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五戸町と新郷村の境に倉石という地域があります。そこの鎮守になっているのが、今回紹介する新山神社です。以前名久井岳の特集記事にてお話しましたが、深山神社・新山神社などは神仏分離前は仏堂だった可能性が高いのです。この神社の由緒を調べてみても、元は修験が統括していた霊場で、神仏混淆の趣が強かったものと思われます。2024.7.6新山神社八戸駅の近くから七崎神社で有名な豊崎を抜け、五戸・新郷各地域を繋ぎ、十和田湖に至る国道454号。恐らくかつての街道がそのまま道路になったものでしょう。それが証拠に道沿いには主要な町々やその地域の鎮守などが鎮座しているのです。新山神社も国道454号沿いに鳥居を構え、境内へと参拝者を誘います。鳥居は両部式、神仏混淆の霊場に多く用いられている形式のものです。鳥居の基礎もしっかりしていますし、手水舎の水盤もこの通り新しい。地域からの信仰は大分篤そうですね参道は長い上り階段です。北奥羽には珍しい竹林もあり、なかなか風情がありますよ。階段を上り切ると、木立を背にして入母屋の社殿が伏していました。社殿の右側にはかつての参篭所なのか、広い建物が付随しています。こちらの建物は、現在天満宮として使われているみたいですね。建物の一画が祠に転用されているんですね。面白い造りです拝殿などを見る前に、左奥に敷かれた石畳の道を進んでみましょう。道の先には、摂社なのか末社なのかは不明ですが、1基の祠が置かれています。額には夫婦神社と書かれていますね。特に説明書きなども無いんですが、近くには”夫婦神社と縁結の木”と題された看板が建っていました。今でこそそれらしい木は見られませんが、おそらく以前は夫婦杉の様な二股の木が生えていたに違いありません。それらを祀った祠なのでしょう。たいていこうした神社には伊弉諾大神・伊弉冉大神の2柱が祀ってあります。もしかするとここの祭神もそうなのかもしれません・・・。それでは拝殿です。構造自体は良くあるものですが、この社殿の見どころとして秀麗な木彫装飾があります。ピンボケで申し訳ないんですが、木彫を近くで見てみましょう。全体的に優れた木彫が施してあるんですが、何よりも凄いのが向拝柱に巻きついている一対の龍です。昇り龍・降り龍と称されるように、一方は天を、もう一方は地を目指して悠然と駆けています。本殿にこうした装飾が見られる神社は数在れど、拝殿にこうした装飾が付随する神社は稀で、東北のみならず東日本で見てみても片手で足りるくらいではないでしょうか。南部には櫛引八幡宮に左甚五郎御作の伝説がありますが、この神社にもそうしたエピソードが伝わっていても不思議ではないでしょう。拝殿もさることながら、本殿もかなりの荘厳さです。何重にも施された組木・脇障子の木彫など、いったい誰がこれほどまでの職人技を施したのか・・・本当に気になります。最後に御由緒です。新山神社祭神:大国主神 又重宮台部落の近くにある。元禄2年(1689年)木村又助秀晴の創設と伝え、大巳貴命を祀る。館町の服部家にある棟札には元禄梓蔵卯月吉詳日、願主秀晴妻鏡緒木村亀松とあり、裏には「又重十五郎法秀造立下知別当照光院、工藤庄兵衛祐明」と記されてある。 例祭は8月18.19の両日で、部落対抗の相撲が盛んである。また念仏鶏舞もある。 明治7年(1874年)の新撰陸奥国誌には「当社は三明院と云う修験の徒別当に復飾して本田匡と改め、明治3年11月神職となり、同6年3月免ぜられ、田島平内(五戸の住人)と云う者が兼務、同7年辞職して新井田登(五戸小学校初代校長)が兼務となる」と記されている。五戸印刷 「流れる五戸川 上」 242ページ より引用大国主神を祀る神社でしたね。当社を開創した木村又助秀晴は五戸代官 木村杢之助秀勝の子であり、代官の嫡子が創建しているという事は相当肝いりの神社だったんではないでしょうか。当地の発展と開拓の成功を祈っての勧請かも知れませんね。明治初頭には三明院という修験が別当を務めていますが、もともとは南部地方の熊野先達であった大修験 多門院(姓 細川)の霞であったと言います。三戸・五戸・六戸・七戸の修験の元締めで、当社の他にも三嶽神社(戸来)・白山権現・川台大明神・毘沙門堂を支配していたようです。つまりは現在は神社であるものの、もとは修験所縁の霊場であったわけです。大国主神は、各地の霊山を奉斎する神社の主祭神に据えられており、とかく山と関りのある神格です。山伏によって祀られるに相応しい神格と言えるのではないでしょうか。斜めから。修験所縁の神社でした。社殿も美しく、境内は鳥のさえずり・木々そよぐ凉音などで満たされ、喧騒とは無縁の場所なんです。こころ静かに参詣すれば、今でもどこかから錫杖の揺れる音が聞こえてきそうな趣さえありますよ。数百年の長きに渡り、修験達によって護持されて来た古社に、ぜひとも足を運んでみてはいかがでしょう以上です。
2026年04月30日
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津軽半島の中ほど、元の中里町の南側に富森という地域があります。おそらく鎮守の中里八幡宮から狭い路地を歩く事数分、札所の寺院が見えてきます。初めて参拝した時も、道の狭さに苦労したのを覚えております。今回は運よく対向車も無く、無事に山門前に到着しました。2025.6.1津軽八十八霊場十番札所:悟真山 光明院 善導寺古風な感のある山門が境内の入口です。門の両脇には仁王像が建っています。こちらはかなり新しそうですね。山門からも良く見えておりました、立派な鐘楼。外観も昔のまま保たれており、なかなかに風情がありますよね。鐘楼の隣には地蔵堂です。内部はこんな感じ。この手の地蔵堂は津軽各地の寺院でよく見られます。なぜこんなにも地蔵信仰が篤いのか、気になります。豪華な金装飾が施された本堂。随所に浄土宗の宗紋が捺されていました。ご由緒について新撰陸奥国誌 第3巻(みちのく双書 ; 第17集)の記述を見てみると・・・悟真山 光明院 善導寺浄土宗 月窓山栄源院貞昌寺末寺開山:閑栄本尊:阿弥陀三尊 中泊町富森に境内を構える浄土宗寺院です。開山は万治2年(1659年)4月15日、閑栄という僧侶によると言われています。 由緒など不明な点は多いですが、本尊の阿弥陀三尊は慈覚大師の作との伝説があり、実際優れた像容をしていました。本尊以外にも、堂内には閻魔・奪衣婆像、聖観音像、三十三観音像など多くの秀像が安置されています。と、なりそうです。本堂の木彫装飾。全体的に優れているんですが、特に虹梁の”波間に菊”の紋は見応えがありますよ山号額も豪華ですねぇ!堂内です。須弥壇も金・銀・錦で飾られて輝いております。本尊阿弥陀三尊です。三体とも慈覚大師の作と言われていますが、本当にそうだと思ってしまう位の躍動感あふれる美像でした堂内には他にも等身大の聖観音像や・・・。古めかしい閻魔・奪衣婆像が見られます。小さいながらも表情には迫力あり!その脇に三十三観音像。奥の如意輪観音を中心に、西国三十三観音霊場の札所本尊を模した三十三体の観音像が置かれているのです。一際大きな如意輪観音像は、持物が紛失しているものの、表情もたおやかで美しい舟形光背が見事でした。宝冠の装飾もかなり凝っていますねぇ!そしてお待ちかね、今回の馬頭観音です。斜めから。中里町の中心的な浄土宗寺院でした。浄土宗ながら慈覚大師関連の仏像・伝説があるという事は、元々は天台系の修験の堂だった可能性も有るのでは?なんて妄想していますが、今のところ情報が少なすぎて何とも言えません。不明な点は多いんですが、まずはキレイな本堂を是非ご覧になりに来てくださいね御詠歌ただたのめ よくもあしきもおしなべて ほとけのちかひ ふこうだのさと本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。
2026年04月29日
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小雨降りしきる五戸の町を、一人歩いております。五戸も南部の他の町同様、もとは城下町であり、現在は城跡に図書館が建てられています。夏も終わりに近づくころ、この舘跡を中心として三社大祭のような秋祭りが開催され、展開式の山車が広場に集合します。五戸は五戸南部氏が治めた・・・訳ではなく、三戸氏庶流の南氏が統括していた様です。南部二十六代信直公の代には、木村杢之助秀勝という代官が派遣され、統治を任せられたのです。今回紹介する髙雲寺は、その菩提寺です。2024.8.31光明山 髙雲寺城下町の風情が残る細路地の寺町、その一画に髙雲寺は境内を構えています。参道の先に建つ山門は最高の木彫装飾で飾られています。所々に九曜紋の装飾がありますが、これは南部氏が使用した家紋の1つとされています。装飾を近くで見てみましょう。草花の装飾も多いんですが・・・このように麒麟など瑞獣の図像も多いんです。門を過ぎると広い庭園があり、その先に本堂が置かれています。本堂の前には聖観音の石像も。では本堂です。五戸には大きな本堂を持つ寺院が多く、ここも相当に大きいです。他の寺院と違う点は、この寺院は相当に木彫装飾が凝っているという事です。まずはご由緒から見てみましょう。光明山 髙雲寺曹洞宗 鳩峰山報恩寺末寺開山:報恩寺四代 養山玄想大和尚開基:木村杢之助秀勝本尊:釈迦三尊 光明山 高雲寺は青森県三戸郡五戸町愛宕後に境内を構えている曹洞宗の寺院です。高雲寺の創建は慶長2年(1597年)、木村杢之助秀勝により開かれたのが始まりとされます。 秀勝は文禄4年(1595年)に三戸城(三戸町)の城主 南部二十六代信直の命で五戸館を築き城下町を整備した際、木村家の菩提寺として高雲寺を創建したと思われます。 慶長20年(1615年)に一国一城令が発令されると五戸館は廃城になりますが、変わって五戸代官所が設けられ、木村家は歴代代官を歴任し高雲寺も庇護されました。 高雲寺の堂宇、境内共に当地域では格式が高く、山門は向こう唐門、銅板葺、一間一戸、懸魚、木鼻、欄間部には精緻な彫刻が施されています。本堂は入母屋、銅板葺、平入、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、入り口左右に華頭窓付、向拝懸魚と欄間には龍、木鼻には獏と獅子の精緻な彫刻が施されています。 又、明治3年(1870年)に会津藩の後継藩である斗南藩の藩庁が五戸代官所に設置された関係で旧会津藩の墓碑も多く境内には会津藩の家老だった内藤介右衛門(鶴ヶ城攻防戦では三の丸で指揮、斗南藩廃藩後は五戸町に移り住む。戒名「英烈寺殿信雄良節居士」)や会津藩士だった倉沢平治右衛門(斗南藩小参事、五戸町に移住、戒名「曹源院範岳儒翁居士」)などがあります。 開基となった木村杢助秀勝の墓や五戸代官所に勤めた圓子家歴代の墓が建立されています。青森県歴史観光案内所 / 光明山 髙雲寺 より引用五百羅漢で名高い盛岡の報恩寺の末寺です。17世紀以来、五戸の行政と深く関わってきた寺院で、五戸代官 木村家はもとより、会津藩の後継 斗南藩士の墓なども多くあるようです。それでは本堂の木彫装飾を見ていきましょう。まずはこの時点でかなり見とれてしまうんですが、これだけじゃありません。正面の蟇股には怒り狂う三頭の龍、何れも身をくねらせて暴れまわっている様に見えます。懸魚も龍と観音という面白い造詣です。木鼻の獅子・象共に、他の寺院とは一線を画す素晴らしさです。是非とも直にご覧になってください近くで見てみましょう。少し傾げた首が躍動感を生んでいます。本堂の壁面にも天女の図像が刻まれていて、何とも風雅です。山号額です。斜めから。地方ではこれほどまでに気合の入った木彫装飾に巡り合うのは本当に稀で、小雨の中とは言え見とれてたたずんでしまいました。南部随一の本堂を是非ともご覧ください以上です。
2026年04月29日
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33ヶ寺の曹洞宗寺院によって構成される弘前禅林街に対して、その南東に広がる新寺町通りには浄土真宗や日蓮宗、浄土宗の寺院が多いのが特徴です。新寺町の西端辺りに今回紹介する専徳寺が境内を構えています。新寺町の寺院は、奥に本寺、その両脇に塔頭、という配置である場合が多く、専徳寺も両脇に末寺が置かれていました。昔の寺町の風情そのままに、北奥羽の小京都は人々を魅了しているのです。2025.9.21一乘山 専徳寺古風な黒門が専徳寺の山門です。境内には立派な鐘楼が建っております。正徳4年(1714年)に京都で鋳造された古鐘があったようなんですが、太平洋戦争の時分に供出されてしまったんだとか。今吊ってある梵鐘は昭和48年(1973年)に檀信徒によって鋳直されたものです。そして本堂。以前は葦茅葺の屋根だった様なんですが、近代になって今の屋根に張り替えたようです。ご由緒です。一乘山 専徳寺浄土真宗大谷派開山:誓円本尊:阿弥陀如来 微風が心地よい静かな境内。アシガヤの屋根がきれいなお寺だった。応対に現れたお坊さんは昭和12年生まれの若い住職だった。お寺のすぐ裏にある大谷幼稚園の園長さんも兼ねており、青森県私立幼稚園連合会副会長をつとめる幼児教育の専門家。説明を聞く間も裏手から「園長先生エー、園長先生ュー」とかわいらしい呼び声が聞こえてのどかな感じ・・・・。 お寺を開いたのはもと九州菊地一族で武士。開祖誓円はわけあって兄とともに僧籍に入り、連如上人の弟子となった、という。兄弟はその後津軽に来て文明13年(1481年)原子(現 五所川原市)にお寺を建立した。この寺が当寺の始まり。のちにこの寺はまた秋田に移るが、開祖誓円は享禄元年(1528年)に大浦城主・大浦為則(津軽藩祖為信の伯父)に招かれ、津軽に再び来て天文元年(1533年)に一町田(現 中郡岩木町)に一寺を創建したとの記録がある。 藤野護現住職は二十一世になるが、歴史が好きだということで、大学の卒論に「奥羽地方における真宗の伝播・津軽藩を中心として」の論文を書いたほど。当然、卒論には専徳寺の縁起も書かれてあったが、当寺の三世了善師は聡明だったらしい。 天文23年(1554年)堀越城主・武田守信(為信の実父)は兄の大浦為則の名代として第一次九戸の乱に援軍として出陣したが、この時に了善師も加わった。しかし、守信は南部桜庭というところで堤孫六、千田与次右衛門とともに戦死した。一緒の身なれば了善もその場で死のうとしたが、守信に「お前は出家の身であるから生きて帰れ」とたしなめられ、了善は泣き泣き帰ってきたという。 了善は3人の印をひそかに持ち帰り、一部始終を城主為則に報告したという。この時持ち帰ったのは3人の名前と南無阿弥陀仏と記した黒い石と印ろうなど身の証をたてるものだったという。為則はそのことから3人の位牌を当寺において供養させたという。 了善はのち為信の代になってからも非常に重用された人物でもあるということで、藤野住職は「了善は賢明な人だったらしい。かなり古い過去帳を見ても了善師の部分が一番長く書かれてある・・・・」と説明してくれた。 境内にはまた見事な梵鐘がつってある。もとは正徳4年(1714年)に十世了智が願主となり京都で鋳造したものがあった。ところが17年に太平洋戦争で供出、なくなったものだが、この48年に檀家一同が親鸞聖人生誕800年を記念して再鋳、念願をかなえたという。 現在の本堂は天保年間(1830~1844年)に焼けたあと文久2年(1862年)に再建したものだが、福岡兵司(号は雲涛)が描いたというフスマ絵が見事だ。つがるのお寺さん 上巻 94.95ページ より引用何気に15世紀後半に開山された古刹でした。津軽ではこの年代の開創譚を持つ寺院はなかなか珍しいんです。三世了善は桜庭(現在の目屋辺りか)での戦いにも参加しており、この時戦死した武田信守・堤孫六・千田与次右衛門の位牌を当寺で弔ったようです。本堂の装飾も見てみましょう。蟇股の部分には勇壮な獅子と可憐な菊花。木鼻の獅子もなかなかに彫り込みがすんばらしい!鋭いまなざし、迫力たっぷりです。堂内も凄いですね。とんでもなく荘厳です。須弥壇中央には阿弥陀如来が単体で祀られています。また堂内には、浄土真宗大谷派総本山の真宗本廟堂宇の瓦2種が展示してありました。いつかは行ってみたいんですが、なかなか遠いんです・・・。斜めから。津軽の浄土真宗大谷派の寺院としては相当に規模の大きなものでした。県内で見ても相当な古刹であり、浄土真宗の伝播を探る上でも重要な寺院と言えるのではないでしょうか。以上です。
2026年04月29日
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修験というと真っ先に山奥にて修行を行う山伏の姿が連想されます。実際役小角に始まる修験道の本懐は、山林修業にて験を修め、それを衆生救済に用いることだと言われています。平安以前に萌芽した修験道の芽は、道教や陰陽道・仏教・山岳信仰などと結びつくことで結実し、日本独自の宗教として花開くのです。早くから密教との関りを深めており、修験宗以外の宗派でも峰入りを行う宗派は幾つかあるようです(天台宗・真言宗全般がそうですが、代表的な宗派としては天台寺門宗・真言宗醍醐派など)。神仏混淆という特徴故か、明治の神仏分離では大打撃を受け、更に修験禁止法という追い打ちまであり、近代ではかなり衰退してしまいました。修験の多くは還俗か天台宗・真言宗の寺院になるかを迫られ、ここに修験宗の落日を見るかのようですが、後に廃仏毀釈の動きが弱まると各修験宗として独立し、現代に至ります。主に天台宗系の本山派修験(現 本山修験宗)と、真言宗系の当山派修験とに大別出来るという旨が良く書かれていますが、これらに大別できない各国の霊山を霞(支配地)とした国峰修験というのも有るみたいです。国峰の大家としては、金峯山を霞とする金峯山修験本宗があり、国軸山 金峯山寺を総本山として今でも峰入り修行が行われているんだとか。この記事では、主に現在でも修験宗に属している寺院をまとめていきたいと思います。もともと修験であったと分かる神社・仏閣に関しても並記していきたいです。最初に本山派・当山派・金峯山系をまとめ、その後で国峰修験などの大別が難しいものをまとめていきます。修験の系統と関連する神社仏閣主要修験宗派本山派修験(現 本山修験宗)総本山●京都府京都市:聖護院門跡 未元関東総本山●埼玉県秩父市:観音院 高雲寺(現 三峯神社) 秩父市:三峯神社 山犬に 引かれていただく三峯の 遠吠えに混じる 法の御声が当山派修験総本山(旧含む)●京都府京都市:三宝院 未関連神社・仏閣青森県深浦町:見入山 大悲閣 九番札所:見入山 大悲閣 津軽一の懸造観音堂青森県深浦町:春光山 円覚寺 十番札所:春光山 円覚寺 津軽の湊守りし大寺院山形県天童市:高瀧山 光明院 三番札所:高瀧山 光明院 出羽の奥地、高瀧山の不動尊金峯山修験(現 金峯山修験本宗)総本山●奈良県吉野町:国軸山 金峯山寺 未諸寺院宮城県仙台市:福聚山 慈眼寺 仙台市:福聚山 慈眼寺 難業修した高僧が開いた修験寺関連神社・仏閣青森県青森市:金峰神社 青森市:金峰神社 新城の修験道場国峰修験宗派羽黒山修験本宗大本山●山形県鶴岡市:羽黒山 荒澤寺 正善院 元総本山●山形県鶴岡市:羽黒山 寂光寺(現 出羽三山神社)関連神社・仏閣青森県黒石市:浅瀬石羽黒神社 黒石市:浅瀬石羽黒神社 浅瀬石の地名の由来となった”汗石”青森県浪岡町:羽黒神社青森県弘前市:羽黒神社(宮地)福島県いわき市:出羽神社福島県白河市:新地山羽黒神社福島県棚倉町:羽黒神社(堤)福島県中島村:羽黒神社福島県福島市:羽黒神社戸隠修験本山?●長野県長野市:戸隠山 公明院 関連神社・仏閣長野県長野市:戸隠五社 長野市:戸隠五社と登拝 北信濃の霊山と5つの社長野県長野市:天命稲荷神社その他の修験宗岩手県大船渡市:大善院 二十八番札所:尾崎神社 大善院(蛸浦観音堂) 海辺の小山に広がる神仏習合の霊場と観音堂修験の霞となっていた神社・仏閣青森県五戸町:新山神社 五戸町:新山神社 山裾に鎮座する修験所縁の国造りの宮青森県新郷村:三嶽神社(戸来) 新郷村:三嶽神社(戸来) 当地の修験の元締めが支配した元仏堂以上です。
2026年04月28日
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東北有数の温泉地である秋保温泉。温泉街の更に奥、秋保神社も過ぎてもう少しで滝本山 西光寺(秋保大滝不動尊)に着くかという頃、道の脇にひっそりと境内を構える寺院があります。駐車場は広く、周りの芝は良く刈り込まれていました。ちょっとすると禅宗寺院の様な風情が有りましたが、ここは蔵王権現を祀る寺院ということで、おそらく密教系でしょうか。蔵王連山の麓の蔵王権現祀る寺院、いざ参拝せん。2025.3.22福聚山 慈眼寺簡素な石門の先に整然とした境内が広がっています。奥に見える立派な堂宇は権現堂。実質の本堂です。奥には護摩堂があるみたいですが、一般の人の立ち入りは出来ません。境内右側には観音堂。延命十句観音経をあげてきました。小振りながらキレイな形をした堂宇ですよね。権現堂です。向拝が横に広くとられているため、前方から見た時の迫力はなかなかです。落ち着いた色合いの木材が素晴らしいですね。ご由緒です。福聚山 慈眼寺金峯山修験本宗開山:塩沼亮潤大阿闍梨本尊:蔵王権現(本地:釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩) 慈眼寺は平成15年(2003年)、千日回峰行や四無行など最難関の行を満行した塩沼亮潤大阿闍梨によって開山された寺院です。おそらく東北唯一の現存する金峯山修験本宗の寺院で、毎月第3日曜日の午後1時から護摩焚きが行われ、多くの参拝者が訪れます。 堂内中央には護摩壇が置かれ、その先にある厨子には、中央に蔵王権現、右に金剛界大日如来、左に不動明王が配置され、東北では他に類のない構成です。東北地方にも金峰神社などは結構あって、これらはもともと金峰山修験の御堂だった可能性が高いです。しかしいずれも明治の廃仏毀釈によって神社化しており、慈眼寺のように金峯山修験本宗に属している霊場は皆無です。そうした点でもかなり希少な寺院と言えるのではないでしょうか。定期護摩修法はYouTubeでも配信しているみたいです。法螺貝の勇声響く護摩堂にて行われる護摩行が気になる方は↓のリンクからご覧ください。・YouTube / 塩沼亮潤 大阿闍梨/RyoJun Shionuma扁額です。”権”の草書はこんな感じなんですね。斜めから。秋保の修験宗寺院 慈眼寺でした。常人では到底成し得ない難業を達成した塩沼亮潤大阿闍梨。YAMAPの取材なども受けており、楽しくお話を聞かせてもらっています。以前から気になっていた寺院だったので、今回無事に参拝出来て良かったです今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・慈眼寺以上です。
2026年04月28日
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八戸の湊高台から八戸駅方面に伸びる県道29号。新井田を通り新井田川を越えると道の右端、特に高台の所に中居林天満宮という神社が見えてきます。この神社が見えた辺りで左折すると、梨子木平というエリアに入ります。道幅はかなり狭く、自動車は当然すれ違えません。八戸にはこうした狭路が至る所に張り巡らしてあり、慣れるまでは少々手間取るでしょうが、しょうがありません。梨子木平の民家と民家の間に、怪しげな林があります。こうしたポツンと残っている林を見ると、まず神社ではないかと勘繰ってしまうんですが、今回はその勘が当たっていました。林の中には八坂神社、かつての田向村観音堂です。2025.2.1八戸御城下三十三観音霊場十二番札所:八坂神社(田向村観音堂)神社の入口はどこなのか、林の周りをウロウロして、やっとのことで獣道を発見。ここから参拝することが出来そうです。観音堂時代の名残りか、崩れた燈籠には十一面観音と刻まれていました。こちらの燈籠にも確かに刻まれています。札所はまずここで間違いないでしょう。林の奥にこじんまりとした飾り気のない社が建っております。ともすると修験の御堂かとも見紛うような、独特の造りをしています。ご由緒です。八坂神社(田向村観音堂)祭神:素戔嗚神、疱瘡神札所本尊:十一面観音(現在は御神体となり秘仏) 根城龍源寺から沢里・中居林を通って是川に入る。石手洗団地入り口に、ひっそりと、 杉におおわれた丘がある。その参道は、自動車がやっと一台通れる程の細い道で、村がその参道に沿って流れている。この一帯は、ほとんどが畑で、その中にこんもりと見える森が、梨木平の観音堂である。 佐々木恭岑上人の八戸御城下巡礼札所の中には「田向村観音堂」とあるが、田向には毘沙門堂跡はあっても、観音堂があったという記録・伝承は残っていない。そして、田向村は、天明の飢饉の際、農民たちは、みな逃散してしまい廃村となった部落である(『大館村誌』)。その道を挟んだ隣村の石手洗村梨木平に古くから信仰を集めている観音堂が鎮座している。おそらく、田向村観音堂とは、この御堂のことを指したのであろう。 『梨木平観世音縁起』の中に書かれている伝説によると、藤原有家という京の公家が、この地を訪れた時、家臣の北島兵衛が病に倒れ帰らぬ人となった。それを悲しんだ有家卿は「十一面観世音・南無阿弥陀仏」と卒塔婆に書き、北川清蔵に墓守りを命じた。そして、赤城山 金峰寺を建立したのである。これが梨木平観音堂で、代々御堂を管理してきたのは北川家である。 八戸藩の記録によれば、天然痘平癒の神として「梨木平疱瘡神堂」とも呼ばれ、寛政2年(1790年)正月に御堂が建立されたという(『御勘定所日記』)。また、享保15年(1730年)4月には「亀之助様卸疱瘡御立顔」と全快祈願の絵馬を奉納した記録もある(『八戸藩日記』)。このように八戸藩でも信仰していた十一面観音であった。 境内には、杉の葉がたくさん落ちており、夏には最適の避暑地である。そして、数基の古めかしい石燈籠には、確かに「十一面観音」と刻まれ、その中には「文政十二巳丑年(1829年)五月十七日十一面観世音菩薩」とか、「文化十四丁丑年(1817年)九月十九日十一面観音」と刻まれている。ちょうど文化・文政期は、岩井重良兵衛らが八戸城下を巡礼した、いわば何回目かの巡礼ブームの時期である。 御堂は四間四方のトタン入母屋屋根で、土台の礎石が傾きかけ、歴史の古さを感じるせる。御堂の内部には、江戸時代からの古びた絵馬が数枚掛けられており、中央には、文政10年(1827年)に、糠塚村の六助が奉納した賽銭箱が置かれている。六前とは、田向の吉田家一族であったが、宝暦の飢饉に際し、母に連れられ、糠塚へ定住した大久保家のルーツである(『六助家譜』)。 従って、梨木平は、田向村と共同体として結びついていたのである。御簾の奥には、3基の神棚が安置され、中央が十一面観音を祀っている。いわば、神仏混合の名残である。従って、御神体の観音を見ることは出来なく、固く御扉に錠がかけてある。左右の神棚には、それぞれ牛頭天王・不動明王が祀られ、その3基の神々を守るように、五尺ほどの大きな、木彫の鬼神像が両脇に安置されている。 明治初期の神仏分離の際には、長者山下の牛頭天王を分祀し、「八坂神社」と改名しているが、地元の人々の間では「観音サマ」で通っている。同社奥の院の棟札には「白素戔ノ嗚尊八坂神社・明治四辛末年五月吉日・社守清五郎・祭宦大宮司中居嘉次満藤原道成」と書かれ、神社であることを証明している。そして、当時は、旧6月15日に大祭を執行し、八戸神明宮が兼務した(『明治初年神社調』)。 御堂は、度々泥棒に入られ、放火にもあっており、現在の御堂は明治になってから改築したものである。その昔は、疱瘡神として信仰を集めていた十一面観音であったが、今では、年に1度旧9月19日、地元の老人たちが集まり、ささやかな例祭を催している。御堂の中に掛かっているたくさんの蜘蛛の巣に、観音堂の今昔をみる思いである。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」 63~67ページ より引用南部町の古刹 斗賀神社同様、藤原有家卿による開創譚を持ちます。十二世紀頃の歌人で、特に左遷されたなんて謂れは見つかりませんが、当地に於ける貴種流離譚の題材になっております。伝説によれば、有家卿が奉納した十一面観音が札所本尊となっているそうなんです。当初は赤城山 金峰寺と称していた様ですが、近代では専ら田向村観音堂で通っています。山号・寺号共に山岳に関係するもので、おそらくは修験者が勧請した可能性もありそうですが、それを示すものは何1つ残っていません。祭壇の構成も面白く、中央に十一面観音、左右に牛頭天王と不動明王、更に外側に鬼神という配置です。中央の柔和相の観音を、忿怒相の神仏で守るような配置は、主に密教寺院で見られるものであり、例を挙げると会津の鳥追観音や、涌谷の無夷山 箟峯寺などが挙げられます。当霊場も密教系の修験者が往来していたんでしょうか、気になります。18世紀頃には疱瘡神としての信仰もあったようで、それがもとかは分かりませんが、明治の廃仏毀釈の際には疫病沈消の神格である牛頭天王が分祀され、八坂神社となり現在に至ります。社殿を側面から見てみると、本堂は拝殿と一体化しており、さながら仏堂の体が残っています。これで宝形造だった時にゃぁもう、完全に仏堂ですよね。内陣はこんな感じです。不動明王を祀る寺院に多い五色の幟が懸かっていますね。こうした点も仏閣時代の名残りと言えるのではないでしょうか。何なら鰐口まで懸かっていますし、もう仏閣の風情がムンムン感じられます。斜めから。現在は神社になっていますが、かつては八戸藩からも崇敬を受けた由緒ある観音堂です。本尊の十一面観音は籠田山月山神社同様御神体となっており、今では絶対秘仏として目にすることは出来ません。見えずとも今でもそこに居わす事に変わりなく、往時を偲んで参拝するのも面白いのではないでしょうか。御詠歌まゐるより 頼みをかけよ田向に ほとけのちひか あらたなりけり現代新御詠歌習合の み佛祀りて梨木平 観音堂の ひそやかに建つ札所本尊:十一面観音 एकदशमुख以上です。次の記事・十三番札所:籠田山月山神社(籠田山観音堂 または 鶴輪山 九星寺) 南部の向い鶴と月山の神祀る社
2026年04月27日
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日本一平均標高の高い県である長野県。周囲を山々に囲まれ、修験から山岳寺院までなんでもござれの面白いエリアです。東側に上田市というエリアがあり、この辺りはかつて塩田平と呼ばれ塩田北条氏の所領でした。今でも数百年を経た古刹がひしめき合い、信州の鎌倉と呼ばれる所以となっています。そんな上田市の山手側に別所温泉という温泉地があります。日本武尊の開湯伝承を持つ古い温泉地で、平安の頃には既に中央にも名を轟かせていたことが、当時の詩集から分かっております。別所温泉には三楽寺と称される寺があり、安楽・常楽・長楽の寺号を持つ寺院からなっています。それぞれ開創譚は異なるものの、鬼女紅葉の討伐伝説で名高い平維茂によって寺観が整えられたとも言われています。何れも600年以上の歴史を持つ古刹です。ここではそれら三楽寺を並べて紹介してみたいと思います。信州上田別所温泉の三楽寺曹洞宗:祟福山 安楽寺国宝の八角三重塔で有名な禅刹で、天平年間(729~749年)行基菩薩による開創譚を持ちます。鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆の同輩であった渡宋僧 樵谷惟仙が実質の開山とされており、この頃に三重塔が建立されたと言われています。火災によって伽藍の多くは焼失しているものの、三重塔だけは建立よりの姿をそのままに現存してるのです。曹洞宗に改宗したのは天正8年(1580年)頃、曹洞宗通幻派の高山順京によって中興された時です。それまではおそらく臨済宗だった可能性があります。本堂国宝:八角三重塔本尊:釈迦三尊寺院の記事・上田市:祟福山 安楽寺 温泉地の奥に位置する平穏安楽の禅刹天台宗:金剛山 照明院 常楽寺慈覚大師開創の伝説を持つ天台宗寺院で、同地の北向観音堂の別当を務めています。開創譚も北向観音堂と関連しており、創建当初から関りが深かったものと思われます。安楽寺開山の樵谷惟仙もこの寺で修行をしており、その後も数々の名僧を輩出しています。常楽寺で写経された経典が神奈川県の称名寺に伝わっており、学問寺院だったことが伺えます。本堂重要文化財:石造多宝塔本尊:妙観察智阿弥陀如来(宝飾した姿の阿弥陀如来)寺院の記事・上田市:金剛山 照明院 常楽寺 別所温泉の地に建つ天台教学の古道場天台宗:北向山 観音院 長楽寺(廃寺)北向観音堂の元別当で、資料などが乏しく詳しい由緒などは分かっていません。元禄7年(1694年)には長楽寺に別当職が変わっているため、この頃には既に衰退していたものと思われます。現在は北向観音堂の参道脇に古跡の石碑を残すのみで、堂宇は現存していません。観音堂本尊:北向観音(千手観音)観音堂の記事・客番札所之一:北向観音堂 火口から出る星見の観音堂以上です。
2026年04月26日
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別所温泉三楽寺の1つ、祟福山 安楽寺は元々律宗寺院だったと言われています。創建は8世紀にも遡り、行基菩薩によって開かれたと伝わる相当の古刹なんです。今でこそ曹洞の禅刹となっていますが、その歴史は曹洞宗の歴史よりも長いもののようですね。2026.4.18祟福山 安楽寺七草の湯の後ろに特徴的な黒門が建っています。門前には桜、奥には杉の山と風光明媚であることこの上ない!この門は寛政4年(1792年)、当山十三世南沖仏鯤和尚によって建てられました。門を抜けると午後の涼し気な風と共に、不揃いに響く蛙の鳴き声が参拝者を楽しませてくれます。長い冬が終わり、啓蟄も過ぎていよいよ夏が来る、そんな陽気が漂っているのです。安楽寺の境内はこんな感じ。当に一山寺院ですね。本堂の他にも左側に経蔵、右側に庫裏といった感じに堂宇が配されており、七堂伽藍のことばそのままの構成ですね。山門まで伸びる参道沿いには杉林。少し高い位置に門が置かれ、独特の風情ある景観を作り出しております。中央の参道は実質男坂。その脇には女坂にあたる緩やかな上り坂が伸びております。道の脇には弁天堂が置かれていました。内部はこんな感じです。中央の弁財天、その左右に毘沙門天と合掌印を結ぶ僧形像が収められていました。厨子にも彩色があり、なかなか年代物なんではないでしょうか。では山門をくぐり境内に進みましょう。門の先、本堂までまっすぐに参道が伸び、両脇には垣根。”まずは本堂に向かいなさい”と言っているかのようです。参道左手には小さな御堂。内部には十六羅漢像と七仏が祀られています。釈迦如来に不動明王、虚空蔵菩薩に薬師如来、十一面観音ときて阿弥陀如来、馬頭観音と共通性がない構成です。これらは四国八十八霊場の本尊の内、9・15・24・26・41・53・70・80番札所の本尊を模したものです。元禄頃に塩田平に四国八十八霊場の写し霊場が造られ、このようにそれぞれの札所本尊が各地に祀られたようです。特に1寺1尊ということではなく、88よりも少ない寺院で巡礼が完結するようになっているみたいですね。参道右手には鐘楼堂。組木が美しい古風な趣です。寄棟造の御堂が本堂です。屋根の感じなんか、かつては茅葺屋根であったかのような趣がありますが、どうなんでしょう。こちらも本尊とつながる結縁の柱が建っておりました。ご由緒です。祟福山 安楽寺曹洞宗 臥龍山興国寺末寺開山:行基菩薩中興開山:樵谷惟仙本尊:釈迦三尊 伝承では天平年間(729~749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824~834年)の創立とも言うが、鎌倉時代以前の歴史は判然としなく、平安時代末期には律宗寺院であったとされています。 安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙が住してからです。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしないが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したと言われております。2世住職の幼牛恵仁は宋の僧侶で、やはり樵谷惟仙が2度目の入宋より帰国するのと同じ船で来日しました。 鎌倉時代の安楽寺は塩田荘を領した塩田北条氏の庇護を得て栄えたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみである。 天正8年(1580年)頃、曹洞宗通幻派の高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興され、以後曹洞宗寺院となっております。信州の鎌倉 別所温泉 曹洞宗 祟福山 安楽寺 / 安楽寺について より引用安楽寺で学んだ樵谷惟仙によって中興された寺院で、その頃もまだ曹洞宗ではなかったみたいですね。正式に曹洞宗となるのは1580年で、須坂町の興国寺の末寺となっています。渡宋・または宋から来た僧侶が二代続けて和尚を務めており、禅宗としても肝いりの寺院であったことは確かでしょう。建長寺との関りも深かったことから、曹洞宗となる前は臨済宗寺院だった可能性もあるでしょうか。堂内には”聖護”と力強く揮毫された額が懸けてあります。本堂と庫裏との間には玄関がありますね。ここの木彫装飾もなかなかに素晴らしい!この様に本堂と庫裏の間に玄関が構えられるのは、臨済宗の堂宇構成に似ており、何かしら関連がありそうです。本堂左手の奥から国宝の八角三重塔を拝みに行けます。参拝者を見守るのは延命地蔵尊。道祖神と同一視される仏尊ですが、まさにそんな感があります。ゲートの先にはまず経蔵堂があります。コンクリ製に見えますが、屋根自体は古風な体ですよね。宝形屋根も相まってか、境内の雰囲気に良く馴染んでいました。内部はこんな感じです。朱塗りの転輪蔵が置かれ、天井は絵画によって飾られているんです。青森県と比較すると、長野県には圧倒的に経蔵を伴う寺院が多いです。三重塔までの道沿いには歌碑が幾つか置かれています。空穂歌碑老いの目に 観る日のありぬ別所なる 唐風八角 三重塔遂に見えてきましたよ、国宝の三重塔。木立の奥に確かに建っております。三重塔に向かう前に、まずは傳芳堂を見てみます。ここには実質の開山 樵谷惟仙和尚と二世 幼牛恵仁和尚の木像が収められているのです。これらの像が作られたのは嘉暦4年(1329年)、丁度二世 幼牛恵仁和尚の代で、いづれも国指定重要文化財の指定を受けています。右が開山 樵谷惟仙和尚、左が二世 幼牛恵仁和尚です。仏像もさることながら、こうした高僧の像もなかなかに見ごたえがあります。ここまで力を入れて作られているという事は、その寺院の僧侶からして、開山・二世など当寺院の発展に帰依した方たちへの思慕の念は相当だったでしょうね。またもや歌碑が。島木朝彦歌碑山かげに 松の花粉ぞこぼれける ここに古りにし み佛の像大正12年の春、別所温泉に遊び、この詩を詠んだ。み佛の像とは開山・二世両禅師のことである。三重塔を見上げます。参道は現代風のフェンスや水管が見られますが、三重塔は13世紀後期頃の建立以来変わらない姿を見せてくれます。近くで見てみましょう。三重塔?というよりは四重に見えますが、仏塔に於いて四重はまず見られません。説明書きによると最下層の屋根は裳階というもので、階層には数えないんだとか。するとしっかり三重塔という事になるのです。説明書きです。国宝 八角三重塔 この塔は一見、四重塔に見えるが、昭和27年長野県最初の国宝として指定された折り、初重の屋根はひさしに相当する「裳階」であるという見解で、裏階付き八角三重塔として認定された。 建立年代については詳らかではないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山樵谷惟仙禅師が入宋僧、二世幼牛恵仁禅師が中国よりの帰化僧として住職していた頃、また当地に守護として信州一円に威を張った塩田北条氏が館を構えていた鎌倉時代末期(1277~1333年)以外に考えられないというのが定説になっている。 塔は本来、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以後は特定の人物や戦死者の供養のために建てられた例が多く、恐らくこの塔も北条氏の供養塔として建てられたものと考えられる。建築様式は当時、中国宋代の先進技術であった唐様(禅宗様)を用い、扇垂木・弓形連子・詰組など、和様の塔とは違った重厚な佇まいを見せている。八角塔は奈良・京都などに記録として残されているが、それらが失われた今日、我が国に残された唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔としても極めて貴重な遺構である。日本に現存する唯一の八角塔・・・。なんて素晴らしいんでしょうか!!近代に建立されたものだと川崎の金剛山 金乗院 平間寺が真っ先に思い浮かびますが、安楽寺の八角塔は数百年の歴史を持つ古建築です。当時最大の外護者であった北条氏を支えとして、進んだ仏教文化が花開いていたんですね。まだまだ眺めておきましょう。数百年変わらずにここに建っていたのかと思うと、本当に歴史は面白いなと思うわけです。現代まで火災や兵火を免れ、創建当初の姿を保っている仏堂・伽藍は皆無でしょう。時たまこうした特異点があり、国宝に指定されるに至るんですね。とは言え、これを残そうと尽力したすべての人々の賜物であり、並々ならぬことです。斜めから。三楽寺はいずれも素晴らしい仏堂でした。宗派こそ異なれど、常楽寺は学問の寺として、長楽寺は信仰の寺として、そして安楽寺は心の平穏・安楽を体現する禅刹として、創建より今日に至るまで繁栄を極めてきました。里山の林の奥深く、国宝の仏塔を護持し続けた古刹に、向けられるのは感涙溢れる瞳だけです。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・信州の鎌倉 別所温泉 曹洞宗 祟福山 安楽寺以上です。
2026年04月26日
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信濃三十三観音霊場の客番札所となっている北向観音堂。善光寺とセットでの参拝が薦められる霊場であります。古来仏閣は南面が常で、この例から外れるのは近代になってからです。825年創建といわれる北向観音堂が南向きでは無いのは、北斗七星と関連しているからだと言われています。以前常楽寺の記事でも書きましたが、示現した千手観音は、自身を北向きに祀ることで北斗七星の様に衆生を見守ると話します。そのため観音堂は北向きに建てられることになったのです。東日本を見てみても、この様な開創譚は中々に珍しく、異彩を放っています。最初の参拝は2025.12.7で、その時は北向観音堂しか知りませんでした。いざ行ってみると、三楽寺というものが有ると知り、それらもまわって見たくなってしまったのです。それら以外にも、当地は”信州の鎌倉”と称されるだけあって、古刹が溢れています。特に前山寺周辺は諸宗入り乱れており、”法海”の名を恣にしております。今回は三楽寺・周辺寺院併せて参拝し、もうホントに満足できました美しい伽藍の数々にウットリしつつ、山岳寺院の本懐を味わい尽くすことが出来たのです。長くなりましたが、北向観音堂を見ていきましょう。安楽寺参拝後、徒で向かいました。寺門の近くには標柱が1つ建っております。なんでもここに市神を祀っていたんだとか。以下説明書きです。別所の市神 昔の市の跡。 市神は市の安全と市を護る神。祇園祭には今もここに別所神社から御神体(牛頭天王)**座。 鎌倉時代から江戸時代初期にかけて、この付近は、東町を下り浦野に出て善光寺に向かう善光寺道と、湯端を通り日影から松本に向かう松本道の分岐点であり、北向観音の門前***諸客や湯治客の往来が多い場所でありました。この様な場所を選んで市が随時開かれていました。いつごろから市神がこの場所にあったのかは確認できません。 現在の祇園祭は別所神社から牛頭天王をこの市神の上に遷座し神輿が奉納されます。次の日行われる三頭獅子舞・ささら踊りはもともと祇園祭の出し物でした。昭和初期、獅子面が大破損し、昭和9年に新調されたのを機に、岳の幟・三頭獅子舞・ささら踊りを一括して「岳の幟の祭礼」として7月15日に近い日曜日に奉納しています。2026.4.18信濃三十三観音霊場客番札所之一:北向観音堂それでは北向観音堂に向かいましょう。道路脇には石造りの寺門。常楽寺管轄の七苦離地蔵堂正面の道を上ってもここに着きますよ。参道は一度下ってまた上る、というなかなか珍しいもの。参道には石橋が架かっており、ここから臨む別所温泉の風景は古き良き温泉街という風情です。橋を渡り切った所には、慈覚大師開創の伝承を踏まえてか、”慈覚大師之湯”が沸いておりました。北向観音堂の手水も温泉で、これも実質手水の様なものです。弘法大師もそうですが、円仁にも出湯の伝説があるんですね。参道には店屋っこが立ち並びます。近年再開発されており、お土産屋だけでなく、ジェラート屋やカフェなども有りますよ!ゆっくりとした時間をお過ごしください。観音堂境内へと進む石段を登り切ると、左側に件の手水舎があります。この様に水盤に溜まっているのは温泉水です。温度もしっかり温く、冬場の参拝も安心です続けて境内を見てみましょう。まずは参道左側のエリアから。参道至近には愛染堂。本尊は愛染明王です。堂内には愛染明王の像が2つ。大きい方が本尊でしょうか。その隣にはかなり横幅の有る仏堂が置かれていますね。これは札所観音堂。秩父三十三観音霊場の写し霊場で、それぞれの札所本尊に対応する観音像が収められています。以下説明書きです。札所観音堂 江戸享保年間(1716~1736年)に長野西後町の篤信者 岡田新右衛門氏は、西国・坂東・秩父・四国の188ヶ所の信仰を善光寺・戸隠の大昌寺・保科の清水寺及び、北向観音堂に移せり。 当山には秩父三十四観音の尊像が奉納され多くの拝者を迎えたが、その後堂舎の破損甚だしく本坊 常楽寺に保管のままであった。このたび尊い信助を得て新しく「札所観音堂」の建立を見たことはまことに法幸なり。 ご参詣各位にはいよいよ結縁を深められんことを願ってやまない。山主 敬白ほんで今回の馬頭観音です。対応は二十八番札所:石龍山 橋立堂。札所観音堂の隣には額堂。開山以来奉納されて来た絵馬を展示しています。何気に格子窓から臨む上田の町も美しいですよ。額堂に納められている額の中で最も面白いのがこちら。衽の褄と呼ばれるものを並べた額で、着物の腰部分に膨らみを持たせるために用いられます。当地の女工たちが、裁縫の上手を願って奉納したんだとか。こちらも良し。群馬の絵馬です。長野は上古の頃からの馬産の地ということで、こうした馬にまつわる絵馬が多く残っています。額堂の隣は半ば展望台の様になっており、遥か遠くに上田の町が見えますね。長野県自体平均標高がかなり高いんですが、別所温泉はそこから更に高い所にあるのです。そんで振り帰るともう反対側はこんな感じになっています。善光寺の様な撞木造の御堂が北向観音堂で、その隣の大堂が不動堂、そんで右端に鐘楼堂が見えます。次はこれらを見てみましょう。まずは鐘楼堂。造りも古風で趣あり。根元にはかつての別当 長楽寺の古跡を示す石碑が建っています。三楽寺の1つでしたが、17世紀には荒廃。代わりに常楽寺が別当となっています。手前の六地蔵も見事。鐘楼堂の裏側には注連縄が巻かれた神木が立ちます。これは市指定文化財の”愛染かつら”で、かつてこの木の上に北向観音(千手観音)が降り立ったと言われています。樹勢は今も盛んで、千手観音の腕の様に枝葉を広げておりました。そして愛染かつらの向いには不動堂。特徴的な造りの屋根ですが、造り自体は宝形造と一般的なものです。更に奥に進んでみましょう。北向観音堂と同じく北面した懸造の仏堂があります。これは温泉薬師瑠璃殿。名前からして別所温泉の湯を司る薬師如来でしょうね。説明書きを見てみましょう。温泉薬師瑠璃殿 この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。 寛保2年(1741年)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保4年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化6年(1809年)に湯本講中の積立金により再建されました。天台宗別格本山 北向観音・常楽寺 / 北向観音 より引用見事な仏堂ですが、崇敬の篤さを示す様に、手前には歌碑や石碑の類が幾つも置かれています。正面からも見てみましょう。向いているのは勿論別所の町の方です。結縁の標柱から伸びる五色の結縁の綱が新しい、北向観音堂です。去年は北向観音創建1200年を記念した御開帳が有りましたが、当然見逃し三振。本当に口惜しいです。因みに観音堂に掲げられた”北向山”という山号額は、かつての別当 長楽寺の山号であったと言われています。ご由緒です。北向観音堂開山:慈覚大師中興開基:平維茂中々興開基:海野広道、塩田北条氏本尊:北向観音(千手観音) 本尊は千手観音菩薩。御堂は北向に建てられていて、古くから北向厄除観音の名で広く知られ親しまれている。この北向であるということについては、長野の善光寺の南面と相対するものといわれ、善光寺の未来往生と、この観音の現世利益の功徳は一体のもので、その一を欠けば”片詣り”であるという。この信仰はかなり古くからあったと想像され、信州では厄除観音の霊名で名高い。(一)開創の由来と歴史 開創の由来等については「北向堂大悲殿本起」に詳しいが、それを概略記すと次のようである。 天長2年(825年)信濃国小県郡出浦郷別所の北の方角より俄かに地底が鳴動し火抗が出来火煙が立上り、砂や石を噴上げ、人畜に大きな被害を与えた。里人は大いに恐れて事の子細を上奏した。朝廷は比叡山 延暦寺の座主、円仁慈覚大師を遣わし、安鎮の祈禱を厳修すると、やがて火は鎮まり、火抗より紫煙が立上り、南方へとたなびき、北向山の桂の梢に止まった。大師がその夜禅定に入ると、尊像が空中から「百般のわざわいを除く有縁の地であるから我が像を北に向けて安置せよ。北斗星のように世界の依估となって済度なさん」とのお告げにより霊像を模刻し北向に御堂を建て、毎月25日を北向観世音の縁日と定めたという。 その後安和2年(969年)、信濃国の戸隠山に棲む『鬼女紅葉』を勅命によって討伐に向った平維茂は、鬼女の妖術にかかり進むことが出来ず、この北向観音に祈願し、霊剣を得て退治することが出来た。維茂はその御礼に一山を修理し、三楽四院六十坊を建てて寄進した。別所の地にある将軍塚はその供養塚であるといわれている。 つぎに養和元年(1181年)木曽義仲が隠れていた木曽を出て近くの依田城(現丸子町依田)を拠点として、平家軍追討のため横田河原(現長野市横田)の戦いに出陣した際、戦乱によって別所の寺堂はことごとく焼失した。建久8年(1197年)に源頼朝の命により海野広道が再建し、建治4年(1278年)に塩田北條氏によって再々興された。 以上のようなものだが、これを明らかにする史料はない。しかし縁起は莫然と作られたものでなく、これらの伝説はいろいろの事情によって綜合成立したものである点注意したい。 まず観音堂の位置であるが、御堂に向って湯川をわたり参道が続いている。御堂の正面にある石段の右側に、樹齢1,200年といわれている桂の名木が立っている。この根方一帯に、古来から、別所三楽寺(長楽・常楽・安楽)の1つ、長楽寺があったとされている。古文書に「北向山 観音院 長楽寺」と記されており、参道・寺堂の配置から長楽寺は観音をまつる別当寺であったと想像される。現在長楽寺に関する史料は全く見当らないが、恐らく災害にあって観音堂だけが免れたか、あるいは再建され、長楽寺は廃絶したものと思われる。以来別当寺のない観音堂は長い年月の間、庶民の信仰によって法灯が護られたものであろう。 では北向観音の起原をうかがい知ることのできる史資料について記して見たい。(二)史資料から起源を推る 所在の御堂の地域一帯を院内といっているが、御堂の西方湯川の上流300m余の川の両域からは数多くの古い石塔が散見されている(その大凡は現在常楽寺の多宝塔の両側に移されて供養されている)。 特に大正13年(1924年)に御堂の西方200m余隔てた東院内地籍地中から、多宝塔が5基、宝篋印塔が29基、五輪塔が20基、多層塔については数は不明だが屋根部が59発見され、三重乃至九重の多層塔とすれば20基から7基と考えられる(小山眞夫氏の『信濃国小県郡の石造多層塔』より)。この夥しい石塔群の発見は、学界の注目をあつめた。当時の京都大学天沼博士の鑑定によれば、多宝塔の1基は平安時代、2基は平安末か鎌倉時代の初期、2基は鎌倉の中期より末期のものであり、特に時代の古い多宝塔としては我国に類例がなく、5基の多宝塔がそろって出たことは驚くべきことであるとされた。また出土の地域が観音堂の別当 長楽寺の境内と思われていることから、往時此の地が高野山や善光寺に遺骨や遺髪を送り信仰仏の加護を仰ぐと同様に、遠近の土豪等が供養した残影と思われ、観音堂を中心とした一大霊域と考えられている。 平安時代から鎌倉時代の塩田地方とその周辺の歴史については、他の章に黒坂周平先生がくわしく述べられているが、北向観音堂の縁起等の関係上、歴史の流れについて重複するむきもあろうがお許し願って、少しく記してみることとする。 例えばこの地方には平安時代の中期の造立といわれる大法寺の木造十一面観音、普賢両菩薩像や、平安末期の仏堂建築、中禅寺の薬師堂と薬師仏など東日本を代表する建物や彫像が現存している。また平安時代の終期に平家打倒の勇名をとどろかせた木曽義仲挙兵の根拠地は、塩田の東境に当たる依田城であった。そのことはやがて天下を統一した源頼朝が、義仲の拠点であった塩田から上田地方にかけての支配に特に留意したことは史実に明らかである。北向堂の縁起には、義仲の平家追討の際、別所の寺堂は戦火にあってことごとく焼失。その後頼朝によって再興されたと伝えられている。 頼朝没後、鎌倉幕府の意向があってか、文化人の宣撫によって塩田の寺は学問の修業道場として広く世間に知れわたった。「塩田は信州の学海なり」。京都南禅寺の開山、無関普門(大明国師)の塔銘の一節はその実情をよく伝えている。 鎌倉時代の中頃、幕府の執権 北條時宗の補佐の任にあった北條義政が、蒙古襲来という国離の後、突然重職を退ぞき塩田に隠棲するという事件があった。ちょうどその頃、別所の安楽寺には鎌倉の建長寺の開山 蘭渓道隆禅師と交流のあつかった樵谷惟仙という名僧がいた。木曽義仲の末孫と伝え、幼少の時期に隣りの常楽寺で天台の学問を修め、やがて中国に渡り修業し帰国の後安楽寺を開いた我国で名の知れた高僧である。北條義政が塩田に隠棲したことの理由となった重要人物と称されている。 義政が文化人であった事は「続古今」「続千載」その他の勅選和歌集にその名をとどめていることでもわかる。鎌倉の地を無断で離れた理由は、何か西行法師の心境に通ずるものを感ずるが、塩田の歴史的環境が何よりも彼を引きつけたものと思われる。別所の地名が北條氏の別荘の地であるという見方も理解出来るわけである。 やがて別所の安楽寺に我国唯一の八角三重塔が建てられ、塩田地方の文化は北條氏の外護によって大いに栄えた。八角の塔は塩田北條氏が残した偉大な仏教文化のモニュメントである。(三)別所温泉とのかかわり 別所の地で忘れてならぬ歴史的要素は、信州で最も古い温泉の1つ、別所の出湯である。太古から湧き出ていたこの温泉は、人の住みついた古代から限りない恵みを庶民の身心に与えたことであろう。湯の効能は神仏の霊験と考えられ、まづ観音様がまつられた。これが北向観音であると思われる。 仏教発祥の印度には懸崖に観音がまつられているが、我が国でもその例が多い。この観音堂も後世に石垣によって改修されているが、最初は崖の上に建てられたものと思われる。因みにこの観音堂の西方にそびえる夫神岳の麓には観音沢という地名があり、みどの沢(御堂沢)地籍からは古代の寺跡を思わせる布目瓦が発見されている。やがてこの北向観音を中心に長楽・常楽・安楽の3寺が建てられ、鎌倉時代には仏教学問の道場としての役割を果したものと思われる。 我が国は温泉国で開湯の伝説が多いが、『日本書記』には”有馬”・“伊子”・“束間”など現存する温泉地の名が記されている。この別所温泉は古来より「ななくりの湯」と言い伝えられ、 歌枕(歌の名所)にその名をとどめている。鎌倉時代の初め(1234年頃)順徳天皇の著わした『八雲御抄』という歌学書の名所の部に、温泉の名が9か所挙げられているが、「ななくりの湯」の名があり、この湯は「信濃の御湯」と明記されていて、当時はかなり有名な温泉だったことをうかがわせる。なお、信濃国には「ななくり」の地名は4か所あるが、いづれも史料が乏しく、塩田の歴史的背景から「ななくりの湯」は別所の温泉と見るのが妥当と思われる。なお詳しくは今後の研究に待ちたいと思う。 以上北向観音堂の起源を塩田地方の傍証史料によってたずねたわけだが、この御堂が史料によって確かなのは室町時代から戦国時代の約250年を経た、真田から江戸時代になってからである。(四)史料にみる近世の歴史 そもく北向観音堂は長楽寺が別当寺であったことは前にも述べたが、長楽寺が廃寺後は住民の厚い信仰によって長い年月の間法灯が守り続けられたものである。言いかえれば、いかに大衆が心の支えをこの観音様に求め続けたかが感ぜられる。 元和5年(1619年)の上田領寺社領改めにも観音堂の寺領はない。元禄4年(1691年)の塩田組寺領調べに北向堂として500文が認められている。3年後の元禄7年になって今まで別所村の所有であった観音堂がこの年常楽寺持となっている。以前よりたえず常楽寺が護持につとめた縁によるものであろうか。以来今日まで約300年間、常楽寺が別当寺として御堂を護り続けている。 「記録」によると、本堂は正徳2年(1712年)5月6日夜、観音堂と隠居家(三間に五間半)が火災により焼失し、8年後の享保4年に間口五間、奥行七間の観音堂が費用319両、米35石で再建されたとある。今の御堂の原型である。この火災のため「古仏」も焼失したので、国分寺村の仏師 藤川弁朝に依頼し、常楽寺で2ヵ年の歳月をかけ新仏が作られた。假堂を造り、正徳4年1月入仏式を行ったという。常楽寺四十六代住職翁玄の時代で、上田領主 松平忠周より用材の寄附をうけ、諸費用は翁玄の自費であったという。中興と称せられた住職であり、近世の北向観音堂の名が世間に広まったのは此の時代頃からと思われる。それは、奉納絵馬や境内に信者の寄進による石塔、燈籠などこのころのものが最も多いからである。 絵馬の最も古いものは享保7年(1722年)の銘のある一匹馬が画かれたもので、本堂再建後3年のことである。絵馬は寺社に祈願するとき、または祈願成就のお礼に奉納する板絵のことだが、起源は大変古く生活の手段であった馬と人とのかわりに起因するといわれ、本来の図柄は馬であった。室町、桃山時代に社会の風潮から上流武士や有力の商人らが専門の絵師に豪華な絵を描かせ奉納した。 この観音堂には絵馬の多いことと優秀な作品があることでは全国でも有名である(現在は御堂を取りまく回廊や、堂内に数多く掲げてある)。安産の感謝の図、戸隠山の鬼女退治の図、善光寺の大地震の災難を免がれた感謝の図、和算(日本の数学)学者が難問の解法を図示して感謝した算額、おびただしい群馬の図、養蚕家が掲げた繭をあしらった図など多彩である。中でも有名なのは享保15年の銘のある江戸吉原の遊女を描いた「三浦屋店頭の図」で、江戸歌舞伎の「助六」の名場面が見事に描かれている。願主は海野町(現上田市)在住の18人衆。この板絵は国の重要美術品に指定されている。また、葛飾北斎の筆と認定されている中国の『三国志』から取った、劉備が愛馬にまたがって河の急流を渡る絵もすばらしい。 ・・・。常楽寺美術館 「常楽寺綜攬」 33~39ページ より引用慈覚大師による開創から幾度も修復を繰り返し、今に伝わる大伽藍を持つに至っています。不明な点は多いですが、別所の仏閣の中でも特に篤い崇敬を受けていたのは確かで、参詣道が早くから整備されていたのも頷けます。上田は別所・・・いや、信州を代表する仏閣です。堂内には古めかしい御詠歌額が懸けられ、歴史の長大さが感じられます。須弥壇はこんな感じ。厨子も相当に立派ですね!斜めから。善光寺と対をなす霊場でした。現在は寺院として、というよりは仏堂のみで成立している霊場ですが、伽藍などは殆ど大寺レベルの構成となっており、非常に充実しています。もともとの別当である長楽寺は、現別当の常楽寺同様天台宗寺院だったと言われています。今でもその名残りなのか、境内には密教由来の不動尊や、天台宗に多く祀られる薬師如来など、往時の繁栄を伺わせる堂宇が多いんです。善光寺とうり二つの仏堂といい、いにしえの開創を伝える伝承と言い、その歴史に想いを馳せずにはいられません。御詠歌いくばくの 人の心を澄ますらん 北向山の 峰の松風本尊:北向観音(千手千眼十一面観音) सहस्रभुज以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。参道脇の売店で買ったお饅頭。晩酌の肴となりました。公式サイトへのリンクです。・天台宗別格本山 北向観音・常楽寺 / 北向観音以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2026年04月26日
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奥州の古霊場 国見山。その麓にかつての塔頭寺院の1つが境内を構えております。国見山の霊場は南麓のエリアを中心にして広がっていたようで、旧跡の殆どは国見山神社の境内に包括されています。岩手三十三観音霊場の一番札所~三番札所も、この国見山の霊場に所縁を持つもので、特に一番札所:国見山 極楽寺は一度廃寺になったものの、現在は無量寿堂(阿弥陀堂)が復元されており、札所本尊の十一面観音を護持しているんだとか。そこから離れること数百m、二番札所の如意輪寺が境内を構えています。如意輪寺がある所には、かつて金堂にあたる堂宇が置かれていたとも言われており、霊場内でも特に重要なエリアだったと思われます。2025.5.3岩手三十三観音霊場二番札所:巌谷山 如意輪寺駐車場に車を停め、山門に向かいます。このお寺は境内を飾る幾千万本もの曼殊沙華で有名ですが、今は春。東北の桜は5月になっても咲き残り、山門を飾っていました。当寺院には鎌倉時代初期の仏像群が現存しております。残念ながら参拝時は北上の博物館に出展されており、現物は見れなかったものの、その造りの精巧さは当地に如何に優れた仏教文化が花開いていたのかを感じさせます。↓に説明書きを載せますね。釈迦三尊坐像 十三世紀岩手県指定有形文化財昭和29年(1954年)4月5日指定 中尊の釈迦像は説法印を結び九重座に坐り後背があります。絵画的な衣紋や緊張した表情には宋の作風がみられます。眼は水晶の玉眼で、こまやかな刃先の作風です。 2体の脇侍のうち、知恵をつかさどる文殊菩薩像は獅子の背の台座に、慈しみと哀れむ心をつかさどる普賢菩薩像は白象の背の台座にのっています。三体とも寄木造りで、中国の宋風が加わった洗練された作りです。 鎌倉時代初期の三尊仏として貴重なものです。像高:釈迦像71㎝、文殊菩薩像44㎝、普賢菩薩像43㎝平成16年(2004年)3月 北上市教育委員会国見山の霊場は、安倍氏や清原氏の外護を受けて発展した霊場で、前九年・後三年などの大乱で両者が疲弊すると共に衰退していき、12世紀に奥州藤原氏が平泉を中心に統治を行う頃には、かつての伽藍は見る影もない状態だったと言われています。本尊の如意輪観音像含め、現存する多くの古仏は14世紀の再興時、または17世紀の菩提寺化した時に運び込まれたものだと思われます。何れにせよ、こうした古仏が現存していること自体凄いですよね境内に入ると、本堂脇手に小堂が置かれています。本尊は金剛界大日如来。小さいながらも大日堂みたいです。本堂です。造りは寄棟、所々古材が転用されており、独特の古雅な風情が感じられます。ご由緒です。巌谷山 如意輪寺真言宗智山派中興開山:性空僧都本尊:如意輪観音歴代住職江戸期不明中興十四世:白井永雅十五世 白井憲阿十六世:千田実昌十七世:菊地英良十八世:菊地英寛霊場札所新江刺八十八ヶ所十九番札所江刺三十三ヶ所二十八番札所陸中十三佛三番札所 如意輪寺は、数多い極楽寺の塔頭の中の中畑坊が独立して寺院となったものであり、寺院内には古代からの優れた仏像が安置されております。 天安元年(857年)大和朝廷から準官寺として指定された極楽寺には、別当坊・北乃坊・東乃坊・大井坊・額頭坊など36の塔頭があったと伝えられています。そのうち如意輪寺が建っている場所には、これら坊舎の中心をなす中畑坊があったと伝えられ、当時では金堂に匹敵する重要な堂宇ではなかったかと考えられています。 そこに応永5年(1398年)に性空僧都が寺院を再興しました。また一説には大平山と呼ぶ近郊の山の麓にあった如意輪坊を移したとも伝えます。 寛永7年(1640年)、伊達藩の一家で重臣だった中目長次が江刺郡上門岡村(現江刺市)に封じられたとき、如意輪寺と改めて中目侯の菩提寺となり、仙台の龍宝寺末寺となりました。しかし間もなく山火事で類焼し寺宝や古記録も失いましたが、幸い本尊の如意輪観音は難を逃れたと伝えています。しかし、最近の発掘では火事の跡が出てこないともいいます。 いずれ本堂棟札に元禄8年(1695年)広栄法印の代に大檀那 伊達二十代綱村公で再建したとありますから、現在の本堂はそれ以来火災に遭っていないことになります。 説法釈迦如来坐像を中心に、右側には獅子に乗った文殊菩薩、左側には象に乗った普賢菩薩が安置されています。いずれも鎌倉時代初期の作で、宋の彫刻様式をもつ優れた仏像です。宋様式の仏像は関東以北ではこの仏像以外に全くなく、しかも説法の姿をしている釈迦如来を中心とした文殊・普賢の釈迦三尊像は、同一人の作ではないかと考えられ、岩手県の指定文化財です。 なお、普賢菩薩の胎内に木彫の長足五輪塔が祀られていて、これは岩手県最古のものです。「岩手三十三観音霊場へのいざない」 岩手三十三観音霊場会 12.13ページ より引用国見山霊場の僧坊の1つ、または近隣の如意輪坊の後裔とされているみたいです。如意輪坊があったとされる太平山も国見山と連なる低山で、峰から峰を徒で移動できてしまいます。同じ霊場の中にあったのではないでしょうか。実際のところ国見山の霊場は不明な点が多く、宗派も天台宗なのかそうじゃないのか、それさえ分かっていません。しかし中央由来の仏教文化が良く表れ、バックには朝廷や中央にパイプを持つ人物が付いていた可能性は大いに考えられるんではないでしょうか。次に本尊を見てみましょう。先ほどの釈迦三尊像に目が行きがちですが、本尊の如意輪観音も相当の古仏なんです。木造如意輪観音坐像北上市指定文化財昭和53年(1978年)5月23日指定 如意輪観音は、如意宝珠と輪宝を持って人々の願いをかなえ、苦しみから救うとされる観音です。その多くは6本の腕を持ち、右手を頬にあてた思惟(深く考える)の像として表わされます。如意輪寺の本尊である如意輪観音坐像は、右膝を立て、穏やかな面もらで、右手を頬につけた農惟の姿をよく表しています。左手に載せられていたとみられる輪宝は、現在では失われています。 衣の表現は鎌倉期風ですが、腕のふくらみなどは室町期風で、塗料は江戸期のものと推定されます。 作者は不明ですが、制作年代は室町期から江戸初期と考えられます。優れた作風であり、市の貴重な文化財です。平成31年(2019年)3月 北上市教育委員会これだけの古仏であっても、特に秘仏ではないので、実際に目にすることが出来ちゃうんですなんと嬉しい事でしょうか、これだけの古仏を見られるなんて!各時代で修復され、現在まで連綿と引き継がれてきた優れた仏像に、心奪われてしまう事間違いなしです説明書きのクリアな画像も載せておきましょう。生々しい表情と頭髪の表現が特に優れていると思います。肉付きの良い四肢や頬も、現今の仏像とは比較にならない程の力の入れようだと思うのです。一体どんな思いでこの仏像は作られたのでしょうか。堂内には藤原八弥氏によって寄贈された仏画が懸けられています。これは不動明王でしょうか。かなり動的な構図です。体もなぜか女性的ですね。位牌堂には鬼子母神。母の慈愛を象徴しています。そして面白いのがこちらの屏風絵。もとは襖絵だったんですが、見やすいように屏風に写されたようです。ここには国見山霊場の最盛期の姿が描かれています。山頂の大悲閣を中心に、周辺の峰々や麓に多数の堂宇があったみたいです。一応この屏風絵の中にも、如意輪寺や安楽寺が描かれていますよ。探してみてください。斜めから。国見山霊場の歴史を受け継ぐ古刹でした。やはり一度は秋口に参拝して、曼殊沙華で満たされた境内を散策してみたいです。もはや東北は気軽に戻れる場所では無くなってしまいましたが、いつかは見に行きたいですねぇ。御詠歌いのれただ おもきしょがんもにょいりんじ しゅじょうなければ すくいつくさん本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・三番札所:上台山 安楽寺 国見山 極楽寺の塔頭の裔、安楽寺
2026年04月26日
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皆さん、福島県会津地方の地名の由来をご存知でしょうか。時は2.3世紀の古墳時代の頃、崇神天皇の詔によって四道に派遣された武人の内、北陸道を進んだ大彦命と東海道を進んだ武渟川別命とが再開した所が丁度この会津の里だと言われています。2人は父子であり、涙ながらに再開を喜んだんだとか。この物語がそのまま会津という地名の由来譚として語られているのです。この由来譚が伝わるのは会津美里町に境内を構える伊佐須美神社。かつて最大版図を誇っていた時の陸奥国二之宮であり、解体後に成立した岩代国一之宮です。規模的にも会津地方では最大で、崇敬はかなりのものと思われます。2024.10.19伊佐須美神社福島出張の時に参拝しましたが、特に三連休でも無いのに参拝客であふれていました。さすがに当国一之宮、伽藍も立派です。境内入り口には赤い権現鳥居が建っております。注連縄も太く、菊花紋の装飾もあるなど、格式の高さが伺えます。境内に進む前に、鳥居から土手の方に進んでみましょう。ここには末社の1つ、殺生石稲荷神社が鎮座しています。ものものしい名前ですが、幾重にも並ぶ鳥居は美しいんですよね。こうした石祠もあります。多分稲荷社ではないでしょうか。殺生石稲荷神社の拝殿です。朱塗りの社殿が美しく、色付く前の青紅葉とのコントラストが絶妙でしたご由緒です。殺生石稲荷神社祭神:宇迦之御魂神例祭日:毎年2月:初午の日、毎月1日:月首祭由緒 当神社の創始は中古の頃か詳らかではないが、天保年間(1831~1845年)殺生石の霊を慰め災害をなくしようと祭祀を復興した。以来160年会津開拓の祖神を祀る伊佐須美大神と相共に普く庶民の崇敬を専らにし、殖産興業・商売繁盛に霊験*かな神として敬仰されてきた。 然るに昭和の現代、特に終戦後、思想の混迷と神祇崇敬の念衰微とに加えて御社殿の老朽化甚だしきため、久しく高天原の渡御殿を仮宮に奉遷していたが、天皇陛下御即位満50年の佳辰を記念して奉賛会を組織。篤志家の浄財によって御社殿を造営し、祭祀を興隆した。維時、昭和51年12月20日也。殺生石の由来 昔から宮川の氾濫と落雷と火災とに、当地の住民にとって最も畏怖すべき天変地異であり、災難であった。 伊佐須美神社の御手洗であり、川として左程大きくない宮川の洪水に多くの犠牲者が出るのに、殺生石の祟りではなかろうかと、その恐怖は幾代か語り継がれてきた。ある時、在村の藩役人 三村某が発願し、村人と共にその霊を手厚く祀ったのが天保12年(1841年)。この時水神もまた奉祀された(この水神社は当社の南手 瓢箪池の側に立つ赤鳥居の紳祠がそれで、数年前再建、祭祀は復興した。祠に天保12年の刻印がある)。 ところでこの殺生石は、至徳2年(元中2年・1383年)会津の名僧 源翁和尚が、人民を苦しめていた殺生石を説き伏せ、教化した際に打ち砕かれた化石の1つが、会津のこの地に飛来してきたと伝えている。栃木県那須湯本 温泉神社近くには、今尚湯けむりが立ち込め、毒気を孕んだ岩石が「史蹟 殺生石」として保存されている。やはりというか、那須温泉神社と関連する社だったんですね。ここの他にも、福島県の中通り地方にも殺生石のかけらが飛来したと伝わる寺院があるんです。もともと奇怪な岩石の伝承があって、それと殺生石の伝説とが結びついたとかなんでしょうか。どうしてこの様な伝説が生まれたのか興味がありますねぇ!また福島を巡礼してみたいもんです。それでは伊佐須美神社の境内に進みましょう。参道左手には末社の菅原神社が置かれています。勉学の神格として有名な菅原道真公を祀っており、瑞垣には学生たちの絵馬が幾つも懸かっておりました。天満宮と言えばの撫で牛もきちんと置かれています。社殿はこんな感じです。蝋燭をたてる所を見ると、元は仏尊が祀られていた可能性もあるでしょうか。更に参道を進むと、随神門の右側に末社 道主命神社が鎮座しています。道主命も四道将軍の1人で、丹波国に派遣されたと言われています。現在では交通安全の御神徳があるとされ、交通関係者から篤く崇敬されているようです。↑の末社の他にも、白山神社・会津大国魂神社・水神社などの境内末社があったようですが、今回は参拝し忘れてしまいました。無念。そんで手水舎です。その神社がどれだけ活発に活動しているかは手水舎に表れると思います。随神門です。いやぁ、岩木山神社ほどではありませんが、東北の神社の中ではかなりの美門ですねぇ随神門右手には、福島県各地から奉納された銘酒が並びます。随神門には随神像ではなく大彦命と・・・。武渟川別命の像が置かれていました。会津の地名由来譚に基づいて置かれた物でしょうね。この様に随神門に随神像以外が置かれている神社は中々に珍しいです。近場だと筑波山神社とかも日本武尊・豊木入日子命の神像を置いています。随神門裏側には狛犬が置かれています。狛犬:阿形!狛犬:吽形!どちらも他では見られない特徴的な作風ですね。表情がかなりいきいきとしています。随神門をくぐって左側に社務所が有るので、先ずはそこに御朱印帳を預けます。引き換えに使う木札のなんとかわゆいこと・・・社務所の向いには薄墨桜という神木がおがっています。いったい樹齢何年なのか、かなりの古木に見えますが・・・。説明書きです。町指定天然記念物 薄墨桜品種:アイヅウスズミ指定年月日:昭和46年4月1日指定 薄墨桜は伊佐須美神社が明神ヶ岳からこの地に遷座された当時からの御神木であると伝えられる。何度か火災に遭うも芽吹き、会津五桜の1つに数えられている。 花は八重に一重も交わり、白く淡墨を含んだ花色は薄墨桜の名にふさわしい。花が終わりに近づくと中心から紅色が濃く色づく。普通の桜より少し遅れて咲く。 毎年4月29日にはこの桜樹の霊をまつる花祝祭が行われ、この花を入れた餅をついて祝う。香気深く花の色艶やかなので花時には多くの人が訪れる。 またこの桜花を詠んだ歌も多い。いかはかり 神やめつらん春ことに 匂ひは深き 薄墨の花弘化4年(1847年) 水野清雄令和2年12月 会津美里町教育委員会会津五桜なんてのもあるんですね。いつか咲いている所を見てみたいですが・・・。花祝祭というのも気になりますね。桜餅を狙って参加してみたいですね薄墨桜の根元には歌碑が建っております。世の人の 心や深く染めぬらん うすずみ桜 あかぬ色香に会津松平九代容保それでは拝殿です。現在の拝殿は仮設のもので、随神門に対してかなりこじんまりとしています。平成20年の火災によってかつての社殿は全焼してしまい、今では祭祀の奉斎もかなり制限されているんだとか。一応こちらから再建を推し進めている奉賛会のサイトにアクセスできます。令和12年に社殿類の落成を計画しているようですよ!ご由緒です。伊佐須美神社祭神:伊佐須美大神(伊弉諾大神、伊弉冉大神、大毘古命、建沼河別命の総称)社伝によると、凡そ2,000有余年前第10代崇神天皇10年(2.3世紀頃?)に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子 建沼河別命が会津にて行き逢い、天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)において伊弉諾尊と伊弉冉尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉斎した事に始まると伝えられます。 我が国最古の歴史書とされる『古事記』には「大毘古命は先の命のまにまに、高志国に罷り行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父 大毘古と共に相津に往き遇ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。ここを以ちて各遣はさえし国の政を和平して覆奏しき。ここに天の下太平けく、人民富み栄えき。」とあり、“会津”地名発祥の由来と創祀を共にしております。 その後、博士山、波佐間山(現・明神嶽)と会津の山々を巡り、第29代欽明天皇13年(552年)に高田南原(現・境内高天原)に遷られ、同21年(560年)現在の宮地に鎮座されました。以来1,400有余年、大毘古命、建沼河別命 父子も合祀し、四柱の大神を伊佐須美大神と称え奉りお祀り申し上げております。 創祀以来、古代北限の地に奉斎され悠久の歴史を培ってきた当社は、鎮護神として朝野の崇敬篤く、様々な社格や神階の奉授がなされました。 『貞観格式』において“正一位”の神階奉授の記録があり、『延喜式「神名帳」』には朝廷の名神祭に与る“名神大社”に列せられました。朝廷を含めて地方では“奥州二宮”と称えられ、開拓や東征が進むにつれ変遷があったとされる一宮に対して、古来揺るぎ無い不動の崇敬を得ておりました。寛政11年(1799年)には、第119代光格天皇より大神宮号宣下を受け“伊佐須美大神宮”と号し、現在でも扁額や御神札に名残を留めております。 また、会津文化の生みの祖神でもある当社は“会津総鎮守”とも称され、会津蘆名家や会津藩祖保科正之公をはじめ御歴代藩侯には殊の外篤い信仰を寄せられ、社殿の修改築や社領、宝物等数々の寄進が多くなされました。 降って明治維新以降戦前に至るまでは、“国幣中社”として官祭に与り、戦後は神社本庁の別表神社に列せられております。現在では、当地方の古大社である“岩代国一之宮”として、全国より多くの巡拝者が参拝に訪れております。伊佐須美神社 / 御由緒・歴史 より引用もとは山岳霊場で、伊弉諾大神・伊弉冉大神の2柱の神を祀った神社だったんですね。それが552年に現在の境内地に遷され、以来現在までの長きに渡り、地域の有力者から住民たちまで、貴賤の別なく広く崇敬を集めたようです。因みに伊佐須美神社には境外摂末社がかなり多く、地域の総社の様な雰囲気も有るのです。境外摂末社はコチラ(公式サイト)から確認できますよ!境外摂社の1つ、御田神社では御田植祭という豊穣を祈る神事が行われるんですが、詳しい説明は御田神社の記事に預けたいと思います。ここでは境内の説明書きを載せるに留めておきます。国指定重要無形民俗文化財 伊佐須美神社の御田植祭(会津の御田植祭)保護団体:御田植祭祭典委員会指定年月日:平成31年3月28日 「御田植祭」とは、田植えの時期に神田の畦に特色ある田植人形を立て、早乙女が田植歌に併せて儀礼的な田植えを行い、その年の豊作を祈る祭りである。伊佐須美神社の御田植祭は、この祭りの日本北限に位置する。祭りは7月12日を中心として11日から13日の間に執り行われる。 起源については、少なくとも中世後期まで遡ると推察される。12日午前、神職により仮面獅子(獅子頭)が童子に渡されると、小中学生による獅子追童子が神社を出発する。獅子追は、伊佐須美神社ならではのもので、子ども達は「ワッショイワッショイ」と声を上げながら御正作田(神田)のある御田神社まで町内を駆けめぐる。御田神社に着くと、御正作田に入り田を掻きならす。邪気祓いとも、田の神の来訪とも考えられる。 午後には、デコサマ(田植人形)を従えて、神輿渡御行列が御田神社へと進む。御田神社では、御正作田の時にデコサマが立てられ、楽人が歌う催馬楽(田植歌)につれて、早乙女が前進しながら御正作田に早苗を植える。なお、この催馬楽は歌詞の形式や旋律から、中世まで遡るものと考えられる。田植式終了後、神輿は再び伊佐須美神社へ向かう。 翌13日、早苗振祭が執り行われ、早苗の成長と秋の豊作が祈られる。令和元年7月 会津美里町教育委員会社殿後方には天海大僧正御手植えの桧など古木が多いです。↓の写真は県指定天然記念物となっているフジの木で、樹齢は100年以上と言われています。丁度数週間後にはキレイな垂花を見られるんではないでしょうか。斜めから。陸奥国の古社 伊佐須美神社でした。何よりも社殿の再建が楽しみです。いつまでもこのこじんまりとした社殿では物足りないですよね?公式サイトの予定図に有る通りの大伽藍に仕上がる事を期待して締めとします。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・伊佐須美神社以上です。
2026年04月22日
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東北の中でも密教系寺院が多い山形県。当然そうした古刹を改宗して中興した禅宗寺院も多くなっています。今回紹介する札所もそうした寺院の1つで、もとは天台宗寺院、今は曹洞宗寺院です。境内を構えているのは平清水。東に東北の霊峰 蔵王連山を臨み、集落の奥に向かう程木々は厚く、寺院は増えていきます。まるで蔵王から修験が山伝いに下りて来て、これらの寺院を建立していったような趣があるのです。実際山中には、昔は大日堂があり、丈六の大日如来像が収められていたと言われています。今では頭部のみが千歳山 平泉寺の大日堂に納められているばかりで、かつての繁栄ぶりは伺い知ることも出来ません。一種哀愁の様な風情が感じられる場所です。2025.9.14最上三十三観音霊場六番札所:清水山 耕龍寺 観音堂入り組んだ平清水の路地の奥、立派な山門がこちらを覗いています。ここが六番札所の観音堂の別当寺 耕龍寺です。山門手前を左に折れると、林の中に小さな御堂が置かれています。こちらは秋葉権現堂。はるか遠江の秋葉山 秋葉寺から勧請した火伏の権現を祀ります。天正元年(1573年)、当山十世弓天賢揚和尚の代に勧請されました。それでは山門をぢっと見る。防腐処理された黒みがかった木材がなんとも言えませんこの様に落ち着いた外観は禅宗ならではでしょうか。非常に好みです。山門をくぐると白い玉砂利に飾られた参道が伸び、その先に大きな御堂がポツンと建っています。これが耕龍寺の本堂です。ご由緒です。清水山 耕龍寺曹洞宗 解大山安養寺末寺開山:自玉和尚勧請開山:安養寺九世 芳齡了薫大和尚本尊:釈迦三尊 耕龍寺縁起について昭和61年4月20日発行の耕龍寺復興誌によれば耕龍寺は康平5年(1062年)平清水集落東の奥地、寺ヶ入というところにあって、更に奥地、新山というところの観音菩薩を天台の修行僧によって祭祀していた。 応永元年(1394年)肥前国佐賀城下の玉林寺徒弟自玉和尚によって、千歳山座禅岩の西方に仏堂を再建され、清水山耕龍寺とした。 六世金庭慧真和尚代、文明年間(1469~1486年)蔵王半郷 安養寺九世芳齡了薫大和尚を勧請して開山とし、更に千歳山北麓の萬松寺を曹洞宗に改宗して、金庭慧真和尚が開山となる。七世南翁膺天和尚は諏訪町、法昌院を開山し、八世威州宗虎和尚は上桜田耕源寺を開山して耕龍寺の法縁が繁栄するに至った。 十世弓天賢揚和尚代、天正元年(1573年)遠州秋葉寺から秋葉大権現を勧請して祠宇を建立し、火盗潜消を祈願したが、明治年間の強風にて崩壊し、そのままとなっている。 十四世天宙良高和尚代、元禄11年(1698年)新山の地より現在地に観音堂を移転し、大修理して観音菩薩を耕龍寺の鎮守仏として祭祀し、最上三十三所霊場第六番とした。また東山三十四観音霊場三十四番として等身大観音菩薩も安置されている。十五世孤峰不白和尚代、最上三十三所観音堂地内に能化地蔵菩薩石像を建立され、地方の信仰を集めている。 十七世中興裔仙白苗和尚代、寛延2年(1749年)千歳山南麓の現在地に耕龍寺が移転された。 二十六世再中興雄道峰淳和尚代、安政元年(1854年)境内西の山頂に石の雷神堂を建立して雷火減除を祈願した。観音堂境内には阿古耶姫の硯石といわれている四季に亘り水の渇くことがない伝説の岩がある。耕龍寺の阿弥陀座像 この佛像は、もと平清水の南龍山の麓にあった念佛堂の本尊と傳えられている。 いつの頃か、(年代不明)荒廃した念佛堂は改修も行われず、また、別当の死去により、堂宇内の佛像、佛具等は、平泉寺、耕龍寺の2ヶ寺に分け、それぞれお祀りをして、今日に至っていると言われている。念仏堂にあった佛像として判っているものはこの佛像だけであるといわれている。 『山形市で調査した資料によると』、台座から光背までの高さ 140㎝あり、光背の裏側には、安永3年(1774年)銅町の鋳物師 佐藤金十郎・渡部与一郎・太田与惣治の銘があり、鋳物の技術にも勝れており、銅町の代表作ともいわれている貴重な佛像である。昭和54年6月10日、火災のため本堂・庫裡が焼失したが位牌堂に祠っていたこの佛像のみが幸いにも焼失を免れた。わがさと平清水刊行会 「わがさと平清水」 118~120ページ より引用山中にあった念仏堂の本尊が伝来しているみたいです。肩から手首まで緩やかな曲線を描くように袖が伸び、腰のあたりで地面に接しています。腹部から垂れる腰帯の表現も滑らかで素晴らしいです。頭部はキレイな卵型で、螺髪の1つ1つが大きく表現されているのが特徴でしょうか。一応こちらから像容を確認することができますよ!11世紀頃までは天台宗だったようですが、応永元年(1394年)に自玉和尚によって曹洞宗に改宗されています。寺観が整ったのはそれから100年近く経った六世金庭慧真和尚の代でしょうか。このころ總持寺直末の安養寺から芳齡了薫大和尚を迎えて開山としています。現在地に遷ったのは寛延2年(1749年)で、そこから現在に至るまで地域を代表する曹洞宗寺院として崇敬を集めています。斜めから。樹々がキレイに剪定されており、かなり整った境内でした。札所の観音堂は、本堂裏手の墓地の奥に鎮座しています。墓地の中ほどまで来ると、桜の木の根元に石の鳥居が建っており、この先に観音堂があるみたいです。行ってみましょう。石段の上に観音堂が一人ポッツと建ってらじゃ。造りは一般的な宝形造。近くで見てみるとやはり壮観ですね山形の観音堂と言えば、今でも歴代の納め札が打たれていることで有名。その数や、堂の壁面を覆わんばかりと、本当に篤く信仰されていることが分かりますねご由緒です。耕龍寺観音堂開基:源頼義本尊:平清水観音(十一面観音)最上三十三所観音第六番平清水について 人皇七十代、後冷泉天皇の御宇、源頼義、勅命を奉じ、奥州の安倍貞任一族征討の師を率いて東下するにあたり、平清水の入山(新山)に来たり、風光明媚にして戦陣の利ある地と定め、勝利を京都清水観音に祈願して軍を進め、連戦連勝、朝敵を討ち亡ぼしたので凱戦に臨み堂宇をこの地に建立し、京都清水観音を勧請して祀ったのが初めてとされている。以来この山を観音山といって、当時は最上川以東三十三ヶ所の守護佛として一般の信仰篤く、賑わい、歴代の領主も亦深く帰依して数々の寄進等があったといわれる。 以来幾星霜、応永年中、現在の千歳山公園の所にあった耕龍寺に遷座し奉り、以後、観音堂の棟札によれば、宝永8辛卯年(1711年)3月17日、現在のお堂を建立し、将来、耕龍寺の奥の院として祀ったと言われている。 なお、内陣の工作は未完成であったので、その後、補修して完成したのが耕龍寺十五世孤峯大和尚代、享保3年戌戌9月17日となっている。以後、今日まで地域の信仰を集め、季節を問わず多くの参詣者で賑わっている。わがさと平清水刊行会 「わがさと平清水」 120ページ より引用源頼義開基の伝説を持ちます。最初は山中に建立され、元禄11年(1698年)には耕龍寺境内に遷されたようです。寛延2年(1749年)には耕龍寺と共に現在地に移転、現在に至ります。堂内を覗くと、今でも十一面観音は微笑で参拝者を迎えます。脇には如意輪観音の姿も見えますね。通常清水寺関連の仏堂は千手観音を本尊とすることが多いようですが、ここは十一面観音が本尊となっています。最初は千手観音が、後に十一面観音が伝わったとかなんでしょうか。観音堂の左手には地蔵堂が建っています。如意輪観音の様な面白い体勢の地蔵尊ですが、こちらは山形百八地蔵尊霊場:5番札所の本尊です。山形百八地蔵尊霊場は、こんな感じで小堂に祀られている地蔵尊が主で、今回の最上三十三観音霊場の札所の中にも幾つか見られました。広い山形に散らばる108の地蔵尊・・・。面白そうですが、先ずは出羽百観音を結願したいところです。御詠歌ながれすむ まつかぜかおるこうりゅうじ じぞうぼさつの めぐみやさしく斜めから。遥か11世紀の開創譚を持つ観音堂でした。平清水には他にも面白そうな寺院が幾つかあり、それらをまわれば当地の仏教文化についてもう少し詳しくなれそうです。やはり東北は蔵王連山の東西両麓に面白そうな仏閣が散らばっています。名前からして修験の聖地であることは言うまでも無いんですが、その麓に登拝のための拠点が造られるというのは想像に難くないでしょう。ここもそんな仏閣の1つだったんでは、なんて考えながら、締めたいと思います。御詠歌ひがしやま ながれはおなじひらしみづ むすぶこころは すずしかるらん本尊:平清水観音(十一面観音) एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。
2026年04月21日
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上田市西方の別所温泉。全国的に見てもかなり古い歴史を持つ温泉地です。JR上田駅から伸びる上田電鉄別所線の終着地であり、駅舎も面白い形をしております。町は細路地がメインですので、徒歩で周るのが良いでしょう。町のあちこちに駐車場が有るので、アクセス自体は車でも問題ありません。今回は常楽寺参拝前の腹ごしらえで”お茶の間”という食事どころに立ち寄りました。信州特産の胡桃をふんだんに楽しめるうどんセットは絶品ですお茶の間常楽寺の参道脇に別所神社の一之鳥居が有るんですが、その手前にお店を構えております。外観は古民家風で、温泉地の景観と相性ばっちりですね。2026.4.18くるみうどんセット信州と言えばそばというイメージが有るんですが、うどんもコシがあっておいしかったです。セットには嬉しいことに小鉢が幾つか付いてくるので、味変しながらいつまでも楽しむことができます。サラダやポテサラ、生姜の砂糖漬け、ちくわの煮物など、普段自分では作らない料理をいただけるのは嬉しい限りでありますなによりも良かったのがうどんのつけダレ。めんつゆの中に入っているのはすりおろしたクルミです。これを良く溶いてうどんをくぐらせ、ちゅるりとすすってみましょう。・・・定義が難しい単語なんですが、コクがかなりあるつけダレに仕上がるんです。胡桃の香ばしさは勿論のこと、少々塩味の切れ味が上がって津軽衆も満足できる味付けになるのです。長野も青森同様豪雪地帯ということで、味付けには似たものがあるんでしょうか。・・・久しぶりにうどんをここまでおいしいと思いました!あんみつ塩味の次は甘味という事で、デザートにあんみつをいただきました。あんみつも通常はセットで提供されるので、先ほどの小鉢が付いてくるんですが、今回はうどんと一緒に頼んだという事で、重複する小鉢部分は価格を引いていただけるという事になりました。あんみつは寒天の上にアイスやらあんこやら、果てはフルーツまで添えられた豪華なものです。白あんのシロップをまわしかけていただきましょう。心身の疲労に直撃する嬉しい甘みをしっかり楽しめるのです。別所温泉には古刹と共にこうした食事どころがいっぱいあるのです。温泉と食事とで心身を癒し、巡礼を続けるための体づくりをすることが出来ました。信州の鎌倉とも称される土地には、歩き甲斐のある古い町と、食べ甲斐のある美食とが溢れていたのです以上です。
2026年04月19日
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長野県上田市の西方、山際の地に別所温泉という古湯処が拓かれています。もともと全体的な平均標高の高い長野県ですが、別所温泉は上田市街から更に標高の高い所にあり、冬には身を切るような寒さが伴います。昨年の12月に北向観音堂に参拝した折、三楽寺というのがあるんだと知り、今回はそれらをまわってみることにしました。温泉地に着くと満開の桜の側に楼閣の様な仏堂が建っています。この特徴的な仏堂は七苦離地蔵堂で、三楽寺の1つである常楽寺が別当を務めています。近くの説明書きによると、別所温泉はもともと”ななくりの里”と呼ばれており、これは”七苦離”、つまり七難八苦の様な諸難から解放されるという事を意味しています。そのような願いを、常楽寺所蔵の地蔵尊(平安時代後期作)に託し、ここに収めました。この堂が常楽寺参道の起点となっています。七苦離地蔵堂から更に坂を上っていくと、左側に北向観音堂、右側に安楽寺の黒門が建っており、往時よりの主道だったことが分かります。この観音詣出のための道は遥か上田市街から伸びており、江戸時代以前より人々に踏みしめられてきた歴史ある道であります。↓に説明書きの一部を載せますね。北向観世音道(別所街道・別所往来・別所往還とも呼称)跡 温泉と観音様で知られる別所は、昔から湯治や観音様詣で賑わい、別所を最終目的地として上田小県地域各地からの道がいくつか伸びてきました。 上田城下から千曲川の渡し場を舟または舟橋で中之条字日尻町へ渡り、神畑から塩田平北部を通ったこの道は、上田城下から別所まで最短の道として長い間賑いました。湯治や観音様詣だけの道ではなく、近くの集落や村に繋がる生活道路でもあり、上田城築城以降藩政や商業の中心として急速に人口が集積した上田城下と、塩田平を結ぶ重要道路でもありました。 明治後半から平成初期にわたる度重なる付け替え工事や大改良工事でより広い直線的な道となり、今は県道鹿教湯別所上田線と別所丸子線(一部重複)が正式名称になっています。北向観世音道(別所街道)の最終地点 別所 絶えることなく湧き出すいで湯の近くに、平安時代に常楽寺 ・安楽寺・長楽寺ができ、大勢の僧が集まり修行していました。 僧侶の手によって未開の地が開発され、お堂や家が建てられ国からそれぞれの寺が認可を受け領有地として広がっていった所が別所と呼ばれ地名になったといわれています。 平安時代末期、世の中が乱れ末法の世になっていく中で、観音信仰が高まり、特に千手観音は、千の慈悲の手で人々の苦しみを救うといわれ信仰が厚かった。このような中で北向きに堂宇を建て千手観音をお祀りしたのが北向観世音堂の始まりです。 厄除けの御利益のため、善光寺と別所の北向観音両所へ参拝しないと「片まいり」で御利益がうすいといわれ、両所への参拝が江戸時代半ばから盛んに行われてきました。 観音堂は長楽寺が管理していましたが、江戸時代半ばに廃寺になり、それからは常楽寺が管理しています。 温泉は「大湯・大師湯・玄斉湯・石湯・こが湯」がありました、特に大湯には藩主のお茶屋御殿があり盛んに湯治に訪れていました。江戸時代の終わりのころは21軒の旅籠があり別所街道は参詣や湯治のため大勢の人が行き交う重要な道でした。 明治25年作成の別所村全図を見ると、道路は上田から小島・八木沢経由の別所街道が主な道路で、途中から別れ大湯に出る道、市坂経由で浦野に出る善光寺道、比蘭樹から丸子方面に出る道路がありました。 別所街道は郡道として明治33年から明治収年にかけて改修され、別所では将軍塚から北向観音前までが新道として開通しました。 別所街道はその後大きな付け替えはなく、部分的に拡幅改良され現在に至っています。伝説によると別所温泉の開湯は上古の頃にまで遡るとされ、発見したのは日本武尊だともされています。そこから現代まで、数百年の間地域の人々から愛されて来た名湯中の名湯です。なんでもこの辺りの娘さんは嫁入り前に入湯し、肌をきれいにしてから嫁いでいったなんて話もあるくらいです。僕はまだ公衆浴場の愛染の湯にしかはいったことが無く、いつかは他の湯にも浸かりたいんですが・・・。それでは参道を進みましょう。奥に見える山の麓が常楽寺の境内です。2026.4.18金剛山 照明院 常楽寺参道も半ばまで来ると、道の両脇に祠が2つ建てられています。これらは仁王堂で、中に小さな仁王像が収められています。外観は新しめであり、最近建立されたのは言うまでも無いんですが、地名に残るほど古くから存在していた様なんです。いつの頃か衰退し、平成6年11月に伊藤忠正氏によって当時の姿のまま再建を果たしました。ここまで来るともう本堂は目の前です。茅葺屋根が垣根を飛び越してチラリと見えていますね。さぁ、境内に向かいましょう・・・と言いたいところなんですが、もうお昼です。かなりの空腹に倒れてしまいそうですよ・・・そんな時、天の救いか参道脇に茶屋がありました。名は”お茶の間”。信州名物の胡桃をふんだんに使った美味を味わえます。まずはここで腹ごしらえしました。腹ごしらえの後に腹ごなしで別所神社に詣で、それから本堂へ。皆さんどうでしょう。信州は茅葺屋根の仏堂が特に多いんですが、やっぱり日本らしさが感じられて素晴らしいですね近くの前山寺の本堂も、常楽寺同様すんばらしい茅葺屋根でした本堂の手前には四方八方に広く枝葉を茂らせた古松が生えております。通称 御舟の松、なんでも阿弥陀如来が差し出す救い舟の形をしているんだとか。本堂には庫裏が連結しており、こちらも同様に茅葺です。本堂と共に平成15年に修復され、創建当初の姿に改められたそうです。再び本堂。うーむ、どこから見ても素晴らしいいつまでも見ていたくなります。当然の様に市指定重要文化財に登録されており、堂内天井には美しい花々が描かれています。実際の写真は公式サイトよりご覧ください。今回は「常楽寺綜攬」という書籍をもとにご由緒をまとめてみました。金剛山 照明院 常楽寺天台宗別格本山 比叡山延暦寺末寺開山:慈覚大師本尊:妙観察智阿弥陀如来(宝飾した姿の阿弥陀如来) 常楽寺は長野県上田市別所温泉に境内を構える天台宗寺院で、その創建は遥か昔の天長2年(825年)に遡れると言われています。当山廿二世・廿三世である性算と頼真によってまとめられた『信濃国出浦郷北向堂縁起』には、以下の様な開山譚が記されています。 『――天長2年(825年)、当時「七久里の湯」といわれていた別所の丑寅(東北)の方角、草木うっそうたる山裾の辺から毎夜光明が立ち上るので、里人たちはこれを奇異とし、みな心に畏れの念を抱いた。 やがて6月を迎えるころ、地底が震動し、大きな火阬(火口)から火煙が噴き出るようになった。時の信濃守護職は、これを驚き憂え、直ちに京都に上って事の次第を奏上した。朝廷では、これは「仏」の出現される瑞兆(めでたいしるし)であろうとされ、時の比叡山 延暦寺の座主である慈覚大師(最澄の弟子 円仁)に数名の僧を添えて信濃国別所へ遣わされた。 別所へ到着した慈覚大師は、直ちに火阬に向って台密による安鎮の秘法を修せれらること17日、10月25日の明け方に、突如阬中から紫雲が湧き起り、金色の光明があたりを照らしながら南方へ飛び去った。大師をはじめ里人たちはこの奇瑞を喜び、光明の向った南方の北向山の山麓あたりを探したが何も見当らなかった。 ところがその夜、大師が禅定(仏を念ずる姿)に入られると、虚空から妙なる声でお告げがあった。 「汝をこの地に招こうとして、火阬に霊異をあらわしたが、汝の深甚な修法をうけ、今この北向山の桂の梢に止まっている。わが止まる所は有縁の净地であるから、わが像を北に向けて安置せよ。そうすれば北斗星が世の指標であるように、われもまた一切衆生(生きとし生けるもの)の依估(よりどころ)となろう。」 そこで大師は桂の梢を仰ぎ見られたところ、そこに金色の千手観音のお姿を拝見することができた。直ちに一刀三礼の古式によって観音の木像を彫まれ、その胎内に樹上に拝見した仏体を納められた。ついで良木、名匠を集めて北向きの観音寺院を建立、天長3年(826年)10月25日に遷座、法要を営んだ。これが別所北向観音の草創である。――』これは北向観音堂の開創譚でもあり、古くから常楽寺と関りの深い仏堂だったようです。この開創譚の北向観音(千手観音)降臨の地には石造多宝塔(鎌倉時代前期建立)が建てられ、現在も常楽寺本堂裏手にひっそりと建っています。 創建当時の詳らかな歴史は不明ですが、開山当初は天台宗以外の宗派であった可能性もあるようです。しかし早い段階から天台教学を学ぶ学問所としての属性が強くなり、14世紀頃まで”信州の学海”と称される学問寺院として位置づけられていました。13世紀には無関普門・樵谷惟仙などの禅宗を代表する名僧が来山しており、無関普門の塔銘・文禄の塔銘などで裏付けられています。 また、神奈川県の金沢山 称名寺が管轄する金沢文庫では、正応5年(1292年)常楽寺で写経されたと巻末に記載された「十不二門文心解」という経典が現存しております。享徳元年(1452年)にも天祐という僧が、信濃国常楽寺において法華経を書写し、寺の裏山へ埋めたという記録が残っています(『信濃史料』第八巻301頁 「願文集」)。 元和3年(1617年)には真田信之公から寺域の寄進があり、同年上野国 世良田山 長楽寺にて天海大僧正開催の灌頂大法会に招かれています。元禄7年(1694年)には別所の長楽寺に代わり北向観音堂の別当となっているため、この頃三楽寺の内の1つである長楽寺が衰退したものと思われます。 一時期世良田山 長楽寺末寺となりましたが、明治2年(1869年)には比叡山延暦寺末寺となり、現在に至ります。 本尊は妙観察智阿弥陀如来で、着冠宝飾した阿弥陀如来の姿をしています。如来が宝飾する例としては、臨済宗寺院における宝冠釈迦如来などが挙げられますが、基本如来部は宝飾しないのが一般的であり、大変珍しいものです。因みに本尊や寺宝の類は、「常楽寺綜攬」の最初の項にてご覧になれますよ!本堂入り口には寺号額が懸かっているんですが、そこには”常楽台寺”と刻まれています。密教系寺院であればよく〇〇密寺という表記はあるんですが、この様に〇〇台寺となっているのは初めてです。密教寺院というよりは、天台宗の学問所という点を推し出してのことなんでしょうか。本堂左手から、裏側の石造多宝塔を見にいきます。道の途中には異国の風情が漂う石仏群が置かれているんです。なんかこう、日本というよりは大陸の感がありますよね。特に後ろの文殊?普賢?などは乗り物がかなり動的で、近代リアリズムの銅像に似た作風に感じます。手前の石仏を見てみましょう。・・・うーん、千手観音というよりは准胝観音に見えますが、どう思いますか?こっちは間違いなく聖観音でしょうね。肉付きの良い童子風の体形が良く表現されていました。面白い石仏に数分見とれてしまいましたが、いよいよ石塔群の前まで来ましたよ。歴代住職の墓を過ぎると、参道両脇にズラーッと石の五輪塔が並んでいます。これらも墓なのか、それとも違うのか、良く分からないんですが、どれも苔生し崩れかけ、幾星霜もここに置かれていたことが実感できます。この寺の長い歴史を静かに語っているかの様です。最奥に国指定重要文化財の石造多宝塔がありました。脇には幾つもの多層塔が林立し、小さな仏都の様にも見えてきます。境内説明書きによると、多宝塔は寿永年間(1182年~1184年)に焼失した木造多宝塔に替わって、弘長2年(1262年)建立されました。その時内部に金銀泥で書かれた一切経が奉納されたそうですが、現存はしていないみたいです。この石塔がある辺りに火口が出現し、そこから紫雲と共に千手観音が顕現、北向山(北向観音堂境内)に飛び去ったとの事です。説明書きに石塔の各部分の名称が並記されていたので載せたいと思います。斜めから。長野県は山がちな事もあって、山岳寺院の類がかなり多く現存しています。禅宗も多いんですが密教系の寺院も豊富で、かなり古くから仏教や修験道が浸透していた様です。本寺院も天台宗の学問所として栄え、別格本山の寺格までいただいている所を見ると、天台の教えを広めるにあたりかなり重要視されていたことが伺えます。いつまでも見ていたくなる茅葺の大堂も美しく、松が飾る境内は御山の風情を感じさせ、何とも味わい深い古刹でした。信州の胡桃の様に濃密なコクのある時間を過ごせました今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・天台宗別格本山 北向観音・常楽寺以上です。参考文献:常楽寺美術館 「常楽寺綜攬」 常楽寺, 塩田文化財研究所 編18~32ページ(四)常楽寺と上田市塩田地方 常楽寺は、長野県上田市塩田地区にある。上田市といえば、前述のようにすでに信濃国分寺の跡が発掘されているので、諸国の通例により、信濃国府があったところと想定され、目下その調査が進められている(ただしこの国府は平安初期には現在の松本市阪に移転した)。信濃国府とは、古代信濃の政庁の所在したところ――いはば今の県庁所在地に当り、信濃国の政治経済の中心であった。 それでは何故上田地方(かつては全体的に小県郡といった)が信濃国府や国分寺の所在地に選ばれたのだろうか。その根本の理由として、まず考えなければならぬのは”塩田地方”の問題であろう。 上田市の西南より千曲川の左岸の盆地を塩田平と呼んでいる。わずか数㎞平方の平坦地にすぎないが、そこには十指に余る国宝・重要文化財・県宝等の建築物や仏像がある。多くは、鎌倉時代と関係があるので、「信州の鎌倉」と呼ばれ、年間何10万の見学・観光の人が訪れるところでもある。 それらの神社仏閣の中で最も古い由緒をもつものに下之郷区の生島足島神社があるが、この神社はとくに生島神・足島神の2神を勧請していることによって知られる。生島神・足島神はわが国の国土生成に関係ある神で、「国魂の神」として重要な存在であるが、この神が何故ここに勧請されているかというと、それは実は信濃国の国造がここに居所を構えていたからである――ということが定説となっている。 国造というのは、古代の一国の長官を指すことばで、さしずめ今の県知事に当るとでも言えよう。つまり古代――おそらく日本国の体制が出来はじめたころ、この地に大豪族が存在していて、それが中央から信濃国の長官として任命された。その大豪族である国造が中央(宮中)から勧請した神が、この生島足島の2神であったと想定される。 今から約1,000年前に出来た『延喜式』という書物に各国々の重要な神社が記されていて、信濃国には48座数えられる。その筆頭にあるのが諏訪神社2座(上社・下社、何れも諏訪郡)で、次がこの生島社・足島社の2座となっている。つまりこの神社の祭神は信濃では諏訪神社の祭神(建御名方神・天照大神の甥といわれる、およびその女神)につぐ高い位置にあったことを物語っている。それは信濃国造が奉斎する神であったからであろう。 上田市(もと小県郡)の塩田地方は、以上のことでもわかる通り、神代のころから信濃の重要地点であった(生島足島神社の東方、東山一帯には、他田塚と呼ばれる円墳をはじめ大小数10基の群集墳のあとがあり、国造族に関係するものといわれている)。 信濃国造の後、信濃国を支配するものとして信濃守が任命された。その居所が国府である。それはおそらく千曲川の右岸に設けられ、国分寺もその近くに建設されたのである。 さてこのように塩田地方は古代からの信濃国の重要地点であった。おそらく奈良時代に施行されたと思われる「条里制」のあとが最近までいくつもこの地方にのこっていた事実がそれを証明する。そして、古墳時代から、弥生時代・縄文時代と遡っても、この地方には、各所に住民生活のあとがたくさん残っているのをみると、何千年もの遠い昔から、この地方は古代人のよりよい生活の場所であったらしい。 人間が集まって生活を営むとき、まず求めるものは食糧であろう。塩田地方は降雨量こそ少いが、信州指折りの温和の気候と肥沃な土地をもち、よく住民の要望をみたすことができた。 次に必要なことは健康の保持である。寒暑に堪える衣服や住居のこともさることながら、不時に出会う災難とくに病気やけがなどには、応急の手当てを必要とする。 医薬のことなど発達していない時代であってみれば、頼れるものはまず草根木皮である。経験からわり出した内服用・外科用の植物などあったに相違ない。せんぶり・どくだみ・おおばこなど案外古くからその薬効が知られていたものではなかろうか。 次に着目されたのは温泉による療法であろう。湯によってあたためるということが、疾病や疼痛には著効があるということに古代人も気づかない筈はない。ところがその湯が、自然にこんこんと沸き出している場所があるとすれば、誰しもそこへ寄りつくに違いない。そして湯の湧き出口やたまり場を利用して、あるいは全身を、あるいは傷口をあたため、それが想像外の治癒力となることを発見する(「傷のなおることを鹿が教えた」などという伝承はそこから生れたものであろう)。当然その場所は霊効ある場所として口コミによって宣伝される。そして人々の集るところとなる――それがいわゆる“いで湯”である。 古代の人々が何時からこの”いで湯”を利用し始めたかは判らない(おそらく太古からであろう)。『日本書紀』などわが国で最も古い記録をみても、温泉のことはかなり早くから散見する。 そしてそれは「有間の湯」「伊予の湯」「紀の湯」「束間の湯」などの名であらわれ、これらの地へは天皇なども行幸したなどとも記している。それはその「いで湯」の地が全国的に著明となっていたことを物語るもので、またその心身にわたる効能もあまねく人の心に知れわたっていたことを示唆する(とくに信濃にあった束問の湯――いまの浅間・山辺の温泉と想像される――には、行宮――仮りの宮殿――を建設する計画が練られた程であった)。 このような”いで湯”の刮目すべき効能は古代人にとっては当然神仏の霊験と解釈される。そこでそこには神仏が祀られ、人々は健康の回復を、その神仏のお陰と感謝するようになるのはごく自然といはねばならない。 いま全国各地の古い温泉地で神仏の祀られていないところはおそらく絶無である。中には霊泉または神の湯と信じ「霊泉寺」また「神の湯」というような名称をそのまま土地の名にしているところさえある。こうして”いで湯”の効能は神仏に結びつき、またその神仏を信仰することが、”いで湯”のもたらす治癒力や爽快感を味うことと相乗して、日本の温泉地はいよいよ発展するようになった。常楽寺のある別所温泉も当然その例にもれない。別所温泉が発見され、また利用されるようになったのはおそらく太古のころからであろうことは、大字「別所温泉」地域内から発見される考古学的遺物や遺跡が物語るが、近くにあった生島足島神社や国府・国分寺等、信濃国の古代の政治宗教の中枢に在った人々がこれを見逃すわけはない。 おそらく別所の湯は、国造時代――さらにさかのぼっては王子塚(塩田地区大字新町、上田市小県地方第二の大古墳、6世紀)時代の人々から利用されていたのであろう。そしてそこにはすでに原始的ながら信仰の対象がまつられていたものと想像される。それが別所の北向観音の祖形と考えて大過あるまい。(五)常楽寺と北向観音 別所の北向観音については、別項に記述されるので、詳細はそれにゆずり、ここでは観音の成立と常楽寺の関係について考察してみたい。そのためには、いったい観音信仰というものは、何時ごろからはじまったものか記さねばならない。 いま日本に残る仏体の中で明らかに観音像と考えられるもののはじめとしては、辛亥年(651年)の銘のある48体仏(もと法隆寺、現東京国立博物館所蔵)の中の一仏があり、これと前後するものに、観心寺の観音(戊午一658ーの銘がある)などがある。このころからわが国の観音信仰が盛大となり、阿弥陀信仰よりむしろ優位をしめていることを諸種の研究が教えている。そしてその像容も、聖観音・十一面観音・千手観音などいろいろなかたちとなって国内にひろめられていったようである。 北向観音の本尊は千手観音である。千手観音は十一面観音とともに観音信仰の中心となった仏で、日本の最初の「千手観音信仰」は、奈良時代の初期(霊亀2年・716年)に唐に入って修業し帰朝した玄明という僧によって弘布されたものとされる。その後、奈良時代から、まず都を中心としてこの信仰が盛んとなり、次第に地方へ普及していく。奈良時代の造像になる唐招提寺(奈良市)や葛井寺(大阪府)等の千手観音は有名なものだが、平安時代に入って京都府広隆寺、滋賀県園城寺(三井寺)、大阪府勝尾寺などの木彫仏像は優作として名高い。 わが長野県では県下最古最優の木彫像として知られる龍燈山 清水寺(長野市松代西条)の本尊 千手観音(重要文化財)が、平安前期の成立であることをみると、千手観音信仰は、平安前期にはこの信濃でもかなり盛んとなっていたことが想像される。 このような観音信仰の歴史をたどっていけば、北向観音の歴史はおよそ次のように推定できよう。 まず原始時代から、温泉のすぐれた効能が、偶像化され信仰の対象となり、現在の北向観音の地に祀られた。それはおそらく神とも仏ともつかないものであったであろう。その後仏教の伝来に伴って、とくに国造や国府の所在地にいち早く弘布されて来たのは観音信仰であった(中国仏教では観音信仰が阿弥陀信仰に先んじて成立したとされている)。 そこで温泉の霊験に結びつく信仰の対象は観音となった。同じ観音信仰にしてもおそらく東山道が通過し、国造・国府の所在地であったこの地には、都で最も盛に行われていた信仰――すなわち十一面観音または千手観音信仰が一番早く入ってきたことは推察に難くない。そのよう考えてくるとき、北向観音の本尊は、はじめから千手観音であったとしても、決して不合理ではない。 信濃最古の木像、前述の清水寺の本尊が、同じく千手観音で平安前期のものであり、またすぐ北方4㎞の古刹 大法寺(その前を東山道が通っていたことは既にのべた)の本尊が十一面観音で、これも平安中期の造立と推定されていることから推して、歴史的文化的意味の濃い別所の地の信仰の対象は十一面観音として、かなり早く造顕されていたかも知れない。別所の東北約10㎞の現上田市字国分には、すでに奈良中期に「天平一三年(741年)の詔」をうけて国分寺僧寺・尼寺の建設が着手され、それから数年後には大伽藍が完成していた時代であることも考えれば、少くとも奈良末期には、別所温泉は観音信仰の場所として定着していたと考えて大過あるまい。 それにつけても連想されるのは『日本霊異記』に記す小県郡を舞台とする2つの説話である。 『日本霊異記』といえば現存するわが国最初の説話集であり、奈良時代の主として仏教に関する説話を集大成した貴重な典籍として知られる。編纂されたのは平安初期、少くなくとも弘仁14年(823年)前後と考察され、平安遷都してから30年後のことで、まだ記憶に新らしかったと思える奈良時代の仏教説話が生々しく物語られている(もっとも、因果応報物語であるから不思議なことも多く記される)。この『日本霊異記』の中には全国からのニュースがたくさん集められているが、そのうち畿内(都の近辺)を別とすれば、東山道筋と東海道筋が最も多い。 その東山道筋では11の話が載せられているが、興味あるのは信濃関係の説話が2つあり、その2つともわが小県郡の出来事であったことである。 1つは信濃国小県郡跡目里(現在の上田市浦里および青木村地方と推定される)の記事で、他田舎人蝦夷という土豪があまりよくないことをしていたが、法華経の写経を行っていたため、死後、とくに生前の罪を許されて生き返ったという話。 1つは同じく小県郡康里(現東部町)の記事で、大伴連忍勝たなる土豪が氏寺をつくって信心していたがある日突然急死した。ところが5日ばかりで生き返った。その理由は生前あまりよくないこともしていたが、堂を建て信心していたからということであった。 以上の説話は何れも宝亀4.5年(773.774年)のこととしている。これは奈良朝末期のことで、すでにこのころ、小県郡地方には豪族を中心として、写経し、氏寺を建てるなどのことが行われたことを物語っている。とすれば同じ地方にある別所の地にも、あるいは大きな勢力者がバックとなってかなり大きな霊場が生長していたことは当然想像される。長楽・常楽・安楽のいわゆる『三楽寺』はもちろん、この霊場に伴って成立したものであろう(常楽寺は天台宗、安楽寺は禅宗――もと律宗と伝える。長楽寺は今のところ廃滅してしまっているが、本尊や寺院配置からみておそらく天台宗であろう。しかし奈良時代には天台宗はまだ伝来していない筈であるから、長楽・常楽の2寺はもっと古い宗派であったかも知れない)。 このうち長楽寺は、その位置からみて観音の別当寺(お守りをする寺)であったことは間違いない。また常楽寺は観音出現の場所と伝えられ、観音とは特別の伝承によって結ばれている。(六)常楽寺と「北向観音縁起」 常楽寺に所蔵される『信濃国出浦郷北向堂縁起』という記録は、常楽寺の第廿二世・廿三世となった性算と頼真が筆をとったと伝えられるが、その中に次のような記事がある。 『――天長2年(825年)、当時「七久里の湯」といわれていた別所の丑寅(東北)の方角、草木うっそうたる山裾の辺から毎夜光明が立ち上るので、里人たちはこれを奇異とし、みな心に畏れの念を抱いた。 やがて6月を迎えるころ、地底が震動し、大きな火阬(火口)から火煙が噴き出るようになった。時の信濃守護職は、これを驚き憂え、直ちに京都に上って事の次第を奏上した。朝廷では、これは「仏」の出現される瑞兆(めでたいしるし)であろうとされ、時の比叡山 延暦寺の座主である慈覚大師(最澄の弟子 円仁)に数名の僧を添えて信濃国別所へ遣わされた。 別所へ到着した慈覚大師は、直ちに火阬に向って台密による安鎮の秘法を修せれらること17日、10月25日の明け方に、突如阬中から紫雲が湧き起り、金色の光明があたりを照らしながら南方へ飛び去った。大師をはじめ里人たちはこの奇瑞を喜び、光明の向った南方の北向山の山麓あたりを探したが何も見当らなかった。 ところがその夜、大師が禅定(仏を念ずる姿)に入られると、虚空から妙なる声でお告げがあった。 「汝をこの地に招こうとして、火阬に霊異をあらわしたが、汝の深甚な修法をうけ、今この北向山の桂の梢に止まっている。わが止まる所は有縁の净地であるから、わが像を北に向けて安置せよ。そうすれば北斗星が世の指標であるように、われもまた一切衆生(生きとし生けるもの)の依估(よりどころ)となろう。」 そこで大師は桂の梢を仰ぎ見られたところ、そこに金色の千手観音のお姿を拝見することができた。直ちに一刀三礼の古式によって観音の木像を彫まれ、その胎内に樹上に拝見した仏体を納められた。ついで良木、名匠を集めて北向きの観音寺院を建立、天長3年(826年)10月25日に遷座、法要を営んだ。これが別所北向観音の草創である。――』 以上が常楽寺所蔵の「北向観音縁起書」の伝える概要である。もとより伝承のことであるから、学問的に真否は確めようもなく、またその必要もないが、ただこの内容から想察されることは、常楽寺はもともと北向観音と並々でない関係をもつ寺であったということである。現に常楽寺境内には、その信仰の中心に当るべき場所に巨大な石造宝塔が建ち、そこが北向観音出現の火阬跡と伝えられている。 この石造宝塔は多重塔形式のものであるが、その様式からみて、少くも鎌倉前期に遡るものであることは間違いなく、その故に国の重要文化財に指定されているのである(石造多宝塔で国の重要文化財に指定されているのは、この塔の他に滋賀県に1基あるだけである、68頁参照)。 またこの石造塔周辺から無数の五輪塔・宝篋印塔・多重塔が発掘され、その一部が、この重要文化財指定の多宝塔の前面、参道両側に並べられている。これらをみると、鎌倉~室町にわたる長い時期に、この地域一帯が一大霊場であったことが想像される。(七)常楽寺の性格 北向観音堂の直接の別当寺は、長楽寺であったことは、長楽寺の遺地構から推して疑いないが、その長楽寺と常楽寺はもともと深い関係があり、あるいは長楽寺は観音堂を守って台密の信仰方面を担当し、常楽寺は同じく台密の道場として修学研鑚の場となっていたのではなかろうか。 常楽寺の本尊は妙観察智弥陀如来という。「妙観察智」とは密教では五智の一で、「西方無量寿仏の智徳に配す」とされる。つまり阿弥陀仏の智徳を表す意味である。常楽寺が本来学問の寺であったことは、その本尊によっても示唆されているといってよい。その故かこの寺は、由来学問修業の道場であったことが種々の史料によって立証されている。以下その若干をあげてみよう。 常楽寺の所在する「別所」地域は、上田市塩田地方に所属している。この塩田地方が古代信濃国の中心的位置を占めていたことは、すでに述べたが、その性格は中世に至っても失われていなかった。例えば、平安末源氏の嫡流から出て、専横を極めた平家打倒に成功した木曽義仲が、実際に挙兵したのはこの塩田地方のすぐ東隣りの依田荘からであった。 そのころ塩田地方は塩田荘といって、当時の最大実力者である後白河法皇の后 建春門院の領地であった。義仲の挙兵は、この塩田荘を勢力下におくことも、そのねらいの1つであったに違いない。というのはそのころから塩田地方は東信濃の政治文化の一中心地であったと考えられるからである。たとえば塩田の前山にある中禅寺薬師堂の本尊薬師如来は、信濃でも有名な古仏だが(国の重要文化財に指定される)、それはとくに平安末期のいわゆる”定朝様”の典型として知られる。このことはこの仏体を安置する薬師堂(同じく国の重要文化財に指定、鎌倉初期)とともに、塩田地方は、平安末期からすでにすぐれた仏教文化をもっていた有力な証拠である。 木曽義仲は、平家打倒には成功したが、数年にして源頼朝のため減される。しかしこの頼朝も塩田地方を極めて重要に考えたことは、まず腹心の島津忠久(惟宗忠久)を塩田荘の地頭に据えたことによっても察することができる。 この頼朝も三代にして子孫を失ったが、その勢力をうけついだ執権 北条氏はまた塩田を重要視した。北条氏で本家につぐ重要な地位にあった北条重時を信濃守護に任じ、その本拠を塩田においたと推定されているが、それは塩田地方を極めて重要視したからにほかならない。塩田の地が「信州の学海」として天下に知られるようになったのは、このころからであった。 無関普門(大明国師)といえば、信濃の生んだ日本の名僧である。彼は後に天下第一といわれた京都南禅寺の住職となった人だが、その塔銘(行跡の記録)によれば、この無関普門は幼時塩田地方に学んだことが記されている。その文にいわく「――(彼は)信州に却回して、塩田に館す。乃ち信州の学海なり、凡そ経論に渉るの学者、簦を担い笈を負い、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし――」とある。意訳すると「彼は信州にやってきて塩田にとどまった。そのころ塩田は”信州の学海”といわれ、およそ学問に志す者は、傘をもち、本箱を背負って、遠方からみた集って来た」ということになる。これは「塩田」というところが、当時信州の学問の一大中心地だったことをよく物語っている。そしてその中から無関普門のような大器が生れたのであった。 それでは、それらの学徒は一体どこで勉強したのだろうか。そのころ学問といえば、まず仏教を指すといってよい。とすればその勉学の場所は寺であったと考えねばならない。それではその寺は――となると、まず第一に常楽寺の名が上がってくるのである。それには次のような理由がある。 このころの寺は、まだ鎌倉仏教が興隆する前のことだから、天台宗とか真言宗という宗派の寺がまず想像される。塩田地方の天台・真言の寺で、たとえ寺伝にせよ、平安初期の創立と称するもので現存するのは、常楽寺と前山寺の他にはない。前山寺は真言宗であるから、天台宗では常楽寺が唯一の寺である(但し長楽寺が天台宗であるとすると、2ヵ寺となる)。つまり常楽寺は、寺伝による限りは、塩田における最古の寺の一つということになるのである。 次に樵谷惟仙の問題をあげねばなるまい。鎌倉時代の中期、信濃からまた名僧が出た。樵谷惟仙といい、木曽義仲の血をひく人とされる。若くして中国(当時は宋)に渡り径山という霊場に入り、無準師範・山祖智というような名僧の教へを勉強して帰り、鎌倉の執権 北条時頼に見出されて、別所安楽寺を創建したと伝えられている。 別所安楽寺はもともと律宗であったかと想像されているが、このときから禅宗となったらしい。しかも信州の禅寺としては最古の名刹として知られ、その境内にある八角三重塔(鎌倉末の建築、国宝、二世恵仁:中国出身の僧の建てたものと想像される)は、わが国唯一の八角塔として名高い。 この樵谷惟仙は2度も中国に留学し、鎌倉五山の第一建長寺の開山となった傑僧 蘭渓道隆と中国時代から親交のあったことも証明されており、鎌倉中期を代表するわが国の名僧の1人である。 その樵谷惟仙が実は幼時、常楽寺で勉強したことを物語る資料がある。それは現在安楽寺に所蔵される「文禄の塔銘(文禄3年・1594年に、時の安楽寺の中興開山 高山順京和尚が、次世の将奕和尚とともに記録したもの)」の中に、「崇福山安楽禅寺開山樵谷伊僊(惟遷)禅師は、源朝臣木曽の生縁なり。隣寺の常楽教寺において、年齢16歳にいたるまで、天台の学をなす(以下略)」と記されていることである。 これによれば、安楽寺の開山 樵谷惟仙は、幼時隣の常楽教寺に於て勉強したと明記している。高山順京といえば、室町末期の信濃の禅僧として有名な人で、佐久郡の竜雲寺(佐久市)・水内郡の玅笑寺(長野市)など多くの名利を開いた天英祥貞の法系をつぎ、真田氏に招かれて信綱寺を開き、さらに別所の安楽寺の中興開山となっている。この人の記録にあるのだから、樵谷惟仙が幼時常楽寺において勉強したという記事は、ほぼ確実な資料に基くものと考えてよいであろう。しかも常楽寺を常楽教寺とあえて記しているところをみると、中世末まで常楽寺はいわゆる『学間寺』としての性格を失っていなかったことを暗示している。樵谷惟仙は正に”本箱を背負い、傘をもって”勉強のために塩田に来た1人であった。そしてその参じた寺は常楽寺であったのである。 また、横浜市金沢の称名寺という名利には、有名な「金沢文庫」があり貴重な資料を多数保存しているが、その中に「十不二門心解」という古写本がある。これは正応5年(1292年・鎌倉中期)に称名寺の僧が、信濃国塩田庄別所常楽寺において書写したものであることが、その奥書によって知られる。 「十不二門」というの「不」というのは、「法華玄義」「十不二門指要抄」などとともに、天台宗の基本的な規範を説く書で、「十不二門心解」は、それに対する新らしい解釈を試みたもの、天台宗にとっては、なくてはならぬ重要な書とされる。その書が、別所常楽寺で書写されていることは、この寺が古くから天台宗の教学の寺であったことを物語るものといえよう(なお、この記録は塩田庄別所という名が文書に表れた最初のものとして注目されている)。 さらに時代は下るが、享徳元年(1452年・室町時代初期)、天祐という僧が、信濃国常楽寺において法華経を書写し、寺の裏山へ埋めたという記録が残っている(『信濃史料』第八巻301頁 「願文集」)。 その記録(願文)の中の一節に「――信濃国霊験の奇は、常楽寺を以て無雙となす。(中略)3体の観音は安置の本尊たり。この経この寺、仰ぐべし、信ずべし。弟子幸い当国に来って当寺を礼するを得たり。」という書き出しで、その後につづけて「自分は滅罪のため、また善根を植えるため、この寺に法花(法華経)を安置したいと思う。寺の四辺をみると、後に高山がある。そこで、その山麓に小庵を構え、難解の経を二部浄書し終った。ここに村人とともに十種の供養を行うのである――云々」と記してある。 この記録の中に「信濃国霊験の奇は、常楽寺を以て無雙となす」とあることに注意すべきで、常楽寺の霊験は信濃随一とされていたこと、ここで写経することは、非常な功徳を得ることになる――と信ぜられていたことがわかる。 以上のような確実な資料をあげてくれば、常楽寺は、もともと天台宗の根本義を学ぶ、いわゆる”学問寺”として成立し、また発展して来たと考えて間違いあるまい。そこに「信州の学海」の中心たる地位を占めていたのではないかという推定が生れ、また鎌倉中期の名僧、無関普門やその多くの学徒が塩田で学んだという場所も、実はこの常楽寺あたりが中心ではないかという想定も生れる。 今、常楽寺を参詣するとき、まず気付くのは、別所将軍塚の駐車場からの参道が直線となって、常楽寺寺域に至り、それを延長すると、例の観音出現の火阬跡といわれる石造多宝塔に至ることである。 天台・真言宗等成立の古い寺の参道は直線的にまず信仰の中心である場所に至り、その参道の脇に別当としての寺があるのが通例である(例えばこの近くでは別所観音堂と長楽寺、上田市東前山の三重塔と前山寺、青木村当郷十一面観音堂と大法寺、上田市小泉大日堂と高仙寺、など何れもそうなっている)。常楽寺もおそらくもともとその古制を守っていた寺であったと考えられる。 なお寺の背後の丘陵をこすと、そこを北谷という。その最高処近くに御堂沢という地名があり、そのあたりに広大な平地がある。おそらく御堂(仏を安置する堂)があったに違いない。なおこの周辺に尾根を削平して造成したと思われる小平地がいくつか散在して、大平山・経が峯などという地名も古地図には見える。このあたり全部が、「常楽寺山」となっているが、あるいは、この北谷一帯の数多い平地に僧坊が並び立っていて、それが”簦を担い、笈を負って”勉学修行のためやってきた学僧たちの修行の場所となっていたのかもしれない。もちろん今後の検討にまたねばならないが、本坊を中心とする「小比叡」のような景観を呈していたことも充分想像されることである。(八)近世の常楽寺 なお本坊常楽寺のみについていえば、室町戦国のころについては詳らかにしないが、元和3年(1617年)上田藩主 真田信之が一貫二百文の地を寄進し、同年天海僧正(徳川家康に最も信任された僧)が、上野国世良田の長楽寺で灌頂大法会を行ったとき、常楽寺も加衆し、それ以後この長楽寺の末寺となった。 明治2年(1869年)比叡山本宗大会議があり、これから延暦寺直接の別格本山となって今日に至っている。 北向観音が常楽寺の直轄となったのは元禄7年(1694年)からで、このとき以降、北向観音でとり行われてきた一切の法会、行事は常楽寺が担当しているわけである(「北向観世音堂」の章参照)。 後章に現在まで五十六世を数える常楽寺住職の系図を掲げる(常楽寺歴代系譜参照)。常楽寺の歴史を担って今日あらしめた人々の系譜である。その経歴の詳細など不明に属するところが多いのは残念であるが、将来研究が進むにつれて、なおその事跡等が明らかとなり、県下宗教史に多くのことを加えられるであろう。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2026年04月19日
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小川原湖北岸から谷地温泉までを結ぶ国道394号。南部から津軽へと抜ける主要道の1つです。道沿いには七戸の町が広がっており、今でも城下町の風情を良く残しております。七戸町の西方には和田・高屋敷などの集落がありますが、ここまで来るともう山間の集落といった落ち着いた雰囲気が漂っています。今回紹介する薬師堂も、その付近に広がる山屋という集落の中に位置しており、当地方に於いても古い仏閣なんです。ここの本尊は県内でも最古級の木像であり、造像は藤原時代に遡れると言われています。修験の堂として始まったという説もあり、林に囲まれた仏堂はある種の野趣を放っておりました。2024.9.7山屋薬師堂集落西側に林が広がり、そこに山屋薬師堂がポツンと建っていました。仏堂ではあるものの、明治の廃仏毀釈の影響か、境内入り口には立派な両部式鳥居が置かれているのです。鳥居の側には子安地蔵尊堂が置かれています。内部には新しめの子安観音が収められています。子安地蔵堂は個人の管理となっているようで、山屋薬師堂と直接関係があるものではないです。それでは山屋薬師堂を見ていきましょう。参道入り口には、今や判別不能の古石碑が置かれています。穏やかな木漏れ陽が射す境内に、古めかしいシンプルな造りの薬師堂が建っていました。鳥居に引き続き狛犬も添えられており、いよいよ神社の様な雰囲気が漂っています。ご由緒です。山屋薬師堂本尊:薬師如来 山屋薬師堂の創建は不詳ですが本尊の薬師如来像が平安時代末期作なので、それ前後とも思われます。古くから神仏習合し修験僧の修験の場として利用され薬王院と称してきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と修験廃止令により神式が廃され仏教色の強い薬師堂に改称しています。 山屋薬師堂の建物は木造平屋建て、宝形造、鉄板葺き、桁行3間、張間3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。境内には万延2年(1861年)に運送船頭 宝永丸與八郎が寄進した狛犬があるなど運送業者からも信仰が篤かったと思われます。 現在は無住になった為、七戸城の城主南部直時の菩提寺である瑞龍寺が管理しています。本尊の薬師如来像は貴重な事から七戸町指定有形文化財に指定されています。青森県歴史観光案内所 / 山屋薬師堂 より引用もとは修験の堂だったという事で、何かしら一緒に神格が祀られていた可能性も有りますかね。薬師というと真っ先に少名彦神・大国主神などが連想されるでしょうか。これらの神格は修験たちがこぞって各地の国峰に祀り、それが今でも山岳関連の神社の主神となっていたりします。代表的な例を挙げると、津軽の岩木山神社、常陸の八溝嶺神社、下野の日光二荒山神社、甲斐の金櫻神社、などなど枚挙にいとまがありません。疫病の蔓延鎮撫や領国の運営安定を願い、各地の山々に祀られたのです。本地垂迹説に従えば、大国主神は不動明王や十一面観音をも本地とする例が多いように感じますが、少名彦神に関しては殆どが薬師如来を本地としているんではないでしょうか。この傾向が如実に表れている例としては、常陸の名神大社である大洗磯前神社・酒列磯前神社が挙げられます。10世紀成立の「延喜式」に於いても、神名帳の中でこれら2社は共に”大洗礒前薬師菩薩明神社”・”酒烈礒前薬師菩薩明神社”と言うように薬師菩薩と称されています。八幡神社の祭神として名高い八幡神(十五代応神天皇)同様、早くから仏教と混ざり合っていた神格たちなんだと思われます。それ故修験たちにも親しまれた神格なんではないでしょうか。山屋集落は、青森県を代表する名山 八甲田連峰の登り口にほど近く、修験たちにしてみても行場として理想的な場所だったかも知れません。八甲田の峰々に関しては、どんな神格が祀られていたのか不明な点が多いんですが、南方に熊野系修験(本山派修験)の一代霊場 十和田湖があった事からも、本山派修験たちが入峯していてもおかしくは無いんではないでしょうか。当霊場も天台宗と関係の深い薬師如来が本尊となっており、関連があるような気がしているんですが・・・どうですか?本尊の薬師如来像と脇侍の十二神将像は、共にコチラからご覧になれます。この薬師如来像は地方仏(その土地で作られた仏像)としては県内最古のものだそうで、作仏は平安時代後期と数百年の歴史を持ちます。像の摩耗は激しいものの、この豪雪地帯にあってまだ形を保っているというのは、単に長年に渡って篤く保護されてきたという事の証明と言えるのではないでしょうか。脇侍に関しても、今では1体しか残っていませんが、かつては十二神将像勢ぞろいで収められていたと思われます。中央の様式がしっかりと繁栄されており、当地にもそうした中央の文化が流れ込んできていたことを示しているんではないでしょうか。最後に本尊の薬師如来に伝わる面白い伝承を載せたいと思います。山屋薬師堂 山屋の薬師様は、もとは七戸町の西野地区にあったが、その地の神仏と折り合いが悪く、 そこを去る途中、草の上でうたた寝していたら野火に気づき、逃げようとして「ところ」のツルに足を取られて倒れ、「ウド」で目をついてけがをしました。そのため目の治療に願を掛ける人は今でも「ところ」・「ウド」を禁食するといわれます。 本尊の薬師如来像は、桂の木の一木造りのナタ彫りで平安時代末期の地方作として優れたものであるといわれています。霊験あらたかとされ、4月8日の縁日には多くの参拝者でにぎわいを見せました。境内説明書き より引用悟りの境地に有る如来に対して、この様な人間臭いエピソードが附されているのは本当に面白く、何故こんな話が出来たのかが知りたくなります。ただただ本尊が如何に人々に身近な仏像だったかが、よく伝わってきますね斜めから。相当な古刹であるものの、由緒など不明な点が多いのがもどかしい仏閣です。山屋薬師堂の前身は西野薬師堂という仏閣だったそうで、こちらも七戸にあったそうです。七戸は南部初代光行公の子である南部朝清によって開拓されたと伝わる古い町です。北奥羽の雄 南部氏は、その系統に不明な点が多く、庶流どうしの関係も複雑です。個人的には北奥羽は南部氏の領地となっているものの、甲斐源氏の庶流が流れ着く土地であったのではないかと思っています。蠣崎氏などに見える武田姓や、南部氏庶流に時たまみられる小笠原姓など、南部氏以外の甲斐源氏の姓を持つ人物が見られるからです。甲斐本国で所領を持てなかった庶流たちが陸奥国の領地を与えられて、当地の元締めである南部氏のもとで務めていたとしたら・・・。その際に自らの菩提寺や信仰する神社を遷していたとしたら・・・。もう・・・妄想のし過ぎで眠れなくなっちゃいますよね以上です。
2026年04月19日
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まだ寒い日が続く2月の半ば、外出したい欲を満たすために甲府市の南部をドライブしていました。当然甲斐百八霊場の札所巡りも兼ねているんですが、その内の1つである永泰寺、なんとこの寺院が境内を構えている所も甲府市なんですね。甲府市というと県庁所在地ということもあり、かなり都会のイメージがあったんですが、こんな南の方も範囲に入っているとは驚きです。永泰寺参拝後、冷えた体を温泉で温めようかと思っていたんですが、グーグルマップに面白そうな寺が映っており、我慢しきれずに向かうことにしました。永泰寺からは車で10数分と、そこまで遠くはありません。富士五胡の1つ 精進湖の湖畔に広がる集落に勇んで向かいます。2026.2.14石花山 龍泉寺いつも通り集落内の道はかなりの狭路です。ここまで標高が高ければ雪も降りそうなもんですが、あまり降雪は見られませんでした。寺院の参道付近にはじゃりけんどがあり、そこに車を停めて境内へと向かいます。この立派な山門が入口となっていますようん、マップで見た通りの素晴らしき外観、最高ですねここまでしっかりとした茅葺屋根は、県内でもそうそう見られません。ご由緒です。石花山 龍泉寺曹洞宗 吉国山龍華院末寺開山:馬山託存本尊:釈迦三尊 曹洞宗の寺院で、甲府市上曽根町に所在する龍華院の末寺である。馬山託存によって江戸時代の初期に開かれたと伝えられている。伝承では3回移転して現在地に至ったという。 江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763年)の大火ですべてが焼失し、現在の本堂と庫裏はその後に再建されたものである。 仏堂(本堂)には、木造竜泉寺開山像と竜泉寺伝聖観世音菩薩坐像が安置されている。 境内墓地に、精進の景勝を世界中に紹介し、富士山麗の観光開発の祖となった英国人 Harry William Whitworth(帰化後の日本名 星野芳春)の墓がある。平成23年3月 富士河口湖町教育委員会 富士河口湖町文化財審議会境内説明書き より引用曹洞宗の大家 龍華院の末寺です。堂内に開山像と観音像があるみたいなんですが、文化財ではないからか紹介しているサイトも見つかりませんでした。どのような外観なのか見てみたいんですが・・・。残念です本堂のすぐ左には精進湖諏訪神社が境内を構えています。龍泉寺同様、こちらも茅葺屋根の社殿を有しています。拝殿は大きく、それに比例して茅葺屋根もどっしりとした重厚な印象です。本堂入り口には撞鐘が懸かっています。昭和25年(1950年)11月に奉納されたものです。扁額です。自然の感が溢れる美しい山号ですね!斜めから。ここまで古雅な外観を残した寺院を見るのは本当に久しぶりです。全国的に見てもなかなかに珍しいのではないでしょうか。僕の地元ですと、法雲山 教圓寺という寺院が当に雰囲気がピタリと合っています。こちらも津軽には珍しい茅葺屋根の御堂として有名です。リンゴ畑の一画にポツンと建つ姿は津軽らしさたっぷり。是非ご参拝くださいという事で、外出欲も満たされて、札所もまわれて万々歳です。このまま締めとします以上です。
2026年04月15日
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岩手県沿岸地方には、東北では珍しい時宗の寺院が境内を構えています。久慈市の奥まった所に大川目という集落があり、ここにはかつて久慈城が築かれていました。文明年間(1469~1487年)に久慈十二代?信実公によって築城されたと言われる山城で、現在でも遺構が良好な状態で残されております。その久慈城のすぐ麓にあるのが今回紹介する慈光寺です。2025.6.8遍照山 海徳院 慈光寺石造りの無骨な寺門の先に、穏やかな影が差す参道が伸びております。参道の杉並木は”慈光寺の杉並木”として久慈市指定天然記念物に登録されています。植えられたのは天保年間(1830~1843年)、明治の再興時の2回だそう。歩いているだけで気持ちが落ち着き、寺参りの真髄を味わうかのような体験ができますよ少々進むとまた寺門が有りました。奥には山門も顔を覗かせています。山門です。色味の明るい新しめの木材が目立ち、フレッシュな印象を与えます。両脇には手水舎と観音堂が置かれていました。観音堂です。宝形造の一般的な外観ですね。奥にある石造りの仏塔も相まって、なかなかの風格を放っています。奥には白木の観音像。建立は最近でしょうか。・・・外の石碑には聖観音とありますが、像様は十一面観音のそれですね。不思議です。山門をくぐって右側には鐘楼が置かれています。朝夕と気持ちの良い音色を響かせているんではないでしょうか。そんでもって本堂です。御堂の手前は庭園の様になっており、禅宗の様な風情があります。この日も日差しが強い日でしたが、なぜか本堂の前だけは涼やかな風が吹いておりました。笠の様に枝葉を広く伸ばした松のおかげでしょうか。ご由緒です。遍照山 海德院 慈光寺時宗 藤澤山無量光院清浄光寺末寺中興開山:清浄光寺二代 他阿真教上人本尊:阿弥陀三尊 当山は過去数度の火災や天正末年に起きた「九戸政実ノ乱」の余波、あるいは明治初期の廃仏毀釈等により縁起書が残っておらず由緒に不明な点が多い。 仁安3年(1168年)天台宗として開山されたが、永仁4年(1296年)時宗二代他阿真教上人の勧進によって改宗したといわれている。 古くは甲州にあったが、三戸南部氏の分流 久慈氏によってこの地に移されたという。その時期は不明である。 久慈氏は天正19年(1591年)に勃発した「九戸政実ノ乱」において滅亡したが、久慈氏の菩提寺であった当寺も一時期当地を追われている。寛文4年(1664年)八戸藩が創設されたことに伴い、この地を知行した久慈氏の支族 摂待氏の保護を受けてこの地に再興されたという。以後江戸末期まで南九戸郡一帯およそ800戸の香華所(菩提寺)として隆盛を極めていた。明治維新後廃仏毀釈の余波を受け約10年間無住職のままであったが、明治13年(1880年)大川目村および山形村戸呂町の有志180人によって旧に復され現在に至っている。 本堂前の「傘松」は樹齢480年と推定される。また参道の杉並木は樹齢200年と推定され、ともに久慈市から天然記念物として指定されている。平成15年8月建之12世紀開山と伝わる古刹でした。もともとは甲州に在ったと伝わります。山梨県で時宗が多い所というと北杜市須玉町が挙げられるでしょうか。須玉町には湯澤山 長泉寺という寺院がありますが、山梨の時宗の布教はこの寺院が中心となって行われたんだとか。詳しいことは分かりませんが、この寺院も元はこの辺りにあったのかも知れませんね。堂々たる山号額も懸かっています。堂内です。須弥壇だけが明るく輝いており、極楽浄土を彷彿とさせる光景が広がっています。本尊:阿弥陀三尊。かなり新しいですね。須弥壇上部には極楽鳥の装飾あり。反対側も同様です。次は外を見てみましょう。慈光寺が境内を構えているのは、このような石垣の上なんです。まるで平城のような雰囲気さえ感じられます。もしかして久慈城の遺構だったりするんですかね?斜めから。伽藍も大きく見ごたえが有りました。久慈氏・摂待氏両氏の菩提所として繁栄してきただけはあります。近代になっても住民たちによって再建されるなど、崇敬はかなりのものでしょう。本堂を出て墓地の中を歩きます。ここに摂待氏の墓があると聞き探していました。10分探しても見つけられず、和尚に尋ねてやっとこさ見つけることが出来ました。自然岩をそのまま墓石にしたかのような外観で、歴史の重みを感じられます。もともと久慈氏は出自があやふやな南部氏庶流であり、確実に系譜が分かるのは久慈南部十二代信実公の時代になってからです。久慈氏について面白い記述があったので↓に引用してみます。津軽為信と久慈氏熊谷隆次 豊臣政権の中枢にいた前田利家から、「表裏仁」(裏表のある人)と厳しい評価を受けた人物がいた(南部信直書状写『宝翰類聚』)。南部信直から津軽の地を奪い取って独立大名となり、弘前藩の礎を築いた大浦為信、後の津軽為信である。 藩祖でありながら、その出自を確定するのは難しい。「津軽御先祖之次第」(「津軽家文書」)によれば、為信は津軽を地盤とする大浦氏の5代当主為則の弟 守信の子で、為則の娘を娶って大浦氏を継いだとされる。一方、近世南部家の公式系譜『系胤譜考』は、為信を久慈(岩手県久慈市)を所領とする久慈信義の弟「平蔵」とし、出奔した後、大浦氏の婿養子になったと記す。津軽、南部双方の系譜の内容は、全く一致しない。 津軽側の系譜は、為信の仮名(通称)をあえて記していない。しかし、為信の嫡子 信枚以降の津軽家当主の仮名は「平蔵」で、為信の仮名を「平蔵」と明記する南部側の系譜と一致する。これを根拠に現在、為信を久慈信義の弟とする説がほぼ定説化している。 久慈信義の祖先に信実(官途名「備前守」「摂津守」)がいる。近年、戦国初期の三戸南部氏当主として存在が実証された南部信時の弟で、久慈氏の家督を継いだことが確認された。信実は、久慈大川目付の「久慈館」(現久慈城跡)を居館にしたという(『系胤譜考』)。 なお、久慈氏嫡流の当主は信実以降、代々「備前守」「摂津守」を官途名とした(『系胤譜考』)。ところが、文明15年(1483年)の久慈長内金峯山社の棟札には大檀那として「南部信濃守嫡々右京亮久信」、元亀2年(1571年)の久慈長内薬師堂の棟札には大檀那として「南部之内信濃守信長」の名が記されている。 久慈は中世、「久慈郡」と称された。棟札からは、長内村を含む広大な久慈郡を治める領主(大檀那)が「南部」姓で、代々「信濃守」を官途名としていたことが判明する。しかし、これでは『系胤譜考』が記す久慈城主の官途名「備前守」「摂津守」と一致しない。 久慈氏について以下、仮説を提示したい。「備前守」「摂津守」を官途名とし、大川目村を中心に久慈川沿岸部(久慈西部)を支配する久慈氏(仮称「備前守系」)と、「信濃守」を官途名とし、長内村を中心に長内川沿岸部(久慈東部)を支配する久慈氏(仮称「信濃守系」)、この2つの久慈氏が中世以来、久慈郡を分割支配していたのではないか。 これを裏付ける史料が「津軽屋形様御先祖ヨリ之覚」(「津軽家文書」)である。同文書は、室町時代、三戸氏(当主名不詳)の次男彦五郎(左京亮)が「上ノ久慈」を、三男彦六郎(右京亮、信濃守)が「下ノ久慈」を所領にしたと記す。南部方言では、西を「上」、東を「下」と言う。備前守系久慈氏が西部(上)を、信濃守系久慈氏が東部(下)を、つまり2つの久慈氏が、久慈郡を東西に分けて支配していたとする仮説に符合する。 なお、同文書は、彦六郎の系統が後に津軽に移って大浦氏となり、代々「右京亮」「信濃守」を称したと記す。大浦氏は、津軽に移った後も久慈郡を所領にしたとされる(「津軽御先祖之事」)。津軽側の近世系譜には記されていない当主だが、棟札の南部右京亮久信、南部信濃守信長は、津軽大浦氏(信濃守系久慈氏)であった可能性がある。南部右京亮 江戸時代、津軽氏の祖先を奥州藤原氏や公家の近衛氏に結び付ける系図が生まれる。しかし、豊臣秀吉が津軽為信に与えた朱印状の宛名が「南部右京亮」であるように、源姓南部氏の庶流であることは明らかである。「南部右京亮」の名乗りや、為信の「信」の字は信濃守系久慈氏に通じる。本稿の推定が正しければ、備前守系久慈氏の出自の為信は、兄信義の所領久慈を出奔後、信濃守系(大浦氏)の家督を継承したことになる。デーリー東北新聞社 「戦国の北奥羽 南部氏」 136~138ページ より引用まさか久慈氏が2つの系統からなっているとは。久慈城を領していたのは”上ノ久慈”の久慈氏であり、久慈信実もこの一族です。更に久慈信実は三戸信時の弟であり、この頃の久慈氏は三戸氏と深く繋がっていたことが分かります。しかし後の”九戸政実ノ乱”の時期(1591年)の当主 久慈備前守直治は九戸氏から娘婿(九戸政則・九戸政実の弟)を迎えており、九戸氏との関係が強化されています。かつて三戸南部氏から分かれた久慈氏が、乱の時期には逆に本家筋に敵対するようになっているんです。ここに南部氏の複雑さがあります。それぞれの地に根付いた南部氏は、それぞれで婚姻関係を結んで繋がりを強化していますが、その関係はもろく、いつ壊れてもおかしくないものだったんでしょう。戦国時代の北奥羽は、全国の流れからは大きく隔てられている様に感じていましたが、当地では当地で血で血を洗う同族争いが起こっていたのです。後に久慈を知行した摂待氏に関しても、おそらく宮古北方の摂待に所縁のある南部氏庶流ではないでしょうか。一体幾筋の庶流が有るんでしょうね。境内の苔生した木の下で、一心に祈りを捧げているのは、当山中興開山の他阿真教上人でしょうか。時宗の陸奥国内での動きはあまり知らないんですが、三戸に時宗の寺院があり、そこに頻繁に清浄光寺から僧侶の往来があったようなんです。道すがらの御堂観音堂には、清浄光寺歴代住職の御詠歌が残っており、教化の波は確かにあったんではないでしょうか。まだ時宗総本山 清浄光寺には参拝出来ていないので、近いうちに参拝したいところです。以上です。
2026年04月14日
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南部地方において、八幡宮と言えば櫛引八幡宮でしょう。南部氏の陸奥国入部に際して、本領だった甲斐国南部郷から鎮守社を勧請したもので、本当であれば1000年近い歴史がある事になります。ですがこうした由緒を持つ八幡宮は他にもあるのです。2026.3.27新舘神社引っ越しでの帰郷に際して再び参拝しました、新舘神社。南部の神社の中でも、創建が特に古いとされており、南部氏と関係濃厚な八幡宮なんです。鳥居も大きく立派であり、境内は今でも厚い樹叢によって覆われ、古社の風格は抜群です。参道右手には神楽殿。拝殿です。社殿の随所には花菱が捺され、南部氏が甲斐源氏の一派であった事を実感できますね。ご由緒です。新舘神社祭神:十五代応神天皇盛岡南部家、敬意払う 花向町から県道に沿って西へ約7㎞の八幡部落、正治元年(1199年)時の南部藩主が建立したと伝えられる新館神社(新館宏氏 管掌)が鎮座する。 当初は、応神天皇をまつるところから新館八幡宮と称されていたが、明治26年(1893年)新館神社と改称される。藩祖光行公の三男朝清が甲斐の地から遷座させたものともいわれる。旧浦野館村にあって郷社として親しまれ、9月15日の例祭日には流鏑馬の行事が花々しく繰り広げられた。この祭りは、藩費をもって盛大に行なわれ、七戸城主自ら御祝儀を包んで列席した。 盛岡南部家も相当の敬意を払い、ことに三十代行信公は馬具・甲ちゅう・ヨロイなどを奉納している。 この神社の前身は、真言宗の寺院が同地にあり、神官新館氏の先祖はその寺の住職であったという。現在の宏氏は十七代目に当たる。 戦後、一時すたれた例祭日だったが近年、七戸民謡保存会や上北町婦人会などによって民謡、舞踊などが披露され往年のにぎわいを復活しつつある。デーリー東北社 「北奥羽の現勢 1970年版」 166.167ページ より引用南部初代光行公の三男 七戸朝清(実在したかは不明)が勧請した八幡宮。かつては七戸八幡宮とも呼ばれたんだとか。この甲斐国から八幡宮を勧請したという由緒は、櫛引八幡宮と同じであり、もしかすると何かしらの関連が有るのかも知れません。それでは社殿を舐めまわす様に見ていきましょう。懸魚の所には2羽の鳩が飛び回ります。そんで向拝部分。蟇股の龍から木鼻の獅子まで最高の彫刻!上部の組物も厳かな感があります。注連縄も太く大きく力強い中央にはやたらリアルな鳩が付けられていますね。扁額です。拝殿向かって左側には門付きの鳥居。裏参道となっています。少々離れたところから境内を俯瞰してみます。裏参道の鳥居からすぐの所に舗装道が伸びていますが、この道の脇には末社の祠が2社建っています。まずは1社目。これらの写真は以前来た時に撮ったため、カンカン照りになっていますね。祠の色からして分かるんですが、もう1つ決め手があります。軒の鬼瓦の所に狐の面が付いているんですね。こりゃあもう稲荷社でしょう。2社目。こっちは祭神不明です。ただし東北町では牛馬を飼っている家も多く、もしかすると蒼前社とかなのかもしれません。さらに神社から離れる様に進んでいくと、樹齢800年の古銀杏がおがっています。古木ではありますが生命力に溢れておりました。町の天然記念物に指定されています。再び裏参道の鳥居の前まで戻ってきました。見るに塀の奥に社?仏堂?のようなものが鎮座していますね。宮司宅・社務所とも繋がっており、何かしらの関係が有りそうです。正面から見てみましょう。ぱっと見社っぽいですが、内部を見てドッテンしてしまいました。堂内です。以前は丁度弘前大学の調査が入っており、おかげで満足のいく撮影が出来ず、更には厨子の扉も開いていないという残念な感じだったんですが、今回は厨子が開け放たれているは、社務所で調査結果の一部を聞けるはでかなり面白かったんです、感謝しかありません。社務所で話を聞いたところ、これらの仏像は以前八幡宮社殿に置かれていたんだとか。↑の御由緒で境内に真言宗寺院が置かれていたと有りましたね。もしかするとそこの本尊とかだったのかも知れません。仏像の構成を見ても、右から不動明王・胎蔵界大日如来・金剛界大日如来・何かの如来と、かなり真言宗味があります。一番左の如来像なんですが、持物を欠いているため断言はできないものの、印の形や脇侍の類似性からも薬師如来だと思われます。最初八幡神の本地仏 阿弥陀如来かとも思ったんですが、それにしては印が異なっています。如来そのものの印も左手に薬壺を持っていそうな手振りで、薬師如来説を後押ししている様に感じます。更に仏像の鑑定結果なんですが鎌倉時代後期の作だそうで、これは南部氏の糠部入部と近しい時期です。甲斐国で作られた物を持ち込んだのかや、当地で作仏されたのかなどは不明なんですが、どっちだとしても面白いですねぇ!最後にこの真言宗寺院の住職は、新舘神社宮司家の新舘氏の祖とされています。現代まで脈々と続いているのも凄いんですが、僧がそのまま宮司となるというのも面白いです。神社の別当だったのか、それとも社僧だったのか、そもそも寺院は神宮寺だったのかなど、考えているとキリがありませんが、歴史好きには本当に楽しめる神社であることは間違いありません。斜めから。少々興奮気味に語ってしまいましたが、何とも妄想がはかどる仏堂でしたね。廃仏毀釈の法難を乗り越え、今こうして古仏が目の前に顕現してくれているのも、なにか運命じみた感じがして面白かったです。斜めから。七戸南部氏の祖と言われる南部朝清によって創建された八幡宮。900年近く前の創建といわれますが、それを信じさせるほどの風格があります。宮司家が保有する仏像群も、遥か昔に創建されたことを物語るかのようで、どのような来歴があるのか本当に気になります。古の陸奥国の様子はどんなだったのか、どのような宗派が台頭していたのか、様々に妄想しつつ、今日も布団に沈みたいと思います。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2026年04月13日
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津軽半島の西側に突き出す様にして伸びる権現崎。その岬を中心として東や南に小さな漁村が広がっています。ここは小泊、徐福伝説の残る地です。小さな村ではありますが、村内に神社や仏閣は多く、今回紹介する寺院もその内の1つです。2025.6.1津軽八十八霊場十三番札所:小泊山 春洞寺小説”津軽”の記念館から徒歩で向かいます。初めて参拝した時もそうですが、この寺院へ行きつくまでの道が複雑すぎて、必ずと言っていい程迷ってしまいます。舗装道から外れたじゃりけんどを進み、程なくして本堂が見えてきました。ご由緒です。小泊山 春洞寺曹洞宗 石神山勝岳院末寺開山:春洞和尚本尊:釈迦三尊 北郡小泊村の東側、通称花丘町にあるのが曹洞宗の小泊山 春洞寺。開山は、今から360年前の元和2年(1616年)春洞和尚と伝えられているだけ。無住職という空白もあったといわれており、長い間「春洞庵」と称した。山号・寺号を公称、春洞寺になったのは明治に入ってからのこととか。 もともとは小泊港に近い丸山の寺屋敷に立地していたが、明暦年間(1655~1658年)の火災以降、やっとの思いで再興されたのにもかかわらず、大正8年、昭和29年と二度の大火に見舞われた。宝暦年間(1751~1764年)からの過去帳の一部は現存しているが、それ以前のものは大正の大火で無くしてしまった。本尊の釈迦牟尼仏は、坂本芳英現住職がその際背負いながら山へ避難して火を免れた。しかし、十六羅漢像と極微細画の地獄極楽図は失ってしまったという。昭和の大火は、派立一帯120戸を総なめにしたもので、このとき移転を決意し現在地に構えた。 先代の芳宗和尚は、弘前市から養子として入山、28歳で寺院後継者になった人。26歳で遷化。現住職は昭和21年から8年がかりで本堂を築き上げた。「ところが完成翌月の大火で跡形もなく焼け落ちてしまった。この年は干ばつで川に水がなく海から取水して消火に当たったが、火勢は強く、なすすべもなかった」と話す坂本住職。現在の本堂、庫裏は、大火翌年の30年から増・改築を重ね、46年に装いを新たにした。 かつては、漁獲高県内2番目という実績を誇ったこともある小泊村だが、昔から春洞寺を中心に大漁祈願が行われてきた。ニシン場だったこともあって「西沢」「斎藤」ら10人の網元が漁港・小泊のカナメだったという。村内にある尾崎神社の由来は、約700年前の大同年間にさかのぼるという古い村でもある。室町時代には、ヒバの宝庫だったこともあって越後地方から大勢の切り出し人夫が入村、仏閣などの建築材切り出しに従事した。ここで亡くなった人も多かったといわれ「越後谷」「敦賀屋」の姓はその流れをくむものと伝えられている。 ここに安置されている「聖観音」は昭和48年の夏、小泊村突端の国道開削に当たっている自衛隊員が、冬部付近の海岸から拾い上げたもので、開削工事の守護にと春洞寺に寄進した。南方系の仏像とみられており、どのぐらいの間、海にあったものなのだろうか。身の丈一尺余の木像だが、そうした経緯から植信徒らにも丁重に扱われている。 春洞寺の檀信徒は市浦村など広範囲に及んでおり、弘前市勝岳院の末寺。寺宝の秋葉大権現は桃山時代のものといわれ、木彫り身丈約一尺。つがるのお寺さん 258.259ページ より引用17世紀創建の曹洞宗寺院です。面白いのが札所本尊の聖観音で、これも海からもたらされたものなんですね。実際津軽半島西浜には大陸からのものがいろいろと流れ着きます。七里長浜の海岸を歩いていると、キリル文字やハングル、繁体漢字などかなり多国籍のゴミが流れ着いているんです。日本海の荒波にのってもたらされるんでしょうが、札所本尊の仏像もそうしてこの地にたどり着いたのかも知れません。とにかく謎が多いですね。山号額です。面白い書体ですね。堂内です。ふと見上げると、天井には舎利礼文が描かれていました。曹洞宗寺院ならではの装飾でしょうか。良き。堂内右手には双龍の沙弥壇と、その奥に2つの厨子が置かれています。このどちらかに札所本尊の聖観音が収められているんではないでしょうか。さらに奥には八大竜王の娑伽羅龍王?と善女龍王?が描かれた掛軸が掛かっており、港町の風情があります。斜めから。入り組んだ所に有りますが、小泊の中では一際大きな御堂を持ちます。村には他に浄土宗:海満寺・真宗大谷派:正行寺などの寺院が有り、様々な宗派の檀信徒に対応しております。以上、地名を山号に採る春洞寺でした御詠歌みほとけの おもきちかひにつみのみも やすくわたらん うへのなみぢを札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・十四番札所:無縁山 観音院 海満寺 観音堂 海満たす無縁仏を弔わん 津軽西浜ここは観音院
2026年04月12日
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2年前、八戸に配属となり生活を始めました。引っ越してすぐの頃、南部地域については殆ど知らない状態で、目に映る神社仏閣がどれもこれも魅力的に見えたもんです。八戸の拠点から一番に近かったのが、今回紹介する四本松神社です。東北の太平洋側を仙台まで伸びる国道45号沿いに鎮座しており、周囲は住宅と店屋っこで溢れております。それに対して境内は桜や松で覆われ、外界とは一線を画した神社由来の厳かな雰囲気が漂っています。2024.5.11四本松神社びっくりドンキーを背に鳥居に向き合います。石造りの神明鳥居がなんとも無骨な雰囲気です。どっしりとした山神のイメージと合っているんではないでしょうか。参道は桜とツツジに飾られております。出来れば春先や初夏に参拝したいところ。参道脇には神仏混淆の痕跡か、地蔵尊と山縣のわらじが収めてあります。その更に横には道真公の石像でしょうか。手水舎です。ここの水盤は自然石を荒く削ったようなデザインで、とても野性的です。二之鳥居は木製。この先に控えるのが拝殿です。まずは末社から見ていきます。拝殿の右側に鎮座しているのは龍神宮。祭神は八大龍王か、水波能売か・・・何でしょう。隣の一回り大きな方は秋葉神社。祭神は火之加具土神でしょう。当社は数度の火災によって社殿や神木の類を焼失しています。そのことからも火防の神として勧請されたんではないんでしょうか。では拝殿。注連縄・木彫・紙垂などでしっかりと飾られ、木材の色味も超絶シブいです。特に社格は無かったようですが、それは山伏主導の霊場だったからであり、周辺地域からの崇敬はかなりのものだったんではないでしょうか。ご由緒です。四本松神社祭神:大山積神由緒 天正(1573~1577年)の頃、一山伏が当地に神殿を建立し、神を祀り神殿を中心に四方に松を植え「四本松神社」と名付けて祭祀を行った。その後、4本の松は大木となり遥か遠くの海上から望まれ、漁師や航海者たちはその松の大木を航路方角の一基点として仰がれていた。 当神社の祭神である大山積神は地神・海神兼備の霊神で、俗に「山の神」と稱せられていると木版に伝え書きされたものがあったとされている。過去数回の山火事で神殿も、松の大木も焼けて現在はない。ただ当時の名残をとどめている「文政八年乙酉八月吉日」と「大館村岩渕惣太納主再建す」と刻まれた石製の祠(約高さ60㎝)があり、その頃に植えられたのではないかといわれる、せんの木の神木がある。 古老達の話では、昔は山子や漁師達で、大変賑わったとのことで、昔も今も、家内安全・商売繁盛・海上安全・林業守護・鉱山守護の、「山の神様」として篤い信仰がある。主な祭典・歳旦祭:1月1日・節分祭:2月3日・春例祭:旧暦4月12日・秋例祭:旧暦8月12日・年越祭:12月12日・大祓式:12月20日・月次祭:毎月旧暦12日境内説明書き より引用かつて山であったであろうこの土地に、1人の山伏が大山祇神を勧請して、四方囲いとして境内の四つ角にそれぞれ松を植えました。この松は大きく育ち、浜からこの神社が有る山を見ると悠々と天に昇るかのようだったんだとか。松も社殿も火災で現存こそしませんが、創建の物語は神社の名前に引き継がれています。では社殿の装飾も見ていきましょう。蟇股には龍。表情は自信タップリか。その上部には波間から顔を覗かせる亀と玄武。木鼻部分の装飾は特に凝っていて、阿吽の龍がこちらを睨みつけるかのように身を乗り出してきています。躍動感あふれる美彫刻です。阿形!吽形!湊町ということもあってか、水と関連する図像が多かったですね。県内随一の港というだけあります。山の幸・海の幸両方の恵みにあやかるため、この神社は創建されたんじゃないでしょうか。扁額です。斜めから。陸奥随一の湊町には、海幸山幸の神徳を持つ大山祇神が祀られます。創建当初の社殿こそ現存しないものの、面白い由緒と美しい境内は今に伝わっています。境内で御由緒を思い返せば、脳裏に浮かぶは一面の松林。奥から聞こえる法螺貝の音と、四方固めの松の大木。中央に社鎮座せば、自然の恵みに感謝する人々の思いが伝わってくるかのようです。松は無しとも四本松。八戸の山神の社ここにあり今回貰った御朱印です。以上です。
2026年04月12日
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青森県の下北半島北部。本州最北端の大間岬から東に数㎞の所に風間浦村という小村があります。その中の蛇浦という面白い地名を持つ漁港に、今回紹介する折戸神社が鎮座しております。大間に近い方には奥之院、漁港の近くには里宮が鎮座しており、現在では一体の霊場となっていますが、かつては別々の神社として創建されたものだったそうです。2025.5.18折戸神社蛇浦の集落は港側の主要道と、集落を走る路地の、2つの道によって囲まれています。路地の側には田名部海辺三十三観音霊場の十五番札所:高林山 大海寺が境内を構え、そこから数m北に行くと上り坂、その先に折戸神社の鳥居が建っております。この坂道の先の農道は奥之院まで続いており、かつての参道だった可能性もあるでしょう。実際折戸神社の大祭では、奥之院から御神体を運び出しこの里宮に安置するという形態みたいですが、その時にこの道が使われるんではないでしょうか。この様に奥之院(神体山の代わり)から里宮に神体を遷すという形態は、神は山に居て里に下りて来るという古い信仰の形を残しているように思います。県内ではなかなかにレアでしょう。鳥居右側の少々高い所に末社の社が置かれています。祭神は不明。ただし港町ということを考えると、水神や龍神の類だと思われます。境内左側にも末社。赤みがかった社が特徴です。社殿の装飾には2匹の鯉。波間を漂う姿が良い!・・・祭神は?隣には御神木。境内でいっとう背が高い古木です。拝殿です。田名部神社に次いで神明造ですね。ここで少々疑問が生まれるんですが、折戸神社の祭神 倉稲魂神は女神です。しかし社殿の千木は男神型となっているんですよね。この辺が少々気になるところ。昔は異なる神格が祀られていたりして・・・。どうなんでしょうか。ご由緒です。折戸神社祭神(里宮):倉稲魂神祭神(奥宮):天児屋根命由来 その昔蛇浦は釜谷ノ浦とも呼ばれずわる里であった。折戸海岸には枝部落として漁を営む十数戸の住家があったと伝えられ、今に語り継がれている。 元来釜谷ノ浦は昆布・飽・海藻類などなんでも豊富に獲れ、中にも折戸海岸は最たる漁場であった。村人達は海の幸・山の幸は産土様のお授けによるものと心から深くその恩恵に感謝し、子孫の繁栄を祈り折戸髙山に社を建立した(現在の奥之院)。時に元和3年(1617年)の創建であった。 その後貞享3年(1686年)釜谷ノ浦赤平坂に稲荷神社を造営して御祭りした(現在の里宮)。 明治6年(1873年)一村一社の布令によって両社を一体とし、折戸髙山に奥之院として祀り、社号を折戸神社と定めた。この間数百年の風雪に朽ちた社は幾度も修改築を繰り返し現在に及んだものである。敬白昭和63年8月15日例大祭:8月15日春祭:5月8日秋祭:12月1日折戸神社総代境内説明書き より引用折戸髙山(奥之院)の方には氏神?祖神?を祀り、里宮の方には豊穣の神を祀っていたんですね。明治初期に両社が一体となり、現在の形になります。参道脇の狛犬。下あごが欠損しています。狛犬:阿形。狛犬:吽形。このタイプの狛犬は下北では結構見られます。扁額です。斜めから。松っぱらの中に鎮座する社殿というのは、なかなかに趣がありますね。海岸近くに鎮座する神社程、こうした風情ある社叢を持っている気がします。何というか、殆どが港町である下北らしくて良いですね。次は奥之院を見に行きましょう。雨がちな日でしたが、奥之院に着くころには小降りになり、傘無しでも十分参拝出来そうです。農道の脇に赤鳥居が建っており、そこから境内に向かえます。雨霧が山中に立ち込め、ふとすると修験者とすれ違いそうな程、雰囲気があります。鳥居から数分も歩けば、社殿の1つがだんだんと見えてきますよ。うーむ、拝殿とかではないみたいです。もしかすると倉庫か、または籠り堂とかかもしれません。謎の社殿の隣には、またもや鳥居。先に進んでみましょう。おほほほ。見えてきました、折戸神社 奥之院です。こう、なんていうか・・・霧も相まって、相当荘厳な感がありますよね。奥之院ということもあって、そこまで大きな社殿では無いんですが、造りからも古社の風格は抜群。参拝出来たことに感謝しちゃいます里宮同様扁額あり。斜めから。青森県の中でも、港が多い下北半島には他の地域から信仰が持ち込まれやすく、異色の神社が多い印象です。天児屋根神を祀る神社なんて、ここを除いて県内には殆ど見られないでしょう。大間稲荷神社の天妃神しかり、赤岩神社の石凝姥命しかり、当地ではなかなか見られ無い神格ばかり鎮座しています。そうした意味でも下北は青森で特に面白い地域と言えそうです。以上です。
2026年04月12日
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去年の暮れに長野県北部の小菅の里周辺をまわりました。小菅の里は飯綱山・戸隠山と並ぶ修験の霊場であり、今でも山中に小菅神社 奥之宮としてかつての奥殿が現存しております。その参拝後に千曲川南岸の松代の町に向かいました。その折、立派な鳥居を見つけて参拝したところ、まさかの湯島天満宮の分社だとのこと。かなり驚きましたよ2025.12.20湯島天満宮 信濃分社鳥居から社殿まで全てが華美ぃーな神社です。それもそのはず、江戸の古社 湯島天満宮の分霊社なのですから。参拝時は境内の芝生まわりを整備中でしたが、参拝自体は可能でした。参道を行くと荘厳な社殿が見えてきましたね。本堂と向かいあう形で社務所が置かれており、そこでお守り類や御朱印をいただくことができます。手水舎も相当に新しいですね。梅花の装飾、風情ありますねぇ!水盤には花々が浮かび、白石が敷かれています。全体的に涼し気な雰囲気です。拝殿です。建材は近代的ですが、造りは古色を残した入母屋造で、全体的にカラフルな装飾が施されています。随所に捺された梅の花が、未だ遠し、春の訪れを待ち望んでいるかのようです。御由緒は不詳ですが、かつては当地の大実業家 北野氏の邸宅に鎮座していた小祠だったようです。北野美術館を建設するにあたり、現在地に大社殿を建立し、遷座したとかどうとか。当地での北野氏の影響力はかなりのものだった様で、少し南にいった所にある阿弥陀山 護国院 清水寺の参道・その他堂塔の多くは北野氏の寄進であり、名前が刻まれています。北野氏の墓も確かそこにあったような気がします。拝殿の装飾は菅公に因んでか牛のものが多いです。長野県では別の系統で牛が有名ですがね。斜めから。江戸から遠く離れた信濃の地に分霊された湯島天神。本社と変わらず荘厳な社殿は相当な見ごたえです。学ぶことは僕の生き甲斐でもあります。天満宮には特に強い思いがあり、拝まずにはいられません。ここもそんな学習者の篤い崇敬によって護持されている神社なんではないでしょうか。今回貰った御朱印です。通常御朱印花盛り御朱印切り絵御朱印以上です。
2026年04月12日
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南部藩の根拠地である糠部郡から奥羽山脈を隔てた秋田側、菅江真澄が長い月日を過ごした鹿角の町に出ます。近代的な町割の中に、古くからの細い路地が点在する趣のある町で、今回紹介する寺院もそんな路地裏に境内を構えています。2025.6.14鳳林山 長年寺長年寺が境内を構える路地には、赤石山 恩徳寺などの古刹や、神明社などの古社などが固まっており、どこか寺町のような風情が感じられます。通りに張り出すような形で置かれている山門は、植え込みや桜の大木に飾られています。このまわりに駐車場もあるので、車でも安心。山門をくぐると鐘楼。今でも造りは古いまま、かつての趣を残しているのです。境内北側、子安地蔵や六地蔵が置かれています。その奥には花輪南部氏(中野南部氏)累代の墓が置かれています。当地も16世紀の鹿角合戦を経て南部氏領となり、九戸南部氏の庶流 中野南部氏が入部し、花輪南部氏を名乗りました。当寺院は最初九戸村に創建された鳳朝山 長興寺が、領主中野南部氏の移動と共に境内を遷すこと数度、最終的に当地に落ち着いたものです。現在はかつての移遷先の長岩寺・長徳寺の本尊や法具、中野南部氏の位牌などが集められています。本堂です。やはり領主の菩提寺ともなれば、伽藍はかなり荘厳ですね軒や鬼瓦部分には、しっかりと向鶴の紋が捺されています。御由緒です。鳳林山 長年寺曹洞宗 龍光山宗徳寺(現在の耕春山宗徳寺)末寺開山:長興寺十世雨外楚雲和尚本尊:釈迦三尊 當山は南部御三家、花輪南部(中野)氏の香華院(菩提寺)として建立されたもので、歴代の當主采地を転ずるに随い寺もその処を移し号を替え今日に歴史を伝えるものである。 足利幕府の時代、加賀宗徳寺(廃寺、現在弘前の耕春山 宗徳寺に合併)四世大陰慧全禅師、衆生済度の為奥州九戸に到り、郡守九戸家の篤い帰依を蒙り、文亀2年(1502年)九戸村に長興寺を開創、開山禅師となる。是が当山薙草の因縁、宗徳寺を本寺と為す由縁なり。 天正19年(1591年)五世岳翁林賀和尚の代、九戸家・南部家不和の間となり、九戸政實の乱が起こる。豊臣秀吉隷下中央軍の加勢を頂く南部軍の前に九戸城は落城、一族滅亡の悲劇となる。茲に九戸舎弟康實君、幼少より南部家に仕え采地を西中野・東中野に受けて中野吉兵衛康實を名のる。九戸の乱には、恩義に順じ兄政實公の暴挙を諫め開城に功を為す。後に南部公厚く是を賞するも康實君受けず。代わりに兄政實公の遺骸を請い長興寺に篤く葬る。又、林賀和尚を伴い長興寺を采地郡山に移して其の冥福を祈らんとするも、和尚是を辞し、代わりに弟子 梅岩嶺雪長老を使しむ。文禄2年(1593年)六世梅岩嶺雪和尚を伴い寺を采地郡山に移し、号を長岩寺と改め、自ら開基となりて先祖霊供養の菩提処と為す。 中野三代元康君、采地を彦部に受けるとき長徳寺を菩提処と為す。 中野四代康敬君、南部藩鎮花輪城代となり、この時長岩寺・長徳寺の本尊仏・古法・経典・法器・開基康實君の位牌を花輪に移し、十世雨外楚雲和尚を請して延宝2年(1674年)長年寺を建立す。爾来、花輪南部氏代々の香華院として尊崇を受け、又結縁の檀信、帰崇和睦の菩提寺として護持興隆、長興寺に始まる法灯は今日愈々増輝を見るものである。慶応四年啄堂川村秀光記「長年寺由来記」より平成11年11月三十三世覚圓直行代拝建ほんで追加情報です。内容的には殆ど同じですが、↑には無い記載が有ったりします。寺史 鳳林山長年寺開創の縁起は現在弘前市西茂森にある耕春山 宗念寺をご本寺とし、中野南部吉兵衛康実公を開基と致します。 室町幕府の時代、加賀堀川郡 龍光山 宗徳寺四世太陰惠全大和尚、奥州巡錫の折り南部郷九戸村に到り郡守九戸南部氏の篤い帰依を請け、文亀2年(1502年)鳳朝山 長興寺を建立し開山となり九戸南部一族菩提道場と致します。 九戸南部氏十代信仲公に長子政実・末子康実の兄弟があり政実公は九戸南部十一代左近政実となり、康実公は幼少より九戸をはなれ三戸南部信直公の下にて仕え、後に紫波平定などの功を以て紫波郡中野村・高田村・片寄村三千五百石の領主となり中野南部吉兵衛康実を名乗ります。 五世岳翁林賀大和尚の代、天正19年(1591年)九戸南部氏、三戸南部氏との間に九戸の乱が起りこれにより九戸南部氏滅亡に至ります。この折り康実公は九戸に加担することなく、又九戸平定の功により南部信直公より褒美を賜るもこれを固辞し、代わって兄政実公の遺骸を貰い請け長興寺に葬ります。 更に文禄2年(1593年)岳翁林賀大和尚の弟子 六世梅岩嶺雪大和尚を議して采地紫波郷郡山に久保山 長岩寺を建立、開基となりて先祖菩提道場と致します。寛永6年(1602年)中野南部三代元康公、采地を紫波郷彦部村に転じこの時長岩寺を移して近城山 長徳寺を建立。 十世雨外楚雲大和尚の代、延宝2年(1674年)中野南部四代康敬公、南部藩鎮花輪城代となり采地を鹿角郷花輪村に転ずる時、長岩・長徳寺の仏像・法器・中野家位牌等一切を花輪村に移して杉沢山 長年寺を建立致します。後に山号を鳳林山と改め中野南部家代々の菩提道場として尊崇を享けると共にその護持を頂き、又明治の後は結縁の檀信等しく集う菩提処として法輪増輝、長興寺に始まる法統は今日へと伝えられております。本末関係については、長興寺末とするものと宗徳寺末とするものの2通りがあります。本ブログでは、”延享度曹洞宗寺院本末牒”の記載に従って宗徳寺末とします。系統的には九戸村の長興寺から始まり、領主と共に九戸→紫波→鹿角と移動を繰り返し、山寺号が変わること数度、最終的に鳳林山 長年寺となりました。当地に落ち着いてからも、最初は杉沢山という山号だったようですが、後に現在の山号に変えています。それでは御堂の装飾を見ていきましょう。この通り、端々に金キラの装飾と古めかしい木彫がしてあります。木鼻には獅子と象。反対側も毛並みが分かるほどの精緻な表現です。懸魚には鳳。風で翻った羽がすんばらしい!向拝の天井部分には、火災除けか龍神が描かれています。もしや鳴き龍?扁額には”法王閣”と刻まれています。法王=釈迦とすると、釈迦堂という意味になると思われますが、どうなんでしょうか。次に堂内。こちらは本尊の釈迦三尊です。沙弥檀に施された瑞雲の装飾も見事です。沙弥檀裏手には花輪南部氏の位牌が安置されています。特に中央のものは相当に古く、もしかすると長興寺開基 中野南部吉兵衛康実公のものかも知れません。堂内左手には閻魔像と共に子安・延命の地蔵尊が脇侍として置かれていました。地蔵尊は閻魔大王と同一視されるので、異なる3つの姿を並立したものと言えるでしょうか。位牌堂の方には八臂弁財天・千手観音・十一面観音などと共に三十三観音像が置かれていました。当寺院が、地域の信仰の根本道場となっていることが伺えますね!斜めから。数々の移遷を繰り返し、当地にたどり着いた長年寺。寺号の通り歴史は長く、南部諸氏の後援もあり、現在に続く繁栄を享受しています。寺の歴史と共に、奥州の名族 南部氏の歴史に想いを馳せずにはいられません。以上です。
2026年04月12日
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ここは神社横丁。むつ市の中心地にほど近い飲み屋街です。この通りの近くには、田名部海辺三十三観音霊場の札所が幾つかあり、下北の巡礼においても重要な地域です。この路地、建物と建物の間に隙間があり、ここから覗いているのは神社の境内です。むつ市、ひいては下北半島で最大級の神社を見ていきましょう。2024.7.21田名部神社路地から建物の間を抜け、猛烈な日の光に目がくらみます。今日は天気も良く、青い空に黒っぽい大鳥居が良く映えていました。境内には茅の輪。恐らく末社に置かれているんでしょうが・・・。うーむ、いったい何の神格を祀っているんでしょうか。末社の社の隣には古い社号標が置かれています。これによると旧郷社みたいですね。拝殿です。美しい神明造の社は、どことなく善知鳥神社に似ています。ご由緒です。田名部神社社号:海辺總鎮守、北郡總鎮守、示現太郎大明神祭神:昧耜高彦根命、誉田別命(十五代応神天皇)、宇曽利山大山祇大神、管下神社大神田名部神社の由緒 当下北半島總鎮守田名部神社の創立年代は元和2年(1616年)の類焼のために不明であるが、康永4年(興国2年・1341年)の鰐口が残されている。 寛永12年(1635年)盛岡城事務日記によれば、当大明神は関東宇都宮二荒山より万民守護のため宇曾利山に御飛来、大平村荒川一本松に鎮座のところ、二十二代先別当 小笠原丹後 霊夢により田名部村に動座し、神領100石を有し海辺總鎮守・北郡總鎮守・田名部大明神と尊稱され、柳町の高台に鎮座していたが、元和2年に社殿記録等を焼失し明神町に動座している。 下北半島は平安鎌倉時代より明治11年明治政府により郡制が施行され奥州南部北郡が上北・下北の2群に分離されるまで、田名部や田名部通と稱していた。慶仁のころから天下はおおいに乱れ、北郡各地には南部氏にされるまで、小笠原・蠣崎・菊池・工藤・安宅・新谷・広瀬の豪族がいたが、根城南部氏の統治により蠣崎氏は松前に移り、工藤氏は根城南部氏の籍に入り、安宅・広瀬氏は藩命により三戸の切谷村に転じ、小笠原氏は民に帰し現在に至った。 小笠原には、宮内・宮田・坂本・菊池・葦谷・赤星等の一族郎党がいた。宮田勝盛は小笠原磐美の祖で、射術の達人で、南部二十九世重信公、八戸南部始祖長房公の御弓の御師範であった。江戸時代の祭典 田名部神社は田名部通り總郷100ヶ村の總鎮守で田名部通りには、本村34ヶ村・支村66ヶ村の村々があり、田名部町を中心に関根から北を北通り、大平から西を西通り、現在の東通村は東在と稱し、根城南部氏が統治していたが、寛永4年2月(1617年)宗家三戸南部氏の懇望により根城氏は田名部通りを宗家に譲渡し遠野に移った。宗家南部氏は田名部町に代官所を置き、田名部通の村々を支配した。 当神社は歴代南部公を始め庶民の崇敬が篤く、大祭には南部公代参としての田名部代官参社のもとに祭典が執行され祭典の開始と終了は早馬で盛岡の本藩まで報告された。田名部通り本村33ヶ村からは、それぞれの町名を記した燈篭が献燈され、大畑町は延享元年(1744年)、川内町は安永6年(1777年)に町名を許されていた。この大畑と川内の大燈篭は三十三燈篭の双排といわれた。江戸時代の神輿渡御行列帳に見える山車、神楽山車・横迎町 町印 稲荷山(豪川組)・小川町 町印 猩牲山(義勇組)・柳 町 町印 大黒町(共進組)・本 町 町印 蛭子山(明盛組)・新 町 町印 救世堂(新盛組)神楽・栗山大神楽・目名大神楽下北半島総鎮守 田名部神社 / 田名部神社について より引用下野国一之宮として名高い宇都宮二荒山神社からの勧請です。東北において味耜高彦根神が祀られるのは、福島県白河市周辺に鎮座する都々古別神社郡です。これらも陸奥国発足時に、領国発展のために創建されたと言われています。今回も下北半島の開発・発展のために祀られたんでしょう。創建年代は少なくとも南北朝時代にまで遡り、鰐口が残っているという事は、以前は仏教色の強い霊場だったのかも知れません。祭神に宇曽利山大山祇大神がいることからも、恐山と関りがある事は確かでしょう。修験の霊場だった可能性もあるでしょうか。扁額です。斜めから。下北半島総鎮守の社でした。初詣の時には周辺地域から沢山の参拝者が訪れ、それはもう賑わいます。周囲を海に囲まれた下北半島、そこを守るは大国主の御子神。遠く本州の最果てに、国土発展の神格は居わします。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・下北半島総鎮守 田名部神社以上です。
2026年04月10日
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会津地方には会津ころり三観音という古観音を巡る巡礼があるそうです。その札所の1つ普門山 弘安寺から南に数㎞行った所に、雀林という何とも雅な響きの土地があるんです。そこには雀林観音と呼ばれる古寺があり、弘安寺の開創譚とも関わってくる寺院なんです。弘安寺の開創が13世紀頃とされていることからも、当寺の歴史が如何に長いかが分かると思います。境内は広く、堂宇も風雪に虐められ傷んではいますが、往時の繁栄ぶりはヒシヒシと伝わってくるのです。会津の観音霊場はこうした古刹で溢れています。2024.10.19会津三十三観音霊場二十九番札所:雷電山 妙行院 法用寺 観音堂JRの線路の方から、雀林の集落へと真っすぐに伸びる田園の道があります。周囲はどこまでも広がるかのような田んぼであり、雰囲気は津軽とそっくりです。今でこそ黄金の穂を垂らす稲が生い茂っていますが、地名を見ても分かる通り、かつては法用寺の僧坊が軒を連ねていました。道は集落を貫いてそのまま法用寺に達し、そしてこの石門の御前に辿りつきます。さぁ、境内に足を踏み入れましょう石門を過ぎると直ぐに山門が置かれています。山門の脚部には仁王像が一対・・・置かれていません。現在は保存のため、観音堂内に移動してあるとのことです。この仁王像は、一説には藤原時代の作とされ、本当であればかなりの古仏という事になるでしょう。国指定重要文化財に登録されております。像容などは↓のサイトからご覧になれます。・MISATONO / 観光スポット / 法用寺更に山門正面をご覧ください。注連縄のような編み物が飾られているのが見えるかと思います。これ実は龍神を模したものであり、毎年1月7日に行われる”ヘビの御年始”という行事と関連する物なのです。水不足を防ぎ五穀豊穣を招くために、地域総出で行われるんだとか。今年の模様は↓のリンクからご覧になれます。・Instagram / aizu_misato_kanko境内に進むと、右の方に小さな御堂が置かれています。ここには鼻取地蔵尊という、いかにもホラーな名前の地蔵尊が収められているのです。堂内です。おそらく3体とも地蔵尊なんですが、何れも顔がのっぺりとしています。有名な怪談話の様でもありますが、どのような由緒があるんでしょうか。説明書きです。鼻取地蔵尊縁起 近江の国高島郡田中(現在の滋賀県高島市)に住んでいた武家で大永2年(1522年)に、初めて雀林村に移り住んだ田中家がありました。里主(村長・天文5年(1536年)から永禄7年(1564年))を務め、また神官(田中近江守稲水親愛が宮城県大崎市の大崎八幡神社)を勤めたと墓誌銘にあります。新兵衛光貞はその頃の人で、今から約500年も前の事で、村は戸数も少なく疎農の時代でした。 そんなある日のこと、妻は妊婦で臨月も近く、田の代掻きをしようとしてもお互いに多忙な時で鼻取り(※1)をしてくれる人も頼むことができません。新兵衛はこまり抜いて五月晴れの空を眺めて思案にふけっていたのです。ところがそこへ見かけぬ童子が来て「新兵衛さん、鼻取りの手伝いをしましょう」というのです。困ったときの神頼みといいますが「そうか、それは誠にありがたい」とすぐに水田に入って一日楽しく働いてくれました。気の荒い馬も今日に限ってはおとなしく働いてくれ、夕日が西の山に入るころようやく終わりました。 夕飯に出来るだけの御馳走をしようと、妻と2人で夜食の支度をして童子の来るのを待ちましたが、どうしても見当たりません。 「どこの家の子供だったのか、忙しさに紛れてよく聞いていなかったので、その家を探しあてることが出来ません」 さて困ったと近所あちこちを探してみると、小さな泥足跡があります。 「はてナ、ここを歩いたのか」と追って行くと地蔵堂の前で足跡は消え、地蔵尊の両足が濡れ、汚れていました。新兵衛はハッと気がつき、この地蔵尊が鼻取りをお手伝いしてくださったと思うと、有難さにひとりでに合掌して深々と拝みました。そして地蔵尊に夕飯を捧げたのです。※1:鼻取とは、田や畑を鋤く時に、牛の鼻輪に結んだ綱を引き、誘導する人のこと。鼻取とは田作業の1つだったんですね。夜な夜な人の鼻を引きちぎっていく地蔵尊を想像してしまいました。↑の説明通り田作業を手伝う地蔵尊の伝承は各地にあります。山梨県でも中央市の永源寺に同様の由緒を持つ地蔵尊がありますよ。境内はこんな感じです。手前に古桜・鐘楼、その奥に観音堂が控えます。ここから更に左側に境内がのび、三重塔や地蔵堂、本坊などが配されています。因みに中央の桜は”虎の尾桜”と呼ばれ、808年に徳一上人が御手植えしたという言い伝えがあります。歴代会津藩主に愛されてきた桜です。鐘楼です。シンプルなデザインながら、色あせた木材が歴史の重みを感じさせます。桜にかって殆ど見えませんが観音堂です。手前の狛犬と比較しても、かなり大柄な堂宇であることが分かると思います。実際に御前に立つと、その巨大さと迫力に圧倒されてしまいますご由緒です。雷電山 妙行院 法用寺天台宗開山:徳道上人中興開山:徳一上人本尊:雀林観音(十一面観音)・・・。 高田町大字雀林という何となくのどかな、古くから伝って来たような地名のところにある天台宗、雷電山法用寺は、寺伝によると、養老4年(720年)、徳道上人が最初西方およそ2㎞の地点にある堂平という所に建立したのがはじまりであるという。それを裏づける寺跡、坊跡、京塚、坊ヶ沢、お前坂などがあり、さらに観音堂跡もある。当時の本尊は十一面観音で、この像の造立は寺の創建より約15.16年おくれていたと推定されている。 しかし大同2年(807年)火災をこうむり、堂塔と仏像を失っている。寺の再建は徳一によって進められ、現在地に山麓を切り拓いて寺を建立、法用寺は嵯峨天皇の祈願寺となり、かの恵日寺が創建されるまでは、幾多の末寺と飯豊山をも司掌して、会津仏教史上法用寺時代とも称すべき一時期があったといわれる。 その後、修験道の興隆によって、多くの行者が生活するようになり、天正の頃までは33坊も数えたものが、天正17年(1589年)には16坊になった。修験行者が多く住むようになると本寺の外に、喜見院とか、大乗院などを増設している。 しかし、寺運は徐々に衰退し、現在は、堂塔相並んで会津平野を俯瞰する勝地にありながら、境内も荒れ気味であり、哀惜の念にたえないものがある。が、しかし「会津三十三ヶ所観音霊場めぐり」の第二十九番にあたり、霊場独特の落着いた雰囲気をもち、会津唯一の三重塔を誇り、国あるいは県の重文をいくつも蔵している。その華かな復興を期してまつべしであろう。 仁王門の木造金剛力士像は、国重文の指定を受けている逸品である。ともに欅材の一木彫で、 像高は阿像222.7㎝、吽像は210.0㎝ある。これらの像は藤原時代の一木彫であるため、鎌倉時代以後に多く造られた、誇張した表現、つまり腕を大きくふり上げ、極端に足をふみ出してふんばり、腰を強くひねるような、いわば写実的ともいえる表現はないが、忿怒の形相、逞しい筋骨、体部全体の動きはすこぶるよい。いなむしろそれが藤原時代の特徴といえよう。裳裾はおだやかに下に垂れ、尊顔も丸味があり、眼は彫眼とし、髪の形も藤原的なものをよく表わしている。藤原期の金剛力士像としては、近江の善水寺、京都峯定寺のそれらとともに、他に例を求めえない貴重なものである。 仁王門の正面に七問四面、豪壮な観音堂(本堂)がたつ。この観音堂の本尊を安置する厨子と仏壇は、国重文である。これらは、会津地方における最古の遺構で、仏壇は上下に禅宗仏壇の繰形を加味した形で、擬宝珠高欄をのせ、欄間にコーモリ狭間をもつ。厨子の方は桁行三間、梁間二間、寄棟造、大きな厨子で、扇垂木、四手先の宮殿で、正和3年(1314年)の棟札がある。 堂内にはまた、稽文会、稽主勲の作と伝える欅および桂の十一面観音立像(藤原時代、県重文)を計2体安置する。 欅材一木彫の方は像高154.5㎝、尊顔はおだやかな丸顔で、宝髻の前に光背をつけた阿弥陀如来の化仏を彫り、その下の天冠台に十一面を彫り出している。衣文の彫りは極端に浅く、飜波の名残りも見られるが、彫法や体部の表現はきわめて古様である。 桂材の一木彫の方は像高147.5㎝、これは檀像風の仏像で、尊顔は切長の彫眼、眉の弧線は明瞭、鼻の稜線は鋭いが、口唇は大きい。衣文線は深く彫られ、天衣や裳裾には明らかに波のあとが見られる。瓔珞や胸飾りなどは墨書になっている。この像は地方作であることは否めないが、藤原前期の特色を実によく表わしているといえよう。 また伝徳道上人坐像(鎌倉末期、県重文)も、禅宗の高僧の頂相彫刻の影響を受けて造立されたものとみられる、寄木造、玉眼、像高1mの堂々たる像である。 他に、十一面観世音像版木と銅鐘が県重文に指定されている。 会津地方唯一の塔である三重塔は、寺の縁起によると三建目にあたるものである。懸柱式、銅板葺、屋根は繁垂木であるが三層目は扇垂木である。最下層には釈迦三尊像を安置する。この塔は安永元年(1772年)起工、同9年落慶した。芸艸堂 「東国の古寺巡礼」 192~194ページ より引用西国三十三観音霊場を開いた徳道上人による開山です。開山は養老4年(720年)で、その後大同2年(807年)に火災によって堂宇の多くを失いますが、徳一上人によって再興されています。磐梯山の南麓に恵日寺が開山されるまでの間、陸奥国の仏教文化の中心地として、徳一上人はじめ数々の名僧が訪れています。次に観音堂の説明書きを見てみましょう。県指定重要文化財 法用寺観音堂平成20年4月4日指定 露盤に飾られた菊花紋にある刻銘文や当寺所蔵の明和3年(1766年)10月の「雀林村法用寺観音堂建立二付御役所預ヶ金返与願」の記載等から判断すると、隣接する三重塔より少し早い明和5年の建立と推定される。 屋根は宝形造り、頂上には箱棟の上に宝珠を載せている。現状は前通り外陣の柱間装置や銅板葺に改造が行われているが、全体的にはほぼ原形が維持されている。会津三十三観音霊場札所のなかでも最大級の建造物であり、方五間(平面積約151m)の規模をもち、近世の観音堂では県内最大である。 本寺は、近世になり衰退したものの、この堂は法用寺文化を残す貴重な遺構といえる。なお、堂内には、国指定重要文化財の厨子や金剛力士立像など多くの文化財が納められている。平成20年12月会津美里町教育委員会県内稀に見る大堂という事で、非常に見ごたえがありました。この規模の観音堂ですと、県内には他にも東堂山 満福寺・堂山王子神社(龍頭山 南霊院 堂山寺)・左下山 観音寺などのものが挙げられると思います。宗派は異なりますが、いずれも古刹であり、是非とも参拝していただきたいところです。観音堂の木彫も見ごたえ抜群!ここの木彫の特徴として、木鼻に象では無く麒麟を採っている点が挙げられます。他にも壁面には獅子が多く刻まれ、装飾性がかなり高くなっています。扁額も面白いです。山号を刻んだものが1つ、他は観音堂と同じ意味の”大悲殿”、”圓通閣”と刻まれているのです。いずれも川の流れの様な優美さを誇る美文字ですね。このような絵馬も。朝日を臨む烏でしょうか、美しい!向拝の木彫もどうぞ。基本、木材表面に蔦柄を彫るにとどめていますが、屋根の裏側には花びらまで細かく再現された菊花が付けられているのです。それでは境内を少々散策してみましょう。三重塔に向かう途中、巨岩が露天で置かれていました。近くにある説明書きを見てみましょう。弁天石の由来 今から凡そ1195年前、大同3年(808年)観音堂建立の際、徳溢(徳一)大師が植えられた、此の木(虎の尾桜)の下で大師がうつうつと仮眠された時、妙なる楽の音と共に美しい天女が舞い降りて静かに大師のそばにたたれて、にっこりと笑みをたたえたので、ふしぎに思う中「われは弁財天なるよ、そなたの力となりこの堂塔の助とならん)と云われ、目覚めてみるとそこにこの石があったので弁天石と名づけこれを北の川のほとりに祀り、もし子のない女はこの石に抱きついて祈り御利やくで子が授かったと言う。その後洪水で流されたので此の地に復元する。平成15年11月 法用寺桜保存会不思議な伝承が残る大岩です。ここでも徳一上人が出てきていますね。会津とその周辺地域の古刹の由緒に、必ずと言っていい程登場します。境内北側に鎮守の祠が置かれています。これは意加美神社と呼ばれ、龍神を祀ったものです。ヘビの御年始は、この龍神に豊作・雨乞の祈りを捧げる行事であり、古くから水神としての側面があったんでしょう。↓に境内の説明書きを載せます。鎮守・意加美神社 龍像権現として創祀されたのは宝亀年間(770~780年)約1,220年前で村の鎮守として崇敬をうけて来ました。奉祀された頃、宮の周りは非常な大森林で雀など、小鳥が群れ住んで居たので、古書に「龍像権現の森を、雀林という村の名の起り」とある。 龍像権現は祭神が「五龍王」で「龍」を祀った。「龍」は雲や水と住み、しかも偉大な力をあらわしている。水の少いこの村人が「龍」を祀ったことも決して昔の人の考えが解らない事でもない、山門(仁王門)に「蛇」(龍)の藁形を祀ったのも理由があっての事と思われます。 明治4年(1871年)神社法が制定され意加美神社と改められ伊佐須美神社の境外末社に編入されたのである。この神社が雀林の神社の中で一番古い鎮守であり、氏神であります。・・・。 祭礼は10月29日で当日は幣束を供えて、この社に参拝しております。平成2年4月建立 大越大雄氏文献より寄進者 猪巻清正、村松武夫境内説明書き より引用御由緒に従うと、法用寺創建から数十年後に祀られた神格(権現)みたいですね。龍神が祀られている所を見ると、当時から水不足は相当深刻だったみたいですね。現在は岩代国一之宮 伊佐須美神社の境外末社となっています。意加美神社の社殿です。境内を見守るかの様に高台に鎮座していました。参拝時は参道が立ち入り禁止になっており、遠目から眺めて終わりました。鎮守の社から更に南下すると、石川啄木の歌碑が置かれています。説明書きです。石川啄木歌碑敵として 憎みし友とやや長く 手をば握りき わかれといふに 1907年(明治4年)秋、「小樽日報」の創刊に参画した29歳の事務長小林(のち中野)寅吉、会津高田町(現、会津美里町)省林山身と、23歳の記者 石川啄木との間に社の内紛から来る対立があり、退社した啄木が翌年1月19日「釧路新聞」の記者として単身赴任する。雪の吹き入る停車場に妻子が送る。寅吉も送る。別離の悲しみに憎悪の消えた”わかれ”の一瞬を巧みにとらえて詠んだ歌。 のちに啄木は文学へ、寅吉は政治の世界へとすすんでいくことになる。 3.4句の実感を大切にし、2人を記念する歌として選び、啄木の自作集字拡大による碑とした。撰文:三留昭男1985年(昭和60年)10月27日 啄木生誕100年の日に会津啄木会境内説明書き より引用そんでやっとこさ三重塔。会津三十三観音霊場の札所の中でも、この規模の三重塔が付随するのは法用寺のみ(恵隆寺にも有るにはある)となります。福島県指定重要文化財(建造物) 法用寺三重塔 一棟昭和55年3月28日指定木造、三層宝形造、銅板葺(もとこけら板葺)、方三間 会津地方に現存している唯一の塔遺構で、禅宗様の三ツ斗・三手先斗拱・二重の繁棰を使用した軒の深い建築である。繁棰は初層と二層を平行棰、三層を扇棰とし、また各組ごとに尾棰をおき、斗栱の間にはそれぞれ間斗2個を詰めて配するなど、応用部分も多く、禅宗様の末期的手法によったものである。 建立年代を示す棟札・墨書銘などは見当らないが、第二層には、明和5年(1768年)に飛騨高山の二右衛門と越国仙七の描いた設計図板がある。 藩政時代に寺社奉行に提出した調書の写しといわれる天台宗「寺縁起」(会津若松市常光寺蔵)、および『新編会津風土記』などの記載によると、安永元年の起工で、同9年(1780年)の竣工とあり、寺の創立以来再々建にあたるといわれる。 なお初層には、内陣に後補の祭壇を組み、釈迦三尊を祀ってある。福島県教育委員会境内説明書き より引用内部にはこれまた古めかしい釈迦三尊が祀ってあります。千羽鶴の規模の大きさが、崇敬の大きさをも表現しています。手前の”寿”と書かれた座布団も好みです。欲しい。三重塔斜めから。ほんとうっとりしちゃいます境内を更に更に南に進むと、観音堂とはまた別個に山門が構えられています。その先には宝形造の仏堂が1宇。これは地蔵堂です。扁額から判別するに、本尊は子安地蔵尊。堂の造りもさることながら、木彫装飾もカッコイイですよ!蟇股は龍虎です。地蔵堂周辺には面白い施設があったみたいですよ。説明書きを見てみましょう。会津美里町指定史跡 御氷餅搗跡昭和47年5月20日指定 法用寺境内のこの場所に「曝場」と「搗舎」と呼ばれる建物と3棟の倉があり、明治時代の初め頃まで、雀林村の人々によって「御氷餅」が製造されていた。 「御氷餅」とは、いわゆる保存食である。寒さの厳しい時期の40日間で、餅を搗き、風雪にさらして、調整するなど特殊な技術を用い、厳重に管理されていた。平安時代頃から製造されていたといわれ、江戸時代には法用寺街道を通り、若松城へ運ばれ、会津藩や徳川将軍家へも献上されていた。 雀林村では、「御氷餅」を村全体で製造し、献上していたことから、藩から割り当ての人足については免除されていた。令和6年3月 会津美里町教育委員会ここで御氷餅という保存食を作っていた様です。僕の地元にも”干し餅”という寒風でもってガチガチに乾燥させる餅が有るんですが、それに似ている気がします。似たような風土では似たような郷土料理が生まれやすいんではないでしょうか。とても面白い立ち入り禁止ながら、奥にはまたもや祠です。地蔵堂斜めから。そして境内最南端には、おそらく本坊ではないかと思われる御堂がありました。ここまで規模の大きな霊場ながら、法用寺は無住の寺なんです。会津三十三観音霊場の御朱印も、確か近くの寺院でもらえた気がしますが、場所は忘れてしまいました。観音堂に場所が書かれているはず。斜めから。会津最大規模の寺院でした。会津地方は恵日寺などまわり残している所が本当に多く、記事を書いている今も後ろ髪が引かれるかのようです。山梨からだと、東北地方では一番近いんですが、それでも3時間以上の運転が必要となります。・・・東北に戻った時にまわるとします・・・御詠歌巡り来て 西を遥かに眺むれば 雨露繁き 古方の沼めぐりきて にしをはるかにながむれば あめつゆしげき ふるかたのぬま本尊:雀林観音(十一面観音) एकदशमुख御朱印:未以上です。
2026年04月09日
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2月の東海大遠征で浜松に赴いた折、参拝しました。穏やかな住宅街の一角に広大な境内を構えるのは普済寺。境内の一部は幼稚園に様変わりしており、参道も近代の道路割のせいか一直線に進むことは出来ません。而して、かつての姿は失われたと謂えども、現在の本堂はかなり魅力的なんです。浜松のカラリと乾いた冬空に、白亜の大堂が映り、何とも美しい風景が眼前に広がっておりました2026.2.22廣澤山 普済寺静岡県でも相当に栄えている浜松市。住宅街ともなれば、東京の様に狭路が走るのみで、車乗りにはあまり優しくありません。特にこの広沢の地は、すぐ近くに浜松城がある事からも、昔の城下町の風情が残っているのではないでしょうか。高低差のある住宅街、細っこく複雑な路地などがそうです。一応この総門の奥に駐車場があるので、車でも安心。こちらの趣のある総門は、在地の武家 近藤氏の陣屋門を移築したものです。武士の屋形らしく装飾が控えめの落ち着いた外観は、禅宗寺院の境内を飾るに相応しいですね参道を少々進むと山門が構えております。今ではくぐることは出来ないものの、慶長8年(1603年)に家康公が再建した時の姿そのままであり、今では境内で一番古い建造物なんではないでしょうか。この門に懸かる”東海曹洞”という扁額は、時の亀山天皇から御賜ったもので、当寺院の格式の高さを示しています。山門右手の墓地の端に、なにやら祠が置かれています。鎮守社かとも思いましたが、当寺院には他に有名な鎮守社があるため、おそらく鎮守以外の祠でしょう。短い参道もいよいよ終わり、境内の根幹エリアに突入です。奥には件の白亜の大堂が姿を覗かせており、見ているだけでかってに心がザワザワと盛り上がり始め、足取りも軽くなってしまいました・・・!そんな浮ついた参拝者を出迎えるのは”雲夢橋”という石橋です。こちらも江戸時代に建立されたものなんです。本堂に進む前に、境内の他の堂宇を見ておきましょう。こちらの赤鳥居が美しい御堂は、鎮守の北山稲荷を祀ったものです。北山稲荷については、普済寺の寺務所でいただける手のひら大の冊子に由緒が載っております。↓に引用してみましょう。北山稲荷普済寺の由来 普済寺の開山 法皇禅師寒厳義尹大和尚は順徳天皇第三皇子と言われ、寛元元年(1234年)27才で、又文永元年(1264年)48才で再度渡支(中国に渡る)されて弁道修行されましたが、二度の渡支のたびに吒枳尼天の不思議な御守護を受けて台風からまぬがれ無事に帰朝する事が出来ました。 又帰朝後も益々の御守護を受けられて、東海から三河に到る迄宗派をひろめられました。その事に深く感謝され、自ら御神体を彫刻し、普済寺の一代守護神として祭祀され、御自分のお生まれになられた京都北山の地名をとられて北山稲荷吒枳尼眞天と命名され、近郊近在の多くの方々の篤い信仰を受けて今日に至っております。 なお徳川家康が三方原合戦の折いったんは敗走しましたが、吒枳尼真天の御加護を受けて勝戦とする事が出来た事に深く感謝し、江戸城に千代田稲荷として祭祀したと伝えられております。 日本三大稲荷の1つと言われる豊川稲荷も北山稲荷を分祀したものです。曹洞宗北山稲荷普済寺 山主 記何と豊川稲荷の本宮の様な霊場だったんですね!豊川稲荷こと圓福山 妙嚴寺も、寒厳義尹禅師の六代末の弟子 東海義易禅師によって開山された寺院であり、法脈によって結ばれた寺院なのです。扁額です。北山稲荷のすぐ脇には、また別の稲荷社が置かれていました。こちらの稲荷神社も何か由緒のある社なんでしょうか、気になります。北山稲荷から本堂裏手の方に向かうと、白壁に囲まれた社が鎮座しております。これは寒厳義尹禅師の墓で、ここの他には熊本の大慈寺や如来寺にも置かれているんだとか。皇族出身の僧という事で、大慈寺や如来寺は実質門跡寺院という事になるんではないでしょうか。そうした格式高い寺院たちと肩を並べる当寺院も、相当な格式高さという事になります。本堂です。造り自体は古態を良く残しているんですが、建材はおそらくコンクリ等の近代建材ではないでしょうか。独特の白っぽい色合いがなんとも言えず美しいです特に日光に照らされた時なんて、本当に光って見える程です。ご由緒です。廣澤山 普済寺曹洞宗 大梁山大慈寺末寺開山:華蔵義曇和尚本尊:釈迦三尊曹洞宗寒巌派の巨刹 広沢山普済寺は遠州における曹洞宗の巨利である。末寺門葉630余か寺を数え、天竜川以西の曹洞宗の寺院のほとんどが普済寺の流れを汲んでいる。この寺が開創されたのは室町初期の正長元年(1428年)とされており、最初に寺が構えられた場所は敷智郡寺島村(浜松市寺島町)であった。寺を開いたのは寒巌義尹禅師の法弟 華蔵義曇和尚である。 寒巌養尹は順徳天皇の第三皇子といわれ、2度にわたって中国に渡り、禅道の修行を重ねた。そして肥後国(熊本県)に大梁山 大慈寺を開いた。時の亀山天皇は、寒巌禅師にさらに東海地方に曹洞宗の拠点を開場するように命じたが、すでに老境にあった禅師に勅命を果たす体力がなく、結局その意志はそれより五代の法孫 華蔵義曇によって果たされたのである。 華蔵和尚は「東海曹洞」と「日本第二之本寺」の勅額を携えて遠州に来住、引間城(浜松)の吉良義真の帰依を得て、天竜川(現在の馬込川)河畔の寺島村に本能山 随縁寺を建立し、寒巌義尹を開山にすえ、自らは二世として寺運の興隆に努めたのである。だが創建の地がたびたび洪水によって難を受けたため、永享4年(1432年)現在の広沢の地に移転、山寺号を「広沢山 普済寺」と改めた。三方原台地南端に位置する寺域一帯は、いく筋もの沢が広がり、幽寂な趣をもった場所である。「広沢山」の山号はそうした地理的条件によって命号されたものであろう。 この寺を教線の拠点とした華蔵義曇による曹洞禅の波は、華蔵の教えをうけた13人の和尚たちによって広められ、14の直末がまず開かれ、さらに孫末へと広がっていった。13人の開創した寺院は遠州のほか三河、尾張、さらに甲斐にまで及び、いわゆる13門派14か寺として禅宗の世界に光る布陣を形成した。このうち遠州に寺を開いた華蔵禅師の法弟とその寺院を『嗣法弟子戒法弟子之次第』(普済寺蔵)から拾うと、まず透翁義能によって新豊院(浜松市三方原町)が開かれ、天磵義倫により龍泉寺(浜松市飯田町)、天翁義一によって福王寺(磐田市城之崎)、命天慶受により宿芦寺(浜松市庄内町)、潔堂義俊により天林寺(浜松市下池川町)、月窓義運により西来院(浜松市広沢一丁目)、そして在天弘雲により宗源院(浜松市蜆塚一丁目)が開苑をみた。いずれも今日曹洞宗の代表的禅刹となっている。 普済寺は広沢に寺域を構えて以来、二度三度にわたって不慮の災火に見舞われた。歴史上有名な炎上は、三方原合戦のときで、徳川家康によって火を放たれ、全山が炎に包まれた。家康は天下を平定したのちの慶長8年(1603年)、報恩のため改めて七堂伽藍を再建、朱印70石を与えている。家康が建てたその伽藍は、明治30年(1897年)の失火によって、山門を残してすべて焼失してしまった。明治41年再建をみたが、その堂宇も太平洋戦争による空襲によって再度焼けてしまった。しかしこのときの戦火でも山門だけは焼け残り、今日に重厚な姿を残している。江戸初期に建立された山門、その山門の棟下に掲げられている「東海曹洞」と揮毫された勅額は実に見ごたえがある。 また参道入口にある総門も一見に値する。この門は浜名湖北に知行地を有していた旗本 近藤氏の陣屋門を移築したものだけに、武家屋敷の門の趣をもっている。境内には江戸中期に建立された石橋(雲夢橋)や、開山寒巌義尹禅師の廟もある。皇室にかかわりをもつ廟所であるだけに、白壁の塀に使われている瓦には16弁の菊の紋が使われており、廟内に据えられている禅師の無縫塔には600年の寺歴の重みが感じられる。 普済寺は二度三度にわたる兵火や戦火によって伽藍を失ってきたが、その災禍をくぐりぬけて今日に伝えられている彫刻や古文書、古記録がある。そのうちの最たるものは、室町時代の延徳2年(1490年)に造立されたと推察される華蔵義曇禅師の座像と杖である。衲衣のうえに袈裟を着用し、右手に如意をもって椅子に座った姿の頂相彫刻である。座高は79.5㎝、檜の寄木造りで、かつては彩色が施されていたことがわかる。その面立ちをよく見ると、眉が太く、左眼はしっかりと見開かれており、右眼は閉じ気味である。像には造立年月の銘はなく、いつごろのものか明確には断ずることができないが、ひとつの手がかりとして、『普済寺前住牒』と表題された文書がある。これは江戸中期の寛文8年(1668年)に福王寺(磐田市)の格山応逸住職が普済寺に再住したとき、往古からの記録が失われているのを知り、13門派14か寺の住職のことや所伝を書いたもので、紙本墨書の折本装になっている。この『前住牒』の中に「華蔵和尚木像安座點眼 四月一日卅三回忌 延徳二年正月七日」とあり、この一文にみられる華蔵和尚の木像が今日に伝わっているものに間違いないと考えられる。 他に古文書の類としては『梅巌義東嗣書』があり、師である梅厳義東が弟子の華蔵義曇に対して与えた法脈系譜のことで、応永13年(1406年)のもの。それにしても肥後国の華蔵義曇が、はるかに離れた遠江国に教線の拡大をなすことができ得た背景を考えると、そこには魅力的な歴史ロマンがあるに違いないが、確かなことはわからない。ただひとつだけ考えられるのは、遠州の豪族 今川了俊が応安4年(1371年)から応永2年(1395年)まで九州探題をつとめており、このとき了俊とともに肥後の土を踏んだ遠江の武士があったに違いなく、その武士と華蔵義曇との間になんらかの接触があったのかもしれない。静岡郷土出版社 「遠州の古寺」 20~23ページ より引用東海地方でかなり有力な曹洞宗寺院として、創建から今日まで繁栄を続けてきました。寒巌義尹禅師の法脈を継ぐ華蔵義曇和尚による開山です。数度の火災で古い伽藍は山門のみとなりましたが、現在の姿も変わらず美しく、その格式の高さを物語っているかのようです。山号額です。斜めから。やはり太平洋側の冬はかなり乾燥しますね。2月と謂えども、空は快晴で日差しは痛い程でした。故郷とはエラく違いますが、個人的にはこうした気候の方が好きですかね。御朱印を貰い、ふと本堂の方を振り返ると心地良い風が吹いてきました。その風に誘われるように、汗ばんだ額を撫でながら境内を後にしました。今回貰った御朱印です。本尊:釈迦三尊鎮守:北山稲荷以上です。
2026年04月06日
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岩手県岩手町御堂。かつての奥州街道、その名残りである国道4号沿いにある小村です。地名からも分かる通り、この村には1つの仏堂があるのです。前九年の折、源義家公の軍を渇きから救い、勝利に導いたとも伝わる清水も、境内の杉の根元から湧き出し、当に神秘の霊場といった風情があります。・・・而して皆様、前九年の舞台となったのは一関市藤沢町周辺・以南であり、おそらく官軍がここまで上ってくることは無かったんではないかと思われます。岩手県も盛岡周辺には源義家関連の開創譚を持つ霊場が幾つかあるんですが、それよりも北では稀となり、代わりに坂上田村麿関連の開創譚が増えてくるのです。事実かどうかは怪しいですが、この様に開創譚に採られる人物が、地域によって偏りがあるというのは面白い事だと思います。当時どんな人間ドラマがあったのかは、今では若草の根の更に深い所に埋もれてしまっているのです。2025.7.20奥州三十三観音霊場三十二番札所:北上山 正覚院ちょっとした公園の駐車場に車を停めて境内に向かいます。木々生い茂る境内の入口には、これまた古めかしい寺門が建っております。正面から見てみましょう。飾り気のない伽藍は、山岳寺院の趣があり非常に好みです門の先には石畳が伸び、観音堂(本堂)へと誘います。参道両脇の狛犬は珍しく玉眼です。狛犬:阿形!狛犬:吽形!巡礼笠をかぶっているのがカワイイ!!奥の方には鐘楼。今撞くことは出来ないようです。参道から見上げるは楼門。脚部に外壁を付けないタイプの門ですね。造りは割と簡素ですが、規模はかなりのものですよ。境内の説明書きによると、大勧進 田村竹松氏の発願によって、昭和11年8月9日に建立されたそうです。山門の壁面には、時宗総本山 藤澤山 清浄光寺の僧 遊行上人(十五~五十七代・1418~1849年)が詠んだとされる御詠歌が、幾つか奉納されています。2つは御詠歌部分が分からなくなってしまっていますね。何でも、三戸町の教浄寺を訪ねる途上に立ち寄ったんだとか。全部で2枚の額に納められていますので、それらの後にまとめて記載します。1枚目。2枚目。 時宗総本山 藤澤山 清浄光寺(藤沢市)から南部氏の旧城で町(現 三戸町)にあった教浄寺を訪ねる途中、遊行上人が御堂観音に立ち寄り御詠歌を奉納しています。第十五代遊行上人 尊敬梓弓 本の心を日とはつに 引かへて身の里 *の衣手応永25年(1418年)9月27日奉納第二十五代遊行上人 仏天法の水 此川上のそこひなく 末とおき迄 絶じとそ思ふ大永4年(1524年)9月24日奉納第三十二代遊行上人 普光絶じとの 法の流れの筆の跡 見聞に猶も 頼しきかな慶長17年(1612年)7月7日奉納第三十五代遊行上人 法爾*****寛永15年(1638年)7月25日奉納第三十八代遊行上人 卜本*****慶安5年(1652年)奉納第四十二代遊行上人 尊任世々の師の 跡を志たひてきたかみの 佛のちかひ 猶たのむ可那寛文10年(1670年)3月28日奉納第四十三代遊行上人 尊真*****貞享4年(1687年)4月26日奉納第四十九代遊行上人 一法*****正徳3年(1713年)3月吉日奉納第五十一代遊行上人 賦存*****延享元年(1744年)7月20日奉納第五十三代他阿上人 尊如阿ふけたた 世をすくふとて身を分ち 於しゆ御法の ふかき誓ひを明和9年(1772年)2月13日奉納第五十四代他阿上人 尊祐うつします 御かけに見へて御手洗の 絶ぬ流の 末も濁らす寛政4年(1792年)8月吉祥日奉納第五十七代遊行上人 一念みた之世の 阿か能流も清き水 くみてささく流 法の衣手嘉永2年(1849年)4月吉祥日奉納 この御詠歌は、時宗の本山 清浄光寺・盛岡市の教浄寺・岩手県立図書館・国立国会図書館の御協力をいただき、遊行上人の歌を奉書することができました。大工:日廻久男・日廻栄八奉書:橋本壽美男令和5年5月吉日神奈川県から遠く離れた岩手県の北部まで、数百年に渡り時宗の僧の往来があったのは面白いですね。なぜこのように恒例行事となったのかは不明ですが、関東でも御堂観音は知名度が高かったんでしょうかね。本当に多くの歌が残っています。他にもこんな額が。こちらは三十一番札所:白坂観音~三十三番札所:桂泉観音までの御詠歌を掲げたものです。ここの御詠歌の詠み人は天野竜栄という者みたいですが、いったいどなたなんでしょうか。もしかすると、再興巡礼の際の僧侶かも知れませんね。詳細不明。本当にカッコイイ山門でしたね。脇に見えるは寺務所ですが、普段は無人です。カウンターに差し替え用のページが置いてありますので、お金を納めていただきましょう。参拝者にはわらじ型のチャームが用意してあり、僕も少し前まで御朱印帳袋につけていました。足腰健康のお守りです。観音堂の御前に到着です。香炉の屋根が大きく、正面からの撮影は至難でしょう。まずは周辺の小堂などから見ていきましょうか。観音堂の右手前にある小祠です。内部には八幡堂再建の棟札や、権現頭などが収められていました。隣にももう1社。こちらには南無八幡大菩薩と刻まれた棟札が収められています。おそらくこちらも八幡堂でしょう。観音堂右側には、件の清水が湧いております。落雷か火災かは不明ですが、御神木は先が焦げてしまっています。傍らには祠が置かれ、北上山水神として水の神格を祀っていました。隣の石碑です。北上川の源泉となっているのも凄いんですが、北上川の長さに改めて驚いてしまいました。ここから石巻の河口までは247㎞・・・!何て長いんでしょうか。北上川には白髭水の伝承も伝わっており、人々の脅威であったことは確かでしょう。ですが半面、里に水をもたらし、実りを助けるものとしての崇敬もかなりのものだったでしょうねぇ。東北の大河川はこの泉から始まるのです。歌碑も奉納してあります。大杉の反対側の杉からも、水が滴り落ちていました。これらが寄り集まり、この泉を形成しているようです。泉の水はこの様に澄んでおります。神聖さマシマシです。次は境内左側。何やら意味ありげな石碑が置かれていますが・・・。近くに説明書きなども無く、本当に何の石碑なのか分かりません。経常的に”アレ”を表したものである可能性もありますが・・・。一体何の石碑なんでしょう。観音堂です。これ以外に堂宇が無いので実質の本堂です。大きさは中規模、装飾も簡素です。ご由緒です。北上山 正覚院天台宗開山:了慶開基:坂上田村麿中興開基:源義家本尊:十一面観音 → 千手観音 子授けやぐ安産にも霊験あらたかな御本尊。明治天皇が二度も拝礼れた有名かつ由緒ある観音様。 奥羽三十三観音巡りもいよいよ大詰め、三十二番札所正覚院は、IGRいわて銀河鉄道御堂駅から北に4㎞ほど山あいに入ったところにある。門前の道路から37段の石段を上ると本堂があり、石段の中ほどに二層の山門、その山門の左側が庫裏になっている。 「御堂観音」の通称で親しまれているこの観音様は、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が奥州平定の折、敵味方の戦没者の慰霊と天下泰平、五穀豊穣を祈願して一宇を建立して木彫りの十一面観世音菩薩を安置し、一族である僧了慶を開山として護持せしめたのがはじまり。しかし、この十一面観世音菩薩は後に紛失。 その後の天喜5年(1057年)の前九年の役の際、 源頼義・義家父子の軍と、安倍頼時・貞任・宗任ら一族の軍とがこの地で対峙したが、炎天続きで沢の水がかれ、地の利に疎い頼義・義家の軍は飲料水に事欠き苦戦を強いられた。万策尽きた大将義家が観音堂に籠もり祈願したところ、満願の夜に霊夢があり、弓弭をもって霊夢の示した杉の木の根もとを掘るとたちまち清水が湧いた。水を得た将兵たちの意気が上がり、勝利を収めたという。 この霊験に感動した頼義・義家父子は観音堂を改築し、義家が陣中護持仏としていた黄金の千手観世音像を安置し、堂名を新通法寺正覚院と命名したと伝えられている。弓弭をもって掘った泉は「弓弭の泉」と名づけられ、今なおかれることなく北上川の源泉となっている。 その後、戦国の世を迎えた元化・天正年間(1570~1591年)の頃、世の乱れのどさくさで御本尊千手観音像は行方不明となり、それがいかなる経路でか豊臣秀吉の手に渡り、秀吉自ら護持仏としていた。家臣の蜂須賀小六が功をたてた折、恩賞としてその観音像を秀吉から賜ることとなり、以来蜂須賀家の家宝として代々の崇敬を受けてきた。宝永7年(1710年)、徳島藩主であった蜂須賀隆長公が息女春子姫の南部藩輿入れの際、形見の護持仏として与えたため、奇しくも百数十年の時を経て観音像は再び南部の地に戻った。以来、南部家の家宝として護持され、正覚院にはその分霊が奉安された。 この御本尊は「はらみ観音」とも言われ、子授けや安産に御利益があるということで子宝に恵まれない夫婦や妊産婦に崇敬され、若い夫婦連れの参詣者も多く見受けられるという。 本堂は、三間(5.4m)四面、朱塗りの欄干のある二尺五寸(75㎝)の濡れ縁がめぐらされている。昭和40年に火災により焼失、45年に再建された。 堂内には、義家がその昔観音堂改築の際に寄進したという直径約1mの陣中釜が伝えられている。また、霊泉「弓弭の泉」は本堂の裏にあり、「弓弭の泉」を霊示した杉の木は樹齢1,600年を超える老木となって、町の天然記念物に指定されている。明治天皇はこの地をことのほかお気に召されたようで二度もこの観音様を拝礼され、休憩なされている。河北新報出版センター 「岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版」 140~143ページ より引用坂上田村麿の開創に始まり、源義家の中興に続きます。北上川の源流という神秘性も相まってか、南部氏はじめ様々な僧侶からの崇敬も受けていた様です。かつては十一面観音を祀る寺院だったようですが、源義家の参拝時には千手観音を納め、本尊にとって代わっています。岩手県でも平安後期の十一面観音像などが見つかっており、かつては十一面観音信仰の文化圏にあったんですね。この十一面観音像が現存しないのが、本当に悔やまれます。扁額です。斜めから。相当に歴史のある観音堂でしたね。開創譚の真偽は知れませんが、こうした清水が湧く場所と言うのは、古来より神聖視される向きがあります。そうした霊地から始まって後に仏教化したのか、それとも桂泉観音のように当初から仏堂だったのか・・・。何れにせよ、奥州札所の中でも、特に印象的な寺院でした御詠歌良し悪しを なにといはての岩つ辻 迷いを照らせ 九世の誓ひによしあしを なにといはてのいわつつち まよいをてらせ くぜのちかひに本尊:御堂観音(千手観音) सहस्रभुज以前貰った御朱印です。以上です。次の記事です・三十三番札所:八葉山 天台寺 みちのくの果て、御山に居わす観世音調子に乗って撮った写真ギャラリー
2026年04月05日
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ここでは、これまで使ってきた資料をまとめていきたいと思います。書籍とweb閲覧可能なものとを混同して、列挙していきたいと思いますので、霊場の下調べ等にお役立てください記事作成のための資料集●各種巡礼津軽三十三観音霊場☆紹介サイト:護國山 観音院 久渡寺 / 津軽三十三霊場一覧八戸御城下三十三観音霊場デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英 著奥州南部糠部三十三観音霊場☆紹介サイト:寺下観音・潮山神社 / 奥州南部糠部三十三ヶ所観音巡礼デーリー東北新聞社 「奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三札所」 滝尻善英岩手三十三観音霊場「岩手三十三観音霊場へのいざない」 岩手三十三観音霊場会秋田三十三観音霊場「秋田三十三観音めぐり」 秋田三十三観音奉賛会庄内三十三観音霊場☆公式サイト:庄内三十三観音霊場のご案内・オフィシャルサイト株式会社厚徳社 「やまがた出羽百観音 札所めぐり 最上・庄内・置賜の三十三観音巡礼ガイド」 山形札所めぐり編集室最上三十三観音霊場☆公式サイト:最上三十三観音株式会社厚徳社 「やまがた出羽百観音 札所めぐり 最上・庄内・置賜の三十三観音巡礼ガイド」 山形札所めぐり編集室 置賜三十三観音霊場☆公式サイト:置賜三十三観音株式会社厚徳社 「やまがた出羽百観音 札所めぐり 最上・庄内・置賜の三十三観音巡礼ガイド」 山形札所めぐり編集室仙道三十三観音霊場筑波書林 「ガイドブック 仙道三十三観音札所」 山椒の会 編奥州三十三観音霊場河北新報出版センター 「岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版」 沼倉良朗東北三十六不動尊霊場☆公式サイト:【公式】東北三十六不動尊霊場朱鷺書房 「東北三十六不動尊霊場ガイド」 春野草結 著秩父三十三観音霊場☆公式サイト:秩父札所江戸三十三観音霊場朱鷺書房 「江戸三十三所観音巡礼」 新妻久郎 著三浦三十三観音霊場☆公式サイト:三浦三十三観音霊場坂東三十三観音霊場☆公式サイト:坂東三十三観音 公式サイト朱鷺書房 「改訂新版 坂東三十三所観音巡礼」 坂東札所霊場会 編諏訪三十三観音霊場☆紹介サイト:真言宗智山派 青龍山 真福寺 / 諏訪三十三観音霊場信濃三十三観音霊場☆公式サイト:信濃三十三観音札所巡り甲斐国三十三観音霊場☆紹介サイト:甲斐国三十三ヶ所霊場めぐり「甲斐国三十三ヶ所巡礼記」 藤巻勝●各地域の神社・仏閣、地方誌、関連図書紀行文株式会社平凡社 東洋文庫54 「菅江真澄遊覧記 1」 内田武志、宮本常一 編訳株式会社平凡社 ワイド版東洋文庫68 「菅江真澄遊覧記 2」 内田武志、宮本常一 編訳株式会社平凡社 ワイド版東洋文庫82 「菅江真澄遊覧記 3」 内田武志、宮本常一 編訳株式会社KADOKAWA 角川ソフィア文庫 「菅江真澄 図絵の旅」 菅江真澄、石井正己 編・解説曹洞宗関係名著普及会 「延享度曹洞宗寺院本末牒」全国の寺院集英社 「全集日本の古寺 第1巻」芸艸堂 「東国の古寺巡礼」 氏平裕明 著青森県青森県教育委員会 「図録青森の文化財 建築物・彫刻」デーリー東北新聞社 「戦国の北奥羽 南部氏」 熊谷隆次、滝尻侑貴、布施和洋、柴田知二、野田尚志、船場昌子 共著津軽地方津軽書房 「水虎様への旅—津軽の水土文化」 広瀬伸東奥日報社 「つがるのお寺さん」上巻下巻鰺ケ沢町 「鰺ケ沢町史 第3巻」 鰺ケ沢町史編さん委員会 編五所川原市立図書館 / 資料案内 / 五所川原市の地名 ※ここからPDFダウンロード可南部地方青森県教育委員会 「昭和60年度調査合本 青森県歴史の道調査報告書」 青森県立郷土館 編デーリー東北社 「北奥羽の現勢 1970年版」「現代語訳 八戸聞見録 【原典・解説・図版 付】」 木村久夫 訳・著、渡辺村男 原著「東通村の神社」 沢田光夫五戸印刷 「流れる五戸川 上」 三浦栄一 著七戸町 「七戸町史」 七戸町史刊行委員会第1巻 第三編 民俗第1巻 第四編 文化財新郷村 「新郷村史」 新郷村史編纂委員会 編纂十和田市 「十和田市史 下」 十和田市史編纂委員会 編南部町 「南部町誌 上巻」 南部町誌編纂委員会 編岩手県岩手県文化財愛護協会 「岩手史叢 第1巻 / 奥南旧記抜萃 / 寺社修験本末支配之記」 岩手県立図書館 編沿岸地方「山口の八幡さま(山口八幡宮の今昔)」 大森竹之助 著野田村 「野田村誌 : 通史・史料」宮城県東北歴史資料館 「名取新宮寺一切経調査報告書(東北歴史資料館資料;2)」 東北歴史資料館 編山形県最上・村山地方わがさと平清水刊行会 「わがさと平清水」 わがさと平清水刊行会 編福島県浜通り地方いわきの寺刊行会 「いわきの寺」 いわきの寺刊行会 編中通り地方国書刊行会 「石城郡郷土大鑑 : 磐城郷土史博物館」 黒沢常葉 著岩瀬・須賀川仏教会 「岩瀬・須賀川寺院めぐり」石川町教育委員会 「石川町史 下巻」 石川町編纂委員会 編小野町 「小野町史 民俗編」 小野町 編棚倉町 「棚倉町史 第6巻」 棚倉町教育委員会 編玉川村 「玉川村史」会津地方歴史春秋出版 「会津の寺宝」長野県中部常楽寺美術館 「常楽寺綜攬」 常楽寺, 塩田文化財研究所 編地域商社SUWA株式会社 「諏訪神仏プロジェクト公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」塩尻市 「塩尻市誌 第2巻(歴史)」 塩尻市誌編纂委員会 編山梨県山梨日日新聞社 「山梨県立博物館 開館20周年記念特別展 山梨の禅宗文化 おのれと向きあう」山梨県立博物館 郡内地方株式会社エイオーエイ企画 「富士山と河口湖 その周辺の伝説」 伊藤堅吉、本庄元直静岡県東部地域エース出版 「世界遺産 富士山表口「村山」の歴史」 遠藤秀男 著西部地域「桜ヶ池の伝説」 桜ヶ池池宮神社静岡郷土出版社 「遠州の古寺」 神谷昌志 編著以上です。
2026年04月04日
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この寺院の始まりはいつも突然です。駐車場に着いたかと思うと、はっきりした山門なども無く、林の端に見える前堂を伝って奥へ奥へと進んでいくと、古びた薬師堂(根本堂・本堂)にたどり着くのです。境内には紅葉が溢れ、紅葉の時期であれば最高の景色が出迎えてくれるんではないでしょうか。奥州会津の薬師霊場はかくも美しいのです。2024.10.19東北三十六不動尊霊場三十三番札所:醫徳山 千壽院 藥師寺樹々が生い茂る境内を歩いていると、奥の方に巨大な鐘楼が見えてきました。今ある梵鐘は戦時中に供出された物に代わり、平成21年に奉納されました。鐘楼の脇には、赤いべべ付けた地蔵尊が並んでおります。これらは親子地蔵尊と呼ばれており、中央の水子地蔵を取り囲む形で、赤子型の地蔵尊が配されていることに由来します。親子地蔵尊の背後には根本堂が建っております。当寺院最古の建物で、実質の本堂です。宝形造の一般的な造りの仏堂で、古態を良く残していますね。以前参拝した時も感じましたが、やはり東北三十六不動尊霊場は、霊場の開創こそ新しいですが札所は数100年の歴史を持つ古刹ばかりときています。ここまで東北の古刹を味わえる巡礼もそうそう無いのではないでしょうか。福島県の会津地方自体、東北において仏教の伝播が特に早かった地域であり、それ故に古刹が多い傾向にあります。平安時代開創の由緒を伝える寺院もあり、まさに寺好きに於ける聖地と言えそうですよね僕自身天台宗の古刹が好きで、今回のような薬師如来を祀るものは特に好物です。そういった意味でも、札所の中で特に印象に残っているんですよねぇ!ご由緒です。醫徳山 千壽院 藥師寺天台宗 比叡山延暦寺末寺中興開山:慈覚大師本尊:薬師如来 第33番会津薬師寺は32番大龍寺の南西方向にあり、車なら20分程度の距離。会津若松市と会津美里町(旧会津高田町)と行政区域は異なるが、市町の境界近くに位置し、巡拝者にとっては同じエリアの2つの札所をめぐるようなものである。長距離移動が続いてきただけに、ちょっとゆったりとした気分になる。 田園地帯を西に進むと、集落のなかに船田商店という店が右手に見え、押しボタン式の信号がある。左手には「別當寺 十万枚大護摩供厳修寺 会津薬師寺」の看板も立っている。少しわかりにくいが、この信号で右に折れ、左右に立つ石標のあいだを奥へと進めば、会津薬師寺の駐車場に至る。 境内は思いのほか広々としており、車不動尊をまつる堂や、薬師如来をまつる宝形造の薬師堂、生まれ年の守り本尊をまつる小堂などが並ぶ。車不動は全国で唯一の自動車不動尊といわれ、石造りの車体の上に不動尊が奉安され、交通安全を願い車の守護を願う参拝者の信仰を集めている。 会津薬師寺はまた、比叡山回峰行大先達叡觀行者による史上初の会津磐梯山大護摩供奉修寺としても知られ、平成6年(1994年)に比叡山以外で初の10万枚護摩供の荒行が成就された。境内には回峰行の創始者である建立大師相応和尚の像が立ち、修行道場「樂樂庵」の壁際に回峰行者の使用した草鞋が比叡山の行場と同様にぶら下げられており、この寺が回峰行ゆかりの寺であることを知らせている。 東北三十六不動尊霊場のお不動さまがまつられているのは、「大慈悲堂詰所入口」の木札の掛かった建物の奥。堂内には回峰行の写真が並ぶ。秋には周辺のモミジやドウダンツツジの紅葉が美しい。 寺の開創は宝亀10年(779年)創建の千寿院に始まり、嘉祥元年(848年)には慈覚大師円仁が復興開創したと伝わる。平泉藤原氏が滅亡のおりには平泉高館にまつられていた薬師如来像がこの地に移され、円鍐沙門が寺観を整え薬師堂を建立、以後薬師寺と号するようになった。東北において回峰行の心を伝える貴重な天台寺院である。東北三十六不動尊霊場ガイド 春野草結 著 209~213ページ より引用開山僧は不明ですが、宝亀10年(779年)の創建を伝える物凄い古刹です。この頃はまだ現在の岩手県や青森県は陸奥国に編入されておらず、蝦夷たちが跋扈する地域として朝廷も制圧しようと躍起になっておりました。そうした中で夷調伏の祈祷を行う寺が多く置かれ、代表的な物としては同県の鎮守山 泰平寺(現 田村神社)などが挙げられます。そうした空気の中で当寺院は創建されたんですね。由緒を見る限りは回峰行の寺という事で、そうした調伏とは関係なさそうですよね。どちらかというと修行の寺の様な風情があります。本尊の薬師如来は、もともと平泉の高館(源義経最後の地)に祀られていたとされており、それが当地に流れ着いて本尊に据えられた様です。薬師堂の木彫を見てみましょう。木鼻や虹梁は一般的な図象ですが、蟇股の所は面白く、親子の龍が体を絡ませ仲睦まじく顔を合わせております。扁額です。こちらも古めかしい!薬師堂の御前には、十二支守り本尊を祀る小堂が建っておりました。前部で8基。ご自身の干支に対応する物を拝むと良いでしょう。津軽では一代様として、より篤く信仰されているんです。境内を更に奥へと進むと、東北三十六不動尊霊場の札所本尊が収められている不動堂が置かれています。護摩堂としても使われており、堂内には回峰行所縁の写真や品々が飾られておりました。入口の近くには猫塚が置かれております。その脇には不動尊。堂内に進みましょう。入ってすぐの所には、なにやら不可思議な石製の車が置かれています。運転しているのは不動尊。立ったまま運転するスタイルですね。こちらは自動車不動尊と呼ばれており、交通安全祈願を願うためのものです。全国唯一とされていますが、山形県で似たようなものを見た気が・・・。大樹院・・・。どうなんですかね?不動堂奥には、地名を採ってか高田不動尊と呼ばれている不動尊像があり、それが巡礼の札所本尊になっています。不動堂左側には大黒堂が置かれております。扁額には羽黒山開運大黒天と刻まれていますね。羽黒山と言うのは、言うに及ばず出羽三山の1つですが、その関連霊場 羽黒山 東光寺が会津若松にあったそうなんです。いつの頃かは不明ですが、火災により焼失。そこに収められていた大黒天像が、当地に流れ付き、小堂にて祀られるに至っております。堂内には大黒帽を深々と被った、福々しい大黒天像が置かれておりました。崇敬の篤さを示すかのように、堂内には幾つもの御供え物が。斜めから。会津を代表するような薬師霊場でしたね実際、会津十二薬師霊場の札所にもなっており、いつかはその巡礼で再訪したいところ。会津地方自体、まわり残しの宝庫となっており、行きたいところばかりです。また東北に戻れましたら、こころゆくまで歩いてみたいですね御詠歌古きより 会津の里に名も高き 高田不動の 慈救の御剣きふるきより あいづのさとになもたかき たかだふどうの じくのみつるき札所本尊:高田不動尊 अचलनाथ以前貰った御朱印です。東北三十六不動尊霊場地蔵尊自動車不動尊本尊:薬師如来今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・天台宗比叡山延暦寺直末 会津薬師寺以上です。
2026年04月04日
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津軽平野を縦走する十川の岸辺に、寺院が1つ境内を構えていました。ここは板柳町五林平、集落唯一の寺院となります。2025.8.11津軽八十八霊場三番札所:東方山 如来院 薬王寺十川に架かる橋を渡り切ると、2頭の獅子木鼻が特徴的な美麗山門が置かれていました。山門の隣には小振りながら精巧なつくりの六角堂もあり、もしかするとここに金毘羅権現が祀られていたのかも知れません。金比羅権現の詳細は↓の由緒に記載していますよ!木鼻の獅子以外にも、龍などの彫刻が見所です。山門をくぐっってまず最初に目にするのが、この地蔵堂です。堂内には大小様々な地蔵尊像が置かれているのです。こうした複数の石地蔵を祀る地蔵堂は、津軽ならではのものではないでしょうか。本堂です。装飾は控えめで、屋根や向拝先端に浄土宗の宗紋と三葉葵が捺されていました。この何とも言えない向拝屋根の盛り上がりが好きですねぇ~日本建築の美が表れています。ご由緒です。東方山 如来院 薬王寺浄土宗 光明山無量院誓願寺末寺開山:良常大円和尚?本尊:阿弥陀三尊 五所川原市の十川を上流へ約8㎞行くと、北郡板柳町五林平地区。この地区は板柳本町から約2㎞離れているが、五所川原市をはじめ鶴田町、南郡浪岡町までいずれも8㎞ほどの等距離にある。その起点ともなるのが浄土宗の東方山薬王寺。津軽、南部を襲った天明の大飢饉のとき開山されたといわれるが、そうすると開山年代は今から約200年前の天明3年(1783年)ということになろうか。しかし庵を構えたのはそれより以前とされており、延享4年(1747年)以降、火災で全山を焼失したと伝えられている。このころは近くの岩木川がたびたび大洪水を引き起こし、 多くの人が水にのまれたといわれ、そもそもは供養のため勧請した寺院だったのだろうか。それを裏付ける過去帳などの記録はいっさいなく、今となっては知るよしもないという。 当時は「薬王庵」と称したが、開基和尚と目される良常大円和尚が檀家を頼って天明元年(1781年)からの新たな過去帳を作成、現在まで伝わっている。弘前市誓願寺の末寺といわれ、明治6年(1873年)に寺号を「薬王寺」とし、昭和5年(1930年)に本堂を再建立、庫裏は最近新築したばかり。本尊は阿弥陀如来。本堂は寺院建築特有のマス組みを施した総ヒバ材の彫刻仕上げだが、再建時はこれで精いっぱいだったともいう。「火災に遭っていることと戦時中は梵鐘はじめロウソク立てのはてまで没収され、これといって古くから伝わっているものは何もない。だから本尊はじめ新しいものばかり・・・・」と話す蔵沢住職。 ただ、寺宝に珍しい「金毘羅大権現」がある。由来は不明だが、相当古いものらしく、最近まで境内の片すみにあるお堂にまつられていた。海神で雲と波に乗っている2種があるといわれ、薬王寺のそれは前者。形は一寸たらずで極めて小さな神様である。また昔は県内各地の信徒らが、のぼりを立てて祈願に来たといい、今でも大切に保存されているのぼりの1つには嘉永6年(1853年)の年号が記され、施主は青森市上米町の今村屋喜代松となっている。 明治ごろまでの話であるが、宵宮のときは青森、弘前方面から何1,000人もの人が詰めかけ、夜店が村はずれまで並んだものだったとか。 地区をはじめ県内では古くから宵宮が開かれた寺院として知られている。 寺に伝わる「津軽霊場八十八ヵ所御詠歌御霊」は貴重で、地区の信徒、故斎藤重太郎という人がこれをよすがとして88ヵ寺を訪ね歩いたという。77歲の厄年を機会に10年がかりで全部の祈願を終えた。この記念にと「津軽八十八カ所霊場納経」を作り、同時に感謝のしるしとして自費で製作した金毘羅権現ののぼりを寄進している。先代の住職がしたためた御詠歌かどうかは知らないが、先の御詠歌集には「へだてなき よのつみはふかくとも あらわれてすくう なむこんぴらさん」と記載されている。つがるのお寺さん 下巻 214.215ページ より引用天明の飢饉の時に建立・再興された寺院みたいですね。ちょうどこの頃、菅江真澄が津軽に来ていたんではないでしょうか。凄惨な街道筋の集落を見て、惨状を克明に記しています。寺宝の金比羅権現の像は、よくある山伏風の神像で、小さいながらも細かく彫り込んであります。背には翼の様なものが生えており、山岳修験の要素をありありと感じられます。県内では深浦町の春光山 円覚寺にも同じ像容の金毘羅権現が祀られていますよ。本堂入り口には山号額。風除室には院号額が懸かります。堂内です。須弥壇の背景が金色なせいか、全体的に荘厳な感が漂っていました。本尊はよく見られる形式の阿弥陀三尊です。丸みの有る顔が特徴的ですね。堂内には他にも物凄い迫力の千手観音などが置かれています。本当に腕が1,000本ついているんではないでしょうか。斜めから。ここの境内からは梵珠山が良く見えます。津軽では代表的な修験の霊場であり、神仏分離の後も人々に親しまれている御山です。当霊場に残る金毘羅権現を持ち込んだのも、梵珠山を拠点とする山伏たちだったかも知れませんね。更に寺号は薬王寺なのに、薬師如来関連のものは有りませんでした。うーん、もともとは薬師如来が本尊だったとか、そんな話は無いんでしょうか。気になって夜も眠れません。いろいろと妄想のはかどる寺院でした御詠歌へだてなき よのつみはふかくとも あらわれてすくう なむこんぴらさん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・四番札所:法性山 福峰軒 集落の仏を見守る釈迦如来
2026年04月03日
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東通村のほぼ中央に蒲野沢という集落があります。集落内の道は細く、未だに昔の道割が残っているのではないでしょうか。集落には法林寺という寺院と共に鎮守の社が鎮座しています。今回紹介するのは鎮守の社の方で、蒲野沢八幡宮と呼ばれる神社です。2025.2.15八幡宮(蒲野沢)集落を見渡せる丘の上に境内を構えています。入り口には大きな明神鳥居を構え、参拝者を迎えます。奥に見える社殿も大きく立派です。拝殿です。ずっしりと落ち着いた雰囲気の社殿ですね御由緒です。八幡宮(蒲野沢)勧請年月日:寛永年間(1624~1644年)御祭神:誉田別命(十五代応神天皇)御神体:甲冑に弓矢を携えた乗馬の御姿(唐金)神職々氏名:小笠原壽美宮司氏子総代名:畑中長之助、賀佐吉男、石田豊明例祭日:10月15日由緒・宝永3丙戌年(1706年)再建・天保11庚子年(1840年)機失・大正11壬戌年(1922年)再建 田名部神社蔵の「神社々数調」によると、一、縁記等無御座候得共寛永年中上云傳而己天保十一年燒失二付不詳と、ある。 本殿の造りは、切妻造妻入りで幣殿へと続いている。拝殿の形式は、入母屋造平入りで向拝は唐破風で飾っている。 拝殿の正面には、登高欄を組み、三面に回縁と組高欄をめぐらしている三間社である。回縁奥には透かし彫りの彫刻を刻んだ脇障子を組み込み、屋根裏は二軒繁垂木で柱間の柱上を斗横で組んでいる拝殿である。向拝の水引虹梁の上の空間には、龍の透かし彫りの彫刻をはめ込み、唐破風には鳳凰の懸魚を置いている。 一の鳥居から三の鳥居まで両部鳥居が建立されているが、二の鳥居は遷宮前の社殿から移築したもので百年以上経った鳥居であると言われている。 社殿の前には、大きさ60㎝位の狛犬が一対奉納されている。 神社地には、戦没者の石碑が1基建立されていて、あたり一面に芝生が敷かれ、回りに桜の木が植えられている小高い丘に鎮座している八幡宮である。 八幡宮の再建の様子について、沢田豊八氏(93歳)のお話「八幡宮の再建は、大正11年であったと思う。自分は27歳頃であった。村では再建にあたって、人足の事や建築費の相談で何ヶ月もの間寄り合い(相談)を開いたりした記憶がある。再建には、自分も手伝いをしたものだ、遷宮式は盛大で学校も休み、部落総出でお祝いしたものだ。その時初めて御神体を拝見したものだった。」・・・。 八幡宮の遷宮は、大正11年(1922年)であるが以前は、現在の児童館のところに鎮座していた 。東通村の神社 93.94ページ より引用むーん、尻屋八幡宮・鍵懸神社 / 深山神社同様、またもや小笠原壽美宮司の管理となっています。もしかすると1人で東通村全体の神社を統括していたりしたんでしょうか?一体何社兼務していたんでしょうねぇ御由緒通り木彫装飾はすんばらしい出来栄えです。特に木鼻の所の獅子なんて花びらの1枚1枚が風でなびくほどに薄く仕上げられており、本当に見ごたえがありましたただし蟇股の所はいつも通り表面だけ。裏面にも多少は彫り込みがありますが、表面とは雲泥の差です。扁額です。斜めから。東通村には八幡宮が多く、ここも南部藩領であることを実感させてくれます。当ブログでは何度も触れていますが、南部氏は甲斐源氏の流れを汲む一族であり、源氏の氏神とも言える八幡神を篤く崇敬していました。それが証拠に南部藩領には大きな八幡宮が多く、例としては櫛引八幡宮・盛岡八幡宮・遠野郷八幡宮などが挙げられるでしょうか。どの八幡宮も立派だ社殿ばしてあって、たんだカッケェはんで、おめだづも来てけへな!以上です。
2026年04月02日
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まだ雪も残る2月の下北を北上しています。天気も良く、車を走らせるには最高の日です。八戸から三沢の浜辺を通って六ヶ所に達し、そこから東通りへと抜けていきます。走っていると分かるんですが、田名部へと至る道は六ヶ所にて別れ、それ以降は峠を越えなくてはいけなくなります。そうしてみると、六ヶ所が如何に交通の要衝なのかが良く分かりますね。かつての東通りには、現在東通村が置かれ、ポツポツと点在する小村が街道により結ばれ、形成されています。その村々にもそれぞれ鎮守の社があり、今回紹介する鍵懸神社 / 深山神社もその1つ。小田野沢集落の氏神です。2025.2.15鍵懸神社 / 深山神社立派な注連縄に飾られた明神鳥居が、境内入り口に建っています。周辺地域にもまれに見る立派な境内・社殿です。相当崇敬が篤いんでしょうね参道右側には手水舎。参拝者の手を清めてくれます。境内左側には祠が1基鎮座しています。御由緒によると蒼前堂なんだとか。この辺りも古くは馬産の地として栄えていたので、その頃の名残りなんでしょうね。というか、近くの尻屋崎では今も馬産が行われており、相当に長い馬産の歴史がありそうです。拝殿も鳥居同様新しいです。組木や装飾も細やかで見ごたえがありますよ!御由緒です。鍵懸神社(小田野沢)勧請年月日:正保元甲申年(1644年)御祭神:豊玉彦命(大綿津見神)、小彦名命御神体:神鏡神職々氏名:小笠原壽美宮司氏子総代名:二本柳勇作、畑中正美例祭日:10月13日由緒・元録12己卯年(1699年)再建・昭和20乙酉年(1945年)焼失・昭和21丙戌年(1946年)再建 新撰陸奥国三に、鍵懸神社については次の様に記されている。 当神社民鍵懸神社・深山神社と並へ称す。何なる故そと問に当村近辺に三の小村あり。何の頃にか海潮に没し、此所に集会せり。この地は則深山神社の旧地にして鍵懸神社は旧折戸と云る在に鎮座ありしを遷し(今折戸川あり)両社を配せしと云とも詳ならす。 鍵懸神社は、338号線を南へ向かう部落の中央あたりの右側に、一の鳥居が建立されている。右折して100m位進むと右側に社殿が建立されている。そこに二の鳥居が建っている。 本殿の屋根の形式は、切妻造妻入で幣殿へと続く。拝殿の造りは、入母屋造平入で向拝は流造り三間社である。 この神社は、昭和20年(1945年)8月米軍艦載機(グラマン機)の攻撃を受け焼失したと云われている。その後翌年に再建したのである。昭和21年は、終戦後で最も物資の不足な時代で、日常の生活にも事欠く窮乏な時に、神社再建にこぎつけた当時の部落有志や氏子中の苦労と神に対する敬神の念の強さがしのばれる思いがする。 本殿の内陣には、大小7基の祠が口の字形に置かれているのも特色である。 二の鳥居の側に水盤がある。また、村内でも古いと思われる狛犬と石灯籠が一対ずつ奉納されている。社殿に向かって左後方に稲荷堂があり、二の鳥居の左側には蒼前堂が建立されている。・・・。東通村の神社 109~111ページ より引用もともとは深山神社があり、そこに鍵懸神社が遷座されたようですね。折戸というと大間の方に折戸神社という社がありますが、そことは違うんでしょうね。大畑の方にも鍵掛という地名の所がありますが、いったい旧鎮座地はどこなんでしょうか?まったく比定出来ません・・・現在の祭神は豊玉彦命(大綿津見神)・少名彦命ですが、それぞれどちらの神社の祭神なのかは不明です。この”東通村の神社”の出版は1988年10月なんですが、その時点では当社と尻屋八幡宮の宮司は同一であり、兼務していたことが分かります。拝殿の木彫装飾です。懸魚には玄武、蟇股に親子龍、木鼻には獅子という構成です。虹梁の下部には、両端に波間を泳ぐ亀の装飾がなされており、なかなか珍しいのではないでしょうか。そして虹梁には南部藩領らしく2羽の鶴が瑞雲を伴って飛翔しており、いかにもな感があります。良いですねぇむむ、木鼻の獅子をズームで見てみましょう。なんと獅子の上に鬼がおり、組木を支えていました。なんともユーモアに富んだ細かな装飾なんでしょうか!職人技ですねそんでもって面白いのが、この神社には鈴の代わりに鰐口が懸てあります。恐らくはもともと仏教色の強い霊場で、それが後に神社に改められたのではないかと思われます。実際”深山”も”鍵懸”も仏教感の強い単語であり、前者は深山幽谷の感を、後者は仏堂の鍵懸番を連想させます。修験とも関連が有りそうですね。拝殿内です。とくに何の変哲もない感じですが、面白いのは本殿。何と内部には7つの祠が口の字に並んで鎮座しているんだとか。その事からも、本来はもっと祭神が多かったんではないでしょうか。地域の祠を併せ祀った可能性も考えられますよね。面白ポイントがもう1つ。それはガラスに反射して写った蟇股装飾の裏面です。見ての通りツンツルテンなんです。ほとんどの神社の木彫装飾は、表裏両面に木彫が入るんですが、下北のものは表面にのみ木彫が入っているものが本当に多いです。ある下北の寺院の和尚が言っていましたが、おそらくこうした木彫装飾は、当地の大工が宮大工を真似て彫ったものなんだとか。そのため中には、木彫を鉄の釘で以て荒々しく留めているものも・・・。これも下北ならではの特徴と言えそうです。斜めから。東通村には面白そうな神社が幾つも有るんですが、如何せん記録が残っておらず、謎に包まれたものもチラホラ。当社も由緒書きなどが境内に無く、あらためて調べることでその面白さに気付くことが出来ました。身近な神社であればこそ、由緒などが気になるというもの。もっと歴史などを調べやすい環境があれば、より多くの人に面白さを伝えることが出来そうです。当ブログも出来るところまで調べて、こうした埋もれがちな面白神社を紹介していければなと思っております。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2026年04月02日
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寒立馬で有名な尻屋崎、そこから東に更に進むと、程なくして見えてくるのが尻屋の村。下北地方では一般的なスタイルの漁村であり、戸数も数える程です。この村の鎮守となっているのが、今回紹介する尻屋八幡宮です。2025.2.15尻屋八幡宮集落の奥まった所に参道が伸びています。参道は山の方に伸び、先の方にはうっすらと社殿が見えていました。登り口の脇には大光庵という庵寺が置かれており、本尊は阿弥陀如来です。八幡神の本地仏は阿弥陀如来ですが、何かしら関係があるのでしょうか。一之鳥居です。八幡宮に多い両部鳥居ですね。この脇には末社?が置かれています。覆い堂のカラーリングは稲荷社っぽいんですが、堂内には小さな祠があり、彩色は無く白木であることから、稲荷社ではなさそうです。↓の御由緒には龍神宮とあり、何らかの龍神を祀っているようです。祠の内部には権現頭と共に木幣が収められています。これらはかつて雨乞い・雨払い等に使われたんではないでしょうか。下北は割と木幣が現存している霊場が多く、近場だと桑原村観音堂などが挙げられます。おそらく尻屋八幡宮も、かつては修験の霞の1つだったんではないでしょうか。長い参道も残りわずかとなる頃、色とりどりの装飾がなされた社殿が見えてきました。下北の神社の中ではダントツでカラフルな社殿です。神社の脇には小さな祠が建ちます。これは稲荷社で、稲荷大神が祀られています。社殿正面から。なんとも美しいカラーリングの社殿でしょうか。下北のみならず、県内でもここまで彩色豊かな神社は稀でしょうね地域に愛されし神社なり。御由緒です。八幡宮(東通村尻屋字寺山) 祭神は誉田別命。旧村社。宝暦年中(1751~1764年)の「御領分社堂」に若宮八幡宮、俗別当 善九郎とみえ「私先祖三代程前善九郎勧請仕候」とある。宝永5年(1708年)再興の伝承あり(『新撰陸奥国誌』)。 字村中に「尻屋八幡宮」の標柱(石碑)がある。青森県歴史の道調査報告書 昭和60年度調査合本 41ページ より引用違う書籍の由緒も見てみましょう。八幡宮(尻屋)勧請年月日:宝永5子年再建(1708年)御祭神:誉田別命(応神天皇)御神体:弓矢を携え束帯をした木像神職々氏名:小笠原壽美宮司氏子総代名:石谷忠二例祭日:7月15日由緒・文久2壬戌年(1862年)再建・明治31戊戌年(1898年)再建・昭和51丙辰年(1976年)大改修 八幡宮の最初の遷座は尻屋崎であったと伝えられている。そして神社名を三面権現と呼び祠を建立していたが、明治6年(1873年)に、尻屋崎に灯台を設置するために現在の蒼前神社(小学校グラウンド附近)のところへ遷宮し、その後多分明治31年に現在地へ遷宮したのではないかと思われると、氏子総代が語っている。 東通村誌(笹澤魯羊著)に、三面権現のことについて記されている。三面権現 尻屋崎に三面権現の祠があった。明治6年燈台建設の際熊野神社へ合祀したが、祭日は陰暦の7月朔日であった。諸国の廻船はこの崎に差懸ると、帆桁を三寸程引卸して遥拝して通るを例とした。この権現に御使番の老孤があった。鉄砲家の先祖が御使番と知らずに、3度老孤を狙うたけれども3度とも嘲弄するかのように逃げられた。 一の鳥居から急な石段を50数段登ると八幡宮の社殿がある。現在の社殿は、明治31年に再建(遷宮?)し、昭和51年に日鉄鉱業株式会社の援助により大改修して現在に至っている。本殿の造りは、切妻造妻入で幣殿へと続いているが、 内陣には更に権現造りの祠が置かれている。また、右側に淡島神を祀る祠と左側に弁天様の祠があって合祀している。 拝殿の造りの形式は、入母屋造妻入で向拝を唐破風で組んでいる。また、拝殿の突の随所に彫刻の文様が見られ、柱間の柱上は斗栱で組んでいる。向拝正面の空間には、透かし彫りの彫刻をはめ込み、手挟の龍彫りは見ごたえのあるものである。拝殿の正面には、登高欄を設け三面には組高欄の回縁をみぐらし脇障子を置いている。拝殿の内部には、奉納額が11額掲げられているのが村内随一である。 一の鳥居から三の鳥居まで両部鳥居が奉納され、狛犬 ・石灯籠がそれぞれ一対ずつ奉納されている。昭和51年に奉納された水盤舎がある。 社殿に向かって左側には、稲荷堂と石祠が建立されている。参道の中間の左側には、龍神様を祀る堂宇がある。一の鳥居の両側に、戦没者を祀る碑が建立されている。東通村の神社 101~103ページ より引用これらの由緒を見ると、かつては尻屋崎灯台のすぐ近くに鎮座していた様です。面白いのが呼称で、”若宮八幡宮”や”三面権現”とも称されています。御神体は弓を携えた像・・・、名称が三面権現・・・。これらの特徴に合致するのは三宝荒神でしょうか。もしかすると御神体は三宝荒神の像なんでは?と妄想しております。祭神についても、応神天皇以外に淡島大神・弁財天なども合祀されていた様です。勧請は俗別当 善九郎と伝わります。木彫装飾にも隈なく彩色。鳳凰がキレイに仕上がっていますね。赤字に青の波涛も珍しい。扁額は新しいです。堂内です。本当にたくさん扁額がありますね。中には稲荷神社や岸嶋神社・弁天神社などと刻まれているものもあり、祭神の変遷を味わえます。斜めから。下北は尻屋の八幡宮。美しの社殿にぜひともお参りください以上です。
2026年04月01日
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