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蔵王山頂に鎮座する蔵王大権現は、天武天皇8年(679)に、役の行者の叔父 願行(がんぎょう)が勧請したものと伝えられる。蔵王大権現社は往古より蔵王一帯の修験者を統括し、大刈田山(青麻山)東麓の「願行寺」が管理した。平安時代末期(12世紀末)には奥州藤原氏の庇護も受け、願行寺は繁栄し、子院四十八坊を形成するまでになった。奥州藤原氏が滅亡とともに衰退し、戦国時代には兵火による焼失も加わって、戦国時代末期には 山之坊・宮本坊・嶽之坊 の3坊にまで減少した。
後に、 山之坊は廃れ 、 宮本坊は宮蓮蔵寺 となり、 嶽之坊は金峯山蔵王寺嶽之坊 と号し、蔵王山参詣表口を統括した。御山詣りが流行した江戸後期以降は、多くの参詣者を山頂の蔵王大権現へと導く役を担った。雪深い蔵王山は冬の参詣ができないため、例年、十月八日から翌四月八日までは御神体を遠刈田の「蔵王大権現御旅宮」(おかりのみや)に遷すようになった。この御旅宮は嶽之坊と同一の場所にあるなど、古くから嶽之坊と蔵王大権現社とは、同体ともいえるほど深くつながっていた。
明治維新で神仏分離が行われると、吉野では「蔵王権現」を神号とし、従前の僧侶が神官となった。これに従って当地でも明治2年(1869年)7月に「蔵王大権現」を「蔵王大神」へと改号。さらに同年9月、「蔵王大神」とは「天水分神および国水分神」の2柱であるとの解釈から、社号を「水分神社」(みくまりじんじゃ)に改称した。なお、この時期に修験道の「蔵王大権現」を管理していた真言宗の 嶽之坊は、神道の神社となった当社と合一したと見られる。 明治8年(1875年)に「水分神社」は「刈田嶺神社」と称するようになった。
願行寺は末寺四十八寺院を有するまでに至ったが、文正(1466)、応仁(1467~1468)の乱による戦難にあい、奥州藤原氏の衰退と共に 宮本坊(現蓮蔵寺) 、 岳の坊(現遠刈田金峰寺) 、 山の坊(蔵王寺) の三坊を残すだけとなった。
霊場 賽の磧
當山は海抜1.250米に位置し、日本で有数の高地にある山岳寺院であります。 白鳳時代に山岳仏教の開祖、役の小角(エンノオズヌ)『神変大菩薩』の開山で、とくに地蔵信仰の中心地をなし、賽の磧供養の歴史は約600年前(室町時代)から始まり 又、祈願処としては約一千数百年前になります。




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