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北山稲荷普済寺の由来
普済寺の開山 法皇禅師寒厳義尹大和尚は順徳天皇第三皇子と言われ、寛元元年(1234年)27才で、又文永元年(1264年)48才で再度渡支(中国に渡る)されて弁道修行されましたが、二度の渡支のたびに吒枳尼天の不思議な御守護を受けて台風からまぬがれ無事に帰朝する事が出来ました。
又帰朝後も益々の御守護を受けられて、東海から三河に到る迄宗派をひろめられました。その事に深く感謝され、自ら御神体を彫刻し、普済寺の一代守護神として祭祀され、御自分のお生まれになられた京都北山の地名をとられて北山稲荷吒枳尼眞天と命名され、近郊近在の多くの方々の篤い信仰を受けて今日に至っております。
なお徳川家康が三方原合戦の折いったんは敗走しましたが、吒枳尼真天の御加護を受けて勝戦とする事が出来た事に深く感謝し、江戸城に千代田稲荷として祭祀したと伝えられております。
日本三大稲荷の1つと言われる 豊川稲荷 も北山稲荷を分祀したものです。
曹洞宗北山稲荷普済寺 山主 記






廣澤山 普済寺
曹洞宗 大梁山大慈寺末寺
開山:華蔵義曇和尚
本尊:釈迦三尊
曹洞宗寒巌派の巨刹
広沢山普済寺は遠州における曹洞宗の巨利である。末寺門葉630余か寺を数え、天竜川以西の曹洞宗の寺院のほとんどが普済寺の流れを汲んでいる。この寺が開創されたのは室町初期の正長元年(1428年)とされており、最初に寺が構えられた場所は敷智郡寺島村(浜松市寺島町)であった。寺を開いたのは寒巌義尹禅師の法弟 華蔵義曇和尚である。
寒巌養尹は順徳天皇の第三皇子といわれ、2度にわたって中国に渡り、禅道の修行を重ねた。そして肥後国(熊本県)に大梁山 大慈寺を開いた。時の亀山天皇は、寒巌禅師にさらに東海地方に曹洞宗の拠点を開場するように命じたが、すでに老境にあった禅師に勅命を果たす体力がなく、結局その意志はそれより五代の法孫 華蔵義曇によって果たされたのである。
華蔵和尚は「東海曹洞」と「日本第二之本寺」の勅額を携えて遠州に来住、引間城(浜松)の吉良義真の帰依を得て、天竜川(現在の馬込川)河畔の寺島村に本能山 随縁寺を建立し、寒巌義尹を開山にすえ、自らは二世として寺運の興隆に努めたのである。だが創建の地がたびたび洪水によって難を受けたため、永享4年(1432年)現在の広沢の地に移転、山寺号を「広沢山 普済寺」と改めた。三方原台地南端に位置する寺域一帯は、いく筋もの沢が広がり、幽寂な趣をもった場所である。「広沢山」の山号はそうした地理的条件によって命号されたものであろう。
この寺を教線の拠点とした華蔵義曇による曹洞禅の波は、華蔵の教えをうけた13人の和尚たちによって広められ、14の直末がまず開かれ、さらに孫末へと広がっていった。13人の開創した寺院は遠州のほか三河、尾張、さらに甲斐にまで及び、いわゆる13門派14か寺として禅宗の世界に光る布陣を形成した。このうち遠州に寺を開いた華蔵禅師の法弟とその寺院を『嗣法弟子戒法弟子之次第』(普済寺蔵)から拾うと、まず透翁義能によって新豊院(浜松市三方原町)が開かれ、天磵義倫により龍泉寺(浜松市飯田町)、天翁義一によって福王寺(磐田市城之崎)、命天慶受により宿芦寺(浜松市庄内町)、潔堂義俊により天林寺(浜松市下池川町)、月窓義運により西来院(浜松市広沢一丁目)、そして在天弘雲により宗源院(浜松市蜆塚一丁目)が開苑をみた。いずれも今日曹洞宗の代表的禅刹となっている。
普済寺は広沢に寺域を構えて以来、二度三度にわたって不慮の災火に見舞われた。歴史上有名な炎上は、三方原合戦のときで、徳川家康によって火を放たれ、全山が炎に包まれた。家康は天下を平定したのちの慶長8年(1603年)、報恩のため改めて七堂伽藍を再建、朱印70石を与えている。家康が建てたその伽藍は、明治30年(1897年)の失火によって、山門を残してすべて焼失してしまった。明治41年再建をみたが、その堂宇も太平洋戦争による空襲によって再度焼けてしまった。しかしこのときの戦火でも山門だけは焼け残り、今日に重厚な姿を残している。江戸初期に建立された山門、その山門の棟下に掲げられている「東海曹洞」と揮毫された勅額は実に見ごたえがある。
また参道入口にある総門も一見に値する。この門は浜名湖北に知行地を有していた旗本 近藤氏の陣屋門を移築したものだけに、武家屋敷の門の趣をもっている。境内には江戸中期に建立された石橋(雲夢橋)や、開山寒巌義尹禅師の廟もある。皇室にかかわりをもつ廟所であるだけに、白壁の塀に使われている瓦には16弁の菊の紋が使われており、廟内に据えられている禅師の無縫塔には600年の寺歴の重みが感じられる。
普済寺は二度三度にわたる兵火や戦火によって伽藍を失ってきたが、その災禍をくぐりぬけて今日に伝えられている彫刻や古文書、古記録がある。そのうちの最たるものは、室町時代の延徳2年(1490年)に造立されたと推察される華蔵義曇禅師の座像と杖である。衲衣のうえに袈裟を着用し、右手に如意をもって椅子に座った姿の頂相彫刻である。座高は79.5㎝、檜の寄木造りで、かつては彩色が施されていたことがわかる。その面立ちをよく見ると、眉が太く、左眼はしっかりと見開かれており、右眼は閉じ気味である。像には造立年月の銘はなく、いつごろのものか明確には断ずることができないが、ひとつの手がかりとして、『普済寺前住牒』と表題された文書がある。これは江戸中期の寛文8年(1668年)に福王寺(磐田市)の格山応逸住職が普済寺に再住したとき、往古からの記録が失われているのを知り、13門派14か寺の住職のことや所伝を書いたもので、紙本墨書の折本装になっている。この『前住牒』の中に「華蔵和尚木像安座點眼 四月一日卅三回忌 延徳二年正月七日」とあり、この一文にみられる華蔵和尚の木像が今日に伝わっているものに間違いないと考えられる。
他に古文書の類としては『梅巌義東嗣書』があり、師である梅厳義東が弟子の華蔵義曇に対して与えた法脈系譜のことで、応永13年(1406年)のもの。それにしても肥後国の華蔵義曇が、はるかに離れた遠江国に教線の拡大をなすことができ得た背景を考えると、そこには魅力的な歴史ロマンがあるに違いないが、確かなことはわからない。ただひとつだけ考えられるのは、遠州の豪族 今川了俊が応安4年(1371年)から応永2年(1395年)まで九州探題をつとめており、このとき了俊とともに肥後の土を踏んだ遠江の武士があったに違いなく、その武士と華蔵義曇との間になんらかの接触があったのかもしれない。




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