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日本現代作家調査の第三弾として、金井美恵子氏の『文章教室』を読んだ。ある人の言うところによると、金井氏は「日本でもっともナボコフを知っている作家」らしい。私はそれほどナボコフを読んでいるわけではないのだけれども、本書のトーンに確かにナボコフに似たものを感じた。本書はまさに「当たり」だった。読み終わった後、左手で背表紙をぐっと掴むようにして本を胸の前に縦にして持ち、右手で表表紙をポン、ポン、ポン、ポン、ポン、と五回叩く拍手をしながら、「素晴らしい」と呟いた。先日片山氏の作品を読みながら、現代でリアリズム小説を書くには普通の文章では駄目なのかもしれないなと感じていたのだが、本書は、リアリズム小説でありながら、違和感を覚えることなく読むことができた。その代わり、文章は「普通の文章」ではない。本書での金井氏の文章は、決して読みやすい文章ではない。使う言葉は簡単な言葉ばかりなのだが、息が長い文章が非常に多く、ダッシュを使った挿入句を多用していたりもすれば、文頭と文末との統一がとれていなかったりもするし、名詞の前に長い修飾部が入っていて文のつながりが分かりにくくなっていたりもする。ただし、これは作者が、意図的とは言わないまでも意識的にやっていることだろうと思われるし、こういう文章で書くことによって、しっくりくる文章になっているのだと思う。本書を読んでいても、作者が、書くべきことをより正確に伝達するような文章を書こうとの意識的な努力を払っていることがよく分かるし、出来合いの表現で間に合わせる安直さを忌み嫌っていることも分かる。作者の文章は、そのような努力の結果であり、その努力はかなりの程度実を結んでいる。本書の文章でもう一つ特徴的なのは、登場人物の一人、佐藤絵真の日記からの引用を地の文に頻繁に織り込んでいることである。「(前略)などといったやりとりを聞きながら、絵真は自分の文章が、他人の声によって読みあげられるという初めての経験に<目まいのするようななんとも言えない恥しさ>と<その拙いなりに精一杯正直に素直に書いたつもりの文章>が<まだまだ、まるで真実を語ってはいないし、<<私>>というものを見すえてもいないこと>に気づき、<つくづく、文章で自己表現をすることの難しさ>を感じ、(後略)」これは、絵真が通う文章教室の授業中、絵真の文章について講師と生徒たちとで議論をした後の描写である。ここで「<>」の中に挟まれた部分が絵真の日記からの引用である。このように登場人物の日記からの引用を「<>」を用いて地の文に織り込むことの効果は複数ある。絵真は、文章教室に通う主婦であることから示唆されるように、一応、文章表現能力の未熟な人物であると読者は想定して読むことができる。ところが、実際のところ、絵真の文章は見事な文章である。つまり、読者は、その見事な文章を、未熟な文章との想定のもと、読むということになる。つまり、読者は例えば次のように感じることになるわけだ。「絵真は日記ではこのように書いているけれど、本当はもうちょっと違うことをこの時感じていたのかもしれないな」と。作者の金井氏も、上の引用文で絵真が言っていることと同じようなことを、執筆中に常日頃感じているのではないかと思われる。つまり、どれだけ「精一杯正直に素直に」書こうとしても「まだまだ、まるで真実を語ってはいない」と感じているのではないだろうか。そこで、絵真の日記からの引用という体裁を借りて、「精一杯正直に素直に」書いたことを括弧に入れた形で読者に提示するというわけだ。これはなかなか巧みな仕掛けであると言える。もう一つ、この括弧入れが便利なのは、一つの文の中に複数の句点(。)を用いることができるということだ。つまり、「<>」の中は引用文なのだから、この引用文の中にいくら句点が含まれていても、この引用文を含む外枠の文の終わりとはならない。これを巧く利用すれば、表現の幅を押し拡げることができる。また、金井氏は登場人物の一人「現役作家」に次のようなことを考えさせている。「自分の書く文章も含めて、と言ってしまってもいいのだが、なぜ、人々はこうまで希薄な文章を書きつづけることに耐えられるのだろう」「真実を語る」ためには、希薄な文章では用をなさない。「真実を語ろ」うと努力する人にとっては、希薄な文章では違和感が残るだろう。この違和感をなくすためには、真実と文章の濃度を同一にしなければならない。文章化しようとする真実が単純なものであれば、文章の方も相応に希薄であってよいのだが、真実が複雑なものであればそうはいかない。金井氏の文章は、複雑な真実の濃度とそれを表現しようとする文章の濃度とを極力近づけようとする努力の現われだと思われる。本書には、他に、会話を戯曲風に書いたり、引用符なしで会話を地の文に組み込んだりといった工夫が臨機応変に、適材適所に用いられているのが見られる。もちろんこれも、文章をより真実に近づけるための工夫だろう。こういった工夫は、他の作家もどんどん真似をしていいのではないかと思う。また、句点で区切ろうと思えば簡単に区切ることができるものを、読点でどんどん繋げていって、長い一文にしているところも多く見られる。もちろんこれも、わざと読みにくくしているといったものではなくて、文章を真実に近づける工夫なのだと思われる。句点というものは、人間で言えば死のようなもので、それまでの部分の意味づけを強いる。どんなに短い文であってもそれが一文であることには変わりはなく、一文としての存在を主張するものである。本書を読んでいて、上の類の長い文章に出くわした時、しばしば次のように感じた。この読点を句点に変えてしまえば、その句点で終わる一文はセンチメンタルなものになってしまうだろうな、と。短い文というものは、しばしば、感情が乗りすぎてセンチメンタルなものになる。つまり、あまり感情を乗せすぎたくないものは、句点で終わりをつけることなく、読点で次へつなげていけばいいというわけだ。もちろん、意味もなく長々しい文章を書くのは読み手に不親切となるだけだけれども、金井氏の長文には意味があるし、そんな長文に意味を持たせるだけのものを書いている。金井氏のような日本語の現代作家がいるということを知ったことは、小さくない喜びだ。今後折りに触れて、氏の他の作品を順番に読んでいくことになるだろう。
2006/01/30
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現代作家調査の第二弾として、片山恭一氏の『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んでみた。かなり売れた本らしいのでどんなものか知りたかったというのもあるし、また、著者は哲学書などもばりばりと読んできた読書家らしいので、本格的な小説を書く人なのかもしれないとの期待もあった。読んでみて思ったのは、村上春樹さんの影響を受けているのじゃないかということだ。他の読者の感想をネットで調べてみると、同じように感じた人が少なくないようだ。誰かが、片山氏を「プチ村上春樹」と称していたが、私も同じような感想を持った。そんなに悪くはないのだけれど、村上さんと比べると大分劣るなというところ。実際のところ、日本の作家、海外の作家を問わず、村上さんの影響を受けている若い作家は少なくないようだ。村上さんのコピーがもう一人いればよいなと思わないこともないが、現実問題としては難しいだろう。村上さんの影響を受けるのはよいのだが、それを生かしつつも自分独自の文体なり文学世界なりを作っていくというようにしないと、村上さんの亜流に終わってしまう。ただ亜流であるだけであれば、やはりあまり魅力を感じない。片山氏の文章がそう悪いとは思わない。むしろ良いと言っていいと思う。ただし、比喩表現にしても、冗談にしても、本家の村上さんと比べると見劣りがするので、ウームと思ってしまう。逆に言うと、村上さんの凄さを改めて思い知るということにもなるわけだけれども。村上さんとの比較を別にすれば、何度も言うようだけれども、そんなに悪くはない。私もそれなりに楽しんだと思う。しかし、片山氏の他の著作をいずれまた読むかと問われると、何かきっかけがなければ読むことはないだろうと思う。
2006/01/28
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ブログをつけるようになってから、普段生活している中で、ああこのことについて書きたいなと、その日に書きたいことを思いつくことが毎日のようにある。しかし、実際にそれを書くことは非常にまれだ。いざ書こうと思ってパソコンを起動しエディタかワープロソフトを起動した後に実際に書くことは、全然違うことになることがほとんどだ。あるいは、その日には何も書かなかったりする。そして、その次の日にまた、今日はこのことを書こうかなと、同じ事を思ったりする。そのようにして、書きたいなと何度も思いながらずっと先延ばしにしてきている話題がたくさんある。このままでは、同じ事の繰り返しになるから、いい加減に一つ、そのような話題を減らしたいと思う。そうしないと、私の頭の中はいつまでも同じ状態のまま前進しないだろう。といっても、なにも勿体ぶるに値するような話題ばかりではない。例えば、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に出てくるある一節のことだ。第一章でデイジーがこんなことを言う。「あと二週間で、一年で一番日の長い日が来るわね。一年で一番日の長い日が来るのをずっと待ち構えているのに、いざその日が来ても、いつもそれに気づかずにやり過ごしてしまうなんてことない? 私はそうなの。一年で一番日の長い日が来るのをずっと待ち構えているのに、毎年、気づいた時にはもう過ぎてしまっているんだから」デイジーの何気ない発言なのだが、なぜか最近気になって何度も思い出してしまう。意味のない連想のような気がするのだけれども、例えば、紅茶を作る時に、まだ薄いからあと30秒待ってからカップに注ごうと思っていると、気づいたらもうそれから30分も経ってしまっていて濃くてまずい紅茶になっている、というようなことがよくある。よくあるというよりも、大抵の場合そうなると言ってよい。たったの30秒のことなのに、どうして肝心の時を逃してしまうのだろう? また、昼間に、今晩誰それにメールをしようと思っていても、いざ晩になりメーラーを起動したときには、もうメールをしたくなくなっているということもよくある。そして、翌日になるとまたメールをしたくなる。私の生活は、こんなことの繰り返しであり、こんなことの集積であるような気がする。肝心なところが抜けてばかりの生活とでも言おうか。もう一つ気になっている一節は、最近読んだ、ナボコフの『セバスチャンナイトの真実の生涯』の中の一節だ。ある登場人物が、「私は過去のことを振り返るほど自尊心に欠けてはいませんわ」というようなことを言う。曖昧な記憶なので、多少違ったかもしれない。この一節を読んだ頃の私は、過去のことを振り返って思い出してばかりいたので、おおこういう考え方もあるのかと、はっとした。過去のことを思い出すということが自尊心に反することだという発想は、私にはまったくなかった。しかしそう言われてみれば、一理あるように思える。これも曖昧な記憶なのだが、メルヴィルの『白鯨』にこんな一節があったような気がする。確かエイハブ船長の言葉で、人間はいつも前方と後方ばかり見ておって、自分の足下は見ておらん、というようなことだ。灯台の喩えだったか、何か面白い喩えを借りて述べていた。つまり、人は未来と過去を見るばかりで、現在は見ていないということだ。もちろん、今を見ることに集中して生きている人もたくさんいるだろうが、分刻み秒刻みのミクロレベルで見れば、彼らとてやはり今を見ているわけではないだろう。私は、典型的な、前と後ろしか見ない人間だ。もっと足下を見なければとよく思う。もちろん前を見ることも大事だし、後ろあってこその前であってみれば、時には後ろを振り返ることも大事だろう。これもバランスが大事だという、いつもの結論に至ることになる。
2006/01/27
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メルヴィルの『白鯨』を読了した。エイハブ船長が物語の主役の座に躍り上がってきた終盤は、私の集中力がいささか弱まったこともあってか、退屈になってきたが、やはりすごい作品だったなと思う。それにしても、エイハブ船長にあのような狂気じみた台詞を吐かせ続けたメルヴィルの頭の中はいったいどのようになっていたのだろう。エイハブ船長の台詞を理解しようと努力をすることができるほど私の集中力は強くはなかった。彼の台詞は、読者が理解への努力を最後まで続ければ理解することができるような類のものであるのかどうかも、私には分からない。あるいは、如何に努力をしてもきちんと理解することができない類のものなのかもしれない。エイハブ船長は、自分で自分のことを頭が狂っていると何度か口にするが、時折きわめて明晰な理性と人間的な感情を見せる。聖書についての深い知識を持ち、深い思索経験を積んできており、連想能力、文章表現力に秀で、強烈な感情能力を持った、重量感のある男だなと思う。この小説を読んだ人で、「不思議な小説だな」との感想を持つ人は少なくないと思う。構成的にまとまりはないし、いったいどういうことなんだろうと思うことがいくつもある。面白いなと思うのは、語り手のイシミアルのことだ。彼は物語の語り手でもあり、ピークォド号の乗組員でもある。語りの中で、実に様々なことを饒舌に語るのだが、自分自身についてはほとんど語らない。ピークォド号の上で彼がどのようなことをしていたのか、クジラを追うボートの上での彼の働きざまがどのようなものであったのか、読者はわずかばかりしか知ることができない。彼が語るピークォド号上での出来事を自らの身を以て目の当たりにしていたはずのイシミアルが、そこにいた自らの目を通して出来事を語るというよりは、むしろ、遍在の第三者の目を通して語っているように見える。あるところでは、ボートから飛ばされた自分を、それが自分であることを明らかにせずに描写し、後になって実はあれは僕だったんだと打ち明けるようなこともする。もちろん、これはイシミアルの物語ではないのだから、大事な描写をしているところで、自分を話の中心に持ってくるようなことをすれば興ざめもいいところだろう。メルヴィルは、何も考えずに行き当たりばったりに書いているようでありながら、かなりしっかりとした作家としての判断力と自制心とを見せている。そんなイシミアルでありながらも、ごく時々なのだが、自分のことをさりげなく語るところがある。彼は孤児で、継母からはあまりいい仕打ちを受けていなかったらしい。それを一箇所でだけ実にさりげなく述べ、その後それに触れることはない。少なくとも、明確な形ででは。また、肝心なところと思われるところを、実にあっさりと描写していることが多い。普通の作家であれば、それなりの言葉数を費やして、それなりに力を込めて描写するところを、あっさりと一文で片付けてしまう。ピークォド号の乗組員たちが、自分以外は皆死んでしまうということは、物語の冒頭ですでに語られる。乗組員の中には、イシミアルと一、二日にして運命的に親友となった、愛すべき野蛮人クィークエグもいれば、一等航海士のスターバックや二等航海士のスタッブといった印象的な登場人物もいる。なのに彼らの最期の描写は実にあっけない。どうでもいいようなところ(例えば、鯨や捕鯨業について)を詳細に描写しておきながら、肝心なところをあっさりと済ましてしまう。不思議なところがたくさんありながらも、やはり『白鯨』はこの形でしかありえないのだろうなと思わせられる。これが『白鯨』なんだなと黙って受け入れるしかない。こういう作品を読むと、どうして作者はこのような作品を書いたのだろう、作者はどのような人だったのだろう、どうして私はこの作品にこんなにもひきつけられるのだろう、どうしてこの作品は他の多くの人をこんなにもひきつけるのだろう、他の人はこの作品のことをどう思っているのだろう、どこにひきつけられているのだろう、といった疑問を感じることになる。別にそれが分かったところで、どうなるといったものでもないのだけれど。メルヴィルの他の作品では、『信用詐欺師』という作品が前々から気になっている。それと『ピエール』。メルヴィルはなんと言っても重量感のある作家だし、読む前に足踏みしてしまいがちなのだが、また近いうちに(と言っても、2、3年以内には、ということだけれども)他の作品も読んでみたいと思う。それと伝記も。
2006/01/27
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存命中の日本人作家の中で私が愛読しているのは村上春樹氏ただ一人だ。海外の作家だと、存命中の作家の中にも気になる作家や愛読している作家がそれなりにいるが、日本人作家の中では村上氏ぐらいしかいない。村上氏の『ノルウェイの森』の中で、ある登場人物が、「死後30年以上経っている作家のものしか読まない」というようなことを言っていたが、私にも同じようなところがある。やはり、なるべくならつまらないものを読むことは避けたいし、時のふるいを生き残った作品だけでも一生かけても読みきれないほどの数がある。そのようないわゆる古典と呼ばれる作品だけでもそれだけの数があるのにも関わらず、どうして新刊の小説を読む人がこんなにもたくさんいるのだろうと不思議に思うことが時々ある。同時代人の声を聴きたいという欲求のせいだろうか。歌謡曲の歌詞などもそうだと思うのだが、小説にはやはり、時代を映すという側面がある。私は歌謡曲はほとんど聴かないし、新刊の小説も滅多に読まない。やはり時代から遅れているというところがあるのだろう、周りの人の言葉を聞いて「ああ、この人は賢いな」と思うことがしばしばある。私には思いもつかないような感性なり言葉なりを持っている人が周りにはたくさんいる。彼らはそれを歌謡曲なり流行の小説なりから習得しているのだろうと感じる。前置きが長くなったが、綿矢りささんの『蹴りたい背中』を読んでみた。上のような劣等感もあったし、また、現代の日本の作家がどのような作品を書いているのか、また、どれほどの実力があるのかを知りたいとも思ったからだ。読後、本書についてのアマゾン・ジャパンの読者レビューを読んでみたのだが、彼女の文章、中でも比喩表現に批判的な意見が多いのを意外に思った。私が本書に感心したのは、むしろ彼女の文章力と比喩表現であったからだ。結構名の知られたエッセイストや小説家の中にも、「ちょっとついていけないな」と思う文章を書く人や比喩表現を使う人が多い。極端な誇張表現を多用していたり、奇抜なだけで内容にフィットしていない比喩表現ばかり使っていたり、文章の中で自分がうさばらしをしているような文章を書いたりしている作者が結構な数いる。そのような文章を読まされるのは興ざめであり、しばしば途中で本を投げ出してしまうことになる。綿矢さんの文章にはそんなところはなかった。しっかりと地に足のついた文章を書いているし、よく内省のできる作家だと感じた。比喩表現はぴたり、ぴたりと決まっていたし、新鮮なものが多く見られた。ことによると独善的とも見える描写も時折見られるが、おそらく作者もそれを自覚しているだろうと感じた。つまり、語り手の考え即ち作者の考えというわけではなく、独善的な感じ方をしている語り手とは一歩距離を取りつつ、あえてその独善さをそのまま注釈なしで描写しているという風に感じた。いささか大げさな喩えだけれども、その点では、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン少年の独善性を描いたサリンジャーに似ている。本書の読後、吉本ばなな氏の「キッチン」を再読してみた。テーマ的に似通っているところがあると感じたからだ。比較すると、吉本氏の文章の方が見劣りがすると感じた。彼女の文章は、私にはちょっとついていけないところがある。エッセイを読んだり対談を見たりすると優れた作家だなと感じるのだけれども。綿矢さんの他の作品も、いずれまた読むことになるだろう。
2006/01/25
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映画『ジア』を観た。アンジェリーナ・ジョリーが主演している。ジョリーのインタビューを聴いて、どのような女優なのか気になったので映画の内容は期待せずに観たのだが、予想に反してなかなか面白かった。26歳で亡くなった実在のファッションモデルのについての話だ。彼女は精神的に脆く、麻薬に溺れてしまう。彼女を中心とする人間関係がよく描けている。話は暗く、決してきれいなものではない。彼女は自身の精神的な脆さのために周りの人を振り回してしまうような女性だ。台風のような女性だ。『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーと通じるところがある。この映画のよさをうまく説明する文章力は私にはない。話を綺麗にしようとせず、ありのままの現実を映像化しているところがよい。ストーリーの構成は、断片的なシーンをつなげて、時間軸に沿って順番にジアの人生を辿っていくという、シンプルな構成である。ストーリーの展開の合間合間に、ジアの家族や知り合いのインタビューが織り込まれている(この家族や知り合いは役者が演じている)。構成美という点にはなんら配慮が払われていないというような感じの不器用な構成なのだが、無理に実験的な雰囲気を作ろうとせずに、本当にごくごく自然に構成している。ここにセンスのよさを感じる。映画を観ている途中に、本を読みたくなることがよくある。『ジア』を観ている間、いろいろな本を読みたくなった。まずは、ジアについての本。彼女はどんな人物だったのだろうと。そして、トルーマン・カポーティの伝記、および小説。特に『遠い声、遠い部屋』。マリリン・モンローの伝記。エドガー・ポーの小説。フロイトとユングの著作。ここで、トルーマン・カポーティとマリリン・モンローとポーが出てきたのは、彼らとジアとの共通点を認めたからである。フロイトとユングが出てきたのは、心の脆さなり、退廃的な行動の要因について、知りたくなったからだ。意識と無意識との区別をはっきりとさせておかないことは危険なことらしい。つまり、無意識が意識の領域を侵食するようなことは危険なことらしい。心が脆い人というのは、強い自我意識を持っていないために、無意識に意識が侵食されがちな人のことなのではないかと、映画を観ながら考えていた。また、次のようなことも考えていた。ポーやカポーティといった作家もそのようなタイプの人だったのではないか。彼らの作品が我々の興味をひきつけるのは、彼らの意識と無意識との境が不分明であるがゆえに、彼らが無意識の部分をうまく描いているからであり、その無意識の部分を我々も共有しているからではないか。
2006/01/22
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河合隼雄著『明恵 夢を生きる』を読み始めた。明恵は高弁という名でも知られている鎌倉時代の名僧である。彼は19歳の頃から60歳で死ぬまでの間、自分の見た夢の記録を続けたという。夢は自分の無意識について教えてくれる。つまり、自分の無意識の部分がどのような状態であるかについて。そしてその夢から学んだことを意識的な行動に生かすことによって、望ましい方向へと自分を変えていくことができる。このような考えを、今の私は随分と信じている。自分の進むべき道、するべきことは、自分の意識の部分で勝手に決めてよいことなのではなく、自分の無意識の部分と相談をしながら決めないといけない。そうしないと、後々無理が出てくる可能性が高い。本書に次のような言葉があった。「われわれの夢分析の経験から言えば、夢のもつ意味を夢を見た人が確実に把握しないと、その夢が何度も繰り返されるものだが、(後略)」。私にも、繰り返し見る夢がある。しょっちゅう見るというわけではないのだが、何ヶ月かおきくらいに、これまでに計10回近く見ているのではないだろうか。簡単に言うと、大学入試が目前にまで迫っているのに受験勉強が遅れていて到底受験までに間に合いそうにないという夢だ。夢の中で、私は浪人生で、どういうわけか余裕綽々としていて、やるべき勉強を先延ばしにしてばかりいる。その遅れている勉強の科目は、いつも決まって数学となっている。数学という科目は、他の科目と同様に、勉強をすればそれなりにできるようになるものである。そして勉強をしなければできるようにはならない。やるべきことは分かりきっている。試験に出る範囲の問題を一通りマスターすることだ。その範囲はそれほど狭いものではないので、一通りマスターするには、結構な時間が必要である。試験の日から逆算すれば、だいたいいつ頃までにどこまでマスターしていなければいけないのかを計算することができる。夢の中の私は、明らかにその逆算した結果から遅れているし、本人も少なくとも薄々とはそれに気づいているようである。にもかかわらず、余裕綽々としているわけだ。薄々と気づいていながらも、問題を直視することを避けて、後回し後回しにしているのだろう。河合氏の他の本に触れられていたのだが、このような夢を繰り返し見る人は結構いるらしい。この夢の中で入試として現れているものは、例えば、死に相当するという。死が近づいており、それに薄々と気づいておりながら、それへの準備を先延ばしにしてばかりいる。ここでいう死とは、別に目前の死でなくとも、50年先の死でもよい。このような解釈を示されてみると、私には思い当たるところがある。いつかしよう、いつかしよう、と思いながらも、いつまでも先延ばしにしていることがある。私の無意識の部分がこの夢を通して、そのことについて私に警告を与えてくれているのだともとれる。いずれにせよ、この状態がよい状態であるとは思えない。直ちに受験勉強を猛スピードで始めるか、それとも受験を諦めてしまうか、なんなりと対応を取らなければならないだろう。このままでは、受験の日までの年月をのんびりと無為に過ごしながら、最終的には受験に失敗するという結果が待っているだけである。それを知ったところで、実際どうするべきかと考えると、明快な答えを得ることはできないわけだけれども。
2006/01/21
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メルヴィルの『白鯨』は、思弁的な文章が多いのだが、それに必ず映像的なイメージが伴っている。語り手のイシミアルは思弁的な思考や説明をするのに、必ず映像的なイメージを以てする。そして、思弁の質、イメージの質ともに素晴らしい。こうしたわけで、『白鯨』は思弁の連続、集積であるとともに、映像的なイメージの連続、集積でもある。物語の舞台といっては、基本的にはピークォド号の上であり、鯨を捕獲する際にその周囲に多少広がる程度のことである。船はアメリカ東海岸から太平洋の真ん中まで移動するわけであるが、陸地に立ち寄るわけでもなく陸地の描写があるわけでもない。このように登場人物たちのいる場所は非常に限られたものであるが、もちろん人間の思考力と想像力は時間と空間の限界を超越するものであるからして、語り手のイシミアルは時空を越えて時折我々を遠い昔へと、遠い彼方の地へと連れて行ってくれる。またストーリーといっては、エイハブ船長が、彼の片足を食いちぎった白鯨に復讐をするという、この一点のみと言ってよい。この一点に向かって、ピークォド号とその乗組員達は時折鯨を捕りながらゆっくりと進んでいくわけである。『白鯨』という作品は、断片的な思弁とイメージの集積であり、この点に生命がある。思弁は抜きにして、イメージをつなげるだけでも、かなり素晴らしい映像なり画集なりができるのではないかと思う。『白鯨』出版の頃、海の中を生きて泳いでいる鯨の全貌を見ることはできなかった。死体の全貌を見ることはできても、彼の通常の生きた有り様の全貌を見ることはできなかった。鯨はそんな神秘的な存在であった。あれほど巨大で、魚類のような風貌でありながら実は鰓(えら)を持っていない。時折海面に上がってきて潮吹きなる奇妙な行動をする。そしていっぺん潮吹きを何度か繰り返すと、相当な時間海中に潜ったままでも大丈夫だという。おまけに、いっぺんに行う潮吹きの回数は決まっていて、海中に潜ってから上がってくるまでの間隔も一定だという(『白鯨』中の記述より。裏づけはとっていませんのでご注意ください)。実に奇妙な動物であり、興味深い動物だと思う。『白鯨』を読んでいると、鯨がどのような形をしているのか、生きている様がどのようなものなのか、目にしたくなる。今の世の中は便利なもので、インターネットで簡単に確認することができる。もちろん、泳いでいる姿を丸々見ることもできる。http://images.search.yahoo.co.jp/bin/query?p=whale&fr=sfp (ヤフー検索結果、画像)http://video.search.yahoo.co.jp/bin/query?ei=UTF-8&fr=sfp&p=whale (ヤフー検索結果、映像)結構興奮した。恥ずかしながら、胸がどきどきしさえした。時々思うのだが、世の中にはへんてこな動物がいっぱいいるものだなと思う。例えば、キリンやゾウなどという動物が実在することを信じがたいことのように思うことがある。ユニコーンが架空の動物で、どうしてキリンとゾウが実在の動物なんだろう? それを言ってしまえば、カブトムシもかなり奇妙な生き物であるし、ミミズだってオケラだって奇妙だ。もちろん、それを人間にまで敷衍することすらできる。話は変わるが、今日見た映像の中で、ホエールウォッチングをしている人たちが一生懸命クジラの写真を撮ろうとしていた。今の世の中、クジラの写真なんて、インターネットを探索すればいくらでも手に入れることができる。せっかく目の前にクジラがいるのに、カメラのレンズを通して見るのは勿体ないことのように思える。以前私は、「自分にしか起こらないことを重視したいと考えるようになってきている」と書いたことがあるが、このこととこれは関係しているように思う。つまり、不特定多数のうちの任意のクジラが重要なのではなく、今まさに自分が見ているクジラこそが重要なのであり、自分がクジラを見ているということを写真を通して記録しておくことに意義があるのだということだ。最近水族館に行ったとき、私は嬉々として写真を撮りまくった。この時も私は、インターネットを探せばいくらでもこんな写真はあるのに、今写真を撮るなんてばかばかしいことなのではないか、などと考えながら写真を撮っていた。写真を撮るという行為は、後で撮った写真を見ることに意義があるのではなく、むしろ、写真を撮るという行為そのものに何らかの強い意味があるのだろう。つまり、その点に撮影者の何らかの深い内的欲求が作用しているのだろう。
2006/01/19
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メルヴィルの『白鯨』を相変わらずゆっくりと読み進めている。ピークォド号が今どのあたりにいるのか、またナンタケット島を出航してからどれくらいの時間が経っているのか、よく分からないが、おそらくもうジャワ島の手前くらいには来ているのではないだろうか。(先日、「ピークォド号が喜望峰を回って太平洋に出た」と書きましたが、「インド洋に出た」の間違いでした。)まずはマッコウクジラが一頭捕れ、ついでセミクジラが一頭捕れた。ただ今ピークォド号は、一方の片脇にマッコウクジラの死体を、他方の片脇にセミクジラの死体を牽引しながら航海を続けている。相変わらず、「面白いなあ」「すごいなあ」「素晴らしいなあ」と呟きながら読み進めている。今日読んだうちでは、例えば次のような箇所が面白かった。未だセミクジラが捕れておらず、ピークォド号がマッコウクジラのみを船の側面に吊して牽引していたとき、当然船はマッコウクジラの方向に大きく傾きながら航海を続けていた。セミクジラを仕留めて、ボートで鯨を引きづりながら船に戻ってきた時、三等航海士のフラスクは、今仕留めたセミクジラの頭がマッコウクジラと反対側に吊されることを予想する。「まもなくフラスクの予想は真のものとなった。それまでピークォド号は、マッコウクジラの頭の側へひどくかしいでいたが、今は二つの頭の均衡によって船体の平衡を取り戻した。とはいうものの、双方から引っ張られ、ひどく船体が張りつめていたことは十分に信じていただけるであろう。人間とても同じこと、片方の側にロックの頭を担ぎ込めばそっちに傾くだろう。だが、今、反対の側にカントの頭を担ぎ込んでみたまえ、あなたはまたもとに戻ってくるだろう。とはいえこの時あなたは大変な苦境に立たされているだろう。このようにして、永久に船荷を積み込んだり整頓したりして、釣り合いを取ることにばかり追われている者があるものだが、ああ、なんたる愚か者なんだろう! そんな怪奇な頭などは海に投げ捨ててしまうがよいんだ。そうすれば身も軽々と真っ直ぐに浮かぶことができるだろうに。」(73章より)この文章はなかなか強烈な文章で印象的なものなのだが、こんなものは『白鯨』中に数多くあるもののうちの一つに過ぎない。蛇足になるけれども、もちろんここに登場するカントとロックは有名な哲学者のことであり、彼らの頭を担ぎ込むことは、哲学的な思考とかかずらうことを意味する。哲学的な思考なんてよしにしてすっきりしてしまうのがよいんだ、ということを言っているわけである。こういう意見は『白鯨』中の他の箇所でも何度か述べられるわけだが、こんなところでロックとカントの頭を持ち出して、鯨の頭と比較するところなんか、さすがメルヴィルは凄いと思わざるを得ない。帆船が両脇に巨大な鯨の頭を引きずりながら、波の中を危なっかしく航海している姿だけでも十分に印象的で強烈なのだが、それにロックとカントの頭を重ね合わせようとするのだから、なんという想像力なのだろうと思う。もう一例紹介しよう。鯨の頭部の構造について考察する章がある。鯨の目は頭部の側面のかなり後方の低い位置にあるという。ほぼ顎(あご)と同じ高さにある。しかも、子馬の目のように小さい。「さて、鯨の眼はこのように奇妙な側面の位置についているのだから、真後ろの物を見ることができないのは当然のこと、真正面の物をも見ることができないのは明白である。一言で言えば、鯨の眼の位置は人間で言うと耳の位置にあるわけだから、諸君が耳でもって横方向に物を眺めやるとしたらどんな具合になるか、みずから考えてみるがよかろう。まっすぐ横に向かった視線の前方におよそ三十度、後方にもおよそ三十度、それだけの範囲の物しか見えないはずだ。諸君の不倶戴天の敵が、白昼刃物を振りかざして真正面から歩み寄ってきているとしても、その姿を見ることはできないだろう。背後からこっそり忍び寄ってきている場合と同断である。一言で言えば、いわば背中が二つあるようなものだ。しかしこれは同時に、正面(横正面)も二つあるということにもなる。なぜかといって、そもそも人間の正面とは何によって正面となすのであるか?--眼をおいて他に何があるというのだ?」(74章より)重々しい調子の文体でありながら、なかなかユーモラスでもある文章である。しかも、この指摘はかなり鋭いものを持っている。我々人類の眼は頭の正面に二つ並んでついているわけであり、胸の方向が前で背中の方向が後ろだと当然のごとく思い込んでいる。しかし、鯨のように眼が側面に一つずつついている場合には、前が二つ、後ろが二つあることになるという。しかし、この時、「前」はよいとしても、「後ろ」はどこを指すのだろう?もちろん、視界の中心を「前」とし、視界の死角の中心を「後ろ」とするなどのアレンジは可能であるし、視覚を主要感覚としない動物においては、前と後ろを定義するのに眼を基準とすることは適当ではないだろう。それはともかくとして、このような文章を読んで私が考えることは、私の普段の考えが如何に一面的で偏っているのかということである。普段は当然のことと考えていることの中にも、実は当然ではないことが数多くあることにメルヴィルは気づかせてくれる。一言で言うならば、メルヴィルは私の普段の考えを相対化してくれる。読者の考えを相対化したり、あるいは読者にとって間近な問題でありながら普段は考えてもいないことを気づかせるにあたって、海なり鯨なりといったものはなかなか巧妙な道具である。海も鯨も実在のものでありながら、普段の生活からはあまりに遠くにあるものであるため、それがいかなるものであるか我々は知らない。ピークォド号なる帆船に乗り捕鯨に従事しながら語り手のイシミアルが目撃することは、この地上で実際に起こっていることであり起こりうることばかりである。しかも海や鯨は雄大なものであり、我々に何かを印象づけるにあたって、強い力を持っている。イシミアルが語ること語ることが、強烈なイメージを以て私の心に強く訴えかけ印象づけることとなる。そのような強烈なイメージであったり比喩表現であったりは、私に詩を思わせる。『白鯨』は確かに全編詩のようなところがある。しかし、描写は細かく、リアリズムの基調を崩すことはない。海について、鯨について、リアリズム的な描写を事細かく行っている。これはなんといっても凄いことだと思う。『白鯨』のような作品が書かれたということは奇跡に近いことのようにすら思えるのだが、メルヴィルのような才能のある人が激しい執念を持って書き続ければ、当然の結果として完成するという類のものなのだろう。このような奇跡的な作品は他にも多くあるのだろうと思うが、これはまことにありがたいことだと思う。
2006/01/17
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メルヴィルの『白鯨』を一日に20ページずつ読み進めることをノルマとしている。全部で470ページあり、現在200ページを過ぎた。ピークォド号は、アメリカ東海岸のナンタケット島から出航し、現在アフリカ最南端の喜望峰を回り太平洋に出たところだ。今のところ鯨はまだ一頭も捕れていない。ここまで読み進めると、この本の凄さが大分分かってきた。もちろん最後まで読み終われば、また違った凄さを感じることになるだろう。この本の凄さを抽象的な言葉で説明することは難しい。自分で読んでみて感得することによってしか知ることのできない凄さなのだろう。物語の最初の舞台は陸地のマンハッタン島である。憂鬱に囚われ、陸地には自分の興味をそそるものを何も見出すことの出来ない語り手、イシミアルは、捕鯨船に乗って海に出ることを決意する。北上しマサチューセッツ州のナンタケット島まで来てピークォド号に乗るまでは、様々な動的な外的出来事が起こるのだが(その最たるものは、野蛮な人食い人種の銛手、クィークェグと出会い親友となることだ)、船に乗った後はこれといって動的な外的出来事はほとんど起こらない。今のところ、鯨にボートをひっくり返されたことが一度起こったくらいである。登場人物の会話も、たまに出てくる程度である。その、たまに出てくる会話も面白いのだが、やはりこの作品の生命の多くは地の文にある。イシミアルの観察や内省を文章にしたものが、他の優れた古典と比べてみても、抜群に面白い。その多くは、人生なり人間なりについての観察や内省である。それをイシミアルが船の上で観察することや頭の中で思うことと関連させて語る。その関連づけから、面白い比喩表現が生まれるというところもある。そして、彼が語ることは、そのような比喩表現を用いずしては語ることのできないことのような気がする。少なくとも、比喩表現を用いることによって、生き生きと説明をし読者に印象づけることに成功しているのであって、抽象的な説明ではこのような効果を発揮することは出来ないように思える。このように、比喩表現を用いずしては説明することができないことを巧みに説明するということは、もちろんそう簡単にできることではない。相当な文章力と想像力と思考力が必要である。それ以前に、説明しようとすることを考えつくということも、なかなか出来ることではない。そのような難しいことを、次から次へとするのだから、まったくメルヴィルという人は大した人だと思う。『白鯨』を読んでいて、「凄面白い」という言葉が思い浮かんだ。凄くて面白い。読んでいて、「凄い」と思うのと「面白い」と思うのとが、入れ替わり立ち替わりに出てきて、時には双方の感想が同時に出てくる。よくもこんなことを言葉で説明することができるなと、感心することも多い。その文章を書いたメルヴィルの力量に感心するわけである。つまり、「おお、メルヴィル凄いわぁ」などと思うことが読書の楽しみの一部になっている。サッカーの試合を見ることの楽しみの一部が選手たちのプレーに感心することにあることに似ていると言えようか。『白鯨』の文章は、読みづらく、構造もかなり複雑である。これほどセミコロンが出てくる小説も珍しいのではないかと思う。というわけで、一つの段落を3回くらいは読み返さないと理解できないわけで、読むのが嫌になり泣きたくなることすらしばしばあるのだが、それと同時に、この文体がこの作品には必要不可欠なんだろうなとも感じるわけで、それで自分を納得させることが出来る。この作品を短文にぶつ切りにするなどすれば、(仮にそれによって同じことを表現することに成功したとしても)相当不格好な文章になり、読むに耐えないものになるだろう。これだけ多くのセミコロンを用いて、これだけ複雑な文をこれだけ多用しなければ書けない作品であることは、この作品の凄さの証の一つであるとも言えるだろう。
2006/01/11
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河合隼雄『日本人とアイデンティティ』読了。論文調の文章を期待して読み始めたのだが、蓋を開けてみれば比較的気軽なエッセイを集めたものだった。前半3分の1は密度の薄さにいささかならず退屈しながら読み進めたが、3分の2の部分に差し掛かったところから俄然面白くなってきた。全体的な印象としては、非常に面白く、興味深い示唆が多くあった。最近本を読むとき、興味深いところに蛍光ペンか赤鉛筆で印をつけるようにしている。後でその部分だけ読み返すなどすれば、能率的な読書体験をすることができると思うからだ。河合氏の本を読んでいると、厳選しながら印をつけていても、結構な数の印をつけることになる。本書にも多くの印をつけた。できることならその全てをここに引用して、その文章について自分の考えを整理してみたいという誘惑を感じるわけであるが、そうもいかないので、とりあえずは一つだけ引用してみようと思う。「われわれが主体的にこの世に生きてゆこうとするかぎり、われわれは自分自身をそのなかに入れこんだ体系をもたねばならない。自然科学の知は確かに有用であり、何らそれを否定する必要はないが、われわれはそれをイデオロギーの代替品とするような錯覚をおこすのではなく、自分という主体をも包みこみ、自分と世界との有機的なつながりを与えてくれるもの――筆者はそれをコスモロジーだと思うのだが――を見出すように努めねばならない。」これは単純に言うと、かつては宗教が人間の人生観なり価値観なりを作り支えており、その後宗教がその力を失い、宗教に代わり自然科学が登場し、いまやその自然科学への信仰ですら力を失った今、我々が自分の人生なり世界なりにコミットするためには、自分と世界との有機的なつながりを生み出すような、主観的な自分だけの物語(コスモロジー)を作るように努めなければならない、ということになると思う。私は、これまで、客観的な思考に第一の信頼を置いてきた。しかし、これは必ずしもよいことではないのだということを、最近強く思うようになってきている。自分に起こる偶然、自分にだけ起こった出来事の意味をもっと大事にしたほうがいいのではないかと思うようになってきた。例えば、道を歩いていて三叉の分かれ道に行き当たったとしよう。前進するしかないのだが、どの道を行けばいいのか分からない。そこで手に持っている杖を地面に垂直に立ててみて手を離してみる。杖は真ん中の道を指して倒れる。もう二遍同じことをやってみる。二度とも真ん中の道を指す。こうしたとき、これは馬鹿げたことのようにも思うのだけれども、これまでの私なら、必ずしも真ん中の道を進むことに決めはしなかっただろう。頭で客観的に考えようと試みて、「たまたま杖が三回連続で真ん中の道の方向に倒れただけではないか」などと考えただろう。しかし、今の私は、この「たまたま」の偶然の意味を重視しようという方向に心が傾いている。このような自分にだけ起こる偶然を重視して、半ばそれに身を任せるようにしていくことによって、自分だけの物語を歩むことが出来るのではないだろうかと。もちろん、何事もバランスが大事であって、二律背反する二つの考えのいずれをも否定せずに共に心の中に保持しておくというようなことは重要ではあるけれども。河合氏の本を読んでいると、そういう合理的でないものを大切にするべきだという考え方に、説得性を感じる。私が最初に河合氏を強く意識するようになったのは、学生時代にバイト先で出会った男が、「河合隼雄と中沢新一は俺のアイドル」と言うのを聞いた時だ。その時は「アイドル」という表現を面白く思ったものだったが、今思うと、誰かが河合氏を自分のアイドルと呼ぶのもさもありなんと思う。河合氏の物の考え方なり生きる姿勢なりは独特のユニークさがあり、私は河合氏を「高度に洗練されたバランス感覚の権化」と呼びたい気がしているのだが、誰かが河合氏を自分の模範とするなり判断の尺度とするなりするのはよく理解できることだ。もちろん、河合氏を絶対的な偶像としてしまうと、その時点で真の意味での河合氏の信者ではなくなってしまうという逆説を孕んでいるわけであるけれども。
2006/01/10
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メルヴィルの『白鯨』を読み始めてもう四日か五日くらいになるが、まだ三分の一も終わっていない。読み終わるまで感想を書くのを控えていると、書く時が来るのは当分先のことになるだろうし、これだけ長丁場になれば、途中経過としての感想を書くことの意味も大きいだろう。というわけで、ここまでの感想みたいなものを試みてみたい。正直のところ、感想を書くのは非常に難しいのだが、この作品がとても面白いことだけは確かだ。この小説が発表されたのは1850年くらいなのだが、語り手のイシュメイルが19世紀前半の人だということが意外に思えるくらい、我々が抱えているのと同じような精神的な問題を彼は持っている。メルヴィルの鋭い人間観察なり箴言なりがそこら中に見られるのだが、これが滅法面白い。それに比喩表現に面白いものが多い。語り手のイシュメイルは至って真面目な人間で、その筆の運びも真面目で淡々としたものなのだが、彼が真面目に語っている内容に可笑しいものが多い。人生だとか人間だとかについて深刻なことを書いていながらも、どこかその書き方に可笑しみがある。私も一ページごとに何度も笑いながら読み進めているのだが、メルヴィルもこれを書きながら何度となく笑い声を上げていたのではないだろうか。気になった箇所は数多いのだが、一々挙げていると切りがないのでいくつかにとどめる。マイナーキャラクターなのだがその人のために一章を割かれている登場人物がいる。彼は4年間の鯨漁から帰ってきて何日も経たない内に新たに3年間の鯨漁に出る。彼は今30歳になるかならないかである。このことから推し量るに、彼は少なくとも20代の10年間のほとんどを海の上の船の上で過ごしたのではないだろうか。これはよくよく考えると別に何でもないことなのかもしれないなという気がするけれども、なにげなく考えるとなかなかすごいことで、私を物思いに誘う。つまり、私は、本来の生活は陸上で送るものであり、海上にいる間はいわば本来の生活から一時的に離れているのだとする固定観念を持っている。ところが7年間も連続で海の上で捕鯨に従事している人がいると聞くと、これにそのような固定観念を適用するわけにはいかないと感じるわけだ。ここまで考えが及ぶと、私がしている普段の生活と海上の船の上での捕鯨漁生活とはいかほどの違いがあるものなのだろうと考えることになる。私の生活も捕鯨漁生活と変わらないのではないだろうかと。現に小説中でも、世界を捕鯨船に、牧師を船長に、捕鯨漁を人生に喩えている箇所がある。もちろん、そのような一面的な解釈だけでは充分でないような複雑さ、曖昧さを持っているところがこの『白鯨』という作品の魅力の一つではあるだろうが。(このエントリーは、昨日書きかけてつまらないので途中で投げてしまったものに、本日加筆訂正したものです。本日読み直してみて、せっかくここまで書いたのに捨てるのはもったいないなと思いましたので。)
2006/01/10
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河合隼雄『未来への記憶-自伝の試み-(上)(下)』読了。談話体の自伝。河合氏は非常に頭のよい優秀な人なので、聞きようによっては自慢話っぽく聞こえるところが多いが、ごく素直に思うままを語っているように感じる。ともすると自慢話っぽく聞こえることも敢えて抑制せずに素直に語っているところに、彼の他の作品にも見られる誠実さを感じた。こういう凄い人の昔話を聞くことはやはり刺激的だ。ちょっと気になったのは、「感激しました」という表現が何度も出てくることだ。話を聞いたり、本を読んだり、音楽を聴いたりした時に感激したということなのだが、この「感激」という表現は使う人によってかなり幅広い意味を持っているように思う。ある人は簡単に「感激した」というし、ある人は滅多に言わない。人が「感動した」とか「感激した」などと言うのを聞くとき、本当に感動したのかなと疑問に思うことがしばしばある。本当にその表現に値するほどの情動を感じたのかもしれないし、単なる誇張表現なのかも知れない。とはいえ、発話と情動とは双方向性を持っているところもあるので、事はそう単純ではないだろう。河合氏の著書を色々読んでみて、河合氏は言葉の選択に非常に慎重な人だと感じている。実質を伴わない言葉は滅多に使わない。その河合氏が「感激しました」を連発するのだから、本当に感激したのかも知れないなと思う。それだけ激情家だというか、感動しやすい人なのかなと思う。もちろん、感動しやすいということは素晴らしい能力だと思う。河合隼雄『心理療法入門』読了。これも大変面白かった。
2006/01/03
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新年に入り、良い機会なので、今年の決意を表明しようと思う。読もう読もう、読まねば読まねばと思いながらも、ついつい後回しにしてしまってきている作家や作品がたくさんある。このままだといつまで先延ばしにしてしまうか分からないので、これをもって動機付けとしたい。カテゴリー1:必ず読む。メルビル『白鯨』カテゴリー2:以下の作家の長編小説のうち未読のものを2つ以上読む。H. ジェイムズフォークナーピンチョンR. パワーズ紫式部カテゴリー2あるいは以下のカテゴリー3に属する作家の長編小説のうち未読のものを2つ以上読む。カテゴリー3:コンラッド、V. ウルフ、ジョイス、ホーソーン、アップダイク、マルケス、ポー、ハーディー、サッカレー、モリソン、セルバンテス、デフォー、R. ライト、ヴォネガット。
2006/01/02
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ナボコフの作品群を国に喩え、ナボコフの本を読むことを旅をすることに喩えることの意味について、もう少し追究してみたいと思う。ナボコフの作品にはいろいろな仕掛けが隠されている。前にも挙げたように、他の作品への言及がたくさん隠されているし、押韻やアナグラムなどの言葉遊びも多いという。また、例えば、作品のある箇所でさりげなく登場した靴下が、同じ作品の別の箇所にさりげなく再登場したりする。私は元来欲張りな質なのだろう、このような仕掛けがたくさん隠されていると聞くと、そのような仕掛けを出来る限り発見してやろうと、注意をあらゆるところに払いながら読んでしまう。しかし、この警戒の度が強すぎるあまり、なかなか先に進めないなんてことになる。ここで上の喩えが有効になってくる。今読んでいる本が、一度読むだけで味わい尽くせるような性質のものでないということ、何度も繰り返して読むことによってその都度別の味わいを体験するというように味わうべきものであること、このことを納得し腑に落とすのに上の喩えが大変役に立つ。
2006/01/01
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ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を読了。ナボコフは気にはなりながらもどうも肌の合わなさを感じて長らく敬遠しがちであった作家の一人だった。ナボコフを読むのは本書で3冊目になるが、ようやくナボコフの世界に足を踏み入れることが出来たような気がする。もちろん一度ざっと読んだだけなので、この作品の半分も味わっていないことと思う。にもかかわらず、ナボコフの文章をゆっくりと読み進めている時に、何か新しい経験をしているような気がした。ナボコフが世界をどのような目で眺めていたのか、まだ漠然とも掴めていないし、彼が小説執筆を通して何をしようとしていたのかも、まだ全く掴めていない。しかし、今回本書を読んだことで、ナボコフの世界にもっと深く足を踏み入れてそこに何があるのかを確かめてみたいという気持ちになった。本書を読んで感じたナボコフのすごさは、まずは、陳腐な表現や描写を極力排し、それに換えて人生なり世界なりの新しい側面、これまで誰も描いてこなかった側面を、彼自身の言葉で誠実に描いていることだ。ナボコフが「言葉の魔術師」と評されているのをどこかで見たことがあり、おそらく一般にそういう評価を得ているのだろうけれども、彼は何も言葉遊びばかりをやっているわけではないだろう。これまで誰も描いてこなかったことを描くためには、これまでになかった表現なり表現方法なりを使う必要があるに違いない。これまで私は、ナボコフは現実世界を作品に写し取ろうとするタイプの作家ではないと漠然と考えていたように思う。その認識はどうも誤っていたようだ。彼は現実世界の真実を彼の作品の中にいくつも写し取っている。これまでどんな作家も描いてこなかった真実を。ナボコフを読む楽しみは、一つには、そのような真実を体験することができるということにあるのではないかと思う。ナボコフの作品は、自身の作品を含む他の文学作品への言及に満ちていると聞く。今回本書を読んで、他の作品が言及されていることに気づくことはそれほど多くはなかった。今後他のナボコフ作品を読んだりした後に再び本書に帰ってくれば、また新しい発見、体験をすることができるに違いない。もちろん今すぐ本書をもう一度読み返しても、いろいろなことを発見することができるだろう。読書を旅に喩えることが出来るとすれば、ナボコフの作品群を一つの国に喩えることができるだろう。今回私は、ナボコフ国の「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」州を訪ねたわけだ。そこで色々な真新しいものを見たり体験したりした。今私は、現実世界の日本国にいるわけであるが、この日本国で色々な体験をしていく一方で、様々な作家の国の様々な州に訪れることだろう。中にはどこか他で見たような所ばかりしかない、つまらない州もあるだろう。馬鹿ばかしくてすぐに立ち去ることになる州もあるだろう。そのようにしてあちらこちらを旅するなかで、ナボコフ国の他の州をいくつも訪ね、よし久々に「セバスチャン・ナイト」州を訪ねようと思いたった時、そこで私がどのような体験を得ることが出来るのか、それは想像することしか出来ない。ここで、ナボコフ解説書は旅行ガイドブックに喩えられる。ナボコフの作品を読むということはそういう側面を持っているのではないだろうか。一度読めばそれで終わりというわけではないし、訪ねれば訪ねる度に新しい体験をすることが出来る。そして全てを体験し尽くすということは望むべくもない。今回本書を読んだことで、私の興味のある国にナボコフ国が加わった。すぐにまたこの国に訪れるということはないが、またいずれそのうちこの国の他の州をいくつか訪れた後、「セバスチャン・ナイト」州を訪れることになるだろう。
2006/01/01
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