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三松関
總持寺の総門。
門前に立って、まず目に飛び込んでくるのが「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた扁額(へんがく)です。總持寺中興(ちゅうこう)の祖といわれる石川素童(そどう)禅師(1841~1924年)が揮毫(きごう)されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しています。
この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門(こうらいもん)の様式で建てられています。
総門には、棟つづきの右奥に「新到安下所(しんとうあんげしょ)」があります。仏の道を志す修行僧が、最初にワラジを脱ぎ、宿泊する建物で、細い縦看板がかけられています。
また、総門の左側には、築地塀(ついじべい)を背にして「延命地蔵尊」が祀られています。このお地蔵さんは、悲恋の物語を秘めているとの伝承があり、能登の祖院では「三味線地蔵」と呼ばれています。


























諸嶽山 總持寺
曹洞宗大本山
開山:行基菩薩
禅刹として中興開山:太祖常済大師(瑩山紹瑾禅師)
本尊(仏殿):釈迦三尊
本尊(太祖堂):瑩山紹瑾禅師・道元禅師・孤雲懐奘・峨山韶碩など
大本山總持寺の開創
總持寺の正式名は、「諸嶽山總持寺」といいます。その開創は、700年余もの昔にさかのぼります。
日本海にマサカリのように突き出た能登半島の一角、櫛比庄(現在の石川県輪島市)に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、ある夜に見た夢の物語から、總持寺のあゆみが始まります。
元亨元年(1321年)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、
「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」
と告げて、姿を消されたというのです。
不思議な事に、その5日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺室中(方丈の間)でいつも通り、坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。
諸嶽観音堂は、真言律宗の教院であり、瑩山禅師はかねてから禅院にしたいと念じていました。夢のお告げで、瑩山禅師は入山しようと観音堂の門前に進みます。すると門前に亭があり、禅師はそこの鐃鉢を打ち鳴らして、2つの屋根の楼門を仰ぎみます。山門の楼上には、「大般若経六百巻」が備えられ、手前には放光菩薩が安置されていました。すると、たくさんの僧侶たちと、律師自らが出迎え、歓迎しております。禅師は前に進み、この楼門をくぐります。おもわず、「總持の一門、八字に打開す(門を八の字のように打開する)」と唱えたのです。諸堂を巡り、その壮観さに驚きました。
このようにして瑩山禅師は、定賢権律師の入山の要請を快く受けいれて、諸嶽観音堂に入院します。
前述の『縁起』本文中に「入寺の後、30日を経てまた夢をみる云々」とあり、禅師の入寺は、元亨元年5月15日(夏安居)結制の日であったことが知られます。
禅師と律師は、ともに夢告が符合することに感応道交して、律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。
寺号を仏法(真言)が満ち満ち保たれている総府として、「總持寺」と改名し山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」と決定しました。
翌元亨2年(1322年)、瑩山禅師59歳の時、後醍醐天皇は、臨済僧、孤峰覚明和尚を使者として、10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答が深く帝の叡情にかなったので、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて、その住持は紫衣の法服着用を公に認められました。更に、この年、9月14日、藤原行房卿に命じられて「總持寺」の三字の書額を揮毫させ、これを賜りました。ここで、總持寺は官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。
鶴見ヶ丘への御移転
瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。
しかし、明治31年(1898年)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。
明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、明治44年(1911)に寺基を現在の地に移されたのであります。
・・・。


御霊殿
昭和12年(1937年)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。
後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322年)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。
御霊殿には、後醍醐天皇の尊像・尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後桃園天皇、後陽成天皇、後光明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されています。




美しきものにほほえみを 淋しきものに優しさを たくましきものにさらに力を すべての友に思い出を 愛するものに永遠を 心の夢醒めることなく石原まき子

放光堂
明治44年(1911年)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物です。
この堂宇は安政年間(1855~1860年)に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されましたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしました。
現在は全国檀信徒の永代供養のご位牌を祀り、日夜回向しています。





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