仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2026.04.16
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カテゴリ: 東北


東北と貢馬の歴史、そして交易の道について。

■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年
(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」の前半部分から。おだずま要約・再構成)
■後続記事
北方へのびる道 (2026年04月17日)
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1188年(文治4)、藤原泰衡から京都に送る途中の貢馬(くめ)、貢金、桑糸などが、相模国府に近い大磯駅(おおいそのうまや)に着いた。すでに義経を保護し交戦状態にあった平泉からの貢納物であったため国府役人が源頼朝に報告すると、頼朝は、泰衡は反逆に与するものだが、これらは公物であるから抑留すべきではないと返事した(吾妻鏡)。このことから、奥州藤原氏の貢馬や貢金は東海道を通って京都に運ばれたことと、公物すなわち国家的な貢納物と考えられていたことが明らかだ。

これ以前の11世紀の陸奥国からの貢馬は、新任の陸奥守が第一に行わねばならない重要な仕事であった。公物である馬の運送は国家的に行われ、官道の宿駅の間を国内の人民の負担する役によって、遞送(送り継ぎ)された。 貢馬遞送 の実態は、天喜年間(11世紀中ごろ)の例が、美濃国大井荘(大垣市)と茜部荘(あかなべ、岐阜市)の史料で知られる。

2 東海道と東山道

貢馬の官道が、陸奥国と美濃国が含まれる東山道であることは当然とも思われるが、冒頭の1188年の貢馬は、少なくとも相模国までは東海道を通っている。じつは、東海道から東山道の美濃国に抜ける道は、すでに奈良時代から使われていた。734年(天平6)尾張国正税(しょうぜい)帳、739年(天平10)駿河国正税帳には、陸奥国から進上する御馬の飼糠米などの費用が記されている。陸奥国からの貢納物が東海道(尾張、駿河)を経由したのは明らかである。おそらく、陸奥国から常陸国に出て東海道を通るコース、あるいは下野国から後の鎌倉街道と同じような道で相模国に抜けるコースが使われただろう。

陸奥国に属する出羽国の場合は、進上御馬が北陸道を通っていた(733年(天平5)越前国郡稲帳から)。

なお、陸奥国から下野国に出る東山道本道は白河関を越えるが、陸奥国から東海道の常陸国に抜ける道は菊田関(勿来関とも)を越える。後者の地域は陸奥国内でも古くから海道あるいは東海道といわれていた。

また、東山道本道から分かれて久慈川の谷に沿って南下して常陸国に入る道もあった。その途中に焼山関があった(茨城県太子町北田気、南田気と推定)。「今昔物語集」巻27第45話には、相撲使(すまいのつかい)が焼山関付近を通る話だが、官使も東海道を通って陸奥国と都を往返したことを示している。

3 陸奥国交易御馬と糠部郡

奥州藤原氏の貢馬の前提となる 陸奥国交易御馬 は、陸奥国の正税をもって交易(きょうやく)して入手した馬を毎年11月12月のころに20疋または30疋づつ貢納する制度である。年の前半に、陸奥国御馬交易使なるものが朝廷から派遣され、その交易使が馬を牽いて上京する慣例だった。貢進された交易馬は、紫宸殿または清涼殿の南庭で、天皇の前で陸奥国交易御馬御覧の儀式が行われた。

糠部郡 の牧である。糠部(ぬかのぶ)郡は、現在の一戸から九戸にいたる広大な地域で日本最大の郡である。全郡が馬牧のようなところで、糠部駿馬の名声は全国に聞こえ、武士にとって垂涎の的であった。

「源平盛衰記」では、熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて買った名馬権太栗毛は一戸の牧の産。頼朝秘蔵の名馬で宇治川の先陣争いで有名な「いけづき」「するすみ」「わかしらげ」は、三戸立ち、七戸立ちの馬という。藤原基衡が都の仏師雲慶に送った品物にも糠部駿馬50疋が加えられていた(吾妻鏡)。

糠部が郡に編成されるのは12世紀で、それ以前は蝦夷の村として把握されていたが、その時代からすでに蝦夷は名馬の産地で人々は争って蝦夷と馬の交易を行っていた。すでに787年(延暦6)、王臣百姓が綿や冑鉄を売って狄馬、俘奴婢を買い求めることが禁じられ、815年(弘仁6)には、権貴の使、豪富の民が争って蝦夷の馬を求めるため馬の値が騰貴し兵馬が得がたいとして軍用に耐える馬を国境から持ち出すことを禁じている(類聚三代格)。これらの狄、蝦夷の居住地の中に後の糠部郡が含まれていたのは間違いない。

4 馬の交易と蝦夷の反乱

9世紀から10世紀にかけて北奥羽では、馬の交易をめぐり蝦夷との紛争が絶えなかった。出羽国方面のことだが、元慶の乱(878年)の原因は馬と鷹の交易に伴う紛争であった(出羽国の国守藤原保則の伝、三善清行筆)。また901年(延喜1)に、陸奥守藤原滋実(しげざね)の死の遠因となった蝦夷との交易の問題性や官吏の腐敗を、菅原道真が痛烈に批判している(菅家後集)。道真は、人々は陸奥国に対して金・皮衣・鷹・馬などを求めるが、これらはみな狼のごとき夷民との交易で得るもので、昔から夷民の変が起こるもとになっているという。



糠部の南は、 奥六郡 (胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手)だが、これは胆沢城直轄の俘囚(服属した蝦夷)の居住地として編成された特殊な郡である。馬の交易統制はおそらく奥六郡の組織を介して行われた。奥六郡の司で蝦夷社会と深い関係にあった安倍氏が交易統制に一役買っていたことは疑いない。

5 藤原氏の貢馬

陸奥国交易御馬は1120年(保安1)を最後に史料から消える。奥州藤原氏初代清衡の晩年であるが、奥州藤原氏は私的な貢馬とともに、国土貢(くにのどこう)といわれる公的な貢馬を行っていた。これは交易御馬と同様に毎年20疋だったようで、交易御馬を受け継いだと考えられる。

1186年(文治2)、頼朝は秀衡に対して、貢馬貢金は国の土貢であり東海道の惣官として自分が管領する立場にあるので今年から自分が伝進すると要求した。頼朝の管轄下にあるというのは、1183年(寿永2)宣旨による東国行政権に基づくのだろうが、いずれにしても奥州藤原氏は事実上頼朝の統率下に立ち、貢馬は鎌倉に進上され、鎌倉を経由して京都に送られた。

冒頭(1 貢馬遞送)に述べた泰衡の貢馬・貢金はその後の義経問題を契機とする鎌倉と平泉の手切れ後のもので、奥州藤原氏滅亡直後の1190年(建久1)春に頼朝は20疋の貢馬を行うが、奥州藤原氏時代の例を受け継いだものであった。

もう一つ重要なことは、頼朝による貢馬・貢金の伝進が、奥州藤原氏の鎌倉への従属を意味しているとすれば、逆に、貢馬・貢金は奥州藤原氏の独立の証だったということである。貢馬・貢金を行う政治権力として朝廷から認知されていたのであり、奥州藤原氏のアイデンティティにかかわる特殊な貢納物であった。





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最終更新日  2026.04.18 16:20:28
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