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津軽為信と久慈氏熊谷隆次
藩祖でありながら、その出自を確定するのは難しい。「津軽御先祖之次第」(「津軽家文書」)によれば、為信は津軽を地盤とする大浦氏の5代当主為則の弟 守信の子で、為則の娘を娶って大浦氏を継いだとされる。一方、近世南部家の公式系譜『系胤譜考』は、為信を久慈(岩手県久慈市)を所領とする久慈信義の弟「平蔵」とし、出奔した後、大浦氏の婿養子になったと記す。津軽、南部双方の系譜の内容は、全く一致しない。
津軽側の系譜は、為信の仮名(通称)をあえて記していない。しかし、為信の嫡子 信枚以降の津軽家当主の仮名は「平蔵」で、為信の仮名を「平蔵」と明記する南部側の系譜と一致する。これを根拠に現在、為信を久慈信義の弟とする説がほぼ定説化している。
久慈信義の祖先に 信実(官途名「備前守」「摂津守」)がいる。近年、戦国初期の三戸南部氏当主として存在が実証された南部信時の弟で、久慈氏の家督を継いだことが確認された。信実は、久慈大川目付の「久慈館」(現久慈城跡)を居館にしたという(『系胤譜考』)。
なお、久慈氏嫡流の当主は信実以降、代々「備前守」「摂津守」を官途名とした(『系胤譜考』)。ところが、文明15年(1483年)の久慈長内金峯山社の棟札には大檀那として「南部信濃守嫡々右京亮久信」、元亀2年(1571年)の久慈長内薬師堂の棟札には大檀那として「南部之内信濃守信長」の名が記されている。
久慈は中世、「久慈郡」と称された。棟札からは、長内村を含む広大な久慈郡を治める領主(大檀那)が「南部」姓で、代々「信濃守」を官途名としていたことが判明する。しかし、これでは『系胤譜考』が記す久慈城主の官途名「備前守」「摂津守」と一致しない。
久慈氏について以下、仮説を提示したい。 「備前守」「摂津守」を官途名とし、大川目村を中心に久慈川沿岸部(久慈西部)を支配する久慈氏(仮称「備前守系」) と、 「信濃守」を官途名とし、長内村を中心に長内川沿岸部(久慈東部)を支配する久慈氏(仮称「信濃守系」) 、この2つの久慈氏が中世以来、久慈郡を分割支配していたのではないか。
これを裏付ける史料が「津軽屋形様御先祖ヨリ之覚」(「津軽家文書」)である。同文書は、室町時代、三戸氏(当主名不詳)の次男彦五郎(左京亮)が「上ノ久慈」を、三男彦六郎(右京亮、信濃守)が「下ノ久慈」を所領にしたと記す。南部方言では、西を「上」、東を「下」と言う。備前守系久慈氏が西部(上)を、信濃守系久慈氏が東部(下)を、つまり2つの久慈氏が、久慈郡を東西に分けて支配していたとする仮説に符合する。
なお、同文書は、 彦六郎の系統が後に津軽に移って大浦氏となり、代々「右京亮」「信濃守」を称したと記す。大浦氏は、津軽に移った後も久慈郡を所領にしたとされる(「津軽御先祖之事」)。 津軽側の近世系譜には記されていない当主だが、棟札の南部右京亮久信、南部信濃守信長は、津軽大浦氏(信濃守系久慈氏)であった可能性がある。
南部右京亮
江戸時代、津軽氏の祖先を奥州藤原氏や公家の近衛氏に結び付ける系図が生まれる。しかし、豊臣秀吉が津軽為信に与えた朱印状の宛名が「南部右京亮」であるように、源姓南部氏の庶流であることは明らかである。「南部右京亮」の名乗りや、為信の「信」の字は信濃守系久慈氏に通じる。本稿の推定が正しければ、 備前守系久慈氏の出自の為信は、兄信義の所領久慈を出奔後、信濃守系(大浦氏)の家督を継承したことになる。


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