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大谷幸三『ヒジュラに会う』(ちくま文庫)を読了。学生時代にひと月半程の間インドを旅したことがある。デリーからダラムサラへと北上する列車の中である奇妙な出来事に出くわした。列車の進行方向に向かって右上隅の位置に進行方向に伸びる寝台に、頭を進行方向に向けて私は横たわっていた。時は夜だったように思う。目をつむり、眠ろうと努めていた。車両の後ろ方向(つまり、私の足下の方向)からなにやらにぎやかな音が聞こえてくる。楽器かなにかを鳴らしていたのか、歌を歌っていたのか、今では定かには覚えていない。また物乞いが来たんだろうと思い、私はそのまま寝たふりをすることにした。その音は次第に私のいる位置へと近づいてくる。そして私の真横で止まった。トントンと誰かが私の肩をたたく。私は目を開けて横を向く。寝台は高い位置にあるので、私はその人の顔を目の前に見下ろす恰好となった。薄汚い恰好をして白い髭をぼうぼうに伸ばした老人であろうという私の予想は間違っていた。私の目の前にあったのは30代から40代くらいと見られるぎょろっとしたおかまの顔だった。それは女性と見間違えるような女性らしいたおやかな顔だちではなく、ひと目で男だとわかるゴツゴツとした骨格のおかまの顔だった。確か顔には派手な化粧をしていて、インド人女性と同じように華やかな露出度の高い女装をしていた。肉付きのよい体格をしているが、女性らしいしなやかさはなく、彼が男であることを物語る骨格をしていた。一瞬私は心の中でたじろいだ。これは何かの冗談だろうという心持ちがした。施しを求める彼に対して、私は施しを与えるつもりはないと手振りで意思表示をして就寝体勢に向き直ろうとした。するとその男は「なんだとこの野郎」というような勢いで怒りの形相を見せ、私の寝台に上がってこようとした。おいおい、ちょっと待てよ、と思いながら私は今一体何が起こっているのかの状況確認をしようと、周りの乗客の方に目を向けた。私の寝台の横向いの座席に座っていた40歳くらいの男が笑いながら、片手で5の数字を示しつつ、施しを与えてやるように合図をした。とにかく寝台に上がってこられるのは堪らないので私は財布の中から5ルピーを取り出し、彼に与えようとした。そのお札を見た彼は、「なんだこの野郎、ふざけんじゃねえぞてめえ」との怒りの形相でまたもや私の寝台に上がってこようとする。周りの乗客達はそれを見て笑い転げている。一体何が起こっているのだと、私はまた先程の男性の方に目で助け船を求める。男はまた片手で5の数字を示して、もう5ルピーやれと合図してくれる。納得できないながらも背に腹はかえられず、合わせて10ルピーをその物乞いに渡してやると、「分かればいいんだ、分かれば」という様子で受け取ってさっさと去っていった。普段はポーカーフェースの私もさすがにこの時ばかりは面食らってしまい、不思議の形相で、説明を求めようと他の乗客たちの方に目を向けたのだが、彼等はただ笑っているだけで説明してくれようとはしなかった。どうやらこれはよくあるいつものことらしかった。それにしてもこれは物乞いなんかではない。恐喝だ。そんな恐喝を、笑って見過ごすとは一体どういうことなのだろう。この時の出来事は長年のあいだ私の中で、説明のつかない奇妙な出来事として残り続けた。その謎は、昨年の末ごろだったろうか、村上春樹氏の『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』を読んだ時にようやくにして氷解した。『月曜日は』の中に、ジョン・アーヴィングについてのある英語記事の翻訳が収録されている。アーヴィングに『サーカスの息子』というインドを舞台にした長編小説がある。それに「ヒジラ」というある集団が登場するらしいのだが、ダラムサラ行きの列車の中で私を恐喝したあの男はどうやらそのヒジラの一人らしかった。大谷幸三『ヒジュラに会う』は、そのヒジュラという集団に関心を持つようになった著者がヒジュラの謎に迫ろうと試みた軌跡を記すノンフィクション作品だ。筆者がヒジュラに初めて出会うところから、彼等に関心を持ちその秘密を探ろうとインド各地のヒジュラに取材を続ける彼の歩みと同時並行する形で本書は進んでいく。筆者は文章力に優れインドについての知識も豊富で、読み応えのある本に仕上がっている。だが、ヒジュラとは何なのかという答えは結局見つからなかったように見える。結局のところヒジュラと呼ばれたり自称する人たちを同じ一つの定義で括ることには無理があり、僧に喩えることができるような宗教的なヒジュラもいれば、半陰陽に生まれついたり性同一性障害に悩む人たちがヒジュラになることによってこの世への適応の場を見つけようとした場合もあれば、生活のためにやむなくヒジュラになった人もいれば、ホモセクシャルでヒジュラになった人もいる。私が列車の中で出会ったヒジュラは、デリーあたりのヒジュラの典型であったようだ。施しを求めるのに何故か堂々として偉そうな態度をしている。相手が施しを断れば性的なモーションをかけて、何が何でも金を出させようとする。そして決して諦めない。どこかで結婚式があると知れば結婚式の場へと出かけていく。どこかで赤ん坊が生まれたと知れば、その家に出かけていく。そしてほとんど恐喝の形で、強引に喜捨を支払わせる。相手が払おうとしなければ、ガヤガヤと騒々しく楽器を鳴らしたり歌を歌ったり踊ったりする。時には素っ裸になって踊りさえする。そういった嫌がらせをして、払うまで決して帰ろうとはしない。名目上は結婚や出産の祝福のようなのだが、それにしてもおかしな祝福の仕方だ。こんなヒジュラたちは一般のインド人からは部外者としてほとんど黙殺されて笑いものにされているらしい。カーストの枠からもはみ出しているようだ。彼等がやってきて喜捨を求めれば、厄介な奴らが来た、ああ運が悪いなと諦めて、渋々でも喜捨を払って追っ払うしかない。おそらく誰も恐喝罪で訴えようとはしない。おそらくは警察も取り締まろうとはしないのだろう。ヒジュラたちはずっと昔からインドにいたらしいのだが、彼等についての文献は皆無に等しい状態だという。このことからもいかに彼等がインド社会から無視されてきたかが分かる。最後に一つだけ引用を。「ヒジュラには一般の人間とは違う、何か特別の生活はないのですか」という筆者の問いに対して、デリーのヒジュラファミリーの長チャマンはこう答える。「人の人生に、特別に変わったことなどあるはずがないでしょう。神を信じ、仕事に励み、休息を得たとき、自らの生涯を神に感謝する。誰でも同じですよ」(58)
2007/01/28
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黒澤明『野良犬』を観た。黒澤映画を観るのは随分久しぶりで、本数もさほど観ているわけではないのだが、世間の評価通りの素晴らしい監督だと感じた。本作はなんといってもエンターテイメントとして面白く、緊迫感が全編を漲っており、最初から最後まで気が抜けることがなかった。基本はエンターテイメントなのだが、ただのエンターテイメントでは終わっていない。黒澤の人間を見る目、世の中を見る目の鋭さを感じさせる部分も多く見られた。この作品の中で描かれている数日間は猛暑だった。この暑さは作品の筋とほとんど何も関係がなく、筋に影響を与えてはいない。黒澤はこの暑さの演出にこだわったらしいが、その努力はまさに実を結んでいると言える。今暑さは筋に関係がないと言ったが、まったく関係がないと言うのは誤りだろう。暑いだとか寒いだとかいったことは、人の感情や行動に大いに影響しているものだ。これは自分の身を振り返ってみれば誰にも明らかなことだろう。こんなにも重要な気温というものが重要な要素として描かれている作品は小説にも映画にも実に少ないのではないだろうか。暑いですねえ、暑いなあ、というようなセリフを我々は日常生活において実にしばしば口にしたり心の中で思ったりするものだが、それに比較して文学や映画の作品の中でそれに触れられることは実に少ない。それに触れない作品は、人間の感情や行動に大きな影響を与えている暑さ寒さの感覚を作品世界から除外し、その分だけ作品を平板化していると言える。本作品はその盲点を突き、しかもそれを強調した形で提示している。この作品から暑さに関する要素をすべて切り取り、作品の筋はそのまま残したとしても、まったく問題なくその筋は成立するだろう。だが、そうすればこの作品の味は多少減じられることだろう。「多少」と言ったのはこの作品の味の総和が非常に多いものであるから、少なからずの分量の味が減じたところで、味の総和から見ればその減分は「多少」と呼ぶのが相応しいだろうからである。10が3になれば「少なからず」だが、100が93になったのであれば「多少」と呼ぶのが相応しい。あと、大げさな演技がなかったのも気に入った。私はどうも大げさな演技や、いかにも演劇的な演出といったものが嫌いで、テレビドラマなどは一シーンを見るだけでうんざりとして逃げるようにしてテレビのある部屋から退散してしまう。だがこの作品にはそういう嫌な演劇性が微塵もないといっていいくらいで、そういうものを目指した黒澤のセンスに私は共感するし、そういう演劇性を拝しつつもこれだけの完成度の作品を作った彼の手腕に感服する。そういう演劇性は、一般に作品を作りやすくする安易な手段として無自覚に利用されているものと感じられるからだ。他にもこの作品の良いところは沢山あるが、その説明は省略します。
2007/01/27
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映画『ヒトラー』(Hitler A Career)を観た。ヒトラーの生い立ちから死までを辿るドキュメンタリー。ヒトラーという人にはこれまであまり関心をもったことがなく、どういった人なのかほとんど知らずにいたのだが、この映画を観ていて、やはり精神的にかなり偏ったところのあった人なのだなと感じた。精神病というところまで行っていたかどうかはよく分からないけれども。この映画を観た翌日の朝だったろうか、私が一国の首相だったら到底その責任の重圧に耐えられないだろうなという感覚とともに目を覚ました。一国の首相というのは考えてみれば大変な責任感のある仕事だ。日本の首相なら、一億三千万ばかりの日本国民の生活を左右するわけだ。もちろんそれに足して他国の国民の生活をもいくばかりかは左右する。アメリカの大統領の責任の重圧はもっと重いはずだろう。そんな重圧のかかる職に自ら望んで就こうとするとはどういうことなのか。就任した時に嬉しそうな顔を見せるのはどうしたことなのか。アメリカ大統領のあの暢気な顔は一体どういったわけなのか。一国の首相になろうという人間の精神は、やはりある特殊な方向に偏り硬化してしまっているのだろう。責任の重さをいつも感じていてはとても安らかには生活できないわけだから、責任感を鈍化させなければやっていられない。それを鈍化させる代わりに、私は一国の首相なんだぞ、とても名誉ある職についているんだ、私は偉い人間なんだ、という優越感を増幅させているのかもしれない。一国の首相たるもの、自分が国民の生活を左右しているのだという責任感を常に強く感じていていただきたい、などということはもちろん言わない。職業柄、脳天気になるのはやむを得ないことで、それは必要悪でもあるだろう。ただしそれを抜きにして考えると、当然感じるべき責任感の重圧と比較してあまりにも少ししかそれを感じていないように見受けられることに関して、少なからず奇妙な気持ちを覚えるのだ。『ヒトラー』に話を戻す。観ていて特に印象的だったことの一つは、ドイツ国民(の一部)がヒトラーを英雄崇拝するその激しさだ。今の日本でも、例えばコンサート会場などのように、有名人とそのファンが集うところでは同じような光景が見られる。例えば空港でたまたま有名人に出くわしたとき、別にそのファンでない人でも彼を見て興奮したりするのではないだろうか。有名人は輝いて見える、一般庶民にはないオーラがあるという話はよく聞く話であるし、実際そういうものなのだろう。この輝きやオーラといったものは、何も有名人その人が持っているものなのではなく、見る人にそう感じられるということに過ぎないのだが。例えば今の選挙運動では、立候補者が有権者に握手をして回るというのが重要な活動の一つになっている。この握手って一体なんなんだろう? 自民党が圧勝したこの前の総選挙の時に、ある候補者が電車の中で乗客に握手をして回っている写真が新聞に掲載されていた。この人は一体何を考えているのだろうと少なからずあきれながらも、仮に私がその場所にいて握手を求められたとしたらどう応対しただろうかと想像した。おそらく嫌々ながらも手を差し出しただろうという気がした。だいたい見も知らぬ人と握手なんてしたくないし、そんな欲得ずくの握手ならなおさらだ。ところが、選挙運動の光景を映すテレビ映像には、候補者と嬉しそうに握手をする有権者の姿が実にしばしば映し出されている。握手できて心から喜んでいるのか、内心では嫌だなあと思いながらも相手に気を遣って笑顔を作っているのか、あるいは側にテレビカメラがあるのが分かっていてテレビに出られるかもしれないと思って嬉しいのか、まあ人それぞれだろうけれども、それにしてもこの光景は見ていてどうも奇妙な感じを受ける。『ヒトラー』の中でヒトラーと嬉しそうに握手をするドイツ人の大人や子供達が映し出されていた。これを見ながら私は、上に挙げたような選挙運動の一光景を思い浮かべたわけだが、ヒトラーと握手をした人たちの中では、おそらくその後ヒトラー崇拝の気分が固まったのではなかろうかと思ったのだった。握手をした瞬間、その相手が特別な人になる。この効果は一体何なのか。もう一つ思ったこと。あの戦争(第二次世界大戦)は一部の有福者の欲得が引き起こした出来事だということ。一部の人間の欲得が、他人をかくまでの不幸に陥れることがあるのだということ。そしてそれは世の習いですらあるということ。足るを知るということがどうして出来ないのか。さらには類推で、現代文明をこれ以上に発展させる必要はあるのかということも思った。私は歴史のことはほとんど知らないのであくまでも私にはこう思われるというだけで、こうだと言うつもりはないのだが、あの戦争を引き起こしたのは何もヒトラーや彼に組する一部の人たちの責任なのではなく、ヒトラーに共鳴し英雄視した数多くの一般ドイツ人たちの責任も無視できないだろう。その前にベルサイユ条約がありドイツ国民が貧困に喘いでいたというのもあるが、有名人を見たり握手をしたりしたというだけで興奮するといった性質や、自己中心的であるといった性質などの人間一般の性質もまた、あの戦争を引き起こすのに大きく寄与していたように思う。そういった人間一般の性質は別にそれ自体では悪いものではなく、その中には愛すべき性質も多い。だが、無判断にそのような性質に流されてしまった場合には、大きな悲劇を招くことがある。例えば自己中心性を例にとろう。自己中心的であることは必ずしも悪いことではないし、遠くの他人よりも近くの家族や友人を大切にすることは美徳であるとすら言える。ただしそれには限度があり、度が過ぎればそれを鋭敏に感じ取る感知能力を持っているということは大事だということだ。普段は人間的な自然な性質に身を任せながらも、時々で自分と自分の周りの状況を客観視して公正な判断をするということが大事なのではないか。この映画のタイトルは『ヒトラー』(Hitler A Career)であるが、ヒトラーを描いたドキュメンタリーであるとするのは一面的で偏った見方であり、ヒトラーとそれにまつわる人たちのドキュメンタリーとみる方がより適切であろう。タイトルとしては“A Hitler and Men”などを思いつくが、これだとセンセーショナルだということになるだろうか。仮にこのようなタイトルで発表されたとしてもセンセーショナルとされないような世の中こそ洗練されていると思うのだが。(蛇足ですが、“a Hitler”は「ヒトラーのような人」の意です。)
2007/01/27
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先に涙に触れたので、涙について思うところを一つ。涙に騙されてはいけない。涙というものはやはりインパクトがあるし強い強制力を持っている。人を泣かせたら悪いことをしたなと思ってしまいがちなものだし、子供の兄弟喧嘩なんかでもどちらかが泣いたところで喧嘩がひと段落つくものだろう。それは、涙というものが普通自分の意志によって出すもののできないことであり、いわば本能から湧き出てきた自然な反応であるとみなされるからだろう。ところが人の涙にもいろいろと種類のあるものであり、純粋な涙もあれば歪んだ涙もありわがままな涙もあれば独りよがりな涙もあるものだ。人の涙に接した時にいやあな思いをすることがあるが、それはそういう涙の欺瞞であったり空空しさであったりを感じる時であり、それが持つ水戸黄門の印籠のような強制力と相俟って、いやあな思いを感じることになるのだ。それぞれの涙がどういう意味を持っているのかを、出来るだけ多くの人が、出来るだけ正しく感じ取れるものであって欲しいものだと思う。
2007/01/21
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小津安二郎『東京物語』を観た。噂に聞いていた通りのいい映画だったというのが第一番の表面的な感想なのだが、少し反省してみるとリアリティという面ではどうなのだろうという気がする。前にも述べたような気がするが、リアリティがあるかないのかなどは二次的なものであり感動できるものなら素直に感動しておくがよいとも思うのだが、騙されて感動するというのはどんなものかという気はやはりするのだ。どんな感動であれ、多かれ少なかれ騙されているのだと言おうと思えば言えるだろう。騙されていない感動なんてものはないということはおそらく真実なのだろう。普遍的な真理などというものがないのと同様、普遍的な感動なんてものはないわけだし、個人的絶対的真理というものが主観的なものであるのと同様、個人的絶対的感動も主観的なものでしかありえない。とはいうもののやはり程度の違いというものはあり、騙され度の高い感動に対してはやはり防御的であるべきなのではないだろうか。私が『東京物語』から受けた感動が騙され度の高い感動だったとは思わないが、ちょっと騙されているっぽいなというところはある。それは笠智衆と東山千栄子がそれぞれ演じる平山周吉ととみとが良い人過ぎるということだ。物語は周吉ととみが尾道の自宅から息子と娘が暮らす東京へと遊びに出かけるところから始まる。長男の幸一(山村聡)、長女の志げ(杉村春子)はそれぞれ家庭を持ち、幸一は医者、志げは美容師として忙しい生活を送っている。そこに親の周吉ととみとがやってきて、表面的には一応歓迎している風を装うが実のところは厄介に思っている。周吉ととみはすでに60代の後半から70代くらいにはなっており、東京の都会に来るのも生まれて初めてというのもあり、誰かの案内なしに二人で観光に出かけるというわけにもいかない。長男夫婦も長女夫婦も時間を作ることが出来ず、親を観光に連れに出ることもできない。それで周吉ととみは、わざわざ尾道から東京まで出てきたというのに、一日中家の中に閉じこもって尾道にいるのと変わらない日々を過ごしているなんてことになっている。そんな中でただ一人、戦争からまだ帰ってこない(おそらく戦死した)次男の妻紀子(原節子)だけが、わざわざ仕事を休んで二人を東京見物に連れていく。二人は自分たちが息子と娘から邪魔に思われていることを察して早々に東京を発つことになるわけだが、彼らが自分たちを邪魔に思っていることに気づいている素振りなどはちっとも見せず、いろいろとお世話になってありがたいという様子である。そんな二人の様子をずっと見せられていて、二人はなんて人がよいのだろうという印象を持つと同時に、歳のせいで大分頭の働きが鈍感になっているのではなかろうかという印象も受ける。ところが、東京を去り大阪の次男の家に泊まっている時にだったか、長男も長女も昔はもっと優しい子どもだったが・・・などと二人でしみじみと語る。ここで初めて私は、二人とも子どもたちが自分たちに対して冷たいと感じていたんだとはっきりと知ることになり、二人はあながちお人好しではなかったんだな、ちゃんとまともな感受性を維持していたんだなと知ることになったのだった。とはいえ、この時に二人が出した結論は、子供たちが冷たくはなったものの、自分たちはまだ幸せな方だ、幸せなんだということだった。普通の感覚からすれば、二人きりになった時に、子供たちの冷たさについて文句を言ったりしてもよさそうなものなのだが、二人はそういった穏やかな形での不平、というか、感想を漏らすだけだ。もちろんカメラに写っていないところでそういったようなことを言っていたのかもしれないが、カメラに写っていない以上、カメラの陰ででも言っていないのだろうと想定するのが自然というか、観る者としてはそういう前提でこの映画を観て味わうということに当然なり、覚える感想もそういった前提に基づくものとなる。私が先に騙されているような気がすると言ったのは、この前提がどうも怪しいものに思えるということで、この感動を素直に受け取ってよいものかと、疑わしい気持ちになるのだ。それはともかくとして、この映画はとてもいい映画だと思うし見所感じ所もそこかしこにある。その中でも特に強く心に感じるところのあったシーンは、母危篤の報に接し見舞いにやってきた長女の志げが、母が翌朝まで持たないだろうと知った瞬間にわっと声を上げて泣き出すシーンだ。志げは、この映画の中でいわば一番の悪役で、両親に対して最も冷たい人間だ。その彼女が、母がまもなく死ぬと知ったときにわっと泣き出す。わっと泣き出したからと言って、彼女がお母さん思いの優しい女性かと言えばそれは間違っていて、葬式が済むや否や母の形見にあれやこれやをおくれと言うは、葬式の済んだその日のうちに残された父を置いてさっさと東京に帰ってしまうは、という有り様だ。こういったところは、小津安二郎のよく考えているところで、やはり優れた感覚の持ち主だなと感じるところであるし、杉村春子も実にうまく演じていると思う。親が死ぬと知って泣いたところで決して親思いだということにはならない。涙の意味などそう単純なものではないし、涙は身勝手なものですらある。涙なんて現金なものだ。かといって、志ずが身勝手な親不孝ものだと単純に片付けられるというわけでもなく、最後に原節子演じる紀子が言うように、人は歳を取るにつれて自分のことをしか考えることが出来なくなっていくものであって、世の中というものはそういうものなのだ。小津安二郎が最も心を込めて描いたものの一つは、世の中のそういった哀しい成り立ちなのではなかろうかと、私の限られた小津体験からは、そのように思われる。人間なんて身勝手で自分勝手なものばかりだと感じながらも、小津はそれを温かい目で見ている。人間がもっと他人に優しくなれたらいいのにと願いながらもそれが難しいことだと分かっていて、自分もそのような人間のうちの一人だという自覚もある。そんな人々に共感(同類意識)を覚えながらも同時に哀しく思いもするという、様々な感情が複雑に混じり合ったものが小津にはある。
2007/01/21
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ここ数ヶ月の間にNHKカセット、ラジオ深夜便選集『語りつぐ戦争体験』のシリーズを4本くらい聴いている。第二次世界大戦を自らの身をもって体験した方々の体験談を録音したテープだ。これを聴くと戦争なんて絶対に起こしてはいけないと思うし、実際に戦争を起こしている人たちはなんて無知で浅ましいのだろうと思ってしまう。私は戦争を体験していない世代の人間であるから、戦争の悲惨さというものがどんなものなのかということは、普段の生活をしている限りでは感じることは出来ないし想像することもしない。このカセットを聴くと、語り部達にとっては半世紀近くも昔のあの戦争がいまだに過去のものとはならず現実のものとして心の中に生き生きとあることが分かるし、彼等の語りには迫真性があり、あたかもファンタジー小説を読む無垢な少年少女たちのように、私は、時に恐怖し時に感動しつつ彼等の語りに聴き入った。こういう貴重な生の証言はやはり語り伝えて行かなければならないものであると私は言いたい。特にアメリカの政治家さんたちには是非聞いてもらいたいものだし、日本の政治家さんたちにも聞いてもらいたいものだ。ゴルフなんてやっている暇があったら・・・なんて言い方までついしてみたくなる。私はこれからも折に触れてこれらのテープを繰り返し聞いていこうと思っている。彼等戦争体験者達にとっては、戦争体験が彼等の後の人生にまで強い影響を与え続けている。あの戦争が彼等の後の人生の方向を決める働きをしている。その彼等の強い体験と比べれば、私なんて何も経験していないといってもいいくらいではないかという気すらする。結局のところ、個人の広い意味での経験がその人の人生の筋道を決めると言ってもよく、その経験が生易しいものであると浅薄な生き方になり勝ちだ。生き方が地盤にしっかりと根を下ろして折らず、その地盤も軟弱な沼地にすぎないものとなってしまう。とはいえその地盤も堅固な岩塊のようなものであるのが望ましいとは一概には言えず、浅薄な生き方にしたところであながち悪いこととも言い切れない。結局なんら結論的なことは言えないわけだが、彼等の話を聞いていて、自分の暮らし方は浅薄だなと感じたのだったし、浅薄でないものにしたいと感じたのだった。これは私の好みの問題であるし、それが私の好みであると分かっているのであれば、やはりそのように持っていくべきだろう。
2007/01/16
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『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ著、青山南訳)を読了。フィッツジェラルドの『夜はやさし』の主人公ダイヴァー夫妻のモデルとして有名な、ジェラルドとサラのマーフィー夫妻の短い伝記。マーフィー夫妻はアメリカ人なのだが、アメリカで「ジャズエイジ」とも「狂騒の10年」とも呼ばれた1920年代をフランスの地中海沿岸地域リヴィエラで過ごした。米ドルに対するフランの貨幣価値が暴落していたこともあって、当時のフランスにはアメリカから、そしてその他の国からも多くの芸術家たちがやってきていた。ジェラルド・マーフィーは現代絵画の作品も遺しており画家と呼ぶことも一応可能ではあるが、遺した作品の数はごく少ない。彼の父は実業家だったのだが、彼には家業を継ぐつもりなどさらさらなく、またアメリカにいると煩わしいことが多いというのでフランスにやってきたのだった。フランスでは父親の財産を頼りに、時々絵を描いてはいたものの、他に仕事をすることもなく浜辺でくつろいだり友人を家に招いたりしながら日々を過ごすというのんきな有閑階級の生活を送っていた。そんなマーフィー夫妻の元に数多くの芸術家たちが集まった。ピカソ、ドス・パソス、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、コール・ポーター、ドロシー・パーカーといった面々だ。他にも、ストラヴィンスキーやエリック・サティなどとも付き合いがあった。どうしてこんなにも芸術家たちが彼等のもとに集まったのか。それは彼等には人を惹きつける特別な魅力があったからだという。それがどのような魅力だったのか、マーフィー夫妻とは一体どのような人たちだったのかということを知りたいという期待を持って本書を読んでみたのだが、期待は裏切られた。本書を読んでいる限りでは、彼等のどういうところに魅力があるのかが分からなかった。彼等の暮らしがどういうものだったのかを垣間見るくらいの役には立ったけれども。本書は、翻訳を読んだ限りの印象では、凡庸に思える。突っ込みが足りずお座なりで、著者がマーフィー夫妻に肩入れしている感じがある。また、翻訳の方もあまり感心しなかった。文章は確かに読みやすいのだけれども、ところどころにぎこちなさがあるし、表面的でお座なりな文章に感じた。だがこれは原文自体がそうなのかもしれない。また、手紙文や会話文に色つやがなく単調でのっぺらぼうな感じになっているし、妙にひらがなが多いのも気になった。分かりやすく内容を伝えるという点においては優れた翻訳と言えるのかもしれないが、名文を期待していただけに少しがっかりした。
2007/01/08
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中野好夫『伝記文学の面白さ』(岩波同時代ライブラリー)を読了。中野氏が晩年に伝記について語った講演を文字化したもの。計四回分。初めの二回は伝記全般について語ったもので、三回目と四回目はそれぞれ川路聖謨とタレイランについて伝記風に語ったもの。講演ということで気軽に読み流すことが出来、なおかつ大変興味深く読める。なにしろ中野氏は博識でよく勉強をしている。そんな彼が理路整然と誠実に見事な言葉遣いで語るのだから聞かせる。後の二回分については、川路のこともタレイランのこともほとんど知らず初めは興味深く読めるかどうか疑問だったのだが、読み始めてみるととても面白く最後まで一息に読んだ。と同時に、日本史、フランス史についても好奇心をかきたてられた。話は変わるが、これからしばらくの間、英語文と日本語文のそれぞれ一定量を暗唱をすることを日課ならぬ週課としようと思う。語学の天才シュリーマンは、新しい言語を覚える際に一定量の文章を暗唱したという。私は相当長い年数英語の勉強をしてきているが、いまだに碌に英語をしゃべれない。言葉を自由に操れるようになるためには、スポーツが上手になるのと同じで、練習を重ねることによってそれ用の神経回路を形成することが必要なのだろうと思う。要は慣れだ。もちろん要所要所では意識の手助けは必要だが、大部分は無意識に体が動くようになるまでに「慣れ」を作ることが大事なのだろう。英語の達人吉田健一は『英語と英国と英国人』(講談社文芸文庫)所収のエッセイの中で、英語をしゃべれるようになるのに英作文の練習なんかは役に立たないと言っている。文学作品などの良質の英文をとにかく読んでいれば自然に英語なんてしゃべれるようになると言っている。確か、まとまった量の良質の英文の暗唱をすることも効果的だというようなことも書いていたように思う。英文の暗唱は確かに役に立ちそうな気がする。暗唱を重ねていくことによって英語用の神経回路が形成されていくような気がする。この前どこかの記事で、自分が年をとったなと感じる時はどんな時かというアンケートの結果が紹介されているのを読んだ。男性部門の上位には「物忘れがひどくなったと感じる時」が挙げられていた。記憶力が鈍ったなとは私も最近しばしば感じる。以前には滅多になかったことなのだが、最近は、前に一度書いたことをまた書いてしまうということをしばしばやってしまっているように思う。これはいけない、頭を鍛え直さなければと思うのも暗唱をしようと思う理由の一つだ。また、習い事をしたりするのと同様に生活に規律みたいなものが出来るという効果も狙っている。日本語の暗唱の方は、日本語力を向上させるのに役に立つのかもしれないという狙いからだ。この一年と少しの間時々こうやって日本語を書いてきて、多少は日本語の書き方に安定感というか形が出来てきたにせよ、やはりまだまだ書きたいことを巧く書くことが出来ていない。これは日本語を操る回路に一発刺激を与えてやるのが効果的なのかもしれないというふうな気がしているのだ。他には良質の日本語をたくさん読むことも必要だろうし、悪質の日本語にはあまり触れないようにするということも大事なのではないかと思う。というわけで今年は文章が巧い物書きの本を意識的に読んでいくつもりだし、テレビは極力見ないようにしようと思う。今日、小林秀雄の講演テープを四本くらいまとめて聞いた。彼が言うこと全てに同意できるわけではないが、刺激的な話を多く聞くことが出来、折に触れて繰り返し聞いてみたいと思うような内容だった。テープを聴きながら様々なことを考えさせられた。そして次のようなことを思った。無駄に過ごす時間を極力減らそう。自分が好きなことをしよう。前者については、今年はあまり好きでもないスポーツのテレビ中継を見たり試合の途中経過をネットでチェックしたりすることはやめようということを思った。そういうのが本当に好きな人間がそういうことをするのであればともかく、私の場合、さほど好きでもないのに惰性で見てしまったりチェックしてしまったりしている。例えば、西武ライオンズ。確かに今でも好きだし、勝てば嬉しく負ければ残念だが、負けたところでその残念ぶりはさほどのものでもなく、優勝を逃したところでこれといった感慨はない。つまり、それほど好きではないということで、今や腐れ縁で結びついているに過ぎないということだろう。サッカーの日本代表についてもそうだ。この二つは今年はテレビでもネットでも見ない、チェックしない。新聞でのみチェックする。次に大リーグ。イチロー選手は興味を持っている人物だし敬意を感じてもいる。松坂選手はライオンズ出身だし実力もあるということで愛着は持っている。松井秀喜選手も、性格がよさそうだというわけで、多少の興味は持っている。他の選手については、同じ日本人という以外には特別な興味はない。去年は、テレビで大リーグの試合を観戦したり、ネットでハイライト映像をチェックしたり、途中経過をチェックしたりと、結構な時間を大リーグに費やした。大部分は惰性によってだ。というわけで、今年の大リーグテレビ観戦は、松坂投手がマリナーズかヤンキース相手に投げる試合だけに限ろう。ネットでの途中経過のチェックはほぼ100%惰性に過ぎないのでやめよう。ハイライト映像のチェックくらいは許してもらおう。英文は、週当たりに普通のペーパーバック1ページ相当分を暗唱する。日本語文は、週当たりに文庫本1ページ相当分を暗唱する。とりあえず上を一ヶ月続けてみて様子をみよう。
2007/01/07
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スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』を読了。過去に何度か読んでいる作品なのだが久しぶりに読み返してみた。やはり素晴らしかった。最初は村上春樹さんによる新訳を通しで読むつもりだったのだが、読み進むにつれて、やはり原書で読むのに勝るものはないという気持ちを抑えることが出来なくなり、原書にシフトしたのだった。村上さんの翻訳は、第一章と第九章は全て読み、あとは原書を読みながら気になったところを参照した。第一章はなにしろ原書があまりに素晴らしいだけに、正直なところ「う~む」という感じだったのだが、第九章は素晴らしいと思った。今回読み返してみて改めて感じたのは、『ギャツビー』は全編を通してかなり詩的な文章で書かれているということだった。そしてわざと曖昧で多義性を持った文章で書かれているということも感じた。多義性というのは、例えば一つの単語なり表現なりの意味が読み手次第で違う風に解釈されるということだ。日本の和歌の掛詞やシェークスピアのダブル・ミーニングのように、一つの単語が明らかに、明確な複数の意味を持っているということではない。意味がぼんやりしていてはっきりしない(vague)が故に、様々に解釈できる(ambiguous)ということだ。この “vague”(不明確な)という言葉はしばしば悪い意味で使われるものだが、フィッツジェラルドは明らかに意図的に不明確な表現を用いているし、それがこの作品のロマンチックで詩的な雰囲気を形成するのに大いに役立っている。具体的で明確な表現を用いれば味も素っ気もなくなってしまうだろう。村上春樹さんが新訳の「訳者あとがき」の中で、フィッツジェラルドは日本では正当な評価を受けてこなかったという趣旨のことを述べておられるが、その理由の一つはおそらくここにある。不明確であり、それがゆえに多義的曖昧さを持つ表現を、同じ効果を護持したまま日本語に移すことなど不可能だからだ。そして『ギャツビー』の中には、他の表現には置き換え不可能な表現(つまり、置き換えてしまうと意図された効果が殆どなくなってしまうような表現)が数多く含まれている。単語なり表現なりの選択の必然性(代替不可能性)が高いのだ。そういう意味で、『ギャツビー』の文章は詩の文章に近い。一文一文を噛み締めるようにして読んだ。殆どの文が噛み締めて読むに値する文なのだ。それが故、一息に読むことはできない。続けて読むのはせいぜい30ページくらいまでという感じだった。充実した経験というものはあまり長く続くと疲れてしまう。本書を読みながら実に様々なことを考えさせられた。様々な箇所で作者の魂に触れることができる。フィッツジェラルドは本書で何かを主張しようとしたのではなく、自分が普段感じていることを小説芸術という形で表現しようとし定着しようとしたのだろう。本書には、作者の魂の根幹部分にあるものが詰め込まれている。本書は単一な解釈を許さない。それは作品全体について言えるのはもちろんのこと、ある一文なりある一部分なりを取り出してみてもそれが当てはまる。そういう各部分部分の不明確性・曖昧性が作品の全体的統一性(integrity)を保つのに役立っている。登場人物に関しても単純な人物評は許されない。例えば、デイジーは詰まらない女だというレッテルを貼られている節があるが、本書をきちんと読めば分かるように、作者は彼女を詰まらない女としては決して描いていない。同じようなことはおそらくトムにも当てはまる。フィッツジェラルドという人もまた多眼的な思考ができる人であるし、人の欠点に対しても、反射的にそれを非難するのではなくより広い目で見て理解することの出来る人だ。もちろん理解するといっても限度というものはある。理解はするのだけれども許さない、許せない。そういうことも大事だと考えている人だ。さて、本書の語り手のニック・キャラウェイであるが、彼は物語の初めでは29歳であり作品の中で30歳の誕生日を迎える。彼は30代の10年間について次のように述べる。I was thirty. Before me stretched the portentous menacing road of a new decade. (私は30歳だった。新しい10年間という名の不吉な道が目の前に伸びて、私を脅かしていた。)Thirty--the promise of a decade of loneliness, a thinning list of single men to know, a thinning brief-case of enthusiasm, thinning hair. (30歳。つまり、次のことがすべて約束されているということだ。孤独な10年。そして、独身の男の知り合いの数は減り続け、熱意という名のブリーフケースは次第に薄くなり、髪までもが薄くなっていく。)改めて読んでみると結構恐ろしいことが書かれている。“portentous menacing” “a thinning brief-case of enthusiasm” というのがとても気になる。果たして本当にそうなのだろうか。フィッツジェラルドが言うことだから恐らく相当正しいのではないかという気がする。30代後半にもなれば、やっぱりそうだったと実感していそうな気がする。しかし考えてみれば、『ギャツビー』を書いた時、フィッツジェラルドはまだ30歳になっていない。とすれば、上の言葉が間違っているという望みもあるだろう。ギャツビーは以前は高潔な青年的な野心家だったのだが、デイジーに恋をしたのをきっかけに野心を捨てることになる。次は、そのときのことをニックに物語るギャツビーの発言からの引用だ。“I can't describe to you how surprised I was to find out I loved her, old sport. I even hoped for a while that she'd throw me over, but she didn't, because she was in love with me too. She thought I knew a lot because I knew different things from her.... Well, there I was, way off my ambitions, getting deeper in love every minute, and all of a sudden I didn't care. What was the use of doing great things if I could have a better time telling her what I was going to do?”(「彼女のことが好きなのだって気がついた時に私がどれだけ驚いたか、とてもじゃないが口で説明することなんてできませんよ、あなた。彼女の方から私のことを捨ててくれないかと、一時は望みすらしました。だがそうしてはくれませんでした。どうしてって、彼女の方も私のことを好きになっていたからです。彼女は私がたくさんのことを知っていると思いこんだんです。私が知る世界が、彼女が知っている世界とは違っていたからです。・・・こうして私は、野心からは遠く離れて、恋の深みへとどんどんはまり込んで行ったんです。そしてあっという間にもう野心なんてどうだってよくなってしまいました。偉大なことをしたって仕方がないって気にもなるでしょう、これからの計画を彼女に語っている方が素晴らしい気持ちになれるのですから!」ここには、「高潔な男を低劣にする女」のモチーフが見られる。ギャツビーの堕落のそもそもの原因はデイジーに恋をしたことにあるという解釈も許されるわけで、恋が堕落を導くというこの世の成り立ちの哀しさがこんなところにも表現されているのに気づいて、はっとさせられたのだった。上に挙げたものは本書を読んで深く感じるところがあったものの中ではあまり重要ではない例だ。より重要なものは散文的に説明することはできないし、説明を試みるだけ野暮というものだ。本書を読む際に大事なのは、なるべく固定観念を捨てて虚心にじっくりと一文一文を噛み締めることではないかと思う。文章にできるだけ心を近づけ寄り添わせることだ。そして登場人物に非難や軽蔑の視線を向けるのではなく、全てを理解しようとする公明正大な心を持つことだ。ギャツビーの笑顔が与える印象さながらに。“He smiled understandingly--much more than understandingly. It was one of those rare smiles with a quality of eternal reassurance in it, that you may come across four or five times in life.”(彼は、分かっているから何も心配することはないよとでも言うような笑顔を見せた。いや、それだけでは言い足りない。その笑顔は、一生のあいだにせいぜい四度か五度ばかりしかお目にかかることのできない、見るものに永劫の安堵を与えるあの類稀れなる笑顔だった。)ちなみに、この文は次のように続く。“It faced--or seemed to face--the whole external world for an instant, and then concentrated on you with an irresistible prejudice in your favor. It understood you just so far as you wanted to be understood, believed in you as you would like to believe in yourself, and assured you that it had precisely the impression of you that, at your best, you hoped to convey.”(その笑顔はしばしの間永劫の全世界に向けられる。あるいはそんなふうに見える。しかし次の瞬間には、その笑顔はあなただけに向けられている。しかもあなたのすべてを好意的に眺めずにはいられないとでも言うかのような抗しがたい笑顔なのだ。それは、あなたが理解されたいと願うちょうどその分だけあなたを理解しており、あなたが自分の価値を信じたいと願っているようにあなたの価値を信じており、そして、あなたが最大限努力してこういうふうに思われたいとする、まさにその通りにあなたのことを認識しているということをあなたに確信させるような笑顔なのだ。)
2007/01/03
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今年もまた読書ノルマを。セルバンテス『ドン・キホーテ』メルヴィル『信用詐欺師』ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』ユングの何か一冊相当分。フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、『夜はやさし』、『ラスト・タイクーン』とりあえず上のものは必ず読む。あと、ひと月あたり平均4冊以上は感想を書くに値するものを読んで、ちゃんと感想を書いてブログにアップしよう。
2007/01/01
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