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山梨県一円に散らばる三十三の観音霊場をまわる巡礼です。霊場の開創自体はいつ頃なのかは不明ですが、二十五番札所:金剛山 安楽寺の御詠歌額には元禄13年の銘があり、少なくとも1700年までは遡ることができるようです。霊場の開創とは異なり、札所の多くは1,000年近い歴史を持つ古刹ばかりで、山梨県だけにまわり甲斐はすごく有るんではないでしょうか。御朱印に関しては、札所ごとに対応が異なりますので、どうしてもという方は一度連絡してからの巡礼が安心だと思います。ただし、2026年現在絶対にいただけない札所が数ヶ寺あり、総揃えは難しそうです。僕自身最初こそ御朱印をすべて揃えようと思っていましたが、今では全札所を巡礼するにとどめています。御朱印が無くとも、この古刹群をまわれるのであれば満足感もかなりのものでしょう参拝した札所の位置と札所記事は下のリンクからご確認ください!・甲斐国三十三観音霊場 参拝の記録以上です。
2026年05月17日
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山梨出張を機に甲斐国内の三十三観音霊場をまわってみました。期間中にと思ってかなり焦って回ったんですが、これは本来の巡礼の本旨とは異なってしまいます。正式に山梨県配属になったこともあり、今では落ち着いて回ろうと思っています。御朱印の対応は各札所で異なるんですが、確実に頂けない所が数ヶ寺あり、総揃えでの結願は断念しました。時が経てばまた復活するのかは分かりませんが、御朱印の事を考えずにまわった方が、ストレスなくまわれる巡礼だと思います。発願:2025.10.4甲斐国三十三観音霊場一番札所:河浦山 薬王寺 観音堂他の巡礼(本堂):甲斐百八霊場九十五番札所、甲斐西八代七福神めぐり 恵比寿御詠歌いちかわや ひと瀬をわたす迎い舟 のちの世までも 安くわたさむ本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未二番札所:豊田山 永源寺 観音堂他の巡礼(本堂):甲斐百八霊場五十番札所①御詠歌世を照らす 光を永く伝えんと 源寺に ひくぞたのもし本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三番札所:市瀬山 光勝寺 観音堂他の巡礼:甲斐百八霊場九十四番札所、甲斐西八代七福神めぐり 大黒天御詠歌一の瀬や いちせをのぼる迎いぶね のちの世までも たのもしきかな本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未四番札所:八田山 長谷寺 観音堂他の巡礼:甲斐百八霊場八十番札所御詠歌梓弓 あずさの橋の観世音 導き玉え 知るも知らぬも本尊:上八田の観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未五番札所:廣沢山 義光院 興蔵寺御詠歌神にさえ かすや宮原興蔵寺 ふたみちかけて たのめ観音本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未六番札所:深草岩屋観音堂御詠歌かきわけて 来れば深し岩堂の 露のめぐみの あらんかぎりは本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未※朱印所は甲府市の佛生山 浄正院七番札所:天童山 福寿院御詠歌七曜の 姿は空にあらわれて 五濁悪世も てらすみ仏札所本尊:准胝観音 चुन्दा札所記事未八番札所:金剛福聚山 法泉禅寺他の巡礼:甲斐百八霊場六十二番札所御詠歌はるばると 登りて見れば瑞祥寺 峯の嵐か 松風の音札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未九番札所:瑞雲山 長禅寺他の巡礼:甲斐百八霊場五十八番札所御詠歌明らけく 照らす小山の月影は 大光明を 放つとぞみる本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十番札所:大雄山 福王寺御詠歌盛りなる 頃は嵐の福王寺 花のごとくに 人をたすけん本尊:七観音 आर्यावलोकितेश्वर सहस्रभुज हयग्रीव एकदशमुख चुन्दा चिन्तामणिचक्र अमोघपाश札所記事未※朱印所は通りに面した別当宅(2025.11.30時点)十一番札所:飯室山 正智院 大福寺他の巡礼:甲斐百八霊場四十九番札所御詠歌飯室や 十や一つの観世音 深き利生の 叶ふなりけり本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十二番札所:般若山 金剛寺 観音堂御詠歌はるばると 聞いて尋ねて来てみれば まわり川路に 亀や住むらん本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未十三番札所:津金山 海岸寺 観音堂他の巡礼:甲斐百八霊場七十一番札所御詠歌補陀落は 他所にはあらじ津金なる 大悲も深き 海の岸寺本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未※本堂右手の小箱に朱印あり十四番札所:菩提山 長谷寺御詠歌みな人ぞ 菩提のたねを作りおく のちの世までも 頼もしきかな本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未十五番札所:法城山 観音寺御詠歌大きなる 石もやわらぐ観音寺 力をたのむ 後の世までも本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十六番札所:裂石山 雲峰寺他の巡礼:甲斐百八霊場十一番札所御詠歌花もさけ 石のうえ木の春ことに 枯たる枝の もよい出るらん本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未十七番札所:深草山 瑞岩寺御詠歌たのみきく 雲も開くる岩戸山 露のめぐみも 深草の里本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未※朱印所は甲府市の佛生山 浄正院十八番札所:秀森山 清水寺御詠歌井尻なる きよき清水を汲みあげて 秀森寺(堂)と いそぐこの度本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र札所記事未十九番札所:岩泉山 清水寺御詠歌岩清水 流れをとえばきよたきの さこそ浄土も ゆかしかるらん本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未二十番札所:知足山 寿徳院 光雲寺御詠歌くも林 前なる水をまきあげて ふくや大野の 原の秋かぜ札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十一番札所:岩泉山 寂静院 光福寺 上の堂他の巡礼(本堂):甲斐百八霊場二番札所御詠歌足引きの 山の岩戸につくりかけ まことの観音 浄土なるらん本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未二十二番札所:岩泉山 寂静院 光福寺 下の堂他の巡礼(本堂):甲斐百八霊場二番札所御詠歌あかつきの 雲もよこねの観世音 心を渡す 前のふな山本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十三番札所:正法山 常楽寺御詠歌うち向ふ 心ひとつの坊ヶ峰 よろづの罪も 消えうせにけり札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十四番札所:月江山 清光院御詠歌一の宮 きいて尋ねてきてみれば 森のこかげに 神やすむらん札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未二十五番札所:金剛山 安楽寺御詠歌聞くからに 清き平井の尽きぬ水 涼しき空に 松風のをと札所本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र札所記事未二十六番札所:中浮山 心月院御詠歌さおしかの 渡るこうか(高家)のこうぜんじ(光善寺) 前の清水で 浄土なるらん本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十七番札所:龍湖山 方外院他の巡礼:甲斐百八霊場九十八番札所旧御詠歌さやからで 風もたえせぬ西の湖 月もろともに 浄土なるらん新御詠歌本栖にて 流れも清き川尻の 大悲の御願い また浮かぶ瀬戸本尊:瀬戸観音(如意輪観音) चिन्तामणिचक्र札所記事未二十八番札所:妙法山 本郷寺御詠歌はるがすみ 南部の郷の岩戸山 海はなけれど 舟よせの松札所本尊:岩戸観音(如意輪観音) चिन्तामणिचक्र札所記事未二十九番札所:岩水山 高前寺御詠歌岩にたつ 鴨狩でらの高前寺 岩間の道を わけてや行くらむ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十番札所:岩殿山 真蔵院他の巡礼:甲斐百八霊場二十四番札所御詠歌朝日さす 夕日かがやくその下に 夜もまろやかに 月の通ひ路本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未三十一番札所:熊埜山 西光寺 観音堂御詠歌秋の夜に 長峰照らす月影を さやかにうつす 八沢の池本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十二番札所:少林山 徳岩院 観音堂御詠歌谷ふかき 岩さきかかる藤の花 ただむらさきの 雨(雲)というらむ本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事未三十三番札所:光澤山 青松院御詠歌砥石坂 登れば法の山宮の 佛の光 照る澤の山よろづよの 願いをここにおさめおく 光たえせぬ てるさわのてら本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事未以上です。
2026年05月17日
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鮫川の村から北上し鎌田八幡宮の丁字路で左折、そのまま石川方面に向かうと左側の田んぼのあぜ道に千手観音と書かれた古い立て札が建っています。それに従って畦道をすすんでいくと、仙道三十三観音霊場の標柱が見えてきました。2025.3.9仙道三十三観音霊場十九番札所:谷地観音堂(白花山 正法寺)山際に参道があり、山奥へと誘うように道が伸びています。殆ど山道の様な参道ですが、折り重なった落枝の下には確かに石が敷かれていました。この石を踏んで、かつて巡礼したものがいたのです。程なくして観音堂が見えてきました。石段の先には古めかしい観音堂が置かれています。廂が広くとられており、何となく雅な感じもしますが開創譚はどんな感じでしょうか。ご由緒です。谷地観音堂(白花山 正法寺)真言宗本尊:千手観音 大同2年(807年)建立と伝えられているが縁起については明らかでない。縁日は4月17日である。 本堂三間四面程あり。境内は比較的広く、僧侶の碑2基あり。本堂は四周とも三尺程の廻廊を廻らし当地方には珍らしい建築である。本尊は千手観音であるが少し破損し、厨子内に安置し、厨子の屋根押肘木もこの地方としては珍らしく、堂内には絵馬類の奉納も多いのは往時信者の多かった証となり注目に価する。 「観世音」の額は、正徳2年(1712年)石川郡宇田谷庄:南条藤兵衛景定・熊田九兵衛親房等の奉納したものである。源三位頼政の鵺退治の絵馬(南条伊右衛門勝隆書之、とあり)寛永7年3月吉日に奉納されたものである。 ・・・。天保14年9月 石川郡谷地村正法寺無住取調書上帳(乗蓬寺蔵)石川郡谷地村一、無住:正法寺文政八未年(1825年)遷化候。其後無住、同郡坂路村惣徳寺兼帯。一、客殿:無御座候一、庫裏:立五間、横二間半一、千手観音堂:三間四面一、境内:但シ村除拾五間四面一、什物:並寺附品外二御座候右之通り相改候処相違御座無候 以上組頭村惣代:高右衛門庄屋:惣七・・・。石川町教育委員会 「石川町史 下巻」 529~531ページ より引用大同2年の創建ですと、やはり坂上田村麿の開創譚が思い浮かぶのではないでしょうか。他の仙道札所同様、詳しい由緒が分からないのが悔やまれます。同じく仙道札所の乗蓮寺に伝わる正法寺無住取調書上帳によると、文政8年(1825年)の段階で無住となり、惣徳寺が兼務していたようです。その時点で客殿は無くなっており、境内には観音堂と庫裏が残るのみとなっていたんですね。今では惣徳寺も廃寺となっており、境内の桜がひとり今でもキレイな花を咲かせます。宗派は真言宗で、系統までは分かりません。真言宗が大きく分裂したのは明治期なので、この時は単に真言宗だった可能性もあります。陸奥石川氏の最初の根拠地であった三芦城からも近く、関連があったとも考えられますが詳しいことは分かりません。ただ本尊の千手観音菩薩像は鎌倉時代後半の作とされており、この頃は陸奥石川氏が北条氏との関係を強めていた時期であり、鎌倉幕府経由で秀仏が当地に流れてきていてもおかしく無いのではないでしょうか。↓に本尊千手観音の説明書きを載せます。仙道三十三観音霊場札所第19番札所 白花山正法寺谷地木造千手観音菩薩立像石川町指定有形文化財(平成5年5月1日指定) 白花山 正法寺 観音堂の本尊である谷地木造千手観音菩薩立像は、鎌倉時代後半に造立された仏像です。全高104.3cmの11面42臂で、ヒノキを材料とした本格的な寄木造の技法で造られています。繊細で写実的な造形から、鎌倉時代に中央の仏師によって造立されたものと考えられます。 造立にあたっては、この地の領主層である石川一族の関与が想定でき、歴史資料としても重要です。澄んだ表情の顔貌に伸びやかさのある体躯、衣の襞の彫り出しにも洗練さがうかがえ、美術的にも優れた造形を示している貴重な仏像です。 平成27年度から28年度にかけて修復が行われ、持物と天衣垂下部を除く全ての欠失箇所の新補、白毫に水晶を配置、像表面の乾式クリーニング等が施されました。この際、両脇手台木から墨書による文字資料が新たに見つかりました。「くわんをん(観音)」・「ミなもとの(源)まこ(孫)大らう(太郎)のぶミつ(信光)」・「延文五歳(北朝年号で1360年)かのへねのとし(庚子年)七月十三日」・「小旦那」・「イナバ」・「一貫文一斗」・「ミゾイ」等の文字が判読できます。このうち、延文5年の年号については、修復の監修にあたられた若林繁先生(県文化財保護審議会委員)によると、体躯と脇手を支える箇所の台木に書かれていることから、造像銘ではなく、あくまでも修理を行った際のものであるとのことです。(文責:石川町教育委員会)平成29年4月吉日 奉納:小湊義勝更に説明書きです。谷地千手観音立像平成5年5月1日町指定 この千手観音堂は廃寺となった正法寺の境内にあり、仙道三十三観音十九番札所として、栄えたところである。 大同2年(807年)建立と伝えられているが、縁起については明らかでない。本尊の木造千手観音像は全高104.3㎝の十一面四十二臂像である。頭部を前後に、体躯を前後左右にはぐ寄木造である。カツラ材を使用した彫眼素地仕上げのこの観音像は、地方的要素を残しながらも、全体的には洗練された作風を漂わせている。造られた年代は鎌倉時代後半と考えられており、美術的にも優れた造形を示している貴重な仏像である。平成6年3月1日 石川町教育委員会地方作なのか中央作なのかは不明ですが、化仏も指先も造詣が細かく、かなりの完成度です。素人目でも御作では無く仏師の手になる物だと分かります。仏像銘にある”源孫太郎信光”なる人物が誰なのかも気になるところ。観音堂裏手には、細く湧きでる清水と不動明王像。小祠もあります。ここで禊ぎを行っていたのか、護摩を焚いていたのかは不明ですが、当霊場の開創となんらか関わるものだとは思われます。山中でこの清水を見つけて寺院を建てたとか・・・。いろいろと気になる事が多すぎます。斜めから。山間の田園地帯にこんな古仏が残っているのは本当に面白いです。今では寺院の趣はありませんが、林の中にひっそりと佇むさまは古霊場のそれです。陸奥国の開発と発展を見て来た生き証人のような趣も感じられ、東北の歴史を眺める上で外すことの出来ない観音堂でした御詠歌頼みつつ かけしその身の甲斐ありて 法の台に のぼる寺坂本尊:千手観音 सहस्रभुज以上です。
2026年05月16日
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福島県浜通り地方の一大都市いわき市。駅周辺にはかつての平城の遺構が残っており、今でも城下町の風情が感じられます。今回紹介する子鍬倉神社も、駅の南口からすぐの高台に境内を構えており、平城を守護する神社として、城主 内藤氏からの崇敬も篤かったそうです。由緒は不明な点が多いものの、境内には地域の他の神社も集められており、いわゆる総社的な風情もあって、満足のいく参拝ができると思いますよ2024.10.6子鍬倉神社JRいわき駅から徒歩数分。気の遠くなるような石段の先に鳥居が建っておりました。上るのにかなり体力を使ってしまいましたが、この景色を見られたなら悔いもありません。境内の整備自体は近代になってからなんですが、社叢も相まってか、かなり長い間ここに鎮座していたかのような雰囲気がありますね。高台の境内には様々な末社が置かれています。もともとこの地には八坂神社が鎮座しており、その境内に子鍬倉神社に比定された稲荷の小祠が遷宮され、現在の子鍬倉神社となったそうなんです。そのため、現在境内にある末社の多くは、おそらく八坂神社のものではないでしょうか。この天満宮もその1つでしょう。祭神は菅原道真公。末社とは言え、近くには別の祠もあり、ここだけでも小さな別の神社の様にも感じられます。まずは天満宮の社殿から。鬼瓦を頂く向拝が面白く、上部組木の木彫も見事です。懸魚に本当に魚の装飾が付いているのもユーモアありますおそらく題材は”琴高”ではないでしょうか。中国周時代の仙人で、琴の名手だったそうです。龍の子供を捕まえる約束をして、当日に鯉に乗りさっそうと皆の前に姿を表したんだとか。鯉は滝を遡って天に通じ、龍へ変じると言われていますが、琴高が乗っている鯉も心なしかシュッとした顔をしている様に感じます。是非じっくりと見てみてください。天満宮隣の覆い堂付の小祠は秋葉神社です。祭神は秋葉大権現、または火産霊神でしょう。小さいと謂えども、祠の装飾はかなりの職人技です。かなり地域からの愛を感じますね。蟇股には龍。そして前面扉の左右には凝った瑞雲模様が施されています。側面も凄いですよ!恐らく二十四孝を題材にしているんではと思うんですが、詳細は不明です。反対側もこのとおり。すんごいんです。茨城県に近いこともあり、足尾山の石碑も建っていました。常陸の霊山として有名です。八坂神社に向かう途中には、かつて村内で祀られていたであろう様々な神格が集められています。これらの祭神や由緒も知りたいですね。八坂神社です。子鍬倉神社とは異なる社格を有しており、境内が隣接していてもそれぞれ独立した神社としてカウントされているんではないでしょうか。拝殿です。寄棟屋根に丸みを帯びた向拝が取り付けられ、なかなか好みの外観です。ご由緒です(加筆)。平町八坂神社祭神:素戔嗚神 村社、平町揚土台 県社 子鎌倉神社の西方に在り。祭神は素萎鳴等。 人皇四十三代光明天皇の御宇(1336~1348年)勧請すと伝う。往古 山部神社と称し、後に牛頭天王と呼び、更に八坂神社と改む。内郷村・御厩・小島・御台境の三大字を氏子とする。 初め大館に鎮座し、岩城初代維衝の父 平隆行(成衡)崇敬厚く、大館城を築くにあたり、城中鎮守となす。後物見岡・赤目崎に遷し、慶長年間(1596~1615年)鳥居氏の築城に際し、現地に移せり。岩城氏以後、鳥居氏・内藤氏・井上氏・安藤氏等の各領主何れも崇敬厚く、證判を附せらる。国書刊行会 「石城郡郷土大鑑 : 磐城郷土史博物館」 111ページ より引用もともとは牛頭天王社と称されており、祭神も牛頭天王だったんではないでしょうか。現在は総本社に倣い素戔嗚神を祀っています。八坂神社には平城主 安藤氏五代に渡る寄進状(実物はこちらからどうぞ!)が残されており、市指定重要文化財に登録されています。宝暦6年から文久2年まで(1756~1862年)の長きに渡り、安藤初代信明(信成)から五代信睦(信正)まで天王社の社領5石を安堵し、天王大夫(神官か)に大浄神楽執行を許可しています。この内容からも分かる通り、当八坂神社は平城主 安藤氏からの崇敬はかなり篤かったんではないでしょうか。そんでもってお待ちかね、子鍬倉神社の社殿です。拝殿は昭和4年(1929年)、本殿は嘉永6年(1853年)の建立で、幅の広く見ごたえがありますよね。装飾は少ないながらも、どっしりとした確かな存在感が漂う社殿でした。国書刊行会 「石城郡郷土大鑑 : 磐城郷土史博物館」の記載を基に由緒をまとめてみます。子鍬倉神社祭神:倉稲魂神例祭日:5月8日 創建自体は大同元年(806年)と言われており、磐城4郡(楢葉、磐城、磐前、菊田)の総鎮守として岩城氏からの崇敬も篤かったようです。 もともとは櫻町の高所に境内を構えていましたが、岩城氏に代わり当地を治めた鳥居氏の新城(平城)築城に際して、社地が邸宅建設の予定地となったため、宅地に祠を残すのみとなり、以来祭祀も滞り衰退の一途をたどることになります。鳥居氏の次に当地に赴任した内藤氏は、最初は同じく邸宅内の子鍬倉神社(祠)のことなど気にもかけていませんでしたが、内藤四代義孝の代に行いを顧み、旧跡を調査させたことで、現在地に祠が建てられます。 徐々に社殿が整えられていきましたが、天保2年(1831年)2月の火災によって社殿の多くを失います。嘉永6年(1853年)5月に建替えがあり、現在の本殿はこの時に建てられたものです。 明治5年(1872年)に県社に昇格し、明治39年12月21日には神饌幣帛料供進社に指定されました。大同年間の創建というと、東北勢はまず坂上田村麿の開創譚を思い浮かべるのではないでしょうか。度重なる火災により、由緒の類は残っていないのですが、かつてはそんな開創譚が語られていた可能性もあると思われます。東北の開拓を推し進める目的で祀られたともされており、実際倉稲魂神や宇迦之御魂神など稲荷大神に連なる神格を祀る式内社は、東北には多いんではないでしょうか。式内社では無いにしても、茨城県や福島県には養蚕・蚕養・蚕養国など養蚕にまつわる神社が多く鎮座しており、当社も”子鍬(こくわ)”が”蚕桑”とも取れることから、何かしらの関連がありそうです。拝殿の左手には末社:金比羅神社。祭神は金刀比羅大権現、または大物主神でしょう。狛犬もいい顔してます。かなり力が入っているような感じがしませんか?狛犬:阿形!狛犬:吽形!こちらをねめつけてうなっているかの様です。随所の金具は錆びてはいますが、彫り込みなどは見事。大事に管理されているようです。扁額です。旧名称の扁額もあります。斜めから。立地も社殿も素晴らしく、いわき市を代表するような良神社でした。初見ではなんと読むのか分からなかった神社名も、その由緒を知れば身近に感じてくるものです。足腰のトレーニングも兼ねて、是非男坂からの参拝をおすすめします今回貰った御朱印です。以上です。参考資料の引用:国書刊行会 「石城郡郷土大鑑 : 磐城郷土史博物館」・101.102ページ縣社 子鎌倉神社 平町宇揚土台に鎮座。延喜式の官社にして、祭神は稲倉魂命なり。明治五年由緒に富めるを以て縣社に昇格す。 古は磐城四郡の總鎮守と称し、岩城氏累代崇敬尤も厚く、千餘貫文の神田を寄附せらる。是より先醍醐天皇延喜五年、左大臣藤原忠平延喜式を撰す。此式に列する神社は皆延喜以前に創始せられたるものにして、其の古社としての由緒を有することは言を俟さざる所なり。 我が磐城園式内神社に列するもの七社あり、本社亦其の一に居る。又平城三社の一と稱す。本社は古來櫻町の高所に在り、北方の眺望无も富めりとせしが、鳥居氏一たび新城を築くに方り、士邸を此高所に置き、社地を兼併して祠宇を顧みず、頗る神威を犯すの嫌なきに非す。幾くもなく鳥居氏政を失し、封を山形に移され、内藤氏之に代る。前後領主轉封に際し、其の士邸内に在る祀字の尊厳を知らず、荒廃に委するもの久しかりしが、内藤氏一旦其の非を悟るや、有司に命じて本社の遺址を探査せしめ、茲に揚土台の地を相して神廟を新築す。適々天保二年二月、火を失し、神殿・拝殿・神楽殿共に鳥有に帰す。嘉永六年五月之を改築す、今の社殿是也。境内坪數千四百九十三坪を有し、一堆の丘上に據り、平町を脚下に俯瞰すべし。樹林鬱葱さして社殿を繞り、櫻花爛發の際は、頗る殷販を極む。祭禮は毎年五月八日とし、神輿渡御の式あり。明治三十九年十二月廿一日、勅令に依り、神饌幣帛料供進する神社に指定せらる。
2026年05月16日
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かつて栄華を誇った東北の雄 奥州藤原氏。産金と馬産にて財力をつけ、中央にも一目置かれる大勢力を築きました。しかし源頼朝・義経の対立に巻き込まれてしまい、最終的には焼け野原が残るのみとなってしまったのです。阿弖流為に始まり、阿倍氏や清原氏、奥州藤原氏と様々な勢力が起っては消え、起っては消え、当に盛者必衰の理を、岩手県南部では感じられます。2025.5.5岩手三十三観音霊場三十一番札所:如意山 眞行寺 観音堂奥州藤原初代清衡公が生まれたとされている豊田館。奥州市の北東にある江刺という地域にあり、平泉が整えられる以前はここを本拠地にしていたそうです。館跡から国道397号にのって大船渡方面に車を走らせると伊手という集落が見えてきます。丁度山間の谷間にある集落で、中央を通る道沿いに民家が立ち並んでいました。集落も切れ目の所まで来ると、山手の方に寺院らしき建物が。あれが今回紹介する札所寺院です。二十二番札所:石清山 観福寺 観音堂の朱印所にもなっています。幾ばくかの石段を踏み越えると、すぐに本堂が見えてきました。造りは簡素ながら、後ろの山林と良く馴染んでおり、不思議な山寺感が漂っていました。集落が開かれる以前は、林にポツンと佇む本当の山寺だったんではと思えてきます。入口の所には札所であることを示す木札が懸けてあります。本堂の方は江刺八十八霊場の八十一番札所のようですよ。江刺には三十三観音霊場もあれば八十八霊場もあり、往古より信仰の地であったことが伺えるのです。八十八霊場と言っても現在は神社になっている札所もあるそうで、巡礼の難易度自体は結構高そうです。とは言え、立て札に貼られた巡礼者たちの納め札代わりのテープは、過去頻繁に巡礼があった事を示しており、まだ巡礼の法灯は消えていない様にも思われます。ご由緒です。如意山 眞行寺真言宗智山派 五百佛山根来寺智積院末寺開山:慈覚大師本尊:不動明王札所本尊(観音堂本尊):千手観音【年中行事】春祈祷護摩供法要春観音講秋観音講春の観音詣り【歴代住職】意元、弘誉、鏡英、禅昌、鏡照、淨圓、連誉攝観再中興一世:眞海二世:大眞三世:快昇四世:照空(代務住職)五世:光仁沿革 延暦13年(794年)慈覚大師東遊の折、現在の真行寺の場所に、薬師佛をまつり草庵を結んだと云われ、「真行寺は、その跡を縁として建つ」との伝えあり、天文年間(1532~1554年)、真行寺を藤田但馬氏(後の伊手荒谷城主)の戦勝祈願寺として福島の亘郡に意元法印開創の伝えもある。 初めは根来寺末であったが、元禄3年(1690年)当時京都 智積院の学僧であった弘誉法印が、京都より来て村民の帰依を受け本山を京都 智積院と定めた。 元禄8年(1695年)、伊手村に疫病が流行し伊手村総祈願に依り、村内90人の願主を以て京都より不動明王を勧請、真行寺の本尊となる。願主の代表者2名、佐藤市兵衛・佐藤吉之助の姓名が本尊の背の火焔板に彫られている。爾来、村寺となり現在に至る。 元禄13年(1700年)、当時伊達家直参の足軽(現在の眞行寺檀家)が、国境警備として配置され、当時の村長の命に依り菩提寺を眞行寺と定めた。 開創以来信者に依って支えられて来た寺であるが、文化年間(1804~1817年)以降は度々無住となり、明治39年(1906年)司東眞海法印が再中興一世となり、住職として就任、その後大正8年(1919年)、眞海法印の弟子 畠山大眞が住職となる。大眞は就任後間もなく春祈祷大護摩供を厳修、爾来現在も、毎年旧曆正月28日に行われている。 又、その昔、本尊を盗んだ旅人が、種山で急に足が動かなくなり、ふと伊手の方を振り向いた途端、伊手へ伊手へと戻され、恐ろしくなり本尊を寺に返したとの言い伝えもある。「岩手三十三観音霊場へのいざない」 70.71ページ より引用須弥壇中央には本尊の不動明王が憤怒の形相で立っております。おそらくこれが京都より取りよせた不動明王像だと思われます。火焔は色あせてはいるものの、渦を巻くような火勢の表現は見事です。斜めから。慈覚大師の開創伝説が残る寺院でした。慈覚大師は延暦寺三代座主という事で、ここも元は天台宗関連の霊場だったのかも知れません。東北にも円仁開山の伝承を持つ寺院は多く、真偽はともかくそれだけ影響力・知名度の高い人物だったようです。本堂の左手に赤い鳥居が建っています。この先には鎮守の堂があるわけではなく、観音堂が置かれていました。立地的に上手く撮れなかったんですが、キレイな宝形造の御堂です。ご由緒です。眞行寺観音堂本尊:千手観音観音堂と千手観音 本堂西方に観音堂がある。この堂宇は、昭和40年秋、伊手石屋敷地区の大日堂をもらい受け、真行寺に移築されたものである(大日如来が他へ合祀されたため)。 堂の中には、大眞住職就任後間もなく観音講を興した際、京都より勧請した千手観音が祀られている。春秋2回の観音講は、現在も継続されている。「岩手三十三観音霊場へのいざない」 71ページ より引用観音堂本尊の千手観音は、寺院本尊の不動明王同様、京都から取りよせたものみたいです。宝冠を頂いた座像の千手観音で、衆生救済のために数多の腕を携えていました。岩手三十三観音霊場・江刺三十三観音霊場の札所本尊に選ばれています。観音堂斜めから。岩手三十三観音霊場は御朱印の対応も丁寧で非常にまわりやすかったです。結願できなかったのが悔やまれるくらい素晴らしい札所ばかりで、いつか必ず結願したいとは思っています。ここの住職さんに聞いたんですが、江刺三十三観音霊場も面白い札所が多いとの事。・・・岩手県には本当に何種類も三十三観音霊場があって、その数は東北随一でしょう。それらをすべてまわり尽くしたい。煩悩の炎が消えることはありません。御詠歌くさぐさの 願いもここに如意の山 慈悲に輝く 千手観音本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十二番札所:岩谷堂山 多聞寺 人首川の高台に建つ毘沙門堂
2026年05月15日
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延喜式内磐城七社の中で、温泉神社同様大国主神を祀る神社です。境内は小山の上、いかにも式内社と言った趣があります。この日は小雨ではありましたが、せっかくいわき市まで来たのなら全てまわりたいところ。最終目的地を温泉神社に定めて、時計回りで式内社をまわりました。2024.10.6大國魂神社境内から少々離れたところに一之鳥居があります。この近くには駐車場もあり、車でも安心。参道を進んでいくと石橋の前にたどり着きます。この橋の側には御神木が生えており、いわき市では稀に見る巨木となっています。幹もぶっ太く力強いですねぇ!御神木の根元には社号標が建っていますね。式内社でもあり県社でもあります。近くには郷社時代のものも。御神木を近くで見ていたんですが、なんと上部が焼け焦げていました。近くの立て札には被雷記が記されています。確かにまわりにはこれ以上高いものはありません。雷の標的になってしまったのもしょうがないことでしょう。これによると昭和初期に落雷があったようです。更に神木の生命力の強さを体現した石碑も置かれています。それでは参道を進みましょう。鳥居の右脇には手水舎が置かれています。境内の社殿や鳥居同様こちらも新しめですね。手水舎の更に右手には鬼穴石という穴あきの石があります。かつてここに鬼椿というものがあり、その傍らに鬼穴が開いていたんだとか。今あるのは再建されたものだそうですが。鬼穴石の側には荒魂祠とも書かれているので、もしかすると現在は大国主神の荒魂を祀る祠となっている可能性があります。一之鳥居は両部式でしたが、こちらは神明鳥居です。この先に社殿があります、参道脇には特徴的な表情の狛犬が一対。狛犬:阿形!狛犬:吽形!かなりのしかめっ面ですよね。手水はなかなかこったデザインで、なんと扇が取り付けてありました目出度い!雨も強くなってきましたが、拝殿を見てみましょう。社殿の横幅も広く存在感があります。正面からは分かりづらいですが、向拝も長く取ってあってどこから見ても大きく見えます。ご由緒です。大國魂神社祭神:大国主神、事代主神、少彦名神、須世理比売神 今からおよそ1,300年前の養老2年(718年)、石城国が設置されました。石城国府は当社の東南およそ2㎞に位置する根岸遺跡に置かれていたと考えられています。朝廷はこの地のまほろばの杜に大國魂神をお祀りし、当時の日本60余の国々それぞれで同じ神をお祀りすることで、国の繁栄と安泰を祈りました。 当社周辺は古代文化の栄えた地であり、中田横穴古墳(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平高久・市史跡)、天冠男子像埴輪(平下高久出土・国重要文化財)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)、根岸遺跡(石城郡衙跡に比定)、甲塚古墳(平荒田目・国史跡)など多くの遺跡が知られています。甲塚は石城国造・建許呂命の墳墓と伝えられています。 石城国はほどなく陸奥国に編入され、この地域は磐城郡に属することになりました。醍醐天皇の御代に編まれた『延喜式神名帳』(927年)には、磐城郡の7社のうち筆頭として記されています。 鎌倉時代には地頭・岩城氏の一族である國魂氏が祭祀権を握り、南北朝時代には神主・山名氏が周辺3村を領してお祭りを取り仕切ったことが記録に残っています。 室町時代には領主・岩城氏により社殿が大規模に造営され、江戸時代には磐城平藩主によって幾度も修復が重ねられました。 当時は神主・下社家・巫女あわせて20数名が奉仕していたといいます。幕末の慶応元年(1865年)には朝廷から「勅宣正一位」の神階を授かり、明治12年(1879年)に郷社、大正12年(1923年)には県社に列せられました。大國魂神社 / 神社について より引用石城国が陸奥国から分かれて成立した際に、国の鎮守として置かれたようですね。出羽清原氏とも関係が深い清原成衡が初代となった岩城氏や、その一族である國魂氏などからの庇護を受けつつ、現代まで篤く祀られてきました。祭神は大国主神はじめ、その妻子を併せ祀っています。拝殿の手前には迫力満点の狛犬!好みの作風です。吽形の方も虎視眈々と獲物を狙っているかのようです。雨で見えにくいですが、木彫装飾もかなりのワザマエ!龍が主題となっています。向拝部分には杉玉が懸かっていました。まるで酒蔵か、豊穣を表しています。扁額です。社殿には大国主神と同一視される大黒天像が置かれていました。事代主神と対になっています。社殿の脇には大黒天像盛りだくさん。本殿です。こちらは朱塗りか。拝殿右手には末社群。右から・・・疱瘡神社:少彦名神、疱瘡神摩利支天社:経津主神、摩利支天神牛頭天王社:素戔嗚神稲荷神社:宇迦之御魂神という構成です。更に本殿方面に向かうと2社。右は伊勢両宮神社:天照皇大神、豊受大神。左は別雷神社:別雷大神です。そして拝殿左手まで来ると宝物殿。神輿をはじめ、殿内には末社らしきものも置かれていますね。そんでこれが宝物の勾玉です。無料で拝観できますよ。斜めから。七社の中でも特に印象的な神社でした。この神社は御朱印に力を入れており、月替わりで別バージョンの御朱印が出されています。今回は輪を描く稲穂、非常に日本らしいデザインで気に入っております。皆様も是非足を運んでみてください今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・大國魂神社以上です。
2026年05月14日
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津軽一円の曹洞宗寺院が集められた弘前禅林街。黒門の先に厳かな山門を構える長勝寺が有名ですが、赤門の先、ひとつ隣の裏通りの奥には津軽曹洞宗を統括する格式の寺院が境内を構えているのです。長勝寺は津軽初代為信から連なる累代の菩提寺ですが、その隣に位置する宗徳寺は為信の父 武田守信の菩提寺となっています(実父ではないという説もある)。父子、その子孫が並び立つ構図・・・非常にエモいですね2025.9.21津軽八十八霊場五十三番札所:耕春山 宗徳寺黒門の右手前にある赤門をくぐると、禅林街随一の大伽藍 藤先寺が寺門を開き、奥には大きな本堂が悠々と座していました。月峰院のある曲がり角を奥へ奥へと進むと、今回紹介する宗徳寺の山門が見えてきます。長勝寺のものより小ぶりではありますが、造りや色合いは甲乙つけ難いほどに素晴らしいんです。時を経て少し落ち着いた色合いになった外観がたまりません山門をくぐると右手には、おそらく鎮守のものかと思われる社が置かれています。禅林街の多くの寺院は鎮守として稲荷社を置いている所が多いみたいです。祭神はおそらく荼枳尼天かと思われますが、ここはどうでしょう。おっ、ありましたね。津軽三十三観音の写し霊場の石碑です。ここは三十二番札所に対応するみたいですね。街なかの寺院にしては境内に緑が多く、不思議と気持ちが落ち着きます。木々を掻き分けて射す木漏れ陽の先に、立派な本堂が置かれていました。ご由緒です。耕春山 宗徳寺曹洞宗 圓通山禅林寺末寺(もとは金沢龍光山宗徳寺末寺)開山:明室禅哲和尚本尊:釈迦三尊 宗徳寺は、もと長福山 耕春院といい、禅林三十三ヵ寺の中では、格式の高い寺だった。耕春院は、金沢にあった前田家の菩提寺である宗徳寺の末寺で、為信が実父 武田紀伊守守信のために、天正年間(1573~1591年)堀越に創建したとされている。 武田守信の兄は大浦城主だった大浦為則。当時、武田守信は堀越城主として兄為則の津軽進出に備えていたが、そのころ大浦氏の勢力はまだ弱く、石川城には南部高信がいて強大な支配力を誇っていた。しかし、南部では同族同士のケンカ「九戸の乱」を起こし、石川の高信は大浦氏にも出陣を頼んだ。大浦為則は、万が一を考えて自分の代わりに弟の武田守信を出陣させたところ、守信は永禄10年(1567年)南部桜庭の合戦で武運つたなく戦死した。守信の実子 為信はその後、伯父 為則の養子に迎えられて大浦城主を継いだ。やがて為信は津軽を統一したが、この間、亡き父の霊を弔うため堀越に耕春院を、また、母の菩提所として大光寺に貞昌寺を建立している。為信は耕春院を建てる際、越後から明室禅哲和尚を招いて開山とした。 為信の二男 惣五郎が死亡した時、三男の信枚(津軽二代藩主)が、その供養のため耕春院へ寺領100石を与えた。また、近くにあった曹洞宗の寺を耕春院の門下にした。慶長年間(1596~1615年)に、いまの弘前市西茂森に移した際、耕春院を主座として、常源寺・藤先寺・安盛寺・盛雲院・正伝寺などの末寺をその両側に並べた。 耕春院は、為信の実父の菩提所だけに格式が高く、一般の檀家がない。わずか140を数える檀家は、津軽家とつながりのある重臣や家老級の家ばかりだ。このため、廃藩と同時に寺領が廃止されて非常に困った。さらに明治9年(1876年)、火事で全焼。この時の火事は境内の墓所に立てていた火のついたロウソクを、カラスがくわえて本堂の屋根に、とまったのが原因とされている。庫裏だけは本町にあった当時の豪商金木屋が建ててくれたが、廃寺同様になってしまった。 しかし、三十二世の棟方唯一住職が寺の再建に立ち上がり、自らたくはつをして、明治44年から大正2年までかかって本堂・位牌堂・山門・鐘楼を建立した。そして、棟方住職の代の大正元年に、これも廃藩で廃寺同様に追い込まれていた金沢の宗徳寺を耕春院に合併させ、耕春山 宗徳寺と改称した。 棟方住職の高弟である黒滝精一現住職が、 このあとを継いで現在に至っている。 高山市の素玄寺、柏崎の香積寺、津市の四天王寺、弘前市の長勝寺ほか12寺が末寺。つがるのお寺さん 上巻 32.33ページ より引用津軽初代為信の父 武田守信の菩提寺で、長福山 耕春院という山寺号を名乗っていました。明治初年、様々な政策が発布され、世の中の構造が大きく変わって行くときに、あやうく廃寺という危機に陥りますが、時の住職 棟方唯一氏によって伽藍が整えられます。その時、かつての本寺で廃寺状態であった金沢の龍光山 宗徳寺を合併し、寺号をそのまま受け継ぎ、代わりに自身の寺号を山号にして、今に至ります。御堂の随所には、鶴や亀など目出度い図像が彫り込まれています。懸魚の所にも優雅に空を舞う鶴が!そして向拝部分でふと上を見てみると、見事な龍が描かれていました。おそらく火災予防の意味があるのではないでしょうか。堂内須弥壇も相当に豪華です。左右に龍が舞い、下は極楽の花々で飾られておりました。本尊の釈迦三尊も、御簾で顔が隠され雅な感がありますね。斜めから。宗徳寺の本寺である金沢宗徳寺は前田家の菩提寺だったようです。前田家の出で有名な前田利家は奥州仕置の際に津軽為信を”表裏の仁(裏表のある人物)”と称しており、あまり良く思っていなかったようです。そんな為信の父親の菩提寺に、自身の菩提寺が吸合されているとなると、いったいどんな気持ちなんでしょうかね。不思議な縁もあったもんです。宗徳寺は金沢宗徳寺の寺格を受け継ぎ、今では県内外に多数の末寺を持つに至っています。御詠歌ゆめさめて のちのそいじとおもうなよ よひからまもる じひのたまくら本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十四番札所:金龍山 盛雲院 乳井氏所縁の禅寺、盛雲院
2026年05月13日
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津軽一円の真言宗寺院をまわる津軽弘法大師霊場と謂えども、今回紹介するような寺院はなかなか稀です。何と弘前の街のど真ん中、飲み屋街の一画にビルとビルに挟まれる形で御堂が建っています。ここだけ時間が止まっているかの様な不思議な感覚を味わえますが、本尊や由緒も面白くまわり甲斐のある寺院でした。2025.9.21津軽弘法大師霊場二番札所:北門山 大王寺一見すると民家のような感じも有りますが、幟や大師像などもあり、しっかり寺院です。御堂の両側には鎮守の社が建っています。大きい方は祭神不明ですが、こちらの小さい方は確か稲荷社だったと思います。それではご由緒です。北門山 大王寺真言宗醍醐派開山・開基:正躬和尚本尊:不動明王 大王寺は真言宗醍醐派に属し、真言密教、山嶽仏教の教儀をもとに、岩木山赤倉山に入峰し修験道の行に励み、精進することから始まる。 いにしえの言によれば、本尊ならびに同寺の系列は不明確ではあるが、北郡のとある修験道の清流をくみ、また本尊も鯵ケ沢の海中よりいでし不動明王とされている。 昭和16年(1941年)、現在地に真言宗醍醐派教会として高倉布教所を開教。26年、前醍醐寺座主 岡田戒玉大僧正の特別の計らいで、故醍醐山伝法学院長・服部如実大僧正の命名により、北門山 大王寺の寺号を拝項した。 また、28年3月には宗祖 弘法大師廻国の修行像を建立。38年、開山基正躬和尚の死去により、二代目正隆住職に任命される。 最近では、59年5月に宗祖 弘法大師生誕1,150年記念事業で、弘法大師像を造立し、津軽弘法大師霊場第二番札所としても信仰を深めている。津軽弘法大師霊場 / 札所紹介 / 北門山 大王寺 より引用最初は赤倉山修験の霊場だったんでしょうか。赤倉山は岩木山の峰の内、巌鬼山の別称で、近代に新宗教として隆盛を迎えました。現在は霊場の多くは御堂を封鎖しており、寂れた感が否めません。ですが今でも津軽のあちらこちらに赤倉山霊場の流れを汲む寺院や神社が残っており、その影響力の強さを物語っています。本尊の由緒も面白いですね。海中より仏像を賜るという由緒を持つ寺院は多く、最古の例ですと有名な浅草寺が挙げられます。当然ですが、こうした由緒は沿岸地域の寺院に多いです。堂内です。須弥壇には不動明王をはじめ、降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王尊が祀られています。近くで見てみましょう。像は割と新しいですね。海中出現仏ではなさそうです。本尊は不動明王ですが、御朱印には五大力尊と力強く刻まれているため、札所本尊は五大明王だと言えそうです。何気に須弥壇左手にはオシラ様も置かれていますね。斜めから。修験道の流れを汲む寺院でしたね。規模はそこまで大きくは有りませんが、街中にひっそりと面白い由緒を持つ寺院があるかと思うと、まわるのも楽しみになるのではないでしょうか。御詠歌論よりも 尋ね来てみよ津軽路に 大師のおわす 大王の寺ろんよりも たずねきてみよつがるじに だいしのおわす だいおうのてら誓願の かえすがえすもたのもしや 北門あけて 参る諸人せいがんの かえすがえすもたのもしや ほくもんあけて まいるもろびと本尊:不動明王 अचलनाथ以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・三番札所:弘前高野山 法光院 津軽弘前の高野山
2026年05月12日
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日ノ本における曹洞宗の始まりの地は、言わずと知れた北陸は越前の永平寺です。様々な権力はびこる中央から逃れ、山深い地に禅の聖地を開いたのです。心の平穏・純粋な修行の地としては適していましたが、権力から遠ざかるという事は教線の拡大に於いてはマイナスに働いてしまいます。そのような立地の永平寺に対して、曹洞宗の教線拡大に尽力していたのは、今回紹介する總持寺です。永平寺に並び立つ禅の根本道場として、知らぬ者はいません。2026.1.11諸嶽山 總持寺大都会横浜、曲がりくねった細道や、途切れることなく人々が行き交う路地など、津軽衆にとっては目が回りそうなほど忙しい街です。辺りを見渡せばどこもかしこもビルやマンション。そこら中から人々の息遣いが感じられます。そんな大都会の一画に、曹洞禅の根本道場が境内を構えていました。参道の起点に建てられているのが三松関という門です。こちらは總持寺の総門にあたり、この禅刹に参らんとするものは、先ずこの門を通ることになります。↓に公式サイトの説明も載せておりますので、そちらの方もご覧ください。三松関 總持寺の総門。 門前に立って、まず目に飛び込んでくるのが「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた扁額(へんがく)です。總持寺中興(ちゅうこう)の祖といわれる石川素童(そどう)禅師(1841~1924年)が揮毫(きごう)されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しています。 この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門(こうらいもん)の様式で建てられています。 総門には、棟つづきの右奥に「新到安下所(しんとうあんげしょ)」があります。仏の道を志す修行僧が、最初にワラジを脱ぎ、宿泊する建物で、細い縦看板がかけられています。 また、総門の左側には、築地塀(ついじべい)を背にして「延命地蔵尊」が祀られています。このお地蔵さんは、悲恋の物語を秘めているとの伝承があり、能登の祖院では「三味線地蔵」と呼ばれています。曹洞宗大本山 總持寺 / 境内マップ / 三松関 より引用門を抜けると山門までズァーッと木々が生えています。参道沿いの並木が強い日差しを遮ってくれるので、とても涼やかな落ち着いた気持ちで参拝出来ます。道の先には巨大な山門。このレベルの山門は上方にしか無いと思っていましたが、東国にもこの規模の山門があるんですねッ!最高です。首が痛くなるまで見上げていました。山門の中には当然仁王像。ただし迫力は段違いです。阿形!吽形!かなり筋骨隆々ですね!力強いまずは境内の案内図を見ておきましょう。かなり広いですよね。駐車場に車を停めてちょっと落ち着いたら、先ずは鎮守の社を目指してみましょう。境内南側の丘の上に鎮座していますよ。鎮守社に向かうまでの道すがら、名前からしてかつての塔頭らしき御堂を発見しました。扁額には梅壽庵とあります。うーむ、塔頭かどうかは不明なんですが、本尊は地蔵菩薩とのこと。実質の地蔵堂でしょうか。梅壽庵の左側に石段が伸びており、ここから鎮守の社まで向かえます。石段を登り切ってまず目に入るのが、この超巨大な鐘楼でしょうか。写真では分かりずらいですが、実際に見てみると、その大きさに驚いてしまうと思います。鐘楼堂の右手には稲荷社。もしかすると荼枳尼天を祀っている可能性もありそうです。再び鐘楼堂。斜めから見てもいい感じ!初めて見る造りです。鎮守の社に到着です。これは三寶殿と呼ばれており、三宝荒神を祀る社です。曹洞宗というと荼枳尼天を鎮守としている寺院が多いかと思うんですが、ここでは三宝荒神が鎮守神となっているのです。参拝時も社の中では盛んに祈祷が行われていました。忿怒の形相をした多面多臂の外観でありながら、日本発祥の神格という・・・。三宝殿から眺める山門。奥には三松閣という大堂があり、研修やイベント会場として使用されているようです。・・・伽藍がデカすぎますね。そして聖観音も参拝者を見守っていました。境内は門によって幾つかのエリアに分けられているんですが、一番手前にはかつて勅使を迎えたであろう門が置かれています。門の手前には三名の僧侶の銅像がありますね。左が總持寺中興開山の瑩山紹瑾禅師、右側が二名が弟子の峨山韶碩・明峯素哲両禅師となります。これは師から弟子へと、連綿と法灯が受け継がれてきたことを示しているんだとか。曹洞宗の歴史も相当の長きに渡ります。では勅使門に向かいましょう。・・・というか正式には向唐門という門なんだとか。あまりに立派すぎて勘違いしてしまいましたよ。近くで見てみましょう。鎌倉の建長寺や円覚寺の唐門と比較すると、装飾こそ質素ですが、禅宗特有のいぶし銀な風情はかなり感じられます。他の多くの寺院と同じく、現在ここをくぐって参拝することは出来ません。そんで順路的に次に目にするのがこの香積台でしょう。ここは実質の寺務所であり、御朱印やお守り・グッツなども購入できます。堂内には、これまたドデカい大黒天が祀られています。仏殿とかではないんですが、こちらも本当に美しい堂宇でした。特に屋根の傾斜がなんとも言えません。色合いも落ち着いていて良いですね香積台の脇の金鶏門をくぐると、七堂伽藍が並び立つ根幹エリアへと進むことができます。根幹エリアはこんな感じの渡り廊下で区切られており、この廊下を使ってそれぞれの御堂へと向かうことができます。とは言え観光で来ている身では通ることは出来ませんがね。専ら法要などで来た方たちが使います。この様に伽藍が通路で繋がっているのは、もう1つの大本山 永平寺と共通しています。境内というよりは、半ば公園の様な、非常に広大な庭園が広がっています。奥の方に幾つか御堂が見えますね、進んでみましょう。境内右手の御堂です。紫雲臺という御堂で、堂内に入ることは出来ませんが、余りにもどっしりとした感があります。他の寺院の本堂並みの大伽藍です。紫雲臺に見とれていると、振り向いてビックリ、白く巨大な御堂が座していたのです。公式サイトで何度も見た御堂がそこにはあったのです。・・・あったのです!正面から見てみて更にビックリ。何よりも相当に巨大です。近場だと東京の増上寺、それと比較しても更にこちらの方が大きいでしょうね。手前に並ぶ人の列が見えるでしょうか。あんなに小さいんですよ?御堂がどれだけ大きいか分るでしょうか・・・!最初こちらが本堂だと思っていたんですが、どうやら違うみたいです。こちらは太祖堂といって、總持寺中興開山の太祖常済大師(瑩山紹瑾禅師)はじめ道元禅師・孤雲懐奘・峨山韶碩など諸禅僧を祀る御堂なのです。向唐門からまっすぐに伸びる参道の先に有るのが仏殿であり、そちらが本堂だと思われます。御由緒です(公式サイトのもので、少々物語性が強めです)。諸嶽山 總持寺曹洞宗大本山開山:行基菩薩禅刹として中興開山:太祖常済大師(瑩山紹瑾禅師)本尊(仏殿):釈迦三尊本尊(太祖堂):瑩山紹瑾禅師・道元禅師・孤雲懐奘・峨山韶碩など大本山總持寺の開創 總持寺の正式名は、「諸嶽山總持寺」といいます。その開創は、700年余もの昔にさかのぼります。 日本海にマサカリのように突き出た能登半島の一角、櫛比庄(現在の石川県輪島市)に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、ある夜に見た夢の物語から、總持寺のあゆみが始まります。 元亨元年(1321年)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と告げて、姿を消されたというのです。 不思議な事に、その5日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺室中(方丈の間)でいつも通り、坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。 諸嶽観音堂は、真言律宗の教院であり、瑩山禅師はかねてから禅院にしたいと念じていました。夢のお告げで、瑩山禅師は入山しようと観音堂の門前に進みます。すると門前に亭があり、禅師はそこの鐃鉢を打ち鳴らして、2つの屋根の楼門を仰ぎみます。山門の楼上には、「大般若経六百巻」が備えられ、手前には放光菩薩が安置されていました。すると、たくさんの僧侶たちと、律師自らが出迎え、歓迎しております。禅師は前に進み、この楼門をくぐります。おもわず、「總持の一門、八字に打開す(門を八の字のように打開する)」と唱えたのです。諸堂を巡り、その壮観さに驚きました。 このようにして瑩山禅師は、定賢権律師の入山の要請を快く受けいれて、諸嶽観音堂に入院します。 前述の『縁起』本文中に「入寺の後、30日を経てまた夢をみる云々」とあり、禅師の入寺は、元亨元年5月15日(夏安居)結制の日であったことが知られます。 禅師と律師は、ともに夢告が符合することに感応道交して、律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。 寺号を仏法(真言)が満ち満ち保たれている総府として、「總持寺」と改名し山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」と決定しました。 翌元亨2年(1322年)、瑩山禅師59歳の時、後醍醐天皇は、臨済僧、孤峰覚明和尚を使者として、10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答が深く帝の叡情にかなったので、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて、その住持は紫衣の法服着用を公に認められました。更に、この年、9月14日、藤原行房卿に命じられて「總持寺」の三字の書額を揮毫させ、これを賜りました。ここで、總持寺は官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。鶴見ヶ丘への御移転 瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。 しかし、明治31年(1898年)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。 明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、明治44年(1911)に寺基を現在の地に移されたのであります。 ・・・。曹洞宗大本山 總持寺 / はじめての方へ より引用開山自体は行基菩薩だと伝わっていますが、その後観音の導きによりて禅宗の寺院となったのが14世紀で、そこから明治44年(1911年)の移転までの間、数百年も曹洞宗の布教に准じてきたのです。後醍醐天皇認定の大本山の位も、こうした布教活動あってのことだと思われます。下から眺めてみても、その迫力に圧倒されてしまいますよね。高さも横幅もかなりのものです。扁額です。太祖堂の裏手には、塀に囲われたエリアが有り、中には後醍醐天皇はじめ数代の尊儀を祀る御霊殿が置かれています。拝殿と本殿から成る神社の様な建物でした。当たり前ですが拝観や入堂は出来ません。↓に説明書きを載せます。御霊殿 昭和12年(1937年)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。 後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322年)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。 御霊殿には、後醍醐天皇の尊像・尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後桃園天皇、後陽成天皇、後光明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されています。曹洞宗大本山 總持寺 / 御霊殿 より引用太祖堂から左手に進むと、なんとも風雅な仏殿があるではないでしょうか正面から見た時のこの大陸感・・・。素晴らしいですね!日本の御堂というよりも中国や韓国など大陸の仏閣の様に見えます。これが唐様というやつなんでしょうか、難しいことは分かりませんが、とにかく素晴らしい仏堂です本尊は釈迦三尊で、こちらから像容をご覧になれます。仏殿を後にして、案内マップを見ていると、なにやら有名人の墓地が幾つも有るみたいです。横浜を代表するような大寺院なら当然でしょうか。中でも気になったのが石原裕次郎氏の墓です。僕以外にも沢山の人が、花や線香を揚げに来ていました。昭和の大スターここにあり、といった感じです。墓には詩が添えてありました。何と奥さんのまき子さんの筆になります。美しきものにほほえみを 淋しきものに優しさを たくましきものにさらに力を すべての友に思い出を 愛するものに永遠を 心の夢醒めることなく石原まき子ぼちぼち境内の御堂もまわりましたね。そろそろ終わりです。境内の左手には放光堂。放光堂 明治44年(1911年)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物です。 この堂宇は安政年間(1855~1860年)に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されましたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしました。 現在は全国檀信徒の永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しています。曹洞宗大本山 總持寺 / 放光堂 より引用ふむ、現在は位牌堂として使われているみたいですね。ここまでの規模の位牌堂は初めてですが・・・。いったいどれだけの檀家がいるんでしょうか。最後に宝物館です。時間の都合で入りませんでしたが、おそらくセットで拝観すると、より總持寺について理解を深められるんじゃないでしょうか。斜めから。伽藍の巨大さにばかり気を取られて、殆どそれ以外の記憶が有りません。きっと所有する文書や仏像も面白いものばかりだったんじゃないでしょうか。とは言え、やはり一宗派の大本山ともなれば、参拝出来た時の喜びはかなりのものですね!しかも推しの曹洞宗の大本山で、今回参拝出来て本当に良かったですよこの後平間寺に向かったんですが、余りの混雑ぶりに早々に参拝を断念。次の目的地の星谷寺まで向かおうと踵を返すと、数時間の渋滞に巻き込まれてしまい、連休中の関東都市圏の恐ろしさを思い知りました。進むも戻るも出来ない、あんな虚無感は二度と味わいたくない所・・・。今回貰った御朱印です。本山開山:太祖常済大師※仏殿の御朱印は無いようです。本山鎮守:三宝荒神公式サイトへのリンクです。・曹洞宗大本山 總持寺以上です。
2026年05月12日
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今回紹介する佐麻久嶺神社は、個人的には七社の中で最も参詣の難しい神社でした。というのもナビ通りに進むと裏参道の方に案内されてしまい、入り口が極狭の駐車場に駐車する羽目になってしまったからです。表参道の方にも駐車スペースらしきものはありましたので、先ずはそちらを目指してみてはいかがでしょう。こっちには社務所もあり、参詣前に御朱印帳を預けることも出来そうです。2024.10.6佐麻久嶺神社という事で表参道から参詣します。鳥居は両部式。石段を上る時にふと足下を見てみると、なんと猫?の足跡が!石段の工事中に踏んでしまったんでしょうね階段を上り切ると早速社殿が見えてきました。角度的に撮影難易度はかなり高いです。ご由緒です。佐麻久嶺神社祭神:五十猛命(大屋毘古命) 由緒記によると、紀伊国名草郡日前国懸大神(きいのくになぐさぐんひのくまくにかかすのおおかみ)の分身で、佐「伊佐於志」の上下を略した功の意、「麻久」は蒔で嶺は「美称」である。 五十猛命が紀州に天降り、多くの木種を将(もち)い、大八洲国の内、田畠、山丘に蒔き施し造化を扶助して天下に大功をたてたので、その功を褒め称えた神である。従って山神、農神そして種子を蒔いたことから、「事始めの神」とされている。 昔、桓武天皇の延暦年(782~806年)中、坂上田村麻呂が東征の際、武運長久を祈って薄磯の海浜において潮垢離(しおごり)の神事が行われ、そののち源義朝、足利尊氏、徳川家康等が祭使を派遣して神事を執行された。 応仁の乱(1467年)の頃、神官 中山彦次郎(小野氏の祖で一時は中山領主)は、戦争にまきこまれ祭事を廃し、旧記や神領等悉(ことごと)く失ったので、その娘が一時、矢田村へ家を移し、神を勧請して、茲(ここ)に郷民が社を建てた。 ところが、神霊は旧社を慕って毎夜中山の嶺に光を放つので、時の村主植田平六はこの噂をいやがり、社をとりこわしてしまった。彼の子孫は神の怒りにふれて滅亡したと云う。その後、旧知に社を遷したが、天和2年(1682)3月、雷火にあって焼失したので平城主 内藤義泰は翌年8月に再建し、山林一町歩を寄進して祭祀に供し、今日に至る。 伝えられるところ、境内南下に神宮寺跡と称する畑がある。 元来、旧4月7日に祭典が行われたが、昭和34年より新暦5月5日に変更された。事始めの神様「佐麻久嶺(さまくみね)神社」 / 佐麻久嶺神社 由緒 より引用8世紀創建の神社と言うことで、かなりの歴史がありそうです。しかし由緒は不明な点が多くあります。紀伊国名草郡日前国懸大神とは紀伊国一之宮 日前神宮・国懸神宮のことで、祭神は日前大神・国懸大神です。これらの神格は天照皇大神と同一視されており、五十猛命と同一だという記述は見られません。摂社とか相殿とかにも祀られているわけではなく、どこから五十猛命の信仰が持ち込まれたのか不思議です。後に坂上田村麿や源義朝、足利尊氏、徳川家康などの庇護も受け、今日まで歩んできました。かつては神宮寺も置かれていた様ですが、今では跡地を称する土地が残っているばかりです。扁額です。本殿は小さいながらも朱塗りです。格式は高そうですね。拝殿左手には摂社の八坂神社が鎮座しています。五十猛命は素戔嗚神の御子神とされており、八坂神社ではその素戔嗚神を祀ります。拝殿右手には他にも境内社やらが広がっています。これは神楽殿です。神楽殿の向い辺りに末社。内部には稲荷社と・・・何でしょうね?奥には子安神社講中の木札も収められています。こっちの覆堂がある末社は祭神不明です。更にその隣には古峯神社。祭神は日本武尊でしょうか。以前何かの記事でも書きましたが、古峯神社の総本社が鎮座する栃木県を中心に、周辺地域には境内末社や石柱として古峯神社の信仰が見られます。福島県も例外ではなく、南に行くほどにその密度は高まってくるのです。古峯神社では神使が天狗ということもあり、境内の至る所に天狗面や石像が置かれています。それに倣ってか、この末社にも天狗面が懸けられていました。デザインの異なるものも!後は出羽三山の内 湯殿山。隣は大黒天ですね。境内最奥には諏訪神社が鎮座しています。この諏訪神社はもともと中山諏訪下地区に鎮座していたものだそうですが、様々な事情があって境内末社として存続することに。斜めから。全国的に見ても五十猛命を単体で祀っている神社は稀ではないでしょうか。開創譚からして謎が多く、いつごろ五十猛命を祀る様になったのか非常に気になります。延喜式内磐城七社の中でも特に個性的な神社でした今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・事始めの神様「佐麻久嶺(さまくみね)神社」以上です。
2026年05月11日
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福島県の海の玄関口いわき市。ここには7つの延喜式内社が鎮座しており、街の方でも延喜式内磐城七社として観光の目玉としています。延喜式成立当時は小社であった七社は、何れも今では立派な社殿を構えるまでに発展しており、長らく地域の信仰を形作ってきたものと思われます。今回はその七社の内、住吉神社を見ていきたいと思います。県道66号のすぐ脇から参道は始まります。起点にはこの様に社号標あり。この社号標から奥の林まで長い参道が伸びているんですね。参道の丁度中ほどには立派な石の神明鳥居が建っています。一応高さ制限がありますので、車高3.2m以上の車で参拝される方は迂回しましょう。2024.10.6住吉神社二之鳥居は赤い両部鳥居です。その奥に石橋・随神門と続き、その更に奥が根幹エリアです。いつ頃のものかは分かりませんが、この石橋もかなり古そうです。かつてはここで下馬して神前に進んだことでしょう。石橋の脇には手水舎。水盤に注がれる清水もかなり透き通っていますね!手水舎の後ろにはひっそりと菅原神社が鎮座しています。祭神:菅原道真公。再び参道に戻りまして、狛犬です。古めかしさはそうなんですが、何となく朗らかな表情をしています。何年ものなんでしょうかね。狛犬:阿形!狛犬:吽形!長い牙が特徴か。随神門をくぐりますと、所々に金装飾が施された豪勢な社殿が見えてきます。左右の燈籠も豪華で、垂れ幕も白く美しい。全体的に都の雅が感じられる、そんな社殿です。因みに境内社殿の配置などは公式サイトよりご確認ください。ご由緒です。住吉神社祭神:住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命) 福島県いわき市小名浜は先史時代には海湾でした。その湾内にあった小さな岩山が海食の跡を残して現在も存在しています。古代において遠方への旅は船によることが多く、この岩山は当時船を出していた人々にとって灯台と同じような役割を果たし、帰るべきところの目印、生活を守る大切な存在でした。やがて岩山は神格化され、その麓にお社(やしろ)が祀られるようになったと言われています。 第十二代景行天皇の御代に、時の大臣 建内宿禰が勅命を奉じて東北地方を巡視したことがありました。その時、この住吉が陸と海との要害の地であり、東北の関門にもあたるので、武内宿弥により当社は航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られました。 第七十代後冷泉天皇の康平7年(1064年)には、朝廷が勅使をお遣わしになって、東国の賊徒の平定を御祈願になりました。また、源頼義は源家の宝刀 鵜の丸の剣(うのまるのつるぎ)を献じて武運を祈念されたと言われています。 当社は朝野の崇敬厚く、鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進しています。また、豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、徳川時代は20石の朱印地を所有していました。 江戸中期には平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きが変えられました。その時に内藤家より幅5間長さ200間の参道が寄進されました。現在も道路として残る参道は馬場とも呼ばれ、馬の訓練に使用できる真っ直ぐなものです。この道路に沿う町を新町と言い、従来の北側の参道沿いを大町と言います。北側の参道は狭く、また少し曲がっており、成立した歴史的経緯を十分に理解できます。 明治時代になると国家神道の隆盛に伴って当社も発展しました。しかし、住吉の地は藤原川と矢田川に囲まれたところにあり、それらの川の度重なる氾濫により経済的には恵まれませんでした。そのような状況から、明治・大正時代の当社の神職に常駐する専任者はおらず、近隣の湯本に鎮座する温泉神社の神職が兼務し、昭和の初期に至りました。その後、社掌として渡邊繁が着任して戦後宮司となり、昭和32年(1957年)本殿が大改修され翌年には県重要文化財に指定されるなど、現在に至る発展の基礎が確立されました。 当社は延喜式内社であり、平安時代には既に現在の場所に社殿を有し、それから移転することなく今日まで至った神社です。全国に住吉神社は多くありますが、当社は全国住吉七社の一社に数えられています。また、御祭神は同じですが、大阪の住吉神社から後世分社したというものではなく、独立した神社です。福島県いわき市小名浜鎮座 延喜式内 東北一社 住吉神社 / 由緒 より引用もとは山岳信仰としてあり、それが後に社を伴う神道に推移していったようです。山岳と言っても神体山である磯山は境内端の標高いくばくかの岩山です。それを考えると磐座信仰と言えなくもないような気がします。何れにせよ、港の入口にある島や岩は神格化されやすい傾向にあると思います。例を挙げると青森県八戸市の川口神社・蕪嶋神社・嶋大明神社、青森県深浦町の弁天島弁天社・オカモイ様などでしょうか。当然どれも水にまつわる神格です。神社の創建は伝説の朝臣 武内宿禰によるものとされています。武内宿禰の東国巡視自体怪しげな感じですが、住吉神社のみならず東北に於いてもこの巡視を開創に挙げる神社は見られます。近いところですと八戸市の御前神社などです。以来源頼義・豊臣秀吉・徳川家康などビッグネームからの刀剣奉納・土地寄進があったようです。そして面白そうなのが神事で、「住吉神社の流鏑馬並びに勅使参向式」と呼ばれています。境内摂社の八幡宮所縁の流鏑馬と、住吉神社に赴く勅使歓待式とが合わさったものみたいです。↓に境内の説明書きを載せます。住吉神社の勅使参向式並びに摂社八幡神社の流鏑馬 住吉神社の例大祭は現在、10月13日に近い日曜日を中心に行われ、勅使参向式は本祭の日に、流鏑馬神事は宵宮と本祭の両日に行われる。 勅使参向式は、謡「高砂」(待謡)により勅使一行を迎え、拝殿に昇殿する。勅使祭詞奏上、宮司返し祝詞奏上の後、謡「高砂」(所は高砂・四海波・納め)の奉納を行う。 宵宮には、小名浜港にさがり勅使安着式が行われ、帰着後に流鏑馬神事が行われる。 流鏑馬神事は、初回は扇子を持ち手放しで走る。二回目には、その扇子を撤く。次に三度弓を射て走る。最後に扇子を撒くカラ走りをする。 勅使参向式並びに流鏑馬などの神事は、社会変遷により、その一部に変容を余儀なくされた面はあるものの、概ね古来の姿を残してあり、いわき市内はもとより、福島県内においても数少ない貴重な神事である。市指定無形民俗文化財 住吉神社の流鏑馬並びに勅使参向式指定:平成16年4月28日いわき市教育委員会流鏑馬神事を行う神社は少なくありませんが、ここの流鏑馬はカラ走りなど独自の作法が残っている点が珍しいのではないでしょうか。社殿の装飾には菊の紋、格式の高さが表れています。扁額です。ここからは境内の末社などを見ていきましょう。社殿左手に鎮座しているのは別雷神社。祭神は別雷神でしょう。この雷神社の脇には巌がゴロゴロと転がっています。この奥が神体山の磯山でしょうか。神社創建の源である自然崇拝の痕跡です。そんで本殿脇辺りには諏訪神社。祭神は武御名方神でしょうか。住吉神社本殿です。本殿には四面に優雅な彫刻が施されています。泉城主一族の内藤氏によって寛永18年(1641年)に再建されたもので、貞享元年(1684年)に東向きに建替えられました。現在は市指定重要文化財に登録されています。側面には四天王、後ろには仙人?が刻まれています。神社でありながらも四天王、という事はここも元は神仏混淆の霊場であった可能性があります。社殿を一回りして、別雷神社の方に戻って来ました。この道路側のエリアにも末社あり。右は正月様こと大年神社(祭神:大物主神)、左は久須志神社(祭神:少彦名神)です。こんなものも。八坂神社、祭神は素戔嗚神です。それでは磯山を挟んで南側にある摂社の八幡宮に行ってみましょう。八幡宮まで伸びる細路地の側には湯殿山・鬼子母神・古峯神社の石碑。道沿いの大磐座にも足尾神社という石碑が置かれています。茨城県に鎮座する足腰の神格です。鳥居前に到着です。扁額には”摂社 住吉八幡神社”とあります。社殿はシンプルです。入母屋の瓦屋根で、割と新しめの社殿ですね。祭神は十五代応神天皇、十四代神功皇后、比咩神でしょう。十四代神功皇后(息長帯姫命)は三韓征伐の折、住吉大社に道中祈願をしており、その縁で摂社となっているみたいです。拝殿に比べて本殿は古めかしい趣があります。何よりも面白いのが本殿裏手の岩山。これがおそらく磯山でしょうね。磯山の頂には瑞垣が張られておりました。まるで神聖な場所を守るかの如く。瑞垣内です。おそらくここが住吉神社の根幹部かも知れません。斜めから。東北には住吉神社が少なく、且つ式内社ともなるとこのいわき市の住吉神社以外には存在しません。延喜式に載る住吉神社という事もあり、早くから朝廷の勢力が流入していた事がうかがえます。港町はやはり外の信仰が持ち込まれやすく、変わり種の神社も少なくありません。当初は港の大岩を祀る信仰で、それに住吉大神が比定され、現在に続く住吉神社となります。1,000年以上の歴史を有する住吉神社は、東北総鎮守の社として崇敬を集め続けています。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・福島県いわき市小名浜鎮座 延喜式内 東北一社 住吉神社以上です。
2026年05月09日
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全国に多数の分霊社を持つ稲荷神社ですが、東北地方にも広く分布しております。中には土地の有力者の庇護や、崇敬者からの篤い信仰を受けて発展した規模の大きな稲荷神社もあり、例としては高山稲荷神社(つがる市)・呑香稲荷神社(二戸市)・岡谷稲荷神社(洋野町)・幸稲荷神社(鹿角市)・竹駒神社(岩沼市)・福島稲荷神社(福島市)・蛯沢稲荷神社(南相馬市)などが挙げられるでしょうか。今回紹介する三本木稲荷神社も、南部地域に於いては規模の大きな稲荷社であり、社殿も美しく見ごたえ抜群なんです。創建こそ新しいですが、数百年も鎮座してきたかのような風格も感じられる面白い神社ですよ2024.9.21三本木稲荷神社街なかにこのような巨大鳥居があると、何もしなくても自然と目が行きますよね。以前から気になっていた神社でもありました。鳥居をくぐると直ぐに石碑が2基並んでいます。片方は当地で多い天照皇大神・八幡大神・春日大神を祀るもの。もう片方は二十三夜のものです。前者は大戦期に盛んに祀られた構成らしく、それと関連が有るのかも知れません。参道脇には元の手水舎か、自然岩がボンッと置いてあります。雨水などを利用したものでしょうね。さすがに今では使えないでしょう。狛狐も凛々し気な表情です。コチラもシュッとしてかっこいいですね。社殿を見る前に、境内の末社を見てみましょう。現在境内には3社の末社が鎮座しており、2社は境内左手、1社は境内右奥にありますよ。手前の2社の内、こちらは駒形神社。通常通りであれば駒形大神が祭神でしょうか。社はこんな感じです。その隣には大池神社。市内に同名の神社がありますが、そことなにか関連が有るんでしょうか。もとは弁財天を祀っていたという事から、祭神は市杵島姫神かも知れません。大池神社の祭神は水波能売神・倉稲魂神ですが・・・どうなんでしょう。祠は小さいながらも、沢山の鈴が提げてあり、崇敬は篤そうです。写真では分かりにくいですが、社の周りは掘り下げてあり、もとは池だったと思われます。こうした小島に水神が祀られる例はかなりありますよね。そして右奥の1社です。社はこんな感じです。当社と同じ神社ということで、元は周辺に鎮座していた小祠だった可能性もありそうです。では拝殿です。全体的に朱塗りになっており、所々に入る白色とのコントラストが素晴らしい両側に提灯も提げてあり面白いですね。ご由緒です。三本木稲荷神社主祭神:倉稲魂神配祀神:保食神由来 安政6年(1859年)新渡戸傳の上水工事が成功するや、それまで蒼前神を祀っていた十一丁目の現在地に、稲荷神社の建立を計画し、社領開発高五石を寄進し、5,000余人に及ぶ人足を動員して、表口四十五間裏行六十間にわたる藪原を切払い、四方に七尺の土手を設け一丈の堀をめぐらし、境内の南方に中島を築いて弁財天勧請の場所とし、更にその門前の深谷地を幅十二間長さ一丁にわたって埋立てるなどの大普請を行ない、翌万延元年(1860年)社人 山田玄馬に申し付けて具体的計画に入らしめた。 慶応元年(1865年)5月、大阪から神輿を迎え、同年7月正一位千歳森稲荷大明神の宣下を受けたが、明治6年(1873年)郷社に列せられ、同12年5月拝殿を新築した。十和田市 「十和田市史 下」 761~763ページ より引用19世紀になってから創建された神社みたいですね。当地にはもともと蒼前神社が有ったみたいですが、境内に駒形神社はあっても蒼前神社はありません。現在は末社としてではなく、配祀(蒼前大神は保食神と同一視されている)という形で祀られているみたいです。そして宣下元の千歳森稲荷神社も十和田市内の古稲荷社で、今でも境内は鬱蒼とした林が広がっております。往時はここに沢山の狐が住んでおり、人を化かすなんて話もあったくらいですから、稲荷信仰が根付く地としては申し分ないんではないでしょうか。さらに十和田市は以前三本木と言われており、近代になって開発されるまでは八甲田山から吹き下ろすヤマセによって荒涼とした農作に適さない土地が広がっていたそうです。そうした現状の打開と、益々の発展とを願い、立派な社殿の三本木稲荷神社は開創されたんではないでしょうか。向拝には鈴に混ざって鰐口が提げてありました。どこから持ち込まれたんでしょうか?元の蒼前神社に懸けてあったとか?不明です。扁額です。本殿も余すことなく朱塗り。豪華な社殿でした!斜めから。街なかに鎮座していることもあってか、十和田市では主要な神社なんではないでしょうか。丁度五所川原で言うところの神明宮的な立ち位置とでも言いましょうか。とにかく鎮守である事は間違いありません。崇敬の篤さを表すのは鈴の数でしょうか、いったい幾つ提げているんでしょう。当然初詣の時には参詣者が列をなして相当な混雑ぶりでしょう。十和田は三本木の稲荷神社は、地域の発展を今日も見守っています。以上です。
2026年05月06日
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五戸の西端にある新山神社から、更に国道454号を西進しますと新郷村に突入。何かと伝説に事欠かない地域ですが、この村には修験所縁の神社が鎮座しているんです。境内は今でも小山の中腹に広がっており、長い歴史を表すかの如く背の高い古木がひしめいていました。2024.7.6三嶽神社(戸来)道路のすぐ脇に一之鳥居が建っています。一応ここ以外にも幾つか参道が有るんですが、やはり最初は表参道から向かいたいと思います。参道両脇には熊笹が生い茂り、何となく山岳霊場の趣が感じられて好みです。二之鳥居をくぐると、随神門の手前が流鏑馬の馬場の如く横長平行に道が伸びています。この道に先ほどの裏参道などが繋がっております。そんで道の脇にはこの様な御神木が生えていました。一体樹齢は何年なんでしょうか。随神門です。脇には手水舎が置かれています。門の奥には更に登り階段があり、その先に社殿が見えていますね。それでは三之鳥居を越えて社殿とご対面です。拝殿です。南部地域を見てみても、ここまで神社らしい拝殿をしているものは少ないのではないでしょうか。昔の造りをそのままに、今でも鎮座しているのです。ご由緒です。三嶽神社(戸来)祭神:倉稲魂命、神直日之命 戸来中里の近くにある。里人は倉稲魂命(宇迦之御魂命ともいう)を祀るという。貞観5年(863年)7月19日開基、社内神111座、宝物は紫宸殿免許の書、御棟札神鏡などで、大祭は新年祭、4月19日、8月19日、11月27日の4回であった。しかし、昔の通りの賑わいはなく、8月19日の例祭だけは今でも賑わっている。 さて、四囲は老杉、欅(けやき)の古木がうっそうとして壮厳さは昔のまま。秋の紅葉は見もの。1,000年といわれる周囲三丈もあろうかと思われるケヤキの神木は、村の天然記念物に指定、保存されている。 新撰陸奥国誌を見ると「祭日は8月30日、参する人は群をなして集まり、駒躍(駒踊のこと)という技を披露する。五戸の稲荷神社祭にも招かれる―略」。 神官は細川重人で、祖先は細川丹治源蔵と称し、相撲の国の人。修験道を志し、大永2年(1522年)3月、洛東山 若王子(現 熊野若王子神社)に参じ、多門坊と号し、同5年(1525年)6月当郡の年中行事職を命ぜられ、当所に住む。代々相襲ぎ、十二代心教坊真連の時、明治の改革があって復飾、本姓を細川と改め民人となった。十三代重人が明治3年(1870年)4月家をつぎ、同5年神官世襲の廃止を受けて百姓となる。そして同6年、五戸の新井田登が兼務する―と書いてある。五戸印刷 「流れる五戸川 上」 242.243ページ より引用引用元の書籍には、別当 多門院、並びに三嶽神社に関連する伝説も記載されていますので、そちらも引用したいと思います。まずは多門院について。多門院 新郷村戸来字金ヶ沢の細川多門家の祖。京都聖護院支配下にあって、盛岡自光坊所属。三戸・五戸・六戸・七戸の山伏修験を支配している。 熊野系修験道の一院で、室町時代足利義晴の大永5年(1525年)6月27日付の書状や戦国時代の文禄3年(1594年)の伏見奉行から五戸多門宛の黒印状、江戸時代の慶長18年(1613年)聖護院を修験道本山法頭と定め、慶安2年(1648年)金欄地結袈裟を着用する免許を聖護院御用跡から多門院の院号でうけている。 この多門院の支配していたのは、三嶽山観音堂(現 三嶽神社)・新山権現堂(倉石新山神社)・白山権現・川台大明神・毘沙門堂の5社で、享保15年(1730年)改修のあと宝歴3年(1753年)には境内にある神木200本のうちから目通り七尺から九尺五寸までの杉7木を願上げしている。 寛政2年(1790年)3月には嫡子 岩見坊に坊跡相続、年中行事も取り行なうよう盛岡の自光坊に願上げし、その8月に許され、権大僧都を免許されているが、この岩見坊であろう。十二代心境坊直蓮の時、明治維新となり、細川民人といい、十三代重人は神官世襲の廃止で帰農した。その子孫が細川五郎元村長である。五戸印刷 「流れる五戸川 上」 91ページ より引用次に三嶽神社に伝わる伝説について。 その昔、高貴な身分のお方が3人の娘と2人の強い武士を従えて戸来の地に落ちのびて来たという。おりしも戸来の西方にある奥に何者とも知れぬ魔物が棲息していて、時おり人里に出て来て農作物を荒したり、また良民どもに害を加えるなどで、村人たちは困却していた。 このことを耳にした武士は、その魔物を征伐して村人に安心してもらおうと、羽井内の大石神で西方にそびえる大嶽の神に祈願をかけ、ひとときも早く魔物の出現を待ちうちに、ある日の夕方、一天にわかに紫色の雲がなまぐさく大風雨となった。「これは異なる臭気」と、あたりを見まわすと、地鳴り振動を起して何物とも知れぬ魔物がキバをかみならしながら出現した。「時こそきたれ」と2人の強武士は魔物を切り伏せ、息絶えたりと見て、まづひと安心と笑顔をかわした刹那に、何としたことか、確かに息絶えたはずの魔物の頭首が、近くの木陰にたたずんでいた3人の娘を、血だらけの大きな口と手でつかまえ逃げ去った。魔物を切り伏せて村人の難を除いたことはまずよかったが、いまは最愛の娘3人をさらわれては何としても悲しみと残念のきわみであった。 そこで落人はその地点の西方高地の上にある大石神の頂上に座禅を組み、十和利山の神に対して、3人の娘の無事帰来を一心に折った。「魔物は追い払ったが、わが愛する3人の娘は国家の柱となり、永く国土を守るように」といった。 従者の柿本斉藤、大畑十郎兵衛勘由は北の平地を永住の地と定め、ひとりは大石神の地続きの平地に住み、 大畑は谷をへだてて北方の平地に居をかまえた。 座禅祈願して3日目に長女は戸来、二女は西越、三女は貝守の地でそれぞれ発見、産土神として村人は祀った。これが即ち3ヵ所同名の三嶽神社由来で、西越の石段境内に建っているのは柿本斉藤と大畑十郎兵衛の武士像モデルが門番になっているとか。別当が書いた幕末の由来記にはこの怪物を大蛇ではないかと表現している。 さて、この神社の祭例は毎年8月16.17日に行なわれ、ミコンや鶏舞、神楽の行列があり、今でも村の鎮守様のお祭りとして続いている。両日は相撲大会か盆踊大会を催し、部落の農休日と定め、部落民のいこいの日となっている。五戸印刷 「流れる五戸川 上」 143.144ページ より引用こうして見てみると、やはり当神社も元は仏閣だったみたいですね。特に三嶽山観音堂と称されていることからも、本尊は何れかの観音菩薩だと思われますが、特定は叶いません。一応最初の由緒の方では、不動明王や神変大菩薩など修験ゆかりの仏像も置かれていたことが分かります。貞観5年(863年)7月19日開基を伝えますが、長い歴史の中には不明な点も多く、分かっていない部分はかなりあります。開創譚に関しては貴種流離譚のようなものが西越三嶽神社・当社両方に伝わっています。ただ部分的には異なっている所もあり、従者の人数や祈りを捧げる山岳がそうです。特に当社においては、連れ去られた娘たちを返して欲しいと祈願する対象が十和利山だけでなく戸来岳(三ッ岳・大駒ヶ岳からなる)にも及んでおり、そうした点からもそれぞれの山岳が、当霊場において神聖視されていた可能性があります。これらの山岳の背後には十和田湖があり、そちらも熊野修験の霊場だと言われています。16世紀頃から当社を本拠としていた多門院も熊野修験であり、何らかのつながりが感じられますね。多門院以前は見滝氏が神官・別当を務めており、代々の修験僧名が新郷村史に記載されています(当記事下部にも記載)。ここに記載されている修験僧は、多門院配下の44院坊には含まれておらず、もしかすると違う宗旨系統の修験だった可能性もあります。別当を務めた修験の家系をまとめてみると、15世紀頃までは見滝家、それ以降明治維新までは細川家、そしてその後は新井田家になっております。当社同様、新山神社も新井田家の管轄になっているため、明治初年頃には多門院は完全に還俗してしまったものと思われます(末代の十三代重人は後に新郷村村長となっている)。拝殿には観音堂時代のものか、三嶽山という山号額が懸かっていました。先ほどの御由緒で、末社が幾つかあるとご紹介しましたが、現在確認できるのは本殿左側の小祠2つと、その隣の少し大きめの祠の計3社です。何れも何神社なのかは不明ですが、由緒中の神社の何れかだとは思われます。本堂です。やはり元観音堂ということで、拝殿と本殿とは連結していません。おそらく神仏分離後の後補だと思われますがどうなんでしょう。斜めから。周辺地域を代表する古社として、今でも新郷村にて異彩を放っておりました。かつては参篭するものもあったのか、今でも拝殿には横長の建物が付随しており、往時の繁栄振りが伺えます。主に南部地方西側に勢力圏を広げていた多門院。当地に於ける熊野修験の元締めとして、数百年に渡り祭祀を努めてきました。還俗したとはいえ、今でもその旧跡は神社として大事に管理されているのです。以上です。資料集コーナー●新郷村 「新郷村史」 新郷村史編纂委員会 編纂3ページ 支付の田中には五戸年行事の修験多門院が在住していた。本山派の修験を統轄し、霞は貞享4年(1687年)の年の『行事職補任状』に「陸奥国南部三戸、六戸、七戸之内六拾七箇村」とあり、宝暦5年(1755年)の『社地堂書上』に「堂社39ヵ所、修験64人、神子6人、霞村153ヵ村」とある。勢力は三閉伊年行事の寿松院に次ぐものとされていた。 直轄支配の堂社は宝暦の頃の御領分社堂には新山権現しかみえないが、宝暦3年(1753年)の自光坊宛の『社木伐出願』に、三嶽山観音堂、新山権現宮、白山権現、川台大明神、毘沙門堂」の5社がみえる。現在後裔の細川氏は金ヶ沢に在住し、多門院文書約1,300点余を所蔵している。その一部が昭和50年2月青森県立図書館から解題書目第五集『多門院文書』として発行されている。273~276ページ一、戸来三嶽神社 三嶽神社は戸来の中心集落金ヶ沢の西南、五戸川左岸の丘陵地に面した所にある。 貞観5年(863年)7月19日第五六代清和天皇の時代の創建となっており、宇迦之御魂命、神直日之命を主たる祭神としている。古色蒼然神威の崇厳を窮める旧い御社で、数々の神話と伝説につつまれた古社の境内には樹齢500年とも800年とも言われている様をはじめ、天狗松・昇龍・降龍などの古木が林立し訪れる人々の目を奪う。社内神111座紫宸殿免許の書・御棟札神鏡などが保存され所蔵物の多いことは県下有数とされている。 文亀2年(1502年)には荒神宮を建立している。永正元年(1504年)には社殿炎上との記録があるが、本殿まで炎上したのか、定かではない。明和2年(1765年)一村大火の際、證據物悉く焼失せりとあり。また、寛政(1789~1801年)及び文政年中(1818~1831年)にも山火事のため延焼せりとある。 約940年前、八幡太郎義家が奥羽征討の時、戦捷を祈願し、白鶏赤鶏の蹴合をさせ、戦況をトし神前において、主従武者揃の式を挙げ士気を鼓舞したと言われ、その時の名残りが、武者揃として保存され、例祭当日は騎馬武者行列が行われる。鶏舞はその時の始まりであるとも言われているが、長泉寺にも縁りあるとされている事から、詳しくは鶏舞の項で述べる事にして、ここでは触れない。 万延元年申(1860年)11月28日開基から1,000年を経た祝いとして千年祭を開いた時、京都の紫宸殿から第32座蒼魂命正一位三嶽神社の免許を賜わっている。大祭は新年祭、4月19日、8月19日、11月27日の年4回であったが、今では8月19日から21日までの3日間が例大祭とされている。ひと昔前までは村内外の老若男女が訪れ、盆踊り大会や相撲大会を繰り広げ、初日には山車など運行され、村のお祭りとしては、他村で見る事が出来ないほど賑わいをみせた。 この頃は時代の流れと共に、その行事もかなり様変わりしてきた。初日の「お通り」は昔のままではあるが、山車の人形は生きた人間が立つようになり、夜は「カラオケ大会」や「芸能大会」になって来た。8月20日は戦死者の慰霊祭が行なわれ、21日は村民運動会がなされている。戸来、西越、川代、小坂の4地区に分かれての運動会は、年々迫力を見せ賑やかである。 三嶽神社を語るには、修験者に触れておかなければならない。当時の神官 見滝家は、京都から落ち延びて来た公卿で、元祖は榊原氏であり、後に里見氏を名乗っている。 見滝家一族には、久米院・一明院・明光院・覚正院・正覚院等が見られる。多門院支配下の44院坊の中には、戸来では重光院・大泉坊・法寿院、西越では大蔵坊が見られるが、見滝家の久米院・覚正院・明光坊・一明院が見られない事から1,100年以上歴史のある三嶽神社はかつて見滝家の支配下にあったものであろう。 三嶽神社は、一時的に宝暦時代(1751~1764年)、御領分社堂に「三嶽堂」とあり、時の別当修験 重光院であった。重光院は現在の畠山重隆氏の祖で宝暦3年(1753年)に、記録されている書上(多門院文書)によれば、多門院の直接支配下に置かれたこともあったと記録があり、明治初年廃仏毀釈に際し、十二代心教坊真連の時、戸来村の支村田中の多門院直轄の新山権現を合祀した。明治初年の「新撰陸奥国誌」には、当時の祭札について「祭日は8月30日、近郷参詣、群集し、駒躍(駒踊りのこと)と云伎あり、張抜の馬5頭を造り、五綵の糸綿を綴て美に跨り前後に締て馬に乗れる容とし、乗手も美服し外に緋或は白き襷を掛け、木刀、長刀、杵の類を持て左右に握り空に揚て中口に握り或は大に地を揚き、太鼓に合て人馬一斉に跳躍す」と記されている(『青森県の地名(平凡社)』より)。 郷社三嶽神社は、異記の中に「三嶽山二鎮座シ、本社一丈四面拝殿五間二尺二四間、境内坪数三、八二〇坪接續境外地二町三段七畝二三步、主座御祭神三三鳩嶺座宇迦之御魂命、御神雙安政六年八月三日、別二公文所リ副翰アリ、御綸旨及ビ御留合鑑、萬延元年申一一月二八日一、○○○年御神祭執行二当リ紫宸殿ニ於テ正一位ヲ免許セラル第三二座蒼魂命正一位三景大明神下称へ奉レリ紫宸殿免許/御綸旨並二御留合鑑アリ」とある。 この外に合祀社として、大神宮・八幡宮・鹿島神社・神前神社・石上神社・雨龍神社・八坂神社・稲荷神社・天満宮・天之手力雄の10社となっている。開基以来、盛岡旧南部藩公の信仰により、戸来地行主 戸来家が、代参奉幣し三嶽神社の額がある。藩公から拝領した古剣甲冑等は、間接的に戸来家から寄進されたものである。以上です。
2026年05月06日
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皆様、ゴールデンウィークはどのようにお過ごしでしょうか。僕は本開帳実施中の三浦三十三観音霊場の巡礼に望みました。本日無事結願し、明日は国府の町神事を見学して帰路に着こうと思っています。三浦半島、初めて行きましたが、かなり楽しめました暑さでだいぶやられそうになりながらも、肌を撫でる涼風と潮風とを全身で味わい尽くせました。久しぶりに海辺に来ましたが、やはり心洗われるかのよう。海無し県に住んでいる身としては、貴重な海成分を摂取出来て大満足です。帰り次第、また記事も書いて行きますので、どうぞ期待せずにお待ちください。そろそろ放置しっぱなしの三嶽神社と、磐城の延喜式内社についても書いていきたいと思います。
2026年05月04日
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