星とカワセミ好きのブログ

2026.02.27
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【旅行8日目】


2025年5月24日(土)、グラナダ・アルバイシン地区のサン・ニコラス広場で、アルハンブラ宮殿、そして「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」の場所を遠くに見ました。

1942年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に宮殿の鍵を渡して降伏し、711年以来約8世紀間アンダルシアを支配し続けたイスラム教徒の勢力が、ついにイベリア半島から消えていく事になりました。

イスラム王国最後のボアブディル王が宮殿を出て、シエラ・ネバダ山脈を越えたラス・アルプハラの地に移動することになりましたが、その途中でボアブディル王は岩山の頂きにかけ登り、アルハンブラ宮殿を振り返り、もの悲しい叫びを上げた場所があり、そこは「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。
「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p263~264には、その光景の記載があり、紹介します。

これを最後と、グラナダに別れを告げたボアルディルが、ついに眼を転じた時、思わずもの悲しい叫びを上げたとされるこの岩山は、いまでも「モーロ人最後のため息:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼びならわされている。 比類ない王国、比類ない王宮から追放された現実を受け入れなければならない彼の悲しみは、言語を絶するものだったろう。彼は、アルハンブラとともに、父祖たちの誉れのいっさいを、そして人の世の栄光と喜びのいっさいを、ここで振り捨てようとしたのだと思われる。
この断腸の思いは、息子の苦難をたびたび共に忍んできた母アイシャの𠮟責によって、ますます搔き毟られた。王国の危機に際して、ボアブディルを力の及ぶかぎり援護してきた母后は、もはや甲斐ないとは知りながら、彼女自身の気丈な精神を息子に吹き込み、奮い立たせようとしたのだ。
「泣くがいい」と彼女は言った。
「男として守り切れなかったからには、女のように泣くがいい」




↓ アルバイシンのサン・ニコラス広場で、アルハンブラ宮殿をバックに記念撮影。



↓ 赤い矢印の部分が、ボアブディル王が振り返りアルハンブラを見て泣いたとされる「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれる場所。




画面右側にある敷地は、アルミーニャ空軍基地(








↓ アルハンブラ宮殿のアルカサバ。



↓ 1991年にアルハンブラ宮殿に初めて行った時に購入した現地のガイドブック。
Segunda Edicion Septtiembre 1989 ©Editional En Su Mano.



↓p7 Aerial view of the Alhambra with the city in the background.
街を背景にしたアルハンブラ宮殿の航空写真。



↓ 赤の囲みが「七階の塔」。青い囲みが「裁きの門」。
以前は7階の塔があったが、1812年のフランス軍撤退の際に破壊されてしまった。

1492年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に降伏を決め、城塞の大手門(裁きの門:青色の囲み)ではなく、この7階の塔(赤い囲み)から出立した。
グラナダの住民の眼に、その落ちぶれた姿をさらしたくなかった。
ボアブディル王は、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に対して、今後再び、何人たりとこの門を通ることを許さないで頂きたい、と懇願した。彼の祈願はイサベル女王の温情によって叶えられ、城門は壁の中に塗りこめられてしまった。




左側はグラナダ王国最後のボアブディル王とアルハンブラ宮殿。
右側はカトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)。

↑ 「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p236~237
この日(1492年1月2日)、グラナダ王ボアブディルは、アルハンブラ宮殿のコマレスの塔の王座の間(大使の間)で、アルハンブラ宮殿の鍵をカスティーリャの将軍に渡したのです。この将軍というのは、テンディーリャ伯イニィゴ・ロペス・デ。メンドーサで、初代グラナダ市長に任命されます。
午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族と共にグラナダ東部の山間の町アルブハラに向かいます。

ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。

ボアブディルの妻モライマは、降伏の翌年、まだグラナダにいる間に死去しました。二人の息子アフメドとユースフは父ボアブディルと一緒にアフリカに渡りますが、その後のことはわかりません。娘も一人いたようで、ソール・イサベル・デ・グラナダという名前が残っています。修道女になったのでしょう。ボアブディル自身はアフリカの地で、74歳まで生きています。


↓ クロニック世界全史/講談社。p384
1491年10月、ボアブディル王は降伏し、12月30日に降伏文書に調印。翌1492年1月2日、カトリック両王にグラナダ市とアルハンブラ宮殿を明け渡し、イスラム教徒のアンダルシア支配は終わった。


↓ p384 15世紀末のスペイン。



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私は高校時代、日本史ではなく世界史を選んでおり、特にヨーロッパの歴史に興味がありました。
アフリカのムーア人がジブラルタル海峡を渡り(711年)、イベリア半島を席巻して西ゴート族を滅ぼしました。その勢いでイスラム軍はピレネー山脈を越え、今のフランスの地を北上していきますが、732年、フランスのトゥールとポワティエ間でキリスト教であるフランク王国がイスラム軍を撃退し、イスラム軍はイベリア半島に撤退します。有名な「トゥール・ポワティエの戦い」です。
もしフランク王国が戦争に負けていたら、ヨーロッパはキリスト教ではなくイスラム教の国になっていたかもしれません。

私がオランダに駐在していたとき、休みに車でフランス人の文通相手の家を訪問することにしました。オランダのロッテルダムからベルギーのブリュッセルを通り、フランスではパリ、トゥール、ポワティエ、ボルドーと幹線道路を走り、彼女が住んでいるベルジェラックに行きました。
運転途中、看板にトゥール、ポワティエの文字を見ると、世界史の教科書に出ていた「トゥール・ポワティエの戦い」を思い出しました。

イベリア半島ではイスラム王朝が支配し、グラナダでは1230年にナルス朝が始まりますが、キリスト教のカスティーリャ、アラゴン王国がイスラム国と戦い、イベリア半島をキリスト教国とする国土回復運動(レコンキスタ)が活発化します。キリスト教軍はコルドバ、セビーリャなど主要な街を奪取していき、1492年アルハンブラ開城により、レコンキスタが完了となりました。


↓ 妻と結婚した時、妻が買ってくれた本。クロニック世界全史/講談社。



↓ p233 「イスラム勢力の拡大続く。ついにイベリア半島に上陸」 
714年春。
イスラム軍の司令官ターリクは、イベリア半島南端のカルペ山を占領。半島征服の足場にした。カルぺ山はターリクの山すなわちジュベル・ターリクとよばれ、ジブラルタルの地名の由来となった。



↓ p235「宮宰カール、トゥール・ポアティエ間で、イスラム軍の北上を阻止」
732年10月25日。


↓ トゥール・ポアティエ間の戦い。フランク騎士とイスラム騎兵が突撃する場面では、イスラム側は槍と弓矢、斧などの武器を使用し、駱駝にまたがっているものもいた。フランク側は歩兵が主力である。



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↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院/平成2年12月20日発行。


↓ p24 ヨーロッパ主部
私が車でオランダ・ロッテルダムからフランス・ベルジュラックまで移動したときのルート。
(赤字)
オランダ・ロッテルダム
ベルギー・ブリュッセル
フランス・パリ
(青地)
フランス・トゥール
フランス・ポワティエ
(赤字)
フランス・ボルドー
フランス・ベルジェラック


↓ パリ、トゥール、ポワティエ、ボルドー、ベルジェラック。



↓ フランス・ベルジェラックで、文通相手と初めて会う。





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最終更新日  2026.04.12 01:51:48
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