れないのよ」この言葉をあとに、おばさんたちはぞろぞろと移動してくれた。が、私はもうすっかりやる気がない。和紙のまわりの小石を片付けながら、考える。(ジャパニーズと答えておけば、これほど痛めつけられずにすんだのだが、しかし・・・)ーーーーーーーーーーーーーーーーー村上勉氏のプロフィール1943年、兵庫県に生まれる。1964年、佐藤さとる作「だれも知らない小さな国」の挿し絵で、画家としてデビュー。これまでに描いた作品は約800冊をこす。1967年、「おばあさんのひこうき」「宇宙からきたかんづめ」で、小学館絵画賞を受賞。1972年、1989年、ライプチヒ国際児童図書デザイン展銅賞受賞。子どもの本以外にも、1979年に、郵便切手「日本の歌」シリーズ制作。1985年、郵便切手「ふみの日」制作。1994年、郵便切手「環境の日制定記念」制作。7種類の切手がある。1987年、東京セントラル絵画館で「村上勉スケッチ展」を開催。緻密な筆遣い、みずみずしい色彩、斬新な画風で、絵本や雑誌、単行本や教科書の挿し絵、広告関係など幅広く活躍中。多くの人に親しまれている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓「ぼくのつくえはぼくのくに/著:佐藤さとる/絵:村上勉」私が小学生の時、誕生日プレゼントで頂き、夢中になって読み返した本。
2026.03.07
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、イサベル女王とコロンブスの像を見た後、エルビラ通りを歩き、レストラン「La Nueva Bodeca:ラ・ヌエヴァ・ボデカ: 新しいワイナリー」で夕食を頂きました。店内は庶民的な造りで、時間が経つと団体客が入り、満席状態です。今日は歩いてばかりで時間が無く、席について食べたのはこの日初めてでした。夜のグラナダを回るか妻と話したのですが、翌日は始発の列車でコルドバへ向かうため、ホテルに戻ってすぐ寝ようという事になりました。↓ エルビラ通りで妻が良さそうなレストランを見つけた。↓ 念のために、近くのレストランも見て決めることにした。↓ 最初に見つけたレストラン「La Nueva Bodeca:ラ・ヌエヴァ・ボデカ: 新しいワイナリー」に決めた妻。↓ 妻が料理を選ぶ。↓ レストランを出て、宿泊所まで歩く。↓ 宿泊所の「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ:Hostal Arteaga & Baños de Elvira」に到着。↓ 翌日朝4時起きのため、すぐに寝た。
2026.03.06
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダのカテドラル、王室礼拝堂を見学した後、市庁舎前から大通りを歩いて「イサベル・ラ・カトリカ広場」に行き、イサベル女王とコロンブスの像を見ました。1942年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)にアルハンブラ宮殿の鍵を渡して降伏し、711年以来8世紀間アンダルシアを支配し続けたイスラム教徒の勢力が、イベリア半島からアフリカに戻ることになり、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が終了します。この時期、コロンブスはヨーロッパから西側に行けば東洋に達するという事を信じて、航海の援助を申し入れるためグラナダのイサベル女王と会っており、ボアブディル王が降伏しアルハンブラ宮殿を明け渡し、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)の手に接吻するのを目撃しています。コロンブスは資金援助について良い返事が両王からもらえなかったため、フランス宮廷に相談しようとグラナダを後にして、ピノス・プエンテのピノス橋まで来た時、女王の至急便がコロンブスに追いつきました。王女はコロンブスに援助するという事で、アルハンブラ宮殿の近くにカトリック両王が築いたサンタ・フェの城塞で、契約書の調印を行いました。1492年8月3日、コロンブスはスペイン・パロス港を出港し、バハマ諸島に到着、新世界発見となります。手元の本に、コロンブス、サンタ・フェ、ピノスプエンテのピノス橋など記載があるので、一部を紹介します。ーーーーーーーーーーーー1)「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p234~236サンタ・フェは、ここからグラナダの様子がわかるとともにグラナダからもサンタ・フェの様子がわかるのです。ここに野営地ではなく、頑健でちょっとやそっとではびくともしない本物の都市を築くことが重要と考えたのです。こうしてサンタ・フェの野営地は都市に変貌しました。この新しくできた都市を、グラナダ人は城塞の中から見て驚きました。「こんな堅固な町から見られているのではたまらない」わずか3ヵ月の間に、都市が出来上がるとともに12,000人もの住民が隣町から移ってきていたのです。グラナダ側が反乱を続けることは無意味でした。ボアブディル(イスラム王)は戦争を終結させる協定の検討に入ったのです。1491年11月に、グラナダ降伏協定がなされました。~1492年1月2日、グラナダは降伏しました。~午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族とともにグラナダ東部の山間の町アルプハラに向かいます。~ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー2)「コロンブス航海誌/林屋永吉訳/岩波文庫/岩波書店」p9~101492年のこの年、ヨーロッパをかねてから支配していたモーロとの戦を両陛下が終熄させられて、あのグラナダの大都での戦を終えられ、本年1月2日、両陛下の軍勢が同都の城塞アルハンブラの塔に王旗を掲げるのを、私はその地において目のあたりにし、かつまた、同都の城門よりモーロ王が出城して、両陛下ならびに王子殿下の御手に接吻するのを、拝したのであります。~そこで両陛下はこの1月に、そのすべての国土ならびに領土からユダヤ人を追放せられて後、私に対し、十分なる船隊をひきいて、インディアスの前記地方に赴くよう命ぜられたのであります。そしてそのために、私に非常な恩恵を与えられ、私を貴族に列せられて、爾後(じご)ドンの称号を付して名乗ることを許され、私を大洋提督、兼副王に任ぜられ、さらに今後大洋において発見し、獲得するであろうすべての島々、および大陸の終身提督とされ、かつ私の長子がこれを継承し、その後は永遠に、代々これを相つぐこととされました。そこで私は、同年すなわち1492年の5月12日、土曜日、グラナダ市を出発して、海港パロスの村に到着し、同地においてこのような事業に適した3隻の船を仕立て、多量の食糧と多数の船員を乗せて、同年8月3日、金曜日の日の出の半時間前に同港を出発し、大洋にある両陛下の領土カナリア諸島へと進路をとり、同諸島よりインディアスに赴いて、彼の地の君主達に対する両陛下の使節としての任を果たすことにより、両陛下が私に命ぜられたところを遵守せんものとして、この航海を行うことにしたのであります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー3)「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188南の方角、連山の麓の、ひと連なりの赤茶げた丘陵へと目を転じてください。いま、長いラバの隊列がゆっくり下りてくるところです。ここが、イスラム教徒の最後の幕が降ろされた場所です。不運なボアブディル(イスラムナルス朝最後の王)は、丘陵のひとつの頂から、これを最後と、グラナダを振り返り、悲痛な、声にならない嘆きを洩らしました。それで、その峠は「モーロ人の最後のため息:エル・ウルテイモ・ススビーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。~モーロ人が涙を飲んで明け渡したこの緑の平野のただ中に、ある意味で、旧大陸の歴史と新大陸の歴史とを邂逅させたとも言える場所があります。ほら、向こうに見える、朝日をさんさんと浴びている城壁の町、サンタ・フェがそれです。サンタ・フェは、グラナダ包囲戦で野営陣地を大火災で失った後に、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が急遽築いた城塞です。コロンブスはあの英雄的な女王に呼び戻され、あの城塞壁の中で、やがて新大陸発見へと結実する契約書にサインしたのです。城壁のさらに向こうの、西に岬のように張り出ている岩山の陰に、モーロ人とキリスト教徒の間で何度となく血で血を洗う激闘が行われたことで名高いピノスの橋(El Puente de Pinos Puente)がありますが、あのとき、スペイン国王たちとの交渉に見切りをつけたコロンブスは、彼の計画をフランス宮廷に持ち込もうと、出発したところでした。ちょうどピノスの橋を渡っていたとき、女王の急便が彼に追いついたのです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ グラナダ王室礼拝堂を見た後、路地を歩く。↓ グラナダ市役所。↓ レジェス・カトリコス通り。↓ イサベル・ラ・カトリカ広場。↓ イサベル女王とコロンブスの像。↓ コロンブスがイサベル女王に航海計画書を見せて説明している。↓ 宿泊所まで歩いて戻る。↓ サン・ジルとサンタ・アナ教区教会。ーーーーーーーーーーーーーーーー【資料】「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p234~236サンタ・フェは、ここからグラナダの様子がわかるとともにグラナダからもサンタ・フェの様子がわかるのです。ここに野営地ではなく、頑健でちょっとやそっとではびくともしない本物の都市を築くことが重要と考えたのです。こうしてサンタ・フェの野営地は都市に変貌しました。この新しくできた都市を、グラナダ人は城塞の中から見て驚きました。「こんな堅固な町から見られているのではたまらない」わずか3ヵ月の間に、都市が出来上がるとともに12,000人もの住民が隣町から移ってきていたのです。グラナダ側が反乱を続けることは無意味でした。ボアブディル(イスラム王)は戦争を終結させる協定の検討に入ったのです。1491年11月に、グラナダ降伏協定がなされました。1492年1月2日、グラナダは降伏しました。~午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族とともにグラナダ東部の山間の町アルプハラに向かいます。~ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。↓ 左赤枠がサンタ・フェ、右赤枠がグラナダ。 10キロメートルの距離。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「コロンブス航海誌/林屋永吉訳/岩波文庫/岩波書店」p9~101492年のこの年、ヨーロッパをかねてから支配していたモーロとの戦を両陛下が終熄させられて、あのグラナダの大都での戦を終えられ、本年1月2日、両陛下の軍勢が同都の城塞アルハンブラの塔に王旗を掲げるのを、私はその地において目のあたりにし、かつまた、同都の城門よりモーロ王が出城して、両陛下ならびに王子殿下の御手に接吻するのを、拝したのであります。~そこで両陛下はこの1月に、そのすべての国土ならびに領土からユダヤ人を追放せられて後、私に対し、十分なる船隊をひきいて、インディアスの前記地方に赴くよう命ぜられたのであります。そしてそのために、私に非常な恩恵を与えられ、私を貴族に列せられて、爾後(じご)ドンの称号を付して名乗ることを許され、私を大洋提督、兼副王に任ぜられ、さらに今後大洋において発見し、獲得するであろうすべての島々、および大陸の終身提督とされ、かつ私の長子がこれを継承し、その後は永遠に、代々これを相つぐこととされました。そこで私は、同年すなわち1492年の5月12日、土曜日、グラナダ市を出発して、海港パロスの村に到着し、同地においてこのような事業に適した3隻の船を仕立て、多量の食糧と多数の船員を乗せて、同年8月3日、金曜日の日の出の半時間前に同港を出発し、大洋にある両陛下の領土カナリア諸島へと進路をとり、同諸島よりインディアスに赴いて、彼の地の君主達に対する両陛下の使節としての任を果たすことにより、両陛下が私に命ぜられたところを遵守せんものとして、この航海を行うことにしたのであります。↓ クロニック 世界全史/講談社「陸地だ!陸地だ!」新世界「発見」されるコロンブス、バハマ諸島に到着 (1492年10月12日)↓ コロンブスの生年は1446年や1551年など異説が多い。生地はジェノヴァ周辺とされる。1446年説に従えば、第1回航海は46歳。死去は60歳。↓ バハマ諸島に上陸したコロンブスは、目的を達成した思いで、十字架を建て王旗を掲げて、神への感謝をささげ領有を宣言した。↓ コロンブスの探検航路。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188南の方角、連山の麓の、ひと連なりの赤茶げた丘陵へと目を転じてください。いま、長いラバの隊列がゆっくり下りてくるところです。ここが、イスラム教徒の最後の幕が降ろされた場所です。不運なボアブディル(イスラムナルス朝最後の王)は、丘陵のひとつの頂から、これを最後と、グラナダを振り返り、悲痛な、声にならない嘆きを洩らしました。それで、その峠は「モーロ人の最後のため息:エル・ウルテイモ・ススビーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。↓ 赤い矢印の部分が、ボアブディル王が振り返りアルハンブラを見て泣いたとされる「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれる場所。ーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188モーロ人が涙を飲んで明け渡したこの緑の平野のただ中に、ある意味で、旧大陸の歴史と新大陸の歴史とを邂逅させたとも言える場所があります。ほら、向こうに見える、朝日をさんさんと浴びている城壁の町、サンタ・フェがそれです。サンタ・フェは、グラナダ包囲戦で野営陣地を大火災で失った後に、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が急遽築いた城塞です。コロンブスはあの英雄的な女王に呼び戻され、あの城塞壁の中で、やがて新大陸発見へと結実する契約書にサインしたのです。↓ 右赤枠がグラナダ、左赤枠がサンタ・フェ。 10キロメートルの距離。↓ サンタ・フェ市内。アメリカ研究所があり、コロンブスの史料が展示されている。↓ アメリカ研究所 ダミアン・バヨンセンター(Institute of America - Centro Damian Bayon)があり、コロンブスの記録が展示されている。ーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188サンタ・フェは、グラナダ包囲戦で野営陣地を大火災で失った後に、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が急遽築いた城塞です。コロンブスはあの英雄的な女王に呼び戻され、あの城塞壁の中で、やがて新大陸発見へと結実する契約書にサインしたのです。城壁のさらに向こうの、西に岬のように張り出ている岩山の陰に、モーロ人とキリスト教徒の間で何度となく血で血を洗う激闘が行われたことで名高いピノスの橋(El Puente de Pinos Puente)がありますが、あのとき、スペイン国王たちとの交渉に見切りをつけたコロンブスは、彼の計画をフランス宮廷に持ち込もうと、出発したところでした。ちょうどピノスの橋を渡っていたとき、女王の急便が彼に追いついたのです。↓ 画面左上枠:ピノス橋があるピノス・プエンテ。画面左下の枠:サンタ・フェ。画面右下の枠:グラナダ。↓ ピノス・プエンテの町の中央を流れるクビージャス川に架かる橋が、ピノス橋。↓ ピノス橋。↓ ピノス橋。↓ 私が高速列車の車窓から撮った、ピノス橋があるピノス・プエンテの町。
2026.03.05
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダ大聖堂を見た後、外を回って王室礼拝堂に入りました。グラナダをイスラム王国から奪回してレコンキスタ(国土回復運動)を終了させたイサベル女王は、この場所を墓場と決めて1504年に礼拝堂を建て始めました。ところがイサベル女王はその2か月後に亡くなり、夫のフェルナンド2世も2年後に礼拝堂の完成を待たずに亡くなります。結局この礼拝堂は1521年に完成し、フェルナンド王、イサベル女王ともに遺骸はこの地下室に安置されました。礼拝堂内は撮影禁止の為、写真は撮っていませんが、1991年グラナダ旅行時に購入したガイドブックには礼拝堂内の写真が掲載されており、紹介します。・カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王の遺骸が入った墓碑。・イサベル女王の王冠、王笏(おうしゃく)・カトリック両王の娘フィアナとその夫フィリペ1世の遺骸が入った墓碑ーーーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p272~275に、「グラナダの大祝祭」という章があり、王室礼拝堂の記載があるので一部を紹介します。マテオによれば、エル・ディア・デ・ラ・トマ(征服の日)こそ、「完全な至福」と呼ぶにふさわしい祭日中の祭日である。何の征服かときいたら、それはフェルナンド王とイサベル女王の軍がグラナダを征服した日を記念する祝祭日に決まっている、ということだった。この祝祭日が来ると、マテオが言うには、グラナダ中がお祭り気分一色に染まる。アルハンブラの「物見の塔」の大鐘が、朝から晩まで、引きも切らず打ち鳴らされる。鐘の音は、ベガ(沃野)の果てまで鳴り響き、山やまにこだまし、近郊の農民はもとより、遠方の農民まで、それこそひとり残らずグラナダへと呼び寄せる。「あの鐘をつく幸運に恵まれた娘は」とマテオは言った。「年内に必ず花婿を手に入れるご利益があるんです」その日一日、アルハンブラは、グラナダ市民全員に解放される。その昔、モーロの王たちが君臨した宮殿の広間や中庭は、終日、ギターやカスタネットが鳴り響き、アンダルシアの意匠を凝らした衣装を着た陽気な人たちが、いくつものグループをつくって、モーロ人から受け継いだ古式ゆかしい舞踏を実演して見せる。グラナダ攻略を模した大行進が、目抜き通りを練り歩く。グラナダ征服の貴重な遺品である、フェルナンド王とイサベル女王の王旗が、市の保管庫から取り出され、大旗手の市長の手で高々と掲げられる。攻略戦中、つねに王の赴くところに持ち運ばれた従軍祭壇が、大聖堂の王室礼拝堂の中へと移動され、王と女王の彫像が並んで静かに横たわる、大理石の記念墳墓の御前に据えられる。続いて、グラナダ征服を記念して、大ミサが挙行される。この式典は、大旗手の市長が帽子をかぶり、掲げた王旗を征服王・女王の墳墓の上で、打ち振る段に至って、最高潮に達する。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ グラナダ王室礼拝堂入口。(グラナダ大聖堂を一旦出て、外をぐるりと回って来る)↓ 礼拝堂入口。↓ 入館時間案内。↓ 礼拝堂内は撮影禁止。ーーーーーーーーーーーーー↓ 1991年にグラナダ観光をしたとき購入したガイドブック。GRANADA in your hand.Segunda Edicion Septiembre 1989©Editorial En Su Manop32~33↓左側:グラナダ大聖堂の紹介。右側:グラナダ王室礼拝堂の写真。↓ グラナダ王室礼拝堂。↓ p34~35。↓ カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)の遺骸が入った墓碑。・イサベル女王の王冠、王笏(おうしゃく)。↓ カトリック両王の娘フィアナとその夫フィリペ1世の遺骸が入った墓碑。↓ 礼拝堂の外壁。ーーーーーーーーーーーーー↓ 礼拝堂の側壁。↓ 街の中心へ進む妻。
2026.03.04
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダ大聖堂を見学しました。1491年後半、キリスト教のカトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が、イベリア半島のイスラム教徒最後の本拠地だったアルハンブラ宮殿を包囲しました。1492年1月2日、これ以上抗えないと判断したナルス朝最後の王であるボアブディルが城を明け渡し、最終的にアフリカに行きました。このグラナダ陥落後、市内のイスラム教モスクを取り壊し、その跡地に1528年からグラナダ大聖堂を造り始めました。教会内部は高さ30メートルの円柱とアーチに支えられており、ステンドグラスが美しいです。この大聖堂の隣には、ロイヤル・チャペルというカトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)の霊廟があります。(ロイヤルチャペルはグラナダ大聖堂から一旦外に出て、別の入口から入る必要があります)↓ グラナダ大聖堂。↓ グラナダ大聖堂正面。↓ パイプオルガン。↓ パイプオルガンの修復。
2026.03.03
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、アルバイシンからグラナダ大聖堂に行く途中、サン・アグスティン市場(Mercado de San Agustín)に寄りました。前日に行った時は閉まっていたので心配しましたが、ちゃんと開いていました。妻は市場やマーケットを覗くのが大好きで、必ず中に入って店や商品を見ています。↓ サン・アグスティン市場前の通り。↓ サン・アグスティン市場に入る。↓ 店を見て回る妻。
2026.03.02
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルバイシン2025年5月24日(土)、アルバイシンの丘を散策し、ラ・ロナ展望台から麓まで、細い道をくねくね下っていきました。別に観光名所や旧跡でなくても、迷路のような路地を妻とバカ話をしながら歩くのが、とても楽しい。↓ アルバイシンのラ・ロナ展望台(Mirador de la Lona)。↓ グラナダ駅が見える。↓ 正面にグラナダ大聖堂が見える。↓ ブーゲンビリア。↓ 大通り(グラン・ビア・デ・コロン通り)に出た。
2026.03.01
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