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2026年05月06日
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五戸の西端にある新山神社から、更に国道454号を西進しますと新郷村に突入。何かと伝説に事欠かない地域ですが、この村には修験所縁の神社が鎮座しているんです。境内は今でも小山の中腹に広がっており、長い歴史を表すかの如く背の高い古木がひしめいていました。

2024.7.6
三嶽神社(戸来)


道路のすぐ脇に一之鳥居が建っています。一応ここ以外にも幾つか参道が有るんですが、やはり最初は表参道から向かいたいと思います。



参道両脇には熊笹が生い茂り、何となく山岳霊場の趣が感じられて好みです。



二之鳥居をくぐると、随神門の手前が流鏑馬の馬場の如く横長平行に道が伸びています。この道に先ほどの裏参道などが繋がっております。
そんで道の脇にはこの様な御神木が生えていました。一体樹齢は何年なんでしょうか。



随神門です。脇には手水舎が置かれています。
門の奥には更に登り階段があり、その先に社殿が見えていますね。



それでは三之鳥居を越えて社殿とご対面です。




南部地域を見てみても、ここまで神社らしい拝殿をしているものは少ないのではないでしょうか。昔の造りをそのままに、今でも鎮座しているのです。



ご由緒です。
三嶽神社(戸来)

祭神:倉稲魂命、神直日之命

 戸来中里の近くにある。里人は倉稲魂命(宇迦之御魂命ともいう)を祀るという。貞観5年(863年)7月19日開基、社内神111座、宝物は紫宸殿免許の書、御棟札神鏡などで、大祭は新年祭、4月19日、8月19日、11月27日の4回であった。しかし、昔の通りの賑わいはなく、8月19日の例祭だけは今でも賑わっている。
 さて、四囲は老杉、欅(けやき)の古木がうっそうとして壮厳さは昔のまま。秋の紅葉は見もの。1,000年といわれる周囲三丈もあろうかと思われるケヤキの神木は、村の天然記念物に指定、保存されている。

 新撰陸奥国誌を見ると「祭日は8月30日、参する人は群をなして集まり、駒躍(駒踊のこと)という技を披露する。五戸の稲荷神社祭にも招かれる―略」。
 神官は細川重人で、祖先は細川丹治源蔵と称し、相撲の国の人。修験道を志し、大永2年(1522年)3月、洛東山 若王子(現 熊野若王子神社)に参じ、多門坊と号し、同5年(1525年)6月当郡の年中行事職を命ぜられ、当所に住む。代々相襲ぎ、十二代心教坊真連の時、明治の改革があって復飾、本姓を細川と改め民人となった。十三代重人が明治3年(1870年)4月家をつぎ、同5年神官世襲の廃止を受けて百姓となる。そして同6年、五戸の新井田登が兼務する―と書いてある。​

引用元の書籍には、別当 多門院、並びに三嶽神社に関連する伝説も記載されていますので、そちらも引用したいと思います。
まずは多門院について。
多門院

 新郷村戸来字金ヶ沢の細川多門家の祖。京都聖護院支配下にあって、盛岡自光坊所属。 三戸・五戸・六戸・七戸の山伏修験を支配 している。
熊野系修験道の一院 で、室町時代足利義晴の大永5年(1525年)6月27日付の書状や戦国時代の文禄3年(1594年)の伏見奉行から五戸多門宛の黒印状、江戸時代の慶長18年(1613年)聖護院を修験道本山法頭と定め、 慶安2年(1648年)金欄地結袈裟を着用する免許を聖護院御用跡から多門院の院号でうけている。
 この多門院の支配していたのは、三嶽山観音堂(現 三嶽神社)・​ 新山権現堂(倉石新山神社) ・白山権現・川台大明神・毘沙門堂の5社で、享保15年(1730年)改修のあと宝歴3年(1753年)には境内にある神木200本のうちから目通り七尺から九尺五寸までの杉7木を願上げしている。
 寛政2年(1790年)3月には嫡子 岩見坊に坊跡相続、年中行事も取り行なうよう盛岡の自光坊に願上げし、その8月に許され、権大僧都を免許されているが、この岩見坊であろう。十二代心境坊直蓮の時、明治維新となり、細川民人といい、十三代重人は神官世襲の廃止で帰農した。その子孫が細川五郎元村長である。

次に三嶽神社に伝わる伝説について。
 その昔、高貴な身分のお方が3人の娘と2人の強い武士を従えて戸来の地に落ちのびて来たという。おりしも戸来の西方にある奥に何者とも知れぬ魔物が棲息していて、時おり人里に出て来て農作物を荒したり、また良民どもに害を加えるなどで、村人たちは困却していた。 このことを耳にした武士は、その魔物を征伐して村人に安心してもらおうと、羽井内の大石神で西方にそびえる大嶽の神に祈願をかけ、ひとときも早く魔物の出現を待ちうちに、ある日の夕方、一天にわかに紫色の雲がなまぐさく大風雨となった。

「これは異なる臭気」

と、あたりを見まわすと、地鳴り振動を起して何物とも知れぬ魔物がキバをかみならしながら出現した。

「時こそきたれ」

と2人の強武士は魔物を切り伏せ、息絶えたりと見て、まづひと安心と笑顔をかわした刹那に、何としたことか、確かに息絶えたはずの魔物の頭首が、近くの木陰にたたずんでいた3人の娘を、血だらけの大きな口と手でつかまえ逃げ去った。魔物を切り伏せて村人の難を除いたことはまずよかったが、いまは最愛の娘3人をさらわれては何としても悲しみと残念のきわみであった。
 そこで落人はその地点の西方高地の上にある大石神の頂上に座禅を組み、十和利山の神に対して、3人の娘の無事帰来を一心に折った。

「魔物は追い払ったが、わが愛する3人の娘は国家の柱となり、永く国土を守るように」

といった。
 従者の柿本斉藤、大畑十郎兵衛勘由は北の平地を永住の地と定め、ひとりは大石神の地続きの平地に住み、 大畑は谷をへだてて北方の平地に居をかまえた。
 座禅祈願して3日目に長女は戸来、二女は西越、三女は貝守の地でそれぞれ発見、産土神として村人は祀った。これが即ち3ヵ所同名の三嶽神社由来で、西越の石段境内に建っているのは柿本斉藤と大畑十郎兵衛の武士像モデルが門番になっているとか。別当が書いた幕末の由来記にはこの怪物を大蛇ではないかと表現している。

 さて、この神社の祭例は毎年8月16.17日に行なわれ、ミコンや鶏舞、神楽の行列があり、今でも村の鎮守様のお祭りとして続いている。両日は相撲大会か盆踊大会を催し、部落の農休日と定め、部落民のいこいの日となっている。

こうして見てみると、やはり当神社も元は仏閣だったみたいですね。特に三嶽山観音堂と称されていることからも、本尊は何れかの観音菩薩だと思われますが、特定は叶いません。一応最初の由緒の方では、不動明王や神変大菩薩など修験ゆかりの仏像も置かれていたことが分かります。
貞観5年(863年)7月19日開基を伝えますが、長い歴史の中には不明な点も多く、分かっていない部分はかなりあります。
開創譚に関しては貴種流離譚のようなものが​ 西越三嶽神社 ​・当社両方に伝わっています。ただ部分的には異なっている所もあり、従者の人数や祈りを捧げる山岳がそうです。特に当社においては、連れ去られた娘たちを返して欲しいと祈願する対象が十和利山だけでなく戸来岳(三ッ岳・大駒ヶ岳からなる)にも及んでおり、そうした点からもそれぞれの山岳が、当霊場において神聖視されていた可能性があります。これらの山岳の背後には十和田湖があり、そちらも熊野修験の霊場だと言われています。16世紀頃から当社を本拠としていた多門院も熊野修験であり、何らかのつながりが感じられますね。
多門院以前は見滝氏が神官・別当を務めており、代々の修験僧名が新郷村史に記載されています(当記事下部にも記載)。ここに記載されている修験僧は、多門院配下の44院坊には含まれておらず、もしかすると違う宗旨系統の修験だった可能性もあります。

別当を務めた修験の家系をまとめてみると、15世紀頃までは見滝家、それ以降明治維新までは細川家、そしてその後は新井田家になっております。


拝殿には観音堂時代のものか、三嶽山という山号額が懸かっていました。



先ほどの御由緒で、末社が幾つかあるとご紹介しましたが、現在確認できるのは本殿左側の小祠2つと、その隣の少し大きめの祠の計3社です。



何れも何神社なのかは不明ですが、由緒中の神社の何れかだとは思われます。



本堂です。
やはり元観音堂ということで、拝殿と本殿とは連結していません。おそらく神仏分離後の後補だと思われますがどうなんでしょう。




周辺地域を代表する古社として、今でも新郷村にて異彩を放っておりました。かつては参篭するものもあったのか、今でも拝殿には横長の建物が付随しており、往時の繁栄振りが伺えます。
主に南部地方西側に勢力圏を広げていた多門院。当地に於ける熊野修験の元締めとして、数百年に渡り祭祀を努めてきました。還俗したとはいえ、今でもその旧跡は神社として大事に管理されているのです。



以上です。

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資料集コーナー

●新郷村 「​ 新郷村史 ​」 新郷村史編纂委員会 編纂

 支付の田中には五戸年行事の修験多門院が在住していた。本山派の修験を統轄し、霞は貞享4年(1687年)の年の『行事職補任状』に「陸奥国南部三戸、六戸、七戸之内六拾七箇村」とあり、宝暦5年(1755年)の『社地堂書上』に「 堂社39ヵ所、修験64人、神子6人、霞村153ヵ村 」とある。勢力は三閉伊年行事の寿松院に次ぐものとされていた。
 直轄支配の堂社は宝暦の頃の御領分社堂には 新山権現 ​しかみえないが、宝暦3年(1753年)の自光坊宛の『社木伐出願』に、三嶽山観音堂、新山権現宮、白山権現、川台大明神、毘沙門堂」の5社がみえる。現在後裔の細川氏は金ヶ沢に在住し、多門院文書約1,300点余を所蔵している。その一部が昭和50年2月青森県立図書館から解題書目第五集『多門院文書』として発行されている。

273~276ページ
一、戸来三嶽神社

 三嶽神社は戸来の中心集落金ヶ沢の西南、五戸川左岸の丘陵地に面した所にある。
 貞観5年(863年)7月19日第五六代清和天皇の時代の創建となっており、 宇迦之御魂命、神直日之命を主たる祭神としている。 古色蒼然神威の崇厳を窮める旧い御社で、数々の神話と伝説につつまれた古社の境内には樹齢500年とも800年とも言われている様をはじめ、天狗松・昇龍・降龍などの古木が林立し訪れる人々の目を奪う。社内神111座紫宸殿免許の書・御棟札神鏡などが保存され所蔵物の多いことは県下有数とされている。
 文亀2年(1502年)には荒神宮を建立している。永正元年(1504年)には社殿炎上との記録があるが、本殿まで炎上したのか、定かではない。明和2年(1765年)一村大火の際、證據物悉く焼失せりとあり。また、寛政(1789~1801年)及び文政年中(1818~1831年)にも山火事のため延焼せりとある。

 約940年前、八幡太郎義家が奥羽征討の時、戦捷を祈願し、白鶏赤鶏の蹴合をさせ、戦況をトし神前において、主従武者揃の式を挙げ士気を鼓舞したと言われ、その時の名残りが、武者揃として保存され、例祭当日は騎馬武者行列が行われる。鶏舞はその時の始まりであるとも言われているが、長泉寺にも縁りあるとされている事から、詳しくは鶏舞の項で述べる事にして、ここでは触れない。
 万延元年申(1860年)11月28日開基から1,000年を経た祝いとして千年祭を開いた時、京都の紫宸殿から第32座蒼魂命正一位三嶽神社の免許を賜わっている。大祭は新年祭、4月19日、8月19日、11月27日の年4回であったが、今では8月19日から21日までの3日間が例大祭とされている。ひと昔前までは村内外の老若男女が訪れ、盆踊り大会や相撲大会を繰り広げ、初日には山車など運行され、村のお祭りとしては、他村で見る事が出来ないほど賑わいをみせた。
 この頃は時代の流れと共に、その行事もかなり様変わりしてきた。初日の「お通り」は昔のままではあるが、山車の人形は生きた人間が立つようになり、夜は「カラオケ大会」や「芸能大会」になって来た。8月20日は戦死者の慰霊祭が行なわれ、21日は村民運動会がなされている。戸来、西越、川代、小坂の4地区に分かれての運動会は、年々迫力を見せ賑やかである。

 三嶽神社を語るには、修験者に触れておかなければならない。当時の神官 見滝家は、京都から落ち延びて来た公卿で、元祖は榊原氏であり、後に里見氏を名乗っている。
 見滝家一族には、久米院・一明院・明光院・覚正院・正覚院等が見られる。多門院支配下の44院坊の中には、戸来では重光院・大泉坊・法寿院、西越では大蔵坊が見られるが、見滝家の久米院・覚正院・明光坊・一明院が見られない事から1,100年以上歴史のある 三嶽神社はかつて見滝家の支配下にあった ものであろう。
 三嶽神社は、一時的に宝暦時代(1751~1764年)、御領分社堂に「三嶽堂」とあり、時の別当修験 重光院であった。重光院は現在の畠山重隆氏の祖で宝暦3年(1753年)に、記録されている書上(多門院文書)によれば、多門院の直接支配下に置かれたこともあったと記録があり、明治初年廃仏毀釈に際し、十二代心教坊真連の時、戸来村の支村田中の多門院直轄の新山権現を合祀した。明治初年の「新撰陸奥国誌」には、当時の祭札について「祭日は8月30日、近郷参詣、群集し、駒躍(駒踊りのこと)と云伎あり、張抜の馬5頭を造り、五綵の糸綿を綴て美に跨り前後に締て馬に乗れる容とし、乗手も美服し外に緋或は白き襷を掛け、木刀、長刀、杵の類を持て左右に握り空に揚て中口に握り或は大に地を揚き、太鼓に合て人馬一斉に跳躍す」と記されている(『青森県の地名(平凡社)』より)。

 郷社三嶽神社は、異記の中に「三嶽山二鎮座シ、本社一丈四面拝殿五間二尺二四間、境内坪数三、八二〇坪接續境外地二町三段七畝二三步、主座御祭神三三鳩嶺座宇迦之御魂命、御神雙安政六年八月三日、別二公文所リ副翰アリ、御綸旨及ビ御留合鑑、萬延元年申一一月二八日一、○○○年御神祭執行二当リ紫宸殿ニ於テ正一位ヲ免許セラル

第三二座蒼魂命正一位三景大明神下称へ奉レリ紫宸殿免許/御綸旨並二御留合鑑アリ」とある。
 この外に合祀社として、大神宮・八幡宮・鹿島神社・神前神社・石上神社・雨龍神社・八坂神社・稲荷神社・天満宮・天之手力雄の10社となっている。開基以来、盛岡旧南部藩公の信仰により、戸来地行主 戸来家が、代参奉幣し三嶽神社の額がある。藩公から拝領した古剣甲冑等は、間接的に戸来家から寄進されたものである。

以上です。





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最終更新日  2026年05月06日 20時42分09秒
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