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2026年05月12日
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カテゴリ: 御朱印:神奈川県
日ノ本における曹洞宗の始まりの地は、言わずと知れた北陸は越前の永平寺です。様々な権力はびこる中央から逃れ、山深い地に禅の聖地を開いたのです。心の平穏・純粋な修行の地としては適していましたが、権力から遠ざかるという事は教線の拡大に於いてはマイナスに働いてしまいます。そのような立地の永平寺に対して、曹洞宗の教線拡大に尽力していたのは、今回紹介する總持寺です。永平寺に並び立つ禅の根本道場として、知らぬ者はいません。

2026.1.11
諸嶽山 總持寺


大都会横浜、曲がりくねった細道や、途切れることなく人々が行き交う路地など、津軽衆にとっては目が回りそうなほど忙しい街です。辺りを見渡せばどこもかしこもビルやマンション。そこら中から人々の息遣いが感じられます。
そんな大都会の一画に、曹洞禅の根本道場が境内を構えていました。参道の起点に建てられているのが三松関という門です。こちらは總持寺の総門にあたり、この禅刹に参らんとするものは、先ずこの門を通ることになります。↓に公式サイトの説明も載せておりますので、そちらの方もご覧ください。



三松関

 總持寺の総門。
 門前に立って、まず目に飛び込んでくるのが「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた扁額(へんがく)です。總持寺中興(ちゅうこう)の祖といわれる石川素童(そどう)禅師(1841~1924年)が揮毫(きごう)されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しています。
 この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門(こうらいもん)の様式で建てられています。
 総門には、棟つづきの右奥に「新到安下所(しんとうあんげしょ)」があります。仏の道を志す修行僧が、最初にワラジを脱ぎ、宿泊する建物で、細い縦看板がかけられています。
 また、総門の左側には、築地塀(ついじべい)を背にして「延命地蔵尊」が祀られています。このお地蔵さんは、悲恋の物語を秘めているとの伝承があり、能登の祖院では「三味線地蔵」と呼ばれています。

門を抜けると山門までズァーッと木々が生えています。参道沿いの並木が強い日差しを遮ってくれるので、とても涼やかな落ち着いた気持ちで参拝出来ます。



道の先には巨大な山門。このレベルの山門は上方にしか無いと思っていましたが、東国にもこの規模の山門があるんですねッ!最高です。首が痛くなるまで見上げていました。



山門の中には当然仁王像。ただし迫力は段違いです。
阿形!



吽形!




まずは境内の案内図を見ておきましょう。かなり広いですよね。



駐車場に車を停めてちょっと落ち着いたら、先ずは鎮守の社を目指してみましょう。境内南側の丘の上に鎮座していますよ。
鎮守社に向かうまでの道すがら、名前からしてかつての塔頭らしき御堂を発見しました。



扁額には梅壽庵とあります。
うーむ、塔頭かどうかは不明なんですが、本尊は地蔵菩薩とのこと。実質の地蔵堂でしょうか。



梅壽庵の左側に石段が伸びており、ここから鎮守の社まで向かえます。



石段を登り切ってまず目に入るのが、この超巨大な鐘楼でしょうか。写真では分かりずらいですが、実際に見てみると、その大きさに驚いてしまうと思います。



鐘楼堂の右手には稲荷社。もしかすると荼枳尼天を祀っている可能性もありそうです。



再び鐘楼堂。斜めから見てもいい感じ!初めて見る造りです。



鎮守の社に到着です。
これは三寶殿と呼ばれており、三宝荒神を祀る社です。曹洞宗というと荼枳尼天を鎮守としている寺院が多いかと思うんですが、ここでは三宝荒神が鎮守神となっているのです。




三宝殿から眺める山門。奥には三松閣という大堂があり、研修やイベント会場として使用されているようです。・・・伽藍がデカすぎますね。



そして聖観音も参拝者を見守っていました。



境内は門によって幾つかのエリアに分けられているんですが、一番手前にはかつて勅使を迎えたであろう門が置かれています。
門の手前には三名の僧侶の銅像がありますね。左が總持寺中興開山の瑩山紹瑾禅師、右側が二名が弟子の峨山韶碩・明峯素哲両禅師となります。これは師から弟子へと、連綿と法灯が受け継がれてきたことを示しているんだとか。曹洞宗の歴史も相当の長きに渡ります。



では勅使門に向かいましょう。・・・というか正式には向唐門という門なんだとか。あまりに立派すぎて勘違いしてしまいましたよ。




他の多くの寺院と同じく、現在ここをくぐって参拝することは出来ません。



そんで順路的に次に目にするのがこの香積台でしょう。
ここは実質の寺務所であり、御朱印やお守り・グッツなども購入できます。



堂内には、これまたドデカい大黒天が祀られています。



仏殿とかではないんですが、こちらも本当に美しい堂宇でした。特に屋根の傾斜がなんとも言えません。色合いも落ち着いていて良いですね



香積台の脇の金鶏門をくぐると、七堂伽藍が並び立つ根幹エリアへと進むことができます。



根幹エリアはこんな感じの渡り廊下で区切られており、この廊下を使ってそれぞれの御堂へと向かうことができます。とは言え観光で来ている身では通ることは出来ませんがね。専ら法要などで来た方たちが使います。
この様に伽藍が通路で繋がっているのは、もう1つの大本山 永平寺と共通しています。



境内というよりは、半ば公園の様な、非常に広大な庭園が広がっています。奥の方に幾つか御堂が見えますね、進んでみましょう。



境内右手の御堂です。紫雲臺という御堂で、堂内に入ることは出来ませんが、余りにもどっしりとした感があります。他の寺院の本堂並みの大伽藍です。



紫雲臺に見とれていると、振り向いてビックリ、白く巨大な御堂が座していたのです。公式サイトで何度も見た御堂がそこにはあったのです。・・・あったのです!



正面から見てみて更にビックリ。何よりも相当に巨大です。近場だと東京の 増上寺 ​、それと比較しても更にこちらの方が大きいでしょうね。手前に並ぶ人の列が見えるでしょうか。あんなに小さいんですよ?御堂がどれだけ大きいか分るでしょうか・・・!

最初こちらが本堂だと思っていたんですが、どうやら違うみたいです。こちらは太祖堂といって、總持寺中興開山の太祖常済大師(瑩山紹瑾禅師)はじめ道元禅師・孤雲懐奘・峨山韶碩など諸禅僧を祀る御堂なのです。
向唐門からまっすぐに伸びる参道の先に有るのが仏殿であり、そちらが本堂だと思われます。



御由緒です(公式サイトのもので、少々物語性が強めです)。
諸嶽山 總持寺

曹洞宗大本山
開山:行基菩薩
禅刹として中興開山:太祖常済大師(瑩山紹瑾禅師)
本尊(仏殿):釈迦三尊
本尊(太祖堂):瑩山紹瑾禅師・道元禅師・孤雲懐奘・峨山韶碩など

大本山總持寺の開創
 總持寺の正式名は、「諸嶽山總持寺」といいます。その開創は、700年余もの昔にさかのぼります。
 日本海にマサカリのように突き出た能登半島の一角、櫛比庄(現在の石川県輪島市)に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、ある夜に見た夢の物語から、總持寺のあゆみが始まります。
 元亨元年(1321年)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、

「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」

と告げて、姿を消されたというのです。
 不思議な事に、その5日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺室中(方丈の間)でいつも通り、坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。

 諸嶽観音堂は、真言律宗の教院であり、瑩山禅師はかねてから禅院にしたいと念じていました。夢のお告げで、瑩山禅師は入山しようと観音堂の門前に進みます。すると門前に亭があり、禅師はそこの鐃鉢を打ち鳴らして、2つの屋根の楼門を仰ぎみます。山門の楼上には、「大般若経六百巻」が備えられ、手前には放光菩薩が安置されていました。すると、たくさんの僧侶たちと、律師自らが出迎え、歓迎しております。禅師は前に進み、この楼門をくぐります。おもわず、「總持の一門、八字に打開す(門を八の字のように打開する)」と唱えたのです。諸堂を巡り、その壮観さに驚きました。
 このようにして瑩山禅師は、定賢権律師の入山の要請を快く受けいれて、諸嶽観音堂に入院します。
 前述の『縁起』本文中に「入寺の後、30日を経てまた夢をみる云々」とあり、禅師の入寺は、元亨元年5月15日(夏安居)結制の日であったことが知られます。
 禅師と律師は、ともに夢告が符合することに感応道交して、律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。
 寺号を仏法(真言)が満ち満ち保たれている総府として、「總持寺」と改名し山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」と決定しました。
 翌元亨2年(1322年)、瑩山禅師59歳の時、後醍醐天皇は、臨済僧、孤峰覚明和尚を使者として、10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答が深く帝の叡情にかなったので、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて、その住持は紫衣の法服着用を公に認められました。更に、この年、9月14日、藤原行房卿に命じられて「總持寺」の三字の書額を揮毫させ、これを賜りました。ここで、總持寺は官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。


鶴見ヶ丘への御移転
 瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。
 しかし、明治31年(1898年)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。
 明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、明治44年(1911)に寺基を現在の地に移されたのであります。
 ・・・。

開山自体は行基菩薩だと伝わっていますが、その後観音の導きによりて禅宗の寺院となったのが14世紀で、そこから明治44年(1911年)の移転までの間、数百年も曹洞宗の布教に准じてきたのです。後醍醐天皇認定の大本山の位も、こうした布教活動あってのことだと思われます。

下から眺めてみても、その迫力に圧倒されてしまいますよね。高さも横幅もかなりのものです。



扁額です。



太祖堂の裏手には、塀に囲われたエリアが有り、中には後醍醐天皇はじめ数代の尊儀を祀る御霊殿が置かれています。拝殿と本殿から成る神社の様な建物でした。
当たり前ですが拝観や入堂は出来ません。↓に説明書きを載せます。
御霊殿

 昭和12年(1937年)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。
 後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322年)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。
 御霊殿には、後醍醐天皇の尊像・尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後桃園天皇、後陽成天皇、後光明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されています。


太祖堂から左手に進むと、なんとも風雅な仏殿があるではないでしょうか



正面から見た時のこの大陸感・・・。素晴らしいですね!日本の御堂というよりも中国や韓国など大陸の仏閣の様に見えます。これが唐様というやつなんでしょうか、難しいことは分かりませんが、とにかく素晴らしい仏堂です
本尊は釈迦三尊で、​ こちら から像容をご覧になれます。



仏殿を後にして、案内マップを見ていると、なにやら有名人の墓地が幾つも有るみたいです。横浜を代表するような大寺院なら当然でしょうか。
中でも気になったのが石原裕次郎氏の墓です。僕以外にも沢山の人が、花や線香を揚げに来ていました。昭和の大スターここにあり、といった感じです。


​墓には詩が添えてありました。何と奥さんのまき子さんの筆になります。
美しきものにほほえみを 淋しきものに優しさを たくましきものにさらに力を すべての友に思い出を 愛するものに永遠を 心の夢醒めることなく
石原まき子



ぼちぼち境内の御堂もまわりましたね。そろそろ終わりです。
境内の左手には放光堂。
放光堂

 明治44年(1911年)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物です。
 この堂宇は安政年間(1855~1860年)に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されましたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしました。
 現在は全国檀信徒の永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しています。
​​​ 曹洞宗大本山 總持寺 / 放光堂 ​​ より引用

ふむ、現在は位牌堂として使われているみたいですね。ここまでの規模の位牌堂は初めてですが・・・。いったいどれだけの檀家がいるんでしょうか。



最後に宝物館です。時間の都合で入りませんでしたが、おそらくセットで拝観すると、より總持寺について理解を深められるんじゃないでしょうか。



斜めから。
伽藍の巨大さにばかり気を取られて、殆どそれ以外の記憶が有りません。きっと所有する文書や仏像も面白いものばかりだったんじゃないでしょうか。
とは言え、やはり一宗派の大本山ともなれば、参拝出来た時の喜びはかなりのものですね!しかも推しの曹洞宗の大本山で、今回参拝出来て本当に良かったですよ
この後平間寺に向かったんですが、余りの混雑ぶりに早々に参拝を断念。次の目的地の​ 星谷寺 ​まで向かおうと踵を返すと、数時間の渋滞に巻き込まれてしまい、連休中の関東都市圏の恐ろしさを思い知りました。進むも戻るも出来ない、あんな虚無感は二度と味わいたくない所・・・。



今回貰った御朱印です。

本山開山:太祖常済大師
※仏殿の御朱印は無いようです。



本山鎮守:三宝荒神



公式サイトへのリンクです。
・曹洞宗大本山 總持寺

以上です。

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最終更新日  2026年05月12日 19時32分03秒
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