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今日は、親父の容態が安定しないため、休みを取って付き添い。親父は心細いのか決して仕事はどうしたなどとは言わない。 親父もかなり気弱になっているのかなと心配しながら、徐々に良くなってきている容態について、親父に伝えながら励ます。 夕方、担当医が回診に来てくれた。胃カメラに似たファイバースコープみたいなものを親父の喉に突っ込み写真を撮りながら痰を吸い取っていく。 一連の作業が終わったあと、医師はわたしに近づき病状を説明しはじめた。 状態が悪く、このままでは呼吸もままならないため、喉元に穴を開けて痰を取りやすくすると良いと言う。その方が楽になるが、この手術をすると声が出せなくなるのだそうだ。 わたしは迷った。でも、親父が楽になるなら… そして、親父に言った。「手術を勧められたけど、ぼくとしてはやった方がいいと思う。してはどうかな。ただし、声が出なくなるんだってよ。どうする?」 親父は筆談で「延ばし延ばしにしてダメになったら、もともこもないからのぅ」と言った。 こうして、手術をすることになった。 わたしは担当医をつかまえ、今の状況を率直に聞いた。答えは「この前までは帰宅の可能性があったが、今は困難。積極的治療の余地はなく、余命2ヶ月か3ヶ月…」というものだった。 時間があるうちにと言うことなのか、急遽出術が行われた。もう、親父の声を聞くことはできない。 親父はうっすらと涙を浮かべながら、声を出そうと試みているようだった。 胸が痛く、苦しい夜だった。
2004年09月30日
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親父の肺はガンが転移し、左半分は機能していない。しかし、その左肺からは絶え間なく痰が出てきて、親父の呼吸を妨げている。 朝早く、付き添っているお袋から悲痛な声で電話がかかってきた。「お父さんが、危ない…」 ボクは急いで子供らを保育園に送り、病院に向かった。着いた頃には、医師による処置が済んでいたが、容態は余談が許さない状況にあった。 1日休んでお袋に変わって付き添うことにしたボクは、親父の表情の変化を見逃さないように気をつけながら真剣に見守った。 これからは、こうした状況に見舞われることも多くなるだろう。そう覚悟しながら、親父の手を握った。
2004年09月29日
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親父はガンが肺に転移しているため、左半分は機能停止状態に近い。 酸素吸入をしなければ血中酸素濃度を維持できない。最近、痰の量が増えてきて、かなり苦しそうだ。 毎日、付き添ってはいるが、親父が呼吸困難になっているのに気づかなかったらと思うとゾッとする。 少しでも苦痛を和らげてやることはできないものか… 入院以来、治療らしい治療を受けていないような気がする… もう、手遅れということなのか…
2004年09月28日
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今日は後輩が3ヶ月間東京大学に研修に派遣されるため、壮行会が開かれた。ボクは残念ながら、親父の付き添いがあるため欠席だ。 いつものように子供を寝かせて病室に向かった。親父はいつになく険しい顔をしていた。 日に日に病状が悪くなる。痛みを和らげるためにモルヒネみたいなものを使っているせいか、最近幻覚を見るようになった。 いろいろな幻を見てしまう親父は、「ほら、あそこに○○○がいるだろ!」と必死に訴える。でも、「大丈夫、そんなのいないよ!」というと「そんなはずはない!」と怒りの表情を浮かべる。 妻や息子にも信じてもらえないと親父は悲しい思いをしている。確かに、大切な人に信じてもらえないことは、たまらなく苦しいことだ。 ボクは、そのためにここ半年以上苦しんでいる。親父には、そういう思いはさせたくないが、相手は幻覚、どうすればいいのか分からない。
2004年09月27日
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連日、夜中まで病室で付き添いを続ける毎日… 気が張っていたためか、これまで疲れは感じなかったが、今日は朝から立ち上がるのにもやっとの状態。 それでも昼から、お袋と交代して病室で付き添った。ところが、起きていられず、夕方まで親父の横で寝てしまった。 いつもなら、夕食から子供を寝かせるまでの間は家に帰って再び病室に戻るのだが、今日は「また来るね」とは言えなかった。 これからも付き添いが続く。体調を崩さないよう気をつけなければならない。
2004年09月26日
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親父の容態が悪化し、叔父と相談してできるだけ元気なうちに親兄弟と会わせてあげようと計画した。 最後に残った親父の末の弟ケンおじちゃんと朝一で連絡を取った。10月3日には2年前に亡くなった叔母の3回忌があるため、親族が勢揃いするため、叔父はその時に親父を見舞う計画だったと思う。 でも、親父の容態はいつ急変してもおかしくない。そう伝えると叔父はこれから会いに行こうと言ってくれた。 久しぶりに叔父と対面した親父は嬉しそうな顔を見せたが、時折こらえきれず、苦しい顔をする。 日に日に衰える親父の様子をただ見守る以外にない自分にじれったさを感じながら、また1日が終わる…
2004年09月25日
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これまでボクは、仕事に情熱を燃やし、実績もそれなりに上げてきた。専門分野の中では高く評価され中核として働いてきたとの自負もある。 ところが、持病のパニック障害に鬱を併発するようになって、情熱が徐々に失われ、人間関係のトラブルもあって最近急激に何も手につかなくなってしまった。 焦れば焦るほど、悪循環・・・・・ 前を向いて生きたい。 家族のためにも。
2004年09月24日
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午前中、特養に入っている祖母を訪ねた。これまで親父の容態をほとんど話していないが、祖母に「親父のところに行ってみるか?」と聞いてみた。 「みんなトシちゃんのことは言ってくれない。会えるものなら行きたいよ」と祖母は言った。ボクはすぐに外出届を提出して親父の病院に祖母を連れて行った。 車の中で、祖母は2年前になくなった叔母のことを引き合いに出しながら、物事には順番がある。親より先に逝ってはいけないと涙を流しながら話した。 病院に着き、祖母には親父がもう話すことができないこと、筆談でコミュニケーションを取っていることを告げ、病室に入った。 親父と祖母は、お互いを思い、驚くほど淡々と話していた。帰り際、祖母は親父のやせ細った手を取り、「治さんといけんぞ」と一言。 胸がつまる瞬間だった…
2004年09月23日
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ボクがパニック障害になって13年になる。 パニック障害と診断されるまでは、過換気症候群、狭心症の疑いなどと診断されたり、ひどい時には救急車で運ばれたのに医者に「まったくの健康体ですよ。」みたいなことを苦笑しながら言われたり… 今年になり、ひどい体験をして精神的に打ちのめされた。でも、そのおかげでパニック障害を克服できた。今でも軽い症状は出ることもあるけど、恐怖感は無くなった。 ただ、精神的なダメージはあまりにも大きく、その苦痛で不眠となり、睡眠導入薬を約半年間飲み続けている。薬がないと眠れない日が続いている。 大切な人に信じてもらえないことの辛さ、大事にしたい友人との間で揺れ続ける日々だ。
2004年09月22日
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末期ガンで苦しむ親父に、先日「ばあちゃんに会うか?」と尋ねた。親父は、筆談で「会ってもいい」と言った。会ってもいいという言い方の奥に隠された親父の思いが痛いほど分かった。 ボクは親父に「会いたいのか?」と聞き直した。親父は素直に「会いたい」と言った。弱音を吐かない親父のその言葉は、とても重かった。
2004年09月21日
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親父がガンを患って約3年になる。今年の6月までに6回の入退院を繰り返し、懸命にガンと闘ってきた。 親父は7人兄妹の長男で、家族のために自分を犠牲にしてがむしゃらに生きてきた。 そんな親父が闘病生活をはじめて1年ほど経った頃、親父が最も敬愛する姉が胃ガンで逝った。それでも弱音も吐かず、親父はがんばってきた。 しかし、今年の6月いつまでも完治しない現状に嫌気がさした親父は、病院を退院し、食事を制限する民間療法に頼って、自宅に帰った。 そして、9月10日容態は急変。ガンは肺に転移し、左肺の機能が停止したため、自力では血中酸素濃度を維持できなくなった。ボクは救急車を呼び、病院に向かった。 今、親父の容態は少し良くなっているが、声帯を制御する神経も冒され、会話もできなくなった。 ボクにできることは、そばにいてあげることしかない。
2004年09月20日
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9月7日台風18号がやってきた。 忘れもしない平成3年9月30日に襲来した台風19号に匹敵する台風だ。 山口県内は、何十万戸が停電という状況で、我が家も例外ではなく、3日間の停電に襲われた。 我が家は、分不相応の電動シャッター装備の鉄骨建てガレージ(自動車4台駐車可能)があるが、見事に中にあった車は脱出不能となった。 電化住宅である我が家は、すべての機能がストップした。子供たちは暗闇の恐怖でオドオド。 電気の大切さを知った3日間でした。
2004年09月17日
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