おんかみのブログ

おんかみのブログ

PR

×

プロフィール

おんかみ

おんかみ

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

サイド自由欄

カテゴリ

カテゴリ未分類

(27)

食事どころ

(31)

湯どころ

(26)

山岳

(3)

史跡

(3)

伝承・伝説・民話

(6)

青森県いろいろ

(5)

岩手県いろいろ

(3)

秋田県いろいろ

(2)

宮城県いろいろ

(3)

山形県いろいろ

(2)

福島県いろいろ

(4)

茨城県いろいろ

(3)

栃木県いろいろ

(3)

千葉県いろいろ

(3)

埼玉県いろいろ

(2)

東京都いろいろ

(3)

神奈川県いろいろ

(2)

長野県いろいろ

(5)

山梨県いろいろ

(3)

静岡県いろいろ

(2)

富山県いろいろ

(1)

石川県いろいろ

(2)

岐阜県いろいろ

(1)

福井県いろいろ

(3)

愛知県いろいろ

(2)

滋賀県いろいろ

(2)

景勝地:青森県:津軽

(32)

景勝地:青森県:南部

(60)

景勝地:岩手県:県北・沿岸

(4)

景勝地:岩手県:県央・県南

(1)

景勝地:秋田県

(2)

景勝地:宮城県

(4)

景勝地:山形県

(0)

景勝地:福島県

(8)

景勝地:東京都

(1)

景勝地:山梨県

(4)

景勝地:福井県

(1)

景勝地:愛知県

(1)

御朱印:青森県:津軽

(26)

御朱印:青森県:南部

(23)

御朱印:岩手県:県北・沿岸

(5)

御朱印:岩手県:県央・県南

(4)

御朱印:秋田県

(3)

御朱印:宮城県

(13)

御朱印:山形県

(2)

御朱印:福島県

(18)

御朱印:茨城県

(12)

御朱印:栃木県

(6)

御朱印:千葉県

(2)

御朱印:埼玉県

(1)

御朱印:東京都

(4)

御朱印:神奈川県

(4)

御朱印:長野県

(4)

御朱印:山梨県

(9)

御朱印:静岡県

(6)

御朱印:富山県

(1)

御朱印:石川県

(3)

御朱印:岐阜県

(0)

御朱印:愛知県

(5)

御朱印:滋賀県

(2)

津軽三不動尊

(4)

津軽三十三観音霊場

(40)

津軽八十八霊場

(59)

津軽弘法大師霊場

(16)

津軽七福神めぐり

(4)

津軽龍神霊場

(12)

八戸御城下三十三観音霊場

(26)

奥州南部糠部三十三観音霊場

(38)

田名部海辺三十三観音霊場

(11)

岩手三十三観音霊場

(9)

秋田三十三観音霊場

(4)

最上三十三観音霊場

(7)

仙道三十三観音霊場

(17)

会津三十三観音霊場

(8)

会津ころり三観音

(4)

三陸三十三観音霊場

(4)

奥州三十三観音霊場

(20)

東北三十六不動尊霊場

(17)

佐竹七福神めぐり

(2)

江戸三十三観音霊場

(13)

江戸六地蔵

(8)

東京十社めぐり

(4)

東国三社

(5)

坂東三十三観音霊場

(14)

信濃三十三観音霊場

(6)

甲斐国三十三観音霊場

(2)

甲斐百八霊場

(7)

甲府山の手七福神めぐり

(1)

三浦三十三観音霊場

(0)

コメント新着

カメラ小僧@ Re:二十四番札所:不退山 常念寺 下北一の阿弥陀如来坐像(09/16) 44年前恐山大祭のとき「常念寺YH」に二泊…
おんかみ @ Re:十和田市:石合堂大明神神社 禊ぎの場に建つ赤社(12/28) はじめまして、必須ビタミンさん。返信遅…
必須ビタミン@ 石合堂大明神神社 初めて知る神社で、興味深く拝読させてい…
2026年04月14日
XML
岩手県沿岸地方には、東北では珍しい時宗の寺院が境内を構えています。
久慈市の奥まった所に大川目という集落があり、ここにはかつて久慈城が築かれていました。文明年間(1469~1487年)に久慈十二代?信実公によって築城されたと言われる山城で、現在でも遺構が良好な状態で残されております。その久慈城のすぐ麓にあるのが今回紹介する慈光寺です。

2025.6.8
遍照山 海徳院 慈光寺


石造りの無骨な寺門の先に、穏やかな影が差す参道が伸びております。



参道の杉並木は”慈光寺の杉並木”として久慈市指定天然記念物に登録されています。植えられたのは天保年間(1830~1843年)、明治の再興時の2回だそう。
歩いているだけで気持ちが落ち着き、寺参りの真髄を味わうかのような体験ができますよ



少々進むとまた寺門が有りました。奥には山門も顔を覗かせています。



山門です。色味の明るい新しめの木材が目立ち、フレッシュな印象を与えます。両脇には手水舎と観音堂が置かれていました。



観音堂です。宝形造の一般的な外観ですね。奥にある石造りの仏塔も相まって、なかなかの風格を放っています。







山門をくぐって右側には鐘楼が置かれています。朝夕と気持ちの良い音色を響かせているんではないでしょうか。



そんでもって本堂です。
御堂の手前は庭園の様になっており、禅宗の様な風情があります。この日も日差しが強い日でしたが、なぜか本堂の前だけは涼やかな風が吹いておりました。笠の様に枝葉を広く伸ばした松のおかげでしょうか。



ご由緒です。




遍照山 海德院 慈光寺

時宗 藤澤山無量光院清浄光寺末寺
中興開山:清浄光寺二代 他阿真教上人
本尊:阿弥陀三尊

 当山は過去数度の火災や天正末年に起きた「九戸政実ノ乱」の余波、あるいは明治初期の廃仏毀釈等により縁起書が残っておらず由緒に不明な点が多い。
 仁安3年(1168年)天台宗として開山されたが、永仁4年(1296年)時宗二代他阿真教上人の勧進によって改宗したといわれている。
 古くは甲州にあったが、三戸南部氏の分流 久慈氏によってこの地に移されたという。その時期は不明である。
 久慈氏は天正19年(1591年)に勃発した「九戸政実ノ乱」において滅亡したが、久慈氏の菩提寺であった当寺も一時期当地を追われている。寛文4年(1664年)八戸藩が創設されたことに伴い、この地を知行した久慈氏の支族 摂待氏の保護を受けてこの地に再興されたという。以後江戸末期まで南九戸郡一帯およそ800戸の香華所(菩提寺)として隆盛を極めていた。明治維新後廃仏毀釈の余波を受け約10年間無住職のままであったが、明治13年(1880年)大川目村および山形村戸呂町の有志180人によって旧に復され現在に至っている。
 本堂前の「傘松」は樹齢480年と推定される。また参道の杉並木は樹齢200年と推定され、ともに久慈市から天然記念物として指定されている。
平成15年8月建之




もともとは甲州に在ったと伝わります。山梨県で時宗が多い所というと北杜市須玉町が挙げられるでしょうか。須玉町には湯澤山 長泉寺という寺院がありますが、山梨の時宗の布教はこの寺院が中心となって行われたんだとか。詳しいことは分かりませんが、この寺院も元はこの辺りにあったのかも知れませんね。

堂々たる山号額も懸かっています。



堂内です。須弥壇だけが明るく輝いており、極楽浄土を彷彿とさせる光景が広がっています。



本尊:阿弥陀三尊。かなり新しいですね。



須弥壇上部には極楽鳥の装飾あり。







次は外を見てみましょう。
慈光寺が境内を構えているのは、このような石垣の上なんです。まるで平城のような雰囲気さえ感じられます。もしかして久慈城の遺構だったりするんですかね?



斜めから。
伽藍も大きく見ごたえが有りました。久慈氏・摂待氏両氏の菩提所として繁栄してきただけはあります。近代になっても住民たちによって再建されるなど、崇敬はかなりのものでしょう。



本堂を出て墓地の中を歩きます。ここに摂待氏の墓があると聞き探していました。10分探しても見つけられず、和尚に尋ねてやっとこさ見つけることが出来ました。自然岩をそのまま墓石にしたかのような外観で、歴史の重みを感じられます。

もともと久慈氏は出自があやふやな南部氏庶流であり、確実に系譜が分かるのは久慈南部十二代信実公の時代になってからです。久慈氏について面白い記述があったので↓に引用してみます。
津軽為信と久慈氏
熊谷隆次


 藩祖でありながら、その出自を確定するのは難しい。「津軽御先祖之次第」(「津軽家文書」)によれば、為信は津軽を地盤とする大浦氏の5代当主為則の弟 守信の子で、為則の娘を娶って大浦氏を継いだとされる。一方、近世南部家の公式系譜『系胤譜考』は、為信を久慈(岩手県久慈市)を所領とする久慈信義の弟「平蔵」とし、出奔した後、大浦氏の婿養子になったと記す。津軽、南部双方の系譜の内容は、全く一致しない。
 津軽側の系譜は、為信の仮名(通称)をあえて記していない。しかし、為信の嫡子 信枚以降の津軽家当主の仮名は「平蔵」で、為信の仮名を「平蔵」と明記する南部側の系譜と一致する。これを根拠に現在、為信を久慈信義の弟とする説がほぼ定説化している。
 久慈信義の祖先に 信実(官途名「備前守」「摂津守」)がいる。近年、戦国初期の三戸南部氏当主として存在が実証された南部信時の弟で、久慈氏の家督を継いだことが確認された。信実は、久慈大川目付の「久慈館」(現久慈城跡)を居館にしたという(『系胤譜考』)。
 なお、久慈氏嫡流の当主は信実以降、代々「備前守」「摂津守」を官途名とした(『系胤譜考』)。ところが、文明15年(1483年)の久慈長内金峯山社の棟札には大檀那として「南部信濃守嫡々右京亮久信」、元亀2年(1571年)の久慈長内薬師堂の棟札には大檀那として「南部之内信濃守信長」の名が記されている。
 久慈は中世、「久慈郡」と称された。棟札からは、長内村を含む広大な久慈郡を治める領主(大檀那)が「南部」姓で、代々「信濃守」を官途名としていたことが判明する。しかし、これでは『系胤譜考』が記す久慈城主の官途名「備前守」「摂津守」と一致しない。
 久慈氏について以下、仮説を提示したい。 「備前守」「摂津守」を官途名とし、大川目村を中心に久慈川沿岸部(久慈西部)を支配する久慈氏(仮称「備前守系」) と、 「信濃守」を官途名とし、長内村を中心に長内川沿岸部(久慈東部)を支配する久慈氏(仮称「信濃守系」) 、この2つの久慈氏が中世以来、久慈郡を分割支配していたのではないか。
 これを裏付ける史料が「津軽屋形様御先祖ヨリ之覚」(「津軽家文書」)である。同文書は、室町時代、三戸氏(当主名不詳)の次男彦五郎(左京亮)が「上ノ久慈」を、三男彦六郎(右京亮、信濃守)が「下ノ久慈」を所領にしたと記す。南部方言では、西を「上」、東を「下」と言う。備前守系久慈氏が西部(上)を、信濃守系久慈氏が東部(下)を、つまり2つの久慈氏が、久慈郡を東西に分けて支配していたとする仮説に符合する。
 なお、同文書は、 彦六郎の系統が後に津軽に移って大浦氏となり、代々「右京亮」「信濃守」を称したと記す。大浦氏は、津軽に移った後も久慈郡を所領にしたとされる(「津軽御先祖之事」)。 津軽側の近世系譜には記されていない当主だが、棟札の南部右京亮久信、南部信濃守信長は、津軽大浦氏(信濃守系久慈氏)であった可能性がある。


南部右京亮
 江戸時代、津軽氏の祖先を奥州藤原氏や公家の近衛氏に結び付ける系図が生まれる。しかし、豊臣秀吉が津軽為信に与えた朱印状の宛名が「南部右京亮」であるように、源姓南部氏の庶流であることは明らかである。「南部右京亮」の名乗りや、為信の「信」の字は信濃守系久慈氏に通じる。本稿の推定が正しければ、 備前守系久慈氏の出自の為信は、兄信義の所領久慈を出奔後、信濃守系(大浦氏)の家督を継承したことになる。
デーリー東北新聞社 「戦国の北奥羽 南部氏」 136~138ページ より引用

まさか久慈氏が2つの系統からなっているとは。久慈城を領していたのは”上ノ久慈”の久慈氏であり、久慈信実もこの一族です。更に久慈信実は三戸信時の弟であり、この頃の久慈氏は三戸氏と深く繋がっていたことが分かります。
しかし後の”九戸政実ノ乱”の時期(1591年)の当主 久慈備前守直治は九戸氏から娘婿(九戸政則・九戸政実の弟)を迎えており、九戸氏との関係が強化されています。かつて三戸南部氏から分かれた久慈氏が、乱の時期には逆に本家筋に敵対するようになっているんです。ここに南部氏の複雑さがあります。それぞれの地に根付いた南部氏は、それぞれで婚姻関係を結んで繋がりを強化していますが、その関係はもろく、いつ壊れてもおかしくないものだったんでしょう。
戦国時代の北奥羽は、全国の流れからは大きく隔てられている様に感じていましたが、当地では当地で血で血を洗う同族争いが起こっていたのです。
後に久慈を知行した摂待氏に関しても、おそらく宮古北方の摂待に所縁のある南部氏庶流ではないでしょうか。一体幾筋の庶流が有るんでしょうね。



境内の苔生した木の下で、一心に祈りを捧げているのは、当山中興開山の他阿真教上人でしょうか。時宗の陸奥国内での動きはあまり知らないんですが、三戸に時宗の寺院があり、そこに頻繁に清浄光寺から僧侶の往来があったようなんです。道すがらの​ 御堂観音堂 ​には、清浄光寺歴代住職の御詠歌が残っており、教化の波は確かにあったんではないでしょうか。
まだ時宗総本山 清浄光寺には参拝出来ていないので、近いうちに参拝したいところです。



以上です。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026年04月14日 22時19分49秒
コメント(0) | コメントを書く
[景勝地:岩手県:県北・沿岸] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: