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夏休みの課題(個人的な)、という感じで、これまで「仏教」についてまとめてきました。以前から仏教について調べてまとめたいと思っていたので、簡単にではありますが、自分なりに知識が整理された気がします。今回は総括的に、仏教について全体的な振り返りをしていきたいと思います。 人間には老いがあるまず、仏教の教えで基盤となるものが、「一切皆苦(四苦八苦)」でしょう。 人間として生まれたからこそ、避けられない苦しみがあります。それが四苦である「生まれること・老いること・病むこと・死ぬこと」です。この中で、個人的に印象的だったのが、「老苦」である老いることの苦しみです。 そこから「私たちには老いがある」ということを、自覚しなければいけないと思いました。それは、老いがあることを理解していない人が、案外、多いのではないかと思ったからです。だから、自分自身の老いを自覚したときに、大きなショックを受けることになるのでしょう。 仏教の教えでは、苦悩するのは無明だからだと言います。無明とは、「真理がわからない無知であること」です。 老いた自分の姿から、ショックを受けている人がいても、傍から見たら「もうその年齢なんだから当たり前でしょ」と思ったりもします。でもその人は、老苦の真理がわかっていなかったかもしれませんし、自分がそこまで老いていることに気づいていなかったかもしれません。 自分では、自分の老いというものに気づかないのかもしれません。なかなか、自分で自分のことを知るのは簡単ではありませんからね。だからこそ、頭の片隅にでもいいので、四苦八苦を覚えておくといいのではないでしょうか。 苦であるからこそ強くなるこの世は苦であるからこそ、強くなること、実力をあげること、が大切だと思いました。それは、健康であること(体を強くすること)と言い換えられるかもしれません。 その方法を仏教では、「八正道(道諦)」としてまとめています。八正道で、大事なポイントだと思ったのは、「正しい考え・正しい言葉・正しい行い」をし、「正しい生活」をすることです。それが人生のベースになるからです。まずは、フィジカル・思考・言葉、そして、日々の行動・生活を正していくことが、苦に対処していくための方法です。 ここで学んだのは、「正しい」とは何か、ということです。ここでの正しいとは、客観的、合理的、偏りがないということで、固定されたものではないため、その時その時の場所において、何が正しいのかを客観的に見て判断することが大事です。 確かに、時代によって「正しさ」とは違うものだと思います。そして正しさとは、個人によっても違うものでしょう。自分の正しさを見極め、それをベースにし、四苦八苦と向き合っていかなければいけないのです。 自分の心と真正面から向き合う『過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない』 これはブッダの言葉の一つです。ブッダは、死後の世界を重要視していなかったため、現世で功徳を積むことに重きを置いていました。 また、ブッダは絶対的な存在に救済を求めるといった特別な方法ではなく、自分の心と真正面から向き合い、それをコントロールすることにより、自らを救い出すという現実的な道を示しました。自分の心をコントロールすることで幸福感を得る、ということです。 『(死後の世界は)だれも行ったことがないのだから、わかるわけがないじゃないか。だから、死後の世界のことなんて考えず、死ぬまで幸せに生きよう』 ブッダは、死んだ後のことなど誰もわからない、と言っています。だからこそ、ただ今を強く生きなければいけない、と言うのです。この世界の真理は、苦がベースにあるからこそ、強く生きねばならないのです。そして、この世は苦であるからこそ、助け合うことが必要なのではないでしょうか。 仏教についてのまとめでした『目覚める前、薪を割り、水を汲む。 目覚めた後、薪を割り、水を汲む』 こちらは、禅の言葉です。世界が変わるのではなく、自分の内側が変わることが大事なのだと思いました。 幻想は比較から生まれます。これは、現代の悩みや生きづらさは、周りと比較することから生まれるということです。空の教えには、こだわらないことが説かれています。自分の無知を知り、そこから真理を理解することで、生きやすさに繋がっていくのだと思います。 さて、仏教をまとめてきましたが、これまでの学びのポイントを一言でいうと「今を生きよう」ということです。もっと言うと、「今を強く生きよう!」ということです。仏教の教えである縁起や三法印といった真理を理解すると、今に生きるしかないと思うのではないでしょうか。では以上が、仏教のまとめブログでした。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。“それ”は在る【電子書籍】[ ヘルメス・J・シャンブ ]価格:1,870円 (2023/8/22時点)楽天で購入ブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/24
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あらゆるものに名が付けられています。「○○さん」「○○くん」「○○という国」「○○という街」、こういった名によって境界線ができ、「解釈」という幻想が現れました。その幻想を認識して、生きているのが人間です。 今回は「幻想」ということにフォーカスしてまとめていきたいと思います。前回の受動意識仮説では、「わたし」「わたしのもの」「意識」など、すべては幻想だと言われていましたが、その幻想について今回はさらに深掘りしていきます。 比べることで幻想が生まれる仏教に「七慢(しちまん)」という教えがあります。「慢」とは、比べることで思い上がる心のことです。慢を心の状態で7つにわけたものを七慢と言います。 「七慢」・「慢(まん)」=他人と比較しておごり高ぶること。・「過慢(かまん)」=自分と同等の人に対して自分の方が上だと思うこと。・「慢過慢(まんかまん)」=自分より優れた人に対して自分の方がもっと上だと思い誤ること。・「我慢(がまん)」=自分に執着することから起こる慢心のこと。自分に執着する心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮る(あなどる)こと。・「増上慢(ぞうじょうまん)」=覚っていないのに覚っているとうぬぼれること。・「卑慢(ひまん)」=自分よりはるかに優れた人に対し、自分はわずかしか劣っていないと思うこと。・「邪慢(じゃまん)」=悪行をしても正しいことをしたと言い張ること。 「過慢」や「慢過慢」は、現代でいうところのマウンティングと言い換えられるのではないでしょうか。また、「増上慢」は、知ったかぶりと言い換えられそうです。他にも「我慢」は現代では、耐え忍ぶこと、という意味が先立ちますが、仏語では七慢のひとつとされます。 この七慢のように、他と比較することで、幻想を作り出しているのです。自分の心の状態が、幻想を生み出していると言えます。 現代の幻想プログラムとは?何かにつけて私たちには、「このままではダメだ」「満たされていない」という感覚が上がってきます。「このままでいい」と言ったり、思ったりすることは、ダメなことだと、私たちは幼いころから教えられているのです。 そのため、「このままでいい」「これでいい」と言っている人がダメな人の象徴となっていました。何かを達成したり、実現しても、「まだまだ足りない」という「まだまだ」が欲として出てきます。 この感覚を当たり前として生きているからこそ、世の中がそうなっていると言えます。世の中が先にあるのではありません。「このままじゃダメだ」と、人々がやっている様が、世の中になっているのです。 現代は「このままじゃダメだ」に慣れ過ぎているため、「これでいいんだ」の使い方がわからなくなっています。「あなたはあなたのままでいい」と、全肯定されて育てられた人はいないと言ってもいいでしょう。「まだまだ」ということに、ある種の正義があり、正しい生き方だと思ってしまうのです。 「このままじゃダメだ」「満たされていない」という幻想プログラムに、現代は巻き込まれたままの状態です。「自己否定が起きている」「罪悪感を感じている」ということが、幻想に気づくスタート地点になります。 ブッダによる「行為論」仏教では、「業(ごう)」=「行為」とします。仏教の教えでは、自分の行為の結果は、必ず自分自身に現れるという自業自得を鉄則とするのです。ブッダは次の3つを否定し、「行為論」を説きました。 ・「宿命論」:過去世のおこないで現在の状況が決められるため、努力しても現在の状況は改善できない、意味がない。・「神意論」:神の意思によりすべてが決まる、改善されない。・「偶然論」:すべての事象は偶然の産物、現世での行為の善悪は特別な意味を持たない。 ・「行為論」:精進し努力することで善業を積み、現世でよい結果(解脱)を得ることができる。 輪廻にかかわる3つのおこないを「三業」といいます。現世でよい業を積むことで、輪廻からの解脱を得ることができる、とブッダは説きました。 「身・口・意の三業(さんごう)」・「身業(しんごう)」=身体の行為。たとえば、人を傷つけると悪業になる。・「口業(くごう)」=言葉の行為。たとえば、人の悪口を言うと悪業になる。・「意業(いごう)」=心の行為。たとえば、心の中で人を恨むと悪業になる。 ・「善因楽果(ぜんいんらくか)」=善行は幸せな果報を受けること。→解脱(生天)・「悪因苦果(あくいんくか)」=悪行は苦しみの果報を受けること。→輪廻(苦悩の世界) 「身業・口業」は、表にでるもののため、「表業」と言います。意業は、これらに先立つ動機となり、ブッダの教えでは、根源的なものである意業がとくに重視されました。 「心の行為」である意業が人間の根源にあり、そこから善行を積むことが大切なのでしょう。私たち人間は、心が発信地なのです。「与えるものが受け取るもの」と考えると、心の行為が大事になります。仏教でも、自分の行為の結果は、必ず自分自身に現れるという自業自得を鉄則としているからです。 幻想は、私たちの心が作っていると言えます。そして、その個々の幻想がマジョリティになると、この世の中の幻想プログラムとして存在するのです。大切なのは、自分は何を信じるか、ということです。それが、あなたの人生の方向性を決めるのです。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・雲黒斎の『うんちャンネル』【関連記事】・感情はあなたの波動を解釈するもの。「感情のナビゲーションシステム その1」 ~エイブラハムまとめ⑧~(2022年2月24日記事)ブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/23
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これまで仏教について、このブログでまとめてきましたが、仏教を調べていく中で「受動意識仮説」という言葉を知りました。 「私たちは自分の意志で物事を決めて生きている」というのは“幻想である”、というのが受動意識仮説です。実際は潜在意識の中で多数決で決めたことを、あたかも自分が決めたように錯覚しているだけなのだと言います。 仏教の教えでは「わたし」「わたしのもの」という執着を離れるように説いています。それは、すべてのものは因縁によって生じたもので、実体は無く、独立して成り立つものは無いので「自己」は存在しない、という考えがあるからです。「諸法無我」という教えでは、自分のものだと思っているものも、また自分の心さえも、思い通りになるものは何もないのに、自分のものだと思い込むから、苦しみが生じるのだ、と説いています。 受動意識仮説は、仏教の考えに通じるところがあります。縁起という真理があるからこそ、私たちは「無我」なのでしょうか? 今回は、この「受動意識仮説」について深掘りしていきたいと思います。 「受動意識仮説」とは?「受動意識仮説」とは、科学的な実験をもとに、私や意識というものは幻想であるという考えです。人間の意思決定は、無意識下で行なわれており、その無意識下で決められた結果を受け取って、あたかも自分が決めたかのような錯覚をしているだけなのです。脳科学による「指を曲げる意思決定のプロセス」を見てみても、 ①脳に信号が発生②意図(指を曲げよう)③指が動く という順番になるそうです。つまり、私たちが何かを決める前に、すでに脳内では意思決定がなされている可能性がある、ということです。自分が意思決定しているのではなく、人間が自分自身で意思決定をしているように、脳が錯覚させているだけなのです。 受動意識仮説とは、自分自身では何も決めておらず、あらかじめ潜在意識が決めたことを受け取っているだけで、自分が決めているように勘違いしているだけだ、ということになります。このように意識は、能動的に活動していないため、潜在意識の情報を「受動的」に受け取っているだけとなるので、「受動意識仮説」という言葉になります。 無意識が意思決定するプロセスここでは、無意識が意思決定をするときのプロセスを見てみましょう。まず、潜在意識の中には、モジュール(脳内にいる小人ようなイメージ)が多数います。このモジュールは、ある特定の処理しか行わないパーツのようなもので、五感などを通して入ってくる厖大な量の情報を処理しています。これは自由意思を持っていません。 たとえば、林檎を見たとします。このとき脳は、すぐに林檎だと認識できず、視覚情報から赤い、丸いといった情報取得から過去の情報と照らし合わせて、林檎、果物、美味しい、食べたい、といった情報を引き出します。 このさいに、赤い、丸いといった情報を、それぞれ処理する小人(モジュール)がいて、さらにその情報を受け取り、果物や美味しいといった情報を認識する小人たちに情報を引き渡します。脳内の小人たちによって発した情報が走行して、意識が「あれは林檎だ」「食べたい」と感じるという仕組みになっています。 最終的に「私(意識)」は、情報を受け取る側になります。意識が情報を得るのは最後になり、意思決定自体も、「私」が行うのではなく、潜在意識であるモジュールが先におこないます。そして、この意思決定は、脳内の民主主義の多数決でおこなわれます。 なので、小人たち(潜在意識)が決めたものを、「私」は受け取っているだけなのです。主体的に意思決定をしているのではなく、実際は、無意識にいる小人たちがせっせと情報処理した結果を、ただ意識が受動的に見ているだけ(受け取っているだけ)と考えた方が、脳の仕組みから考えても、辻褄が合うのです。だからこそ、主体としての意識は錯覚が生み出しているものであり、幻想である、となります。これが受動意識仮説です。 私たちの行動の原因とは何か?哲学の歴史の流れを見ても、受動意識仮説のような考え方になっていきます。 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」以降、自我とは自分の意識のことであり、意識は理性でコントロールできるというのが哲学の常識でした。しかし、17世紀の哲学者、スピノザは「永遠の相の下」という表現をしています。これは、「自分の行動は自分の意志によるものではない」という人間に自由な意志はないと考えたものです。 人間は神の一部なので、神の考えのもとに動いています。そして私たちはそのことに気づいていません。すべての状況も自分の意志でそうなったのではなく、行動の原因が複雑で、自分ではわかりにくくなっているだけです。身に起きていることは自然現象の一部であり、永遠の中の1コマにすぎないのです。これがスピノザの「永遠の相の下に万物を認識する」という言葉で表されています。 20世紀になってくると、フロイトやユングが登場します。フロイトは人の行動の大部分は理性でコントロールできない無意識に支配されていると考えました。さらにユングは、人間には個人の経験による無意識のもっと奥底に、全人類に共通した集合的無意識(普遍的無意識)があるのではないかと考えました。人間の行動は無意識に支配され、「無意識にしてしまう」「無意識に避けてしまう」など、私たちは気づいたら社会の一部となっているのです。 すべてに気づいているだけ自分の思考を観察してみても、「起こることはただ起こる」ということがわかるのではないでしょうか。そこに受動的な思考があることに気づくかもしれません。 自分の思考が現われるその一瞬を目撃してみると、全てが自動的に起きていることを知ります。あなたが何かを起こしているのではなく、あなたはただ、全てに気づいているだけであり、起こることは、ただ自動的に起こっているのです。 全ては自動的に起きているのであれば、束縛しているのは、誤った自己同一化だと言えます。大切なことは、「思考は本当の私ではない」と知ることです。そして唯一の妨げとは、「思考との誤った自己同一化」です。 あなたが何かを価値判断し、分別、決定することは、あなたの自己解釈です。解釈とは、「あなたにとって、どういう意味か」ということです。それは、あなたの見方によって、その対象を裁くことになります。そして、あなたが何かを価値判断し、分別、決定することは、あなたの限界を作り出します。限界とは束縛であり、自分自身から自由を奪い取っていることです。 「思考に捕らわれること」「湧き上がる思考に巻き込まれること」「その思考を自分だと勘違いして、思考そのものを追いかけ続け、考え続けること」「いつまでも、自分がこう考えている、と認識していること」など、思考がないところに、物語は存在しません。物語とは思考なのです。その思考が現われる瞬間を目撃すると、何かがわかります。 目の前で起きていることを、あなたはどう捉えていますか?(どう解釈しているか・どう受け取っているか)世界はただありのまま存在しているだけです。何に意味づけもされていません。意味づけとは、あなた自身がしているのです。 いかがでしょうか? 今回は「受動意識仮説」ということにフォーカスしてまとめてきました。 ユングやフロイトが、無意識や集合的無意識などを発見する前に、仏教では末那識や阿頼耶識を理解していたようです。そして、末那識や阿頼耶識も人間を構成する要素だと説いていたのです。そう思うと、仏教の教えの中に、人間の真理がすべてあるのかもしれませんね。日本人は仏教が当たり前すぎて、意識しないのかもしれませんが、あらためて仏教を勉強してみると、思わぬ発見があるかもしれませんね。 さて、「わたし」「わたしのもの」「意識」など、すべて幻想だということになってきましたが、次回はその「幻想」について深掘りしていこうと思います。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。 【関連記事・動画】・「私」は脳が作り出した幻想 受動意識仮説-前野隆司・観念とは何か? ~観念を手放す方法~ (2023年3月3日記事)・ワンネスとは何か? ~「命」の考え方~ (2023年3月7日記事)錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫) [ 前野隆司 ]価格:836円(税込、送料無料) (2023/8/20時点)楽天で購入脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫) [ 前野隆司 ]価格:836円(税込、送料無料) (2023/8/20時点)楽天で購入ブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/22
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今回は、仏教について自分が前から疑問に思っていたことを調べてまとめたいと思います。内容は「仏教と禅」「瞑想と坐禅」の違いについてです。そして、ブッダはどのように説法をしていたのかを、「ブッダの伝える技術」として見ていきたいと思います。 仏教と禅って何が違うの?仏教と禅の違いがわからなかったので、調べてみました。結論から言うと、禅とは、仏教の修行方法のことです。仏教の中に、「禅」という修行方法があります。 禅とは、心と体と息を整えることです。実際に稽古して、整った心と体と息の状態になることです。「整えた自己こそ本当のよりどころである」とブッダは言っています。 禅の3つの基本は、「調身」「調息」「調心」です。身を調え、息を調え、心を調える、ことであり、それを努力すること(営み)が、禅なのです。 瞑想・坐禅ってどう違うの?瞑想は人間が考え出したテクニックです。たとえば、「心を落ち着けるため」「怒りをしずめるため」など、目的と手段という構造の中で、人間が考え出した方法です。なので、瞑想には必ず目的があります。 坐禅の目的は、ただ座る、ことです。「只管打坐(しかんたざ)」という仏教の言葉は、「只管=ただ」「打坐=座る」という意味で、そこに目的を持ち込まないということです。 瞑想は心のあり方が主になっています。たいして、只管打坐では姿勢・体のありようが大事となります。瞑想は目を瞑りますが、只管打坐は目を開いています。 坐禅は、自分を外に向かって開いている、ということです。やってくる光をそのまま受けとめ、やってくる音をそのまま迎え入れているのです。体もリラックスさせ、風や空気を感じ、いろんな思いも浮かんでくるが「来るに任せる、去るに任せる」という形が基本です。 坐禅と瞑想はかなり違うと言えます。目を開いているか、目を閉じているか、という細かい違いから、人間が考えたテクニックであるか、テクニックを手放し、ただそこに存在しているだけかという違いがあります。 ブッダの伝える技術ブッダは人によって説法の方法・内容を変えたと言います。ブッダはどのように説法をしていたのでしょうか。ここでは、ブッダの伝える技術である「対機説法」「応病与薬」を見てみましょう。 ・対機説法(たいきせっぽう)法を説いて人々の苦しみを癒した説法のことです。「機」は、人・機会・はずみという意味です。ブッダは、その機をとらえて、説法を聞く人の性質や能力、抱える問題の度合いや種類に応じて、臨機応変に説法をしました。「機」は相手の能力や知識、気質などを即座にはかり知り、それに応じた教え方、話し方をするということです。 ・応病与薬(おうびょうよやく)ブッダは常に相手の立場や気持ちを考えて教え導いたので、その説法は、病気に応じて薬を与えることにたとえて応病与薬と呼ばれました。相手の状態を見極め、その人に最もふさわしい教えを説いた説法方法は、病に応じてよい薬を与える、とたとえられたのです。 たとえば、ブッダのもとに覚りを求める人が来たら、何も語らず箒ではき清めるように命じただけで覚りへ導いたりしました。ブッダは聞き手の能力や素質、立場に応じ、現実に即した合理的な教えを説き、相手によって内容を変えたのです。また、ブッダはどんな相手でもわかるように、たとえを使って説法をしました。民衆に理解してもらうには、たとえ話が効果的だったのです。 他にも、当時インテリのあいだではサンスクリット語が使用されていましたが、ブッダは民衆が理解できるマガダ語などの地元の言葉で説法をしました。覚りを得るために、相手が役に立たない問いをすることで、かえって悩ませる場合には沈黙を守ったり、仏教への帰依(きえ)を望む王には、社会的地位のある人は軽々しく信仰を変えてはいけないと諭したりしました。 『人を見て法を説け』 このことわざの意味は、相手の人柄や能力によって適切な対応をし、適切な処置をすることです。これは、臨機応変なブッダの説法方法に由来しているのです。 いかがでしたでしょうか? 今回は仏教の小ネタ編という感じで、「仏教と禅」「瞑想と坐禅」「ブッダの伝える技術」の3つをまとめてきました。 2つのものの違いがはっきりわかると、スッキリしたりしませんか? 驚いたのは、瞑想と坐禅はまったく違ったものだということです。案外、区別がついていないものってあったりしますよね。さて、次回は「受動意識仮説」についてまとめていきたいと思います。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。 【参考文献】いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・禅僧、藤田一照だけど「禅について」質問ある? | Tech Support | WIRED Japanブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/21
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仏教の考え方の中に、「六道輪廻(りくどうりんね)」というものがあります。六道輪廻とは、仏教で考えられた生き物が生まれ変わる6つの苦しみの世界のことです。輪廻する六道世界は、すべて苦しみの世界です。 ブッダは、現世で功徳を積むことに重きを置いたため、死後の世界は重要視しませんでした。そのため、六道輪廻の思想は、ブッダの死後に仏教に取り入れられました。 違う見方をすると、六道輪廻とは、自我の性質の働きの中で起こる人間の精神状態(エネルギー状態)です。では、その6つの状態とは一体どんなものなのかを、今回は見ていきましょう。 六道輪廻の概念六道の世界には、「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人道」「天道」があります。 ①地獄道(じごくどう)閻魔(えんま)の審判に基づき、生前の悪行の種類・度合いによってさまざまな責め苦を受ける世界です。悪行を積んだものが地下深く堕ち、あらゆる苦をなめつくす世界です。救いがたく罪の重い人が生まれ変わる地下の世界であり、罪の重さのランクによって、八大地獄があります。 ②餓鬼道(がきどう)つねに飢えと渇きに苦しむ亡者の世界です。食物を手に取ると火に変わってしまい、嫉妬や物惜しみをするものが堕ち、永遠の空腹に苦しむ世界です。自分の欲望を満たすためだけに生きてきた人は、鬼となって飢えと渇きに苦しみつづけます。 ③畜生道(ちくしょうどう)人間以外の動物になり、食うか食われるかの弱肉強食を味わう世界です。人間に酷使され、畜生同士で殺し合う苦しみを負う世界です。何も考えず行きあたりばったりに悪いおこないを重ねた人は、人間以外の動物に生まれ変わります。 ④阿修羅道(あしゅらどう)阿修羅の住む、争いや怒りの絶えない世界です。怒りに満ち闘争をおこなう修羅が住んでおり、戦ってもつねに負けてしまいます。帝釈天と戦いつづける阿修羅の世界であり、人をにくみ、自慢と愚痴を重ねた人が生まれ変わる世界です。 ⑤人道(にんどう)人間として存在する世界で、四苦八苦に悩まされます。生・老・病・死をはじめ、さまざまな苦を負いますが、唯一覚りへの道が開かれた世界です。私たち人間が住む世界は、四苦八苦が待ち受けていますが、仏さまの浄土に生まれ変わる可能性があります。 ⑥天道(てんどう)人間の世界より苦の少ない神の世界です。ただし迷いも死苦も存在します。須弥山(しゅみせん)を中心とした天人が住む世界であり、よりよい快楽と長い寿命が得られますが、それも永遠ではないため、老・病・死の苦しみは何倍にもふくれあがります。罪が軽く、よいおこないもした人は、天人の世界に生まれ変わります。安楽にすごせますが、寿命がつきたらどこへ生まれ変わるか、という心配があります。 ④~⑥は、現世でよいおこないをした人がおもむく「善趣(ぜんしゅ)」の輪廻です。①~③は、現世で悪いことをした人のおもむく「悪趣(あくしゅ)」の輪廻です。 六道輪廻の考え方は、生前のおこないによって行き先が決まり、ふたたび輪廻します。輪廻する六道は、すべてが苦の世界であるため、これを逃れるには解脱するしかありません。「解脱」とは、あらゆる苦から解き放たれた状態です。 ブッダの死後の世界の考え「死んだらどこへ行くのか?」という人の問いに対し、ブッダの「死後の世界」についての発言は、次の通りです。 『だれも行ったことがないのだから、わかるわけがないじゃないか。だから、死後の世界のことなんて考えず、死ぬまで幸せに生きよう』 「浄土」という考え方は、お釈迦様の教えを守って生きた人は、仏様がむかえにきて浄土というところに生まれ変わり、そして、いつまでも安楽に暮らす、というものです。「六道輪廻」とは、浄土以外の人は、6つの迷いの世界で生死を繰り返す、ということです。 仏教の考え方では、死んだら三途の川をわたり、血の池、針の山を通って49日間の「冥土の旅」をします。その途中で、生前どんなおこないをしたかの取り調べを受けます。ポイントになるのは、「五戒」を守って生きたかどうかです。 「五戒」①「不殺生戒(ふせっしょうかい)」=生き物の命を大事にする。②「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」=人のものを盗まない。③「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」=きよらかなつきあいをする。④「不妄語戒(ふもうごかい)」=ウソをつかない。⑤「不飲酒戒(ふいんじゅかい)」=お酒を飲まない。 嘘をつくと閻魔大王に舌をぬかれてしまいます。7回の裁判を受けて、最後は泰山王(たいざんおう)によって6つの世界のどこへ行くか決められる、と言われています。 いかがでしょうか? 今回は仏教の「六道輪廻」にフォーカスしてまとめてきました。 「死後の世界なんて誰もわかるわけがないのだから、幸せに生きよう」という教えは、確かにその通りだと思いました。言い換えれば「未来なんて誰もわからないんだから、今の幸せを考えて暮らそう」ということなのかもしれません。 そして、その人間の精神状態(エネルギー状態)によって、どの六道の世界に属しているのかが決まるのだと思います。食うか食われるかの弱肉強食を味わっている日常であれば畜生道にいて、嫉妬や物惜しみばかりしている日常であれば餓鬼道にいる、ということなのでしょう。 自分の心がどうのような状態なのか、を見てみると六道輪廻の世界がわかるかもしれません。そして、仏教の教えの四諦八正道を理解し、実践し、「苦の少ない世界」におもむきたいですね。それがより良く生きることに繋がるのではないでしょうか。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】キャラ絵で学ぶ!仏教図鑑 [ 山折哲雄 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/8/11時点)楽天で購入いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・雲黒斎の『うんちャンネル』ブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/20
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今回は仏教の「空(くう)」という言葉にフォーカスしてまとめていきたいと思います。前のブログに「五蘊皆空(ごうんかいくう)」という言葉がありました。これは、人間界の現象や存在はすべて実体がなく、「空」であるということを意味します。この「空」とは、一体どういったことなのでしょうか。 「空」の思想とは?「空」とは、「無」と同時に「有」をも意味することです。空は、サンスクリット語のシューンニャの訳で、「ふくれあがって中身がからっぽ」「実体がない」という意味です(シューンニャは「0=ゼロ」も意味する)。「空」とは、そこに見えているものには「実体」がない、ということです。 「存在している・ある」と考えられるものを、仏教では、単なる現象であると考えます。ちなみに、大乗仏教の龍樹が「空」の思想を大成させました。 縁起を知ると空がわかる「諸行無常」とは、すべての事象は移り変わっているという考えです。人が年老い、必ず死を迎えるように、この世のすべては変化(縁起)しています。つまり、そこに存在するものは一時的な現象にすぎません。実際に認識されるものや、認識する知覚自体も、ただ因縁によって起こっているので、すべてのものから独立する「実体」はないのです。 ブッダは、ものの本質が空であることとしても、最後に空と見ることのできない唯一のものである「肉体」が残るとしています。そのため、肉体からのわずらいに支配されないように、生きている限り修行をおこなうことを説きます。 そのため「空」は、存在の無を意味するのではなく、存在の「無」と同時に、存在として考えられる現象の「有」も意味しています。縁起(因縁生起)を知ると、「空」であることがわかるのです。 「空」がわかれば楽になる「空」の教えを知り、「空」の教えがわかれば、生きることがラクになる、と言います。 「空」とは、「こだわらないこと」を言うのです。「空」の教えを知っていれば、四苦八苦の中にある「老いるのは嫌だ」「病気になるのは嫌だ」「死ぬのは嫌だ」という、こだわりを捨てて生きられます。 「空の教え」とは、「こだわるな」ということです。今、あなたはここに存在しています。でも、昨日のあなたと、今日のあなたは違います。それに、これからもどんどん成長して変わっていきます。だからこそ、「世の中に変化しないものはないのだから、こだわるな」というのが「空の教え」なのです。 空の教えは、「般若心経」に書かれています。「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」という言葉は、276文字で成り立つ「般若心経」の一部です。「色」は「物質や肉体などの万物」のことで、「これらすべての現象は実体がない空であり、そして空であるものはすべて色である」という意味です。 ・「色即是空(しきそくぜくう)」=色とは即ち空なり。・「是諸法空相(ぜしょほうくうそう)」=すべては「空」なり。・「空即是色(くうそくぜしき)」=空とは即ち色なり。・「空」=目に見えないあなた。・「色」=目に見えるあなた。 あなたという存在は、目に見える姿形だけではなく、心の内側も全部があなた自身です。さらには、ご先祖様とのつながり、友人や先生とのご縁など、目に見えないものによってもできています。「○○でなくてはならない」などと、色眼鏡で物事を見ると、誤った認識が生じてしまいます。固定化した極端な考えが、物質的存在をつくるのです。執着を持たない清らかな心で見ることが「空」なのです。 いかがでしょうか? 諸法無我の考えにも、すべてのものは「因縁」によって生じたもので実体は無く、独立して成り立つものは無いので「自己」は存在しない、とあります。自分のものだと思っているものも、また自分の心さえも、思い通りになるものは何もないのに、自分のものだと思い込むから、苦しみが生じるのです。 「わたし」「わたしのもの」という執着を離れるように仏教は説いています。ですから、「嫌だな」と思う気持ちも、空の教えに従って、こだわらないことです。「わたしのもの」なんてない、と考えて気楽にいけば、案外、嫌いな人とも仲良くなれるかもしれませんね。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】キャラ絵で学ぶ!仏教図鑑 [ 山折哲雄 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/8/11時点)楽天で購入いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・雲黒斎の『うんちャンネル』ブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/19
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生きることは本質的に苦しいことであると説いた仏教では、四苦八苦(一切皆苦)という人間存在の原理があります。その中に「五蘊盛苦(=自分の意思に反して、肉体と精神が思うようにならないこと。病気や老い、死など)」という社会生活の中での苦しみがあります。 「五蘊(ごうん)」とは、色(肉体)・受(感受)・想(観念)・行(心の働き)・識(認識)の5つのことです。五蘊盛苦は、八苦の他の七苦をひとつにまとめたものとも考えられ、五蘊の集まった人間という存在・生存そのものが苦である、という意味です。つまり人間は、五蘊という精神的・肉体的要素が集まった存在に過ぎないのです。 人間を構成する5つの蘊人間は5つの蘊(五蘊)の集まりである、と仏教では説きます。ここでは、人間を構成する5つの蘊を見てみましょう。 「人間を構成する5つの蘊」①色蘊(しきうん):物質的な肉体のこと②受蘊(じゅうん):感覚・知覚・印象などを受け入れて感じる作用(感受作用)。これによって苦楽を感じる③想蘊(そううん):受け入れた感覚を思い出したりすること(観念作用)④行蘊(ぎょううん):意志と行為のこと(心の働き)。対象に積極的に働きかける行動⑤識蘊(しきうん):ものを認識し区別する働き(認識作用) 人間は、五蘊の物質的要素(色蘊)と精神的要素(その他4つ)の集まりです。人間の体を構成するそれぞれの要素は、それが仮に集まっただけで、ほかの要素がないと成り立たないものばかりです。「わたしのもの」「わたしである」と独立して成り立つものは、ひとつとして存在しないわけです。 そのため、五蘊で形づくられた人間の体や心の働きすべては、自然界から一時的に借りているだけのもので、霊魂、実体、自我はないと考えられています。これを「五蘊無我(ごうんむが)」といい、「自我への愛着・執着を捨てて解放されなさい」という教えです。 人間には、人間の体を構成する5つの「蘊」がつくり出す苦しみがあります。五蘊無我を知り、自己への愛着を捨てれば、苦しみがなくなる、と仏教では説いているのです。世の中のあらゆる存在が、これら五蘊として仮に存在しているだけです。五蘊を分析することによって、すべてのことが無常であることがわかり、苦を自覚するのです。 十二処・十八界について「五蘊・十二処・十八界」という3つの考えは、無我の考えに基づいて、それぞれ違った見方から、人間の認識作用を考えたものです。五蘊・十二処・十八界の内容は「一切法(いっさいほう)」と言います。物質的・精神的なすべての物事であり、3つの考えを「一切法に関する三科」と呼びます。では次に、「十二処」「十八界」について見ていきましょう。 「十二処(じゅうにしょ)」:知覚を生じる12の条件。六根・六境をあわせた12の法のこと。・「六根(ろっこん)(6つの感覚器官)」=眼、耳、鼻、舌、身、意・「六境(ろっきょう)(↑の対象)」=色、声、香、味、触、法 「十八界(じゅうはっかい)」:十二処に六境によって起こる6つの認識能力(六識)を加えたもの。(「界」=構成要素、領域の意味) 「十八界の分類方法」=「三事和合(根・境・識)」認識には必ずその対象(境)と認識器官(根)と認識作用(識)の3つが必要だという考え。 「六根(感覚器官)」①眼根(げんこん)視覚能力②耳根(にこん)聴覚能力③鼻根(びこん)嗅覚能力④舌根(ぜっこん)味覚能力⑤身根(しんこん)触覚能力⑥意根(いこん)知覚能力 「六境(対象物)」①色境(しききょう)見えるもの②声境(しょうきょう)聞こえるもの③香境(こうきょう)香るもの④味境(みきょう)味のするもの⑤触境(そくきょう)触れられるもの⑥法境(ほうきょう)感覚されるもの 「六識(認識能力)」①眼識(げんしき)視覚的認識②耳識(にしき)聴覚的認識③鼻識(びしき)嗅覚的認識④舌識(ぜっしき)味覚的認識⑤身識(しんしき)触覚的認識⑥意識(いしき)知覚的認識 末那識・阿頼耶識について仏教では、さらに「八識」という8つにわけた認識作用があります。それが六識に、「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」を加えたものです。 ①眼識(視覚)②耳識(聴覚)③鼻識(嗅覚)④舌識(味覚)⑤身識(触覚)⑥意識(知覚・情・意)⑦末那識(自己中心性)⑧阿頼耶識(貯蔵するこころ) ①~⑤は感覚になります。①②は能動的になり、③~⑧は受動的な方向になります。 「末那識」とは、自分の得になること、自分を大切に思い量る心が末那識の働きです。たとえば、自分が写っている集合写真を確認する場合、まず自分がどう写っているかを確認します。これは、無意識に末那識の働きが、行動に表れている例です。私たちは末那識の働きによって、無意識のうちに自分に執着しており、それが行動に繋がっているのです。 「阿頼耶識」とは、身口意(しんくい=人間が経験したすべての物事)を記録して、蓄えているという考えです。生命が生まれた30億年前からの記録も含めて、DNAの遺伝子情報、本能、生まれつきの性格、素質、すべてを蓄えていると考えます。アラヤは、サンスクリット語のアーラヤが語源で「蔵・蓄える」と言う意味です。なので、阿頼耶識の別名は、蔵識と言われます。 あなたの阿頼耶識は何を蓄えているか?思考や意志のすべてが阿頼耶識に記録され、蓄えられています。そして、阿頼耶識と末那識からの情報に、私たちの言動や思考、意志が影響を受けているのです。 人それぞれ、阿頼耶識に蓄えられているものが異なります。そのため、人によって認識が異なります。同じものを見ても、「良い・悪い」「似てる・似てない」「綺麗・汚い」など、認識作用が違ってくるのです。それは、人によって蓄えているものが違うからです。 ですから、ものの見方を変えるためには、阿頼耶識に蓄えているものを変えなければなりません。溜まっているものが、濁った水であれば、少しずつ綺麗な水に入れ替えて綺麗にしていくしかありません。それが、認識作用を変える方法です。 いかがでしょうか? 今回は仏教について、「五蘊」「十二処」「十八界」「末那識」「阿頼耶識」などをまとめてきました。 仏教では人間は実体はないと言います。人間は構成要素が存在するだけです。その構成要素が、今回説明してきたものになります。 川も一部だけ切り取っても、それはその川の構成要素の一部にすぎません。人間もそれだけ(たとえば今の一瞬)を切り取っても、すべてだと言いきれないのです。ですから「空の教え」が重要になります。ということで、次回は仏教の「空」についてまとめていきたいと思います。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】・八つの識いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入ブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/18
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仏教の教えには、「四諦」という4つの真理があります。これは、苦しみの解決法を病気の治療法にたとえた4つのプロセスです。四諦の4つの真理とは、「苦諦・集諦・滅諦・道諦」です。 ・苦諦:生きることは本質的に「苦」である。・集諦:苦の原因は「煩悩」である。・滅諦:煩悩を消すことで「苦が消滅」する。・道諦:悟りを得るための「8つの道(=八正道)」。 この世は苦(思い通りにならないこと)に満ちた世界であり、我々は苦しみの人生を歩んでいます。苦しみには、様々な原因の集まりがあり、その原因が欲望や執着が限りなく生み出される煩悩です。苦の原因を取り除くことができれば、苦もまた取り除くことができます。苦の原因を取り除くためには8つの方法があり、それを八正道と言います。 渇愛とは?「渇愛」とは、自己本位な心によって自分の執着を貫く苦しみの根源です。渇愛は、人間の根源的な欲望です。苦しみの原因は渇愛であり、渇愛の原因は無明にあります。渇愛は、広くは「煩悩」を意味し、狭くは「貪欲」を意味します。 仏教において、「愛」は必ずしもよいことではないと説きます。本来の日本語での愛とは、自分を中心にして相手への執着を貫こうとする自己本位の心の働きのことです。そのため、仏教では「苦しみの原因は愛である」と言われています。 親が子を愛するがゆえに苦しんだり、恋人が異性を愛するがゆえに苦しんだりすることです。それは、砂漠で水を欲するような激しい欲求にたとえられます。 3つの渇愛渇愛には、3種類あります。 ①欲愛(よくあい):性的快楽、権力、快楽を激しく求める渇望。日常の生活のなかでの欲求。②有愛(うあい):いつまでも生き続けたい、死後に何らかの形で存在したいという望み。よい生活を送りたいなどの生存に対する欲求。③無有愛(むうあい):生存することに意味を見出せず、自ら命を絶とうとする欲求。自殺願望などに向かう虚無的な欲求。生存からの逃避の欲望。 この渇愛が原因となって、「苦」が生まれます。そして、渇愛の原因は、縁起の理を知らないこと(無明)だとされ、十二縁起に説かれています。 集諦では、苦の原因を渇愛と言います。滅諦では、渇愛を制すれば、欲望を感じなくなり、苦もまた滅びると言います。道諦では、渇愛を取り除くためには8つの道(八正道)があると説かれています。 安らぎの境地へ近づくためには?恥じなくてもよいことを恥じる人、また、恥べきことを恥じない人は、よこしまな見解を抱いています。それが悪いところへ赴く原因となります。また、恐れなくてもよいことを恐れたり、その反対に、恐れなければならないことを恐れない人は、よこしまな見解を抱いています。他にも、避けなければならないことを避けなくてよいと思ったり、その反対に、避けてはならぬことを避けてもよいと考える人は、よこしまな見解を抱いているでしょう。それらが、悪いところへ赴く原因なのです。 よこしまな見解や、悪いところへ赴くことは、八正道から大きく外れることです。八正道や四諦を理解するためには、まず四法印(三法印)を知ることです。 ・「四法印」①一切皆苦:この世の一切は苦しみである②諸行無常:あらゆるものは移り変わる③諸法無我:全ての物事は関係の中で成り立っている ↓この3つの真理がきちんと理解していれば悟りを得て、「④涅槃寂静:煩悩が消滅した、心安らかな境地」に至る。 ブッダは絶対的な存在に救済を求めるといった特別な方法ではなく、自分の心と真正面から向き合い、それをコントロールすることにより、自らを救い出すという現実的な道を示しました。自分の心をコントロールすることで、幸福感を得るのです。 「幸福の方程式」・幸福感=生産力(達成されたこと)÷欲望(欲しいと思う心)・幸福感=欲望のバランスを考える(+-)・欲望への執着を捨てる(-)(上座部仏教の場合)・幸福感=「足るを知る」ことで生産力をアップ(-)・欲望自体を少なくする(-)(大乗仏教の場合) 心を整える合理的な方法は、ただ自分がしたこと、自分がしなかったことだけを見ればいいのです。他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増えていくでしょう。他人の過ちを見るのではありません。他人のしたこと、しなかったことを見るのでもありません。まず自分を正しく整え、次に他人を教えることです。そして他人に教えるとおりに、自分でもおこなうのです。自分をよく整えた者こそ、他人を整えることでしょう。 無益な語句を千たび語るよりも、聞いて心の鎮まる有益な語句を一つ聞く方がすぐれています。無益な語句よりなる詩が千あっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞く方がすぐれています。戦場において百万人に勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者なのです。勝利すれば、恨みが起こり、敗北すれば、苦しみに悩まされます。勝敗を捨て去った者が、安らぎの境地へと向かうのです。 いかがでしょうか? 現代にある苦しみも渇愛を理解すれば、その苦しみから少しでも解放されるのではないでしょうか。ただ自分がしたこと、自分がしなかったことだけを見ればいいのですね。その自分との向き合いが、安らぎの境地への一歩目なのかもしれません。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・アバタローブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/17
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「四諦八正道」は、仏教の重要な教えのひとつとされています。四諦八正道とは、ブッダが修行の末、手に入れた心理のことです。これは、人間の苦悩が生まれるプロセスを分析し、どのような心構えで物事考え、対処していくべきかを説いた仏教の基本方針です。 この四諦八正道は、「人間存在の原理」に対処した考え方です。仏教では、人間存在の原理から、人間の苦悩やその対処法を考えます。人間存在の原理には、「三法印」という3つの真理があります。それが、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」です。 ・「諸行無常」:すべての物事は原因による結果としてあらわれる(縁起)ものなので、条件・原因次第で変化して止むことがないということ。 ・「諸法無我」:すべての事象に実体はないとする考え。このため、「わたし(自我)」も「わたしのもの(執着)」もない。 ・「涅槃寂静」:「諸行無常・諸法無我」のふたつの真理を知って、この世を見わたせば、苦しむ理由が何もなくなり、煩悩は消え去った境地・輪廻を解脱した境地「涅槃寂静」がおとずれる、と説く。 苦しみを解決する八正道を実践するためには、まずは物事の真のあり方を知る必要があります。そのために「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を理解し、「一切皆苦(四苦八苦)」があることを仏教の考えではベースとしています。 苦集滅道の「四諦」とは?四諦八正道とは、「四諦」と「八正道」の2つの言葉でできています。まず、「四諦(したい・しだい)」を見ていきましょう。 「四諦(四聖諦・ししょうたい)」とは、苦しみの解決法を病気の治療法にたとえた4つの真理のことです。また、覚りを得るための4つのプロセスのことでもあります。 「諦」とは、「明らかにする=真理」という意味です。「諦める」という言葉も、語源は「明らむ」であり、真理を明らかにすることを意味しています。では、四諦を1つずつ見ていきましょう。 四諦=「苦・集・滅・道」・苦諦(くたい):生きることは本質的に「苦」である。苦諦とは、苦しみの結果のことです。この世は苦(思い通りにならないこと)に満ちた世界であり、我々は苦しみの人生を歩んでいるという真理です。 ・集諦(じったい):苦の原因は「煩悩」である。集諦とは、苦しみの原因のことです。苦しみには、さまざまな原因の集まりがあるということです。苦しみには原因(欲望や執着が限りなく生み出されること=煩悩)があるという真理であり、苦の原因を渇愛と言います。 ・滅諦(めったい):煩悩を消すことで「苦が消滅」する。滅諦とは、結果のことです。苦の原因を取り除くことができれば、苦もまた取り除くことができるという真理です。渇愛を制すれば、欲望を感じなくなり、苦もまた滅びるということです。 ・道諦(どうたい):悟りを得るための「8つの道(八正道)」。道諦とは、八正道のことです。ゆえに原因でもあります。苦の原因を取り除くためには8つの方法(八正道)があるという真理です。渇愛を取り除くためには8つの道があるということです。 四諦は、ふたつずつ原因と結果の組み合わせになっています。病気の状態を知り(苦諦)、その原因を知り(集諦)、病気が完治した本来の健康な姿を知る(滅諦)。最後に病気を治すための治療法・薬を処方する(道諦)。 「集諦(原因)→苦諦(結果)・道諦(原因)→滅諦(結果)」 結果を見つめ、原因を探り、この因果関係を知ることで涅槃の理想へ向かって修行をする、ということが仏教の考えです。 8つの正しい生き方「八正道」とは?次に、八正道(はっしょうどう)を見てみましょう。八正道とは、ブッダが示した覚りを開くための具体的な8つの実践方法です。覚りを開くための実践方法であると同時に、煩悩を消し去る修行法です。八正道の根底には「中道の精神」が流れており、自身をコントロールして、苦しみの原因を取り除きます。 ①正見(しょうけん)正しいものの見方、正しい見解。偏見や固定観念に執着せず、縁起の理を見極めること。 ②正思惟(しょうしい)正しい考え、正しい考え方。真実をありのままに正しく考えること。 ③正語(しょうご)正しい言葉。嘘、悪口、間違ったこと、飾った言葉などを言わないこと。 ④正業(しょうごう)正しいおこない。無益な殺生や盗み、よこしまなことを避け、正しい行為をすること。 ⑤正命(しょうみょう)正しい生活。善行に努め、悪行をしない規則正しい生活を送ること。 ⑥正精進(しょうしょうじん)正しい努力。覚りに向かって、怠ることなくかたよりのない努力をすること。 ⑦正念(しょうねん)正しい心の在り方、正しい記憶。自分自身の身体やまわりの物事について正しい知識を心にとどめ、忘れないこと。 ⑧正定(しょうじょう)正しい瞑想、正しい注意。一挙手一投足に常に心を集中し、平静に行動すること。正しく精神統一(瞑想)すること。 縁起の道理を覚る境地「①正見」にいたるには、正しく心を統一すること「⑧正定」が必要です。そのためには、日頃の正しい生活「⑤正命」が欠かせません。すなわち「身(身体)口(言葉)意(心)の三業」から成り立つ人の行為を正すことです。これらそれぞれの行為を正しくおこなうこと「④正業・③正語・②正思惟」を実践することで、覚りに向かっての努力「⑥正精進」が可能となり、これを常に心に留めておく「⑦正念」が必要となります。 この8つの修行法は、「8つの正しい生き方」と言えます。ここでの「正しい」とは、客観的、合理的、偏りがないということです。正しさとは、固定されたものではないので、その時その時の場所において、何が正しいのかを客観的に見て判断することが必要になります。 ・「戒・定・慧の三学」「戒」=③正語・④正業・⑤正命を守れば「禅定」ができるようになる「禅定」=⑦正念・⑧正定を正しくできるようになんれば「智慧」を得ることができる「智慧」=①正見・②正思惟「全体」=⑥正精進 「中道の精神」とは?「中道」とは、あるがままを受け入れ、八正道に沿った生活を実践することです。中道とは「適正で中正な行為・歩み・道」という意味で、両極端な快楽主義や苦行主義のどちらにも傾かない、バランスの取れた生き方や考え方のことです。これは、両極端なものの見方を離れて、バランスの取れた姿を見ることです。 中道とは、二極の動きにも左右されない姿勢のことで、普遍的で道理にかなった基準です。たとえば、「快楽と苦行」のどちらにも偏らないことです。「苦行」に偏れば、自分で自分を苦しめることに夢中になり、「快楽」に偏れば、官能に導かれるままに快楽にふけることになります。このように、「快楽と苦行」「常見と断見」「有と空」「空と仮」のような両極端のことを「二辺(にへん)」と言います。 ・「断見(だんけん)」=現世と来世は断絶するという考え方。現世と来世は関係なく、人は死んだら何も残らないこと。・「常見(じょうけん)」=現世と来世は連続するという考え方。人は苦がなくなるまで輪廻を延々と繰り返すこと。 では、中道を歩むためには、どうしたらいいのでしょうか? これは、八正道に沿った生活を実践すれば、苦にも楽にもかたよらない中道を歩むことができる、と仏教では説いています。中道の精神で、バランスの取れた考え方をし、煩悩を消し去るのです。 いかがでしょうか? 今回は「四諦八正道」について詳しく見てきました。 四諦を見ていくと、この世には2組の原因と結果の組み合わせがあるようです。一つは、「良く生きれば、良い人生になる」、もう一つが「悪く生きれば、悪い人生になる」と言い換えられるかもしれません。 そして、仏教では正しい生き方を八正道として体系的にまとめています。「正しい考え・正しい言葉・正しい行い」をすることで「正しい生活」になります。それが「正しい注意」をはらえるようになり、「正しいものの見方」を生みます。そしてそれによって、「正しい心」を持てるようになるのです。さらに、それらを続けていく「正しい努力」が大事になります。 この八正道は、一つひとつが必要な要素であり、どれも循環して成り立っているようですね。「四諦八正道」から生き方を学ぶことで、現代人が感じている生きづらさも、解放されていくのではないでしょうか。さて次回は、苦の原因と言われている「渇愛」を詳しく見ていきたいと思います。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入キャラ絵で学ぶ!仏教図鑑 [ 山折哲雄 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・アバタローブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/16
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仏教の考え方の出発点は、「人生のすべては苦しみである」というところにあります。そして、それを理解したうえで「涅槃寂静(仏教の到達点)」を目指しましょう、と説きます。 「生きている限り四苦八苦を避けることはできない」という疑問が仏教の出発点です。では、この四苦八苦(一切皆苦)とは、どんなものなのでしょうか? 仏教は「人間の苦しみ」を体系的にどうやって説明しているのかを、今回は見ていきたいと思います。 苦の根本原因とは?苦の根本原因をたどっていくと、「無明」ということにたどりつきます。無明とは、真理がわからない無知であることです。この無明を滅することができれば、最終的にある老死という苦しみも無くすことができると言います。 「十二縁起(じゅうにえんぎ)」という12の段階の考えがあります。これは、縁起の観念から、老死という苦しみの原因をたどっていくと、無明という根本の原因までたどりつくという段階的な考え方です。十二縁起とは、苦の根本原因を因縁生起によって明らかにすることです。 ①無明(惑)②行(業):前世での無知で愚かな行為、間違った行為③識:↑によって現世に受胎し認識を得る(間違った認識)④名色:胎内で心身を発達させる(認識の対象)⑤六処:感覚器官が育って誕生(感覚器官)⑥触:2~3歳頃までものに触れる(外界との接触)⑦受:6~7歳頃に苦楽を識別して感受する(感受作用)⑧愛:15歳頃から欲を生じる(激しい渇愛)⑨取:15歳頃から執着し始める(執着)⑩有:↑によって来世への輪廻が決定する(生存・存在)⑪生:生まれ変わり(生まれること)(事・苦)⑫老死:ふたたび苦しみを味わう(老い、死ぬこと)(事・苦) 「順観(じゅんかん)」(原因→結果、①→⑫)とは、無明があるからその先に老死という苦があると順に考える方法です。「逆観(ぎゃっかん)」(結果→原因、⑫→①)とは、老死の原因をたどっていき、根本原因である無明までいきつく考え方です。 四苦八苦(一切皆苦)とは?生きることは本質的に「苦」である、と説かれている仏教には、四苦八苦(一切皆苦)という苦しみを体系的に説明したものがあります。「苦」とは、思うようにならないこと、欲するようにならないことなどの意味を持つ語です。 そして、その中には「避けられない苦しみ」である四苦(生まれること・老いること・病むこと・死ぬこと)と、「日常でよく経験する苦しみ」である八苦(愛するものと別れること・憎むものと出会うこと・欲しいものが手に入らないこと・肉体と精神が思うようにならないこと)があります。 ・「四苦」(生きることは苦である)四苦とは、誰もが避けることができない根源的な苦しみです。生まれたときから、日々死に向かって進み続け、その過程に老い、病をわずらい、死が訪れる、という苦しみがあるということです。 ①生苦(しょうく):生まれることの苦しみ。だれでも生まれる時代や場所を選べないこと。②老苦(ろうく):老いることの苦しみ。③病苦(びょうく):病にかかることの苦しみ。④死苦(しく):死ぬことの苦しみ。 ・「八苦」(社会生活の4つの苦)八苦とは、四苦に社会生活上の苦しみである4つを加えたものです。 ⑤愛別離苦(あいべつりく):愛する者と死別し、生き別れしなければならない苦しみ。愛しい人とも別離する苦しみ。⑥怨憎会苦(おんぞうえく):会いたくない人とでも会わなければならない苦しみ。うらみ憎しみのある人と会わなくてはならない苦しみ。⑦求不得苦(ぐふとくく):求めても満たされない苦しみ。とめどなく出てくる欲望や欲求がある限り、この苦から逃れることはできない。これはみずからがつくり上げた苦しみでもある。求めても手に入らない苦しみ。⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく):自分の意思に反して身心が思い通りにならない苦しみ。病気や老い、死など。「五蘊」とは、色(肉体)・受(感受)・想(観念)・行(心の働き)・識(認識)の5つのこと。五蘊盛苦は八苦のほかの七苦をひとつにまとめたものとも考えられ、五蘊の集まった人間という存在・生存そのものが苦である、という意味。 あらゆる精神的・肉体的要素である「五蘊」は、苦(四苦八苦)であるということとまとめられます。「五蘊皆空(ごうんかいくう)」という言葉があり、人間界の現象や存在はすべて実体がなく、空であるということです。人間は五蘊が仮に束になって成り立っているだけで、自我や霊魂など実体的なものはない、という考え方です。また、「説一切有部」という言葉は、人間は実体ではないが、存在の構成要素は実在する、と説いたことです。 心につきまとって心を汚す煩悩人間が苦しみを抱えている原因は、煩悩にあります。煩悩とは、自分自身や自分の所有物に執着してしまう迷いの心です。たとえば、若さに執着すると年追うことごとに苦しくなることです。 煩悩のもとの言葉である「クレーシャ」は、「汚すもの」という意味です。ここから煩悩は、「心につきまとって心を汚すもの」を意味します。煩悩は、自己中心的な考え方や、自分自身への愛執から起こり、身心を悩ませて、正しい判断を妨げ、苦を引き起こす心の働きと考えられます。 煩悩の根源は、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の「三毒」にあります。「貪・瞋」の原因は、「痴(=無明)」にあります。無明を知ることで、煩悩の根源「三毒」を断ち、苦しみから解放されるのです。 ・「三毒」=身心をむしばむ根源的な3つの煩悩「貪・瞋・痴」(つねに身体に付き溜まるあかにたとえ「三垢(さんく)」と呼ばれる)①貪欲(とんよく):むさぼり、執着すること(一般的な欲望を意味する)。②瞋恚(しんに):人に対して嫌悪、憎悪、怒り、拒絶反応を示すこと。③愚痴(ぐち):真実に暗いこと、無知(=無明) ①②の感情を捨て去らない限り、苦はなくなりません。諸行無常という真実(すべての事象は移り変わるということ)を知らないという無知から、①②が起こり、苦しみは生まれます。この真実を知れば、心は①②の煩悩を離れて、苦しみから解放されるのです。 煩悩に打ち勝つための5つの心構え他にも煩悩には、 ・「見」=愚痴によって起こる種々の見解・「疑」=業や果報、三宝などに対する疑い・「慢」=己を高く見、他を軽蔑する心 などがあります。俗に108あると言われています。そして、「五戒」という煩悩に打ち勝つための5つの心がけがあります。 ①「不殺生戒(ふせっしょうかい)」=生き物の命を大事にする。②「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」=人のものを盗まない。③「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」=きよらかなつきあいをする。④「不妄語戒(ふもうごかい)」=ウソをつかない。⑤「不飲酒戒(ふいんじゅかい)」=お酒を飲まない。 煩悩は身心(肉体と心)を悩ませて苦を引き起こします。ですから、煩悩を抑制して、心が清められれば、苦から解放されるのです。 いかがでしたでしょうか? 人間は、人間として存在しているからこそ、「年をとり若さが失われていく苦しみ」「病気の苦しみ」「最後には死んでしまう苦しみ」などの人間の苦しみを持っているのです。だから、ブッダは『そもそも、生きることは苦しいことである』と結論づけたと言えます。 そして、「なぜ苦しいのか」という問いには、『思いどおりにしたいのに、思いどおりにならないから苦しいのだ』と言っているのです。そこには、「煩悩」がります。「思いどおりにしたいという心」が苦しみの原因なのです。 仏教の教えの中では、苦しみが多い世の中でも、幸せに生きることができますよ、と説いています。その教えとは、ブッダが修行の末に手に入れた心理である「四諦八正道」です。この四諦八正道には、どんな教えがあるのでしょか? 次回は、この四諦八正道を詳しく見てみましょう。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。 【参考文献】キャラ絵で学ぶ!仏教図鑑 [ 山折哲雄 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/8/11時点)楽天で購入いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・アバタローブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/15
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仏教とは、「苦しみが多い世の中でも、幸せに生きることができますよ」というブッダが説いた幸せに生きるための教えです。ではなぜ、この世の中には、苦しみが多いと考えるのでしょうか? その理由を、仏教・ブッダの教えから見ていきましょう。 縁起とは何か?ブッダが覚りのなかで得たのは、「苦」と切り離すことのできない縁起の理法でした。その縁起の理法とは、「物事に偶然は存在せず、すべての事象は縁起して成り立っている」ということです。ちなみに、縁起は「因縁生起(いんねんしょうき)」の略です。 「縁起(因縁生起)」とは、あらゆるものは「因」という結果をまねく直接の原因と、「縁」という因を補助する間接的な条件が、お互いに関係し合って生じたり滅したりする、という意味です。すべての事象は何かを縁(条件)にして存在しています。独立して存在しているのではないのです。 「因=原因、縁=諸条件、生起=結果」 また、因が縁となることもありますし、縁がほかの因となることもあります。すべてのものが因や縁となって、互いに物事の生滅に関わっているのです。 すべては縁起している世界中のすべてのものは、お互い複雑に関わり合いながら縁起しています。ということは、単に一つひとつのものが集まって全体をつくっているのではなく、それぞれの関わり合いが全体なのだ、と仏教は説いているのです。 「無常」「無我」という考えは、縁起から生まれました。 「無常」とは、原因や条件が変われば、当然生じる事柄も変化するので、いつも同じ状態であり続けるもの、永遠に変わらずに存在するものなどはない、ということです。 「無我」とは、人間や動物、木や草、土など一つひとつのものは、全体があるから存在することができ、逆に、個々の存在が世界などの全体を支えており、ほかとの関係から独立した「自己」は存在しないということです。 縁起や因縁とは、善し悪しとは離れた物事の本質(本当のありよう)を示す言葉なのです。 仏教の出発点と到達点仏教教理のベースに、三法印(四法印)があります。これは、仏教が最も大切にする考え方です。三法印とは、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という3つの考え方です。「一切皆苦(いっさいかいく)」を加えて「四法印」とすることもあります。では、この考え方を一つずつ見ていきましょう。 ・諸行無常「すべてのものは変化し続けており、永遠に不変なものなどは存在しない」「すべてのものは絶えず変化・生滅していて相続し、不変のものは無い」という考え方です。今の状態がいつまでも続くと錯覚し、こだわりを持つと、病気や死をはじめとする、さまざまな変化が起こったときに苦しみが生じます。無常であることを知り、物事を見れば、何事にも動じず苦しむこともなくなる、ということです。 ・諸法無我すべてのものは「因縁」によって生じたもので実体は無く、独立して成り立つものは無いので「自己」は存在しない、という考えです。自分のものだと思っているものも、また自分の心さえも、思い通りになるものは何もないのに、自分のものだと思い込むから、苦しみが生じるのです。「わたし」「わたしのもの」という執着を離れるように説いています。 ・涅槃寂静「あらゆる煩悩を滅した、苦の存在しない覚りの境地(涅槃)は安らかである」という意味です。諸行無常と諸法無我を知ることで、涅槃寂静を得られます。すべての苦しみは、欲や執着などの「煩悩」によって引き起こります。その煩悩を滅し去れば、静寂で安らかな世界に入ることができ、これを涅槃(完全な解脱)といい、仏教の理想であり、目的でもあります。 ・一切皆苦(=四苦八苦)「人生のすべては苦しみである」「生きている限り四苦八苦を避けることはできない」ということです。この疑問が仏教の出発点と言えます。 つまり、「仏教の出発点は一切皆苦」であり、「仏教の到達点は涅槃寂静」なのです。 ブッダが修行して得た結論は、「そもそも生きることは苦しいことである!」ということでした。ですからスタート地点は、一切皆苦(四苦八苦)を理解するところにあるのでしょう。では、仏教では、この苦しみを体系的にどう説明しているのでしょうか? 次回は、「人間の苦しみ」について詳しく見てみましょう。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。【参考文献】いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入キャラ絵で学ぶ!仏教図鑑 [ 山折哲雄 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・アバタローブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/14
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今回から仏教について簡単にまとめていきたいと思います。仏教でのキーパーソンは、ブッダ(釈迦)です。はじめに、ブッダはなぜ出家し、そして修行の末、何がわかったのかを見ていきたいと思います。 ブッダとは?仏教は、紀元前5~6世紀頃に生まれたゴータマ・シッダールタ(釈迦)によって創始された宗教です。ブッダ(仏陀)とは、名前ではなく「悟りをひらいた人」を意味する称号になります。 ブッダ(釈迦)には、「四門出遊(しもんしつゆう)」というエピソードがあります。これは、ブッダがまだ出家していない太子のとき、宮殿の4つの門を通り、老人、病人、死人、出家者と出会い、人生の苦しみを見たことから修行の道に進む決意をした、という話です。そして、ブッダは29歳で出家しました。 ブッダは修行で何がわかったのか?ブッダが修行の末、手に入れた心理を「四諦八正道(したいはっしょうどう)」と言います。 これは、人間の苦悩が生まれるプロセスを分析し、どのような心構えで物事考え、対処していくべきかと説いた仏教の基本方針です。 四諦八正道とは、「四諦」と「八正道」の2つがくっついた言葉です。 苦集滅道(くじゅうめつどう)の「四諦」とは、苦しみと、その解決方法を、「病気の容態・病因・快癒・治療法」にたとえて、4段階に分けた教えのことです。四諦とは、「苦を滅する手順のこと」です。 「八正道」とは、苦しみの治療法・解決法にあたる四諦の中の「道諦(どうたい)(=正しい実践)」を詳しく説いたものです。八正道とは「覚りに到達するための具体的な実践方法」です。 ブッダの教えの概略仏教の基本方針である四諦八正道は、「人間存在の原理」に対処した考え方です。仏教では、人間存在の原理から、人間の苦悩やその対処法を考えます。 『人間存在の原理』・「縁起(苦の根本原因)」:因縁によって万物が生じ起こること ↓・「三法印(3つの真理)」=諸行無常(すべての事象は移り変わる)、諸法無我(すべての存在には主体がない)、涅槃寂静(煩悩の吹き消された覚りの世界は静かな安らぎの境地) ↓・「一切皆苦(四苦八苦)」:生きること自体、苦であること ↓・「四諦」=苦を滅する手順 ↓・「八正道」=具体的な実践方法 ↓・「解脱(輪廻から解き放たれた苦のない世界)」←目標とするところ この世には、縁起があり三法印があるから、「生きることは本質的に『苦』である(一切皆苦)」ということが人間存在の原理です。一切皆苦が、仏教においては人間の必然的な姿になります。だから、苦を滅する手順を知り、その具体的な実践をしましょう(四諦八正道)、ということに繋がります。 そして、仏教の目標とするところが「解脱」です。これは、輪廻から解き放たれた苦のない世界(あらゆる苦しみから解放された平安の境地)を目指しましょう、ということです。 いかがでしょうか? 仏教では、「生きることは本質的に『苦』である(一切皆苦)」ということが原理にあるようです。ではなぜ、ブッダはそのような考えに至ったのでしょうか? 次回は、この人間存在の原理を、もう少し詳しく見ていきましょう。 それでは読んでいただき、ありがとうございます。 【参考文献】いちばんやさしい ブッダの教え【電子書籍】[ 田上太秀 ]価格:770円 (2023/8/11時点)楽天で購入キャラ絵で学ぶ!仏教図鑑 [ 山折哲雄 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2023/8/11時点)楽天で購入【参考動画】・アバタローブログ村の「本ブログ」のランキングに参加中です!いつも応援クリック、ありがとうございます♪
2023/08/13
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