PR
カレンダー
キーワードサーチ
サイド自由欄
カテゴリ
コメント新着







巌鬼山 叡平寺 薬王院
天台宗 比叡山延暦寺末寺
開山:本祐法印
開基:津軽二代信枚公
本尊:薬師如来
巌鬼山 叡平寺 薬王院は寛永元年(1624年)津軽二代信枚公の創立した天台宗の寺院である。元和元年(1617年)4月、東照大権現 徳川家康が没するや信枚はその翌年に弘前城の天守閣のそばに祠を建立して家康公の霊をまつりこれを舘神としたが、寛永元年城外の東方の地の茂森町に移し、新たに東照大権現社堂(現在の弘前東照宮)を造営した。同時に別当寺院として薬王院を建てたのである。そして大阿闍梨本祐法印を開山に迎え寺領200石を与え、社僧の千手院・成就院・寿福院・教王院・延命院・観教院の6坊を建立、15石づつを与え、信枚は上野寛永寺の天海僧正に師事してその教えをうけ天台宗を信仰していたので、薬王院もはじめは上野寛永寺の末寺であった。しかしのちにこの寺は取りこわされ再建の上、京都(※滋賀か?)延暦寺の末寺となった。
薬王院の記録によれば、承応3年(1654年)津軽三代信義が再興し、のちに元禄9年(1696年)津軽四代信政が修復しており、また天保5年(1834年)には九代寧親社殿堂宇を再建、薬王院に自分の木像を寄進するなど歴代におよんで保護を加えている。
薬王院五世怒覚法印は学識が高く、藩主信政が深く帰依したといい、また十三世覚範法印と寧親も密接な関係があったので寧親がその木像に書状をそえて寄付したというこの木像、薬王院が取りこわされたさい新寺町報恩寺におあずけとなった。
しかし明治3年(1870年)の神仏仕分けによって寺禄が廃され、薬王院の建物はいったん取りこわされてしまったが、明治10年(1877年)に再興した。
寧親の書状は次の通り・・・
「当家開きてより以来代々に至り始めて侍従任じ10万石高直しこれあり候事先祖に対し規模与え申し子々孫々まで威光蒙るの段きつきようは*方儀丹誠ぬきんでて武運を祈り候の故に候。これによって此段宮殿***我肖像を安置致しにつき其方の像も我像の前に侍座申しつける也。三月 右京大夫 薬王院え」
これでみると覚範という僧はよほどの御気に入りであったと思われる。また津軽氏は代々曹洞宗であったが、信政は天台宗を信仰したのでその代に新寺町報恩寺・猿賀の神宮寺や 熊野宮の袋宮寺 など、いわゆる「天台四山」をつくり天台宗の寺院とし構築されたのであります。
薬王院二十七世道隆








五十三番札所:耕春山 宗徳寺 禅林街に構… 2026年05月13日
十番札所:悟真山 光明院 善導寺 円仁御… 2026年04月29日
十三番札所:小泊山 春洞寺 遥か南海から… 2026年04月12日