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2026年03月29日
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郡山市の南方、須賀川市とほど近いところに田村町という集落があります。名前の通り坂上田村麿の裔と言われる田村氏が根付いた土地でもあるのです。そんな田村の総鎮守が今回紹介する田村神社です。神社と言っても、元は田村大元明王堂という仏堂で、鎮守山 泰平寺とも称しておりました。いつもの如く神仏分離によって神社化し、現在に至ります。



神社と言うからには、鳥居があることは半ば必須条件でしょうか。田村神社も樹叢茂る丘の端に立派な鳥居を構えていました。
寺院時代には、この鳥居の手前に燈明坊という僧坊と、伊勢皇大神の祠、柳沼安芸守の邸宅などが置かれていたそうです。今では駐車場として整備され、かつての面影は感じられません。



寂しげな気持ちになりますが、それを慰めるように鳥居の脇にはこれでもかと桜が植えられています。もう少しすれば(執筆は3月)桜花に彩られた美しい境内が見られそうです。



2024.10.26
仙道三十三観音霊場一番札所:田村神社(鎮守山 泰平寺)


それでは丘上の境内を目指します。
気合を入れすぎて日の出前に到着してしまいました。白河からは車で数時間、近くは有りません。長時間の運転で疲れた体を満たすために、デーリーヤマザキで腹ごしらえして、太陽が上がるのを待ちました。



鳥居を抜けると、長い石段の先に立派な随神門が建っています。これは登るの骨折れますよぉただ、石段や石橋などには苔が生し、全体的に古色が残っております。風情はバッチリです







反対側には岩をくりぬいて祠にした稲荷社が。・・・これも修験っぽい風情がありますが、本当に神社ですよね?



これら以外にも、参道脇の岩が所々削られて石碑と化していました。宮城の松島のような風情がありますねぇ



山門でs・・・すいません、随神門です。切妻屋根の立派な造りでした。



山号額です。もう、ね?ほとんど寺院の時のまま保存されているんです!



なんなら随神門の中には随神像ではなく、巨大な仁王像が収められているんです。
阿形!



吽形!
しかもへたな仏閣よりは全然造りがしっかりしています。おそらく御作ではなく仏師の手になる物だと思われます。



随神門の後ろには更に門。現在は神楽殿として使われています。



軒からは太鼓がさがっています。これも祭事の時に使われるんでしょうね。



境内には多数の末社が置かれています。主に拝殿に向かって左側に並んで鎮座しており、古地図通りの配置であるため、境内の様子は移遷後から大きく変わっていないのかも知れません。




その隣に一際大きな末社があります。養蚕神社といい、祭神は明記されていません。福島県や茨城県北部には養蚕神社・蚕養神社に類する神社が多く、皆一様に祭神は保食大神です。おそらくここも同じ神格を祀っているのではないでしょうか。
古地図ではここに坂上神社が有ることになっているので、もしかするとかつての坂上神社の社殿をそのまま使っているのかも知れません。



養蚕神社の隣には石造りの祠が3社並んでいます。
まずは1つ目、馬力神社です。祭神は不明ですが、青森県三戸町にある​ 馬暦神社(ばれきじんじゃ) ​を例に見てみると、かつては馬頭観音を祀る祠だった可能性が見えてきます。







2つ目、松尾神社。おそらく大山咋神が祀られているのではないでしょうか。
他の石祠と異なり、粽部分にも装飾が施されています。正面のものは鬼でしょうか?



左側面は烏天狗。下には松と夫婦。



右側面は大天狗。下には・・・よく分かりません。



3つ目、菅原神社です。祭神は菅原道真公でしょう。



側面の装飾です。・・・うーん、題材は何なんでしょうか。二十四孝とかなんでしょうか?



田村神社拝殿両脇には、朱塗りの祠が2つ置かれています。他の末社に比べて造りが良く、重要視されていた可能性があります。作られたのは本殿と同じころ・・・ということは江戸時代初期~中期ころでしょうか。相当古いです。当然市指定重要文化財に指定されています。
左側のこちらは熊野宮。本山派修験とも関りの深い当霊場の鎮守社だと思われます。



扁額には大権現とだけ刻まれています。



社殿後方には巨大な桜の木がおがっています。この桜の古木は”景勝の桜”と呼ばれており、北陸の雄 上杉景勝が戦勝の神恩に感謝して植えたと伝わっています。



説明書きです。




景勝の桜(泰平寺の桜)

 慶長3年(1598年)正月、上杉景勝は越後より会津に移り、当地方も景勝公の支配するところとなった。
 慶長5年(1600年)前沢御陣の折、八幡神社より御幣が出現しお山の上を飛び廻ったという。それを聞きつけた守山城代・本庄越前が小野郷入水の増ヶ池、鶴ヶ池の水を汲ませ、大元明王の御宝前で湯立ちの神事を行ったところ、前沢御陣は必ず勝利するであろう、とのご託宣があった。ご託宣通りの勝利の帰陣となり、希代の不思議と景勝公から300石の領地が寄進された。
 桜もこの時植えられたものであろうか。古い絵図を見ると熊野神社のこの桜と八幡神社の横にも桜があったことが分かる。当時植えられたものであれば、樹齢は約400年となるであろう。種類はエドヒガンであるが紅が濃く見応えのある桜である。

平成30年4月15日 郡山市田村町観光協会
平成三十年度公益信託うつくしま基金助成事業


拝殿右側には件の八幡宮。熊野宮同様、朱塗りの社殿が美しいです。社殿の造りは異なり、流造となっています。より神道らしい外見ですよね。祭神は十五代応神天皇か。



扁額です。



本殿背後には謎の石祠。



それではいよいよ社殿とご対面!風雪に耐えた独特の色合いの木材が美しく、まさに当地域の鎮守社として相応しい風格が感じられます。



御由緒です。​ 郡山市史 第1巻(原始・古代・中世) ​の記述をもとにまとめてみました。引用した箇所はページ下部にまとめています。


田村神社

祭神:坂上田村麿命
開基:坂上田村麿

 かつて鎮守山 泰平寺という寺院だったものが、明治の神仏分離によって神社化したものです。祭神は​ Wikipedia では坂上田村麿命となっていますが、詳細は不明です。↓の旧境内図を見ると、境内左端に坂上神社と言う末社があり、こちらから勧請した可能性も考えられます。

 当霊場の始まりは坂上田村麿が蝦夷を討つために東征した際、大元帥明王を祀ったことに始まるとされています。初めは宇津峯の麓に創建されましたが、後に月夜田・五里平などに遷座し、康永2年(興国4年・1343年)には塩田の明王重石に再度遷座したことが『伊達行朝勤王事歴』にて示されています。
 現在地に遷った年代は不明ですが、相殿八幡文書(三穂田、大原康秀文書)には、応永12年(1405年)6月に足利満貞の命によって、大原康信が山中大元帥明王に銅鐘寄進のための勧請をしたとの記述があり、それ以前のことだと思われます。
 永正元年(1504年)には田村義顕と共に三春城下に遷座しており、それが現在三春町に鎮座する田村大元神社です。遷座後もこの山中の大元明王堂は篤く崇敬を受けていたようで、慶長5年(1600年)には上杉景勝から領地300石の寄進を受け、寛文11年(1671年)には本堂が禅宗様で再建されています。

 大元帥明王は多面多臂の恐ろしい見た目をしており、それ故か敵を調伏するための祈祷に用いられます。これを大元帥法(だいげんのほう)といい、専ら真言宗にて修されるものです。ここも蝦夷調伏の祈祷所として開かれたのかもしれません。
 坂上田村麿に奉納された大元帥明王画像を祀るのは大元明王堂で、この仏堂を中心に当霊場は発展しました。明王堂の神宮寺として鎮守山 泰平寺が置かれ、別当は真言宗 帥継院、学頭は天台宗 善法院が努めていました。これ以外にも多数の支院・僧坊が置かれ、中には修験の坊もありました。大祥院もその1つで、天台宗の流れを汲む本山派修験だったと言われています。境内にある熊野神社も修験ゆかりのものとされているようです。この様に台密・東密、果ては修験までもが集まる多宗兼学の霊場だったと言われています。

 各僧院を見てみますと、最終的に勢力が強くなったのは天台宗系ですが、もとは真言宗系の勢力が優勢だったようです。いつ頃天台・真言2宗に分裂したのかは定かではありませんが、江戸時代の時に300石の寄進を受け、それが帥継院に50石、善法院に70石分配されるなど、既に待遇に差があったようです。
 別当 帥継院の創建は不詳ですが、田村・安積・安達に25ヵ寺の末寺を擁する真言宗の大家で、松本坊・坂本坊・新寺坊・橋本坊・藤本坊・上河坊・山本坊・大門坊・円林坊等の僧坊からなっていたとされます。本尊の大元帥明王が真言密教と関りの深い仏尊という事もあり、明王堂創建当初から存在した可能性も十分考えられます。明治後期に転出した後の動向は不明です。
 学頭 善法院も創建年などは不詳で、安積・田村両郡の天台宗寺院を統括していました。比叡山 延暦寺の直末だったようです。明王堂のすぐ側に境内を構えており、天台宗らしく近くには薬師堂を置いていました。明治30年(1897年)2月に焼失してから再建されることはありませんでした。
 本山修験 大祥院は嘉暦年中(1336~1328年)の開創で、かつては蒲倉にあったとされます。いつの頃からか大平に移り、明治の頃まで続きます。御堂の跡は現在大平熊野神社となっており、往時を偲ぶことができます。長い歴史を持ちますが、単一の血脈が続いていたわけではなく、数度の系統変更がなされています。応永24年(1417年)には、湯上坊(泰平寺僧坊)に代わり田村の熊野先達(※1)を務めたことが『浄祐譲状』に記載されており、文明18年(1486年)には本山派修験の総元締め 聖護院道興の巡検に与るなど、相当な権力を有していたことが伺えます。
 他にも十方院(明治2年・1869年廃寺)という修験の僧院があり、近くには羽黒堂が置かれていました。十方院の系統は不明ですが、羽黒堂を近くに祀っているという事からも、羽黒修験である可能性があります。この様に修験に関しても様々な系統の僧坊が置かれていたようです。

 泰平寺本尊の大元帥明王立像は、製作年代・作者不明ながらも、脇侍が揃い、彩色までなされている秀像であり、こうした仏像が地方に現存する例は少なく貴重です。そもそも大元帥明王自体造像例が稀であり、その点でも本像の希少性を高めています。
 立像の他にも掛軸型の図像が現存しており、こちらの作成年代は立像よりも前の年代(江戸初期~中期)と推測されています。作者は狩野探幽と伝わりますが、定かではありません。
 立像・図像ともに像様は降三世明王に近く、当時流通していなかった大元帥明王を、降三世明王の姿をモデルにして描いたのではないかとされています。令和4年6月29日には、どちらも市指定有形文化財に登録されました。
 本尊を収める厨子は、桃山時代頃に建立されたものと推測されており、こちらは県指定重要文化財となっています。

 この他、明治期に奉納された算額や、室町~江戸時代に奉納された多数の大絵馬など、文化財の宝庫でもあります。

※1:熊野先達はその地方の熊野詣でを取り仕切る役職で、主にその地方の有力修験者が努めました。領主から民衆まで広い層の熊野詣でを担うことで、参詣料などを集め、莫大な富と権力を得ていたそうです。



田村神社に収められている太元帥明王画像を含めた文化財などは、郡山市のサイトにてご覧になれます。興味のある方は​ こちら ​からどうぞ!

鳥居の手前には古地図もあるので、こちらで旧境内の堂宇の配置を確認できます。ここに描かれている堂宇の殆どは現存せず、明治の神仏分離の影響が如何に大きかったかが伺えます。



拝殿の前には古めかしい石灯籠が置かれています。奉納されたのは延宝8年と相当の昔です。当時の技術と歴史的事実を裏付けるものとして貴重であり、市指定重要文化財に登録されています。
下に境内説明書きを載せますね。




郡山市指定重要文化財  延宝八年検地燈籠
昭和62年3月31日指定

 延宝八年検地燈籠は、高さ233㎝の六角形石燈籠です。
 かつてこの付近は、寛永20年(1643年)から二本松領主丹羽氏の預かり領とされておりましたが、江戸幕府は天領を直接支配する方針から、延宝6年(1678年)6月に検地を命じ、延宝8年(1680年)までの2年を要し完了しました。
 幕府の命令により諸国で検地を行っていますが、その奉謝としての検地燈籠が、地域の鎮守神にあることは全国的にも余り例が見られません。
 また技術面でも、全体的形態並びに各部に加えられた石土手法は、いずれも江戸中期頃の手法によって作られており、ほぼ造立当時の姿を残しており、歴史上の事実を裏付ける石造遺物として学術的価値が大きいと思われます。
郡山市教育委員会



狛犬も迫力の表情
狛犬:阿!



狛犬:吽!
この地域の神社などでは良く見られる形態です。



拝殿の木彫装飾です。
何といっても、虹梁の上にて暴れ踊る阿吽の龍がすんばらしく見ごたえがあります。



扁額です。”大元帥”の方は、随神門の山号額と共に文化財指定を受けています。本当に境内にどんだけ文化財が有るんでしょうか。すごくないですか!?



本殿近くには謎の石碑。



本殿です。ここに本尊の大元帥明王立像が収められているんでしょうか。



それでは最後にさんじゃらっと境内を見回して終わりたいと思います。
境内の説明書きです。なんと田村神社には芭蕉たちも訪れたようで、堂内にて狩野探幽作と伝わる大元帥明王図像を見たみたいです。
※説明書きは省略。



境内右側、八幡宮の向いにある小さな桜は”愛姫櫻”と呼ばれています。調べた感じ愛姫お手植えとかではないようですが・・・。
愛姫(めごひめ)は言わずと知れた伊達十七代政宗公の正室です。かつて当地を治めていた田村氏の一族だったらしく、それに因んでこの桜は命名されたんじゃないでしょうか。



斜めから。
かなり長くなりましたが、無事書き終えることが出来ました。仙道三十三観音霊場は面白い札所が多いにも関わらず、詳しく解説している書籍などは少ない印象です。
知名度もそこまで高くありませんが、秩父巡礼に比肩する歴史を持ったこの巡礼について、より詳しく調べていきたいと思います
札所本尊の聖観音の来歴は不明ですが、このような素晴らしき霊場に参拝出来ただけ良しとしましょう。知っている方がいましたら、情報提供よろしくお願いします。



御詠歌
潤わん 草木も非じ守山の 説きおく法の雨も滴も

札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर

以上です。

​​​​​​
​​​​​​​​​​

参考資料の引用: 郡山市史 第1巻(原始・古代・中世)


318.319ページ

田村大元帥信仰
 鎮護国家仏教の流れをくむ古代の東北の寺院においては、蝦夷鎮撫の降賊怨敵調伏の祈祷と、これに輪をかけたように襲ってくる凶作・疫病・災害による民情不安安緒のための特別な修法を行なった記述が散見する。
 虎狼のごとき蝦夷とおそれられた荒夷に対しては、五千の大鬼神の主で、火焰を背に負い、忿怒の相もものすごい五大力菩薩(五大明王とは別である)を安置し、護国と三宝を護持する利益をもたらす祈祷を行なうことが必要であった。
 さらに仁王経(仁王護国般若波羅密多経)・法華経・金光明経の護国三部経の転読、女神で福徳・円満の成就を授ける吉祥天悔過の修法等を行なった。この中に大元帥法(だいげんのほう)という鎮国・降賊の秘法を行なう修法があった。

 大元帥法は、口伝では前字をはぶき、ダイゲンノホウと読む。密教の大法の1つで、毎年正月8日より17日の間行われるのを恒例とした。この法を修すれば隣国の怨敵を消伏し、国内の逆臣を摧滅する。すなわち調伏を表とし、国家人民の息災・増益・敬愛を兼ねるという征夷事業には持ってこいの秘法で、『三代実録』元慶2年(878年)6月28日の条に、「詔をもって大元帥法を、阿闍梨伝証大法師位寵寿をして出羽国に於て、七僧を率えて降賊法を修するために遺す」とある。この秘法を修する本尊は大元帥明王といって、六面八臂の(一面二臂もある)像で降賊の剣を手にした忿怒像で火焰を背負うもの凄い異形であり、田村町大元帥神社にこの画像がある。
 真言の秘法であるから官寺や郡寺では真言の僧によって修されたことであろうし、安積八幡の神宮寺である護国寺が寺伝とおりの古刹であるなら、当然この秘法が行なわれたのであろう。同寺には空海護持といわれる古式の三鈷杵がある。

 坂上田村麻呂伝説がある田村町大字山中に大元帥社があるのは注目に価するもので、田村麻呂の勧請となっているが、偶然の符号ではあるまい。
 この明王堂は『伊達行朝勤王事歴』に、昔宇津峯の麓、川東の小山田の境 月夜田・五里平にあったが、康永2年(興国4年・1343年)塩田の明王重石に移り鎮守山泰平寺が主管していた。山中に移った時期は明らかでないが、南朝方の田村氏の本拠地であるから、大方の想像はつくであろう。境内に大同4年(809年)の碑があるが疑わしい。永正元年(1504年)三春に移った同名社に古鏡があり、「大元帥明王、永仁三年七月十日」と漆銘(漆は削とられている)があり、鎌倉時代には既に存在していたことは確かである。

 泰平寺は真言宗が本旨のように見られるが、山密・野密混淆のようで、学頭 善法院は天台、別当院は真言と二派に分れた時期は明らかでない。田村町や石川郡の川東(現須貫川市)に天台宗が多いのは、田村大元帥明王に起因するものとみられる。


536.537ページ

 田村都内の真言宗は前出のとおり、山中の大元帥明王の泰平寺別当帥継院と、御代田の甚日寺がある。元来朝廷で修法する大元帥修法は真言宗の配宰に属するものであるから、大元帥明王泰平寺は真言を本旨としたものであったが、学頭善法院の勢力が帥継院を圧してくると、台密の線が強くうち出されるようになり、 形の上では台密・東密兼帯の両部神道の色彩が強くなったのが、中世における泰平寺の性格 であった。

田村大元師社 泰平寺
当地方の天台宗寺院を支配したのが、田村町山中にあった泰平寺の学頭 善法院で安積・田村両郡の寺院を管理下に置いた。泰平寺は天台宗 善法院・真言宗 帥継院の台密・東密の二院支配の寺であった。 善法院は学頭であって本来は学侶の頭主として論講の精義を詳しくし、学業を管轄すると共に、探題職を兼ねる職名で泰平寺にあった。泰平寺は普通には田村大元帥明王と呼ばれ、坂上田村麻呂の伝承を伝へて崇敬された。田村麻呂伝説の濃厚な、 田村郡内に本社があることに注意しなければならない。田村大元帥明王は永正元年(1504年)田村氏により三春町に奉遷されたが、山中の大元帥明王の故社は変りなく信仰をあつめていた。
 『伊達行朝勤王事歴』には

 ”昔宇津峯宮、憎の某に命じて大元明王の法を行なはしめ給ひしに、岩瀬郡川東郷(今の小山田)の境にて月夜田・五里平といふ所にて修行したり(中略)、時に康永2年(北朝年号)、奥国4年(南朝年号)(1343年)なり、後明王堂を小山田の北に移して礎石今に存す、明王堂の主を鎮守山泰平寺といひ、其頃は字津峯の社壇をも此寺に祀りどりしに、後又堂も寺も田村郡守山の山中村に移して現存す”

とあり、「古今拾集」(横川、橋本正雄文書)に

”田村大元明王之儀ハ、元ト今ノ所ニ無之、小倉・小山田・塩田所々替移し遂ニ山中村ニ御移し申候、神主 下枝村甲斐守持ニ御座侯、学頭之儀は道渡村ニ而善法院有之、別当之儀ハ塩田村より移し、一二日ク下枝村より移シタルト云々、文明年中(1469~1487年)ノ書ニ見へル、守山御取立ハ天正十年西楽院強仁法印郷下向之時より御取立ニ相成申侯、夫より一山学頭・別当・衆徒十八人、神主二人、祢宜八人、乙女八人、桧物師一人、土器作一人同二人、承仕一人、本願功・燈明坊以上表役、外二一山代官併二手代有之”

 この史料によると、康永2年(南朝年号 興国4年・1343年)当時は、まだ須賀川市小山田に明王堂があったことになる。
三春の大元帥明王御神体の松喰鶴鏡に「大元帥明王、永仁三年七月十日」とあって、鎌倉時代にもすでに信仰があったことが明らかである。宇津峯騒乱終了した南北朝末期に守山に落付いたのであろう。
 相殿八幡文書(三穂田、大原康秀文書)には大原家初代の大原康信が、笹川御所足利満貞の命により、山中大元帥明王に応永12年(1405年)6月勧進して銅鐘寄進のことが記されており、ことに戦国時代田村氏の帰依厚く永正元年(1504年)の田村義顕の三春移城に際しての遷座、天文12年(1543年)田村隆顕と福原大蔵大輔との神文誓約状のなかでも「殊ニハ当国鎮守塩釜大明神、別シテハ大元明王・八幡大菩薩・摩利支天・熊野三所・天満大自在天神各々可有照覧者也」として当時の地方信仰を示している。
 元亀元年(1570年)、同2年の蒔絵絵馬(県指定重要文化財)の奉納もあり、天正10年(1582年)田村清顕は置文(田村町中村千二郎文書)を下している。前に述べた西楽院強仁守山下向に関連して、大元帥明王社の威儀を正したもので「衆徒にして不智・不学の者は弟子であっても寺坊の相続を禁ず、勤行・祭礼に不行事の者は別当・学頭にて仰せ聞かせその言葉に従はねば相談の上処置すべし」「今後寺入り、又は子細あって寺に囲置く者は門外に出さず置くべし、造作をかける者は追放すべし」「山中にて悪名ある者は取あつかいに及ぶ」など三条を学頭坊進献として善法院に与えた。
 江戸時代になると善法院と帥継院は、幕府の朱印300石のうち、帥継院は50石、善法院は70石と差が生じた。 帥継院は輩下の衆として、松本坊・坂本坊・新寺坊・橋本坊・藤本坊・上河坊・山本坊・大門坊・円林坊があり、田村・安積・安達に25ヵ寺の末寺を持っており、甚日寺滅亡の後は河東地方の真言宗寺院としてあなどるべからざる存在であった。

​​④
562~566ページ

田村郡の修験 大祥院

 阿武隈山脈の修験の中心となったものに、宇津峯・木幡・霊山があり、田村地方の中心宇津峯に連なる山々は国峯の性格を持ち続けた。そのひとつに東北地方南部特有の羽山信仰を如実に示す葉山(羽山)岳がある。
宇津峯をもって成立したものに、田村大元明王の泰平寺がある。本山派修験としては古い歴史をもち、明治まで続いた蒲倉大祥院がある。 大祥院に伝来された古文書のほとんどは現在東京大学史料編さん所に影写本として残されている『青山文書』がそれである。正しくは「大祥院文書」とすべきであったが、『仙道田村荘史』の著者である青山正が、大祥院より借り出したまま行方不明となったものが多い。『福島県史』第七巻に影写本全部を記戴してある。以下これを大祥院文書として説明する。

 大祥院(又は大聖院)は、 もと市内蒲倉地内にあり 現在大祥院跡の名称が残されているが、 後に大平に移り、明治より大平熊野神社となり 銅鐘・採灯護摩壇が残されている。
 田村郡の郡名は近世に入ってからで、以前は田村庄と称されていた事が「大祥院文書」により知られている。「大祥院文書」は田村庄内の中世からの修験資料としての価値のみでなく、旦那譲状・銭借状・沽券状・年貢状など修験経済史の上からも貴重であり、戦国田村氏を始めとして会津蘆名・伊達・佐竹・結城・那須などの諸氏、織田・加藤・丹羽・松下・秋田諸氏の文書もあって近世まで修験の名門として知られていた。

大祥院の開山は『捨古実集』(郡山新国西新文書)によれば嘉暦年中(1336~1328年) より庄司 田村氏の一族が修験となったとある。 この南北朝末期は田村大元明王泰平寺が、打続く兵乱と戦場化・南朝方天台宗修験勢力退潮期に当り、泰平寺の学頭坊は道渡村に移り、別当坊は下枝村に分散していた時期であって、それら修験者のうちのひとつの坊が蒲倉に落ち付いて泰平寺と別個に発展したものであろう。
 大祥院は代々田村氏を名乗っているが、大祥院の血統は3度変更しているようで、「大祥院文書」永享2年(1430年)の乗々院役僧奉書にみる如く「田村大蔵祐玄」の場合にみる如く、名乗りの「田村」は地名であって田村庄司一族という意味ではないようである。初期の田村先達は、全く手がかりがないが、 応永24年(1417年)の『浄祐譲状』によると、室町初期までの田村先達は、守山の湯上坊か揚上坊の所属する守山泰平寺が領掌していた ようで、応永30年代の譲状が多いことは、庄司 田村清包没落後の田村庄政変に起因しているとみられる。 応永30年(1423年)の『祐和銭借状』によると、湯上坊侍従 祐和が大蔵律師静浄に田村庄熊野先達職関係文書を質物に入れ、静浄の子にみられる田村大蔵祐文は、先達職の代官となり、後に先達職を名実共に入手して大祥院と名のったのは、応永24年文書に見える「大平殿」でこれが第二次の大祥院である。
 『聖護院役者増真書状』によると、聖護院門跡道興准后が、松島・平泉見物をかねて、東国の霊場巡視に下向する旨の通達がある。文明18年(1486年)のことである。道興の紀行文である『回国雑記』八槻の大善院(棚倉町近津、 都々古別神社 ​・現在の八槻家)に泊まり

 「是より田村といへる所に罷りける、道すから様々の名所とも多かりけり、云ひすてて歌なと記すに及ばず、浅香の沼にて


花かつみ かつをうつろう下水の 浅香の沼は 春ふかくして

浅香山にてよめる

ちり積る 花にせかれて浅か山 浅くはみえね 山の井の水」

などの歌文をものしており、大祥院が門跡の宿坊となった。さらに天文20年(1551年)にも聖護院門跡道増准后の奥州巡行の宿坊をつとめるなどもあり、翌年正月16日その労に報えて

「奥州田村六十六郷并小野六郷、福原村年行事職之事、数年当知行云々、然者弥無相違、可令全領知之趣、聖護院御門跡、所被仰出也、仍執達如件
天文廿一正月十六日 藤之花押 増梁花押
蒲倉大祥院僧都房

として「奥州田村六十六郷併小野六郷・福原村事年行事職」を門跡より認められている。田村全郡と安積郡福原村の霞支配権である。修験は領国大名により軍事的に、政治的に一番利用されたのが、この戦国期にあって田村氏と密接な関係をもった大祥院が、福原村霞場支配はやがて安積伊東氏の一派であった福原氏をいち早く田村方の与力とすることに成功し、それが安積伊東氏に楔となって、伊東氏の勢力分解の一因となるに至る。なお元亀2年(1571年)東安達郡塩松の領主 石橋氏が、家臣 大内氏に追われ、塩松三嶋坊も石橋氏一族のために難をさけ、東安達一円田村氏の勢力下支配となった時期と思われるが、東安達の兼任を聖護院ならびに織田信長より承認されている。天正6年(1578年)10月6日には奥州・羽州の大峯大先達職を命ぜられる程に、霞・平山伏の統制と大祥院の権力が大きく振った。

出羽奥州両国輩ノ当院御霞之內、近年修行之道、退転之様、無勿体候間、大峯先達事被仰付候上者、国中被相催、年々可被専此道之由、若王子前大僧正御房、被仰候也、仍執達如件
天正六 十月六日 鎮乗花押 快弘花押
蒲倉大聖院御坊

に、これらが見え出せる。
 天正12年(1584年)6月、大膳大夫田村清顕は宿敵 会津蘆名氏との決戦を前にして、田村庄惣鎮守実沢村の帝釈天(現在 高木神社)に、華鬘および銅羅・鰐口を納めているが、帝釈天の宝前で護摩祈祷を行なったのは大祥院別当 諦濡である。これをもってみても、大祥院と田村庄司家との関係は単なる祈祷師ではなく、口伝による大祥院が田村庄司一族であるという布説は肯定できるものがある。事実大祥院が田村一族の名跡であるのは、第三次大祥院になってからである。
 近世に編集された『唐古実集』・『田村系図』(大祥院文書)では田村麻呂の胤、大平城主田村月斎の孫 信栄が、天正17年6月7日、佐竹・二階堂の連合軍により大平城落城して牢人となり、紀州熊野にあって修験となり、蒲倉大祥院名跡が断えていたので養子となり院地をうけて大平に帰る。子 安栄より大祥院の名跡を名乗ったとしている。
 これが第三次大祥院で、信栄は大平にあって大祥院中興開山となった。田村氏が名跡絶断して伊達領となったが、慶長14年(1609年)7月2日、聖護院門跡より、先規の通り「奥州田村六十六郷併小野六郷・福原村の年行事職」に補されており、かくして近世に入った。
 会津加藤氏の領となるや明成より寺院の寺格を認められ50石寄進が行なわれ、以来二本松丹羽家預り領・幕領・守山領に至っても変ることなく、田村郡験年行事となり『古今拾集抄』(横川・橋本正雄文書)によれば支配下寺院119院、 そのうち無住39院を除き、残り80院を支配した。元禄12年「書上」に郡山市内の寺院名が判るものに八丁目長生院・赤沼宝善院・三城目三乗院・板橋極楽院・高柴十楽院・田母神乗法院の名があり、享保17年(1732年)に牛縊法明院・山神東学院などがある。
 寛政元年(1789年)大祥院祥栄は、大滝根川の北岸山上に祭祀の熊野神社に、大施小施を受けて日和田鋳工により銅鐘を鋳造した。その銘に

「田村坤墺 大平霊郷 元是旧殿
 今三山堂 洪鐘一打 福寿無量
 随喜功德 菩提道場 長夜夢覚
 智水又凉 国家安永 宝前吉祥
東奥田村郡大平邑行者山大安寺大祥院」

の偈文がある。
 文政5年(1822年)支配霞下と紛争が生じて、数百年間断絶しながらも維持した、田村六十六郷・小野六郷・福原村年行事職が停止され、ようやく復職した時は、すでに明治の神仏分離令により廃絶してしまった。
 安積先達・年行事職 万蔵院もまた同じ運命で帰農を余儀なくされて、什宝・記録一切を失なった。


568ページ

 ・・・。西田町平の阿弥陀堂は伊達政宗が狩の途中参詣し、安達境の総鎮守 帝釈天堂・ 田村大元帥神社およびその神宮寺である泰平寺、その下に配する学頭 善法院・別当 帥継院や多くの子院があり、本山派修験としての大祥院と守護神 熊野神社などがある。 また三穂田町の相殿八幡神社およびその神宮寺(護国寺)などの名刹・古社があるが、中世の古建築は一棟も遺存しない。
 ・・・。

​以上です。


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境内






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最終更新日  2026年04月03日 22時56分09秒
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