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須賀川市街から東の山間部に車を走らせると、ぽつりぽつりと小村があるのみで、それ以外は広大な田んぼや畑が広がっています。今回紹介する札所が境内を構えている地域も字名が田畑であり、なんとも農村のような風情が感じられる地名です。因みに田畑の前の字は小倉であり、山号の由来になっているんじゃないかと思われます。2025.3.9仙道三十三観音霊場十一番札所:小倉山 大慈寺 観音堂(島巡り観音堂)畑の脇に伸びる道路沿いに、寺門が開かれています。特に山門などは無いですが、そのシンプルさが妙に哀愁を漂わせています。青森県には数ヶ寺しかない臨済宗寺院も、福島県中通り地方では何ヶ寺も見られ、地域性が感じられますね。鎌倉御家人が入植した東北地方の各地では、もともとあった密教系の寺院を禅宗に改修して再興した例が幾つも見られます。鎌倉幕府の影響か、氏族ごとに臨済宗か曹洞宗かを信仰していたようで、この辺りを治めていた二階堂氏は臨済宗を信仰していました。そうした地域の有力者の援助を受けて、地域ごとに宗派の偏りが生まれる様になったんではないでしょうか。※ここからは少々脱線します。南部氏を例にとってみましょう。南部氏の中でも元々嫡流だった根城南部氏は曹洞宗を、後々嫡流になった三戸南部氏(盛岡南部氏)は臨済宗を信仰していました。後に三戸南部氏から分かれた八戸南部氏も臨済宗推しであり、こうして見てみると、やはり氏族ごとに信仰の偏りがあることは明白です。南部氏は特に庶流が多すぎて、どの庶流がどこから分かれたのかなど特定しずらいんですが、どの宗派を信仰しているかという点も、もとはどの氏族に属していたのかを特定する手掛かりになりそうです。寺門の先には長い石段が伸び、上には大きな御堂が見えます。行ってみましょう。石段を上がり切ると、古風な見た目を残した本堂がデンと鎮座しています。手前には蔵のような外観の観音堂。こちらが札所になっています。内部には大般若経とともに、韋駄天?、白衣観音、釈迦誕生像などが収められています。奥にある一際大きな仏像は、手の形からしても阿弥陀如来だと思われます。そんでその手前にひっそりと置かれている十一面観音が、札所本尊なんではないでしょうか。観音堂の御由緒です。島巡り観音堂・・・。 境内に仙道三十三観音十一番札所の千手千眼観音堂がある。現在は土蔵造りのお堂であるが、以前は本堂左手の丘の上にあった。明治35年の大暴風雨の時倒壊、現在の所へ移し安置したもの、その節、境内の大木・巨木も皆ことごとく倒れた。 この観音さまは通称「島巡り観音」と呼ばれている。以前、小倉の一斗内地内に普応寺の末寺、如法寺があった。如法寺の一角、小倉川の河畔に観音堂があり、舟でめぐったので島巡りと呼ばれた。如法寺はその後大慈寺に併合され、観音堂も前記の処に移された。 ・・・。岩瀬・須賀川寺院めぐり 82.83ページ より引用もともとは大慈寺の本寺である獅巖山普応寺末寺の如法寺の観音堂だったみたいです。川の畔にあり舟で巡ったことから島巡り観音・・・。なんとも風情溢れる名称です。鎮座地が変わっても、その趣深い名前は残り続けているのです。次に本堂を見てみましょう。かなり大柄な御堂です。禅宗らしい落ち着いたカラーリングも良いですね!御由緒です。小倉山 大慈寺臨済宗円覚寺派 獅巖山普応寺末寺開山:獅巖山普応寺七世 大應碩保禅師開基:須賀川二階堂初代為氏公本尊:釈迦三尊縁起・由来 小倉山大慈寺は現在、臨済宗円覚寺派に属し、宗祖達磨大師の正伝の中に在る中峯禅師「普応国師」の法を嗣ぐ古先印元禅師を開山とする普応寺の末寺として、長禄元年(1457年)普応寺七世 大應碩保禅師を開山に迎え、須賀川城主・二階堂遠江守爲氏(法号・養徳院殿茂山樹英大居士)を開基に、当時田村郡小倉村(現在地)に創建したものである。 その後元禄年間(1688~1704年)に火災にあい、普応寺二十八世 秀巌碩需和尚が入寺して再建、又々明治3年2月23日晚、寺の下の家より失火、類焼してしまった。関祖孝上座が看護している時である。15年後の明治18年九世 木舟素嶽和尚が上棟にこぎつけ、翌年落成をみることが出来た。以来110有余年を過ぎて現在に至っているのであるが、諸堂の老朽はなはだしく、加えて建築が不完全であったため、今回本堂の改修をはじめ、諸堂の復興、境内の整備に着手した。工事を初めて8年、漸く所期の目的を達成し、昭和63年10月6日、大本山円覚寺 足立大進管長猊下の導師のもと、盛大なる落成慶讚大法要を厳修、無事円成した。 就中、本堂内陣に、国宝円覚寺舎利殿の須弥壇に模して唐様の須弥壇を附設し、八尺の前机、中央香台を添え、禅宗本来の仏殿様式に変えたのは特記すべきであろう。 ・・・。閑話休題 大慈寺の本尊さまは立像の釈迦如来であった。そのためかどうか住職が仲々腰を落ちつけてくれない。そこで檀信徒一同協議、坐像の本尊にかえたという。その後は、住職が落ちついて教化にあたってくれたという。 ・・・。岩瀬・須賀川寺院めぐり 81~85ページ より引用須賀川市の中ほどにある獅巖山 普応寺の末寺となります。普応寺は奥州の中でも有力な臨済宗寺院で、周辺地域には多くの末寺が開かれたそうです。大慈寺は白川結城氏・二階堂氏など時代時代の有力者の後ろ盾を得てきましたが、幾たびも火災に遭い、堂宇を焼失。今の御堂も昭和63年に落成したものです。とは言え、創建自体は15世紀と古く、かなりの古刹であることが分かります。山号額です。木を縦割りにした板に豪快に揮毫されています。斜めから。七堂伽藍立ち並ぶとはいきませんが、古態がよく残っている禅宗らしい御堂を持つ寺院でした。須賀川二階堂氏所縁の寺院ということで、南奥州の歴史を語る上では外せない古刹なんではないでしょうか。本当に福島県には古刹が多いですね!まわり甲斐がありますよ御詠歌観世音 守り給えと唱うなる 島巡りする 舟についても本尊:十一面観音 एकदशमुख以上です。次の記事・十二番札所:古寺山観音堂(古寺山 瑞雲院 白山寺) 古色蒼然たる山の鎮守と観音堂
2026年02月25日
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こちらに来て間もないころ、地理が良く分からないままにグーグルマップで案内され辿り着いたのがこの寺です。山梨県は四方を山に囲まれており、盆地の底には街が広がり、周囲の山際には寺が広がるというまことに面白い土地であります。廣厳院も少々標高の高い丘陵地帯に境内を構えているんですが、山梨県で丘陵地帯というとだいたい葡萄畑になっています。そのため廣厳院の周りは見渡すばかりの葡萄畑といった、ある種フランスの一地方のような風情が漂っているのです。山梨県には曹洞宗寺院が約500程度あるなんて聞いたことがありますが、その内廣厳院の末寺(直末・孫末問わず)は50をゆうに超える程と相当な規模です。山梨県の曹洞宗の元締め的な立ち位置の古刹を見ていきましょう!2025.10.13甲斐百八霊場三十五番札所:妙亀山 廣厳院見晴らしの良い県道34号を山手に逸れると、廣厳院の境内が広がっています。駐車場に車を停めて、寺門の方にまわってみました。今では簡素な石門があるばかりですが、かつては勇壮な楼門が建っていたと言われています。門の両側には六地蔵が立ち、参拝者を迎えます。門の周りには簡素な地蔵堂があります。本尊は延命地蔵尊でしょうか。今でもじぇんこ納めであって、地域の崇敬は篤いんでねぇべか。参道を桜花が飾ります。春にはまた華やかな風景が広がっているんではないでしょうか。御堂の前まで来ると、右手に小さな池があり、その奥にはかなり立派な鐘楼堂が建ちます。鐘楼堂が現存する寺院自体は少なくありませんが、ここまで古態のまま残っているものは稀ではないでしょうか。組木や木材の色味が素晴らしく見とれてしまいます!鐘楼手前の池の畔では、如意輪観音が静かに思惟していました。この池から薬師如来像を背負った亀が出て来たという伝説が残っており、山号の由来となっています。御堂の手前にはふくよかな相貌をした聖観音が静かに立っていました。それでは本堂です。シンプルながらかなりの大堂です。県内広しと言えど、ここまでの規模の御堂は珍しいでしょう。御堂の背後には開山堂が建ちます。では、御由緒を見てみましょう。妙亀山 廣厳院曹洞宗 妙高山最勝院末寺開山:大雄山最乗寺十四世 雲岫宗竜大和尚開基:塩田長者 降矢対馬守本尊:聖観音 この寺は、相州小田原最乗寺十四世雲岫宗竜を開祖、塩田長者降矢対馬守を開基とし、寛正元年(1460年)開山した。山号を妙亀山といい、寺地の池より霊亀が薬師像を背負って現われたことに由来するという。また、甲斐四郡の中央に位置するということから、”中山”とも俗称される。 武田信昌が文明19年(1487年)寺領を寄進して以来勝頼に至る五代の庇護を受け、武田家滅亡後は徳川家の保護を受けた。甲府大泉寺とともに甲斐曹洞宗の大元としての格式があり、県内800余の末寺を総括する。本尊は聖観世音菩薩。 甲州八十八霊場の第十六番札所で、現在も境内に本堂・庫裏・開山堂・鐘楼などの主要な建物が残り、全て江戸時代の建物として貴重である。山門は既に失われているが、礎石が往時をしのばせる。 寺宝のうち、武田家及び徳川家の書状36点と嘉歴2年(1327年)の鋳造銘のある梵鐘は共に、県の文化財に指定されている。 毎年4月16日は中山観音会式で、近郷近在から多くの人びとが集まり、終日にぎやかである。昭和61年3月 一宮町教育委員会15世紀創建の古刹です。廣厳院の本寺である最勝院からは、他にも2ヶ寺程山梨県に根を張る古刹があり、それらと当寺とが県内の曹洞宗寺院の元締め的立ち位置にあるようです。最乗寺系統以外にも幾つか系統があるようですが、いずれにせよ元締め寺院の末寺はすんごいことになっています。廣厳院の直末はこちら↓からご覧ください。・延享度曹洞宗寺院本末牒 96.97ページ堂内には”瑠璃界”と揮毫された額が懸けてあります。おそらく開創譚の薬師如来にかかったものなんですが、現在その薬師如来はどうなっているんでしょうか?とりあえず公式サイトには何の記述もありませんでした。気になります。それでは当寺の文化財を見ていきましょう。まずは廣厳院文書から。県指定書跡 広厳院文書三十六点一宮町金沢二二七 広厳院昭和56年3月12日指定 当寺に伝わる古文書は、武田信昌(1487年のもの)から勝頼まで五代にわたる寄進状(寺に土地を寄附する意味のもの)や禁制状など武田家に関する書状が11通、そのほかに加藤光泰・石川秀貞・浅野長継などの支配文書、曹洞宗(当寺は、曹洞宗最勝院末)に関係する文書などがある。 なかでも、武田五代にわたる書状がそろっているのは珍しく、寺院の統卒、武家と寺院との関係など、武田から徳川時代の中頃における甲斐国の歴史を知る重要な古文書とされ、一括指定をうけている。昭和61年3月 山梨県教育委員会 一宮町教育委員会500年以上前の文書が残っているというのは本当にすごいです。歴史的価値は相当なものでしょうね。ちなみに公式サイトにて、実物をご覧になれます。御堂手前右隅には古めかしい釣り鐘が懸かっていました。これが県指定文化財の銅鐘で、かつては鐘楼堂に懸かっていたそうです。鋳造自体は鎌倉後期で、元々妙台寺のものでしたが、廃寺に伴って武田氏の陣中鐘として使用されたそうです。近代になって境内の金山という丘を掘ったところ、何故かこの鐘が埋まっており、そのまま当寺の梵鐘として使用されました。説明書きも見てみましょう。県指定工芸 広厳院銅鐘一宮町金沢二二七 広厳院昭和34年2月9日指定 この銅鐘は現在広厳院の所蔵であるが、もとは初狩村(大月市)の妙台寺(廃寺)のもので、陣鐘として使用されたと伝えられるものである。鋳造は嘉歴2年(1327年)で鎌倉時代の末期である。鐘身90.9cm、総長118.2cm、口径64.8cm、四面の池の間に陽鋳の銘があり、この書体は優雅ですばらしく、文化財的価値が高いとされている。銘は次のとおりである。第一区 甲州初狩妙台寺鐘銘 風調雨順 国泰民安 蓋聞昔広利之業殺猟也 憑洪鐘留耳之勝因、忽出第二区 苦悩之泥犂焉、今弟子之 事修善也、以洪鐘瑩成之 結縁、速願安楽浄邦矣、 彼者三唱仏名、得遷忉利 天、此者十称仏号求生安第三区 養界、功徳之勝劣得相比 乎、然則皓々夜声者、覚道 俗緇素有習之眠 粛々暁 響者、驚邑老村女無明之夢 仰願上自円紫、下至方黄第四区 一切群類、悉開利益矣 嘉歴二季黄鐘廿七日 大檀那向阿弥陀仏敬白 奉行左衛門尉藤原朝臣信継大工兵衛太夫大江信光なおこの鐘は境内の金山というところから彫り出されたもので、表面に痕る鍬の刃形はその際につけられたものといわれる。昭和61年3月 山梨県教育委員会 一宮町教育委員会次に境内の中を歩いてみましょう。本堂から山手の方に行くと墓地があり、奥には歴代住職墓が置かれています。そこの隅にひっそりと建つのがこの石塔。塔の表面には”景徳院殿頼山勝公大禅是門 神儀”と刻まれています。これは甲斐武田十七代勝頼公の法名なんですが、廣厳院は特に菩提寺とかではないようですので、おそらく供養塔か何かなんじゃないでしょうか。山門の方まで戻ってみると、家康公の歯塚と伝わる石塔が建っていました。徳川家康公ゆかりの寺院の僧が当寺の出で、その縁があって家康公の命令で歯が埋められたんだとか。斜めから。甲斐武田氏だけでなく、徳川家康公とも所縁のある古刹でした。往時の繁栄振りを物語るような大堂や鐘楼堂は見ごたえ抜群!更に500年以上の時を経た文書や梵鐘もあり、歴史好きも楽しめると思いました。是非桜の時期に御参拝ください!御詠歌?本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・妙亀山 廣厳院以上です。
2026年02月18日
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ついこの前の土曜日は県南部を巡礼し、甲斐国三十三観音霊場・甲斐百八霊場の札所を幾つもまわることが出来ました。札所の方丈さんと話が弾むときもあれば素っ気なく終わることもあるんですが、できれば面白い話を聞きたいと思っています。そのためにはどう話を切り出すか、いつも考えながら参拝しています。そこに人付き合いの面白さがありますね。今回参拝したのは妙見山 晴雲寺。笛吹市南部の山間に境内を構えております。急な訪問にも関わらず、お寺の歴史に関する話を丁寧にしてくださりました・・・!本当にありがたかったです!果ては御接待までしていただき、感謝してもしきれません御朱印もカッコよく、かなり満足のいく参拝になりました。さっそく紹介するべく、筆を走らせます。2026.2.14妙見山 晴雲寺良く晴れた休日は巡礼に限ります。撮影も上手くいくし、陽光も心地よいし、良い事ずくめです。石の寺門の先には新しめの本堂。脇の方には駐車スペースもあるので、車でも安心。参道の石段には瑪瑙のような石が幾つも置いてありました。誰かが飾ってくれたんでしょうか、微笑ましいですねぇ。参道の左手には当山開祖 日鑑上人を祀る石塔が建っていました。本堂の裏手にまわってみましょう。こちらには寺の鎮守か、稲荷の祠が鎮座していました。実はこの祠が建っている場所は、もともと古墳だったらしいんです。公式サイトの説明を見てみましょう。宝塚古墳境川町小黒坂小字寶塚 この地名にその名があるとおり本堂裏には宝塚(たからづか)という名の古墳があります。これは古墳時代の遺跡であり高さ約4・5尺、地盤は60坪、形は正方形で東南の隅の一部には幅8尺、厚さ2尺の大磐石が覆っています。石垣が残っていますが周囲に壕などの形跡はありません。埋蔵文化財包蔵地一覧・「遺跡名称」宝塚古墳・「所在地」境川村小黒坂宝塚・「時代」古墳 大磐石の下には甲冑、刀剣および珠玉などが埋まっているとの口伝があり、明治初頭に村民がこれを掘鑿した際に、幾多の遺物を発見した。時たまたま悪疫の流行があり、発掘の祟と恐れ、再びその場所に埋蔵したという話が残っている。晴雲寺 【冬至】 星祭りの霊場 / 宝塚古墳 より引用なんと古墳時代の遺構という事で、何とも貴重な遺跡です。墳墓の地にお寺が建てられたというのは、なかなかに珍しいんではないでしょうか。再び本堂です。近代的な部分と、古雅な部分とがうまく調和している美しい御堂です。それでは気になる御由緒を見てみましょう。妙見山 晴雲寺日蓮宗 身延山妙法華院久遠寺末寺開山:身延山第七十四世 自厚院日鑑上人(吉川日鑑上人)開基:永立山本光寺僧 祥教院日迅上人(鈴木日迅上人)本尊:十界曼荼羅 山号を「妙見山(みょうけんざん)」、寺号を「晴雲寺(せいうんじ)」といい、開山は身延山第七十四世 自厚院日鑑上人(吉川日鑑上人)、開基は、米倉本光寺 祥教院日迅上人(鈴木日迅上人)。 当地には古くから「北辰妙見大菩薩」をまつる妙見堂があり、小黒坂の住民たちによって、国土安穏を願われていた。篤信の者たちによって、一寺建立の願いが起こり、明治15年(1882年)11月、妙見山晴雲寺の公許を得る。 毎年12月冬至の妙見菩薩の大祭である「星祭り」では、遠近からの参詣者多く、大いに賑わいをみせている。平成15年には本堂を改築し、現在に到る。晴雲寺 【冬至】 星祭りの霊場 / 妙見山晴雲寺 より引用もともとこの寺院に参拝しようと思ったきっかけはこの山号でした。妙見山という山号は、もろに妙見信仰と関りがあるだろうなと思っていたんです。和尚にそれについて尋ねたところ、↑の北辰妙見菩薩の説明をしていただけました。かなり詳しい解説で、ずっと知りたかったことが一気に知れて、本当に満足です。ありがとうございました!最初は古墳があり、そこに(後から詳しく書きますが)天候回復のために妙見菩薩が祀られ、近代になって寺院となった、という感じでしょうか。何世紀もの長きに渡って、人々の信仰の場であり続けたというのは、本当にすごいことだと思います。山号額です。記号は身延山の貫主でしょうか?本堂にて北辰妙見菩薩の説明をしていただきました。本堂内陣の奥に妙見菩薩を祀る御堂があり、そこに件の妙見菩薩が祀られています。この妙見堂(仮)の本尊を見てビックリ。なんと武者のような姿をしていたのです。これまで妙見菩薩というと、女神型の神像しか見た事がなく、このタイプの妙見菩薩像は初めて見ました。頭上に掲げた太刀は相手の剣撃を受ける姿勢で、もう片方の手では印を切っています。表情は厳めしく、何とも雄々しい見た目です。能勢型とも称されるこの武者型の妙見菩薩を祀る寺としては、大阪府能勢町の本瀧寺が有名です。ではこの妙見菩薩は、どのようにして当地にもたらされたのでしょうか?それについては↓のような伝説が伝わっているようです。北辰妙見大菩薩 天明年間(1781~1789年)に、日本諸国の社寺などを遍歴する僧が当地(小黒坂)を訪れ、角田家に滞在した。そこでの厚遇に対して感謝の言葉を述べ、長い間逗留させていただいたお礼として、持っていた厨子の中から仏像を取り出した。 「これは能勢妙見の分身で妙見大菩薩です。どうかご当家で大切にお祀りください。」といって立ち去っていった。 しばらくの間は、角田家で大切に安置しお給仕していたが、より多くの人にお参りしていただきたいと思い、協力者を得た結果、間口2間・奥行3間の「妙見堂」を建立し、地域の皆さんがお参りできる星祭り祭典の基盤を固めるに至った。 また、妙見堂が建てられたこの地は「日蓮聖人の甲斐巡教の杖錫の地」とされる。(『日蓮宗寺院大鑑』) 昭和26年頃に老朽化した妙見堂は、ブリキ屋根・モルタル壁のものへと改築された。平成15年の本堂改修に伴って、妙見堂も再改修された。 現在、妙見堂の厨子に安置されている「北辰妙見大菩薩」は、文久2年(1861年)仏師 木村重信によって彫られたものであり、この像の胎内に真の妙見大菩薩像が入っているため「胎内仏」と呼称される。 現在、地域の皆さんから「お妙見さん」と親しまれている。晴雲寺 【冬至】 星祭りの霊場 / 北辰妙見大菩薩 より引用旅の僧侶が持ってきたようですね。ここではハッキリと能勢妙見の分身と言及していますね。やはりなにかしら関連があったみたいです。現在は↑の像の胎内仏として収められているようで、和尚も実物は見た事が無いんだとか。因みに北辰妙見大菩薩にまつわる面白い話を和尚が聞かせてくださいました。なんでも、旅の僧侶がこの村に訪れた時、天候不順による大凶作が起きていたんだとか。人々は天候回復の願いをこの像に託し、一心に拝んだところ、不思議と分厚い雲が晴れ、作物は無事に実るようになったそうです。その霊験に感謝し、今でも冬至の日の深夜には”星祭り”を行って篤く祀っているんだそうです。この事蹟は現在でも晴雲寺という寺号に受け継がれています。斜めから。笛吹市の面白い山号を持つ日蓮宗寺院でした。御由緒も面白く、解説も丁寧で本当に満足です。不思議と参拝後は雲に覆われることなく、夜まで晴天が続いていました。遠く西国の地から運ばれた妙見大菩薩の霊験があらたかなことは言うまでもない(今昔物語集風エンド)。今回貰った御朱印です。妙の字の一画目が光り輝き、最高に荘厳な御朱印に仕上がっています!因みに、参拝すると和尚が妙法蓮華経を詠み込めた、妙と書かれた石がいただけます。こちらも相当な美文字ですねぇ!公式サイトへのリンクです。・晴雲寺 【冬至】 星祭りの霊場以上です。
2026年02月17日
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青森県のみならず、日本一とも言えそうな桜の名所 弘前城。津軽二代信枚の時に落慶した城郭で、今でも天守が現存しています。弘前城の郭内は数え切れない程の桜で飾られており、春ともなると沢山の出店が立ち並ぶ桜祭りが開催され、短い津軽の春を皆して謳歌するのです。弘前城の郭の内北側には、青森出身の英霊たちを祀る護国の社が鎮座しています。2025.4.27青森縣護國神社天守から北門の方に向かって歩いていると、見上げる程の大鳥居が建っています。ここが護国神社の一之鳥居です。奥は広場の様になっており、ここでは桜祭りの時にライブが開催されたりします。奥まった所に境内が広がっています。弘前城の郭の内、北西隅といったところでしょうか。境内には桜よりも青々とした松が多く生えていました。大きな幟が参道両脇に建っています。その後方に控える黄色い提灯には、英霊たちの名前が刻まれているんです。手水舎も完備。コロナ対策で使用できませんでした。拝殿です。厳かな暗めの色合いがなんとも言えません。そこに白い垂れ幕が映え、最高の姿になっています。ご由緒です。青森縣護國神社祭神:青森県出身の英霊 29,171柱 ここは平和の杜です。 このお社は青森縣護國神社といいます。青森縣護國神社は、津軽藩主 津軽承昭公の思し召しにより函館戦争の戦没者慰霊のため、明治3年(1870年)に創建され、明治43年3月に弘前招魂社として現在地に移築、昭和11年8月青森縣招魂社となり、昭和14年4月、一府県一社を原則とした内務大臣指定護國神社となったものです。 この神社には、幕末・明治維新以来、日清戦争・日露戦争・大東亜戦争など多くの戦いで、日本の平和と美しい山河や愛する家族を護るために亡くなられた、青森県出身29,171柱の方々の御霊「英霊」が神様としてお祀りされています。 いま、こうして私たちが平和で豊かに暮らしていられるのは、国の危機に際して尊い命を捧げられた「英霊」のおかげであることを、決して忘れてはなりません。 青森縣護國神社にお参りし、英霊に感謝の気持ちを伝えましょう。青森縣護國神社境内由緒書き より引用斜めから。各地に招魂社自体はありますが、一県一社の内務大臣指定護國神社は、青森県では当社になります。靖国神社を始めとして、各地の護國神社でその土地の英霊を祀っているのです。世の中ではロシアのウクライナ侵攻が未だに決着していませんが、戦争の悲惨さを忘れることなく、二度と戦争が起きないように祈りたいと思います。以前貰った御朱印です。以上です。
2026年02月16日
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空は分厚い雲に覆われ、細かな白雪が降り始めた頃、鬼の伝説で有名な阿武隈洞のある滝根町に到着しました。まだ日も開けていない内から白河の拠点を出立し、車で数時間かかりましたが、なんとか無事について良かったです。この日は仙道三十三観音霊場の札所を巡り、結願した日だったと思います。本日最初の札所はこの入水寺。なんとも珍しい寺号ですが、全国的に見てもこの寺号はここだけだと思われます。県道381号沿いに寺門が構えられ、ここから寺院に向かうことが出来そうです。手前の方の低山に境内を構えています。2025.3.16仙道三十三観音霊場八番札所:萬歳山 入水寺 観音堂(入水観音堂)近くに車を停め、境内を目指します。寺門の所に建てられた看板には、何やら蝦夷の酋長のような像が取り付けてあります。おそらくこれはこの地の豪族 大多鬼丸でしょう。阿武隈洞に残る伝説では、坂上田村麻呂が奥州征伐の際、この地の豪族 大多鬼丸を攻め滅ぼし、観念した大多鬼丸が洞に財宝を隠したと言われています。坂上田村麻呂が”おおたけまる”という鬼や蝦夷と戦う話は、東日本の至る所に残っていますが、この地にもその諸流が伝わっているんですね。雪降りしきる中、参道をノツノツと進んでいると、先の方に大きな御堂が見えてきました。あれが入水寺の本堂でしょう。仙道三十三観音霊場の札所になっているのは観音堂の方です。まずはそっちから見ていきます。本堂から左の方に進むと間もなく観音堂が見えてきます。宝形造りの一般的な姿で、かなり新しめですね。最近建立されたんではないでしょうか。堂内に進むと、中央の厨子の中に柔らかな表情をした聖観音像が収められていました。これが札所本尊の入水観音(聖観音)になります。説明書きです。田村市指定有形文化財 木造聖観世音菩薩立像 木造聖観世音菩薩立像は、万歳山入水寺境内西方隅の、観音堂に安置されている。 観音堂の本尊であるこの像の特徴は一木造りで、素地仕上げとなり、全体に丸ノミ跡が明瞭に認められるもので、像の高さは154.3cmである。 この像は寺の縁起にもあるようにしばしば火災にあっており、台座・未敷蓮華・腕などが後補となっている。調査によれば、このような一木造り像は、県内では平安時代に一般的な手法であった。しかし、地方仏においては中世を通じてこの技法が残存している。 また、中世の像表面には何の彩色も施さない素地仕上げとなり、前髪や唇など頭部にはわずかに彩色をほどこすという。こうしたことからこの像についてもより古式の作風を多く止めた地方的な像として考え、その造立年代は南北朝室町時代・14~15世紀の頃と鑑定されている。平成17年4月18日 田村市教育委員会平安の頃で無いにせよ、500年以上の時を経た秀作であることに変わりはありません。とにかく表情が素晴らしく、是非とも直に見ていただきたい仏像です。以上、入水観音堂でした。観音堂の左手には山道が伸びているんですが、これは三十三観音を拝むための道となっています。山中に三十三個の観音石像がおいてあり、それを巡るというものです。よくある西国三十三観音霊場の写し霊場でしょうね。天候の関係もあり、今回は断念しました。入水寺三十三観音について説明書きを見てみましょう。入水三十三観音 この観音は入水寺の背後の山の斜面を利用して参道が設けられ、そこに第一番から順に造立されている。嘉永2年(1849年)に造られたもので、それぞれの石像の下には西国の三十三観音から持ってきた土が納まっているという。また40余名の信者が奉納したこれらの石像を彫刻したのは、信州住の石工であるといわれている。 長年この三十三観音は忘れられて草に埋もれていたが、昭和50年に佐藤利喜蔵氏が発心して、奉納した人の子孫に手紙で連絡し、3年かけて藪刈りをし整備した。その後、荒してはいけないということで保存会を結成し、保存会が中心となって管理にあたり、祭典の運営にたずさわっている。今日では保存会の会員は菅谷地区の290軒余にのぼっている。維持費は保存会加入の各軒から350円徴収してまかなっているが、町の文化財に指定されていることで、町から受ける補助金もこれに充てている。 保存会の役員は会長・副会長・庶務・会計・監査で、副会長・監査が2名のほかは各々1名選出する。任期は2年で、こうした役員は行政の組からそれぞれ1名選ぶようにしている。昭和58年には参道の修復、昭和61年は二反幟、一反幟各々二流の奉納というように寺の総代なども参入させた事業を実施している。 旧3月17日は仏の御縁日であるため、この日に祭典を施行する。前日に準備をしてから、当日の午前中に寺の本堂で保存会の総会を行なう。午後になると参道入口の聖観音堂(二間×一・五間)で入水寺の僧侶が観音経をあげ、神酒をのんでナゲモチ(投餅)をする。この餅は役員などの幹部が2升ずつ持ち寄ったもので、お守りと一緒にハンギリに入れて撒く。この餅は牛馬に食わせると御利益があるといわれ、信者はきそって取りあう。この後は寺の本堂に長飯台を並べ、来賓・信者が集ってお祝いをするが、余興として婦人会の踊や、獅子舞をしたりもする。また入水寺には御詠歌の信者が7.8人いるので、三十三観音に御詠歌をあげてもらってもいる。 そのほかの維持管理としては、山の急斜面に設けた観音さまのため、参道が荒れやすいことから、6月の末ころ、煙草の仕事が忙しくなる前に護寺会の人たちも加わって毎年藪刈りを実施している。 滝根町史 第3巻(民俗編) 618~619ページ より引用江戸後期に作られた霊場のようです。お寺の奥さんに三十三観音について聞いてみたところ、朝早いにも関わらず、御堂の奥の方から観音石像の写真が載っている額を持ってきてくれました。おかげでこうして全ての石像の姿を拝むことが出来たんです。お心使いに感謝します観音堂から本堂の方に向かってみましょう。こちらには桜花の古木と六地蔵。奥の方には小さな御堂も建っていました。何堂なのかは不明ですが、御堂の外壁に仙道三十三観音霊場の巡礼札が打ってあったので、おそらく旧観音堂なんじゃないかと思っています。堂内には毘沙門天と謎の仏像が収められていました。姿が隠れているので何とも言えないんですが、腕の感じからして地蔵尊ではないかと思われます。だとすると、現在この御堂は地蔵堂、または毘沙門堂ということになるでしょうか。斜めから。新しい御堂も良いですが、こうした古い御堂も趣があって良いですねぇ!それではいよいよ本堂の方を見ていきます。最初の参道を進むと先ずここに到着します。石段を上るともう本堂は目の前です。本堂です。雪の様な白亜の外壁が特徴の御堂です。大きさもかなりのもんですよ。ご由緒です。萬歳山 入水寺曹洞宗 禅勝山龍門寺末寺開基:坂上田村麿本尊:釈迦三尊 菅谷地区の東奥に立地しており、山の中腹、標高530mほどの高所にある寺院である。洞の名称もこの寺院名から起こった。大変由緒のある寺で、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が、鞍馬寺に模して建立したという伝承を持つ。またほかにも徳一大師が十王の像を彫刻して境内に安置したという伝承、小野宮惟喬親王が田村麻呂の守本尊の聖観音と朝日長者の守本尊である不動明王を毘沙門堂に合祀したという伝承、あるいは小野篁の家臣の犬上太郎にかかわる伝承など数多い伝承を持つことを考えると、それにふさわしい地位にある古刹である。 初めは法相宗・真言宗で、京都清水寺の末寺で済浄山 鎮国寺と称したというが、明応5年(1496年)に現在の寺名に変え、明治5年(1872年)に石城の荒川にある曹洞宗龍門寺の末寺となった。 堂宇はしばしば火災にあっている。檀家は370軒であるといわれ、菅谷地区に加え大越町早稲川、神俣地区入新田・町にも若干の檀家がある。また、ここの住職は無住になっている大越町の栗出、牧野の寺の住職も兼務している。檀頭は小三郎内の郡司憲治家である。総代は6名いて東部と西部から3名ずつ選出される。常会から1名の割合で選び、任期は4年とされる。総代長・庶務・会計・監査各々1名をこの中から決めている。 寺の運営は護寺会がになっており、戒名によって会費を割り当てて徴収し、運営資金とする。 この寺の背後の山の斜面には三十三観音を祀る。滝根町史 第3巻(民俗編) 618ページ より引用様々な伝説が伝わっているようですが、由緒の中で信憑性が高そうなのは、元々違う宗派だったという点です。全国的に鎌倉時代頃は密教寺院を廃して禅宗寺院を建てるというムーブメントがありましたが、この寺院もそうなんじゃないでしょうか。現在の山寺号になったのも1496年だと言いますし、個人的にはその時に宗派が曹洞宗に改められて、禅宗寺院として新たなスタートを切ったんではと思っています。山号額です。シックな色合いの額に金の美文字が映えます。堂内には寺号額もありました。祭壇には本尊の釈迦三尊と共に、白衣観音?と聖観音?が置かれていました。斜めから。田村市の曹洞宗寺院、入水寺でした。低山の中腹に開かれた境内は景観もよく、平地とは切り離された別世界という風情が感じられます。札所本尊の聖観音はとにかく表情が良く、まさに”美仏”という表現がピッタリ合います。古雅な作風も相まって、南奥州の歴史に想いを馳せずにはいられません。本当に直に拝めて良かったですよ、ここ!御詠歌観世音 南無と唱えて籠る夜の 明くれば山に 月の入り水本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以上です。次の記事・九番札所:東堂山 満福寺 観音堂(東堂山観音堂) 個性的な羅漢像と巨大な観音堂
2026年02月16日
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だだっ広い津軽平野の真ん中を流れるは岩木川。遠く白神の方に源を発し、目屋・弘前・藤崎・板柳など街道にそって十三湖まで流れ、そこから日本海に注ぎます。津軽ではなぜか龍神信仰が篤いんですが、それは度々増水して荒れ狂う岩木川と、それによって形成された湿原地帯があったからなんではないでしょうか。岩木川周辺の湿原地帯は、今では殆どが開墾され田んぼになっていますが、津軽赤倉山神社に祀られる若竹龍神などの様に、かつての龍神信仰は今でも存続しているのです。今回紹介する寺院も岩木川のすぐ側に境内を構えており、土手上から見える境内・伽藍は非常に見ごたえがあります。2025.6.1津軽八十八霊場七十八番札所:出里山 無量院 観音堂稲垣の土手から眺める無量院。なんて豪華な伽藍でしょうか、行燈と一体化した寺門がドッシリと入口に座し、参拝者を迎えるのです。この寺院は何から何まで凝った木彫が施されています。寺の情報版でさえこの通り!題材は三猿でしょうか、まるで日光東照宮のようです。情報版の向いに観音堂。津軽八十八霊場の札所本尊はここに収められています。観音堂とは呼ばれていますが、本尊は薬師如来。他にも多数の地蔵尊が祀られることから地蔵堂とも呼ばれており・・・非常に複雑でややこしいです。こちらも木彫が見事です。目をカッと見開いた龍が居りますね。堂内左手には津軽地方でよく見かける石地蔵群。本当に地蔵信仰が篤い地域なんですよね。観音堂本尊はこちらの薬師如来(聖観音との説もあり)。持物が通常とは異なっていて面白いです。脇侍は地蔵尊と子安観音。この構成も他ではまず見ませんね。観音堂の側には百萬遍と圓光大師を讃える石碑が置かれています。隣には当寺院中興の僧名が刻まれた石碑も。斜めから。ユニークな像容が特徴の仏像たちでしたね。次は本堂を見てみましょう。本堂は古色を残した厳かな造りで、非常に好みです。御堂の随所には浄土宗の宗紋と、三葉葵の紋が捺されています。ご由緒です。出里山 無量院浄土宗 無量山功徳院大善寺末寺開山:無量山功徳院大善寺四世 祖廓和尚本尊:阿弥陀三尊 西郡木造町出野里、稲垣村との境界に近い岩木川堤防県道のすぐ下に無量院の鐘楼が見える。無量院はこれまで二度の火災、水害に遭っており、焼失や流出で古い仏像、記録等残っていない。過去帳によると「大善寺四代祖廓和尚開基。当寺造立元禄5年(1692年)4月8日。境内反別一款十七步(一五五平方に)」とある。さらにこのあとに「良東上人:天保7年(1836年)3月12日、貞昌寺から。良順長老:嘉永3年(1850年)7月貞昌寺から来て蟹田専念寺へ。良直上人:天保9年(1838年)4月専念寺から。良乗上人:天保11年(1840年)4月深浦より」と4人の住職の名があるだけで何代かは書かれていない。 佐藤住職が祖父らから聞いた話では―。明治初めの2月14日、冬には珍しい大水が出、堤防が決壊した。逃げ場を失った祖父たちは、庫裏から本堂へ回りハリを伝ってようやく逃れた。大雪の年だったため、雪で水はけが悪く、寺を中心に付近一帯が大きな沼と化してしまった。60日間も沼のような状態が続いたが、ある日、突然、境内にまつってあった石の地蔵さま(米三斗分の重さ)が浮き上がり、沼の中をぐるぐると何回も回った。そのあと間もなく水が引き始めた。以来浮き地蔵と呼ばれるようになり、今でも地蔵堂にまつっている。無量院から南へ約100mのところに「沼」の俗称が残っている。 この大洪水があったちょうど10年後、寺の西側にあるセキの中から一冊の過去帳が見つかった。厚めの和紙を使っていたのと、土の中に埋まっていたせいか、29日と30日の分が欠如しているだけでそっくりそのままの状態だった。これが今残っている過去帳。その中の一葉「覚書」には「文政11年(1829年)6月、江良治兵衛持ち抱えの同人屋敷、境内西へ十間六尺寄進されたるにつき、真っすぐに境堰を通しておく、これを証拠とするように ―良松順明」と書かれてある。その付近は、もともと共同墓地のようになっていたこともあり、所有者がはっきりしていなかった。4年前に本堂を新築することになり、そのさい、この覚書が唯一の証拠となって寺屋敷として登記することができたという。 十六世工藤鱗海は西郡車力村出身で、大正元年(1912年)ごろ油川(青森市)の浄満寺に特選住職として派遣された。ところが檀家が猛反対し、寺の中に寝ころがって動こうとしない。座る場所がなくなった麟海はようやく床の間に座ったが、いたたまれず間もなく帰ってきたという。 十八世三浦教山の代に、川端に生えていた木の寄進を受け、寺の新築を計画したが、病に倒れたため金を使い果たし、350円で鐘楼を造っただけで亡くなった。 それから約60年経た昭和48年、2200万円で七間四面の本堂を新築、51年11月、庫裏(三百三十平方)が1700万円の経費で完成した。 本尊は阿弥陀如来(木彫30cm)、ほかに観音様(木彫40cm)、開山像など。つがるのお寺さん 下巻 176.177ページ より引用開山以来幾度もの災害に遭ってきたようですが、その度に再建され今に至っているようです。現在の本堂は昭和48年の落慶とかなり新しい様です。御堂の木彫装飾も素晴らしい!ご覧ください、この立体感溢れる龍を!細部まで彫りぬかれた装飾は、入り口に置かれ参拝者を迎えるのにふさわしいものでした。斜めから。田園地帯の集落と共にある寺院でした。この辺りの寺院としては、一番規模の大きな寺院なんではないでしょうか。北の地の素朴な信仰の姿を体現したような、古色溢れる伽藍をご覧になっていってください御詠歌いづりさん いわきのながれきよければ むりょうしょぶつの むかえぞまつ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。以上です。
2026年02月13日
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長きに渡る戦乱の世が終わり、天下泰平を成したるは神之君 徳川家康公。江戸に幕府を開き、数百年もの間続く江戸時代を歩み出したのです。家康公は死後神格化され、東照大権現と称されます。本地仏は薬師如来とされ、今でも日光東照宮の境内には薬師如来を祀る本地堂が置かれています。別当は日光山 輪王寺。天台宗の大本山格の寺院で、東叡山 寛永寺と並び立つ格式高い寺院です。遠州久能山に東照宮が創建され、次いで日光にも創建されると、後に続く形で全国に東照宮が造られていきました。ここ陸奥国津軽も例外でなく、家康公薨去の翌年、元和3年(1617年)春に弘前城の郭内に創建されたのが弘前東照宮の始まりです。後に現在地に遷座し、以来今日に至るまで北門鎮護の神として篤く祀られてきました。2024.8.10弘前東照宮弘前城の東方、岩木山の3つの嶺の内、巌鬼山の本地仏を祀っていた西方寺と同じ山号を持つ寺院が境内を構えています。津軽では珍しい天台宗の寺院で、正式には巌鬼山 叡平寺 薬王院と号するようです。境内の裏手には弘前東照宮。ここまで境内が隣接しているのは、薬王院がかつての別当だからでしょうか。弘前東照宮といっても、今あるのは本堂のみ。神社の資金繰りが上手くいかず、平成25年(2013年)3月に破綻。建物や物品が競売にかけられ、どんどんなくなっていきます。あわや本堂も・・・と寸でのところで県が買い戻し、こうして本殿のみが残るという状態になったそうです。説明書きです。重要文化財 東照宮本殿昭和28年11月14日指定 東照宮は、元和3年(1617年)に津軽二代信枚が、高岡城内(後の弘前城)に勧請したのがはじまりで、寛永元年(1624年)に別当寺の東照院(現在の薬王院)が設置されて現在地に遷り、本殿は同5年に建てられたものです。 身舎は縦丸柱で四周に縁をまわし、向拝との繋ぎに海老虹梁を用いています。内部は内陣と外陣に仕切られ、内陣は天井を格天井、床の前半を板張黒漆塗、後半を一段高く作って板畳としています。 外陣は素木造の簡素なものですが、桃山時代の建築技術が生かされているとされます。勧請時期の早さや、東照宮建築の北限として、歴史的意義が非常に高いものです。平成28年(2016年)3月 弘前市教育委員会なんと本殿自体は17世紀の建物なんですね!この雪深い地でよくぞ現存してくれたもんです。本当に廃絶してしまったのが口惜しいですね。斜めから。本殿しか現存しない弘前東照宮。現在は御神体も黒石神社の境内社 東照宮に遷されており、神社としての機能は完全に失っております。ただ旧県社の格式高い東照宮が、このまま失われたままというのも、本当に残念でなりません。いつの日か再建されることを切に願っております。以上です。
2026年02月13日
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深浦港を望む崖上の集落に境内を構える寺院です。両隣りに荘厳寺・浄念寺という寺院があり、規模は小さいですが寺町のような風情が感じられます。宝泉寺は晩鐘で有名な寺院です。明治初期の画家 蓑虫山人も宝泉寺を描いており、黒松に飾られた本堂が見事です。作品は現在、深浦町の風待館にてご覧になれます。そんな郷土の寺院を参拝してみましょう!2024.8.11津軽八十八霊場六十九番札所:深浦山 宝泉寺2024年の熱い夏の頃、二度目の参拝をしました。もう8月だというのに、まだ咲き残る紫陽花が寺門を飾ります。この年も雨が降らず大変だった覚えがあります。門をくぐり右に向かうと十王堂と祠があります。祠には稲荷大神が祀られており、曹洞宗寺院ではよく見られる光景です。祭神はもしかすると荼枳尼天かもしれませんね。十王堂の内部には彩色された十王像・地蔵尊像が収められています。境内を見回してみましょう。一際大きな黒松が目を惹きます。樹齢はなんと500年にもなるんだとか。当寺院の名物みたいな感じですね。横には鐘楼が建ちます。往時にはもっと大きな鐘楼があったようなんですが、そちらは現存していないみたいです。ちなみに梵鐘の方も古いものではありません。もともと撞かれていた梵鐘は明治の頃に回収されてしまったんだとか。黒松の老木の根元には、県内最古の芭蕉句碑が建ちます。詳しい説明は御由緒部分に記載しましたので、そちらをご覧ください。鐘楼と本堂との間に、ひっそりと金毘羅堂が建っていました。この金毘羅堂には、和尚を守った蟹の伝説が残っているんです。これも↓で詳しく見てみたいと思います。気に隠れて良く見えませんが本堂です。古めかしい外観をしていますが、木彫装飾は大変に見事でした参拝時には忘れずにご覧ください。御由緒です。深浦山 宝泉寺曹洞宗 白花山常源寺末寺本尊:釈迦三尊 西郡深浦町のほぼ中央、港の真向かいに猿鼻神公園がある。国道バイパス建設以前は、公園内の岩山をえぐったトンネルを通ったものだ。現在でもトンネルは保存され”深浦の顔”になっている。トンネルのそばまで波打ち際が迫り、宝泉寺は猿鼻神の裏山で黒松に囲まれていた。猿鼻神は宝泉寺の境内の一部なわけで、黒松越しに見下ろす日本海は”深浦十二景”の1つ。夕方、猿鼻神境内から響き渡る梵鐘の音が懐かしい・・・と語り継がれているが、戦時中の18年、軍部に献納されたのは惜しまれる。 記録によれば、現在地で開山したのは天正2年(1574年)。それ以前は寺屋敷で庵寺だったらしい。弘前市の本寺常源寺や長勝寺とは親類同様の関係で、十七代海月潭玄和尚が途中で長勝寺の住職になり、十八代廉翁勇道和尚も長勝寺で長く修行した。開山当時から境内の一角に金毘羅堂があり、航海人の願いをかなえている。 ところで金毘羅堂にはカニの彫刻がはめ込まれている。伝説によると、近くの沢にヘビが多く生息、僧の修行を邪魔していた。そこで修行僧たちが金毘羅さまにヘビが現れないように願掛けをした。すると満願の日、海からカニが出てきてヘビを追い払ったという。「宝泉寺をカニが守ってくれたことになる」ということで、今でも宝泉寺内にはカニを入れず、毛ガニの料理も食べない風習になっている。 現在の本堂は約200年前に建立されたが、その間火災に見舞われ、安政2年(1855年)に改築している。しかし、玄関入り口の軒下には元禄時代の名残とみられるスイカと唐獅子の彫刻があった。「スイカは実、花、ツル一式が刻まれ、珍しいものです」という。 玄関わきには樹齢500年の黒松が境内に君臨するようにそびえ、芭蕉塚があった。明和4年(1767年)深浦町の俳人 竹越里桂らが芭蕉の法要を兼ねて石碑を建てたもので「闇の夜や 巣をまどはして 啼く千鳥」という芭蕉の句が刻まれている。津軽地方で一番古い芭蕉塚ということで、町では “千鳥塚”と呼んで史跡に指定している。秋田・青森両県の俳句大会も石碑の前で催されている。 また宝泉寺では毎月第二・第四日曜日、近くの住民が集まって座禅会が開かれている。つがるのお寺さん 下巻 188.189ページ より引用石川県の愛宕神社には大蛸が仏像を運んできたなんて伝説がありますが、宝泉寺の場合は大蟹が僧侶の助けとなったとする伝説が残っているみたいですね。やはり海の近くの神社・寺院には海の生き物にまつわる伝説が多いみたいですね。宝泉寺の蟹伝説は、ふかうら風土記という書籍に載っています。その内容を↓に引用してみましょう。現在購入しようとしてもまず見つかりません。近場だと円覚寺の門前にある”かまど屋”に置いてありますので、読みたい方は行ってみましょう。宝泉寺の蟹伝説小野道一 毎朝、和尚はお釈迦様に供げたご飯から取りよせた生飯を無縁仏・畜生道・餓鬼道の人たちを供養するために、宝泉寺の横を流れる沢に流していました。ご飯粒は沢を流れ流れ寺浜へ流れていきます。 ある朝、和尚が朝早く鐘を打とうとして鐘楼堂に行くと、大きな蛇が鐘の下でとぐろを巻いていました。本堂で朝のお経を始めようとすると本堂の中まで入ってきます。庭そうじをしようとすると庭にいてじゃまをします。あげくのはてには、寺にお参りにきた人たちにも墓をぐるぐる巻きにしたり、行く手をじゃましたり、日を重ねるごとに蛇の悪さはひどくなっていきて、和尚も困ってしまいました。 大きな蛇の悪さに困った和尚は、お釈迦様にお願いするしかないと思い、月の光が明るい晩に、本堂で一生懸命「般若心経」を唱えて拝んでいると、なにやらミシ・ミシ・ミシというすごい音が聞こえてきます。何ごとかと思い外をのぞいてみると、大きな蛇が、本堂にぐるぐる巻きついてしめつけているのです。本堂は左右にグラリグラリとゆれながらミシ・ミシと音をたててしめつけられます。もう駄目かと思いながらも一心に「般若心経」を唱え続けました。するとどこからともなくガサ・ガサ・ガサ・ガサという音がしだして、その音がだんだんと大きくなってくるのです。その時突然、ドシン・ドシンという音がしました。ドシン・ドシン・ガサ・ガサ、その度に本堂がぐらぐらゆれるのでした。和尚はなおも一生懸命に「般若心経」を唱え続けました。やがて、ぱたりと音がしなくなり静かになりました。 夜が明けてきたので和尚が外をのぞいてみると、大きな大きな蛇が死んでいます。よくよく見てみると大きな蛇にはたくさんの蟹がかみついていて、死んだ蟹や、まだ生きている蟹が境内一面に、本当にたくさんいるのでした。どこまで蟹がいるのかたずね見てみると、沢から寺浜まで続いていました。いつも和尚に生飯をもらっている蟹たちが、和尚を助けてくれたのです。 それからというもの宝泉寺では、四国の金毘羅様を分社していただき、寺を守ってくれた蟹を守護神として祭り、供養のため蟹を食べないことにしたのです。現在でも宝泉寺の境内にある金毘羅堂には蟹が彫刻されており、門内に蟹を入れることなく、食べることもなく、昔の伝説が生きています。(宝泉寺住職)ふかうら風土記 84.85ページ より引用日々の行いによって救われるという流れは非常に仏教説話味がありますよね。仏教説話では良く蛇が悪役になっています。大陸ではヴリトラやナーガなどの蛇神が存在しますが、これは仏教が生まれる以前から存在する古い神格だとされています。そうした土着の古い神格が、布教の過程で仏教が取り込み、そうした影響が日本にまで及んでいると思うと感慨深いものがあります。本堂の木彫装飾を見てみましょう。虹梁の牡丹?も見事ですが、蟇股のスイカの装飾が面白いですよね。まず他の寺院では見ませんよね。説明通り花や蔓・葉までリアルに表現されており、非常に見ごたえがありました入口には山号額。地名を冠する山号です。堂内入ってすぐの所には一字一石経が飾られています。いつ頃のものかは分かりませんが、平成10年の鐘楼堂建立に際して出土したものだそうです。本尊です。斜めから。深浦の風土を形作ってきた古刹でした。今でも夕方に鐘を撞いているかは不明なんですが、深浦の素晴らしい夕景と共に、素晴らしい撞鐘の音を味わってみたいもんです。海辺にて酒を飲みながら夕日を拝み、遠くから撞鐘の音が聞こえてくる・・・。なんて素晴らしいんでしょう・・・!深浦の名物とも言える風景がそこにあります。御詠歌みほとけの ちかいをてにしふかうらの ひとのこころに つきかげぞすむ本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・七十番札所:岩崎山 龍王寺 津軽の西浜守りし武将が眠る寺院
2026年02月11日
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青森県民であっても、深浦と言うと海側の臨海地域を連想すると思います。ですが実際には、集落は臨海部というよりは崖上の山間部にまとまっているんです。今回紹介する札所もそんな崖上の集落の一画に境内を構えています。2024.8.11津軽八十八霊場六十八番札所:亀井山 轉入院 荘厳寺五所川原市の実家から車で1時間以上、やっとこさ深浦の町に到着です。深浦港を中心にして円形に集落が造られ、よくある港町の風情があります。この町で最も知名度がある寺院は、名にし負う真言宗の古刹 春光山 円覚寺。丈六をゆうに超える十一面観音の巨像が本尊で、33年に一度御開帳があるそうです。直に拝んだことはありませんが、生きている内に絶対に見たいと思います。さて、円覚寺以外にも面白い寺院があるんです。それが今回紹介する亀井山 轉入院 荘厳寺。村の中央を走る大間越街道。道の脇に建つ古めかしい建物の所で曲がると、寺院が3つまとまった寺町のような区画が見えてきます。ここに荘厳寺があるのです。境内の入口には古めかしい寺門。柵の奥にも細い路地があり、崖下まで降りて行けそうです。寺門をくぐると、参道の右側に水子・子育地蔵尊、圓光大師の仏塔などが置かれています。本堂です。全体的に新しめですが、窓の造詣などには古色が表れています。ご由緒です。亀井山 轉入院 荘厳寺浄土宗本尊:阿弥陀三尊 深浦町警察官派出所の裏山一帯は黒松が枝を突き出し、標高約80mの高台とあって深浦港が一望できる絶景の地。近くには深浦測候所があり、その付近はお仮屋公園と呼ばれ親しまれている。その一角の樹木に囲まれているのが荘厳寺。鎌倉時代のこの辺りの豪族安倍氏の菩提寺として信仰を集めたが、開基年代は記録にない。ただ深浦町関に保存されている古碑には「安倍季長」の墓も認められ、康元年間(1256.1257年)、応永年間(1394~1428年)に多く建てられていることから、この古碑は安倍氏の遺跡とされている。 安倍氏は安藤・安東ともいわれ1200~1442年ごろまで津軽、南部一円で勢力を張っていた。荘厳寺は関所とともに移転しており、鎌倉時代以前には庵寺として関地内にあったと推測される。関所は寛永9年(1632年)に高台の元城に移転したが、荘厳寺も向かい側に移り、人々はそのあたりを「寺屋敷」と呼ぶようになった。 寺には津軽藩史にも記されている有名なエピソードが残っている。津軽地方は明和・天明・寛政の三大飢饉に見舞われ、死人が道端に山となし、死体を食べて生き残ったと伝えられているが、その一つ、天明大飢饉の時のこと、二十三代聞岌和尚は、深浦一帯でも死人が道を埋め疫病が流行したため、住民の困苦を見るにしのびず、まず津軽藩主に訴え出た。しかし藩主も手の施しようがないと知った聞发和尚は、直接江戸幕府へ嘆願した。ところが幕府からはなんの沙汰もないので、今度は再び登府して将軍に拝謁、直訴に及んだ。将軍は和尚の窮状を聞き入れ、救護米を賜った。 当時、幕府への直訴は禁じられ、佐倉宗五郎はしばり首になっているが、聞发和尚は入獄したあと深浦から追放され、能代の五智如来堂に身を隠した。現在でも能代市に光久寺として残っている。二度にわたる幕府への訴えは、当時のビッグニュースとして津軽一帯に伝えられ、美談として残っている。 本尊の阿弥陀仏(立像)は鎌倉時代屈指の仏師で、東大寺仁王像の作者である快慶の作といわれる。寛文4年(1664年)夏、大阪名越源兵衛が阿弥陀仏像を持って鰺ヶ沢港に入った記録があり、伝説もある。昭和12年(1937年)、荘厳寺が全焼したが、その時、深浦町駐在巡査が本堂の阿弥陀仏像を背負って無事搬出している。快慶の作と正式に鑑定されれば国宝級。 ・・・。つがるのお寺さん 下巻 186.187ページ より引用記事を書いていてビックリ!なんと安倍氏の菩提寺でした。深浦から十三湖までの津軽西浜は安倍氏所縁の地とされているため、このような寺院があったとしても不思議ではありません。相当に歴史の古い寺院みたいですねぇ。旧境内は現在の金ヶ沢(深浦町)の方で、甕杉という老木と共に古碑が現存しています。この古碑に安倍という姓が刻まれている事・年号が北朝年号であることなどから、安倍・安東氏との関りは深かったものと思われます。近くには折曽の関跡があるみたいなんですが、今回は見つけられませんでした。その後17世紀には関所が深浦に移され、それと共に荘厳寺もここに移ったようです。山号額です。堂内中央には阿弥陀三尊が祀られています。真ん中の阿弥陀如来は快慶の作との説がありますが、それを信じさせるほどに優れた表現の仏像でした。・・・実際はどうなんでしょうね。深浦浄土宗の古刹、荘厳寺でした。津軽の中心地は弘前ですが、深浦や十三といった津軽の西浜エリアはそことは異なる雰囲気がありますよね。もとは安東氏という水軍が領有していた地という事で、何気に古刹が多いのが特徴です。荘厳寺も古い時代の津軽の姿を、今に伝える生き字引のような寺院でした。御詠歌みほとけの めぐみもふかきかめいさん みずにこころも みをもきよめん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・六十九番札所:深浦山 宝泉寺 夕日を飾る撞鐘の寺
2026年02月11日
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八戸市の舘鼻岩壁周辺は、切り立った崖のような地形からか神社仏閣が多く鎮座しています。この辺りは八戸の拠点からも近く、時々夕日を見に行ったり、本を読みに行ったりしていました。眼下では馬淵川と新井田川が合流し、太平洋へと注いでいます。八戸の歴史を語る上で外せない大河川、その畔のすぐ側に、今回紹介する札所が境内を構えています。2025.1.18八戸御城下三十三観音霊場二十七番札所:魚籃山 常現寺魚籃山 常現寺。寺号を見た瞬間に魚籃観音と関係があるんだろうなと予想が付きますよね。八戸は青森県随一の港街。水神や漁業に関する信仰は一等篤い地域です。寺門をくぐり境内に入ると立派な本堂が出迎えてくれました。僕が八戸に赴任した2024年4月時点では、この本堂はまだ改修中であり、落慶は2025年に入ってからだったと思います。柳橋通という幹線道路を走る度に、なんだか大きな御堂があるなと気になっており、いつかは参拝したいと思っていました。それにしても白地に金装飾の御堂は中々に珍しいですよね。かなり高貴な印象を受けます。キンキンに冷えた寒空に白亜の大堂が映えていました。御由緒です。魚籃山 常現寺曹洞宗 貴福山対泉院(新井田)末寺開山:円祥山大安寺三世 寺仁州関和尚中興開山:上田祖堂和尚中興開基:西有穆山和尚本尊:魚籃観音・・・。 常現寺の由来は、寛延元年(1748年)、下北郡大畑村円祥山大安寺三世 寺仁州関和尚が、関根橋村正津川付近に梅翁庵という宿寺を建立したことに始まる。この関根橋村は、寛文年間(1661~1673年)に五戸の逃散農民によって開かれた村で、当時は大変にぎわっていた(『原始設風土年表』)。 ところが、明治に入り、北海道開拓の事業が盛んとなり、信徒が海を渡って移住したため、とうとう4.5軒しか残らず、維持することが困難になってしまった。そこで、新井田対泉院の末庵という名目で小中野新地に移し、明治43年(1910年)、対泉院末寺として復興したのである。開基は西有穆山和尚、開山は上田祖堂和尚である(『梅翁庵由来記』)。 従って、佐々木恭岑上人らが巡礼した際には、まだ常現寺と呼ばれていなかった。その後、大正4年(1915年)、庵寺から一ヶ寺に格上げするため、宮城県栗原郡宮野村にあった常現寺を現在地に移し、梅翁庵は岩手県閉伊郡宮古の鍬ヶ崎へ移転させたのである(『小中野風土記』)。従って、常現寺の歴史は比較的新しいことになる。御詠歌の中に「これから小中野とともに共存発展していく寺」としての意気込みが詠まれている。 本堂に入ると、中央須弥壇の最上壇に、2体の観音像に挟まれ、黒い厨子があり、この扉の中に、かたく秘仏として人々の目に触れることのなかった魚籃観音が安置されている。戦後、地元の人々の「ぜひ、ありがたい観音様をじかに拝みたい」という要望が強く、御開帳が許され、毎年11月17日には御年越法要が行われるようになった。従って常現寺と呼ぶよりは、「小中野新地の観音サマ」と言った方が地元漁民の中では一般的に通っている。 この観音像は、西有穆山和尚が静岡県 萬松山 可睡斎に住持していたころ、交趾国(現・北べトナム)から渡来した魚籃観音を本尊として当寺に安置したということである(本堂前の『魚籃観音碑』より)。この本尊は一尺程の木彫立像で、右手に魚籃(魚かご)を持ち、右手は裳をやや持ちあげて、波しぶきがはねるのを防いでいる。巨魚の背に乗った中国系の美人である。衣装も唐朝時代の中国服を身にまとい、中国三十三観音のひとりとして渡来してきたことがうかがえる。やはり、漁業と関係の深い小中野地区には、必要な観音といえよう。 昭和47年4月13日、八戸市文化財に指定されている。・・・。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 141~145ページ より引用当初はむつ市大畑の円祥山大安寺末庵だったようですが、寺院としての格式を得るために岩手県宮古市にあった寺院の寺格を移し、新田対泉院の僧によって中興され、晴れて庵寺から寺院へと成りました。中興開基の西有穆山和尚は、東海の曹洞宗大元締めの可睡斎から、ベトナム伝来の魚籃観音を譲り受け、当時の本尊に据えます。そのため、曹洞宗寺院でありながらも、本尊は釈迦三尊ではないのです。本尊の魚籃観音は、中国系の三十三観音として知られており、名前や由緒から漁業関係者からの崇敬が篤い様です。東北では岩手県釜石の釜石大観音がまさに魚籃観音で、海辺に立つその姿は遠く水平線からでも臨めそうです。本堂入り口には寺号額。龍と瑞雲によって装飾された、ユニークな額でした。本堂の扉を開けると、左右に小さな祠が鎮座しています。こちらは右側の祠。中には石と共に頸のもげた?地蔵菩薩像が収められていました。こちらについて”八戸御城下三十三番札所巡り”の記述を引用してみましょう。・・・。その中の手前の自然石には「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑が立っている。これは、来迎寺十九世燈誉上人が導師となり、明和3年(1766年)5月に湊村念仏講中の人々が建立したものである。 もともとは藩政時代使われた四ッ屋の仕置場(現・小中野小学校)にあったものを、明治初期、現在地に移したのである。この時、仕置場の首切地蔵(延命地蔵)もいっしょに移したが、残念ながら昭和52年、地蔵堂は焼失してしまった。現在、その像は本堂右側の御堂に移安されている。 ・・・。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 141.142ページ より引用仕置場に延命地蔵尊とは何とも皮肉が利いています。しかも名前が首切地蔵ってんですから、もう、確信犯ですよねぇ?次に左手の祠。こちらには幾つもの自然石と共に金精さまが祀られていました。お寺に金精様が祀られているのは中々に珍しいのではないでしょうか。これを見つけた時、一人してニヤリとしていたことは秘密です。次に本堂の中も見ていきましょう。堂内右手には等身大?の延命地蔵尊が鎮座していました。コロナ禍の名残りか、マスクを付けていますね。足元には謎に合掌土偶が置かれています。八戸ならではでしょうか。この地蔵尊像ですが、かつて静岡県の秋葉山 秋葉寺の源性庵に置かれていたそうです。明治の廃仏毀釈の影響で秋葉山の霊場から仏像・仏具類が除かれ、現在の秋葉山神社になります。その時この地蔵尊も溶かされてしまうことになり、それを聞いた当山中興開基 西有穆山和尚(当時可睡斎住持)が買い戻し、郷土である八戸に持ち帰ったんだとか。なんともありがたい仏像が、こんな北の地に運ばれたもんです。更に詳しい説明は公式サイトをご覧ください。堂内左側も見てみます。こちらに並んでいるのは、檀家の方が書した仏画付の写経です。美文字であることは勿論、一緒に描かれている諸仏尊も素晴らしかったです。左側の祭壇には、中央:三十三観音、右:位牌と不動明王、左:不明が祀られています。この中央の三十三観音像は、上田頼石和尚が観音講の人々と共に奉納したものだそう。今回の馬頭観音です。三十三観音それぞれが小さなマスクを付けていました。何とも細かな職人技、信仰の篤さが感じられますねぇ!堂内中央には、件の魚籃観音が厨子に納められて祀ってありました。魚籃観音は秘仏なんですが、”デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著”には、写真が載っています。豊かな頬としなやかな髪は何とも女性的です。優し気な微笑も、不思議と見る者の心を和らげてくれますし、美像という言葉そのままの仏像と言えるのではないでしょうか。斜めから。港街八戸の風情がたっぷりと感じられる寺院でした。常現寺ではえんぶりもやっているそうで、令和8年のえんぶりは2月19日開催予定だそうです。気になる方は公式サイトをご確認ください。東北の寺院としては珍しくYouTubeチャンネルも開設しているので、季節の行事などをご覧になりたい方は、そちらもcheck it out!です。御詠歌今あらた 新地をひらく観世音 現世安穏 後生極楽現代新御詠歌みちのくの 海安かれと南国の 魚籃観音 ここにしづまる札所本尊:魚籃観音、三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩公式サイトへのリンクです。・曹洞宗 魚籃山 常現寺公式?YouTubeチャンネルはこちら↓からご覧ください。・YouTube / お墓総合サポートサービス以上です。
2026年02月10日
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このページでは各霊場の進捗と札所記事の更新状況、直近の気になっているテーマなどを書きたいと思います。札所を巡る度に更新していくつもりですので、時間がありましたら時々覗いてみてください。●巡礼中の霊場坂東三十三観音霊場霊場トップページ:坂東三十三観音霊場 トップページまわった札所:22 / 33書き終わった札所記事:10 / 33秩父三十三観音霊場霊場トップページ:未まわった札所:5 / 34書き終わった札所記事:0 / 34江戸三十三観音霊場霊場トップページ:江戸三十三観音霊場 トップページまわった札所:24 / 34書き終わった札所記事:10 / 34東京十社めぐり霊場トップページ:東京十社めぐり トップページまわった札所:5 / 10書き終わった札所記事:3 / 10甲斐国三十三観音霊場霊場トップページ:甲斐国三十三観音霊場 トップページまわった札所:29 / 33書き終わった札所記事:0 / 33甲斐百八霊場霊場トップページ:甲斐百八霊場 トップページまわった札所:87 / 109書き終わった札所記事:4 / 109諏訪三十三観音霊場霊場トップページ:未まわった札所:8 / 33書き終わった札所記事:0 / 33信濃三十三観音霊場霊場トップページ:信濃三十三観音霊場 トップページまわった札所:13 / 35書き終わった札所記事:3 / 35●巡礼休止中の霊場盛岡三十三観音霊場霊場トップページ:未まわった札所:9 / 33書き終わった札所記事:0 / 33岩手三十三観音霊場霊場トップページ:岩手三十三観音霊場 トップページまわった札所:20 / 33書き終わった札所記事:6 / 33気仙三十三観音霊場霊場トップページ:未まわった札所:10 / 33書き終わった札所記事:0 / 33秋田三十三観音霊場霊場トップページ:秋田三十三観音霊場 トップページまわった札所:7 / 33書き終わった札所記事:1 / 33会津三十三観音霊場霊場トップページ:会津三十三観音霊場 トップページまわった札所:7 / 36書き終わった札所記事:5 / 36三陸三十三観音霊場霊場トップページ:三陸三十三観音霊場 トップページまわった札所:12 / 34書き終わった札所記事:1 / 34佐竹七福神めぐり霊場トップページ:佐竹七福神めぐり トップページまわった札所:3 / 7書き終わった札所記事:1 / 7●巡礼済の霊場☆津軽三不動尊霊場トップページ:津軽三不動尊 トップページ書き終わった札所記事:3 / 3☆津軽三十三観音霊場霊場トップページ:津軽三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:36 / 36津軽八十八霊場霊場トップページ:津軽八十八霊場 トップページ書き終わった札所記事:55 / 90津軽弘法大師霊場霊場トップページ:津軽弘法大師霊場 トップページ書き終わった札所記事:13 / 23津軽七福神めぐり霊場トップページ:津軽七福神めぐり トップページ書き終わった札所記事:3 / 7☆津軽龍神霊場霊場トップページ:津軽龍神霊場 トップページ書き終わった札所記事:11 / 11八戸御城下三十三観音霊場霊場トップページ:八戸御城下三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:24 / 33奥州南部糠部三十三観音霊場霊場トップページ:奥州南部糠部三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:33 / 34田名部海辺三十三観音霊場霊場トップページ:田名部海辺三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:8 / 33最上三十三観音霊場霊場トップページ:最上三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:4 / 34仙道三十三観音霊場霊場トップページ:仙道三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:15 / 33奥州三十三観音霊場霊場トップページ:奥州三十三観音霊場 トップページ書き終わった札所記事:17 / 36東北三十六不動尊霊場霊場トップページ:東北三十六不動尊霊場 トップページ書き終わった札所記事:14 / 36※2・5・6・7・8・9・10・11・30番札所は写真撮り未達☆江戸六地蔵霊場トップページ:江戸六地蔵 トップページ書き終わった札所記事:7 / 7三浦三十三観音霊場霊場トップページ:未書き終わった札所記事:0 / 34☆東國三社霊場トップページ:東國三社 トップページ書き終わった札所記事:3 / 3甲州東郡七福神霊場霊場トップページ:未書き終わった札所記事:0 / 7甲斐石和温泉七福神霊場霊場トップページ:未書き終わった札所記事:0 / 7甲府山の手七福神めぐり霊場トップページ:甲府山の手七福神めぐり トップページ書き終わった札所記事:0 / 7●まとめたいテーマ記事作成未達(優先したい)延喜式内磐城七社十和田三山と三嶽神社※東北を離れた事と、熊の被害が急増した事で、三山すべてを登拝することが出来ませんでした。加えて三嶽神社3社の内、1社をまわり残しているため、なかなか作成できずにいます(言い訳)。総本宮・総本社総本山各巡礼の札所記事伝承・伝説寺社仏閣創建伝説日本武尊所縁の神社坂上田村麿創建の寺社仏閣高僧による創建伝説(行基菩薩・弘法大師・徳一上人・慈覚大師など)落人伝説藤原諸江卿にまつわる伝説出湯伝説と神社仏閣津軽の鬼コ津軽の治水と人柱ふかうら風土記の内容蔵王周辺の白鳥信仰源義経北行伝説八溝山と近津三社奥州三観音・奥州七観音しっぺいたろうとふったち神社・信仰本地垂迹の対応関係と実例諏訪信仰と神仏分離:廃仏毀釈後の仏像の行方寺院・宗派津軽真言五山甲府五山山梨県の禅宗と名僧、宗派の展開について武将と神社仏閣南部氏と関連寺社仏閣武田氏と関連寺社仏閣山と信仰(下山仏)梵珠山:観音山 見道寺?岩木山:太平山 長勝寺、弘前高野山 法光院、阿闍羅山 専稱院 etc...甲州御岳山:神仏習合時代の歴史、下山仏は不明白山:無量光山 林西寺、尾添白山社温処奥州三名湯以上です。
2026年02月10日
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昨年のお盆休みに敢行した奥州三十三観音霊場巡礼。その時に岩手最南端の札所もまわっておこうと立ち寄りました。八戸からでも一関の端まで来るのには、三陸道を車で3時間程度と相当にかかります。それを考えると、今回参拝しておいて正解でした。境内の駐車場に着くと、庭の植え込みがキレイに刈られ、医王寺となっています。これには不思議な既視感があったんですが、後になって思うと遠野の法門山 福泉寺もこんな植え込みがあったよなと思い出しました。これを維持するのは相当大変なんじゃないでしょうか。2025.8.6岩手三十三観音霊場二十八番札所:東光山 醫王寺植え込みを眺めつつ、本堂へと向かいます。参道の起点に建つ山門は小振りながらも精巧なつくりをしています。見上げると山寺号額。美しい筆致に感じ入りながら山門をくぐりました。参道を上がると右手に鐘楼。近世の建立ではあるんでしょうが、それでも木材の色味などから相当の月日を経ていることが感じられます。妙な古雅さがありますねぇ。左手には地蔵堂。宝形造の一般的なスタイルの仏堂ですが、外壁などはコンクリ製で近代的です。内陣には位牌と共に彩色された延命地蔵尊が収められていました。本堂です。屋根や柱の木材などは古いものをそのまま残しているのか、かなりアジのある色味をしています。正しい表現かは分かりませんが、妙な色気が感じられます。本堂の手前には弘法大師像と地蔵尊像。その右手に寺務所があり、そこで御朱印の手続きが出来ました。御由緒です。東光山 醫王寺真言宗智山派 五百佛山根来寺智積院末寺開山:慈覚大師中興開山:恵澤山龍寶寺?世 永照法印本尊:薬師如来 人皇五十四代仁明天皇の御宇、承和2乙卯年(835年)春、僧円仁諸国行脚の時この地に到り、山の影題を見て、七峰七谷八葉九高の地にして、洛東の叡山に似、前は満々たる湖、その眺望、まことに佳、湖は近江の湖に似たりとし、薬師堂を造営し、自ら山刀を以って、薬師瑠璃光如来の尊像一軀を彫刻、更に十二神将の像を彫み安置、毎年4月8日を以って祭日とす。 其規式厳重にして霊験顕なり、故に遠近の善男善女講をなして詣ずる者多し。 藤原秀衡及び葛西氏歴代の府主、信心深く祭田数丁寺領を寄附し、専ら民安国泰なり。降って天文13年9月(1544年)菅原道慶、高倉本郷釣野故城に移り、高倉山 高蔵寺(当寺前身)を牌錬所と定め寺領若干を寄附し、次いで天文15年4月には薬師堂の衰退を敷き堂舎の修造を至せり。円仁薬師堂を造営してより以来756年の星霜を経て、天正19年(1591年)失火のため、堂舎灰燼、如来の尊像・台座の一部火焦、その後20有余年慶長年中(1596~1615年)加瀬谷参河信時、それを中の森に再建、降って享保の年山火の為め焼亡、故に当山第五世 宥水法印の世代、享保18年(1733年)加瀬谷左七郎信興、現在地に再建今日に至る。 初め医王寺は、高倉山 高蔵寺と称したるも戦乱相次ぎ荒廃せるを、偶々寛文元辛丑年(1661年)永照法印、真言宗御室派総本山京都大内山仁和寺末寺 仙台龍宝寺より来山、御来光は東より所謂薬師如来が東より昇り、光彩を放ちて拝される意味にて東光山医王寺と改称、中興の祖となる。 明治維新に至り、総本山仁和寺皇統門跡断絶し、更に明治20年(1887年)仁和寺諸堂舎焼失し、末寺相次いで離末、当山も亦明治38年(1905年)離末して京都真言宗智山派総本山 五百仏頂山 智積院の直末となる。岩手三十三観音霊場へのいざない 岩手三十三観音霊場会 64.65ページ より引用円仁が東国巡礼の折、蓮を伏せたような当地の景観に感じ入り、一宇の薬師堂を建立したのが始まりと言われているようです。山は比叡山に、麓の湖は琵琶湖に似ており、まさに比叡山延暦寺の境内のよう。そこで山刀でもって薬師如来と十二神将を彫りあげ、当地に祀りました。平安時代~鎌倉時代にかけては奥州藤原氏・葛西氏の庇護のもと栄え、16世紀には高倉山 高蔵寺と称していたようです。戦国期の奥州仕置き・一揆などで荒廃したものの、仙台の恵澤山 龍寶寺より来山した永照法印により再興されています。長い歴史の中で幾たびも火災に遭っていますが、その度に再建され現在に至っています。堂内はこんな感じです。中央の祭壇前に護摩壇が設けられ、奥に本尊などが並ぶ一般的な配置です。中央の厨子には本尊の薬師如来が収められているんでしょうか。その手前には金剛界大日如来、その前には神鏡、そんで更に前には札所本尊の子安観音が鎮座しています。本当に面白い配置ですよね!何重にも御前仏が置かれている感じです。札所本尊の子安観音です。子を胸に抱き、優し気な面持ちでそこに座しています。色白な肌と豊かな黒髪は非常に女性的で、中性が主な仏像としては珍しい造りではないでしょうか。祭壇には他にも不動明王像などが置かれています。こんなのも有りました。合掌印の菩薩像です。象に乗っていることからも普賢菩薩ではないかと思われますが、どうでしょうか。中央の護摩壇を取り囲む様に古めかしい木像が置かれています。これらは元々本尊の薬師如来の脇侍として置かれていた十二神将と御前仏の薬師三尊らしいです。左側のこれらは十二神将の内7体と、一番右端の木像は子安観音となります。右側は、左から十二神将の残り5体、右3体は御前仏の薬師三尊となります。何れも御作仏のような風情がありますが、これだけの木像がセットで残っているのは、非常に珍しい事ではないでしょうか。斜めから。東北の素朴ながら力強い信仰を感じられる古刹でした。岩手三十三観音霊場の札所の中でも、特にお気に入りの寺院であります。平泉周辺には平安の雰囲気が感じられる密教系寺院が多く、今回もそうした類の寺院でした。御詠歌ひかりさす 薬師の郷は医王寺 慈心遍く 法の同胞札所本尊:子安観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です・・・とはなりません!醫王寺なのに薬師如来が無いじゃないか!とお思いの皆さま、安心してください。本堂裏手に薬師堂がちゃんとあります。享保18年(1733年)加瀬谷左七郎信興によって再建された薬師堂は、今でも林の中に堂々と建っていました。それに続く参道も古刹の趣があり良し。見えてきました、薬師堂です。御堂は瑞垣によって囲まれています。薬師堂の端には小さな石祠。鎮守的なものでしょうか、多数の幣が立ててあります。薬師堂の扁額。華やかな装飾がなされています。内陣はこんな感じ。護摩壇の奥に本尊の薬師如来像が鎮座しています。近くで見てみましょう。御前仏は筋骨隆々の力強い表現が特徴です。奥には件の薬師如来でしょうか。奥さまに尋ねたところ、木像だとのことで、今では虫食いがひどいんだとか。左右には日光・月光両菩薩も見えます。特に文化財には指定されていないようですが、当地の歴史と深く関わってきたことは言うまでもありません。斜めから。数百年もの長きに渡り、人々の崇敬を集め続けた当地の薬師如来。今でもご縁日には御開帳があるとか何とか・・・。いつか直に拝んでみたいもんです。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー花盛りの薬師堂
2026年02月08日
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陸奥国南部藩を出奔して甲斐国に入り、早4ヶ月が過ぎました。出張期間も長い様で短く、まだまだ回れていないところも多くあります。仕事においても、やっと少し慣れてきたところで、このまま帰ると中途半端に終わってしまいそうです。・・・そんな時、まるで天の恵みか、こちらへの正式配属の提案をいただきました。こちらの現場の所長には助けていただいてばかり、いち早く仕事で恩返しできるよう、これからも励んでいきます。気を引き締め治して、こちらでの仕事を頑張っていく所存です。今の所長の元、働けるというのもかなり嬉しいです!出張期間に関しても、まだまだいつまでというのは分かっていませんが、こうした機会をいただくというのも、僕の人生においてそうそうない事だと思っています。仕事も趣味も、ここまで環境が整うことは稀でしょう。この機会を棒に振らないように、↓を来年度の目標として設定します。来年度の目標再来年度の管理栄養士資格試験合格に向けた勉強職場での安定したパフォーマンス(復習と予習)坂東・秩父・信濃の観音霊場結願富士山・白山・立山の登拝と関連寺院・神社参拝これらを主目標として、坂東・甲信両国・三遠駿諸国の神社・仏閣めぐり、信仰の山の登拝などを小目標に設定しました。来年度も心身の健康を保ちつつ、こうした楽しみ・仕事も極めて行きたいです。続いて順番が前後しますが、今年度の目標の進捗を見てみましょう。今年度の目標田名部海辺・岩手・三陸・奥州三十三観音霊場の結願。田名部海辺・奥州三十三観音霊場は無事に結願出来ました(田名部海辺は御朱印不揃い、でも個人的には可)。ですが岩手・三陸の方は結願出来ませんでしたね。この巡礼は三陸道が大きな助けとなりますので、また東北に戻れた際、続きをやりたいです。撮り溜めた写真を記事化(巡礼の札所記事・一之宮・総本宮・延喜式内社を優先したい、その時に書きたいものによる)。これは遅々として進みませんでした。・・・言い訳としては、納得のいく記事が書けているので、まぁ、遅くとも・・・良しとしたい・・・ところではあるんですが・・・。記事化できていない写真が溜まるばかりです。来年度は、巡礼の札所記事を優先してアップしていこうと思っています。雪解けの状況次第で日本海側の巡礼もしてみる。特に鳥海山・出羽三山。いやー、鳥海山・出羽三山は本当に登ればよかったです。後悔はある物の、夏の休暇や三連休は奥州三十三観音霊場や最上三十三観音霊場に費やしたので、これも致し方ないところ。秋田三十三観音霊場にも手を出してしまい、結局中途半端になってしまいましたが、巡礼の雰囲気が分かったので、良しとします。こちらも東北に戻れましたら、引き続き頑張りたいと思います。全体的に怪しい進捗でしたが、個人的にはまぁまぁ満足のいく結果になりました。これにしょげず、来年度も頑張りますよぉ!以上です。
2026年02月07日
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東北は山間部が多いこともあり、地域の鎮守として大山祇神を祀っている集落が多いんです。青森では中里の薄市、つがる市の車力、むつ市川内の家ノ辺などが挙げられます。他の県を覗いてみると中にはかなり規模の大きなものも。特に西会津の大山祇神社は規模が大きく、三嶋大社の分霊社だという説もあり、かなり篤く祀られています。では太平洋側には無いのか、いやあります。宮城県は美里町の小牛田山神社です。この神社では大山祇神の娘である木花咲耶姫神を祀っており、それ故か安産の神として篤く崇敬を集めています。2025.8.7小牛田山神社美里町の郊外に鎮座する小牛田山神社。境内の両端を道路が走っており、区画整理がなされる前から鎮座していることが分かります。大きな石鳥居。奥にはずらりと石灯籠が立ち並びます。先ずは境内案内を見てみましょう。道路割によって境内が面白い形になっていますね。駐車場もしっかりあるので、車でも安心。参道の脇には当社の祭神に向けた御詠歌の石碑があります。山神御詠歌ありがたや 小牛田の神の救ひこそ うむ度毎に 心やすけれ安産を もらさで救う願なれば まいるともがら たのもしきかな産まず女に 子授け給ふ神なれば ゆもじ納めて 願かけ奉る安らけく 授かりし吾子かい抱き 今日こそ行かめ お礼参りに幾度も 願ひをかくる山の神 遠き国より はこべ歩みを5つ中3つが子授けに関する唄ですねぇ。これは当社の”安産枕”に由来したものでしょう。安産枕とはなんぞや。小牛田山神社の公式サイトに詳細が載っていました。 「安産おまくら」・「子授けおまくら」は安産・子授けの神様「木花之佐久夜毘売命」のご利益を願う「小牛田のやまのかみさま」の御守りです。祈願成就には倍返しの風習になっています(倍返しの発祥の地)。 「おまくら」の中身は籾殻です。日本は四季のある風土の中で稲作文化を中心に営まれてきました。私達の祖先は古代から米を主食とし、稲魂に畏敬の念を抱き、ご加護に感謝して生活をしてきました。 おまくらの籾殻は稲魂のお力のもと母子健全、夫婦健全に恵まれるように祈りを込め使われています。 「おまくら」の色は赤・白・青・黄色です。黒(北の玄武)はありません。おまくらの色は四神、赤(南の朱雀)白(西の白虎)青(東の青竜)黄(中央の北辰)の神々から守っていただく意味があります。山神社 / 安産・子授け・おまくらについて より引用ふむ。火中出産を成し遂げた木花咲耶姫神にあやかったものなんですね。浅間大神とも称される木花咲耶姫神は山の恵みを体現する神格でもあり、そうした生命力溢れる属性と神話のエピソードとが結びついて安産・子育ての信仰へとつながったのではないでしょうか。安産枕の風習は、僕の故郷である津軽などではあまりなじみがなく、福島出張に際してまわった宮城県南部、福島県中通り・浜通り両地方北部において、同様の信仰が見られました。以下、安産枕の風習が見られた神社を列挙します。宮城県蔵王町:蔵王刈田嶺神社 里宮福島県新地町:子眉嶺神社福島県福島市:飯坂八幡神社これらの神社以外にも、ある所にはあると思います。この信仰の源流はどこにあるのか、それは不明ですが、実際に子に恵まれた際、枕を倍返しする風習は小牛田山神社が発祥のようです。特に蔵王町の蔵王刈田嶺神社 里宮には小牛田山神社の分霊社があり、当地域の安産祈願の社として、小牛田山神社にはかなり篤い信仰があったように思われます。実際に講中も結成され、各地に講中の石碑が建立されているようです。※講中は山林業・温泉業に従事する男性を中心とした山神代参講と、安産を祈願する女性中心の山神代参婦人講の2種類があったようです。詳細は公式サイトをご覧ください。参道に戻ります。社殿も目の前という所に手水舎がありました。こちらも木彫装飾が見事ですよぉ!拝殿の向拝部分の彫刻師と同じ方が手掛けたんではないでしょうか。そんで拝殿です。どっしりとした存在感タップリの社殿ですねぇ!色あせた木の感じがなんとも言えず風情があります。御由緒です。山神社御祭神:木花咲耶姫神合祀神:大山咋神、天照皇大神、十五代応神天皇御由緒 崇徳天皇の永治元年(1141年)摂津国の住人(修験)現宮司家の祖 小山田清寧、始めて家の神として勧請したと伝えられています。 その後裔 浄円、元亀2年(1571年)神璽(御神体)を奉じて、小牛田村旧屋敷に来**。天正3年(1575年)祠を建て、それを鎮め奉る。寛文2年(1662年)自円の孫 宥鏡のとき、仙台藩にお*新たに小牛田駅を開設するに際し、南小牛田町屋敷の地に社殿(間口九間、奥行四間)を造営したことからも推察されるように多くの熱心な崇敬信仰を集めるにより代参講を結成し現在に於いて5,000余組を数えるに至っております。 明治の御世になり小牛田町の総氏神として、ありがたくも国より指定を受けたのであります。その後明治41年(1908年)8月、町内大火の時全焼するが、社掌憲一朗仮社殿を設けると共に、同年無格社:日枝神社(下小牛田鎮座)、同42年村社:八幡神社(西原鎮座)・無格社:神明社(山崎鎮座)・郷社:日枝神社(町屋敷鎮座)を合祀するにより無格社:山神社、郷社に昇格する。これにより同年3月神饌幣帛料共進社に指定される。 類焼後、社司昇現在地を取得、本殿・幣殿を新築、拝殿・社務所を仮設し大正6年12月26日遷宮祭を執り行い、昭和4.5年にわたって拝殿・社務所を新築し、合わせて神域の整備を行いました。造営後、半世紀の歳月を経た昭和54年には雨漏りがひどく社殿屋根葺替工事、又 平成御大典記念として平成4年に手水屋・透塀の造営**を行いました。御神徳 御祭神は山の女神でありまして、山をお守りし、山より物を生み給う神であると共に御祭神の御事蹟により良縁・子授け・安産・子育て等の諸願成就に霊験あらたかな神であります。 江戸初期には伊達家一門の奥方達が御産をなさる時、家臣をして代参させたように、武士・一般大衆の区別なく仙台藩領内外にと広範囲に信仰が及んでいきました。 現在信仰圏は宮城県はもとより、東北一円・北海道・関東にと及んでおりますのは、御神徳のいたるところであります。 尚、火伏の神・造酒の祖神としても極めて尊崇されております。主要祭典元旦祭:1月1日どんと祭:1月14日春季例大祭:旧3月11.12日秋季例大祭:旧10月11.12日七五三祝典:11月15日新嘗祭:11月23日もとは小山田清寧という山伏によって勧請された祠みたいですね。それが社殿を得て、明治期の合併により日枝神社の社格を受け継いで郷社となったようです。公式サイトでは木花咲耶姫神の御神体を平泉まで運んでいた時、この小牛田の地で運び手が動けなくなるという珍事が何度も起こり、この地に鎮まるという意思と捉え、ここに勧請されたとあります。なんとも面白い創建譚ですが、これは浅間信仰の伝播を表している様にも見えます。木花咲耶姫神というとやはり富士山を神体山とする浅間信仰ではないでしょうか。富士山にも早くから修験が入り、いつしか遥拝の山から登拝の山へと認識されます。富士山に修験が入ったのは中世とは言われていますが、それが小牛田山神社の創建よりも早かったかと問われると正直微妙です。ですが、もし創建よりも早かった場合、当時奥州の仏教の中心地となっていた平泉に、浅間大神を勧請しようとする修験がいても不思議は無いと思います。・・・正直なとこどうかは分かりませんが・・・。次は社殿の木彫類を見ていきましょう。・・・もう何て言うか、凄いです。それぞれの蟇股部分には龍がのたうち、懸魚には鳳が飛翔。気仙大工も真っ青な出来栄えです。特にすごいのが木鼻の獅子です。風になびく鬣がかなり精巧に表現されています。付き添う子獅子もかなり躍動感が溢れていますね!阿形!吽形!う~ん!凄いねぇ!宮城県の木彫装飾でも一・二を争う素晴らしさ御堂の側面には十二支。各間に一体ずつ彫られています。こちらが子年。そんで丑年。これらもすんごく細かく彫り込んでありますねぇ。扁額です。山の字が面白い書体です。社殿の左側には宝形造の御堂が建っています。明らかに仏閣なんですが、ここにはなにが祀られているんでしょうか。wiki調べだと、かつては薬師堂で薬師如来を本尊にしていたんだとか。それが神仏分離によって廃堂となり、最初は天照皇大神が祀られ、後に神輿舎となったそうです。一見本地堂のようにも見えるんですが、どうやら違うみたいです。神輿舎の手前には石碑有り。淡島大明神っぽいのもあります。こちらも安産の神として有名ですね。そんでもって本殿も見えます。こちらもかっこいい造りしてますよねぇ!斜めから。大山祇神ではなく、その娘 木花咲耶姫神を祀る神社でした。出産・育児に関する信仰が篤く、東北のみならず東日本の各地で信仰されていると言うんですからすんごいですよね。遠く駿河国に聳える霊峰 富士山の信仰の片鱗を感じられる古社でした今回貰った御朱印です。通常御朱印見開き御朱印公式サイトへのリンクです。・山神社 やまのかみしゃ以上です。
2026年02月05日
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陸奥一之宮の1つ、八槻都々古別神社が鎮座する棚倉町。中心地から南下すること数分、近津という集落に辿りつきます。小川を越えるともう都々古神社の境内が見えてきて、道路を挟んで反対側には、今回紹介する寺院が置かれています。この様にあまりにも神社と寺院とが近いと、何かしら関係があるのが常です。特に別当という訳ではありませんが、この寺院は都々古別神社の社僧を務めていたんだとか。神社に置かれる僧侶のことなんですが、やはり神仏混淆の度合いが強かったことが伺えます。2024.12.19仙道三十三観音霊場二十三番札所:聖務密山 持宝院 如意輪寺(八槻観音堂)広い駐車場に車を停め、一段高くなっている境内を目指します。参道の先にはどっしりと寺門が構えてあり、脇には鐘楼も。規模が大きな寺院ですねぇ!参道右手には清水が湧いています。水盤も古めかしく、風情が溢れています。その隣には石碑。供養塔や庚申塔です。奥の方には洞があり、扁額には不動明王の真言が刻まれています。先ほどの清水の水源かもしれませんね。波切不動とかが勧請されているのでは?山門をくぐり左手には鐘楼。こちらもなかなかに年季が入っています。真言宗寺院という事で弘法大師像もありますよ。次は右手を見てみましょう。境内のかどっこには子育地蔵尊。真っ赤なべべ着て立っています。隣には瑠璃光と刻まれた扁額が懸かっています。おそらく薬師堂でしょう。更にその隣には沢山の石碑と共に、にんまりと笑う地蔵尊が置かれています。ここまではっきり笑っている仏像も珍しいのではないでしょうか。本堂です。五色の垂れ幕が素晴らしいですねぇ!手前にはしだれ桜もあり、春には絶景が拝めるんではないでしょうか。御由緒です。聖務密山 持宝院 如意輪寺真言宗智山派開山:行基菩薩開基:四十五代聖武天皇本尊:如意輪観音 当寺の歴史は古く、その源を温ねれば遠く1,200年余り前、四十五代聖武天皇の勅願により、僧 行基が如意輪観音を奉じて当地に一宇を開創す、と伝えられる。江戸時代には「東奥密林(檀林寺院・子弟教育機関)」の寺格を付与される。 当寺ははじめ、当所都々古別神社の東の地に隣接し、古くより社僧の職を相努めて来たが、明治初期、神仏分離令により現在地に移り覺乗院と合寺、更に系列の諸末寺が合併され、「如意輪寺」を公称して今日に至る。 旧覺乗院本堂は、中世より此の地に在ったと推定される。老朽により元禄15年(1702年)に改築され爾来300有余年経過、また、山門は旧如意輪寺より移築したもので、築後既に260年余の星霜を経、共に老朽著しく、この度檀信徒一同、菩提寺護持の志篤く、本堂並びに山門の改築に向けて檀信徒総会を開催、更に建設委員会を組織する。即ち全檀信徒に対する懇ろなる呼びかけが行われて、機運ようやく熟し、茲に檀信徒及び多くのご協力者により貴い浄財が寄せられる。而して当寺の檀徒である工務店を主体とし、また、設計を社寺建築専門の設計事務所に、棟梁を宮大工に依頼して工事を進むること約2ヵ年、茲に念願叶い、如意輪寺の新たな出発に相応しく、伽藍、輪奐の美相整い、山容が見事に一新せらる。 この度の建設委員会において、この世紀の大聖業を永く後世に伝えてゆくべき、との結論に達する。仍て茲に記念のいしぶみを設置し、御協力檀信徒及び関係各位の芳名を刻して謝意を表わすと共に、各家の家門繁栄と先祖代々の菩提を懇ろに祈念する。平成24年4月8日おおよそ8世紀初頭の創建といったところでしょうか。八槻都々古別神社の社僧(別当とは別)を努めており、かつては社殿の東側に境内があったようですね。宗派は真言宗・・・。中世から続く別当 八槻家は天台系の修験だったとされています。そこから考えると当寺院の宗派は、もしかしたらどこかのタイミングで変わったのか、もしくは天・真両宗派が共存していた可能性もありそうですが・・・はて。扁額には美文字。豪華な金縁です。内陣には金色の厨子と、金色の如意輪観音が座します。近くで見てみましょう。慈しみの心が溢れる優し気な表情、最高ですねぇ腕に結えられた紐は、外の柱まで伸びています。というか、脇侍?が不動明王と聖観音という例は初めて見ました。密教系寺院だと、曼荼羅に則して何かしらの観音+脇侍(不動明王・毘沙門天)という例は良くあるんですが・・・。これも何かしら曼荼羅を再現したものなのか、それとも特に関係はないのか・・・知りたいですねぇ。斜めから。福島と茨城の県境に屹立する八溝山。そこを霞とした修験の元締めは八槻家です。八槻都々古別神社の別当として君臨し、熊野先達を務めたことで絶大な権力を持っていたとされています。今回紹介した如意輪寺も、都々古別神社を守護する寺院の1つという事で、大いに八槻家とも関りがあったんではないでしょうか。行基菩薩が奉納した如意輪観音は、今も静かに座していました。御詠歌ほど遠き 道の境と聞きしより 参ればここに 近津寺かな本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र以上です。次の記事・二十四番札所:八溝山 日輪寺 観音堂(八溝山観音堂) 八溝の山照す、日輪の観音堂
2026年02月04日
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あれは年越し前、正月休み前の仕事も一段落した頃。こちらの現場の所長夫婦にご招待いただき、山梨が誇る銘酒 七賢の酒蔵を見学に行きました。所長が最近日本酒にハマったらしく、旦那さんにねだった所、七賢に連れて行ってもらうことになったそうです。ありがたいことに職場の子も行きたがってると旦那さんに伝えてくださったそうで、「着いて来いと言ってたよ」とのこと。こんなお誘いは乗らずにはいられません!2つ返事で快諾し、深々と頭をさげました。2025.12.26七賢(山梨銘醸株式会社)かつての甲州街道沿いに大杉玉を飾るお店があります。入り口の上には”七賢”と書された額が懸けてあり、年季の入った外観が最高です。七賢のある通りは古い町並みが一部残っており、ぱっと見黒石のこみせ通りに似てなくもありません。遥か江戸時代にタイムスリップしたかのような気持ちのまま、店の戸を開けました。入り口入って左手には行在所。かつて明治天皇が御巡幸の際に宿ったんだとか。右手には販売所があり、ここで試飲も出来ちゃいます。一銘柄飲み干す度に、蛇口からこぼれる白州の清水で猪口を洗い、次に供えます。今回は風凛美山・甘酸辛苦渋などの辛口銘柄から、あらばしり生・向秀など生系・甘口銘柄なども試してみました。最初所長と一緒に”あらばしり生”を飲んでみたんですが、これがもう美味しいの!口当たりは軽いくせに味はかなりしっかりとしていて骨太感!辛すぎない辛口といった感じでしょうか、かなりキレのある銘酒です。二人して表情を緩ませながら余韻に浸り、文字通り銘酒に酔いしれました駐車場の方にまわると、巨岩の頂から轟々と水が噴き出しています。旦那さんに”ここの水飲めるよ”と冗談をかまされつつ、施設内を3人で見て回ります。施設内には祠が幾つかあり、こんなものも見れますよ。こちらは仕込み水の井戸でしょうか。弁財天が祀られており、なんとも縁起が良さそうです。近くにある説明書きを見てみましょう。初代北原伊兵衛が惚れ込んだ水 江戸時代の初めに制定された五街道の1つである甲州街道の信州との境にある宿場町台ヶ原宿の中央に間口約三十間の造り酒屋を創めたのが寛延3年(1750年)で当社の創業である。 信州伊那の高遠で代々酒造業を営んでいた北原家の七代北原伊兵衛が甲府・江戸に商用で度々当地を道中し、水質の素晴らしさに着目し、当地に分家を創立したと記録に残されている。昭和60年(1985年)環境庁より「日本名水百選」に指定された尾白川の清流が街道に沿って流れており(尾白川は全山花崗岩層からなる南アルフス甲斐駒ヶ岳に原を発する)その清冽さと透明度・水質の良さに初代伊兵衛の判断は正しかったと感銘することしきりである。ここに感謝の念を込め石碑を建立する。説明書き より引用この白州の清水、実は酒蔵で飲めてしまいます。井戸に柄杓が渡してあり、掬って口に運んでみると、するすると喉を洗い、体に溶け込むかのように染み込んでいきました。おぉ~、と一人して感動していましたが、こんな質の良い水を日本酒造りに使った日にゃあ、上等な酒が出来ない訳ありません。井戸の近くには貯蔵庫があり、一見するとワイン蔵かと思ってしまいますが、これ全部日本酒なんです。それぞれの年の七賢が出番を待っていました。この蔵の照明は日本酒型の提灯。なんともこじゃれていて好みです。七賢に来た、というのが実感できますよぉ~!そろそろ腹が空いてきたという事で、酒蔵併設のレストラン ”臺眠”に向かいます。外観は洋風ですが、料理の方は酒粕をふんだんに使った物ばかり。更に七賢の銘酒まで飲めてしまうんですから、もう、ね?最高以外にいう事ないです。2025.12.26甲州豚の塩糀づけ焼き定食 と あらばしり生 と なま生?じっくりと塩糀に浸け込んだであろう甲州ポークが、今度はじっくりと焼かれて出てきます。中までしっかりと味が染みており、噛むたびに肉汁が溢れます。割と厚めに切ってあるんですが、糀のおかげでしょうか、触感はかなり柔らかいです。しっかりと噛みしめ、ついでに幸せも噛みしめたところで、白飯をかき込みましょう!・・・もう目の前には彼岸が・・・。朦朧とする意識を汁でつなぎ止め、最後に酒で洗います。食の素晴らしさが極まっていますね現場からは以上です。七賢以外にも、山梨県には銘酒が多いです。営業所にて所長から頂ける日本酒情報は宝です。今回はなんと言っても、所長の旦那さんがドライバーを務めてくれたおかげで、食と酒とのペアリングをこころゆくまで楽しめました。八戸にいた頃は近くに飲み屋が無く、カレー屋でビールと併せるのが常でした。それがこちらでは美食と銘酒を併せられるという最高の歓待を受けたんです。直接御礼もしましたが、ここでも所長に最大の感謝を伝えます。本当にありがとうございました!唐突な日本酒レビュー七賢 向秀七賢は中国の”竹林の七賢人”に由来する名称なんだとか。七種どれもが生酒で、それぞれ精米歩合が異なります。その中でも向秀は、かなり甘口の仕上がりで、豚肉の塩あんかけ・豆大福と併せたんですが、もう良かったです。しっかり冷やして飲むともう愉悦愉悦で、一瞬で幸せな気持ちになりますよ!公式サイトへのリンクです。・七賢 山梨銘醸株式会社以上です。
2026年02月03日
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